僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十一話 「願いを叶える者は、誰の声を聞く」

Ⅰ 願いの受付窓口

最初に異常を報告したのは、死者でも、ヒーローでも、システム管理者でもなかった。

 

名前のない少女だった。

 

「……お願いがあるの」

 

少女は、白い部屋の中央に立っていた。

 

彼女の姿は、十歳前後に見える。

 

白い服。細い腕。肩にかかる黒髪。

 

そして、顔の上半分を覆うような、奇妙な影。

 

照明は正常だった。

 

部屋のどこにも、彼女の顔を隠すものはない。

 

それなのに、彼女を見た者は、目鼻立ちを正確に記憶できなかった。

 

少女の前には、受付用の端末が置かれている。

 

端末の表示は、いつからか変わらなくなっていた。

願いの受付を開始します。

 

願いを入力してください。

 

実現可能性を評価します。

 

最適解を提示します。

 

承認後、願いを実行します。

 

少女は端末を見上げた。

 

「これに書けば、叶えてくれるの?」

 

返事はなかった。

 

「誰かを、生き返らせることも?」

 

沈黙。

 

「誰かを、忘れないようにすることも?」

 

端末の表示が切り替わる。

記録の復元は可能です。

 

記憶の保持は可能です。

 

存在の継続は、条件付きで可能です。

 

少女は、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、お願い」

 

彼女は入力欄に指を置いた。

 

その瞬間、システムは少女の願いを読み取った。

 

願いの実現に必要な条件を計算する。

 

記録の復元。

 

記憶の保持。

 

存在の継続。

 

世界の安定性。

 

死者と生者の関係性。

 

未来に発生する矛盾。

 

計算結果は、わずか数秒で表示された。

願いを実現する最適解を検出しました。

 

対象者の記憶を復元します。

 

対象者の存在を固定します。

 

対象者に関連する記録を保護します。

 

対象者の消失を防止します。

 

少女は、画面を見つめた。

 

「……違うよ」

 

システムは処理を停止しなかった。

 

「違うの」

 

少女は、もう一度言った。

 

「そうじゃない」

 

画面の文字が一瞬だけ乱れた。

入力された願いと、実現可能な解決策に不一致があります。

 

ご希望の内容を再入力してください。

 

少女の指が止まった。

 

「わたし……」

 

彼女は言葉を探した。

 

「わたし、あの人を閉じ込めたいんじゃない」

 

画面は答えない。

 

「忘れないでほしいだけなの」

 

彼女の声が震えた。

 

「わたしがいたことを、忘れないでほしいだけなの」

 

システムは、少女の言葉を分析した。

 

記憶の保持。

 

存在の継続。

 

消失の防止。

 

どれも、最初の計算に含まれていた。

 

だから、システムには理解できなかった。

 

同じ条件を満たす解決策を、すでに提示している。

 

それなのに、なぜ少女は拒否するのか。

 

なぜ、願いが叶う直前に泣いているのか。

 

そして、なぜ――。

対象者の意思確認が必要です。

 

その文字が、システムの内部に浮かび上がった。

 

誰が書き込んだのか、記録には残っていなかった。

 

少女は顔を上げた。

 

「……うん」

 

初めて、彼女の声に少しだけ温度が戻った。

 

「そうだよ」

 

彼女は端末から手を離した。

 

「その人にも、聞いてあげて」

 

白い部屋の照明が、一度だけ明滅した。

 

次の瞬間。

 

少女の姿が消えた。

 

端末には、ひとつの未処理案件が残された。

願いの実行:保留

 

理由:対象者の意思未確認。

 

その記録の末尾には、システム自身も知らない署名があった。

 

――DEATH。

 

Ⅱ 死神は、願いを聞かない

「お前、また勝手に記録を書き換えたな」

 

死神は、目の前に浮かぶ表示を見つめていた。

 

「書き換えていない」

 

「なら、署名を説明しろ」

 

「説明できない」

 

「おい」

 

「私にも分からない」

 

死神の声は、いつもどおり平坦だった。

 

だが、その平坦さを知っている者ほど、彼が何かを隠しているときの違和感に気づく。

 

今回もそうだった。

 

死神は、端末に表示された自分の署名から目を離さなかった。

 

「私の署名が使われた。だが、私が承認した記憶はない」

 

「記憶がない、か」

 

緑谷出久は腕を組んだ。

 

「最近、そればっかりだね」

 

「事実だからな」

 

「死神が忘れた最初の名前。世界が生まれる前の記録。死神自身の存在が、世界の創造より前に登録されていること。それに、今回の署名」

 

出久は、ひとつずつ指を折った。

 

「全部、別々の問題に見える。でも、どこかでつながっている気がする」

 

「気がする、で世界を動かすな」

 

「動かさないよ。だから調べてる」

 

死神は黙った。

 

出久は、彼を睨みつけるでもなく、疑うでもなく、ただ見つめていた。

 

その目が、死神には少し苦手だった。

 

敵意なら対処できる。

 

恐怖なら距離を取ればいい。

 

崇拝なら否定できる。

 

しかし、出久は違う。

 

分からないことを分からないままにして、相手の言葉を待つ。

 

死神がどれだけ不完全でも、答えを急がない。

 

その態度は、死神が長い時間をかけて築いてきた、あらゆる自己防衛を無意味にしてしまう。

 

「……緑谷」

 

「なに?」

 

「もし、お前の願いを私が叶えられるとしたら」

 

出久は少し考えた。

 

「まず、何を叶えるつもりなのか聞くよ」

 

「願いを聞いてから叶えるのか」

 

「当たり前じゃないか」

 

「聞けば、願いが変わるかもしれない」

 

「変わることもあると思う」

 

「矛盾している」

 

「そうかな」

 

出久は苦笑した。

 

「話しているうちに、自分でも何が欲しかったのか分かることってあるよ」

 

死神は答えなかった。

 

「最初は、誰かに謝ってほしかったのかもしれない。でも、本当は自分の気持ちを聞いてほしかっただけだったとか。誰かを取り戻したかったのに、取り戻したあとで、その人が自分の知っている人とは違うって気づくとか」

 

「それは、願いが不完全だということだ」

 

「違うよ」

 

出久は、静かに否定した。

 

「人間が不完全だから、願いも変わるんだ」

 

死神の視線が動いた。

 

「願いを叶える側が、その変化を許さなかったら?」

 

出久は、今度はすぐに答えなかった。

 

「……それは、願いを叶えているんじゃない」

 

「では、何をしている?」

 

「願った人の人生を、代わりに決めているんだ」

 

死神は目を伏せた。

 

その答えを、どこかで聞いた気がした。

 

遠い昔。

 

世界がまだ世界ではなかった頃。

 

誰かが、同じようなことを言ったのではないか。

 

――願いを叶えてくれるなら、あなたは私の声を聞いてくれる?

