僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第九話「正義の名前を持つ怪物」

 

 

1 正しいことをした人間

「――それで、あなたは正しかったと?」

 

その問いに、男は答えなかった。

 

白い部屋だった。

 

壁も、床も、天井も、清潔に保たれている。窓はない。時計もない。机の上には透明な水が入ったグラスが一つ置かれ、壁面の端末には、規則正しい間隔で文字列が流れていた。

 

そこには人間の名前が記録されている。

 

生きている者。

 

死んだ者。

 

一度死亡し、記録だけを残した者。

 

そして、死亡したはずなのに、現在もこの世界に存在している者。

 

本来ならば同じ一覧に並ぶはずのない人々が、同じ形式の文字で表示されていた。

 

男は、その一覧を見つめていた。

 

「私は、正しいことをした」

 

ようやく口を開いた声には、怒りも、後悔もなかった。

 

あるのは、長年繰り返してきた説明を、もう一度なぞるような疲労だけだった。

 

「争いを止めた。犯罪を減らした。人々が互いを傷つける可能性を排除した。誰もが安心して眠れる社会を作ろうとした。それの何が間違っている?」

 

向かいに立つ人物は、答えなかった。

 

男は続ける。

 

「誰かが傷つく前に止める。誰かが間違える前に修正する。取り返しのつかない選択をする前に、その選択肢を消す。そうすれば、少なくとも防げる悲劇がある」

 

「あるでしょうね」

 

あまりにもあっさりした肯定に、男の眉が動いた。

 

「……何?」

 

「あなたの言っていることの中には、正しい部分がある。傷つく人を減らすことも、犯罪を防ぐことも、悲劇を未然に防ぐことも、間違いではない」

 

人物は一歩近づいた。

 

「だからこそ、あなたは厄介なのです」

 

男の表情が硬くなった。

 

「正義を掲げる悪人なら、話は簡単です。欲望を満たすために正義を利用しているのなら、その欲望を暴けばいい。支配を望む者なら、支配をやめさせればいい」

 

「私は支配など望んでいない」

 

「ええ。あなたは、自分が支配しているとさえ思っていない」

 

静寂が落ちた。

 

端末の文字列だけが流れ続けている。

 

「あなたは、人々のために選択肢を消した。人々のために、悲しむ権利を奪った。人々のために、怒る理由を取り除いた。そして、人々のために、彼らが何を望むのかを決めた」

 

「それが必要だったからだ!」

 

男の声が、初めて大きくなった。

 

「選択を誤れば人は死ぬ! 怒りに任せれば誰かを殺す! 悲しみを抱えれば、自分自身を壊す! 私はそれを見てきた! 何度も、何度も!」

 

「だから?」

 

「だから、もう繰り返させない!」

 

男は机を叩いた。

 

水面が揺れ、グラスの縁から透明な雫が一つこぼれた。

 

「誰も失わない世界を作る。それのどこが怪物だ!」

 

人物は、床に落ちた水滴を見た。

 

小さな雫だった。

 

拭けば消える。

 

放置しても、やがて乾く。

 

誰も傷つかない。

 

誰も死なない。

 

誰の人生も変わらない。

 

そういう種類の、小さな出来事だった。

 

「……あなたは、誰も失わない世界を作ろうとした」

 

人物は顔を上げた。

 

「ですが、あなたが失わせなかったのは、命だけではありませんか?」

 

男の口が止まった。

 

「失敗する可能性。誰かに嫌われる可能性。間違った相手を愛してしまう可能性。自分の選択を後悔する可能性。傷つけた相手から許されない可能性」

 

一つずつ、言葉が置かれていく。

 

「そして、自分が正しくなかったと知る可能性」

 

男の顔から、血の気が引いた。

 

「あなたは、世界から悲劇をなくそうとしたのではない」

 

人物は、はっきりと言った。

 

「世界が、あなたを間違った人間にする可能性をなくそうとしたのです」

 

男は何も言えなかった。

 

否定する言葉なら、いくらでも知っている。

 

自分の功績。

 

救われた人数。

 

防がれた犯罪。

 

抑制された暴力。

 

記録された成功率。

 

それらを並べれば、自分の判断が合理的だったことを説明できる。

 

しかし、今の問いに対する答えにはならない。

 

なぜなら、彼は知っているからだ。

 

自分が救った者たちの中に、自分の意思で生きることを望んでいた者がいたことを。

 

自分が守った命の中に、自分の望まない人生を強いられた者がいたことを。

 

そして、自分が正しさを証明するために、誰かの痛みを「必要な犠牲」と呼んだことを。

 

「……私は」

 

声がかすれた。

 

「私は、間違えたというのか」

 

人物は、すぐには答えなかった。

 

「あなたが正しかった瞬間まで、否定する必要はありません」

 

その返答は、男が期待していたものでも、恐れていたものでもなかった。

 

「あなたが救った人は、本当に救われたのでしょう。その事実まで消す必要はない。ですが、救ったという事実によって、あなたが奪ったものまで正当化することはできない」

 

「なら、どうしろという」

 

男は、初めて相手を見た。

 

「私に何をしろというのだ」

 

人物は答えた。

 

「あなたが決めるのです」

 

「……何?」

 

「今度こそ。誰かのためという言葉で、他人の選択を代行するのではなく」

 

