極月を追われたので、初星で歌い直します   作:マロンex

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遅すぎた後悔

N.I.Aが終わってから、季節がふたつ過ぎた。

四音の毎日は、驚くほど静かに回っていた。

朝は六時に目が覚める。

咲季にもらった表の通りに、目覚ましより少しだけ早く。

カーテンを開けると、初星学園の寮の窓から、まだ薄青い空が見えた。

 

極月にいた頃は、朝が嫌いだった。

今日は誰が自分を見ていて、誰が自分を値踏みしていて、誰を先に蹴落とすべきか。

目を開けた瞬間から、それを考えなければならなかった。

 

今は、違った。

 

制服に着替えて、髪を整えて、鏡の前で一度だけ笑ってみる。

作った笑みかどうか、自分で確かめるための習慣だった。

今日の笑顔は、たぶん、作っていなかった。

 

ボイストレーニング室の前に着くと、たいてい先客がいる。

 

「おはよう、白草さん」

 

篠澤広が、廊下の床に仰向けに転がっていた。

ジャージ姿で、額に汗を浮かべて。

 

「……おはようございます。今日は、何時から」

 

「5時。今日のメニュー、昨日より一セット多くした」

 

「……毎朝、それを報告しなくても結構です」

 

「白草さんにも勧めようと思って」

 

「お断りします」

 

広は、少しだけ残念そうに天井を見上げた。

それから、ゆっくりと上半身を起こした。

 

「昨日の白草さんの2番のサビ、廊下まで聞こえてた。前より、ブレスが静かになった」

 

「……聞いていたんですか」

 

「聞こえただけ。でも、いい音だった」

 

それだけ言って、広はまた床に転がった。

四音は、何と返せばいいかわからないまま、ボイストレーニング室の扉を開けた。

一時間のレッスンを終えて教室に入ると、斜め前の席から、千奈が振り返る。

 

「お、おはようございますわ、白草さん」

 

「おはようございます、倉本さん」

 

それだけのやりとりに、半年前の四音なら一生かかっても慣れなかっただろう。

千奈は、何か言いたそうにもじもじしてから、机の下から紙袋を取り出した。

 

「こ、これ、新作のクリームパンですの。購買で、今日から売り出したそうで……二つ買ってしまいましたから、一つ、お分けしますわ」

 

「……二つ、買ってしまった」

 

「そ、そうですわ! 手が滑りましたの!」

 

四音は、少しだけ笑って、紙袋を受け取った。

 

「ありがとうございます。お昼にいただきます」

 

千奈は、ぱっと顔を輝かせてから、慌てて前を向いた。

耳の先が、少し赤かった。

窓際の席では、美鈴が頬杖をついて、半分眠ったような顔で外を見ていた。

四音と目が合うと、ほんの少しだけ目を細めた。

それだけだった。

けれど、昼休みになると、四音の机にきて嬉しそうに新作の和菓子をくれるようになった。

昼休みのチャイムが鳴った瞬間、佑芽が四音の机の前に立っていた。

 

「白草さん! 今日こそ勝負!」

 

「勝負なら、先月受けたでしょう」

 

「あれは引き分けだったから! 次で決着つけよう!」

 

先月、根負けして一度だけ受けた勝負は、体育館を十周する競走だった。

佑芽は途中で張り切りすぎて足をつり、四音は最後の一周で息が上がって歩いた。

二人同時にゴールして、二人同時に床に倒れ込んで、二人同時に笑い出した。

あの日、四音は、誰かと一緒に声を上げて笑ったのは、いつ以来だろうと思った。

 

「今日はね、歌で勝負しよ! どっちが長く高い声を伸ばせるか!」

 

「……お昼休みに、ですか」

 

「うん! 中庭なら、誰にも迷惑かからないし!」

 

四音がため息をつく間に、佑芽はもう隣の椅子を引いて座っている。

窓際の席から、美鈴がそれを眺めて、のんびりと微笑んでいる。

 

「佑芽さん。お昼ごはんを食べてからにしましょうね」

 

「はーい! 美鈴ちゃん、お母さんみたい!」

 

「……せめて、お姉さんにしてください」

 

美鈴が小さく抗議して、佑芽がけらけらと笑った。

千奈が振り返って「わ、わたくしも、審判くらいなら、して差し上げてもよろしくてよ」と言った。

 

四音は、千奈のクリームパンの袋を開けた。

甘い匂いがした。

中庭の藤棚の下で、佑芽との勝負は始まった。

審判は千奈だった。

なぜか腕時計ではなく、購買で借りてきたらしいキッチンタイマーを握りしめていた。

美鈴はベンチの端に腰かけて、和菓子の包みを膝に乗せたまま、半分目を閉じていた。

 

「では、参りますわよ! よーい……」

 

千奈がタイマーのボタンを押した。

佑芽が、大きく息を吸った。

四音も、手毬に教わった通りに、腹の底まで息を落とした。

二人の声が、同時に中庭に響いた。

佑芽の声は、まっすぐで、どこまでも明るかった。

四音の声は、少しだけ細く、けれど芯が通っていた。

藤棚の葉が、かすかに揺れた。

 

通りかかった生徒たちが、何事かと足を止めた。

やがて、佑芽の声が、ぷつりと途切れた。

 

