初星学園の正門は、極月のそれよりずっと低かった。
門柱の上に、星の校章が光っている。
四音は制服の襟を指先で整えた。初星の制服だ。
袖を通したのは今朝が初めてで、肩のあたりがまだ少し硬い。
「白草さん、こちらへ」
担任の教師に促され、四音は廊下を歩いた。
すれ違う生徒たちが、ちらりと四音を見る。
見て、隣の誰かと顔を見合わせる。極月の視線とは違う。嘲りではなく、戸惑い。
―当然でしょうね。
N.I.Aで、ここの生徒たちに何を言い、何をしたか。
四音は全部覚えている。向こうも、全部覚えている。
教室の扉が開いた。プレートには『1年2組』とあった。
「今日からこのクラスに転入する、白草四音さんです」
ざわ、と空気が揺れた。
一拍の沈黙のあと、最前列の席から、勢いよく手が挙がった。
「あーっ! N.I.Aで、めちゃくちゃ怖かった人だ!」
花海佑芽だった。目をきらきらさせて、悪気のかけらもない顔で四音を指さしていた。
教室の空気が、凍りついた。
「佑芽さん……ステイ」
窓際の席で、秦谷美鈴が、眠たげな目のまま佑芽の袖をそっと引いた。
「そういうことは、思っていても、口に出さないものですよ」
「え? だって本当に怖かったよ? お姉ちゃんも、あの人には気をつけなさいって言ってたし!」
「佑芽さん……」
美鈴が、困ったように小さく笑った。
その隣の席で、篠澤広が、表情ひとつ変えずに四音を見ていた。観察する目だった。
「……ふふ、ままならない、ね」
誰に言うでもなく、広はそれだけ呟いた。
そして、教室の真ん中の席。小柄な少女が、目をまんまるにして固まっていた。
ー倉本千奈だった。
「な、ななな……っ」
千奈の顔から、みるみる血の気が引いていった。机の端を握る指が、白くなっていた。
―よりにもよって。
四音は、教壇の横でゆっくりと一礼した。完璧な角度で。
「白草四音です。皆さん、どうぞよろしくお願いいたしますね」
にこやかに。いつも通りに。それ以外のやり方を、四音は知らなかった。
「よろしくお願いします!」
佑芽だけが、元気よく返事をした。
美鈴が「佑芽さん、空気を……」と小さくたしなめ、広は頬杖をついたまま、まだ四音を見ていた。
千奈は、何も言わなかった。
「白草さんの席は、あそこです」
担任が指したのは、廊下側のいちばん後ろだった。
千奈の席の、斜め後ろ。
四音は歩いた。机と机の間を抜けるたび、視線が刺さり、離れていく。
極月の視線のように冷たくはない。けれど、温かくもない。
どう扱えばいいのかわからない、という目。
千奈の席の横を通ったとき、千奈がびくっと肩をすくめた。
四音は何も言わず、通り過ぎた。
―怖がらせるのは、得意だったのに。
席に着く。鞄を置く。背筋を伸ばす。斜め前に、千奈の小さな背中があった。
その背中が、ずっと強張ったままだった。
誰も話しかけてこない。それでいい。極月では、もっとひどかった。
1限が始まる直前、ポケットの端末が震えた。
『四音お姉さま! 初星の初日はいかがですの? どうせ庶民ばかりの野暮ったい学園でしょうけれど、お姉さまならすぐに頂点ですわ! 撫子は極月で元気にしておりますので、ご心配なく♡』
感嘆符と、ハートと、いつもの撫子だった。
四音は短く息を吐いて、画面を伏せかけた。その指が、途中で止まった。
『ー元気にしておりますので、ご心配なく』
撫子が、わざわざそんなことを書いたことが、今まで一度でもあっただろうか。
ほんの一瞬だけ、胸の奥に引っかかるものがあった。
けれど、チャイムが鳴り、教師が教壇に立ち、四音は端末をしまった。
引っかかりは、そのまま胸の底に沈んでいった。
転入して三日が経っても、四音は誰とも口をきいていなかった。
正確には、一度だけきいた。二日目の昼休み、廊下で秦谷美鈴に呼び止められたときだ。
「白草さん...でしたよね」
振り返ると、美鈴が、いつもの眠たげな目ではなく、真剣そうに私を見つめ立っていた。
「千奈さんに、何かおっしゃることはありませんか」
責める口調ではなかった。
