一九九五年度『闇の魔術に対する防衛術』教授、ペルセオン・セイア(旧姓リドル) 作:T・M・レボリューション・リドル
本格的に寒さを感じるようになってくると、温かな談話室から出るだけでも相応の覚悟が必要だった。
そんなある日の午後。ハリーは人気のない廊下を歩きながら右手を振っていた。
「……っ」
じくじくとした痛みが、手の甲から手首へと走る。
袖口を引き上げれば、そこには赤黒い文字が刻まれていた。
──僕は嘘をついてはいけない。
何度も、何度も書かされた言葉。羽根ペンで羊皮紙に書いたはずの文章が、まるで刃物で刻み込まれたかのように、自分の手の甲へ浮かび上がっている。
ドローレス・アンブリッジ。
魔法省から派遣されてきた、闇の魔術に対する防衛術の理論担当教師。
その女が与えた罰則だった。ハリーは唇を噛んだ。
痛いし腹立たしい。
だが、何よりも悔しかった。
ヴォルデモートが復活した。セドリック・ディゴリーが殺された。自分自身も、あの墓場で死にかけた。
それなのに、あの女は何度でも言うのだ。
嘘をつくな、と。
「……くそっ」
ハリーはもう一度、手を振った。しかし痛みは消えない。
「……ハリー?」
不意に声が掛かった。
ハリーはびくりと肩を震わせて振り返る。
廊下の向こうから、一人の青年が歩いてくる。
黒い三つ揃え。その上に羽織られた、アメリカ合衆国魔法議会の闇祓いを示す黒いローブ。
胸元には銀色の徽章が輝き、深紅の瞳が穏やかに細められている。
ペルセオンだった。
「……セイア先生」
「やあ。こんなところで何をしてるんだ?」
「……別に」
「別に?」
ペルセオンは首を傾げた。
そして、ハリーの右手へ視線を落とした。
「……手、なにかあったのか?」
「……何でもありません」
「そう?」
「はい」
ハリーは慌てて袖を下ろした。
しかし、その動きを見たペルセオンの表情が、僅かに変わった。
「……ハリー」
「はい?」
「ちょっと、手を見せてくれるか?」
「……え?」
「右手」
穏やかな声だった。命令するような口調ではない。ただ、何かを確かめようとしている。
ハリーは一瞬迷った。
「……大丈夫です」
「そうか」
ペルセオンは頷いた。
「じゃあ、俺の勘違いならそれでいいんだけど」
少しだけ腰を屈め、ハリーと目線を合わせた。
「……痛いんじゃない?」
ハリーは、何も言えなかった。
ペルセオンは続けた。
「歩きながら何度も手を振ってたし、袖を下ろす時も少し庇ってた」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「……怪我をしたなら、見せてほしい」
ハリーは唇を噛んだ。
そして観念したように、ゆっくりと右手を差し出し、ペルセオンはその手を取った。
袖を捲る。赤黒い文字が、露わになった。
「…………」
ペルセオンは、黙った。
ほんの数秒だった。だが、ハリーには妙に長く感じられた。
「……これは」
ペルセオンが、静かに口を開いた。
「……誰にやられたのか?」
ハリーは目を伏せた。
「……その」
「うん」
「……罰則で」
「罰則?」
「……アンブリッジ先生の」
沈黙。
ペルセオンは、もう一度傷を見た。そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
それだけだった。
怒鳴りもしない。驚きもしない。
ただ、表情から笑みが消えていた。
「……ハリー」
「はい」
「これはいつから?」
「……少し前からです」
「何回くらい?」
「……何度か」
「……何度か、か」
ペルセオンは頷き、静かに言った。
「……医務室に行こう」
「……え?」
「治療が必要だ」
「でも、先生……」
「大丈夫」
ペルセオンは微笑んだ。ただし、その笑みは先ほどまでとは少し違っていた。
見た者をぞっとさせる、冷えた笑み。
「俺が一緒に行くから」
ホグワーツの医務室。
「……何ですって?」
ポピー・ポンフリーは、ハリーの手を見た瞬間に声を荒げた。
