1.祈りの場所
午後六時四十七分。
東京都立雄英高校。
正門前に集まっていた人々の数は、夕方になっても減らなかった。
むしろ、増えていた。
仕事を終えた者たちが駆けつけていた。
遠方から、帰ってきた家族に会うために訪れた者たちがいた。
報道規制を突破してきた記者たちもいたが、それ以上に多かったのは、花を抱えた一般市民だった。
十三年前。
世界を救うために命を懸けた人々がいた。
ヴィランとの戦いで命を落としたヒーローがいた。
名前も知られず、記録にも残らず、それでも誰かを守ろうとした人々がいた。
そして今日。
その中の何人かが、帰ってきた。
だから、人々は帰らなかった。
奇跡を信じているからではない。
奇跡を信じられないからでもない。
ただ、そこに立っていたかったのだ。
もう一度、会えるかもしれない。
もう一度、名前を呼べるかもしれない。
もう一度、あの日に伝えられなかった言葉を届けられるかもしれない。
そんな願いを抱えて。
「……寒くなってきたな」
爆豪勝己が、首を鳴らした。
「そろそろ帰れって言った方がいいんじゃねえのか」
「警備側からも、順次帰宅を促しています」
飯田天哉が答える。
「しかし、無理に追い返すわけにもいきません。特に、帰還者と再会したご家族については……」
「分かってる」
爆豪は、正門前の人々を見た。
小さな男の子が、父親らしい男性の肩に乗っている。
女性が、亡くなったはずの母親に毛布を掛けている。
老夫婦が、互いの手を握りながらベンチに座っている。
それぞれが、それぞれの時間を過ごしていた。
十三年分の空白を、どうにか埋めようとしていた。
「……クソ面倒くせえ状況だな」
「爆豪くん」
緑谷出久が隣に立った。
「何だ」
「寒いなら、中に戻った方がいいよ」
「うるせえ。テメェこそ顔色悪いぞ」
「えっ、そうかな?」
「そうだよ。死にかけの幽霊みてえな顔してやがる」
「そ、それは言いすぎじゃ……」
「鏡見ろ、クソナード」
爆豪は舌打ちし、緑谷の額を指で弾いた。
「痛っ!」
「飯食ったのか」
「……食べました」
「何を」
「パンを……」
「何個」
「一個……」
「舐めてんのか、テメェは!」
怒鳴り声が響く。
周囲にいた職員が、びくりと肩を震わせた。
緑谷は慌てて両手を振る。
「いや、あの、今は食欲があまりなくて……!」
「食欲がねえから食わねえんじゃねえ。食わねえから食欲がなくなるんだろうが!」
「それは医学的に正しいのかな……?」
「知るか!」
いつもの光景だった。
あまりにも、いつもどおりだった。
緑谷は苦笑した。
その笑顔を見て、爆豪は一瞬だけ黙った。
「……デク」
「うん?」
「今日、何が起きた」
唐突な問いだった。
緑谷の笑顔が消える。
「……何って」
「黒い霧だの、死者が暴れただの、オール・フォー・ワンの顔をした化け物だの。聞いてるだけで頭がおかしくなりそうな話ばっかりだ」
爆豪は、正門の向こうを見た。
「だが、テメェの様子が一番おかしい」
「……」
「何か知ってんだろ」
緑谷は答えなかった。
正確には、答えられなかった。
知っていることはある。
暗闇の中で、幼い自分と向き合った。
黒い霧が、自分の名前を呼んだ。
そして、自分の中に何かが残っていると言った。
しかし、それが何なのか分からない。
個性はない。
ワン・フォー・オールもない。
それなのに、何かが自分を見つけている。
その事実だけが、胸の奥に残っていた。
「……ごめん、かっちゃん」
「謝れとは言ってねえ」
爆豪は即座に言った。
「分かんねえなら、分かんねえって言え。知ってるなら、知ってるって言え。テメェが一人で考え込んで、勝手に答えを出すな」
「……うん」
「それと」
爆豪は、緑谷を睨んだ。
「また一人で突っ込んだら、今度こそぶっ飛ばす」
「……はい」
「返事が小せえ!」
「はい!」
そのやり取りを、少し離れた場所から麗日お茶子が見ていた。
彼女は、ほっとしたように微笑んだ。
世界は、変わってしまった。
死者が帰ってきた。
人間の身体を侵食する黒い何かが現れた。
そして、世界のどこかに、人間の理解を超えた存在がいる。
それでも。
彼らは、彼らのままだった。
怒鳴る爆豪。
謝る緑谷。
心配する麗日。
それぞれが、これまで生きてきた時間を持っている。
それは、誰かに与えられたものではない。
神が作ったものでもない。
死神が取り戻したものでもない。
彼ら自身が、選び、失い、積み重ねてきたものだ。
だからこそ。
誰にも、それを勝手に書き換えさせるわけにはいかなかった。
「……ねえ、出久くん」
麗日が二人に近づいた。
「ん?」
「少しだけ、時間をもらってもいい?」
「もちろん」
爆豪が、露骨に顔をしかめた。
「おい、俺は?」
「かっちゃんは、少し離れていてもらえると……」
「何でだよ!」
「え、えっと……その……」
麗日の頬が赤くなる。
緑谷も、何かに気づいたように固まった。
爆豪は二人を見比べた。
数秒。
そして。
「……あー、はいはい」
彼は額に手を当てた。
「そういうことかよ」
「か、かっちゃん!?」
