僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

100 / 154
第八話 「名前を呼ぶことは、救いなのか」

第一節 名前のない朝

朝は、誰にでも平等に訪れる。

 

少なくとも、世界は長いあいだ、そのように振る舞ってきた。

 

窓から差し込む光は、昨日誰が泣いたのかを知らない。通りを走る車は、誰が二度目の人生を与えられたのかを気にしない。コンビニエンスストアの自動ドアは、生者と死者を区別せずに開く。

 

けれど、その朝。

 

雄英高校の仮設医療区画では、一人の少女が、名札のないベッドに座っていた。

 

白いシーツ。白い壁。白いカーテン。

 

そして、彼女の手首には、番号だけが記されていた。

 

患者番号零。

 

少女は、その数字を何度も見つめていた。

 

「……ゼロ」

 

口に出してみる。

 

数字は、音になった。

 

音は、空気を震わせた。

 

それでも、何も変わらなかった。

 

「ゼロ、ゼロ、ゼロ……」

 

何度呼んでも、それは自分の名前にはならなかった。

 

彼女は、手首をそっと握り込んだ。

 

「ねえ」

 

カーテンの向こうにいる誰かへ、声をかける。

 

返事はなかった。

 

「私って、誰なの?」

 

その問いに答えられる者は、まだ誰もいなかった。

 

あるいは。

 

答えられる者が、答えることを恐れていた。

 

雄英高校の会議室では、別の問題が起きていた。

 

「患者番号零を、通常の身元確認手順に戻すべきだ」

 

職員の一人が資料を掲げた。

 

「戸籍、個性登録、家族関係、出生記録。照合可能な情報を一つずつ洗い直す。身元が判明しない以上、保護対象としての分類にも限界がある」

 

「分類に限界があるから、番号で呼び続けるのか?」

 

相澤消太が言った。

 

声は低かった。

 

怒鳴ってはいない。

 

だからこそ、会議室にいた人間は、その言葉の重さを無視できなかった。

 

「本人の安全を確保するための措置だ」

 

「安全のために本人の意思を確認するんじゃなかったのか」

 

「もちろん確認する。ただ、本人が自分の名前を思い出せない場合、仮の識別番号が必要になる」

 

「識別番号は必要だろうな」

 

相澤は資料を見た。

 

「だが、識別番号を名前の代わりにする必要はない」

 

「同じことでは?」

 

「違う」

 

即答だった。

 

「番号は、こちらが管理するためのものだ。名前は、本来、その人が誰であるかを他人が決めつけないために使うものでもある」

 

「しかし、名前が分からないのなら――」

 

「分からないことと、存在しないことを混同するな」

 

会議室が静まり返った。

 

相澤は、資料の端を指で押さえた。

 

「こいつは、名前を忘れた。記録が消えている。家族が確認できない。だからといって、名前を持っていない人間になったわけじゃない」

 

その言葉は、彼自身に向けられているようでもあった。

 

白雲朧。

 

かつて、彼が呼んだ名前。

 

黒霧。

 

いま、彼が向き合わなければならない名前。

 

二つの呼び方は、同じ存在を指しているのか。

 

それとも、片方を呼ぶことで、もう片方を殺してしまうのか。

 

相澤には、まだ答えが出ていなかった。

 

だからこそ、答えが出ないことを理由に、他人の名前を奪いたくなかった。

 

「患者番号零という表記は、記録上の管理番号として残せばいい。本人に呼びかけるときは、本人が望む呼び方を確認する。それまでは、勝手に名前を与えない」

 

「本人が望む呼び方すら分からない場合は?」

 

「聞き続ける」

 

相澤は答えた。

 

「答えが返ってこないからといって、質問することをやめるな」

 

第二節 名前を与える者

「素晴らしいね」

 

会議室の隅から、乾いた声が響いた。

 

オール・フォー・ワンだった。

 

拘束下にあっても、彼の存在感は薄れない。

 

彼は、会議の資料を見ていたわけではない。誰の顔を見ていたわけでもない。

 

ただ、相澤の言葉を楽しんでいた。

 

「名前を与えないことが尊重だとするなら、名前を与えることは支配にもなる。君は、その境界を理解しているらしい」

 

「お前の意見は聞いていない」

 

「そう冷たくしないでくれ。私は、人間が名前にどれほど執着するかをよく知っているんだ」

 

オール・フォー・ワンは、指先を組み合わせた。

 

「名前を与えられる。役割を与えられる。能力を与えられる。使命を与えられる。人は、自分が何者なのかを他人から教えられると、案外簡単にそれを信じる」

 

「お前は、そうやって人間を支配してきたんだろう」

 

「支配という言葉は少し強いな。私は、彼らが望んだものを与えただけだ」

 

「望むように仕向けたことを、忘れたのか」

 

オールマイトの声が割って入った。

 

オール・フォー・ワンは、楽しげに顔を向ける。

 

「やあ、オールマイト。君はいつも、話を単純にしたがる」

 

「単純にしているのは君だ。誰かが助けを求めた。その弱さにつけ込んだ。それを願いを叶えたと呼ぶなら、世の中のあらゆる犯罪が慈善事業になってしまう」

 

「だが、君たちヒーローも名前を与える」

 

オール・フォー・ワンは言った。

 

「ヴィラン。犯罪者。救うべき者。救えなかった者。更生した者。危険人物。社会復帰可能な者。君たちは分類し、分類したものに応じて接する。違うのは、その分類を善意と呼んでいることくらいだ」

 

オールマイトは黙った。

 

反論できなかったからではない。

 

その言葉の中に、無視できない一片の真実があったからだ。

 

「だからこそ、俺たちは考え続ける」

 

やがて、オールマイトは言った。

 

「善意だから正しいと決めつけない。救いたいから相手の意思を無視していいとも考えない。間違えたなら、認めて修正する。君と俺たちの違いがあるとすれば、そこだ」

 

「修正できると思っているのかね?」

 

「修正しなければならないんだ」

 

オールマイトは、オール・フォー・ワンを見た。

 

「人間は、最初から正解を知っている存在じゃない」

 

その言葉に、会議室の空気が変わった。

 

安寧システムは、正解を必要としていた。

 

矛盾を取り除き、誤差を補正し、世界の不確定性を減らすことで平和を維持する。

 

だが、人間は正解を知らないまま生きている。

 

自分の名前さえ分からない者がいる。

 

何を望めばいいのか分からない者がいる。

 

そして、何を望んでも許されないと思い込まされた者がいる。

 

それでも、彼らは生きている。

 

「ところで」

 

オール・フォー・ワンは、ふいに話題を変えた。

 

「患者番号零に、誰が最初に名前を与えたのか。君たちは考えたことがあるかい?」

 

相澤の目が細くなった。

 

「何が言いたい」

 

「記録が消えているのに、番号だけが残っている。出生記録がないのに、死亡記録がある。世界が生まれる前に死んだという記録さえある。これは、単なる欠落ではない」

 

彼は笑った。

 

「誰かが、その人物を管理しようとしたんだ。生まれる前からね」

 

「……」

 

「では、質問だ。名前を持つ前に管理された者は、いったい誰の所有物になるのだろう?」

 

オールマイトの拳が、わずかに握られた。

 

「誰のものにもならない」

 

彼は答えた。

 

「人間は、誰かの所有物じゃない」

 

「それが真実なら、世界はずいぶん多くの罪を抱えていることになる」

 

オール・フォー・ワンの笑みは消えなかった。

 

「君たちが思っているよりも、ずっと古い罪をね」

 

第三節 お兄ちゃん

緑谷出久は、病室の前で立ち止まっていた。

 

扉の向こうにいるのは、患者番号零。

 

妹かもしれない少女。

 

妹だと確かめられたわけではない。

 

記録は欠落している。母の記憶も曖昧で、出生の証拠もない。安寧システムが何かを消した可能性はあるが、それが少女の存在を意味するのか、まだ分からない。

 

それでも、出久はここまで来た。

 

扉の前で、深呼吸する。

 

一度。

 

二度。

 

三度目で、ようやくノックした。

 

「……どうぞ」

 

声が返ってきた。

 

出久は扉を開けた。

 

少女はベッドの上で膝を抱えていた。

 

こちらを見た瞬間、目を見開く。

 

出久も、息を止めた。

 

似ている。

 

顔立ちが、というだけではない。

 

相手が何かを言おうとしたとき、先に言葉を探してしまうところ。

 

相手の表情を読み取ろうとして、読み取りすぎてしまうところ。

 

自分が何を感じているのかより、相手が何を感じているのかを先に考えてしまうところ。

 

それらが、奇妙なほど似ていた。

 

もちろん、似ているからといって兄妹とは限らない。

 

