ヴェレヴァルに着いてから、数日が経った。
窓の外はまだ青く、日の出まではしばらくありそうだ。夜の名残を引きずった薄明かりが、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。仕立て屋の店主は「三日あれば仕上がるよ」と言っていた。今日が、その約束の日だった。
私は音を立てないように寝台を降り、身支度を整えた。紺の上着に袖を通し、金の鎖を留める。青いリボンを結び直して丸眼鏡をかけると、机の上に置いていた小さな鞄を手に取った。中には記録帳と筆記具、それから昨日のうちに細かい硬貨へ両替しておいた財布が入っている。今度は金貨を出さずに済むはずだ。今日は大きな荷物を持ち歩く必要もない。仕立て屋へ行って品物を受け取るだけなら、これで十分だろう。
鞄を肩に掛け、部屋を出る。リィスの部屋の前を通るときには、自然と足音を殺していた。熟睡しているだろうが、油断は禁物だ。扉の向こうから静かな寝息が聞こえる。起こさないように、そっと車両を出た。
停泊している広場は、まだ眠りの中にあった。石畳は朝露に濡れ、踏み出す足元にひんやりとした感触が伝わってくる。車列の影の向こうでは、見張りの団員が私に気づいて小さく手を挙げた。私も軽く手を上げて応じ、港へ続く通りへ歩き出す。
朝の町を進むと、パン屋の煙突から細い煙がのぼり、焼けた小麦の香りが路地に流れてきた。店先では、前掛けをした若い男が看板を表へ出している。その向かいの家では、女性が箒で戸口を掃きながら、魚籠を持った通行人と短く言葉を交わしていた。今日の漁の具合でも尋ねているのだろう。返す声は軽く、笑いが混じっている。水桶を下げた子どもは、あくびをかみ殺しながら井戸へ向かっていった。
家々の扉が開くたび、室内に残っていた灯りが通りへ漏れる。店の奥からは食器を重ねる音が聞こえ、どこかの家では窓を開け、布を干す準備をしていた。まだ眠っている家も多いが、起き出した人々は、それぞれの朝を始めている。
同じ方向へ向かう人影も、少しずつ増えてきた。腰に道具袋を下げた男たち、弁当らしい包みを抱えた者、肩に縄を掛けた者。誰も急いでいる様子はないのに、足取りには迷いがない。港へ向かう人々だった。荷車の車輪が、まだ人の少ない石畳の上をごとごとと進んでいく。
昨日まで歩いた通りも、朝になると違って見える。昼間には店先に並んでいた商品がまだなく、代わりに、開店に向けて準備する人々の姿が目についた。荷物を運ぶ人、掃除をする人、店の前に水を撒く人。戦争の影響が残っていると聞いていたが、少なくとも、通りを歩く限りでは、日々の暮らしが大きく損なわれているようには見えなかった。
人通りが増えていく中、荷を背負った若い男が道の端で立ち止まり、周囲の建物を確かめていた。少し遅れて歩いてきた年配の女性が声をかけると、男は何かを尋ねるように手を動かす。女性は港の方向を指し、男は何度か頭を下げてから、再び歩き出した。
この町に来て間もない人なのかもしれない。あるいは、普段は別の場所で働いていて、今日はたまたま違う道を通っているだけなのだろうか。見ただけでは分からない。私はその様子を少し眺めてから、仕立て屋へ向かう足を再び進めた。
布屋から教えてもらった仕立て屋は、港に近い路地の奥にあった。店先には、繕いを待つ帆布が何枚も吊るされている。服の仕立てだけでなく、船の帆や荷袋の補修も請け負っている店らしい。漁師たちの朝は早いため、店も日の出前から開けているのだと聞いていた。
戸口の脇には、いくつかの道具がまとめて置かれていた。太い針や糸巻き、布を押さえるための重し。服を仕立てる店というより、布仕事を一手に引き受ける工房に近いのかもしれない。
店の中からは、布を裁断する音が聞こえていた。刃物が布の上を滑る音に続き、何かを机へ置く乾いた音がする。朝早くから、すでに仕事を始めているようだった。
