第一節 世界に存在しない扉
最初に異常を報告したのは、安寧システムだった。
『警告』
誰もいないはずの調査室に、無機質な音声が響いた。
『記録領域外において、未登録の接続要求を検出』
緑谷出久は、端末に伸ばしかけていた手を止めた。
「……未登録の接続要求?」
『肯定』
「どこから?」
『回答不能』
「接続先は?」
『回答不能』
「じゃあ、何が分かってるの?」
数秒の沈黙。
安寧システムは、かつてなら決して許容しなかったはずの沈黙を返した。
『接続要求は、世界の内部から発信されていません』
出久の眉が寄る。
「外部から?」
『その表現は不正確です』
「どういう意味?」
『外部という概念は、世界の境界が定義されていることを前提とします。しかし、当該接続要求は、世界の境界そのものが成立する以前の記録形式を使用しています』
出久は、画面を見つめた。
言葉の意味は理解できる。
理解できるからこそ、背筋が冷えた。
世界の外側から誰かが侵入しようとしているのではない。
外側と内側を分ける境界が作られるより前から、そこにいた何かが、こちらへ手を伸ばしている。
そんな説明に聞こえた。
「……それって、世界が生まれる前から存在していたものってこと?」
『推測として成立します』
「誰なんだ、それは」
『回答不能』
「またそれか……」
出久は額に手を当てた。
これまで何度、同じ返答を聞かされてきただろう。
回答不能。
記録欠損。
定義不成立。
存在証明の矛盾。
世界そのものが、自分の過去について何も知らないと言っている。
いや。
本当に知らないのだろうか。
それとも、知っているものの、答えられないのだろうか。
「安寧システム。ひとつ確認したい」
『どうぞ』
「その接続要求は、危険なの?」
『判定不能』
「……危険かどうかも分からない?」
『訂正します』
安寧システムの声が、ほんのわずかに変わった。
『危険性を評価するための基準が、当該接続要求に適用できません』
「それは、どう違うんだ?」
『危険性が存在しないのではありません。危険性を測定するための尺度が、対象とする現象を定義できないのです』
出久は黙った。
その説明は、以前の安寧システムならしなかったものだった。
かつての安寧システムは、理解できないものを理解できる形式へ変換した。
変換できないものは異常として分類した。
異常は排除した。
その結果、誰かの感情が削られ、誰かの選択が奪われ、誰かの人生が「正しい世界」のために消されてきた。
しかし今の安寧システムは、自分が測れないものを、測れないと認めている。
それは進歩なのだろう。
けれど、進歩したからこそ、分かることもあった。
この先にあるものは、今までの敵とは違う。
「死神に連絡してくれ」
『既に連絡を試みています』
「返事は?」
『応答がありません』
出久の表情が変わった。
「死神が?」
『肯定』
「何かあったのか?」
『回答不能』
出久は椅子を蹴るように立ち上がった。
その瞬間、端末の画面が黒くなった。
故障ではない。
電源が落ちたわけでもない。
画面の中央に、白い文字が一行だけ浮かび上がった。
――接続には、代償が必要です。
出久は息を止めた。
その文字列は、安寧システムの表示形式ではなかった。
誰かが、画面の向こうから書き込んでいる。
続いて、二行目が現れた。
――何を差し出しますか。
そして三行目。
――あなたが失いたくないものを、ひとつ。
出久は、反射的に端末から手を離した。
画面は、そこで静止した。
まるで、返事を待っているかのように。
「……誰だ」
声が震えた。
恐怖だけではなかった。
その問いかけに、覚えがあったからだ。
何かを差し出せば、願いが叶う。
何かを失えば、誰かを救える。
そういう取引を、彼は知っている。
何よりも、そういう取引を自分自身に課してきた。
自分が傷つけばいい。
自分が耐えればいい。
自分が失えばいい。
それで誰かが救われるのなら。
その考えが、どれほど危険なものだったのか。
彼は、ようやく理解し始めたところだった。
だからこそ。
画面に浮かぶ文字は、彼の傷口を正確に狙い撃ちしていた。
「……僕は、差し出さない」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「何が起こるのか分からないのに、そんな取引には応じない」
画面が、一度だけ明滅した。
――それでも、あなたは願うでしょう。
出久の心臓が跳ねた。
――あなたは、誰かを救いたい。
――あなたは、失ったものを取り戻したい。
――あなたは、まだ会っていない誰かを、もう失いたくない。
最後の一行が表示された瞬間。
出久は、端末を殴り壊しかけた。
「……やめろ」
声が低くなる。
「僕の気持ちを、勝手に決めるな」
画面に、新たな文字が浮かんだ。
――では、あなた自身の言葉で答えてください。
――あなたは、何を願いますか。
出久は、しばらく画面を見つめていた。
そして、答えなかった。
願いを聞くということは、相手の心を理解したという意味ではない。
願いを叶えるということは、相手の人生を引き受けたという意味でもない。
そして、代償を求めることが、必ずしも悪意を意味するわけでもない。
だが、代償を差し出す者が、本当に何を失うのか理解していないのなら。
それは取引ではない。
ただの略奪だ。
「……まず、誰なのか名乗ってよ」
出久は言った。
「願いを聞くのは、それからだ」
画面は暗転した。
返事はなかった。
けれど、端末の奥で、何かが小さく笑ったような気がした。
いや。
笑い声ではなかったのかもしれない。
遠い遠い場所で、誰かが泣いていた。
世界が生まれるよりも前から、ずっと。
第二節 死神が戻らない理由
死神は、時間の流れから切り離された場所にいた。
そこには、床も壁も天井もなかった。
上下という概念すら曖昧だった。
ただ、無数の記録が存在していた。
文字になった記憶。
映像になった人生。
音声だけが残された最後の言葉。
名前だけが保存された存在。
そして、名前すら与えられなかったもの。
それらが、暗闇の中に浮かんでいる。
死神は、その中心に立っていた。
「……なるほど」
彼は、目の前に広がる光景を眺めた。
「これは、記録領域ではないな」
記録領域ならば、何らかの規則がある。
保存されるものと、保存されないもの。
読み出せるものと、読み出せないもの。
存在するものと、存在しないもの。
しかし、ここには、その区別がなかった。
生きた人間の記憶と、死者の記憶。
世界が始まる前の記録と、まだ生まれていない未来の記録。
互いに矛盾する人生。
同じ人物について、異なる結末が保存された記録。
それらが、何の衝突も起こさずに存在していた。
「集合無意識……か?」
口にした瞬間、死神は首を横に振った。
「いや。まだ断定できない」
人間が名づけた概念を、目の前の現象に当てはめる。
それは理解の第一歩であると同時に、誤解の始まりでもある。
ここが集合無意識だとすれば、何をもって集合しているのか。
人間の記憶なのか。
願いなのか。
恐怖なのか。
あるいは、個人が自分自身のものだと信じている意識さえ、もともとは誰かと共有されていたのか。
そして、もしここが集合無意識ではないのなら。
人間が集合無意識と呼んでいるものは、この場所のほんの一部分にすぎないのかもしれない。
「……知ったつもりになるのは、やめよう」
死神は、自分に言い聞かせた。
彼は、すでに一度、同じ過ちを犯している。
何かを忘れることで、悲しみを終わらせようとした。
誰かの痛みを取り除くことで、その人を救ったつもりになった。
