極月を追われたので、初星で歌い直します   作:マロンex

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ありがとうと伝えるために

控室の鏡の前で、四音は胸元のリボンを結び直していた。

淡い水色の、衣装の色とはまるで合わないリボン。

去年の予選で千奈がくれて、それから一度も手放していないものだった。

 

鞄の中には、あの自由帳が入っていた。

表紙の角が擦り切れた、子ども用のノート。

プロデューサーの母親から、預かったものだった。

 

端末が震えた。

 

『おねえちゃんのとなりのせき、ちゃんととってあるよ! おにいちゃんのせき!』

 

プロデューサーの妹からだった。

母親の端末から送ってきたらしかった。

写真が一枚、添えられていた。客席の真ん中あたりに、三つ並んだ席。

端に母親が座り、その隣で妹がピースをしていた。

そのもう一つ隣は、空いたままだった。

 

いちばんいい席。

 

四音は、その写真をしばらく見つめていた。

それから、端末を伏せた。

控室の扉が、ノックされた。

 

「お姉さま」

 

撫子だった。

極月の衣装に身を包んで、胸元に小さな花の髪留めをつけていた。

 

「……撫子」

 

「本日は、手加減いたしませんわ」

 

撫子は、まっすぐに四音を見た。

 

「お姉さまが手を抜いたら、撫子、すぐにわかりますもの。一年以上、隣で聴いてまいりましたから」

 

四音は、思わず小さく笑った。

病院の廊下で、四音が撫子に言った言葉だった。

 

「……ええ。お互いに」

 

扉の外で、もう一人分の足音が止まった。

燐羽だった。

壁にもたれて、腕を組んでいた。

 

「白草。藍井」

 

燐羽は、二人を順に見た。

 

「全力で来なさい。私も、全部出すから」

 

燐羽の目は、もう気だるげではなかった。

 

「……客席に、手毬さんと美鈴さんがいらっしゃいますね」

 

四音が言うと、燐羽の耳の先が、ほんの少しだけ赤くなった。

 

「関係ないでしょ」

 

「関係あると思いますわ」

 

撫子が、くすりと笑った。

燐羽が「藍井まで」と顔をしかめた。

三人は、それぞれの顔を見た。

それから、誰からともなく、小さくうなずき合った。

 

出番は、撫子が先だった。

 

舞台袖のモニターに、撫子の姿が映っていた。

 

去年よりさらに伸びた高音。

一度もぶれないターン。

客席の一番奥まで届く笑顔。

最後のポーズが決まった瞬間、ホールが割れるような拍手に包まれた。

 

続いて、燐羽。

 

照明の下に立った燐羽は、控室で見たのとは別人のようだった。

張りつめた弦のような声が、ホールを満たした。

誰にも媚びず、誰にも寄りかからない声。

けれど、去年とは違った。

その声の芯に、どこか温かいものが通っていた。

 

モニターの端に、初星の応援席が小さく映っていた。

手毬が、身を乗り出してステージを見つめていた。

その隣で、美鈴が膝の上で両手を重ねて、静かに微笑んでいた。

 

最後の一音が消えた瞬間、手毬が、誰よりも先に立ち上がって拍手をしていた。

 

『初星学園、白草四音さん』

 

四音は、ステージへ歩き出した。

照明が灯った。客席の暗がりが、海のように広がった。

 

初星の応援席が見えた。

千奈。莉波。佑芽。美鈴。広。手毬。ことね。咲季。清夏。リーリヤ。

客席の真ん中あたりに、三つ並んだ席が見えた。

母親と、妹。

その隣に、一つだけ、空いた席があった。

そして、客席の最後列。

照明の届かない壁際に、つばの広い帽子の影。

 

―月花姉様。

 

前奏が流れた。

四音は、歌い出した。

 

一番は、完璧だった。

手毬に叩き込まれた腹からの声。

麻央に教わった立ち方。

清夏に直された軸。

リーリヤに教わった、左足の向き。

客席の空気が、四音の声に引き寄せられていくのがわかった。

 

間奏。

そして、二番。

あの人が、倒れる直前に完成させた二番。

 

入りのブレスを吸った、その瞬間だった。

 

ほんのわずかに、ステップが遅れた。

半拍。客席の誰も気づかないかもしれないほどの、小さなずれ。

けれど、四音は気づいた。気づいた瞬間、何かが崩れた。

 

―間違えた、本番で、明確なミスをした

 

あの人の二番を。

あの人が、眠らずに、咳をしながら、最後まで仕上げてくれた二番を。

客席の空いた席が、目に入った。

その瞬間、目の前のステージが、ぐにゃりと歪んだ。

 

夜の準備室だった。

 