戸を叩くと、裁断の音が止み、やがて扉が開いた。
「はいはい、お待ちどうさま。ああ、布屋さんの紹介の旅の人だね」
老婦人が、眼鏡の奥から私を見上げて笑った。背丈は低く、白髪を後ろでひとつにまとめている。指先には細い糸が何本も絡まり、顔には深いしわが刻まれていた。それでも、目元には人懐こい明るさがある。長年の仕事で刻まれた傷やしわが、その経験を物語っていた。
「早朝から申し訳ありません。約束の品を受け取りに来ました。できていますでしょうか?」
「できているよ。朝一番に来るとは思わなかったけど、そんなに待ち遠しかったのかい?」
「プレゼントする子が起きる前に、受け取っておきたくて」
「ああ、そういうことかい。髪飾りの店の婆さんから聞いているよ。金貨で払おうとして、慌てて隣に崩しに走らせた旅の学者さんだってね」
「……噂になっているのですね」
「人のつながりが狭い町だからね。そういう話はすぐに回ってくるのさ。待ってて、今から持ってくるよ」
彼女は愉快そうに笑うと、店の奥から紙に包んだ荷を持ってきた。入口近くの作業台に置かれたランプの下へ、そっと包みを置く。
「背格好は、布屋さんから聞いた通りに仕立てたよ。もし合わなけりゃ、そのときは遠慮なく持ってきてくれな」
「ありがとうございます。布の色や形についても、お願いした通りでしょうか?」
「もちろん。最初に聞いたときは、ずいぶん控えめな注文だと思ったけどね。派手な飾りをつけるわけでもないし、動きやすさを優先してほしいという話だったろう?」
「ええ。普段から着てもらえるものがよかったので」
「それなら、これでいいと思うよ。あまり飾り立てると、着る場所を選んじゃうからね」
彼女は包みの端を軽く叩いた。
「それに、こういうものは、着る人が気に入ってくれるのが一番さ。見栄えだけよくしても、袖が動かしにくかったり、歩くたびに裾を気にしなきゃいけなかったりしたら、結局しまい込まれてしまう」
「確かに、そうですね」
「布屋さんからも、普段着として使えるようにしてほしいと、何度も言われたからね。あちらも、ずいぶん気を遣っていたよ。背格好を聞くときも、細かく確認してくれてね」
布屋と仕立て屋の間でも、いろいろと話をしてくれたらしい。こちらが直接伝えたことだけでなく、着る人の普段の様子まで踏まえて考えてくれたのだろう。
麻紐を解いて紙を開くと、淡い青色がランプの光を受けて、やわらかく広がった。
薄手の布を重ねた、膝下までのワンピースだった。襟元には白い糸で細い縫い取りが施されている。袖には動かしやすいよう少し余裕があり、裾も歩くたびに軽く揺れそうな幅に仕立てられていた。縫い目は驚くほど細かく、指でなぞっても、どこにも引っかからない。派手さはないが、どこから見ても丁寧に作られているのが分かった。
髪飾りの石にある、白みがかった青によく似た色だった。並べれば、きっとよく合うだろう。
「……いい仕上がりですね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。渡すときは、びっくりさせてやりな」
「ええ。きっと喜んでくれると思います。これなら、きっと……」
私は布を元のとおりに畳み始めた。店主は、その手元を見ながら声をかける。
「その子のことを考えて選んだんだろう? なら、きっと伝わるよ」
その言葉に、私は少しだけ手を止めた。誰かに何かを贈るというのは、品物を選んで渡せば終わりというものではない。相手がどう受け取るのか、喜んでくれるのか、かえって気を遣わせてしまわないか。そんなことまで、つい考えてしまう。
けれど、そこまで考えてしまうこと自体が、贈り物をする理由なのかもしれなかった。
「ありがとうございます。大切に持ち帰りますね」
「はいよ。布が傷まないように、あまり強く抱えすぎないよう気をつけな」
「ありがとうございました」
畳み終えた布を紙で包み直し、麻紐を結ぶ。
