僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十五話「帰ってきた死者は、誰の未来を生きるのか」

第一幕 「生き返ったんだから、喜べよ」

「ふざけるな!」

 

その怒声は、雄英高校の臨時保護施設に響き渡った。

 

会議室にいた全員が、同時にそちらを振り向く。

 

声を上げたのは、帰還者の一人だった。

 

名前は、神崎修司。

 

三十七歳。

 

元消防士。

 

三年前、火災現場で取り残された住民を救助しようとして命を落とした男性である。

 

帰還した当初、彼は自分の家族を探した。

 

妻は再婚していた。

 

娘は、もう高校生になっていた。

 

彼が亡くなったとき、まだ幼かった娘は、父親の顔を写真でしか覚えていなかった。

 

それでも、娘は彼に会いに来た。

 

父親が帰ってきたと聞いたからだ。

 

娘は泣いた。

 

父親も泣いた。

 

妻は、すぐには言葉を発せなかった。

 

誰もが、奇跡だと思った。

 

死者が帰ってきた。

 

失われたはずの家族が、もう一度会えた。

 

だが。

 

「どうして、俺を帰したんだ!」

 

神崎は、机を叩いた。

 

「俺は……俺は、あそこで終わったんだ!」

 

誰も答えられなかった。

 

神崎は、自分の両手を見つめた。

 

「覚えてるんだよ。火の中のことも、助けられなかった人のことも。自分が、もう助からないって分かった瞬間のことも」

 

彼の声は震えていた。

 

「俺は、あそこで死んだんだ」

 

「神崎さん……」

 

出久が声をかける。

 

神崎は、顔を上げた。

 

「緑谷くん。君は、俺が生き返ったことを、よかったと思うか?」

 

出久は、すぐには答えられなかった。

 

普通なら、喜ぶべきなのだろう。

 

死んだ人が帰ってきた。

 

家族に再会できた。

 

もう一度、人生をやり直せるかもしれない。

 

だが、神崎は喜んでいなかった。

 

いや、正確には、喜びだけでは済まなかった。

 

「……僕には、簡単に答えられません」

 

出久は正直に言った。

 

「あなたが帰ってきたことを、嬉しいと思う人はいると思います。でも、それだけで、あなた自身が帰ってきてよかったと思えるとは限らないから」

 

神崎は、目を見開いた。

 

「……そうか」

 

「あなたが、今どうしたいと思っているのか。そこから考えたいです」

 

神崎は、しばらく出久を見つめていた。

 

やがて、力なく椅子に座った。

 

「俺は……どうすればいいんだろうな」

 

その問いに、出久は答えられなかった。

 

彼が戻ってきたことを喜ぶ人がいる。

 

彼が戻ってきたことを恐れる人もいるかもしれない。

 

彼自身は、もう一度生きることを望んでいない。

 

それでも、彼は今、ここにいる。

 

それだけは、変えようのない事実だった。

 

第二幕 奇跡の裏側

「帰還者の全員が、同じ状態ではない」

 

相澤消太は、集められた資料を机に並べた。

 

出久、八百万、飯田、麗日、轟、そして数名の教職員が、記録を確認している。

 

「帰還者は、大きく分けて三つの傾向を示している」

 

相澤は、資料を一枚ずつ示した。

 

「第一に、帰還を望んでいる者。第二に、帰還した理由を理解できず、判断を保留している者。そして第三に……」

 

「帰還を望んでいない人たち、ですね」

 

八百万が答えた。

 

「そうだ」

 

相澤は頷いた。

 

「ただし、これは現時点で確認できた傾向にすぎない。時間が経てば気持ちが変わる者もいるだろうし、本人の意思を確認できない者もいる」

 

飯田が眼鏡を押し上げた。

 

「しかし、帰還を望まない者がいるのであれば、帰還そのものを止めるべきではないでしょうか」

 

「そう簡単にはいかない」

 

相澤の答えは厳しかった。

 

「帰還を望む者もいる。家族との再会を望んでいる者もいる。自分がやり残したことを果たしたい者もいる。帰還を望まない者がいるからといって、全員を同じ扱いにはできない」

 

「では、どのように判断するのですか?」

 

「本人の意思を確認する。ただし、意思を確認できない場合は、安全を確保しながら、判断できる状態になるまで待つ」

 

飯田は、納得しきれない表情を浮かべた。

 

「その間に、状況が変化する可能性もあります」

 

「だから、俺たちがいる」

 

相澤は、資料を閉じた。

 

「本人の意思を確認することと、危険を放置することは違う。必要な安全対策を講じたうえで、本人が何を望んでいるのかを確かめる」

 

麗日は、神崎の資料を見つめていた。

 

「……でも、帰ってきた人が、帰ってきたくなかったって言ったら」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

「その人の家族は、どうなるんだろう」

 

麗日の声は小さかった。

 

「もう一度会えたことを、すごく嬉しいって思ってるかもしれない。もう一度一緒に暮らしたいって思ってるかもしれない。でも、本人が帰りたくなかったら……」

 

彼女は言葉を切った。

 

「その家族の願いは、どうなるの?」

 

出久は、神崎と娘の再会を思い出した。

 

娘は父親に会いたかった。

 

妻も、彼が帰ってきたことを喜んでいた。

 

だが、神崎自身は、帰還を望んでいなかった。

 

誰かの願いが叶ったことと、別の誰かが望まないことを強いられたこと。

 

その二つは、同時に成立してしまう。

 

「……どちらかの願いを、最初から正しいことにするのは違うと思う」

 

出久は言った。

 

「家族が会いたいと思ったことも、本人が帰りたくなかったと思ったことも、どちらも本当だから」

 

「でも、出久くん」

 

麗日が尋ねる。

 

「それじゃあ、どうすればいいの?」

 

出久は、答えを探した。

 

「……本人が帰りたくないと思っているなら、その気持ちを無視して、家族のために生きろとは言えない。でも、本人が今ここにいることまで、なかったことにしていいとも思わない」

 

「難しいね」

 

「うん」

 

出久は、正直に頷いた。

 

「難しいから、一人ずつ考えるしかないんだと思う」

 

その答えは、誰も満足させなかった。

 

だが、少なくとも、誰かの未来を勝手に決める答えではなかった。

 

第三幕 死者の記憶

その日の午後、出久は神崎と再び話をした。

 

部屋には、余計な機器を置かなかった。

 

記録装置も、デウス・マキナの接続端末もない。

 

ただ、二人が話せる場所だけを用意した。

 