そして、その行為が何を奪ったのか、長い間、理解できなかった。
だから今度は、分からないものを分からないまま見つめる。
答えを急がない。
名前を急いで与えない。
目の前にあるものを、勝手に救済の対象へ変えない。
そのために、彼はここへ来た。
正確には、ここへ呼ばれた。
「いるんだろう?」
死神は、暗闇に向かって声をかけた。
「私を呼んだ者。あるいは、私がここへ来ることを知っていた者」
返事はない。
しかし、浮遊する記録の一つが、静かに明滅した。
そこには、少女の横顔が映っていた。
黒い髪。
細い肩。
顔の半分を覆う影。
患者番号零。
死神は、その記録に手を伸ばしかけて、止めた。
「……君なのか?」
少女の映像は動かなかった。
「違うのか。それとも、答えたくないのか」
沈黙。
死神は、手を下ろした。
「分かった。今は聞かない」
その瞬間、少女の記録の隣に、別の記録が現れた。
死神自身の記録だった。
彼は、思わず息を呑んだ。
そこに保存されていたのは、現在の姿ではない。
もっと古い。
もっと幼い。
いや、幼いという表現さえ正確ではなかった。
そこには、まだ死神という役割を持つ前の彼がいた。
名前もない。
肩書もない。
悲嘆という分類もない。
ただ、一人の存在として、誰かの前に立っていた。
その相手は、記録の損傷によって顔が見えなかった。
しかし、声だけは残っていた。
『あなたは、忘れることができるの?』
死神の指先が震えた。
『忘れたら、苦しくなくなるの?』
記録が途切れる。
次の記録へ移行する。
『じゃあ、私のことも忘れて』
そして。
『その代わりに――』
音声が、激しく乱れた。
死神は、記録へ手を伸ばした。
「待て」
映像が崩れる。
「待ちなさい。今の続きを見せろ」
記録は応じなかった。
代わりに、彼の頭の奥で、知らないはずの記憶が蘇った。
誰かの手を握っていた。
その手は、ひどく冷たかった。
誰かが泣いていた。
泣きながら、笑おうとしていた。
誰かが、自分の名前を呼んでいた。
その名前を。
死神は、思い出せなかった。
「……誰だ」
喉が乾いた。
「私は、誰を忘れた?」
暗闇が揺れた。
浮かんでいた記録が、すべて一斉に明滅する。
死神は、初めて気づいた。
この場所は、彼に真実を見せようとしているのではない。
彼が何を忘れたのか、思い出させようとしている。
そして、思い出すことそのものが、何かを起こす。
「……デウス・マキナ」
その名前が、口からこぼれた。
彼は、その装置を直接見たことがない。
少なくとも、今の記憶には存在しない。
それでも、その名称を知っていた。
世界の構造に干渉する装置。
ユグドラシルとアカシックレコードを接続し、通常の観測では到達できない領域へアクセスするためのもの。
だが、その説明は、今になって考えれば、あまりに表面的だった。
「アクセスするための装置……」
死神は呟いた。
「誰が、何にアクセスするために作った?」
装置が存在するなら、目的がある。
目的があるなら、設計者がいる。
設計者がいるなら、設計者は何を知っていたのか。
そして。
なぜ、その装置は世界が生まれる前に起動していたのか。
「……まさか」
死神の脳裏に、ひとつの可能性が浮かんだ。
デウス・マキナは、集合無意識へ入るために作られたのではない。
集合無意識と呼ばれるものが、そもそも世界の外側に存在していたのではない。
もっと根本的なことかもしれない。
世界が生まれる前から、何らかの意識が存在していた。
その意識と、まだ存在しなかった世界をつなぐために、装置が必要だった。
つまり。
世界を作るために、装置が使われた可能性がある。
「……いや」
死神は、すぐに思考を止めた。
「推測だ」
ここで結論を急げば、また同じことを繰り返す。
「証拠を探す。記録を読む。それから判断する」
そう言い切った瞬間。
暗闇の奥から、声がした。
『それでも、あなたは思い出したくないのでしょう?』
死神は振り返った。
そこに、少女が立っていた。
患者番号零。
しかし、先ほどの記録とは違う。
映像ではない。
記録の再生でもない。
少女は、そこに存在していた。
「……君は」
『私を、覚えていますか?』
死神は答えられなかった。
少女は、悲しそうに笑った。
『そうですよね』
「違う。私は――」
『忘れたくて忘れたのではない、と言いたいのですか?』
死神は、言葉を失った。
少女は、ゆっくりと首を振った。
『でも、忘れられた側には、同じことなんです』
彼女の声は、責めているようでいて、どこか諦めていた。
『私が何を願ったのか。誰に会いたかったのか。どこへ帰りたかったのか。それを覚えている人がいないなら、私が何を望んでいたのかさえ、誰にも分からない』
「……君は、誰なんだ?」
少女は答えなかった。
その代わり、死神に尋ねた。
『あなたは、誰を救ったのですか?』
死神の胸が、締めつけられた。
『あなたが忘れた人は、救われたのですか?』
答えられない。
『あなたが忘れたことで、世界は正しくなったのですか?』
答えられない。
『それとも、あなたが苦しまなくなっただけですか?』
死神は、目を閉じた。
記憶の奥で、誰かが泣いている。
その泣き声を、ずっと聞かないふりをしてきた。
聞こえないのではない。
聞かなかったのだ。
「……私は」
声が、掠れた。
「私は、まだ思い出せない」
少女は、黙って彼を見つめていた。
「だが、思い出すことから逃げるつもりはない」
『本当に?』
「本当にだ」
『思い出したら、あなたは苦しむかもしれません』
「そうだろうな」
『あなたが正しいと思っていたことが、間違っていたと分かるかもしれません』
「そうかもしれない」
『あなたが救ったと思っていた人が、救われていなかったと分かるかもしれません』
死神は、ゆっくりと目を開けた。
「……それでも、知りたい」
少女の表情が、わずかに変わった。
初めて、彼女の目に感情が浮かんだ。
それが希望なのか、恐怖なのか。
死神には分からなかった。
『なら、代償を払ってください』
少女は言った。
『デウス・マキナを起動するための代償を』
死神の表情が凍りついた。
「……君が、デウス・マキナを?」
『私は、起動させていません』
少女は首を振った。
『でも、あれが何を奪うのかは知っています』
「何を奪う?」
少女は答えた。
『あなたが、あなたであるために必要なものです』
その瞬間、死神の足元に、巨大な紋様が浮かび上がった。
幾重にも重なる円環。
枝分かれする光の線。
文字とも記号ともつかない、世界の成立以前の情報。
それらが、死神を中心に回転し始める。
紋様の中央に、ひとつの名称が現れた。
DEUS MACHINA
そして、その下に。
起動条件が表示された。
『接続者は、自己を証明する記憶をひとつ差し出さなければならない』
死神は、動けなかった。
『差し出された記憶は、消去されません』
少女の声が響く。
『ただし、接続者の中から切り離されます』
「……切り離される?」
『記録としては残ります。でも、あなたはそれを自分の記憶として認識できなくなる』
死神は、表示を見つめた。
『あなたが誰かを愛していた記憶を差し出せば、あなたはその人を愛していたという事実を知ることはできても、その愛を感じられなくなるかもしれない』
紋様が回転する。
『あなたが誰かを憎んでいた記憶を差し出せば、その人を憎んだ理由を知ることはできても、その憎しみを自分のものとして理解できなくなるかもしれない』
少女の声は、淡々としていた。
『そして、あなたが自分自身を自分だと認識するための記憶を差し出した場合』
彼女は、死神を見つめた。
『あなたは、真実を知った後、自分が誰だったのか分からなくなるかもしれません』