閉じた扉の向こうから、ピアノの音が聞こえていた。

たどたどしく、何度もつっかえながら。

それから、音が途切れて、咳が聞こえた。

長い咳。止まらない咳。

 

扉の取っ手に、四音の手がかかっていた。

扉の向こうで、ピアノの椅子が、がたん、と倒れる音がした。

鍵盤の上に、何かが崩れ落ちる、不協和音。

それから、何の音もしなくなった。

 

床に散らばった五線譜。

冷めた紅茶の紙コップ。

開いたままのファイル。

椅子の背に畳んで掛けられた、四音のカーディガン。

その全部の真ん中に、眼鏡が外れたまま、動かないあの人が倒れていた。

 

四音は、その場にいなかった。

いなかったはずなのに、その光景が、何度も見たことがあるように、はっきりと見えた。

扉の外で、四音は手を離していた。

 

廊下を引き返していた。

 

―私が、扉を開けなかったから。

 

―私が、ちゃんと言わなかったから。

 

―私の曲のために、あの人は。

 

それから、屋上の風が、頭の中で吹いた。

柵の向こうの、街の明かり。

足元の感覚が、ふっと遠のいていくような感覚。

 

―謝っても、罪は消えない。

 

―生きて、歌うと決めたのに。

 

―結局、私は、何も変われなかった。

 

極月で誰かを蹴落としていた頃と、何も変わっていない。

誰かを傷つけて、また大事なところで、立ち止まっている。

 

声が、出なかった。

 

喉が、締めつけられていた。

足が、床に縫いつけられたように動かなかった。

伴奏だけが、四音を置いて進んでいく。

二番のサビが、誰にも歌われないまま流れていく。

 

客席が、ざわめき始めた。

 

舞台袖で、スタッフが動くのが見えた。

インカムに何か話している。

誰かが、ステージに向かって一歩踏み出した。

 

四音は、ただ立ち尽くしていた。

 

その刹那だった。

 

「――愚妹っ!!」

 

ホール全体を、ひとつの声が貫いた。

客席の最後列で、一人の女性が立ち上がっていた。

帽子を脱ぎ捨て、長い髪をなびかせて。

 

白草月花だった。

ざわめきが、一瞬で止んだ。

 

月花は、誰の視線も気にしていなかった。

ただまっすぐに、ステージの上の四音だけを見ていた。

 

「お前の覚悟は、その程度か!」

 

四音の肩が、大きく震えた。

 

「一度躓いたくらいで足を止めるのか! あの男が待っているのは、そんな歌か!」

 

月花の声が、四音の胸の真ん中に突き刺さった。

 

それから、月花の声が、ほんの少しだけ変わった。

 

「―生きて、歌うと決めたのだろう!」

 

四音は、息を呑んだ。

 

屋上の夜のあと、月花は、何も言わずに四音の隣に座っていた。

何も聞かなかった。ただ、冷たい手を重ねていた。

その姉が今、ホールの一番奥から叫んでいた。

 

「白草の名を背負っているなら、白草の力を見せてみろ! 四音っ!!」

 

名前を、呼ばれた。

愚妹ではなく。四音、と。

 

その瞬間、喉を締めつけていたものが、ほどけた。

夜の準備室が、消えた。屋上の風が、止んだ。

 

―変われなかったのかもしれない。

 

―それでも。

 

―今、ここで歌うことは、まだできる。

 

四音は、息を吸った。

腹の底まで。

手毬に教わった通りに。

伴奏は、もう二番のサビの最後の小節に差しかかっていた。

 

間に合わない。

それでもいい。

 

四音は、伴奏が終わるのを待たずに、歌い出した。

 

ーつよがりの ことばはもう いらない

 

伴奏とずれていた。

それでも、四音は止まらなかった。

音響席で、誰かが慌てて伴奏を二番の頭に戻した。

ずれていた音が、四音の声に追いついた。

 

まっていて まっていて

こんどはわたしが むかえにいく

すべてを背負って迎えに行く

 

声が、ホールの一番奥まで届いた。

 

麻央に教わった通りに。まっすぐに。

最後列の壁際に立つ、姉に向けて。

客席の真ん中の、空いた席に向けて。

そして、ここにはいない、病室で眠る人に向けて。

 

震えていた。

完璧ではなかった。

 

それでも、四音の、四音だけの声だった。

生きている、四音の声だった。

 

最後の一音が消えた。

ホールは、しんと静まり返った。

そして、拍手が起きた。

 

初星の応援席から。

撫子の席から。

燐羽の席から。

そして、ホール全体から。

 

