人は、死者を忘れることができるのだろうか。
その問いに、緑谷出久は答えを持っていなかった。
忘れたくない人がいた。
忘れてはいけない人がいた。
そして、忘れられないまま、それでも前へ進まなければならなかった人たちがいた。
かつて、世界は一度、終わりかけた。
人々の平穏を踏みにじり、社会の根幹を揺るがし、ヒーローという存在の意味さえ問い直させた戦い。誰もが知っているはずの名前が、恐怖と憎悪とともに世界中を駆け巡った時代。
その戦いから、十二年。
人々は傷を抱えながらも、少しずつ日常を取り戻していた。
瓦礫の山だった街には新しい建物が並び、かつて立ち入りさえ難しかった区域にも子供たちの声が戻っている。戦争を知らない世代が生まれ、かつての惨劇を歴史の教科書で学ぶ者も増えた。
それでも、世界から悲しみが消えたわけではない。
失われた命は戻らない。
遺された家族の心に空いた穴は、どれほど時間が経っても、完全に塞がるとは限らない。
だからこそ、人々は毎年、この日を大切にしていた。
戦いによって命を落とした者たちを悼み、生き残った者たちの歩みを確かめ、二度と同じ悲劇を繰り返さないと誓う日。
十三周年追悼式典。
その開催を明日に控えた、ある秋の日の朝。
緑谷出久は、自分の部屋の天井を見つめながら、人生で最も難しい戦いに挑もうとしていた。
少なくとも、本人は本気でそう思っていた。
「……よし」
ベッドの上で、出久は小さくつぶやいた。
時刻は午前六時二十三分。
目覚まし時計が鳴るまで、まだ七分もある。
昨夜は十二時前に寝た。睡眠時間は十分。朝食の材料も買ってある。明日の式典に関する確認事項は、昨夜のうちにすべて整理した。今日の予定にも、大きな問題はない。
完璧だった。
少なくとも、予定表の上では。
「……告白」
その二文字を口にした瞬間、出久は枕に顔を埋めた。
「うわあああああ……!」
叫び声は、幸いにも防音性の高い部屋の中で消えた。
いや、消えてくれたはずだった。
出久は勢いよく顔を上げ、扉の向こうに耳を澄ませた。
何も聞こえない。
よかった。
もし今の声を誰かに聞かれていたら、きっと面倒なことになっていた。
何しろ、相手は幼馴染みのように長い時間を共有してきた、大切な人なのだから。
「……落ち着こう。落ち着いて、順番に考えるんだ」
出久はベッドから起き上がり、机に向かった。
そこには、ノートが一冊置かれていた。
表紙には、几帳面な字でこう書かれている。
――お茶子ちゃんに伝えたいこと。
「…………」
出久は無言でノートを閉じた。
駄目だ。
こういうことは、分析してどうにかなるものではない。
少なくとも、今の自分には。
戦闘なら、いくらでも考えられる。
敵の個性。攻撃の間合い。地形。周囲の状況。味方の配置。負傷者の有無。最悪の事態を想定した場合の撤退経路。
考えるべきことが明確であれば、いくらでも頭を動かせる。
けれど、相手の気持ちだけは違う。
どれほど考えても、本人に尋ねなければ分からない。
どれほど大切に思っていても、その思いが相手にとって同じ意味を持つとは限らない。
それでも。
それでも、伝えたいと思った。
十二年前。
世界が壊れかけていた頃。
自分が何を失うのかさえ、まともに考えられなかった頃。
それでも、手を伸ばした。
誰かが泣いているなら、助けたいと思った。
誰かが苦しんでいるなら、何とかしたいと思った。
その気持ちは、今も変わっていない。
けれど、今の出久には、もう一つだけ、どうしても伝えたい思いがあった。
君が笑っていると嬉しい。
君が悲しんでいると、胸が痛い。
君が頑張っている姿を見ると、自分も頑張ろうと思える。
そして、これから先も。
できることなら、ずっと隣にいたい。
「……よし」
出久はもう一度、自分に言い聞かせた。
「今日こそ、ちゃんと伝えよう」
窓の外では、朝日が街を照らし始めていた。
雲一つない、穏やかな朝だった。
まるで、これから起こることなど何一つ知らないかのように。
*
午前八時十五分。
東京都内、雄英高校。
かつて数え切れないほどの激戦が繰り広げられたこの場所も、今では平穏を取り戻していた。
