『お姉さま! 本日は水無瀬さんに、レッスン室の予約を譲っていただきましたの! 撫子、ちょっとだけ泣いてしまいましたわ♡』
感嘆符の数は、前より少しだけ少なかった。
それでいいと、四音は思った。
今の撫子の言葉には、無理に貼りつけたような明るさがなかった。
四音は短く返した。
『よかったですね』
すぐに既読がつき、大量のハートが返ってきた。
初星の学内公演まで、あと二週間だった。
プロデューサーが押さえてくれたのは、新入生と転入生のための小さな枠だった。
持ち時間は一曲分。
その一曲が、決まらなかった。
「極月の曲は使えません。あれは、私のものではありませんから」
夜のレッスン室で、四音は床に座り込んだまま言った。
「かといって、新しい曲を作ろうにも、何を歌えばいいのかわからないんです。私には、人に聴かせたいものなんて、何も―」
言いかけたとき、部屋の隅のピアノから、短い旋律が流れた。
四音は、顔を上げた。
プロデューサーが、ピアノの前に座っていた。
人差し指一本で、たどたどしく鍵盤を押している。
初めてこの部屋で会った夜、四音が無意識に口ずさんでいた、あの節。
「……どうして、それを」
プロデューサーは答えずに、もう一度弾いた。
その先の、四音が知らなかったはずの続きまで。
その瞬間、四音の目の前に、ある景色が開いた。
夕暮れの公園。錆びたブランコ。ジャングルジムのてっぺんで、ぶかぶかのスカートを履いた小さな女の子が、両手を広げて歌っている。誰に教わったわけでもない、自分で作った、でたらめな歌を。
ジャングルジムの下に、少年が一人座っていた。毎日、毎日、同じ場所に。
『ねえ、もっと聴かせて』
『いいよ! でもボク、明日からおけいこで来られないかもしれないの』
『じゃあ、待ってる。俺、待つのは得意だから』
―ああ。
四音は、自分の口元を手で覆った。
「……貴方、だったんですか」
ピアノの音が止んだ。
「あの公園で、毎日、私の歌を聴いていた……」
「はい」
プロデューサーは、鍵盤から手を下ろした。
「あの頃のあなたは、ただ、歌うのが楽しそうでした。それをずっと覚えていました」
「どうして、言わなかったんです」
「あなたが自分で思い出すほうがいいと思ったので」
四音は、何か言い返そうとした。
ずるい、とか、趣味が悪い、とか。いつもの言葉が、いくらでも浮かんだ。
けれど、出てきたのは別の言葉だった。
「……待っていて、くれたんですね」
「待つのは得意なので」
四音は、笑った。笑いながら、頬を何かが伝っていくのがわかった。拭わなかった。
「では、この歌にします」
四音は立ち上がり、ピアノの横に立った。
「あの頃の、でたらめな歌です。でも、私が自分で作った、私だけの歌ですから」
二週間後。
初星学園の講堂は、思っていたよりもずっと多くの人で埋まっていた。
最前列に、撫子がいた。
手作りの、少し曲がった文字の横断幕を掲げて。『四音お姉さま』の文字の横に、小さく『撫子より』と書いてある。
隣では、付き添いで来た水無瀬結衣が、横断幕の端を持たされて、居心地悪そうにしていた。
その少し後ろの列に、1年2組の面々が並んでいた。佑芽が身を乗り出して「白草さーん!」と手を振り、美鈴が「佑芽さん、まだ始まっていませんよ」とその袖を引いていた。
広は、いつものように表情を変えずに、ステージをじっと観察していた。
その少し後ろに、千奈と莉波が並んで座っていた。
千奈は落ち着かない様子で膝の上の手を握りしめ、莉波はその背中をそっとさすっていた。
通路を挟んだ向こうには、1年1組の席があった。
咲季は腕を組み、佑芽がはしゃぐ様子を横目で見ていた。
その端の席に、清夏とリーリヤがいた。
清夏は少しそわそわと、リーリヤはまっすぐに、ステージを見つめていた。
見てます、と言った、あの目のままで。
そして、講堂の一番後ろ、照明の届かない壁際に、一人の女性が立っていた。
つばの広い帽子を目深にかぶり、誰とも目を合わせずに。
