その朝、極月学園の空気は、ほんの少しだけ湿っていた。
白草四音がそれに気づいたのは、正門をくぐってすぐのことだった。
いつもなら道を空け、会釈をし、あるいは媚びるように名前を呼んでくる下級生たちが、今日は誰ひとり、四音のほうを見ない。
見ない、というより。見ないようにしている。
「おはようございます」
四音はいつも通りに微笑んだ。返事はなかった。
代わりに、すれ違った二人組の片方が、手元の端末を慌てて伏せた。
―ああ、そういうこと。
四音は自分の端末を開いた。学内連絡用の掲示板。
普段なら事務連絡と、レッスン室の予約くらいしか流れてこない場所だ。
その最上段に、差出人不明の投稿が固定されていた。
『白草四音さんについて』
添付ファイルは五つ。
N.I.A予選の直前、他校の出場者の楽屋スケジュールを流させたときのメッセージ履歴。
初星のプロデューサーとの会話を切り貼りした、例の動画の編集前データ。
去年の秋、極月の同級生をユニットから外させるために、トレーナーへ送った「相談」の文面。
ひとつひとつは、四音にとって見覚えのあるものだった。見覚えがありすぎた。
「……ずいぶんと、丁寧にお集めになったこと」
声に出してから、自分の唇がわずかに乾いていることに気づいた。
教室の扉を開けると、ざわめきが一拍で止んだ。
三十いくつの視線が、一斉に四音に刺さり、そして一斉に逸れた。
誰かが小さく笑った。誰かが「よく来れるよね」と囁いた。
その声の主を、四音は振り返らずに当てることができた。
去年、ユニットから外させた子だ。
四音は自分の席に向かった。机の上には何もない。まだ、何も。
「おはようございます、皆さん」
にこやかに言って、腰を下ろす。背筋を伸ばす。脚を揃える。完璧な所作。
何年もかけて磨いてきた、他人に見せるための白草四音。
―大丈夫。こんなもの、すぐに消える。黒井社長がどうにかしてくださる。
四音は端末を開き、社長の秘書宛てに短い連絡を入れた。
『おはようございます。学内掲示板の件で、ご相談させていただきたく』
既読はつかなかった。一限が終わっても。二限が終わっても。昼休みになっても。
昼休み、四音は一人で中庭のベンチに座っていた。
食欲はなかったが、教室に残る気にはなれなかった。
端末が震えた。慌てて開く。社長ではなかった。
『四音お姉さま!! 今どちらにいらっしゃいますの!? あんな低俗な投稿、撫子は一文字も信じておりませんわ! お昼はご一緒いたしましょう、とっておきのマカロンを取り寄せましたの♡』
藍井撫子からだった。感嘆符の数まで、いつも通りだった。
四音はしばらくその文面を見つめた。一文字も信じていない、という一行を。
知らないはずもない、大半は撫子自身も関わっていたのだから。
―本当に、何もわかっていない子。鬱陶しい
だからこそ、今まで都合よく使えた。
「……結構です、撫子」
返信は打たなかった。画面をゆっくりと伏せる。
誰に聞かせるでもない呟きは、思っていたより小さかった。
こんなことはすぐ終わる、そう思っていた。
だが、悪い日は次第に、「最悪」な日への変わっていくのだった。
二日目、四音のロッカーに貼られていたレッスン室の予約票が、すべて剥がされていた。
予約は「取り消し済み」になっていた。四音は空いている時間帯を探して取り直した。
夜の十時、空調の切れる時間帯しか残っていなかった。
三日目、教室の四音の机に、例の投稿の画面を印刷した紙が一枚、丁寧に置かれていた。
四音は折り目ひとつ付けずにそれを畳み、鞄にしまった。捨てる姿を見せてやるつもりはなかった。
―知っている。全部、知っている。
予約票を消させるのも。机の上に紙を置くのも。
誰がやったかわからないように、でも誰が見ても意味がわかるように。
それはかつて、四音が他人にやらせてきたことだった。
四日目、食堂。
昼の食堂は、極月で一番人目のある場所だった。だからこそ四音は、毎日欠かさずそこへ行った。
窓際の、四音がいつも座る席へ。そこに座らないことは、負けを認めることだったからだ。
その日、席には先客がいた。人ではなかった。