校舎は改修を重ね、訓練施設も以前より安全性が高められている。生徒たちが学ぶ教室には新しい机が並び、廊下には卒業生たちの写真が飾られていた。
その中には、もちろん、緑谷出久の姿もある。
もっとも、本人は自分の写真を見るたびに、どこか居心地の悪さを感じてしまうのだが。
「おはよう、緑谷くん!」
「うわっ!」
背後から声をかけられ、出久は危うく手に持っていた書類を落としかけた。
振り返る。
そこにいたのは、麗日お茶子だった。
明るい表情。柔らかな笑顔。いつもと変わらない姿。
ただし、出久にとっては、そのいつもと変わらない姿こそが最大の問題だった。
「お、おはよう、お茶子ちゃん!」
「ふふっ。どしたん? なんか、めっちゃびっくりしとるけど」
「い、いや! 全然! びっくりしてないよ!」
「いや、びっくりしとったやん」
「そ、そうかな!?」
「そうやで?」
お茶子は不思議そうに首を傾げた。
出久は自分の頬が熱くなるのを感じた。
駄目だ。
まだ何も言っていないのに、すでに調子が狂っている。
そもそも、今朝は何度も練習したはずだった。
自然に挨拶をする。
普通に話す。
落ち着いて、相手の目を見る。
そして、頃合いを見て気持ちを伝える。
簡単だ。
頭の中では、驚くほど簡単だった。
「それで、緑谷くん。今日の打ち合わせなんやけど――」
「うん!」
声が裏返った。
「……緑谷くん?」
「ご、ごめん! 大丈夫! ちゃんと聞いてるよ!」
お茶子は数秒、出久の顔をじっと見つめた。
そして、ふっと笑った。
「なんか、今日の緑谷くん、変やね」
「へ、変!?」
「うん。いつもとちょっと違う感じ」
「そ、そんなことないと思うけど……」
「そっか?」
「うん!」
出久は全力で頷いた。
お茶子はますます不思議そうな顔をしたが、やがて手元の資料に目を落とした。
「まあ、ええか。それでな、式典の進行について確認したいことがあるんよ」
「あ、うん。どこかな?」
ようやく仕事の話になった。
出久は心の中で胸を撫で下ろした。
こういう話なら得意だ。
式典の進行表、警備体制、来賓の動線、会場周辺の安全確認。すべて把握している。
お茶子が資料を開く。
「ここなんやけど、慰霊碑の前で一般の人たちが献花する時間、もう少し余裕を持たせられへんかな?」
「うん。僕もそう思ってたんだ。特に、ご遺族の方たちは時間をかけて献花したいだろうし、混雑を避けるためにも――」
出久は説明を始めた。
話し始めると、いつもの調子が戻ってくる。
お茶子も真剣に耳を傾け、ときどき質問を挟んだ。
やがて、二人の間には穏やかな空気が流れ始めた。
仕事の話をしているときは、自然に話せる。
昔からそうだった。
互いに困っていることがあれば相談し、分からないことがあれば一緒に考え、何かを成し遂げたときには笑い合う。
戦いの中で、何度も命を預け合ってきた。
何度も、失うかもしれないと思った。
それでも、二人はここまで歩いてきた。
「……ありがとう、緑谷くん。やっぱり相談してよかったわ」
資料を閉じたお茶子が、にっこりと笑った。
「緑谷くんって、昔からこういうところ、ほんまに頼りになるよね」
「えっ……そ、そんな……」
「ううん。ほんまやで」
お茶子は真っすぐに出久を見つめた。
「私、緑谷くんと一緒に仕事できるん、すごく嬉しいんよ」
その言葉に、出久は一瞬、何も言えなくなった。
嬉しい。
ただ、その一言が。
どうしてこんなにも胸に響くのだろう。
出久は何かを言おうとした。
けれど、そのとき。
「おーい! お二人さん!」
聞き覚えのある声が、廊下に響いた。
「朝っぱらから何を二人で仲良く話し込んでやがる!」
爆豪勝己だった。
相変わらずの鋭い目つきと、遠慮というものをどこかに置き忘れてきたような物言い。
ただし、十二年前と比べれば、表情にはわずかな落ち着きがあった。
もちろん、本人に言えば全力で否定するだろうが。
「か、勝己くん!?」
「爆豪くん、おはよう!」
「おう」
爆豪は二人の手元にある資料を見て、眉をひそめた。
「式典の打ち合わせか?」
「うん。進行について、少し確認してたんだ」
「なら、さっさと終わらせろ。まだ警備の最終確認が残ってんだろ」
「そうだけど……」
「そうだけど、じゃねえ。明日は人が集まる。何かあってからじゃ遅えんだよ」