どう渡そうか。今日の昼にするか、旅団の夜の集まりのあとにするか。「必要だから」ではなく、「気に入ると思ったから」と伝えればいい。そう考えてはいるものの、きっとリィスは、また「いいんですか?」と何度も確かめて、しばらく迷うのだろう。その様子を思い浮かべると、口元が緩みそうになった。
リィスは、誰かから何かを受け取るとき、いつも少し遠慮する。必要なものなら受け取るけれど、自分のためだけに用意されたものとなると、どうしても気を遣ってしまうらしい。
髪飾りを買ったときもそうだった。似合うと思ったから、と伝えても、彼女は何度か石を見つめ、それから私の顔を見て、もう一度確かめていた。
今回も、同じような反応をするのだろうか。それとも、今度は少しだけ素直に喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えていると、店主が作業台の上を片づけ始めた。糸巻きをまとめ、裁断した布を端へ寄せている。次の仕事に取りかかる準備をしているのだろう。
「ありがとうございます。代金は、これで」
用意しておいた硬貨を数えて渡すと、店主は目を丸くしたあと、声を立てて笑った。
「今度は崩さなくていいんだね。毎度あり」
「前回は、少し失敗してしまいましたから」
「ははっ。旅の人は、あまり硬貨を使わないのかい?」
「使わないわけではありませんが、普段はほかの者に任せているんです。それに、どうしても大きな集団ですから、細かな買い物をする機会が少なくて。足りなくなるよりはと思い、大きい額を持っていることが多いんです」
「そうかい、そうかい。それなら、この町で暮らすなら細かい銅貨も持っておいたほうがいいよ。パン一つ買うのに金貨を出されたら、店のほうが困ってしまうからね」
「覚えておきます」
硬貨を数える彼女の手元を見ていると、店先に吊るされた帆布が風に揺れているのが目に入った。端の縫い目を確かめているあいだに気づいたのだが、吊るされた帆布の数は、小さな店には多すぎるほどだった。
「帆の繕いが、ずいぶんと多いのですね」
「ああ、このところね。船が増えたせいか、朝から晩まで途切れないんだ」
彼女は針山に刺さった針を指先でそろえ、肩をすくめて笑った。
「おかげさまで、うちは助かってるよ。ただ、朝も早く開けておかないと間に合わなくてね。最近は疲れ通しさ」
「船の出入りが増えれば、帆も荷袋も傷みますからね」
「そういうことさ。急いで繕ってほしいと持ち込まれることもあるし、次の出航までに間に合わせてくれと言われることもある。困ったもんだよ」
彼女は店先に吊るされた帆布の一枚を指でつまんだ。端の部分には、何度も補修した跡が残っている。
「このあたりは、古い港の漁師も外から来る商船も使うからね。仕事が途切れないのはありがたいけれど、頼まれたものを全部すぐに仕上げられるわけじゃない。うちも、手が足りなくなることがある」
「そうなのですね」
「まあ、急ぎのものから順番にやるしかないさ。船の出る日が決まっているものもあるし、少しくらい待ってもらえるものもある。そこは相談しながらだね」
彼女は明るく答えた。忙しさを嘆いているというより、増えた仕事をどうにか回しているという口ぶりだった。
ただ、その笑顔の目元には、ほんの少しだけ寝不足の影が差している。
「無理をなさらないでくださいね」
「ありがとう。でも、仕事があるうちはできるだけやっておくって決めたんだよ。この婆もまだ捨てたもんじゃないってことさ」
「そうですか……。それでも、どうかお身体には気をつけてくださいね」
「はいはい。心配してくれてありがとうよ」
そう言って、彼女は再び針を手に取った。私は邪魔にならないよう、軽く頭を下げて店を出る。
包みを両手で抱えて外へ出ると、空は少しだけ明るくなっていた。屋根の向こうの空が、藍から薄い灰青へとじわじわ色を変えている。まだ太陽は昇っていない。けれど、夜はもう終わりかけていた。