客席の真ん中で、プロデューサーの母親が、両手で口元を覆って泣いていた。

それでも、その手を離して、誰よりも大きく拍手をしていた。

隣で妹が、母親の腕にしがみついて、空いた席のほうを何度も振り返っていた。

四音は、深く頭を下げた。

顔を上げたとき、客席の最後列に、もう月花の姿はなかった。

脱ぎ捨てられた帽子だけが、座席に残っていた。

 

ファーストステージの中間結果は、ロビーの大型モニターに映し出された。

 

『一位 藍井撫子(極月学園)』

 

『二位 賀陽燐羽(極月学園)』

 

その下に並んだ四音の名前を見て、四音は、息をするのを忘れた。

 

五位だった。

 

撫子との差は、絶望的だった。

途中で止まった数秒。

伴奏とずれた二番のサビ。

審査員の評価は、正直だった。

後半の歌声に高い点はついていたが、それでは到底届かない。

 

ファイナルステージで撫子を逆転するには、N.I.Aの歴代最高得点に近い点が必要だった。

四音は、ふらりとモニターの前から離れた。

 

誰にも声をかけられないうちに、控室へ戻った。

パイプ椅子に座ると、膝が震えていた。

鞄の中の自由帳が、目に入った。表紙の角が擦り切れた、子ども用のノート。

 

―結局、私は、何も変われなかった。

 

ステージの上で浮かんだ言葉が、また頭の中で響いた。

控室の扉が、ノックもなしに開いた。

 

「―白草」

 

燐羽だった。その後ろに、手毬と美鈴がいた。

三人が、四音の前に並んで立った。

 

「……賀陽さん。手毬さん。美鈴さん」

 

「五位だったわね」

 

燐羽が、腕を組んだまま言った。

四音は、うつむいた。

 

「……ええ。結局、変われませんでした。一番大事なところで、また、止まってしまって」

 

「は?」

 

燐羽の声が、低くなった。

 

「変われなかった? 何言ってんの、あなた」

 

「極月の頃と、同じです。大事なところで、自分のことしか考えられなくて。あの人のことを思い出して、勝手に崩れて―」

 

「じゃあ、私を変えたのは誰よ」

 

四音は、顔を上げた。

 

燐羽は、まっすぐに四音を見下ろしていた。

 

「黒井さんの言う通りにステージに立って、言われた順位を取って、それで終わり。去年までの私は、そうだった。それを変えたのは、誰の歌よ」

 

燐羽の声が、少しだけ震えた。

 

「私が手毬と美鈴に謝れたのも、三人でまた歌えるようになったのも、全部、あなたが去年、あんな顔で歌ってたからでしょ。それで、変われなかった? ふざけないでよ」

 

四音は、何も言えなかった。

手毬が、燐羽の隣に並んだ。

 

「あたし、去年のあんたのこと、大っ嫌いだった」

 

手毬は、ぶっきらぼうに言った。

 

「初星に来たばっかりの頃のあんたも、嫌いだった。作り笑いばっかりで、誰にも頭下げなくて、いつ何するかわかんなくて」

 

手毬は、少しだけ視線を逸らした。

 

「でも、今のあんたは、毎朝七時に、文句言わずにボイトレ室に来る。喉で押すなって言ったら、ちゃんと腹から出し直す。十一時には、ちゃんと寮に帰る。……そういうの、前のあんたには、できなかったでしょ」

 

それから、手毬はちらりと燐羽を見た。

 

「それに、こいつを連れ戻したのは、あんただし」

 

燐羽が、「こいつって言わないで」と小さく抗議した。

 

美鈴が、二人の間から一歩前に出た。

いつもの眠たげな目で、四音の前にしゃがみ込んだ。

 

「白草さん。金曜日の夜、旧茶道部の前で、私たちの歌を聴いていらっしゃいましたよね」

 

四音は、目を見開いた。

 

「引き戸の隙間から、少しだけ見えました。白草さん、とても嬉しそうなお顔をしていらっしゃいました。誰かが一緒に歌えるようになったことを、ご自分のことみたいに」

 

美鈴は、四音の手を、そっと両手で包んだ。

 

「極月の頃の白草さんは、きっと、あんなお顔はなさらなかったと思います」

 

四音の目から、涙がこぼれた。

 

燐羽が、ため息をついた。

それから、四音の前にしゃがみ込んで、美鈴の手の上に、自分の手を重ねた。

手毬も、少しだけ迷ってから、その上に手を重ねた。

三人分の手が、四音の手を包んでいた。

 

「白草」

 

燐羽が言った。

 

「ファイナル、何歌うの」

 

「……公園の歌です。あの人が、ずっと書き写してくれていた歌」

 

「そう」

 

燐羽は、少しだけ口の端を上げた。

 

「だったら、あの空いてる席に向けて歌いなさい。客席の真ん中の。あなたのプロデューサーの席」

 

