町の入口を抜けると、通りは緩やかに開け、各地から来た車両や旅人が行き交う大きな広場に出た。私たちはそこで、いったん車列を止めることにした。
足元から伝わっていた揺れがふっと消える。私は昇降口から石畳へ降り、紺の上着の裾を軽く払った。長く座っていたせいか、体が少し固い。肩をゆっくり回すと、胸元の金の鎖が小さく鳴った。
潮の匂いが、風に乗って届いている。その風が青いリボンの端と、白い髪の毛先を揺らした。ずれかけた丸眼鏡を指で押し上げて顔を上げると、坂の上に、岬に建つ古い石造りの塔が見える。その塔に寄り添うように、明るい色の建物が連なっていた。
街道から続く通りにはすでに多くの人が行き交っていた。荷物を積んだ荷車がゆっくりと進む脇を、買い物帰りらしい住民が通り過ぎていく。軒先には各地の商品が並び、店の奥からは話し声が聞こえてきた。通りの両脇の建物は、明るい色の石灰岩や砂岩で組まれ、屋根には赤みを帯びた素焼きの瓦が葺かれている。高く昇った日差しを受けた白い壁と、瓦の赤が、青い空によく映えていた。
広場の隅には、仕事の貼り紙が並ぶ掲示板があった。その前で足を止め、腕を組んで眺めている人もいる。何がどんな条件で求められているのか、つい目が向きかけたが、今は車列を整えるのが先だ。
ダンヴェルトは、剣を尊ぶアストラヴェールの中では少し珍しく、魔法の研究にも力を入れている領地だ。各地の情報を集めるために港を整えてきた結果、今ではそれがこの町を首都と呼ばせるほどの力になっている。温暖な土地柄のせいか、薄手の服や水辺向けの軽装で歩いている人も多かった。
港町には各地の人が集まるからだろう。私の頭の角に目を留める人は、ほとんどいない。すれ違いざまに、小さな子どもがちらりと見上げてきたくらいだ。
「団長、ちょっと町を見て回ってもいいですか?」
車列の整備を手伝っていた団員のひとりが、荷を下ろす手を止めてこちらへ顔を向けた。額の汗を袖で拭っている。
「町を、ですか? 何か珍しい品の噂でも?」
「いえ、そういうんじゃなくて。せっかく長旅のあとですし、ちょっとくらい観光しときたいなって。名物の店も、ほかの人に教えてもらったんですよ」
そう言って、彼は通りの先へ顔を向けた。
その話を聞きつけたのか、近くで縄をまとめていた別の団員が、ぱっと顔を上げた。
「あ、それ俺も行きます! 腹減っちゃって。港町なら、ここならではの料理とかありますよね?」
「俺は道具屋かな。旅先で使えそうなもんがあれば、今のうちに買っておきたい」
「……あの、私も、ご一緒していいですか? ちょっと気になってて……」
いつの間にか、周囲では調査の段取りよりも、町を見て回る相談のほうが盛り上がっていた。
皆、思い思いに行きたいところを挙げている。仕事の予定を確認しているときとは違い、声も表情も、どこか気楽だった。
無理もない。新しい町へ着けば、そこでしか見られないものがあり、食べられないものがあり、出会える人がいる。目的のために訪れた土地であっても、それだけを見て通り過ぎるのは、少し惜しい。
知的好奇心と、娯楽に飢えていることは、やはり別物らしい。
「構いませんよ。ただ、宿泊費などの経費が発生する場合は、きちんと報告してくださいね。日が傾く頃には、一度戻ってきてください」
「ありがとうございます、団長!」
団員は嬉しそうに頭を下げた。
それから彼らは、誰がどこへ行くのか、何から見るのかと、顔を寄せ合って話し始めた。すでに目当ての店を決めているのか、指で通りの先をなぞっている者もいる。
私はその様子をしばらく眺めていた。
町に着いたからといって、必ず何かを調べなければならないわけではない。時には、ただ歩いて、気になったものを見て、食べたいものを食べる。それもまた、旅の過ごし方のひとつだろう。
ふと、少し離れたところにリィスの姿が見えた。
荷物の確認を終えたところらしく、手元の記録を鞄にしまいながら、こちらの様子を窺っている。団員たちの話が耳に入っていたのか、視線が何度か通りの先へ向いては、慌てて手元へ戻っていた。
