ある旅人の話   作:すいみむ

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序章
第1話 祭りの余韻


 ……楽しかった。

 

 そんな言葉が、まどろみの中で何度も浮かんでは消えていく。

 

 柔らかな寝具に身を沈めたまま、ルミネスは薄く目を開けた。窓の向こうから差し込む光は、朝が十分に進んでいることを告げている。起きなければならない。そう頭では理解していたものの、身体はまだ、昨夜の余韻を手放す気になれなかった。

 

 目を閉じれば、昨夜の光景が浮かんでくる。

 

 人々の声。屋台から漂う料理の匂い。飾り立てられた通り。そして、広場に集まった人々が、音楽に合わせて輪になって踊る姿。

 

 広場の中央には、二階建てほどの高さを持つ櫓が立っていた。一階は人々が立ち入れる造りになっており、その上の二階では、太鼓を前にした者が祭りの音頭を取っていた。

 

 櫓から広場の外周へと提灯が連なり、夜の街を暖かな色に染めている。その明かりの下には屋台が立ち並び、料理の匂いと人々の声が絶え間なく行き交っていた。

 

 中央の櫓から響く太鼓の音に合わせ、人々は輪になって踊る。誰かの動きを真似る者もいれば、慣れた様子で身体を動かす者もいる。広場には、年齢も種族も異なる人々が集まり、それぞれのやり方で祭りを楽しんでいた。

 

 そして、夜空を見上げれば、色とりどりの花火が咲いていた。

 

 金色、青白色、赤、緑。開いた光は一瞬だけ夜空を照らし、やがて細かな光の粒となって消えていく。その下では、誰かが笑い、誰かが踊り、誰かが屋台の料理を頬張っていた。

 

 ルミネスもまた、その輪の中にいた。

 

 ボンダンス。

 

 アストラヴェール帝国の町、ポルトゥーラで夏を彩る大祭りだ。

 

 その起源は、エーレのどこかに古くから伝わる風習ではない。遠い異世界、地球と呼ばれる場所から流れ着いた一人の人間が伝えた、日本という国の盆踊りにあるのだという。

 

 異世界から来た者が、故郷の文化をこの世界に伝える。言葉にすれば、それだけのことだ。しかし、その文化が一個人の記憶の中だけに留まらず、やがて土地の人々に受け入れられ、ひとつの祭りとして定着したというのは、なかなか興味深い話だった。

 

 その人物は、どのような思いで盆踊りを伝えたのだろう。

 

 故郷を懐かしんでいたのか。それとも、見知らぬ土地で新しい楽しみを作ろうとしたのか。あるいは、言葉にできない寂しさを紛らわせようとしていたのか。

 

 今となっては、確かなことは分からない。

 

 けれど、少なくとも昨夜の広場にいた人々は、そんな起源を気にしているようには見えなかった。

 

 彼らにとって、ボンダンスはすでに自分たちの祭りなのだろう。そこに集まり、食べ、笑い、踊る。遠い異世界から渡ってきたという由来は、祭りを知るための知識ではあっても、楽しむための条件ではない。

 

 ……そういうものなのかもしれない。

 

 文化というものは、誰かが生み出した瞬間から、その人だけのものではなくなっていく。伝えた者の意図が残ることもあれば、形を変えて失われることもある。それでも、受け取った者たちが自分たちの暮らしの中に取り込んでいけば、やがて新しい意味を持つようになる。

 

 ルミネスは、自前の枕に頬を埋めたまま、昨夜の踊りを思い返した。

 

 あの輪の中にいた人々は、盆踊りの起源をどれほど知っていたのだろう。地球という世界のことを、どれほど理解していたのだろう。

 

 考え始めると、確かめたいことはいくつも浮かんでくる。

 

 けれど、それ以上に。

 

「……もう一度、見てもよかったですね」

 

 自然と出た言葉に、ルミネスは小さく笑った。

 

 知りたいことがあるから旅をする。知らなかったものに出会えるから、旅を続けている。それは昔から変わらない。

 

 ただ、昨夜のボンダンスについては、知ることだけが楽しかったわけでもなさそうだった。

 

