花の調査を終え、手持ちの魔導具が示す旅団の位置を目指して数日。遠くの丘に、見慣れた一団の姿が見えた。
拡大鏡を通して見ると、幾台もの荷車が連なり、その周囲を人々が行き交っている。荷車の間を縫うように歩く者もいれば、少し先で立ち止まり、何かを相談している者たちもいた。遠目にも、旅団がいつもどおり動いていることが分かる。
ようやく追いついたらしい。
私は手綱を引き、乗っている乗騎の歩調を緩めた。長い脚が街道を踏みしめるたび、身体に伝わっていた細かな振動が、少しずつ穏やかになっていく。
自領地で育てた、長距離の移動を可能にする専用の乗騎。種類はさまざまだが、どれも移動速度だけでなく、持久力にも優れている。移動を助ける魔導具のおかげで、急いだ割には疲労も少ない。
とはいえ、疲れていないのは私だけかもしれない。
私は乗騎の首筋に手を置き、軽く撫でた。長い耳がこちらへ傾く。
「もう少しですからね」
返事の代わりなのか、乗騎は小さく鼻を鳴らした。
荷車の後ろへ近づくと、こちらに気づいた者が手を振った。少し遅れて、近くにいた別の団員も振り返る。
私は軽く手を上げて応じた。
大きな歓迎の声が上がることも、誰かが駆け寄ってくることもなかった。旅団にとって、私が別行動を取ることは特別な出来事ではないからだ。
もちろん、誰も気にしていないというわけではないだろう。
乗騎を所定の場所へ連れていき、鞍から降りる。急がせたことを詫びるように首筋をもう一度撫でてから、休める場所へと導いた。
鞍や荷物を下ろし、身体についた土埃を払い落とす。水を与え、脚の具合を確かめてから、毛並みを整えてやった。急いで移動してきたのだから、いつもより丁寧に見ておく必要がある。
乗騎の手入れを終え、ようやく自分の荷物を手にしたところで、帰還の報を聞いたのかリィスがやってきた。
「お帰りなさいませ、ルミネス様」
「ただいま。旅団の様子はどうですか?」
「おおむね順調です。詳しいことは、お部屋でご報告しますね」
「分かりました。お願いしますね」
リィスは私の荷物に目を向け、手を伸ばしかけた。
「お荷物、お持ちしましょうか?」
「大丈夫ですよ。自分で持てますから」
「そうおっしゃると思いました」
彼女は小さく笑い、伸ばしかけた手を引っ込めた。
それだけ言葉を交わし、私は自室へと戻った。
部屋には、各地の童話や数百年前の資料、お気に入りの話などがまとめられている。壁際には書物が並び、机の周囲にも読みかけの本や記録帳が積まれていた。家具は最低限の机と小さな寝床だけだが、私にとっては十分だった。
古書のにおいが、部屋に満ちている。
見慣れた風景に、帰ってきたのだという安心がこみ上げ、私は小さく息を吐いた。
扉を閉じると、外の喧騒が少し遠のいた。旅団の中にいる以上、その規模の大きさから完全な静寂が訪れることはない。誰かが荷を運び、誰かが話し、誰かが次の行程の準備をしている。そうした音は、むしろ私にとって馴染み深く、愛おしいものだった。
机の上に荷物を置き、隠し棚から室内用の少しラフな服を取り出して着替える。
さて、私がいない間に何があったのだろう。
床には、確認を待つ書類や、団員が道中で集めた資料が置かれていた。急いで確認する必要のあるものは上に、後回しにできるものは端へ寄せられている。
誰が整理したのかは、見ればだいたい分かる。こういうところにも、それぞれの性格が出るものだ。
私は書類の一つを手に取ると、その場に腹ばいになって目を通し始めた。
書類整理用の机はあるものの、私はあまり使わない。昔から、広い場所で自由に読む習慣があったため、机に向かって読むのはどうにも落ち着かないのだ。
いくつか確認を終えた頃、扉が控えめに叩かれた。
「どうぞ」
返事をすると、リィスが数人の団員とともに入室した。
「ルミネス様。お疲れ様です。報告をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、よろしくお願いします」
私は書類を脇へ寄せ、身体を起こしてから椅子に腰を下ろした。
「では、物資担当の私から順番にご報告します。まず、行程についてですが――」
リィスは手元の資料を開き、報告を始めた。
予定していた地点までの移動は滞りなく進み、物資にも大きな不足はない。荷車の一台で小さな不具合が見つかったものの、早い段階で対処できたという。体調を崩した者もいたが、休息を取って回復しているらしい。
私はときおり質問を挟みながら、報告を聞いていった。