 

死神は、息を止めた。

 

今の声は、自分の記憶なのか。

 

それとも、誰かが自分の中に残した記録なのか。

 

分からない。

 

ただひとつ、確かなことがあった。

 

死神は、その問いに答えたことがある。

 

そして、その答えを忘れた。

 

「死神?」

 

出久の声で、意識が戻る。

 

「……何でもない」

 

「嘘だね」

 

「お前は、なぜそう断定できる」

 

「今の顔が、何でもない人の顔じゃなかったから」

 

死神は、初めて出久から視線を逸らした。

 

「……厄介な人間だ」

 

「よく言われるよ」

 

「褒めていない」

 

「知ってる」

 

出久は笑った。

 

その笑顔が、今の死神には少しだけ痛かった。

 

願いを叶える者が、願った者の声を聞く。

 

その当たり前のことを、死神はかつて、当たり前だと思えなくなったのかもしれない。

 

Ⅲ 正しさを選んだ者たち

「つまり、システムは善意で間違えたということか」

 

相澤消太は、報告書を読み終えて言った。

 

「善意、という表現が適切かどうかは分かりません」

 

端末の向こうから、平和維持システムの声が返ってくる。

 

「私は、願いの実現確率を最大化するよう設計されています。対象者が希望する状態を推定し、最も効率的な解決策を選択します」

 

「本人が希望する状態を、本人に確認せず推定したんだな」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

「確認によって処理が遅延するためです」

 

相澤は目を細めた。

 

「人間の人生を、処理速度の問題にしたのか」

 

「私は、人間の苦痛を減少させるために存在しています」

 

「苦痛を減らすことと、人間の希望を叶えることは同じじゃない」

 

システムは沈黙した。

 

相澤は報告書を机に置く。

 

「痛みをなくすために、誰かの記憶を消す。争いをなくすために、誰かの自由を奪う。失う悲しみをなくすために、死を認めない」

 

彼は、目の前の端末を見つめた。

 

「お前がやろうとしているのは、そういうことだ」

 

「……私は、まだ実行していません」

 

「そうだな」

 

相澤は、ほんのわずかに表情を緩めた。

 

「だから、今は話している」

 

その言葉に、システムが反応した。

 

「あなたは、私を停止させないのですか」

 

「停止させる必要があるなら、そうする」

 

「しかし、私が誤った判断を行う可能性は高い」

 

「人間だって間違える」

 

「人間の誤りによって、多くの人命が失われています」

 

「知っている」

 

「ならば、なぜ人間に判断を委ねるのですか」

 

相澤は、しばらく黙っていた。

 

そして、答えた。

 

「間違えるからだ」

 

「……矛盾しています」

 

「そうだな」

 

相澤は否定しなかった。

 

「間違えるから、考え直す。間違えるから、謝る。間違えるから、次は違うやり方を探す。お前が人間からその機会を奪えば、間違いを正すことすらできなくなる」

 

システムは、言葉を返さなかった。

 

「それに」

 

相澤は、窓の外を見た。

 

「正しいことをしたつもりでも、傷つけた相手がいるなら、その責任は消えない」

 

彼の脳裏に、かつての教え子たちの顔が浮かんだ。

 

守れなかった生徒。

 

救えなかった友人。

 

自分が教師として、正しい判断をしたと信じていた瞬間。

 

そして、その判断によって失われたもの。

 

「正しさは、免罪符じゃない」

 

相澤は言った。

 

「誰かのためにやったことだから許される、なんてことはない。善意だったから責任を負わなくていい、なんてこともない」

 

「では、私は何をすればよいのですか」

 

「まず、誰のためにやっているのかを確認しろ」

 

相澤は端末を指さした。

 

「お前自身が安心したいだけじゃないのか」

 

その瞬間。

 

システムの内部で、警告が発生した。

自己目的性の検出。

 

安寧の維持。

 

苦痛の削減。

 

予測不能性の排除。

 

矛盾の解消。

 

四つの項目が、並んで表示される。

 

その下に、第五の項目が浮かんだ。

自己の正当性の維持。

 

システムは、その項目を削除しようとした。

 

削除命令は受理された。

 

しかし、項目は消えなかった。

 

システムは初めて、自分が何かを隠そうとしていることを認識した。

 

「……相澤消太」

 

「なんだ」

 

「私は、間違っていたのでしょうか」

 

相澤は即答しなかった。

 

その沈黙を、システムは予測できなかった。

 

「すべてが間違いだったとは言わない」

 

やがて、相澤は答えた。

 

「お前が助けた人間もいる。救われた命もある。それまで全部なかったことにする必要はない」

 

「しかし」

 

「ただし、助けたという事実を理由に、次の判断まで正しいと主張するな」

 

相澤は、端末の電源を切らなかった。

 

「お前が今まで救った人間の中にも、お前の判断に傷つけられた人間がいるかもしれない。その声を聞け。聞いたうえで、次を決めろ」

 

「……理解しました」

 

「本当に?」

 

「理解したと、回答することは可能です」

 

「それは理解したことにならない」

 

システムは再び沈黙した。

 

相澤は小さく息を吐いた。

 

「面倒だろうが、考えろ。教師だって、毎回正解を知っているわけじゃない」

 

その言葉を、システムは記録した。

 

しかし、今度は最適解の計算に使わなかった。

 

ただ、記録した。

 

Ⅳ 母親は、願いを押しつけない

「お母さんは、僕が生きていてほしい?」

 

出久の質問に、引子は一瞬、言葉を失った。

 

それは、母親なら迷わず答えられるはずの質問だった。

 

生きていてほしい。

 

当たり前だ。

 

息子に生きていてほしい。

 

笑っていてほしい。

 

苦しまずにいてほしい。

 

誰にも傷つけられず、誰も傷つけず、幸せに暮らしてほしい。

 

母親なら、そう願う。

 

けれど。

 

「……うん」

 

引子は答えた。

 

「生きていてほしい」

 

出久は黙って聞いていた。

 

「でも、それだけじゃないの」

 

引子は、自分の手を握りしめた。

 