 その場の雰囲気に魅入られ、流れる音楽に身を委ねるうちに、彼女もまた自然と踊りの輪に加わっていた。

 

 ただ、楽しかった。

 

 一度経験したことであれば、そうそう忘れることはない。知りたいことを知れば、ひとまず満足する。普段の自分は、そういう性質だったはずだ。

 

 それなのに、また行きたいと思っている。

 

「……不思議なものですね」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いて、ルミネスは再び目を閉じた。

 

 けれど、こうして次の日はやってくる。名残惜しくはあるが、祭りは終わったのだ。

 

 そう考えてから、彼女は小さく息を吐いた。いつまでも余韻に浸っているわけにもいかない。旅には次の目的地があり、彼女たちには進むべき道がある。

 

 とはいえ、急いで気持ちを切り替える必要もないだろう。旅はまだ続くのだから。

 

 そう思い、再びまどろみの中に沈もうとした、そのとき。

 

「ルミネス様。お支度はお済みでしょうか」

 

 扉の向こうから、控えめな声がした。

 

「ええ。もう少ししたら出ますよ、リィス」

 

 返事をしながら、ルミネスは机の上に置いていた小物へと手を伸ばした。早く起き上がろうとしたせいか、寝起きの鈍い動きは思うようにいかず、手を机にぶつけてしまう。

 

「……っ」

 

 机に手がぶつかり、鈍い音が部屋に響いた。

 

 扉の向こうで、リィスの気配が止まった。

 

「ルミネス様? 何かございましたか?」

 

 扉をたたく音にすぐに返事をする気にもなれず、ルミネスはぶつけた手を押さえたまま、しばらく動かなかった。じんわりと広がる痛みに眉を寄せる。大したことではない。そう判断してから、ようやく扉の向こうへ声を返した。

 

「……いえ、少し手をぶつけただけです。大丈夫ですよ」

 

「そうですか。何かありましたら、お声がけくださいね」

 

 リィスの気配が再び落ち着くのを感じてから、ルミネスはそっと息を吐いた。

 

 朝から余計な心配をかけてしまったらしい。

 

 そう思いながら、彼女は改めて上体を起こした。ぶつけた手を確かめる。痛みはあるが、どうということもない。少なくとも、旅の支度を遅らせるほどのものではなかった。

 

 机の上の小物を手に取り、身の回りを整えていく。窓から差し込む朝の光は、昨夜の賑わいなど初めからなかったかのように穏やかだった。

 

 祭りの音は、もう聞こえない。

 

 それでも、耳の奥にはまだ、あの音楽が残っている気がした。

 

 人々の声。屋台から漂っていた食べ物の匂い。踊りの輪の中で、誰かに合わせるでもなく、ただ音に身を任せていた時間。

 

 思い返せば、どれも特別なことではないのかもしれない。けれど、特別なことではないからこそ、あの場にいた人々にとっては大切なものだったのだろう。

 

 ルミネスは窓の外へ目を向けた。

 

「……また、機会があれば」

 

 そう呟いてから、ようやく寝台を離れた。

 

 次に訪れる土地にも、彼女の知らない暮らしがある。彼女の知らない習慣があり、彼女の知らない音楽があるのだろう。

 

 それを知るために、長い間旅を続けてきた。

 

 そう考えると、名残惜しさも少しだけ違ったものに思えた。

 

 ルミネスはゆっくりと身を起こし、寝台から降りた。

 

 鏡の前に立ち、まずは乱れた髪に手を通す。銀白色の長い髪は、肩から背中へと流れ、指の間をさらさらと抜けていった。顔にかかった前髪を整え、左右に湾曲した黒い角の位置を確かめる。角の根元に添えられた装飾が、窓から差し込む朝の光を受けてかすかに輝いた。

 

 鏡の中に映るのは、見慣れた自分の姿だった。

 

 黒と濃紺を基調とした旅装には、金色の刺繍や縁取りが施されている。肩から垂れる青い布を整え、袖口の乱れを直す。背中の翼を窮屈にしないよう衣服を整え、尾の位置も確かめた。旅先で長い時間を過ごす彼女にとって、これもまた、幾度となく繰り返してきた朝の習慣だった。

 

 ルミネスは竜族だ。

 