四音は、息を呑んだ。

 

「……知っていたんですか」

 

「あの子の妹が、客席で一生懸命、隣の席を取っておいてたの、ここから丸見えだったわよ」

 

燐羽は、立ち上がった。

 

「全力で来なさい。私も、全部出すから。……今度は、あなたに勝ちたいって、本気で思ってるんだから」

 

手毬が「あたしは極月じゃないから応援席にいるけど」と付け足した。

 

「燐羽も、白草も、どっちも応援してるから。……どっちが勝っても、文句は言わないし」

 

美鈴が、ふわりと笑った。

 

「では、私は、お二人ともに、甘いものを用意しておきますね」

 

控室の扉が、また開いた。

息を切らせた撫子が、立っていた。

 

「白草四音」

 

撫子は、四音の前に立って、まっすぐに言った。

 

「撫子、一位ですわ。このまま勝ったら、撫子の二連覇ですわ」

 

「……知っています」

 

「でも、そんな勝ち方、撫子はちっとも嬉しくありませんわ。お姉さまが本気を出さないまま勝つなんて、撫子は許しませんの。ファイナルで、全部出してくださいまし」

 

撫子は、ぷいと背を向けて出ていった。

去り際に、扉の向こうで小さく「……がんばってくださいまし」と聞こえた気がした。

 

燐羽と手毬と美鈴が、顔を見合わせて、小さく笑った。

 

四音は、涙を拭った。

それから、鞄の中の自由帳を、そっと胸に抱いた。

 

『こうえんの ジャングルジムの 女の子の歌』

 

―すべては変わらないかもしれない

 

―でも、この人たちは、少しでも変わった私を見ていてくれた。

 

四音は、立ち上がった。

 

「……行ってきます」

 

ファイナルステージ。

 

舞台袖で、四音は目を閉じていた。

 

―優勝しなければ。

 

病室で誓った言葉が、頭の中で何度も響いた。

あの人のために。あの人が一番いい席で見られるように。

一番最初に、おめでとうと言えるように。

 

そのためには、勝たなければ。

今まで支えてくれた撫子にも、燐羽にも。

歴代最高得点に近い点を取らなければ。

 

胸が、締めつけられた。

ファーストステージで止まったときと、同じ締めつけだった。

 

―また、同じことを。

 

四音は、目を開けた。胸元の水色のリボンが、照明を受けて揺れていた。

千奈がくれたリボンだった。

 

去年の予選で、衣装に細工をされたとき。

千奈が、自分の予備を差し出してくれた。

色は合いませんけれど、ないよりましですわ、と。

莉波が、裾を縫い直してくれた。

 

―ああ。

 

四音は、リボンにそっと触れた。

このリボンだけではなかった。

 

手毬に叩き込まれた、腹からの声。

麻央に教わった立ち方。

清夏に直された軸。

リーリヤに教わった、左足の向き。

広が一晩で書き直してくれた、ブレスの位置。

ことねのメッセージ。

美鈴の紅茶。

佑芽との毎日の勝負。

咲季の、ちゃんと生きていなさいという言葉。

千奈の、毎朝のパン。

莉波の、病院までの帰り道。

屋上で腕を掴んでくれた撫子。

泣きながら叱ってくれた燐羽。

黙って隣に座ってくれた月花姉様。

 

それから、何年も公園の歌を書き写して、四音を待っていてくれた人。

この歌は、四音一人で作ったものではなかった。

 

四音は、深く息を吸った。

 

―勝つために、歌うのではなく。

 

―ありがとうと伝えるために。

 

―届けたい人に、届けるために。

 

胸の締めつけが、ゆっくりとほどけていった。

四音は、ステージへ歩き出した。

照明が灯った。

客席の暗がりが、海のように広がった。

 

四音は、歌い出した。

一音目で、ホールの空気が変わった。

四音の声は、ファーストステージとはまるで違っていた。

強かった。

けれど、ただ強いだけではなかった。

張りつめてもいなかった。

どこまでも柔らかく、どこまでもまっすぐに、ホールの隅々まで広がっていった。

 

四音は、歌いながら、客席を見ていた。

 

ありがとう、と。

 

屋上で、いなくなろうとした。

それでも、みんなに引き戻されて、支えられて、今、ここにいる。

 

生きて、ここで、歌っている。

 

―待っていてください。

 

―届くまで、何度でも歌いますから。

 

初星の応援席で、手毬が、いつの間にか身を乗り出していた。

組んでいた腕はほどけて、両手が膝の上で強く握られていた。

その隣で、美鈴が目を閉じて、静かに唇を動かしていた。

一緒に歌っているようだった。

 