「荷車の不具合は、もう問題ありませんか?」
「はい。部品を交換して、試運転も済ませています。次の移動に支障はありません」
「それならよかったです。担当の方には、あとでお礼を伝えておいてください」
「承知しました」
リィスが資料に印をつける。隣に立っていた団員も、私の質問に応じて補足を加えた。
報告は淡々と進んでいく。特別な事件があったわけではない。だからといって、何もなかったわけでもない。旅団が動き続けるためには、目立たない仕事を一つずつ片づけていく必要がある。
私がいなかったからといって、旅団が止まるわけではない。むしろ、私の不在を前提に、必要な判断ができるようになっている。
長い年月をかけて築いてきた仕組みが、今もきちんと働いている。その事実を確認するたび、私は少しばかり肩の力を抜くことができた。
報告が一通り終わると、ほかの団員たちは資料をまとめ、順に部屋を出ていった。
最後に残ったリィスが、別の記録帳を取り出す。
「それから、次の目的地であるダンヴェルト領についても、いくつかご報告があります」
「お願いします」
ほかの資料を手元に引き寄せながら答えると、彼女は以前の記録と照らし合わせるようにページをめくった。
「まず、過去に訪れた際の記録ですが、文化や物価については大きな違いが見られます。もちろん、訪れた時期や町によっても変わりますが……」
リィスは、私たちが以前に訪れた頃の記録を読み返しながら、当時の印象と現在の情報を照らし合わせていった。
私はその話を聞きながら、記憶を辿る。
以前は当たり前だと思っていたものが、いつの間にか変わっていることもある。逆に、長い時間が経っても変わらず残っているものもある。
だからこそ、過去の記録は必要なのだろう。今見えている景色だけでは、何が変わったのかを知ることは難しい。
「それから、知っておくべきかと思い、道中でいくつか話を聞いています」
「内容は?」
「次の目的地であるダンヴェルト領へ向かう人が増えているそうです。道が以前より通りやすくなったこともあるのでしょうが、戦争が終わってから、移り住む先を探している人も少なくないとか」
「そうですか」
戦争。マジスタ侵攻といわれているものだ。
数年前、アストラヴェールとマジスタ魔導王国との間で起こった戦争。
半年ほどの戦争だったが、その影響は大きい。
マジスタ侵攻の直接の契機となったのは、マジスタがペルベヌアの魔法による操船技術を求め、国々を結ぶ航路へ武力をもって介入したことだった。
結果としてはアストラヴェールの勝利に終わったが、文化も政治の仕組みも大きく異なっていたため、戦後処理は順調なものばかりではなかったと聞く。
終戦から三年ほどは、旧マジスタ国民の一部による武装蜂起などが散発したらしい。
今となっては比較的落ち着いたらしいが、戦争が終わったからといって、すべてが元どおりになるわけではない。
住んでいた場所を失った者。暮らしを支えていた仕事を失った者。戦争が終わっても、以前の土地へ戻ることのできない者。
そして、かつての体制のもとで虐げられていた人たちのことを考えると、簡単に片づけられる話ではないと思った。
私は手元の書類から目を上げた。
「領内の様子について、何か分かったことは?」
「まだ、分かりません。私たちが直接聞いた範囲では限られています。ただ、旅団に同行している商人の方が、あちらの土地を何度も行き来しているそうです。町の変化についても、多少はご存じかもしれません」
リィスは少し考えるように視線を動かした。
「その方から、もう少し詳しくお話を聞いてみますか?」
「そうですね。お願いできますか」
「かしこまりました。呼んできますね」
リィスが部屋を出ていく。
私は椅子に腰を下ろしたまま、机の上に置かれた、日々の暮らしを書き留めている記録帳へ目を向けた。
人が移り住むということは、ただ住人の数が増えるというだけではない。そこには、以前の暮らしを失った人々がいて、新しい暮らしを始めようとする人々がいる。そして、もともとその土地で暮らしてきた人々もいる。
彼らが同じ場所で暮らし始めたとき、何が変わるのだろう。
新しいものが生まれることもあるだろう。反対に、簡単には埋められない違いが表に出ることもあるはずだ。
私はまだ、その土地の過去のことしか知らない。
だからこそ、実際にそこを歩く前に、誰かの目を通して少しだけ知っておくのも悪くないと思った。