「うるせえ。好きにしろ。だが五分だ。十分も待たせやがったら、二人まとめて引きずって帰る」
「ええっ!?」
「返事!」
「はい!」
爆豪は、悪態をつきながらその場を離れた。
麗日は、緑谷を見上げた。
「……ごめんね。こんなときに」
「ううん」
緑谷は首を振った。
「こんなときだからこそ、話したいことがあるんだと思う」
彼女は、少しだけ笑った。
「うん」
そして。
「出久くん。私、怖いよ」
緑谷は、息を止めた。
麗日は、正門の向こうにいる人々を見つめていた。
「帰ってきた人たちが、本当に本人なのか分からないことも。いつ、誰が黒い霧に襲われるのか分からないことも。死神が何を考えているのか分からないことも」
彼女は、自分の手を握りしめた。
「それに……出久くんが、またいなくなるんじゃないかって」
「お茶子ちゃん……」
「出久くんは、誰かを助けようとすると、自分のことを後回しにするでしょう?」
彼女は、まっすぐに彼を見た。
「私は、そんな出久くんを尊敬してる。大好きだよ」
緑谷の顔が、一気に赤くなる。
「で、でも、あの……!」
「だけどね」
麗日は、彼の手を取った。
「私は、出久くんに助けられるだけの人になりたくない」
緑谷は、黙った。
「出久くんが誰かを救おうとするなら、私はその隣にいたい。出久くんが怖いなら、私も怖いって言いたい。出久くんが迷ったら、一緒に迷いたい」
彼女の手は、少しだけ震えていた。
「だから……一人でいなくならないで」
緑谷は、彼女の手を握り返した。
かつての自分なら、きっとこう答えただろう。
大丈夫。
僕が何とかする。
君は心配しなくていい。
自分が傷つけば済むことなら、自分が傷つけばいい。
だが。
今は、違う。
緑谷は、ゆっくりと息を吸った。
「……約束する」
「本当?」
「うん」
彼は、彼女を見た。
「僕は、もう一人で全部を救おうとはしない。分からないことは、みんなに相談する。危険なことがあったら、ちゃんと頼る」
「……うん」
「それで……」
緑谷は、顔を赤くしながら続けた。
「その、これからも……お茶子ちゃんと、一緒にいたい」
麗日の目が、見開かれた。
彼女の頬が、さらに赤くなる。
「……それって」
「う、うん。あの、僕……」
緑谷は、言葉を探した。
何度も頭の中で考えた。
何度も、言おうとした。
けれど、世界はいつも彼を待ってはくれなかった。
戦いがあった。
救わなければならない人がいた。
失われる命があった。
そして、今日も。
世界は、彼らの目の前で変わり続けている。
それでも。
だからこそ。
「僕は、お茶子ちゃんが好きだ」
言った。
ようやく。
彼は、言葉にした。
「ヒーローとしてだけじゃなくて。仲間としてだけじゃなくて……一人の人間として、お茶子ちゃんが好きなんだ」
麗日は、口元を押さえた。
目に涙が浮かんでいた。
「……ずるいよ」
「えっ!?」
「そんなときに言うなんて……ずるいよ、出久くん」
「ご、ごめん!」
「だから、謝らないでってば!」
彼女は笑った。
泣きながら。
「……私も」
緑谷が顔を上げる。
「私も、出久くんが好き」
その言葉は、小さかった。
けれど、確かだった。
「ずっと前から、好きだったよ」
緑谷は、目を見開いた。
そして。
「……そっか」
彼は、泣きそうな顔で笑った。
「そっか……」
十三年。
世界は、数え切れないほどの悲しみを経験した。
彼らもまた、多くのものを失った。
それでも。
失ったものだけが、人生のすべてではない。
戦いの中で出会った人がいる。
支え合った仲間がいる。
苦しいときに手を差し伸べてくれた人がいる。
そして。
これから一緒に歩いていきたいと思える人がいる。
それらは、死者が帰ってきたからといって、価値を失うものではない。
奇跡が起きたからといって、過去が消えるわけではない。
未来は、まだ続いている。
緑谷は、麗日の手を握った。
「……これからも、よろしくね」
「うん」
麗日は、笑った。
「こちらこそ」
その瞬間だった。
正門前に設置された照明が、一斉に消えた。
街灯。
校舎の窓。
警備用のライト。
携帯端末の画面。
周囲の明かりが、次々に消えていく。
「……え?」
誰かが声を上げた。
夜が来た。
いや。
夜よりも深い、何かが来た。
空を見上げた人々が、次々と息を呑む。
雲が、止まっていた。
風が、止まっていた。
遠くの車の音さえ、途切れた。
まるで、世界全体が呼吸を止めたかのようだった。
そして。
空の中央に、黒い亀裂が走った。
2.世界が、死者を拒んだ
亀裂は、最初、細い一本の線だった。
夜空に引かれた、墨の線。
しかし、それはすぐに広がった。
一本が二本に。
二本が十本に。
十本が、数え切れないほどの枝に分かれていく。
まるで、巨大なガラスが内側から砕けていくように。
「何だ、あれ……」
誰かが呟いた。
その声に答える者はいなかった。
空に、亀裂が走っている。
雲でもない。
光でもない。
何かが、空そのものを裂いている。
緑谷は、呆然と空を見上げた。
そして、理解した。
あの黒い線は。
