一九九五年度『闇の魔術に対する防衛術』教授、ペルセオン・セイア(旧姓リドル) 作:T・M・レボリューション・リドル
一九七十年某日、オーストリア。
アルプスの山々を吹き抜ける風は、夏の名残などとうに忘れてしまったかのように冷たかった。
険しい山肌に聳える黒い城。その尖塔は灰色の雲を突き刺すように伸び、長い年月を経てなお、かつての威容を保っている。城門の上には、今もなお一つの標語が刻まれていた。
かつて一人の魔法使いが掲げ、数え切れぬ人々を熱狂させ、そして数え切れぬ人々を死へ追いやった言葉である。
ヌルメンガード城。
かのゲラート・グリンデルバルドが、自らに逆らう者たちを幽閉するために築いた監獄にして、彼とその信奉者たちのための城。
かつては大勢の魔法使いが行き交い、ヨーロッパの未来を語り、世界の変革を夢見た場所だった。
しかし、今は違う。
石壁は冷え、廊下は沈黙し、かつて城内を満たしていた足音も、熱狂も、命令も、すべて過去のものとなった。
そこに残された囚人は、ただ一人。
「……随分とまあ、やるものだ」
塔の最上階。鉄格子の嵌められた小窓から差し込む薄い光の下で、老人がくつくつと笑った。
すっかり白くなった髪。痩せ細った手足。皺の刻まれた顔はしかし、それでもなお魅力的だった。
けれど、その双眸だけは昔と変わらなかった。
片方は青、もう片方は黒。異なる色をした二つの瞳には老いも幽閉も、約三十年に及ぶ孤独でさえも完全には奪い去れなかった鋭さが残っている。
ゲラート・グリンデルバルド。かつてヨーロッパ全土を恐怖と熱狂に包み込み、一九四五年、アルバス・ダンブルドアとの決闘に敗れた闇の魔法使い。
その老人は窓の外に広がる山々を眺めながら、ひどく愉快そうに口元を歪めていた。
「あれが私の後継? はっ、あんな餓鬼じみた真似しかできない者に、私のようなことができるとも思えんがね」
誰も答えない。それも当然だった。この塔には彼以外の誰もいない。
それでもグリンデルバルドは構わず言葉を続けた。
「トム・マールヴォロ・リドル。自らをヴォルデモートなどと名乗り、死を克服したつもりになっている愚かな男」
グリンデルバルドは鼻で笑った。
「死が怖い。老いるのが怖い。失うのが怖い。だから魂を引き裂いてまで生き延びようとする……実に分かりやすいことだ」
その声音には、嘲弄があった。しかし、それだけではない。ある種の失望も混じっていた。
「私の後継を名乗るのなら、せめて世界の一つでも変えてみせろというのだ」
グリンデルバルドは椅子の背に身を預けた。
「純血だの、血統だの、魔法族の優越だの。そんなものを掲げて、結局は英国という小さな島の中で権力争いか。まったく、志の低いことだ」
彼はかつて、世界を変えようとした。
魔法族が隠れ住む時代を終わらせ、魔法族と非魔法族の世界の秩序そのものを作り替えようとした。
そのために軍勢を集め、政治を動かし、国家を揺さぶり、幾つもの都市に戦火をもたらした。
それを正義と呼んだ。より大いなる善のためだと説いた……そしてその言葉の陰で、どれほど多くの命を踏みにじったことか。
「……もっとも」
その笑みが、ふと薄れた。
「私が他人の愚かさを笑う資格など、とうに失っているのだがな」
静寂が戻った。
グリンデルバルドは自分の手を見下ろした。骨ばった老人の手。かつては杖を握り、世界中の魔法使いを震え上がらせた手である。
今は何も握っていない。ニワトコの杖も、信奉者たちの忠誠も、かつて信じた理想もすべて失った。
──否
失ったのではない。自分で壊したのだ。
「……アルバス」
ぽつりと、名前が零れた。彼は目を閉じる。