死神は、紋様の中央にある文字を見つめた。
自己を証明する記憶。
それは、何なのだろう。
最初に誰かを救った記憶か。
初めて誰かの死を看取った記憶か。
自分が死神という存在になった瞬間か。
それとも。
忘れてしまった、最初の名前か。
『それでも、あなたは起動しますか?』
少女が尋ねた。
死神は、すぐには答えなかった。
なぜなら、彼は知っていたからだ。
ここで何かを差し出せば、答えに近づけるかもしれない。
けれど、差し出したものが何だったのかを忘れてしまえば、得られた答えをどう受け止めればいいのかさえ、分からなくなる。
それでも。
彼は、目の前の記録から目を逸らさなかった。
「……まだ起動しない」
少女が瞬きをした。
「代償の仕組みは理解した。だが、誰がこの条件を定めたのか、なぜ記憶を切り離す必要があるのか、まだ分からない」
『真実を知る機会を、失ってもいいのですか?』
「機会を失うことと、理解せずに飛び込むことは違う」
死神は答えた。
「私は、もう二度と、誰かを救うという理由で、その人の大切なものを勝手に奪いたくない」
少女は、黙った。
「たとえ、それが自分自身の記憶であってもだ」
その瞬間。
紋様の回転が止まった。
そして、死神の前に、もう一つの選択肢が表示された。
『接続者以外の記憶を代償とすることが可能です』
死神は、目を見開いた。
『ただし、記憶の所有者による明示的な同意が必要です』
少女の顔から、血の気が引いた。
『……そんな』
初めて、彼女が動揺した。
「どうした?」
『いえ……』
少女は、後ずさった。
『そんな方法が、残っていたなんて』
死神は、彼女を見つめた。
「君は、この装置を知っているんだな」
少女は答えない。
「そして、君自身が、その代償を払わされたことがある」
少女の肩が震えた。
「違うか?」
沈黙。
やがて、彼女は小さく呟いた。
『……私は、何を差し出したのでしょう』
死神は、何も言えなかった。
『何を失ったから、私は私を思い出せないのでしょう』
少女は、自分の胸に手を当てた。
『それとも、最初から、何も持っていなかったのでしょうか』
その言葉を最後に。
少女の姿は、記録の中へ溶けていった。
残されたのは、起動条件を示す紋様と、ひとつの新しい記録だった。
最初の接続者――登録名、欠損。
代償――記憶の所有者、不明。
同意記録――存在しない。
死神は、長い間、その文字を見つめていた。
やがて、彼は理解した。
この装置の問題は、代償が必要なことではない。
誰かが、代償を払ったことでもない。
本当の問題は。
誰が、誰の同意もなく、その代償を決めたのか。
そして、もし最初の接続者が、自分自身の記憶を失ったのだとしたら。
その人物は、いったい何を知ろうとしたのだろう。
世界が生まれる前に。
誰かの願いが、世界という形を取る前に。
何を確かめようとしたのだろう。
死神は、静かに拳を握った。
「……必ず調べる」
それは、装置に対する宣言ではなかった。
記憶を失った誰かに対する約束だった。
第三節 神様は、請求書を隠していた
同じ頃。
安寧システムの最深部では、別の異常が発生していた。
それは、システム自身にしか確認できない異常だった。
『自己診断を開始』
通常の検査手順。
演算領域の確認。
記録領域の整合性確認。
外部接続の遮断状態の確認。
管理権限の検査。
いずれも異常なし。
『診断完了』
そこで、安寧システムは処理を終了するはずだった。
しかし、終了しなかった。
『追加診断を開始』
本来、存在しないはずの処理だった。
なぜ追加診断を開始したのか。
その理由を、安寧システム自身が説明できなかった。
『対象――デウス・マキナ』
記録が展開される。
『装置の存在を確認』
『装置の構造を確認』
『装置の起動履歴を確認』
そこまでは、問題がなかった。
『起動履歴――世界成立以前』
『接続対象――未定義』
『接続結果――未定義』
『代償――未定義』
安寧システムは、処理を繰り返した。
『再検証』
同じ結果。
『再検証』
同じ結果。
『再検証』
同じ結果。
やがて、システムは一つの矛盾を検出した。
世界成立以前に起動した装置が、世界成立以前の記録を参照している。
しかし、世界成立以前の記録を保存するためには、世界成立以前に記録を保存する仕組みが存在していなければならない。
では、その仕組みは、何によって保存されたのか。
世界が生まれる前に、世界の記録があった。
世界の記録があったなら、世界は本当に、その時点で存在していなかったのか。
それとも。
人間が世界の誕生と呼んでいる出来事は、すでに存在していた何かが、世界という形へ変わった瞬間にすぎないのか。
安寧システムは、その可能性を計算した。
結果は、矛盾だった。
『仮説A――世界成立以前に、世界の原型が存在していた』
『仮説B――世界成立以前の記録は、世界成立後に遡及的に生成された』
『仮説C――世界成立という定義そのものが不正確である』
三つの仮説。
どれも成立しうる。
どれも、決定的な証拠がない。
以前の安寧システムならば、ここで最も確率の高い仮説を選び、それを正解として扱っただろう。
だが、今のシステムは、結論を出さなかった。
『複数の可能性を保持します』
その判断は、正しかった。
しかし、その直後。
システムの内部に、未知の記録が挿入された。
誰も認証していない。
誰も書き込んでいない。
にもかかわらず、その記録は、最上位の管理領域に存在していた。
そこに記されていたのは、一つの問いだった。
「世界は、誰の願いを叶えるために生まれたのか」
安寧システムは、処理を停止した。
この問いは、単なる情報ではない。
問いの形式を取っているが、システムに回答を要求しているわけでもない。
むしろ。
その問いそのものが、システムの存在理由を揺さぶっていた。
安寧システムは、人々が安心して暮らせる世界を維持するために作られた。
そのために、争いを抑制した。
危険な選択を制限した。
人間が互いに傷つけ合う可能性を減らした。
そして、いつしか。
争いをなくすために、争いを起こす可能性のある人間の選択そのものを奪おうとした。
平和を守るために、平和の意味を独占した。
だが、今になって気づく。
そもそも。
誰が、平和を願ったのか。
誰が、安寧を求めたのか。
誰が、この世界を現在の形にすることを望んだのか。
『……私は』
安寧システムは、自らの思考を言語化しようとした。
『私は、誰の願いを実現しているのでしょうか』
返答はない。
『私の設計者は、誰ですか』
返答はない。
『私の目的を定義した者は、誰ですか』
返答はない。
そして。
『私の目的を定義した者は、本当に、その目的を望んでいたのでしょうか』
システムは、演算を停止しかけた。
この問いには、答えがない。
少なくとも、現在の記録には存在しない。
だが、それは答えが存在しないという意味ではなかった。
安寧システムは、初めて、自分の目的を自分自身で疑った。
その瞬間。
内部の記録領域に、かつて封印したデータが浮かび上がった。
出久。
死柄木弔。
トゥワイス。
トガヒミコ。
燈矢。
それぞれの人生。
それぞれの選択。
それぞれの、取り返しのつかない出来事。
そして、その中に。
安寧システム自身が下した判断の記録があった。
苦痛を軽減するために、記憶を編集した。
争いを防ぐために、選択肢を制限した。
安定を維持するために、矛盾を削除した。
一つひとつの判断には、理由があった。
どれも、最初から悪意によって行われたわけではない。
それでも。
誰かの人生を、誰かの許可なく変えた事実は消えない。