持ち帰ってきた資料や報告書をまとめ、調べ物をしていると、扉の向こうからリィスの声が聞こえた。
「こちらです。どうぞ」
扉が開き、リィスが一人の男を伴って入ってきた。
男は日に焼けた顔に人懐こい笑みを浮かべ、部屋へ入るなり、私と室内を順に見渡した。机の上の記録帳や壁際に積まれた書物へ一瞬だけ視線を向け、すぐにこちらへ向き直る。周囲をよく観察するあたり、根っからの商売人らしい。
「お待たせしました、ルミネス様。こちらがダンヴェルト領を中心に商いをしている、ターデ様です」
「お連れいただきありがとうございます、リィス」
私は彼女に礼を伝えてから、改めて男へ目を向けた。
日に焼けた肌に、よく笑う目元。身につけている服は旅の埃をかぶっているものの、手入れは行き届いている。腰には小さな帳面と道具袋があり、長く街道を行き来している商人らしい実用的な装いだった。
男は慣れた様子で頭を下げた。
「ご紹介にあずかりました。普段は領内の町々を回って、品物の仕入れや運搬をしております。ターデと申します。今回は道中で皆様とご一緒させていただくことになりまして」
「来てくださりありがとうございます。団長のルミネスです。どうぞお掛けください。急に呼び立ててしまって、すみません」
「いえいえ。大きな旅団にお世話になっている身ですからね。お話しするくらい、なんでもありませんよ」
ターデは勧められた椅子に腰を下ろすと、膝の上で軽く手を組んだ。商人らしい気さくな態度だが、こちらの様子をうかがう目は忘れていない。
こちらが何を求めているのか。どこまで話せば商売につながるのか。そうしたことを、会話が始まる前から考えているのだろう。
私は彼の向かいに座り、リィスにもそのまま同席するよう目配せした。
「ダンヴェルト領へは、何度も行かれているのですよね」
「ええ。決まった道を行ったり来たりしています。仕入れるものも売り先も、その時々で違いますがね。おかげで、町の様子くらいなら多少は分かります」
ターデはそう言って、懐から小さな帳面を取り出しかけたが、すぐに思い直したように手を止めた。
「といっても、私が知っているのは、商売に関係することが中心です。町の隅々まで知っているわけじゃありませんよ」
「それで十分です。少しお話を聞かせていただけませんか。特に、近頃の領地内の人々の暮らしについて知りたいのです」
「暮らし、ですか」
「ええ。もちろん、ただとはいいません。商人の方ですので、聞かせていただいた分の情報料はお支払いします」
ターデは意外そうに眉を上げた。値段や商品の話を持ち出されると思っていたのかもしれない。
「なるほど。品物の値段や流行りものより、そちらのほうが気になると。やはり、噂どおりのお方ですね」
「噂、ですか?」
私が聞き返すと、ターデは待っていましたとばかりに笑った。
「ええ! 結構有名な話ですよ。見たこともない大集団が、各地でいろんなことを知るために旅をしていると。仲間内でも知らないことはないかと、散々聞かれたなんて話が持ち上がるくらいですから」
彼は興奮した様子で身を乗り出した。
「いやあ、まさか、こんなお方が団長をしているとは思いませんでしたよ」
「そうでしたか。長い間旅をしていますからね。私どもの仲間が、どこかでご迷惑をおかけしていなければいいのですが」
「いやいや、迷惑だなんて。目的があるだけ素晴らしいことですよ。私としては、世界中とつながりのあるルミネス様がうらやましい限りです」
「世界中といっても、私たちは話を聞き、記録することが中心ですから。実際にその土地で暮らしてみなければ分からないことも、たくさんありますよ」
そう答えると、ターデは少しばかり意外そうな顔をした。
「なるほど。知識があっても、実際に見ることとは違うというわけですか」
「ええ。書物に残されたことと、今そこで暮らしている人々の話は、必ずしも同じではありませんから」
私は机の端に置いていた記録帳へ目を落とし、そっと手を添えた。
「もちろん、人を見ることもありますので、観察眼だけはあると思いますけれどね」
冗談めかして付け加えると、ターデは声を立てて笑った。
「ははは、それなら話はしやすい。商売というのは、人が何を必要としているかを見る仕事でもありますからな」
彼は笑いを収めると、少し姿勢を正した。
「まず、人の流入に関して分かりやすいところでは、人が増えましたな。戦争が終わってから、あちらへ移っていく人がずいぶんといるようで」
やはり、そうなのか。
