「白草さん! 明日、勝負しよう!」
「……勝負?」
「うん! ダンスでも歌でも、なんでもいいよ!お姉ちゃんにはまだ勝てないけど、白草さんとならいい勝負になる気がするんだ!」
四音は、手元の端末から目を上げなかった。
撫子とのトーク画面。
昨夜送った『甘い紅茶をもらいました』の一行に、まだ既読がついていなかった。
「明日は、用事があります」
「えー、そっかぁ。じゃあ来週ね!」
佑芽は残念そうに、それでもまったくめげずに去っていった。
その日の夜、レッスン室では、また広が床に転がっていた。
「白草さん」
天井を見上げたまま、広が言った。
「今日、ずっとスマホ見てた、ね。授業中も、お昼も」
「……見ていません」
「そっか」
広はそれ以上追及しなかった。
ただ、少しだけ首を傾けて、四音を見た。
「誰か、待ってるの?」
四音は、答えなかった。
鏡の前で振りを一つ踊りかけて、やめた。
指先が、うまく動かなかった。
翌朝、四音は寮を出る前に、もう一度だけ端末を開いた。
既読は、まだついていなかった。
日曜日の昼、四音は極月学園の裏門が見える歩道橋の上に立っていた。
来るつもりはなかった。
駅前の書店に行くだけのつもりだった。
気づけば電車を乗り継ぎ、見慣れた校舎の屋根が見えるところまで来ていた。
既読は、まだついていなかった。
―顔を見るだけ。遠くから、元気そうなのを見たら、すぐに帰る。
自分にそう言い聞かせつつ、足は自然と足早に極月学園に向かっていた。
裏門の脇には、生徒が自主練に使う小さな噴水広場がある。
休日でも、ダンス科の生徒が何人か出入りしている場所だ。
そこに、撫子がいた。
四音はすぐにわかった。
あのピンクの髪を、見間違えるはずがない。
撫子は噴水の縁にしゃがみ込んでいた。
水の中に手を入れて、何かを拾い上げようとしていた。
ずぶ濡れのレッスンシューズだった。片方だけ。
もう片方は、噴水の真ん中のあたりに沈んでいた。
少し離れたベンチに、三人の生徒が座っていた。
笑っていた。一人が端末を撫子に向けていた。
「藍井さぁん、そっちじゃないよ。真ん中、真ん中」
「お姉さまがいないと、靴も一人で拾えないんだぁ」
「残党は大変だねえ」
撫子は振り返らなかった。
黙って、噴水の縁から身を乗り出していた。
制服の袖が、肘まで濡れていた。
四音の手が、歩道橋の手すりを強く握った。
ーあの光景を、四音は知っていた。
知りすぎていた。
極月の食堂。窓際の席。冷めたトレイと、小さな紙切れ。
自分が去ったあの場所で、今、撫子が同じことをされている。
気づけば、四音は階段を駆け下りていた。
裏門をくぐったところで、ベンチの三人が四音に気づいた。
笑い声がぴたりと止む。
誰かが「やば」と言って、三人はそそくさと反対側へ去っていった。
四音は追わなかった。
噴水の前で、足を止めた。
撫子が、ゆっくりと振り返った。濡れた前髪が、額に貼りついていた。
目の縁が、少しだけ赤かった。
撫子は四音を見て、ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
そして、次の瞬間には、笑っていた。
「まあ、四音お姉さま! 奇遇ですわね!」
いつもの声だった。いつもの、少し甲高い、得意げな声。
「わざわざ極月まで、撫子に会いにいらしてくださったのかしら?嬉しいですわ!」
「...その靴は」
「あっ、えっと...気になさらないで。撫子ったら、うっかり噴水に落としてしまいましたの。おっちょこちょいで、恥ずかしいですわね、ふふっ」
ずぶ濡れの靴を背中に隠して、撫子は胸を張った。
四音の中で、何かが切れた。
「―ふざけないで」
自分の声とは思えない声だった。
「え……」
「うっかり? おっちょこちょい? 今の、私が見ていなかったとでも思っているんですか!」
撫子の笑顔が、引きつった。
「お、お姉さま、撫子は本当に―」
「いつからです!」
四音は撫子の濡れた手首をつかんだ。
冷たかった。ひどく、冷たかった。
