個性「死に戻り」の青山くん   作:永愛垣生

3 / 13
はじめての死

 その建物がどこにあったのか、僕は今でも正確には知らない。

 

 車の窓には黒い布が掛けられていて、外の景色は見えなかった。どれくらい走ったのかも分からない。ただ、父の膝の上で、胸元の星のブローチを何度も指でなぞっていたことだけを覚えている。

 

 車を降りると、あの黒い外套の男が待っていた。

 

「ようこそおいでくださいました。あの方がお待ちです」

 

 古い建物だった。廊下は薄暗く、かすかに消毒液の匂いがした。いくつもの扉を抜け、階段を下り、また扉を抜けた。進むほどに、空気が冷たく、重くなっていくような気がした。

 

 僕の手を引く母の手は、汗で湿っていた。

 

 最後の扉の前で、外套の男が振り返った。

 

「ここから先は、坊ちゃんお一人で。ご両親は、こちらの控え室でお待ちください」

 

「そんな、この子はまだ――」

 

 言いかけた母を、父がそっと制した。父の顔は、紙のように白かった。

 

「……優雅。いい子にしているんだぞ」

 

 父は僕の前にしゃがみ込み、ブローチの位置を直してくれた。

 

「すぐに終わるわ。終わったら、ママンがぎゅってしてあげる」

 

 母の声は震えていた。それでも、二人とも笑っていた。僕のために、笑ってくれていた。

 

 だから僕も、鏡の前で練習した笑顔で頷いた。

 

 扉が開いた。

 

 広く、暗い部屋だった。中央に椅子がひとつだけ置かれ、天井からの細い明かりが、それだけをぽつんと照らしていた。

 

 その向こうの暗がりに、誰かが座っていた。

 

「やあ。はじめまして、優雅くん」

 

 柔らかい声だった。

 

 これまで聞いたどんな声よりも優しく、穏やかで、耳の奥にすっと染み込んでくるような声。なのに僕の足は、床に縫いつけられたように動かなくなった。

 

 男の顔は、影に沈んでよく見えなかった。上等なスーツの袖口と、膝の上で組まれた白い指だけが、明かりの縁にかろうじて浮かんでいた。

 

「怖がらなくていい。さあ、そこに座って」

 

 後になって、僕はこの男の名を知ることになる。オール・フォー・ワン。この国の闇の底に、何十年も君臨し続けた魔王。

 

 けれど、その時の僕にとって、彼はただの「すてきなかた」だった。母がそう言ったから。

 

 言われるままに椅子へ腰かけると、男は満足そうに頷いた。

 

「君のご両親は、とても素晴らしい人たちだね。我が子のためなら何でもすると言ってくれた。何でも、だよ。財産も、誇りも、その身の全ても。……愛というのは、本当に美しい」

 

 その言葉の意味は、四歳の僕には分からなかった。ただ、男がとても楽しそうに笑ったことだけは分かった。

 

「君には、光をあげよう」

 

 白い指が、すっと伸びてきた。

 

「お腹から、まばゆい光を放つ個性だ。キラキラしたものが好きなんだろう? きっと君によく似合う」

 

 キラキラ。

 

 その言葉に、胸が跳ねた。ずっと欲しかったもの。母が泣かなくてすむもの。父がまた笑ってくれるもの。

 

 なのに。

 

 男の指先が額に触れた瞬間、全身の毛が逆立った。

 

 冷たかった。氷よりも、ずっと。何かが額から頭の中へ、ずるりと這い込んでくる。僕のものではない何かが、僕の中に居場所を作ろうと、内側から押し広げてくる。

 

 嫌だ、と思った。

 

 理屈ではなかった。小さな獣が天敵の匂いを嗅ぎ分けるように、僕の体のすべてがこの男を拒んでいた。これはキラキラなんかじゃない。もっと暗くて、冷たくて、恐ろしいものだ。

 

「――いやだっ!」

 

 僕は叫んで、その手を払いのけた。椅子から転げ落ち、床を這って扉のほうへ逃げた。

 

「ママン! パパン! いやだ、こんなのいらない! ぼく、キラキラじゃなくていいから!」

 

 扉は、開かなかった。

 

 小さな拳で、何度も叩いた。何度も叫んだ。けれど、分厚い扉の向こうからは、何の返事もなかった。

 

「……困ったな」

 

 背後で、静かな声がした。

 