「ぷはっ……! だ、だめ、もう息が……!」

 

四音は、もう少しだけ声を伸ばしてから、静かに息を吐いた。

千奈が、タイマーを高く掲げた。

 

「し、白草さんの勝ちですわーっ!」

 

「えーっ! くやしいーっ!」

 

佑芽が芝生の上に大の字に倒れ込んだ。

それから、すぐに起き上がって、四音の手を両手で掴んだ。

 

「白草さん、すごい! 前より絶対長くなってる! 明日はわたしが勝つからね!」

 

「……明日も、やるんですか」

 

「当たり前じゃん!」

 

ベンチの端で、美鈴が小さく拍手をした。

目は、半分閉じたままだった。

四音は、掴まれた手を見下ろした。

振りほどこうとは、思わなかった。

 

午後の授業に向かう廊下で、四音は1年1組の教室の前を通った。

教室の入口で、花海咲季が腕を組んで立っていた。

四音と目が合うと、咲季はほんの少しだけ顎を引いた。

 

「さっき、中庭で佑芽と勝負してたでしょ」

 

「……ご覧になっていたんですか」

 

「窓から見えたのよ」

 

咲季は、四音の顔をじっと見つめた。

値踏みするような目だった。

けれど、半年前に向けられた目とは、何かが違っていた。

 

「佑芽、負けて悔しがってたけど、楽しそうだったわ」

 

それだけ言って、咲季は教室の中へ戻っていった。

 

その奥の窓際の席で、月村手毬が、こちらを見ていた。

四音と目が合うと、手毬はすぐに視線を逸らした。

けれど、机の上に置かれた飴の袋を、ほんの少しだけ四音のほうへ押し出していた。

取りに来い、とでも言うように。

四音は、少しだけ迷ってから教室の入口に寄り、その飴を一つだけもらった。

手毬は何も言わなかった。

 

「白草、最近いい感じじゃん」

 

すれ違いざまに、藤田ことねが言った。

両手に購買の袋を抱えていた。

 

「あいつの表、ちゃんと守ってる? 睡眠時間とか」

 

「……ええ。おかげさまで」

 

「ならよし。焼肉の約束、忘れてないからね」

 

ことねはひらひらと手を振って、廊下の向こうへ消えていった。

教室の後ろの扉から、紫雲清夏が顔を出した。

 

「あ、四音ちゃんじゃん! おつ〜」

 

「……こんにちは、紫雲さん」

 

「だから清夏でいいってば〜」

 

清夏の後ろで、葛城リーリヤが、小さく会釈をした。

四音も、会釈を返した。

それだけのことだった。

けれど、半年前のリーリヤは、四音と目を合わせようともしなかった。

清夏の前に立ちはだかって、近づかないでくださいと言った子だった。

廊下を歩きながら、四音は、手の中の飴を握りしめた。

 

―全部が許されたわけではない。

 

清算の日に思ったことは、今も変わらなかった。

清夏の明るさの奥にも、リーリヤの会釈の固さにも、四音がつけた傷は、まだ残っている。

それでも、こうして、少しずつ。

 

放課後、四音はプロデューサー科の準備室の扉を開けた。

 

「お疲れさまです」

 

プロデューサーが、机の向こうで顔を上げた。

机の端に、紙コップの紅茶が置かれていた。

四音が来る前に用意されていたものだ。

甘いほうの。

清算の日から、この部屋ではいつもそうだった。

四音はそれを手に取って、向かいの椅子に座った。

 

「今日は、二番の歌詞の続きです」

 

「はい」

 

四音は、鞄から歌詞のノートを取り出した。

新曲の、まだ半分しか埋まっていないページ。

プロデューサーは、それを受け取って、黙って読み始めた。

ページをめくる指先を、四音は見ていた。

読んでいる間、この人は一言もしゃべらない。

眉ひとつ動かさない。

 

けれど、ある行に差しかかると、ほんのわずかに目が細くなる。

これは気に入ったときだ。

 

それから、ある行では、ペンの先が紙の上で止まる。

これは何か引っかかったとき。

 

いつの間にか、そういうことが、わかるようになっていた。

 

「二番のサビ、この言葉で本当にいいですか」

 

プロデューサーが、ノートの一行を指さした。

ペンの先が止まった、あの行だった。

 

「……何か問題でも」

 

「問題はありません。ただ、一番より少し強がっているように読めたので」

 

四音は、ノートを引き寄せて睨んだ。

言われてみれば、そうだった。

書いているときは気づかなかった。

 

「……直します」

 

「いえ、直さなくても―」

 

「直します。貴方にそう読めたなら、たぶん、私が誤魔化したんです」

 

鉛筆で一行を消す。

書き直す。消す。もう一度書き直す。

プロデューサーは何も言わずに、それを待っていた。

 

待つのは得意なので。

最初に言われた言葉を、四音は今でも覚えている。

窓の外で、運動部の掛け声が遠く響いていた。

準備室の中には、鉛筆が紙をこする音と、時々プロデューサーがファイルをめくる音だけがあった。

 

四音は、書き直す手を止めずに、ちらりと向かいを見た。

 

プロデューサーは、四音のノートとは別に、分厚いファイルを開いていた。

レッスンの予定表と、トレーナーから届いた所見の束。

それから、来月のイベントの資料。

何本もの電話の約束を書きつけたメモ。

 