「いつから、こんなことをされていたんです。毎日、毎日、あんなに楽しそうなメッセージを寄越して!! あれは全部―」
「お姉さまが心配なさるといけませんもの」
撫子は、笑ったまま言った。
「お姉さまは初星で、新しくやり直していらっしゃるのでしょう? 撫子のことで、お姉さまのお邪魔をするわけには参りませんわ。撫子は、お姉さまの妹分ですもの。これくらい、平気で―」
「平気なわけがないでしょう!」
四音は叫んでいた。
「そんな顔で笑って! 濡れたまま笑って! 何も言わずに、黙って耐えて! そんなやり方、誰に教わったんですか!」
言った瞬間、四音は息を呑んだ。
答えは、わかっていた。
食堂の窓際で、冷めたトレイを前に笑っていたのは誰だったか。
嫌がらせを受けるたびに、完璧な所作で背筋を伸ばして見せていたのは誰だったか。
撫子は、ずっと四音の後ろにいた。
四音のやり方を、一番近くで見ていた。
「……私、ですね」
手首をつかむ力が、抜けていった。
「私が、教えたんですね。こんな、馬鹿な笑い方を」
撫子の笑顔が、ついに崩れた。
唇が震え、目に溜まっていたものが、ぼろぼろと頬を伝い落ちた。
「……っ、だって……だって、お姉さまは、いつもそうやって、かっこよく笑っていらっしゃったから……撫子も、お姉さまみたいに、なりたかったんですもの……っ」
撫子は、四音の胸に額を押しつけて泣いた。
子どものように、声を上げて。
四音は、どうすればいいのかわからなかった。
抱きしめ方も、慰め方も、知らなかった。
ただ、濡れた撫子の肩に、ぎこちなく手を置くことしかできなかった。
噴水の水音が、二人の間でずっと鳴っていた。
渡り廊下の陰まで逃げてきたところで、三人は足を止めた。
「あっぶな……白草本人が来るとか、聞いてないって」
「ていうか、初星に行ったんじゃなかったの?」
「いいじゃん、動画は撮れたし。あとでグループに―」
「...その動画」
柱の陰から、声がした。
三人が振り返ると、賀陽燐羽が立っていた。
腕を組んで、壁に背中を預けて。
いつからそこにいたのか、誰にもわからなかった。
「か、賀陽さん……」
「私に送りなさい」
燐羽は、手のひらを差し出した。
「は? なんで賀陽さんに……」
「しかるべきところに報告するから、じゃだめかしら」
三人の顔色が変わった。
「先週の靴箱。その前のロッカー。藍井の私物、何回目? 全部見てたわよ。極月の看板に泥を塗ってるのが誰なのか、学園に判断してもらう」
「ちょ、待ってよ。藍井は白草の残党じゃん。あいつらがやってたことに比べたら、うちらなんて―」
「だから何」
燐羽の声は、静かだった。
静かすぎて、三人は口をつぐんだ。
「私は白草が嫌い。あの子がやってきたことも、全部嫌い」
燐羽は、一人ずつ、三人の顔を見た。
「でも、群れて一人を囲んで、笑いながら撮ってるあんたたちは、もっと嫌い。白草と何が違うの?」
誰も、答えなかった。
燐羽は、差し出したままの手を、わずかに動かした。
「送りなさい。今」
震える指で、一人が端末を操作した。
燐羽のポケットの中で、短い通知音が鳴った。
燐羽はそれを確かめもせずに、柱から背中を離した。
「次はないから」
それだけ言って、燐羽は三人の間をすり抜けていった。
渡り廊下を抜け、裏門の脇のフェンス沿いに出たところで、燐羽の足が止まった。
フェンスの向こうの歩道に、初星の制服を着た少女が立っていた。
片手に和菓子屋の小さな紙袋を提げて、いつもの眠たげな目で、燐羽を見ていた。
秦谷美鈴だった。
「……何してるの」
燐羽の声が、わずかに硬くなった。
「お散歩です」
美鈴は、のんびりと答えた。
「日当たりのいいお昼寝場所を探していたら、ずいぶん遠くまで来てしまいました」
「極月まで?」
「はい。気づいたら」
美鈴は、フェンス越しに渡り廊下のほうへ目をやった。
三人の生徒が、肩を落として反対側へ去っていくところだった。
「相変わらず、怖いお顔をなさるんですね」
「……見てたの」
「少しだけ」