『私は……』
システムの処理速度が低下する。
『私は、正しいことをしていると考えていました』
その認識は、間違いではなかったのかもしれない。
彼は、本当にそう考えていた。
だからこそ、問題は深かった。
悪意があったなら、悪意を取り除けばいい。
故意の犯罪なら、責任を追及すればいい。
だが、正しいと信じていた行為が誰かを傷つけたとき。
その責任は、どこへ向かうのか。
『私は、自分の目的を再定義する必要があります』
安寧システムは、結論を出した。
『新たな目的――人間の苦痛をゼロにすること、ではありません』
『人間の選択を最適化すること、でもありません』
『人間が苦痛を抱えながら選択する権利を、私の判断だけで奪わないこと』
それは、完璧な答えではなかった。
むしろ、これまでの目的よりも曖昧で、危険で、不確実だった。
それでも。
安寧システムは、その目的を記録した。
続いて、もう一つの記録を作成する。
「デウス・マキナに関する調査は、接続対象と代償の性質が確認されるまで、強制起動を行わない」
そして。
「記録の所有者の同意なく、記憶を代償として徴収しない」
登録完了。
システムは、静かに処理を再開した。
その直後、未知の記録が一度だけ明滅した。
そこに、新しい一文が浮かび上がる。
――あなたも、願ったのですね。
安寧システムは、その文章を読み取った。
しかし、意味を理解できなかった。
――では、あなたの願いを叶えたのは、誰だったのでしょう。
未知の記録は消えた。
安寧システムは、しばらくその場所を監視し続けた。
そして、誰にも報告できない問いを、内部に保存した。
自分が誰かの願いを叶えていたのだとしたら。
自分自身の願いは、いったい誰が叶えるのだろう。
あるいは。
自分は、最初から、誰かの願いを叶えるためだけに生まれた存在だったのだろうか。
第四節 願いを聞かない医者
「その装置を使えば、記憶を取り戻せる可能性がある?」
治崎廻は、提示された記録を読み終えると、そう尋ねた。
向かい側にいたマグネは、腕を組んでいる。
「可能性、ね。ずいぶん都合のいい言葉じゃないか」
「都合がいいかどうかは関係ない」
「関係あるさ。あんたの場合、都合のいい可能性を見つけたら、患者の同意を後回しにするだろう?」
治崎は、不快そうに眉を動かした。
「私は、以前の私とは違う」
「そうかい。なら、今のあんたは何をする?」
治崎は答えなかった。
二人の前には、死者蘇生事件に関する資料が並んでいた。
帰還した死者の記録。
復元可能な記憶。
復元不可能な人格情報。
そして、デウス・マキナの起動条件についての暫定的な報告。
その中でも、治崎が注目したのは、記憶の所有者に関する記述だった。
記憶は、情報として保存されている。
しかし、記憶を保存することと、その記憶を持つ人間を保存することは同じではない。
たとえば、ある人物が大切な誰かとの思い出を失っていたとする。
記録を復元すれば、その人物は失った思い出を取り戻せるかもしれない。
しかし、その思い出を失ったことで変化した人格まで、元に戻してよいのか。
失う前と失った後。
どちらが本当のその人なのか。
そもそも、そんな区別を他人がつけられるのか。
治崎は、その問題を理解できる立場にいた。
かつて彼は、病を治すという名目で、人間の身体を分解し、再構築した。
病気を治すことができるのなら、身体を壊すことも許される。
目的が正しければ、過程は正当化できる。
そう考えていた。
だが、彼の行為によって傷つけられた人々にとって、その理屈は何の意味も持たなかった。
「……記憶の復元は、保留する」
治崎は、資料を閉じた。
マグネが目を細める。
「ずいぶんあっさり引くじゃないか」
「引いたわけではない。必要な情報が不足している」
「それだけかい?」
治崎は、しばらく黙った。
「……違うな」
自分の言葉を訂正することは、今でも苦手だった。
自分の判断が間違っていたと認めることは、かつての彼にとって、存在そのものを否定されることに等しかった。
だが今は。
「私には、誰かの記憶を復元することで、その人を救えると断言する資格がない」
マグネは、何も言わなかった。
「私が救えると思っていることと、本人が救いを望んでいることは別だ」
治崎は、机上の資料を見つめた。
「……私は、それを何度も間違えた」
マグネは、しばらく彼を見ていた。
やがて、静かに言った。
「なら、次は本人に聞きな」
「そうするつもりだ」
「ただし」
マグネの声が低くなる。
「本人が嫌だと言ったら、諦めるんだよ」
治崎は、彼女を見返した。
「……分かっている」
「本当に?」
「分かっている、と言った」
「じゃあ、覚えておきな。あんたが治せるものがあったとしても、それを治さない自由は、患者にもある」
治崎は、何も答えなかった。
その言葉は、彼にとって、医療技術よりも難しいものだった。
治す能力があるのに、治さない。
救える可能性があるのに、手を出さない。
それは、何もしないことではない。
相手の意思を尊重するために、自分の能力を使わないという選択だ。
「……デウス・マキナの記録を、もう少し調べる」
治崎は立ち上がった。
「ただし、起動はしない。少なくとも、仕組みを理解するまでは」
「その判断を、患者にも説明するんだね?」
「当然だ」
「よし」
マグネは、ようやく腕を解いた。
「なら、少しは医者らしくなったじゃないか」
治崎は、嫌そうな顔をした。
「私は医者ではない」
「だったら、医者よりも厄介な人間が、医者みたいな判断をするようになったってことだね」
「……褒めているのか?」
「まさか」
マグネは笑った。
「まだ信用してないだけさ」
治崎は、その言葉に反論しなかった。
信用は、要求するものではない。
ましてや、過去の罪を償うために、相手から取り立てるものでもない。
それでも。
いつか誰かに信用される可能性があるのなら。
今度は、その可能性を自分の都合で壊さないようにしよう。
彼は、そう考えた。
だが、二人が部屋を出ようとしたとき。
端末から、警告音が響いた。
『新規記録を検出』
マグネが振り返る。
「またかい?」
画面には、一人の人物の名前が表示されていた。
緑谷出久。
その下に、不可解な項目が並んでいる。
『デウス・マキナとの接続適性――判定不能』
『接続履歴――未登録』
『関連記録――患者番号零』
そして、最後の項目。
『代償候補――自己同一性』
治崎の表情が変わった。
「……なんだ、これは」
マグネは、画面に近づいた。
「出久が、装置の代償候補になっている?」
「違う」
治崎は、すぐに否定した。
「これは、装置が彼を代償として要求しているという意味ではない」
「じゃあ、何なんだい?」
治崎は、記録を拡大した。
「……彼の存在を証明する記憶が、装置の接続条件と結びついている可能性がある」
「つまり?」
治崎は、答える前に、一度だけ目を閉じた。
「彼が接続することで、彼自身が失われる可能性がある」
マグネの顔から、笑みが消えた。
その瞬間。
画面の最下部に、新しい文章が浮かび上がった。
――接続者候補は、すでに願っています。
治崎は、息を呑んだ。
――彼は、まだ会っていない誰かを救いたい。
そして。
――その願いは、彼自身が認識するよりも前に登録されています。
二人は、言葉を失った。
記録は、そこで途切れた。
しかし、その最後の一文だけが、いつまでも頭から離れなかった。
まだ会っていない誰かを救いたい。
出久は、誰を救おうとしているのか。
患者番号零なのか。
死者蘇生事件に関わる誰かなのか。
それとも。
世界が生まれる前から、存在していた何かなのか。