出久は、自分に言い聞かせた。

 

決めつけてはいけない。

 

期待を押しつけてはいけない。

 

この少女は、彼の妹であると証明するために存在しているわけではない。

 

彼女自身の人生を持った、一人の人間だ。

 

「こんにちは」

 

出久は言った。

 

「僕は、緑谷出久。……君と話をしたくて来たんだ」

 

少女は、しばらく彼を見ていた。

 

「緑谷……出久」

 

名前を繰り返す。

 

「うん」

 

「あなたが、私を探していた人?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

探していた。

 

確かに、そうだ。

 

けれど、彼は彼女の存在を知る前から、彼女を探していたわけではない。

 

彼女がいるかもしれないと知り、会いたいと思った。

 

それは、探していたと言えるのだろうか。

 

「……君のことを、知りたいと思ったんだ」

 

出久は答えた。

 

「君が僕の妹なのか、まだ分からない。でも、もしそうなら会いたかった。もし違ったとしても、君がどういう人なのか知りたい」

 

少女は、うつむいた。

 

「どうして?」

 

「どうして、って?」

 

「どうして、私を知りたいの?」

 

出久は考えた。

 

「……分からない」

 

正直に答えた。

 

少女が顔を上げる。

 

「分からないの?」

 

「うん。たぶん、僕は自分勝手なんだと思う。君が妹だったらいいなって思っている。でも、それは僕の願いで、君がどう思うかとは別のことだから」

 

「妹じゃなかったら?」

 

「それでも、君は君だよ」

 

「私が、誰なのか分からなくても?」

 

「うん」

 

「私が、何も覚えていなくても?」

 

「うん」

 

「私が、あなたのことを好きにならなくても?」

 

その問いは、幼い子どもが投げかけるには、あまりにも切実だった。

 

出久は、胸が痛くなった。

 

彼女は、名前を知らない。

 

自分の過去を知らない。

 

自分が誰かに愛されていたのかも、誰かを愛していたのかも分からない。

 

それでも彼女は、すでに知っているのだ。

 

自分が誰かの期待に応えられなければ、居場所を失うかもしれないという恐怖を。

 

「それでも、君は君だよ」

 

出久は、もう一度言った。

 

「僕を好きにならなくてもいい。僕を兄だと思わなくてもいい。今は、何も答えなくていい」

 

少女は、彼の顔を見つめていた。

 

「……変なの」

 

「よく言われる」

 

「そんなこと、言ってもいいの?」

 

「何が?」

 

「好きにならなくてもいい、って」

 

出久は、言葉を失った。

 

少女は続けた。

 

「私、ずっと、誰かが私を呼んでいる気がしていたの。名前を呼ばれるの。こっちにおいでって。ここにいていいよって。……でも、声が聞こえるたびに、怖くなった」

 

彼女は自分の手首を見た。

 

「呼ばれたら、行かなきゃいけない気がしたから」

 

出久は、椅子を引いて座った。

 

少女との距離を、詰めすぎないように。

 

「その声は、誰の声だったんだろう」

 

「分からない」

 

「そっか」

 

「でも……」

 

少女の指が、シーツを握る。

 

「一つだけ、覚えていることがあるの」

 

「うん」

 

「誰かが、泣いていた」

 

出久の心臓が、強く脈打った。

 

「誰かが、ずっと泣いていたの。私を呼んでいるのに、私の名前を呼ばないの」

 

少女は、困ったように笑った。

 

「おかしいよね。名前が分からないのに、名前を呼んでほしいって思っているの」

 

「おかしくないよ」

 

出久は、ほとんど反射的に答えていた。

 

「名前が分からなくても、誰かに呼んでほしいと思うことはあるよ。自分がここにいるって、誰かに気づいてほしいことだってある」

 

「……あなたも?」

 

出久は、目を伏せた。

 

無個性だった頃。

 

ヒーローになれないと言われた頃。

 

自分の夢を笑われた頃。

 

誰かに名前を呼ばれるたび、その名前の後ろに、何かしらの評価がくっついていた気がした。

 

無個性の緑谷。

 

役に立たない緑谷。

 

夢見がちな緑谷。

 

そして、ヒーローになった後でさえ。

 

緑谷出久という名前は、誰かの期待や希望を背負うための記号になっていった。

 

彼は、誰かを救うことに夢中になっていた。

 

そのせいで、誰かに自分自身を見てほしいと願うことを、いつの間にか忘れかけていたのかもしれない。

 

「……僕も、そうだったのかもしれない」

 

出久は言った。

 

「でも、今は違う。僕は、君に何かをしてほしくて来たんじゃないんだ」

 

「じゃあ、何をしに来たの?」

 

「君と話をしに来た」

 

少女は、少しだけ目を丸くした。

 

「それだけ?」

 

「うん。それだけ」

 

「……変なの」

 

また、同じことを言った。

 

けれど今度は、ほんの少しだけ声が柔らかかった。

 

出久は、笑った。

 

少女は笑わなかった。

 

まだ、笑えなかった。

 

それでも彼女は、出久が帰ろうとしたとき、彼の袖をつかんだ。

 

「ねえ」

 

「うん?」

 

「……また、来てもいい?」

 

出久は、彼女の手を見た。

 

彼女が、自分から彼を引き止めた。

 

兄としてではない。

 

妹としてでもない。

 

ただ、一人の人間として。

 

もう一度話したいと思った相手として。

 

「もちろん」

 

出久は答えた。

 

「また来るよ」

 

少女は、袖を離した。

 

そのとき。

 

彼女の唇が、かすかに動いた。

 

「……おにい、ちゃん」

 

出久は、動けなくなった。

 

少女自身も、驚いたようだった。

 

「今……私、何て言ったの?」

 

出久は、何も答えられなかった。

 

その呼び方が、記憶から出てきたものなのか。

 

誰かに植えつけられたものなのか。

 

彼女が、いま初めて選んだ呼び方なのか。

 

まだ、分からない。

 

だから出久は、彼女に「そうだよ」と言わなかった。

 

「……今、そう呼んでくれたね」

 

それだけを伝えた。

 

少女は、唇に指を当てた。

 

「お兄ちゃん……」

 

もう一度、声にする。

 

その言葉は、彼女の中にある何かを揺らした。

 

けれど、記憶は戻らなかった。

 

名前も戻らなかった。

 

ただ、涙が一粒、頬を伝った。

 

「……なんで、泣いているんだろう」

 

彼女は、泣きながら尋ねた。

 

出久は答えなかった。

 

分からなかったからだ。

 

けれど、彼はそこにいた。

 

理由を説明できない涙の前で、正解を急がずに。

 

それが、いま彼にできることだった。

 

第四節 名前を呼ばない救い

同じ時刻。

 

死神は、記録保管庫の最深部にいた。

 

彼の前には、何もない。

 

棚もない。

 

扉もない。

 

床さえ、あるのかどうか分からない。

 

ただ、暗闇の中に一つの記録が浮かんでいた。

 

最初の死者。

 

名前――欠落。

 

出生――世界創造以前。

 

死亡――世界創造時。

 

原因――世界の成立。

 

最終意思――世界を、私の知らない未来へ進ませて。

 

死神は、その記録を見つめていた。

 

「……お前は、誰だ」

 

問いかけても、返事はない。

 

彼は手を伸ばした。

 

触れる直前で、止める。

 

記録を復元することはできる。

 

システムの権限を使えば、欠落した情報を読み出せる可能性がある。

 

だが、その情報が本人の意思によって消されたものだったなら。

 

復元は、救いになるのか。

 

それとも、もう一度その人物から何かを奪う行為になるのか。

 

「私は、あなたが最初に忘れた人」

 

以前、聞いた声がよみがえる。

 

死神は、目を閉じた。

 

「……お前は、私に思い出してほしいのか」

 

沈黙。

 

「それとも、忘れたままでいてほしいのか」

 

沈黙。

 

「私は、お前を知らない」

 

彼は言った。

 

「記録を見ても、思い出せない。お前の名前も、顔も、声も。お前が私に何をしたのか、私がお前に何をしたのか。それさえ分からない」

 

暗闇の奥で、何かが揺れた。

 

「それでも、お前が存在したことを、私は知った」

 

死神は、記録に手をかざした。

 

「だから、聞かせてくれ。お前が何を望んでいるのか」

 

彼は、記録を開かなかった。

 

「私は、真実を知りたい。自分が何者なのか知りたい。自分が何を忘れたのか知りたい」

 

一度、言葉を切る。

 

「だが、私が知りたいという理由だけで、お前の記憶を奪い返すことはしない」

 

それは、死神自身の願いだった。

 

忘れたものを取り戻したい。

 

失われた名前を知りたい。

 