言い方は相変わらずだった。
けれど、出久には分かる。
爆豪が何を考えているのか。
明日の式典には、多くの人々が集まる。
戦争で家族を失った人。友人を失った人。ヒーローに救われた人。そして、かつての戦いを知る者も、知らない者も。
その一人一人にとって、明日は大切な日なのだ。
絶対に、何事もなく終わらせたい。
爆豪も、そう思っている。
「……そうだね」
出久は頷いた。
「もう一度、会場周辺の確認をしておくよ」
「最初からそうしろ、デク」
「うっ……」
「あと、明日の予定に私情を持ち込むんじゃねえぞ」
「えっ?」
出久の身体が固まった。
お茶子がきょとんとする。
「私情?」
「……何でもねえ」
爆豪は鼻を鳴らした。
「行くぞ。まだ確認する場所が残ってんだろ」
「あ、うん。分かった」
出久はお茶子に向き直った。
「じゃあ、お茶子ちゃん。また後で」
「うん。また後でね、緑谷くん」
お茶子は笑顔で手を振った。
出久も手を振り返す。
そして爆豪の後を追いながら、そっと息を吐いた。
「……勝己くん、もしかして」
「あ?」
「い、いや、何でもないです」
「気色悪ぃ喋り方すんな」
「ご、ごめん……」
爆豪はしばらく黙って歩いていたが、やがて低い声で言った。
「……で?」
「え?」
「いつ言うんだよ」
「…………」
出久は足を止めた。
爆豪は振り返り、苛立たしげにこちらを見た。
「まさか、まだ決めてねえとか言わねえよな?」
「い、いや、その……」
「おい」
「き、今日……」
「今日?」
「今日、伝えようと……思ってて……」
声が、最後の方で小さくなった。
爆豪は数秒、出久を見つめた。
そして。
「……チッ」
舌打ちした。
「だったら、さっさと言え」
「う、うん……」
「何年引っ張ってんだ、てめえは」
「そ、それは……」
「言い訳すんな。伝えたいことがあんなら、伝えろ。相手の気持ちがどうとか、失敗したらどうとか、ぐだぐだ考えてる暇があんなら、まず自分の気持ちにケリつけろ」
出久は、思わず顔を上げた。
爆豪は真っすぐ前を向いていた。
「……伝えなかったことを、後悔するくらいならな」
その言葉に、出久は黙り込んだ。
爆豪はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、歩く速度を少しだけ緩めた。
出久はその隣を歩きながら、胸の奥に残った言葉を繰り返していた。
伝えなかったことを、後悔するくらいなら。
その言葉は、出久自身が何度も考えてきたことだった。
けれど、他人から言われると、どうしてこんなにも重いのだろう。
かつて、言葉にできなかったことがある。
助けを求めることができなかった人がいる。
もっと早く気づいていれば。
もっと強く手を伸ばしていれば。
もっと違う言葉をかけていれば。
そう考えたところで、過去は変わらない。
だからこそ、今度は。
今度こそ、伝えたいことを伝えよう。
出久は静かに拳を握った。
その決意が、どれほど小さく、個人的なものであっても。
誰かを想う気持ちは、世界を救うことと同じくらい、真剣であっていいはずだった。
*
同じ頃。
日本から遠く離れた南極大陸。
人の営みから切り離された、白と黒だけの世界で。
風が吹いていた。
大地を覆う雪を巻き上げ、氷の裂け目を鳴らし、何十年、何百年という時間をかけて積み重なった静寂を、容赦なく引き裂く風だった。
そこには、人間の姿はない。
観測基地からも遠く離れた場所。
衛星による観測でさえ、異常を検知することが難しい領域。
その地下深く。
氷の下に、何かがあった。
それは建造物と呼ぶには、あまりにも巨大だった。
自然物と呼ぶには、あまりにも不自然だった。
人類が知るどの文明の様式にも当てはまらない、幾何学的でありながら、どこか生物の骨格を思わせる構造体。
壁とも、殻とも、棺ともつかない物質が、地中に広がっている。
その中心に、一つの影が横たわっていた。
女の姿をしていた。
白い肌。
閉じられた瞼。
長い髪。
そして、生命の気配がまったく感じられない身体。
彼女の周囲には、無数の細い線が張り巡らされていた。