すると奇妙なことに、何十年も前の夏の光景が鮮やかに蘇ってくる。ゴドリックの谷。陽光に照らされた庭。積み上げられた書物。未来について語り合った、あの眩しい日々。
鷲色の髪をした青年が、知的な興奮に瞳を輝かせながら、自分の言葉へ耳を傾けていた。
アルバス・ダンブルドア。
彼ほどの魔法使いには、その後一度として出会わなかった。
そして、彼ほど深く傷つけた相手もまた、いなかった。
「……お前なら、あの男をどう評するだろうな」
グリンデルバルドは独り言のように呟いた。
「恐らく、哀れな男だとでも言うのだろう。相変わらず、甘い奴だ」
だが、その甘さが自分にはなかったことを老人は誰よりよく知っていた。
アルバスは世界を支配するよりも、一人の少年を守ることを選べる男だった。
自分にはそれができなかった。
少なくとも若い頃はそうだった。そして、その違いこそが二人を分かつものだったのだろう。グリンデルバルドは長く息を吐いた。
「……ん?」
老人の眉が僅かに動いた。
窓の外では風が吹き、雲が流れ、遠くの山々が霞んでいる……それだけだ。けれど、彼は何かを感じ取った。
魔力の流れ──遠く離れた土地で、古い魔法が目を覚ましたような、奇妙な感覚。
無論、ヌルメンガードの塔から英国の魔法を直接感知できるはずもない。
しかし、長い年月を魔法の深奥へ捧げてきた老人には、時折、説明のつかない直感が訪れることがあった。
「……ほう、これは……」
何かを思い出すように、ゆっくりと顎へ手を当てる。古い血。古い魔法……それらの文献を漁り、己の糧としたこともある。
だからこそ、グリンデルバルドにはその流れてくる気配がわかる。
「……なるほど」
朽ちていくだけの老人はくつくつと笑った。
「トム・リドル。お前という男は、本当にどこまでも浅ましい」
彼は知っていた。ヴォルデモートが不死を追い求めていることを。魂を切り裂き、己の存在をこの世へ繋ぎ止めようとしていることを。
そして、その執着が単なる分霊箱だけに留まらない可能性を。
ただしグリンデルバルドは、その詳細を知っているわけではなかった。
彼は全知ではない。故に知らぬ魔法もある。そもそも全知であれば、かつてニュート・スキャマンダーの魔法生物によって拘束されたとき、そのような状況に陥ることもなかっただろう。
まして英国で起きている出来事を逐一見通せるほど、ヌルメンガードの監獄は甘くない。
未来視とはそこまで便利なものではないのだ。
それでも、長い人生で培った知識が一つの可能性を導き出していた。
「……自分の血を残すか。魂を裂くだけでは飽き足らず、己の血にまで手を伸ばしたとはな」
その顔から、笑みが消えた。
血統を利用する魔法。子孫に呪いを刻み、己の目的のために生まれてくる命を縛りつける術。
それらは古い時代から存在していた。そしてグリンデルバルド自身もその存在を知っていた。かつては利用価値を検討したことすらある。
──だがしかし。
「……子供を道具にするとは」
その言葉を口にした瞬間、自嘲が浮かぶ。
「……私が言えた義理ではないな」
彼自身も、かつて多くの若者を理想の名の下に戦場へ送り出した。
彼らの未来を奪い、家族を奪い、命を奪った。だからこそ、その罪深さが分かる。
生まれてくる子供に、最初から逃げ道を与えない。それがどれほど卑劣なことか。
グリンデルバルドは窓の外へ目を向けた。
「……だがヴォルデモート。お前は一つ、重大なことを見落としている」
彼はゆっくりと微笑んだ。
「人間というものは、お前が思うほど従順ではない」
彼は知っていた。支配しようとした者に裏切られることを。忠誠を誓った者が離反することを。
そして、己が作り上げた理想が、いつしか己の手を離れていくことを。
──何より、人は誰かに定められた運命を拒絶することがある。