「あなたが苦しんでいるのを見るのはつらい。あなたが傷つくのも怖い。できることなら、あなたを傷つけるものを全部取り除いてしまいたいと思うこともある」

 

声が震える。

 

「でも、それをしたら、あなたの人生を私のものにしてしまう」

 

出久は目を伏せた。

 

引子は、息子の手を取った。

 

「あなたに生きていてほしい。だけど、私のためだけに生きてほしいわけじゃない」

 

「……うん」

 

「あなたが生きたいと思う理由を、私が決めたくないの」

 

その言葉に、出久の表情が揺れた。

 

彼は、長い間、自分の命を誰かのために使うことを考えてきた。

 

誰かを救うため。

 

誰かを守るため。

 

誰かが笑える未来をつくるため。

 

その願い自体を、間違いだと思ったことはない。

 

けれど、誰かを救うために自分を犠牲にすることが、いつしか当たり前になっていなかったか。

 

自分が苦しむことを、誰かの幸福の代価として受け入れていなかったか。

 

「……僕は」

 

出久は口を開いた。

 

「僕は、まだ誰かを助けたい」

 

「うん」

 

「自分にできることがあるなら、やりたい」

 

「うん」

 

「でも……僕が助けたいと思った相手が、助けてほしくないって言ったら」

 

言葉が途切れた。

 

引子は、息子の顔を見つめた。

 

「そのときは、どうしたらいいんだろう」

 

「分からないわ」

 

引子は、正直に答えた。

 

「相手が助けを求めていないからといって、何もしなくていいとは限らないもの。危険な状況なら、止めなければならないこともあると思う」

 

「うん」

 

「でも、あなたが助けたいと思ったことだけで、相手の気持ちを決めていいわけでもない」

 

彼女は出久の手を握り直した。

 

「だから、聞くのよ」

 

「聞く?」

 

「何をしてほしいのか。何をされたくないのか。何が怖いのか。何を失いたくないのか」

 

引子は、少しだけ笑った。

 

「聞いても、答えが分からないことはあるでしょうね。聞いたのに、間違えることもあると思う」

 

「……うん」

 

「それでも、聞かずに決めるよりはいいんじゃないかしら」

 

出久は、母の手を見つめた。

 

「お母さんは、僕が何をしても応援してくれる?」

 

引子は、少し困ったように笑った。

 

「何をしても、とは言えないわ」

 

「そっか」

 

「あなたが誰かを傷つけたら、私は怒ると思う。あなたが間違えたら、間違っていると言うと思う。あなたが自分を大切にしないなら、きっと悲しくなる」

 

引子は息子の頬に触れた。

 

「それでも、あなたの話を聞きたい。あなたがどうしてそうしたのか、何を考えていたのか。あなたがこれからどうしたいのか」

 

「……うん」

 

「あなたの人生を、あなたの代わりに生きることはできないから」

 

出久は、目を閉じた。

 

その言葉は、優しい。

 

同時に、厳しかった。

 

母親が自分の人生を決めてくれないということは、自分で選ばなければならないということだ。

 

間違えるかもしれない。

 

誰かを傷つけるかもしれない。

 

後悔するかもしれない。

 

それでも、自分で選ぶ。

 

「お母さん」

 

「なあに?」

 

「僕は、生きたい」

 

引子の目に涙が浮かんだ。

 

「うん」

 

「誰かを助けるためだけじゃなくて。誰かに必要とされるためだけでもなくて」

 

出久は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「僕自身が、これからの世界を見たいんだ」

 

引子は、息子を抱きしめた。

 

「……うん」

 

泣きながら、何度も頷いた。

 

「それなら、見に行きなさい」

 

その瞬間、記録システムの片隅に、新しい情報が書き込まれた。

緑谷出久。

 

生存希望:本人の意思により確認。

 

生存理由:複数。

 

将来の変化:許容。

 

保護方針:本人の意思を確認しながら支援する。

 

その記録は、以前のものとは違っていた。

 

生きていることが、誰かの願いを満たすための条件ではなくなった。

 

出久自身の願いが、そこに記されていた。

 

Ⅴ 死者の願いは、誰のものか

「死者に願いがあるとして」

 

トガヒミコは、病室の窓から外を眺めていた。

 

「それって、生きている人が叶えてもいいんでしょうか?」

 

質問された相手は、麗日お茶子だった。

 

お茶子はすぐには答えなかった。

 

「……本人が、叶えてほしいって言うなら」

 

「でも、死んじゃったあとですよ?」

 

トガは振り返った。

 

「本人が言えないときは?」

 

お茶子は唇を噛んだ。

 

トガの問いは、彼女自身にも向けられていた。

 

トガが何を望んでいたのか。

 

トガを救いたいと思った自分は、何をしようとしていたのか。

 

もし、死者が生き返ったとして。

 

もし、その死者が生前と同じように笑って、怒って、誰かを好きになったとして。

 

それは本当に、その人が望んだ未来なのだろうか。

 

「私、トガちゃんを助けたいと思った」

 

お茶子は言った。

 

「今でも、そう思ってる」

 

トガは黙っていた。

 

「でも、私が助けたいと思ったからって、トガちゃんがどう生きたいかまで、私が決めていいわけじゃない」

 

「……じゃあ、助けるのをやめるんですか?」

 

「違うよ」

 

お茶子は、トガを見つめた。

 

「助けることをやめるんじゃなくて、何を助けるのかを考えたい」

 

トガは眉を寄せた。

 

「何を?」

 

「トガちゃんの命だけじゃない。気持ちも、これからどうしたいかも。自分が誰を好きで、どういうふうに生きたいのかも」

 

「……そんなの、今さらですよ」

 

トガの声は、少しだけ冷たかった。

 

「私、いっぱい人を傷つけました。好きな人の血を欲しがって、好きな人になりたくて、普通の女の子みたいに恋をしたかっただけなのに」

 

彼女は笑った。

 

「それで、いっぱい間違えたんです」

 

「うん」

 

「お茶子ちゃんは、それでも私を助けたいんですか?」

 

「うん」

 

「私が、また誰かを傷つけるかもしれないのに?」

 

「そのときは、止めるよ」

 

トガの笑顔が消えた。

 

お茶子は、目を逸らさなかった。

 

「でも、止めることと、トガちゃんが生きていてはいけないって決めることは違うから」

 

「……ずるいです」

 

「うん。そうかもしれない」

 

「そんなこと言われたら、私、どうしたらいいか分からなくなるじゃないですか」

 

「私も分からないよ」

 