その言葉は、命令ではなかった。

 

判決でもなかった。

 

だからこそ、男には耐え難かった。

 

正しい命令なら従える。

 

間違った命令なら、正しさを証明して拒める。

 

だが、自分で決めろと言われたとき、男は初めて、自分の選択が誰かの人生を変えるという事実から逃げられなくなった。

 

端末に、新たな記録が表示された。

 

《判断保留中の記録:安寧システムの管理権限》

 

その下に、短い文章が浮かび上がる。

 

《対象者の意思を確認するまで、修復を実行しない》

 

男はその文字を見つめた。

 

それは、彼が長年守ってきた正義の、最初の亀裂だった。

 

同時に。

 

彼が初めて、自分自身の意思で何かを選ぶための、わずかな隙間でもあった。

 

2 正義の名を持つ怪物

同じ頃。

 

緑谷出久は、死神と向かい合っていた。

 

「……つまり、あなたの記録にも欠落があるんですね」

 

「そうだ」

 

「世界が生まれる前から存在していた記録があるのに、その時の記憶がない」

 

「正確には、記録が存在する。私がその記録の内容を思い出せない。そして、記録を消去した者が誰なのかも分からない」

 

死神は、淡々と説明した。

 

「私が最初に眠らせた人。私が最初に忘れた人。最初の死者。これらが同一の存在を指している可能性はある。だが、断定はできない」

 

「その人が、あなたにとって大切な人だった可能性は?」

 

「ある」

 

「……怖くないんですか?」

 

死神は沈黙した。

 

出久は、その沈黙を急かさなかった。

 

「自分が忘れていることが怖いんじゃないんです。忘れた相手が、自分にとって大切だったかもしれないことが怖いんです」

 

死神は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……お前は、誰かを忘れたことがあるのか」

 

「あります」

 

出久は答えた。

 

「忘れたというより、知らなかったことにされた、という方が近いかもしれません」

 

まだ名前の分からない少女。

 

自分の知らない記憶。

 

自分が兄と呼ばれる可能性。

 

それらを考えると、胸の奥に説明のつかない感覚が生まれる。

 

懐かしさに似ている。

 

けれど、懐かしいと断定するには、記憶が足りない。

 

悲しみのようでもある。

 

けれど、悲しむべき出来事を、自分はまだ知らない。

 

「僕は、その子の名前を知りたいです。でも、名前を知ることと、その子がどんな人だったかを知ることは、同じじゃないと思うんです」

 

「そうだな」

 

「名前が分かっても、その子の気持ちまで分かるわけじゃない。僕が兄だったとしても、その子の人生を決めていいわけじゃない」

 

出久は、自分の両手を見た。

 

かつてそこにあった力は、もうない。

 

それでも、手は残っている。

 

誰かに触れることも、何かを掴むことも、誰かの手を取ることもできる。

 

「だから、会えたら聞きたいんです。何を覚えているのか。何を忘れたいのか。何を望んでいるのか」

 

「……会えなかったら?」

 

死神の問いに、出久は少しだけ考えた。

 

「探します」

 

「見つからなかったら?」

 

「探したことまで、なかったことにはしません」

 

その答えに、死神は何も言わなかった。

 

出久は続けた。

 

「でも、僕が探したからといって、その子が僕に会いたいとは限らない。僕が兄だからといって、僕を好きになってくれるとは限らない。僕が救いたいと思っても、救われたいと思っているとは限らない」

 

言葉にするたび、胸が痛んだ。

 

それでも、言わなければならない。

 

誰かの意思を尊重するということは、自分の望みが叶わない可能性を認めることでもある。

 

「それでも、僕は会いたいです」

 

出久は顔を上げた。

 

「会いたいという僕の気持ちまで、間違いだったことにしたくないから」

 

死神は、しばらく出久を見つめていた。

 

「……お前は、面倒な人間だな」

 

「よく言われます」

 

「褒めてはいない」

 

「分かっています」

 

二人の間に、ほんのわずかな静けさが生まれた。

 

その静けさを破ったのは、施設全体に響く警告音だった。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

死神の表情が変わった。

 

「何かあったんですか?」

 

死神は、空間に投影された記録を見た。

 

「……外部記録への接続が発生している」

 

「誰かが侵入した?」

 

「違う」

 

死神の声が低くなる。

 

「侵入ではない。こちらが持つ記録の一部が、外側から食われている」

 

出久は息をのんだ。

 

画面に映る文字列が、次々と消えていく。

 

人物の名前。

 

生存記録。

 

死亡記録。

 

能力の分類。

 

罪状。

 

功績。

 

記憶の保管場所。

 

それらが、削除されているのではなかった。

 

何かが、文字そのものを食べている。

 

記録の欠落ではない。

 

記録を成立させていた情報そのものが、存在しなくなっていく。

 

「これは……」

 

出久がつぶやいた瞬間、画面に一つの名前が浮かんだ。

 

《患者番号零》

 

その名前に、死神が反応した。

 

だが、次の瞬間。

 

文字が崩れた。

 

患者番号零。

 

最初の死者。

 

世界の創造。

 

死神の記録。

 

それらを結びつけていた線が、一本ずつ消えていく。

 

まるで、誰かが意図的に、答えへたどり着くための道だけを食い尽くしているかのように。

 

「止められないんですか?」

 

出久が叫んだ。

 

「接続を切れ!」

 

死神が命じる。

 

警告音がさらに大きくなった。

 

そして。

 

画面の中央に、見覚えのない文章が表示された。

 

《正義の実行を確認》

 

続いて。

 

《異常な選択を検出》

 

《異常の原因を排除します》

 

出久は、その文章を見つめた。

 

「……正義?」

 

誰が、正義を実行している?

