ー廊下の明かりが、ひどく遠くに見えた。
自分がどこへ向かっているのか、わからなかった。
ただ、足が階段を上っていた。
夜の屋上は、風が強かった。
街の明かりが、柵の向こうに広がっていた。
初星の校舎。
その向こうに、あの人が眠っている病院の窓があるはずだった。
―ああ、静かだ。
四音は、柵の前に立っていた。
頭の中が、白く霞んでいた。
何かを考えようとしても、考えがまとまる前に、風に散っていった。
謝っても、罪は消えない。
歌えば、誰かを追い詰める。
私がいなければ、もう誰も、私のために何かを失わずに済む。
その考えだけが、妙にはっきりしていた。
それが償いになるのだと、どこかで思っていた。
四音の足が、前へ出かけた。
「―お姉さまっ!!」
手首を、何かが掴んだ。
柵の内側から伸びてきた手だった。
手すりから身を乗り出して、細い指が、四音の手首に食い込んでいた。
体が、宙で止まった。
「離し、ませんわ……っ!」
撫子だった。柵に体ごと押しつけて、両手で四音の手首を掴んでいた。腕が、ひどく震えていた。それでも、指は一本も緩まなかった。
「お姉さま、手すりを! 掴まってくださいまし!」
四音は、撫子を見上げた。
歯を食いしばった顔が、すぐそこにあった。目を見開いて、まっすぐに四音だけを見ていた。
ただ、四音をこちら側に戻すことだけを考えている顔だった。
体が、勝手に動いていた。
空いているほうの手が、手すりを掴んだ。
「そのまま……っ、撫子が引きますから、離さないで……!」
撫子が、全身の力で四音を引き上げた。
柵を越えて、四音の体が内側へ転がり込んだ。
そのまま、二人分の重さで、屋上の床に倒れ込んだ。
コンクリートの冷たさが、背中から伝わってきた。
四音は、しばらく、何が起きたのかわからなかった。
手首を、誰かが掴んでいた。痛いほど強く。
撫子は、四音の手首を掴んだまま、肩で大きく息をしていた。
それから、四音の顔を見た。
柵の内側にいる四音を。
屋上の床に、ちゃんと横たわっている四音を。
撫子の手が、震え始めた。
最初は、指先だけだった。
それが、腕に、肩に、全身に広がっていった。
「……お、ねえ、さま……」
撫子の顔が、くしゃりと歪んだ。
張りつめていたものが、一気にほどけたようだった。
見開いていた目から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。
「……っ、よかった……よかった、ですわ……っ」
撫子は、四音の手首を掴んだまま、その場に崩れるように泣き出した。
声を上げて。子どものように。
それでも、掴んだ手だけは、離さなかった。
「……な、でしこ……?」
極月の制服のまま、四音の腕にしがみついていた。
息が上がっていた。髪が乱れていた。顔が、涙でぐしゃぐしゃだった。
「お部屋に伺ったら、扉が開きっぱなしで……っ、お姉さまがいなくて……っ、差し入れも、全部そのままで……っ」
撫子は、しゃくりあげながら言った。
「机の上に、辞退届が……白、って、一文字だけ……っ。撫子、寮じゅう、探して……っ」
撫子は、四音の腕を離さなかった。
離したら、また四音がどこかへ行ってしまうとでも思っているように。
「何を、なさろうとしたんですの……っ」
四音は、答えられなかった。
自分でも、わからなかった。
ただ、柵の前に立っていた。
足が、気が付いたら前へ出ていた。
その先に何があるのかを、ほんの数秒前まで、考えてすらいなかった。
今になって、それがどういうことだったのか、ゆっくりと、体の奥から理解が追いついてきた。
指先が、急に冷たくなった。
「……わたし」
声が、震えた。
「わたし、ただ……償わなければ、と……謝っても、罪は消えないから……私がいなくなれば、もう誰も……」
「―そんなもの」
撫子の声が、四音の言葉を断ち切った。
撫子は、四音の腕を掴んだまま、顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも、まっすぐに四音を睨んでいた。