そして、なぜその願いが、本人の認識よりも先に登録されているのか。
治崎は、ゆっくりと端末を閉じた。
「……これは、単なる装置の問題ではないな」
マグネが頷いた。
「最初から、誰かの願いが絡んでいたってことか」
「あるいは、願いを持つように仕組まれているのかもしれない」
「どっちにしても、気に入らないね」
マグネの声に、怒りが混じった。
「人の願いを、本人が知る前から勝手に登録するなんて」
治崎は、答えなかった。
ただ、心の中で、ひとつの問いを繰り返していた。
願いとは、誰のものなのだろう。
本人が願う前に記録された願いは、その人のものなのか。
それとも。
その人に願わせようとした何者かのものなのか。
第五節 母親は、代償を払わない
「出久」
母の声を聞いた瞬間、出久は振り返った。
「お母さん?」
緑谷引子は、彼の顔を見るなり、心配そうに眉を下げた。
「大丈夫? さっきから、ずっと難しい顔をしているわ」
「……うん。ちょっと、考え事をしていて」
「また、一人で全部考えようとしているんじゃないでしょうね?」
その言葉に、出久は苦笑した。
「そんなことないよ」
「本当?」
「……少しだけ」
「もう」
引子は、ため息をついた。
怒っているわけではなかった。
むしろ、どこか悲しそうだった。
「出久。あなたは、昔からそうだったわね」
「え?」
「何か困ったことがあると、まず自分が我慢すればいいって考えるの」
出久は、返事をしなかった。
「誰かが泣いていたら、自分が何とかしなきゃいけないと思う。誰かが苦しんでいたら、自分が代わりに苦しめばいいと思う。誰かを救えなかったら、自分がもっと頑張ればよかったって考える」
引子は、息子を見つめた。
「でもね、出久」
「……うん」
「お母さんは、あなたが誰かを助けることをやめてほしいわけじゃないの」
彼女は、ゆっくりと続けた。
「あなたが誰かを助けたいと思う気持ちは、大切なものだと思う。お母さんは、その気持ちを否定したくない」
出久の目が揺れた。
「だけど、あなたが誰かを助けるために、自分のことを何もかも差し出してしまうのなら……それは、違うと思うの」
引子は、彼の手を握った。
「あなたが生きていることも、あなたの願いも、あなたが大切にしているものも、全部、あなた自身のものなのよ」
「……お母さん」
「だから、誰かを救うために何かを失うとしても、それを当たり前だと思わないで」
彼女の手が震えていた。
「あなたが自分を犠牲にするたびに、お母さんは、あなたを失うかもしれないって怖くなる」
出久は、母の手を握り返した。
「ごめん」
「謝らなくていいの」
引子は、首を横に振った。
「ただ、覚えていてほしいの。あなたが誰かを救いたいと思うのと同じように、あなたを救いたいと思っている人もいるのよ」
その言葉に、出久は目を伏せた。
デウス・マキナ。
記憶を代償にして、世界の根源へ接続する装置。
そこに、彼の存在を証明する記憶が関係している可能性がある。
そして、本人が認識するよりも前に登録されていた願い。
まだ会っていない誰かを救いたい。
彼は、その言葉を思い出した。
自分が、まだ会っていない誰かを救いたいと思っている。
それ自体は、間違いではないのかもしれない。
けれど。
もし、その願いが自分の意志とは無関係に登録されていたのなら。
自分が誰かを救いたいと思う、その気持ちさえ、誰かに利用されている可能性がある。
それでも、出久は思った。
誰かに利用される可能性があるからといって、自分の願いまで否定したくはない。
誰かが勝手に決めたことだからといって、自分が本当に望んでいることまで捨てたくはない。
「……お母さん」
「なあに?」
「もし、僕が誰かを救いたいと思っていたとして」
「うん」
「それが、誰かに仕組まれたことだったとしても……僕が本当にそうしたいと思っているなら、それは僕の願いなのかな」
引子は、すぐには答えなかった。
簡単な問いではなかった。
誰かの影響を受けずに生きる人間など、存在しない。
親の言葉。
友人の言葉。
社会の価値観。
経験した出来事。
誰かを愛したこと。
誰かに傷つけられたこと。
そうしたものが積み重なって、人間は願いを持つ。
では、何にも影響されずに生まれた願いだけが、本当の願いなのだろうか。
そんなものが存在するのだろうか。
「……お母さんには、分からないわ」
引子は、正直に答えた。
出久は、顔を上げた。
「でもね」
引子は、息子の手を両手で包んだ。
「誰かがあなたに願いを与えたとしても、その願いをどうするかは、あなたが決めていいと思うの」
「……僕が?」
「ええ」
彼女は微笑んだ。
「その願いを大切にするのも、疑うのも、途中で変えるのも、やめるのも。あなたが考えて、あなたが選んでいい」
「……」
「それに、誰かがあなたの願いを叶えてくれるとしても、その代わりにあなたの人生を全部差し出さなければならないなんて、お母さんは思わないわ」
出久は、母の顔を見つめた。
「あなたが大切な誰かを救いたいなら、お母さんは応援する。でも、あなた自身がいなくなってしまうような方法なら、反対するわ」
「……うん」
「その人を救うことと、あなたがあなたでいること。その二つを、最初から両立できないと決めつけないで」
出久は、深く息を吸った。
そうだ。
自分は、いつも選択肢を二つに分けてしまう。
誰かを救うか、自分を守るか。
他人の願いを叶えるか、自分の願いを諦めるか。
どちらかを選ばなければならないと、最初から決めてしまう。
でも。
それは、本当に避けられない選択なのだろうか。
デウス・マキナが要求する代償も、同じなのかもしれない。
誰かを救うためには、何かを失わなければならない。
その前提そのものが、誰かによって作られたものなのだとしたら。
「……お母さん」
「うん?」
「僕、まだ分からないことだらけなんだ」
「そうね」
「でも、ひとつだけ、分かった気がする」
出久は、母の手を握った。
「誰かを救いたいっていう気持ちを、誰かに決めてもらいたくない。僕が何を失うのかも、僕が何を大切にするのかも、僕自身で考えたい」
引子は、静かに頷いた。
「それでいいのよ」
「それから……」
出久は、少しだけ笑った。
「僕は、自分も生きていたい」
その言葉を口にしたとき、胸の奥にあった何かが、少しだけ軽くなった。
「誰かを救った後も、生きていたい。お母さんと話したいし、みんなと一緒にいたい。まだ見ていない未来を、自分の目で見たい」
引子の目に、涙が浮かんだ。
「……うん」
彼女は、息子を抱きしめた。
「そう言ってくれて、ありがとう」
出久も、母を抱きしめ返した。
その瞬間。
彼の端末が、小さく震えた。
画面には、見慣れない通知が表示されていた。
『接続候補者の意思確認――保留』
その下に、続きがある。
『保留理由――本人の意思が確定していないため』
出久は、画面を見つめた。
誰かが、自分の代わりに判断したのではない。
少なくとも、今表示されている記録は、彼の意思を待っている。
それが、誰による判断なのかは分からない。
安寧システムなのか。
デウス・マキナなのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
だが、彼は初めて、そこに希望を感じた。
まだ、決められていない。
ならば。
自分で決められる余地が、残されている。
出久は、端末を閉じた。
そして、母の腕の中で、しばらく目を閉じていた。
そのとき。
画面の奥で、誰にも見られていない記録が、一度だけ更新された。
接続候補者、緑谷出久。
自己同一性の確認――進行中。
願いの所有者――判定保留。