このまま車列へ戻ってもよかった。けれど、路地の先から潮の匂いが流れてきて、足は自然とそちらへ向いた。初日、リィスに「港は逃げませんから」と言ったことを、ふと思い出したからだ。
路地を抜けると、視界がぱっと開けた。港は、仕事に励む人々ですでに活気づいていた。
夕方の港が金色に染まる場所だとしたら、早朝の港は灰青色の中でひそやかに目を覚ます場所だった。岸壁には小さな灯りがいくつも揺れ、人影が忙しなく行き来している。小舟が次々と綱を解き、薄闇の水面へ滑り出していった。櫂が水を掻く音が、規則正しく重なっていく。
岬の下にある古い港では、一日がとうに始まっていた。夜漁から戻った小舟が、次々と岸へ寄ってくる。舟べりへ縄が投げられ、籠に入った魚が濡れた石の上へ並べられた。銀色の腹が、灯りを受けてきらりと光る。仲買らしい男たちは籠の前で指を折り、手のひらを振って、数と値を示し合っていた。声はほとんど出ていない。それでも魚はたちまち選り分けられ、荷車へ載せられると、市場のほうへ運ばれていく。籠の擦れる音、跳ねる魚の濡れた音、鼻の奥に残る塩の匂い。年季の入った手際は、見ているだけで気持ちがよかった。
小舟の一隻が岸へ着くと、待っていた少年が駆け寄った。舟から降りた男が籠を手渡し、少年は両手で受け取って近くの荷車へ運んでいく。重そうな籠を抱えているのに、足取りは軽い。何度も繰り返してきた仕事なのだろう。
その近くでは、別の男が魚の大きさを確かめながら、籠の中身を二つに分けていた。売り先によって分けているのか、それとも傷みやすいものを先に運ぶのか。細かな手順までは分からないが、誰もが自分の役割を心得ているように見えた。
古い港は、今日もいつもの速さで動いているのだろう。
外港のほうへ目を移すと、同じ港とは思えないほど違う光景が広がっていた。
外港の桟橋には大きな商船が横付けされ、荷揚げが始まっている。船の舷から滑車の綱が降り、網に包まれた木箱や樽が、ゆっくりと岸壁へ下ろされていった。待ち構えていた男たちが箱の脇へ回り込み、荷札を確かめては桟橋の脇へ並べていく。荷札は色の違う木札で、色ごとに置き場が分かれているらしい。船員たちの掛け声が、あちこちから飛んでいた。荷の置き場を告げる声、縄を緩めるなと戒める声。どれも短く鋭いやり取りだったが、木札の色を確かめると、荷は迷いなく振り分けられていく。
古い港と比べると、扱う荷の大きさも量も違う。大きな船の荷揚げは、一人では済まない。滑車を動かす者、綱を引く者、荷が岸壁へ近づいたところで支える者。少しでも手順がずれれば、荷が揺れて危険だ。掛け声は大きいが、動きは慎重だった。
船から荷が降ろされるたび、岸壁には木箱が増えていく。運び出す荷車も動いているものの、次々と下ろされる荷の量に比べれば、減るのはわずかに見えた。
並べられた荷の先には、石造りの低い建物があった。検査所だ。荷を運ぶ人々の列は、入口の前から岸壁の角まで続いている。窓口は三つ。内側では、役人たちが帳面と荷札を突き合わせ、箱の封を確かめていた。
よく観察していると、二人がかりで封蝋のついた小さな木箱の番号を、一つずつ読み上げている窓口があった。ほかの窓口に比べ、そこだけ列の進みが遅い。
列の脇を歩き、窓口の手元が見える位置まで近づいた。本を手に取るときの癖なのか、つい道具の縁や艶に目が向く。窓口の台には、それぞれ印判と封蝋の匙が置かれていた。二つの窓口のものは、握りが手垢で黒ずみ、刻印の縁も丸く磨り減っている。長く使い込まれた道具だ。ところが、封蝋を読み上げている窓口の印判だけは、刻印の角がまだ立っていて、木の握りも白っぽかった。
新しいものに替えたのだろう。ただ、それだけのことだ。それだけのことのはずなのに、目が離れなかった。