四音のトレイが、そこに置かれていた。注文した覚えのない、冷めきった定食が載ったトレイ。
器の縁に、小さな紙が一枚立てかけてある。
『Aランク様専用席。ご予約済み』
周りのテーブルから、くすくすと笑い声が漏れた。誰も四音を見ていない。見ていないふりをしながら、全員が見ていた。
四音はトレイの前に立った。
ほんの数秒。ほんの数秒だけ、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
怒れば負け。泣けば論外。無視すれば、明日はもっとひどくなる。
かつての自分なら、こういうとき相手に何をさせたか、四音は知りすぎていた。
だから、笑った。
「まあ、ご親切に」
よく通る声で、食堂全体に聞こえるように。
「わざわざ私の分まで。どなたか存じませんけれど、お心遣いに感謝いたしますね。――ただ、冷めたものは好みではありませんので」
四音はトレイには指一本触れず、くるりと踵を返した。背筋を伸ばし、歩幅を揃え、一度も振り返らずに食堂を出た。
完璧だった。完璧に、白草四音だった。
廊下の角を曲がって、誰もいない階段の踊り場に着いてから、四音は壁に手をついた。息が浅い。指先が冷たい。
胃の奥が、何かを吐き出したがっている。
「……くだらない」
声に出しても、震えは止まらなかった。
「……みっともない、それが元優勝候補様?」
頭の上から、声が降ってきた。
見上げると、一段上の踊り場の手すりに、賀陽燐羽が寄りかかっていた。
目の下の隈。鋭い目つき。初星から極月に移ってきた、黒井社長の子飼い。
「……裏切り者の蝙蝠女が、何のご用かしら」
「別に。ここ、私の昼寝場所なの。先にいたのは私」
燐羽は面倒くさそうに髪をかき上げた。
「言っとくけど、あの投稿、私じゃないから。そういう回りくどいの、面倒だし」
「……でしょうね。貴女なら、もっと直接的にやるでしょうから」
「自業自得だとは思うけど」
燐羽は階段を下りてきて、四音の横をすれ違いざまに言った。
「群れて陰でこそこそやるのも、趣味じゃないの。……居心地が悪いなら、裏の購買のほうが空いてるわよ」
「……施しのつもりですか」
「情報。使うかどうかは、あなたの勝手」
燐羽は振り返りもせずに去っていった。
四音は、翌日も食堂へ行った。それでも、裏の購買の場所だけは、覚えておいた。
しばらくして、四音は食堂の前を通りかかった。忘れ物を取りに戻ったふりをして。
本当は、あのトレイがどうなったのか、確かめずにはいられなかった。
窓際の席から、トレイは消えていた。代わりに、そこには撫子がいた。
撫子は一人で、布巾でテーブルを拭いていた。
あの小さな紙を、くしゃりと手の中で握りつぶして、制服のポケットに押し込んでいた。
周りの生徒が何か言っても、撫子は「わたくし、汚れたテーブルが我慢なりませんの」とだけ答えて、顔も上げなかった。
いつもならピギャーと騒ぐはずの子が、黙ってテーブルを拭いていた。
四音は、声をかけなかった。撫子も、四音が見ていたことには気づかなかった。あるいは、気づかないふりをしてくれたのかもしれない。
その夜も、黒井社長からの返事はなかった。
五日目、六日目。嫌がらせは少しずつ形を変え、
少しずつ増えていった。四音は毎日、窓際の席へ行った。毎日、笑った。
そして七日目の放課後。撫子が連絡がきた。
『お姉さま、本日の放課後、少々お時間をいただけますかしら。とびきりのお茶会をご用意いたしましたの!』
感嘆符の数は、いつもより少しだけ少なかった。
放課後の空き教室は、撫子が勝手に鍵を借りてきた場所だった。
「さあ四音お姉さま、お座りになって! 紅茶もご用意いたしましたのよ。藍井家御用達の、春摘みのダージリンですわ」
机の上には、場違いなほど上等なティーセットが並んでいた。
四音は扉の前に立ったまま、それを眺めた。
「……撫子。ここは極月の教室ですよ」
「存じておりますわ! ですが、今のお姉さまに...その、食堂は似合いませんもの」
撫子はほんの一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから慌てて胸を張った。