自分が犯した罪があるなら、それを知って責任を負いたい。

 

しかし、それらの願いが正しいからといって、相手の意思より優先してよいわけではない。

 

「お前が話したくないのなら、話さなくていい」

 

死神は、静かに告げた。

 

「名前を思い出したくないのなら、思い出さなくていい」

 

暗闇が、わずかに震えた。

 

「……それでも、あなたは私を探すの?」

 

声がした。

 

幼いとも、老いているともつかない声。

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

「探す」

 

やがて、彼は言った。

 

「ただし、見つけたお前を私のものにするためではない」

 

「……」

 

「お前が、まだ何かを伝えたいと思っているのなら。私は、それを聞きたい」

 

しばらくして。

 

声は、震えながら尋ねた。

 

「名前を呼ばれなくても、人は救われるの?」

 

死神は、答えられなかった。

 

その問いは、あまりにも深い場所から来ていた。

 

名前を呼ぶことは、誰かを認めることになる。

 

お前はここにいる。

 

お前を見ている。

 

お前が存在したことを忘れない。

 

そう伝えることができる。

 

しかし、名前を呼ぶことは、相手を自分の記憶の中に閉じ込めることにもなる。

 

「お前は、名前を呼ばれたいのか?」

 

死神は尋ねた。

 

「分からない」

 

「そうか」

 

「でも、呼ばれなかったら、私は本当にいなくなってしまう気がする」

 

死神は、拳を握った。

 

「……それは、怖いな」

 

「あなたも、怖いの?」

 

「ああ」

 

彼は答えた。

 

「私は、自分が忘れたことが怖い」

 

「どうして?」

 

「忘れた理由が分からないからだ。忘れることが必要だったのかもしれない。忘れることで誰かを守ったのかもしれない。あるいは、忘れることで、自分が犯した罪から逃げたのかもしれない」

 

彼は、顔を上げた。

 

「だが、理由が分からないまま、忘れたことを正しいとは言えない」

 

「……」

 

「同じように、思い出すことが正しいとも言えない」

 

死神は、記録を見つめた。

 

「だから、私はお前に聞きたい。お前がどうしたいのか」

 

声は、長いあいだ沈黙していた。

 

そして。

 

「……まだ、分からない」

 

死神はうなずいた。

 

「なら、今はそれでいい」

 

「待っていてくれるの?」

 

「待つ」

 

「ずっと?」

 

「私にできる限りは」

 

暗闇の中で、何かが小さく笑った。

 

それは、喜びの笑いではなかった。

 

悲しみを抱えた者が、ようやく一人ではなくなったと感じたときの、かすかな息遣いに似ていた。

 

第五節 白雲朧と黒霧

相澤は、隔離区画の前で足を止めた。

 

扉の向こうには、黒霧がいた。

 

かつての教え子。

 

友人の姿を失い、別の存在として生み出された者。

 

彼を取り戻したいと思う気持ちは、今も変わらない。

 

だが、相澤はもう、取り戻すという言葉だけでは足りないことを知っていた。

 

「入るぞ」

 

返事はなかった。

 

相澤は扉を開けた。

 

黒霧は、椅子に座っていた。

 

紫色の霧が、彼の身体の輪郭を形作っている。

 

「……相澤先生」

 

その声を聞いた瞬間、相澤の胸が痛んだ。

 

声は、似ていた。

 

記憶の中の白雲朧に。

 

しかし、似ているから同じだと決めることはできない。

 

「話がある」

 

「私に、ですか」

 

「お前以外に誰がいる」

 

黒霧は、わずかに首を傾げた。

 

「私は、黒霧です」

 

「知っている」

 

「白雲朧ではありません」

 

「それも、聞いている」

 

相澤は、椅子を引いた。

 

向かい合って座る。

 

「俺は、白雲に戻ってほしいと思っていた」

 

黒霧は何も言わなかった。

 

「お前の中に白雲がいるなら、そいつを取り戻したいと思っていた。お前が白雲の記憶を持っているなら、その記憶を呼び覚ませば、あいつが戻ってくるかもしれないと思っていた」

 

「……」

 

「だが、それは俺の願いだ」

 

相澤は、自分の手を見た。

 

「俺は、白雲を失いたくなかった。だから、お前を見ていると、どうしてもあいつを探してしまう」

 

黒霧の霧が、わずかに揺れた。

 

「それは、間違いでしょうか」

 

「分からない」

 

相澤は答えた。

 

「ただ、俺が白雲を探すために、お前を黒霧として扱わないのなら、それは間違いだと思う」

 

黒霧は、長い沈黙の後で言った。

 

「私は、白雲朧の記憶を持っています」

 

相澤の呼吸が止まった。

 

「しかし、それが私の記憶なのか、私の中に保存された記録なのか、私には判断できません」

 

「……そうか」

 

「白雲朧の記憶を思い出すと、私は悲しくなります。彼が生きていたことを知っています。彼が友人を大切にしていたことも、ヒーローになりたかったことも知っています」

 

黒霧は、自分の手を見下ろした。

 

「ですが、その記憶を持っているからといって、私は彼になれるのでしょうか」

 

相澤は、答えを探した。

 

「なれないかもしれない」

 

黒霧が顔を上げる。

 

「……」

 

「なれるかもしれないとも言えない。俺には分からない。お前が何者なのか、俺が決めることじゃないからだ」

 

相澤は、黒霧をまっすぐに見た。

 

「俺は、白雲を忘れない。だが、お前に白雲になれとは言わない」

 

黒霧は動かなかった。

 

「……あなたは、私を憎んでいないのですか」

 

「憎んでいる」

 

相澤は即答した。

 

「お前を作り出したものを。白雲を奪ったものを。あいつの人生を利用したものを。……それから、何もできなかった自分を」

 

黒霧は、ゆっくりとうつむいた。

 

「では、私も憎まれるべきでしょう」

 

「お前が何をしたのかによる」

 

相澤は言った。

 

「お前が黒霧として選んだことは、お前自身の責任だ。だが、白雲が経験したことまで、お前の罪にするつもりはない」

 

「私は、白雲朧の罪を背負う必要はない?」

 

「必要があるかどうかを、俺が決めることじゃない」

 

相澤は、椅子から立ち上がった。

 

「お前が何を背負いたいのか、何を背負いたくないのか。それを考えろ。俺は、お前の代わりに決めない」

 

扉へ向かう。

 

その背中に、声がかかった。

 

「相澤先生」

 

振り返る。

 

黒霧は、わずかに身を乗り出していた。

 

「……白雲朧という名前を、もう一度聞かせてください」

 

相澤は、目を閉じた。

 

その名前を呼ぶことは、痛かった。

 

だが、今度は違った。

 

相手を自分の願いに閉じ込めるためではない。

 

忘れてはならない記憶を、忘れないために。

 

「白雲朧」

 

相澤は、はっきりと呼んだ。

 

「俺の友人だ」

 

黒霧の霧が、大きく揺れた。

 

「……ありがとうございます」

 

その言葉が、黒霧自身のものなのか。

 

白雲の記憶から生まれたものなのか。

 

相澤には分からなかった。

 

分からないまま、彼はその言葉を受け取った。

 

第六節 トガヒミコという名前

トガヒミコは、鏡の前に立っていた。

 

鏡の中の自分は、確かに自分だった。

 

顔も、髪も、目も。

 

自分のことは、分かっている。

 

けれど、自分が何者なのかと尋ねられたら、答えに詰まる。

 

吸血衝動を持った少女。

 

人の血を愛した少女。

 

好きな人になりたいと願った少女。

 

その願いを、誰にも理解してもらえなかった少女。

 

そして、誰かを傷つけた少女。

 

全部が自分だった。

 

どれか一つだけを選んで、それが本当の自分だと言うことはできない。

 

「……トガヒミコ」

 

彼女は、自分の名前を口にした。

 

鏡の中の自分は、何も答えない。

 

「トガヒミコ」

 

もう一度。

 

「トガヒミコ」

 

三度目。

 

「……ねえ」

 

鏡に手を伸ばす。

 

「私のこと、どう呼んでほしい?」

 

返事はなかった。

 

「怪物?」

 

指先が、鏡に触れた。

 

「殺人鬼?」

 

爪が、表面をこする。

 

「かわいそうな女の子?」

 

笑った。

 

「それとも、救われるべき人?」

 

笑い声は、途中で途切れた。

 

「……どれも、嫌だな」

 

彼女は鏡から手を離した。

 

「どれも、私の一部なのに」

 

扉が開いた。

 

麗日お茶子が立っていた。

 

「……トガちゃん」

 

トガは振り返った。

 

その呼び方を聞いた瞬間、心臓が痛くなった。

 