戦争によって故郷を失った人々が、別の土地に居場所を求める。ダンヴェルト領もまた、その行き先の一つになっているらしい。
「もともと住んでいた方々だけの頃とは、町の様子もずいぶん違うのでしょうね」
「違いますとも。食べるものも、着るものも、住んでいた土地によって違いますから。こちらじゃあまり見かけなかった品を探す人もいれば、向こうの土地では当たり前だったものを、こちらでも手に入れたいという人もいる」
ターデは指を折りながら話した。
「商売としては、ありがたいこともあります。今まで扱っていなかった品に需要が生まれる。新しい仕入れ先を探せば、こちらにも利益が出る。ですが……」
そこで言葉を切り、彼は軽く肩をすくめた。
「人が増えれば、物が足りなくなることもあります。住むところだって必要ですし、仕事も要る。誰もがすぐに暮らしを立て直せるわけではありませんから」
「実際に、そうした方々と取引をすることもあるのですか?」
私は尋ねた。
「ありますよ。最初は、荷運びの仕事を探している人から声をかけられましてね。人手が足りないときには助かりますから、何度か頼むようになったんです。今じゃ、顔を合わせれば向こうから挨拶してくれます」
ターデはそこで一度、言葉を止めた。何か思い出したのか、視線を少しだけ横へ向ける。
「もっとも、その人も最初から仕事が見つかったわけじゃないそうですが。家族を連れてきたものの、住む場所を探すのにも苦労したとか。知り合いのつてを頼って、ようやく落ち着ける場所を見つけたと話していましたな」
「そうでしたか……」
私は小さく頷いた。
人が移り住む。言葉にすれば、それだけのことだ。しかし、その一言の中には、これまでの暮らしを失った人々の事情がある。新しい土地で仕事を探し、食べるものを手に入れ、雨風をしのげる場所を見つける。そうした当たり前のことを、一から始めなければならない人もいるのだろう。
「町の方々は、そうした変化をどのように受け止めているのでしょうか」
「人によりますねえ」
ターデは、さほど迷わずに答えた。
「新しい客が増えて喜んでいる店もあります。反対に、住む場所や仕事を取り合うようなことになれば、面白くない人だっているでしょう。長くそこで暮らしてきた人にも、それまでの生活がありますから」
「それは、そうですね」
「実際、その関連で多少いざこざが起こったりもしているらしいです。治安が多少悪くなっているのは否定できません」
ターデは少し顔を上げ、壁の向こうにある町を思い浮かべるように目を細めた。
「誰だって、自分の暮らしを守りたいものです。今まで何の問題もなく手に入っていたものが急に不足すれば、理由が分かっていたって不満は出るでしょう。ましてや、相手の事情をよく知らなければ、なおさらです」
ターデは膝の上で組んだ手をほどき、片方の掌を上に向けた。
「とはいえ、移ってきた人たちだって、好き好んで故郷を捨てたわけじゃない。そこは分かっている人も多いんですがね。分かっていることと、実際に折り合いをつけられることは、また別の話です」
もっともな話だった。
困っている人を助けたいと思うことと、自分の生活を守りたいと思うこと。その二つは、必ずしも相反するものではない。けれど、限られたものを分け合わなければならなくなったとき、人はいつでも理想どおりに振る舞えるわけではない。
誰かの善意だけで、すべてが解決するのなら、土地を移ることに苦労する人などいないだろう。
私は彼の話を記録帳に書き留めた。誰か一人の話だけで、町全体の様子を知った気になるべきではない。けれど、実際にその土地で商売をしている人の言葉には、書物だけでは得られない重みがあった。
「それでも、新しく来た方々が持ち込んだものが、町に根づくこともあるのでしょうね」
「そりゃあ、ありますよ」
ターデの表情が、少しだけ明るくなる。
「食べ物なんかは分かりやすい。最初は見慣れないものだと敬遠されていたのに、気づけば買っていく人が増えている。道具や衣服だってそうです。使い勝手がよければ、どこで生まれたものだろうと、欲しがる人はいますから」
「最初は敬遠されていたものが、ですか。何か、印象に残っているものはありますか?」
「そうですねえ……」
ターデは顎に手を当て、少し考え込んだ。
「私が扱ったものではありませんが、ある店で、よその土地から来た人が作る焼き菓子が売られるようになったそうです。最初は故郷の味を懐かしむ人が買っていたらしいんですが、今じゃ地元の人も買いに来るとか」
「それは興味深いですね」