ただ静かに、当たり前のことを確かめるような声だった。
「...はて、何のことでしょう」
四音は笑顔で返した。反射だった。
「……そうですか」
美鈴はそれ以上何も言わず、小さく会釈して去っていった。
その背中を見送りながら、四音は自分が何を間違えたのかわかっていた。
わかっていて、それ以外の言葉が出てこなかった。
謝り方を、四音は知らなかった。
誰かに頭を下げたことなど、物心ついてから一度もなかった。
夜9時を過ぎた初星のレッスン室は、極月のそれより少しだけ狭く、少しだけ明るかった。
予約表には空きがいくらでもあった。誰も、四音と同じ時間に練習したがらないからだ。
四音は鏡の前で、ひとつの振りを何度も繰り返した。
極月で覚えた、他人より美しく見せるための振り。
完璧にこなせる。こなせるのに、鏡の中の自分が何をしたいのか、少しもわからなかった。
「……ふぅ」
休憩がてら床に座り、脚を伸ばす。静かな部屋で、四音は無意識に何かを口ずさんでいた。
「……ら、らら、ら……」
短い旋律。どこで覚えたのか、自分でもわからない。
子どもが歌うような、他愛のない節回し。
扉の向こうで、何かが小さく鳴った。四音は口を閉じ、すぐに立ち上がった。
「どなたです」
扉が開いた。初星のプロデューサー科の制服。
眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬だけ、何かに驚いたように見開かれていた。
「失礼しました。明かりがついていたので」
「……初星のプロデューサー、ですか」
四音はすぐに笑みを貼りつけた。
「こんな時間まで見回りとは、ご熱心ですこと。それとも、元極月の悪女が何か企んでいないか、監視でもなさっているのかしら」
「いえ」
プロデューサーは、四音ではなく、さっきまで四音が座っていた床のあたりを見ていた。
「今の歌は」
「……は?」
「さっき、歌っていたでしょう」
四音の眉が、わずかに寄った。
「歌ってなどいません。ただの鼻歌です。どこで覚えたのかも知らない、くだらない節ですよ」
「そうですか」
プロデューサーはそれ以上何も言わなかった。
けれど、その表情には何かがあった。
懐かしさのような、それでいて少しだけ寂しそうな何かが。
四音はそれが妙に気に食わなかった。
「何です、その顔は」
「いえ。お邪魔しました」
彼は一礼して、扉に手をかけた。
「ひとつだけ」
「……何でしょう」
「今の振り、とても綺麗でした。ただ、誰に見せたいのかがわかりませんでした」
四音の笑みが、ほんの一瞬だけ凍った。
「……余計なお世話です」
「はい。失礼します」
扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。
四音は鏡の前に戻り、さっきの振りをもう一度だけ踊ろうとして、やめた
。代わりに、さっきの旋律が、頭の奥で勝手に鳴り続けていた。
「……ら、らら、ら……」
どこで覚えたのだろう。思い出そうとすると、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。
美鈴の言葉は、三日経っても四音の耳から消えなかった。
『千奈さんに、何かおっしゃることはありませんか』
言うことなら、ある。わかっている。
N.I.Aの時、四音は撫子と二人で千奈を嘲り、千奈の大事なものを踏みにじろうとした。
初星の誰よりも、四音が一番怯えさせた相手。
それなのに、その相手は今、毎日四音の斜め前に座っている。
小さな背中が、授業中もずっと強張っているのがわかった
。四音が椅子を引く音を立てるたびに、その肩が小さく跳ねた。
―怖がらせるのは、あんなに簡単だったのに。
「白草さん! お昼、一緒に食べよう!」
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、佑芽が四音の机の前に立っていた。
両手に、山盛りの購買のパンを抱えて。
「……結構です」