帰還者の身体に現れたものと、同じだった。
「……まさか」
相澤の声が、背後から聞こえた。
彼もまた、空を見上げていた。
「全員、建物の中へ避難しろ!」
相澤が叫んだ。
「帰還者を優先して保護! 正門前の人間を誘導しろ! 通信班、全観測拠点と連絡を取れ!」
「了解!」
職員たちが動き始める。
ヒーローたちも、すぐに対応に入った。
飯田が走る。
轟が氷で避難経路を確保する。
爆豪が上空へ飛び、周囲の状況を確認する。
麗日は、転倒した人々を助け起こしながら、避難を促した。
「皆さん、落ち着いてください! こちらへ! 走らないで!」
混乱が広がる。
人々は空を見上げたまま、動けなくなっていた。
そのとき。
正門前にいた帰還者たちが、一斉に膝をついた。
「……っ!?」
緑谷は振り返った。
老人。
女性。
子供。
かつて亡くなったヒーローたち。
彼らの身体に、黒い亀裂が浮かび上がっていた。
それは、今までのものとは違った。
皮膚の下に走る黒い線ではない。
身体そのものが、内側から裂け始めている。
「痛い……!」
女性が叫んだ。
「いや……いやあああっ!」
帰還した青年が、頭を抱える。
「やめろ! やめてくれ! 俺は……俺は、まだ……!」
老人が、孫を抱きしめた。
「逃げなさい……!」
「おじいちゃん!?」
「早く……!」
その身体から、黒い霧が噴き出した。
緑谷は、走り出そうとした。
「先生!」
「待て、緑谷!」
相澤の声が響く。
「でも!」
「状況を見ろ!」
緑谷は、足を止めた。
黒い霧が、帰還者たちの周囲に広がっていた。
それは、ただの霧ではなかった。
霧の中から、無数の手が伸びている。
人間の手。
獣の手。
骨だけの手。
指の数が違う手。
そもそも、手と呼べるのか分からない形。
それらが、帰還者たちの身体を掴んでいた。
まるで、彼らをどこかへ連れ戻そうとしているかのように。
「……帰還者を回収している?」
緑谷が呟いた。
相澤は答えなかった。
彼にも、分からない。
だが。
次の瞬間。
黒い霧の中から、一人の男が現れた。
その姿を見た瞬間、緑谷は息を止めた。
男は、ヒーローの姿をしていた。
大きな盾。
重厚な装備。
人々を守るために、何度も前線に立った男。
かつて、超常解放戦線との戦いで命を落としたプロヒーロー。
クラスト。
彼は、帰ってきていた。
そして今。
彼の身体にも、黒い亀裂が走っていた。
「クラストさん……!」
緑谷が叫ぶ。
クラストは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、苦しみに満ちていた。
「……緑谷、少年……」
「しっかりしてください! 今、助けます!」
「駄目だ……」
クラストが、首を振った。
「近づくな……!」
彼の声が、震える。
「俺は……俺の中に……」
黒い霧が、彼の身体を覆った。
「……何かがいる……!」
緑谷は、歯を食いしばった。
「分かっています! だから――」
「違う!」
クラストが叫んだ。
その声に、緑谷は足を止めた。
「そいつは……俺の中にいるんじゃない……!」
クラストは、胸を押さえた。
「俺が……そいつの中に……!」
その瞬間。
黒い亀裂が、彼の全身を走った。
盾が砕ける。
装備が、黒い粒子へと変わる。
クラストの身体が、空中へ浮かび上がった。
それでも、彼は叫んだ。
「緑谷少年!」
「はい!」
「死者を……!」
声が、途切れる。
「死者を、信じるな……!」
黒い霧が、彼の顔を覆った。
「だが……!」
その奥から、最後の声が聞こえた。
「……死者を、見捨てるな……!」
そして。
クラストの姿が、消えた。
黒い霧の中へ。
空の亀裂へ。
どこか、人間の理解が届かない場所へ。
緑谷は、動けなかった。
信じるな。
見捨てるな。
相反する二つの言葉。
しかし、それは矛盾ではなかった。
疑うことと、見捨てることは違う。
信じることと、盲信することも違う。
死者を信じるな。
それは、死者がすべて本人ではない可能性を忘れるなということ。
死者を見捨てるな。
それは、本人であるか分からないからといって、目の前の苦しみを無視するなということ。
クラストは、最後までヒーローだった。
自分が何者か分からなくなりかけても。
自分の身体を奪われかけても。
彼は、誰かに伝えようとした。
そして、その言葉は。
緑谷の胸に、深く刻まれた。
3.死神、降臨
空の亀裂が、さらに広がった。
その向こう側から、何かが降りてくる。
最初は、影だった。
次に、輪郭。
そして。
一人の少女が、夜空に現れた。
白い髪。
赤い瞳。
黒い衣装。
少女は、空中に立っていた。
足場などない。
翼もない。
浮遊するための装置もない。
ただ、そこにいる。
まるで、世界の方が彼女の存在を認めているかのように。
少女は、地上を見下ろした。
その視線が、正門前の人々を捉える。
泣いている者。
逃げようとする者。
家族を抱きしめる者。
帰還した人々を守ろうとするヒーローたち。
そして。
緑谷出久。
少女の目が、彼に止まった。
「……見つけた」