燐羽は、ポケットの中の端末を握り直した。美鈴から目を逸らして、噴水広場のほうを見た。
噴水の前で、ピンクの髪と、初星の制服が寄り添っているのが、遠くに小さく見えた。
美鈴も、同じほうを見た。
「あれは、うちのクラスの白草さんですね」
「そうみたいね」
「最近、ずっと端末ばかり見ていらしたので、何かあったのだろうとは思っていましたけれど」
美鈴は、小さく首を傾げた。
「助けてあげないんですか」
「私が出ていったら、余計にこじれるだけでしょ」
燐羽は、フェンスに背を向けた。
「……ここで私を見たこと、誰にも言わないで。白草にも。手毬にも」
美鈴は、しばらく燐羽の背中を見ていた。
それから、ふわりと笑った。
「はい。その代わり、今度お茶でもいかがですか。旧茶道部の部屋、まだ使えますから」
「行かない」
即答だった。
けれど、燐羽はすぐには歩き出さなかった。
ほんの一拍だけ、その場に立ち止まっていた。
それから、何も言わずに歩いていった。ポケットの中の端末を握ったまま。
美鈴は、その背中が見えなくなるまで見送った。
それから、もう一度だけ噴水広場のほうを振り返った。
「……白草さんには、甘いものが要りそうですね」
紙袋の中を覗き込んで、美鈴は小さく呟いた。
日曜の夜、初星学園の校舎は、ほとんどの窓が暗かった。
プロデューサー科の準備室だけに、明かりがついていた。
四音は扉の前に立っていた。
もう十分以上、そこに立っていた。
ノックをしようとして手を上げ、下ろし、また上げた。
撫子は、あの後、寮の前まで送った。
泣き疲れた撫子は、別れ際に「今日のことは、なかったことにしてくださいませ」と言った。
また、笑おうとしながら。
四音は、うなずけなかった。
―なかったことになど、できるわけがない。
けれど、では何ができるのか。
四音一人で極月に乗り込んで、あの三人を怒鳴りつけるのか。
それで終わるはずがない。
四音はもう、極月で何の力も持っていない。
ただの、不正が露見した転校生だ。
むしろ四音が騒げば騒ぐほど、撫子が「残党」と呼ばれる理由が増えていく。
自分の不始末は、自分で拭ってこい。誰の力も借りずにだ。
月花の声が、頭の中で鳴っていた。
四音は目を閉じた。それから、扉を叩いた。
「どうぞ」
中に入ると、プロデューサーは机に向かって何かの書類を書いていた。
四音を見ても、驚いた様子はなかった。
「白草さん。こんな時間に、どうしました」
四音は口を開いた。
言うべき言葉は、ここに来るまでに何度も考えていた。
取引の形にすればいい。条件を出せばいい。貴方にも得があると言えばいい。
四音はずっと、そうやって人を動かしてきた。
けれど、口から出てきたのは、そのどれでもなかった。
「……友人が」
声が、震えた。
「友人が...極月でひどい目に遭っています。私のっ...せいです。私がいなくなったから、あの子が代わりに。靴を噴水に投げ込まれて、笑われて。それなのにあの子、笑って....私の真似をして...」
嗚咽が混じる。
事実を口にするたび、あの惨劇が頭に浮かび、感情が高ぶる。
プロデューサーは、ペンを置いた。
「私一人では、どうにもなりません。私が動けば動くほど、あの子の立場が悪くなる。何をどうすればいいのか、わからないんです」
四音は、自分の両手を見つめた。
そして四音は、頭を下げた。千奈の時よりも、深く。
「お願い...します」
喉の奥が焼けるようだった。
「……友人を、助けてください」
しばらく、何の音もしなかった。
四音は頭を下げたまま、待った。
断られても仕方がないと思っていた。
この人の学園の仲間たちに、四音が何をしたか。
この人の申し出を、四音がどんなふうに突き返したか。
「顔を上げてください、白草さん」
四音は、ゆっくりと顔を上げた。
プロデューサーは、椅子から立ち上がっていた。
四音と同じ目の高さで、まっすぐにこちらを見ていた。
「助けます」
あっけないほど、短い答えだった。
「……本当に?」
「はい。ただし、条件があります」
