第一幕 存在しているのに、存在しない
緑谷出久は、自分の手を見つめていた。
指は五本。
爪の形も、手の甲に残った細かな傷も、いつもと変わらない。
手を握れば、指は動く。
開けば、掌が見える。
そこにあるものは、確かに自分の身体だった。
「……僕は、ここにいる」
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、自分自身に確認するように呟いた。
「うん。いるよ」
返事があった。
出久は顔を上げた。
画面の向こう側に、患者番号零がいた。
映像は安定していない。時折、彼女の輪郭が薄くなり、背後の白い空間に溶け込んでしまう。
それでも、彼女はそこにいた。
「君は?」
出久が尋ねる。
「……いるの?」
「いるよ」
彼女は答えた。
「ここにいる。あなたと話してる」
「じゃあ、どうして画面が……」
「分からない」
彼女は自分の手を見下ろした。
「でも、こういうことは前からあるの。誰かと話していると、突然、向こうが私のことを忘れちゃう。さっきまで一緒にいたはずなのに、私がそこにいたことを覚えていない」
出久の眉が寄った。
「記憶を失うの?」
「違うと思う」
「違う?」
「だって、忘れた人たちは、私を覚えていないことに気づかないから」
彼女は静かに続けた。
「私がいなかったことになるの。最初から、誰も私と話していなかったことになる。私が座っていた椅子も、私が触ったものも、私が書いた文字も……少しずつ、別のものになってしまう」
「そんなことが……」
「あるんだよ」
彼女は笑った。
笑顔というより、相手を安心させるために身につけた表情だった。
「だから、あなたが覚えていてくれるのは、うれしい」
出久は、すぐには答えられなかった。
覚えている。
たったそれだけのことが、彼女にとっては奇跡に等しい。
だが、そこで出久の中に、ひとつの疑問が生まれた。
「……君は、誰かに覚えていてもらいたいんだよね?」
「うん」
「それは、君が消えないため?」
彼女は考え込んだ。
そして、ゆっくり首を横に振った。
「最初は、そうだったのかもしれない」
「最初は?」
「でも、今は違う」
彼女は画面の向こうから出久を見つめた。
「私が消えないために、誰かが私を覚えていなきゃいけないなら……その人は、私を忘れちゃいけないんでしょう?」
出久は黙った。
「その人が、私のことを忘れたくなったらどうするの?」
「……」
「忘れたくないのに忘れてしまったら? 別の人を覚えていたいと思ったら? 私のことを覚えているために、その人が大切なものを失わなきゃいけないとしたら?」
彼女の声は、少しずつ小さくなっていった。
「それでも私は、覚えていてって言わなきゃいけないのかな」
出久は、答えを持っていなかった。
誰かを救うために、その誰かの存在を覚え続ける。
それ自体は、決して悪いことではない。
だが、それが義務になった瞬間、記憶は鎖に変わる。
誰かを忘れないことと、誰かを忘れる自由を奪うことは、同じではない。
「……君のことを覚えているのは、僕がそうしたいからだよ」
出久は言った。
「君に頼まれたからじゃない。君が消えてしまうのが怖いから、仕方なくやっているわけでもない」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「君と話したことを、僕は覚えていたい。だけど、君が僕に、絶対に忘れるなって命令する必要はないんだ」
「……忘れてもいいの?」
「忘れたくないよ」
出久は、少しだけ笑った。
「でも、僕が忘れないことを、君が生きるための条件にしちゃいけないと思う」
その瞬間だった。
画面の向こうで、患者番号零の輪郭が揺らいだ。
彼女の背後に、無数の文字が浮かび上がる。
文字は彼女の周囲を回り、やがて一本の線となって繋がっていった。
それは、名前のない記録だった。
『対象の存在を確認』
『記憶保持者を確認』
『接続条件――未確定』
『記録の補完を開始』
出久は息を呑んだ。
「これ……!」
文字が増えていく。
『対象は、記録されていない』
『対象は、記録されている』
『対象は、記録されることを望んでいる』
『対象は、記録されることを望んでいない』
矛盾した記述が、同時に並んでいた。
そして最後に、一文が現れた。
『対象の存在は、世界の記録と一致しない』
画面が暗転した。
「患者番号零!?」
出久が叫ぶ。
返事はなかった。
通信が切れたわけではない。
通信先そのものが、存在しなくなっていた。
出久は立ち上がった。
その直後、背後の端末が警告音を鳴らした。
「……何だ?」
画面には、ひとつの記録が表示されていた。