「リィス」
呼びかけると、彼女はぱたぱたとこちらへ歩いてきた。
「はい、ルミネス様。あの……」
「私はこれから少し、町を見て回ろうと思うのですが。あなたも一緒に来ませんか。気になっていたのでしょう?」
「えっと……私も、ですか?」
リィスは一瞬、目を丸くして、それからもじもじと指先を合わせた。
小さな頃から旅団で一緒に過ごしてきた彼女にとって、町とは通り過ぎる場所であって、ゆっくり歩く場所ではなかったはずだ。普段は旅団の中で生活も役割もしっかりとこなしているが、年頃の少女にとって、この活気はやはり羨ましいものなのだろう。
「ええ。せっかく初めて訪れた町ですから、少し歩いてみたいと思いまして。あなたも、気になるものがあるのではありませんか?」
「そうですね……。さっき、あちらの通りにいろいろな店があるのが見えて。どんなものを扱っているのか、少し気になっていました」
「それならちょうどいいですね。せっかくですから、着替えてきてはどうですか? 待っていますよ」
「いいんですか! では、お供します!」
リィスは勢いよく頭を下げると、自室へ私服を取りに駆けていった。いつものメイド服の裾が、走るたびに大きく揺れる。
待つあいだ、私は車両の外壁に背を預けて広場を眺めた。それぞれの予定を決めるのに夢中になっている団員たちがいる。すでに動き出して、こちらに気づいて大きく手を振る者もいれば、通りの先へ歩き始めている者もいた。
私たちも、そろそろ出かけることにしよう。
今日くらいは、目の前にあるものをひとつずつ確かめるのではなく、気の向くままに町を歩いてみるのも悪くない。
しばらくして、リィスが小走りで戻ってきた。
メイド服ではなく、淡い色のブラウスに、足さばきのよさそうな長めのスカートを合わせている。肩には小さな鞄。動きやすさを残しながらも、少しばかりよそ行きの装いだった。髪も整え直したのか、先ほどよりきちんとまとめられている。
「お待たせしました、ルミネス様!」
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ。まだ時間はありますから」
「でも、せっかく町を見て回れるんですから!」
言ってから、リィスは少し恥ずかしそうに口元を押さえた。鞄の紐を、両手でぎゅっと握りしめている。
普段は旅団の一員として、身の回りのことや任された仕事をそつなくこなしている彼女だが、今はこれから出かけることへの期待が隠しきれていないようだった。
「では、行きましょうか」
「はい!」
私たちは車列を離れ、通りへと歩き出した。
リィスは半歩ほど先を歩いては、はっとして足を緩め、私の隣に並ぶ。それを何度か繰り返していた。私は少し歩幅を小さくして、彼女の速さに合わせた。
人の行き来が多い通りを進んでいくと、道の両側に並ぶ多種多様な店が目に入ってきた。衣服や装飾品を扱う店もあれば、旅道具を並べた店、食料品を売る店もある。帆布や縄を山積みにした店は、いかにも港町らしい。中には、生活魔法を利用した魔道具を専門に扱う大きな店も見受けられた。
通りは、声に満ちていた。商人たちが「採れたてだよ!」「見ていっておくれ!」と客を呼び、買い物客がそれに笑って応じる。荷車の車輪が石畳をごとごとと転がっていき、その合間に、知り合いを見つけた誰かの「あら、久しぶり!」という弾んだ声が重なった。
どこか慌ただしく、それでいて落ち着いた空気がある。人の流れは絶えないが、皆が急いでいるわけでもない。
軒から吊り下げられた看板が、私の頭の高さで揺れていた。角が当たりそうで、私は軽く首を傾けてそれをかわす。背の羽も、人とぶつからないように少したたんでおいた。
「ずいぶん賑やかですね」
リィスが、きょろきょろと周囲を見回しながら言った。
「そうですね。人が多いだけでなく、店の種類も豊富です。港を通じて、いろいろな土地の商品が入ってくるのでしょう」
