僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十四話「死神の記憶に、誰が名前を刻んだのか」

第一幕 名前のない朝

死神は、自分の名前を思い出せなかった。

 

いや、正確には違う。

 

名前なら知っている。

 

自分が何と呼ばれているのかも、自分が何を司っているのかも、自分がどのような存在としてこの世界に置かれているのかも、理解している。

 

死神。

 

悲嘆。

 

死者の記録を見届け、失われたものに意味があったことを否定させず、生きている者が死者を忘れることと、死者が存在しなかったことにされることの違いを知る者。

 

それが自分だ。

 

だが。

 

「……それは、誰が決めた?」

 

声に出してから、死神自身が沈黙した。

 

誰が、自分を死神と呼んだのか。

 

誰が、自分に悲嘆という名を与えたのか。

 

誰が、自分がその役割を担うべきだと定めたのか。

 

記録を探せば、答えは出る。

 

出るはずだった。

 

死神は、いつものように意識を世界の記録へ沈めた。

 

英雄たちの記録。

 

犯罪者たちの記録。

 

生まれた者の記録。

 

生まれることのできなかった者の記録。

 

死者の記録。

 

そして、記録そのものが失われた者たちの痕跡。

 

死神はそれらを読み取ることができる。

 

だが、自分自身の始まりに触れようとした瞬間、何かが遮った。

 

壁ではない。

 

鍵でもない。

 

拒絶ですらない。

 

そこには、最初から何もなかった。

 

「……違う」

 

死神は目を閉じた。

 

「何もなかったのではない。何もないという記録が、そこに置かれている」

 

存在しないことと、存在しなかったことにされていることは違う。

 

死者の記録を見続けてきた死神には、それが分かる。

 

存在しないものには、記録がない。

 

しかし、存在を否定されたものには、否定されたという痕跡が残る。

 

今、自分の始まりにあるのは、後者の痕跡だった。

 

何かがあった。

 

何者かがいた。

 

そして、誰かがそれを記録できないようにした。

 

あるいは。

 

記録することのできた自分自身を、何者かが消した。

 

死神は、手を見下ろした。

 

その指先に、黒い文字が浮かび上がっていた。

 

見たことのない文字だった。

 

それなのに、読めた。

 

――あなたは、私を忘れたのではありません。

 

死神の呼吸が止まる。

 

次の文字が浮かぶ。

 

――あなたは、私を覚えることができなかったのです。

 

「……お前は、誰だ」

 

文字は答えない。

 

代わりに、その下へ別の一文が刻まれた。

 

――それでも、あなたは私を覚えようとした。

 

死神は指を握りしめた。

 

記憶が戻りかける。

 

白い空間。

 

世界がまだ世界ではなかった頃。

 

何もない場所に、何かが存在していた。

 

いや。

 

それは正確ではない。

 

何かが存在していたのではない。

 

存在するという概念そのものが、まだ確定していなかった。

 

その曖昧な場所で、誰かが泣いていた。

 

泣くという行為が、悲しみという感情が、涙という現象が、まだ世界の法則として定められていなかった頃。

 

それでも、誰かは泣いていた。

 

死神は、その誰かに手を伸ばした。

 

そして――。

 

「……っ!」

 

記憶が途切れた。

 

死神は膝をついた。

 

自分が何をしようとしたのか、分からない。

 

ただ、分かったことが一つだけある。

 

自分はかつて、誰かを見捨てなかった。

 

その誰かを救えたのかどうかは、分からない。

 

その誰かが何者だったのかも、分からない。

 

だが、少なくとも。

 

自分は、覚えていようとしたのだ。

 

世界がそれを許さなかったとしても。

 

第二幕 死神の記録を調べる者

「勝手に他人の記憶を覗く趣味はないんだが」

 

観測者は、死神の前に立っていた。

 

「あなたは、すでに覗いているでしょう」

 

「君が自分から記憶を開いたわけじゃない。記録のほうが、勝手にこちらへ流れてきたんだ」

 

「言い訳ですか?」

 

「事実だよ」

 

観測者は、いつものように淡々と答えた。

 

だが、その視線は死神の指先から離れなかった。

 

黒い文字は、まだそこに残っていた。

 

「その文字は?」

 

「分かりません」

 

「君が分からない?」

 

「ええ」

 

「それは困ったな」

 

観測者は冗談めかして言った。

 

しかし、冗談を言っている場合ではないことを、二人とも理解していた。

 

観測者は記録を表示した。

 

デウス・マキナが取得した、死神の過去に関する記録。

 

そこには、いくつもの断片が並んでいた。

 

死神が初めて死者を見送った記録。

 

悲嘆という概念が、死神の役割に結びついた記録。

 

死者の声を聞き、生者の願いを拒み、失われたものを失われたまま扱うと決めた記録。

 

どれも明瞭だった。

 

だが、最初の一つだけが違っていた。

 

記録番号:未定義

死神の最初の記録

記録主体:悲嘆

 

成立時刻:世界成立以前/定義不能

 

記録内容:欠損

 

記録の欠損理由:記録主体による自己消去

 

自己消去の目的:不明

 

消去対象:記録主体の初期記憶、および第三者に関する記録

 

警告:記録の復元は、記録主体の現在の存在定義に影響する可能性があります。

 

死神は、最後の一文を見つめた。

 

「私が、自分で消した……?」

 

「記録上はそうなっている」

 

「誰かに消されたのではなく?」

 

「少なくとも、表面上はね」

 

観測者は別の記録を重ねた。

 

「ただし、記録の成立順序がおかしい」

 

「どういう意味です?」

 

「君が記憶を消したという記録は、君の記憶が消えた後に生成されている。つまり、これは君が実際に記憶を消した瞬間の記録ではない。記憶が欠損した状態を説明するために、後から生成された可能性がある」

 

「では、私が消したという事実そのものが、存在しないかもしれない?」

 

「そうだ」

 

観測者は画面を拡大した。

 

「もっと厄介なのは、君の初期記憶だけではない。君が誰かを記憶していたという痕跡まで、同じ領域から切り取られている」

 

死神は沈黙した。

 

自分の記憶が失われた。

 

それだけなら、まだ理解できる。

 

だが、誰かを記憶していたという痕跡まで失われているのなら。

 

自分が誰を覚えていたのか。

 

その誰かが何者だったのか。

 

その誰かが本当に存在していたのか。

 

それらを判断するための根拠そのものが、失われていることになる。

 

「私が誰かを覚えていたことを、証明できる者はいますか」

 

観測者はすぐには答えなかった。

 

やがて、記録を一つ表示する。

 

それは死神のものではなかった。

 

緑谷出久の記録でもない。

 

デウス・マキナの記録でもない。

 

世界の成立以前に分類された、正体不明の記録だった。

 

「証明ではない。痕跡だ」

 

記録には、短い文章が残されていた。

 

――悲嘆は、最初に名前を呼んだ。

 

死神は、その一文を何度も読み返した。

 

