一九九五年度『闇の魔術に対する防衛術』教授、ペルセオン・セイア(旧姓リドル) 作:T・M・レボリューション・リドル
イギリス、ウィルトシャー州。
広大な敷地を有するマルフォイ邸は、秋の気配が漂い始めた庭園の向こうに、白亜の威容を聳えさせていた。
よく手入れされた芝生、大理石の彫像、孔雀が悠然と歩く庭園。
代々純血の名門として繁栄してきたマルフォイ家の富と権威を、これほど雄弁に物語るものもないだろう。
しかし、その邸宅の主人であるルシウス・マルフォイは、今や自分の屋敷の中でさえ主人として振る舞うことを許されていなかった。
「ほう。あれが教師に」
広々とした応接室。暖炉の前に置かれた豪奢なソファに、一人の男が腰掛けていた。
青白い肌に蛇のように平たい鼻。縦に裂けた瞳孔を持つ、赤い双眸。
ヴォルデモート卿。
六月、リトル・ハングルトンの墓地において肉体を取り戻した偉大なりし闇の帝王は、床へ落とした『日刊予言者新聞』を一瞥し、愉快そうに唇を歪ませた。
「ドラコの報告通りであったな? ルシウス」
「………もちろんでございます、我が君」
ルシウスは跪いたまま答えた。
額には薄く汗が滲んでいる。目の前の主が上機嫌であることは、声色から理解できた。
しかし、それが自分にとって良いことなのかどうかは、まったく別の問題だった。
「良かろう、良かろう……良い。あれは俺様のものだ」
ヴォルデモートは満足げに笑った。その笑い声が、静かな応接室に響く。
「……実に良い」
ヴォルデモートは長い指を組み合わせた。
「十年だ。十年もの間、俺様の手の届かぬところに隠れていた子供が、ようやく英国へ戻ってきた」
ルシウスは頭を垂れたまま、慎重に口を開いた。
「……我が君。恐れながら、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「許す」
「その……ペルセオン・セイアなる男は、我が君にとって、いかなる存在なのでしょうか」
ヴォルデモートの眼がギラリと剣呑な光を帯び、ルシウスは尋ねたことを即座に後悔した。
だが、ヴォルデモートの怒りが爆発することはなく、むしろ、ひどく愉快そうに喉を鳴らした。
「知りたいか、ルシウス」
「……差し出がましいことを申しました」
「構わん」
ヴォルデモートはソファの肘掛けを指で叩いた。
「お前たちが知らぬのも無理はない。俺様が、わざわざ教えてやる必要もなかったからな」
そして、ゆっくりと言った。
「ペルセオン・セイア。その名は、後から与えられたものだ」
ルシウスの眉が僅かに動く。
「……と、申されますと」
「奴の生まれた時の名は、ペルセオン・リドル」
その瞬間、ルシウスは息を呑んだ。
リドル。その名が何を意味するのか、彼は知っていた。
「……まさか」
「そうだ」
ヴォルデモートは微笑んだ。邪悪に、醜悪に。家族の愛を知らぬ男の、それらしいだろうと思わせるためだけの笑み。
「俺様の息子だ」
応接室に、重苦しい沈黙が落ちた。暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
ルシウスは頭を上げられなかった。
闇の帝王に息子がいた。その息子が今、ホグワーツで教師を務めている。
あまりにも予想外の事実だった。
「……驚いたか?」
「……恐れながら」
「ふん。所詮、お前たちには理解できまい」
ヴォルデモートは鼻を鳴らした。
「俺様が何故、血を残したのか。その意味を」
彼は暖炉の炎を眺めた。赤い瞳の奥に、奇妙な光が宿る。
「不死というものは、実に奥深い。肉体は滅びる。魂は傷つく。魔法は失われることもある。だが、血は続く」
ルシウスは黙って聞いていた。口を挟むべきではないと、口を開けば即座に磔の呪文が飛んでくると理解していたから。
「もっとも、単に子を残したところで意味はない。血を引いているだけの凡庸な人間など、俺様には必要ない」
ヴォルデモートは薄く笑った。
「故に手を加えた」
ルシウスの背筋を、冷たいものが走った。
「……手を、加えた?」
「生まれる前からな」
ヴォルデモートは、まるで何でもないことのように答えた。
「魔力の流れ。魂と肉体の結びつき。血に宿る古い性質。そうしたものを、俺様の目的に適するよう整えたのだ」
その声音には、父親としての愛情など欠片もなかった。
あるのは、自らの作品について語る術者の満足だけだった。