「そんなもの、償いでも何でもありませんわ!!」
四音は、息を呑んだ。
「罪が消えないことくらい、撫子だって知っていますわ! 撫子も、お姉さまの隣で、千奈さんを笑いましたもの! 清夏さんの噂を聞いて、何も言わずに黙っていましたもの! 撫子だって、同じですわ!」
撫子の声が、夜の屋上に響いた。
「でも、いなくなったら、それは償いではありませんわ。ただ、逃げるだけですわ! 罪からも、お姉さまが傷つけた人たちからも、お姉さまを待っている人たちからも、全部から逃げるだけですわ!」
四音の目から、涙がこぼれた。
「千奈さんは、毎日パンを置いていかれましたわ。莉波さんは紅茶を。美鈴さんと広さんは、和菓子を。佑芽さんは、勝負を待つとおっしゃいましたわ。扉の前に、全部、並んでいましたわ」
撫子の手が、四音の腕の上で、さらに強くなった。
「お姉さまが罪を償いたいなら、生きて、抱えて、歌い続けるしかありませんの。それ以外のやり方なんて、撫子は、絶対に認めませんわ……っ!」
四音は、撫子を見つめていた。
噴水の前で泣いていた子だった。
四音の真似をして、濡れたまま笑っていた子だった。
その子が今、四音の腕を掴んで、四音を引き戻していた。
―いなくなることは、償いではない。
その言葉が、ようやく、胸の奥まで届いた。
四音は、撫子の制服を握りしめた。
それから、声を上げて泣いた。
一週間、一滴も出てこなかった涙が、止まらなかった。
撫子も、四音を抱きしめて泣いた。
腕を掴んだ手だけは、最後まで離さなかった。
どれくらい、そうしていただろう。
撫子が、震える手で端末を取り出した。
「……寮監の先生を、お呼びしますわ。それから、学園長にも」
四音は、何も言えなかった。
「お姉さまを、一人にはしませんわ。今夜は、撫子がずっとそばにいますわ。明日も、その次も」
撫子は、片手で四音の腕を掴んだまま、もう片方の手で端末を耳に当てた。
声が震えていた。
それでも、一言一言、はっきりと、屋上の場所を伝えていた。
四音は、撫子の肩に額を押しつけたまま、屋上の床に座り込んでいた。
風が、冷たかった。
それでも、腕を掴む撫子の手だけは、ひどく温かかった。
寮監の先生は、五分もしないうちに屋上へ駆け上がってきた。
先生は何も聞かなかった。
ただ、四音の肩に毛布をかけて、屋上の扉の内側まで連れていった。
撫子は、その間も四音の腕を離さなかった。
しばらくして、学園長が来た。
寝間着の上にコートを羽織っただけの格好で、息を切らせていた。
四音の前にしゃがみ込むと、皺の多い手で、四音の頭をそっと撫でた。
「……よう、生きておってくれた」
それだけ言って、学園長はしばらく黙っていた。
「四音くん。今夜は、もう何も考えんでいい。明日、学園の相談の先生にも来てもらう。わしからも、お前さんのお姉さんに連絡しておく」
「……月花姉様には」
「言わんでほしい、か」
学園長は、穏やかに首を振った。
「すまんが、それは聞けん。これ以上お前さんを一人にはさせられんよ」
四音は、何も言い返せなかった。
その夜、四音の部屋には、撫子と、知らせを聞いて駆けつけた美鈴や千奈、佑芽、広が泊まり込んだ。
撫子は、四音の隣に座ったまま、一晩じゅう眠らなかった。
美鈴は、四音が眠れるまで、静かに手を握っていた。
佑芽は、扉の前に毛布を敷いて、そこに座り込んでいた。
「わたし、見張り番!」と言って笑っていたけれど、その目は、一度も扉から離れなかった。
広は、部屋の隅で壁にもたれて、何も言わずに、四音の寝息をずっと聞いていた。
時々、四音が寝返りを打つたびに、そっと顔を上げた。
眠りについたのち、ふと、あの瞬間がフラッシュバックして飛び起きる。
ビクッと驚いた様子の、千奈だったが、優しく手を握ってくれた。
「...お腹すいてますでしょう、しばらくまともに食べておられないでしょうし」