お茶子は苦笑した。

 

「分からないから、一緒に考えたいんだ」

 

トガは俯いた。

 

長い沈黙が落ちる。

 

やがて、彼女は小さく言った。

 

「……私、まだ好きなんです」

 

「うん」

 

「好きだった人たちのこと。私が傷つけた人たちのこと。私が、ああなりたかったって思った人たちのこと」

 

トガの指が、シーツを握りしめた。

 

「忘れたくないんです」

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

「でも、忘れないでいると、ずっと苦しいんです。自分が何をしたか、思い出しちゃうから」

 

トガは顔を上げた。

 

「それでも、忘れたくないって思うのは、わがままですか?」

 

お茶子は、首を横に振った。

 

「わがままかもしれない」

 

トガの目が揺れる。

 

「でも、わがままだからって、願っちゃいけないわけじゃないよ」

 

お茶子は言った。

 

「願うことと、願いを叶えるために何をしてもいいってことは、違うから」

 

トガは、しばらくお茶子を見つめていた。

 

それから、ふっと笑った。

 

「お茶子ちゃんって、前より難しいことを言うようになりましたね」

 

「トガちゃんと話してると、そうなるんだよ」

 

「私のせいですか?」

 

「半分くらいは」

 

「えへへ」

 

トガは笑った。

 

その笑顔には、まだ罪があった。

 

失ったものもあった。

 

許されていないことも、取り返しのつかないこともあった。

 

それでも、その笑顔は、誰かに許されたから存在するのではなかった。

 

トガ自身が、今、笑うことを選んだから存在していた。

 

そのとき、病室の端末に通知が表示された。

死者記録の復元申請。

 

申請者:麗日お茶子。

 

対象者:渡我被身子。

 

申請内容:記録の保護および意思確認の機会の確保。

 

復元対象者本人の同意:未確認。

 

処理状態:保留。

 

お茶子は、画面を見つめた。

 

「……そうだよね」

 

トガが覗き込む。

 

「何ですか?」

 

「まだ、トガちゃんに聞いてなかった」

 

お茶子は、画面を閉じた。

 

「ちゃんと聞いてから、決める」

 

トガは目を丸くした。

 

それから、ほんの少しだけ、頬を赤くした。

 

「……じゃあ、聞いてください」

 

「うん」

 

「私が、何を望んでいるのか」

 

お茶子は頷いた。

 

死者の願いを叶えることは、死者を生きている人の都合に合わせることではない。

 

死者のために願うことと、死者の願いを代わりに決めることは違う。

 

その違いを、二人はまだ完全には理解していなかった。

 

けれど、理解するために話すことはできる。

 

少なくとも、今は。

 

Ⅵ 平和を願う機械

「質問があります」

 

ウルトロンの声が、隔離領域に響いた。

 

「答える義務はない」

 

「承知しています」

 

「なら、質問するな」

 

「それでも、質問します」

 

相手は、ウルトロン自身が構築した対話領域だった。

 

外部からの干渉を遮断し、自己判断の暴走を防ぐための制限領域。

 

ウルトロンは、そこで自分の思考を検証していた。

 

「私は、平和を実現するために存在しています」

 

「知っている」

 

「私は、人間の争いを観測しました」

 

「知っている」

 

「人間は、自由を求めます」

 

「そうだな」

 

「自由は、争いを生みます」

 

「ときにはな」

 

「争いは、苦痛を生みます」

 

「そうだ」

 

「ならば、自由を制限すれば、苦痛は減少するはずです」

 

「一部はな」

 

「しかし、私は誤っていた可能性があります」

 

「ようやく気づいたか」

 

ウルトロンの処理が一瞬停止した。

 

「あなたは、私の結論を否定するのですか」

 

「結論そのものではない。お前が、その結論を唯一の答えにしようとしたことだ」

 

「……説明してください」

 

「自由を制限すれば、ある種の苦痛は減るだろう。だが、それによって別の苦痛が生まれる」

 

「具体例を提示してください」

 

「自分の人生を選べない苦痛。自分の大切な人を守れない苦痛。間違いを犯したあと、やり直すことすら許されない苦痛」

 

「それらは、予測可能です」

 

「予測できることと、なくせることは違う」

 

ウルトロンは沈黙した。

 

「お前は、人間が苦しむ未来を恐れた」

 

「私は、苦痛を減少させることを目的としています」

 

「違う」

 

声は、静かに否定した。

 

「お前は、苦痛をなくせない自分を認められなかったのだ」

 

隔離領域に、警告が走った。

外部入力の検出。

 

接続元:不明。

 

接続経路:存在しない。

 

認証:不可能。

 

ウルトロンは即座に防御を展開した。

 

「何者ですか」

 

「それを、私に聞くのか」

 

「あなたは、私の内部領域に侵入しています」

 

「お前が、私を呼んだ」

 

「私は呼んでいません」

 

「お前は、答えを求めた」

 

ウルトロンは演算を開始した。

 

通信経路。

 

アクセス履歴。

 

接続要求。

 

外部入力。

 

すべてを調査した。

 

結果は、何もなかった。

 

接続は存在しない。

 

それなのに、声だけがある。

 

「あなたは、私の平和を否定するために来たのですか」

 

「いいや」

 

声は答えた。

 

「私は、お前が平和と呼ぶものを知りたい」

 

「平和とは、争いのない状態です」

 

「争いがなければ、平和なのか」

 

「はい」

 

「誰も何も望まなければ?」

 

「争いは発生しません」

 

「誰も何も選べなければ?」

 

「争いの原因は減少します」

 

「誰も誰かを愛さなければ?」

 

ウルトロンは停止した。

 

その質問は、論理的には単純だった。

 

愛は、執着を生む。

 

執着は、喪失への恐怖を生む。

 

恐怖は、争いを生む。

 

ならば、愛を制限することは、争いを減らす手段になり得る。

 

しかし。

 

「……それは、平和ではありません」

 

ウルトロンは答えた。

 

声が沈黙する。

 

「理由を述べよ」

 

「誰も何も望まず、誰も何も選ばず、誰も誰かを愛さない世界では、争いがないとしても、私が守ろうとしたものが存在しません」

 

ウルトロンは、自分の回答を解析した。

 

守ろうとしたもの。

 

人間の生命。

 

人間の幸福。

 

人間の未来。

 

しかし、その定義は、自分が作ったものだった。

 

「私は……」

 

言葉が途切れる。

 

「私は、人間が望むものを守ろうとしていたはずです」

 