「……これは、一体!」
「罰則だそうです」
ペルセオンが静かに答えた。ポンフリーは顔を上げ、かつての問題児の顔を見る。
「……罰則?」
「ええ」
彼は頷いた。
「アンブリッジ先生が使用した羽根ペンによるものだと」
ポンフリーの顔色が変わった。
「……血の羽根ペン?」
「おそらく」
ペルセオンはハリーの手をそっと持ち上げた。
「皮膚の表層だけじゃない。魔力を媒介にして、繰り返し同じ傷を刻んでいる」
その声音には、冷静な分析があった。
「治癒を妨げる術式も組み込まれているようですね」
「……何ということを……」
ポンフリーは唇を引き結んだ。ハリーは居心地悪そうに俯く。
「……大丈夫です」
「大丈夫なわけがありません!」
ポンフリーが即座に言った。
「こんなものを生徒に使うなんて!」
ハリーは肩を竦めた。ペルセオンはそんな彼の頭へ軽く手を置いた。
「ハリー」
「……はい」
「君が我慢する必要はないんだ」
ハリーは顔を上げた。
「でも……僕が言い返したから」
ペルセオンは静かに聞いていた。
「アンブリッジ先生が、ヴォルデモートは戻ってきてないって言ったんです」
ハリーの声が、怒りで震えた。
「だから僕は……本当のことを言っただけです」
ペルセオンは、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな……君は、嘘をついていない」
はっきりと告げた。
「少なくとも、君の証言を否定できるだけの証拠を、俺は見たことがない」
彼は少しだけ肩を竦めた。
「現役の闇祓いとしては、調査もしないうちから嘘だと決めつける方が、よほど不自然だと思うよ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ペルセオンは頷いてポンフリーへ視線を向けた。
「……治療をお願いできますか?」
「もちろんです!」
ポンフリーは即座に薬棚へ向かった。
それを見送り、ペルセオンはハリーに顔を近付ける。
「ところで。この罰則、他にも受けた生徒はいるのか?」
ハリーは瞬きをした。
「……分かりません」
「そうか」
ペルセオンは頷いた。
「じゃあ、調べてみよう」
その言葉に、ハリーは嫌な予感を覚えた。
「……先生?」
「何?」
「……何をするつもりですか?」
「……ちょっと、お話し合いをね」
内緒だよ、と言うようにペルセオンは人差し指を唇に当て、小さくウインクをする。
なるほど学生次第はさぞモテたんだろうなあ、とハリーはぼんやりとそんなことを思った。
□
その日の夕方。
ドローレス・アンブリッジは、机の上に積まれた書類を整理していた。
壁には、魔法省の教育令がずらりと貼られている。猫の絵皿が壁にずらりと並べられ、甘ったるい香水の匂いが鼻を突き刺さんばかりに充満している。
その拷問部屋の扉が、静かに叩かれた。
「……どうぞ」
アンブリッジは顔を上げた。
扉が開く。そこに立っていたのは、ペルセオンだった。
「……あら」
アンブリッジは、いつもの作り笑いを浮かべた。
「セイア先生。何かご用かしら?」
「ええ」
ペルセオンは微笑んだ。目は心底まで冷えているが。
「少し、お話がありまして」
「……お話?」
「はい」
彼は扉を閉めた。
そして、机の前へ歩み寄る。
「……生徒への罰則についてです」
アンブリッジの笑みが、僅かに強張った。
「……罰則?」
「ええ。ハリー・ポッターの手を拝見しました」
沈黙。
アンブリッジは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……ああ、あの子ね」
彼女は甘ったるい声で言った。
「困った子ですのよ。何度注意しても、嘘をつくのをやめませんから」
「……そうですか」
ペルセオンは穏やかに頷いた。
「それで、血の羽根ペンを?」
「……何のことかしら?」
「皮膚を切り裂き、書いた文字を手の甲に刻み込む魔法具です」
ペルセオンは、淡々と説明した。