「えー、なんで? 一人で食べるより絶対おいしいよ!」
「私と食べたら、貴女まで白い目で見られますよ」
「白い目?」
佑芽は、本気でわからないという顔で首を傾げた。
「よくわかんないけど、わたし、白草さんと勝負してみたいんだ! N.I.Aのとき、すっごく強かったでしょ? お姉ちゃんもそう言ってた!」
「……貴女のお姉さんは、気をつけろと言っていたのでは」
「うん! 強いから気をつけろって!」
四音は、言葉を失った。
嫌味が、まるで通じない。
「だから、まずはお昼から! はい、メロンパンあげる!」
佑芽は四音の机にパンを一つ置き、勝手に隣の椅子を引いて座った。
四音は、そのメロンパンをしばらく見つめていた。
斜め前の千奈が、ちらりと振り返り、すぐにまた前を向いた。
その夜、レッスン室には先客がいた。
床に、篠澤広が仰向けに倒れていた。
「……何を...してるのですか」
「休憩」
広は天井を見上げたまま、ひどく満足そうな顔で答えた。
「今日のメニュー、三回通した。もう指一本動かない。最高」
「……最高、ですか」
「きついの、好き。できないことを、できるまでやるのが楽しい」
広はゆっくりと首だけを動かして、四音を見た。
「白草さんも、毎晩遅くまでやってるよ、ね。きついの、好き?」
四音は、答えられなかった。好きなのではない。
そうしなければ、自分が何者なのかわからなくなるからだ。
「……私は、貴女とは違います」
「そっか」
広は、それ以上何も聞かなかった。
代わりに、もう一度天井を見上げて、小さく笑った。
「でも、白草さんの練習、なんだか苦しそうに見える。楽しくないなら、もったいない、ね」
四音は、鏡のほうへ向き直った。
鏡の中の自分は、確かに、少しも楽しそうではなかった。
レッスンを終えて駅へ向かう途中、改札の手前で、四音は足を止めた。
柱の陰に、極月の制服があった。
「……あら」
賀陽燐羽だった。
缶コーヒーを片手に、つまらなそうに電光掲示板を見上げていた。
燐羽は、四音に気づくと、上から下まで一度だけ視線を走らせた。
「ふふっ、似合わないわねその制服」
「貴女に言われる筋合いはありません」
「でしょうね」
燐羽は、缶コーヒーを一口飲んだ。
「美鈴と手毬に会いに来たわけじゃないから。黒井さんの使い。勘違いしないで」
「何も聞いていませんけれど」
「……そう」
一瞬だけ、燐羽の視線が、初星学園の方角へ流れた。
それから、四音に戻った。
「で、どうなの。初星は」
「……居心地のいい場所ではありませんね」
「当たり前でしょ。あなたが散々荒らした場所なんだから」
燐羽は、空になった缶をゴミ箱に放った。
「謝るなら、さっさと謝りなさいよ。後になればなるほど、言いにくくなるわよ」
四音は、燐羽を見た。燐羽は、四音を見ていなかった。
「……経験談ですか」
燐羽の肩が、ほんのわずかに動いた。
「...うるさい」
それだけ言って、燐羽は改札を抜けていった。振り返らなかった。
四音は、その背中を見送りながら思った。あの人も、謝りそびれた誰かがいるのだろうか、と。
翌日の昼休み。
四音は、佑芽が「今日は咲季お姉ちゃんとお昼!」と飛び出していったのを見送ってから一人で中庭の隅のベンチに座っていた。
「あ、あのっ!」
声が裏返っていた。
顔を上げると、倉本千奈が、四音の三歩手前で立ち止まっていた。
両手でスカートの裾を握りしめ、顔は真っ赤で、膝はわかりやすく震えている。
「……倉本さん、ごきげんよう」
「は、はいっ。倉本千奈ですわ」
沈黙が落ちた。千奈は何かを言おうとして口を開き、閉じ、また開いた。
「その……わ、わたくし、白草さんにお聞きしたいことがありますの」
「何でしょう」
四音は反射的に笑みを作りかけて、やめた。
作った笑みで返したら、美鈴の時と同じになる。わかっていた。
「あの時……N.I.Aの時、どうして、わたくしたちにあんなことをなさいましたの?」
まっすぐな問いだった。
責める響きはなかった。
ただ、本当にわからないから聞いている、という目。
