夜明け前、僕は屋敷を抜け出した。
四歳の子どもが考えることだ。あの暗い部屋に行かなければいい。それだけのことだと思った。庭の薔薇の生け垣には、猫が通れるくらいの隙間がひとつあって、僕はそれを知っていた。パジャマの上に上着を羽織り、ポケットに星のブローチを押し込んで、僕は朝靄の中へ這い出した。
街は、思っていたよりずっと広かった。
大人たちは皆、足早に行き交っていた。翼で空を行く人、壁を這って近道をする人、指先から小さな炎を出して煙草に火をつける人。誰もが当たり前のように個性を使い、当たり前のように僕の頭の上を通り過ぎていった。
小さな子どもがひとりで歩いていても、誰も足を止めなかった。一度だけ、若い女性が僕の顔をのぞき込んだけれど、隣の連れに何か言われて、そのまま行ってしまった。
昼を過ぎる頃には、足が棒のようになっていた。お腹も空いていた。僕は公園の遊具の、土管のような筒の中に潜り込んで、膝を抱えた。
ここにいれば、見つからない。明日にさえならなければ、あの部屋には行かなくていい。
そう思っていた。
筒の中は薄暗く、ひんやりとしていた。外からは、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。誰かが手から水を噴き出して、誰かがそれを風で吹き飛ばして、きゃあきゃあと笑い合っている。
僕はポケットからブローチを取り出して、筒の隙間から差し込む光にかざした。ちかり、と星が瞬く。
今ごろ、屋敷では大騒ぎになっているだろう。母は泣いているかもしれない。父は、怒っているかもしれない。そう思うと胸の奥がちくちくと痛んだけれど、僕は膝を抱えたまま動かなかった。
あの冷たい指よりは、ましだと思ったから。
足音が近づいてきたのは、日が傾き始めた頃だった。
「――ええ。まだ見つかっておりません」
聞き覚えのある、柔らかい声。
僕は息を止めた。筒の隙間から、黒い外套の裾が見えた。あの男だった。携帯電話を耳に当て、ゆっくりと公園を見回している。
「はい。承知しております。期日までにお連れできなければ、契約は破棄。……ご両親の処遇も、あの方のお心次第と」
しょぐう、という言葉の意味は分からなかった。
けれど、その声の温度は分かった。母の名前を口にするときの、あの冷たさ。
「ええ、存じております。あの方は、約束を違える者にはことのほか厳しいお方ですから。……ご夫妻も、お気の毒に」
男はくすりと笑い、電話を切った。靴音が、遠ざかっていく。
僕は、筒の中で震えていた。
分かってしまったのだ。僕が逃げれば、パパンとママンが、あの冷たい指に触れられる。僕が光らないせいで、また二人が泣くのではない。今度は、二人がいなくなってしまう。
帰らなきゃ。
僕は筒から這い出し、公園の出口へと駆けだした。
轟音が響いたのは、その時だった。
大通りの向こうで、ビルの壁が弾け飛んだ。悲鳴。炎。粉塵の向こうに、見上げるほど大きな影が立ち上がっていた。全身を岩のような皮膚に覆われた男が、獣のような声で吠えながら、車を掴んでは投げ捨てている。
「ヴィランだ! 逃げろ!」
人々が、一斉に散っていく。ある者は空へ飛び上がり、ある者は地面に潜り、ある者は信じられない速さで走り去った。
僕には、何もなかった。
ただ、小さな足で、必死に走ることしかできなかった。
「そこの子ども、伏せろ!」
どこかでヒーローの声がした。見上げると、崩れかけたビルの外壁が、ゆっくりと僕の上に傾いてくるところだった。
個性があれば、と思った。
空を飛べたら。速く走れたら。せめて、壁を受け止められるくらい強い体があったら。
最後に見えたのは、夕焼けに染まった空と、そこへ向かって舞い上がる粉塵だった。
◇ ◇ ◇
「優雅? どうしたの、ぼうっとして」
母の声がした。
夕暮れの庭。薔薇の生け垣。手のひらの中の、石英のかけら。
僕は、声を上げて泣きだした。
母は驚いて僕を抱き上げ、何度も背中をさすってくれた。怖い夢でも見たのね、と。けれど僕は、もう知っていた。
あれは夢ではない。
死ねば、この夕暮れに戻ってくる。何度でも。
そして――逃げ道など、どこにもないのだということも。
その夜の夕食を、僕は全部たいらげた。苺のケーキも、おかわりをした。父から星のブローチを受け取ったときには、手を叩いて喜んでみせた。
「あした、たのしみだね!」
そう言って笑うと、母は口元を覆った。父は、僕の頭を痛いくらいに撫でた。
二人とも、ほっとしたように見えた。
それでいい、と思った。鏡の前で練習した笑顔は、ちゃんと役に立った。
――それが、僕が両親についた、最初の嘘だった。
◇ ◇ ◇
三度目の暗い部屋で、僕は椅子に座ったまま、じっとしていた。
影の中の男は、一度目と寸分違わぬ言葉を口にした。君のご両親は素晴らしい。愛というのは美しい。君には光をあげよう。
僕はそれを、ただ黙って聞いていた。
「震えているね。怖いかい?」
「……こわく、ない」
男は、少しだけ意外そうに首を傾げた。それから、喉の奥で愉快そうに笑った。
「そうか。強い子だ」
強くなんてなかった。歯の根が合わないくらい怖かった。ただ、知っていただけだ。ここで逃げれば何が起きるのかを。そして、どこへ逃げても、結局はこの椅子に戻ってくるのだということを。
「いい子だね、優雅くん」
柔らかな声。白い指が、額に触れる。
冷たいものが、ずるりと頭の中に這い込んでくる。全身が悲鳴を上げていた。嫌だ、逃げろ、と体中が叫んでいた。
僕は、膝の上で拳を握りしめた。ポケットの中のブローチの角が、手のひらに食い込んだ。
動くな。叫ぶな。パパンとママンのために。
冷たいものは、やがて頭からお腹のほうへ落ちていき、そこで、ぐるりととぐろを巻いた。
次の瞬間、お腹の真ん中が焼けるように熱くなった。
「あ……っ」
光が、あふれた。
僕のお腹から、まばゆい光の筋がほとばしり、暗い部屋の壁を白く焼いた。きれいだった。今まで見たどんな宝石よりも、どんなシャンデリアよりも、きらきらしていた。
同時に、お腹の奥がねじ切れるように痛んだ。吐き気がこみ上げ、僕は椅子の上で体を折った。
「おや。少し、体に合わなかったかな」
男は、さほど気にした様子もなく言った。
「なに、じきに慣れるさ。……おめでとう、優雅くん。これで君も、キラキラだ」
部屋を出ると、両親が駆け寄ってきた。母は僕を抱きしめて、声を上げて泣いた。父も、泣いていた。
僕の背後で扉が閉まる直前、あの柔らかい声が、両親に向けて言うのが聞こえた。
『では、約束どおりに。……これからは、よろしく頼むよ』
父の肩が、びくりと震えた。それでも父は、扉に向かって深く頭を下げた。母も、僕を抱いたまま頭を下げた。
何を約束したのか、その時の僕は知らなかった。知ったのは、ずっと後のことだ。それが、僕たち家族を十年以上も縛りつける鎖になることも。
お腹は、まだずきずきと痛んでいた。それでも僕は、顔を上げて笑った。
「みて、ママン。ぼく、キラキラになったよ☆」
その日、僕は光を手に入れた。
そして、光と引き換えに、もう二度と本当のことを言えない子どもになった。