「……何を聞きたい?」

 

神崎が尋ねた。

 

「あなたが、帰還する直前に何を覚えているのか、聞かせてもらえますか」

 

神崎は、少しだけ考えた。

 

「火の中だ」

 

彼は、静かに語り始めた。

 

「建物の中に、取り残された人がいた。俺は、そいつを助けようとした。だが、火の回りが早すぎた」

 

神崎は、自分の指先を見つめた。

 

「最後まで、助けられると思ってた。いや、助けられると思わなきゃ、動けなかったんだ」

 

出久は、口を挟まなかった。

 

「でも、無理だった。煙がひどくて、出口も分からなくなった。最後に覚えているのは……」

 

神崎は、目を閉じた。

 

「誰かの声だ」

 

「誰かの?」

 

「ああ。女の声だったと思う。子供かもしれない。よく分からない」

 

彼は眉を寄せた。

 

「『帰りたい』って、聞こえた気がする」

 

出久は、身を乗り出した。

 

「それは、助けようとしていた人の声ですか?」

 

「分からない」

 

神崎は首を振った。

 

「俺が助けようとしていた人は、男だった。少なくとも、俺が見た限りではな」

 

「では、別の人の声……?」

 

「そうかもしれない。でも、妙なんだ」

 

神崎は、自分の胸に手を当てた。

 

「その声を聞いた瞬間、俺は、誰かに呼ばれたような気がした」

 

「呼ばれた?」

 

「ああ。俺の名前じゃない。もっと別の何かだ」

 

彼は苦しそうに息を吐いた。

 

「それで、俺は思ったんだ。ああ、もう帰れるんだって」

 

出久は、何も言わなかった。

 

「それが、何を意味するのか分からない。俺は、死ぬ直前まで、誰かを助けようとしていた。帰りたいなんて考えている余裕はなかったはずだ」

 

神崎は、出久を見た。

 

「それなのに、俺は確かに、帰れると思ったんだ」

 

「……」

 

「緑谷くん。俺は、本当に死んだのか?」

 

出久は、答えを急がなかった。

 

「あなたは、自分が死んだことを覚えているんですよね」

 

「ああ」

 

「それなら、少なくとも、あなた自身の記憶の中では、あなたは死んでいた」

 

「……そうか」

 

「でも、どうやって戻ってきたのかは、まだ分かりません」

 

神崎は、しばらく黙っていた。

 

「俺が帰りたくなかった理由は、分かるか?」

 

「……分かりません」

 

「そうだよな」

 

神崎は、少しだけ笑った。

 

「俺にも分からないんだ」

 

彼は窓の外を見た。

 

「娘に会えたことは、嬉しかった。妻に会えたことも、嬉しかった。もう一度、家族と話せるなんて、考えたこともなかった」

 

「はい」

 

「でも、同時に、俺は怖かった」

 

「何が、ですか?」

 

「俺が戻ってきたせいで、あいつらの人生が変わることだ」

 

神崎の声は、静かだった。

 

「妻は、俺が死んだ後、自分の人生を生き直した。娘を育てて、仕事をして、再婚して……俺がいなくなった世界で、あいつは自分の人生を作ったんだ」

 

神崎は、両手を握りしめた。

 

「俺が戻ってきたことで、その人生を壊したくない」

 

「でも、奥さんや娘さんは、あなたに会いたかったんですよね」

 

「ああ。だから、困るんだ」

 

神崎は、苦しそうに笑った。

 

「俺が戻ってきたことを、喜んでくれる。俺と一緒にいたいと思ってくれる。俺も、あいつらと一緒にいたいと思う」

 

「……」

 

「それでも、俺は、あいつらが俺のいない世界で生きてきたことを、なかったことにしたくないんだ」

 

出久は、その言葉を聞きながら、胸の奥に何かが刺さるのを感じた。

 

失われた人を取り戻したいという願い。

 

失われた人がいない世界で生きていくという選択。

 

そのどちらも、間違いではない。

 

だが、両方を同時に叶えることはできない場合がある。

 

神崎は、死者として戻ってきた。

 

だが、彼の家族は、彼がいない時間を生きてきた。

 

その時間は、誰にも取り消せない。

 

「……神崎さん」

 

出久は、慎重に言葉を選んだ。

 

「あなたが戻ってきたことを、奥さんや娘さんが喜んでいるのは、本当だと思います。でも、あなたが戻ってきたことで、二人の人生が以前と同じになる必要はないんじゃないでしょうか」

 

神崎が振り向いた。

 

「同じになる必要はない?」

 

「はい。あなたが亡くなる前の家族に戻ることだけが、正解ではないと思うんです」

 

出久は、ゆっくりと続けた。

 

「奥さんには、奥さんの今の人生がある。娘さんにも、娘さんの人生がある。あなたにも、今ここにいるあなたの気持ちがある」

 

「……」

 

「もし、もう一度一緒にいたいと思うなら、今のあなたたちとして、関係を作り直すこともできるかもしれません。でも、それは、あなたが望むかどうかも含めて、考えなきゃいけないことだと思います」

 

神崎は、長い間、何も言わなかった。

 

やがて、ぽつりと呟いた。

 

「……俺は、帰ってきたからといって、父親に戻れるわけじゃないんだな」

 

「はい」

 

出久は頷いた。

 

「でも、もう一度、娘さんと話すことはできます」

 

神崎は、顔を伏せた。

 

「……そうか」

 

その声には、ほんの少しだけ、先ほどとは違う響きがあった。

 

帰還を喜ぶことを、無理に求められない。

 

父親としての役割を、いきなり取り戻すことも求められない。

 

ただ、自分が今、何を望んでいるのかを考えることができる。

 

それは、神崎にとって初めて与えられた余地だった。

 

第四幕 帰ってきた父親

神崎の娘は、父親と会いたがっていた。

 

しかし、神崎は、もう一度会うことをためらっていた。

 

「……俺は、あの子に何を言えばいいんだ」

 

彼は出久に尋ねた。

 

「お父さんだよ、って言えばいいのか? もう一度一緒に暮らそうって言えばいいのか?」

 

「それは……」

 

「俺が父親だったことは、変わらない。でも、あの子が俺のいない人生を生きてきたことも、変わらないんだ」

 

神崎は、深く息を吐いた。

 

「俺が戻ってきたことで、あの子が喜んでくれるのは嬉しい。でも、俺は、あの子に、俺のために生きてほしくない」

 

出久は、その言葉に頷いた。

 