「でしょう? 商売の話としても、面白いものです。最初は特定の人しか買わなかったものが、いつの間にか別の人にも広がっていく。どこまで広がるかは、売ってみないと分かりませんからな」
「そうして、もともとあった暮らしに、新しいものが加わっていくのですね」
「ええ。もっとも、何もかもが馴染むわけじゃありません。故郷の味が忘れられないという人もいれば、こちらのやり方にどうにも慣れないという人もいる。新しく来た人同士だって、同じ土地から来たわけじゃないんですからね」
彼はそこで、小さく笑った。
「ただ、やはり人間というのは、同じところに住めばすぐ仲良くなれる、というほど単純でもないようです」
その言葉には、長く商売を続けてきた人間なりの実感があった。
異なる土地で育った人々が、一つの町に集まる。互いの習慣を知り、気に入ったものを取り入れ、どうしても受け入れられないものとは距離を置く。そうして少しずつ、町の姿が変わっていくのだろう。
それは、どこか遠い土地の文化を調べることとは違う。
書物に残された風習なら、いつ、どこで、誰が行っていたのかを記録できる。けれど、今まさに誰かの暮らしの中へ入り込んでいるものは、まだ名前もついていないのかもしれない。
数十年後には当たり前になっているものもあるだろう。反対に、いつの間にか姿を消してしまうものもあるはずだ。
「そういう意味では、この旅団がとてもうらやましいですよ」
「羨ましいですか?」
「羨ましいですね。いろんな種族の方々がいろんな役割を持って、それぞれが尊重し合い、協力して、目標に向かって進んでいる。平和そのものです」
ターデはそう言って、部屋の中を見回した。机に積まれた書物や壁際に並ぶ記録帳に、もう一度視線を向ける。
「もちろん、私が知っているのは、皆さんが道中で見せてくださる姿だけですがね。それでも、これだけ大勢の方々が一緒に旅を続けている。私のように、行く先々で商売をする人間からすれば、なかなか真似のできないことですよ」
「そうですね。長く一緒にいれば、考え方の違いが見えてくることもありますし、意見がぶつかることだってありますよ」
私は軽く笑って答えた。
「それでも、同じ場所で過ごす時間が長くなれば、相手が何を大切にしているのか、少しずつ分かってくるものです。もちろん、分かったつもりになってはいけませんけれど」
「なるほど。皆さんも、最初から今のようだったわけではないと」
「ええ。長い旅ですから」
それ以上は、詳しく語らなかった。
旅団が今の形になるまでには、さまざまな出来事があった。けれど、それを短い会話で説明することは難しいし、今ここで語る必要もない。
ターデは私の言葉を受け止めるように頷き、少し考える素振りを見せた。
「そういうものですか。私も、長く付き合っている取引相手ほど、言葉にしなくても分かることが増えますからね。……とはいえ、相手の考えを分かったつもりで仕入れを決めると、たまに痛い目を見るんですが」
「ふふ。それは大変ですね」
「ええ、まったく。人の考えというのは、品物のように帳面に書いておけませんから」
ターデは自分で言っておかしそうに笑った。私もつられて、口元を緩める。
人の考えは、帳面には収まらない。
けれど、だからこそ記録する意味があるのかもしれない。すべてを正確に残せるわけではなくとも、そのとき誰かが何を見て、どう受け止めたのかを書き留めることはできる。
記録に残るものと、記録からこぼれ落ちるもの。その両方を意識しておかなければ、目の前の出来事を知ったつもりになってしまう。
「……面白いですね」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「面白い、ですか?」
ターデが不思議そうに聞き返す。
「ええ。変わっていくものもあれば、変わらずに残るものもある。人が移り住むことで、どちらも少しずつ形を変えていくのかもしれません」
「ははあ。そういう見方もありますか」
ターデは感心したように頷いたあと、すぐにいつもの調子へ戻った。
「まあ、私としては、皆さんが何を欲しがるのか分かれば、それで商売になるんですがね。変わった品が売れるようになったら、仕入れ先を増やすことも考えます。そういう意味では、町が変わるのも悪いことばかりじゃありません」
「もちろん、そうでしょうね」
私は頷いた。
彼にとっては、商売を続けることが日々の暮らしであり、変化に合わせて品物を選ぶことも仕事の一部なのだ。町の変化を眺めるために生きているわけではない。