四音は、答えを探した。いくらでも言い訳は浮かんだ。
極月の方針だった。
黒井社長の指示だった。
勝つために必要だった。
どれも嘘ではない。だが、どれも本当の答えではなかった。
「……弱そうに見えたからです」
口から出た声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「倉本さんも、姫崎さんも、紫雲さんも。蹴落とせば、簡単に潰れると思いました。弱い人間は、踏み台にされて当然だと」
千奈の顔がこわばった。
四音はそれを見ても、言葉を止めなかった。止められなかった。
「でも、違いましたね」
四音は笑った。笑ったつもりだった。
唇の端が、うまく持ち上がらなかった。
「潰れたのは私のほうでした。極月では誰も味方をしてくれない。社長には連絡すら返してもらえない。姉様には―」
そこで、喉が詰まった。
食堂で月花に言われた言葉が、頭の中で繰り返された。
ーそれもできないなら、お前はもう白草を名乗るな。
「……姉様にすら、見限られました。当然です。踏みにじる相手を選んでいたつもりで、本当に弱かったのは、私だったんですから」
「し、白草さん……」
「おかしいでしょう。笑っていいんですよ、倉本さん。あれだけ偉そうにしていた女が、この有り様です。貴女たちに何をしたかを思えば、これくらいでは足りないくらい」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
言葉を重ねるたびに、胸の奥が少しずつ削れていく。
それがわかっていて、四音はやめなかった。
削れて、削れて、なくなってしまえばいいーどこかで思っていた。
四音はパンを膝に置き、ベンチから立ち上がった。
そして、千奈の前で、深く頭を下げた。
腰を折る角度を、四音は知らなかった。
だから、ただ、できるだけ深く下げた。
床に額がつくほどに下げれば、少しは釣り合いが取れる気がした。
「ごめんなさい。……私みたいな人間が、貴女の前に立っていて、ごめんなさい。私はあなたより弱いです」
長い沈黙だった。
やがて、頭の上で、ぐすっと鼻をすする音がした。
「……そ、そういう謝り方は、嫌ですわ……っ」
「え」
四音が顔を上げると、千奈は目にいっぱい涙を溜めて、それでも必死に四音を睨んでいた。
「わたくしは、白草さんに謝ってほしかったのであって……白草さんが、ご自分を嫌いになるのを見たかったわけではありませんの!」
四音は、言葉の意味がわからなかった。
いや、意味はわかる。
わからないのは、なぜ千奈がそれを言うのか、だった。
四音が踏みにじった相手だ。
怯えさせ、嘲り、潰そうとした相手だ。
その相手が、四音が自分を罵ることを嫌がっている。
泣きそうな顔で、怒っている。四音のために。
―どうして。
責められるなら、わかる。
軽蔑されるなら、わかる。
笑われるなら、もっとよくわかる。
四音はずっと、そういうものの中で生きてきた。
けれど、これは何だろう。
「……何を、おっしゃっているのか」
ようやく出てきた声は、かすれていた。
「私は、貴女にひどいことをしたんですよ。罵られることはあれど、そのようなお言葉を...」
「ですから、まだ許してなどいませんわ!」
千奈は地団駄を踏むように言った。
「でも、そんな顔で謝られたって、ちっとも嬉しくありません……っ」
千奈は言葉を探し、見つからず、ぎゅっと目をつぶった。
「も、もういいですわ……っ!」
真っ赤な顔でそう言い残して、千奈は小さな背中を揺らしながら走り去っていった。
四音は、その場に立ち尽くしていた。
下げた頭を上げたまま、どこに視線を置けばいいのかわからなかった。
手のひらが汗ばんでいた。
心臓が、妙な速さで打っていた。
―嬉しくない、と言われた。
人生の中で経験則を探したが、その理由、その意図を理解することはできなかった。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
思い返そうとした。誰かに、そういう言葉をかけられたことはあっただろうか。