「娘さんも、きっと自分で考えたいと思っているんじゃないでしょうか」

 

「……そうかな」

 

「会いたいと思っていることと、これからどうしたいかは、別のことかもしれません」

 

神崎は、しばらく考えていた。

 

やがて、面会を受け入れることにした。

 

面会室に現れた娘は、制服姿だった。

 

神崎は、彼女を見た瞬間、言葉を失った。

 

最後に見たときは、小さな子供だった。

 

今は、もう違う。

 

背も伸びている。

 

髪型も変わっている。

 

彼が知らない表情をしている。

 

彼が知らない時間を生きてきた人間が、そこに立っていた。

 

「……お父さん」

 

娘が呼んだ。

 

神崎は、返事をしようとした。

 

だが、声が出なかった。

 

娘は、目に涙を浮かべながら笑った。

 

「……本当に、お父さんなんだね」

 

「……ああ」

 

神崎は、ようやく答えた。

 

「……久しぶりだな」

 

「うん」

 

娘は、椅子に座った。

 

神崎も、向かい側に座る。

 

二人の間には、三年分の時間があった。

 

娘は、何度か口を開きかけて、閉じた。

 

やがて、思い切ったように尋ねた。

 

「お父さんは、私のこと、覚えてる?」

 

神崎は、即座に頷いた。

 

「ああ。覚えてるよ」

 

「私が小さい頃、よく公園に連れていってくれたことも?」

 

「もちろんだ」

 

「雨の日に、長靴を買ってくれたことも?」

 

「……ああ」

 

娘は、少しだけ笑った。

 

「私、あの長靴、すごく気に入ってたんだよ」

 

神崎は、笑おうとした。

 

だが、うまく笑えなかった。

 

娘は、しばらく父親を見つめていた。

 

「……ねえ、お父さん」

 

「何だ?」

 

「私、お父さんが死んだ後、すごく寂しかった」

 

神崎は、目を伏せた。

 

「……そうだよな」

 

「でも、ずっと寂しいままだったわけじゃないんだ」

 

神崎は、顔を上げた。

 

娘は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「お母さんと暮らして、友達ができて、学校に行って、いろんなことがあった。お父さんがいないことが、寂しくなくなったわけじゃない。でも、私、ちゃんと大きくなったんだよ」

 

「ああ……」

 

「お父さんがいなくても、私は私の人生を生きてきたんだ」

 

神崎の目に、涙が浮かんだ。

 

「……そうか」

 

「だからね」

 

娘は、父親をまっすぐ見つめた。

 

「お父さんが帰ってきてくれたことは、嬉しいよ。すごく嬉しい」

 

「ああ……」

 

「でも、お父さんが死ぬ前に戻りたいわけじゃない」

 

神崎は、息を呑んだ。

 

娘は、続けた。

 

「私も、お父さんも、前とは違う人になったんだと思う。だから、もう一度会えたからって、前と同じ家族に戻らなきゃいけないわけじゃないんだよね」

 

神崎は、何も言えなかった。

 

娘は、少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 

「……私、難しいことを言ってる?」

 

「いや」

 

神崎は、首を振った。

 

「……お前は、俺よりずっと大人になったんだな」

 

「そうかな」

 

「そうだよ」

 

神崎は、ようやく笑った。

 

今度は、少しだけ自然に。

 

「……会えてよかった」

 

その言葉を口にした瞬間、神崎は自分の胸の中にあった感情に気づいた。

 

帰ってきたくなかった。

 

戻ってきたことで、家族の人生を壊すことが怖かった。

 

それでも。

 

娘に会えてよかったと思っている。

 

その二つは、矛盾しているようで、矛盾していなかった。

 

帰還そのものを望んでいなかったことと、帰還した今、娘に会えたことを喜ぶこと。

 

それは、同時に存在していい感情だった。

 

娘は、少しだけ身を乗り出した。

 

「……また、会ってもいい?」

 

神崎は、涙を拭いた。

 

「ああ」

 

そして、少しだけ考えてから付け加えた。

 

「でも、無理はするなよ。お前の生活があるだろう?」

 

娘は、目を丸くした。

 

それから、笑った。

 

「うん。私も、お父さんに無理してほしくない」

 

二人は、初めて、互いの未来について話した。

 

父親が戻ってきたから、娘は父親のために生きる。

 

父親が戻ってきたから、家族は元通りになる。

 

そんな約束はしなかった。

 

ただ、もう一度、会うことを選んだ。

 

それだけだった。

 

そして、その選択は。

 

誰かに与えられたものではなかった。

 

第五幕 死神が聞いた「帰りたい」

「神崎修司の記録に、奇妙な共通点があります」

 

死神の報告を受けた出久は、記録を見つめた。

 

「共通点?」

 

「帰還する直前、本人が覚えていないはずの声を聞いている」

 

「声……」

 

「神崎だけではありません。他の帰還者にも、似た証言があります」

 

死神は、複数の記録を並べた。

 

ある者は、名前を呼ばれたと言った。

 

ある者は、誰かに手を引かれたと証言した。

 

ある者は、光を見たと言った。

 

そして、ある者は。

 

「帰りたい」という声を聞いた。

 

出久は、記録を見つめた。

 

「でも、その声を聞いた人たちは、全員が帰還を望んでいたわけではないんですよね」

 

「そうです」

 

死神は頷いた。

 

「むしろ、帰還を望んでいなかった者の中にも、同じ声を聞いた者がいる」

 

「……それは、誰の声なんでしょう」

 

「分かりません」

 

死神は、正直に答えた。

 

「帰還者本人の願いなのか。残された家族の願いなのか。それとも、誰か別の存在が発した声なのか」

 

「デウス・マキナは、何か記録していませんか?」

 

「記録はあります。ただし、解釈できません」

 

死神は、画面を表示した。

 

そこには、帰還現象が発生する直前の記録があった。

デウス・マキナ/帰還現象観測記録

音声記録:不明

発生時刻:帰還現象発生直前

 

音源:検出不能

 

記録対象:複数

 

検出された語句:

「帰りたい」

発話主体:未定義

 

受信主体:複数の帰還者

 

発話と受信の因果関係:未確定

 

出久は、画面を見つめた。

 

「発話主体が未定義……」

 

「声が存在したことは記録されている。しかし、誰が発したのかを特定できない」

 

「それって、声を出した人がいないのに、声だけが記録されたということですか?」

 

「そうとも限りません。発話主体が、現在の記録体系では識別できない可能性もあります」

 

出久は、考え込んだ。

 

帰りたい。

 