「……誰の名前を?」

 

観測者は答えなかった。

 

答えられなかったのだ。

 

記録には、名前がなかった。

 

呼びかけの対象だけが、完全に欠落していた。

 

しかし、その一文の下には、もう一つの記録があった。

 

――最初に名前を呼んだ者は、その名前を失った。

 

死神は目を閉じた。

 

「私は……」

 

言葉が続かない。

 

もし、これが自分のことなら。

 

自分は誰かの名前を呼んだ。

 

その誰かを、記録に残そうとした。

 

そして、名前を失った。

 

だが、何を失ったのかさえ分からない。

 

「観測者」

 

「何だ」

 

「私が誰かを覚えていたという事実だけは、消さないでください」

 

観測者は、死神を見た。

 

「君は、まだ何も思い出していない」

 

「それでもです」

 

死神は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「思い出せないからといって、覚えていなかったことにはしたくない」

 

その言葉に、観測者はしばらく沈黙した。

 

そして、記録の保存領域を開いた。

 

「分かった。欠損記録は封印する。復元もしないし、削除もしない。君が望むまで、誰にも触れさせない」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、一つだけ言っておく」

 

観測者の声が低くなった。

 

「君が忘れた相手が、君に忘れられることを望んでいた可能性もある」

 

死神は答えなかった。

 

それは、考えなければならない可能性だった。

 

覚えていることが救いになるとは限らない。

 

名前を呼ぶことが、必ずしも相手を尊重することになるわけではない。

 

誰かを記憶するという行為にも、相手の意思がある。

 

だからこそ、死神は知りたかった。

 

自分は、誰を覚えていようとしたのか。

 

そして、その誰かは。

 

自分に覚えていてほしかったのだろうか。

 

それとも。

 

忘れてほしかったのだろうか。

 

第三幕 緑谷出久は、名前を聞かない

「……それで、今日はどうしたんだ?」

 

雄英高校の一室。

 

緑谷出久は、画面越しに表示された接続要求を見つめていた。

 

相手は患者番号零。

 

彼女の本当の名前は、まだ分からない。

 

記憶も、過去も、世界における立場も、断片的にしか確認できていない。

 

そして彼女は、デウス・マキナの深部にある記録と、何らかの関係を持っているらしい。

 

「今日は、何も聞かないの?」

 

画面の向こうから、彼女が尋ねた。

 

「何を?」

 

「私の名前。私が誰なのか。何をしたのか」

 

出久は少し考えた。

 

「知りたいとは思ってるよ」

 

「じゃあ、聞けばいいのに」

 

「でも、君が話したいこととは限らないから」

 

患者番号零は、画面の向こうで首を傾げた。

 

「知りたいのに、聞かないの?」

 

「うん」

 

「変なの」

 

「よく言われる」

 

「それ、褒められてないと思う」

 

「僕もそう思う」

 

彼女は小さく笑った。

 

その笑い方が、あまりにも自然だったので、出久は一瞬だけ言葉を失った。

 

彼女は謎だ。

 

世界の成立以前の記録に接続しているかもしれない存在。

 

デウス・マキナが第一接続者として認識した対象と、何らかの関係を持つかもしれない存在。

 

だが、それ以前に。

 

彼女は、今ここで話している一人の人間だった。

 

少なくとも、出久は彼女をそう扱いたかった。

 

「……緑谷くん」

 

「うん?」

 

「もし、私がひどいことをしていたら?」

 

出久はすぐに答えなかった。

 

「もし、誰かを傷つけていたら。誰かを殺していたら。私が覚えていないだけで、たくさんの人から何かを奪っていたら」

 

彼女の声は静かだった。

 

静かすぎるほどだった。

 

「それでも、緑谷くんは私の話を聞く?」

 

「聞くよ」

 

「私が悪い人でも?」

 

「聞くことと、君がしたことを許すことは違うから」

 

彼女の表情が変わった。

 

「……じゃあ、私が許されないことをした人だったら?」

 

「それでも、君が何をしたのかを知ることは必要だと思う」

 

「知ったら、嫌いになるかもしれないよ」

 

「そうかもしれない」

 

出久は否定しなかった。

 

「怖いと思うかもしれないし、怒るかもしれない。君がしたことを、許せないと思うかもしれない」

 

「……」

 

「でも、今の君が何を考えているのかまで、最初から決めつけるつもりはないよ」

 

患者番号零は、画面の向こうで唇を結んだ。

 

「それって、私を信じてるってこと?」

 

「まだ、全部を信じられるほど君のことを知らない」

 

「ひどい」

 

「ごめん」

 

「でも、嘘じゃないんだね」

 

「うん」

 

彼女はしばらく黙っていた。

 

やがて、小さな声で言った。

 

「……それなら、いい」

 

「何が?」

 

「私を、最初から正しい人にしないで」

 

出久は目を見開いた。

 

「私が誰かを傷つけたなら、そのことまでなかったことにしないで。私が悪かったなら、悪かったって言ってほしい。でも、だからって、私が何も考えられない人間だったことにしないで」

 

彼女は画面の向こうで、膝の上に置いた手を握りしめた。

 

「私は、自分が何をしたのか知りたい。自分が誰なのか知りたい。でも……誰かが先に答えを決めて、それを私の記憶だって言うのは嫌なの」

 

出久は、その言葉を聞きながら、ある人物のことを思い出していた。

 

死柄木弔。

 

彼が何を望み、何を憎み、何を選んだのか。

 

そこに至るまでの人生を、誰かの説明だけで確定させてしまったら。

 

彼自身が選んだことと、彼から奪われたことの区別まで失われてしまう。

 

救うという言葉は、時として相手の意思を奪う。

 

許すという言葉も、時として被害を受けた者の意思を奪う。

 

そして、真実を明らかにするという言葉でさえ、本人の記憶や意思を踏みにじることがある。

 

「分かった」

 

出久は答えた。

 

「君が知りたいと思ったことを、一緒に調べよう。でも、答えを君の代わりに決めることはしない」

 

「……約束?」

 

「約束」

 

「もし、私が途中で怖くなったら?」

 

「そこで止まろう」

 

「もし、私がやっぱり知りたくないって言ったら?」

 

「そのときは、考え直そう」

 

「もし、私が……」

 

彼女の声が途切れた。

 

出久は、続きを急かさなかった。

 

長い沈黙のあと、患者番号零は言った。

 

「もし、私が本当の名前を思い出せなかったら?」

 

「そのときは、今の君と話すよ」

 

「今の私?」

 

「うん。名前を思い出せない君も、君だから」

 

彼女は画面を見つめていた。

 

「……名前がなくても?」

 

「名前が分からなくても、君がここにいることは変わらない」

 

その瞬間だった。

 

画面が、一度だけ明滅した。

 

接続画面の端に、見慣れない文字列が現れた。

デウス・マキナ/観測ログ

接続条件の変化を検知

記録主体:患者番号零

 

接続対象:緑谷出久

 

対価の要求:なし

 

