二月。雄英高校、一般入試当日。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
窓の外はまだ暗かった。僕はベッドの上で体を起こし、いつものように、まずお腹に手を当てた。膨れていない。破れていない。ちゃんと、生きている。
あの部屋で、自分の光に内側から食い破られて死んでから、毎朝の習慣になっていた。
顔を洗い、髪を整え、鏡の前で笑顔を作る。今日の笑顔は、いつもより少しだけ時間がかかった。
朝食の席では、パンを半分だけ口に入れた。エネルギー効率のおかげで、それだけで夕方まで動ける。味は、相変わらずほとんどしなかった。
家を出る時、玄関まで見送りに来た母は、何か言いたそうに何度も口を開きかけては閉じた。結局、母が口にしたのは「いってらっしゃい」の一言だけだった。
頑張って、とは言わなかった。言えるはずがなかった。この試験に受かることが、僕にとって何を意味するのか、母は誰よりもよく知っていたから。
父は、書斎から出てこなかった。
制服のポケットの中で、僕は小さな星のブローチを握りしめていた。十年前、父がお守りだと言ってくれたものだ。もう胸につける年ではなくなったけれど、手放すこともできずにいた。
お守り、か。
これが守ってくれるのは、いったい誰なのだろう。僕か、両親か。それとも、僕に騙されることになる、まだ顔も知らない誰かか。
◇ ◇ ◇
校門の前には、全国から集まった受験生が溢れていた。
誰もが緊張した顔で、巨大な校舎を見上げている。参考書を最後までめくり続ける者。両手を合わせて何かを祈る者。友達同士で肩を叩き合い、強がって笑う者。
僕は、その人波の中で髪をかき上げた。
「ふふ、ついにこの日が来たね☆ 雄英も、僕のキラメキを待ちわびていたに違いない」
周りの受験生が、怪訝な顔で僕を避けて歩いていく。それでいい。妙な奴だと思われていれば、誰も僕の顔色など気にしない。
ふと、校門のすぐ先で誰かがつまずくのが見えた。
もじゃもじゃの緑色の髪をした、小柄な少年だった。前のめりに倒れかけた体が、地面に着く寸前でふわりと宙に浮く。隣にいた丸顔の女の子が、少年の背中にそっと触れていた。
「転んじゃったら縁起悪いもんね」
女の子はそう言って笑い、少年は真っ赤な顔で固まっていた。
なぜだろう。僕は、その少年から目が離せなかった。
ひどく緊張した顔。握りしめた拳。どこか、自分の体をまだ持て余しているような、ぎこちない立ち姿。――光を手に入れたばかりの頃の僕が、鏡の中に見ていた姿に、少しだけ似ていた。
その少年の名前が緑谷出久だと知るのは、もう少し先のことだ。
◇ ◇ ◇
筆記試験は、拍子抜けするほど静かに終わった。
問題は難しかった。けれど、解けないほどではなかった。あの塾で、倒れるまで詰め込んだ知識は、少なくとも僕を裏切らなかった。数学の大問三では、一瞬だけ手が止まった。模擬試験の最中に倒れた時と、同じ番号だったからだ。
答案用紙の文字は、今度は揺れなかった。
昼休みを挟んで、午後は実技試験の説明会だった。
すり鉢状の巨大な講堂に、何百人もの受験生が詰め込まれていた。受験番号順に座らされ、同じ中学の者同士が隣にならないように振り分けられている。互いに協力させないための配慮だろう。
照明が落ち、壇上にスポットライトが当たった。
「受験生のリスナー! 今日は俺のライヴにようこそー!! エヴィバディセイヘイ!!」
ボイスヒーロー、プレゼント・マイク。ラジオで何度も聞いた声が、講堂中に響き渡った。
誰も返事をしなかった。
「こいつぁシヴィー!!! 受験生のリスナー、実技試験の概要をサクッとプレゼンするぜ!! アーユーレディ!?」