「……血が同じなら、心も同じになると思ったか? 実に愚かだ」
グリンデルバルドは嗤う。
窓の外で一羽の黒い鳥が風に乗って飛んでいく。その姿を目で追った。
「……お前の子がどんな人間になるかは知らん。だが、もしもお前の思惑を外れて生きていくのなら……」
そこで、くつくつと笑う。愉快で堪らないのだ。
「それほど素晴らしいこともあるまいよ」
彼は椅子から立ち上がった。
ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。その背筋には今なお、奇妙な威厳が残っていた。
かつて欧州全土を支配せしめた男の矜持が、今なお残っているのだと。
「……アルバス。お前は今、何をしている?」
もちろん答えは返らない。
それでも、グリンデルバルドは続けた。
「また誰かを救おうとしているのか。それとも、また一人で全てを背負おうとしているのか……まったく、変わらん男だ」
彼はしばらく黙っていたが、ふとしたように呟いた。
「……そういえば」
何かを思い出したように、異色の瞳が細められる。
「あれの血筋と言えば、ゴーント家に行き着くのだったな」
サラザール・スリザリンの末裔。純血を言葉通りの意味に捉え、近しい者のみで血の継承を繰り返してきた馬鹿者たち。
それの末裔があれとは、なんとも救い難い。
「……血統に誇りを持つのは結構だが、それしか誇れるものがないというのも哀れな話だ」
彼は自分の手を見つめた。
その手に流れる血にも、長い歴史がある。グリンデルバルド家は北欧で長い歴史を持つ旧家だったのだ……もっとも、自分のせいでその信頼も何もかも地に落ちたのだけど。
だが、血が何を決めるというのだろう。
かつての自分は、世界を変える資格があると信じていた。魔法を持つ者こそが、持たぬ者を導くべきだと。
しかし今となっては、その信念も実に陳腐だと笑う他ない。
「……資格など、誰が決めるというのやら」
グリンデルバルドは思わずといったように小さく笑った。なぜなら自分自身が、その傲慢さの果てにここへ辿り着いたのだから。
夜が更け、ヌルメンガード城の塔には冷たい月光が差し込んでいた。
グリンデルバルドは寝台へ腰を下ろし、静かに目を閉じたが、眠ることはなかった。
彼の脳裏には、ある青年の姿が浮かんでいた。
実際に見たことはない。顔も知らない。名前すら知らない。ただ、もしトム・リドルに子供がいるのなら、という想像に過ぎない。
黒い髪をしているのだろうか。父親と同じ瞳をしているのだろうか。それとも、まったく違う姿をしているのだろうか。
グリンデルバルドは、ふっと笑った。
「……まあ、どうでもいいことだ」
そう呟きながらも、どこか愉快そうだった。
自分の血を誇り、己の名を永遠に残そうとした男。その男の子供が、もし父親を拒絶して生きているのなら。
──それは、どれほど痛快な皮肉だろう。
「……せいぜい、父親を困らせてやるがいい。それが子供の特権というものだ」
そして、今度こそ目を閉じた。
かつて世界を震撼させた闇の魔法使いは、冷たい石壁に囲まれた寝台の上で、遠い昔の夢を見ようとしていた。
ゴドリックの谷と夏の日差し。そして、もう二度と戻ることのない、かつての友との愚かで眩しい日々。
その夜、ゲラート・グリンデルバルドが最後に口にした言葉は、誰にも聞かれることはなかった。
「……アルバス。お前は、私よりもずっと良い教師だよ」
それは、かつての友へ向けた言葉だった。
そして今もなお自分の罪に灼かれ続ける老人が、ようやく認めることのできた、ささやかな真実でもあった。
□
九月中旬。ペルセオンが闇の魔術に対する防衛術の教師に就任して、二週間が経過した。
その二週間で、生徒たちの間に一つの共通認識が生まれていた。