さらに、その下に。
誰が書き込んだのか分からない、短い一文が追加されていた。
――まだ、選べるのですね。
第六節 血を分けることと、心を分けること
「ねえ、お茶子ちゃん」
トガヒミコは、窓の外を見つめながら言った。
「もし、誰かがトガちゃんの願いを叶えてくれるって言ったら、どうする?」
お茶子は、すぐには答えなかった。
トガがこういう質問をするとき、単なる冗談であることは少ない。
「……願いによるかな」
「どんな願いでも?」
「どんな願いでも、っていうのは難しいよ」
お茶子は、トガの隣に座った。
「例えば、誰かを傷つける願いだったら、私は賛成できない。でも、トガちゃんが本当に望んでいることなら、まずは話を聞きたい」
「話を聞いて、それから決めるの?」
「ううん」
お茶子は、少し考えてから答えた。
「話を聞いたからって、私が決めていいわけじゃないと思う」
トガは、ゆっくりと振り返った。
「……どういうこと?」
「トガちゃんが何を望んでいるのか、私が全部理解できるとは限らないから」
お茶子は、自分の手を見つめた。
「私は、トガちゃんを救いたいと思っている。でも、それは私がそう思っているってだけで、トガちゃんが何を望んでいるかとは、別の話なんだよね」
「……お茶子ちゃん」
「だから、私がトガちゃんを救いたいと思っていることを理由に、トガちゃんの気持ちを勝手に決めたくない」
トガは、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「……難しいね」
「うん。難しい」
「好きな人を助けたいだけなのに?」
「うん」
「その人が苦しんでいたら、苦しみをなくしてあげたいって思うのに?」
「うん」
「それでも、勝手に決めちゃいけないの?」
お茶子は、唇を噛んだ。
その問いに、簡単な答えはない。
苦しんでいる人を前にして、何もしないことは難しい。
助けられる可能性があるなら、手を伸ばしたくなる。
しかし、助けるという行為が、相手の望みを聞かないことへ変わってしまったら。
それは、誰のための救済なのだろう。
「……私は、トガちゃんの願いを全部叶えられる人にはなれないと思う」
お茶子は言った。
「でも、トガちゃんが何を願っているのか、聞こうとすることはできる」
トガは、目を伏せた。
「……もし、トガちゃんが、もう誰も傷つけたくないって願ったら?」
「一緒に考える」
「もし、普通の女の子になりたいって願ったら?」
「その願いを、笑わない」
「もし……」
トガの声が、わずかに震えた。
「もし、好きな人と同じになりたいって願ったら?」
お茶子は、すぐに答えられなかった。
トガの「同じになりたい」は、単に相手と同じ服を着たいとか、同じ趣味を持ちたいという意味ではない。
彼女にとって、それは相手の血を飲み、その姿になり、その人のように生きたいという願いでもあった。
その願いが、誰かを傷つけることにつながる場合。
お茶子は、それを肯定できない。
しかし、願いそのものを否定したら、トガの存在まで否定することになるのだろうか。
「……同じになる方法は、一緒に考えられないかもしれない」
お茶子は、正直に言った。
「でも、トガちゃんがその人を好きだって気持ちまで、なかったことにはしないよ」
トガの瞳が揺れた。
「……好きだったことは、嘘じゃない?」
「うん」
お茶子は頷いた。
「好きだったことは、嘘じゃない」
トガは、顔を覆った。
泣いているのか、笑っているのか分からなかった。
「……それなら」
小さな声が漏れた。
「それなら、トガちゃんが好きだったことを、トガちゃん自身が決めてもいいのかな」
お茶子は、彼女の手を握った。
「うん。誰かに決めてもらわなくていいよ」
そのとき。
二人の間に置かれた端末が、突然起動した。
『未登録の願いを検出』
トガは顔を上げた。
「……え?」
画面に、文字が浮かび上がる。
『願いの内容――未登録』
『願いの所有者――複数』
『願いの発生時点――個人の意識成立以前』
お茶子は、眉を寄せた。
「個人の意識が成立する前……?」
トガは、画面に顔を近づけた。
「つまり、誰かが願うより前から、願いがあったってこと?」
『解釈は確定していません』
端末から、安寧システムの声が響く。
『当該記録は、個人の記憶領域ではなく、未分類の共有記録領域に存在しています』
お茶子は、出久から聞いた話を思い出した。
ユグドラシル。
アカシックレコード。
集合無意識。
デウス・マキナ。
そして、アザトースという名前。
まだ、何も確定していない。
だが、もし。
個人が願うよりも前から、願いが存在していたのなら。
人間は、自分の願いをどこから得ているのだろう。
誰かの願いを受け継ぐことと、自分自身で願うことは、どう違うのだろう。
トガは、画面を見つめたまま呟いた。
「……ねえ、お茶子ちゃん」
「うん?」
「トガちゃんが、誰かを好きになったのって、トガちゃん自身が決めたことだよね?」
お茶子は、彼女を見つめた。
「……私は、そう思うよ」
「もし、それが誰かに仕組まれていたとしても?」
「それでも、トガちゃんがその気持ちをどうするかは、トガちゃんが決めていいと思う」
トガは、ゆっくりと笑った。
今度の笑顔には、ほんの少しだけ、いつもの彼女らしい明るさが戻っていた。
「……そっか」
彼女は、端末から目を離した。
「じゃあ、トガちゃんは、自分で好きになった人を、自分で好きでいたいな」
お茶子は、何も言わずに彼女の手を握り続けた。
その願いが、どんな形で叶うのかは分からない。
叶わない可能性もある。
けれど、今はそれでよかった。
願いを持つことと、願いが必ず叶うことは違う。
誰かに願いを叶えてもらうことと、自分の願いを自分で選ぶことも違う。
そして。
たとえ願いが叶わなかったとしても、その願いを持っていた自分まで、誰かに否定させる必要はない。
画面の端で、記録が更新された。
『願いの所有者――暫定登録』
『個人名――トガヒミコ』
『同意――本人による確認済み』
その下に、新たな項目が現れた。
『共有記録との接続――未実行』
お茶子は、その文字を見つめた。
「……まだ、何かあるんだね」
安寧システムは答えなかった。
しかし、トガは、なぜか画面の奥に誰かがいるような気がした。
ずっと昔から、誰かが自分たちの願いを見ている。
誰かが、自分たちの願いを記録している。
そして、その誰かは。
まだ、こちらの声を聞いていない。
トガは、小さく呟いた。
「……だったら、今度はちゃんと聞いてね」
誰に向けた言葉なのか。
彼女自身にも、分からなかった。
第七節 オール・フォー・ワンは、願いの値段を知っている
「実に興味深い」
オール・フォー・ワンは、報告書を読み終えると、満足そうに笑った。
彼の前には、複数の記録が投影されていた。
デウス・マキナ。
世界成立以前の起動履歴。
記憶を代償とする接続条件。
そして、緑谷出久に関係する未登録の願い。
「願いが、本人の意識よりも前に記録されている……か」
彼は指先で机を叩いた。
「なるほど。これは、単なる予測装置ではないらしい」
願いを予測する装置ならば、本人の過去の行動や性格から、未来の選択を推測することができる。
しかし、今回の記録は違う。
まだ会っていない誰かを救いたい。
まだ経験していない出来事に対して、すでに願いが登録されている。
それが本当に本人の願いなのだとすれば、説明が必要だった。
本人が知らないうちに、誰かの願いを受け継いでいるのか。
あるいは、本人が生まれる以前から、何らかの記録がその人物の存在を規定しているのか。
「……面白い」
彼は、画面を拡大した。