この人は、四音が歌詞を一行書き直す間に、いくつの仕事を片づけているのだろう。

 

極月にいた頃、四音の周りには、たくさんの大人がいた。

黒井社長の秘書。振付師。衣装係。

全員が、四音を「商品」として扱っていた。

四音もそれでいいと思っていた。

勝てば、それでよかった。

 

この人は、違った。

 

この人の仕事は、全部、四音のためにあった。

四音が勝つためではなく、四音が、四音の歌を歌えるように。

 

「……できました」

 

四音は、ノートを差し出した。

 

プロデューサーは、書き直された一行を読んだ。

それから、ほんのわずかに目を細めた。

 

「いいですね、私は好きです」

 

それだけだった。

けれど、四音にはそれで十分だった。

その一言を聞くために、何度でも書き直せる気がした。

 

「白草さん」

 

「何です」

 

「今日はもう上がりましょう。喉が少し疲れています」

 

「……どうしてわかるんです」

 

プロデューサーは、机の上のファイルを開いて、四音のほうへ向けた。

今月のレッスン予定表だった。

ボイストレーニング、ダンスレッスン、歌詞の打ち合わせ。

トレーナーから届いたレッスンの所見が、日付ごとに挟み込まれていた。

 

「今朝のボイストレーニングの所見です。後半から少し声が硬くなっていた、とありました。週末に新曲の通しを入れているので、今日は喉を休ませて、明日に備えたほうがいいと思います」

 

四音は、所見の紙に目を落とした。

トレーナーの字の横に、プロデューサーの字で小さく『通しまでに調整』と書き添えてあった。

 

「来週は、月曜と木曜のレッスンを少し軽めにしています。通しの前に、疲れを残さないように」

 

「……そこまで、組んでいたんですね」

 

「担当なので」

 

いつもの答えだった。

四音は、何か言い返そうとして、やめた。

代わりに、紅茶を一口飲んだ。甘かった。

帰り支度をしながら、四音はふと、プロデューサーの横顔を見た。

窓から差し込む夕陽が、眼鏡の縁を橙色に光らせていた。

 

どうしてだろう。

最近、この人の横顔を、気づくと見ている。

 

ペンを持つ指先とか。

考え事をするときに少しだけ傾く首とか。

佑芽さんや千奈さんたちと話しているときの、少しだけ柔らかくなる声とか。

前は気にも留めなかったものが、今は、なぜか目に入ってくる。

 

あのファイルを思い出した。

トレーナーの所見の横に添えられた、小さな字。

本番までの日程を、この人は一つずつ組み立てていた。

四音が、歌うことだけを考えていられるように。

 

そう思った瞬間、胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 

―何なのでしょうね、これは。

 

明日、この部屋に来ること。

この人に、書き直した歌詞を見せること。

それを考えるだけで、足取りが少しだけ軽くなる。

 

そんなふうに誰かに会うのを楽しみに思ったことが、今まで一度でもあっただろうか。

四音は、その問いに答えを出さなかった。

出してしまったら、何かが変わってしまう気がした。

今のこの部屋の、この距離の、この静けさが。

今のままで、十分だった。満ち足りていた。

生まれて初めて、満ち足りていると思える毎日だった。

 

「白草さん?」

 

「……何でもありません」

 

四音は、鞄を肩にかけた。

 

「明日も、来ます」

 

「はい。待っています」

 

扉を閉める直前、四音はもう一度だけ振り返った。

プロデューサーはもう、机の上の五線譜に目を落としていた。

だが、前見た姿よりも数段小さな背中に見えた気がした。

気にしないようにした。

 

ーN.I.A本選まで、残り3か月。

 

四音は少しずつプロデューサーに違和感を覚えるようになった。

 

新曲の打ち合わせは、少しずつ本格的になっていった。

一番の歌詞が固まり、二番の骨組みができて、プロデューサーが外部の作曲家と何度もやりとりを重ねるようになった。

準備室の机の上の資料は、日に日に増えていった。

 

レッスンの予定表。トレーナーの所見。

作曲家とのやりとりを印刷した紙の束。

本選の運営から届いた要項。

 

最初の異変は、コーヒーの空き缶だった。

 

準備室の机の端に、いつの間にか缶が並ぶようになった。

一本、二本。気づけば、四音が部屋に入るたびに一本ずつ増えている。

紅茶の紙コップの隣に、まるで場所を奪い合うように。

 

「...飲みすぎではありませんか」

 

「眠気覚ましです」

 

「眠気覚ましが必要なほど、眠っていないということでしょう」

 

プロデューサーは、少しだけ笑って答えなかった。

 

次に気づいたのは、目の下の隈だった。

 

眼鏡の奥で、日に日に色が濃くなっていく。

それから、咳。打ち合わせの最中に、何度か小さく咳き込むようになった。

 

「風邪ですか」

 

「少し、喉が乾燥しているだけです」

 

そう言って、プロデューサーはまたファイルに目を落とした。

ある朝、ボイストレーニング室の前で、いつものように床に転がっていた広が、天井を見上げたまま言った。

 

「白草さんのプロデューサー、最近、顔色悪いね」

 

四音は、足を止めた。

 