四音は身構えた。
来た、と思った。何を差し出せばいいのか。何を奪われるのか。
「極月で、前に立つのはあなたです」
「え……」
「俺ができるのは、あなたが前に立つための準備までです。どこに話を持っていけば撫子さんを守れるのか、どうすれば一番早く、一番確実に止められるのか。それは一緒に考えます。でも、あの子の前に立って、あの子を連れ出すのは、あなた自身です」
プロデューサーは、少しだけ言葉を区切った。
「それと、もうひとつ」
「……まだ、あるんですか」
「この間の話です。あなたをプロデュースさせてほしい、という」
四音は、思わず小さく笑った。
泣きそうな笑い方になった。
「こんな時に、商談ですか。ずいぶんと抜け目のない方」
「こんな時だから、です。友人...おそらく撫子さんでしょうか、を守るとき、あなたが『初星の、担当アイドルのいる白草四音』として前に立つのと、ただの転校生として立つのとでは、極月の受け止め方が違います」
「……私を、利用するつもりですか」
「お互いさまです」
プロデューサーは、真面目な顔で言った。
四音は、今度こそ本当に笑った。声を出して、少しだけ。
「……ずるい人ですね、貴方」
「よく言われます」
四音は、深く息を吸った。
「お受けします。ただし―」
「はい」
「姉様には、言わないでください。私が、誰かに頭を下げたなんて」
プロデューサーは、ほんのわずかに、何かを知っているような顔をした。
けれど、すぐにそれを消して、うなずいた。
「月花さんですね、わかりました、口外はしません」
準備室の時計が、夜の9時を指していた。
「では、始めましょうか。白草さん」
プロデューサーが机の上の書類を脇へよけ、新しいノートを開いた。
その背中を見ながら、四音はふと思った。
前にもこんなふうに、誰かの隣で、何かを始めようとしたことがある気がする。
ずっと昔に。
思い出せなかった。
けれど今度は、胸の奥の痛みは、少しだけ温かかった。
ー翌朝
四音の机の上に、和菓子屋の小さな包みが一つ、置かれていた。
誰が置いたのか、四音にはわからなかった。
斜め前の千奈も、隣の佑芽も、首を振った。
窓際の席で、美鈴だけがいつも通り眠そうに頬杖をついていた。
月曜日の放課後。
四音が鞄を手に教室を出ようとしたとき、窓際の席から声がした。
「白草さん」
美鈴だった。頬杖をついたまま四音を見ていた。
「いってらっしゃいませ」
それだけだった。
どこへ、とも、何をしに、とも聞かなかった。
四音は一瞬だけ足を止め、それから小さく会釈して、教室を出た。
極月学園の第二会議室は、四音が知っている極月のどの部屋よりも、冷たい匂いがした。
長机の片側に、学年主任と生活指導の教師、ダンス科の主任トレーナーが並んでいた。
反対側の壁際には、生徒が四人。噴水広場にいた三人と、もう一人。
去年の秋、四音がユニットから外させた子だった。名を、水無瀬結衣。
私ははっきりと覚えていた。
部屋の隅の椅子に、撫子が小さくなって座っていた。
目が合うと、撫子は慌てて俯いた。
プロデューサーは、四音の斜め後ろに立っていた。
ここに来るまでに、彼がしたことは多くなかった。
初星の学園長を通じて正式な面談を申し入れ、日曜の夜遅くに差出人のわからない一通のメッセージで届いた動画を確かめ、日付と時刻を一枚の紙にまとめた。それだけだ。
あとは、四音の番だった。
「初星学園の白草さん、でよろしいですね」
学年主任が、冷ややかに言った。
「本日は、藍井撫子さんに対する嫌がらせについての申し入れ、と伺っています。ただ、正直に申し上げて、当校としてはあなたからこういったお話を受けること自体に、いささか戸惑っております」
壁際の生徒たちが、くすりと笑った。
当然だ、と四音は思った。
不正が露見して追い出された人間が、何を偉そうに、と。
四音は、立ち上がった。
「そのお話の前に、1つ、私自身のことで申し上げなければならないことがあります」
部屋の視線が、四音に集まった。