四音にはわかっていた。この一週間、食堂の四音の席に何が置かれていたのか。撫子もそれを見たのだ。
見て、何も言わずに片づけていたのを、四音は知っている。
四音は黙って椅子に腰を下ろした。
「それで? わざわざお茶会を開いてまで、何のお話でしょう」
「よくぞ聞いてくださいましたわ!」
撫子が、待ってましたとばかりに一枚の紙を取り出した。分厚い写真付きのパンフレットだった。
「軽井沢の、藍井家の別荘ですの! お部屋は十二、温室もございますし、専属のシェフもおりますわ。お父様にお願いしたら、いくらでも使ってよいとおっしゃって!」
「……何が言いたい?」
「ですから!」
撫子は両手で机を叩いた。ティーカップが小さく鳴った。
「休学いたしましょう、お姉さま。撫子もご一緒いたしますわ。学園のことなど、ほとぼりが冷めるまで放っておけばよいのです。あんな下々の者たちの嫌がらせに、お姉さまがお付き合いなさる必要なんて、これっぽっちもございませんもの!」
言い切った撫子の顔は、得意げで、それでいて、どこか必死だった。
四音はパンフレットを手に取った。軽井沢。白い建物。陽の当たるテラス。きっと静かで、きっと誰も四音を見ない場所。
――ああ。
悪くない、と一瞬でも思ってしまった自分に、四音は吐き気がした。
「撫子」
「はいっ!」
「貴女は本当に、昔からお優しいのね」
撫子の顔がぱっと明るくなる。四音は、その顔を見ながら、パンフレットを机の上でゆっくりと二つに折った。
「――え」
「お断りします」
「お、お姉さま……?」
「休学? 静養? 冗談はおやめなさい。今ここで私が消えたら、あの子たちは何と言うと思いますか。『白草四音は逃げた』。それで終わりです。私はね、撫子。蹴落とされて逃げ出す側の人間に、なったことは一度もないんですよ」
声は穏やかだった。笑みもいつも通りだった。ただ、カップを持つ指先だけが、ほんのわずかに震えていた。
「で、でもっ! このままでは、お姉さまが……っ」
「私が、何です?」
撫子は唇を噛んだ。言えなかったのだ。このままでは壊れてしまう、とは。
「……ぐぬぬぬぅ……!」
代わりに出てきたのは、いつもの、間の抜けた唸り声だった。
四音は小さく息を吐いて、紅茶を一口だけ飲んだ。高い茶葉の味がした。
「美味しいですね。お紅茶、ありがとう、撫子」
立ち上がり、扉へ向かう。背中に、撫子の声が追いすがった。
「撫子は諦めませんわ! 別荘はずっと空けておきますから! お姉さまが、お姉さまが、いつ来てもいいように……っ!」
四音は振り返らなかった。
廊下に出て、扉が閉まってから、ようやく足を止めた。窓の外では、夕陽が極月の校舎を赤く染めていた。
「……馬鹿な子」
その言葉が誰に向けたものなのか、四音自身にもわからなかった。
八日目の昼、食堂の窓際の席には、また何かが置かれていた。
今度は花瓶だった。白い菊が一輪、挿してあった。
四音は立ち止まった。さすがに、笑みが作れなかった。
周りの生徒たちが、待ち構えていたように息を潜める。
撫子が隣で「な、なんて悪趣味な……っ」と声を震わせた。
その時だった。
食堂の入口で、誰かが小さく悲鳴を上げた。ざわめきが波のように広がり、そして、波が引くように消えていった。
生徒たちが、一人、また一人と道を空ける。誰に言われたわけでもないのに。
ヒールの音が、まっすぐ窓際へ近づいてくる。
四音は振り向けなかった。振り向かなくても、わかった。この足音を、この空気の変わり方を、四音は生まれた時から知っている。
「――ずいぶんと、湿気た場所だな」
白草月花が、そこに立っていた。
アメリカにいるはずの姉。極月の誰もが憧れ、誰もが恐れるトップアイドル。
周りの生徒たちの顔に、さっきまでの嘲りとはまるで違う色が浮かぶ。媚びと、期待と、怯えの混ざった色。
「げ、月花さん……! あの、私たち、ずっとファンで……っ」
一人の生徒が、上ずった声で駆け寄った。去年の秋、ユニットから外された子だった。月花はその子を一瞥もしなかった。
「この花を置いたのは誰だ」
食堂が凍りついた。誰も答えない。月花は花瓶を指先で軽く弾いた。菊が揺れた。