記憶の代償:なし

 

存在定義の強制変更:なし

 

第一接続者共鳴:継続中

 

共鳴の成立条件:未確定

 

出久は、思わず画面を見つめた。

 

「これ……」

 

患者番号零も、自分の手元を見ていた。

 

「また、出た」

 

「君にも見えてるの?」

 

「うん」

 

「痛みは?」

 

「ない」

 

「何か、記憶が変わった感じは?」

 

「……分からない。でも、何かを取られた感じはしない」

 

出久は記録を確認した。

 

以前の接続では、記憶の欠損や存在定義の変化を示す警告が頻繁に現れていた。

 

しかし今回は違う。

 

接続は成立している。

 

それなのに、何も奪われていない。

 

「もしかしたら……」

 

出久は考え込んだ。

 

「デウス・マキナは、誰かと接続するたびに、必ず何かを犠牲にしているわけじゃないのかもしれない」

 

「じゃあ、今までの人たちは?」

 

「まだ分からない。接続そのものが犠牲を必要としていたのか、それとも、別の条件が原因だったのか……」

 

彼は言葉を切った。

 

重要なのは、犠牲が必要ないと証明されたことではない。

 

犠牲なしで成立した接続が、実際に存在した。

 

その事実だった。

 

今まで不可能だと思われていたことが、一度でも起きたのなら。

 

それは、世界の仕組みを考え直す理由になる。

 

「緑谷くん」

 

患者番号零が言った。

 

「私、もう少し話してもいい?」

 

「もちろん」

 

「名前のことじゃなくて」

 

「うん」

 

「私が、どうしてここにいるのか分からないこと。何かを覚えている気がするのに、何も思い出せないこと。誰かに会いたい気がするのに、その人が誰なのか分からないこと」

 

出久は頷いた。

 

「聞かせて」

 

「……ありがとう」

 

彼女は、ゆっくりと話し始めた。

 

名前を持たないまま。

 

答えを決められないまま。

 

そして、初めて、自分が何者なのかを知らないことを恥じずに。

 

第四幕 記録に残らない会話

デウス・マキナの観測領域。

 

出久と患者番号零の会話は、記録されていた。

 

しかし、記録の中に不自然な空白が生じていた。

 

会話の内容は残っている。

 

接続の開始時刻も、終了時刻も、接続対象も、すべて記録されている。

 

それなのに、接続の成立条件を示す領域だけが空白だった。

 

観測者は、記録を何度も読み直した。

 

「……成立条件がない?」

 

「正確には、条件を確定できないのでしょう」

 

死神が答えた。

 

「接続が成立したという結果は記録されている。けれど、その結果を成立させた条件が、既存の定義に当てはまらない」

 

「従来の接続は、何らかの対価を要求していた。記憶、存在、感情、あるいは接続対象自身の認識。何かを差し出すことで、接続の代わりに何かを得る構造だった」

 

「今回は、それがない」

 

「そうだ」

 

観測者は記録を拡大した。

 

「ならば、可能性は三つある」

 

死神は続きを待った。

 

「一つ目。デウス・マキナが、対価を必要としない接続方式を新たに獲得した」

 

「二つ目は?」

 

「これまでの接続でも、対価は必須ではなかった。だが、何らかの理由で、対価を要求する仕組みが優先されていた」

 

「三つ目は?」

 

観測者は、画面に浮かぶ「第一接続者共鳴」の文字を見つめた。

 

「そもそも、我々が接続と呼んでいる現象の理解が間違っている」

 

死神は沈黙した。

 

「接続するために、何かを差し出す必要がある。そう考えていた。しかし、もし本来の接続とは、誰かを記録することでも、誰かの記憶を奪うことでもなかったとしたら?」

 

「では、本来の接続とは何ですか」

 

「分からない」

 

観測者は、あっさり答えた。

 

「分からないから調べている」

 

死神は、わずかに目を細めた。

 

「あなたにしては、素直ですね」

 

「君が素直に分からないと言ったから、私も倣ったんだ」

 

「それはどうも」

 

二人は、わずかな沈黙を共有した。

 

その間にも、記録は更新されていた。

 

患者番号零の接続ログ。

 

デウス・マキナの内部構造。

 

世界樹を思わせる記録経路。

 

そして、未定義領域。

 

それらが、一つの可能性を示し始めていた。

 

デウス・マキナは、集合的無意識へ接続する装置である。

 

少なくとも、それが現在の仮説だ。

 

しかし、集合的無意識とは何なのか。

 

人々の記憶の集積なのか。

 

人類が共有する無意識の領域なのか。

 

それとも、世界が世界として成立するための、もっと根源的な何かなのか。

 

もし最後の可能性が正しいなら。

 

デウス・マキナがアクセスしているのは、単に人々が何を考えているかという領域ではない。

 

人々が「何者として存在するか」を定義する、世界の深層そのものかもしれない。

 

「観測者」

 

死神が言った。

 

「もし、私の記憶がそこから失われたのだとしたら」

 

「君が誰かを覚えていたという記録も、同じ場所から消された可能性がある」

 

「では、誰がそれをしたのでしょう」

 

観測者は答えなかった。

 

犯人がいるのか。

 

世界の仕組みが自動的に行ったのか。

 

死神自身が何かを選んだのか。

 

あるいは、記憶を残すことと、世界を成立させることの間に、誰も意図していない矛盾が生じたのか。

 

まだ分からない。

 

ただし、一つだけ確かなことがあった。

 

患者番号零と出久の接続は、従来の理論では説明できない。

 

そして、その接続が成立した瞬間、デウス・マキナは、第一接続者に関する記録を再び更新した。

 

観測者が新たな記録を開く。

未定義領域/新規記録

第一接続者に関する補足

第一接続者は、最初に接続した者ではない。

 

第一接続者は、最初に接続を成立させた者でもない。

 

第一接続者とは――

 

定義の取得に失敗しました。

 

観測者は、その記録を見つめた。

 

「……最初に接続した者ではない?」

 

死神が呟く。

 

「では、第一接続者というのは、何を意味しているのです?」

 

画面には、答えが表示されなかった。

 

ただ、記録の末尾に、新しい一文が加わった。

 

――第一接続者は、接続される以前から、接続されていた。

 

「……何だ、それは」

 

観測者は初めて、明確な困惑を見せた。

 

接続される以前から、接続されていた。

 

そんなものは、因果関係として成立しない。

 

接続する者と、接続される者がいる。

 

接続するための装置があり、接続が成立する条件がある。

 

そのはずだった。

 

しかし、この記録は、その前提を否定している。

 

第一接続者は、接続されるより前から、何かとつながっていた。

 

それが何なのかは分からない。

 

世界樹なのか。

 

アカシックレコードなのか。

 

集合的無意識なのか。

 

あるいは、それらが生まれる以前の、まだ名前のない何かなのか。

 

死神は、記録を見つめながら、ふと呟いた。

 

「……もしかすると」

 

「何だ」

 