「……やはり...そう見えますか」

 

「うん。昨日の夜、廊下ですれ違った。歩き方が、わたしがメニュー3回通したあとと同じだった、よ」

 

広は、ゆっくりと首だけを動かして、四音を見た。

 

「わたしは、きついのが好きだから平気。でも、あの人は、たぶん違うと思う。...それはきっと続かない」

 

四音は、何も言えなかった。

 

広は、それ以上何も言わなかった。

ただ、少しだけ心配そうに、もう一度天井を見上げた。

 

その週の木曜日。

四音は、いつもより少し早く準備室に着いた。

木曜のレッスンは軽めにすると、プロデューサーが言っていた日だった。

扉を開けると、プロデューサーが電話を切ったところだった。

四音を見て、首を傾げた。

 

「おや……白草さん。今日は、ダンスレッスンでは」

 

「木曜は軽めにすると、先週おっしゃっていましたよ。ボイストレーニングを30分だけ、と」

 

プロデューサーは、手元のファイルをめくった。

予定表の木曜の欄を見て、それから、小さく息を吐いた。

 

「……そうでした。すみません。勘違いしていました」

 

四音は、ファイルを覗き込んだ。

予定表の文字が、乱れていた。

最初のページの、几帳面な字とは違った。

ところどころ、書きかけのまま線が途切れている。

日付が一つずれて書かれて、上から二重線で消されている箇所もあった。

 

この人が、予定を間違えるのを、四音は初めて見た。

 

「……プロデューサーさん。本当に、大丈夫なんですか」

 

「大丈夫です。少し、作曲家さんとのやりとりが立て込んでいるだけなので」

 

プロデューサーは、いつもの顔で言った。

 

「本選の要項が変わって、新曲の提出期限が早まったんです。それに合わせて、二番のアレンジを詰めないといけなくて。あと少しで、形になると思います」

 

「あと少し...ですか」

 

「はい」

 

その「あと少し」という言葉を、四音は覚えておくことにした。

 

翌日の昼休み。

四音は、購買で千奈の新作のクリームパンを一つ多く買って、準備室に向かった。

プロデューサーは、机に向かってパソコンの画面を見ていた。

机の上には、昼食らしいものは何もなかった。

コーヒーの空き缶だけが、また一本増えていた。

 

「お昼、まだですよね」

 

四音は、パンの袋を机の端に置いた。

 

プロデューサーは、少し驚いたように顔を上げた。

 

「……白草さんが、買ってきてくれたんですか」

 

「倉本さんのおすすめです。二つ買ってしまったので」

 

千奈の言い訳を、そのまま借りた。

 

プロデューサーは、パンの袋を見て、それから四音を見て、少しだけ笑った。

 

「ありがとうございます。あとで、いただきます」

 

「今、食べてください」

 

「この返信だけ、先に―」

 

「今、です」

 

四音は、自分でも驚くほど強い声で言った。

 

プロデューサーは、少しだけ目を見開いた。

それから、困ったように笑って、パソコンの画面から手を離した。

 

「……わかりました」

 

パンの袋を開けて、一口かじる。

四音は、向かいの椅子に座って、それを黙って見ていた。

いつもは、この人が四音の様子を見ている。

声の調子も、足の向きも、喉の疲れも。

今日は、四音が見ていた。

 

食べる速さが、少しだけ遅い気がした。

手首が、前より細くなった気がした。

眼鏡の奥の目が、時々、焦点を合わせ直すように瞬いた。

 

気のせいだと思いたかった。

 

「……美味しいですね」

 

プロデューサーが言った。

 

「倉本さんに、お礼を伝えておいてください」

 

「ご自分でどうぞ」

 

四音は、そう言ってから、少しだけ目を逸らした。

 

「……ちゃんと、食べてください。毎日」

 

プロデューサーは、何も答えなかった。

ただ、もう一口、パンをかじった。

 

それから一週間が過ぎた。

 

四音は毎日昼食を届けるようになった。

総菜パン、おにぎり、出来合いのホットスナック。

料理ができない四音の精いっぱいの配慮だった。

プロデューサーは、そのたびに少しだけ困ったように笑って、それでも四音の前で一口目をかじった。

 

ーけれど、机の上の空き缶は、減らなかった。

 

ある日の放課後。

四音が準備室に入ると、部屋は暗かった。

照明がついていなかった。

窓から差し込む夕陽だけが、机の上を斜めに照らしていた。

 

プロデューサーは、机に突っ伏して眠っていた。

四音は、扉のところで立ち止まった。

起こすべきか、迷った。

寝息が、ひどく浅かった。

眼鏡が少しずれて、頬に跡がついていた。

 

四音は、音を立てないように机に近づいた。

 

机の上には、五線譜が散らばっていた。

何度も書いては消した跡。

音符の横に、細かい字で書き込みがある。

 

『白草さんの声だとこの音は苦しい』

『ここはブレスを入れる』

『二番のサビ、否定してしまった、反省』

 

全部、四音の新曲のためのものだった。

その隣に、例のファイルが開いたままになっていた。

四音のレッスン予定表の、次のページ。

それは、プロデューサー自身の予定表だった。

 

作曲家との打ち合わせ。

運営との確認。

トレーナーとの面談。

四音のレッスンの立ち会い。

その合間に、別の書き込みがあった。

 