その反対側の出入口の陰にも、もう一つ、人影があった。
極月の制服の上に、目立たない色のパーカーを羽織って。
四音は、どちらにも気づかなかった。
舞台袖で、四音は深く息を吸った。
「白草さん」
プロデューサーが、隣に立っていた。
「誰に見せたいのか、わかりましたか」
初めて会った夜に、言われた言葉だった。
四音は、少しだけ考えて、答えた。
「……わかりません。でも、今日は、誰も蹴落とさずに歌ってみます、私自身の力で」
「十分です」
照明が落ちた。四音は、ステージの中央へ歩いていった。
スポットライトが灯る。客席の暗がりが、海のように広がっている。
前奏が流れる。
あの公園の、でたらめな旋律に、プロデューサーと二人で二週間かけて形を与えた曲。
四音は、歌い出した。
あの頃の純粋な歌への思いをそのまま載せた。
評価も、周りの目も気にしていなかったあの頃と同じように、
自分の楽しいと思うことを思うがまま歌った。
声が、講堂に広がっていった。
完璧ではなかった。
極月で磨いた歌い方とは、まるで違った。
高音で少し声が揺れ、二番の入りでほんのわずかに走った。
けれど、四音は笑っていた。
作った笑みではなかった。
歌うのが楽しいと、ただそれだけで笑っていた。十年ぶりに。
最前列で、撫子が横断幕を握りしめたまま泣いていた。
千奈も泣いていた。莉波は目を細めていた。
佑芽は口を開けたまま見入り、美鈴は小さく微笑み、広は珍しく、ほんの少しだけ目を見開いていた。
手毬は、最初こそ腕を組んで背もたれに寄りかかっていた。
けれど、サビに入ったところで、いつの間にか身を乗り出していた。組んでいたはずの腕はほどけ、両手が膝の上で強く握られていた。歌のことになると、手毬は嘘がつけなかった。隣のことねが、その横顔をちらりと見て、小さく肩をすくめた。
最後の一音が消えた。
一拍の沈黙のあと、拍手が起きた。大きくはなかった。
けれど、四音が今まで受けてきたどんな拍手とも違う音がした。
客席の端で、清夏が小さく手を叩いていた。
その隣で、リーリヤが、ほんの少しだけ遅れて、手を叩き始めた。
四音は、深く頭を下げた。
誰かに謝るためではなく、ありがとう、と伝えるために。
顔を上げたとき、講堂の一番後ろの壁際には、もう誰もいなかった。
反対側の出入口の陰にも、もう人影はなかった。
初星の学内公演から、三か月が過ぎた。
四音は今も、1年2組の廊下側のいちばん後ろの席に座っている。
昼休みには、佑芽が毎日のようにパンを抱えてやってくるようになった。
あの公演以降、佑芽は私を真の意味で強者と認めたのか、頑なに勝負する姿勢を崩さなくなった。
「今日こそ勝負しよう!」と言われ続けて3か月、四音はまだ一度も受けていない。
そのたびに佑芽は「じゃあ明日ね!」と、まったくめげずに隣の椅子を引いた。
千奈は、斜め前の席から、ときどき振り返るようになった。
「た、たまたま振り返っただけですわ」と言いながら。
美鈴は相変わらず窓際で眠そうにしていたが、心なしか表情が穏やかだった。
夜のレッスン室では、広が床に転がっていない日のほうが珍しかった。
1年1組とは、まだ少し距離があった。
咲季は廊下ですれ違うたびに、四音を値踏みするように見てきた。
手毬は口をきいてくれないが、学内公演の後から、睨む回数は少しだけ減った。
清夏は「四音ちゃん、おつ〜」と手を振ってくれるようになり、その隣のリーリヤは、まだ黙ってこちらを見ているだけだった。
それでも、四音は一人ではなかった。
その日の放課後、プロデューサー科の準備室の机には、一枚の申込用紙が置かれていた。
『N.I.A 本年度エントリー用紙』
四音は、その文字をしばらく見つめていた。
「……本気で、私にこれに出ろと」
「はい」
プロデューサーは、いつも通りの顔で答えた。
「出場資格は満たしています。持ち歌も、今は一曲あります」
「そういう問題ではありません」
四音は用紙から目を逸らした。