「私は、あの誰かと接続しようとしたのではないのかもしれません」

 

観測者が振り向いた。

 

「どういう意味だ?」

 

死神は、自分の指先に残る黒い文字を見た。

 

「すでにつながっていた誰かを、世界の記録に残そうとしたのかもしれない」

 

その瞬間。

 

記録が、再び明滅した。

 

そして、たった一つの名前が現れた。

 

悲嘆。

 

死神自身の名だった。

 

だが、その名前の下には、もう一つの項目が存在していた。

 

記録対象:悲嘆

 

記録者:悲嘆

 

記録された対象:――――

 

死神は、その空白を見つめた。

 

自分が記録者であり、記録対象でもある。

 

自分が自分を記録している。

 

その構造自体は、不可能ではない。

 

だが、この記録は違う。

 

自分自身を記録したというよりも。

 

自分自身を記録することで、別の誰かを記録しようとした。

 

そんな痕跡に見えた。

 

「……私は、誰を残そうとしたんだ」

 

誰も答えなかった。

 

 

第五幕 名前を呼んだ者

その夜、死神は再び夢を見た。

 

夢の中には、世界がなかった。

 

空も、大地も、時間もない。

 

上と下の区別すら存在せず、何かが生まれるという現象も、何かが消えるという現象も、まだ定義されていなかった。

 

そこに、一人の子供がいた。

 

顔は見えない。

 

性別も、年齢も、分からない。

 

ただ、小さな手だけが見えた。

 

その手が、誰かの手を握っていた。

 

「……ねえ」

 

子供が呼びかける。

 

「あなたは、私の名前を覚えている?」

 

返事はなかった。

 

「私は、あなたの名前を覚えているよ」

 

子供は言った。

 

「でも、あなたの名前を呼ぶことができないの」

 

死神は、その光景を見ていた。

 

夢だと分かっていた。

 

自分の記憶なのか、それとも誰かの記録を見せられているのか、それすら分からない。

 

ただ、子供の声を聞いた瞬間、胸の奥に痛みが走った。

 

悲嘆。

 

それは、失われたものを悲しむ感情。

 

だが、この痛みは、何かを失った痛みとは少し違った。

 

何かを失ったことを、まだ知らない痛みだった。

 

何かが失われると知っているのに、それが何なのか分からない。

 

何かを覚えているはずなのに、何を覚えているのか分からない。

 

そして、何かを失いたくないと願っているのに、その願いを誰に伝えればいいのかも分からない。

 

「……君は、誰なんだ」

 

死神は尋ねた。

 

子供が振り返る。

 

その顔を見ようとした瞬間、夢の世界が揺れた。

 

子供の姿が、遠ざかっていく。

 

「待ってくれ!」

 

死神は手を伸ばした。

 

「名前を教えてくれ!」

 

子供は、悲しそうに首を振った。

 

「名前を教えたら、あなたは私を覚えてくれる?」

 

「覚える!」

 

「どうして?」

 

「君が、覚えていてほしいと願っているからだ!」

 

子供は、少しだけ笑った。

 

「……それなら」

 

小さな手が、死神の指先に触れた。

 

「あなたが、あなたでいられるようにしてね」

 

その言葉の意味を、死神は理解できなかった。

 

「どういう意味だ?」

 

「私を覚えるために、あなたがいなくならないで」

 

子供の姿が、光の中へ消えていく。

 

「私を覚えるために、あなたまでいなくなったら……」

 

声が途切れた。

 

世界が崩れた。

 

そして最後に。

 

子供の声だけが残った。

 

「それでも、あなたは私を覚えようとしたんだね」

 

死神は目を覚ました。

 

暗い部屋の中で、しばらく動けなかった。

 

夢の内容は、ほとんど覚えている。

 

しかし、子供の顔だけが思い出せない。

 

名前も分からない。

 

それなのに、一つだけ、はっきりと理解できることがあった。

 

自分は、誰かを覚えていようとした。

 

そして、その誰かは、自分が自分でいられることを願っていた。

 

「……君は」

 

死神は、誰もいない部屋で呟いた。

 

「私が、君を忘れることよりも……私がいなくなることを恐れていたのか?」

 

答えはない。

 

それでも死神は、初めて、別の可能性を考えた。

 

自分は誰かを忘れたのではない。

 

自分が誰かを覚えようとしたことで、何かを失った。

 

その選択が正しかったのかどうかは分からない。

 

相手が望んでいたことなのかどうかも分からない。

 

しかし、もしそうなら。

 

記憶を取り戻すことは、単純に失われたものを取り戻すことではない。

 

かつて自分が選んだことを、もう一度、自分の意思で引き受けることになるのかもしれない。

 

死神は、ゆっくりと立ち上がった。

 

もう一度、記録を調べる必要がある。

 

第一接続者の正体だけではない。

 

自分自身が、かつて何を選んだのかを。

 

第六幕 墓地に立つ影

白い墓地。

 

そこには、墓標が一つもなかった。

 

地面は白く、空も白い。

 

遠近感さえ曖昧で、どこまで歩いても、同じ場所を歩いているように感じられる。

 

患者番号零は、その場所に立っていた。

 

向かい側には、名前のない影がいる。

 

人の姿をしている。

 

だが、その輪郭は定まっていない。

 

見るたびに背丈が変わり、顔の位置が変わり、時には人間ではない何かのように見える。

 

影は、自分が何者なのかを語らない。

 

患者番号零も、尋ねようとはしなかった。

 

「また来たのか」

 

影が言った。

 

「うん」

 

「何を知りたい?」

 

患者番号零は、少し考えた。

 

「私が、誰かを殺したのかどうか」

 

影は沈黙した。

 

「私が、誰かを傷つけたのかどうか。誰かを苦しめたのかどうか。私が覚えていないだけで、誰かの人生を壊したのかどうか」

 

彼女は、自分の手を見た。

 

「知りたい。でも、怖い」

 

「そうか」

 

「あなたは、知っているの?」

 

「何を?」

 

「私が何をしたのか」

 

影は答えなかった。

 

「……知らないんだね」

 

「知っていたとしても、私が答えるべきことではない」

 

患者番号零は、顔を上げた。

 

「どうして?」

 

「お前が知りたいことを、私が先に決めれば、お前は私の答えを自分の記憶だと思うかもしれない」

 

「でも、私が何をしたのか、誰かは知っているかもしれない」

 

「そうだな」

 

「だったら、教えてほしい」

 

「誰に?」

 

患者番号零は言葉を失った。

 

誰に。

 

その問いに、答えられなかった。

 

自分が誰なのか分からない。

 

誰に何をしたのかも分からない。

 

誰に尋ねればいいのかも分からない。

 

それでも、彼女は知りたかった。

 

「……私が、悪いことをしたのなら」

 

彼女は言った。

 

「それを、なかったことにしたくない」

 

影は、わずかに首を傾けた。

 

「ならば、なかったことにしなければいい」

 

「でも、私が覚えていなかったら?」

 