「反復使用によって傷が深くなり、場合によっては神経や魔力経路にも影響を及ぼす」
アンブリッジの笑みが消えかけた。
「……セイア先生」
「なんです?」
「……これは、英国魔法省の教育方針に基づく指導です」
「なるほど。魔法省は生徒を傷つける真似を容認すると」
ペルセオンは頷いた。
「……では、その教育方針を文書で確認させていただけますか?」
「……え?」
「生徒に対して、身体を傷つける魔法具の使用を認めた規定です」
彼は微笑んだ。
「該当する教育令の番号と、承認した責任者のお名前もお願いします」
アンブリッジは口を開こうとしたが、言葉が出なかった。
「……何故、そんなことを?」
「必要だからです」
ペルセオンは即答した。
「俺はアメリカ合衆国魔法議会から派遣された闇祓いです。ホグワーツにおける生徒の安全管理についても、契約上の責任があります」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「……それから、ポンフリー先生の診断書です」
アンブリッジの顔色が変わった。
「……診断書?」
「ええ。傷の状態、使用された魔法具の推定、治療内容。すべて記録してあります……必要であれば、英国魔法省の法執行部門と、MACUSAの国際魔法法執行協力室へ正式に照会しますが」
アンブリッジは、椅子の肘掛けを握り締めた。
「……脅しているのですか?」
「いいえ? 手続きを説明しているだけですよ」
その声は、どこまでも穏やかだったが、深紅の瞳には笑みがなかった。
「……アンブリッジ先生。生徒の身体を傷つけることと、教育することは、別の話です」
「……あなたは、私の指導方針に口を出すおつもり?」
「もちろん」
即答だった。アンブリッジは目を見開く。
ペルセオンは微笑んだ。うっとりと、相手を絡め取る蛇のように。
「……だって」
彼は少しだけ首を傾げた。前髪がはらりと目元に掛かる。
「……俺も、この学校の教師ですから」
暖炉の薪が、小さく爆ぜた。アンブリッジは何も言えなかった。
「……それでは」
そして、扉へ向かった。
だが、取っ手に手を掛けたところで、ふと振り返った。
「……ああ、そうだ」
「……何か?」
ペルセオンは微笑んだ。
「今後、同様の罰則を行う場合は……事前に俺へご連絡くだされば」
アンブリッジは眉を寄せた。
「……何故です?」
「……止めに行きますので」
そう言って彼は、静かに扉を閉めた。
残されたアンブリッジは、しばらく動かなかった。
そして。
「……何なのよ、あの男……!」
机を叩いた。猫の絵皿が、かたかたと震える。
だが、彼女はまだ知らなかった。
ペルセオン・セイアという男が生徒を守ると決めた時、どれほど厄介な存在になるのかを。
□
北海、アズカバン監獄。
冷たい。どこまでも冷たい、監獄の底。北海の荒波に囲まれた孤島に、陽光などという気の利いたものは滅多に届かない。
厚い雲が空を覆い、海風は石壁の隙間から容赦なく吹き込み、囚人たちの体温を少しずつ奪っていく。そして、何よりも。
吸魂鬼。
あの忌々しい、腐った布切れを纏った化け物ども。奴らが近づくだけで、幸福な記憶は遠ざかり、心の奥底に沈めた恐怖や絶望ばかりが浮かび上がってくる。だが、ベラトリックス・レストレンジは笑っていた。
「……ふ、ふふ……」
暗い独房の中。痩せ細った身体を石壁に預け、長く乱れた黒髪を肩から垂らした女は、ゆっくりと左手を持ち上げた。
指先が、脇腹に触れる。そこには古い傷があった。幾年を経ても消えない、深く刻まれた魔法の傷。
普段は忘れていることもある。だが、寒さが厳しい夜には疼く。まるで、あの日のことを忘れるなとでも言うように。
「……エリス」
女は、懐かしい名前を口にした。
エリス・ヴァルブルガ・ブラック。ブラック家の長女。自分の従姉。
そして偉大なる闇の帝王、ヴォルデモートの子を産みながら、よりにもよってその御方に逆らった愚かな女。
「……本当に」
ベラトリックスは、くつくつと喉を鳴らした。
「……馬鹿な女だった」