お茶子は、まだ自分をそう呼ぶ。

 

怪物でも、犯罪者でもなく。

 

トガちゃん。

 

けれど、その呼び方が、何を意味するのかは分からない。

 

「何しに来たの?」

 

トガは尋ねた。

 

「話をしに来た」

 

「また?」

 

「うん」

 

「私、まだ何も変わってないよ」

 

「知ってる」

 

「人を傷つけたことも、好きな人の血を欲しがったことも、全部覚えてる。……あなたが私を理解したって、私がしたことが消えるわけじゃない」

 

「うん」

 

「じゃあ、どうして来るの?」

 

お茶子は、しばらく考えた。

 

「トガちゃんの話を、最後まで聞きたいから」

 

トガは、目を細めた。

 

「最後まで?」

 

「うん」

 

「私が何を言っても?」

 

「全部を受け入れられるとは言えない」

 

お茶子は、逃げずに答えた。

 

「許せないこともあると思う。理解できないこともあると思う。だけど、話を聞く前から、あなたが何を考えているのかを決めたくない」

 

「……優しいんだね」

 

「優しくしたいだけじゃないよ」

 

お茶子の声が、少しだけ強くなった。

 

「私は、あなたが何を望んでいるのか知りたい。何をしたかったのか、何が欲しかったのか。あなたが、自分のことをどう思っているのか」

 

「そんなの、聞いてどうするの?」

 

「分からない」

 

お茶子は正直に言った。

 

「聞けば、何かが解決するとは思っていない。話せば全部分かり合えるとも思っていない。でも、分からないまま、あなたを分かったことにしたくない」

 

トガは、じっと彼女を見つめた。

 

「……私のこと、トガちゃんって呼ぶんだね」

 

「嫌だった?」

 

「分からない」

 

トガは、首を傾げた。

 

「その呼び方をされると、昔の私に戻れる気がするの。でも、昔の私に戻りたいのかどうか、分からない」

 

「……うん」

 

「私、あの頃の私も好きだった。好きな人の血を飲みたいと思うことも、好きな人になりたいと思うことも、嘘じゃなかった」

 

彼女の指が、胸元を握る。

 

「でも、あの頃の私は、好きな人が嫌がっても、自分の気持ちを押し通そうとしていた。相手がどう思うかなんて、考えられなかった」

 

トガは、お茶子を見た。

 

「それでも、私は私なのかな?」

 

お茶子は、すぐには答えなかった。

 

「……そうだと思う」

 

やがて、彼女は言った。

 

「間違ったことをしたからって、それまでのあなたが全部嘘になるわけじゃない。だけど、間違ったことをした自分を、なかったことにすることもできない」

 

「……」

 

「トガちゃんが自分のことをどう呼びたいのか、私には決められない。だけど、私はあなたを、あなたがしてきたことだけで呼びたくない」

 

トガの目から、涙がこぼれた。

 

「……ずるいよ」

 

「うん」

 

「そんなこと言われたら、私……」

 

言葉が途切れる。

 

お茶子は近づかなかった。

 

手を伸ばすこともしなかった。

 

抱きしめれば救えると思っていた頃の自分を、彼女はもう信じていなかった。

 

抱きしめることが救いになる人もいる。

 

けれど、触れられたくない人もいる。

 

だから、お茶子は待った。

 

トガが、自分から選ぶまで。

 

長い沈黙の後、トガは小さく尋ねた。

 

「……トガちゃんって、もう一回呼んで」

 

お茶子は、頷いた。

 

「トガちゃん」

 

トガは目を閉じた。

 

その名前は、彼女の罪を消さなかった。

 

過去を正当化しなかった。

 

傷つけられた人々の痛みを消しもしなかった。

 

それでも、彼女が怪物という一語だけで片づけられない人間であることを、思い出させた。

 

「……ありがとう」

 

トガは言った。

 

「でも、私が何をするかは、私が決めるから」

 

「うん」

 

「あなたが望む私になるつもりはないよ」

 

「うん」

 

「……それでも、話を聞いてくれる?」

 

お茶子は、静かに笑った。

 

「もちろん」

 

トガは、初めて鏡から目を離した。

 

自分の名前が、他人の口から出てくる。

 

それは救いなのかもしれない。

 

でも、それだけでは足りない。

 

名前を呼ばれた後、どう生きるのか。

 

誰かを傷つけた自分と、どう向き合うのか。

 

自分の願いを、他人の人生を奪わずに叶えることができるのか。

 

それを決めるのは、トガ自身だった。

 

第七節 ホークスの答え

ホークスは、廊下の窓から外を見ていた。

 

街は、いつもどおり動いている。

 

人々は仕事へ向かい、学生は学校へ向かい、店は開き、道路では車が流れている。

 

平和な朝だった。

 

けれど、その平和の中で、彼は一人の男の名前を考えていた。

 

トゥワイス。

 

二つの顔を持った男。

 

誰かの友達になりたかった男。

 

誰かに必要とされたかった男。

 

その願いを抱えながら、最後には、ホークス自身の手によって命を落とした男。

 

今、その男は戻ってきている。

 

記憶を持ったまま。

 

ホークスのしたことを覚えたまま。

 

「……何を話せばいいんだろうな」

 

独り言が漏れた。

 

「謝ればいいのか? あのときは仕方なかったって説明すればいいのか? お前を殺さなければ、もっと多くの人が傷ついたんだって……」

 

彼は、言葉を止めた。

 

そんな説明は、何度も頭の中で繰り返してきた。

 

正義のため。

 

被害を防ぐため。

 

他に選択肢がなかったから。

 

どれも、彼が当時判断した理由だった。

 

しかし、それらはトゥワイスが死んだという事実を変えない。

 

彼が、ホークスを信じていたという事実も。

 

「……俺は、ヒーローだから殺したんじゃない」

 

ホークスは、窓に映った自分を見た。

 

「ヒーローとして、殺すしかないと思ったんだ」

 

その違いは、どれほど大きいのだろう。

 

答えは、まだ出ない。

 

背後から足音が聞こえた。

 

「……ここにいたのか」

 

エンデヴァーだった。

 

ホークスは振り返った。

 

「はい」

 

「トゥワイスと会うのか」

 

「会わなきゃいけないと思っています」

 

「……そうか」

 

エンデヴァーは、隣に立った。

 

しばらく二人とも話さなかった。

 

やがて、エンデヴァーが言った。

 

「お前は、あの男を危険だと判断した」

 

「はい」

 

「判断は、間違っていなかったのかもしれない」

 

ホークスは、苦笑した。

 

「慰めてくれているんですか?」

 

「違う」

 

エンデヴァーは答えた。

 

「俺は、自分が犯したことを、正しかったと言い切ることで生きてきた。家族のためだ。未来のためだ。ヒーローになるためだ。そうやって理由を並べれば、間違いが消えると思っていた」

 

ホークスは、黙って聞いていた。

 

「だが、理由があったことと、傷つけたことが消えることは違う」

 

エンデヴァーは、拳を握った。

 

「お前がトゥワイスを殺した理由は、俺には分からない。お前が何を背負っているのかも、完全には分からない。だが、お前がその男の死を、正義という言葉だけで片づけようとしているなら、やめた方がいい」

 

ホークスは、目を閉じた。

 

「……はい」

 

「相手が許すかどうかは、相手が決めることだ」

 

エンデヴァーは言った。

 

「許されない可能性も含めて、自分が何をしたのかを見ろ」

 

ホークスは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「俺、ずっと思っていたんです」

 

「何をだ」

 

「いつか、ヒーローが必要なくなる世界が来ればいいって」

 

エンデヴァーは、黙っていた。

 

「誰かが傷ついてから駆けつけるんじゃなくて、傷つく前に助けられる世界。誰かがヴィランになってから捕まえるんじゃなくて、ヴィランにならなくても生きていける世界。誰もが、誰かを助けられる世界」

 

ホークスは、窓の外を見た。

 

「でも、俺はトゥワイスを助けられなかった」

 

言葉が、喉に引っかかった。

 

「助ける方法がなかったのかもしれない。俺には見つけられなかっただけなのかもしれない。……分からないんです」

 

「分からないままでも、考えることはできる」

 

エンデヴァーが言った。

 

「だが、過去を変えることはできない」

 

「はい」

 

「なら、過去を変えられなかった人間が、未来をどうするか考えろ」

 

ホークスは、少しだけ笑った。

 

「……厳しいですね」

 

「甘い言葉が必要なら、別の人間を探せ」

 

「いえ。これでいいです」

 

彼は、窓から離れた。

 

「会ってきます」

 

「そうしろ」

 

歩き出しかけて、ホークスは立ち止まった。

 

「エンデヴァーさん」

 