「覚えていないことと、なかったことにすることは違う」

 

その言葉は、出久が彼女に言ったことと、どこか似ていた。

 

「お前が何をしたのか分からないなら、分からないまま調べればいい。お前が誰なのか分からないなら、分からないまま生きればいい。名前がないからといって、何も選べないわけではない」

 

「……あなたは、どうしてそんなことを知っているの?」

 

影は答えなかった。

 

その沈黙を、患者番号零は責めなかった。

 

彼女は、もう一度尋ねた。

 

「あなたは、私が誰なのか知っている?」

 

「知らない」

 

「私の名前も?」

 

「知らない」

 

「……本当に?」

 

影は、少しだけ揺らいだ。

 

「知っているという言葉の意味が、分からないのだ」

 

患者番号零は、その答えを聞いて、初めて影に親しみを覚えた。

 

この存在もまた、自分が何者なのかを説明できないのかもしれない。

 

「ねえ」

 

「何だ」

 

「もし、あなたが私の名前を知っていたとしても、今は教えなくていいよ」

 

影が動きを止めた。

 

「どうしてだ?」

 

「私が、自分で知りたいから」

 

彼女は、少しだけ笑った。

 

「誰かに教えてもらうことが悪いわけじゃない。でも、私の名前を知った瞬間に、私が何者なのかまで決まってしまうのは嫌なの」

 

影は、彼女を見つめた。

 

「……お前は、以前よりも多くを語るようになったな」

 

「そうなの?」

 

「以前のお前は、答えを求めてばかりいた」

 

「今は?」

 

「答えを求めることと、答えを誰かに決められることは違うと知り始めた」

 

患者番号零は、しばらく考えた。

 

「それは、いいことなのかな」

 

「私には分からない」

 

「また、それ?」

 

「分からないことを、分かったふりはできない」

 

彼女は、小さく笑った。

 

「……そっか」

 

白い墓地に、静寂が戻る。

 

そのとき、影の足元に文字が浮かび上がった。

 

アザトース。

 

患者番号零は、その文字を見た。

 

影もまた、文字を見下ろした。

 

「……これが、あなたの名前?」

 

彼女が尋ねた。

 

影は、しばらく沈黙した。

 

「違うかもしれない」

 

「じゃあ、あなたは誰なの?」

 

「それも、分からない」

 

「名前がないの?」

 

「名前がないのか。名前を失ったのか。名前を持つということを、まだ理解できていないのか。それすら、分からない」

 

患者番号零は、文字を見つめた。

 

「じゃあ、今は呼ばない」

 

影が、わずかに動いた。

 

「その名で呼ばないのか?」

 

「うん。あなたが、それを自分の名前だって言っていないから」

 

「……そうか」

 

影の輪郭が、ほんの少しだけ安定した。

 

それが安堵だったのか。

 

驚きだったのか。

 

あるいは、何か別の感情だったのか。

 

患者番号零には分からなかった。

 

だが、彼女は一つだけ、確信した。

 

この影もまた、誰かに名前を与えられることを恐れているのかもしれない。

 

名前を与えられた瞬間、名前を与えた者の理解によって、存在を定義されてしまうから。

 

「ねえ」

 

患者番号零は、墓地の奥を見た。

 

「私は、ここにまた来てもいい?」

 

影は答えた。

 

「お前が望むなら」

 

「あなたが嫌じゃなければ?」

 

「私が嫌かどうかを、お前が決める必要はない」

 

「……そっか」

 

彼女は、少し考えてから言った。

 

「じゃあ、また来るね」

 

影は、何も答えなかった。

 

患者番号零が去った後も、白い墓地は静まり返っていた。

 

影は、足元の文字を見つめ続けた。

 

アザトース。

 

それが何を意味するのか、影には分からない。

 

ただ、その文字が現れた瞬間、遠い場所で何かが目を覚ましたような感覚があった。

 

世界の底。

 

記録の底。

 

名前を与えられる以前の、何か。

 

影は、その方向を見た。

 

「……まだ、早い」

 

誰に向けた言葉なのか。

 

自分自身に向けたものなのか。

 

それとも、これから目を覚ます何者かに向けたものなのか。

 

影自身にも、分からなかった。

 

第七幕 死神は、まだ答えを持たない

観測者は、死神に一つの提案をした。

 

「君の初期記憶を、復元できるかもしれない」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

「完全にですか?」

 

「分からない。だが、断片なら取り出せる可能性がある」

 

「危険は?」

 

「君の現在の存在定義に影響する可能性がある。記憶が戻ることで、君が今の君ではなくなるかもしれない」

 

死神は、目を伏せた。

 

「……私が、今の私ではなくなる」

 

「そうだ」

 

「それは、私が覚えている誰かにとって、望ましいことなのでしょうか」

 

観測者は答えなかった。

 

それは、本人にしか分からない。

 

あるいは、本人でさえ分からないのかもしれない。

 

死神は、記録を見つめた。

 

第一接続者。

 

自分の最初の記録。

 

自分が呼んだはずの名前。

 

そして、名前を呼ぶことのできなかった誰か。

 

それらを知りたいという気持ちは、確かにあった。

 

だが、知りたいからといって、何をしてもいいわけではない。

 

自分の記憶を取り戻すために、誰かの記録を傷つけていいのか。

 

自分が誰かを覚えていたという証拠を得るために、誰かの意思を無視していいのか。

 

それは、死神が今まで他者に問い続けてきたことと、同じだった。

 

「……今は、復元しません」

 

観測者は、意外そうに死神を見た。

 

「いいのか?」

 

「知りたいです。とても」

 

死神は、正直に答えた。

 

「でも、記憶が戻れば、すべてが分かるとは限りません。私が見たものが真実なのか、誰かが見せたものなのか。私が選んだことなのか、選ばされたことなのか。それを判断できるようになるまでは、急ぎたくありません」

 

「君らしくなったな」

 

「以前の私は、違ったのですか?」

 

観測者は、少しだけ考えた。

 

「以前の君なら、真実を知るために、自分を犠牲にすることをためらわなかったかもしれない」

 

死神は、顔を上げた。

 

「……そうですか」

 

「今は違う」

 

「ええ」

 

死神は、自分の指先を見た。

 

そこに残っていた黒い文字は、少しずつ薄れていた。

 

「誰かを覚えるために、自分を失うことが、本当に正しいのか。今の私は、それを考えたい」

 

観測者は頷いた。

 

「ならば、記録を封印しよう。君が望むまで、復元はしない」

 

「お願いします」

 

観測者が記録を閉じようとした、その瞬間。

 

画面が赤く明滅した。

 

警告音が鳴る。

 

観測者は即座に操作を切り替えた。

 

「何だ?」

 

記録領域の奥で、何かが動いている。

 

デウス・マキナの通常領域ではない。

 

死者の記録が保管されている領域でもない。

 

第一接続者に関する未定義領域。

 

そこに、新しい応答が生じていた。

緊急観測ログ

第一接続者:応答継続

応答対象:悲嘆

 