「N.I.Aは、私が一番汚いことをした場所です。他校の出場者の情報を流して、初星の皆さんを罵倒して、陥れようとした。あの会場に、どの面を下げてー」
「だからです」
プロデューサーは、用紙を四音のほうへ少しだけ押した。
「同じ場所で、違うやり方をしてみせる。それが唯一、あなたへの目が変わるチャンスです」
四音は唇を噛んだ。ずるい言い方だった。
いつもそうだ。この人は、四音が一番断れない理由を、一番静かな声で差し出してくる。
「……落ちたら、どうするんです。前回の優勝候補が、予選で消えたら。笑い者ですよ」
「その時は、その時です」
「無責任な」
「だめなら来年また挑戦しましょう。待つのは得意なので。何度でも応援します」
四音は、深く息を吐いた。
それから、机の上のペンを取った。
名前の欄に、一画ずつ、丁寧に書いた。
白草四音。所属、初星学園。
担当プロデューサーの欄は、空けておいた。
そこは、この人に書いてもらうものだから。
用紙を返すと、プロデューサーは担当欄に自分の名前を書き入れ、それから、少し迷うように手を止めた。
「白草さん。ひとつ、伝えておくことがあります」
「何です、改まって」
「今年の極月の出場者名簿が、昨日公開されました」
プロデューサーは、端末の画面を四音に向けた。
極月学園の名前が並んでいた。
一覧の一番上に、見慣れた名前があった。
『賀陽燐羽 極月学園 Aランク』
四音は、小さく息を呑んだ。
あの人も出るのだ。
手毬と美鈴が、客席にいるかもしれない舞台に。
知っている名前もあれば、知らない名前もあった。
かつて四音の取り巻きだった生徒。
四音がユニットから外させた水無瀬結衣の名前は、そこにはなかった。
そして、一覧の真ん中あたりに。
『藍井撫子 極月学園 Bランク』
四音は、画面を見つめたまま動けなかった。
「……あの子、何も言っていませんでした」
毎朝七時に届くメッセージ。
昨日も、今朝も、変わらず届いていた。
マカロンの話と、レッスンの話と、水無瀬さんと少しだけ話せた話。N.I.Aの「N」の字も、そこにはなかった。
「申込みは、先週だったようです」
「先週……」
四音は自分の端末を取り出し、撫子とのトーク画面を開いた。
先週の撫子のメッセージを遡る。
『お姉さま! 撫子、本日は少しだけ大切なことを決めましたの。でも、まだ内緒ですわ♡』
あの時、四音はただ『そうですか』とだけ返していた。
「……内緒、ね」
思わず、笑ってしまった。
悔しいような、誇らしいような、自分でもよくわからない笑い方だった。
あの子が、四音に黙って何かを決めた。
四音の後ろについて回るのではなく、四音の顔色をうかがうのでもなく、自分一人で。
端末を握りしめたまま、四音は名簿をもう一度見た。撫子の名前の、少し下。
そこに並んでいたのは、あの日、噴水広場で撫子の靴を投げ込んだ三人のうちの、二人の名前だった。
謹慎が明けて、まだ三か月も経っていないはずだった。
四音の指先が、すっと冷えた。
「……プロデューサーさん」
「はい」
「この大会、別の意味でも少し気を張らないといけないかもしれません」
プロデューサーは、何も言わずにうなずいた。
窓の外では、夕陽が初星の校舎を赤く染めていた。
四音は、その色を見ながら思った。三か月前の極月の夕陽と、同じ色だ、と。
違うのは、今の自分が、一人ではないということだけだった。
N.I.A予選の出場者説明会は、都内のホールの大会議室で行われた。
百を超える出場者と、そのプロデューサーたちで部屋は埋まっていた。
四音が足を踏み入れた瞬間、近くの何人かが振り向き、ひそひそと声を交わした。
「あれ、白草四音じゃない?」
「極月の……よく出れるよね、何様?」
「...初星に移ったって本当だったんだ」
四音は、背筋を伸ばして歩いた。
作った笑みは浮かべなかった。
かといって、俯きもしなかった。ただ、前を見て歩いた。
初星の出場者の席には、千奈と莉波が座っていた。