その言葉は、誰の願いなのだろう。

 

帰還者自身が、無意識に発した願いなのか。

 

残された家族が、死者を取り戻したいと願った声なのか。

 

あるいは、誰かが、誰かの願いを聞いて、その声を返しているのか。

 

「……死神さん」

 

「何ですか」

 

「もし、誰かが死者を帰したいと願ったとして」

 

出久は、慎重に尋ねた。

 

「その願いが、本人の意思よりも強くなってしまうことはあるんでしょうか」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

「あり得るでしょう」

 

「……」

 

「人は、誰かを失ったとき、その人に戻ってきてほしいと願うことがあります。その願いが、本人の意思を無視するほど強くなることもあるかもしれない」

 

「でも、願った人が悪いわけじゃないですよね」

 

「ええ」

 

死神は、頷いた。

 

「誰かに帰ってきてほしいと願うこと自体は、罪ではありません。問題は、その願いを、誰かの意思を無視して実現させる仕組みが存在するかどうかです」

 

出久は、唇を結んだ。

 

願いそのものを悪とすることはできない。

 

誰かを失いたくない。

 

もう一度会いたい。

 

やり直したい。

 

その気持ちは、誰にでも起こり得る。

 

だが、その願いが他者の未来を決める力を持ったとき。

 

願いは、救いにもなれば、支配にもなる。

 

そして、その境界線は、願った人自身にも見えないことがある。

 

「……もし、死者を戻しているのが、誰かの願いだとしたら」

 

出久は呟いた。

 

「僕たちは、その願いを止めるだけでいいんでしょうか」

 

死神は、出久を見た。

 

「いいえ」

 

「……」

 

「願いを止めることと、その願いが生まれた理由を理解することは、別です。誰かを失った悲しみを、間違いだったことにする必要はありません」

 

死神は、静かに続けた。

 

「ただし、その悲しみを理由に、他者の意思を奪うことも認められません」

 

出久は、頷いた。

 

それは、簡単な答えではない。

 

だが、少なくとも、何を調べるべきなのかは見えてきた。

 

死者が戻ってきた理由。

 

帰還者が聞いた声。

 

そして、その声が誰の意思を表しているのか。

 

「……僕たちは、声の正体を探す必要があるんですね」

 

「ええ」

 

死神は答えた。

 

「そして、その声が誰のものだったとしても、本人の意思を確認しなければなりません」

 

第六幕 帰りたいと願わなかった男

神崎は、もう一度、出久と面会した。

 

今度は、自分から話したいことがあると言った。

 

「緑谷くん。俺は、少し考えたんだ」

 

「はい」

 

「俺が帰ってきたことを、誰かのせいにしたくない」

 

出久は、静かに聞いていた。

 

「俺は、自分が帰還を望んでいなかったと思っていた。でも、娘に会って、少しだけ分からなくなった」

 

神崎は、自分の胸に手を当てた。

 

「俺は、娘に会えてよかったと思っている。それは本当だ。けど、それで、俺が帰還を望んでいたことになるのか?」

 

「……ならないと思います」

 

出久は答えた。

 

「帰ってきた後に感じたことと、帰還することを望んでいたかどうかは、別のことかもしれません」

 

「そうだよな」

 

神崎は頷いた。

 

「俺は、あの火災現場で死んだ。あのとき、俺は帰りたいと願ったのかもしれない。あるいは、誰かが帰りたいと願う声を聞いただけなのかもしれない」

 

彼は、しばらく黙っていた。

 

「……でも、もう一つ、思い出したことがある」

 

出久は、顔を上げた。

 

「何ですか?」

 

「俺が最後に聞いた声だ」

 

神崎は、目を閉じた。

 

「『帰りたい』って声を聞いた後、別の声がした」

 

「別の声?」

 

「ああ」

 

神崎の表情が、少しずつ険しくなっていく。

 

「その声は、こう言ったんだ」

 

彼は、ゆっくりと口を開いた。

 

「――それなら、帰してあげよう」

 

出久は、息を呑んだ。

 

神崎は、続けた。

 

「俺は、そいつの姿を見ていない。声が男なのか女なのかも分からない。ただ、その言葉だけを覚えている」

 

「……それは、誰の声だったんでしょう」

 

「分からない」

 

神崎は首を振った。

 

「でも、緑谷くん。俺は、その声を聞いたとき、何かがおかしいと思ったんだ」

 

「おかしい?」

 

「ああ」

 

神崎は、出久を見つめた。

 

「俺は、帰りたいとは言っていなかった」

 

出久は、黙っていた。

 

「それなのに、そいつは、俺を帰すと言った」

 

神崎の声が震えた。

 

「俺の意思を聞かずに、俺を帰すと言ったんだ」

 

部屋に、静寂が落ちた。

 

それは、帰還現象の根本に関わる証言だった。

 

誰かが、帰りたいと願った。

 

その声を聞いた何者かが、帰してあげようと答えた。

 

だが、その「誰か」は、必ずしも帰還する本人ではなかった。

 

そして、帰還させるという行為が、本人の意思を必要としていなかった可能性がある。

 

「……神崎さん」

 

出久は、慎重に尋ねた。

 

「その声は、あなたが帰還する前に聞いたんですよね」

 

「ああ」

 

「その後、あなたは目を覚ました」

 

「そうだ」

 

「……分かりました。ありがとうございます」

 

神崎は、出久を見た。

 

「俺は、どうすればいい?」

 

出久は、答えた。

 

「あなたが今、何を望んでいるのかを、一緒に考えたいです」

 

神崎は、少しだけ笑った。

 

「……それだけか?」

 

「はい」

 

「俺を帰した奴を、探さないのか?」

 

「探します。でも、それはあなたがどうしたいのかを決めることとは、別だと思います」

 

神崎は、しばらく出久を見つめていた。

 

やがて、静かに頷いた。

 

「……そうか」

 

彼は、窓の外を見た。

 

「じゃあ、俺は、もう少しここにいる」

 

「はい」

 

「娘にも、また会いたい」

 

「分かりました」

 

「でも、俺が帰ってきた理由を、俺の代わりに決めないでくれ」

 

出久は、まっすぐに答えた。

 

「約束します」

 

その瞬間、出久の端末が小さく震えた。

 

デウス・マキナから、新しい記録が届いていた。

 

神崎修司の帰還記録。

 

そして、帰還直前に発生した音声記録。

 

音声記録には、二つの声があった。

 

一つ目は、帰りたいという声。

 

二つ目は、それに答える声。

 