役人たちは箱の封を確かめてから帳面へ目を落とし、荷札に記された番号を読み上げていた。向かいに立つ別の役人が、それを聞き取って帳面と照らし合わせる。間違いがなければ、荷札に印を押して次へ回す。ひとつひとつは単純な作業でも、数が積み重なれば、それだけ時間もかかる。
入口の脇には、領主軍の兵が二人立っていた。列に並ぶ人々と荷の出入りに目を配り、ときおり窓口の役人と短く言葉を交わしている。急かすでも咎めるでもなく、ただ周囲を見守るような立ち方だった。
兵の一人が、荷を運ぶ人間の通路を空けるよう、列の端にいた男へ手で合図する。男が荷車を少し動かすと、兵は軽く頷き、再び周囲へ目を戻した。検査そのものに口を出す様子はない。あくまで、人と荷の流れを見ているようだった。
列に並ぶ人々の様子も、少しずつ目に入ってきた。荷札の束を取り出しては枚数を数え直し、また懐へ戻す男。何度も空を見上げ、日の高さを測るように目を細める女性。木箱の蓋に手を置いたまま、動かない列の先をじっと見つめる若者。誰も声を荒らげてはいない。けれど、待った時間の長さは、肩の落ち方や握りしめた帳面の皺に、そのまま表れていた。
少し離れたところでは、荷車の脇に腰を下ろし、足を投げ出して休んでいる男がいた。隣の男と何か話しているが、ときおり列の先へ視線を戻している。話をしながらも、自分の順番を見失わないようにしているのだろう。
一方、荷車の持ち手を握ったまま、じっと立ち続けている女性もいた。荷の上には布を掛けた籠がいくつも積まれている。傷みやすい品なのか、時折、布の端を持ち上げて中を確かめていた。彼女の表情には焦りが浮かんでいたが、列の前へ出ようとはしない。何度か口を開きかけては、結局、何も言わずに閉じていた。
列の先で、役人に何かを尋ねている男もいる。説明を受けて納得したように頷く者もいれば、首を傾げたまま荷車へ戻る者もいた。待つことに慣れている人もいれば、まだ状況を理解できず戸惑っている人もいるのだろう。
同じ列に並んでいても、抱えている事情はそれぞれ違う。早く荷を受け取りたい者、次の取引に間に合わせたい者、荷が傷む前に運び出したい者。待ち時間そのものは同じでも、それによって失うものは同じではない。
やがて、窓口のひとつから、荷を受け取った男が出てきた。印の押された荷札を確かめると、帽子を脱いで長く息を吐く。その背中から、ふっと力が抜けるのが見て取れた。
彼はすぐに近くの荷車へ向かい、待っていた別の男と短く言葉を交わした。荷札を見せると、相手は頷き、木箱を積み込むために縄を解き始める。検査を終えたからといって、すぐに仕事が終わるわけではないらしい。荷を運び出し、次の場所へ届けるまで、まだいくつもの手順が残っている。
検査を済ませた荷には、荷札に印が押され、荷車へ積み替えられていく。けれど、荷車が足りないのか、検査を終えた荷が桟橋の脇に積み上がったまま、行き先を待っていた。車輪の鳴る音は、ところどころで途切れては、また動き出す。
ふと、沖へ目を向けた。
初日の夕方、岸壁に並んでいた船の向こう側。沖の水面には、帆を畳んだ船がさらに何隻も錨を下ろしていた。接岸の順番を待っているのだろう。薄明かりの中に、いくつもの船影がじっと浮かんでいる。
検査所の脇に立つ柱には、小さな貼り紙が打ち付けられていた。検査の手伝いを募る内容のようだ。
私は貼り紙の前で足を止めた。文字は簡潔で、募集する人数や期間までは分からない。検査に関わる仕事を手伝う者を求めているらしい。港の規模を考えれば、人手が必要になること自体は不思議ではなかった。
その列の途中に、荷車へ腰を掛け、帳面を睨んでいる人影があった。見覚えがある。
「……ターデさん」
声をかけると、帳面から顔を上げた商人が目を丸くした。
「おや、ルミネス様じゃありませんか。こんな朝早くに、これは珍しい」
彼は荷車の縁から腰を浮かせ、慌てたように帳面を閉じて膝に置いた。日に焼けた顔に、あのよく笑う目元は変わらない。けれど、今朝はその下に、少し疲れが見えた。腰の道具袋も、心なしか重そうだ。