千奈は四音に気づくと、ぎこちなく小さく手を振った。
莉波は、隣の空いた椅子をぽんぽんと叩いた。
四音は、少しだけ迷ってから、そこに座った。
プロデューサーが一歩後ろに立っていた。
それだけで、足元が少しだけ確かになる気がした。
説明会が終わり、出場者たちが三々五々に散り始めたときだった。
「お待ちになって」
背後から、聞き慣れた声がした。
けれど、聞き慣れた声とは、どこかが違っていた。
甲高くもなく、得意げでもなく。
四音は振り返った。藍井撫子が、立っていた。
ピンクの髪を、いつもより低い位置できっちりと結んでいた。
極月の制服の袖は、まっすぐにアイロンがかかっていた。
隣には、見覚えのある顔があった。
水無瀬結衣。出場者用のパスではなく、付き添い用のパスを首から下げていた。
「……撫子」
「ごきげんよう」
撫子は、優雅に一礼した。
四音が昔、撫子に「みっともない」と言って直させた、あの角度で。
「エントリーのこと、黙っていて申し訳ありませんでしたわ。お姉さまにお伝えしたら、きっと撫子は甘えてしまうと思いましたの」
「甘える?」
「ええ。お姉さまの後ろにつけば、楽ですもの。お姉さまのやり方を真似していれば、迷わずに済みますもの」
撫子は、まっすぐに四音を見上げた。
その目には、もう四音の顔色をうかがう色はなかった。
「でも撫子、噴水の前で、お姉さまに教えていただきましたの。お姉さまの真似をしていたら、撫子は撫子のまま、ずっと笑ってごまかすしかないのだと」
四音は、何も言えなかった。
「ですから撫子は、決めましたの」
撫子は、すうっと息を吸った。そして、四音の目の前で、はっきりと言った。
「白草四音」
四音の肩が、かすかに揺れた。
撫子が、四音の名前をフルネームで呼んだのは、初めてだった。
撫子がフルネームで呼ぶのは、いつだって、本気で勝ちたいと思った相手だけだった。
有村麻央、倉本千奈、姫崎莉波。
「撫子は、このN.I.Aで、貴女に勝ちますわ。お姉さまのやり方ではなく、撫子のやり方で。お父様のお金も、家のコネも使わずに」
隣で、結衣が小さく付け加えた。
「……この3か月、撫子をみっちりと育て上げました。あなたへの恨みは撫子さんで晴らさせてもらいます」
「水瀬さん...」
「ふふっ、私、こっちの道も行けるみたいです」
そういって見せられた名刺には「水瀬 担当:藍井撫子」と確かに書かれていた。
まさかこういった形で彼女も立ちはだかるなんて。
罪に対して謝ってばかりだった私は少しうれしかった。
「……撫子」
「は、はいっ」
「貴女、私に勝つと言いましたね」
「い、言いましたわ!」
「私は、手加減を知りませんよ」
撫子の目が、ぱっと輝いた。
「望むところですわ!」
「それと」
四音は、少しだけ口元を緩めた。
「その礼の角度。三か月前より、ずっと綺麗です」
撫子は、一瞬きょとんとして、それから耳まで真っ赤になった。
「お、お、お姉さまっ……! そういうことは、勝負の前におっしゃらないでくださいませ! 撫子、調子が狂いますわ……っ!」
「先に呼び方を戻したのは、そちらでしょう」
「ぴ、ぴぎゃあ……っ」
撫子は結衣の腕を引っ張り、逃げるように去っていった。
去り際に一度だけ振り返り、べーっと舌を出した。
四音は、その背中を見送った。
「いいライバルですね」
プロデューサーが、静かに言った。
「……ええ」
四音は、少しだけ笑った。
「あの子に負けるわけには、いきませんね」
会議室を出たところの廊下で、壁に寄りかかっている人影があった。
賀陽燐羽だった。出場者用のパスを、面倒くさそうに指先で回していた。
「……賀陽さん」
「藍井、強くなったわよ」
燐羽は、四音のほうを見ずに言った。
「水無瀬と二人で、毎晩レッスン室の鍵を借りに来るの。うるさくて、こっちの練習にならない」
「……そうですか」
「白草四音」
燐羽が、ようやく四音を見た。
「あなたが負けても、私は別に構わないけど。藍井をがっかりさせたら、許さないから、それはあなたが陥れた水瀬への冒涜になること、心に刻み込むことね」