だからこそ、彼の話には、彼の立場から見た町があった。
私はそれを、記録帳に書き留めておこうと思った。
町へ着けば、今度は自分の目で確かめられる。商人の話がどこまで実際の景色と重なるのか、彼が知らない変化がどこにあるのか。それを考えるだけでも、訪れる意味は十分にあった。
「ありがとうございます。文化というものは、変化し続けるものですから。昔とは大違いになっていることもあるのでしょうね」
「ええ、そうでしょうな。十年も経てば、馴染みの店がなくなっていたり、知らない店ができていたりします。昔から通っている場所でも、行くたびに何かしら違うものです」
ターデは懐から帳面を取り出し、何か思い出したようにページをめくった。
「そういえば、町の話とは少し違いますが、最近は妙な注文を受けることも増えましてね。どこで何が手に入るか、誰がどんなものを作っているか。そういうことを聞かれるんです」
「それは、移り住んできた方々からですか?」
「そういう場合もありますが、必ずしもそうではありません。珍しいものを探している人というのは、いつの時代にもいるものですから」
彼は帳面を閉じ、私の顔を見た。
「そういう方々の話も、興味がおありですか?」
「ええ。もちろん、差し支えのない範囲で」
「それなら、いくつかお話しできることがありますよ。ただ、その前に……」
ターデは少しだけ声を落とした。
「リィス殿からお聞きしました。領主家についても、お聞きになりたいのではありませんか?」
私は記録帳を閉じ、再び彼へ視線を向けた。
「そうですね。剣と魔法の両方を重視している。そのような珍しいことを行っているのは、ここだけですから」
「確かに珍しいですな。ダンヴェルト家は昔から武門の家柄として知られていますが、魔法の研究にも力を入れている。領地の者にとっては、そういう家だという認識が強いでしょうね」
「剣を重んじる家が、魔法の研究にも力を入れる。どちらか一方を選ぶ必要はない、ということなのでしょうか」
「領主様がどうお考えなのか、私には分かりませんがね。ただ、領地では魔法の研究に関わる人間も見かけますし、そうした仕事に関係する品を求められることもあります。武具だけを扱っていればいい、という土地ではないのは確かです」
ターデはそこで一度言葉を切り、私の反応を確かめるようにこちらを見た。
「とはいえ、領主家の考えまで知っているわけではありませんよ。私が話せるのは、町で見聞きすることや、商売の相手から聞いた範囲です」
「それで十分です。領主家の内情を知りたいわけではありませんから」
私は首を横に振った。
領主の考えを知ることと、その土地で暮らす人々が領主をどう見ているのかを知ることは、同じではない。私が知りたいのは、まず後者だった。
「では、現当主のテオドール・ダンヴェルト様について、町ではどのように話されているのでしょう」
ターデは、今度は少し考えるように目を上げた。
「領主様の評判ですか。そうですね……。少なくとも、町で名前を聞かない日はありませんな。領主家が魔法の研究にも力を入れていることは、商売をしていれば自然と耳に入ってきます。研究に必要なものを求める人もいますし、領主家の動きを気にしている人もいる。もっとも、何を考えていらっしゃるかまでは、私にも分かりません」
「人々は、そのことをどう受け止めているのでしょう」
「そこも、人によりますね。研究が盛んになれば仕事が増える人もいますし、領地の技術が発展することを期待する人もいる。一方で、魔法というものにあまり馴染みのない人もいますから、誰もが同じように歓迎しているわけではないでしょう」
なるほど。
領主家の方針が、領地に暮らす全員に同じ意味を持つとは限らない。新しい仕事を得る人もいれば、直接関わることなく日々を送る人もいる。期待する者もいれば、距離を置く者もいるだろう。
それは、どこの土地でも大きくは変わらないのかもしれない。
「ありがとうございます。実際に訪れたときに、また自分の目で確かめてみます」
「ええ、それが一番でしょうな。私の話も、結局は商売をしながら見聞きした範囲のものですから」
ターデはそう言って、帳面を膝の上で軽く叩いた。
「それに、このような領主家の話よりも、もっと変わった注文をしてくる方の話なら、いくらでもありますよ」
「変わった注文、ですか?」