「少し用事の帰りに立ち寄ってみました。ターデさんこそ、こんな時間から早いのですね」
「早いも何も、これが遅いほうなんですよ。船が着いてから、もう三日になりますが、仕入れ荷がまだ受け取れずにおりまして」
彼は荷車の上を軽く叩き、大きく息をついた。荷車には、封をされた木箱が積まれている。
「船、ですか。陸路で町々を回っておられると思っていました」
「陸路が主ですがね。品物によっては、船で運んでもらうこともあるんですよ。量が多かったり、距離があったりしますでしょう」
「海路まで使って取引を……。思っていたより、ずっと大きな商いをなさっているのですね」
「いやいや、大きいなんてものじゃありません」
ターデは照れくさそうに頭をかいた。
「船主さんに頼んで、荷を載せる枠をいただいているだけですよ。ただ、荷がどこにあるかは把握しておかないといけませんからな。……もっとも、把握していても、今はどうにもならないんですが」
彼は膝の上の帳面を指先で叩き、苦笑した。
「船が着く。荷を降ろす。荷札を確かめる。検査を受ける。そこまでの流れは普通なんですがね。検査の順番が、いつまでたっても回ってこない」
「あの窓口の列ですか」
私が封蝋を読み上げている窓口へ目を向けると、ターデは小さく頷いた。
「ええ。あそこは、魔道具の混じった荷を見る窓口でしてな。番号と封を一つずつ照らし合わせますでしょう。あそこが詰まると、後ろ全部が止まります」
彼は指を二本立てて見せた。
「別の検査所にも似た窓口があるんですが、そちらも同じような具合でして。魔道具を扱う仲間が、検査待ちだけで二日かかったとぼやいておりましたよ。ここ数か月で、特に細かくなりまして」
「何かきっかけがあったのでしょうか?」
「さて、そこまでは。役人さんに尋ねても、決まった手順に従っているとしか教えてくれませんでね。何かあったのかもしれませんが、私ら商人には分かりませんな」
ターデは肩をすくめた。
「ただ、この状況ですから、検査官は増やしたようなんですがね。あっちの貼り紙もそのためでしょう。まあ、でも船の増え方がそれ以上のようで。戦が終わってから、人も荷も一気に入るようになりました。港の設備も人手も、追いついておりません」
「検査をする人だけ増やしても、周りの手が足りないのでは?」
「おっしゃるとおりで。検査官とは別に、荷の運搬や帳面の整理、荷札の確認を手伝う補助員が必要なんだそうです。検査そのものを任せるわけにはいきませんから、役人の仕事を支える人間が要るのでしょうな」
「確かに町に入るときも、役人と検査官だけではありませんでしたね」
「ええ。人を増やしたからといって、荷を運ぶ人間や帳面を扱う人間まで十分に揃うわけではありません。あの貼り紙は、そのあたりの不足を補うためでしょう」
私はもう一度、貼り紙へ目を向けた。
検査をする手だけが増えても、その前後の仕事が追いつかなければ、全体の流れは止まってしまう。どこの港でも、どこの工房でも、何度か目にしてきたことだ。ただ、この港でそれがどの程度起きているのかは、まだ分からない。
「倉庫も、ですか。保管する量の問題だけでしょうか?」
「違うんですな、これが」
ターデは荷車の持ち手を握り直した。
「検査を通っても、倉庫が一杯で荷車ごと待たされるのですよ。荷車が足りないから荷が桟橋に溜まる。その脇で、次の船が荷を降ろす。堂々巡りです」
そのとき、列がぐいと動いた。ターデは荷車の持ち手を握り、車輪を数歩ぶんだけ進める。私も人の流れを避けながら、その横へ並んだ。
「こんな状況じゃ、生ものを扱う連中は特に気が気じゃないでしょうな。干物や穀物ならともかく、魚や果物は待たせれば傷みますから。私の荷は傷みにくいものですから、まだ救われておりますよ」
「それでも三日となると困るでしょう?」