「なるほど……。あっ、ルミネス様、あのお店を見てもいいですか?」
リィスが指さしたのは、色とりどりの小物を並べた店だった。
布製の小さな袋や髪飾り、金属を加工した細工物など、用途も形もさまざまだ。どれも高価な品というわけではないらしく、店先には気軽に手に取れるように並べられている。
「ええ、構いませんよ」
店へ近づくと、店主らしい女性が顔を上げた。丸い頬をした、人のよさそうな女性で、前掛けのポケットに小さな鋏が覗いている。
「いらっしゃい。旅の方かい? ゆっくり見てっておくれ」
「ありがとうございます!」
リィスは返事をすると、並べられた品物をひとつずつ眺め始めた。
最初は遠慮がちに目で追っているだけで、手は後ろで組んだままだった。けれどやがて、小さな髪飾りの前でぴたりと止まり、そっと指を伸ばした。細い金属の枠に淡い色の石が留められた、簡素ながらも丁寧な作りの品だった。華美な装飾はなく、普段の服にも合わせやすそうな形をしている。
「これ、きれいですね……」
「気に入ったかい? それね、この辺で採れる石なんだよ。大きな宝石じゃないけど、光に当てると色が変わって見えるのさ」
店主が説明すると、リィスは髪飾りを店先に差し込む日の光にかざした。
淡い石の表面に光が滑り、角度を変えるたびに、白みがかった青や薄紫の色が浮かび上がる。目を凝らさなければ気づかないほどの変化だったが、それがかえって繊細な美しさを感じさせた。
「きれい……。こんなふうに見えるんですね」
その声には、仕事中にはあまり聞かない弾んだ響きがあった。
私は隣から品物を覗き込んだ。細い金属の枠の彫りに、どこか異国風の趣がある。
「確かに、面白い細工ですね。石そのものの性質なのか、表面の加工によるものなのか……」
「ルミネス様、今はお買い物ですよ?」
リィスに横目で見上げられ、私は思わず口を閉じた。
「……そうでしたね」
「あはは、旅の人にはそういう人が多いんだよ。珍しいもんが気になっちゃってさ。あんた、学者さんかい?」
どうやら、いつもの癖が出かけていたらしい。
「いえ、少し気になっただけです」
「ふふ、気になるものがあるのはいいことさ。でもね、旅先じゃあ、何も考えずに楽しむってのも忘れちゃだめだよ」
「その通りですね」
私はそう答え、もう一度、店先の商品を眺めた。
リィスはまだ髪飾りを手にしている。買うべきか迷っているのだろう。値札を確かめては品物を見直し、少し考えてから、また値札へ目を戻していた。唇が小さく動いているのは、頭の中で何かを計算しているのかもしれない。
「気になるのなら、買ってもいいのですよ?」
「えっ、でも……」
「大丈夫です」
「うう……本当に、いいのですか?」
リィスは髪飾りをそっと持ち直した。
「いいんですよ。毎日お世話をしてもらっていますから。たまには感謝を返させてください」
「でも、これは私が欲しいものですし……」
「だからこそですよ。せっかく気に入ったものを見つけたのですから、遠慮する必要はありません」
リィスは手の中の髪飾りに視線を落とした。しばらく迷っていたものの、やがて小さく頷くと、店主へ差し出した。
「……これ、ひとつください」
「あいよ。大事にしとくれ」
私は代金を払おうと懐へ手を入れ、取り出したものを店主の手のひらに載せた。
金貨だった。
「…………」
「…………」
「おや、景気がいいねぇ。ちょっと待ってな、隣で崩してくるよ」
店主は愉快そうに笑って、前掛けを揺らしながら隣の店へ小走りに消えていった。
「ルミネス様……細かいお金は……」
「……持っていませんでしたね」
リィスは何か言いかけて、口元を押さえて肩を震わせた。笑うのを我慢しているらしい。
やがて戻ってきた店主から釣り銭を受け取り、リィスは髪飾りを両手で包むように持った。
すぐにしまってしまうのかと思ったが、彼女は手の中の品をしばらく眺めていた。光の当たる角度を少しずつ変えながら、先ほどと同じ色の変化を確かめている。