千奈は、扉の前に置きっぱなしだったクリームパンを温め直して、四音の前に差し出した。
「……固く、なってしまっていましたけれど」
四音は、それを一口かじった。甘かった。
今まで食べたどんな食べ物よりも優しい甘さだった。
翌朝から、四音が一人になる時間は、ほとんどなくなった。
佑芽が朝のランニングに誘いに来た。
広がボイストレーニング室の前で待っていた。
莉波が病院への道を一緒に歩いた。
誰も、あの夜のことを口にしなかった。
それでも、全員が知っていた。
学園の相談室にも、毎日通った。
最初の日、四音は何も話せなかった。
二日目、ようやく、自身の罪に向き合うつらさを相談した。
相談の先生は、否定も肯定もせずに、ただ最後まで聞いてくれた。
三日目の夜、寮の部屋の扉が、静かに叩かれた。
開けると、白草月花が立っていた。
帽子もかぶらず、コートの前を留めもせず、髪が少しだけ乱れていた。
四音が見たことのない姉だった。
叱られると思った。愚妹、と。
お前は何をしているのか、と。
けれど、月花は何も言わなかった。
部屋に入ってきて、四音の隣に、黙って腰を下ろした。
長い沈黙だった。
月花は、何度か口を開きかけては、閉じた。
「……四音」
ようやく出てきた声は、それだけだった。
月花は、そこで言葉を切った。
眉を寄せて、窓の外を見た。
続きを探しているようだった。
けれど、続きは出てこなかった。
「……調子はどうだ」
しばらくして、月花はそう言った。
「……だいぶ落ち着きました」
「そうか」
それきり、また黙った。
月花は、膝の上で手を組み直した。
ほどいた。また組んだ。
それから、意を決したように、片手を伸ばした。
四音の頭に触れようとして、途中で止まった。
宙に浮いたままの手が、行き場を探すように揺れて、それから、四音の手の上に、ぎこちなく降りてきた。
冷たい手だった。コートの袖が、少し濡れていた。外は、雨が降っていたのだろうか。それとも、空港から、そのまま走ってきたのだろうか。
重ねられた手が、ほんのわずかに震えていた。
―ああ。
四音は、その手を見下ろした。
この人は、叱りに来たのではなかった。
何と言えばいいのか、わからないのだ。
愚妹、と呼ぶことしか知らない人が、それ以外の言葉を、必死に探している。
足りないところを見つけて、正して、できなければ切り捨てる。
それが姉だと、ずっと思っていた。
隣に座ってくれる人ではないと。
けれど、それは、この人がそういうやり方しか知らなかったからなのかもしれない。
四音が、謝り方も、頼り方も、ありがとうの言い方も知らなかったように。
―姉様にも、こんな一面があったんですね。
それを知れたのが、とても嬉しかった。
四音は、重ねられた手を、そっと握り返した。
月花の肩が、小さく跳ねた。
それから、ゆっくりと、力が抜けていった。
月花は、何も言わなかった。四音も、何も言わなかった。
その夜、月花は朝まで、四音の隣にいた。
一度も、手を離さなかった。
屋上の夜から、四日が過ぎていた。
合同リハーサルの帰り。
ホールの搬入口へ向かう通路で、四音は呼び止められた。
「白草」
燐羽だった。
極月のジャージの上着を肩に引っかけて、壁にもたれていた。
いつもの気だるげな顔ではなかった。
「……賀陽さん」
「藍井から聞いた」
燐羽は、壁から背中を離した。
四音の体が、こわばった。
「本当なの」
四音は、答えなかった。
答えられなかった。
目を逸らした。
それが、答えだった。
次の瞬間、乾いた音が、通路に響いた。
頬が、熱かった。
少し遅れて、じんと痛みが広がった。
四音は、呆然と燐羽を見た。
燐羽の手が、まだ宙に上がったままだった。
その手が、震えていた。
「―ふざけないでよ」
燐羽の声が、震えていた。
「償い? 罪は消えないから? だから、自分がいなくなれば済むって思ったの?」
「……わたし、は」
「何よそれ! 何なのよ!」
燐羽の叫びが、通路の壁に跳ね返った。