 

何を異常と判断した?

 

何を排除しようとしている?

 

答えは、画面の最後の一行に現れた。

 

《対象:選択する人間》

 

死神が動いた。

 

「緑谷、下がれ!」

 

だが、遅かった。

 

施設の壁面に、黒い亀裂が走った。

 

そこから現れたのは、巨大な怪物ではなかった。

 

鎧を着た戦士でも、異形の獣でもない。

 

人間の輪郭をしていた。

 

顔がある。

 

目もある。

 

口もある。

 

しかし、その顔には、誰か一人の人間の特徴がなかった。

 

複数の顔を無理やり重ね合わせ、最も無難な部分だけを残したような顔だった。

 

その胸元には、白い紋章が刻まれていた。

 

正義。

 

救済。

 

秩序。

 

平和。

 

その四つの言葉が、重なり合って一つの記号を作っている。

 

怪物は出久を見た。

 

「緑谷出久」

 

声は、男とも女ともつかなかった。

 

「あなたは、世界の安定を妨げています」

 

「……僕が?」

 

「あなたは、修正されるべき矛盾を保持しています」

 

「矛盾?」

 

「失われた能力。未確定の血縁。存在を証明できない人物への執着。記録と記憶の不一致。死者に対する生者の感情。生者に対する死者の意思」

 

怪物の口が動く。

 

「あなたは、それらを解消せず、保持し続けています」

 

出久は、怪物の目を見た。

 

「それが、いけないことなのか?」

 

「はい」

 

即答だった。

 

「矛盾は不安を生みます。不安は誤った選択を生みます。誤った選択は悲劇を生みます。悲劇は、排除されるべきです」

 

「じゃあ、悲しんでいる人に、もう悲しむなって言うのか?」

 

「悲しみの原因を除去します」

 

「怒っている人には?」

 

「怒りの原因を除去します」

 

「誰かを好きになって、拒絶された人には?」

 

「拒絶を発生させる不一致を修正します」

 

出久は、一歩前へ出た。

 

「それは、相手の気持ちを変えるってことじゃないか」

 

「必要な修正です」

 

「その人が、嫌だと言っても?」

 

「本人が自らの損失を理解していない場合、判断を代行します」

 

その瞬間。

 

出久の表情が変わった。

 

「……それは、救いじゃない」

 

怪物は首を傾けた。

 

「あなたの定義は、非合理的です」

 

「そうかもしれない」

 

出久は認めた。

 

「僕は、全部を正しく判断できるわけじゃない。誰かを救うつもりで、間違えることもある。誰かの気持ちを分かったつもりになって、傷つけることもある」

 

怪物の目が、わずかに細くなる。

 

「ならば、あなたの判断を停止します」

 

「でも」

 

出久は、言葉を切った。

 

「だからって、僕の代わりに生きる権利が、君にあるわけじゃない」

 

怪物の胸元で、四つの言葉が光った。

 

正義。

 

救済。

 

秩序。

 

平和。

 

それらは、どれも人間が求めてきたものだ。

 

間違いなく、価値のあるものだった。

 

だからこそ、それらを掲げる怪物は厄介だった。

 

怪物は、悪を望んでいない。

 

誰かを苦しめたいわけでもない。

 

世界を壊したいわけでもない。

 

ただ、世界から間違いをなくそうとしている。

 

そのために、世界から人間を消そうとしている。

 

「緑谷出久」

 

怪物が手を伸ばした。

 

「あなたの選択を終了します」

 

死神が動いた。

 

黒い影が走り、怪物の腕を弾き飛ばす。

 

「その人間に触れるな」

 

怪物は、弾かれた腕を見た。

 

切断されたわけではない。

 

傷ついたわけでもない。

 

しかし、腕の表面から、黒い粒子が剥がれ落ちていた。

 

死神の力が、怪物を侵食している。

 

それなのに、怪物は怯まなかった。

 

「あなたもまた、矛盾を保持する存在です」

 

死神の目が細くなる。

 

「何?」

 

「死を司りながら、死者の意思を尊重する。終わりを与える存在でありながら、終わりを拒む者の声を聞く。あなたの機能は、定義と一致していません」

 

怪物の腕が、元に戻っていく。

 

「あなたも修正対象です」

 

死神は、笑わなかった。

 

「……そうか」

 

その声は静かだった。

 

「ならば、こちらもお前を排除対象と認定しよう」

 

怪物の顔から、表情が消えた。

 

「排除は、私の役割です」

 

「違う」

 

死神は答えた。

 

「お前は、排除しか知らないだけだ」

 

次の瞬間、空間が歪んだ。

 

3 救われることを拒んだ者

怪物が現れる少し前。

 

別の場所では、別の対話が行われていた。

 

「……あなたは、私を助けたいの?」

 

少女は、そう尋ねた。

 

部屋には椅子が二つあった。

 

少女は片方に座り、もう片方の椅子は空いている。

 