「せっかくですから、今つけてみてはどうですか?」
「えっ、今ですか?」
「ええ。似合うと思いますよ」
リィスは少し迷ったあと、嬉しそうに頷いた。
「では……ちょっと失礼しますね」
店主に手鏡を借りると、彼女はまとめていた髪の横に髪飾りを留めた。何度か位置を直し、鏡を少し傾けては覗き込み、それからこちらへ振り返る。
「どうでしょうか?」
淡い石が、彼女の髪の間で小さく光っていた。目立ちすぎることもなく、かといって埋もれてしまうこともない。顔を動かすたびに石の色がわずかに変わり、落ち着いた服装の中にささやかな彩りを添えている。
「よく似合っていますよ」
「本当ですか?」
「ええ。とても」
リィスはもう一度、髪飾りにそっと触れた。確かめるような仕草だったが、その表情には、先ほどまでの迷いはもうなかった。
「……よかった。自分でこういうものを選ぶのって、少し難しいですね」
「そうなのですか?」
「はい。普段は必要なものを買うことが多いので。こういう、なくても困らないけれど、あると嬉しいものは……どうしても迷ってしまいます」
そう言って、リィスは少し照れたように笑った。
いつも役割を果たすことを優先している彼女には、気に入ったから選ぶ、というだけのことにも、少しばかり勇気が要るのかもしれない。
「それなら、今日は迷う時間も含めて楽しんでいきましょう」
「はい。ありがとうございます、ルミネス様。誘ってくださって」
「私は何もしていませんよ。あなたが気に入ったものを見つけただけです」
「それでも、です」
リィスは小さく笑った。
その笑顔を見て、私は通りの先へ目を向けた。
まだ、見ていない店がいくつもある。食事処も気になるし、旅道具を扱う店にも、土地ならではの品が並んでいるかもしれない。
急ぐ理由はなかった。
「では、次は何を見たいですか?」
「えっと……。あちらに食べ物を売っているお店が見えます。少し、見に行ってみたいです」
「分かりました。行ってみましょう」
私たちは店主に礼を告げ、再び歩き始めた。
通りは港のほうへ向かって、緩やかに下っていた。進むほどに潮の匂いが濃くなり、海風が上着の裾を揺らした。私は風に乱れた髪を指で整え、懐に入れた本が気になって、上着の内側へそっと押し込んだ。
「ルミネス様、本当にどこへ行っても本のことばかりですね」
「……癖ですから」
坂の途中で、ふいに建物の列が途切れた。
重なり合う赤い瓦屋根の向こうに、港の全景が広がっている。岬の下には、小さな漁船がひしめく古い港。その沖へ長く突き出した防波堤の内側には、帆を畳んだ大きな船が何隻も並んでいた。海は日を浴びて細かく光り、遠くの水平線は、うっすらと白くけぶっている。霧の海、という名前を思い出した。
「わあ……」
リィスが足を止め、思わず声を漏らした。
「あんなに大きな船、近くで見たことがありません」
「ええ。立派な港ですね」
私も少しのあいだ、並んで海を眺めた。風が瓦の上を渡り、リィスの髪飾りの石が、さっきとは違う色できらりと光った。
港沿いには、小さな家々が肩を寄せ合うように並んでいた。軒先に洗濯物が揺れ、子どもたちが笑い声を上げながら路地を駆け抜けていく。古くからの商店が並ぶ通りと比べると、言葉の調子や装いも少しずつ違って見えた。この町には、さまざまな事情でたどり着いた人が混ざり合っているのだろう。
途中、白い装いの騎士と、揃いの装いをした領主軍の兵が、並んで通りを巡っていくのとすれ違った。互いに短く言葉を交わし、人混みの中へ消えていく。
その先に、屋台の列が現れた。
港の近くの広い通りに、屋台がずらりと並んでいる。炭火の煙が立ち上り、焼けた魚の香ばしい匂いが、潮の香りと混ざり合っていた。
串に刺した魚を炭火で炙る屋台。揚げたてのフィッシュフライを紙に包んで渡す屋台。大鍋で魚介のスープを煮込んでいる屋台。パンに魚介を挟んだサンドを並べた屋台。網の上で貝がぱちぱちと口を開く屋台は、搾った柑橘の爽やかな香りまで漂わせている。