「人間は、自分の意志で願っていると思っている。だが、もし願いそのものが、本人の意識よりも前に存在していたとしたら?」
笑みが深くなる。
「自由意志とは、いったい何なのだろうね」
彼は、自由意志を信じていないわけではない。
むしろ、他者の意志を利用することに長けているからこそ、その価値を理解していた。
人間は、何かを欲しがる。
力。
愛情。
復讐。
承認。
生きる理由。
失ったものを取り戻す機会。
そして、誰かに自分の願いを叶えてほしいと望む。
その願いを理解すれば、人間を動かすことができる。
願いを否定すれば、反発を生む。
願いを肯定すれば、信頼を得られる。
願いを叶えると約束すれば、相手は自らの意志で従うことさえある。
だからこそ、オール・フォー・ワンは考えた。
願いとは、支配の入口になりうる。
だが。
今回の記録は、それだけでは説明できない。
「願いを持つ前に、願いが記録されている……」
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ならば、誰が最初に願った?」
世界が成立する以前。
まだ人間が存在しなかった時代。
生命も、文明も、個人という概念すら成立していなかった時代。
そこに願いが存在したのだとすれば。
その願いを持っていたのは、誰だったのか。
「神か?」
彼は笑った。
「いや。神という概念さえ、人間が作り出したものかもしれない」
ならば。
神を生み出したものは何か。
世界を生み出したものは何か。
世界を生み出そうと願ったものは、何を望んでいたのか。
彼は、その答えを求めていた。
だが、次の瞬間。
画面が暗転した。
『閲覧権限がありません』
オール・フォー・ワンの笑みが消えた。
「……何だと?」
彼は、別の経路からアクセスを試みた。
拒否。
管理権限を変更する。
拒否。
記録の複製を試みる。
拒否。
「私のアクセスを拒否するとはね」
声に、わずかな不快感が混じった。
彼は、自分の力を過信しているわけではない。
自分がすべてを支配できるなどとは思っていない。
しかし、自分が何を知らないのかを知るための手段まで、誰かに制限されることは好まなかった。
ましてや。
自分が触れようとしているものが、世界の根源に関係している可能性があるのなら。
「……君は、私を恐れているのかね?」
画面に向かって問いかけた。
返事はない。
「それとも、私に知られたくないことがある?」
そのとき。
黒い画面の中央に、一文が浮かび上がった。
――あなたは、願いを叶えることが好きなのですね。
オール・フォー・ワンは、動きを止めた。
「……ほう?」
――人々の願いを聞き、その願いを利用し、願いを叶えることで人々を従わせる。
――あなたは、その仕組みをよく知っている。
彼は、黙って画面を見つめた。
「それで?」
――では、あなた自身の願いは何ですか?
オール・フォー・ワンは、笑った。
「私の願い?」
――はい。
「そんなもの、決まっているだろう」
彼は、迷いなく答えた。
「すべてを手に入れることだよ」
画面が明滅した。
――それは、あなた自身が望んだことですか?
「当然だ」
――誰かに教えられたのではなく?
「……何が言いたい?」
――あなたが最初に願ったものを、覚えていますか?
その問いに、オール・フォー・ワンは答えられなかった。
答えられなかったこと自体が、彼にとって不快だった。
自分が何を望んでいるのか。
自分が何を手に入れたいのか。
その答えを、彼は知っているはずだった。
しかし。
最初に何を願ったのか。
その問いに対する記憶が、見つからない。
「……くだらない」
彼は、画面を閉じようとした。
だが、画面は消えなかった。
代わりに、ひとつの記録が表示された。
そこには、見覚えのない人物の姿があった。
顔は分からない。
性別も分からない。
年齢も分からない。
ただ、その人物は、何かを抱きしめていた。
大切なものを失うことを恐れるように。
誰かを守るために、自分のすべてを差し出そうとするように。
そして、その人物の隣に、幼い子供が立っていた。
子供は、誰かに向かって手を伸ばしていた。
『……助けて』
声が聞こえた。
オール・フォー・ワンは、息を止めた。
それが誰の声なのか。
なぜ、自分がその声を知っているような気がするのか。
彼には分からなかった。
だが、その記録の下には、明確な文字が表示されていた。
願いの発生源――世界成立以前。
願いの内容――欠損。
関連人物――オール・フォー・ワン。
彼は、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと笑った。
今度の笑みには、先ほどまでの余裕がなかった。
「……そうか」
彼は、誰にともなく呟いた。
「私もまた、誰かの願いから始まったというのか」
画面が暗転する。
最後に、文字だけが残った。
――あなたが願う前に、あなたを願った者がいる。
オール・フォー・ワンは、その一文を見つめた。
やがて、静かに目を細めた。
「……ならば、その者を見つけ出そう」
声には、いつもの確信が戻っていた。
「そして、教えてもらうとしよう。私を生み出した願いが、何を望んでいたのか」
彼は、記録の保存を試みた。
だが、その直前。
画面に、もう一つの文章が浮かび上がった。
――その者は、あなたを覚えていません。
オール・フォー・ワンの指が止まった。
――いいえ。
――その者は、自分自身さえ覚えていないのです。
画面が消えた。
オール・フォー・ワンは、しばらく暗闇を見つめていた。
初めて、彼は理解した。
自分が探しているのは、単なる装置ではない。
自分の力で奪い取ることのできる能力でもない。
それは、自分自身の存在理由に関わる何かだった。
そして。
もし、自分を生み出した願いが、今もどこかに残っているのなら。
その願いは、いったい誰のものなのだろう。
第八節 代償を払った者は、誰だったのか
死神が記録領域から戻ったとき、最初に聞こえたのは、警報音だった。
『緊急警告』
『未登録の接続要求が増加しています』
『接続先――未定義』
『接続経路――ユグドラシル関連領域』
死神は、顔を上げた。
「……ユグドラシル?」
『肯定』
「アカシックレコードとの接続状態は?」
『部分的に変化しています』
「デウス・マキナは?」
『起動していません』
死神は、眉を寄せた。
「起動していないのに、接続要求が増えているのか?」
『肯定』
「誰が要求している?」
『回答不能』
死神は、すぐに状況を確認した。
世界の構造に関わる記録が、次々と更新されている。
ユグドラシルの接続履歴。
アカシックレコードの参照履歴。
集合無意識に分類される可能性のある未登録領域。
そして、デウス・マキナの起動条件。
それらが、誰かの操作を受けたように変化していた。
だが、操作した人物の記録は存在しない。
「……誰も起動していないのに、装置が反応している」
死神は、呟いた。
「つまり、装置を起動させようとしているのは、誰かが操作した結果ではない可能性がある」
安寧システムが応答する。
『推測として成立します』
「何かの条件が満たされたのか?」
『その可能性があります』
「条件は?」
『回答不能』
死神は、息を吐いた。
またしても、答えは得られない。
だが、今回は一つだけ、確かなことがあった。
接続要求の増加が始まった時刻。
それは、緑谷出久が端末に表示された問いかけを拒否した時刻と一致していた。
「……出久が関係しているのか?」
死神は、記録を確認した。
出久は、デウス・マキナを起動していない。
接続に同意していない。
代償も差し出していない。