千奈が、両手を胸の前で握りしめたまま泣いていた。

莉波が、その背中をさすりながら、自分も目元を拭っていた。

舞台袖で、燐羽が、腕を組んだまま動かなかった。

 

その隣で、撫子が、瞬きひとつせずにステージを見つめていた。

撫子の頬を、涙が伝っていた。

 

客席の真ん中で、プロデューサーの母親が、両手で口元を覆っていた。

妹が黙ってステージを見上げていた。

 

最後の一音を、四音は、両手を広げて歌い切った。

公園のジャングルジムのてっぺんで、幼い四音がそうしていたように。

 

音が消えた。

ホールは、完全な静寂に包まれた。

一秒。二秒。三秒。

 

誰も、息をしていないようだった。

そして、爆発するような拍手が起きた。

 

審査員席で、誰かが立ち上がっていた。

一人、また一人と。

客席の人たちも、次々に立ち上がっていった。

拍手が、波のように何度も押し寄せて、いつまでも止まなかった。

 

客席の真ん中で、プロデューサーの母親が、両手で顔を覆って泣いていた。

それでも、すぐにその手を離して、立ち上がって拍手をしていた。

妹が、母親の隣で、飛び跳ねながら手を叩いていた。

ファイナルステージの得点が、スクリーンに映し出された。

 

司会の声が、一瞬、言葉に詰まった。

 

『……N.I.A史上、最高得点です』

 

総合得点の表が切り替わった。

五位から、一つずつ、四音の名前が上がっていく。

四位。

三位。

燐羽の名前の、上へ。

そして、撫子の名前の、上へ。

 

『優勝は―初星学園、白草四音さん!』

 

四音は、ステージの上で立ち尽くしていた。

何が起きたのか、すぐにはわからなかった。

舞台袖から、撫子が走ってきた。

泣きながら、笑いながら、四音に飛びついた。

 

「ずるいですわ、ずるいですわ、お姉さまっ……! あんなの、勝てるわけありませんわ……っ!」

 

撫子は、四音の衣装の胸元に顔を押しつけて、しゃくりあげた。

 

「撫子、舞台袖で、ずっと聴いておりましたの。お姉さまの歌、撫子にも、ありがとうって言っているように聴こえましたわ……っ」

 

「……言っていましたよ」

 

四音は、撫子の背中に腕を回した。

 

「貴女がいなかったら、私は、ここにいませんでしたから」

 

撫子は、声を上げて泣いた。

 

その後ろから、燐羽がゆっくりと歩いてきた。

悔しそうに唇を噛んで、それでも、どこか晴れやかな顔をしていた。

 

「……負けたわ」

 

燐羽は、四音の肩を、軽く拳で叩いた。

 

「全力の、生きてるあなたに。……悔しいけど、文句のつけようがない」

 

燐羽は、少しだけ目を逸らした。

 

「あんな歌、ずるいのよ。客席見ながら歌ってたでしょ。手毬が、隣で泣いてたわよ。美鈴まで」

 

それから、燐羽は、ほんの少しだけ口の端を上げた。

 

「来年は、私が勝つから」

 

「撫子もですわ!」

 

撫子が、四音の胸元から顔を上げて叫んだ。

四音は、二人を見た。それから、小さく笑った。

 

「……望むところです」

 

ステージの下から、初星の面々が駆け寄ってきた。

 

「白草さーん!!」

 

佑芽が真っ先にステージによじ登ろうとして、咲季に襟首を掴まれていた。

千奈が、泣きじゃくりながら「お、おめでとうございますわ……っ!」と何度も繰り返していた。

莉波が、千奈を抱きしめながら、四音に向かって大きくうなずいていた。

ことねが「焼肉! 焼肉決定!」と叫び、手毬が「うるさい」とことねの頭を叩いていた。

その手毬の目も、真っ赤だった。

美鈴が、手毬の隣で、和菓子の紙袋を掲げて小さく手を振っていた。

清夏が「四音ちゃーん!」と両手を振り、リーリヤが、その隣で泣きながら拍手していた。

広が、珍しく大きな声で「最高」と言っていた。

麻央が、少し離れたところで、静かに拍手を送っていた。

 

トロフィーを受け取る手が、ひどく震えていた。

 

四音は、それを胸に抱いた。

それから、ステージの上から、駆け寄ってくる顔を、一人ずつ見た。

 

撫子。燐羽。千奈。莉波。佑芽。咲季。美鈴。広。手毬。ことね。清夏。リーリヤ。麻央。

 

―昔の私なら。

 

極月にいた頃の四音なら、優勝しても、一人ぼっちだっただろう。

誰かを蹴落として、誰かを踏みつけて、ようやく手に入れた一番。トロフィーを抱いても、隣で笑ってくれる人は誰もいない。拍手をしているのは、四音の顔色をうかがう人か、陰で四音を嫌っている人だけ。