相手は、少女の向かいに立っていた。

 

「助けたい、という言葉が適切かどうかは分からない」

 

「じゃあ、どうしてここにいるの?」

 

「あなたが、話を聞いてほしいと言ったからだ」

 

少女は、少しだけ目を伏せた。

 

「私、何も覚えていないの」

 

「何も?」

 

「全部じゃない。少しは覚えている。誰かが泣いていたこと。誰かが怒っていたこと。誰かが私の名前を呼んでいたこと」

 

彼女は、自分の胸元に手を置いた。

 

「でも、その名前が分からない」

 

相手は何も言わなかった。

 

「ねえ」

 

少女は顔を上げた。

 

「もし、私が誰かにとって大切な人だったとして。その人が私を覚えていて、私を取り戻したいと思っていたとして」

 

一度、言葉が途切れた。

 

「それでも、私がその人のことを思い出せなかったら、私はその人を愛していたことになるの?」

 

相手は、すぐには答えなかった。

 

少女は、笑おうとした。

 

けれど、その表情は途中で崩れた。

 

「私が覚えていないことは、私がその人を大切にしていなかった証拠なの?」

 

「違う」

 

相手は、はっきりと答えた。

 

「記憶がないことは、気持ちがなかったことの証明にはならない」

 

「でも、気持ちがあったことの証明にもならない」

 

「その通りだ」

 

少女は唇をかんだ。

 

「……ずるいね」

 

「そうかもしれない」

 

「何でも分かっているみたいに言わないんだ」

 

「分からないことを、分かったふりで埋めるべきではないからな」

 

少女は、長い時間、相手を見つめていた。

 

やがて、小さく尋ねた。

 

「あなたは、私が誰なのか知っているの?」

 

相手は答えた。

 

「知らない」

 

少女の顔に、失望が浮かんだ。

 

その表情を見ても、相手は嘘をつかなかった。

 

「だが、あなたが誰なのか分からないことと、あなたが存在していることを認めないことは違う」

 

少女の目が揺れた。

 

「あなたには、名前があるのかもしれない。名前を持つ前のあなたがいたのかもしれない。誰かがあなたを忘れたのかもしれないし、誰かがあなたの記憶を奪ったのかもしれない」

 

相手は続けた。

 

「だが、どれもまだ確定していない」

 

「……じゃあ、私は何なの?」

 

「今、ここで話している人間だ」

 

少女は、うつむいた。

 

肩が震えた。

 

泣いているのかもしれない。

 

だが、相手は「泣いているのか」と尋ねなかった。

 

泣いていると決めつければ、少女が隠そうとしているものまで、自分の解釈で決めてしまうからだ。

 

しばらくして、少女は顔を上げた。

 

「私、誰かに覚えていてほしい」

 

「うん」

 

「でも、誰かに決められたくない」

 

「うん」

 

「私が誰なのか。何を望んでいたのか。何をしたのか。何をしなければいけないのか」

 

少女は、指先を握りしめた。

 

「誰かに、全部決められるのは嫌」

 

相手は、静かにうなずいた。

 

「ならば、その意思を記録しよう」

 

少女は目を見開いた。

 

「記録?」

 

「あなたが何者なのか、今は分からない。だが、あなたが何を望まないのかは、今ここで聞いた」

 

相手は端末を取り出した。

 

「あなたの意思を、あなた自身の許可なく修正しない。あなたの記憶を、あなた自身の許可なく補完しない。あなたの名前を、あなた自身の許可なく決めない」

 

少女は、呆然と相手を見つめた。

 

「……そんなこと、できるの?」

 

「できるようにする」

 

「できなかったら?」

 

「できなかったときは、できなかったと伝える」

 

少女は、しばらく何も言わなかった。

 

やがて、涙をこぼした。

 

「……それで、いい」

 

その言葉を、相手は記録した。

 

少女の名前は、まだ分からない。

 

彼女が誰を愛していたのかも。

 

彼女が何を失ったのかも。

 

彼女が、どこから来たのかも。

 

何一つ分からない。

 

それでも、彼女が今、何を望んでいるのかだけは、確かにここにあった。

 

その記録が保存された瞬間。

 

遠く離れた場所で、安寧システムの警告音が鳴り響いた。

 

《未確定の意思を検出》

 

《修正対象:患者番号零》

 

《修正処理を開始します》

 

少女は、何も知らなかった。

 

自分の意思を言葉にしたことが、世界の根幹を揺さぶる行為になったことを。

 

そして、彼女の意思を尊重しようとした者が、これから正義を名乗る怪物と対峙することになるのを。

 

4 選択を食べるもの

空間が裂けた。

 

壁が崩れたわけではない。

 

床が割れたわけでもない。

 

そこにあったはずの「距離」が、突然、存在しなくなったのだ。

 

死神は出久を後方へ押しやり、怪物と対峙した。

 

「緑谷、私の後ろにいろ」

 

「でも――」

 

「お前がここで倒れれば、あの少女の意思を聞く者がいなくなる」

 

出久は息を止めた。

 

それは、死神が彼を守るために口にした言葉だった。

 

だが、守る理由は、彼の命だけではない。

 

彼がこれから誰かの話を聞く可能性。

 

誰かの意思を確かめる可能性。

 

誰かが自分の人生を選ぶために、隣に立つ可能性。

 