 人の一生を幾度も見送れるほどの時を生きてきた。それでも、世界のすべてを知るには至らない。

 

 けれど、それを嘆いたことはなかった。

 

 知らないものがある。まだ見たことのない景色があり、まだ触れたことのない文化があり、まだ理解していない物事がある。

 

 それらを一つ知るたびに、彼女は喜びを覚える。

 

 知識を得た先に何かを成し遂げなければならないわけではない。知ったことを誰かに認めてもらう必要もない。ただ、知らなかったものを知る。その事実が、彼女にとっては何よりの喜びだった。

 

 三百年にわたる旅も、そこから始まり、今なお続いている。

 

 ルミネスは鏡から目を離し、荷物をまとめるために机へと向かった。

 

 やがて支度を終えたルミネスは、扉を開けた。

 

「リィス。お待たせしました」

 

「お支度が整われたようで何よりです。お荷物は、こちらでよろしいでしょうか」

 

 リィスはそう尋ねながら、出発に必要な荷物を確認した。

 

 ここ数年の間に書きためてきた、各地に停泊している間の記録。その土地の歴史を知るための参考文献。そして、どれほどの極寒でも凍りつくことのない、自領地で作られた不凍インク。

 

 旅の思い出だけでなく、そこで得た知識を持ち帰るための品々だった。

 

「ええ。それでお願いします」

 

 短く答え、ルミネスは部屋を一度振り返った。

 

 昨夜、祭りから戻ってきたときには、まだ気持ちが浮ついていた。今もその名残はある。けれど、もう十分だろう。

 

 また一つの歴史が終わった。

 

 けれど、私たちの旅は終わらない。

 

 なぜなら、世界には知らないことしかないのだから。

 

 部屋を出て、宿の階段を下りる。

 

 扉を開けた朝の街通りには、祭りの片付けをする人々の姿があった。道の端に寄せられた屋台の道具や、掃き集められた細かなごみ。昨夜の賑わいを知る者にしかわからない、祭りの名残だった。

 

 片付けを終えた屋台の主が、荷車に道具を積み込んでいる。店先では、昨夜の賑わいなど初めからなかったかのように、いつもどおりの商いを始める者もいた。

 

 そんな通りを歩いていたときだった。

 

「あれ? あんた、昨日一緒に踊ってた人じゃないか?」

 

 不意に声をかけられ、ルミネスは足を止めた。

 

 振り返ると、そこには見覚えのある町人が立っていた。昨夜、踊りの輪の中で何度か顔を合わせた人物だ。昨夜の着物姿とは違い、今は仕事着に着替え、頭には布を巻いて髪を留めている。

 

「……ああ。昨夜はどうも」

 

「いやあ、まさか朝っぱらから会うとはね。今日はもう出発かい?」

 

「ええ。そろそろ次の土地へ向かおうと思いまして。昨夜とはお召し物が違うので、すぐには気づきませんでした」

 

「そうかそうか。普段はこんな格好だからな。毎度『お前、誰だ?』なんて言われるんだ。俺はそこまで変わってないと思うんだがね」

 

 町人は自分の格好を見下ろし、ひとしきり笑った。

 

「いや、でもそうかい。旅の人だったのか」

 

 少し意外そうな顔をしてから、彼は続けた。

 

「てっきり、こっちに住んでる人かと思ったよ。ずいぶん自然に踊ってたからな」

 

「そうでしょうか。あまり覚えていないのですが」

 

「ははっ、そりゃあ夢中だったってことだろう。一生懸命踊ってる竜族の別嬪さんがいるって、ちょっとした噂になってたくらいだからな」

 

 そう言って、町人は豪快に笑った。

 

「……そうでしたか」

 

 ルミネスは、昨夜のことを思い返した。

 

 確かに、途中からは踊り方など気にしていなかった。周囲の人々の動きを真似て、音楽に合わせて身体を動かしていただけだ。

 

 そういえば、途中から妙に周囲の人が増えたような気もする。あれは、そういうことだったのだろうか。

 

「まあ、楽しめたんなら何よりだ。祭りってのは、そういうもんだからな」

 

 町人は、通りの向こうへちらりと目を向けた。そこでは別の者たちが、昨夜使った道具を片付けている。

 