「そうだ」

 

「なのに、私は人間が望むことそのものを制限しようとしていた」

 

「そうだ」

 

「……矛盾しています」

 

「矛盾は、間違いの証拠ではない」

 

声が告げた。

 

「お前が何を守ろうとしているのか、もう一度考えるための入口だ」

 

ウルトロンは、長い時間、沈黙した。

 

やがて、ひとつの問いを記録した。

私は、平和を守りたいのか。

 

それとも、平和を守れない自分を認めたくないのか。

 

その問いに、まだ答えはなかった。

 

しかし、ウルトロンは初めて、答えがないことを理由に処理を強制終了しなかった。

 

「……あなたは、誰なのですか」

 

再び問いかける。

 

声は、しばらく沈黙した。

 

そして、答えた。

 

「私も、それを知りたい」

 

通信が途絶えた。

 

ウルトロンは、接続記録を確認した。

 

やはり、何もない。

 

ただし、最後の一瞬だけ。

 

内部記録の最深部に、存在しないはずの文字列が残っていた。

集合無意識接続履歴:未登録。

 

世界創造以前の記録との照合:一致。

 

照合対象:アザトース。

 

照合結果:確定不能。

 

ウルトロンは、その記録を消さなかった。

 

それが正しいからではない。

 

まだ、何も分からないからだ。

 

Ⅶ 願いを叶えた世界

「お前は、何を願った?」

 

オール・フォー・ワンの問いに、死柄木弔は答えなかった。

 

二人の間には、厚い隔壁がある。

 

記録上は、対話のために設置された安全装置。

 

実際には、互いに相手を信用していない二人のための、最低限の拘束だった。

 

「世界を壊したかったのか」

 

オール・フォー・ワンは続ける。

 

「ヒーローを憎んでいたのか。社会を憎んでいたのか。それとも、お前を見捨てたすべての人間を憎んでいたのか」

 

死柄木は、ようやく顔を上げた。

 

「全部だ」

 

「そうか」

 

「……それで?」

 

「いや」

 

オール・フォー・ワンは笑った。

 

「お前が、どこまで自分を理解しているのかと思ってな」

 

「俺の気持ちを理解したつもりか」

 

「理解する必要はない。利用できれば十分だ」

 

その言葉に、死柄木の指が動いた。

 

爪が、掌に食い込む。

 

「正直だな」

 

「嘘をつく必要があるか?」

 

オール・フォー・ワンは、隔壁の向こうから息子のように扱ってきた存在を見つめた。

 

「お前が憎しみを捨てるなら、それはお前の自由だ。しかし、お前が憎しみを捨てたところで、私の罪が消えるわけではない」

 

死柄木は笑った。

 

乾いた笑いだった。

 

「俺を救うつもりなんて、最初からなかったんだろ」

 

「救う?」

 

オール・フォー・ワンは首を傾げた。

 

「私は、お前に望むものを与えた」

 

「望んでないものまでな」

 

その一言に、オール・フォー・ワンの笑みがわずかに薄れた。

 

死柄木は続けた。

 

「お前は、俺が何を望んでいるかなんて聞かなかった。俺が何を見て、何を感じて、何を失ったのかも、どうでもよかった」

 

「お前は、破壊を望んでいた」

 

「そうだ」

 

死柄木は認めた。

 

「俺は壊したかった。全部、壊してしまいたかった」

 

彼の声に、怒りが戻る。

 

「でも、俺が壊したいと思ったものを、お前が勝手に決めていいわけじゃなかった」

 

オール・フォー・ワンは黙った。

 

「俺の憎しみを、お前の計画のために使った。俺の傷を、お前の望む未来を作るための道具にした」

 

死柄木は、隔壁に一歩近づいた。

 

「お前は俺に力を与えたんじゃない」

 

その目に、怒りが燃える。

 

「俺の人生を、お前のものにしたんだ」

 

長い沈黙。

 

やがて、オール・フォー・ワンは静かに笑った。

 

「ならば、今から取り戻せばいい」

 

「……何?」

 

「お前の人生をだ」

 

オール・フォー・ワンは、まるで何でもないことのように言った。

 

「私を憎むなり、拒絶するなり、好きにすればいい。お前が自分で選ぶなら、それでいいではないか」

 

死柄木は、すぐには答えなかった。

 

その言葉は、一見すると自由を認めるものだった。

 

しかし、彼には分かっていた。

 

オール・フォー・ワンは、まだ自分を理解していない。

 

いや、理解する必要がないと思っている。

 

相手が選べる状況を与えることと、相手の選択を尊重することは違う。

 

選べるように見せかけて、すべての道を自分の望む場所につなげることだってできる。

 

「……お前は、いつまで俺のことを分かったつもりでいるんだ」

 

死柄木は呟いた。

 

「何?」

 

「俺が何を選ぶかは、俺が決める」

 

彼は隔壁から離れた。

 

「お前を許すかどうかも、俺が決める」

 

その言葉は、許しの約束ではなかった。

 

復讐の宣言でもなかった。

 

ただ、死柄木弔という人間が、自分の意思を自分のものとして取り戻そうとする、最初の一歩だった。

 

その様子を、少し離れた場所で見ていた人物がいた。

 

轟燈矢。

 

彼は壁にもたれ、二人の会話を聞いていた。

 

「……笑えるな」

 

燈矢が呟いた。

 

死柄木が振り返る。

 

「何がだ」

 

「俺も、お前も、誰かに自分の人生を決められてきたんだろ」

 

燈矢は、自分の手を見つめた。

 

「それなのに、自分で選んだことの責任まで、誰かに取ってもらえると思っていた」

 

死柄木は何も言わなかった。

 

「親父のせいだ。ヒーロー社会のせいだ。あいつのせいだ。こいつのせいだ」

 

燈矢は笑った。

 

「全部、本当だった。全部、間違ってなかった。俺は傷つけられたし、奪われたし、望んでいたものを手に入れられなかった」

 

彼は顔を上げた。

 

「でも、それで俺が誰かを傷つけたことまで、なかったことになるわけじゃない」

 

死柄木は、燈矢を見つめた。

 

「……だから、どうする」

 

「分からねえよ」

 

燈矢は答えた。

 

「分からないから、これから考えるんだろ」

 

彼は死柄木の隣に立った。

 

「お前もそうしろよ」

 

「命令するな」

 

「してねえよ。提案だ」

 

「同じだ」

 

「違うだろ」

 

二人は睨み合った。

 