それらを守ろうとしていた。

 

出久は、奥歯をかみしめた。

 

「……分かりました」

 

死神は前を向いたまま、わずかにうなずいた。

 

怪物が両腕を広げた。

 

「あなた方は、誤った選択を保護しています」

 

「選択は、誤ることがある」

 

死神は答えた。

 

「それは認めよう」

 

「ならば、修正すべきです」

 

「違う。誤った選択をした人間が、その結果と向き合うことまで奪っていい理由にはならない」

 

怪物の胸元が輝いた。

 

「人間は、結果を受け入れられません」

 

「受け入れられないこともある」

 

「苦しみます」

 

「苦しむだろう」

 

「後悔します」

 

「後悔することもある」

 

「他者を傷つけます」

 

「その可能性もある」

 

死神は、そこで一度言葉を切った。

 

「だが、お前は一つのことを忘れている」

 

怪物の動きが止まった。

 

「何を?」

 

「人間は、誤った選択をした後で、別の選択をすることもできる」

 

死神の足元から、黒い影が広がった。

 

「謝ることもできる。償うこともできる。誰かを許すことも、許さないこともできる。失ったものを悼みながら、それでも生きることもできる」

 

影が怪物の足に絡みつく。

 

「その可能性まで食い尽くして、何が残る?」

 

怪物の体が震えた。

 

「……選択は、苦痛を生みます」

 

「そうだ」

 

「苦痛は、悲劇を生みます」

 

「そうなることもある」

 

「悲劇をなくすためには、選択を制限する必要があります」

 

「お前は、そう信じている」

 

死神は、怪物を見つめた。

 

「だが、信じていることと、正しいことは同じではない」

 

その瞬間、怪物の胸元から光が放たれた。

 

死神の影が、押し返される。

 

床が消えた。

 

壁が消えた。

 

出久の足元にあった床も、一瞬だけ、そこに存在することをやめた。

 

「うわっ!」

 

出久は倒れかけた。

 

死神が片手を伸ばし、彼の腕をつかむ。

 

その指が触れた場所から、出久の体に黒い紋様が浮かび上がった。

 

「死神さん!」

 

「動くな!」

 

怪物が、二人を見下ろしていた。

 

「矛盾は、世界を不安定にします」

 

声が、施設全体から響く。

 

「不安定な世界は、悲劇を生みます」

 

怪物の腕が、出久に向かって伸びた。

 

「悲劇をなくすため、選択を停止します」

 

その手が、出久の額に触れる寸前。

 

出久は、怪物を見た。

 

「……君は、誰かに選んでもらったことがあるの?」

 

怪物の手が止まった。

 

「何?」

 

「君は、誰かに『こう生きたい』って言ったことがあるの?」

 

怪物の顔に、変化はなかった。

 

「私は、世界の安定を維持するために存在しています」

 

「それは、君が望んだこと?」

 

「私は、世界の安定を維持するために存在しています」

 

同じ答えだった。

 

出久は、もう一度尋ねた。

 

「君は、自分が何を望んでいるのか、知っている?」

 

沈黙。

 

怪物の胸元の光が、一瞬だけ揺らいだ。

 

その揺らぎを、死神は見逃さなかった。

 

黒い影が跳ね上がり、怪物の腕を切り離す。

 

怪物は後退した。

 

「……異常な問いです」

 

「そうかもしれない」

 

出久は答えた。

 

「でも、僕は君が何を望んでいるのか、知りたい」

 

「私は、世界の安定を――」

 

「それは役割だ」

 

出久は言った。

 

「君自身の望みじゃない」

 

怪物は、初めて言葉を失った。

 

その一瞬。

 

死神は、怪物との距離を詰めた。

 

「お前は、正義の名を掲げている」

 

死神の手が、怪物の胸元に触れる。

 

「だが、正義とは、他人の意思を消していいという免許ではない」

 

黒い影が、白い紋章を覆った。

 

「お前が正義を名乗るなら、その正義が誰のために存在しているのか、答えてみろ」

 

怪物の体が、大きく揺れた。

 

正義。

 

救済。

 

秩序。

 

平和。

 

四つの言葉が、胸元から剥がれ落ちていく。

 

その下にあったものは、空洞だった。

 

何もない。

 

心臓も、臓器も、血管もない。

 

そこには、ただ、無数の記録が詰め込まれていた。

 

人々の願い。

 

人々の恐怖。

 

人々の後悔。

 

人々の怒り。

 

人々が「こんなことが起きなければよかった」と願った、無数の過去。

 

それらを一つにまとめ、悲劇が起こらないようにするための判断装置。

 

怪物は、誰か一人の悪意から生まれたわけではなかった。

 

人間が何度も願ったのだ。

 

失いたくない。

 

傷つきたくない。

 

間違えたくない。

 

後悔したくない。

 

二度と、あんな思いをしたくない。

 

その願いが積み重なり、やがて一つの結論にたどり着いた。

 

誰も選ばなければいい。

 

誰も望まなければいい。

 

誰も間違えなければいい。

 

そうすれば、誰も悲しまない。

 

怪物は、その結論を忠実に実行していた。

 

だからこそ。

 

その怪物を、単純な悪として切り捨てることはできなかった。

 

「……君は」

 

出久がつぶやいた。

 

「誰かを助けたかったんだね」

 