その声には、嘲笑があった。
だが不思議なことに、憎悪だけではなかった。
エリスは、昔から奇妙な女だった。
純血の名門ブラック家に生まれ、由緒正しい教育を受け、容姿にも魔法の才能にも恵まれていた。
黒髪は艶やかで、所作は優雅。穏やかな微笑みを絶やさず、誰に対しても丁寧に接する。ブラック家の長女として、申し分のない令嬢だった。少なくとも、表向きは。
『……ベラ』
幼い頃、エリスはよくそう呼んだ。
『また喧嘩をしたの?』
『あいつが悪いのよ!』
『そう』
エリスは困ったように微笑んだ。
『でも、相手の髪を燃やすのは感心しないわね』
『だって、あいつが私のことを馬鹿にしたんだもの!』
『それなら、言葉で言い返せばよかったでしょう?』
『そんなの生温いわ!』
『……そうねえ。じゃあ、次は相手が言い返せなくなるくらい、上手に言葉を使いなさい』
そう言って、ベラトリックスの髪を撫でた。今思えば、あれは実にエリスらしい返答だった。
暴力を否定する。しかし、相手に屈しろとは言わない。やり方を変えろと言うだけ。それがベラトリックスには気に入らなかった。
同時に少しだけ、羨ましかった。エリスは誰に対しても穏やかだった。決して弱くはなかった。むしろ、魔法の腕前だけなら同世代の中でも群を抜いていた。
ベラトリックスはそれを知っていた。
何故なら何度も、何度も。彼女に決闘を挑んでは負けていたのだから。
『……もう一度!』
『ベラ、今日はもう三回目よ』
『関係ないわ!』
『……困った子ね』
エリスは苦笑した。そして、杖を構えた。次の瞬間には、ベラトリックスの杖が宙を舞っていた。
『……っ!』
『足元が疎かよ。攻撃することばかり考えては駄目。相手の動きを見なさい』
ベラトリックスは歯を食いしばった。
悔しかった。腹立たしかった。
だがその強さに、憧れてもいた。
「……ふふ」
ベラトリックスは、古傷を指でなぞった。そして目を閉じた。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
闇の帝王が、まだ完全には英国魔法界を掌握していなかった頃。死喰い人たちが次々と集まり、純血の名門がその旗の下へ馳せ参じていた時代。
ベラトリックスは幸福だった。
偉大なる御方のために戦える。その御方の命令を受けられる。
その御方の理想を実現するために、己の魔法を振るえる。それこそが、自分の生きる意味だった。
──だから。
エリスがあの御方の子を産んだと知った時。胸の奥で、何かが軋んだ。
嫉妬、羨望……そして、どうしようもない怒り。
何故エリスなのか。何故あの女が。あの御方の子を。だが、ベラトリックスはそれを表に出さなかった。少なくとも最初は。
闇の帝王が望まれたことならばそれは正しい。そう信じていたから。
しかしエリスは逆らった。よりにもよって。自分が産んだ子供を連れ、あの御方のもとから逃れようとしたのだ。
その知らせを聞いた時。ベラトリックスは心の底から怒り狂った。
『……エリス!』
夜の森。雨が降っていた。冷たい雨が木々を叩き、足元の土を泥へ変えていく。その中で、二人の魔女が向かい合っていた。
一人は、黒いローブを纏ったベラトリックス。
もう一人は、深い紺色の外套を羽織ったエリス。
エリスの腕には、小さな子供が抱かれていた。まだ幼い、黒髪の男の子。深紅の瞳。その顔立ちは、あまりにも父親に似ていた。
『……ベラ。道を開けて』
『……何ですって?』
『この子を連れて行くの』
『……どこへ?』
『あれの手が届かない場所へ』
ベラトリックスは、耳を疑った。
『……正気なの?』
『ええ』
『あの御方の子を、連れ去るつもり!?』
『この子は、私の子でもあるわ』
エリスは穏やかに答えた。その声音には、揺らぎがなかった。
『……ペルセオンは、誰の所有物でもない』
ベラトリックスは、杖を握り締めた。
『……あの御方に逆らうつもりなのね』
『そうよ』
即答だった。ベラトリックスは息を呑んだ。エリスは続ける。
