極月を追われたので、初星で歌い直します   作:マロンex

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プロローグ

机の上には、コーヒーの空き缶が並んだままだった。

その隣で、冷めきった紅茶の紙コップが、誰にも飲まれないまま置かれていた。

開いたままのファイル。

最後の欄に、震えた字で書かれた『白草さんに、聴いてもらう』。

 

四音は、鞄からあの自由帳を取り出した。

母親が「あなたが持っていて」と渡してくれたものだった。

それを、ファイルの隣にそっと置いた。

 

それから、空き缶を一本ずつ片づけた。

冷めた紅茶の紙コップを、流しで洗った。

鍵盤の蓋を開けた。

付箋だらけの初心者向けの教本を、最初のページから開く。

人差し指で、鍵盤を一つ押した。

 

「……思ったより、難しいですね」

 

扉の外で、誰かが息を呑む気配がした。

振り返ると、扉の隙間から、いくつもの顔が覗いていた。

 

佑芽が、千奈の肩越しに身を乗り出していた。

その後ろに、美鈴と広と莉波がいた。

 

「し、白草さん……!」

 

千奈が、真っ先に飛び込んできた。

それから、四音の前で立ち止まって、どうしていいかわからないように両手を宙に浮かせた。

四音は、少しだけ迷ってから、その手を握った。

 

「ご心配をおかけしました。パンも、紅茶も、和菓子も、ありがとうございました」

 

千奈の目に、みるみる涙が溜まっていった。

 

「……っ、わ、わたくし……っ」

 

それ以上は、言葉にならなかった。

千奈は、四音の手を握り返したまま、声を上げて泣き出した。

 

佑芽が「白草さん、おかえり!」と叫んで、千奈ごと四音に抱きついた。

莉波が、少し遅れて、その三人をまとめて抱きしめた。

美鈴は、部屋の入口に立ったまま、静かに微笑んでいた。

広は、その隣で、珍しく何も言わずに、四音をじっと見ていた。

 

「……白草さん」

 

美鈴が、小さく言った。

 

「もう、一人で屋上には行かないでくださいね」

 

四音は、三人に抱きしめられたまま、美鈴を見た。

 

「……はい。行きません」

 

広が、ようやく口を開いた。

 

「行くなら、昼間に、みんなで行こう。景色、きれいだから」

 

「……燐羽さんにも、同じことを言われました」

 

「じゃあ、決まり」

 

広は、少しだけ満足そうにうなずいた。

その日から、四音は再び、本選に向けて動き出した。

朝はボイストレーニング。

昼は佑芽の勝負。

放課後は準備室で、あの人が残してくれた二番を、自分の声に馴染ませていく。

夜は、付箋だらけの教本を開いて、伴奏を自分の指で確かめる。

 

時間が、足りなかった。

 

本選まで、あと一か月。

撫子は、去年よりさらに強くなっていた。

燐羽は、本気で勝ちに来ると言った。

あの人が残してくれた二番を、まだ自分の声で歌いこなせていない。

 

―必ず、優勝します。

 

病室で誓った言葉が、頭の中で何度も響いた。

その言葉に追い立てられるように、四音のレッスンの時間は、少しずつ延びていった。

夜は、空調が切れても準備室に残った。

机の端に、自販機で買ったコーヒーの缶が、一本、また一本と並び始めた。

ある夜、準備室の鍵盤に向かっていると、背後で扉が乱暴に開いた。

 

「―あんた、何時だと思ってんの」

 

月村手毬だった。腕を組んで、扉の枠に寄りかかっていた。

 

「……手毬さん。貴女こそ」

 

「忘れ物取りに来ただけ。そしたら、ずっとピアノの音がしてるから」

 

手毬は、机の上のコーヒーの空き缶を見た。

手毬の眉が、ぐっと寄った。

 

「それ、あいつと同じことしてるって、わかってる?」

 

四音の指が、鍵盤の上で止まった。

 

机の端に、空き缶が並んでいる。

三本。四本。

あの人が倒れる前と、同じ光景だった。

紅茶の紙コップは、どこにもなかった。

 

「……わかって、います」

 

「わかってないでしょ」

 

手毬は、ずかずかと準備室に入ってきた。

四音の手元の楽譜をひったくった。

それから、机の上の自由帳に、ちらりと目をやった。

 

「優勝するって約束したんでしょ。美鈴から聞いた」

 