「奴は生まれながらにして、俺様の魔法を受け入れられるよう作られている」
ルシウスは唾を飲み込んだ。
「……では、その御子息は」
「俺様のために存在する」
ヴォルデモートは即答した。
「それ以上でも、それ以下でもない」
そして、くつくつと笑う。
「だがどういうわけか、あれは己を一人前の魔法使いだと思っているらしい」
彼は床に落ちた新聞へ視線を向けた。
写真の中のペルセオンは、相変わらず穏やかに微笑んでいる。黒い髪、整った顔立ち。
その表情には、かつてのトム・リドルを思わせるものがあった。瞳の色も、今のヴォルデモートを思わせる。
しかしそこに宿る光だけは違っていた。
「……MACUSAの闇祓い、か」
ヴォルデモートは嘲笑した。
「俺様の血を引く者が、魔法政府の犬に成り下がるとはな」
「……我が君」
ルシウスは慎重に言葉を選んだ。
「その者は、我が君の御意志を理解しているのでしょうか」
「理解しているとも」
ヴォルデモートはせせら笑った。
「理解しているからこそ、逃げたのだ」
赤い瞳が細められる。
「十年前。まだ十五にも満たぬ小僧が、俺様の残したものに気づいた」
その声には、僅かな苛立ちが混じっていた。
己のものでありながら、逃げ出したその愚かさ。
「実に生意気なことだ。自分が何者であるかも知らぬうちから、俺様に逆らおうとしたのだからな」
ルシウスは何も言わなかった。ヴォルデモートは指先でソファの肘掛けを叩く。
「しかも、アメリカへ渡った後はセイアなどという姓を名乗り、あちらの魔法政府に取り入った」
彼は忌々しげに唇を歪ませた。
「挙げ句、そのセイア家の魔女と結び付いた」
「セイア家と言えば……」
「そうとも。俺様と同じく、偉大なるサラザール・スリザリンの血を継いでおきながら逃げ出した軟弱者どもよ」
ヴォルデモートは吐き捨てた。
「くだらん」
その一言には、心底からの軽蔑が込められていた。
「愛情。家族。幸福。そうしたものに価値があると思い込む、愚かな連中のすることだ」
彼は新聞を杖で浮かせた。写真の中で、ペルセオンが左手を動かす。
薬指には、銀色の指輪。
ヴォルデモートはそれを見つめた。
「……実にくだらん」
再び呟く。
そして、杖を振った。新聞が炎を上げ、写真の中の青年の笑顔が黒く焦げて崩れていく。
「だが構わん。いずれ、すべて思い出させてやる」
その声は、恐ろしく穏やかだった。
「奴が何のために生まれたのか。誰の血を引いているのか。そして、誰のものなのかを」
「……我が君」
しばらくして、ルシウスが再び口を開いた。
「ではドラコには引き続き、その者の動向を報告させましょうか」
「無論だ」
ヴォルデモートは頷いた。
「ただし、余計なことはさせるな」
「……はっ」
「奴に手を出すことは許さん」
赤い瞳が、鋭くルシウスを射抜いた。
「よいな?」
「……承知いたしました」
「傷一つ付けるな。呪いを掛けることもだ。捕らえ、俺様の下に連れてくるのだ」
ルシウスは深々と頭を下げた。
「御意のままに」
ヴォルデモートは満足げに頷いた。そして、再びソファへ身を預ける。
「……もっとも、奴が素直に従うとも思えんがな」
その声音には、奇妙な楽しさがあった。
自分に逆らう者を、ヴォルデモートは決して許さない。だが、ペルセオンに対しては少し事情が違った。
彼は単なる反逆者ではない。自分が作り上げた、特別な存在なのだ。壊すわけにはいかない。
少なくとも、目的を果たすまでは。
「……アルバス・ダンブルドア」
ヴォルデモートは、ふとその名を口にした。
「またしても、俺様のものを手元に置くつもりか。実に忌々しい老いぼれよ」
ハリー・ポッター、予言。そして、ペルセオン・リドル。あの老人は、いつも自分の前に立ちはだかる。
何かを守ろうとして。何かを救おうとして。だが──
「……今回は、そう簡単にはいかんぞ。何しろ、あれは俺様の血だ」
その言葉には、揺るぎない確信があった。
血は裏切らない。血に刻まれた魔法は決して消えることはない。
そう信じている。信じて疑わない。
だからこそ彼は知らなかった。
己が姿を消していたこの十四年年という歳月の間に、ペルセオン・セイアが何を得たのか。
何を学び、誰と出会い、何を守ろうと決めたのか。
そして何より、自分が生まれる前に刻んだ呪いを、十年もの間、執念深く調べ続けている一人の魔女がいることを。
□