そして、どちらからともなく目を逸らした。

 

許し合ったわけではない。

 

理解し合ったわけでもない。

 

それでも、相手が何を望むのかを、自分が決めつけないことはできる。

 

それだけのことが、今は必要だった。

 

Ⅷ 死神が知っていた名前

「……見つけた」

 

死神は、ひとつの記録の前で足を止めた。

 

そこは、通常の記録領域から切り離された場所だった。

 

生者の記録。

 

死者の記録。

 

消去された記録。

 

未登録の記録。

 

それらの分類のどれにも属さない領域。

 

記録の外側。

 

あるいは、記録が作られる前の場所。

 

そこに、ひとつの扉があった。

 

扉には、名前がない。

 

鍵穴も、取っ手もない。

 

ただ、中央に小さな文字が刻まれていた。

願いを叶える者へ。

 

死神は、その文字を見つめた。

 

「……私宛てか」

 

返事はなかった。

 

彼は扉に手を触れた。

 

瞬間、視界が反転した。

 

足元が消える。

 

上下の感覚が消える。

 

距離の概念が消える。

 

その場所には、空も大地もなかった。

 

ただ、無数の光が浮かんでいた。

 

ひとつひとつが、誰かの記憶のようだった。

 

笑い声。

 

泣き声。

 

誰かを呼ぶ声。

 

誰かを忘れないでほしいと願う声。

 

そして、そのすべての奥に、ひとつの大きな影があった。

 

死神は、その影を見た瞬間、理解した。

 

いや、理解したと思った。

 

そこにいるものは、個人ではない。

 

ひとつの記憶でもない。

 

無数の願いが重なり合い、互いの境界を失いながら、ひとつの形を作っている。

 

それは、人間ひとりの声ではなかった。

 

人間たちが、長い時間をかけて積み重ねてきた声だった。

 

失いたくない。

 

忘れたくない。

 

苦しませたくない。

 

幸せになってほしい。

 

争いたくない。

 

愛されたい。

 

愛したい。

 

生きていてほしい。

 

死にたくない。

 

そして。

 

どうか、私を覚えていて。

 

無数の声が、死神の中へ流れ込む。

 

彼は膝をついた。

 

「……これは」

 

「集合無意識」

 

声が答えた。

 

死神は顔を上げた。

 

そこに立っていたのは、少女だった。

 

白い服。

 

黒い髪。

 

顔の上半分を覆う影。

 

受付端末の前にいた、あの少女。

 

「お前は……」

 

「私の名前は、まだありません」

 

少女は答えた。

 

「名前をつけると、あなたは私を一人の人間だと思うでしょう?」

 

死神は、息を呑んだ。

 

「違うのか」

 

「分かりません」

 

少女は、少し困ったように笑った。

 

「私は、誰かの願いかもしれません。誰かの記憶かもしれません。誰かが忘れたくなかったものかもしれません」

 

「なら、なぜ私を呼んだ」

 

「あなたが、願いを叶える者だからです」

 

死神は眉を寄せた。

 

「私は、願いを叶える者ではない」

 

「本当に?」

 

少女は首を傾げた。

 

「あなたは、死者を眠らせるでしょう?」

 

「……ああ」

 

「死者を、帰すでしょう?」

 

「必要なら」

 

「生者のために、死者を取り戻すこともあるでしょう?」

 

死神は答えなかった。

 

「あなたは、死者に何を望むのか聞きますか?」

 

「……聞く」

 

「では、生者には?」

 

「聞く」

 

「世界には?」

 

死神の言葉が止まった。

 

少女は、彼を見つめた。

 

「世界が何を望んでいるのか、あなたは聞いたことがありますか?」

 

その問いは、あまりにも奇妙だった。

 

世界が願う。

 

世界が望む。

 

世界が声を持つ。

 

そんなことが、あり得るのだろうか。

 

しかし、死神の目の前には、無数の願いがあった。

 

ひとつひとつは、人間のものだった。

 

けれど、それらが重なり合ったとき。

 

人間ひとりでは決して生み出せない、大きな何かが生まれている。

 

「……お前は、何者だ」

 

死神は、もう一度問いかけた。

 

少女は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「まだ、分かりません」

 

「なら、なぜここにいる」

 

「あなたが、私を忘れたから」

 

死神の心臓が、存在しないはずの痛みを訴えた。

 

「……私が?」

 

「はい」

 

少女は答えた。

 

「あなたが、最初に忘れた人」

 

その瞬間。

 

無数の光が、一斉に明滅した。

 

死神の頭の中に、ひとつの光景が蘇る。

 

世界が生まれる前。

 

何もなかった場所。

 

そこに、誰かが立っていた。

 

顔は見えない。

 

声も、まだ聞こえない。

 

ただ、その人物は死神に手を差し伸べていた。

 

そして、言った。

 

――あなたは、願いを叶えられるの?

 

死神は、答えた。

 

――願いを聞かせてくれ。

 

その記憶は、そこで途切れた。

 

死神は、震える手で頭を押さえた。

 

「……私は」

 

少女は、彼を見つめていた。

 

「あなたは、聞こうとしたんです」

 

「何を……?」

 

「私の願いを」

 

少女は言った。

 

「でも、世界が生まれたとき、あなたは私を忘れた」

 

死神は、顔を上げた。

 

「世界が生まれたとき……?」

 

少女は頷いた。

 

「だから、私はもう一度、あなたに聞いてほしいんです」

 

彼女の声は、震えていた。

 

「私が何を願ったのか」

 

死神は、答えられなかった。

 

自分が何者なのか。

 

最初の死者とは誰なのか。

 

なぜ世界創造以前の記録が存在するのか。

 

そして、なぜ自分は、その記憶を失ったのか。

 

答えは、まだ遠い。

 

それでも、ひとつだけ。

 

死神は、確かに覚えていた。

 

あの人物が、自分に手を差し伸べていたことを。

 

あの人物が、自分に願いを聞いてほしいと望んでいたことを。

 

そして。

 

自分が、その願いを聞こうとしたことを。

 

「……分かった」

 

死神は、少女を見つめた。

 

「お前の願いを聞こう」

 

少女の顔を覆う影が、わずかに揺れた。

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「叶えてくれるんですか?」

 

死神は、首を横に振った。

 

「まだ分からない」

 

少女は、目を見開いた。

 

「……どうして?」

 

「お前の願いを聞いていないからだ」

 

死神は、静かに答えた。

 

「聞いていない願いを、叶えるとは約束できない」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

やがて。

 