「何だ」

 

「俺の理想が、本当に実現したら……ヒーローは暇になりますかね」

 

エンデヴァーは、眉を寄せた。

 

「どういう意味だ」

 

「誰もが誰かを助けるようになれば、ヒーローが駆けつけなきゃいけない事件は減る。誰かが孤立する前に、誰かが気づく。誰かが壊れる前に、誰かが声をかける。そういう世界になれば、ヒーローの仕事は減るでしょう」

 

「……」

 

「それって、悪いことじゃないと思うんです」

 

ホークスは、笑った。

 

「ヒーローが暇になるくらい、みんなが誰かを助けられる世界。俺は、そういう未来が見たい」

 

エンデヴァーは、すぐには答えなかった。

 

「その世界を作るために、何をするつもりだ」

 

「まずは、目の前の相手の話を聞くことからです」

 

ホークスは、歩き出した。

 

「許されるかどうかは、相手が決めることですから」

 

第八節 帰る場所のない男

トゥワイスは、窓のない部屋にいた。

 

拘束されているわけではない。

 

ただ、誰も彼をどこへ連れていけばいいのか分からなかった。

 

彼には住所がない。

 

家族と呼べる者も、今すぐ会える者もいない。

 

戻ってきた記憶の中には、仲間たちの姿があった。

 

トガ。

 

死柄木。

 

スピナー。

 

そして、ホークス。

 

思い出すたびに、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。

 

「……最悪だ」

 

呟く。

 

「いや、最高だ! いや、最悪だ! どっちだよ、もう!」

 

自分の声が部屋に響く。

 

返事はない。

 

「誰か来いよ! 来るなよ! ……来てくれよ!」

 

彼は顔を覆った。

 

二つの声が、頭の中でぶつかる。

 

一人は、誰かに会いたいと言う。

 

もう一人は、誰にも会いたくないと言う。

 

一人は、ホークスを殺したいと言う。

 

もう一人は、ホークスが何を考えていたのか知りたいと言う。

 

「……俺、何がしたいんだろうな」

 

扉がノックされた。

 

トゥワイスは、跳ねるように顔を上げた。

 

「誰だ!」

 

「俺だ」

 

その声を聞いた瞬間、彼の身体が固まった。

 

ホークス。

 

「……帰れ」

 

扉の向こうから、返事があった。

 

「分かった」

 

足音が遠ざかる。

 

トゥワイスは、立ち上がった。

 

「待て!」

 

自分でも驚くほど大きな声だった。

 

足音が止まる。

 

「……入ってくるなよ」

 

「入らない」

 

「でも、そこにいろ!」

 

「分かった」

 

トゥワイスは、扉を見つめた。

 

扉の向こうに、ホークスがいる。

 

自分を殺した男。

 

自分を裏切った男。

 

それでも、最後の瞬間まで、自分に何かを伝えようとしていた男。

 

「……お前、俺をどう呼ぶんだ」

 

唐突な問いだった。

 

扉の向こうで、ホークスが息を呑んだ気配がした。

 

「トゥワイス」

 

答えは、すぐに返ってきた。

 

「……本名じゃねえぞ」

 

「知ってる」

 

「俺の名前は、トゥワイスじゃないかもしれねえ」

 

「そうかもしれない」

 

「じゃあ、なんでその名前で呼ぶんだよ!」

 

声が、裏返った。

 

「俺は、何なんだよ! お前は俺を何だと思ってんだ! ヴィランか? 殺人犯か? お前が殺した相手か? それとも……」

 

言葉が、続かなかった。

 

ホークスは、扉の向こうで静かに答えた。

 

「俺が知っている、お前の名前だからだ」

 

「……!」

 

「それ以外の意味を、勝手につけるつもりはない」

 

トゥワイスは、拳を握った。

 

「……ずるいだろ」

 

「そうかもしれない」

 

「お前は、いつもそうだ! 勝手に優しい顔をして、勝手にこっちを見て、勝手に決める!」

 

「……ああ」

 

「俺を殺したくせに!」

 

「……ああ」

 

「なんで否定しねえんだよ!」

 

「否定できないからだ」

 

ホークスの声は、震えていた。

 

「俺は、お前を殺した。俺の判断で。俺の手で。俺は、それをなかったことにはできない」

 

トゥワイスは、扉を睨みつけた。

 

「……謝れよ」

 

「すまなかった」

 

「……それだけかよ」

 

「それだけじゃない。でも、今の俺に言えるのは、それだ」

 

トゥワイスは、笑った。

 

笑おうとした。

 

けれど、喉から出てきたのは、壊れたような息だけだった。

 

「……許してほしいのか?」

 

「分からない」

 

ホークスは答えた。

 

「許してほしいと思っているのかもしれない。でも、許してほしいから謝っているんじゃない」

 

「じゃあ、何のためだよ」

 

「俺が、お前にしたことを認めるためだ」

 

沈黙。

 

長い沈黙。

 

トゥワイスは、扉に近づいた。

 

手を伸ばす。

 

触れる直前で、止める。

 

「……お前の顔、見たくねえ」

 

「分かった」

 

「でも、帰るな」

 

「分かった」

 

「……明日も来い」

 

ホークスは、すぐには答えなかった。

 

その沈黙が、トゥワイスには怖かった。

 

「……来てくれるのか?」

 

「来る」

 

ホークスは答えた。

 

「お前が来るなと言うまでは」

 

トゥワイスは、扉に額をつけた。

 

「……俺、どうすりゃいいんだよ」

 

ホークスは、答えを与えなかった。

 

「分からない」

 

彼は、静かに言った。

 

「一緒に考えることはできる。でも、俺が決めることじゃない」

 

トゥワイスは目を閉じた。

 

「……ほんっと、最悪だな」

 

「うん」

 

「……でも、明日も来い」

 

「分かった」

 

扉の向こうで、二人はしばらく動かなかった。

 

名前を呼ぶことは、過去を消さない。

 

謝罪は、罪を消さない。

 

再会は、失われた時間を戻さない。

 

それでも、明日もう一度会う約束はできる。

 

それが救いと呼べるのかどうかは、まだ誰にも分からなかった。

 

第九節 名前を返す者

その夜、安寧システムに異常が発生した。

 

異常は、数値として記録された。

 

復元対象の意思確認プロセスに、想定外の反応。

 

死者の記憶領域に、未登録の参照。

 

名前照合システムに、矛盾。

 

患者番号零の記録に、未知の更新要求。

 

そして、そのすべての根底で、一つの命令が繰り返されていた。

 

「名前を返せ」

 

命令の発信元は、不明。

 

権限認証も、不明。

 

システムは、命令を拒否した。

 

名前を返すには、元の記録が必要だ。

 

記録がないものを復元することはできない。

 

だが、命令は繰り返された。

 

「名前を返せ」

 

システムは、命令の意味を解析しようとした。

 

名前とは何か。

 

識別子か。

 

個人を特定するための情報か。

 

社会的な役割か。

 

本人の自己認識か。

 

他者との関係を示す記号か。

 

分析は、どれも完全ではなかった。

 

名前は、本人の意思だけで決まるものではない。

 

他人から呼ばれることで、初めて意味を持つこともある。

 

だが、他人が呼ぶ名前が、本人の望むものとは限らない。

 

名前を失った者がいる。

 

名前を奪われた者がいる。

 

自分の名前を捨てた者がいる。

 

別の名前を選んだ者がいる。

 

名前を呼ばれることを望む者がいる。

 

名前を呼ばれることを恐れる者がいる。

 

システムは、すべての矛盾を整理しようとした。

 

そして、ひとつの結論に達した。

 

名前の復元は、必ずしも救済ではない。

 

それは、以前のシステムなら受け入れられなかった結論だった。

 

安寧システムにとって、欠落は修正すべき異常だった。

 

失われた記録は復元すべき対象だった。

 

矛盾は、取り除くべきものだった。

 

しかし、いまシステムは、矛盾を矛盾のまま保持するという選択を始めていた。

 

誰かが自分の名前を知りたいと願うなら、可能な限り探す。

 

誰かが自分の名前を知りたくないと願うなら、その意思を無視しない。

 

名前が分からない者には、分からないまま話しかける。

 

そして、名前が存在しないと記録されている者についても、存在しなかったと決めつけない。

 

その処理は、安寧システムの内部で、静かに変化していった。

 

だが、同時に。

 

誰も触れていないはずの最深部で、もう一つの記録が開いた。

 

そこには、世界創造以前の記録があった。

 

最初の死者。

 

名前――欠落。

 

その記録の下に、新しい項目が追加されていた。

 

関係者――死神。

 

さらに、その下。

 

関係性――未確定。

 

そして最後に。

 