 

それで、いいと思っていた。

勝てば、それでよかった。

 

今は、違った。

撫子が、泣きながら腕にしがみついていた。

燐羽が、悔しそうに笑っていた。

初星のみんなが、ステージの下で、四音の名前を呼んでいた。

 

四音が踏みにじった人たちが。

四音が謝って回った人たちが。

それでも、四音を待っていてくれた人たちが。

 

―罪は、消えない。

 

それは、今も変わらない。

けれど。

 

―少しだけ。

 

―ほんの少しだけ、変われたのかもしれない。

 

胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 

四音は、トロフィーを抱いたまま、客席の真ん中を見た。

 

プロデューサーの母親が、涙を拭いながら、四音に向かって深く頭を下げていた。

妹が、空いた席を指さして、何かを叫んでいた。

拍手と歓声にかき消されて、聞こえなかった。

けれど、口の形で、わかった。

 

―おにいちゃんに、おしえてあげて。

 

四音は、小さくうなずいた。

早く、伝えたかった。

病室の、あの人に。

 

病院に着いたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。

面会時間は、とうに終わっていた。

それでも、ナースステーションの看護師は、四音の胸に抱えられたトロフィーを見て、何も言わずに病棟の扉を開けてくれた。

プロデューサーの母親が、話を通しておいてくれたらしかった。

 

病室の前で、母親と妹が待っていた。

 

妹は、母親のコートの裾を握ったまま、半分眠りかけていた。

それでも、四音の姿を見つけると、ぱっと目を開けた。

 

「しおんちゃん! ゆうしょう、おめでとう!」

 

「……ありがとうございます」

 

母親が、四音の前に歩み寄った。

目が、まだ少しだけ赤かった。

 

「おめでとう、白草さん。会場から戻ってすぐ、この子の枕元で、もう一度流していたの。ファイナルの、あの歌を。聞こえているかどうかは、わからないけれど」

 

「……ありがとうございます」

 

「私たちは、少し外にいますね。ゆっくり、話してあげて」

 

母親は、四音の肩をそっと叩いて、妹の手を引いて廊下の向こうへ歩いていった。

去り際に、妹が振り返って、小さく手を振った。

 

廊下の端の長椅子には、撫子と燐羽が並んで座っていた。

その向こうに、千奈と莉波と、佑芽と美鈴と、他の初星の面々の姿も見えた。

誰も、病室には近づかなかった。ただ、そこにいた。

撫子が、四音と目が合うと、小さくうなずいた。

燐羽は、腕を組んだまま、顎で病室の扉を示した。

早く行きなさい、とでも言うように。

 

四音は、扉の取っ手に手をかけた。

もう、指先は震えていなかった。

 

病室は、暗かった。

枕元の小さな明かりだけが灯っていた。

モニターの音が、静かに鳴っていた。

 

四音は、ベッドの横の椅子に座った。

トロフィーを、膝の上に置いた。

その隣に、鞄から取り出した自由帳を、そっと置いた。

 

「……プロデューサーさん」

 

眼鏡を外した顔は、いつもと同じように眠っていた。

 

「優勝しました」

 

声が、少しだけ震えた。

 

「ファーストステージで、止まってしまったんです。貴方の二番を、間違えて。貴方が倒れたときのことが、頭に浮かんで。見てもいないのに、はっきりと見えて。それで、動けなくなって。五位まで落ちました」

 

四音は、トロフィーの縁を指でなぞった。

 

「でも、姉様が客席で叫んでくれました。生きて歌うと決めたのだろう、と。それから、賀陽さんと手毬さんと美鈴さんが控室に来てくれて。撫子が、全部出せと言いに来てくれて」

 

モニターの音が、規則正しく鳴っていた。

 

「ファイナルで、あの公園の歌を歌いました。貴方が、何年も書き写してくれていた歌です。そうしたら、N.I.A史上最高得点だそうです。……信じられますか。撫子と賀陽さんに、ずるいと言われました」

 

四音は、少しだけ笑った。

それから、笑みを消した。

 

「プロデューサーさん。貴方に、話さなければいけないことがあります」

 

四音は、膝の上で手を握った。

 

「貴方が倒れてから、私は、部屋に閉じこもりました。レッスンにも行かず、誰にも会わずに。それで、ある夜」

 

声が、詰まった。

 

それでも、四音は目を逸らさなかった。

眠っている人の顔から。

 

「……屋上に、行きました。自分がいなくなれば、それが、償いになると思って」

 

モニターの音が、静かに鳴っていた。

 