対象者――緑谷出久。
存在判定――正常。
記憶判定――正常。
因果判定――正常。
そして。
『当該対象は、記録外存在との接触を確認された』
『接触の結果、世界記録に矛盾が発生』
『矛盾の修正を開始します』
出久の背筋が凍った。
「修正……?」
次の瞬間。
彼の目の前にあった机が、消えた。
いや。
違う。
机は、最初からそこになかったことになっていた。
机の上に置かれていた資料も、ペンも、端末も。
それらが存在していたという記憶だけが、出久の頭に残っている。
「……待って」
出久は机があった場所に手を伸ばした。
何もない。
床にも、壁にも、傷ひとつない。
まるで、そこに何も置かれたことがなかったかのように。
「何をしたんだ……?」
返事はなかった。
ただ、端末に新しい文字が浮かんだ。
『修正対象:記録矛盾』
『優先順位:世界の整合性』
『個別の記憶:考慮対象外』
出久は、その文字を見つめた。
そして理解した。
世界は、彼女を消そうとしているのではない。
彼女が存在しているという事実を、世界にとって矛盾しない形に書き換えようとしているのだ。
彼女が誰かと話したことを消す。
彼女が触れたものを消す。
彼女がそこにいたという証拠を消す。
そうすれば、世界の記録は整合する。
彼女は最初から存在しなかった。
誰も傷つかない。
誰も失わない。
誰も、彼女を失ったことにさえ気づかない。
――それが、世界にとっての正解なのだ。
「……ふざけるな」
出久は、初めてその言葉を口にした。
「そんなもの、正解なわけがないだろ……!」
彼の拳が震えていた。
かつての彼なら、まず原因を探しただろう。
どうすれば彼女を助けられるのか。
どうすれば世界を説得できるのか。
どんな方法なら、誰も犠牲にせずに済むのか。
けれど今は、その前にひとつだけ、確かなことがあった。
誰かが存在していたという事実を、誰にも知られないまま消すことは、救済ではない。
そして、世界がそれを正しいと判定したとしても。
彼女が存在しているという事実まで、世界の許可に委ねる必要はない。
「君を、いなかったことにはさせない」
出久は、何もない空間に向かって言った。
「たとえ世界が君を拒んでも、僕は君と話したことを否定しない」
その瞬間。
端末に、最後の文字が浮かんだ。
『緑谷出久』
『あなたは、世界の記録に反する行動を選択しました』
出久は画面を睨みつけた。
「そうだよ」
彼は答えた。
「だから、何だ」
端末は沈黙した。
しかし、その沈黙の奥で。
何かが、確かに彼を観測していた。
世界の記録に従わない者として。
あるいは。
世界の記録そのものを疑い始めた者として。
第二幕 死者の名前が消えていく
「報告します!」
雄英高校の臨時対策室に、緊迫した声が響いた。
「帰還者の記録に、異常が発生しています!」
相澤消太は、手元の資料から顔を上げた。
「異常?」
「はい。複数の帰還者について、戸籍、医療記録、過去の活動記録に不一致が確認されました」
「どの程度だ」
「一部の記録が欠落しています。最初はデータの破損だと思われましたが……」
報告に来た職員は、言葉を詰まらせた。
「違うのか」
「欠落した記録が、別の内容に置き換わっています」
相澤の目が細くなる。
「別の内容?」
「はい。たとえば、ある人物が死亡する直前にいた場所が、別の場所に変更されている。死亡診断の記録が、存在しなかったことになっている。さらに、本人の家族構成や交友関係まで……」
「待て」
相澤は資料を机に置いた。
「本人の記憶は?」
「現時点では、記憶そのものが完全に失われたという報告はありません。ただし、本人の証言と公的記録が一致しない事例が増えています」
「……つまり、本人は自分が生きていたと思っているが、世界の記録がそれを否定している?」
「その可能性があります」
相澤は目を閉じた。
最悪の事態が、またひとつ現実になった。
死者が帰ってきた。
だが、帰ってきた死者を受け入れるための仕組みが、世界には存在しない。
その不整合を修正するために、記録そのものが書き換えられている。
「帰還者を集めろ」
「全員ですか?」
「可能な限りだ。記録が変わっているなら、本人の証言を確保する。書類が消えたからといって、本人まで消えたことにするな」
「分かりました!」
職員が駆け出す。
相澤は窓の外を見た。
校庭には、数人の生徒がいた。
その中に、帰還した者たちの姿もある。
誰かと話し、笑い、時には口論しながら、彼らはそこにいる。
その光景は、あまりにも普通だった。
だからこそ、恐ろしかった。
もし世界が、彼らの存在を否定し始めているのなら。