接続方式:未定義

 

記憶の復元:なし

 

存在定義の変更:なし

 

受信内容:

あなたは、まだ私を探しているのですね。

 

死神は、画面を見つめた。

 

自分が記憶を復元することを拒んだ直後。

 

相手は、こちらへ応答してきた。

 

記憶を取り戻したからではない。

 

名前を知ったからでもない。

 

自分が何者なのかを理解したからでもない。

 

それなのに。

 

相手は、自分が探していることを知っていた。

 

「……誰なんだ」

 

死神は、初めて、記録に向かって声を上げた。

 

「あなたは、誰なんですか!」

 

返事は、すぐにはなかった。

 

観測者が接続を切ろうとした。

 

「待て」

 

死神が止めた。

 

「まだ、切らないでください」

 

「相手が何者か分からない。これ以上、接続を続けるのは危険だ」

 

「分かっています」

 

「ならば――」

 

「でも、今の応答は、私が記憶を復元しようとしたことへの反応ではありません」

 

死神は、画面を見つめていた。

 

「私が復元を拒んだことを、相手は知っている。つまり、相手は私が何を選んだのかを見ていた可能性があります」

 

「だからこそ危険なんだ」

 

「ええ」

 

死神は頷いた。

 

「だからこそ、知りたいのです」

 

記録の奥で、文字が浮かび上がった。

 

――私は、あなたに名前を呼んでほしかった。

 

死神の目が見開かれた。

 

――けれど、あなたが私の名前を忘れたことを、責めるつもりはありません。

 

――あなたが、私を覚えるために、自分を失わなかったことを。

 

――私は、望んでいたのかもしれません。

 

文字は、そこで途切れた。

 

「……望んでいた?」

 

死神は呟いた。

 

何を。

 

誰が。

 

何を望んでいたのか。

 

記録が再び明滅した。

 

最後の一文が現れる。

 

――あなたが、あなたのままで、私を探してくれることを。

 

その瞬間、死神は理解した。

 

少なくとも、この応答を送ってきた何者かは、自分に記憶を取り戻してほしいとは限らない。

 

名前を思い出してほしいとは限らない。

 

過去の自分に戻ってほしいとも限らない。

 

ただ、今の自分が、自分の意思で相手を探していること。

 

それを望んでいる可能性がある。

 

死神は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……私は、あなたを探します」

 

観測者が振り向く。

 

「死神」

 

「でも、あなたが誰なのか、私が勝手に決めることはしません」

 

記録の向こうへ、死神は語りかけた。

 

「あなたの名前を、私が勝手につけることもしません。あなたが私に何をしてほしいのかも、私が決めつけません」

 

彼は、一度だけ言葉を切った。

 

「それでも、私はあなたを探します」

 

記録が、静かに光った。

 

返事はなかった。

 

だが、接続は切れなかった。

 

観測者は、記録の変化を確認しながら、低く呟いた。

 

「……これが、第一接続者の条件なのか?」

 

死神は首を振った。

 

「分かりません」

 

「分からないことだらけだな」

 

「ええ」

 

死神は、わずかに笑った。

 

「でも、分からないことを、分からないままにしておくのも、悪くないのかもしれません」

 

観測者は、返事をしなかった。

 

二人の前で、未定義領域の記録が閉じていく。

 

その最後に、たった一つの情報が残された。

 

第一接続者に関する記録

第一接続者は、まだ存在している。

現在の存在状態:確認不能

 

所在:確認不能

 

名前:未確定

 

死神との関係:記録欠損

 

そして、その下に。

 

誰にも読み取れないはずの、古い文字が浮かび上がった。

 

――あなたが、私を探してくれるなら。

 

――私は、まだ、ここにいてもいいのでしょうか。

 

死神は、その文字を見つめた。

 

すぐには答えられなかった。

 

その問いに答えるには、相手が誰なのかを知る必要があるのかもしれない。

 

だが、相手が誰なのかを知る前に、答えられることもある。

 

死神は、静かに言った。

 

「あなたがここにいたいと願うのなら」

 

「あなたが、あなた自身の意思で存在したいと願うのなら」

 

「私は、その願いを聞きます」

 

記録は、そこで消えた。

 

それでも、死神はしばらく、その場所を見つめ続けた。

 

自分が誰かを覚えていたことを、証明できるものはない。

 

相手が誰なのかも、まだ分からない。

 

第一接続者が被害者なのか、加害者なのか、それともそのどちらでもない存在なのか。

 

その答えも、出ていない。

 

しかし、確かなことが一つだけあった。

 

死神は、今、自分の意思で誰かを探している。

 

記憶を取り戻すためではない。

 

過去の自分に戻るためでもない。

 

まだ名前の分からない誰かが、今も存在したいと願っているかもしれないから。

 

そして、死神は、その願いを聞くことを選んだ。

 

第八幕 世界が隠した答え

その頃、雄英高校では、出久たちが新たな記録を分析していた。

 

死者の帰還は、依然として完全には解決していない。

 

戻ってきた死者たちは、それぞれの記憶と意思を持っている。

 

彼らは、誰かの願いを実現するためだけに存在しているわけではない。

 

自分自身の人生を生きた者たちだ。

 

だからこそ、彼らを単純に「異常」として処理することはできない。

 

一方で、死者の帰還が続けば、世界そのものに深刻な影響が生じる可能性もある。

 

出久は、記録を見つめた。

 

「……死者が戻ってきたことと、死者が戻ってきた理由は、分けて考えなきゃいけない」

 

相澤が頷く。

 

「そうだ。戻ってきた者たちを、ただ異常現象として扱うわけにはいかない。だが、現象の原因を放置することもできない」

 

「それに、戻ってきた人たちの意思と、戻している何者かの意思も、同じとは限らない」

 

「緑谷」

 

相澤は、出久を見た。

 

「お前は、何を考えている?」

 

出久は少しだけ考えた。

 

「もし、誰かが死者を戻しているのだとしたら……その誰かは、死者を戻すことが正しいと思っているのかもしれません」

 

「それで?」

 

「でも、正しいと思っていることと、実際に相手のためになっていることは違う」

 

出久は、患者番号零との会話を思い出した。

 

「死者が戻りたいと思っているかどうか。戻ってきた後、どう生きたいと思っているか。それを無視して、ただ生き返らせることが救いだと決めてしまったら……それは、相手の意思を奪うことになるかもしれない」

 

相澤は、すぐには答えなかった。

 

「なら、戻ってきた死者を、どうするつもりだ?」

 

「まず、本人たちの意思を確認したいです」

 

「全員に?」

 

「はい。できる限り」

 

「本人が、自分の意思を確認できない場合は?」

 

出久は、言葉に詰まった。

 

記憶を失っている者。

 

自分が死んだことを理解できない者。

 

戻ってきた理由を知らない者。

 

自分の存在が不安定な者。

 

そのすべてに、簡単な答えを出すことはできない。

 