ドラコ・マルフォイは、自分が決して愚かな人間ではないと自負していた。
少なくとも、物事の損得を判断する能力については、同年代の生徒たちより優れているつもりだった。父ルシウス・マルフォイは幼い頃から、誰と付き合うべきか、誰に頭を下げるべきか、そして誰を利用するべきかを教えてきた。
人脈は財産である。情報は武器である。そして、権力を持つ者とは、可能な限り良好な関係を築くべきである。
それがマルフォイ家の流儀だった。だからこそ、魔法省から派遣されたドローレス・アンブリッジという魔女についても、当初は好意的に捉えていた。
何しろ彼女は、父とも面識のある魔法省の高官だ。ファッジ魔法大臣の信頼も厚いらしい。
しかも、ダンブルドアの影響力を削ぐために送り込まれたというではないか。それならば、マルフォイ家にとって利用価値がある。少なくとも、ドラコはそう考えていた。
──授業が始まるまでは。
「さて、皆さん。教科書の十二ページを開いてくださいな」
甘ったるい声が教室に響いた。スリザリン五年生の生徒たちは、一斉に教科書を開く。アンブリッジは満足そうに頷いた。
「本年度、皆さんには闇の魔術に対する防衛術について、正しく、適切で、安全な知識を身につけていただきます」
ドラコは頬杖をついた。その隣では、セオドール・ノットが既に退屈そうな顔をしている。ブレーズ・ザビニに至っては、教科書を開きながら窓の外を眺めていた。
「これまでのホグワーツでは、残念ながら、あまりにも実践的な教育が重視されてきました。ですが、皆さんはまだ子供です。危険な呪文を使う必要などありませんのよ」
ドラコの眉が動いた。
……何だって?
「魔法とは、正しい知識を持ってこそ安全に扱えるものです。ですから、私の授業では杖を使う必要はありません」
「……先生?」
「はい、ミスター・マルフォイ」
アンブリッジがにっこりと微笑む。
「何かしら?」
「……杖を使わないというのは、今日だけですか?」
「いいえ」
アンブリッジは嬉しそうに答えた。
「私の授業では、基本的に実技は行いません」
「…………」
ドラコは黙った。隣でノットが顔を上げる。ザビニも窓から視線を戻した。
「……失礼ですが」
ノットが口を開いた。
「では、盾の呪文などは、どのように習得するのでしょうか」
「教科書に詳しく記載されていますでしょう?」
アンブリッジは当然のように答えた。
「詠唱と杖の動きを覚えれば十分ですわ」
「……実際に使わずに?」
「ええ」
ノットは口を閉じた。そしてドラコを見た。
ドラコもノットを見た。二人の間で、無言の意思疎通が成立した。
──駄目だ、これは。
ブレーズ・ザビニは、そっと教科書へ視線を落とした。口元が僅かに引き攣っている。笑いを堪えているのか、呆れているのか。恐らく両方だった。
「……なあ、ドラコ」
授業開始から二十分ほど経った頃。ゴイルが小声で話しかけてきた。
「何だ」
「……これ、いつ魔法を使うんだ?」
「使わないらしい」
「……え?」
「使わないんだとさ」
ゴイルは困惑した顔になった。その隣でクラッブも首を傾げている。
「……じゃあ、何するんだ?」
「教科書を読むんだよ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
「…………」
ゴイルは教科書を見下ろした。そして、ひどく残念そうな顔をした。
ドラコは思わず額を押さえた。別に、クラッブやゴイルが学問に熱心だとは思っていない。むしろ、彼らは勉学より菓子を好む。
だが、そんな二人でさえこの授業には疑問を抱いている。それが何を意味するのか。ドラコは考えたくなかった。
「……まったく」
小さく吐き捨てる。そして、ふと別のことを思い出した。今年の闇の魔術に対する防衛術には、もう一人教師がいる。
ペルセオン・セイア。MACUSAから派遣された、現役の闇祓い。
ドラコはその名前を知っていた。いや、名前だけではない。父から、わざわざ手紙で言い含められていた。
『ペルセオン・セイアという教師には、決して無礼を働くな。授業中の言動を注意深く観察し、必要なことは報告するように。ただし、こちらから接触を強要してはならない』
珍しいことだった。ルシウス・マルフォイが息子に対してこれほど慎重な指示を出すことは滅多にない。
まして、相手は二十五歳の若い教師だ。アメリカの闇祓いとはいえ、マルフォイ家がそこまで気を遣う必要があるのだろうか?