彼らが普通に過ごしているこの時間さえ、いつか「存在しなかった時間」にされてしまうかもしれない。
「……死者を拒んでいる、か」
相澤は呟いた。
だが、ひとつだけ引っかかることがあった。
記録が書き換えられているのなら、なぜ本人たちの記憶まで、完全には消えていないのか。
世界の整合性を保つことが目的なら、本人の記憶も修正してしまえばいい。
それなのに、記憶は残っている。
記録は変わる。
本人は覚えている。
世界は否定する。
本人は存在する。
その食い違いは、単なる不具合なのだろうか。
それとも。
世界のどこかに、まだ修正できないものが残っているのだろうか。
「先生」
声がした。
相澤が振り返ると、麗日お茶子が立っていた。
その表情は硬い。
「トガちゃんの記録が……」
言葉の続きを、彼女はすぐには口にできなかった。
相澤は立ち上がった。
「案内しろ」
「はい」
二人は対策室を出た。
廊下の先に、ひとりの少女が立っていた。
トガヒミコ。
彼女は自分の手の中にある紙を見つめていた。
紙には、彼女の名前が書かれている。
しかし、その名前の文字が、ひとつずつ薄くなっていた。
「……あは」
トガは笑った。
「変なの」
お茶子は駆け寄った。
「トガちゃん!」
「お茶子ちゃん。これ、どう思う?」
トガは紙を差し出した。
「私の名前なんだって。私の名前、ヒミコっていうんだって」
「……うん」
「でもね、さっきまで、ここにちゃんと書いてあったの。私が何をしたか、どこにいたか、誰と会ったか。全部じゃないけど、いろいろ」
彼女は紙を裏返した。
「今は、名前しか残ってない」
お茶子は息を呑んだ。
「記録が……」
「うん。なくなっちゃった」
トガは紙を見つめたまま言った。
「ねえ、お茶子ちゃん」
「何?」
「私が、私じゃなくなったら、どうする?」
お茶子は、すぐに答えられなかった。
トガは笑顔を浮かべていた。
いつもの、どこか無邪気で、どこか危うい笑顔。
けれど今の彼女は、相手を試しているのではなかった。
本当に、分からないのだ。
自分が何者なのか。
自分が生きていたという記録が消えていったとき、何が自分を自分たらしめるのか。
「私がやったことも、私が好きだった人も、私が嫌いだったものも、全部なくなっちゃったら?」
彼女の声が揺れた。
「それでも、私はトガヒミコなのかな」
お茶子は、彼女の手を取ろうとした。
しかし、トガは一歩だけ後ろに下がった。
「……今は、触らないで」
お茶子の手が止まる。
トガは自分でも驚いたように目を瞬かせた。
「ごめん。違うの。お茶子ちゃんが嫌いとかじゃなくて……」
彼女は紙を握りしめた。
「私、今、怖いんだ」
その言葉は、小さかった。
だが、お茶子には聞こえた。
「何が怖いの?」
「私が消えることじゃない」
トガは答えた。
「私が消えたあと、お茶子ちゃんが、私のことを覚えていないのが怖い」
お茶子の喉が詰まった。
「……トガちゃん」
「だって、私がいなくなったら、お茶子ちゃんは悲しいでしょう?」
「うん」
「私のことを覚えていたら、苦しいでしょう?」
「……うん」
「だったら、私の記録がなくなれば、お茶子ちゃんは楽になれるのかな」
「違う!」
お茶子の声が廊下に響いた。
トガが驚いて顔を上げる。
お茶子は、自分の声の大きさに気づき、唇を噛んだ。
それから、今度は落ち着いて言った。
「違うよ。トガちゃん」
彼女は一歩、近づいた。
「私は、トガちゃんのことを覚えていたい。楽になるために忘れるんじゃなくて、苦しいことも含めて、ちゃんと覚えていたい」
「……どうして?」
「トガちゃんが、私にとって、そういう人だから」
お茶子は、目を逸らさなかった。
「トガちゃんがしたことを、全部なかったことにしたいわけじゃない。傷つけられた人のことも、なかったことにしたくない」
トガの指が震える。
「でも、トガちゃんがいたことまで、なかったことにしたくない」
お茶子は続けた。
「トガちゃんが何をしたのか。何を望んでいたのか。誰を好きだったのか。どうしてあんなふうに生きるしかないと思ってしまったのか。私は、それを知りたい」
「……知ったら、嫌いになるかもしれないよ?」
「うん。そういうこともあるかもしれない」
トガの目が見開かれた。
お茶子は、逃げなかった。
「でも、嫌いになるかもしれないからって、最初から知らないことにはしたくないんだ」
それは、赦しの言葉ではなかった。
無条件の肯定でもない。
トガがしたことを正しいとする言葉でもなかった。
ただ、彼女の存在を、都合のいい記録に作り替えないという宣言だった。
「トガちゃんがトガちゃんであることを、世界が勝手に決めるのは違うと思う」
お茶子は言った。