声が響いた。
拡声器を通したわけではない。
空から聞こえたわけでもない。
その声は、そこにいる全員の頭の中へ、直接届いていた。
『死者を呼び戻した者よ』
相澤が、顔を上げる。
爆豪が、空中で動きを止める。
轟が、氷を展開したまま少女を見つめる。
緑谷は、彼女を見ていた。
その姿に、見覚えがあった。
暗闇の向こう。
自分の記憶の奥底。
あの場所で、誰かが自分を見ていた。
顔は覚えていない。
姿も、はっきりとは思い出せない。
それでも。
彼女の赤い瞳を見た瞬間。
緑谷は、理解した。
この少女は、ただの敵ではない。
彼女は、死者を呼び戻した存在だ。
そして。
彼女自身も、何かを知らない。
そのことが、なぜか分かった。
『私は、死神』
少女が名乗った。
『あなたたちが死と呼ぶ現象を管理し、終わりを迎えた命を観測する者』
その声に、感情は薄かった。
しかし、完全に無感情というわけでもない。
彼女は、地上の人々を見つめていた。
『私は、あなたたちの願いを聞いた』
黒い霧が、彼女の周囲を漂う。
『失った家族に会いたい』
『もう一度、生きたい』
『やり直したい』
『伝えられなかった言葉を伝えたい』
少女は、淡々と告げた。
『だから、私は扉を開いた』
その言葉に、誰かが叫んだ。
「ふざけるな!」
正門前にいた男性だった。
彼は、帰還した妻を失ったばかりだった。
「俺の妻を返せ!」
男は、少女を指さした。
「お前が連れてきたんだろう! なら、もう一度返せよ!」
少女は、彼を見た。
『あなたは、彼女を愛していた』
「当たり前だ!」
『彼女を失ったことで、あなたは苦しんだ』
「当たり前だろうが!」
『ならば、なぜ彼女を手放そうとする?』
男は、言葉を失った。
少女は続けた。
『あなたは、彼女に生きていてほしいと願った』
『彼女が苦しむ姿を見たくないと願った』
『彼女を取り戻したいと願った』
『私は、その願いを叶えた』
少女の赤い瞳が、わずかに揺れた。
『それなのに、あなたは拒絶する』
「違う……!」
男は、震える声で叫んだ。
「俺は……俺は、こんなことを望んだんじゃない!」
『何が違う?』
「俺は、妻に戻ってきてほしかった! でも、こんなふうに苦しんでほしかったわけじゃない!」
男の声が、夜空に響いた。
「俺は、妻に生きていてほしかったんだ! 俺のために苦しめなんて、言ってねえ!」
少女は、黙った。
その言葉を、理解しようとしているようだった。
男は、泣いていた。
「俺は……ただ……」
彼は、膝をついた。
「もう一度、あいつと飯を食いたかっただけなんだ……」
静寂が広がる。
少女は、彼を見つめていた。
そして。
「……そう」
小さく呟いた。
「あなたたちは、そうなのね」
その声には、初めて感情が混ざっていた。
困惑。
戸惑い。
そして、わずかな痛み。
「私は、願いを叶えれば、あなたたちは幸福になると思っていた」
少女は、自分の手を見つめた。
「失ったものを取り戻せば、悲しみは終わると思っていた」
彼女の指先に、黒い亀裂が走った。
「……でも」
少女は、顔を上げた。
「私が呼び戻したものは、本当に、あなたたちが望んだものだったの?」
誰も答えられなかった。
その問いは、あまりにも重かった。
願いは、叶えられた。
しかし、願いが叶うことと、幸福になることは同じではない。
死者が帰ってくることと、失われた時間が戻ることも同じではない。
彼女は、そのことを知らなかった。
そして。
今、初めて知ろうとしていた。
4.扉の向こう側
「……死神」
緑谷が、一歩前へ出た。
相澤が、すぐに彼の腕を掴む。
「緑谷、待て」
「先生。話をしないといけません」
「相手が話を聞くとは限らん」
「それでも……」
緑谷は、少女を見上げた。
「聞かなきゃいけないんです」
相澤は、彼の顔を見た。
そこには、恐怖があった。
当然だ。
目の前にいるのは、死者を呼び戻した存在。
世界中で発生している異常現象の中心にいる存在。
その背後には、さらに理解できない何かがいる。
戦えば勝てるかどうかも分からない。
そもそも、戦うことが正しいのかも分からない。
それでも、緑谷は前に出ようとしていた。
だが。
今度は、誰かに腕を掴まれる前に、彼自身が立ち止まった。
そして、相澤を振り返った。
「……先生」
「何だ」
「一緒に来てくれますか」
相澤は、一瞬だけ目を見開いた。
それから。
「ああ」
短く答えた。
「当然だ」
緑谷は、微笑んだ。
そして、再び空を見上げた。
「死神!」
少女の視線が、彼に向く。
「どうして、死者を呼び戻したんですか!」
問いかけは、まっすぐだった。
「あなたは、何を望んでいるんですか!」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
やがて、口を開いた。
『私は、知りたかった』
「何を?」
『あなたたちが、何を選ぶのか』
緑谷は、眉を寄せた。
『死者を取り戻したとき、人間は何をするのか』
『失ったものを手に入れたとき、人間は何を望むのか』