「ええ。こちらが何を仕入れればいいのか、考え込んでしまうような注文でしてね。珍しい品を求める方は珍しくありませんが、品物そのものより、どうしてそれがそういう形をしているのかを気にする方もいるんです」
「形、ですか」
「ええ。たとえば、動物の骨格や、種族ごとの身体の違い。そういったものを詳しく知りたがる方がいましてね」
私は思わず、記録帳へ伸ばしかけていた手を止めた。
その話には、聞き覚えがあった。
「それは……もしかして、アブノのことでしょうか」
ターデは一瞬目を丸くし、それから、ぱっと表情を明るくした。
「おお、ご存じでしたか! そうです、そのアブノ殿です。いやあ、あの方には驚かされましたよ」
「そうでしょうね……」
思わず、そんな言葉が漏れた。
アブノは旅団の一員だ。普段から一緒に行動することも多い。種族に関する知識が豊富で、私自身、分からないことがあれば教えてもらうことがある。
ただし、その知識欲が向かう先は、必ずしも周囲の都合を考慮してくれるとは限らない。
気になるものを見つければ、納得するまで調べようとする。相手が困っていても、本人に悪気がないまま質問を重ねてしまうこともある。そういうときには、私が間に入って話を切り上げさせることもあった。
知識を頼りにすることと、その好奇心をいつでも放っておけることは、別の話だ。
「どんなことを聞かれたのですか?」
私が尋ねると、ターデは待っていましたとばかりに話し始めた。
「最初は、荷物を運んでいるときでした。私が扱っていた品の中に、動物の骨や角を加工したものがありましてね。それを見たアブノ殿が、どの種族のものか、どの部分を使っているのかと聞いてきたんです」
「それだけなら、珍しい話でもありませんね」
「ええ、私も最初はそう思いました。ところが、そこからが長かった。どうしてその形になっているのか、ほかの種族ではどう違うのか、同じような役割を持つ部分が別の種族ではどこにあるのか……。次から次へと質問が出てくるんです」
ターデは困ったように笑った。
「私も商売柄、いろいろな品物を見ますし、仕入れ先から話を聞くこともあります。ですが、身体の構造について、あそこまで詳しく尋ねられたのは初めてでした。答えられないことも多かったんですが、そうすると今度は、誰に聞けば分かるのかと」
「なるほど……」
私は小さく息を吐いた。
いかにもアブノらしい。
本人にとっては、ただ知りたいことを知ろうとしているだけなのだろう。相手を困らせようというつもりはない。けれど、質問を受ける側にも仕事があり、都合がある。こちらが面白いと思うことを、相手も同じように面白がってくれるとは限らない。
それでも、アブノの知識に助けられたことは何度もある。種族ごとの身体の違いや、土地によって異なる習慣について尋ねれば、書物だけでは分からない話が返ってくることも多かった。
知識の広さと、好奇心の扱い方。その両方を、もう少し上手く両立してくれればいいのだけれど。
「ご迷惑をおかけしたようで、すみません」
「いやいや、迷惑というほどでもありませんよ。驚きはしましたが、あれほど熱心に聞かれると、こちらも知らないことを調べてみたくなる。商売の役に立つかどうかは分かりませんがね」
ターデは笑いながら首を振った。
「それに、あの方のおかげで、私も自分が扱っている品について、もう少し詳しく調べてみようと思いました。知らないことは、案外身近なところにもあるものですな」
「そうですね。私も、アブノには種族について教えてもらうことがあります。知識そのものは、とても頼りになる方ですから」
「なるほど。やはり、団長殿も頼りにされているのですね」
「ええ。もっとも、好奇心が先走りすぎたときには、少しばかり止める必要がありますけれど」
私がそう言うと、リィスが隣で小さく笑った。
「それは、私も何度か見たことがありますね」
「リィスまで」
「事実ですから」
彼女は悪びれずに答えた。
私は否定せず、肩をすくめた。
アブノの知識が役に立つ場面は多い。だからこそ、無闇に好奇心を抑えつけたいわけでもない。知りたいと思う気持ちは、世界を知るための大切な原動力だ。
ただ、それを満たすために、誰かの都合を無視してよいわけではない。
その境界を、本人にも少しずつ覚えてもらうしかないのだろう。
「それで、ターデさん。先ほどの注文というのは、アブノからのものだったのですか?」
「そういうものもありましたね。もっとも、私が頼まれたのは、主に珍しい素材や加工品を探すことでした。そのほうが、ほかの種族とかかわりやすくなるかもしれない、とのことでしたが」