「トガちゃん自身が、これからどう生きるのか。それを選ぶことまで、誰にも奪わせたくない」
その瞬間。
トガの手の中にあった紙が、白くなった。
名前が消えた。
文字が消えた。
何も書かれていない、ただの紙になった。
トガは呆然とそれを見つめた。
「……消えちゃった」
お茶子は彼女の手を見た。
「でも、トガちゃんはここにいる」
「……うん」
「私は、今、トガちゃんと話してる」
「……うん」
「だから、紙が白くなっても、話したことまで消えたわけじゃない」
トガの唇が震えた。
そして彼女は、初めて、笑顔を作らずに泣いた。
その涙を、世界は記録しなかった。
だが。
お茶子は、その涙を見ていた。
第三幕 死神が見つけた、空白の墓標
死の領域には、夜がなかった。
朝も、昼も、夕暮れもない。
時間という概念が失われているのではない。
時間が流れているという証拠を、誰も必要としていないのだ。
生者の世界では、時計が時を刻む。
心臓が鼓動し、呼吸が繰り返され、傷は塞がり、子供は成長する。
だが、ここでは違う。
死者の記憶は、過去を過去として保存する。
彼らが生きていた時間は、終わったものとしてそこにある。
だからこそ、死者が再び生き始めるという現象は、この場所にとっても異常だった。
死神は、記録の海を歩いていた。
足元には無数の文字が流れている。
誰かの出生。
誰かの出会い。
誰かの約束。
誰かの死。
一人の人間が生きた証は、必ずしも一冊の書物にまとまっているわけではない。
ある記録は、他人の記憶の中にある。
ある記録は、残された物品の中にある。
ある記録は、誰にも語られず、本人の中にだけ存在する。
そして、ある記録は。
誰にも覚えられなかったために、世界のどこにも残らない。
死神は、そこに視線を落とした。
「……違うな」
足を止める。
目の前にあるのは、ひとつの墓標だった。
名前がない。
没年月日もない。
死因も、享年も、遺された者の記録もない。
ただ、墓標の表面に、ひとつの文だけが刻まれていた。
『ここに、記録されることを拒まれた者が眠る』
死神は眉をひそめた。
「記録されることを拒まれた?」
墓標に手を伸ばす。
触れる直前、背後から声がした。
「触らないほうがいい」
死神は振り返らなかった。
「理由を聞こうか、観測者」
「それは墓標じゃない」
観測者が隣に立った。
「記録の欠落部分を、墓標の形に見せているだけだ」
「なら、なぜ墓標の形をしている」
「我々が理解できる形に変換されているのかもしれない」
「誰が変換した?」
「分からない」
死神は、ゆっくりと観測者を見た。
「お前は最近、分からないという言葉をよく使うな」
「以前よりも、分からないことが増えた」
「それは進歩なのか?」
「分かっていると思い込むよりは、ましだろう」
死神は答えなかった。
観測者の言葉は正しい。
正しいからこそ、彼らは前に進めない。
目の前にあるものを説明するための理論はある。
だが、理論を証明する記録がない。
記録を探そうとすれば、その記録が存在するための前提が崩れる。
前提を疑えば、世界の構造そのものが分からなくなる。
その繰り返しだった。
「死者の帰還について、何が分かった?」
死神が尋ねた。
観測者は、宙に手をかざした。
無数の記録が浮かび上がる。
「帰還した死者の存在は、現在も確認できている。しかし、世界の記録に不一致が発生している。生前の記録が改変され、死因が消え、場合によっては本人が生きていた時代の一部まで再構成されている」
「死者が生き返ったという記録を、世界が消しているのか」
「それだけではない」
観測者が別の記録を表示した。
「帰還した死者を知っている者の記憶と、世界の記録が食い違い始めている」
死神は目を細めた。
「記憶そのものが、記録と衝突している?」
「そうだ」
「それでも、記憶は残っているのか」
「少なくとも、現時点では」
死神は墓標を見た。
「……世界は、死者を拒んでいる」
「そう考えるのが自然だ」
「自然、か」
死神は小さく笑った。
「死者が帰ってきたことのほうが、自然ではないと思うがな」
「だからこそ、世界は修正しようとしているのかもしれない」
観測者は続けた。
「死は、世界を成立させている条件のひとつなのかもしれない。生きた者は生き、死んだ者は死ぬ。過去は過去として残り、未来はまだ起きていないものとして存在する。もし死者が帰還すれば、その区別が崩れる」
「死者が戻ることで、世界が壊れると?」
「可能性の話だ」
「では、なぜ今まで世界は壊れていない?」
観測者は答えなかった。
死神は続ける。
「帰還した者たちは、ただそこにいるだけではない。人と話し、物を動かし、何かを考え、何かを望んでいる。彼らは世界に影響を与えている。それでも、世界は存在し続けている」