やはり、誰も返事をしなかった。
説明は単純だった。受験生は複数の模擬市街地に分かれ、制限時間十分の間に、仮想敵と呼ばれるロボットを行動不能にしてポイントを稼ぐ。仮想敵には、一ポイント、二ポイント、三ポイントの三種類がある。他の受験生への攻撃など、アンチヒーローな行為はご法度。
「質問よろしいでしょうか!」
講堂の中ほどで、眼鏡をかけた背の高い受験生が、真っ直ぐに手を挙げた。
「プリントには四種の敵が記載されております! 誤載であれば、日本最高峰の雄英において恥ずべき痴態! 我々受験者は規範となるヒーローのご指導を求めてこの場に座しているのです!」
それから彼は、くるりと振り返り、別の受験生を指差した。
「ついでにそこの縮れ毛の君! 先程からボソボソと……気が散る! 物見遊山のつもりなら即刻雄英から去りたまえ!」
指差された先で、校門のあの少年が、真っ赤になって口を押さえていた。周りから、くすくすと笑い声が漏れた。
僕は笑わなかった。
真っ直ぐな人だ、と思った。正しいことを、正しいと信じて口にできる人。僕が四歳の頃に、どこかへ置き忘れてきたものを、当たり前のように持っている人。
「オーケーオーケー、受験番号7111くん、ナイスなお便りサンキューな!」
マイクは少しも動じずに続けた。
「四種目の敵は〇ポイント! そいつは言わばお邪魔虫! 各会場に一体、所狭しと大暴れしている〝ギミック〟よ! 倒しても点にはならねえ、上手く避けな!」
倒しても、意味のない敵。
僕は、プリントの隅に描かれた〇ポイントの絵を、指先でなぞった。
「最後にリスナーへ我が校の校訓をプレゼントしよう。かの英雄ナポレオン=ボナパルトは言った! 『真の英雄とは人生の不幸を乗り越えていく者』と!」
――Plus Ultra。更に、向こうへ。
講堂中の受験生が、その言葉に目を輝かせていた。
僕は、拍手をしながら、ベルトの上からお腹をさすっていた。
不幸を乗り越える者。
なら、不幸に屈して、人を見殺しにした者は、何と呼ぶのだろう。
講堂の照明が戻り、受験生たちが一斉に立ち上がる。僕に割り当てられたのは、演習場Dだった。
演習場へ向かうバスの中は、静まり返っていた。
窓の外を、本物の街と見紛うほどの巨大な模擬市街地が流れていく。隣の席の受験生は、さっきから膝を小刻みに揺らし続けていた。前の席では、誰かが小声で自分の個性の使い方をぶつぶつと確認している。
誰もが、怖がっていた。
落ちることを。失敗することを。たった一度きりの十分間で、何年も積み上げてきた夢が終わってしまうことを。
僕は、窓ガラスに映る自分の顔を眺めていた。不思議なほど、落ち着いていた。
一度きりではないからだ。
その考えが頭に浮かんだ時、僕は少しだけ驚いた。けれど、否定はしなかった。
もしこの十分間でしくじったら。もし取り返しのつかない失敗をしたら。その時は――死ねばいい。死ねば、三日前に戻れる。試験の中身を知った僕が、もう一度この席に座ることになる。
ずるい考えだと思った。
この席に座っている誰ひとりとして、そんな逃げ道は持っていない。彼らは、一度きりの十分間に全てを懸けている。僕だけが、命を担保に、何度でも賽を振り直せる。
それでも、その逃げ道を手放す気にはなれなかった。僕が背負っているのは、自分の夢だけではないのだから。
バスが止まった。
演習場Dの巨大な門の前で、受験生たちが次々と降りていく。僕は運動着の上からベルトをきつく締め直し、深く息を吸った。
ポケットの中で、ブローチの角が手のひらに食い込んだ。
この十分間に、僕と両親の明日がかかっている。
――何度目の十分間になったとしても。