四音は、少しだけ目を見開いた。
それから、静かにうなずいた。
「言われなくても」
燐羽は、ふん、と鼻を鳴らして歩き出した。
数歩進んだところで、立ち止まる。
「……手毬、今年も見に来るの」
「おそらく。初星の応援席に」
燐羽は、何も言わなかった。
ただ、パスを回していた指が、ほんの一瞬だけ止まった。
それから、また歩き出した。
その時、廊下の向こうの出口の近くで、二人の極月の生徒がこちらを見ていた。
撫子の名前の下に並んでいた、あの二人だった。
一人が、四音と目が合うと、口の端だけで笑った。
四音は、目を逸らさなかった。
けれど、背中を冷たいものが伝っていくのを、どうしても止められなかった。
予選当日の朝。会場へ向かう電車の中で、四音の端末が立て続けに震えた。
『白草さん、がんばれー!!私に負ける前に負けないでよ!!』
佑芽だった。続けて、短い一行が届いた。
『きつくても、楽しんで』
広からだった。
『燐ちゃんによろしくお願いします』
そういって、和菓子の画像とともに送られてきた。
誰からなのかは、聞くまでもなかった。
四音は、画面を伏せずに、しばらく眺めていた。
出場者控室は、大部屋をパーティションで区切っただけの簡素な場所だった。
初星の出場者用の区画は、偶然なのか誰かの采配なのか、極月の区画のすぐ隣だった。
区画の境目を通り過ぎるとき、極月側の奥に、賀陽燐羽の姿が見えた。
壁にもたれて、イヤホンを片耳にだけ差していた。
その目が、四音ではなく、少し離れたところで固まって話している二人の極月の生徒に向いていた。
撫子の名前の下に並んでいた、あの二人だった。
燐羽は、四音に気づくと、何も言わずに視線を外した。
プロデューサーは、出番順の最終確認のために運営本部へ呼ばれていた。
四音は一人で、衣装ケースの留め金を外した。
中を見て、手が止まった。
衣装の胸元のリボンが、根元から切られていた。
ひとつではなかった。スカートの裾の縫い目も、内側から数センチずつ、目立たないように糸が抜かれていた。
このまま踊れば、ターンの途中でほどける。
―知っている。このやり方を、知っている。
前回のN.I.Aで、他校の出場者の衣装に同じことをさせたのは、四音自身だった。
「あれぇ、白草さん。どうかしたぁ?」
パーティションの陰から、声がした。
あの二人だった。背の高いほうが、わざとらしく首を傾げている。
髪の短いほうは、端末を胸の前に構えていた。画面がこちらを向いていた。
「衣装、ほつれてるじゃん。かわいそー」
「でもさ、白草さんなら平気でしょ? 前回、他の子にも同じことしてたんだし。自分がやられたら文句言うの、ずるくない?」
四音は、衣装を見下ろしたまま動けなかった。
言い返す言葉は、いくらでもあった。
運営に報告すると言えばいい。
録画を止めろと言えばいい。
けれど、喉から何も出てこなかった。
二人の言うことは、間違っていなかったからだ。
―私がやったことだ。私が、教えたことだ。
「ねえ、なんか言いなよ。元Aランク様」
「ほら、いつもの怖い笑顔は? 撮ってあげるからさぁ」
背の高いほうが、一歩近づいた。
四音の衣装ケースの縁に、指をかける。
四音は、俯いた。
中庭で千奈の前でそうしたように。
自分を削って、削って、なくなってしまえばいいと思ったときのように。
これは報いなのだと、受けて当然なのだと、四音の中の何かが囁いていた。
「―おやめなさいっ!!」
小さな体が、四音と二人の間に割り込んできた。倉本千奈だった。
両手を大きく広げて、真っ赤な顔で、膝をがくがく震わせながら、それでも一歩も引かずに立っていた。
「な、何なの、このチビ」
「チビではありませんわ! 倉本千奈ですわ!」
千奈は、ほとんど悲鳴のような声で叫んだ。
「人の衣装に細工をするなんて、恥を知りなさいっ!出場者として、いいえ、人として、許されることではありませんわ!」