四音は、黙ってうなずいた。

 

「それと、もう一つ」

 

手毬は、少しだけ視線を逸らした。

 

「……燐羽から、連絡が来た。昨日」

 

四音は、顔を上げた。

 

「黒井との契約、切るって。もう一回、ちゃんとアイドルやるって。それから」

 

手毬の声が、ほんの少しだけ詰まった。

 

「中等部の頃のこと、ごめんって。二人を置いて逃げて、ごめんって。……何年越しよ、ほんと」

 

手毬は、乱暴に髪をかき上げた。

 

「で、なんで今さらって聞いたら、あんたのせいだった。去年、あんたが歌ってるのを見て、腹が立ったからだって。あいつ、あんたの歌で、戻ってきたのよ」

 

四音は、何も言えなかった。

燐羽が、通路で言っていた。

手毬と美鈴にも、まだ言っていない。

あなたが最初。責任取りなさいよ、と。

 

「だから」

 

手毬は、四音をまっすぐに睨んだ。

 

「あんたが倒れたら、あいつまで、また止まるかもしれないの。あんたに勝つって言って戻ってきたんだから、あんたがいなかったら、あいつ、誰に勝てばいいのよ」

 

手毬は、机の上の空き缶を、指先で弾いた。

 

「あたし、やっと燐羽と、まともに話せるかもしれないの。それを、あんたのせいで台無しにされたら、たまんないから」

 

それから、少しだけ声を落とした。

 

「それに、あんたが倒れたら、あいつが起きたとき、誰が報告すんの。あんたまで病院のベッドで寝てたら、あいつ、目を覚ました瞬間にまた気絶するわよ」

 

四音は、何も言い返せなかった。

 

「二番のサビ。高いとこで声が詰まってるの、ここ三日ずっと廊下まで聞こえてた。喉で押してるから。腹から出せてない」

 

手毬は、楽譜を四音に突き返した。

 

「明日の朝7時。ボイトレ室。あたしが見てあげる。その代わり、今日はもう寝て」

 

そう言い捨てて、手毬は出ていった。

忘れ物を取りに来たと言ったくせに、何も持たずに。

扉が閉まる直前、廊下から、手毬の小さな声が聞こえた。

 

「……屋上の話聞いて、どんだけ心配したと思ってんのよ、馬鹿」

 

扉が閉まった。

四音は、しばらくその場から動けなかった。

 

それから、机の上の空き缶を、一本ずつ片づけた。

最後の一本を捨てたとき、四音は、自分の手がまた少しだけ震えていることに気づいた。

 

―もう、二度と、あんなことはしない。

 

燐羽の前で誓った言葉を、もう一度、心の中で繰り返した。

それは、いなくならないことだけではなかった。

自分を削って、あの人と同じ場所へ倒れ込むことでもなかった。

 

生きて、抱えて、歌い続けること。

 

四音は、教本を閉じた。

それから、明かりを消して、準備室を出た。

 

翌朝。

ボイストレーニング室には、手毬だけでなく、藤田ことねもいた。

 

「……ことねさん、どうして」

 

「手毬に叩き起こされたの。あんたのスタミナ、本番の二曲目まで持たないって」

 

ことねは、大きなあくびをしながら、四音に紙を一枚押しつけた。

手書きの表だった。

睡眠時間、食事、休憩のタイミング。

びっしりと書き込まれていた。

 

「あたし、昔から貧乏だったから、無理して倒れかけたこと何回もあるから。削るとこと削っちゃだめなとこ、わかってんの」

 

ことねは、表の一番下を指でとんとんと叩いた。

そこには、太い字で一行だけ書いてあった。

 

『夜十一時以降、準備室禁止』

 

「これ、守んなかったら、あたし本気で怒るからね」

 

四音は、その一行を見つめた。

 

「……ことねさんも、屋上のことを」

 

「知ってる。だから書いたの」

 

ことねは、そっぽを向いた。

 

「言っとくけど、タダじゃないからね。優勝したら、焼肉おごりで。生きてないとおごれないんだから、ちゃんと生きてなさいよ」

 

「……ふふっ」

 

「何笑ってんの」

 

「いえ。ありがとうございます、ことねさん」

 

ことねは、耳まで赤くなってそっぽを向いた。

手毬のレッスンは、容赦がなかった。

一時間で、四音は何度も喉で押すなと怒鳴られ、何度も腹から出し直させられた。

レッスンが終わる頃、ボイストレーニング室の扉が勢いよく開いた。

 