セイア先生の授業は面白い。ただし、油断していると酷い目に遭う。
何しろ最初の授業から武装解除呪文を撃ち合わされ、次の授業では盾の呪文の反復練習をさせられ、その次には教室のあちこちから飛んでくる柔らかい魔法の球を避けながら歩かされたのだ。
もっとも、怪我人は一人も出ていない。ペルセオンが教室全体に施した防護魔法は非常に精巧で、転倒しても床が柔らかく受け止め、呪文が逸れても壁際で霧散する仕組みになっていた。
おかげで生徒たちは、失敗を恐れずに魔法を使えるようになりつつあった。
そして本日。グリフィンドール五年生の授業は、これまで以上に有意義なものになるはずだった。
「さて、皆集まったな? 今日は二人一組で簡単な決闘を──」
「エヘン、エヘン」
甲高い咳払いが教室に響いた。ペルセオンは言葉を止めた。生徒たちも、一斉に扉の方を見る。
そこには、全身を毒々しいほどのピンク色で包んだ小柄な魔女が立っていた。
ドローレス・アンブリッジ。魔法省から派遣された、もう一人の闇の魔術に対する防衛術の教師である。
彼女は胸元に小さなクリップボードを抱え、にっこりと微笑んでいた。
「失礼、セイア先生」
「おや、アンブリッジ先生。どうされました?」
「本日は授業の視察に参りましたの」
「視察?」
「ええ。魔法省では、ホグワーツの教育水準をより良いものにするため、様々な取り組みを進めておりますでしょう?」
「そうなんですか」
「ええ、もちろんですとも」
アンブリッジは満足そうに頷いた。
「その一環として、各教師の授業内容を確認させていただいておりますのよ」
「なるほど」
ペルセオンは頷いた。そして、あっさりと言った。
「では、どうぞ。空いている席をお使いください」
「……え?」
アンブリッジは瞬きをした。どうやら、もう少し抵抗されると思っていたらしい。しかしペルセオンは実に穏やかな表情である。
「授業の見学でしょう? 構いませんよ」
「……え、ええ」
「ただし、生徒たちの邪魔にならないようお願いしますね」
アンブリッジの笑みが、ほんの僅かに引き攣った。
「……もちろんですとも」
「ありがとうございます」
ペルセオンはにっこりと笑った。人の警戒を和らげる、魔性の笑み。
そしてペルセオンは生徒たちへ向き直る。
「さて、話を戻そうか」
教室の中央には、既に広い実技用の空間が作られていた。机と椅子は壁際へ移動され、床には薄い青色の魔法陣が浮かんでいる。
「今日は簡単な決闘をする」
ペルセオンは杖を軽く振った。黒板に三つの呪文が浮かび上がる。
Expelliarmus.
Stupefy.
Protego.
「使って良いのは基本的にこの三つ。加えて、足運びや回避行動は自由だ。相手を武装解除するか、失神呪文を命中させた方が勝ち。もちろん、危険な呪文は禁止」
ロンが目を輝かせた。
「先生、盾の呪文で相手の呪文を跳ね返しても良いんですか?」
「良い質問だ、ウィーズリー」
ペルセオンは頷いた。
「ただし、跳ね返す方向には気をつけること。味方に当てたら意味がないからね」
「はい!」
「それと、今日は勝ち負けよりも、実際に相手が動く状況で呪文を使うことに慣れてほしい。実戦では相手は教科書通りに動いてくれない。呪文を唱えるまで待ってもくれないし、親切に一発ずつ撃ってくれるわけでもない。だから、相手をよく見て、考えて動くこと」
ハリーは頷いた。この二週間で、ペルセオンの言うことが少しずつ理解できるようになっていた。
彼は呪文の威力だけを評価しない。むしろ、相手の動きを見ているか、逃げ道を確保しているか、周囲に注意を払っているかを重視する。現役の闇祓いらしい教え方だった。
「では、最初は──」
「エヘン、エヘン」
