雄英に入ると決めてから、僕の一日は二つに割れた。
昼は学校。夕方からは塾。雄英の筆記試験は、全国でも指折りの難しさだ。ヒーロー科の倍率は三百倍を超える。実技で点を取れなければ話にならないけれど、筆記で落とされてもまた話にならない。父が手配したのは、雄英合格者を毎年何人も出している、有名な進学塾だった。
そして、夜は光の訓練だった。
屋敷の裏手には、父が昔使っていたテニスコートがあった。今は誰も使っていない。僕はそこに古いマットと的を並べ、毎晩、日付が変わるまでお腹から光を撃ち続けた。
ネビルレーザーは、強い個性ではない。
威力はそれなりにある。射程もそれなりにある。ただ、撃ちすぎると決まってお腹を壊した。体に合わない個性を、無理やり押し込まれたのだ。光を放つたびに、借り物の器官が僕の胃腸をきしませる。
一日に数発なら、少し腹が痛む程度で済む。けれど、雄英の実技試験で数発しか撃てない受験生が受かるはずがない。そして、受からなければどうなるのかを、僕は嫌というほど知っていた。
だから、撃てるだけ撃った。
撃って、お腹を壊して、トイレに駆け込んで、また撃った。
◇ ◇ ◇
「青山くん、最近ちょっと痩せすぎじゃない?」
塾の休み時間に、隣の席の女子が心配そうに言った。
「ノンノン、これは引き締まったと言ってほしいな☆ キラメキには、無駄なものは必要ないのさ」
髪をかき上げてみせると、彼女は呆れたように笑った。それでいい。笑ってもらえれば、それ以上は踏み込まれない。
けれど、鏡の中の僕は、日に日に別人になっていった。
頬はこけ、目の下には隈が沈んでいた。制服のズボンは、ベルトの穴をいくつ詰めてもずり落ちた。毎晩のように光を撃ってお腹を壊し、壊れたお腹は、口に入れたものをほとんど受けつけなかった。食べたものが、体に残る前に流れ出ていく。
食べなければ、と思った。
けれど、食べられなかった。須藤さんのことがあってから、食事の味はほとんどしなくなっていた。無理やり口に押し込んでも、夜の訓練でお腹を壊せば、全部無駄になる。
悪循環だった。分かっていても、止められなかった。
◇ ◇ ◇
倒れたのは、塾の模擬試験の最中だった。
数学の大問三を解いている途中で、急に答案用紙の文字が揺れた。おかしいな、と思った次の瞬間には、頬に冷たい床の感触があった。
誰かが悲鳴を上げていた。誰かが僕の名前を呼んでいた。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
目を覚ますと、病院の白い天井があった。
「重度の栄養失調ですね」
医者は、カルテを見ながら顔をしかめた。
「この年齢で、ここまでの状態は珍しい。胃腸もひどく荒れています。しばらくは訓練も勉強も控えて、とにかく休養と食事を――」
ベッドの脇で、母が泣いていた。父は、黙って医者の話を聞いていた。
医者が出ていくと、病室には点滴の落ちる音だけが残った。
「……優雅」
しばらくして、父が口を開いた。窓の外を見たまま、僕の方を見ようとはしなかった。
「もう、やめてもいいんだぞ」
その声は、ひどく掠れていた。
「雄英も、訓練も、全部だ。あの方には、パパンが頭を下げる。どんな条件でも呑む。だから――」
「パパン」
僕は、点滴の刺さった腕を少しだけ持ち上げて、父の袖を掴んだ。
「大丈夫。僕は、キラメキを忘れないから☆」
父が、ゆっくりと僕を振り返った。その目が、何かを堪えるように細められた。
父は知っているのだ。あの方に下げられる頭など、もう父には残っていないことを。どんな条件を呑んだところで、行き着く先は、あの部屋の床で血を吐いて動かなくなった須藤さんと同じなのだということを。
そして僕は、覚えていた。巻き戻った時間の向こうで、あの書斎で、見ず知らずの男を見捨てると言った父の顔を。あんな顔を、もう二度と父にさせたくはなかった。
「……すまない」
父はそれだけ言って、僕の手を握った。大きな手だった。昔、星のブローチをくれた夜と同じ、温かい手だった。
けれど、その手はもう、僕を守ってはくれない。僕が、この手を守らなければならないのだ。
その夜、父の黒い携帯電話が鳴った。
こちらからは、何も知らせていなかった。知らせる手段もない。それでも、あの男は知っていた。僕が倒れたことも、運び込まれた病院の名前も、医者が告げた病名も。