「白草さん! 勝負しよう!」

 

佑芽だった。

 

「……佑芽さん。今は、それどころでは」

 

「だからだよ!」

 

佑芽は、ずかずかと部屋に入ってきて、四音の前に立った。

 

「ずっとお休みにしてたけど、もう待たない! 本選まで毎日、わたしと勝負して! ダンスでも歌でも体力でも、なんでも!」

 

「……どうして、今なんですか」

 

「白草さん、一人で練習してると、どんどん苦しそうな顔になるもん」

 

佑芽は、まっすぐに四音を見た。

 

「でも、わたしと勝負してるときの白草さん、いつもちょっとだけ楽しそうなんだよ。自分じゃ気づいてないかもだけど!」

 

佑芽は、少しだけ声を落とした。

 

「……それにね、白草さんが楽しそうにしてないと、わたし、また屋上のこと思い出しちゃうから」

 

四音は、言葉を失った。

いつも元気な佑芽の目が、ほんの少しだけ潤んでいた。

 

隣で、手毬が小さく鼻を鳴らした。

 

「……いいんじゃない。一人でやるより、張り合いがあるでしょ」

 

その日から、佑芽との勝負が始まった。

 

朝はランニング。

佑芽が「お姉ちゃんと毎朝やってるコース!」と言って、四音を引っ張り出した。

途中から咲季も合流して、「ライバルに勝ちたいなら、私たちと同じメニューをこなしなさい」と言いながら、

一度も四音を置いていかなかった。

 

三日目の朝、ランニングの途中で、咲季が四音の隣に並んだ。

 

「佑芽から聞いたわ。屋上のこと」

 

四音は、足を止めかけた。

咲季は、走る速さを変えなかった。

 

「私、あなたのこと、まだ全部は信用してない。でも」

 

咲季は、前を向いたまま言った。

 

「佑芽が、あなたと勝負するのを毎日楽しみにしてるの。あの子をがっかりさせたら、許さないから。……だから、ちゃんと生きてなさい」

それだけ言って、咲季は速度を上げて、佑芽の隣へ戻っていった。

ランニングから戻ると、寮の玄関で、千奈が紙袋を抱えて待っていた。

 

「お、おはようございますわ! 朝ごはんですの!」

 

中には、クリームパンと、小さな栄養補助のゼリーが入っていた。

紙袋の口に、丁寧な字のメモが貼られていた。

 

『ことねさんの表の通りに』

 

「……毎朝、ですか」

 

「ま、毎朝ですわ! わたくし、早起きは得意ではありませんけれど、倉本千奈ですもの!」

 

千奈は胸を張ってから、小さく付け足した。

 

「白草さんが、また倒れてしまったら……また、どこかへ行ってしまったら、嫌ですもの」

 

千奈の声が、少しだけ震えた。

 

四音は、紙袋を受け取った。

それから、千奈の頭に、そっと手を置いた。

莉波に、そうしてもらったように。

 

「……行きません。どこにも」

 

千奈は、真っ赤になって固まった。

それから、ぶんぶんと首を縦に振った。

昼休みは、佑芽とダンスの通し。

 

四音が同じターンで何度も軸をぶらしていると、体育館の入口から声がした。

 

「四音ちゃん、ストップ!」

 

清夏だった。

リーリヤを連れて、ジャージ姿で入ってきた。

 

「さっきから見てたけど、ターンのとき重心がちょっと後ろなんだよね。あたし、膝やってから、そういうの気になっちゃって」

 

清夏は、四音の隣に立って、ゆっくりと同じ振りをして見せた。

 

「ほら、ここで膝、ちょっとだけ緩める。そしたら軸がまっすぐ立つから」

 

四音は、言われた通りにやってみた。

一度で、ターンが安定した。

 

「……ありがとうございます、紫雲さん」

 

「清夏でいいってば〜」

 

清夏は笑ってから、ほんの少しだけ真顔になった。

 

「……屋上の話、聞いた。あたし、膝やったとき、もう全部やめたいって思ったことあるから、ちょっとだけわかる」

 

清夏は、四音の肩を軽く叩いた。

 

「でも、やめなかったから、今ここにいるんだよね。四音ちゃんも、そうしてよ」

 