再び、咳払い。舌打ちを堪えながらペルセオンは振り返った。
「……何でしょう?」
アンブリッジは、甘ったるい笑みを浮かべていた。ケンタウルスに連れ去られてくたばらないかな、とペルセオンは考えた。
「セイア先生。少し、よろしいかしら?」
「どうぞ」
「今、実戦と仰いました?」
「ええ」
「……実戦?」
「はい」
ペルセオンは首を傾げた。
「何か問題でも?」
アンブリッジは、まるで聞き分けの悪い子供を諭すように微笑んだ。
「セイア先生。ここは学校ですのよ」
「存じています」
「生徒たちは、まだ子供なのです」
「ええ。十五歳ですね。思春期真っ只中」
「でしたら、危険な実戦訓練など必要ありませんでしょう?」
教室が静まり返った。
ハリーたちはアンブリッジに実に胡乱な目を向ける。
「……危険?」
「ええ。生徒同士に呪文を撃ち合わせるなど、あまりにも危険ではありませんこと?」
「なるほど」
ペルセオンは頷いた。そして、床を軽く爪先で叩く。青い光が走った。
「この教室には、衝撃吸収、防護、呪文の威力制限、転倒時の緩衝、それから緊急停止の魔法を施してあります。失神呪文が命中しても、本人が床に倒れる前に受け止める仕組みです。万一、制限を超える呪文が発動した場合は、魔法陣が自動的に遮断します」
ハーマイオニーが感心したように床を見下ろした。アンブリッジは眉を寄せる。
「……それでも、危険がないとは言い切れませんでしょう?」
「もちろんです」
ペルセオンはあっさり頷いた。
「魔法を使う以上、危険が完全になくなることはありません」
「でしたら──」
「だから、危険を管理するんですよ。闇の魔術に対する『防衛術』なのでね」
穏やかな声だった。しかし、アンブリッジの言葉を遮るには十分だった。
「安全な環境を整えて、段階的に訓練する。危険だから何もしない、というのでは防衛術を学ぶ意味がありませんから」
「……ですが、魔法省の教育方針では」
「おや」
ペルセオンは白々しく、驚いたように目を丸くした。
「魔法省は、実技を禁止しているんですか?」
「……禁止というわけではありませんけれど」
「では、問題ありませんね」
にっこり。アンブリッジの頬が、ぴくりと動いた。
「……セイア先生」
「はい?」
「あなたは、少々誤解していらっしゃるようですね」
「何をでしょう?」
「闇の魔術に対する防衛術とは、必ずしも実際に呪文を使うことではありませんの」
アンブリッジは得意げに続けた。
「適切な理論を学び、危険な状況を避けるための知識を身につける。それこそが、現代の教育に求められていることですわ」
「なるほど。理論は大切ですね」
「ええ、そうでしょう?」
「もちろんです。呪文の原理を理解せずに使うのは危険ですから」
アンブリッジは満足そうに微笑んだ。だが──
「ただ」
ペルセオンは首を傾げた。
「理論だけで、実際に呪文を防げるんですか?」「…………」
「例えば、突然武装解除呪文を撃たれたとします」
ペルセオンは黒板を指差した。杖無し呪文により、黒板にデフォルメされた絵柄で魔法使いが杖から呪文を撃つ姿が描かれた。
「その時、教科書に書かれた説明を思い出すだけで、身体が動くでしょうか?」
「……それは」
「盾の呪文を知っていることと、実際に使えることは別です」
彼は淡々と続けた。
「もちろん、理論の授業を否定するつもりはありません。むしろ、理論と実技は両方必要だと思っています」
そこで、にっこりと笑った。
「ですからアンブリッジ先生が理論を、俺が実技を担当するという現在の分担は、とても合理的だと思うんですが」
アンブリッジの笑みが固まった。ハリーは思わず俯いた。笑いそうになったからだ。
隣のロンも口元を押さえている。ハーマイオニーは真面目な顔を保っていたが、その目は明らかに輝いていた。