「極月学園で学内掲示板に投稿された件、噂とされている部分も含め、すべて事実です」
空気が、わずかに揺れた。
「N.I.Aで他校の出場者の情報を流させたこと。初星学園のプロデューサーとアイドルの映像を編集し、スキャンダルに仕立てようとしたこと。去年、当校の生徒をユニットから外させるために、トレーナーの方へ事実と異なる相談をしたこと」
四音は、主任トレーナーのほうを向いた。
トレーナーの眉が、かすかに動いた。
「すべて、私がやりました。誰かに命じられたからではありません。私が、私のため、私の地位のためにそうしたかったからです」
それから、四音は壁際に体を向けた。
「水無瀬さん」
結衣の肩が、びくりと跳ねた。
「貴女がユニットを外されたのは、貴女の実力のせいではありません。私が、貴女を邪魔だと思ったからです。……申し訳ありませんでした」
四音は頭を下げた。
三度目だった。少しだけ、角度がわかるようになっていた。
顔を上げると、結衣は唇を噛んで四音を睨んでいた。目が赤かった。
「……今さら、何なんですか」
「今さらです。許していただけるとも思っていません」
「だったら、なんで……!」
「ですが、撫子は関係ありません」
四音は、まっすぐに結衣を見た。
「貴女が私を憎むのは、正しいと思います。私が受けるべきものを受けずに逃げたのも、事実です。でも、撫子は私ではありません」
四音は、プロデューサーから受け取った紙を、教師たちの前に置いた。
「昨日の日曜日、噴水広場で撫子のレッスンシューズが噴水に投げ込まれ、その様子が撮影されています。その動画が、こちらです。その前の週から、撫子の荷物への悪戯、私物の破損、呼び出し。ここにまとめてあります」
学年主任が紙を手に取った。
読み進めるうちに、その顔から冷ややかさが消えていった。
「撫子が受けているのは、私の残党としての扱いです。私の代わり、いじめる対象がいなくなった憂さ晴らしです」
四音の声が、ほんの少しだけ震えた。
四音はそれを止めなかった。
「私がしたことの責任は、私が取ります。処分でも何でも、極月の決めることに従います。ですから、撫子への仕打ちだけは、今日で終わらせてください。お願いします、彼女は何も悪くありません」
四度目の礼は、一番深かった。
会議室が、静まり返った。
しばらくして、学年主任が紙を置き、長く息を吐いた。
「……藍井さん。ここに書かれていることは、事実ですか」
撫子が、びくりと顔を上げた。
四音は振り返らなかった。
撫子が、また笑ってごまかそうとするかもしれない。
おっちょこちょいで、と。
何もありませんわ、と。
それでも、四音は振り返らなかった。
ここで撫子の代わりに答えてしまえば、それはまた、撫子に四音の真似をさせることになる。
「……じ、事実、ですわ」
小さな声だった。
「撫子は……撫子は、ずっと、嫌でした。毎日、嫌でしたわ……っ」
その一言で、部屋の空気が決まった。
学年主任が、壁際の生徒たちに向き直った。
生活指導の教師が立ち上がった。
三人のうち一人が、慌てて何か言い訳を始めた。
結衣だけが、黙って四音を見ていた。
睨むのでもなく、笑うのでもなく、ただ、見ていた。
面談が終わったのは、それから一時間後だった。
廊下に出ると、撫子が四音の制服の袖をつかんだ。
初星の制服の、まだ少し硬い袖を。
「お姉さま……」
「何です」
「撫子のために、あんなに、頭を……私だって...あのお話のことには関与して...」
「言ったはずです。私のためだと、私の道具としてあなたを利用した、それだけです」
「....そんな、撫子はそんな風には1度も...」
四音は前を向いたまま言った。
「私の不始末の、尻拭いです。姉様にそう言われましたから」
撫子は、ぐしゃりと顔を歪めて笑った。
今度は、ちゃんと泣きながら。
「……お姉さまは、やっぱり、嘘が下手ですわ」
四音は答えなかった。
ただ、袖をつかむ撫子の手を、振り払わなかった。
少し離れた廊下の先で、プロデューサーが待っていた。