どこで、誰が見ているのか。考えるだけ無駄だった。
◇ ◇ ◇
「困るね、優雅くん」
退院した翌週、僕はまたあの部屋にいた。
無数の機械の唸り。床を這う管。マスクの奥から規則正しく送り込まれる空気の音。
「入学する前に壊れてしまっては、元も子もない。君の体は、もう君だけのものではないんだから」
柔らかい声だった。僕を心配しているような声だった。けれど、それが本当に心配しているのは、自分の駒が使い物にならなくなることだけだと、僕はもう知っていた。
「そこで、ひとつ贈り物をしよう」
白い指が、また僕の額に伸びてきた。
十年ぶりに、あの冷たいものが頭の中に這い込んできた。四歳の頃と同じ感覚。体中が拒んでいる。それでも、僕は椅子の上で動かなかった。動けば何が起きるのか、八回分の記憶が、骨の髄まで教えてくれていた。
冷たいものは、今度はお腹ではなく、体全体にゆっくりと染み渡っていった。
「『エネルギー効率』という個性だ。取り込んだ栄養を、余すことなく力に変える。少しの食事で、長く動ける体になるだろう」
男は満足そうに言った。
「光が体に合わないのなら、合わないままでいい。お腹を壊しても困らない体にすれば、それで済む話だ。……私の古い僕にも、同じものを与えたことがあってね。あれは、よく働いてくれているよ」
その「古い僕」が誰なのか、僕は今も知らない。
光そのものを、僕の体に合うように直すのではない。合わない光はそのままに、壊れても困らないように、そもそも食べる必要を減らす個性を、もうひとつ押し込む。
いかにも、あの男らしいやり方だった。あの男にとって、人の体は直すものではなく、足りない部品を継ぎ足していくものなのだ。
「それから、もうひとつ」
部屋を出ようとした僕の背中に、柔らかい声がかかった。
「入学したら、君のクラスが孤立する時を探ってほしい」
僕は、足を止めた。
「教師の目が少なくなる時。学校の外へ出る時。生徒たちが、守りの外に置かれる時だ。授業の予定が分かったら、それを教えてくれればいい。……なに、君から連絡する必要はない。いつものように、こちらから聞きに行くよ」
「……はい、おじさん」
振り返らずに、そう答えた。
孤立する時。守りの外に置かれる時。その言葉が何を意味するのか、分からないふりをすることはできた。けれど、須藤さんの最期を見た僕に、本当に分からないはずがなかった。
まだ顔も知らないクラスメイトたちの、いつか来る「その時」を、僕は売り渡す約束をしたのだ。
◇ ◇ ◇
効果は、すぐに現れた。
小さなパンをひとつ食べるだけで、一日動けるようになった。夜の訓練でお腹を壊しても、翌朝には体が軽かった。頬にも、少しずつ肉が戻ってきた。お腹を壊すことを恐れずに済む分、撃てる数は日ごとに増えていった。
変わったのは、数だけではなかった。
ある晩、いつものように的へ向けて光を放つと、それはこれまでの細い光線ではなかった。腕ほどの太さのある光の束が、的を丸ごと呑み込み、背後のフェンスまで焼き焦がした。
体の奥に、余力というものが生まれたのだろう。以前の僕は、光を細く絞らなければ、撃った瞬間に体のほうが干上がっていた。今は、その気になれば、もっと太く撃てる。代わりにお腹は盛大に壊れるけれど、それも、もう大した問題ではなかった。
両親は、心から安堵しているようだった。母は「よかった」と何度も言って泣いた。
僕も、正直に言えば、ほっとしていた。
味のしない食事を、無理やり口に押し込まなくていい。それは、あの頃の僕にとって、救いにさえ思えた。
――オールマイト。あなたは、あの男がもう一度僕の額に触れた時、なぜ死に戻りに気づかなかったのかと思うかもしれない。
答えは、前に話したとおりだ。僕の本当の個性は、その時もやはり、眠ったまま息を潜めていた。あの男の指は、灯っていない芯の上を素通りし、新しい借り物を置いていっただけだった。
ある晩、訓練を終えた僕は、テニスコートの真ん中に寝転がって夜空を見上げた。
お腹の中には、あの男がくれた光がある。体の中には、あの男がくれた効率がある。
指を折って数えてみた。僕の体の中で、あの男に与えられなかったものは、何だろう。
答えは、ひとつしかなかった。
僕の体の中で、本当に僕のものと呼べるのは、眠ったままの死だけだった。