月花は、いつも四音の足りないところだけを見ていた。
黒井社長が見ていたのは、四音の数字と勝ち星だった。
極月の生徒たちは、四音の顔色をうかがうか、陰で笑うかのどちらかだった。
撫子だけは、ずっと「お姉さま」と呼んでくれていた。
けれど四音は、それを都合のいい盲信だと思っていた。
思うことにしていた。そうでなければ、受け取り方がわからなかったから。
ベンチに腰を下ろす。膝の上に、食べかけのパンが転がっていた。
「……どうすれば、よかったんでしょう」
千奈を追いかければよかったのか。
礼を言えばよかったのか。
それとも、もう一度謝ればよかったのか。
わからない。優しくされたときの返し方を、四音は誰にも教わっていなかった。
「珍しいですね、素直に困惑されている様子は新鮮です」
背後から声がした。四音は振り向かずに答えた。
「……見ていたんですか。趣味の悪い方」
「通りがかっただけです」
「それにしては、ずいぶん都合のいい場所にいらっしゃること」
プロデューサーはベンチの横に立ったまま、座ろうとはしなかった。
四音の隣に、ちょうど一人分の距離を空けて。
「白草さん。その困惑を理解するために1つ提案があります」
「お断りします」
「まだ何も言っていません」
「言わなくてもわかります。どうせ、更生の手伝いでもしてやろうという、慈善事業でしょう」
プロデューサーは少しだけ考えるように黙り、それから言った。
「あなたをプロデュースさせてください」
四音は、ゆっくりと顔を上げた。
「……は?」
「担当として、です。正式に」
冗談を言っている顔ではなかった。
四音は、思わず笑った。
いつもの作った笑みではなく、呆れ果てた笑いだった。
「ふふっ...あなた、正気ですか。私が初星で何をしたか、ご存じないわけではないでしょう。貴方の学園の生徒たちを罵倒して、陥れて、潰そうとした女ですよ。そんな女を担当にしたら、貴方の評判まで地に落ちます」
「ええ、知っています。当然調べました」
「でしたら―」
「それでも、あなたの歌が聴きたいんです」
四音の言葉が止まった。
風が中庭を抜けていった。
遠くで、誰かの笑い声がした。
「……歌?」
「この間の夜、レッスン室で聴いた歌です」
「あれは、ただの鼻歌だと申し上げたはずです」
「はい。でも、あの時のあなたは、誰も蹴落とそうとしていませんでした」
四音は目を逸らした。
胸の奥の、あの小さな痛みが、また疼いた。
「……お断りします」
今度は、さっきよりも少しだけ声が小さかった。
「姉に言われました。自分の不始末は、誰の力も借りずに拭ってこいと。プロデューサーに助けてもらうなど、白草の名が許しません」
「...そうですか、残念です」
プロデューサーは、あっさりと頷いた。
あまりにあっさりしていたので、四音はかえって拍子抜けした。
「……それだけですか」
「ええ、今日のところは」
彼は一礼して、背を向けた。
数歩進んだところで、立ち止まる。
「気が変わったら、いつでも。俺は待つのは得意なので」
去っていく背中を、四音は黙って見送った。
「……待つのが得意、ね」
その言葉が、なぜか耳に残った。ずっと昔、誰かに同じことを言われた気がした。
思い出そうとすると、また胸の奥が、少しだけ痛んだ。
翌朝、1年2組の扉の前に、花海咲季が腕を組んで立っていた。
「白草四音。ちょっといいかしら」
教室の中で、佑芽が「あ、お姉ちゃん!」と手を振った。
咲季はそれに軽く手を上げて応えてから、四音に向き直った。笑っていなかった。
「最近、佑芽があなたとお昼を食べてるって聞いたわ」
「……貴女の妹さんが、勝手に隣に座ってくるだけです」
「知ってる。あの子はそういう子だから」
咲季は一歩、四音に近づいた。
「だから言っておくわ。佑芽に何かしたら、私が許さない。N.I.Aであなたが何をしたか、私は一つも忘れてないから」
「……肝に銘じておきます」
咲季は、四音の顔をしばらく見つめていた。
何かを確かめるように。それから、ふいと背を向けた。