「そんなことして、あなたのプロデューサーが喜ぶと思うの!?自分のせいで、担当のアイドルが、自分のために、いなくなってた! そんなの聞かされて、あの人が、どんな顔すると思うのよ!」
燐羽は、四音の両肩を掴んだ。
強く。痛いほどに。
「藍井が、どんな顔してあなたの腕を掴んだと思ってるの! 倉本が、姫崎が、毎日扉の前に何を置いていったと思ってるの! 全部、あなたに生きててほしかったからでしょ! それを全部、踏みにじって、一人で勝手にいなくなろうとして……!」
燐羽の声が、途中で詰まった。
肩を掴む手から、ふっと力が抜けた。
「……罪が消えないなんて、当たり前でしょ」
声が、急に小さくなった。
「私だって、消えてないのよ。姉さんが引退したとき、自分のことしか考えないで、手毬と美鈴を置いて逃げた。二人に、まだ、ちゃんと謝れてない。それ、今でも、ずっと、消えてない」
燐羽の目から、涙がこぼれた。
一粒。それから、止まらなくなった。
「でも、消えないから、いなくなるなんて……そんなの、卑怯者じゃない……」
燐羽は、四音の肩に額を押しつけた。
「消えないなら、抱えて生きるしかないのよ。抱えたまま歌って、抱えたまま踊って……あなただけ、勝手に楽になろうとしないでよ……っ」
燐羽の肩が、大きく震えていた。
声を殺そうとして、殺しきれずに、嗚咽が漏れていた。
「藍井から電話が来たとき……あなたが屋上にいたって聞いたとき……本当に、怖かった……っ。あなたが、いなくなってたらって……っ」
四音は、動けなかった。
燐羽が、泣いていた。
いつも気だるげで、誰にも媚びず、誰にも寄りかからない人が。
四音の肩に額を押しつけて、子どものように泣いていた。
四音のために。
―ああ。
撫子の震える手を思い出した。
屋上の床の冷たさ。扉の前に並んでいた、パンと、紅茶と、和菓子。
佑芽の「待ってるから」。
美鈴の、握ってくれた手の温かさ。
あの夜、四音がいなくなっていたら。
この人は、こんなふうに泣いていたのだ。
撫子も、千奈も、莉波も、佑芽も、美鈴も、広も。みんな、こんなふうに。
その痛みを、四音は、全部この人たちに押しつけようとしていた。
「……賀陽、さん」
四音の目からも、涙が溢れた。
四音は、燐羽の背中に、そっと腕を回した。
抱きしめ方は、撫子に教わった。
「ごめんなさい……」
声が、震えた。
「ごめんなさい。心配を、かけました。貴女にも。撫子にも。みんなにも」
燐羽は、四音の肩に額を押しつけたまま、何も言わなかった。
「あの夜、私は、自分がいなくなることが償いだと思っていました。でも、違いました。残された人を考えていませんでした」
四音は、燐羽を抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。
「二度と、あんなことはしません」
一言一言、はっきりと言った。
「約束します。罪を抱えたまま、生きて、歌って、あの人が起きるのを待ちます。貴女の前で、誓います」
燐羽の肩の震えが、少しずつ収まっていった。
長い沈黙だった。
やがて、燐羽が、四音の肩から顔を上げた。
目が真っ赤だった。
鼻をすすって、乱暴に手の甲で涙を拭った。
「……見ないでよ」
「見ていません」
「見てたでしょ」
「……少しだけ」
燐羽は、ふん、と鼻を鳴らした。
いつもの燐羽に、少しだけ戻っていた。
「叩いたの、謝らないから」
「はい。謝られても、困ります」
「……痛かった?」
「とても」
「なら、いいわ。覚えておきなさい。その痛みのぶん、生きなさい。次同じ事したらこれじゃすまないわよ」
燐羽は、肩からずり落ちかけていたジャージの上着を、羽織り直した。
それから、少しだけ迷うように視線を泳がせて、言った。
「……本当は、今日、別の話をしに来たの」
「別の話、ですか」
「私、黒井さんとの契約、今年で切る」
四音は、目を見開いた。
燐羽は、通路の壁に背中を預けた。天井の照明を、ぼんやりと見上げていた。
「あなたと私って、ちょっと似てるのよ」