その後ろで、リーリヤが黙って見ていた。

四音が二回目のターンで、また少しだけよろけたとき、リーリヤが小さく呟いた。

 

「……左足、です。着地の向きが、少しだけ内側」

 

四音は、リーリヤを見た。

リーリヤは、すぐに目を逸らした。

 

「清夏ちゃんが、手伝うって言ったから。わたしは、付き添いです」

 

それでも、その日の昼休みが終わるまで、リーリヤは一度も体育館から出ていかなかった。

四音がよろけるたびに、小さな声で、足の向きを教えてくれた。

 

夕方、病院へ向かう四音の隣には、ときどき莉波がいた。

 

「今日は、お姉さんもついていっていい?」

 

最初にそう言われたとき、四音は断ろうとした。

けれど莉波は、返事を待たずに隣を歩き始めていた。

莉波は、病室の中までは入らなかった。

廊下のベンチで、四音が出てくるのを待っていた。

帰り道、四音が黙っていると、莉波も黙って歩いた。

四音が何か話すと、うん、うん、とだけ相槌を打った。

 

ある日の帰り道、莉波がふと言った。

 

「四音ちゃん、最近ちゃんと寝てる?」

 

「……ことねさんの表の通りに。十一時以降は、準備室に入っていません」

 

「うん、えらい」

 

莉波は、四音の頭に、ぽんと手を置いた。

 

「お姉さんね、四音ちゃんが頑張ってるのは知ってるから。だから、頑張りすぎてないかだけ、見てるね。……もう、あんな夜はいやだから」

 

四音は、何も言えなかった。

頭に置かれた手が、清算の日と同じように、ひどく不思議だった。

 

夜になると、篠澤広が新曲の譜面を持って準備室にやってきた。

 

「一晩で分析した。ブレスの位置、三か所変えたほうがいい。そのほうが、二番のサビで喉が楽になる」

 

「……一晩で、ですか」

 

「きついの、好きだから」

 

広は、少しだけ得意そうに言った。

それから、時計を見た。

 

「あと二十分で十一時。ことねさんに怒られる前に、帰ろう」

 

美鈴は、何も言わずに、毎日夕方になると準備室の机に紅茶の紙コップを一つ置いていくようになった。

甘いほうの。

四音が初めてそれに気づいた日、紙コップの下に、小さなメモが挟まっていた。

 

『コーヒーは、もう要りませんね。 美鈴』

 

四音は、机の端に残っていた最後の空き缶を、片づけた。

 

ある日の放課後、ステージの立ち位置を確かめていた四音の隣に、有村麻央がふらりと現れた。

 

「キミの歌、去年の決勝で聴いたよ」

 

「……有村さん」

 

「舞台袖でね。子役の頃の、あきらの真似をしてる子が一人いたのを、ふと思い出したんだ」

 

四音は、息を止めた。

麻央は、優しく笑った。

 

「もう、ボクの真似はしなくていいよ。キミの歌は、キミの立ち方で歌えばいい。客席の一番奥まで、まっすぐ届くように。それだけ、教えてあげる」

 

その日、麻央はステージの上で、四音に立ち方を一から教えた。

その週の金曜日の夜。

旧茶道部の部屋の前を通りかかったとき、中から歌声が聞こえた。

 

四音は、足を止めた。

 

一つは、手毬の声だった。

まっすぐで、強くて、少しだけ尖っていた。

その下に、柔らかく寄り添うような声があった。

美鈴だった。

そして、その二つの声の上を、張りつめた弦のような声が、迷いなく伸びていった。

 

燐羽の声だった。

 

四音は、引き戸の隙間から、そっと中を覗いた。

畳の上に、三人が座っていた。

手毬が楽譜を膝に広げ、美鈴が急須を脇に置いたまま目を閉じて歌い、燐羽が壁にもたれて、天井を見上げながら声を伸ばしていた。

三人の声が、一つに重なっていた。

途中で、手毬が歌うのをやめた。

 

「……燐羽。今のとこ、半音上ずった」

 

「上ずってない」

 

「上ずった。昔から、そこでいつも上ずる」

 

「……昔の話、しないでよ」

 

燐羽がそっぽを向いた。

美鈴が、くすくすと笑った。

 

「でも、昔みたいですね。三人で歌うの」

 

手毬も燐羽も、何も言わなかった。

 

けれど、手毬は楽譜を持ち直して、もう一度同じ小節の頭を指さした。

燐羽は、小さくため息をついてから、壁から背中を離した。

 