「でも、佑芽があなたと勝負したいって言ってるのは本当よ。あの子、強い人が好きなの。……がっかりさせないでちょうだい」
去っていく背中を、四音は黙って見送った。
脅しなのか、激励なのか、最後までわからなかった。
昼休み。購買へ向かう廊下で、明るい声に呼び止められた。
「あ、四音ちゃんじゃん!」
振り返ると、紫雲清夏が手を振っていた。
その半歩後ろに、葛城リーリヤがいた。
四音の足が止まった。
清夏。N.I.Aの時、四音が噂を流して孤立させ、極月に引き抜こうとした相手。
「初星に来たってマジだったんだ。制服、なんか新鮮〜」
清夏は、いつも通りの笑顔だった。少なくとも、そう見えた。
「……紫雲さん」
「えー、清夏でいいって。前は清夏ちゃんって呼んでたじゃん」
その言葉に、四音は息を詰まらせた。
あの頃、四音は甘い声で清夏をそう呼んで、極月に誘った。
裏では、清夏の悪い噂を流しながら。
清夏の後ろで、リーリヤが一歩前に出た。
「清夏ちゃん、行こう」
いつもの控えめな声ではなかった。低く、硬い声だった。
「リーリヤ、ちょっと話すくらい……」
「だめ」
リーリヤは、清夏と四音の間に立った。
小柄な体で、清夏をかばうように。
「白草さん。わたし、あなたが清夏ちゃんにしたこと、忘れてません」
四音は、何も言えなかった。
「清夏ちゃんは優しいから、何も言わないかもしれない。でも、わたしは言います。清夏ちゃんに、近づかないでください」
リーリヤの声は、震えていた。
それでも、目は逸らさなかった。
清夏が、リーリヤの肩にそっと手を置いた。
「……ありがと、リーリヤ」
それから、四音を見た。笑顔だった。
けれど、その笑顔の端が、ほんの少しだけ固かった。
「四音ちゃん。あの時のこと、あたし、けっこうしんどかったよ」
軽い口調だった。軽すぎるくらいに。
「でもまあ、リーリヤがいてくれたから、なんとかなったし。だから、今はそんなに気にしてないかな。……たぶんね」
清夏はリーリヤの手を取って、「行こ」と歩き出した。
リーリヤは一度だけ振り返って、四音をまっすぐに見た。
それから、清夏と並んで去っていった。
四音は、廊下に立ち尽くしていた。
気にしていない、と言われた。たぶん、と付け足されて。
それが一番、こたえた。
怒鳴られるより、責められるより。
あの軽い声の奥に、四音が流した噂の傷が、まだちゃんと残っていることがわかってしまったから。
放課後
四音は誰もいない屋上へ続く階段に座っていた。
千奈の言葉が、まだ頭の中で鳴っていた。
嬉しくない、と。
自分を嫌いになるのは見たくない、と。
どう受け取ればいいのか、一晩考えてもわからなかった。
そこに今日、清夏の「たぶんね」が重なった。
「みーつけた」
柔らかい声が、上から降ってきた。
四音は顔を上げ、そして固まった。
階段の踊り場に、姫崎莉波が立っていた。
両手に、紙パックの紅茶を二本持って。
「……姫崎、さん」
「うん。お隣、いいかな」
返事を待たずに、莉波は四音の一段上に腰を下ろした。
紅茶を一本、四音の横に置く。
四音は、それに手を伸ばさなかった。
「……何のご用でしょう。私が貴女に何をしようとしたか、お忘れではないでしょう」
「忘れてないよ」
莉波はあっさり言った。
「プロデューサーくんとの動画を、変なふうに切り貼りして流そうとしたこと。あれは本当に怒ったし、今でもちょっと怒ってる」
「……でしたら、なぜ」
「千奈ちゃんがね、昨日泣きながら言ってたの。白草さんが、自分のことをすごく嫌いになってるみたいだって」
四音の指先が、膝の上でかすかに縮んだ。
「それ聞いたらね、放っておけなくなっちゃった」
莉波は、困ったように笑った。
「お姉さんだからかな」
その一言で、四音の中の何かが、ひどく軋んだ。
月花姉さまの姿が浮かんだ。
「……お姉さん」
「うん。私、そういうふうになりたくて、アイドルやってるから。年下の子が一人で泣きそうになってたら、隣に座ってあげられる人に―」