『夜 二番アレンジ』『夜 伴奏練習』

 

空白の欄が、一つもなかった。

四音のページには、休みの日がちゃんとあった。

木曜は軽めに、と書いてあった。

だが、この人のページには、休みの日が、どこにもなかった。

鍵盤の上には、付箋がびっしりと貼られた、初心者向けのピアノ教本が開いたままになっていた。

 

―練習しておきます。

 

1年前の非常階段で、この人はそう言った。冗談だと思っていた。

 

「……馬鹿な人、真に受けるなんて」

四音は、自分のカーディガンを脱いで、プロデューサーの肩にそっとかけた。

その肩が、思っていたよりずっと薄かった。

カーディガンをかけた手を、すぐに離せなかった。

ほんの少しだけ、その肩に、指先が触れたままになった。

温かかった。けれど、その温かさの下で、骨の形がはっきりとわかった。

 

四音は、そっと手を離した。

それから、照明をつけずに、静かに準備室を出た。

 

翌日、四音は打ち合わせの冒頭で言った。

 

「今日は、休みにしましょう」

 

「どうしてですか」

 

「貴方が疲れているからです。昨日、ここで寝ていましたよね」

 

プロデューサーは、ほんの一瞬だけ黙った。

机の端に畳んで置いてあるカーディガンに、目をやった。

四音が、今朝、取りに来るのを忘れていたものだった。

 

それから、いつもの顔に戻った。

 

「大丈夫です。あと少しで、二番のアレンジが固まるので」

 

「その『あと少し』を、先週も聞きました」

 

「...申し訳ないです」

 

「謝ってほしいわけではありません」

 

声が、少しだけ強くなった。

プロデューサーが、驚いたように四音を見た。

 

「昨日、ファイルを見ました。貴方の予定表です」

 

プロデューサーの表情が、ほんのわずかに固まった。

 

「私のページには、休みの日がありました。でも、貴方のページにはありませんよね」

 

四音は、膝の上で手を握った。

 

「私の体調は、あんなに細かく見ているのに。...どうして、ご自分のことは見ないんですか」

 

プロデューサーは、何も言わなかった。

四音は、言いたいことが、もっとあった。

 

眠ってください。

ちゃんと休んでください。

私の曲なんて、急がなくてもいい。

 

ーけれど、言えなかった

 

今のこの部屋の、この距離を、四音のわがままで変えてしまうのが、怖かった。

 

「……無理だけは、しないでください」

 

結局、口から出たのは、それだけだった。

 

「はい」

 

プロデューサーは、いつも通りにうなずいた。

それから、少しだけ間を置いて、言った。

 

「カーディガン、ありがとうございました。温かかったです」

 

四音は、顔が熱くなるのを感じた。

 

「……忘れていっただけです」

 

その夜。四音は寮に帰る途中で、忘れ物に気づいた。

歌詞のノートを、準備室に置いてきてしまった。

夜の九時を過ぎた校舎は、ほとんどの窓が暗かった。

プロデューサー科の準備室だけに、明かりがついていた。

扉の前まで来たところで、四音は足を止めた。中から、ピアノの音が聞こえた。

 

(この曲は...)

 

あの公園の歌の、最初の一節。

それから、四音の新曲のメロディ。

たどたどしく、何度もつっかえながら。

同じ小節を、何度も、何度も。

途中で、音が途切れた。

代わりに、咳が聞こえた。

長い咳だった。止まらない咳だった。

 

四音は、扉の取っ手に手をかけた。

 

―あの人は、たぶん違うと思う。

 

朝の広の声が、頭の中でよみがえった。

ファイルの、空白のない予定表。

肩に触れたときの、骨の形。

それでも、四音の手は動かなかった。

 

中に入って、何と言えばいいのだろう。

もうやめてください、と言えば、この人は笑って「大丈夫です」と言う。

昼間と同じように。

そして四音は、また、それ以上何も言えない。

咳が止んだ。少しして、またピアノの音が始まった。

 

ら、らら、ら。

 

四音は、取っ手から手を離した。

ノートは、明日取りに来ればいい。

廊下を引き返しながら、四音は何度も振り返った。

準備室の明かりは、ずっとついたままだった。

その夜、四音はなかなか眠れなかった。

 

―明日は、ちゃんと言おう。無理しないでって

 

眠りに落ちる直前、そう決めた。

 

けれど、その「明日」は、来なかった。

 

 

朝、寮の部屋の扉が激しく叩かれた。

 

「白草さんっ! 白草さん、起きていらっしゃいますか!」

 

千奈の声だった。

いつもの、裏返った声ではなかった。

泣き出す寸前の、張りつめた声だった。

 

四音が扉を開けると、千奈はパジャマの上に制服の上着だけを羽織って立っていた。

髪は寝癖のまま。目が真っ赤だった。

その後ろの廊下を、佑芽が全力で走ってくるのが見えた。

美鈴が、少し遅れてその後を追っていた。いつもの眠たげな目ではなかった。

 

「……どうしたんです、こんな朝早く」

 

「四音さんの...プ、プロデューサーさんが……」

 

千奈の唇が震えた。

 

「昨日の夜、準備室で、倒れて……警備の方が見つけて、救急車で……」

 