それは神経のようでもあり、糸のようでもあり、あるいは世界そのものに伸びる根のようでもあった。
線の一本一本が、遥か遠くへと続いている。
氷の下から大地へ。
大地から海へ。
海から空へ。
そして、空の向こうへ。
どこまでも。
どこまでも。
その女の身体は、長い間、動かなかった。
心臓もない。
呼吸もない。
脳波もない。
生命という概念を当てはめるならば、彼女はすでに死んでいた。
それでも。
その指先が、わずかに動いた。
ピクリ、と。
ほんの一瞬。
見間違いだと言われれば、それで済んでしまうほどの動きだった。
だが、次の瞬間。
地下空間を満たしていた無数の線が、一斉に震えた。
音はなかった。
それでも、何かが起こったことだけは確かだった。
氷の奥で、光が灯る。
青でも、赤でも、白でもない。
人間の目が色として認識することに、そもそも意味があるのかさえ分からない光。
女の瞼が、ゆっくりと開いた。
「…………」
彼女は、しばらく天井を見つめていた。
そこにあるのは、分厚い氷。
さらにその上には、雪。
そして、その向こうに広がるはずの世界。
女はそれらを見ていなかった。
彼女の視線は、物質を通り抜け、距離を超え、時間の流れに沿って、どこか遠い場所を見つめていた。
彼女の唇が、かすかに動く。
「……ああ」
声が漏れた。
その声は、長い眠りから覚めた人間のものとは思えなかった。
懐かしむような響きがあった。
失望するような響きもあった。
そして、何よりも。
ひどく冷たい響きがあった。
「……そう」
女は、何かを確かめるように目を閉じた。
無数の線を通じて、世界を探る。
かつて、自分が送り出したもの。
自分が育て、観察し、利用してきたもの。
その存在を探した。
世界の裏側にまで伸びる、目に見えない繋がり。
そこに、かつて確かに存在していたはずの気配。
しかし。
見つからなかった。
どこにも。
どれほど探しても。
その存在は、もうなかった。
「…………」
女は沈黙した。
怒りはなかった。
驚きもなかった。
ただ、予想していなかった事実を前にして、ほんの少しだけ考え込んでいるようだった。
やがて、彼女は小さく笑った。
「……失敗したのね」
誰に向けた言葉なのか。
それは、彼女自身にも分からなかったのかもしれない。
あるいは、分かっていたからこそ、そう口にしたのかもしれない。
女は身体を起こした。
氷の奥で、構造体が軋む。
何千年もの時間をかけて築かれた沈黙が、少しずつ崩れていく。
「仕方ないわ」
彼女は呟いた。
「なら、もう一度……」
その先の言葉は、まだ誰にも届かなかった。
けれど、彼女の周囲に張り巡らされていた線が、一斉に脈打った。
世界のどこかで、何かが目を覚ます。
ある場所では、古い墓標の下で。
ある場所では、長い間、誰にも触れられなかった遺品の傍らで。
ある場所では、家族が何年も祈り続けてきた写真の前で。
それは、まだ誰にも知られていなかった。
世界は、何も変わっていないように見えた。
人々は朝食を食べ、仕事へ向かい、学校へ行き、明日の予定を話し合っていた。
ヒーローたちは街を守り、警察は犯罪を取り締まり、病院では医師たちが命を救っていた。
誰もが、明日も今日と同じように世界が続くと信じていた。
その信頼は、決して愚かなものではない。
人間が生きていくために必要なものだった。
明日が来ると信じること。
明日も大切な人に会えると信じること。
明日も、今日と同じように笑えると信じること。
そうでなければ、人は前へ進めない。
だからこそ。
その信頼が崩れる瞬間は、あまりにも残酷だった。
女は、再び目を開いた。
そして、世界の彼方へ向けて、囁いた。
「さあ……始めましょう」
氷の奥で、何かが笑った。
*
午後一時四十分。
追悼式典の会場では、着々と準備が進んでいた。
会場の中心には、大きな慰霊碑が設置されている。
そこに刻まれた名前は、数え切れない。
ヒーロー。
警察官。
医療従事者。
一般市民。
戦いに巻き込まれ、命を落とした人々。
その一人一人に、人生があった。
夢があった。
帰りを待つ人がいた。
誰かを愛し、誰かに愛されていた。
名前の数だけ、物語があった。
出久は慰霊碑の前に立ち、刻まれた文字を見つめていた。
風が吹く。