言葉の調子が違う店主同士が、互いの客を冗談混じりに取り合っているのが聞こえた。それでも、客が増えれば自然と声を掛け合って、行列をさばくのを手伝い合っている。
「わあ……どれも美味しそうです……」
リィスは両手を胸の前で握り、屋台の端から端まで、首を左右に振って眺めている。
「迷ってしまいますね」
「ルミネス様は、どれにしますか?」
私は大鍋のほうへ目を向けた。ぐつぐつと煮える大きな鍋に、どこか懐かしいものを感じたからだ。食堂車で、いつも火にかかっているあの鍋に少し似ている。
「私は、あのスープにしましょうか」
リィスは腕を組んで長いこと唸った末に、揚げたてのフィッシュフライと、柑橘を添えた焼き貝をひとつ選んだ。
大鍋の前の店主に声をかけると、木のカップにたっぷりとスープを注いでくれた。魚の切り身と細かく刻まれた野菜が浮かび、湯気とともに食欲を誘う香りが立ちのぼっている。
「はいよ。熱いから気をつけな」
「ありがとうございます」
私は先ほどの釣り銭で代金を支払い、取っ手のついたカップを受け取った。
リィスはというと、少し離れた揚げ物の屋台へ向かっていた。そちらでは、油の中で魚の切り身がぱちぱちと小気味よくはぜている。店主は揚がったものを網の上に並べ、注文に応じて紙へ包んでいた。
「フィッシュフライをひとつください!」
「はいよ。揚げたてだから、最初はゆっくり食べるんだよ」
店主が紙包みを渡すと、リィスは両手で受け取った。
「ありがとうございます!」
その隣では、別の屋台の店主が焼き貝を皿に載せ、搾った柑橘を振りかけている。リィスはそちらにも目を向け、少し迷ったあと、ひとつ注文したようだった。
それぞれの屋台で品物を受け取った私たちは、人の流れを避け、通りの端に設けられた腰掛けへ移動した。海から吹く風が、炭火の煙と料理の匂いを運んでくる。
「では、いただきましょうか」
「はい!」
私は取っ手を持ち、左手を添えて、カップを口に運んだ。
魚の出汁がよく出ている。塩気は穏やかで、あとから柑橘のほのかな酸味が追いかけてきた。体の芯まで、ゆっくりと温まるような味だった。
「……ああ、美味しいですね」
「ルミネス様、それ、湯気がすごいですよ……?」
リィスが、少し心配そうにこちらを見上げている。
「そうですか? ちょうどいい温かさですが」
「普通の人には、熱すぎるんです……」
「へえ、お客さん、舌が丈夫だねぇ」
近くを通りかかったスープの店主が、感心したように笑った。リィスは小さくため息をついて、それから吹き出した。
「何度見ても慣れません、ルミネス様の、熱いものの平気さ」
「そう言われましても。あまり気にしたことはありませんでした」
「私はもう少し冷ましてからにします……」
そう言いながら、リィスはフィッシュフライへ目を落とした。衣はきつね色に揚がり、ところどころに細かな泡の跡が残っている。そっと端をかじると、彼女はぱっと目を見開いた。
「あつっ……でも、おいしい!」
「だから、ゆっくり食べたほうがいいと言われたのでしょう?」
「分かっていたんですけど、つい……!」
リィスは口元を押さえながら、もう一度フライを見つめた。衣は軽く、中の魚はふっくらとしているらしい。二口目からは少し慎重に、けれど、ひと口ごとに表情を緩めながら食べていた。
焼き貝にも、柑橘の香りがよく合っているようだった。リィスは殻を傾けて汁をこぼさないようにしながら、最後のひと口まで丁寧に味わっていた。
食べ終えても、私たちはしばらく腰掛けに座っていた。
目の前の岸壁では、船と岸をつなぐ綱が風を受けて軋み、その下で波が、規則正しく石を打っている。帆柱の先に止まった海鳥が、風の向きを確かめるように、ひと声鳴いた。
「おいしかったですね。あんなにたくさん屋台があると、どれを食べるか決めるだけでも大変です」
「まだ食べていないものもありますからね。気になるものがあれば、帰りにまた寄ってみてもいいでしょう」