「そりゃあ困りますよ。荷が手元に戻らなければ、次の取引にも影響しますからね。買い手には、いつ渡せるのかと聞かれますし、こちらはいつ検査が終わるのか分からない。約束をしている相手には、待ってもらうしかありません」
「荷が届く日を決めておくことも難しいのですね。事前に仕入れておくのも、難しそうです」
「ええ。船が予定どおりに着いたとしても、検査がすぐに終わるのか、倉庫に入れられるのか、荷車が空くのか。どこで時間がかかるか分からないんです」
ターデは荷車の上に積まれた木箱を一度見上げた。箱の側面には、色のついた木札が結びつけられている。封は破られておらず、箱の角にも目立った傷はない。
「それでは、荷を運んできた方も、受け取る方も困りますね」
「そういうことです。港で働く人間も、商人も、買い手も、それぞれ待たされる。誰か一人だけが困っているわけじゃありません」
彼はそう言って、少しだけ苦笑した。
「まあ、待っている間にできることを探すしかありませんな。帳面の整理でもしておけば、荷が動き始めたときに少しは楽になりますから」
ターデは膝の上の帳面を開き、何かを書き足した。待ち時間を無駄にしないためなのだろう。商人らしい、現実的な対応だった。
「それは、大変ですね」
「大変ですとも。……ただね、誰が悪いというわけでもない」
ターデは列の先にある検査所へ目をやった。帳面の角を、親指でなぞっている。
「役人さんだって、手を抜いているんじゃない。むしろ、真面目にやっているから詰まるんでしょう。港が動けば、町も潤う。皆それは分かっています。ただ、分かっていることと、実際に回せることはまた別の話です」
以前、車列の中で聞いた言い回しによく似ていた。誰かを責めるのではなく、ただ見たままを並べるような口調だった。
「ああ、旅の方には関わりのない愚痴を、失礼しました」
「いえ、聞かせていただけて助かります。よろしければ、先日のように情報料は……」
「愚痴でお代をいただいては、商人の名折れですよ」
ターデは手を振って笑った。
「それに、今回は私のほうが、話を聞いていただいた側でしょう。ルミネス様のようなお方は、こういう話をちゃんと聞いてくださる。それだけでありがたいものです。まあ、こちらも商売ですから、待っている間にできることを探すしかありませんな」
私は岸壁の端に寄り、鞄から携帯用の小さな記録帳を取り出した。表紙の布が、潮風でわずかに湿っている。
船の数。検査所の窓口の数。魔道具を含む荷の待ち日数。荷車の不足。倉庫の空き。貼り紙の文言。見聞きしたことを、順に書き留めていく。解決しようとは思わなかった。まだ、何が足りないのかを知っただけだ。
記録する内容は、できるだけ分けておく。自分の目で見たことと、ターデから聞いたこと。同じ帳面に書いていても、それらが同じ確かさを持つわけではない。
検査所の窓口が三つあること。これは自分で確認した。魔道具を含む荷の検査に時間がかかっているというのは、ターデの話だ。別の検査所にも似た窓口があるというのも、彼が商人仲間から聞いたことだった。
ひとつの話を聞いただけで、港全体の状況を理解したつもりになってはいけない。けれど、こうして記録しておけば、後から別の人の話と照らし合わせることもできる。
「おや、なにを書き留めておいででしたか?」
「人の考えは、帳面に書けませんから。せめて数字くらいは」
「数字ですか。はは、帳面に書けないとは、町に入る前の私の台詞をお返しになりましたな」
ターデは楽しげに笑い、再び帳面へ目を戻した。列が荷車一台分だけ進む。彼は慣れた手つきで荷車を押し、顔だけこちらへ向けた。
「では、私はこのまま順番待ちに戻りますよ。ルミネス様、どうぞよい一日を」
「ターデさんも。よい日を」
軽く会釈すると、彼は片手を上げて応え、列の流れの中へ戻っていった。