四音には、千奈の言葉の意味が、すぐにはわからなかった。

倒れた。

準備室で。

昨日の夜。

四音が扉の前で引き返した、あの夜。

 

「……嘘」

 

声が、勝手に出た。

 

「嘘、です。だって、昨日、ピアノが……ピアノの音が、していたんです。咳をして、でも、また弾き始めて、それで……」

 

言葉が、うまくつながらなかった。

 

四音は、部屋の中へ駆け戻った。

机の上の端末を掴む。

指が震えて、画面がうまく押せなかった。

履歴の一番上にある名前を、何度も押し間違えて、ようやく発信した。

 

呼び出し音が鳴った。一回。二回。三回。

 

『おかけになった電話は、電源が入っていないか―』

 

四音は、もう一度かけた。

同じ声が流れた。

 

もう一度。

もう一度。

 

「白草さん……っ」

 

千奈が、部屋の入口で泣きそうな顔をしていた。

四音は、端末を握りしめたまま、部屋を飛び出そうとした。

パジャマのまま。裸足のまま。

 

「―白草さん、待って!」

 

追いついた佑芽が、四音の腕を掴んだ。

 

「離してください! 行かないと、あの人のところに、今すぐ―」

 

「どこに行くの! 病院、まだ聞いてないでしょ!」

 

佑芽の声に、四音の足が止まった。

止まった途端、膝から力が抜けた。

四音は、廊下の床に崩れ落ちた。

息が、うまく吸えなかった。

吸っても、吸っても、胸の奥まで空気が届かなかった。

 

喉が、ひゅう、と細い音を立てた。

 

―私のせいだ。

 

―あの夜、扉を開けていれば。

 

―ちゃんと言おうと決めたのに。明日と思ったのに。

 

頭の中で、同じ言葉がぐるぐると回っていた。

指先が冷たかった。視界の端が、白く滲んでいた。

 

「白草さん」

 

すぐそばで、静かな声がした。

 

美鈴だった。

四音の前にしゃがみ込んで、四音の両手を、自分の両手でそっと包んでいた。

 

「白草さん。私の手、わかりますか」

 

四音は、ぼんやりと美鈴を見た。

 

「ゆっくりで、いいです。私と一緒に、息をしましょう。吸って」

 

美鈴が、ゆっくりと息を吸った。

四音も、つられるように、浅く息を吸った。

 

「吐いて」

 

美鈴が、ゆっくりと息を吐いた。

四音も、震えながら息を吐いた。

 

「もう一度。吸って……吐いて」

 

何度か繰り返すうちに、喉の細い音が、少しずつ収まっていった。

胸の奥まで、ようやく空気が届いた。

 

佑芽が、四音の背中を、大きな手のひらでさすっていた。

千奈が、泣きながら、四音の肩にそっと上着をかけてくれていた。

 

「……すみ、ません」

 

四音の声は、ひどくかすれていた。

 

「いいんです」

 

美鈴は、四音の手を包んだまま、首を振った。

 

「今は、謝らなくていいです。それより、着替えて、靴を履きましょう。お姉さんが学園長から聞いたと、佑芽さんが教えてくれました。病院の場所は、私が聞いてあります。みんなで行きます」

 

美鈴は、まっすぐに四音を見た。

 

「一人で、行かせたりしませんから」

 

四音は、美鈴の手の温かさを感じながら、小さくうなずいた。

 

「……どこの、病院ですか」

 

ようやく、その言葉が出てきた。

 

病院へ向かうタクシーの中で、四音は一言もしゃべらなかった。

隣に、美鈴が座っていた。助手席には千奈。

普段騒がしい佑芽も、黙って四音を心配そうに見ていた。

 

美鈴は、何も言わなかった。

ただ、膝の上で固く握られた四音の手の上に、そっと自分の手を重ねていた。

病院の廊下は、朝の光が白すぎた。

 

ナースステーションの前で、初星の学園長と、プロデューサー科の担当教員が話していた。

四音を見ると、学園長は一瞬だけ迷うような顔をして、それから近づいてきた。

 

「四音くんか」

 

「あの人は」

 

「……過労だそうじゃ。それと、こじらせていた風邪が、肺炎になりかけておった。倒れたときに、頭を打っておってな」

 

学園長は、言葉を選ぶように一度区切った。

 

「今は...眠ったままじゃ。医者が言うにはいつ目を覚ますかは、まだわからんと」

 

四音は、何も言わなかった。言えなかった。

 

「ご家族が、もうすぐ着かれる。すまんが、病室には……」

 

「わかっています」

 

四音は、自分でも驚くほど静かに答えた。

 

「家族ではありませんから」

 

3人を廊下の長椅子に残して、四音は一人で、廊下の突き当たりまで歩いた。

集中治療室の窓があった。

ガラス越しに、ベッドが見えた

たくさんの管と、規則正しく光るモニター。

その真ん中に、眼鏡を外した顔があった。

眼鏡を外した顔を見るのは、初めてだった。

 

思っていたより、ずっと幼く見えた。

四音と、ほんの少ししか歳の違わない少年の顔だった。

そんなことに、今まで気づかなかった。

 

―待つのは得意なので。

 