「はあ? あんた、こいつに何されたか忘れたの? 前回、一番いじめられてたの、あんたじゃん」
その言葉に、千奈の肩が大きく跳ねた。
四音は顔を上げた。
千奈の背中が、目の前にあった。
小さな背中が、ひどく震えていた。
「……忘れてなど、いませんわ」
千奈の声が、細くなった。
それでも、千奈は腕を下ろさなかった。
「わたくしは、まだ白草さんを許したわけではありません。でも……でも、それとこれとは、別ですの……っ!」
「何それ、意味わかんな―」
「はい、そこまで」
柔らかい声が、背の高いほうの手首に、そっと重なった。
姫崎莉波が、いつの間にか二人の横に立っていた。
にこにこと微笑んだまま、背の高いほうの指を、四音の衣装ケースから一本ずつ外していく。
「お、お前、初星の……」
「うん、初星の姫崎莉波です。そっちの子が今持ってる端末、録画中みたいだね」
莉波は、髪の短いほうに向かって、変わらない笑顔で言った。
「その動画、運営さんにも見てもらおっか。衣装に細工した人が誰なのか、ちゃんと映ってるといいね」
髪の短いほうの顔から、さっと血の気が引いた。慌てて端末を下ろし、画面を伏せる。
「べ、別に、うちらがやったなんて証拠……」
「うん、だから今から確認しに行こうと思って。一緒に来る? それとも、お姉さんが一人で行ったほうがいいかな」
二人は顔を見合わせた。
それから、何か捨て台詞のようなものを口の中でもごもごと言い、足早にパーティションの向こうへ消えていった。
静けさが戻った。
千奈が、その場にへなへなとしゃがみ込んだ。
「こ、こここ、怖かったですわ……っ」
「うん、よく頑張ったね、千奈ちゃん。かっこよかったよ」
莉波が千奈の頭を撫でる。
千奈は半泣きで「わ、わたくしは倉本千奈ですもの、当然ですわ……っ」と鼻をすすった。
四音は、その二人を見ていた。
衣装ケースの縁を握ったまま、立ち尽くしていた。
何が起きたのか、わからなかった。
いや、わかっている。目の前で起きたことは、全部見ていた。
千奈が割り込んできた。
莉波が二人を追い払った。
四音は、守られた。
ーわからないのは、その理由だった。
前回のN.I.Aで、四音はこの二人に何をした。
千奈を嘲った。莉波を陥れようとした。
清算の日に、二人とも「まだ許したわけではない」と言った。
その二人が、今、四音のために震え、四音のために前に立った。
「……どうして」
声が、かすれていた。
千奈と莉波が、同時に振り向いた。
「どうして、私なんかを」
四音の問いに、千奈はきょとんとした顔をした。
莉波は、少しだけ困ったように眉を下げた。
「私が前回、貴女たちに何をしたか、覚えているでしょう」
四音は、衣装ケースの縁を握りしめたまま言った。
「倉本さんを嘲って、怯えさせて。姫崎さんには、ありもしないスキャンダルを仕立てようとした。今あの二人がやったことは、全部、私が先にやったことです。私がされて当然のことなんです」
声が、だんだん速くなっていった。
止められなかった。
「ですから、貴女たちが私を庇う理由なんて、どこにもないはずです。放っておけばよかった。いい気味だと笑えばよかった。そのほうが、ずっと、筋が通って―」
「筋なんて、知りませんわ」
千奈が、しゃがみ込んだまま言った。
四音は言葉を詰まらせた。
「わたくし、難しいことはよくわかりませんの。ただ、さっき白草さんが俯いたとき、あの時と同じ顔をしていましたわ。中庭で、ご自分のことを嫌いだとおっしゃった時と」
千奈は立ち上がり、スカートの埃を払った。
まだ膝は少し震えていた。
「わたくし、あの顔が嫌いですの。だから、勝手に体が動いてしまっただけですわ。白草さんのためでは、ありませんのよ」
最後の一言は、わかりやすく目を泳がせながらだった。
四音は、何も言い返せなかった。
莉波が、四音の衣装ケースを覗き込んだ。
切られたリボンと、抜かれた縫い目を、指先でそっと確かめる。