『もう一度、生きる機会を与えられたとき、人間はどんな未来を選ぶのか』
少女の声が、夜空に響く。
『私は、それを知りたかった』
「……そのために、人々を危険にさらしたんですか?」
『私は、危険にさらすつもりはなかった』
「でも、実際に苦しんでいる人がいます!」
『……』
「死者の中には、自分の身体を奪われている人もいる! 家族を守ろうとしている人もいる! 帰ってきたことを喜んでいたのに、また別れなければならなくなった人もいる!」
緑谷の声が震えた。
「あなたが何を知りたいのか、僕には分かりません。でも、その人たちは、あなたの実験のために生きているわけじゃない!」
少女は、黙っていた。
緑谷は、続けた。
「死者にも、願いがあります。生きている人にも、願いがあります。でも、その願いを、誰かが勝手に利用していいわけじゃない!」
彼は、拳を握りしめた。
「あなたが死者を呼び戻したのなら、どうか、彼らを助ける方法を教えてください!」
少女は、彼を見つめた。
『……あなたは』
彼女の声が、わずかに変わった。
『あなたは、何も持っていないのに、まだ誰かを救おうとするのね』
緑谷は、息を止めた。
『かつて、あなたは大きな力を持っていた』
『その力で、多くの命を救った』
『そして、力を失った』
少女は、彼の身体を見つめた。
『それでも、あなたはまだ、誰かを救おうとしている』
緑谷は答えなかった。
『なぜ?』
少女は尋ねた。
『力がないのに』
『勝てる保証もないのに』
『自分自身が傷つく可能性があるのに』
『なぜ、そこまでして、他人を救おうとするの?』
緑谷は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……分かりません」
正直に答えた。
「僕にも、全部は分かりません」
少女は、わずかに首を傾げた。
「ただ……」
緑谷は、正門前の人々を見た。
泣いている人。
手を握り合っている人。
誰かの名前を呼んでいる人。
そして、もう一度、誰かを失おうとしている人。
「僕は、誰かが苦しんでいるのを見て、何もしないままでいるのが嫌なんです」
彼は、少女を見上げた。
「助けられるかどうかは、分かりません。間に合うかどうかも分かりません。僕一人じゃ、どうにもならないこともあります」
そこで、彼は一度、言葉を切った。
「でも、だからって、何もしなくていい理由にはならないと思うんです」
少女は、黙っていた。
「それに、僕一人じゃなくてもいいんです」
緑谷は、隣に立つ相澤を見た。
その向こうにいる麗日を見た。
爆豪を。
轟を。
飯田を。
ここに集まった、すべての人々を。
「僕たちは、誰かを助けるために、一人で全部を背負う必要はない」
彼は、再び少女を見た。
「だから、あなたにも、考えてほしいんです」
『……私に?』
「はい」
緑谷は、頷いた。
「あなたが呼び戻した人たちを、どうすれば救えるのか」
そして。
「あなた自身が、本当は何を望んでいるのか」
その言葉に。
少女の赤い瞳が、大きく揺れた。
彼女は、初めて。
自分が問いかけられる側になった。
これまで、彼女は人間を観測してきた。
人間の願いを聞いた。
人間の行動を見た。
人間が何を選ぶのか、知ろうとしてきた。
だが。
誰かに、自分の願いを尋ねられたことはなかった。
自分が何を望んでいるのか。
何を求めているのか。
なぜ、死者を呼び戻したのか。
その答えを、彼女自身も知らなかった。
「……私の願い?」
少女は、呟いた。
その瞬間。
彼女の背後で、空の亀裂が大きく開いた。
黒い霧が、空から溢れ出す。
それは、これまでのものとは違っていた。
霧の中に、無数の顔が浮かんでいる。
死者たち。
帰還者たち。
あるいは。
死者ではない、何か。
そのすべてが、一斉に口を開いた。
『――願いなど、必要ない』
声が重なる。
『願いは、欠陥だ』
『願いは、苦しみを生む』
『願いは、世界を歪める』
少女の身体が、震えた。
『お前は、扉を開いただけだ』
『ならば、最後まで開いていろ』
『お前の役目は、そこにある』
黒い霧が、少女の身体を覆い始めた。
彼女は、苦しそうに胸を押さえた。
「……やめて」
『お前は、死神だ』
「……やめて!」
『死者を管理するものだ』
『願いを叶えるものではない』
『選択するものでもない』
『お前は、ただの扉だ』
少女の赤い瞳が、黒く染まりかける。
緑谷は、叫んだ。
「死神!」
少女が、こちらを向く。
「あなたは、扉なんかじゃない!」
その言葉に、少女の動きが止まった。
「あなたが何者なのか、僕には分かりません! でも、あなたが何をしたのかを、自分で考えようとしているなら……!」
緑谷は、声を張り上げた。
「あなたは、まだ選べるはずです!」
黒い霧が、激しく揺れた。
「誰かに言われたからじゃなくて! あなた自身が、何をしたいのかを選んでください!」
少女は、彼を見つめた。
その目に、わずかな光が戻る。
そして。
「……私は」
彼女は、初めて自分の言葉で答えた。
「私は……」
黒い霧が、彼女の喉元を覆った。
声が、途切れる。