「本当ですか? では、次はあのパンに魚を挟んだものも食べてみたいです」
「ふふ。食べるものは、まだまだ決まりそうにありませんね」
「だって、せっかく来たんですから」
リィスは少し得意げに笑った。
食べ終えた紙包みや殻を、それぞれの屋台の回収箱へ返してから、私たちは再び通りを歩き始めた。
「では、次はどちらへ行きましょうか」
「そうですね……。あちらの通りはどうでしょう。少し先に、布をたくさん飾っているお店が見えます」
リィスが指さした先には、店先に色とりどりの布を吊るした商店があった。風を受けて布の端がひらひらと揺れ、通りを歩く人々の頭上に、淡い色の影を落としている。
「服飾品のお店でしょうか。行ってみましょう」
屋台の列を離れる前に、私はもう一度だけ港を振り返った。岸壁では荷が積み下ろされ、漁を終えたらしい小舟から、銀色の魚が籠へ移されていく。
「港、もう少し見ていきますか?」
リィスが、私の視線に気づいて首を傾げた。けれど、その目はもう、通りの先の布の店へ戻りかけている。
「いえ、先に布のお店へ行きましょう。港は逃げませんから」
「ふふ、そうですね。はい!」
リィスは嬉しそうに頷き、少しだけ歩調を速めた。私もそれに合わせて歩き出す。
店の前では、店主らしい男性が布を畳み直していた。袖をまくった腕は日に焼けていて、手つきは意外なほど丁寧だ。薄手の布から厚手の織物まで、素材も色もさまざまで、中には見慣れない模様を織り込んだものもある。遠くの土地から運ばれてきた品なのかもしれない。
「いらっしゃい。何かお探しかい?」
「いえ、少し見せていただこうかと」
「どうぞどうぞ。港町だからね、いろんなとこの布が集まるんだ。気に入ったのがあれば、広げて見てくれていいよ」
店主の言葉に、リィスは遠慮がちに頷いた。
彼女は布の端に指を添え、織り目を確かめるようにそっと撫でた。さらさらと、布の擦れる乾いた音がする。ひとつ手に取っては隣の品と見比べ、色合いを確かめている。
「こちらは、ずいぶん薄いですね」
「ああ、それはペルベヌアのほうから来た布だよ。あっちでも特に暑い土地で使うやつらしくてね。風がよく通るから、夏場にはちょうどいい」
「へえ……」
リィスは感心したように声を漏らし、布を日にかざして透け具合を確かめた。
その様子を見ていると、私はふと、彼女が普段身につけている服のことを思い出した。旅団での生活は、どうしても実用性を優先する。動きやすく、手入れがしやすく、何度も着回せるもの。彼女のいつものメイド服も、まさにそういう一着だ。
けれど、今は必要かどうかだけで選ぶ必要はない。
「リィスも、何か気に入ったものがあれば買ってみてはどうですか?」
「えっ。いえ、私は……見るだけでも十分です」
「そうですか?」
「はい。こうして見ているだけでも、いろいろなものがあると分かりますから」
そう答えながらも、彼女の視線は、淡い青色の布からなかなか離れなかった。指先は、その布の端を行ったり来たりしている。
私はそのことに気づいたが、あえて指摘はしなかった。
欲しいものを見つけることと、それを買うと決めることは、必ずしも同じではない。先ほどの髪飾りも、彼女はしばらく迷ってから選んだのだ。今すぐ何かを勧める必要はないだろう。
「では、ゆっくり見ていきましょう。時間はありますから」
「はい」
リィスはほっとしたように笑い、少し離れた台の布へ歩いていった。
その背中が離れたのを確かめて、私は店主にそっと声をかけた。
「失礼、あの淡い青の布のことなのですが。少し取り置いていただくことはできますか? あとで改めて伺います。仕立てもお願いしたいのですが、頼める方はいらっしゃいますか」
店主は私とリィスを見比べて、ああ、と得心した顔でにやりと笑った。声を落として答える。
「うちと付き合いのある仕立て屋がいるよ。腕はいい。取り置きなら、ちゃんと札をつけとくさ」
「助かります」
店主が淡い青の布の端に札を結ぶ。私は店の場所を頭の中に留めた。リィスが戻ってくる前に、そっと台の前を離れる。