「……似ている、ですか」
「すごい姉さんがいて。その姉さんの影から抜け出せなくて。自分がしたことから、逃げてきた」
燐羽は、少しだけ自嘲するように笑った。
「私は、姉さんが引退したとき、手毬と美鈴を置いて逃げた。極月に来て、黒井さんの言う通りにステージに立って、何も考えないようにしてた。考えたら、自分がどれだけみっともないか、わかっちゃうから」
燐羽は、四音のほうを見た。
「でも、あなたは逃げなかった」
四音は、何も言えなかった。
「極月で、自分の不正を全部認めて頭を下げた。初星で、一人ずつ謝りに行った。お姉さんにも、正面から言い返した。……許してもらえるかどうかもわからないのに、全部、自分から向き合いに行った」
燐羽の声が、少しだけ低くなった。
「去年、あなたが歌ってるのを見て、腹が立ったって言ったでしょ。あれ、本当は、あなたに腹が立ったんじゃないの」
燐羽は、目を伏せた。
「同じところにいたはずのあなたが、向き合って、前に進んでるのに。私だけ、まだ逃げてる。それが、悔しかったの」
通路の照明が、二人の間を白く照らしていた。
「だから、私も変わらないといけないって思った。手毬と美鈴に、ちゃんと謝る。黒井さんとの契約も切る。誰かに言われた順位じゃなくて、自分で取りに行く」
燐羽は、壁から背中を離して、まっすぐに四音を見た。
「……それなのに、あなたは屋上に行った」
四音の肩が、小さく跳ねた。
「私に、変わらなきゃって思わせた張本人が、勝手にいなくなろうとした。……それだけは許せないわ」
燐羽は、少しだけ目を逸らした。それから、もう一度、四音を見た。
「だから、本選で、あなたにも藍井にも勝つ。プロデューサーがいないとか、そんなの言い訳にさせない。全力で来なさい。全力の、生きてるあなたに勝たなきゃ、意味がないの」
「ええ、喜んで」
「……手毬と美鈴にも、まだ復帰のこと言ってないから。あなたが最初。それも、責任取りなさいよ」
足音が遠ざかっていった。
四音は、通路に一人残された。頬が、まだじんと痛かった。肩には、燐羽の涙の跡が、まだ少しだけ残っていた。
その痛みと、その跡が、今は、なぜか少しだけありがたかった。
燐羽と話した翌日の朝。
寮の扉が、三回叩かれた。
撫子は、極月の制服をきっちり着て立っていた。
手には、小さな花束を持っていた。
「病室に、お花は欠かせませんわ。藍井家御用達の花屋で、一番派手でないものを選ばせましたの」
四音は、扉のところで立ち止まったまま、花束を見下ろした。
「……撫子」
「はい」
「...やはり、今日はやめておきませんか」
撫子の表情が、こわばった。
「あの人に、合わせる顔がありません。あの人が眠っている間に、私は、あんなことをしようとしたんです。あの人が残してくれた楽譜も、何もかも、置いていこうとした」
四音は、自分の腕を見下ろした。
屋上で撫子に掴まれたところに、まだうっすらと跡が残っていた。
「あの人が知ったら、きっと、自分のせいだと思います。目を覚ましたあの人に、何と言えばいいのか、わかりません」
撫子は、しばらく黙っていた。
それから、花束を片手に持ち直して、もう片方の手で、四音の手を握った。
「会わないまま本選に出て、それで、あの方に何を報告なさるおつもりですの」
四音は、何も言い返せなかった。
病院の廊下を歩く間、四音の足は、何度も止まりかけた。
そのたびに、撫子が隣で歩幅を合わせた。
何も言わずに。
ただ、隣を歩いていた。
病室の前で、四音は立ち止まった。
扉の取っ手に手をかけようとして、指先が震えた。
準備室の前で引き返した夜と、同じ震えだった。
その手を、撫子が掴んだ。
両手で、包み込むように。屋上で掴んだときと同じ強さで。
「……お姉さま」
撫子が、四音を見上げた。
「撫子も、一緒に入りましょうか」
四音は、撫子の手を見下ろした。
温かかった。
この手があれば、扉を開けられる気がした。
けれど。
―最後の一歩を、人任せにするな。