ドラコには理解できなかった。だが、父の言葉には従うつもりだった。
「……ミスター・マルフォイ?」
アンブリッジの声が響いた。ドラコは顔を上げる。
「はい?」
「授業に集中していますか?」
「もちろんです、先生」
ドラコは即座に答えた。そして、完璧な笑みを浮かべる。
「魔法省が推奨する教育方針について、非常に興味深く拝聴しています」
アンブリッジは満足そうに微笑んだ。
「まあ! 素晴らしい心掛けですこと!」
「ありがとうございます」
ドラコは恭しく頭を下げた。その隣でザビニが顔を伏せた。肩が震えている。
ノットは無表情だったが、羽根ペンの動きが止まっていた。ドラコは二人を睨んだ。
しかし、内心では同じことを考えていた。これほど中身のない授業を、どうやって褒めればいいというのだ。
授業終了後。スリザリンの五年生たちは、地下へ続く廊下を歩いていた。
「……時間の無駄だったな」
最初に口を開いたのはザビニだった。ドラコは肩を竦めた。
「魔法省の高官だぞ。滅多なことを言うなよ」
「お前だってそう思ってるだろ」
「……まあな」
ドラコは否定しなかった。ノットが静かに口を開く。
「理論を学ぶこと自体は悪くない」
「そうだな」
「だが、理論を実際に使えるかどうか確認しないのは、合理的じゃない」
ザビニが頷いた。
「それに、今年はO.W.L.試験がある」
その言葉に、ドラコの顔が僅かに険しくなった。
そう。それが最大の問題だった。五年生にとって、O.W.L.試験は進路を左右する重要な試験である。しかも、闇の魔術に対する防衛術には実技試験がある。魔法省の高官が何と言おうと、試験官の前で呪文を使えなければ意味がない。
「……まさか試験まで理論だけで済ませるつもりじゃないだろうな」
「そのつもりなんじゃないか? 少なくとも、あの女はそう思ってるだろう」
「……冗談じゃない」
ザビニの返事にドラコは吐き捨てた。自分はマルフォイ家の嫡男だ。将来、魔法省で働くにせよ、家業を継ぐにせよ、優秀な成績を残す必要がある。父に恥をかかせるわけにはいかない。
まして、ポッターに成績で負けるなど論外だった。
「……そういえばセイア先生の授業は、今日の午後だったな」
ドラコは足を止めた。
「……ああ」
「実技をやるらしい」
「聞いてる」
ザビニが興味深そうに笑った。
「グリフィンドールの連中が騒いでたぞ。武装解除呪文を撃ち合ったとか、盾の呪文を使ったとか」
「……ふん。どうせ、ポッターが得意げに騒いでるだけだろ」
「そうかもしれないな。だが、少なくとも杖は使わせてくれるらしい」
ドラコは黙った。その言葉には妙に説得力があった。杖を使わせてくれる。闇の魔術に対する防衛術の授業として、あまりにも当然のことだ。
それが魅力的に聞こえる時点で、何かがおかしい。
「……行くぞ」
ドラコは歩き出した。その背後で、ザビニが小さく笑った。
午後。闇の魔術に対する防衛術の教室。
「さて諸君」
ペルセオン・セイアは教壇の前でにっこりと微笑んだ。黒い三つ揃えのスーツ。濃紺の闇祓いローブ。胸元には銀色のMACUSAの徽章。
深紅の瞳が、生徒たちをゆっくりと見渡す。
「今日は君たちの現在の実力を確認しようと思う」
ドラコは腕を組んだ。
……実力だって?