「……もう一回」

 

燐羽が言った。

三人の声が、また重なった。

今度は、上ずらなかった。

四音は、引き戸の前で、しばらく動けなかった。

 

燐羽が、通路で泣きながら言っていた。

手毬と美鈴に、まだちゃんと謝れていない、と。

手毬が、準備室で言っていた。やっと、燐羽とまともに話せるかもしれない、と。

 

その三人が、今、ここで歌っている。

 

―あいつ、あんたの歌で、戻ってきたのよ。

 

手毬の言葉を、思い出した。

 

四音は、そっと引き戸から離れた。

廊下の壁にもたれて、目を閉じた。

 

極月にいた頃、四音の歌は、誰かを壊すためのものだった。

他人を蹴落として、勝つためのもの。

四音が歌うたびに、誰かが傷つき、誰かが居場所を失った。

 

去年のN.I.Aで、四音は、初めて誰も蹴落とさずに歌った。

公園の歌を。でたらめな、四音だけの歌を。

その歌を聴いて、燐羽は、もう一度アイドルに戻ると決めた。

そして今、旧茶道部の部屋で、三人が一緒に歌っている。

 

―誰かの、助けになった。

 

胸の奥で、何かが小さく温かくなった。

罪は消えない。

それは、変わらない。

四音が踏みにじった人たちの傷は、今もどこかに残っている。

 

それでも。

 

四音の歌は、誰かを壊すだけのものではなかった。

誰かが、もう一度歩き出すきっかけにも、なれた。

 

ほんの少しだけ。本当に、ほんの少しだけ。

四音は、自分のことを、嫌いではなくなった気がした。

 

引き戸の向こうで、三人の声がまた重なった。

四音は、目を閉じたまま、その歌声を最後まで聴いていた。

それから、ポケットの中の端末を取り出した。

時計は、十時四十分を指していた。

 

―ことねさんに、怒られる前に。

 

四音は、少しだけ笑って、寮へ向かって歩き出した。

 

一週間が経った昼休みの終わり。

 

清夏が先生に呼ばれて体育館を出ていったあと、四音とリーリヤだけが残った。

四音が汗を拭きながらペットボトルの水を飲んでいると、リーリヤが、少し離れたところで立ち止まっていた。

何か言いたそうに、ジャージの裾を握って。

 

「……葛城さん?」

 

リーリヤは、しばらく黙っていた。

それから、意を決したように顔を上げた。

 

「白草さん。少しだけ、お話ししてもいいですか」

 

「……はい」

 

リーリヤは、四音の前まで歩いてきた。

いつもの付き添いの距離より、一歩だけ近かった。

 

「去年のN.I.A、わたし、全部見てました。予選も、本選も」

 

四音は、黙って聞いていた。

 

「控室で、白草さんが衣装に細工されたのも、あとで聞きました。倉本さんと姫崎さんが守ったって。それで、白草さんが自分で運営に報告しに行ったって」

 

リーリヤは、ジャージの裾を握る手に、少しだけ力を込めた。

 

「わたし、それを聞いても、まだ信じられませんでした。前の白草さんなら、そういうこともお芝居にできる人だと思ってたから」

 

「……当然です」

 

「でも、本選の白草さんの歌、聴いてしまったんです」

 

リーリヤの声が、少しだけ揺れた。

 

「お芝居で、あんなふうには歌えないと思いました。清夏ちゃんにひどいことをした人の歌だってわかってるのに、わたし、気づいたら、一番大きく拍手してました」

 

それでも、とリーリヤは続けた。

 

「それでも、まだ、怖かったんです。また清夏ちゃんが傷つくんじゃないかって。だから、清算の日も、まだ信じられませんって言いました」

 

体育館の高い窓から、昼の光が斜めに差し込んでいた。

 

「……屋上の夜のこと、清夏ちゃんから聞きました」

 

四音の肩が、小さく跳ねた。

リーリヤは、四音から目を逸らさなかった。

 

「聞いたとき、わたし、自分が言ったことを思い出しました。清夏ちゃんに近づかないでください。まだ信じられません。白草さんがどうするのか、見てます、って」

 

リーリヤの唇が、震えた。

 

「わたし、見てるって言ったのに。白草さんが一人で部屋に閉じこもってたとき、何もしませんでした。倉本さんはパンを、姫崎さんは紅茶を、秦谷さんと篠澤さんは和菓子を置いていったのに。わたしは、何も」