「撫子が、腕を掴んで引き戻してくれました。賀陽さんに、叩かれて、叱られました。泣きながら。それで、やっとわかったんです。いなくなることは、償いではなく、逃げることだと。傷つくのは残された人のほうなんだと」

 

四音の目から、涙がこぼれた。

 

「貴方が目を覚ましたとき、私がいなかったら。貴方は、きっと、自分のせいだと思ったでしょう。そんなこと、させたくなかった。……今は、そう思えます」

 

四音は、ベッドの上の手に、指先を重ねた。

いつものように。

 

「だから、生きて、待っていました。罪を抱えたまま、歌って、待っていました」

 

温かかった。

 

「貴方に、一番に伝えたかったんです。誰よりも先に」

 

その時だった。

重ねた指先の下で、何かが、わずかに動いた。

四音は、息を止めた。

気のせいだと思った。

この一か月、何度もそう思って、何度も違った。

けれど、今度は違った。

プロデューサーの指が、ゆっくりと、四音の指を握り返した。

 

「――っ」

 

四音は、顔を上げた。

 

まぶたが、震えていた。

何度か、重たそうに瞬きをして。

そして、ゆっくりと、開いた。

ぼんやりとした目が、天井をさまよい、それから、四音を見つけた。

 

「……し、らくさ、さん」

 

かすれた声だった。ひどく弱い声だった。

それでも、間違いなく、あの人の声だった。

四音は、何も言えなかった。

言いたいことは山ほどあったのに、喉の奥で全部つかえていた。

プロデューサーの唇が、もう一度動いた。

 

「……ら、らら、ら」

 

四音の目から、涙が溢れた。

 

「……聴こえて、いたんですか」

 

「夢の、中で……ずっと、聴こえていました。公園の、歌が」

 

プロデューサーは、少しだけ笑った。

いつもの、静かな笑い方だった。

それから、その笑みが、ゆっくりと消えた。

 

握り返す指に、少しだけ、力がこもった。

 

「……さっきの、話も」

 

四音の体が、こわばった。

 

「屋上の……話も。少しだけ、聴こえていました」

 

プロデューサーの目に、涙が滲んでいた。

眼鏡のない目で、まっすぐに四音を見ていた。

 

「……すみません」

 

かすれた声が、震えた。

 

「俺が、無理をしたせいで。白草さんに、そんな思いを、させて」

 

「違います」

 

四音は、首を振った。

 

「貴方のせいでは、ありません。誰のせいでも。私が、自分の罪から、逃げようとしただけです」

 

四音は、握られた手を、両手で包んだ。

 

「それに、私は、ちゃんと戻ってきましたから。みんなが、引き戻してくれましたから」

 

プロデューサーは、しばらく黙って、四音を見ていた。

やがて、握り返す指に、もう一度、ほんの少しだけ力がこもった。

 

「……生きていて、くれて」

 

かすれた声が、ゆっくりと言った。

 

「ありがとう、ございます」

 

四音は、何も言えなくなった。

 

ただ、握った手に額を押しつけて、声を殺して泣いた。

プロデューサーの指が、四音の髪に、そっと触れた。

どれくらい、そうしていただろう。

ようやく涙が止まった頃、四音は顔を上げた。

プロデューサーが、まだ四音を見ていた。

 

「……優勝、おめでとうございます」

 

「……はい」

 

「一番いい席で、見たかったです」

 

「妹さんが、取っておいてくれましたよ。貴方の席。ずっと、空いたままでした」

 

プロデューサーは、少しだけ困ったように笑った。

 

「……それは、悪いことをしましたね」

 

「来年は、ちゃんと座ってください」

 

「はい。……待つのは得意なので」

 

四音は、泣きながら笑った。

それから、深く息を吸った。

 

ずっと、答えを出さないようにしていたもの。

準備室の夕陽。眼鏡の縁の橙色。少

しだけ傾く首。

机の端の、甘いほうの紅茶。

いいと思います、という声。

待っています、という声。

 

「プロデューサーさん。もうひとつだけ、伝えたいことがあります」

 

「……はい」

 

「貴方が起きているときに、ちゃんと言いたかったので」

 

四音は、プロデューサーの目を、まっすぐに見た。

 

「貴方は、私を道具ではなく、一人の人間として見てくれた、初めての人でした。蹴落とす相手でも、利用する相手でもなく。公園で歌っていた私を、何年も覚えていてくれた人でした」

 

声が、震えた。

それでも、四音は目を逸らさなかった。

 

「……好きです」

 

病室が、静かになった。

モニターの音だけが、変わらずに鳴っていた。

 

「担当のプロデューサーとして、ではなく。貴方のことが、好きです。これから先も一緒にいたいです」

 