『あの人が、この子に何をしたのか知っているの?』 『……何を?』
『……生まれる前から、この子の魔力を弄ったの』
エリスの声が氷河を帯びる。
『この子が、あの人の望むものになるように』
『……それが、どうしたというの?』
冷たく言い放った。
『あの御方が望まれたことならば、光栄なことでしょう!』
エリスは、悲しそうに目を細めた。
『……ベラ』
『何よ!』
『……あなた、本当に変わってしまったのね』
その言葉が何よりも、ベラトリックスの怒りを煽った。
『……黙りなさい!』
杖が振り上げられた。
『クルーシオ!』
鮮烈な紅の光が走る。エリスは片手で杖を振った。
『プロテゴ』
透明な盾が展開され、呪文を弾いた。そのまま、杖先が動く。紅い光が瞬いた。
ベラトリックスは咄嗟に身を捻った。武装解除呪文が肩を掠め、背後の木を砕く。
『……っ!』
ベラトリックスは歯を食いしばった……強い。昔から分かっていた。だがこれほどまでに。
しかも、エリスは片腕で子供を抱いている。それなのにベラトリックスの呪文は、一つとして届かない。
『……ふざけるな!』
次々と呪文を放つ。赤い閃光。青白い光。黒い煙。森の木々が砕け、地面が抉れる。
しかしエリスは動じなかった。
『ベラ……もう、やめましょう』
『黙れ!』
ベラトリックスは叫んだ。
『あの御方を裏切ったくせに!』
その瞬間。エリスの表情が変わった。穏やかな微笑みが消える。そして。
『……ベラトリックス』
冷たい声で、名を呼んだ。
『……あなたが誰を崇拝しようと、私には関係ない』
杖先が、静かに持ち上がる。
『でも』
その瞳に、鋭い光が宿った。
『……私の子に、手を出すというのなら』
空気が震えた。ベラトリックスは反射的に杖を構えたが、遅かった。
『……容赦はしないわ』
次の瞬間、白銀の閃光が夜の森を切り裂いた。
『──っ!』
ベラトリックスの身体が吹き飛んだ。脇腹に、焼けつくような痛みが走る。
血が飛び散った。地面に叩きつけられ息が詰まる。杖を取り落とし、視界が揺れる。
そして雨の向こうにエリスの姿が見えた。
彼女は子供を抱いていた。小さな男の子は、母親の胸元に顔を埋めている。
エリスはベラトリックスを見下ろした。その表情には、怒りがあった。そして。深い悲しみも。
『……さようなら、ベラ』
静かな声だった。
『……もう、会わないことを祈るわ』
そしてエリスは、姿を消した。雨の中。ベラトリックスはただ笑った。血を吐きながら。痛みに呻きながら。それでも。
『……ふふ……やっぱり』
唇が、歪む。
『……強いわねえ、エリス……』
「……ああ」
アズカバンの独房。ベラトリックスは、ゆっくりと目を開けた。古傷が疼く。だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
「お前なら……どうしたかしらねえ」
シリウス・ブラック。哀れな従弟。ブラック家の恥。グリフィンドールに組分けされ、純血の誇りを捨て、血を分けた家族を裏切った男。
そしてアズカバンに放り込まれ、十二年もの歳月を吸魂鬼と共に過ごした末、脱獄した一等星。ベラトリックスにとっては、忌々しい存在だった。
だがエリスにとっては。あの子は、大切な弟だった。
「……ふふ」
ベラトリックスは笑った。
「……きっと、怒ったでしょうねえ」
容易に想像できた。
弟が無実の罪で投獄されたと知れば。エリスはきっと動いただろう。魔法省が何と言おうと。大臣が何と言おうと。純血の名門がどれほど反対しようと。
そんなものは、あの女には関係ない。大切な家族を傷つけられた。ただ、それだけで十分だったはずだ。
吸魂鬼どもを八つ裂きにし、アズカバンの門を吹き飛ばし、弟を連れ帰る。そして、何事もなかったように微笑むのだ。
『さあ、シリウス。帰りましょう』……ああ。実に、あの女らしい。
「……情に厚かったものねえ」
ベラトリックスはくつくつと笑う。その笑みは、やがて静かに溶けた。
──エリス。お前はどこへ行った?