しばらくして店を出ると、通りの先から鐘の音が聞こえてきた。
遠くの塔から響いた音は、建物の間を抜けて、港のほうまでゆっくりと広がっていく。屋根の上にいた海鳥が数羽、驚いたように飛び立った。通りを歩く人々の中には、音のした方向を見上げる者もいたが、大半は気に留める様子もなく、いつもの調子で歩き続けていた。
「鐘が鳴りましたね」
「ええ。時刻を知らせるものなのでしょうか」
「そうかもしれません。あちらに時計台のような建物も見えますし」
リィスが背伸びをして見上げた先には、屋根の向こうから石造りの塔が顔を出していた。広場から見えた岬の塔とは別のものらしい。町の中にも、時を知らせるための設備があるのだろう。
私はそちらへ視線を向けたものの、すぐに通りへ戻した。気になることはいくらでもあるが、今はその必要もない。
「ルミネス様、あちらに何かありますよ」
リィスの声に目を向けると、通りの脇に小さな広場があった。中央には石造りの水場があり、水が涼しげな音を立てて湧いている。その周りに腰掛けられる段差が設けられ、荷物を置いて休む旅人や、買い物の途中で立ち話をする住民が、思い思いに過ごしていた。傍らに立つ木の枝の間から、木漏れ日が水面にちらちらと揺れている。
水場のそばでは、子どもたちが何かを囲んでいる。近づいてみると、木箱の上に小さな木彫りの人形が並べられていた。露店の品らしく、動物や船、魚をかたどったものが、どれも手のひらに収まるほどの大きさで作られている。
「わあ、かわいいですね」
リィスは子どもたちの邪魔にならないよう、少し離れたところから、身をかがめて覗き込んだ。
木彫りの船には、帆や舵まで細かく彫られている。魚の形をしたものは、鱗の一枚一枚まで丁寧に表現されていた。作り手の手間が伝わってくる品々だった。
「これも、この町で作られているのでしょうか」
「船のほうは、このへんの職人が彫ってるよ。魚も、港でよく見る種類をモデルにしててね」
店主が、私たちの視線に気づいて教えてくれた。
「よかったら手に取ってみな。そう簡単には壊れないからさ」
「ありがとうございます」
リィスは魚の人形をひとつ手に取った。掌に載せて裏返し、木目や彫り跡を眺めている。
「こういうものも、お土産になるんですね」
「ええ。誰かに渡すのでしょうか?」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、旅先で見つけたものを持っていたら、あとで思い出せるかなって」
そう言ってから、リィスは少し照れたように人形を戻した。
私にとって、旅先で手に入れるものは、記録や資料であることが多かった。けれど、あとで思い出すために何かを持ち帰るという選び方も、悪くないと思えた。
「気に入ったものがあれば、ひとつ持って帰ってもいいかもしれませんね」
「そうですね。もう少し見てみます」
彼女は再び木箱へ目を向けたが、今度は先ほどよりも少し楽しそうだった。
その後、私たちは水場の段差に並んで腰を下ろした。通りかかった店で味見にもらった焼き菓子のひとかけらを、半分ずつ分ける。素朴な甘さで、噛むと香ばしい穀物の香りが、口の中にふわりと広がった。
水の湧く音が、絶え間なく耳に届く。木漏れ日が揺れるたび、リィスの髪飾りの石が、淡く色を変えた。
「なんだか、不思議ですね」
リィスが焼き菓子の欠片を指で崩しながら、ぽつりと言った。
「何がですか?」
「いつもは、移動していると、景色は流れていくものだったので。こうして座って眺めていると、町って、ずっと動いているんだなって」
「そうですね。止まっているように見えても、少しずつ変わっていくものですから」
私は水面に揺れる木の影を眺めながら、そう答えた。
その後も私たちは、通りを歩きながらいくつかの店を覗いた。遠くの土地で使われているという簡単な道具を見せてもらったり、店先の鳥籠に見入ったり。リィスはそのたびに目を輝かせ、時折、私に感想を尋ねてきた。私はそれに答えながら、いつもよりゆっくりと歩いた。