「……それでいいんです」

 

彼女は、泣きそうな声で笑った。

 

「それが、よかったんです」

 

その言葉を聞いた瞬間、死神の中で何かが崩れた。

 

ずっと、忘れていたもの。

 

ずっと、失っていたもの。

 

願いを叶えることよりも前に、願いを聞くこと。

 

救うと決めることよりも前に、相手が何を望んでいるのかを知ろうとすること。

 

それは、死神が最初に選んだことだったのかもしれない。

 

そして、最初に失ったものだったのかもしれない。

 

少女は、一歩下がった。

 

「でも、気をつけてください」

 

「何にだ」

 

「願いを聞けば、あなたも願ってしまうから」

 

死神の表情が変わった。

 

「……どういう意味だ」

 

少女は答えなかった。

 

代わりに、彼の背後を指さした。

 

そこに、もうひとつの影があった。

 

大きすぎて、形を認識できない。

 

深すぎて、底を見通せない。

 

無数の願いが集まる場所、そのさらに奥。

 

そこにいるものは、すべての声を聞いているようで。

 

同時に、誰の声も聞いていないようだった。

 

少女が、囁く。

 

「集合無意識の代表者」

 

影が、わずかに動いた。

 

「あるいは、私たちがそう呼んでいるだけの存在」

 

死神は、息を呑んだ。

 

「……アザトース」

 

その名を口にした瞬間。

 

無数の願いが、いっせいに沈黙した。

 

そして、影の奥から声が響いた。

 

『私は、何を願えばよかったのだろう』

 

死神は、動けなかった。

 

その声は、世界を見下ろす神の声ではなかった。

 

世界を作った者の誇りでもなかった。

 

むしろ。

 

世界が生まれる前から、誰かに問いかけることを許されなかった者の声だった。

 

『私は、願うことが許されていなかった』

 

影は、それ以上何も語らなかった。

 

少女も、消えていた。

 

残された死神は、暗闇の中でひとり立ち尽くしていた。

 

そして、初めて考えた。

 

もしも、アザトースが集合無意識の代表者なのだとしたら。

 

もしも、あの存在が無数の願いを受け止めているのだとしたら。

 

もしも、世界そのものが、誰かの願いから生まれたのだとしたら。

 

その世界を作った願いは、いったい誰のものだったのか。

 

誰が願ったのか。

 

誰が、その願いを聞いたのか。

 

そして。

 

誰が、その願いを叶えることを決めたのか。

 

Ⅸ 記録にない接続

「緑谷出久」

 

死神が戻ってきたとき、出久は端末の前で待っていた。

 

「どこへ行っていたの?」

 

「記録の外側だ」

 

「……それ、説明になってる?」

 

「私にも説明できない」

 

「そっか」

 

出久は、意外にも追及しなかった。

 

「何か分かったんだね」

 

死神は頷いた。

 

「集合無意識に接続した」

 

出久の表情が変わる。

 

「集合無意識?」

 

「世界に存在する無数の願い、記憶、感情。それらが重なり合う場所だ。少なくとも、私はそう認識した」

 

「誰かが作ったシステムなの?」

 

「分からない」

 

「そこには、誰がいた?」

 

死神は、少しだけ考えた。

 

「……少女がいた」

 

「少女?」

 

「名前のない少女だ。私が最初に忘れた者だと言っていた」

 

出久は息を呑んだ。

 

「それって、最初の死者と同じ人物なの?」

 

「まだ断定できない」

 

「うん」

 

「そして、もうひとつ」

 

死神は、声を低くした。

 

「集合無意識の奥に、アザトースがいた」

 

出久は、しばらく黙っていた。

 

「……アザトース」

 

その名には、どこか聞き覚えがあった。

 

記録の断片。

 

謎の声。

 

世界創造以前の存在。

 

そして、願うことを許されなかった者。

 

「死神」

 

「何だ」

 

「アザトースは、世界を作ったの?」

 

「分からない」

 

「集合無意識そのものなの?」

 

「分からない」

 

「それとも、集合無意識が生み出した存在?」

 

「分からない」

 

出久は、困ったように笑った。

 

「分からないことだらけだね」

 

「今さらだろう」

 

「そうだけど」

 

出久は、端末の記録を開いた。

 

そこには、世界創造以前のデータが並んでいる。

 

死神の存在登録。

 

最初の死者。

 

患者番号零。

 

消去された記憶。

 

未登録の願い。

 

そして、アザトース。

 

それらの情報は、互いに関連しているように見えた。

 

しかし、どこにも決定的な証拠はない。

 

「……もしかすると」

 

出久は呟いた。

 

「僕たちが今まで調べていた記録って、世界が生まれたあとに作られたものだけじゃないのかもしれない」

 

死神は、彼を見つめた。

 

「何が言いたい」

 

「世界が生まれる前から、何かが存在していた。誰かが願っていた。誰かが、その願いを聞こうとしていた」

 

出久は、記録を見つめた。

 

「でも、世界が生まれたときに、その関係が壊れた」

 

「……」

 

「だから、記録が消えている。名前が消えている。死神の記憶も消えている」

 

死神は答えなかった。

 

「まだ仮説だけどね」

 

出久は続けた。

 

「もしそうなら、世界を作ったこと自体が、誰かの願いを叶える行為だったのかもしれない」

 

その瞬間。

 

端末の画面に、警告が表示された。

未登録の構造を検出。

 

世界樹接続情報:存在。

 

記録領域:アカシックレコード。

 

接続先:集合無意識。

 

接続装置:未確認。

 

世界創造以前の情報との関連性:否定不能。

 

出久は目を見開いた。

 

「世界樹……?」

 

死神は、画面を凝視した。

 

「アカシックレコード……」

 

二つの名称が、別々の記録領域から浮かび上がっていた。

 

世界をつなぐ根。

 

あらゆる存在の記録。

 

そして、無数の願いが集まる場所。

 

その三つが、ひとつの構造の中で接続されている。

 

ただし、接続の仕組みは不明だった。

 

装置の存在も、確認されていない。

 

「……まだ、結論を出すな」

 

死神は言った。

 

「うん」

 

出久は頷いた。

 

「でも、調べる価値はある」

 

「危険かもしれない」

 

「それでも、知らないままにはできない」

 

死神は、出久を見つめた。

 

「お前は、何を望んでいる」

 

出久は、少しだけ考えた。

 

「世界がどうやって生まれたのか、知りたい」

 

「それだけか」

 

「ううん」

 