 

「……葛城さん」

 

「だから、この一週間、ずっと見てました。付き添いだって言って」

 

リーリヤは、深く息を吸った。

 

「白草さんは、毎朝、花海さんたちと走っていました。倉本さんのパンを、毎朝ちゃんと受け取って、ちゃんと食べていました。藤田さんの表の通りに、夜の十一時には、必ず寮に帰っていました」

 

リーリヤは、少しだけ目を伏せた。

 

「それから、花海さん、佑芽さんと勝負しているとき。白草さん、笑ってました。前の、作ったみたいな笑い方じゃなくて」

 

四音は、何も言えなかった。

 

「金曜日の夜、旧茶道部の前で、白草さんを見かけました。月村さんたちが歌っているのを、廊下で聴いていましたよね」

 

四音は、息を呑んだ。

 

「白草さん、泣きそうな顔で、でも、すごく嬉しそうでした。誰かが一緒に歌えるようになったことを、自分のことみたいに喜んでる顔でした」

 

リーリヤは、顔を上げた。

 

「そんな顔をする人が、清夏ちゃんを、もう一度傷つけるとは思えません」

 

リーリヤの目に、涙が滲んでいた。

 

「清夏ちゃんにも、言われました。リーリヤ、あたしはもう四音ちゃんのこと、ちゃんと見ててあげたいって思ってる。リーリヤはどう、って」

 

リーリヤは、ジャージの裾から手を離した。

 

「わたし、ずっと、清夏ちゃんを守らなきゃって思ってました。でも、清夏ちゃんは、もうとっくに、自分で白草さんのこと見て、決めてたんです。わたしだけが、怖がって、立ち止まってた」

 

それから、リーリヤは、まっすぐに四音を見た。

 

「だから、わたしも、もう一度、白草さんのことを信じてみることにしました」

 

四音は、何も言えなかった。

 

「それと」

 

リーリヤは、両手を体の前で揃えて、深く頭を下げた。

 

「ごめんなさい」

 

四音は、目を見開いた。

 

「清算の日、白草さんがあんなに一生懸命謝りに来てくれたのに、わたし、まだ信じられませんって、突き放しました。白草さんが一人で苦しんでたとき、見てるって言ったくせに、何もしませんでした。この一週間も、付き添いですなんて言って、ちゃんと向き合わないで」

 

リーリヤの声が、震えた。

 

「白草さんが屋上に行ってしまったとき、わたしも、ほんの少しだけ、白草さんを追い詰めた一人だったかもしれないって、思いました。……ごめんなさい」

 

「……葛城さん。顔を上げてください」

 

リーリヤが、ゆっくりと顔を上げた。

目の縁が、赤かった。

四音は、少しだけ言葉を探した。

 

「貴女は、何も悪くありません。貴女は、大切な人を守ろうとしただけです。それは、正しいことです」

 

四音は、静かに首を振った。

 

「屋上に行ったのは、私が、自分の罪から逃げようとしたからです。貴女のせいでは、ありません。誰のせいでも」

 

それから、四音は少しだけ笑った。

 

「それに、貴女は、何もしなかったわけではありませんよ。この一週間、私がよろけるたびに、足の向きを教えてくださいました。付き添いだと言いながら、一度も体育館から出ていきませんでした」

 

リーリヤは、きょとんとした顔をした。

 

「私も、撫子を守るためなら、貴女と同じことをしたと思います。……いえ、実際に、しましたから」

 

リーリヤは、しばらく四音を見つめていた。

それから、小さく、本当に小さく笑った。

 

「……白草さんって、思ってたより、不器用な人なんですね」

 

「よく言われます。最近は、特に」

 

リーリヤは、袖で目元を拭った。

 

「明日も、来ます。今度は、付き添いじゃなくて。左足の向き、まだ直ってませんから」

 

「……お願いします」

 

体育館の入口から、清夏が「リーリヤー、次の授業始まるよー!」と呼ぶ声がした。

リーリヤは「今行く!」と返事をして、四音にもう一度小さく頭を下げてから、駆けていった。

入口のところで、清夏がリーリヤの肩を抱いて、四音に向かって大きく手を振った。

 

四音は、少しだけためらってから、手を振り返した。

胸の奥が、また少しだけ、温かくなった。




次回最終回です
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