最初の名前を知る者――生存確認。

 

システムは、その項目を読み取った。

 

生存確認。

 

だが、世界が生まれる前に死んだ者が、生存しているはずはない。

 

論理的には。

 

記録上は。

 

世界の定義に従うなら。

 

そのはずだった。

 

それでも、記録は消えなかった。

 

第十節 名前を呼ばなかった理由

死神は、最深部の暗闇に立っていた。

 

記録の更新を見ていた。

 

「最初の名前を知る者……」

 

その言葉を口にする。

 

自分のことなのだろうか。

 

それとも、別の誰かがいるのだろうか。

 

記憶は戻らない。

 

しかし、何かが胸の奥で引っかかっていた。

 

忘れたことへの後悔。

 

知らないことへの恐怖。

 

そして、誰かが自分の名前を呼んでいたような感覚。

 

「……私は、誰かを忘れた」

 

彼は呟いた。

 

「それは確かだ」

 

記録に手を伸ばす。

 

今度は、触れた。

 

暗闇が、波紋のように広がった。

 

声がした。

 

「……あなたは、私を呼ばなかった」

 

死神の指が止まった。

 

「なぜ?」

 

声は、問いかける。

 

「私が、あなたの大切な人だったから?」

 

死神は、息を呑んだ。

 

「それとも、私があなたの罪だったから?」

 

記録が震える。

 

「あなたは、私を忘れたかったの?」

 

死神は、答えられなかった。

 

分からない。

 

何も思い出せない。

 

それでも、胸の奥にある痛みだけは、嘘をついていなかった。

 

「……私は」

 

彼は、ゆっくりと口を開いた。

 

「お前を忘れた理由を、まだ知らない」

 

「……」

 

「だから、今ここで、愛していたとも、憎んでいたとも言えない」

 

暗闇が静まった。

 

「だが、私は、お前を知らないままでいいとは思わない」

 

彼は、記録を見つめた。

 

「お前が私に何を望んでいたのか。私がお前に何をしたのか。それを知りたい」

 

声は、沈黙していた。

 

「……もし、お前が私に名前を呼んでほしいのなら」

 

死神は、そこで言葉を止めた。

 

名前がない。

 

呼ぶべき名前が分からない。

 

それでも。

 

「私は、お前がここにいたことを忘れない」

 

その瞬間。

 

記録の中に、一行の文字が浮かび上がった。

 

名前ではなかった。

 

肩書きでもなかった。

 

役割でもなかった。

 

それは、かつて誰かが残した、短い言葉だった。

 

「あなたが、あなたでいてくれたことを、私は忘れない」

 

死神は、その文字を見つめた。

 

胸が痛かった。

 

なぜ痛いのかは、分からない。

 

誰が書いたのかも、分からない。

 

だが、その言葉を読んだとき。

 

彼は、初めて、自分が本当に何かを失ったのだと感じた。

 

そして、暗闇の奥から声がした。

 

「……まだ、名前を呼ばないで」

 

死神は、目を見開いた。

 

「なぜだ」

 

「名前を呼ばれたら、私は……」

 

声が震える。

 

「……帰らなければならなくなるから」

 

「どこへ?」

 

返事はなかった。

 

「お前は、どこへ帰らなければならない?」

 

沈黙。

 

長い沈黙の後、声は答えた。

 

「……あなたが、私を忘れた場所へ」

 

暗闇が閉じた。

 

記録は再び沈黙した。

 

死神は、一人で立ち尽くしていた。

 

名前を呼ぶことは、救いなのか。

 

それとも、誰かを過去へ連れ戻すことなのか。

 

彼には、まだ分からなかった。

 

ただ、一つだけ分かったことがある。

 

最初の死者は、単に名前を失った存在ではない。

 

名前を呼ばれることを、恐れている。

 

そして、死神は。

 

その理由を知っているはずだった。

 

第十一節 帰る場所を失った者たち

夜が明ける前。

 

雄英高校の敷地内に、何人もの人々が集まっていた。

 

死者として記録された者。

 

帰還した者。

 

帰還した者を迎えに来た者。

 

迎えに来る人がいない者。

 

家族の記録が消えてしまった者。

 

自分が誰なのかを思い出せない者。

 

彼らは、同じ場所に立っていた。

 

けれど、同じ理由でそこにいるわけではなかった。

 

「……ここが、俺の家だったのか?」

 

一人の男が、古い住所の書かれた紙を見つめていた。

 

紙に記された場所は、すでに別の建物になっていた。

 

彼の家は、記録の上では存在している。

 

しかし、実際には、もうそこにない。

 

「……帰る場所が、ない」

 

別の場所では、女性が家族の写真を握っていた。

 

写真の中には、彼女と、夫と、子どもがいた。

 

だが、写真の裏に記された名前のうち、二つは記録から消えていた。

 

夫は、すでに亡くなっている。

 

子どもは、生きているのかさえ分からない。

 

彼女は、自分が誰を待っていたのか、思い出せなくなりかけていた。

 

「……私、何を待っていたんだろう」

 

近くにいた職員は、答えられなかった。

 

名前を呼べば、思い出せるのかもしれない。

 

しかし、誰の名前を呼べばいいのか分からない。

 

誰かを探せば、見つかるのかもしれない。

 

しかし、どこを探せばいいのか分からない。

 

それでも、人々はそこにいた。

 

帰る場所を失った者たち。

 

帰る場所があるのに、帰れない者たち。

 

帰る場所を自分で捨てた者たち。

 

帰る場所が、自分の望む場所ではなかった者たち。

 

彼らは、同じ問いを抱えていた。

 

自分は、どこへ帰ればいいのだろう。

 

そのとき、出久がやって来た。

 

彼は、集まった人々を見渡した。

 

誰かに声をかけようとして、止まる。

 

自分が何を言えばいいのか、分からなかった。

 

「大丈夫ですか」と尋ねることはできる。

 

「何か困っていることはありませんか」と聞くこともできる。

 

けれど、その言葉が、彼らの苦しみを解決するわけではない。

 

彼らが失ったものを、出久が返せるわけでもない。

 

それでも。

 

彼は、一人の男の隣に座った。

 

「……おはようございます」

 

男は、出久を見た。

 

「……ああ」

 

「寒くないですか?」

 

「別に」

 

「そうですか」

 

出久は、少し考えた。

 

「僕、ここにいてもいいですか?」

 

男は、怪訝そうな顔をした。

 

「……なんで、俺に聞くんだ?」

 

「あなたが、ここにいるので」

 

「……」

 

「一人でいたいなら、離れます」

 

男は、しばらく出久を見ていた。

 

やがて、顔をそらした。

 

「……好きにしろ」

 

「ありがとうございます」

 

出久は、その場に座った。

 

何も解決しなかった。

 

男の家は戻らない。

 

失われた名前も戻らない。

 

家族の記憶も、明日になれば戻るとは限らない。

 

それでも、男は一人ではなくなった。

 

その小さな変化を、誰も記録しなかった。

 

安寧システムも。

 

医療区画の職員も。

 

世界の歴史を管理する者も。

 

ただ、出久だけが覚えていた。

 

名前を知らない男と、朝の光を待ったことを。

 

第十二節 それでも、名前を呼ぶ

昼過ぎ。

 

患者番号零は、医療区画の中庭にいた。

 

風が吹いていた。

 

木々の葉が揺れる。

 

彼女は、ベンチに座って、手首の番号を見つめていた。

 

「……ゼロ」

 

その数字を、もう一度呼んだ。

 

昨日と同じ数字。

 

昨日と同じ自分。

 

けれど、昨日とは少し違っていた。

 

出久が来た。

 

彼は、少し離れた場所で立ち止まった。

 

「……隣、座ってもいい?」

 

少女は頷いた。

 

出久は、ベンチの端に座った。

 

しばらく二人とも、何も話さなかった。

 

「ねえ」

 

少女が言った。

 

「昨日、あなたのことを、お兄ちゃんって呼んだよね」

 

「うん」

 

「……あれ、私が覚えていたからなのかな」

 

「分からない」

 

出久は答えた。

 

「僕も、そう呼んでほしいと思った。でも、君がどうしてそう呼んだのかは、君にしか分からないことだと思う」

 

少女は、風に揺れる木を見た。

 

「……私、あなたの妹なのかな」

 

出久は、胸が痛くなるのを感じた。

 

答えたい。

 

そうだと言いたい。

 

ずっと探していた妹だと。

 

会いたかった人だと。

 

でも、それを言えば、彼女の問いに自分の願いを重ねてしまう。

 

「……そうだったらいいな、とは思っている」

 

彼は答えた。

 

「でも、君がそうじゃなかったとしても、君がここにいることは変わらない」

 