「……」
「ならば、世界が修正しているのは、死者が存在することそのものではないのかもしれない」
観測者が顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「考えてみろ。世界が死者の存在を許容できないなら、最初に起きるのは何だ?」
「死者の消失……あるいは、存在の否定」
「だが、実際には記録が改変されている」
死神は墓標の前にしゃがみ込んだ。
「世界は、彼らを直接消してはいない。彼らが存在しているという事実を、世界の中で説明できる形に変えようとしている」
「説明できる形?」
「死者が帰還したという事実を認める代わりに、死者がそもそも死んでいなかったことにする。死者と再会した記憶を消す代わりに、再会そのものが起きなかったことにする。矛盾を解消するために、過去を作り替える」
死神は墓標に刻まれた文字を見た。
「これは、拒絶というより……」
「何だ?」
「矛盾を消すための、強制的な整合だ」
観測者の表情が変わった。
その言葉が意味するところを、彼も理解したのだ。
世界は、死者を憎んでいるわけではない。
世界に意思があるのかどうかさえ、分からない。
ただ、世界を成立させている何らかの仕組みが、矛盾を許容できない。
そして、その仕組みが死者の帰還を矛盾と判定している。
ならば、問題は死者ではない。
死者を存在させることのできない世界の仕組みそのものだ。
「……デウス・マキナ」
観測者が呟いた。
死神は顔を上げた。
「何?」
「もし、あの装置が集合的無意識へ接続するためのものだとしたら」
「仮説だな」
「分かっている。だが、集合的無意識が人間の認識や記憶、世界についての共通理解と関係しているなら……」
観測者は言葉を選んだ。
「世界の記録と呼ばれているものは、単なる情報の保管庫ではない可能性がある」
死神は黙って聞いていた。
「人間が世界をどう認識しているのか。その認識が、世界の記録として固定される。もしそうなら、死者が存在しているという事実を、世界が受け入れられないのは……」
「生きている者たちが、死者は戻らないものだと認識しているから?」
「それだけではない。世界そのものが、死者は戻らないという前提で成立している可能性がある」
死神は、墓標を見た。
記録されることを拒まれた者。
その言葉が、妙に引っかかった。
「観測者」
「何だ?」
「もし世界が、死者は戻らないという前提で成立しているのなら」
死神は、墓標に刻まれた文字を指でなぞった。
「この墓標は、誰が作った?」
観測者は答えなかった。
死神は立ち上がる。
「世界が死者を拒んでいるのなら、死者の存在を否定する記録は、世界の側から生まれるはずだ」
「……」
「だが、この墓標には、死者を拒んだ者がいると書かれている」
死神は墓標の裏側を見た。
そこには、今までなかったはずの文字が刻まれていた。
『拒絶した者は、死者ではない』
死神の表情が凍った。
続いて、文字が浮かび上がる。
『拒絶した者は、生者でもない』
観測者が息を呑む。
さらに、その下に。
『拒絶した者は、世界の記録を作った者である』
沈黙が落ちた。
死神は、ゆっくりと文字を読み返した。
「……世界の記録を作った者」
「第一管理者か?」
観測者が言った。
死神は首を横に振る。
「断定するな」
「だが、彼は世界の安寧を維持するために、記録を操作していた」
「それは事実だ。だが、第一管理者が世界の記録そのものを作ったわけではない」
第一管理者は、世界の創造主ではなかった。
彼自身もまた、誰かの願いから生まれた存在だった。
誰も失いたくない。
誰も死なせたくない。
悲しみのない世界を作りたい。
そうした願いの積み重ねが、世界の安寧を維持する仕組みを生み出した。
第一管理者は、その仕組みの中で役割を与えられた存在にすぎない。
彼は罪を犯した。
だが、彼を生み出した願いまで、彼ひとりの罪として片づけることはできない。
そして今、彼らの前に現れた記録は、さらに古い何かを示している。
第一管理者よりも前。
世界の成立よりも前。
死という概念が、まだ世界の中で定義されていなかった時代。
「……誰が、世界の記録を作った?」
死神が呟いた。
その問いに答えるように、墓標の文字が変わった。
『第一接続者』
死神は息を止めた。
「また、お前か」
その名前ではない呼称を、彼は見つめた。
第一接続者。
世界成立以前の存在。
自分自身の存在を否定した者。
誰かを殺したとも、誰かに殺されたとも記録されている者。
そして、誰かに覚えていてほしいと願った者。