「……セイア先生」
アンブリッジの声が、僅かに低くなった。
「あなたは、魔法省の教育方針に異議を唱えるおつもりですか?」
「いいえ?」
ペルセオンは不思議そうに首を傾げた。もっとも、内心はアンブリッジをせせら笑っていたが。
「今のところ、異議を唱える必要は感じていませんが」
「……今のところ?」
「ええ。何か問題があれば、その時に正式な手続きを踏んで相談させていただきます」
アンブリッジは黙った。この青年は、どうにも扱いにくい。反抗的な態度を取るわけではない。声を荒らげることもない。
むしろ礼儀正しく、こちらの言葉を丁寧に聞いている。だというのに。こちらが何か言うたび、いつの間にか議論の主導権を奪われている。
まるで、柔らかな布で包まれた刃物を相手にしているようだった。
「……それに」
ペルセオンは思い出したように続けた。
「俺はMACUSAから派遣された教員ですからね」
「……それが何か?」
「授業内容については、着任前にダンブルドア校長とMACUSA魔法保安局長官の双方から承認をいただいています」
彼は胸元の闇祓い章を軽く指差した。
「英国魔法省の教育方針も尊重しますが、正式な変更要請があるなら、国際魔法協力部を通していただく必要がありますね」
アンブリッジの目が細くなった。
「……国際魔法協力部?」
「ええ。派遣条件の変更になりますので。最悪、外交問題なんてことにもなりかねませんし」
ペルセオンは穏やかに微笑んだ。
「勝手に授業内容を変えてしまうと、うちの長官に叱られるんですよ」
その言葉は、半分ほど冗談だった。しかし、半分は本当だった。
エドワード・グレイブスは、部下の職務権限を侵害されることを非常に嫌う男である。まして、正式な国際協力の枠組みで派遣した闇祓いの活動を、他国の官僚が一方的に制限しようものなら……まあ、面倒なことになるだろう。主に英国魔法省が、だが。
「……そうですか」
アンブリッジは、引き攣った笑みを浮かべた。
「では、その点については後日、校長先生ともお話しする必要がありそうですわね」
「ええ、ぜひ。建設的な意見交換は歓迎しますよ」
そして、教室へ向き直る。
「さて、皆。随分と時間を取らせたな」
生徒たちが一斉に顔を上げた。
「予定通り、決闘訓練を始めよう」
その瞬間。アンブリッジが、再び口を開いた。
「エヘン、エヘン」
「……は?」
「まだお話は終わっておりませんのよ」
いい加減諦めろよこの年増の少女趣味が。
喉から出かかったその言葉を飲み干し、ペルセオンは少し困ったように眉を下げた。
「それは失礼しました」
アンブリッジは満足そうに頷いた。
「分かっていただければ──」
「ただ、授業時間が限られていますので」
ペルセオンは懐中時計を取り出した。金に縁取られたそれは、結婚当初にアルキオーネから贈られた一点ものだった。
「続きは放課後にお願いできますか? 生徒たちの学習時間を削るのは、あまり良くありませんから」
アンブリッジの頬が、またぴくりと動いた。
「……よろしいでしょう」
ようやく、彼女は引き下がった。教室の隅に置かれた椅子へ腰を下ろし、クリップボードに何かを書き始める。ペルセオンは小さく頷いた。生徒たちへ向き直る。
「さて! 二人一組になってくれ!」
教室が一気に騒がしくなった。ロンはハリーの方を向き、ハーマイオニーはネビルへ声を掛ける。ディーンとシェーマスは既に杖を構えていた。
「先生!」
ハリーが手を挙げた。
「どうした、ポッター?」
「相手の呪文を避けながら、別の呪文を撃っても良いんですか?」
「もちろん」
ペルセオンは頷いた。
「ただし、今日は指定した三つの呪文だけだ」
「はい!」