遠くで、設営スタッフの声が聞こえる。
明日の式典に向けて、準備はほとんど整っていた。
「……すごい数だな」
出久は呟いた。
何度も見てきた。
何度も、ここに足を運んだ。
それでも、名前を一つ一つ目で追うたびに、胸の奥が重くなる。
彼らは、もういない。
どれだけ世界が復興しても。
どれだけ人々が笑えるようになっても。
この場所に刻まれた名前が消えることはない。
「緑谷くん?」
背後から声がした。
振り返ると、お茶子が立っていた。
「こんなところにおったんやね」
「うん。ちょっと、確認したいことがあって」
「そっか」
お茶子は慰霊碑に目を向けた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
風の音だけが、静かに流れていく。
「……私ね」
先に口を開いたのは、お茶子だった。
「昔は、こういう場所に来ると、どうしても考えてしまうことがあったんよ」
「考えてしまうこと?」
「うん。もし、あのとき違うことができていたら、とか。もっと早く気づいていたら、とか。もっと強かったら、とか」
出久は、黙って聞いていた。
「でも、最近は少しだけ、違う考え方もできるようになったんよ」
お茶子は、慰霊碑に刻まれた名前を見つめたまま続けた。
「亡くなった人たちのことを、悲しい思い出だけにしたくないなって」
「……うん」
「もちろん、悲しいよ。今でも、すごく悲しい。でも、それだけやと、なんだか……その人たちが生きていた時間まで、悲しいものやったみたいに思えてしまうから」
彼女は、少しだけ笑った。
「だから、ちゃんと覚えていたいんよ。楽しかったことも、嬉しかったことも、その人が誰かを助けたことも。どんな人やったのか、何を大切にしていたのか」
出久は、彼女の横顔を見つめていた。
「そうしたら、きっと……悲しいだけじゃなくなると思うから」
その言葉を聞いたとき、出久は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
お茶子は変わった。
いや、変わったというよりも。
ずっと考え続けてきたのだろう。
誰かを救うこと。
誰かの心に寄り添うこと。
自分に何ができるのか。
その答えを、少しずつ見つけてきたのだ。
「……お茶子ちゃんは、すごいね」
「えっ?」
「僕、まだ、そんなふうに考えられないことがあるから」
「そんなことないよ」
お茶子はすぐに首を振った。
「緑谷くんだって、ずっと考えてきたやん」
「でも……」
「でも、やないよ」
お茶子は、少しだけ頬を膨らませた。
「緑谷くんは、いつも自分に厳しすぎるんよ。もっと、自分のことも大事にしてええと思う」
「……うん」
「ほんまに?」
「う、うん」
「ほんまにほんま?」
「ほ、本当だよ!」
お茶子は笑った。
その笑顔を見た瞬間、出久は思った。
やっぱり、伝えたい。
いつか、ではなく。
落ち着いたら、でもなく。
いつか世界が完全に平和になったら、でもなく。
今。
今、自分が生きているこの時間に。
伝えたい。
「あの、お茶子ちゃん」
「ん?」
「僕……」
言葉が喉につかえた。
心臓が、うるさい。
何を言おうとしているのか、自分が一番よく分かっているはずなのに。
「……僕、明日」
「明日?」
「明日、式典が終わったら……少し、時間をもらってもいいかな」
お茶子は目を瞬かせた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「うん。ええよ」
「……ありがとう」
「何の話かは、まだ教えてくれへんの?」
「えっ!? あ、いや、その……」
お茶子が、いたずらっぽく笑った。
「ふふっ。分かった。楽しみにしとるね」
出久は、顔が熱くなるのを感じた。
だが、不思議と、先ほどまでのような恐怖はなかった。
まだ、伝えてはいない。
それでも、ほんの少しだけ前へ進めた気がした。
お茶子が隣にいる。
同じ景色を見ている。
明日も、会う約束をした。
それだけで、十分だった。
今は。
今だけは。
世界が、このまま続いていくと信じられた。
*
午後二時十三分。
南極大陸の地下深くで、死神は立ち上がった。