私はその背中を少しだけ見送ってから、検査所へ視線を戻した。列は少しずつ進んでいるものの、まだ先は長そうだった。荷を運ぶ人々は、それぞれ自分の順番を確かめながら、列の動きに合わせて荷車を押している。
列の先を見つめる男は、何度も手元の荷札を確認していた。早く終わってほしいという気持ちが、指先の落ち着かなさに表れている。少し離れた女性は荷車の脇に腰を下ろし、隣にいる子どもへ水筒を渡していた。子どもは眠そうに目をこすりながら水を飲み、女性はその様子を見て小さく笑う。待つ時間を、どうにか過ごそうとしているのだろう。
また別の男は、列が動くたびに荷車を押し、止まるたびに肩を回していた。疲れを紛らわせるように近くの人へ話しかけているが、相手も会話の合間に何度も列の先を確認していた。
焦っている者もいれば、諦めたように腰を下ろしている者もいる。誰かと話して気を紛らわせる人もいれば、ただ黙って順番を待つ人もいた。そこにいる人々の表情はさまざまだった。
それでも、誰もが同じ場所で、同じ列の動きを待っている。自分の荷が通る順番を待ち、次の仕事へ進める時を待っていた。
港は動いている。けれど、すべてが同じ速さで動いているわけではない。
古い港では、小舟が次々と魚を運び、仲買たちが手際よく荷を分けていた。外港では、大きな船から荷が降ろされ、検査を待ち、運び出される順番を待っている。どちらも港の仕事であり、町の暮らしを支えていた。
扱うものや規模が違えば、必要な人手や設備も変わる。古い港で成り立っている手順が、そのまま外港でも通用するわけではないのだろう。
初日は、見たものをすべて記録に残す必要はないと思った。けれど、今日見たことは、残しておくべきだと感じた。
屋根の向こうから、最初の光が差し込んだ。
光は坂の上にある岬の塔の先端を橙色に染め、ゆっくりと港へ降りてくる。岸壁の石が、ほんのりと温まっていった。防波堤の灯台の火が静かに消える。港のあちこちから、人々の声が一段と大きくなった。
私は記録帳を鞄へしまい、服の包みを抱え直して港に背を向けた。
通りへ戻ると、先ほどよりも人の姿が増えていた。店先では商品を並べる準備が始まり、荷車を引く者たちの声も、あちこちから聞こえてくる。ほんの少しの間に、町はすっかり朝の顔へと変わっていた。
仕立て屋の店先に吊るされていた帆布を思い出す。あの店主は、船が増えたことで仕事が増えたと言っていた。港で働く人々も忙しそうではあったが、それぞれに仕事を続けている。港の混雑は、町のすべてを止めているわけではない。
むしろ、仕事が増えたことで助かっている人もいるのだろう。新しい船が来れば、荷を運ぶ仕事が生まれる。帆を繕う仕事も増える。港で売る品物が増えれば、商店にも客が訪れる。
けれど、その一方で、仕事が増えすぎて追いつかなくなることもある。忙しさは、必ずしも豊かさと同じではない。これまで訪れた港でも、そうした場面を見てきた。
私は包みを胸に寄せ、なるべく人とぶつからないように歩いた。中身が傷みやすいわけではないが、せっかく仕立ててもらった服だ。雑に扱うのは気が引ける。
港で見たものが、頭の片隅に残っていた。船の数も、列の長さも、荷車の足りなさも、記録には残した。けれど、どれもまだ点のままで、一本の線にはつながらない。
坂の途中で、ふと振り返った。朝日を浴びた港では、外港の船の帆が白く浮かび上がっている。沖で順番を待つ船は、まだ動いていなかった。
その向こうでは、小舟が一隻、港から離れていくところだった。古い港から出た船だろうか。朝の光を受けた水面に、小さな波紋が広がっていく。
港の中にも、いくつもの時間が流れている。早くから動き始める仕事もあれば、順番を待つ仕事もある。待つことが必要な場合もあれば、そのあいだに別の作業を進められることもある。
それらを、ひとつの言葉でまとめるのは難しい。
港で見たものは、まだ全体のほんの一部だ。あの場所には、あの場所なりの事情がある。もう少し、別の人からも話を聞いてみよう。