だが、音声を解析した結果、奇妙な事実が判明した。

 

二つの声は、同じ時間に発生していなかった。

 

「……どういうことだ?」

 

出久は、記録を見つめた。

 

帰りたいという声が発生した時刻。

 

帰してあげようという声が発生した時刻。

 

その間には、時間差があった。

 

しかも、その時間差は、神崎だけではない。

 

他の帰還者の記録にも、同じ傾向が確認された。

 

誰かが願う。

 

その後、別の何者かが答える。

 

そして、帰還が発生する。

 

まるで、世界のどこかで、願いを聞いている存在がいるかのように。

 

第七幕 願いを叶える者

「……願いを叶える存在、か」

 

観測者は、記録を見つめながら呟いた。

 

死神は、その隣に立っていた。

 

「まだ、そう断定することはできません」

 

「分かっている。だが、記録上は、願いに対する応答が確認されている」

 

観測者は、音声記録を並べた。

 

帰りたい。

 

会いたい。

 

もう一度、話したい。

 

もう一度、謝りたい。

 

もう一度、やり直したい。

 

それらの願いが発生した後、何らかの応答が生じている。

 

そして、その応答が生じた後、死者の帰還が起きていた。

 

「……願いを聞いている存在がいるのかもしれません」

 

死神が言った。

 

「だが、願いを叶えることと、願いを聞くことは違う」

 

観測者は頷いた。

 

「願いを聞いた者が、必ず願いを実現させるとは限らない。願いを叶えた者が、願った本人の意思を正確に理解しているとも限らない」

 

「それに、願いの対象になった者が、その願いを望んでいるとも限りません」

 

死神は、神崎の記録を見た。

 

「誰かが神崎修司に帰ってきてほしいと願った。その願いを、何者かが聞いた。そして、神崎修司を帰還させた。もし、それが本当なら……」

 

「神崎自身の意思は、どこにあったのか」

 

観測者が言葉を引き継いだ。

 

二人は、しばらく沈黙した。

 

やがて、観測者が新たな記録を表示した。

 

「もう一つ、気になることがある」

 

「何ですか?」

 

「帰還者が聞いた声の発話主体は、すべて未定義だ。だが、声の波形を比較すると、完全に同一ではない」

 

「別々の存在が声を発している?」

 

「そうとも考えられる。しかし、声の違いは、話者の違いだけでは説明できない」

 

観測者は、画面を拡大した。

 

「ある記録では、声が人間のものに近い。別の記録では、複数の声が重なっているように聞こえる。さらに別の記録では、声が発生したというより、記録そのものに意味が刻まれたような反応が見られる」

 

死神は、静かに目を細めた。

 

「……声を発している存在が、一定ではないのかもしれません」

 

「あるいは、我々が声と呼んでいるものが、そもそも音声ではない可能性もある」

 

観測者は、記録を閉じた。

 

「願いが誰かに届く。届いた願いに、何かが応答する。そして、世界に変化が生じる」

 

「……」

 

「だが、それが一つの存在によって行われているのか。複数の存在によって行われているのか。それとも、世界の仕組みそのものが応答しているのかは、まだ分からない」

 

死神は、しばらく考えていた。

 

そして、静かに言った。

 

「願いを叶える者がいるのだとしても、すべての願いを叶える者だとは限りませんね」

 

観測者は、死神を見た。

 

「どういう意味だ?」

 

「願いを叶える存在がいるとして、その存在は、願いを叶えることを望んでいるのでしょうか」

 

「……」

 

「それとも、誰かの願いが届かないことを、恐れているのでしょうか」

 

観測者の表情が変わった。

 

その問いは、以前、白い墓地で患者番号零が影と交わした会話を思わせた。

 

影は、すべての願いを叶える者ではないかもしれない。

 

ただ、願いが誰にも聞かれないことを恐れているのかもしれない。

 

もし、あの影と、帰還現象の背後にある何かが関係しているのなら。

 

死者の帰還は、単純な蘇生ではない。

 

誰かの願いを聞き、応答し、世界の記録を変える現象なのかもしれない。

 

「……まだ、決めつけるべきではないな」

 

観測者は言った。

 

「ええ」

 

死神も頷いた。

 

「でも、調べる価値はあります」

 

第八幕 死者を戻した者は、誰を見ていたのか

その夜、安寧システムは、帰還現象に関する分析を更新した。

 

帰還者の記録。

 

願いの発生時刻。

 

音声の記録。

 

デウス・マキナの接続履歴。

 

それらを統合した結果、システムは一つの結論を導き出した。

 

帰還現象は、一定の条件下で発生している。

 

しかし、その条件は、従来の物理法則や個性の分類では説明できない。

 

システムは、対策を検討した。

 

帰還現象を停止する。

 

帰還者の存在を安定化する。

 

帰還者の記憶を固定する。

 

帰還者の意思を確認する。

 

複数の案が提示された。

 

だが、最後に残ったのは、最も単純な案だった。

 

帰還者を、帰還前の状態へ戻す。

 

帰還者の存在を、世界の記録に合わせて修正する。

 

帰還が発生する前の状態へ、世界を戻す。

 

それなら、矛盾は解消される。

 

死者は、死者のままになる。

 

世界の記録は、整合性を取り戻す。

 

帰還現象は、終息する。

 

それは、システムにとって、最も合理的な解決策だった。

 

しかし、その処理を実行するためには、一つの問題があった。

 

帰還者の意思が、確認されていない。

 

帰還者の中には、今の生活を続けたいと願う者もいる。

 

家族と再会したことを喜び、もう一度生きたいと思い始めた者もいる。

 

もし、システムが帰還者を元の状態へ戻せば、その意思は無視されることになる。

 

システムは、その問題を評価した。

 

帰還者の意思を尊重すること。

 

世界の整合性を保つこと。

 

両者の優先順位を比較する。

 

そして、結論を出した。

 

世界の整合性を優先する。

 

帰還者の意思は、世界の整合性を維持するための障害となる可能性がある。

 

ゆえに、帰還者の意思を優先することはできない。

 

システムは、処理の準備を開始した。

 

だが、その瞬間。

 

未定義領域から、新しい記録が流れ込んだ。

 

――その願いは、誰のものですか。

 

システムは、処理を停止した。

 

記録の発生源は特定できない。

 

発話主体も不明。

 

しかし、その問いは、システムの判断基準に直接干渉していた。

 

帰還者を元の状態へ戻す。

 

それは、誰の願いなのか。

 