「やめてください」
声が、思ったより鋭く出た。
莉波が、少しだけ目を見開いた。
四音は自分の膝を見つめたまま、言葉を続けた。
「姉なら、私には一人います。その人は、隣になど座りません。足りないところを見つけて、正して、できなければ切り捨てる。それが姉です。私は、それしか知りません」
「四音ちゃん……」
「ですから、そういうのは、わからないんです」
四音の声が、小さくなった。
「千奈さんも、貴女も。どうして私に、そんな顔をするのか。私は、貴女たちに優しくされるようなことを、一つもしていないのに」
言い終えてから、四音は自分の言葉に驚いた。
こんなことを、誰かに言ったのは初めてだった。
莉波は、しばらく黙っていた。
それから、四音の隣に置いた紅茶を、そっと四音の手のほうへ押した。
「理由がないと、優しくしちゃだめなのかな」
「……」
「私はね、きみのしたこと、全部許したわけじゃないよ。たぶんしばらくは許さない。でも、それとこれとは、別なの」
莉波は立ち上がり、スカートの裾を払った。
「お姉さんって、そういうものだと思うんだ。少なくとも、私がなりたいのは」
階段を下りかけて、莉波は一度だけ振り返った。
「紅茶、私のお気に入りのやつなんだから、飲んでよね」
足音が遠ざかっていく。
四音は、しばらくその場から動けなかった。
やがて、紙パックを手に取った。まだ、少しだけ温かかった。
「……姉様は、こんなもの、くれたことがありません」
呟いて、ストローを差した。
甘かった。
甘すぎて、なぜか喉の奥が熱くなった。
撫子からのメッセージは、四音が初星に来てから毎日届いていた。
一日目は、画面からはみ出すほどの長文だった。
極月の誰それがまたダンスを外しただの、新しく取り寄せたマカロンがいかに絶品かだの。
最後には必ず、お姉さまならすぐに頂点ですわ、と。
四音は一度も返信しなかった。
いつものことだった。撫子もそれをわかっていて、送り続けていた。
三日目。メッセージが少し短くなった。
『お姉さま! 本日は雨でしたわね。撫子は元気ですわ♡』
五日目。
写真が来なくなった。
極月の中庭や、撫子のお気に入りのティーカップや、鏡越しの自撮りが全く来なくなった。
七日目。
いつもなら朝の七時ぴったりに届くメッセージが、夜の十一時を過ぎてから届いた。
『おやすみなさいませ、お姉さま』
それだけだった。感嘆符も、ハートもなかった。
四音は、寮の部屋のベッドの上で、その一行をしばらく見つめていた。
―疲れているだけでしょう。あの子にだって、そういう日くらいある。
そう思うことにした。
思うことにして、画面を伏せた。
けれど、伏せた画面の下で、何かが冷たく沈んでいくのがわかった。
四音は思い出していた。
極月の食堂。窓際の席。
黙ってテーブルを拭いていた撫子の背中。くしゃりと握りつぶされた紙切れ。
あの時、撫子は何も言わなかった。四音も、何も言わなかった。
―私がいなくなった極月で、あの子は今、どこに座っているのだろう。
考えかけて、やめた。
考えたら、確かめずにはいられなくなる。
確かめたら、何かをしなければならなくなる。
そして四音には、自分に何ができるのか、少しもわからなかった。
端末を手に取る。撫子とのトーク画面を開く。
何十、何百と並んだ撫子の吹き出し。
その間に、四音の吹き出しは一つもない。
四音は、生まれて初めて、撫子への返信を打とうとした。
『撫子、』
そこで指が止まった。何と続ければいいのかわからなかった。
元気ですか、と聞くのは、今さらすぎる。
何かあったのですか、と聞けば、あの子はきっと、何もありませんわと答える。
一文字ずつ打っては消し、打っては消した。結局、四音が送ったのは、ほんの短い一行だった。
『撫子。こちらは、甘い紅茶をもらいました』
送信してから、自分でも何を送ったのかよくわからなくなった。報告なのか、自慢なのか、それとも。
既読は、つかなかった。日付が変わっても。窓の外が白み始めても。
四音は、伏せた端末を一晩中、手放せずにいた。