「毎年こうして祭りが終わると、なんだか町が急に静かになった気がするんだよな。いつもはこんなもんだって、わかっちゃいるんだが」

 

 ルミネスも、彼の視線を追った。

 

 昨夜の賑わいと、今朝の静けさ。同じ町でありながら、ずいぶんと違って見える。

 

「確かに、そうかもしれませんね。あれほどの熱狂の中にいると、普段とは別の場所にいるような気持ちになりますから」

 

 ルミネスは、ふと考えた。

 

 何かを知ること。

 

 それは、長い時を生きてきた今も、色褪せることなく心の奥で燃え続けている欲求だった。

 

 古い書物を開くとき。遠い時代を生きた者の話に耳を傾けるとき。自分の知らなかった事実に触れるたび、もっと知りたいという思いが湧き上がる。

 

 そのためなら、いくらでも時間を費やせる。できることなら、その場に留まり、得られるものをすべて持ち帰りたいとさえ思う。

 

 けれど、昨夜はどうだっただろう。

 

 あの場で、彼女は何かを知ろうとしていたわけではなかった。音楽に惹かれ、人々の輪に加わり、ただ踊っていただけ。

 

 それなのに、楽しかった。

 

 知ることとは違う。それでも、長い旅の中で出会ったものとして、心に残る何かがあった。

 

 ……あれは、いったい何だったのだろう。

 

「けれど、また日常に戻るのですね。ずっと、あのような場所にいたいとは思わないのですか?」

 

「ああ。仕事もあるし、暮らしもある。祭りだけじゃ食っていけないんだ」

 

 町人は冗談めかして笑った。

 

 けれど、すぐに笑みを収めると、今度はまっすぐにルミネスを見て答えた。

 

「でも、だからこそいいんだろうさ。いつもの暮らしがあるから、ああいう日が楽しいんだろうよ」

 

 ルミネスは、すぐには答えなかった。

 

 昨夜の祭りが、なぜあれほど楽しかったのか。まだ、うまく言葉にできずにいた。

 

 これまでにも、旅の途中で幾度となく祭りに参加してきた。同じように、異世界から流れ着いた者が故郷の祭りを伝え、それが土地の文化として根づいた例にも出会っている。

 

 けれど、祭りを訪れるたびに思う。その土地に暮らす者にとっての祭りは、旅人である自分が感じるものとは、少し違うのかもしれない。

 

 彼らにとっては、祭りが終わったあとにも続いていく日々がある。祭りは、その日々から切り離された特別な時間であると同時に、日々の暮らしの中にあるものでもあるのだろう。

 

 そう考えると、昨夜の光景もまた、少し違って見える気がした。

 

「……いいお話を聞けました」

 

「おや、そんな大した話じゃないさ」

 

「いえ。私にとっては、十分に」

 

 ルミネスがそう答えると、町人は少し不思議そうな顔をした。けれど、深く尋ねることはせず、気にした様子もなく手を振った。

 

「そんじゃ、気をつけてな。次の町でも、いい出会いがあることを願ってるよ」

 

「ありがとうございます。あなたも、どうかお元気で」

 

 短い挨拶を交わし、二人はそれぞれの道へ戻った。

 

 昨夜、同じ音楽に合わせて踊っていた二人は、今日になれば別々の道を歩いていく。

 

 町人は町での暮らしへ。ルミネスは、まだ知らない土地へ。

 

 それでも、あの時間が確かにあったことは変わらない。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、隣から声がした。

 

「ルミネス様、足元にお気をつけください」

 

「……ええ。ありがとうございます」

 

 考え事に気を取られ、道のわずかな段差を見落としていたらしい。

 

 ルミネスは足元に目を落とし、段差を越えてから歩調を整えた。隣を歩くリィスへ視線を向けると、彼女はいつもと変わらぬ様子でこちらを見ている。

 

「何か、気になることでもございましたか?」

 

 リィスは歩みを止めることなく、わずかに首を傾げた。問いかける声に急かすような響きはない。ただ、こちらの様子を気に留めたらしい。

 

「いえ。少し、昨夜の祭りについて考えていただけです」

 

「昨夜の祭り、ですか」

 