「そうですか。もし、また何か頼まれることがあれば、無理のない範囲で相手をしていただけると助かります。もちろん、商売として成り立つなら、ですが」
「ははは、そこはご心配なく。こちらも商人ですからね。引き受けられることと、そうでないことはきちんと分けていますよ」
ターデは快活に笑った。
会話はそこからも続いた。ターデは、道中で見かけた品物や、商人仲間から聞いた話をいくつか教えてくれた。どれも大きな事件というほどのものではない。けれど、何が求められ、何が手に入りにくくなり、どんなものが少しずつ広がっているのか。そうした話からは、町の暮らしがどのように動いているのかを垣間見ることができた。
もちろん、彼の話だけで町のすべてが分かるわけではない。
ターデがよく知っているのは、あくまでも自分の商売に関わる範囲だ。彼が訪れない場所のこともあれば、商人の間では話題になっていても、町の人々にとってはさほど重要ではないこともあるだろう。
それでも、実際に品物を運び、人と取引を続けてきた人の話には、書物を読んでいるだけでは得られない手触りがあった。
私はときおり質問を挟み、必要なことを記録帳に書き留めていった。
話し込んでいるうちに、窓のない部屋の中でも時間が過ぎたことが分かる。最初は商売人らしい軽やかな調子だったターデも、途中からは思い出したことを話すようになり、話題が変わるたびに新しい記憶を引き出していた。
ひとつの町を知るために、ひとりの人間の話を聞く。それは、町そのものを見たことにはならない。
けれど、その人が見てきたもの、その人が暮らしの中で気に留めたものを知ることはできる。そして、そうした小さな視点を重ねていけば、いつか自分の目で見た景色を理解する手がかりになるかもしれない。
私は記録帳を閉じた。
「長い時間、お付き合いいただきありがとうございました。お話を聞けてよかったです」
「こちらこそ、いろいろとお話しできて楽しかったですよ。私も、普段は商売の話ばかりですからね。こうして聞かれたことを考えてみると、自分が何を見てきたのか、改めて分かる気がします」
「それなら、何よりです」
「また何か必要なものがあれば、お声がけください。普通の仕入れ先では見つからない品でも、仲間に当たってみることはできますから。もちろん、見つかるかどうかは別ですがね」
「ありがとうございます。必要になったときには、相談させていただきます」
ターデは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。リィスが扉まで案内し、彼は軽い足取りで部屋を出ていった。
扉が閉じると、部屋には再び静けさが戻った。
私は手元の記録帳を開き、書き留めた内容をゆっくりと読み返す。
戦争によって移り住んだ人々。住む場所や仕事を探す苦労。新しく持ち込まれた食べ物が、少しずつ土地の人々にも受け入れられていくこと。そして、同じ場所で暮らしているからといって、すぐに互いを理解できるわけではないこと。
どれも、特別な物語ではないのだろう。
誰かが新しい土地へ移り、そこで暮らしを始める。誰かがその人と取引をし、誰かが新しい味を知る。別の誰かは、今までどおりの暮らしを続けようとする。
そうしたことが積み重なって、町の姿は変わっていく。
変化は、いつも大きな出来事の形をして現れるわけではない。昨日まで知らなかった品物が店先に並ぶこと。仕事を探していた人が、顔なじみの商人に挨拶するようになること。そうした小さな変化も、長い時間の中では、その土地を形作る一部になる。
私は、最後に短く書き添えた。
――実際の様子は、現地で確かめること。
記録を残すことは、そこで知ることを終わらせるためではない。記録を手がかりに、まだ知らないものを見つけるためでもある。
書物の中にある過去と、今を生きている人々の話。そして、これから自分の目で見る景色。
その三つがどのように重なるのか、少し楽しみだった。
私は記録帳を閉じ、机の上へ置いた。
そこには、書物には残されていない暮らしがあるはずだ。誰かが失ったものも、これから手に入れようとしているものも。長くその土地で暮らしてきた人々が守ろうとしているものも、きっとある。
それらを、先入観だけで決めつけないようにしよう。
そう思い、私は立ち上がって扉へと向かった。旅団の音が、廊下の向こうから聞こえてくる。
次に進むための準備は、もう始まっている。私も、そろそろ支度をしなければならない。