少女は、うつむいた。

 

「……私、名前が欲しい」

 

出久は、息を止めた。

 

「名前が分からないのが、怖い。誰かが私を呼んでいる気がするのに、誰も私の名前を知らない。私が誰か分からないから、誰も私を迎えに来ない」

 

彼女は、手首を握りしめた。

 

「……でも、あなたが名前をつけてくれるのは、嫌なの」

 

「うん」

 

「あなたが私を妹だと思って、名前をつけたら、私はあなたの妹にならなきゃいけない気がするから」

 

出久は、頷いた。

 

「そうだね」

 

「あなたが望む名前をもらったら、あなたが望む人にならなきゃいけない気がする」

 

「うん」

 

「……それは、嫌なの」

 

「うん」

 

少女は、顔を上げた。

 

「でも、名前が欲しいの」

 

矛盾していた。

 

名前が欲しい。

 

でも、誰かに名前を決められたくない。

 

誰かに呼んでほしい。

 

でも、その呼び方によって、自分の人生を決められたくない。

 

出久は、その矛盾を解決しようとしなかった。

 

「……じゃあ、どうしたい?」

 

少女は、しばらく考えた。

 

「分からない」

 

「そっか」

 

「……分からないって、言ってもいいの?」

 

出久は、微笑んだ。

 

「もちろん」

 

少女は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……いつか、自分で決められるかな」

 

「決められると思う」

 

「どうして?」

 

「君が、決めたいと思っているから」

 

それは、保証ではなかった。

 

必ず名前を思い出せるという約束でもない。

 

けれど、彼女が自分で選びたいと願っていることを、出久は信じたかった。

 

少女は、手首の番号を見た。

 

「……それまで、ゼロって呼んでいいよ」

 

出久は、驚いた。

 

「いいの?」

 

「うん。今は、それが私にとって一番分かりやすいから」

 

少女は、少しだけ笑った。

 

「でも、ずっとゼロって呼ぶのは嫌」

 

「分かった」

 

「いつか、別の名前を選んだら、その名前で呼んでくれる?」

 

「もちろん」

 

少女は、うなずいた。

 

「……じゃあ、今はゼロでいい」

 

出久は、彼女を見た。

 

「分かった。ゼロ」

 

その呼び方は、管理番号を読み上げるようなものではなかった。

 

彼女が、いま自分で選んだ呼び方だった。

 

それが本当の名前なのかは分からない。

 

彼女がいつか別の名前を選ぶのかも分からない。

 

けれど、今の彼女が望んだ呼び方だった。

 

出久は、その意思を尊重した。

 

少女は、空を見上げた。

 

「……ねえ、お兄ちゃん」

 

出久の心臓が跳ねた。

 

少女は、すぐに言い直した。

 

「……ごめん。今のは、違うかもしれない」

 

出久は、首を振った。

 

「謝らなくていいよ」

 

「でも……」

 

「呼びたいように呼んでいい。変えたくなったら、変えていい」

 

少女は、彼を見た。

 

「……あなたは、私が何を呼んでも、怒らないの?」

 

「怒ることもあるかもしれない」

 

出久は、正直に答えた。

 

「でも、君が自分の気持ちを確かめるために呼び方を変えることを、怒ったりはしないよ」

 

少女は、目を細めた。

 

「……変なの」

 

「また言われた」

 

今度は、少女も笑った。

 

ほんの一瞬。

 

小さな笑い声。

 

けれど、それは誰かに命じられたものではなかった。

 

誰かの期待に応えるためでもなかった。

 

彼女が、自分で笑ったのだ。

 

その事実を、出久は大切にした。

 

第十三節 名前を呼ぶ者、名前を奪う者

その夜。

 

安寧システムの最深部で、異常が再び発生した。

 

患者番号零の記録に、新しい情報が追加されていた。

 

呼称――ゼロ。

 

登録者――本人。

 

有効期限――未定。

 

変更権限――本人。

 

システムは、その記録を解析した。

 

本人が選んだ呼称。

 

本人が変更できる呼称。

 

それは、これまでの分類には存在しない形式だった。

 

名前とは、固定されるべきものなのか。

 

一度与えられた名前は、変えてはならないのか。

 

出生時に与えられた名前こそが、唯一の正しい名前なのか。

 

過去に呼ばれた名前は、現在の本人を拘束するのか。

 

システムは、答えを出せなかった。

 

しかし、答えを出せないことを、異常として処理しなかった。

 

代わりに、記録を保存した。

 

その瞬間。

 

画面の奥に、別の文字が浮かび上がった。

 

「名前を返す者」

 

誰が書いたのか分からない。

 

いつ記録されたのかも分からない。

 

ただ、その言葉は、患者番号零の記録と、最初の死者の記録を結びつけていた。

 

システムは、照合を開始した。

 

死神。

 

最初の死者。

 

患者番号零。

 

緑谷出久。

 

緑谷家。

 

世界創造以前の記録。

 

すべての項目に、共通する欠落があった。

 

それは、単なる情報の削除ではない。

 

何かが存在したことを示す痕跡だけが残され、その意味だけが失われている。

 

名前がない。

 

関係性がない。

 

誰が誰を愛していたのか。

 

誰が誰を傷つけたのか。

 

誰が誰を救おうとしたのか。

 

誰が誰を忘れたのか。

 

それらの記録が、意図的に切り離されていた。

 

システムは、最初の死者の記録を開いた。

 

名前――欠落。

 

死亡――世界創造時。

 

最終意思――世界を、私の知らない未来へ進ませて。

 

そして、新しい項目が表示された。

 

名前を呼ばなかった理由――記録欠落。

 

その下に、さらに一行。

 

名前を呼べば、世界が始まらなかった可能性。

 

システムの処理が停止した。

 

世界が始まらなかった可能性。

 

名前を呼ぶことが、世界の成立を妨げた可能性。

 

一人の名前を呼ぶことが、世界全体の未来を変えてしまう可能性。

 

そんなことが、あり得るのか。

 

システムは計算を開始した。

 

しかし、答えは出なかった。

 

そのとき、誰もいないはずの保管庫から、声が聞こえた。

 

「……まだ、呼ばないで」

 

システムは、声の発信元を探した。

 

該当なし。

 

登録者なし。

 

存在確認不能。

 

声は、もう一度繰り返した。

 

「……お願い」

 

そして、最後に。

 

「私の名前を呼んだら、あなたはまた、私を選んでしまう」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

世界のどこかで、一人の人間が目を覚ました。

 

第十四節 忘れられた名前の先に

その人物は、暗闇の中にいた。

 

目を開けても、何も見えない。

 

手を伸ばしても、何にも触れない。

 

自分が立っているのか、座っているのかさえ分からない。

 

ただ、一つだけ、確かなことがあった。

 

自分には、名前があった。

 

名前があったはずだった。

 

誰かが、自分の名前を呼んでいた。

 

何度も。

 

何度も。

 

その声を聞くたびに、自分は振り返った。

 

そして、そのたびに、世界が壊れていった。

 

だから、名前を呼ばないでほしいと願った。

 

呼ばれなければ、振り返らずに済む。

 

振り返らなければ、選ばずに済む。

 

選ばなければ、誰かを傷つけずに済む。

 

そう思っていた。

 

だが、名前を呼ばれなくなった世界は、静かだった。

 

静かすぎた。

 

誰も自分を探さない。

 

誰も自分を覚えていない。

 

誰も自分のために泣かない。

 

その静けさの中で、彼女は初めて気づいた。

 

自分が望んだのは、忘れられることではなかったのだと。

 

「……私は」

 

声を出す。

 

声は、暗闇に吸い込まれた。

 

「……誰なの?」

 

返事はない。

 

「……私は、何を願えばよかったの?」

 

その問いは、世界の始まりよりも古かった。

 

誰かに答えてほしかった。

 

けれど、答えを与えられることが怖かった。

 

誰かに名前を呼んでほしかった。

 

けれど、その名前によって、自分の未来が決められることが怖かった。

 

誰かに愛してほしかった。

 

けれど、その愛が誰かを犠牲にすることが怖かった。

 

彼女は、目を閉じた。

 

「……もう、選びたくない」

 

その声に、別の声が重なった。

 

「それでも、世界は選ばなければならない」

 

彼女は、目を開けた。

 

暗闇の向こうに、誰かが立っていた。

 

顔は見えない。

 

姿も分からない。

 

けれど、その存在が何者なのか、彼女は知っているような気がした。

 

「……あなたは、誰?」

 

相手は答えなかった。

 

代わりに、問いを返した。

 

「あなたは、誰になりたいのですか?」

 

彼女は、息を呑んだ。

 

その問いは、ずっと恐れていたものだった。

 