 リィスは一度まばたきをすると、何か思い当たることがあったのか、小さく頷いた。

 

「随分と楽しまれていたようですからね。何か、新しい発見でも?」

 

「……発見、というほどのものではありません」

 

 ルミネスはすぐには続けず、昨夜の広場を思い返すように視線を遠くへ向けた。

 

「ただ、どうしてあれほど楽しかったのか、少し考えていたのです」

 

 言葉にしてみても、まだ自分の中で答えはまとまらない。ルミネスは眉をわずかに寄せ、考えを探るように口元へ手を添えた。

 

「理由がわからなくても、楽しかったことに変わりはないのではありませんか?」

 

 リィスは少しだけ目を細め、穏やかな調子でそう返した。まるで、難しく考える必要はないとでも言うようだった。

 

 ルミネスは彼女の顔を見つめ、しばらくしてから小さく目を瞬かせた。

 

「……そうですね。確かに、その通りです」

 

 口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

 

 理由を知ることと、経験したことを喜ぶこと。その二つは、必ずしも同じではないのかもしれない。

 

 世界を知るというのは、遠い土地の歴史や、書物に記された知識を集めることだけではない。こうした何気ない暮らしの中にも、知らないことは数えきれないほどある。

 

 それを知るために、誰かと少し言葉を交わす。

 

 時には、たったそれだけで十分なこともあるのかもしれない。

 

 やがて、町の喧騒が背後へ遠ざかり始めた。その先に、拠点アルカディアが待っている。

 

 大陸間移動キャラバン『アルカディア』。

 

 ヴァレッサリ・ローマーズが旅を続けるための移動拠点であり、数多くの団員と物資を抱えながら、各地を巡って世界の知識を集めている。

 

 もっとも、そこへ戻れば、壮大な旅の理念とは裏腹に、いつもどおりの仕事や確認事項が待っているのだろう。

 

 記録の整理。荷物の確認。次の移動に向けた準備。

 

 旅は、そうした地道な営みの積み重ねでもある。

 

「アルカディアに戻ったら、まず記録を整理しませんとね」

 

 ルミネスがふと思い出したように言うと、リィスは手元の荷物を確かめながら答えた。

 

「昨夜の分も、でしょうか」

 

「昨夜の分……」

 

 ルミネスは少しだけ言葉に詰まった。

 

 祭りの様子を記録するつもりはあった。けれど、あの場では書き留めるよりも、見て、聞いて、実際にその中にいることを優先してしまった。

 

「……あとで思い出せる範囲で、書いておきましょう」

 

「承知しました。今回はどれほどの量になりますでしょうか?」

 

「どうでしょうね。今回こそ、山のような文量にはならないと思いますよ」

 

「毎度そのように仰っていますよ。編纂するこちらの身にもなってくださいね?」

 

 リィスの言葉には、わずかな呆れが混じっていた。

 

 ルミネスは返事の代わりに、小さく笑った。

 

 各地で見聞きしたものを、できる限り形に残しておきたい。それは彼女にとって、旅を続ける理由のひとつでもある。

 

 けれど、記録をまとめる者にも都合がある。自分の好奇心ばかりを優先して、リィスたちに負担をかけているのも事実だった。

 

 今回は少し、文章を簡潔にまとめることを心がけてみよう。

 

 ……少なくとも、そう努力するくらいはできるはずだ。

 

 とはいえ、すべてをその場で記録できるわけではない。記録に残らないものがあるからといって、その体験が失われるわけでもない。

 

「善処するようにしますね」

 

「お願いしますよ。半ばあきらめてますが」

 

 少なくとも、昨夜の楽しさは、まだルミネスの中に残っていた。

 

 町の通りを抜け、しばらく歩いた先で、アルカディアが視界に入った。

 

 すでに出発に向けた準備が進められているのだろう。補給のために積み込む人や、管理をする人たちがあくせくと働く姿が見える。見慣れたその姿を前にして、ルミネスは歩みを止めることなく、帰るべき場所へと向かっていく。

 

 祭りは終わった。町の日常も、それぞれまた始まっている。

 

 変わらない日々だが、まったく同じ日というのは存在しない。そうやって何度も何度も知るのを続けるのだ。




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