「まず、簡単な質問から」
ペルセオンは杖を振った。黒板に三つの呪文が浮かび上がる。
武装解除呪文。失神呪文。盾の呪文。
「この三つを、実際に使える人は?」
ドラコは手を挙げた。ノットも挙げる。ザビニも、少し遅れて手を挙げた。パンジー・パーキンソンは迷った末に手を挙げ、クラッブとゴイルは互いの顔を見合わせた。
「なるほど。じゃあ、まず一つずつ確認しようか」
彼は教室の中央へ歩いた。杖を軽く振る。机と椅子が壁際へ移動し、床に青い魔法陣が浮かび上がる。ドラコの目が細くなった。
……無言呪文。しかも、複数の家具を同時に動かしている。ペルセオンは何でもないことのように説明を始めた。
「この教室には、衝撃吸収と呪文の威力制限、それから緊急停止の魔法を施してある。だから、多少失敗しても大丈夫だ」
そして、にっこりと笑う。
「ただし、油断はしないこと。安全な環境だからこそ、真剣に取り組んでほしい」
ドラコは、思わず姿勢を正した……なるほど。少なくとも、午前中の授業とは違うらしい。
「さて。誰か最初に手本を見せてくれる人は?」
ドラコは迷わなかった。すっと手を挙げる。
「はい、先生」
「おや」
ペルセオンは微笑んだ。
「君はマルフォイだね。お父上そっくりだ」
「ええ」
ドラコは立ち上がった。
「僕がやります」
「ありがとう。では、こちらへ」
ペルセオンは教室の中央を指差した。ドラコは悠然と歩み出る。背筋を伸ばし、杖を構える。その姿には、純血の名門の嫡男らしい自信があった。
ペルセオンは彼を見つめ、そして静かに微笑んだ。
「……良い構えだ」
ドラコの口元が、僅かに上がった。当然と言わんばかりに。
「ありがとうございます」
「ただ、少し肩に力が入りすぎている」
「……え?」
「そんなに緊張しなくていい。俺は君を評価するためにここにいるんじゃない。君がもっと上手くなるために、手伝うのが仕事だからな」
ドラコは瞬きした。
彼にとってその言葉は少し意外に思えた。教師というものは生徒を評価する存在だと思っていたからだ。
優秀な者を褒め、劣る者を叱る。少なくとも、これまでの教師たちはそうだった。
だが、この青年は違うことを言う。
「……分かりました」
ドラコは小さく頷いた。
「それじゃ、始めようか」
ペルセオンは杖を軽く掲げた。
「俺に向かって、武装解除呪文を撃ってごらん」
ドラコは目を細めた。深く息を吸う。そして──
「エクスペリアームス!」
赤い閃光が正確な軌道を伴ってペルセオンに向かう。
少なくとも、五年生としては十分に優秀な呪文だった。しかしペルセオンは僅かに身体を傾けただけだった。
呪文が彼の肩先を掠め、背後の結界へ吸い込まれて消える。
「……っ!」
ドラコは目を見開く。避けられた。しかも、ほとんど動いていない。
「良い呪文だ。発動も速いし、威力も十分。だけど、少しだけ癖があるな」
「……癖?」
「撃つ直前、杖を持つ手が僅かに上がるんだ」
彼は自分の右手を軽く動かして見せた。
「その動きを見れば、相手は呪文が来ると分かる」
思わずドラコは眉を寄せた。
「……そんなに分かりやすいですか?」
「慣れた相手ならね」
ペルセオンは微笑んだ。
「でも、これは練習で直せる。君は基礎がしっかりしているから、すぐに改善できると思うよ」
ドラコは黙った……褒められた。だが、ただ褒められただけではない。欠点を指摘され、改善方法まで示された。しかも、その指摘には納得できる理由がある。癪だが。
「……もう一度、やっても?」
「もちろん」
ペルセオンは嬉しそうに頷いた。
「そのための授業だからな」
ドラコは杖を構え直した。今度は、肩の力を抜く。杖を持つ手の動きを意識する。
「エクスペリアームス!」
赤い閃光が走る。ペルセオンは再び避けた。だが、今度は先ほどより少しだけ大きく動いた。
「うん、良くなった。今の方がずっと読みにくかったぞ」