 振り返ると、男が椅子から立ち上がっていた。相変わらず顔は見えない。けれどその声からは、さっきまでの柔らかさが、すっかり消え失せていた。

 

「拒まれると、どうにも上手くいかないんだ。個性というのは、存外に繊細なものでね」

 

 コツ、コツ、と靴音が近づいてくる。

 

「まあ、いい。代わりなど、いくらでもいる。ご両親には、体が個性に耐えられなかったとでも伝えておこう。……残念だよ、優雅くん。君のご両親は、なかなか使い勝手の良さそうな駒だったのに」

 

 白い指が、もう一度、僕に向かって伸びてきた。

 

 今度は額ではなく、胸に。父がつけてくれた、星のブローチのすぐ上に。

 

 次の瞬間、体の内側で何かが弾けた。

 

 痛い、と感じる暇もなかった。熱いのか冷たいのかも分からなかった。ただ、胸の奥から何かがあふれ出し、視界が真っ白に塗りつぶされていく。

 

 ブローチが床に落ちる、ちいさな音がした。やけに遠くで聞こえた。

 

 ママン、と呼ぼうとした。

 

 声は、出なかった。

 

 ――それが、僕の最初の死だった。

 

   ◇ ◇ ◇

 

「優雅? どうしたの、ぼうっとして」

 

 母の声がした。

 

 僕は、瞬きをした。

 

 目の前に、母がいた。笑っていた。泣き腫らした目ではなく、少しだけ疲れた、いつもの笑顔で。

 

 僕は、屋敷の庭にいた。夕暮れの光が、薔薇の生け垣を橙色に染めている。手のひらには、小さな石英のかけらが握られていた。

 

「……ママン?」

 

「なあに?」

 

「ぼく……さっき、くらいおへやに……」

 

「暗いお部屋? お昼寝をして、怖い夢でも見たのかしら」

 

 母はくすりと笑い、僕を抱き上げた。温かかった。甘い香りがした。生きている人の、匂いがした。

 

「さあ、お夕飯にしましょう。今夜はね、優雅の好きなものばかりよ。苺のケーキもあるの」

 

 苺のケーキ。

 

 その言葉を聞いた瞬間、背筋がぞくりと冷えた。

 

 知っている。僕は、その夕食を知っている。テーブルに並ぶ料理も、父がいつもより多く飲むワインも、そのあとに渡される小さな箱の中身も。

 

「それからね、優雅」

 

 母が、僕の髪を撫でながら言った。

 

「明日は、とっても素敵な方に会いに行くのよ」

 

 母の腕の中で、僕は声もなく震えていた。

 

 四歳の僕には、何が起きたのか分からなかった。悪い夢を見たのだと、そう思い込もうとした。

 

 けれど胸の奥には、まだ、あの冷たい指の感触が残っていた。

 

 夕食は、記憶のとおりだった。

 

 好きなものばかりの料理も、苺のケーキも、口元のクリームを拭う母の指の震えも。何もかもが、一度見たものをなぞるように進んでいった。違ったのは、僕がほとんど何も食べられなかったことだけだ。

 

 食事のあと、父が小さな箱を差し出した。

 

 蓋を開ける前から、中身は分かっていた。星の形をしたブローチ。あの暗い部屋の床に落ちて、ちいさな音を立てた、あのブローチ。

 

「どうした、優雅。気に入らなかったか?」

 

 黙り込んだ僕の顔を、父が心配そうにのぞき込んだ。

 

「……パパン」

 

 喉が、からからに渇いていた。

 

「あした、いきたくない」

 

 父の手が、ぴたりと止まった。

 

「あのひと、こわい。くらくて、つめたくて……ぼく、キラキラじゃなくていい。だから――」

 

「優雅」

 

 父の声は、優しかった。優しくて、そして、どうしようもなく疲れていた。

 

「大丈夫だ。怖いことなんて、何もない。……パパンとママンを、信じてくれ」

 

 その後ろで、母が顔を覆って泣いていた。

 

 僕は、それ以上何も言えなかった。

 

 言えるはずがなかった。この二人が、どれほどのものを差し出して明日を手に入れたのか。何も分からないなりに、幼い僕にもそれだけは伝わってしまったから。

 

 その夜、僕は布団の中で、ブローチを握りしめたまま一睡もできなかった。

 

 窓の外が、少しずつ白んでいく。

 

 朝が来る。

 

 あの暗い部屋へ続く、二度目の明日が。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。