「……一人ずつ、考えたいです」

 

「時間がかかるぞ」

 

「分かっています」

 

「その間に、状況が悪化するかもしれない」

 

「それでも、最初から答えを決めることはしたくありません」

 

相澤は、長く息を吐いた。

 

「……お前らしいな」

 

「先生なら、どうしますか?」

 

「俺なら、まず危険を取り除く。そのうえで、本人の意思を確認する。だが、本人の意思が分からないからといって、永遠に何も決めないわけにはいかない」

 

「はい」

 

「そして、忘れるな。本人の意思を尊重することは、本人が他人に与えた被害までなかったことにすることじゃない」

 

出久は頷いた。

 

それは、患者番号零との会話でも確認したことだった。

 

人を理解することと、罪を許すことは違う。

 

人の意思を尊重することと、何をしてもいいと認めることも違う。

 

救うという言葉は、誰かの罪を消すために使われてはいけない。

 

だが、罪があるという理由で、その人が自分の意思を持つことまで否定してはいけない。

 

その二つの境界線を、出久はまだ探していた。

 

「緑谷」

 

相澤が、別の画面を指した。

 

「これを見ろ」

 

そこには、死者の帰還に関する新しい記録が表示されていた。

 

死者の帰還が発生した場所。

 

発生した時刻。

 

記録に残る接続反応。

 

それらを重ね合わせると、一つの奇妙な傾向が浮かび上がった。

 

死者の帰還が発生した場所では、必ずしも強い個性反応が確認されているわけではない。

 

むしろ、個性反応がほとんど存在しない場所でも、帰還は発生していた。

 

「個性が原因じゃない……?」

 

「少なくとも、個性だけでは説明できない」

 

相澤は答えた。

 

「個性を持たない人間もいる。個性の影響を受けていない場所もある。それでも現象は起きている」

 

出久は記録を拡大した。

 

そこには、デウス・マキナの接続反応と、もう一つの未知の反応が記録されていた。

 

未知の反応は、世界各地で発生している。

 

それだけではない。

 

死者が帰還する直前だけでなく、帰還した死者が誰かと会話した瞬間にも、微弱な反応が確認されていた。

 

「これ……死者が戻ってくることだけが、現象の中心じゃないのかもしれません」

 

「どういうことだ?」

 

「死者が戻ってくることは、何か別の現象の一部なのかもしれない。もっと大きな仕組みがあって、その一つの結果として、死者が戻ってきている……」

 

出久は、画面の記録を見つめた。

 

もしそうなら、死者の帰還を止めるだけでは、問題は解決しない。

 

根本にある仕組みが残る限り、別の形で異常が発生する可能性がある。

 

そして、その仕組みが世界の記録や、存在そのものの定義に関わっているのなら。

 

デウス・マキナを停止させるだけで、すべてが解決するとも限らない。

 

「……一体、何が起きているんだ」

 

出久は呟いた。

 

その問いに、まだ誰も答えられなかった。

 

第九幕 第一接続者の返事

深夜。

 

デウス・マキナの未定義領域に、新しい記録が発生した。

 

観測者は、即座にその記録を開いた。

 

死神も、隣で見守っている。

 

今度の記録には、映像があった。

 

白い空間。

 

何もない場所。

 

そこに、一人の人物が立っていた。

 

顔は見えない。

 

輪郭も安定していない。

 

しかし、その人物が誰かを待っていることだけは、はっきりと分かった。

 

人物は、しばらく沈黙していた。

 

やがて、ゆっくりと口を開いた。

 

「……まだ、名前を呼べないのですね」

 

死神は、画面を見つめた。

 

その声は、夢の中で聞いた声に似ていた。

 

いや。

 

似ているというよりも。

 

同じ声だった。

 

「あなたは、誰なんですか」

 

死神が尋ねる。

 

映像の人物は、顔を上げた。

 

「私にも、分かりません」

 

「あなた自身のことが?」

 

「私が、何者なのか。私が、何をしたのか。私が、何を望んでいたのか」

 

人物は、静かに続けた。

 

「それを知っていたはずの記録が、ありません」

 

死神は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

 

「では、あなたは……」

 

「私は、第一接続者と呼ばれているようですね」

 

人物は、少しだけ首を傾けた。

 

「でも、その名前が、私のものなのかどうかも分かりません」

 

観測者が口を開いた。

 

「あなたは、誰かを殺したのですか?」

 

映像の人物は、観測者を見た。

 

「分かりません」

 

「あなたは、誰かに殺されたのですか?」

 

「分かりません」

 

「あなたは、自分自身の存在を否定したのですか?」

 

人物は、長い沈黙の後に答えた。

 

「……その記録があるのなら、私は、そうしたのかもしれません」

 

観測者は、表情を変えなかった。

 

「それを覚えていない?」

 

「はい」

 

「では、なぜ応答したのです?」

 

人物は、死神を見た。

 

「あなたが、私を探していたからです」

 

死神は、息を呑んだ。

 

「私を?」

 

「はい」

 

「なぜ、私があなたを探していると分かったのですか?」

 

「……分かりません」

 

人物は、困ったように笑った。

 

「でも、あなたが私を探していることだけは、分かりました」

 

死神は、画面に近づいた。

 

「あなたは、私を知っているのですか?」

 

「知っていたのかもしれません」

 

「私の名前を知っていますか?」

 

人物は、ゆっくりと首を振った。

 

「今は、分かりません」

 

死神は、目を閉じた。

 

それは、あまりにも奇妙な再会だった。

 

自分を知っていたかもしれない者。

 

自分が覚えていたかもしれない者。

 

自分が名前を呼んだかもしれない者。

 

その相手が、今、自分の前にいる。

 

それなのに、互いに何も分からない。

 

「……あなたは、私に何を望んでいるのですか?」

 

死神が尋ねた。

 

人物は、少しだけ考えた。

 

「私の名前を、思い出してほしいのかもしれません」

 

「……」

 

「でも、それだけではない気もします」

 

人物は、自分の手を見つめた。

 

「私が何をしたのか、知ってほしいのかもしれません。私が何を失ったのか、知ってほしいのかもしれません。あるいは……」

 

言葉が途切れた。

 

「私が、何を望んでいたのかを、私自身が知りたいのかもしれません」

 

死神は、ゆっくりと頷いた。

 

「分かりました」

 

「……はい」

 

「あなたが何者なのかを、調べます」

 

人物は、顔を上げた。

 

「でも、あなたの正体を私が勝手に決めることはしません。あなたが何をしたのかも、あなたの意思を聞かずに、最初から結論づけることはしません」

 

人物は、静かに聞いていた。

 

「あなたが、誰かを傷つけたのなら、その事実をなかったことにはしません。あなたが、誰かに傷つけられたのなら、その事実もなかったことにはしません」

 

死神は、まっすぐに相手を見た。

 

「あなたが何者であっても、あなたが何を選んだのかを、知りたいのです」

 

人物は、長い沈黙の後に答えた。

 