ふと、通りの向こうに傾き始めた日差しが見えた。
「そろそろ戻ったほうがよさそうですね」
私が言うと、リィスは少し名残惜しそうに通りを振り返った。
「もう、そんな時間ですか……」
「まだ見たいものがあるのですか?」
「はい。でも、今日はたくさん見られましたから」
そう答えた彼女の髪には、あの髪飾りが変わらず留まっていた。夕方の光を受けた石は、店先で見たときとはまた違う色を浮かべている。
リィスはそれに気づくと、指先でそっと触れた。
「また、時間があるときに来たいですね」
「そうですね。滞在している間に、まだ機会はあるでしょう」
「はい!」
彼女の返事は、来たときと同じくらい弾んでいた。
「ああ、そうだ。先ほど『港は逃げませんから』と言いましたね。少しだけ、遠回りして帰りませんか」
「遠回り、ですか?」
「港沿いの道を通って。戻る前に、もう少しだけ見ておきたいのです」
リィスはぱっと笑って、大きく頷いた。
私たちは広場へ向かう道を、港のほうへ少しそれて歩いた。通りには、まだ買い物を続ける人々の姿がある。店じまいの準備を始める店もあれば、これから夕食の支度をするのか、食材を買い求める人々で賑わう店もあった。
岸壁に出ると、風が変わっていた。昼間よりも少しひんやりとして、肌に触れるたびに、日が傾いたことを教えてくれる。潮の匂いに混じって、焼いた魚の香ばしさが、かすかに残っていた。
港は、夕方の光に染まっていた。
傾いた日が、水面に細かな金色の欠片を撒いている。波が岸壁に当たるたび、その欠片が砕けては、また集まった。停泊した大きな船の帆柱が、長い影を水の上に伸ばしている。沖へ延びる防波堤の先端では、白い灯台が橙色に縁取られ、坂の上の岬の塔と、離れた場所で向かい合っていた。
ちょうど、漁を終えた小舟が何艘か、ゆっくりと港へ戻ってくるところだった。舟の上では、日に焼けた男たちが網をたぐり寄せている。岸壁のあちこちでは、仕事を終えた人々が、「お疲れさん」「今日はどうだった」と声を掛け合い、笑い声が波の音に混ざっていた。
私たちは岸壁の端、太い係船柱のそばにある石段に、並んで腰を下ろした。
石には昼間の熱がまだ残っていて、ほんのりと温かい。リィスは足を揃えて座り、スカートの裾を押さえながら、目の前の景色をじっと見つめていた。
「きれいですね……」
「ええ。夕方の港は、また違う顔をしていますね」
風が吹くたびに、私の青いリボンの端がひらひらと揺れ、リィスの髪も柔らかく流れた。彼女は髪飾りがずれないように、そっと手で押さえてから、目を細めて水平線のほうを見た。霧の海は、日が低くなるにつれて、白くけぶる境目を金色に溶かしていく。
「旅団にいると、景色って車両の窓から見るものだったので。こんなふうに、ただ座って眺めるのって、なんだか贅沢ですね」
「そうですね。私もそう思います。やはりこうして気を休めるのは、いいものですね」
調べるでもなく、記録するでもなく、ただ眺める。そのことが、案外、自分にとっても久しぶりだったことに気づいた。
どこかで、帰港を知らせる鐘がもう一度、ゆっくりと鳴った。それを合図のように、岸壁のあちこちで人々が立ち上がり、荷をまとめ始める。灯台の足元に、小さな火が一つ、ぽっと灯った。
「……そろそろ私たちも行きましょうか」
「はい。もう少しだけ、見てからでもいいですか」
リィスはそう言って、最後にもう一度、港をぐるりと見渡した。それから、ふふ、と小さく笑って立ち上がった。
この町では、今日も多くの人々が働き、買い物をし、誰かと話しながら一日を過ごしている。その中を、私たちもまた、旅人として歩いていた。
けれど、今日見たものまで、すべて記録に残す必要はない。
髪飾りを選んだときのリィスの表情も、屋台で食べた温かなスープの味も、水場の木漏れ日も、夕方の港の色も、通りに響いていた人々の声も。今はただ、そのまま覚えておけばいい。