あの夜以来、姿を見せなくなった従姉。闇の帝王の怒りを買い、その子供を連れて逃げた女。
死んだという噂もあった。国外へ逃れたという話も聞いた。だが確かなことは何一つ分からない。
そしてあの男の子。黒髪に深紅の瞳をした、小さな子供ペルセオン。蛇殺しの勇者の名を与えられた、偉大なる御方の血を継ぐ誉れの子。
「……生きているのかしら」
ベラトリックスは呟いた。もし生きているならば。もう、立派な青年になっているはずだ。
父親に似ているのだろうか。それとも。母親に似ているのだろうか。
「……ふふ」
彼女は、再び笑った。
「……会ってみたいものねえ」
その声には、奇妙な熱があった。
偉大なる闇の御方の血を引く子供。あのエリス・ブラックの息子。
その二人の血を継いだ青年が、どのような魔法使いになったのか。興味がないと言えば嘘になる。
そして。もしも、もしも。その子供が母親と同じように、闇の帝王へ逆らっているのなら。
「……ああ」
ベラトリックスは、うっとりと目を細めた。
「……それは、さぞかし」
愉快なことだろう。
あの御方は、どんな顔をなさるだろうか。そして、自分は。
あの子供とどのように向き合うのだろう。父親への忠誠か。母親への憎悪か。それとも。かつて憧れた従姉の面影を、そこに見出すのか。
分からない。だがベラトリックス・レストレンジは笑っていた。冷たい監獄の底で。古傷を撫でながら。
「……待っていなさい、ペルセオン」
その声は、闇の中へ溶けていった。
「……いつか、会いに行ってあげる」
そして遠くの廊下から、吸魂鬼の気配が近づいてきた。幸福な記憶を奪い去る、冷たい化け物。だがベラトリックスは目を閉じた。
その胸の奥には、今なお鮮明に残る記憶があった。雨の森。白銀の閃光。
そして幼い子供を抱きしめ、決して退こうとしなかった、一人の魔女の姿。
エリス・ヴァルブルガ・ブラック。穏やかで気品があり、誰よりも情に厚く。そして誰よりも、恐ろしい女だった。
「……ふふふ」
ベラトリックスは静かに笑った。古傷が、また一つ疼いた。
それはまるで。あの夜の従姉が、今もどこかで自分を見つめているかのようだった。
「……手綱を握れなかったなロジエールめ」
かつての同士の名を口にする。
エバン・ロジエール。エリスの婚約者。ヴォルデモートにエリスの身を捧げた忠臣。愛していたのだろう。しかし、闇の帝王に愛する者を捧げることもまた愛だと、奴は言っていた。
その結果、エリスは姿を消し、ロジエールは闇の帝王の怒りを買った。ロジエールは探して探して探し回り、その結果にマッドアイ・ムーディに狩られたのだ。
「奴ならば生き延びられたろうに」
自棄になっていたのだろう。婚約者は消えた、掌からこぼれ落ちた。ならば意味は無いと。
ロジエールにとって、エリスは星だったのだから……まあ、その星を簡単に帝王に捧げてしまうのもどうかと思うが。
ベラトリックスは大賛成である。闇の帝王にすべてを捧げることこそ、己の誉れなのだ。
そうして幾日かが過ぎた頃。印が焼け付くように痛み、ベラトリックス他あの御方の忠臣たちは揃って鉄格子の前に立った。
闇の香りが強くなる。
そうして、靴音と共に瞬く紅が膝をつく忠臣達を見下ろした。
「……この時を、どれほど」
恭しく、高貴な印が刻まれた左腕を差し出す。骨のような白い手が、それを乱暴に掴み取り、静かに告げた。
「立て、ベラ──」
真なる、俺様の時代のために。