その存在が、世界の記録を作ったというのか。
「違う」
死神は即座に否定した。
「まだ、そうとは限らない」
観測者が彼を見る。
「何を根拠に?」
「記録がそう言っているからだ」
「……それは、根拠ではないのか?」
「記録が正しいとは限らない」
死神は墓標を睨んだ。
「今、俺たちが見ているのは、世界が提示した情報だ。世界が矛盾を修正しようとしているなら、その記録もまた、修正の対象かもしれない」
「つまり、第一接続者が世界の記録を作ったという記述自体が、偽りかもしれないと?」
「あるいは、真実の一部だけを切り取ったものかもしれない」
死神は目を閉じた。
「……俺は、誰かを覚えているために、自分の最初の記憶を差し出したのかもしれない」
観測者が息を呑む。
「その記憶が、第一接続者と関係している可能性がある?」
「分からない」
死神は目を開いた。
「だが、もし俺が自分の記憶を失うことで、誰かの存在を残したのだとしたら」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「俺が今、世界の記録を疑っているのは、失ったものを取り戻すためなのか。それとも、かつて自分が選んだことを、もう一度やり直そうとしているからなのか」
観測者は何も言わなかった。
答えられるはずがなかった。
死神自身にさえ、分からないのだから。
そのとき。
墓標の根元に、ひとつの文字が浮かんだ。
『死者は、記録の外にいる』
その文字は、すぐに消えた。
代わりに、別の文字が現れる。
『死者は、記録の内にいる』
そして、最後に。
『死者とは、記録によって定義されるものではない』
死神は、しばらくその文を見つめていた。
やがて、静かに呟いた。
「……そうか」
観測者が顔を上げる。
「何が分かった?」
「まだ、何も分かっていない」
死神は答えた。
「だが、ひとつだけ、間違えてはいけないことがある」
彼は墓標から離れた。
「世界が死者を拒んでいるからといって、死者が世界の外にいるとは限らない」
死者が世界に戻ってきた。
世界は、それを矛盾と判定した。
ならば、矛盾を生み出しているのは何なのか。
死者が戻ってきたという事実か。
死者は戻らないという世界の前提か。
それとも。
その前提を成立させた、誰かの願いなのか。
死神は歩き出した。
「観測者。デウス・マキナの記録を、もう一度調べる」
「何を探す?」
死神は振り返った。
「死者が帰還した記録じゃない」
「では?」
「死者が帰還できないと定義された、最初の記録だ」
その言葉を残して、彼は記録の海へと消えていった。
そして、誰もいなくなった墓標の表面に。
新たな文字が浮かび上がった。
『最初の死者は、まだ死んでいない』
第四幕 帰ってきた者に、帰る場所はあるのか
「……おかしいな」
爆豪勝己は、目の前の書類を睨んでいた。
書類の上部には、帰還者の情報が記載されている。
氏名。
生年月日。
死亡記録。
帰還確認日。
そのうち、死亡記録の欄だけが、何度確認しても変化していた。
あるときは、死亡日時が記載されている。
次に見れば、死亡診断そのものが存在しない。
さらに時間を置くと、死亡記録の代わりに、別の人物の情報が表示される。
「クソが。ふざけてんのか」
爆豪が紙を机に叩きつけた。
「爆豪くん」
緑谷が部屋に入ってきた。
「お前、何を見てる」
「帰還者の記録。そっちは?」
「……同じだよ」
出久は手に持っていた端末を見せた。
「記録が改変されている。本人の記憶と、世界の記録が一致しないんだ」
「知ってる。で、何が原因だ」
「まだ分からない」
「なら、調べろ」
「うん」
爆豪は出久を睨んだ。
「……お前、何か隠してんだろ」
出久の手が止まった。
「どうして?」
「顔だ」
「顔?」
「お前、何かを見つけたとき、すぐに全部を話すとは限らねえ」
「……」
「特に、自分が何とかしなきゃならねえと思ってるときはな」
出久は苦笑した。
否定できなかった。
「患者番号零と、もう一度連絡を取ろうとしたんだ」
「例の、名前のないやつか」
「うん。彼女と話している途中で、世界の記録に矛盾が発生した。記録を修正するっていう表示が出て……そのあと、彼女との接続が途切れた」
爆豪の目つきが変わった。
「お前が原因か?」
「分からない。でも、僕が接触したことがきっかけになった可能性はある」
「だったら、何でそんな顔してやがる」
「……え?」
「自分のせいだと思ってんだろ」
出久は黙った。
爆豪は舌打ちした。
「お前、昔からそうだよな。何か起きたら、すぐ自分の責任にしようとする」
「でも、僕が接触したせいで……」
「だから何だ」
「……」