いつもそう言って、四音の隣に立っていた。

四音の声の調子に気づき、四音の嘘に気づき、四音が言葉にできないものを、たいてい先に拾い上げていた。

四音の予定を、一日ずつ丁寧に組み立てていた。

 

四音は、この人の何に気づいていただろう。

 

コーヒーの缶。

目の下の隈。

止まらない咳。

乱れた予定表の字。

空白のない、あの人自身のページ。

カーディガン越しに触れた、骨の形。

 

全部、見ていた。広にまで言われていた。

見ていて、言えなかった。

昨日の夜、扉の前で、取っ手に手をかけて。

 

「……私が」

 

ガラスに額を押しつけた。冷たかった。

 

「私が、もっと早く相談していれば...」

 

その日の夕方、四音は一人で準備室に戻った。

学園は、いつもと同じように動いていた。

廊下の向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。

レッスン室からは、ピアノの音が漏れていた。

この部屋の主がいないことなど、何も関係がないように。

 

準備室は、昨日のままだった。

 

机の上のコーヒーの空き缶。

その隣で冷めきった、手つかずの紅茶の紙コップ。

四音が今朝取りに来るはずだったカーディガンが、椅子の背に丁寧に畳んで掛けてあった。

鍵盤の蓋は開いたまま。

床に、一枚の五線譜が落ちていた。

四音は、それを拾い上げた。

新曲の楽譜だった。二番のサビ。

先週、四音が「強がっている」と言われて書き直した、あの一行のところ。

そこだけ、音符が全部、清書されていた。

何度も書き直した跡の上に、丁寧に、最後まで。

そして、余白に、小さな字で書き込みがあった。

 

『二番、完成。白草さんの声なら、きっと届きます』

 

机の上のファイルが、開いたままになっていた。

プロデューサー自身の予定表のページ。

昨日の日付の欄の最後に、少しだけ震えた字で、書き足してあった。

 

『二番 完成』

 

その下の、今日の欄には、こう書いてあった。

 

『白草さんに、聴いてもらう』

 

四音は、楽譜を胸に押し当てた。

膝から力が抜けて、ピアノの椅子に崩れるように座り込んだ。

鍵盤の上には、付箋だらけの初心者向けの教本が、まだ開いたままになっていた。

 

泣き方が、わからなかった。

声も、涙も、出てこなかった。

ただ、胸の真ん中に、大きな穴が開いていくのがわかった。

 

この人がいなければ、四音はまた、ひとりだ。

 

謝り方も、頼み方も、ありがとうの言い方も。

全部、この人の隣で覚えた。

この人がいたから、蹴落とさずに歌えた。

この人が待っていてくれたから、四音は、四音でいられた。

 

でも結局この人を、四音の歌が、ここまで追い詰めた。

 

「……私の、せいです」

 

誰もいない準備室に、四音の声だけが落ちた。

 

「私の曲なんて、なければ」

 

机の端の、冷めた紅茶の紙コップが目に入った。

昨日、この人は四音のために、これを用意していた。

四音がノートを忘れて帰ったあとも、きっと、ここに置いたまま、ピアノに向かっていた。

 

四音は、それに手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。

 

窓の外で、日が沈んでいった。

四音は、楽譜を抱えたまま、明かりもつけずに座り続けていた。

 

 

ー1週間が過ぎた。

 

プロデューサーは、まだ目を覚まさなかった。

四音は、毎日病院へ行った。

集中治療室から一般病棟に移ったと聞いてからも、病室には入らなかった。

廊下の端のベンチに座って、閉じた扉を眺めて、面会時間が終わる頃に帰った。

 

家族ではないから。

そう言い聞かせていた。

本当は、扉を開けて、眠ったままの顔を見るのが怖かった。

 

レッスンには、行かなくなった。

 

最初の三日は、行こうとした。

ボイストレーニングの部屋の前まで行って、扉の取っ手に手をかけて、そこで動けなくなった。

中から聞こえるピアノの音が、あの夜の準備室の音と重なった。

 

四日目からは、寮の部屋を出なくなった。

 

カーテンを閉め切った部屋で、四音はベッドの上に座っていた。

膝の上には、あの楽譜。

二番のサビの、清書された一行。

余白の、小さな字。何度読んでも、文字は変わらなかった。

椅子の背には、準備室から持ち帰ったカーディガンが掛けてあった。

袖を通す気には、なれなかった。

 

扉が、控えめに叩かれた。

 

「し、白草さん……倉本千奈ですわ」

 

四音は、返事をしなかった。

 

「あの……お昼、食べていらっしゃいますか? 購買の、白草さんがお好きなクリームパン、買ってまいりましたの。ここに置いておきますわね」

 

ごそごそと、袋を置く音がした。

 

「……また、明日も来ますわ」

 

足音が遠ざかっていく。

昨日のパンも、一昨日のパンも、扉の前に置かれたまま、手をつけていなかった。

少しして、今度は勢いのいいノックがした。

 

「白草さーん! 佑芽だよ!」

 

四音は、膝を抱えたまま動かなかった。

 

「えっとね、勝負、しばらくお休みにするね! 白草さんが元気になるまで、わたし、待ってるから!」

 

扉の向こうで、佑芽が少しだけ黙った。

 

「……プロデューサーさんも、きっと、すぐ起きるよ。わたし、そう思う!」

 

