十四歳の冬、僕は初めて、おじさんから直接「お願い」をされた。
その頃の僕は、それなりに上手くやっていたと思う。
中学では、ちょっとした有名人だった。お腹からレーザーを放つ、やたらときらきらした同級生。語尾に星をつけて話し、鏡を見ては自分に見惚れ、体育の授業では誰よりも派手に光ってみせる。変わり者だと笑われることはあっても、石を投げられることはなかった。
「青山ってさ、ほんと悩みとかなさそうだよな」
クラスメイトにそう言われるたびに、僕は髪をかき上げて答えた。
「当然さ☆ 悩みなんて、僕のキラメキの前では霞んでしまうからね」
みんなが笑う。僕も笑う。家に帰って、トイレで吐く。それが、僕の毎日だった。
進路希望の紙には、毎年「ヒーロー」と書いた。両親は何も言わなかった。書いた理由を、僕自身もうまく説明できなかった。四歳の頃にテレビの前で叫んだ夢が、まだ胸のどこかで燻っていたのかもしれない。光を手に入れた今なら、届くかもしれないと。
あの日までは、そう思っていた。
その日も、迎えに来たのはあの黒い外套の男だった。十年経っても、男の顔はほとんど変わっていなかった。変わったのは、両親のほうだ。父の髪にはすっかり白いものが混じり、母は、昔のように声を立てて笑わなくなっていた。
窓を塞がれた車に揺られながら、僕は膝の上で手を組んでいた。お腹のベルトが、いつもより少しきつく感じた。
案内されたのは、あの日とは違う建物だった。けれど、空気は同じだった。冷たく、重く、湿った消毒液の匂いがする。
最後の扉が開いた。
部屋の奥で、無数の機械が低く唸っていた。
何本もの管が床を這い、壁際の装置へとつながっている。その中心にある椅子に、あの男が座っていた。
僕は、思わず息を止めた。
男の顔は、もう影に沈んではいなかった。沈める必要がなかったのだ。そこには、顔と呼べるものがほとんど残っていなかった。焼け爛れた皮膚を黒いマスクが覆い、口元から伸びた管が、規則正しく空気を送り込んでいる。
――オールマイト。あなたがつけた傷だ。
後になって知った。僕が九歳の頃、あなたはあの男と死闘を繰り広げ、この顔を砕いたのだと。そして、あなた自身も深い傷を負ったのだと。あの時の僕は、そんなことは何も知らなかった。ただ、目の前の男が、十年前よりもずっと恐ろしいものに変わったことだけが分かった。
「やあ、優雅くん。大きくなったね」
声だけは、昔と同じだった。柔らかく、優しく、耳の奥にすっと染み込んでくる。
「……ご無沙汰しています、おじさん」
僕は練習した笑顔で頭を下げた。背後で、両親も深く頭を下げる気配がした。
「君に、お願いがあるんだ」
機械の唸りに混じって、男は穏やかに告げた。
「雄英高校を受けなさい。ヒーロー科だ。君の光なら、きっと合格できる」
雄英。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。オールマイトの母校。ヒーローを目指す者なら、誰もが一度は夢に見る場所。幼い頃、テレビの前で「キラキラのヒーローになる」と叫んだ僕が、本当に行きたかった場所。
けれど、男の次の言葉が、その跳ねた何かを踏み潰した。
「入学したら、中の様子を時々教えてほしい。先生方のこと、生徒たちのこと、学校の守りのこと。……なに、難しいことじゃない。君はただ、いつものように笑っていればいいんだ」
内通者。
その言葉を、男は一度も使わなかった。使う必要もなかった。
「ああ、そうだ。その前に、ひとり紹介しておこう」
男が軽く指を動かすと、部屋の隅の暗がりから、誰かが引きずり出されてきた。
中年の男だった。仕立ての良いスーツはあちこちが破れ、両手は背中で縛られている。顔は腫れ上がり、片方の目はほとんど開いていなかった。
知らない人だった。少なくとも、その時の僕にとっては。
「須藤くんというんだがね」
男は、世間話でもするように言った。
「ある会社の社長をしていてね。長いこと、私の荷物を快く運んでくれていたんだが……先日、私のお願いを断ったんだ。もう手を引きたい、警察に行く、とね。……実に残念だった」
須藤さんが、腫れた目で僕を見た。何かを言おうとして、唇が震えた。
男の指先が、須藤さんの額に触れた。
次の瞬間、須藤さんの体が、びくりと大きく跳ねた。
見開かれた目が、焦点を失っていく。喉の奥から、ごぼり、と濁った音がした。何かが、体の内側で壊れていく音だった。須藤さんは悲鳴を上げようとしたけれど、その口から溢れたのは声ではなかった。
赤いものが、勢いよく吐き出された。
温かいものが、僕の頬に飛んだ。
須藤さんは、縛られたまま前のめりに崩れ落ちた。床に広がっていく血だまりの中で、その体は二度、三度と痙攣し――やがて、動かなくなった。
外傷は、どこにもなかった。あの男の指が、額に触れただけだった。それなのに、須藤さんの中身は、取り返しがつかないほど壊されていた。
背後で、母が短い悲鳴を上げた。父が、母を抱き寄せる気配がした。
僕は、動けなかった。頬を伝う生温かいものを、拭うことさえできなかった。
「断る、というのは、こういうことだ」
男の声は、やはり柔らかかった。
「さて、優雅くん。返事を聞かせてくれるかな」
機械の唸りだけが、部屋を満たしていた。
僕は、口を開いた。
はい、と言うつもりだった。そう言わなければならないことは分かっていた。
けれど、喉から出てきたのは、まるで違う言葉だった。
「……いや、です」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。ただ、頬に残る須藤さんの温度が、僕の口を勝手に動かしていた。
「僕は……ヒーローになりたかったんです。こんなことのために、雄英に行くんじゃない」
背後で、父が息を呑んだ。
男は、しばらく黙っていた。マスクの奥から、空気を送る音だけが聞こえていた。
「そうか」
やがて、男は言った。少しだけ、残念そうに。
「君は、もう少し賢い子だと思っていたよ」
白い指が伸びてきた。額ではなく、お腹に。ベルトの、すぐ上に。
お腹の奥で、あの光が暴れだした。
ベルトが軋む。皮膚が張りつめる。抑えきれない光が内側から溢れ出し、体中の骨を押し広げていく。痛い、という言葉では足りなかった。僕の体が、僕の光に、内側から食い破られていく。
最後に聞こえたのは、母の絶叫だった。
◇ ◇ ◇
目を開けると、自分の部屋の天井があった。
しばらく、何も考えられなかった。僕は跳ね起き、震える手で自分のお腹を触った。ベルトは、ベッドの脇の椅子に掛けられていた。体は、どこも膨れていなかった。
十年ぶりの、死に戻りだった。
枕元の時計に目をやって、僕は凍りついた。
日付が、三日前になっていた。
一日では、なかった。
僕は、ベッドの上で膝を抱えた。窓の外では、冬の朝日が静かに昇り始めていた。頬には、まだ須藤さんの温度が残っている気がした。
三日前。
あの人は――須藤さんは、まだ生きている。