「うん、これなら直せるね。出番まで、まだ四十分あるでしょ?」
「え……」
「お姉さん、お裁縫はけっこう得意なんだ。」
莉波は、自分の荷物から小さなソーイングセットを取り出した。
「それにね、四音ちゃん。藤棚の下で、ちゃんと謝りに来てくれたでしょ。許すのはもうちょっと先って言ったけど、あの日の四音ちゃんのこと、お姉さん、ちゃんと覚えてるから」
四音は、何も言えなかった。
「リボンは……ちょっと足りないかな」
「でしたら」
千奈が、自分の衣装ケースを開けた。中から、予備のリボンを取り出す。
淡い水色の、四音の衣装の色とはまるで違うリボン。
「わたくしの予備ですわ。色は合いませんけれど、ないよりましですわ」
「……受け取れません」
四音は、首を振った。
「それは貴女の予備でしょう。貴女の出番に何かあったら、どうするんです。私のせいで、貴女が困るようなことは、もう―」
「白草さん」
莉波が、手を止めて四音を見た。
「前に言ったよね。理由がないと、優しくしちゃだめなのかなって」
四音は、黙った。
「きみはね、たぶん、何かをもらったら何かを返さなきゃいけないって、ずっと思ってるんだと思う。返せないものは、受け取っちゃいけないって」
莉波は、針に糸を通しながら言った。
「でも、受け取るのも、けっこう大事なことなんだよ。千奈ちゃんは、きみに受け取ってほしくて、そのリボンを出したんだから」
千奈が、真っ赤な顔でリボンを差し出したまま、ぷるぷると腕を震わせていた。
「は、早く受け取ってくださいまし! 腕が疲れますわ!」
四音は、そのリボンを見つめた。
受け取り方が、わからなかった。
お礼の言い方も、わからなかった。
この胸の奥で渦巻いているものを、何と呼べばいいのかも、わからなかった。
けれど、四音の手は、気づけばリボンに伸びていた。
指先が触れた。柔らかかった。
千奈の手の熱が、まだ少し残っていた。
「……ありがとう、ございます」
言い慣れない言葉は、ひどくぎこちなく出てきた。
千奈は「と、当然ですわ!」とそっぽを向き、莉波は「どういたしまして」と笑って、裾の縫い目に針を入れ始めた。
四音は、パイプ椅子に腰を下ろした。
莉波が衣装を直していく手元を、ただ黙って見ていた。
誰かに何かを直してもらうのは、いつ以来だろう。
思い出そうとしても、思い出せなかった。
パーティションの隙間から、廊下が少しだけ見えた。
極月の制服が一人、足早に運営本部のほうへ歩いていくところだった。
片耳にだけイヤホンを差した、見覚えのある横顔。
四音が目で追うより先に、その姿は角の向こうへ消えた。
「白草さん」
プロデューサーが、運営本部から戻ってきた。
区画の様子を見て、一瞬だけ足を止める。
「……何かありましたか」
「ええ、少し」
四音は、膝の上で水色のリボンを握ったまま答えた。
「後で、運営に報告します。私の口から」
「わかりました。一緒に行きます」
プロデューサーは、少しだけ声を落とした。
「怪我は、ありませんか」
「……ありません。衣装だけです」
「そうですか」
それだけ言って、プロデューサーは四音の隣のパイプ椅子に腰を下ろした。
何も聞かなかった。
ただ、針の動きを、四音と一緒に眺めていた。
その沈黙が、四音にはありがたかった。
その時、パーティションの向こう、極月の区画の端に、ピンクの髪が見えた。撫子だった。
撫子は、何も言わずにこちらを見ていた。千奈と莉波に囲まれて座る四音を。四音の手の中の、色違いのリボンを。
四音と目が合うと、撫子は唇をきゅっと結んで、小さくうなずいた。それから、くるりと背を向けて、自分の区画へ戻っていった。
その背中は、少しも震えていなかった。
衣装に細工をした二人は、四音の報告と莉波が確認した映像をもとに、運営預かりとなった。
予選の舞台に上がることはなかった。
報告を終えて控室に戻る途中、四音は運営スタッフに頭を下げられた。
前回のN.I.Aで同じ細工を仕組んだのが誰だったか、スタッフも知っているはずだった。