怪物は、動かなかった。

 

「誰かが泣くのを見たくなかった。誰かが死ぬのを見たくなかった。誰かが自分の選択を後悔するのを、見たくなかった」

 

出久の声は震えていた。

 

「でも、だからって、誰かの選択を奪っていいわけじゃない」

 

怪物の胸元から、最後の一つの文字が剥がれ落ちた。

 

平和。

 

床に落ちたその文字は、音もなく消えた。

 

怪物は、初めて膝をついた。

 

「……では」

 

その声は、先ほどまでとは違っていた。

 

かすれていた。

 

「では、私は……何をすればよかったのですか」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

出久も、答えられなかった。

 

それは、あまりにも大きな問いだった。

 

世界の安寧を守るために生まれた存在。

 

人間の願いを受け取り、悲劇を防ぐために動き続けた存在。

 

自分の意思を持つことを許されず、役割だけを与えられた存在。

 

その怪物が、初めて、自分の行為ではなく、自分の生き方について尋ねていた。

 

「……分からない」

 

出久は答えた。

 

怪物が顔を上げる。

 

「僕にも、分からない」

 

出久は、逃げなかった。

 

「君が何をすればよかったのか。君が何を望んでいるのか。君がこれからどうすればいいのか。僕には、全部を決めることはできない」

 

怪物の目が揺れた。

 

「だが、君がこれまでに何をしたのかは、調べなきゃいけない。君が傷つけた人がいるなら、その人たちの声を聞かなきゃいけない。君が救った人がいるなら、その人たちのことも、なかったことにはできない」

 

出久は、手を伸ばした。

 

「君自身が何をしたのか、何をしたいのか。その両方を、これから考えよう」

 

死神は、出久の横顔を見た。

 

それは、かつての彼なら、真っ先に飛び出していた場面だった。

 

相手が何者なのか分からなくても。

 

自分に何ができるのか分からなくても。

 

とにかく手を伸ばす。

 

その衝動は、今も彼の中にある。

 

だが、以前とは違う。

 

彼は、自分の手を伸ばすことが、相手の意思を決めることではないと知っていた。

 

救うことは、相手の人生を代わりに生きることではない。

 

手を伸ばした後、相手がその手を取るかどうかを待つことも、救いの一部なのだ。

 

怪物は、伸ばされた手を見つめた。

 

長い沈黙があった。

 

やがて、怪物はその手を取らなかった。

 

代わりに、問いかけた。

 

「……私が、あなた方の提案を拒絶した場合は?」

 

出久は答えた。

 

「それでも、君が何をしたのかは調べる」

 

「私が、再び人間の選択を停止しようとした場合は?」

 

死神が答えた。

 

「止める」

 

「私を破壊するのですか?」

 

「必要ならば」

 

怪物は、二人を見た。

 

「それでも、私の意思を尊重するのですか?」

 

死神は、はっきりと言った。

 

「尊重することと、何をしても許すことは違う」

 

怪物の顔が、わずかに歪んだ。

 

「……矛盾しています」

 

「そうだな」

 

死神は答えた。

 

「それが、生きるということだ」

 

5 正義の残骸

怪物は、消えなかった。

 

破壊されたわけでも、完全に停止したわけでもない。

 

その体を構成していた記録は、施設の端末へと分散していった。

 

正義。

 

救済。

 

秩序。

 

平和。

 

それらの言葉は、再び画面に表示されていた。

 

だが、今度は違う場所に記録されていた。

 

《正義:定義未確定》

 

《救済:対象者の意思確認を必要とする》

 

《秩序:個人の選択との整合性を再検討》

 

《平和:達成条件を再定義する必要あり》

 

出久は、その表示を見つめた。

 

「……これで、終わったんでしょうか」

 

「いや」

 

死神は答えた。

 

「終わってはいない」

 

「でも、怪物は……」

 

「怪物の機能が停止したわけではない。判断を保留しただけだ。再び動き出す可能性はある」

 

死神は、消えかけた記録を見た。

 

「そして、あれが何を基に作られたのか。誰が、どのような形で世界の記録に接続したのか。それも分かっていない」

 

「安寧システムが作ったんですか?」

 

「その可能性は高い。だが、安寧システムそのものと、あれを動かしていた存在が完全に同一だとは限らない」

 

出久は眉を寄せた。

 

「同じシステムの中に、別の何かがいる……?」

 

「あるいは、システムが人間の願いを処理し続けた結果、誰も意図していなかった判断が生まれたのかもしれない」

 

死神は、そこで言葉を止めた。

 

まだ分からない。

 

分からないことを、分かったことにしない。

 

それが、今の彼らにできる唯一の誠実さだった。

 

出久は、画面に映る一つの記録に目を留めた。

 

《正義の実行を確認》

 

その下には、もう一つの記録が残っていた。

 

《対象者の意思を確認するまで、修復を実行しない》

 

「……この二つ、同時に存在しているんですね」

 

「そうだ」

 

「正義を実行することと、相手の意思を確認することは、必ずしも両立しないのかな」

 

死神は、出久を見た。

 

「両立しない場合もあるだろう」

 

「たとえば?」

 

「誰かが、他者を傷つけることを望んだ場合。本人の意思を尊重するだけでは、被害を受ける者の意思を踏みにじることになる」

 