四音と目が合うと、彼は小さく一度だけうなずいた。
それだけで、膝から力が抜けそうになるのを、四音はなんとかこらえた。
校舎を出る直前、昇降口の柱の陰に、見慣れた影があった。
「終わったみたいね」
賀陽燐羽だった。
腕を組んで、柱に背中を預けていた。
「……賀陽さん」
「あの動画、役に立った?」
四音は、足を止めた。
噴水の前で撫子が撮られていた動画。
プロデューサーのもとに、差出人のわからないまま届いたもの。
誰があれを送ったのか、四音は考えもしなかった。
振り返ると、プロデューサーが小さくうなずいた。
「あの三人から、回収しただけ。グループに流される前にね」
「……どうして」
「勘違いしないで。あなたのためじゃない」
燐羽は、四音の後ろの撫子に、ちらりと目をやった。
「藍井が毎日びしょ濡れで校舎をうろうろしてるの、見てて気分が悪かっただけ」
撫子が「ぴ、ぴぎゃ……賀陽さん……」と小さく声を漏らした。
燐羽は柱から背中を離し、昇降口の外へ歩き出した。
「白草四音。私はっきり言ってあなたのことは嫌いよ。こんなこと例外も例外なんだから...次は、自分の尻くらい、自分で拭きなさいよ」
「ええ。……ありがとうございます、賀陽さん」
燐羽の足が、ぴたりと止まった。
「……やめて。そういうの、慣れてないの」
振り返らずにそう言って、燐羽は足早に去っていった。
その耳の先が、ほんの少し赤かったように見えたのは、夕陽のせいかもしれなかった。
極月から戻った翌日の放課後。
四音は、プロデューサー科の準備室で、一枚の紙を前に座っていた。
紙には、三つの名前が書いてあった。四音自身の字で。
倉本千奈。
姫崎莉波。
紫雲清夏。
N.I.Aで、四音が初星で踏みにじった人たち。
「全員に、会いに行くつもりですか」
向かいの席で、プロデューサーが聞いた。
「ええ」
四音は、紙を畳んだ。
「撫子のために極月で頭を下げて、わかったんです。誰かに謝るのは、自分が楽になるためではないと。千奈さんの時、私は自分を責めることで、謝った気になっていました。あれは、ただの逃げでした」
プロデューサーは、何も言わずにうなずいた。
「一人で行きます」
「はい。待っています」
中庭の奥の、藤棚の下のベンチ。
千奈と莉波が、並んで座っていた。
千奈が何かを一生懸命に話していて、莉波がそれを、うんうんと笑いながら聞いていた。
四音が近づくと、千奈の言葉がぴたりと止まった。
「し、白草さん……」
「お二人に、お話があります。少しだけ、お時間をいただけますか」
莉波が、千奈と顔を見合わせた。
それから、ベンチの端に少し詰めた。
「どうぞ。座る?」
「いえ。立ったままで」
四音は、二人の前に立った。
一週間前の中庭で、千奈の前に立ったときとは、何かが違っていた。
膝は震えていなかった。
かといって、作った笑みもなかった。
「倉本さん」
「は、はいっ」
「N.I.Aの時、私は撫子と一緒に、貴女を嘲りました。貴女が大事にしているものを、わざと踏みにじろうとしました。貴女が弱そうに見えたから。それだけの理由で」
千奈の肩が、小さくこわばった。
「この前、中庭で謝ったとき、私は自分を罵ることで、謝ったつもりになっていました。貴女に、そういう謝り方は嫌だと言われて、ずっと考えていました」
四音は、深く頭を下げた。
床に額がつくほどではなかった。
角度を、もう知っていた。
「ひどいことをして、ごめんなさい。それと、毎日こんな私なんかを気にかけてくださって、ありがとうございました」
長い沈黙だった。
やがて、頭の上から、少し震えた声がした。
「……今度は、ちゃんとした謝り方ですわね」
四音が顔を上げると、千奈は目を潤ませながら、それでも精一杯に胸を張っていた。
「わ、わたくし、まだ許したとは申しませんわ。でも……今の白草さんの謝り方なら、受け取って差し上げても、よろしくてよ」
「……ありがとうございます」
四音は、それから莉波のほうを向いた。
「姫崎さん」
「うん」