しかし、彼女は続けた。
「私は……この人たちを……」
その瞬間。
世界が、震えた。
5.死者の向こう側
空の亀裂が、完全に開いた。
そこには、星がなかった。
宇宙が広がっているわけでもない。
暗闇があるわけでもない。
ただ、人間の感覚では認識できない何かが、そこに存在していた。
上下もない。
距離もない。
時間もない。
あるのは、無数の情報。
無数の可能性。
無数の生と死。
それらが、互いに重なり、混ざり合い、分かれていく。
そして、その中心に。
巨大な何かがあった。
それを生物と呼ぶべきなのか。
神と呼ぶべきなのか。
あるいは、存在という言葉そのものが適切ではないのか。
人間には、分からない。
その何かは、眠っていた。
長い、長い時間。
宇宙が生まれ、星が生まれ、生命が生まれ、文明が生まれ、滅びていく。
そのすべてを、夢として見ながら。
その夢の一部に、人間がいた。
小さな生物。
短い寿命。
限られた知覚。
わずかな力。
それでも、彼らは進化した。
自分たちの限界を超えようとした。
他の生物にはない力を獲得した。
個性。
それは、偶然の産物ではなかった。
少なくとも、完全な偶然では。
人間が個性を手に入れたことには、理由があった。
進化するため。
生き残るため。
そして。
いつか、対話するため。
巨大な何かは、人類を観測していた。
その観測は、善意ではなかった。
悪意でもなかった。
それは、夢を見る者が、自分の夢を理解しようとする行為に近かった。
人類がどこまで進化するのか。
どこまで自分自身を理解するのか。
どこまで世界の外側へ手を伸ばせるのか。
そして。
いつか、自分という存在を認識できるようになるのか。
その答えを知りたかった。
しかし。
人類は、まだそこに至っていない。
彼らは、個性を武器にした。
個性を権力にした。
個性を社会の基盤にした。
そして、個性を失うことを恐れるようになった。
それでも、人類は進化を続けた。
戦争を経験した。
絶望を経験した。
そして、何度も、自分たちの未来を選び直した。
その過程で。
緑谷出久という、一人の人間が現れた。
彼は、力を受け継いだ。
その力を使い、世界を救った。
そして、力を失った。
それでも、彼は誰かを救おうとした。
その矛盾。
その選択。
その意志。
それは、巨大な何かにとって、興味深いものだった。
力があるから、救うのか。
救えるから、救うのか。
それとも。
救いたいと願うことそのものが、人間を突き動かすのか。
巨大な何かは、その答えを知ろうとしていた。
そして今。
死神が、選択しようとしている。
人間を観測するために開いた扉を。
閉じるのか。
開いたままにするのか。
あるいは。
扉の向こうにいる何かと、対話するのか。
その選択は、死神自身のものだった。
だからこそ。
巨大な何かは、初めて、夢の中で意識を向けた。
人間たちへ。
死神へ。
そして。
緑谷出久へ。
その瞬間。
緑谷は、聞いた。
声ではなかった。
言葉でもなかった。
それでも、意味だけが直接、彼の意識に届いた。
――観測対象。
――応答を確認。
――進化段階、未到達。
――対話可能性、低。
――観測を継続する。
緑谷は、頭を押さえた。
「……っ!」
「出久くん!?」
麗日が、彼の身体を支える。
相澤が、すぐに近づいた。
「緑谷! どうした!」
「……今、声が……」
「声?」
緑谷は、空を見上げた。
亀裂の向こう。
何かが、こちらを見ている。
その視線には、憎しみがない。
怒りもない。
殺意さえない。
ただ、興味がある。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
人間を滅ぼそうとしている敵なら、まだ分かる。
人間を憎んでいる存在なら、戦う理由もある。
だが。
人間を何とも思っていない存在が、人間の未来を左右できるほどの力を持っていたら。
どうすればいいのか。
どう戦えばいいのか。
どうやって、その存在に人間の意志を理解させればいいのか。
緑谷には、分からなかった。
ただ。
その視線を感じた瞬間、彼は理解した。
死神は、最終的な敵ではない。
黒い霧も、すべての原因ではない。
オール・フォー・ワンの復活でもない。
この世界で起きている現象の背後には、さらに大きな何かがいる。
そして。
その何かは、まだ目覚めていない。
いや。
目覚める必要さえ、ないのかもしれない。
彼らにとって、人間の世界は、巨大な存在が見る夢の一部なのだから。
6.十三年目の祈り
黒い霧が、世界中から引いていった。
空の亀裂は、ゆっくりと閉じていく。
街の明かりが戻った。
風が吹き始めた。
止まっていた時間が、再び動き出した。
人々は、呆然としていた。
何が起きたのか、誰にも分からない。
死者たちの異常は、一時的に収まった。
黒い亀裂が消えた者もいた。
その場に倒れ込んだ者もいた。
そして。
帰還した人々の中には、姿を消した者もいた。
クラストは、戻らなかった。
真壁慎吾も、戻らなかった。
他にも、数え切れないほどの人々が、黒い霧と共に消えていた。