「……ありがとうございます」

 

その声は、ひどく小さかった。

 

そして、人物は最後に尋ねた。

 

「あなたは、私を覚えていないのですね?」

 

死神は、正直に答えた。

 

「はい」

 

人物は、目を伏せた。

 

「……そうですか」

 

その反応に、死神は胸を痛めた。

 

しかし、人物は、すぐに顔を上げた。

 

「それでも、あなたは私を探してくれるのですね」

 

「はい」

 

「……それなら」

 

人物は、わずかに笑った。

 

「今度は、私もあなたを探します」

 

映像が消えた。

 

接続が終了する。

 

観測者は、しばらく記録を見つめていた。

 

「……これで、確かなことが一つ増えたな」

 

「何ですか?」

 

「第一接続者は、少なくとも現在、応答できる状態にある」

 

「ええ」

 

「そして、君との関係を認識している可能性が高い」

 

死神は、記録の消えた画面を見つめた。

 

「……私たちは、もう一度、出会えるでしょうか」

 

観測者は答えなかった。

 

未来のことは、誰にも分からない。

 

だが、死神はもう、以前のように焦ってはいなかった。

 

記憶が戻らなくても。

 

名前が分からなくても。

 

過去の真実が、まだ明らかにならなくても。

 

今、相手が応答した。

 

そして、自分も応答した。

 

それだけで、次に進む理由にはなった。

 

第十幕 世界は、誰を覚えているのか

翌朝。

 

出久の端末に、観測者から新しい記録が送られてきた。

 

第一接続者に関する情報。

 

死神の記憶の欠損。

 

そして、犠牲を伴わずに成立した接続の記録。

 

出久は、すべてを読み終えた後、しばらく黙っていた。

 

「……死神さんも、誰かを探しているんだ」

 

彼は、画面を閉じなかった。

 

自分が知らないところで、死神は長い時間、誰かを探していたのかもしれない。

 

誰かを忘れたのか。

 

誰かを覚えようとして、何かを失ったのか。

 

それとも、そもそも誰かを記録すること自体が、世界の仕組みによって禁じられていたのか。

 

まだ、分からない。

 

ただ、死神もまた、答えを知らないまま進もうとしている。

 

それは、出久にとって、少しだけ心強いことだった。

 

すべてを知っている者が、正解を教えてくれるわけではない。

 

すべてを解決できる力が、最初から与えられているわけでもない。

 

それでも、自分で考え、相手の意思を聞き、間違えたなら修正しながら進むことはできる。

 

「……僕も、調べよう」

 

出久は、端末を握りしめた。

 

死者の帰還を止めるためだけではない。

 

戻ってきた死者たちが、自分自身の意思で選べるようにするため。

 

そして、世界が誰かの存在を否定しているのなら、その否定が正しいものなのかを確かめるため。

 

そのとき、患者番号零からメッセージが届いた。

緑谷くん。

 

昨日、少しだけ夢を見たの。

 

誰かが、私の名前を呼んでいた。

 

でも、目が覚めたら、何も思い出せなかった。

 

それでも、前より少しだけ怖くなくなった。

 

私は、まだ何も分からない。

 

でも、分からないままでも、誰かと話せるんだね。

 

出久は、画面を見つめた。

 

そして、返事を打った。

うん。

 

分からないことがあっても、話すことはできるよ。

 

君が知りたいことを、一緒に調べよう。

 

怖くなったら、そこで止まってもいい。

 

それでも、君が知りたいと思うなら、僕は一緒に考える。

 

送信した後、出久は端末を置いた。

 

その瞬間、画面に一つの通知が現れた。

 

デウス・マキナの記録更新。

 

接続対象:緑谷出久。

 

接続対象:患者番号零。

 

接続対象:悲嘆。

 

三つの記録が、初めて同じ領域に並んでいた。

 

その下に、短い文章が表示された。

 

――記録の共有を確認。

 

――存在の統合は発生していない。

 

――記憶の代償は発生していない。

 

そして。

 

――三者の接続理由は、同一ではない。

 

出久は、思わず身を乗り出した。

 

三者はつながっている。

 

しかし、同じ存在ではない。

 

同じ記憶を持っているわけでもない。

 

同じ目的を持っているわけでもない。

 

それでも、記録を共有できる。

 

それは、デウス・マキナの従来の理論を、もう一度見直す必要があることを意味していた。

 

誰かとつながることは、誰かと同じ存在になることではない。

 

誰かを覚えることは、相手の記憶を奪うことではない。

 

そして、誰かを救うことは、相手の未来を決めることではない。

 

出久は、画面を閉じた。

 

まだ、解決していないことばかりだ。

 

死者の帰還。

 

第一接続者。

 

死神の失われた記憶。

 

デウス・マキナの本当の機能。

 

世界樹やアカシックレコードとの関係。

 

そして、名前を持たない影。

 

何もかもが、まだ謎のままだ。

 

だが、謎を解くために、誰かを犠牲にしなければならないとは限らない。

 

その可能性を、出久たちは初めて、実際の記録として手に入れた。

 

それは、世界の仕組みを覆すほどの証拠ではない。

 

だが、世界の仕組みを疑うには十分だった。

 

第十四話・終幕 最初の名前は、まだ呼ばれない

誰もいない記録領域。

 

第一接続者に関する記録は、再び沈黙していた。

 

その領域の奥に、一つの名前が浮かび上がった。

 

悲嘆。

 

死神の名前。

 

その隣に、もう一つの記録が現れた。

 

――最初に呼ばれた名前。

 

記録は、しばらく明滅した。

 

そして、文字が一つずつ現れた。

 

一文字目。

 

二文字目。

 

三文字目。

 

名前が、形を成そうとする。

 

しかし、完成する直前に、記録が途切れた。

 

警告が表示される。

記録復元エラー

名前の確定に失敗しました。

原因:記録対象の意思を確認できません。

 

補足:記録対象は、名前の復元を拒否している可能性があります。

 

その表示を見た者は、誰もいなかった。

 

死神も。

 

観測者も。

 

出久も。

 

患者番号零も。

 

だが、記録領域の奥では、何者かが確かに、その名前を見つめていた。

 

そして、静かに呟いた。

 

「……まだ、呼ばないで」

 

その声は、誰にも届かなかった。

 

「私が、私の名前を思い出すまで」

 

記録は消えた。

 

世界は、何事もなかったかのように動き続けた。

 

だが、デウス・マキナの最深部には、新しい記録が残っていた。

 

――第一接続者の名前は、未確定。

 

――名前の復元は、記録対象の意思を必要とする。

 

――記録対象の所在は、不明。

 

そして、最後に。

 

――第一接続者は、現在も、自分自身を探している。

 

死神が探している相手も。

 

第一接続者が探している自分自身も。

 

まだ、名前を持たない。

 

それでも、二つの探求は、確かに始まっていた。

 

世界が生まれる前に失われたものを、世界が生まれた後の者たちが、もう一度見つけようとしていた。

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