「くだらん。陰でこそこそ花を供えて、名乗り出る度胸もない。そんな連中が、よくもアイドル養成校の看板を背負っているものだ。―お前たちの誰一人として、私の記憶に残る価値はない」
言葉の刃は、生徒たちをひとくくりにした罵声だ。誰かが泣き出しそうな顔をした。
それから月花は、ようやく四音を見た。四音は、反射的に背筋を伸ばした。何年経っても、この目の前ではこうなってしまう。
「大姉さま……!」
撫子が、四音の前に半歩出た。小刻みに震えながら。
「お、お姉さまは悪くありませんわ! 悪いのは、この下々の……っ」
「黙れ、藍井家の雛鳥」
撫子が「ピッ」と喉を鳴らして固まった。月花はもう撫子を見ていなかった。
「愚妹」
「……はい、月花姉様」
「この雛鳥から休学の話が出ているそうだな」
四音の肩がかすかに跳ねた。撫子が真っ青になって、自分の口を両手でふさいだ。
「はい、お断りしました。私は、逃げるつもりなどありません」
「そうか」
月花の口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのか、呆れたのか、四音には判断がつかなかった。
「では、ここに残って何をする。毎日この席に座り、花を供えられ、作り笑いを貼りつけて、それで何かを取り返したつもりか? それはな、愚妹。逃げていないのではない。腐っているだけだ」
言い返す言葉が、喉の奥で潰れた。
月花は、手にしていた薄い封筒を、菊の花瓶の横に置いた。
「お前の不始末で、誰が迷惑を被った。極月の看板か? 違うな。お前が踏みにじったのは、向こうの連中だろう」
封筒の表には、見慣れた校章が印刷されていた。星の形。
「……初星、学園」
「転入の手続きは済ませてある。来週からだ。黒井とも話はついた。あの男、お前のことはもう手に負えんそうだ」
「な――」
四音は、自分の顔から笑みが完全に剥がれ落ちるのを感じた。
「わ、私の許可もなく……っ! なぜ、よりにもよって初星なんですか! あんな、あんな場所に、今さらどんな顔をして……!」
「その顔で行け」
月花は、ぴしゃりと言った。
「自分で汚したものは、自分で拭ってこい。誰の力も借りずにだ。それもできないなら、お前はもう白草を名乗るな」
食堂に、誰の声もなかった。
月花は踵を返した。ヒールの音が遠ざかる。生徒たちが、さっきと同じように、黙って道を空けていく。
入口の手前で、月花は一度だけ足を止めた。振り返りはしなかった。
「―あの席の花は片づけておけ。辛気臭くてかなわん」
それが誰に向けた言葉なのか、食堂にいた誰にもわからなかった。
四音は、花瓶の横の封筒を見下ろしていた。指先が冷たかった。
隣で、撫子が小さく、本当に小さく呟いた。
「……ぴぎゃあ……」
極月学園の正門前に停めた車の後部座席で、白草月花はしばらく目を閉じていた。
「……出せ」
運転手が静かに車を出す。窓の外を極月の校舎が流れていく。月花はそれを見なかった。
端末が鳴った。表示された名前を見て、月花はわずかに眉を寄せ、通話に出た。
「私だ」
『先ほどの件ですが、白草四音さんの受け入れ、正式に承りました』
初星学園の、学園長の声だった。
「...そうか、手間をかけた」
『いえ。ただ、ひとつ確認を。保証人の欄、本当にご本人の名義でよろしいのですか。何かあった場合、矢面に立つのは貴女ですよ』
「構わん」
月花は窓の外へ視線を移した。
「あれが初星で何をしでかしても、責任は私が持つ。……それと、学園長」
『はい』
「私が手を回したことは、あれには言うな。一言もだ」
受話器の向こうで、学園長が小さく笑った気配がした。
『承知しました。お優しいのですね』
「勘違いするな。白草の名に泥を塗られては困るだけだ」
通話を切る。車内に静けさが戻る。
月花は膝の上の鞄から、薄い手帳を取り出した。ページの間に、古い写真が一枚挟まっている。舞台袖らしき暗がりで、ぶかぶかの衣装を着た幼い少女が、カメラに向かって不器用に胸を張っている写真。
裏には、拙い字で書いてあった。
『ボク、おねえちゃんみたいになる』
月花はそれを、ほんの数秒だけ眺めた。それから手帳を閉じ、鞄の奥へ押し込んだ。
「……愚妹が」
呟いた声は、運転手には届かなかった。