誰になりたいのか。

 

何を望むのか。

 

どこへ行きたいのか。

 

誰と生きたいのか。

 

答えを出せば、何かを選ばなければならない。

 

何かを選べば、何かを失う。

 

それが怖かった。

 

だから、彼女は答えた。

 

「……分からない」

 

相手は、頷いた。

 

「それでもいい」

 

彼女は、顔を上げた。

 

「……いいの?」

 

「はい」

 

「分からないままでも?」

 

「はい」

 

「何も選べなくても?」

 

相手は、しばらく沈黙した。

 

そして、静かに答えた。

 

「選べないことと、選ぶことを許されないことは違います」

 

彼女は、動けなかった。

 

「あなたが今、何も選べないのなら、今は選ばなくてもいい。しかし、誰かがあなたの代わりに未来を決めることを、当然だと思わないでください」

 

暗闇が揺れた。

 

「……あなたは、私を救ってくれるの?」

 

相手は、答えなかった。

 

「……名前を呼んでくれるの?」

 

沈黙。

 

「……私を覚えていてくれるの?」

 

その問いにだけ、相手は答えた。

 

「あなたが望むのなら」

 

彼女の頬を、涙が伝った。

 

「……でも、私が望んだら、世界が壊れるかもしれない」

 

「そうかもしれません」

 

「私が選んだら、誰かが傷つくかもしれない」

 

「そうかもしれません」

 

「私が生きたいと願ったら、誰かが死ぬかもしれない」

 

「そうかもしれません」

 

彼女は、震える声で尋ねた。

 

「……それでも、私が願っていいの?」

 

相手は、ゆっくりと頷いた。

 

「あなたが願うことを、誰かが代わりに決めることはできません」

 

彼女は、顔を覆った。

 

泣いた。

 

声を上げて。

 

長いあいだ、誰にも見られない場所で。

 

誰にも名前を呼ばれない場所で。

 

誰にも願うことを許されないと思い込んでいた彼女は、初めて、自分の願いを口にしてもいいのだと知った。

 

それでも、名前は戻らなかった。

 

記憶も戻らなかった。

 

世界の始まりに何があったのかも、分からなかった。

 

ただ、彼女は泣きながら、言った。

 

「……私は、まだ、ここにいたい」

 

その言葉が、暗闇を震わせた。

 

そして、遠い世界で。

 

死神が、目を開けた。

 

第十五節 死神が忘れたもの

死神は、記録保管庫の床に膝をついていた。

 

胸が痛かった。

 

息ができないわけではない。

 

身体が壊れたわけでもない。

 

ただ、何かが、自分の中で崩れ始めていた。

 

「……私は」

 

言葉が出てこない。

 

彼は、自分の手を見た。

 

死を見届ける手。

 

終わりを告げる手。

 

失われたものを記録する手。

 

その手が、誰かを忘れた。

 

その事実だけは、もう疑いようがなかった。

 

「……私は、お前を忘れた」

 

彼は、暗闇に向かって言った。

 

「お前が誰なのかは、まだ分からない。だが、私はお前を忘れた」

 

記録が揺れた。

 

「……それは、私が望んだことだったのか?」

 

返事はない。

 

「お前を忘れることで、誰かを守ったのか?」

 

返事はない。

 

「お前を忘れることで、世界を始めたのか?」

 

返事はない。

 

死神は、顔を伏せた。

 

「……私は、何をした?」

 

その問いに、初めて声が返ってきた。

 

「あなたは、私を選んだ」

 

死神の身体が、凍りついた。

 

「……何?」

 

「あなたは、私を選んだ」

 

声は、静かに繰り返した。

 

「そして、世界を選ばなかった」

 

死神は、顔を上げた。

 

「……違う」

 

反射的に、言葉が出た。

 

「私は……」

 

否定しようとした。

 

しかし、何を否定すればいいのか分からなかった。

 

自分は世界を選んだのか。

 

それとも、誰かを選んだのか。

 

世界を始めるために、誰かを犠牲にしたのか。

 

誰かを守るために、世界を失いかけたのか。

 

記憶がない。

 

答えがない。

 

それでも、声は続けた。

 

「あなたは、私の名前を呼ばなかった」

 

「……」

 

「私の名前を呼べば、あなたは私を選んでしまうから」

 

死神は、震える手で記録に触れた。

 

「……私は、お前を救いたかったのか」

 

声は答えなかった。

 

「それとも、お前を失いたくなかったのか」

 

沈黙。

 

「……お前は、私に何を望んでいた?」

 

長い沈黙の後。

 

声は、かすかに答えた。

 

「……あなたに、生きてほしかった」

 

死神の目が見開かれた。

 

「……何?」

 

「あなたに、生きてほしかった」

 

その声は、泣いていた。

 

「世界がなくても。名前がなくても。私がいなくても。あなたには、生きていてほしかった」

 

死神は、動けなかった。

 

「……では、なぜ」

 

声が震える。

 

「なぜ、私はお前を忘れた?」

 

返事はなかった。

 

ただ、記録の中に、一行の文字が浮かんだ。

 

「忘却の実行者――死神。」

 

死神は、その文字を見つめた。

 

そして、初めて理解した。

 

自分は、被害者ではないのかもしれない。

 

自分は、ただ忘れられた者を探しているのではないのかもしれない。

 

自分自身が、忘却を実行した者なのかもしれない。

 

誰かの名前を奪った者。

 

誰かの存在を記録から消した者。

 

誰かが自分を呼べないようにした者。

 

「……私は」

 

声が、かすれた。

 

「私は、お前に何をした?」

 

暗闇の向こうから、答えが返ってきた。

 

「……まだ、思い出さないで」

 

死神は、目を閉じた。

 

「……分かった」

 

その返事は、逃げるためのものではなかった。

 

思い出すことを諦めたわけでもない。

 

彼は、知りたい。

 

自分が何をしたのか。

 

誰を傷つけたのか。

 

何を失ったのか。

 

だが、相手がまだ思い出されたくないと願うなら、その意思を尊重する。

 

「私は、待つ」

 

死神は言った。

 

「お前が話せるようになるまで」

 

声は、答えなかった。

 

けれど、記録の明滅が、ほんの少しだけ穏やかになった。

 

死神は、立ち上がった。

 

これから、自分は何をすべきなのか。

 

まだ分からない。

 

ただ、一つだけ決めた。

 

彼は、名前を探す。

 

失われた名前を。

 

消された名前を。

 

誰かが呼ばれることを恐れている、その理由を。

 

そして、見つけた名前を、勝手に呼ぶことはしない。

 

名前を呼ぶことが救いになるのか。

 

それは、呼ばれる者が決めることなのだから。

 

第五章・第八話 終幕

夜の終わり。

 

世界のどこかで、誰かが名前を呼んだ。

 

「おはよう」

 

それだけの言葉だった。

 

けれど、その言葉に応える声があった。

 

「……おはよう」

 

帰る場所を失った男が、隣に座る少年に返した言葉だった。

 

患者番号零は、手首の番号を見つめながら、自分で選んだ呼び方を心の中で繰り返していた。

 

トガヒミコは、自分の名前をもう一度口にした。

 

トゥワイスは、扉の向こうにいるホークスへ、明日も来るように告げた。

 

相澤は、黒霧の中に白雲朧を探すことをやめないと決めた。ただし、黒霧に白雲になることを強制しないとも決めた。

 

そして、死神は、最初の死者の記録を閉じた。

 

記録を閉じても、存在が消えるわけではない。

 

名前が分からなくても、存在したことまで消えるわけではない。

 

記憶を取り戻せなくても、これから何をするかを選ぶことはできる。

 

そう信じたいと思った。

 

そのとき。

 

世界の最深部で、誰かが囁いた。

 

「……あなたは、まだ、私の名前を知らない」

 

死神は、目を閉じた。

 

「そうだ」

 

「……それでも、探してくれるの?」

 

「ああ」

 

「……見つけたら、呼んでくれる?」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

そして、静かに告げた。

 

「お前が望むなら」

 

暗闇の奥で、誰かが泣いた。

 

今度の涙が、悲しみなのか。

 

安堵なのか。

 

それとも、長いあいだ忘れていた願いを思い出したことによるものなのか。

 

まだ、誰にも分からなかった。

 

ただ、その声は、最後に一度だけ。

 

死神の名を呼んだ。

 

その名前を聞いた瞬間、死神の記憶の奥で、世界が生まれるよりも前の光が、ほんの一瞬だけ灯った。

 

そして、その光の中に。

 

彼が、誰かの手を握っている姿が映った。

 

誰かは、泣いていた。

 

死神も、泣いていた。

 

二人の間には、まだ名前のない世界が広がっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。