言ってしまった。

 

頬が、ひどく熱かった。

握った手を、離したくなった。

逃げ出したくなった。

 

それでも、四音は手を離さなかった。

屋上で、撫子が離さなかったように。

 

プロデューサーは、しばらく何も言わなかった。

眼鏡のない目で、じっと四音を見ていた。

やがて、握り返す指に、ほんの少しだけ力がこもった。

 

「……待つのは、得意だと、言いましたけど」

 

かすれた声が、ゆっくりと言った。

 

「これだけは、待たせたくないので」

 

四音は、息を止めた。

 

「俺も、です。……公園で、初めて歌を聴いた日から、ずっと」

 

四音は、何も言えなくなった。

膝の上の自由帳が、目に入った。

 

『こうえんの ジャングルジムの 女の子の歌』

 

四音は、それをそっと持ち上げて、プロデューサーの枕元に置いた。

 

「お母様から、預かっていました。お返しします」

 

プロデューサーは、自由帳を見て、少しだけ目を見開いた。

それから、照れたように、ほんの少しだけ笑った。

 

「……恥ずかしいものを、見られましたね」

 

「いいえ」

 

四音は、首を振った。

 

「私が来なくなってからも、ずっと、書き写していてくれたんですね」

 

「……はい」

 

プロデューサーは、自由帳を、四音のほうへ、弱い力で押し戻した。

 

「それは、白草さんが持っていてください」

 

「でも、これは、貴方の―」

 

「もう、書き写さなくていいので」

 

プロデューサーは、四音を見て、静かに言った。

 

「これからは、いつでも聴けますから」

 

四音の目から、また涙が溢れた。

しばらくして、廊下から、ひそひそとした声が聞こえてきた。

 

「お、押さないでくださいまし、賀陽さん……!」

 

「押してないわよ。あなたが勝手に前に出てるんでしょ」

 

「ちょ、ちょっと撫子さん、燐羽さん、聞こえてしまいますわ……!」

 

「……もう聞こえてると思うよ、千奈ちゃん」

 

四音は、ゆっくりと顔を上げた。

プロデューサーと目が合った。

プロデューサーは、困ったように、少しだけ笑った。

 

「……賑やかですね」

 

「本当に」

 

四音は涙を拭いて、立ち上がった。

扉を開けると、撫子と燐羽と千奈と莉波が、雪崩のように病室に転がり込んできた。

その後ろで、佑芽が「起きたの!?」と叫び、美鈴が佑芽の口をそっと手でふさいでいた。

手毬とことねが気まずそうに目を逸らし、広が壁にもたれて小さく親指を立てていた。

清夏とリーリヤが、廊下の端で手を取り合っていた。

さらにその後ろで、プロデューサーの母親が口元を押さえて笑っていて、その隣で、妹が「おにいちゃーん!」と飛び跳ねていた。

 

「お、お姉さまっ! プロデューサーさんが目を……! 撫子、撫子……っ!」

 

「撫子。静かに。ここは病院です」

 

「ぴぎゃっ……!」

 

燐羽が、撫子の後ろから、ベッドの上のプロデューサーを一瞥した。

 

「……遅いのよ。白草が、どれだけ待ってたと思ってんの」

 

それだけ言って、燐羽はそっぽを向いた。

耳の先が、赤かった。

病室が、一気に賑やかになった。

四音は、その輪の少し外に立って、皆を見ていた。

ふと、窓の外に目をやった。

病院の駐車場の端に、黒い車が一台停まっていた。

後部座席の窓が、わずかに開いていた。

車は、四音が見ているのに気づいたように、しばらくその場に止まっていた。

 

それから、窓が閉まり、ゆっくりと走り出した。

 

四音は、鞄の中から、あの帽子を取り出した。ホールの座席に残されていた、つばの広い帽子。

 

「……今度、お返しに行かないといけませんね」

 

小さく呟いて、四音は帽子を胸に抱いた。

病室の中では、撫子がプロデューサーの母親に何度も頭を下げた。

燐羽が手毬に「泣いてないわよ」と言い張り、佑芽が妹と一緒に飛び跳ねていた。

 

四音は、その光景を見ながら思った。

屋上の夜、四音は、ここにいる全員を置いていこうとした。

今、四音は、ここにいる。

罪は、消えない。これからも、ずっと抱えていく。

それでも、この賑やかな病室に、四音の居場所はちゃんとあった。

 

窓の外には、夜空が広がっていた。

都会の明かりに紛れて、星はほんの少ししか見えなかった。

それでも、確かにそこにあった。

あの日、公園のジャングルジムのてっぺんから見上げた空と、同じように




完結です。この先は考えておりましたが、
後日譚として別の話とします。
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