ハリーは嬉しそうに頷いた。アンブリッジの忌々しい声を聞かずに済むというだけで、ハリーは最高の気分だった。
その様子を見て、ペルセオンは微笑んだ。そして教室全体へ声を掛ける。
「それじゃあ、始めようか!」
杖が振るわれる。赤い閃光が飛び交う。盾の呪文が弾け、武装解除呪文が空を切る。生徒たちは笑い、驚き、時には悔しがりながら、少しずつ動きを覚えていった。
ペルセオンはその間を歩き回り、姿勢を直し、呪文の軌道を指摘し、必要に応じて手本を見せる。その姿は実に楽しそうだった。
一方、教室の隅では、アンブリッジがクリップボードに何かを書き続けていた。
その顔には、先ほどまでの甘ったるい笑みはなかった。代わりに浮かんでいたのは、露骨な不満である。
そしてその様子を横目で見たペルセオンは、心の中で小さく呟いた。
(……ファッジに泣きつく頃合いか)
もっとも、彼は別に困ってはいなかった。
何しろ英国魔法省の官僚を相手にするより、よほど厄介な相手を何人も知っているのだから。
例えば、直属の上司であるエドワード・グレイブス。
例えば、最愛の妻であるアルキオーネ・セイア。
……特に後者を怒らせた時の恐ろしさと比べれば目の前のピンク色の魔女など、まだまだ可愛いものだった。そう考えながら、ペルセオンは引き続き生徒たちの指導に取り掛かる。
「ウィーズリー! 杖の先ばかり見ない! 相手の肩と足も見ろ!」
「は、はい!」
「ポッター、良い回避だ! そのまま反撃!」
「エクスペリアームス!」
赤い閃光が走った。そして、教室には再び、生徒たちの活気ある声が響き渡った。
アンブリッジの羽根ペンが、紙の上でぎりぎりと音を立てていたことなど、ペルセオンはまったく気にしていなかった。
グリモールド・プレイス十二番地。
かつて魔法界の王族と謳われたブラック家が所有していたこの屋敷は、今やダンブルドアの手によって不死鳥の騎士団の本部として使われていた。
「『魔法省、MACUSAから闇祓いをホグワーツの教師に任命へ』……へえ、いよいよ外の手を借りないといけないくらい防衛術の教師が不足したの? ………うわ、すごいハンサム」
『日刊予言者新聞』の大見出しに記載されていた記事を読んでいたニンファドーラ・トンクスは、その写真に写る黒髪の美青年を見て思わずと言ったように呟いた。
そしてそんな、どこか見覚えのある美青年に対する所感を述べたトンクスの呟きを拾った、ハリーたちが三年生だった頃の防衛術の教師を務めていたリーマス・ルーピンがトンクスの肩越しにその記事を眺め、思わずトンクスが肩を跳ねさせる。
それを見て、ソファに優雅に腰掛けて紅茶を飲んでいた『凶悪な脱獄犯』ことシリウス・ブラックはクスクスと楽しそうに笑っていた。
「わざわざアメリカから? となると、大臣の策略かな?」
「だろうな。親愛なるコーネリウス・ファッジ魔法大臣殿は、ダンブルドアとハリーの主張を信じていないらしい」
ケッ、と吐き捨てたシリウスに苦笑したリーマスは、息子たちが学ぶ授業の新任が決まったと聞いて寄ってきたアーサー・ウィーズリーにもその記事を見せた。
そして記事を読み、一緒に掲載されている写真に写る肝心の『新任教師』の顔を見たアーサーが目を見開き、声を上げた。
「なんてことだ! あの子が帰ってきたのか!?」
「どうしたんだアーサー」
ただならぬ様子のアーサーに首を傾げたシリウスが声をかけても、アーサーは素早く返事を返すだけで大急ぎで階段下に移動し、二階にいる長男を呼び寄せた。
「ビル! ビル! 降りてきなさい!!」
その父の声を聞いて、何かあったのかと駆け降りてきたビル・ウィーズリーに、アーサーはその記事を見せた。
「彼だ! ペルセオンが帰ってきた!!」
「………………なんだって?」