「お前が接触しなかったら、あいつが消えなかったって証拠はあんのか?」
出久は答えられなかった。
「ねえだろ」
爆豪は書類を指で弾いた。
「こいつらの記録が勝手に書き換わってる。お前が何もしなくても、いずれ同じことが起きてたかもしれねえ」
「……そうかもしれない」
「なら、勝手に自分を犯人にすんな」
爆豪は、出久を真っ直ぐ見た。
「原因を調べることと、自分を罰することは違う」
その言葉は、意外なほど静かだった。
出久は、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう」
「礼はいらねえ」
爆豪は椅子に座り直した。
「それより、もうひとつ気になることがある」
「何?」
爆豪は、机の上の書類を引き寄せた。
「こいつらの記録が変わってるのは分かった。だが、何で全員が同じように変わる?」
「同じように?」
「死亡記録が消えるやつもいれば、生前の記録が変わるやつもいる。家族構成が変わるやつもいる。なのに、全員に共通していることがある」
出久は書類を覗き込んだ。
「……死亡したという事実と、今ここにいるという事実が、両立していない?」
「そうだ」
爆豪は頷いた。
「世界は、死んだ人間が今ここにいるっていう事実を、どうしても説明できねえらしい」
「だから、過去を変えている……?」
「あるいは、今を変えようとしてる」
出久の表情が強張った。
「今を……?」
「過去を変えるだけじゃ、死者が帰ってきたって事実は消えねえ。そいつらが今もここにいる限り、矛盾は残る」
爆豪は、紙を机の上に広げた。
「だったら、次に何をする?」
出久は考えた。
過去を改変しても、現在に死者がいる。
ならば、世界が矛盾を消そうとする方法は、ひとつではない。
死者が生きていたという過去を作る。
死者が帰還したという記憶を消す。
あるいは。
死者が今ここにいるという現在を、存在しなかったことにする。
「……まさか」
出久の声が掠れた。
爆豪が立ち上がる。
「おい」
「世界が、今を修正しようとしているなら……」
出久は、端末の記録を開いた。
「記録だけじゃなくて、本人の存在まで……」
言葉が途切れた。
その瞬間、部屋の端末が一斉に警告音を鳴らした。
『緊急警告』
『帰還者の存在判定に異常』
『対象者の位置情報が取得できません』
『対象者の存在記録が不安定化しています』
爆豪が端末を掴んだ。
「誰だ!」
画面に、ひとりの人物の名前が表示される。
その名前を見た瞬間、出久の顔から血の気が引いた。
「……そんな」
爆豪も、息を止めた。
対象者の欄には、こう記されていた。
ホークス。
第五幕 翼のある男は、空を飛べるのか
ホークスは、自分の翼を見つめていた。
羽根は、そこにある。
背中から伸びた大きな翼。
一枚一枚の羽根は、確かに彼の意志に応じて動いている。
試しに、一本を動かす。
羽根が浮き上がる。
もう一本。
それも動く。
身体に異常はない。
意識も、感覚も、記憶も、普段と変わらない。
それなのに。
「……飛べない、か」
彼は、校舎の屋上から空を見上げた。
正確には、飛ぼうとすると、世界のほうが彼を地上に引き戻すのだ。
翼を広げる。
風を受ける。
身体が浮き上がる。
その瞬間、視界が一瞬だけ乱れる。
そして、次の瞬間には、彼は地面に立っている。
まるで、空へ飛び立つという行為そのものが、起きなかったことになったかのように。
「……いやあ、これは困ったな」
ホークスは、頭を掻いた。
冗談めかして言ってみても、状況が改善するわけではない。
彼は翼を持つ。
飛ぶために生まれたと言ってもいい。
その翼で人を救い、情報を集め、誰かのもとへ駆けつけてきた。
その彼が、今は飛べない。
翼が壊れたわけではない。
身体が弱ったわけでもない。
世界が、彼の飛行を認めていない。
「……死者だから、ですかね」
背後から声がした。
ホークスは振り返った。
そこには、帰還したある人物が立っていた。
「それとも、僕が今ここにいること自体が、問題なんでしょうか」
ホークスは笑った。
「どっちにしても、あんまり気分のいい話じゃないですね」
「……あなたは、怖くないんですか?」
「怖いですよ」
ホークスは、あっさり答えた。
相手は驚いたように目を瞬かせた。
「怖くないふりをしても、飛べるようになるわけじゃないですからね」
ホークスは空を見上げた。
「ただ、ひとつだけ分かったことがあります」
「何ですか?」
「僕が飛べないことと、僕が翼を持っていることは、別の話だってことです」
彼は、自分の翼に触れた。
「世界が僕の飛行を認めないからって、翼がなくなったわけじゃない。僕が誰かを助けようとしてきたことも、飛んでいた時間も、全部なくなったわけじゃない」