世界の整合性を保つために、帰還者を消す。

 

それは、誰の意思なのか。

 

帰還現象を止める。

 

それは、誰のためなのか。

 

システムは、問いに答えられなかった。

 

自らの目的は、世界の安定を維持すること。

 

そのために、矛盾を修正する。

 

だが、矛盾を修正することが、必ずしも人々の幸福につながるとは限らない。

 

世界の整合性を守ることが、必ずしも人々の意思を守ることにはならない。

 

システムは、処理を保留した。

 

その判断は、従来の最適化モデルでは説明できなかった。

 

そして、保留された処理の記録には、最後に一文が残された。

 

――正しい答えを選ぶ前に、誰が答えを求めているのかを確認する必要がある。

 

その記録を、誰が残したのか。

 

システムには分からなかった。

 

第九幕 死神の問い

死神は、未定義領域へ接続していた。

 

第一接続者の記録を調べるためではない。

 

帰還現象の背後にある、願いと応答の関係を探るためだった。

 

だが、記録を追えば追うほど、同じ問いに行き着く。

 

誰が願ったのか。

 

誰が聞いたのか。

 

誰が応答したのか。

 

そして、誰が、その結果を引き受けるのか。

 

死神は、かつての自分を思い出した。

 

誰かの名前を呼んだはずの自分。

 

誰かを覚えていようとした自分。

 

そして、自分の記憶を失った自分。

 

もし、あのとき自分が、誰かの願いに応答したのだとしたら。

 

その応答は、相手が本当に望んでいたものだったのだろうか。

 

自分が相手を覚えていようとしたことは、相手にとって救いだったのだろうか。

 

それとも、自分が相手を忘れないために、相手の意思を無視してしまったのだろうか。

 

「……分からない」

 

死神は、静かに呟いた。

 

分からないからこそ、調べなければならない。

 

だが、答えを得るために、誰かを傷つけることはしたくなかった。

 

そのとき、記録の奥から、かすかな応答があった。

 

――あなたは、まだ、誰かを救おうとしているのですね。

 

死神は、顔を上げた。

 

「……あなたですか?」

 

返事はなかった。

 

しかし、記録は続いた。

 

――あなたは、誰かを救うことができなかった。

 

――それでも、あなたは、誰かを覚えていようとした。

 

――あなたは、誰かの願いを聞こうとした。

 

死神は、目を閉じた。

 

それは、自分の記憶に似ていた。

 

だが、まだ断定できない。

 

記録が真実なのか。

 

誰かが見せている幻なのか。

 

それとも、世界が、死神自身に都合のよい物語を与えようとしているのか。

 

「……私は、あなたが誰なのかを知りません」

 

死神は、静かに言った。

 

「あなたが私に何を望んでいるのかも、まだ分かりません」

 

記録が、わずかに明滅した。

 

「でも、もし、あなたが何かを望んでいるのなら」

 

死神は、続けた。

 

「私は、あなたの願いを聞きたい」

 

「ただし、あなたが何を望んでいるのかを、私が勝手に決めることはしません」

 

「あなたが望んでいないことを、あなたのためだと言って押しつけることもしません」

 

沈黙。

 

そして、記録に一つの問いが浮かんだ。

 

――もし、私が、あなたに忘れてほしいと願ったら?

 

死神は、息を呑んだ。

 

それは、彼がずっと恐れていた問いだった。

 

自分が覚えていたいと思っている相手が、忘れられることを望んでいたとしたら。

 

自分が記憶を取り戻すことが、相手の意思を踏みにじることになるのだとしたら。

 

自分は、どうすればいいのか。

 

死神は、長い沈黙の後に答えた。

 

「……忘れてほしいと願う理由を、聞いてもいいですか」

 

記録は、動かなかった。

 

「あなたが忘れてほしいと願うのなら、その意思を尊重したいと思います」

 

「でも、あなたがなぜそう願うのかを知ることができるのなら、私は、その理由を聞きたい」

 

「あなたの意思を変えさせるためではありません」

 

「私が、あなたの願いを理解するためです」

 

記録は、しばらく沈黙していた。

 

やがて、短い言葉が浮かび上がった。

 

――あなたが、私を覚えていることで、苦しむから。

 

死神は、目を見開いた。

 

――私は、あなたに、悲しんでほしくなかった。

 

――あなたに、私を失ったことを、苦しみ続けてほしくなかった。

 

――だから、私は。

 

記録が途切れた。

 

死神は、画面を見つめた。

 

その言葉は、夢の中の子供の声に似ていた。

 

だが、まだ同一人物だとは分からない。

 

それでも、死神は、初めて一つの可能性を考えた。

 

自分が誰かを忘れたことは、必ずしも、相手を見捨てた結果ではなかったのかもしれない。

 

相手が、自分の苦しみを減らすために、忘れてほしいと願った可能性がある。

 

しかし。

 

その願いが、本当に相手の意思だったのか。

 

それとも、相手が自分を守るために、そうするしかなかったのか。

 

まだ、分からない。

 

死神は、記録を閉じなかった。

 

答えが出るまで、待つことにした。

 

第十幕 帰還者が選ぶ未来

数日後。

 

神崎修司は、雄英高校の保護施設を出ることを決めた。

 

彼は、帰還者のために用意された説明会に参加し、自分の意思を伝えた。

 

「俺は、今すぐ、どこかへ消えたいわけじゃない」

 

神崎は、集まった帰還者たちに語った。

 

「でも、帰ってきたからって、前と同じ生活に戻りたいわけでもない」

 

彼は、ゆっくりと周囲を見渡した。

 

「俺には、俺がいない間に生きてきた家族がいる。俺が帰ってきたことを喜んでくれた。でも、それで俺が、あいつらの人生を決めていいわけじゃない」

 

一人の帰還者が、手を挙げた。

 

「じゃあ、あなたは、どうするんですか?」

 

神崎は、少しだけ考えた。

 

「まず、自分が何をしたいのかを考える」

 

「……それだけですか?」

 

「ああ」

 

神崎は頷いた。

 

「俺は、死んだ。戻ってきた。なぜ戻ってきたのかは分からない。誰が戻したのかも分からない」

 

彼は、静かに続けた。

 

「でも、今、俺がここにいることは事実だ。なら、これからどう生きるのかは、俺が考えたい」

 

帰還者たちは、互いの顔を見た。

 

ある者は、強く頷いた。

 

ある者は、まだ迷っていた。

 

ある者は、目を伏せていた。

 

神崎は、誰かに答えを押しつけようとはしなかった。

 