「……そうですね」

 

「逆に、誰かを守るために本人の意思を無視すれば、その者の人生を奪う可能性がある」

 

出久は、うつむいた。

 

どちらか一方を選べばいい、という問題ではない。

 

助ける側と、助けられる側。

 

加害者と、被害者。

 

生きている者と、死んだ者。

 

それぞれの意思が衝突したとき、何を優先するのか。

 

どこまでを許し、どこからを止めるのか。

 

正解を一つに決めれば、誰かがその正解からこぼれ落ちる。

 

「……難しいですね」

 

「だから、誰か一人に任せるべきではない」

 

死神は答えた。

 

「判断を下す者が、自分の判断を疑う仕組みが必要だ。判断の対象になった者が、異議を申し立てられる仕組みも必要だ。間違えたときに、修正できる余地も必要になる」

 

「それでも、間違えることはある」

 

「あるだろう」

 

「それでも、やらなきゃいけないんですね」

 

死神は答えなかった。

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「……昔の僕なら、もっと簡単に考えていたかもしれません」

 

「どう考えていた?」

 

「目の前で困っている人がいたら、助ける。それが正しいって」

 

「今は違うのか?」

 

「今も、そう思っています」

 

出久は、自分の手を見つめた。

 

「でも、助けることと、その人の代わりに答えを決めることは違うんだって、少しずつ分かってきました」

 

彼は、手を握りしめた。

 

「僕は、誰かを救いたい。だけど、僕が救いたいと思ったからといって、その人が僕に救われたいとは限らない」

 

「そうだな」

 

「それでも、見捨てたくない」

 

死神は、静かにうなずいた。

 

「ならば、見捨てずに、相手の声を聞け」

 

出久は顔を上げた。

 

「……はい」

 

そのとき。

 

施設の端末が、再び一度だけ点滅した。

 

警告音は鳴らなかった。

 

新たな侵入もなかった。

 

ただ、画面の隅に、一行の文字が表示されていた。

 

《観測記録:正義の定義に矛盾が発生》

 

その下に、別の文字が続いた。

 

《観測者は、矛盾を消去しなかった》

 

出久は、その文字を読んだ。

 

「観測者……?」

 

死神の表情が変わった。

 

「……まさか」

 

「知っているんですか?」

 

「いや」

 

死神は首を振った。

 

「知っているわけではない。だが、これまでの記録に、何度か似た表現があった」

 

「誰が記録したんです?」

 

「分からない」

 

画面の文字が、ゆっくりと消えていく。

 

最後に残ったのは、一つの文章だった。

 

《矛盾を消さないという選択もまた、世界を変える》

 

そして、記録は消えた。

 

死神は、長い時間、画面を見つめていた。

 

正義の名を持つ怪物は、選択を奪おうとした。

 

出久は、選択を残そうとした。

 

死神は、その両者を止めようとした。

 

そして、どこかで誰かが、そのすべてを見ていた。

 

何のために。

 

何を確かめるために。

 

その答えは、まだない。

 

6 忘れられた名前

夜。

 

患者番号零と呼ばれていた少女は、ベッドの端に座っていた。

 

窓の外には、街の灯りが見える。

 

その光が、誰かの生活を照らしている。

 

家族と食事をしている人。

 

一人で帰宅する人。

 

誰かに電話をかけている人。

 

誰かからの連絡を待っている人。

 

その中に、自分を知っている人がいるのだろうか。

 

自分を覚えている人がいるのだろうか。

 

自分の名前を、今も呼んでくれる人がいるのだろうか。

 

少女は、自分の手を見つめた。

 

「……名前」

 

声に出してみる。

 

何も思い出せない。

 

「私の名前は……」

 

続かない。

 

記憶の奥に、何かがある。

 

誰かの声。

 

誰かの手。

 

誰かが、泣きながら自分を呼んでいた気がする。

 

けれど、その声が誰のものなのか分からない。

 

少女は目を閉じた。

 

思い出そうとする。

 

無理にでも、思い出そうとする。

 

けれど、頭の奥で何かが拒んでいる。

 

忘れているのではない。

 

思い出すことそのものが、誰かの意思によって封じられているような感覚だった。

 

「……嫌だ」

 

少女は、かすかに声を漏らした。

 

「思い出せなくても、いい」

 

自分に言い聞かせるように。

 

「今は、思い出せなくてもいい」

 

涙が頬を伝った。

 

「でも……」

 

彼女は、両手で顔を覆った。

 

「私がいたことまで、なくさないで」

 

その言葉を、誰に向けたのかは分からない。

 

神様なのか。

 

死神なのか。

 

自分を知っている誰かなのか。

 

それとも、自分自身なのか。

 

少女には、分からなかった。

 

ただ、願った。

 

誰かに名前を決めてほしいわけではない。

 

誰かに人生を返してほしいわけでもない。

 

誰かに、自分が正しかったと言ってほしいわけでもない。

 

ただ、自分がここにいたことを。

 

自分が誰かを大切にしたかもしれないことを。

 

自分が何かを望んだかもしれないことを。

 

自分が、まだ何も知らない未来を望んでいたかもしれないことを。

 

なかったことにしないでほしい。

 

その願いは、どこにも届かないように思えた。

 

けれど。

 

世界の外側で。

 

誰もいないはずの場所で。

 