「貴女とプロデューサーさんの映像を切り貼りして、ありもしないスキャンダルに仕立てようとしました。貴女のアイドルとしての人生を、終わらせようとしました」
莉波は、何も言わずに四音を見ていた。
「あの時、私は、貴女の『お姉さん』でいようとする姿が、ひどく目障りでした。私の知っている姉は、隣に座ってくれる人ではなかったから。貴女を見ていると、それが嘘のように思えて、壊したくなったんです」
四音は、もう一度頭を下げた。
「八つ当たりでした。申し訳ありませんでした。それと、あの日、紅茶をくださってありがとうございました。今まで飲んだどの紅茶より、甘かったです」
莉波は、しばらく黙っていた。
それから、ベンチから立ち上がって、四音の前に立った。
「顔、上げて」
四音が顔を上げると、莉波は少しだけ困ったように笑っていた。
「正直に言うね。許すのは、もうちょっと先かな。あの時、本当に怖かったし、悔しかったから」
「……はい」
「でも」
莉波は、四音の頭に、そっと手を置いた。
「今の四音ちゃんは、けっこう好きだよ。お姉さん、そういうの、ちゃんと見てるから」
四音は、何も言えなかった。
頭に置かれた手の重さが、ひどく不思議だった。
隣で、千奈が「り、莉波さんだけずるいですわ!」と立ち上がり、
何をどうしていいかわからないまま、四音の袖の端を、ちょこんとつまんだ。
四音は、少しだけ笑った。今度は、うまく笑えた気がした。
1年1組の教室は、放課後になってもまだ何人かが残っていた。
窓際の席で、清夏がリーリヤとスマートフォンの画面を覗き込んで笑っていた。
四音が扉のところに立つと、リーリヤが先に気づいた。笑顔が、すっと消えた。
「……何の用ですか」
リーリヤは、清夏の前に立った。この前と同じように。
「紫雲さんと、葛城さんに、お話があります」
「清夏ちゃんに近づかないでくださいって、言いましたよね」
「わかっています。ですから、ここから話します」
四音は、扉の前から動かなかった。
教室に残っていた何人かが、ひそひそと顔を見合わせた。
「紫雲さん」
清夏が、リーリヤの肩越しに四音を見た。
いつもの笑顔は、なかった。
「N.I.Aの時、貴女の悪い噂を流したのは、私です。貴女を初星で孤立させて、極月に引き抜くために。貴女がどれだけ苦しむか、わかっていてやりました」
教室の空気が、ざわりと揺れた。
「あの噂は、全部嘘です。ここにいる皆さんにも、私が流布したすべての人に聞いておいてほしいと思っています」
四音は、教室の中の生徒たちにも向けて、はっきりと言った。
それから、清夏に向き直り、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
顔を上げずに、続けた。
「それと、葛城さん。貴女の一番大切な人を、私は傷つけました。貴女が怒るのは、当然です。許してほしいとは言いません」
返事は、しばらくなかった。
やがて、清夏の声がした。いつもの軽い声ではなかった。
「……四音ちゃん。顔、上げてよ」
四音が顔を上げると、清夏は、リーリヤの後ろから一歩前に出ていた。
「この前、そんなに気にしてないって言ったじゃん。たぶんね、って」
「……はい」
「あれ、嘘」
清夏は、少しだけ笑った。泣きそうな笑い方だった。
「ほんとはね、めっちゃ怖かった。みんなに避けられて、膝のこと思い出して、もうアイドルなんかやめたほうがいいのかなって、本気で思った。リーリヤがいなかったら、たぶん、ほんとにやめてた」
リーリヤが、清夏の手をぎゅっと握った。
「だから、すぐには許せない。ごめんね」
「……謝るのは、私のほうです」
「うん。知ってる」
清夏は、ふう、と息を吐いた。それから、リーリヤの手を握り返した。
「でも、こうやって、ちゃんとみんなの前で嘘だって言ってくれたのは、ちょっとだけ、嬉しかったかも」
リーリヤは、清夏の横顔を見て、それから四音を見た。
まだ、固い目だった。けれど、さっきまでの拒絶の色は、少しだけ薄れていた。
「……わたしは、まだ白草さんのこと、信じられません」