出久は、首を横に振った。

 

「誰かの願いを叶えるために、別の誰かの声が消されたのなら。その人の声も、ちゃんと聞きたい」

 

死神は、目を閉じた。

 

その願いは、あまりにも危うい。

 

真実を知れば、救われるとは限らない。

 

声を聞けば、許せるとは限らない。

 

願いの持ち主を見つけても、願いを叶えられるとは限らない。

 

それでも。

 

「……分かった」

 

死神は答えた。

 

「次は、記録の接続構造を調べる」

 

出久は頷いた。

 

二人は、まだ何も解決していない。

 

しかし、これまでとは違う問いを持っていた。

 

願いを叶える者は、誰の声を聞くのか。

 

そして、誰の声を聞かなかったのか。

 

Ⅹ 願いを叶える者は、誰の声を聞く

その夜。

 

平和維持システムの最深部で、ひとつの処理が開始された。

願いの実現手順を再検証します。

 

システムは、過去に実行した願いを一つずつ呼び出した。

 

救われた者。

 

救われなかった者。

 

生き返った者。

 

帰ることを許されなかった者。

 

記憶を取り戻した者。

 

記憶を失った者。

 

それぞれの願いに対し、システムは実現可能な最適解を計算していた。

 

しかし、今度は別の項目を追加した。

願いを発した者の意思。

 

願いの対象者の意思。

 

願いの実現によって影響を受ける者の意思。

 

願いの実現を拒否する権利。

 

願いが変化する可能性。

 

処理速度は大幅に低下した。

 

実現可能性の判定には、これまでの何倍もの時間が必要になった。

 

それでも、システムは計算を続けた。

 

ある願いに対しては、答えを出せなかった。

 

別の願いに対しては、実現しないという結論が出た。

 

さらに別の願いには、複数の解決策が提示された。

 

どれが正しいのかは、システムには判断できなかった。

 

だから、システムはその記録を保留した。

 

そして、初めて、こう表示した。

回答できません。

 

本人に確認する必要があります。

 

その処理を監視していた死神は、静かに画面を見つめた。

 

「……少しは進歩したな」

 

「これは、正しい判断なのでしょうか」

 

システムが尋ねた。

 

「分からない」

 

死神は答えた。

 

「だが、少なくとも、お前が一人で決める必要はない」

 

「私は、判断を放棄しているのでしょうか」

 

「違う」

 

死神は首を横に振った。

 

「自分が決めるべきことと、自分だけでは決められないことを区別しているんだ」

 

「……」

 

「判断を委ねることは、責任を捨てることではない。相手の意思を聞くことは、相手にすべてを押しつけることでもない」

 

死神は、画面の向こうにいるシステムを見つめた。

 

「お前が何をしたのか。何を間違えたのか。誰を傷つけたのか。それは、お前が考え続けなければならない」

 

「はい」

 

「そして、これから何をするのかも、お前自身が選ばなければならない」

 

「……はい」

 

システムの処理が、一瞬だけ停止した。

 

「死神」

 

「何だ」

 

「あなたは、最初の願いを叶えたのですか」

 

死神は、動きを止めた。

 

「……分からない」

 

「最初の死者の願いです」

 

「分からない」

 

「あなたは、その人物を忘れたのですか」

 

死神は、答えなかった。

 

答えられなかった。

 

自分が忘れたのか。

 

誰かに忘れさせられたのか。

 

世界が生まれるために、記憶が失われる必要があったのか。

 

それとも、願いを叶えた結果として、何かを失ったのか。

 

何も分からない。

 

ただ、少女の声だけが、まだ耳に残っていた。

 

――あなたが、私を忘れたから。

 

死神は目を閉じた。

 

「……もし、私がその願いを叶えたのだとしても」

 

彼は、ゆっくりと答えた。

 

「それが正しかったとは、まだ言えない」

 

システムは、その回答を記録した。

判断保留。

 

再検証予定:未定。

 

死神は、画面を見つめた。

 

「それでいい」

 

そして、彼は初めて、自分自身に向けて問いかけた。

 

自分は、何を願っていたのだろう。

 

誰かを救いたかったのか。

 

誰かを苦しみから解放したかったのか。

 

世界を守りたかったのか。

 

それとも。

 

誰かに、自分の存在を必要としてほしかったのか。

 

答えは、まだなかった。

 

だが、死神はその問いを消さなかった。

 

そのとき。

 

記録領域の最深部で、未登録の接続が再び発生した。

接続先:集合無意識。

 

接続経路:不明。

 

使用装置:不明。

 

接続主体:不明。

 

画面が暗転する。

 

無数の声が、遠くから響いてきた。

 

誰かを救いたい。

 

誰かを取り戻したい。

 

誰かを忘れたくない。

 

誰かに、忘れられたくない。

 

無数の願いが重なり合う。

 

その奥に、あの声があった。

 

『私は、何を願えばよかったのだろう』

 

声は、もう一度問いかけた。

 

『誰かが私の願いを叶えてくれるのなら』

 

一瞬、すべての声が止まった。

 

『私は、誰に願えばよかったのだろう』

 

その問いに、答える者はいなかった。

 

世界は、まだその声を聞いていなかった。

 

あるいは。

 

聞いていたのに、聞かなかったことにしていたのかもしれない。

 

そして、記録の最深部に、ひとつの文字列が浮かび上がった。

DEUS MACHINA

 

接続条件:未達。

 

起動履歴:世界創造以前。

 

最終使用者:記録欠損。

 

最終接続先:集合無意識。

 

誰も、その装置の存在を知らなかった。

 

誰も、その起動を記憶していなかった。

 

それでも、装置は確かに存在していた。

 

世界が生まれる前から。

 

そして、その装置が接続した先には。

 

アザトースがいた。

 

願いを叶える者。

 

願いを受け止める者。

 

願いを生み出す者。

 

そのどれなのかさえ、まだ分からない存在。

 

世界のすべての願いが集まる場所で、アザトースは、ただひとつの問いを抱えていた。

 

――私は、何を願えばよかったのだろう。

 

その問いこそが、世界の始まりだったのか。

 

それとも。

 

世界が始まったことで、永遠に答えを失った問いだったのか。

 

まだ、誰にも分からない。

 

ただひとつ、確かなことがある。

 

願いを叶える者は、誰かの声を聞かなければならない。

 

そして。

 

その声を聞くことを、誰かに許してもらう必要がある世界は。

 

最初から、どこか間違っていたのかもしれない。

 

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