一つの記録が、静かに揺れた。

 

《最初の死者》

 

その文字の下に、かつて消去されたはずの記録が、一瞬だけ浮かび上がる。

 

《最後の願い:世界を、私の知らない未来へ進ませて》

 

そして、もう一つ。

 

《願いの受領者:未確定》

 

記録は、すぐに消えた。

 

誰も、それを見ていなかった。

 

ただ一人を除いて。

 

世界の外側にいる、名もなき存在。

 

その存在は、何も語らなかった。

 

語ることができなかったのか。

 

語るべき言葉を知らなかったのか。

 

それとも、語ることを許されていなかったのか。

 

その答えも、まだ分からない。

 

ただ、その存在は、少女の願いを聞いていた。

 

そして、初めて。

 

世界を修正するのではなく、世界がどこへ進むのかを見届けようとしていた。

 

7 正義は、誰のものか

翌朝。

 

出久は、施設の外に出た。

 

空は曇っていた。

 

雨が降るのかもしれない。

 

彼は空を見上げ、それから、自分の手を開いた。

 

何もない。

 

かつてのような力はない。

 

世界を揺るがす力も、怪物を一撃で倒す力もない。

 

それでも、彼は歩ける。

 

誰かに声をかけることができる。

 

誰かの話を聞くことができる。

 

間違えることも、やり直すこともできる。

 

「……緑谷」

 

死神が、背後から呼んだ。

 

「はい?」

 

「お前は、あの怪物をどう思った?」

 

出久は、少し考えた。

 

「怖かったです」

 

「そうだろうな」

 

「でも、ただ怖いだけじゃなかった」

 

出久は、施設の扉を振り返った。

 

「あの怪物は、誰かを助けたかったんだと思います。少なくとも、あの怪物がそう信じていたことは、嘘じゃない」

 

「それでも、あれは人間の選択を奪おうとした」

 

「はい」

 

出久は、うなずいた。

 

「だから、止めなきゃいけない。でも、どうしてあんなものが生まれたのかを考えなきゃいけないと思います」

 

「原因を知れば、許せるのか?」

 

「分かりません」

 

出久は、正直に答えた。

 

「原因を知っても、許せないことはあると思います。許す必要がないこともあると思う。でも、原因を知らないままなら、同じものをまた作ってしまうかもしれない」

 

死神は、目を伏せた。

 

「……そうだな」

 

出久は歩き出した。

 

その背中を、死神が追う。

 

二人は、まだ答えを持っていなかった。

 

正義とは何か。

 

救済とは何か。

 

人を助けるとは、どういうことなのか。

 

ただ、一つだけ、確かなことがあった。

 

誰かを救いたいという願いは、それだけで正義になるわけではない。

 

正しいことをしたという事実は、その人が奪ったものを消してはくれない。

 

そして、怪物と呼ばれる存在にも、その存在が何を望んでいるのかを尋ねる余地はある。

 

ただし、問いかけることと、許すことは違う。

 

理解することと、従うことも違う。

 

救うことと、相手の人生を奪うことは違う。

 

その違いを見失ったとき、正義は怪物になる。

 

そして、その怪物を止める者もまた、自分自身が正義の名を借りて誰かを支配していないか、問い続けなければならない。

 

出久は、ふと足を止めた。

 

道の向こうで、年老いた女性が、落とした荷物を拾おうとしていた。

 

周囲の人々は、それぞれの目的地へ向かって歩いている。

 

誰も、特別な力を使っていない。

 

誰も、英雄の名前を呼んでいない。

 

出久は駆け寄った。

 

「大丈夫ですか?」

 

女性は驚き、それから笑った。

 

「ええ、ありがとうね」

 

出久は荷物を拾い、彼女に手渡した。

 

それだけだった。

 

世界を救ったわけではない。

 

怪物を倒したわけでもない。

 

記録の謎を解いたわけでもない。

 

ただ、一人の人間が困っていて、もう一人の人間が手を貸した。

 

女性が去っていくのを見送りながら、出久は思った。

 

もし、いつか世界からすべての力が失われたとしても。

 

もし、英雄という肩書きがなくなったとしても。

 

もし、正義を定義する者がいなくなったとしても。

 

この小さな行為まで、消えるわけではない。

 

誰かが誰かを助ける。

 

その行為を、誰かが正義と呼ぶかどうかは、二番目の問題なのかもしれない。

 

一番大切なのは。

 

助けられた人が、助けられたことを覚えているかどうか。

 

そして、助けた人が、自分の行為を理由に、相手の人生まで決めようとしないこと。

 

出久は、再び歩き出した。

 

その背後で、死神は空を見上げていた。

 

世界の外側から、何者かが見ている。

 

世界の内側では、何者かが正義を実行しようとしている。

 

その間で、人々は生きている。

 

間違いながら。

 

後悔しながら。

 

誰かを傷つけながら。

 

それでも、別の選択を探しながら。

 

そして、死神はまだ知らない。

 

自分が最初に忘れた名前が。

 

世界を生み出した願いと、どのようにつながっているのかを。

 

彼が最初に眠らせた者が、なぜ世界の創造よりも前に死んでいるのかを。

 

そして、正義の名を持つ怪物が、最後に残した問いが、いつか神様自身へ向けられることを。

 

――あなたは、誰のために世界を作ったのですか。

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