死者が帰ってきた。
そして、再び消えた。
その事実だけが、世界に残った。
緑谷は、地面に膝をついていた。
麗日が、隣で彼の肩を支えている。
相澤は、空を見上げていた。
爆豪が、ゆっくりと降りてくる。
轟が、氷を解除する。
誰も、すぐには話せなかった。
やがて。
「……デク」
爆豪が口を開いた。
「何を聞いた」
緑谷は、顔を上げた。
「……分からない」
「嘘つけ」
「本当に、分からないんだ」
緑谷は、空を見た。
「でも……」
彼は、ゆっくりと息を吸った。
「僕たちは、ずっと見られていたのかもしれない」
「何に?」
「……分からない」
爆豪は、舌打ちした。
「クソが。分からねえことばっかりじゃねえか」
「うん」
「死者が帰ってきた理由も分からねえ。黒い霧の正体も分からねえ。死神が何を考えてんのかも分からねえ。空の向こうにいた化け物が何なのかも分からねえ」
「……うん」
「だったら、調べるしかねえだろ」
爆豪は、緑谷を見た。
「分からねえからって、勝手に絶望してんじゃねえぞ」
緑谷は、思わず笑った。
「……うん」
「何笑ってやがる」
「いや……かっちゃんらしいなって」
「ぶっ殺すぞ」
「ご、ごめん!」
爆豪は、ため息をついた。
それから。
「……だが」
彼は、空を見上げた。
「今度の敵は、殴れば終わる相手じゃねえかもしれねえ」
その言葉に、緑谷は頷いた。
「そうだね」
「だったら、殴る以外の方法も考える」
爆豪は、拳を握った。
「だが、殴る必要があるなら、俺が殴る」
緑谷は、微笑んだ。
「うん。頼りにしてるよ」
「テメェも働けよ、クソナード」
「もちろん!」
そのやり取りを、相澤は静かに見ていた。
彼らは、まだ何も分かっていない。
それでも。
少なくとも、今はまだ。
彼らは、自分たちの意志を失っていない。
誰かに命令されているわけでもない。
何かに操られているわけでもない。
自分たちで考え、自分たちで選び、自分たちで歩こうとしている。
そのことが、何よりも重要だった。
相澤は、端末を取り出した。
「全員、聞け」
ヒーローたちが振り返る。
「本日発生した異常現象について、情報を整理する。帰還者の保護を最優先とし、黒い霧に関する事例はすべて記録しろ。行方不明者の捜索も開始する」
彼は、一度言葉を切った。
「そして、緑谷」
「はい」
「お前が聞いたという声についても、詳細に報告してもらう」
「……はい」
「ただし、今夜は寝ろ」
「えっ?」
「寝ろ」
「で、でも……」
「寝ろ」
「……はい」
相澤は、少しだけ目を細めた。
「明日も世界が終わっていなければ、続きを考える」
緑谷は、思わず笑った。
「……そうですね」
世界は、終わっていない。
少なくとも、今は。
人々は、再び歩き始めた。
泣きながら、家族を探す者。
帰還した人々の名前を記録する者。
負傷者の手当てをする者。
そして、消えてしまった人々のために、祈る者。
誰もが、自分にできることを探していた。
緑谷は、正門前に置かれた花を見つめた。
その中に、一枚の紙があった。
小さな子供の字で、こう書かれていた。
『おかあさん、またあいたいです』
緑谷は、目を伏せた。
その願いを、叶えたいと思った。
しかし。
その願いを叶えることが、本当に正しいのか。
もし、もう一度会えたとして。
もし、その人が本当に本人だったとして。
もし、また失うことになったとして。
それでも、人は願うのだろうか。
もう一度、会いたいと。
緑谷は、紙をそっと元の場所に戻した。
「……会えるといいね」
小さく呟いた。
その言葉が、誰に届いたのかは分からない。
けれど。
祈ることまで、誰かに奪わせるわけにはいかなかった。
7.死神の答え
南極。
氷の大地に、少女が立っていた。
彼女の周囲から、黒い霧は消えている。
しかし、彼女の指先には、まだ黒い亀裂が残っていた。
少女は、それを見つめた。
自分の身体が、何かに侵食されている。
それは、彼女自身にも分かっていた。
だが、今まで、そのことを深く考えたことはなかった。
自分は死神だ。
死者を管理する存在だ。
人間とは違う。
だから、自分が何者かを疑う必要などなかった。
そう思っていた。
しかし。
緑谷出久に、問いかけられた。
あなた自身が、本当は何を望んでいるのか。
その問いが、頭から離れなかった。
「……私は」
少女は、呟いた。
「何を望んでいるのかしら」
答えは、すぐには出なかった。
死者を呼び戻したかった。
人間が何を選ぶのか、知りたかった。
それは、本当だ。
しかし。
なぜ、知りたかったのか。
その理由が、分からなかった。
知ったところで、何が変わるのか。
人間がどれほど進化したところで、彼女の存在が変わるわけではない。
人間がどれほど強くなったところで、死神としての役目がなくなるわけでもない。
それなのに。
彼女は、知りたかった。
人間が、何を選ぶのか。
死者が、何を望むのか。
そして。
自分が、何を望んでいるのか。
「……あの人間」
少女は、緑谷出久を思い出した。
力を失った人間。