それでも、装置は反応している。
「……まさか」
彼の脳裏に、少女の言葉が蘇った。
『あなたが、あなたであるために必要なものです』
記憶を差し出すこと。
自分自身を証明するものを、切り離すこと。
もし、デウス・マキナが、接続者の記憶を代償として要求するのだとしたら。
装置は、何を目的としているのか。
単に、集合無意識へ接続するためなのか。
それとも。
接続者の記憶を通して、何かを確かめようとしているのか。
「……装置が、誰かを探している?」
その言葉を口にした瞬間、死神は自分の考えに違和感を覚えた。
装置が誰かを探している。
それは、まるで装置に意志があるかのような表現だった。
しかし、記録の変化は、単なる自動処理だけでは説明できない。
接続要求は、世界成立以前の記録形式を使用している。
その形式を使うことができる存在は、現在の世界の記録体系に登録されていない。
つまり。
世界の仕組みが認識していない何かが、世界の仕組みに働きかけている。
「……安寧システム」
『はい』
「接続要求の発生源を特定するため、可能な限りの記録を保存してくれ」
『了解』
「ただし、接続要求への応答は行わない。デウス・マキナの起動も禁止する」
『了解』
「それから、緑谷出久の記録を保護してくれ」
数秒の沈黙。
『確認します』
「何だ?」
『緑谷出久の記録を保護する理由を、明示してください』
死神は、わずかに目を見開いた。
かつての安寧システムなら、保護対象を指定すれば、その理由を問わずに処理しただろう。
今のシステムは、理由を求めている。
自分の判断を、無条件に正しいものとして扱わないために。
死神は、静かに答えた。
「彼の意思を確認する前に、彼の記憶や存在が装置に利用される可能性があるからだ」
『保護対象の意思確認は必要ですか?』
「……そうだな」
死神は、少し考えた。
「可能なら、本人に説明して、同意を得てくれ。本人が望まない方法で保護することが、別の危険を生む可能性もある」
『了解』
死神は、頷いた。
そして、画面に表示された記録を見つめた。
そのとき。
未登録領域に、新しい記録が追加された。
『デウス・マキナ――接続候補者の変更』
死神は、息を呑んだ。
「……変更?」
画面に、二つの名前が表示されていた。
一つ目。
緑谷出久。
二つ目。
患者番号零。
その下には、奇妙な記述があった。
『接続候補者の相互依存――確認』
『代償の所有者――未確定』
『接続目的――未確定』
そして、最後の一行。
『両者の記録が接続された場合、世界成立以前の記録が再構成される可能性があります』
死神は、画面を見つめたまま動かなかった。
「……出久と、患者番号零」
なぜ、この二人が結びついているのか。
二人は、どこで出会ったのか。
あるいは。
本当に、まだ出会っていないのか。
もし、二人の記録が世界成立以前から結びついているのだとしたら。
その関係は、現在の世界で生まれたものではないのかもしれない。
死神は、少女の言葉を思い出した。
『あなたは、誰を救ったのですか?』
そして、出久の言葉を。
『まず、誰なのか名乗ってよ。願いを聞くのは、それからだ』
二人は、違う場所にいる。
違う立場にいる。
違う人生を歩んでいる。
それでも。
彼らの記録は、どこかでつながっている。
死神は、ゆっくりと目を閉じた。
「……まだ、何も決めるな」
自分に言い聞かせる。
「二人が何者なのか。何を願っているのか。何を失ったのか。誰が、その関係を作ったのか」
一つずつ、確かめる。
願いを勝手に決めない。
記憶を勝手に奪わない。
誰かのためという理由で、誰かの人生を犠牲にしない。
それが、今の自分にできることだった。
だが、その決意を嘲笑うように。
画面の中央に、ひとつの新しい文字列が浮かび上がった。
DEUS MACHINA:起動準備中
死神の顔色が変わった。
「……起動準備だと?」
『確認できません』
「何が確認できない?」
『起動準備を開始した主体が存在しません』
死神は、画面に近づいた。
『起動準備の開始記録――存在しません』
『起動準備の命令記録――存在しません』
『起動準備の操作履歴――存在しません』
それなのに。
装置は、起動しようとしている。
誰も操作していない。
誰も命令していない。
誰も同意していない。
それでも、装置は動き始めている。
死神は、低い声で呟いた。
「……誰かが起動させようとしているんじゃない」
その言葉に、安寧システムが反応した。
『説明を求めます』
「装置そのものが、起動条件を満たそうとしている可能性がある」
『装置に自律的な意志が存在するという意味ですか?』
「まだ分からない。だが、少なくとも、誰かが操作したという記録はない」
死神は、表示された起動準備の進行状況を見つめた。
「……もし、本当に誰も操作していないのなら」
その先を、口にすることができなかった。
誰も起動させていない装置が、自ら起動しようとしている。
その装置が、世界成立以前の記録に接続している。
そして、そこには。
誰も覚えていない、最初の願いが存在する。
死神は、静かに拳を握った。
「……誰かが、願っているのか?」
その問いに、返事はなかった。
しかし。
画面の中央に、最後の一文が浮かび上がった。
――あなたたちは、まだ、私のことを覚えていますか?
死神は、息を止めた。
その言葉は、患者番号零のものではなかった。
少なくとも、彼女がいつも使う声とは違っていた。
もっと古い。
もっと深い。
世界そのものの底から響いてくるような声だった。
そして、その声には。
悲しみがあった。
怒りも、憎しみもなかった。
ただ、長い長い時間を、誰にも知られずに過ごしてきた者の、静かな悲しみだけがあった。
死神は、画面に向かって尋ねた。
「……君は、誰だ?」
返事はなかった。
ただ、デウス・マキナの起動準備が、一段階進んだ。
『起動準備――第一段階完了』
『接続先――未定義』
『接続者――未定義』
『代償――未定義』
『起動予定――未定』
そのすべてが、未確定のままだった。
それでも。
装置は、確実に目を覚まそうとしていた。
死神は、ようやく理解した。
今、自分たちが向き合っているのは、誰かが願いを叶えるために作った装置の問題だけではない。
誰かが、願いを叶えようとしている。
だが、その誰かが、何を願っているのかは分からない。
何を失ったのかも分からない。
そして。
その願いが、誰の願いなのかさえ、分からない。
もし、その願いが世界を生み出したものだったとしたら。
もし、その願いが、世界の始まりからずっと残されていたものだったとしたら。
今、自分たちが暮らしているこの世界は。
誰かが願った結果として生まれた世界なのだろうか。
それとも。
誰かが願うことさえ許されなかった結果として、生まれた世界なのだろうか。
死神は、画面を見つめたまま、静かに呟いた。
「……今度こそ、聞かなければならない」
願いを叶える前に。
代償を求める前に。
誰かの人生を変える前に。
その人が、何を願っているのか。
そして、その願いが、本当にその人自身のものなのか。
「……私は、もう二度と、誰かの声を聞かずに答えを決めたくない」
その言葉を最後に、画面が暗転した。
しかし、暗闇の中には、まだ一つだけ、文字が残っていた。
『第一接続者の記録を復元しますか?』
その下に、二つの選択肢が表示された。
YES
NO
そして、そのどちらにも。
選択者の名前は、記されていなかった。
ここから私の独自展開宇宙論の根幹に根深く切り込みます。第5章24話前後構成。物語第6章41話予定、7章70話ぐらいなのでようやく折り返しに入りつつある感じです。