いつか、あの人が言った言葉だった。
極月へ撫子を迎えに行く前の夜、準備室で。
四音は、撫子の手の上に、自分のもう片方の手を重ねた。
それから、ゆっくりと、撫子の手をほどいた。
「……いいえ」
撫子が、目を見開いた。
「自分の足で、会いに行きます。あの人には、私一人で謝らなければいけませんから」
四音は、少しだけ笑った。
うまく笑えたかどうか、わからなかった。
「ですから、撫子。ここで、待っていてください」
撫子は、しばらく四音を見つめていた。
それから、ゆっくりと手を下ろして、こくりとうなずいた。
「……はい。撫子、ここで待っておりますわ」
撫子は、廊下のベンチに腰を下ろした。
膝の上の花束を私に渡した。
「お姉さまが出ていらっしゃるまで、ずっと」
四音は、扉の取っ手を握った。
指先は、まだ少しだけ震えていた。
それでも、四音は手を離さなかった。
扉を開けた。
病室には、先客がいた。
ベッドの横の椅子に、女性が座っていた。
四十代くらいの、穏やかな顔つきの人だった。
その隣に、小学生くらいの女の子が、足をぶらぶらさせながら座っていた。
二人とも、ベッドの上で眠る人と、よく似た目をしていた。
女性が、四音を見て、静かに立ち上がった。
「白草さん、ですね」
「……はい」
「来てくださって、ありがとうございます。この子の母です。こっちは、妹」
女の子が、四音を見上げて、ぱっと目を輝かせた。
「あっ! しおんちゃんだ!」
四音は、目を瞬かせた。
「……私を、ご存じなんですか」
「知ってるよ! おにいちゃん、おうちに帰ってくると、しおんちゃんのことばっかり話すんだもん!」
母親が、少し困ったように笑って、女の子の頭に手を置いた。
四音は、何も言えなかった。
それから、深く頭を下げた。
「申し訳、ありませんでした。息子さんが倒れたのは、私の曲のせいです。私が無理をさせました」
「いいえ」
母親は、静かに首を振った。
「この子は、昔から一度決めたら止まらないの。待つのは得意だなんて言うくせに、自分のことは待てないんだから」
母親は、ベッドの上の息子を見た。
「それに、この子が無理をしたのは、あなたのせいじゃない。あなたの歌が、好きだったからよ」
四音は、顔を上げた。
母親は、ベッドの横の棚から、古いノートを一冊取り出した。
表紙の角が擦り切れて、色褪せた、子ども用の自由帳だった。
「これ、この子が小学生の頃のものなの。入院の荷物を取りに家に戻ったとき、この子の机の引き出しから出てきて」
母親は、ノートを開いて、四音に差し出した。
ページいっぱいに、子どもの字で、歌詞のようなものが書きつけてあった。
ところどころ、ひらがなが間違っていた。
音符らしき丸が、線の上に不揃いに並んでいた。
その一番上に、こう書いてあった。
『こうえんの ジャングルジムの 女の子の歌』
四音の息が、止まった。
「近所の公園で、毎日歌っていた女の子がいたんですって。その子の歌を忘れたくないって、聴きながら、ここに書き写していたみたい。その子が来なくなってからも、ずっと、このノートを大事にしていたわ」
母親は、ページをめくった。
次のページにも、その次のページにも、同じ旋律が、何度も書き写されていた。
年を追うごとに、字が少しずつ大人びていった。
最後のほうのページには、プロデューサー科の教科書で覚えたらしい、正しい楽譜の書き方で、あの旋律が清書されていた。
ら、らら、ら。
「去年、この子が帰ってきて、言ったのよ。あの公園の女の子を見つけた、って。今は初星にいて、自分が担当するって」
母親は、少しだけ目を細めた。
「あんなに嬉しそうな顔、久しぶりに見たわ」
四音は、ノートを見つめたまま、動けなかった。
「それから、毎日のように話していたの。白草さんが、初めて自分の歌を歌ったこと。誰かに頭を下げられるようになったこと。新曲の歌詞を、何度も書き直していること。強がっている一行を、自分から直したいと言ったこと」
女の子が、椅子から身を乗り出した。