それでも、誰かを救おうとした人間。
彼は、彼女に問いかけた。
あなたは、何を望んでいるのか。
その問いは、彼女の中に残った。
そして。
少女は、決めた。
「……もう一度、会いに行こう」
彼女は、空を見上げた。
「今度は、観測するためじゃなくて」
赤い瞳が、静かに揺れた。
「話をするために」
その瞬間。
氷の下から、微かな振動が伝わった。
少女は、顔を上げた。
氷の奥。
深い、深い場所。
そこから、何かが呼びかけていた。
『――死神』
少女は、黙った。
『お前は、扉を閉じるつもりか』
「……分からないわ」
『お前が扉を閉じれば、観測は終わる』
「そうかもしれない」
『人類の進化は、停滞する』
「それでも」
少女は、答えた。
「彼らが、自分で選べない未来に意味はあるの?」
沈黙。
氷の奥から、返答はなかった。
少女は、続けた。
「私は、彼らの願いを叶えたつもりだった。でも、願いを叶えることと、彼らを幸福にすることは違った」
彼女は、自分の手を握った。
「なら、次は……彼らに選ばせるべきなのかもしれない」
『選ばせる?』
「ええ」
少女は、空を見上げた。
「死者を取り戻すのか。過去を手放すのか。何を守り、何を諦めるのか」
そして。
「それを、私が決めるべきではない」
氷の下で、何かが動いた。
世界のどこかで、無数の光が明滅した。
少女は、その反応を感じ取った。
自分の答えが、正しいのかどうかは分からない。
だが。
少なくとも、今は。
彼女は、自分の意志で選んだ。
それだけで、十分だった。
……そのはずだった。
『ならば、覚えておけ』
氷の奥から、声が響いた。
『選択には、必ず結果が伴う』
「……ええ」
『お前が扉を閉じれば、失われるものがある』
「分かっているわ」
『お前が扉を開けば、侵入するものがある』
少女は、黙った。
『どちらを選んでも、すべてを救うことはできない』
その言葉は、冷たかった。
しかし、少女は目を逸らさなかった。
「……それでも、選ぶわ」
彼女は、答えた。
「私が、選ぶ」
氷の奥から、声は消えた。
少女は、長い時間、そこに立っていた。
そして。
初めて、死神は祈った。
自分が呼び戻した者たちが。
自分が傷つけた者たちが。
自分が、まだ理解できていない人間たちが。
自分自身の意志で、未来を選べるように。
8.次の朝へ
翌朝。
世界は、まだそこにあった。
空は青かった。
太陽は昇った。
街は動き始めた。
電車が走る。
店が開く。
学校へ向かう子供たちが、歩道を歩く。
人々は、いつもの生活へ戻ろうとしていた。
しかし、世界は昨日までと同じではなかった。
世界中で、数え切れないほどの人々が行方不明になっている。
死者の帰還は、いったん停止したように見えた。
だが、帰還者の身体に現れた黒い亀裂は、完全には消えていない。
そして、何より。
世界の各地で、同じ夢を見たという人々が現れ始めていた。
果てしない暗闇。
無数の光。
そして。
人間には理解できない、巨大な何か。
その夢を見た者たちは、目覚めたあと、同じ言葉を口にした。
――こちらを見ている。
その言葉は、やがて世界中に広がることになる。
そして、数年後。
人類は、その存在をある名前で呼ぶようになる。
アザトース。
しかし、今はまだ。
その名を知る者はいない。
雄英高校。
緑谷出久は、窓の外を見つめていた。
机の上には、昨日の事件に関する資料が積み上がっている。
死者の帰還。
黒い霧。
死神。
そして、空の向こうにいた何か。
彼は、深く息を吐いた。
「……始まったばかり、か」
自分に言い聞かせるように呟いた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
麗日からのメッセージだった。
『おはよう、出久くん。ちゃんと寝られた?』
緑谷は、思わず笑った。
返信を打つ。
『おはよう、お茶子ちゃん。ちゃんと寝たよ。今日はみんなと一緒に調査を進めるつもり』
少し考えてから、もう一文を加えた。
『また後で、話そうね』
送信。
すぐに返事が来た。
『うん! 約束だよ!』
緑谷は、スマートフォンを机に置いた。
そして、立ち上がる。
力はない。
未来も分からない。
敵の正体さえ、分からない。
それでも。
彼は、歩き出す。
仲間たちのいる場所へ。
自分が、これから守りたいと思う未来へ。
そして。
まだ誰も知らない、世界の真実へ。
十三年目の祈りは、終わった。
しかし。
人類の物語は、ここから始まる。
第一章 十三年目の祈り 完
死者は、なぜ帰ってきたのか。
死神は、何を望んでいるのか。
そして、人類は何のために、個性という力を与えられたのか。
答えは、まだ誰も知らない。
ただ一つ、確かなことがある。
奇跡は、与えられた。
その奇跡が、祝福なのか。
呪いなのか。
それを決める権利まで、神に渡すつもりはない。
これは、死者を取り戻す物語。
これは、失われたものと向き合う物語。
そして――人類が、自らの未来を選び取る物語。
第二章へ続く。
全七章170話超え予定です。お付き合いいただければ幸いです