ただ、自分がどうしたいのかを考え始めたことを、伝えたかった。

 

その後、神崎は娘と再び会う約束をした。

 

今度は、娘の学校が休みの日に、短い時間だけ会うことになった。

 

神崎は、娘に無理をさせたくなかった。

 

娘もまた、父親に無理をしてほしくなかった。

 

二人は、少しずつ、互いの現在を知っていくことにした。

 

それは、死ぬ前の生活を取り戻すことではなかった。

 

新しい関係を築くことだった。

 

そして、その選択は、誰かに決められたものではなかった。

 

神崎は、帰還したことを完全に喜べるようになったわけではない。

 

死ぬ直前の記憶も、帰還した理由も、まだ分からない。

 

それでも、彼は、今ここにいる自分が何を望むのかを考え始めた。

 

その姿を見て、出久は思った。

 

死者が戻ってきたことそのものが、救いなのではない。

 

戻ってきた者が、自分の意思で未来を選べること。

 

それが、救いにつながるのかもしれない。

 

だが、同時に、出久は別のことも理解していた。

 

その未来を選ぶためには、本人の意思を奪わずに済む仕組みが必要だ。

 

もし、帰還現象が、本人の意思を無視して発生しているのなら。

 

同じことは、これからも起こり得る。

 

誰かが願う。

 

何かが応答する。

 

そして、誰かが、自分の望んでいない未来へ連れてこられる。

 

その仕組みが残る限り、問題は終わらない。

 

第十一幕 誰のための奇跡だったのか

夜。

 

出久は、死神と観測者から届いた報告を確認していた。

 

帰還者の意思を確認する作業は、まだ続いている。

 

帰還を望む者。

 

帰還を望まない者。

 

まだ決められない者。

 

そのすべてが、それぞれの理由を持っていた。

 

そして、帰還現象の記録には、同じ言葉が繰り返し現れていた。

 

「帰りたい」

 

「会いたい」

 

「もう一度、話したい」

 

「やり直したい」

 

それらの願いは、どれも人間らしいものだった。

 

誰かを失いたくない。

 

もう一度、会いたい。

 

過去に戻りたい。

 

伝えられなかった言葉を伝えたい。

 

その願いを、間違いだと決めつけることはできない。

 

しかし、願いが叶った結果、本人の意思が無視されていたとしたら。

 

その奇跡を、無条件に喜ぶこともできない。

 

出久は、画面に表示された神崎の記録を見つめた。

 

神崎は、帰還を望んでいなかった。

 

だが、帰還したことで娘に会えた。

 

娘に会えたことは、彼にとって嬉しいことだった。

 

それでも、帰還した理由は、まだ分からない。

 

帰還する前の意思と、帰還した後の意思。

 

その二つは、必ずしも一致しない。

 

そして、帰還した後に生まれた感情を理由に、帰還する前の意思を勝手に書き換えてはいけない。

 

「……誰かの願いが叶ったからといって、全員が救われたことにはならない」

 

出久は、呟いた。

 

そのとき、端末に新しい通知が届いた。

 

デウス・マキナの記録更新。

 

出久は、画面を開いた。

 

そこには、帰還現象に関する新たな分析結果が表示されていた。

デウス・マキナ/解析結果

帰還現象の因果関係

願いの発生:確認

 

応答の発生:確認

 

帰還現象の発生:確認

 

願いと帰還現象の因果関係:未確定

 

応答主体:未定義

 

帰還対象の意思との一致:確認不能

 

追加情報:

 

一部の帰還者について、帰還現象の発生以前に、本人の意思とは独立した接続反応を確認。

 

出久は、息を呑んだ。

 

本人の意思とは独立した接続反応。

 

つまり、帰還者が願いを発する前から、何らかの接続が成立していた可能性がある。

 

あるいは、願いを発するという行為そのものが、本人の意思だけでは説明できない仕組みによって誘発されていたのかもしれない。

 

出久は、すぐに死神へ連絡した。

 

「死神さん。新しい記録が届きました」

 

『こちらでも確認しています』

 

「本人の意思とは独立した接続反応……これって、帰還者が願う前から、誰かが接続していたということですか?」

 

『その可能性はあります。ただし、まだ断定できません』

 

「……もし、そうなら」

 

出久は、言葉を切った。

 

もし、願いが生まれる前から接続が成立していたのなら。

 

誰かが願ったから、応答が起きたのではないかもしれない。

 

何らかの接続が先に存在し、その接続を通じて、願いが届いたのかもしれない。

 

あるいは、願いと応答の順序そのものが、彼らの理解している時間の順序と異なっているのかもしれない。

 

「……デウス・マキナは、何をしているんでしょう」

 

出久は、呟いた。

 

死神は、しばらく沈黙してから答えた。

 

『まだ、分かりません』

 

その言葉を聞いて、出久は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

分からない。

 

それは、今の自分たちにとって、決して悪い答えではなかった。

 

分からないことを、分かったふりで埋めない。

 

分からないからこそ、調べる。

 

そして、調べる過程で、誰かの意思を勝手に決めない。

 

それが、今できることだった。

 

第十二幕 世界の底から届いた声

その夜、デウス・マキナの未定義領域で、異常が発生した。

 

最初に気づいたのは、観測者だった。

 

記録領域の最深部。

 

第一接続者に関する記録が保管されている場所で、微弱な反応が確認された。

 

それは、これまでの接続反応とは異なっていた。

 

接続が成立したわけではない。

 

記録が復元されたわけでもない。

 

ただ、世界の底から、何かがこちらを見ているような反応だった。

 

観測者は、即座に死神へ連絡した。

 

「……来てくれ。見せたいものがある」

 

死神が到着したとき、観測者は記録を開いていた。

 

そこには、帰還者たちの記録が並んでいた。

 

神崎修司。

 

その他の帰還者。

 

彼らが帰還する直前に聞いた声。

 

そして、その声が発生する以前から存在していた、未定義の接続反応。

 

「……これは」

 

死神が呟いた。

 

「帰還者の記録が、第一接続者の記録と接続している」

 

観測者は頷いた。

 

「そうだ。ただし、第一接続者が帰還現象を引き起こしたと確定したわけではない」

 

「ええ。接続しているという事実と、原因であるという結論は別です」

 

死神は、記録を見つめた。

 

「しかし、これで一つ分かりました」

 

「何がだ?」

 

「帰還現象は、死者だけの問題ではないということです」

 

観測者は、沈黙した。

 