元気な声が、ほんの少しだけ震えていた。

足音が、ぱたぱたと遠ざかっていった。

 

夕方には、莉波が来た。

 

「四音ちゃん。紅茶、置いておくね。甘いほう」

 

それだけ言って、莉波は無理に扉を開けようとはしなかった。

そういう人だった。だからこそ、余計に苦しかった。

甘いほう。

準備室の机の端に、毎日置かれていた紙コップを思い出した。

あの人が、四音のために用意していたもの。

最後の一杯は、冷めたまま、誰にも飲まれなかった。

 

夜になって、最後のノックがあった。

ノックというより、扉に何かがそっと触れたような、小さな音だった。

返事をしないでいると、扉の下の隙間から、何かが差し込まれた。

和菓子屋の、小さな紙袋だった。袋の口に、細いメモが一枚挟まっていた。

 

『お返事は、いりません。 美鈴』

 

その下に、別の字で、もう一行あった。

 

『きついのが好きなのは、わたしだけでいい。 広』

 

四音は、その紙袋を拾い上げた。

拾い上げただけで、開けることはできなかった。

夜、端末が震えた。ことねからだった。

 

『あんたさ、いつまで引きこもってんの。プロデューサーが起きたとき、あんたが歌えなくなってたら、あいつ絶対自分のせいだって思うよ』

 

四音は、画面を伏せた。

その通りだと思った。わかっていた。

わかっていて、それでも、立ち上がれなかった。

 

歌えば、またあの人を追い詰めることになる気がした。

 

四音の歌のために、あの人は眠らずにピアノを練習した。

四音の声のために、楽譜を何度も書き直した。

四音の予定には休みを入れて、自分の予定には一日も入れなかった。

四音が「無理しないで」としか言えなかったから、あの人は無理をし続けた。

 

「...なんで私なんかのために...」

 

膝を抱えたまま、四音は暗い部屋の天井を見上げた。

思い出すのは、極月の頃のことだった。

 

N.I.Aで、他校の出場者の楽屋の予定を流させた。

初星の誰かの衣装に、細工をさせた。

莉波とプロデューサーの映像を切り貼りして、ありもしないスキャンダルに仕立てようとした。

清夏の噂を流して、一人にさせた。

千奈を嘲った。

水無瀬結衣を、ユニットから外させた。

 

全部、四音がやったことだった。

誰かに命じられたからではなく、四音が、そうしたかったから。

 

―だから、謝った。

 

極月の会議室で、結衣に頭を下げた。

藤棚の下で、千奈と莉波に頭を下げた。

1年1組の教室で、清夏とリーリヤに頭を下げた。

 

けれど、謝ったからといって、何かが消えたわけではなかった。

 

千奈は、今でも時々、四音の声に肩を跳ねさせる。

清夏の明るさの奥には、まだ四音がつけた傷がある。

リーリヤの会釈は、まだ少しだけ固い。

結衣が極月であの後どんな日々を過ごしたのか、四音は知らない。知る資格もない。

 

―謝れば、許されると思っていたのですか。

 

自分の中で、誰かが問いかけた。

 

―いいえ

 

―では、なぜ謝ったのですか

 

―それが、せめてもの、私にできることだったから

 

―それで、何かが変わりましたか?

 

四音は、答えられなかった。

謝ることは、罪を消すことではなかった。

ただ、自分がしたことを、自分の口で認めることだった。

それで終わりではなく、そこから先も、ずっと抱えていくものだった。

 

罪は、消えない。

 

どれだけ頭を下げても、どれだけ歌い方を変えても、四音が誰かを踏みにじったという事実は、どこにも行かない。

 

―だったら、これは。

 

あの人が倒れたのは。

 

―報い、なのでしょうか。

 

誰かの足場を崩してきた人間が、今度は自分の一番大切なものを失いかけている。

それは、ひどく筋の通った話のように思えた。

 

昔の四音は、誰かを蹴落として上に行った。

今の四音は、誰かを蹴落とすつもりなんてなかった。

それなのに、結局、一番大切な人を、一番深いところまで追い詰めた。

 

蹴落とす相手を選ばなくなっても。

謝り方を覚えても。

誰かのために頭を下げられるようになっても。

 

―何も、変わっていなかった。

 

四音は、膝を抱える腕に力を込めた。

変わったと思っていたのは、四音だけだったのかもしれない。

初星の誰かに優しくされるたびに、少しずつ許されていく気がしていた。

けれど、それは、四音が勝手にそう思いたかっただけで。

 

机の上には、一枚の紙が置いてあった。昨日、学園の事務室でもらってきたもの。

 

『N.I.A 出場辞退届』

 

名前の欄は、まだ空白だった。四音は、ペンを手に取った。白、と書きかけた。

本当は、何一つ、償えてなどいなかったのかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間、頭の中が、すうっと白くなった。

机の上の辞退届が、ぼやけて見えた。

ペンを握っていたはずの指から、いつの間にか力が抜けていた。

 

(もう...どうでもいいです)

 

気づいたときには、四音は部屋を出ていた。

扉の前に並んでいた千奈のパンも、莉波の紅茶も、美鈴と広の和菓子の紙袋も、足元で小さく揺れた。

四音は、それに気づかなかった。

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