彼女の身体を覆っていた薄い膜が、音もなく剥がれ落ちる。
白い肌に、黒い影が走った。
それは衣服のようでもあり、皮膚の一部のようでもあった。
死神は、自分の手を見つめた。
指を動かす。
手首を回す。
身体の感覚を確かめる。
長い眠りの後に、身体の機能を一つずつ取り戻すような動作だった。
「……ふうん」
彼女は呟いた。
世界は、思っていたよりも変わっていた。
人類は生き延びていた。
それどころか、かつての予想を超える速度で発展している。
個性は広がり、社会の隅々にまで浸透していた。
人間は、力を得た。
力を使い、力を競い、力によって社会を形作ってきた。
そして、力を持たない者たちもまた、その世界の中で生きる道を探してきた。
興味深い。
彼女は、そう思った。
だが、それ以上に気になることがあった。
彼女が探していた男。
かつて、人類の歴史に大きな影響を与えた存在。
彼女の計画において、重要な役割を担うはずだった存在。
その男は、もういない。
単に死んだのではない。
彼女の認識では、存在の痕跡そのものが断たれている。
それは、想定外だった。
「オール・フォー・ワン……」
死神は、その名を口にした。
声に出しても、返事はない。
当然だった。
彼は、もうこの世界にいないのだから。
「あなたが消えるなんてね」
死神は、わずかに首を傾げた。
怒りはない。
悲しみもない。
ただ、計画を変更する必要がある。
それだけだった。
「なら、代わりを用意しなくちゃ」
死神は、指を一本立てた。
その指先に、小さな黒い光が灯る。
光は、ゆっくりと広がっていった。
球体になり、薄い膜になり、やがて複雑な紋様を描き始める。
その紋様は、文字に似ていた。
だが、人類が使用するどの言語にも属していなかった。
意味を持つ記号でありながら、意味を理解するための前提そのものが異なる。
人間がそれを見たとしても、正しく読むことはできないだろう。
いや。
読むという行為自体が、適切ではないのかもしれない。
それは、世界に刻み込まれた命令だった。
死神は、その紋様を見つめた。
「八つ……」
小さく呟く。
「八つの願い。八つの欠落。八つの欲望」
彼女は、ゆっくりと笑った。
「人間って、本当に面白いわね」
その言葉に、嘲りはなかった。
むしろ、奇妙な愛情に近いものがあった。
人間は弱い。
すぐに迷い、傷つき、失敗する。
それでも、何かを求めることをやめない。
愛を求める。
力を求める。
理解を求める。
過去を取り戻そうとする。
未来を支配しようとする。
その欲望こそが、人間を動かす。
ならば。
その欲望を利用すればいい。
死神は、黒い光を握り潰した。
光は霧散し、無数の粒子となって地下空間へ広がっていった。
その粒子は、氷を通り抜けた。
大地を通り抜けた。
海を越え、空を越え、世界の各地へと散っていった。
誰にも見えない。
誰にも聞こえない。
しかし、それは確かに届いていた。
ある者の夢に。
ある者の記憶に。
ある者の、決して癒えることのない悲しみに。
死神は、目を閉じた。
「さあ……」
その声は、祈りのように静かだった。
「帰っていらっしゃい」
世界のどこかで、土が動いた。
誰も気づかないほど、小さな動きだった。
墓石の下で、指先が震えた。
閉じられた瞼の奥で、意識の残滓が揺れた。
そして、長い間、途絶えていたはずの何かが。
再び、世界とつながった。
死者が帰ってくる。
その奇跡が、始まろうとしていた。
誰も知らないまま。
誰も疑わないまま。
明日も今日と同じように続くと信じている、この世界で。
死神は、最後に一度だけ、呟いた。
「……待っていてね」
その視線は、南極の氷を超え、遠い日本へと向けられていた。
そこには、緑谷出久がいる。
かつて、彼女の計画を狂わせた男の意志を継ぎ、世界を救った少年。
そして、彼女がこれから始める計画において、決して無視することのできない存在。
死神は、彼の名を口にした。
「緑谷出久」
その声が、氷の奥へと消えていく。
「あなたは、何を選ぶのかしら」
南極の空には、雲が広がり始めていた。
風が強くなる。
氷が軋む。
世界は、まだ静かだった。
だが、その静寂の下で。
何かが、確かに動き始めていた。
――第一話・了