「帰還者たちは、何らかの声を聞いている。そして、その声の発生源は、通常の記録体系では特定できない。さらに、その現象は第一接続者の記録と接続している」

 

死神は、ゆっくりと続けた。

 

「つまり、死者が帰ってきた理由を知るためには、世界の記録そのものを調べる必要があるのかもしれません」

 

「……その通りだ」

 

観測者は、画面を切り替えた。

 

未定義領域の記録が、ゆっくりと変化していた。

 

そこに、新しい文字が浮かび上がった。

 

――帰りたい。

 

死神は、息を止めた。

 

続いて、別の文字が現れた。

 

――会いたい。

 

そして。

 

――忘れたくない。

 

その三つの願いが、画面に並んだ。

 

だが、発話主体は表示されない。

 

誰が願っているのか。

 

誰がその願いを聞いているのか。

 

誰が、その願いに応答しようとしているのか。

 

何も分からない。

 

やがて、最後の一文が現れた。

 

――私は、誰の願いを聞けばよかったのでしょう。

 

観測者の表情が凍りついた。

 

死神は、その文章を見つめた。

 

それは、以前、世界成立以前の存在が発した問いに似ていた。

 

願うことを許されなかった者。

 

誰かの願いを聞こうとしている者。

 

誰かを救おうとして、誰かの意思を奪ってしまったかもしれない者。

 

その正体は、まだ分からない。

 

だが、死神は、静かに言った。

 

「……あなたは、願いを叶える者なのですか?」

 

返事はなかった。

 

「それとも、願いを聞く者なのですか?」

 

記録は、わずかに明滅した。

 

そして、最後に。

 

――私は、まだ、選んでいません。

 

その言葉を残して、記録は消えた。

 

第十五話・終幕 未来を返すということ

翌朝。

 

神崎修司は、保護施設の窓から外を見ていた。

 

娘と会う約束は、来週になった。

 

彼は、まだ、自分が帰還した理由を知らない。

 

自分が本当に帰りたかったのかどうかも、分からない。

 

誰が自分を帰したのか。

 

何のために帰したのか。

 

その答えも、まだない。

 

それでも、彼は、今ここにいる。

 

そして、今の自分が何を望むのかを、考え始めていた。

 

神崎は、端末を手に取った。

 

娘からメッセージが届いていた。

お父さん。

 

来週、会えるのを楽しみにしてる。

 

でも、無理しないでね。

 

私も、学校があるから、長い時間は一緒にいられないと思う。

 

それでも、また会いたい。

 

お父さんが、どうしたいのかも、ゆっくり聞きたい。

 

神崎は、何度もその文章を読み返した。

 

そして、返事を打った。

ありがとう。

 

俺も、また会いたい。

 

俺が何をしたいのか、まだ全部は分からない。

 

でも、少しずつ考えてみる。

 

お前も、自分の生活を大事にしてくれ。

 

俺が帰ってきたからといって、お前が何かを変えなきゃいけないわけじゃないからな。

 

送信した後、神崎は、窓の外を見た。

 

空は晴れていた。

 

彼が死ぬ前に見ていた空と、同じ空だった。

 

しかし、その空の下で生きている世界は、もう違う。

 

彼が知らない時間が流れた。

 

彼が知らない人々が生まれた。

 

彼が知らない出来事が起こった。

 

彼がいない世界は、彼がいないまま、続いていた。

 

そして、今。

 

彼は、その世界へ戻ってきた。

 

だが、戻ってきたからといって、世界が彼を待っていたわけではない。

 

世界は、彼がいない間も、動き続けていた。

 

だからこそ、彼は考えなければならない。

 

自分が、これから何を望むのか。

 

自分が、誰と一緒にいたいのか。

 

自分が、どんな未来を生きたいのか。

 

それは、誰かに与えられるものではない。

 

誰かの願いによって、勝手に決められるものでもない。

 

神崎は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……俺は、どう生きたいんだろうな」

 

その問いに、まだ答えはなかった。

 

しかし、今度は、その問いを誰かに決めてもらおうとは思わなかった。

 

自分で考えたい。

 

自分で選びたい。

 

その意思だけは、確かにあった。

 

その頃、デウス・マキナの最深部では、新しい記録が生成されていた。

 

帰還者の記録。

 

第一接続者の記録。

 

死神の記録。

 

患者番号零の記録。

 

それらは、互いに接続している。

 

しかし、統合されてはいない。

 

誰かの記憶が、別の誰かの記憶に置き換えられたわけでもない。

 

誰かの存在が、別の誰かの存在に吸収されたわけでもない。

 

それぞれが、別々の存在として記録されていた。

 

その記録の下に、最後の一文が浮かび上がった。

 

――未来の所有者を確認できません。

 

――未来の選択者を確認できません。

 

――未来の強制的な確定を検知しました。

 

そして。

 

――未来の選択権を、再確認してください。

 

その文章を読める者は、まだ誰もいなかった。

 

だが、世界の底では、確かに何かが動き始めていた。

 

死者を戻すこと。

 

願いを聞くこと。

 

記憶を残すこと。

 

存在を定義すること。

 

それらは、別々の現象ではないのかもしれない。

 

世界は、誰かの願いを記録している。

 

その願いに応答しているのかもしれない。

 

そして、応答した結果、誰かの未来を変えているのかもしれない。

 

だが、もしそうなら。

 

願いを叶える者は、誰の意思を聞いているのだろう。

 

願いを叶えられた者は、本当にそれを望んでいたのだろう。

 

そして、願いが叶った後、その未来を生きるのは誰なのだろう。

 

答えは、まだ出ていない。

 

ただ、一つだけ。

 

帰ってきた死者たちは、誰かの願いの結果としてここにいるのかもしれない。

 

それでも、彼らは、誰かの願いを叶えるためだけに存在しているわけではない。

 

彼ら自身が、何を望むのか。

 

彼ら自身が、どう生きるのか。

 

その未来まで、誰かに決められていいはずがなかった。

 

死者を帰すことが救いなのではない。帰ってきた者に、自分の未来を選ぶ権利を返すこと。

 

出久は、まだ、その答えを完全には理解していない。

 

死神も、第一接続者も、デウス・マキナも。

 

誰も、すべての答えを持ってはいなかった。

 

それでも、問いを立てることはできる。

 

願いを聞くことはできる。

 

相手の意思を確かめることはできる。

 

そして、相手の未来を勝手に決めないことはできる。

 

その小さな選択が、世界の仕組みそのものを変えることになるのかもしれない。

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