それでも何も言わず、ただ「報告ありがとうございました」とだけ言われた。
四音は、深く礼を返した。
控室へ戻る廊下の壁際に、賀陽燐羽が立っていた。
極月の出場者用のパスを首から下げて。
「運営、思ったより話が早かったでしょ」
「……まさか」
「あの二人が朝から衣装ケースの周りをうろついてたの、見てたから。先に運営に一言入れといただけ」
燐羽は、つまらなそうに肩をすくめた。
「極月の出場者として、身内の恥を表に出されるのは迷惑なの」
「また、貴女に借りができましたね」
「貸した覚えはないけど」
燐羽は、ふと廊下の向こう、客席のほうへ視線を投げた。
「……あそこ、手毬いる?」
「ええ。初星の応援席に。美鈴さんも」
燐羽は、少しだけ黙った。
「……そう」
それから、四音の横を通り過ぎながら言った。
「あの子たちの前で、みっともない歌、歌わないでよね」
出番は、燐羽が先で、その次が撫子だった。
四音は舞台袖のモニターの前に立っていた。
プロデューサーが隣にいた。
『極月学園、賀陽燐羽さん』
照明の下に立った燐羽は、控室で見たのとは別人のようだった。
一音目から、空気が変わった。張りつめた弦のような声だった。
誰にも媚びず、誰にも寄りかからない声。
モニターの端に、初星の応援席が小さく映っていた。
手毬が、身じろぎひとつせずにステージを見つめていた。
その隣で、美鈴が膝の上で両手を重ねて、静かに目を閉じていた。
曲が終わった瞬間、手毬の唇が、何かを呟くように動いた。
何と言ったのかは、わからなかった。
『極月学園、藍井撫子さん』
照明が灯る。撫子がステージの中央へ歩いていく。
四音は、思わず息を呑んだ。
撫子の歩き方が、違った。
四音が昔、撫子に教えた、他人より美しく見せるための歩き方ではなかった。
少しだけ大股で、少しだけ弾むような、撫子らしい歩き方だった。
前奏が流れた。四音の知らない曲だった。
撫子が歌い出した。
声が、ホールを満たした。
上手かった。3か月前の撫子とは、比べものにならないほど。
高音は伸びやかで、ダンスの軸は一度もぶれなかった。
毎晩、結衣とレッスンを重ねたという言葉は、嘘ではなかった。
けれど四音が目を奪われたのは、上手さではなかった。
撫子は、笑っていた。
噴水の前で見た、無理に貼りつけた笑顔ではない。
四音の真似でもない。
歌うのが楽しくて、楽しくて、仕方がないという顔で笑っていた。
――ああ。
四音は、モニターの縁を握った。
あの子は、もう、私の後ろにはいない。
最後のポーズが決まった。
一拍の沈黙のあと、大きな拍手がホールを揺らした。
撫子は深く一礼した。
四音が昔直させた、あの綺麗な角度で。
舞台袖に戻ってきた撫子は、息を切らせながら、四音の前で足を止めた。
「……どうでしたかしら、白草四音」
頬が上気していた。目が、きらきらと光っていた。
四音は、少しだけ考えて、答えた。
「悔しいくらい、よかったですよ、藍井撫子」
撫子の目が、大きく見開かれた。それから、くしゃりと顔が歪んだ。
「そ、そういうことは、お姉さまの出番が終わってからおっしゃってくださいまし……っ!」
撫子は結衣の胸に飛び込み、結衣が「はいはい」と背中を叩いた。
四音は、少しだけ笑った。
司会の声が、次の名前を呼んだ。
『初星学園、白草四音さん』
ホールの空気が、わずかに変わったのがわかった。
ざわめき。囁き。前回の優勝候補。
不正をし極月を追い出された悪女。
四音は、胸元のリボンに触れた。
淡い水色の、衣装の色とはまるで合わないリボン。
莉波が直してくれた裾の縫い目。
「白草さん」
プロデューサーが、隣で言った。
「誰に見せたいのか、わかりましたか」
学内公演の前と、同じ問いだった。
四音は、今度は迷わずに答えた。
「……全員に。私を嫌っている人にも、私を守ってくれた人にも。それから、私に勝つと言った、あの子にも」
「...十分ですね」
四音は、ステージへ歩き出した。照明が灯った。