ドラコは小さく息を吐いた。そして気づけば、口元に笑みが浮かんでいた。
授業が終わる頃には、スリザリン五年生の生徒たちはすっかり疲れ果てていた。しかし、その表情は午前中とはまるで違っていた。
「……面白かったな」
ザビニが呟いた。ノットが頷く。
「……ああ」
クラッブとゴイルは、盾の呪文を成功させたことを互いに自慢し合っていた。パンジーは自分の武装解除呪文が思った以上に正確だったことに満足しているようだった。そしてドラコは──
「……セイア先生」
教室を出る前に、ペルセオンへ声を掛けた。
「ん? どうしたマルフォイ?」
「……一つ、質問しても?」
「もちろん」
ドラコは少し迷った。
こんなことを聞いて何になるのか。しかし聞かなければ後悔すると、己の勘が告げていた。
「……先生は、どうして闇祓いになったんですか?」
ペルセオンは瞬きをした。まさかマルフォイの子息からそんな質問が飛んでくるとは。
「……どうして、か」
少し考えた。そして、穏やかに微笑む。
「……守りたいものがあったから、だろうな」
「……守りたいもの?」
ペルセオンは頷いた。
「大切な人たちが、理不尽な目に遭わないようにしたかったんだ」
ドラコは黙った。その答えは、彼が予想していたものとは違っていた。
名誉、権力、地位。そうしたものではない。ただ、守りたいものがあったから。
「……そうですか」
ドラコは小さく頷き、ペルセオンは微笑んだ。
「君にも、きっとあると思うよ」
「……え?」
「大切にしたいものさ」
その言葉に、ドラコは一瞬、言葉を失った。
脳裏に浮かんだのは、父と母の顔だった。ルシウス・マルフォイとナルシッサ・マルフォイ。自分を育ててくれた二人の親。そしてマルフォイ家。その名誉と誇り……守りたいもの。
「……あります」
ドラコは静かに答えた。
「そうか。なら、大事にするといい」
そして、少しだけ声を落とした。
「ただし、誰かに言われたからじゃなくて、自分で選ぶんだぞ?」
ドラコは目を見開いた。その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
けれど何故だろう。胸の奥に、奇妙なものが残った。
「……はい」
小さく答える。そして教室を出た。
廊下ではザビニとノットが待っていた。
「……何を話してたんだ?」
ザビニが尋ねる。
「……別に。大したことじゃない」
肩を竦めてそう答えながらも、彼はもう一度だけ教室の扉を振り返った。その視線の先では、黒髪の青年が生徒たちの使った魔法陣を片付けている。
どこか楽しそうに。そして、どこか懐かしそうに。ドラコは小さく息を吐いた。
「……変わった教師だな」
ザビニが笑った。
「……まあな」
ノットも静かに頷いた。そうして三人は地下へ続く廊下を歩き出した。
その日。ドラコ・マルフォイは一つのことを理解した。防衛術を学ぶということは、単に呪文を覚えることではない。
それは、自分の身を守るための力を身につけることだ。そして、その力を何のために使うのか。それを決めるのは教師でも、魔法省でも、父親でもない。自分自身なのだ……もっとも、その意味を本当の意味で理解するのはもう少し先のことになるのだが。
□
某日。
叩きつけるような雨の日、オーストリアのヌルメンガード城にいる老人は、にこやかに来客を出迎えた。
「まさか君がここに来るとは」
歓迎しようとも。
両手を広げ、老人は笑みを浮かべる。
鉄格子の先。老人が求めた客人は、静かに杖を一振りして鉄格子の鍵を解除すると大きく開け放つ。
客人の肩には、老人も見覚えのある不死鳥──かつて配下に与えた一羽──が留まっていた。
そうして、それはフードの奥から覗く薄紅の眼を輝かせて言った。
『貴方はここを出て、罪を償わなければ』と。
それを聞いた老人は鉄格子の外に一歩足を踏み出し、にこやかに笑って朗々と返した。
──良いとも、と。