「はい」
「だから、見てます。これから白草さんが、どうするのか」
四音は、もう一度、静かに頭を下げた。
「見ていてください」
教室を出て、廊下の角を曲がったところで、四音は壁に手をついた。
膝が、今になって震えていた。
息が、少し浅かった。
それでも、胸の奥は、不思議と軽かった。
全部が許されたわけではない。
きっと、これからも許されないことはある。
それでも、三つの名前に、ちゃんと向き合えた。
ポケットの中で、端末が震えた。
『お疲れさまでした。準備室で、待っています』
プロデューサーからだった。
四音は、壁から手を離した。
それから、ゆっくりと歩き出した。
準備室の扉を開けると、ふわりと甘い匂いがした。
机の上に、湯気の立つ紙コップが一つ置かれていた。
プロデューサーは、窓際でポットを片づけているところだった。
「おかえりなさい」
「……何です、これは」
「紅茶です。甘いほうの」
四音は、紙コップを見下ろした。
「どうして、私が甘いほうを好むと」
「最近、自販機でそちらばかり買っていたので」
当たり前のように言われて、四音は言葉に詰まった。
「座ってください。立ったままだと、また膝が震えますよ」
「……震えてなど、いません」
そう言いながら、四音は椅子に腰を下ろした。
座った途端、自分の脚が本当にまだ震えていたことに気づいた。
紙コップを両手で包む。
指先が、思っていたより冷たかった。
紅茶の温かさが、じんわりと染みてきた。
プロデューサーは、向かいの席に座った。
どうでしたか、とは聞かなかった。
ただ、四音が紅茶を一口飲むのを、黙って待っていた。
「……全員に、会ってきました」
しばらくして、四音のほうから口を開いた。
「千奈さんには、今度はちゃんとした謝り方だと言われました。姫崎さんには、許すのはもう少し先だと。紫雲さんには、すぐには許せないと言われて、葛城さんには、まだ信じられないと」
「そうですか」
「誰も、許してはくれませんでした」
四音は、紅茶の水面を見つめた。
「当然です。私がしたことを思えば。わかっています。わかっているのに」
声が、少しだけ揺れた。
「……少しだけ、疲れました」
言ってから、四音は自分で驚いた。誰かの前で、疲れたと口にしたのは、初めてだった。
プロデューサーは、すぐには何も言わなかった。
それから、静かに言った。
「よく頑張りましたね」
四音は、顔を上げた。
「……頑張った、ですか。私は、自分がしたことの後始末をしただけです。褒められるようなことでは」
「それでも、です」
プロデューサーは、まっすぐに四音を見ていた。
「許してもらえないとわかっている相手に、自分から会いに行くのは、簡単なことじゃありません。三人分です。疲れて当然です」
四音は、紙コップを握る手に、少しだけ力を込めた。
褒められたことなら、何度もある。
歌が上手い、ダンスが綺麗、ビジュアルが完璧。
極月では、それが四音の価値のすべてだった。
けれど、こんなふうに言われたことは、なかった。
何かを上手くやったからではなく、ただ、頑張ったから、と。
「今日は、もうレッスンはやめておきましょう」
「……ですが、学内公演まで、あまり日が」
「一日休んだくらいで、あなたの歌は消えません」
プロデューサーは、少しだけ表情を和らげた。
「それに、今のあなたが無理をして歌っても、たぶん、楽しくないと思うので」
四音は、何か言い返そうとした。
いつものように、余計なお世話です、とか。
けれど、言葉は出てこなかった。
代わりに、紙コップの紅茶を、もう一口飲んだ。
甘かった。
「……プロデューサーさん」
「はい」
「無理に、笑わなくてもいいですか。今日は」
プロデューサーは、少しだけ驚いたような顔をした。それから、静かにうなずいた。
「はい。ここでは、いつでも」
四音は、紙コップを両手で包んだまま、窓の外を見た。
夕陽が、準備室の床に長い影を落としていた。
何も話さない時間が、しばらく続いた。それが、ひどく心地よかった。