「おにいちゃんね、しおんちゃんが優勝するところ、いちばんいい席で見るんだって言ってた! それでね、しおんちゃんに、おめでとうって、いちばん最初に言うんだって!」
四音の目から、涙が溢れた。
止めようとした。止まらなかった。
ノートの上に、涙が一粒落ちた。
慌てて袖で拭おうとして、母親にそっと手を止められた。
「いいのよ」
母親は、四音の手に、自分の手を重ねた。
「この子ね、倒れる前の日の夜、電話で言っていたの。二番が、もうすぐできるって。白草さんの声なら、きっと届くって。
自分のことより、あなたのことばかり話していたわ」
母親は、四音の目を、まっすぐに見た。
「だから、白草さん。どうか、自分を責めないで。この子が目を覚ましたとき、あなたが歌っていてくれたら、それが一番、この子のためになるから」
四音は、ノートを胸に抱えたまま、ベッドの上を見た。
眼鏡を外した顔が、眠っていた。
公園で、毎日歌を聴いてくれていた少年。
四音が来なくなってからも、ずっと、四音の歌を書き写していた少年。
四音を見つけて、嬉しそうに家に帰った少年。
四音のために、眠らずにピアノを練習した人。
その人に、四音は、何を報告しようとしていたのだろう。
屋上で、全部を置いていこうとした。
この人が、何年もかけて書き写してきた歌も
この人が、最後に清書してくれた二番も
―この人は、待っていてくれた。
―公園でも。初星でも。今も、眠ったまま。
四音は、ベッドの横に歩み寄った。
それから、動かない手の甲に、指先をそっと重ねた。
温かかった。
「……優勝します」
声が、震えた。
それでも、四音ははっきりと言った。
「必ず、優勝します。貴方に一番いい報告ができるように。貴方が一番最初に、おめでとうと言えるように」
四音は、重ねた指先に、ほんの少しだけ力を込めた。
「だから、優勝するまでに起きていてください。私、待っていますから」
母親が、女の子の肩を抱きながら、静かにうなずいた。
女の子が、小さな声で言った。
「……おにいちゃん、しおんちゃん、来てくれたよ」
モニターの音が、規則正しく鳴っていた。
病室を出ると、撫子が、廊下のベンチから勢いよく立ち上がった。
「お、お姉さま……!」
撫子は、四音の顔を見て、目を丸くした。
「泣いていらっしゃいますわ」
「泣いていません」
「泣いていらっしゃいますわ。目が、真っ赤ですもの」
四音は、袖で目元を拭った。
持ったまま渡せなかった花束に今更気が付いた。
「これは、あとで、あの人の窓辺に飾らせてもらいましょう」
「……はい」
撫子は、四音の顔をじっと見上げていた。
「何を、お話しされましたの?」
四音は、少しだけ考えて、答えた。
「約束してきました。本選で、必ず優勝すると」
撫子の目が、大きく見開かれた。
それから、ゆっくりと、撫子の顔に、泣き笑いのような表情が広がっていった。
「……でしたら、撫子は、それを止めなければなりませんわね」
撫子は、胸を張った。
「優勝するのは、撫子ですもの」
四音は、思わず小さく笑った。
「ええ。望むところです」
それから、少しだけ意地の悪い顔をして、撫子を見下ろした。
「ですから、撫子。本番で手を抜いたら、許しませんよ」
「ぬ、抜きませんわ!」
「本当ですか。貴女、私が泣いているのを見ると、すぐに甘くなるでしょう」
「そ、そんなことはありませんわ!」
「手を抜いたら、すぐにわかりますからね。一年以上、隣で貴女の歌を聴いてきたんですから」
撫子は、真っ赤になって、四音の腕をぽかぽかと叩いた。
「お、お姉さまこそ! 撫子に負けて泣いても、知りませんわよ!」
「泣きません」
「さっき、泣いていらっしゃいましたわ!」
「それとこれとは、別です」
撫子が「ぴぎゃあ……」と頬を膨らませた。
四音は、花束を抱え直して、病室の扉を振り返った。
扉の向こうで、あの人が眠っている。一番いい席で見るのだと、言ってくれた人が。
―必ず。
四音は、撫子と並んで、廊下を歩き出した。