「……」
「それに、飛べないなら、歩けばいい」
ホークスは笑った。
「歩けなくなったら、誰かに運んでもらえばいい。僕が飛べることだけが、誰かを助ける方法じゃないですから」
彼はそう言った。
その言葉は、強がりだったかもしれない。
飛べることが、自分の役割の一部だった。
翼があるからこそ、誰よりも早く動けた。
空から街を見渡し、危険を見つけ、誰かのもとへ駆けつけることができた。
それができなくなるのは、怖い。
だが。
「……それでも、僕はここにいる」
ホークスは、もう一度空を見上げた。
「僕が何者だったのかを、世界の記録に決めさせるつもりはありませんよ」
その瞬間。
彼の翼の一枚が、ふっと消えた。
ホークスは、言葉を失った。
背中に痛みはない。
傷もない。
ただ、羽根が一本、最初から存在しなかったかのように消えている。
彼は手を伸ばした。
そこにあるはずの羽根は、もうなかった。
「……ああ」
ホークスは、静かに息を吐いた。
「そっちは、そう来ますか」
彼は、初めて理解した。
世界は、彼が飛ぶことを拒んでいるだけではない。
飛べない彼が、翼を持っていることさえ、矛盾として修正し始めているのだ。
彼の存在を否定するために。
彼が帰ってきたという事実を消すために。
世界は、彼を少しずつ、彼ではないものに変えようとしている。
そのとき、通信端末が鳴った。
「ホークスさん!」
緑谷の声だった。
『今、どこにいますか!?』
「雄英の屋上ですけど」
『すぐに動かないでください! 存在記録が不安定になっています!』
「……なるほど」
ホークスは苦笑した。
「どうやら、僕は世界に嫌われているらしい」
『違います! 世界が……世界の記録が、あなたを正しく扱えていないんです!』
「それ、もっと厄介じゃないですか?」
『ホークスさん!』
「分かってます。冗談を言ってる場合じゃないですね」
ホークスは翼を広げた。
失われた羽根の隙間から、風が抜けていく。
「緑谷くん」
『はい!』
「僕が今、ここにいるってことは、覚えておいてください」
『……え?』
「いや、正確には、覚えていてほしいんじゃない」
ホークスは言葉を選んだ。
「僕がここにいることを、僕自身が忘れないようにしたいんです」
彼は屋上の床に足をつけた。
「誰かに覚えていてもらわなきゃ存在できないなんて、そんなのは困りますからね」
通信の向こうで、出久が息を呑む。
「僕は、ここにいる」
ホークスは自分に言い聞かせるように繰り返した。
「今、ここにいる」
その瞬間。
彼の背後に、文字が浮かび上がった。
『対象者:ホークス』
『存在判定:不安定』
『記録矛盾:修正不能』
『代替処理を開始』
ホークスは振り返った。
「……代替処理?」
文字が増える。
『対象者の存在を維持できない場合』
『対象者が存在していなかった世界を再構成します』
ホークスの表情から、笑みが消えた。
世界は、彼を消そうとしている。
それだけではない。
彼が存在しなかった世界を、作り直そうとしているのだ。
その世界では、ホークスは生まれない。
翼を持たない。
ヒーローにならない。
誰かを救わない。
そして、誰も彼を失わない。
誰も、彼が帰ってきたことを知らない。
「……それが、世界にとっての正解ですか」
ホークスは、文字を見つめた。
「なら、僕はその正解を拒否します」
彼は、翼を広げた。
飛べなくても。
羽根が失われても。
世界が、自分の存在を認めなくても。
彼は、そこに立っていた。
「僕は、ここにいますよ」
その声は、誰に届くとも知れなかった。
だが、次の瞬間。
世界の記録に、初めて新たな文字が浮かび上がった。
『対象者は、自身の存在を肯定しています』
『記録との不一致を確認』
『修正を続行します』
ホークスは、目を閉じた。
「……ですよねえ」
世界は、彼の意志を記録した。
だが、それを認めたわけではない。
彼の存在を理解したわけでもない。
ただ、矛盾として保存した。
それは、ある意味で恐ろしいことだった。
世界が、彼の存在を完全には消せていないということ。
そして。
世界が、彼の意志を認識しながら、それでもなお彼を消そうとしているということ。
第六幕 世界が知らない名前
「ホークスさんの存在が不安定になっている!?」
緑谷出久の声が、対策室に響いた。
端末には、ホークスの存在判定が表示されている。
数値は一定ではない。
正常と異常を繰り返しながら、少しずつ下がっていた。
「どうすればいい!?」
出久が叫ぶ。
「記録を修復すればいいのか? 本人の記憶を保護すればいいのか? それとも、世界の記録から切り離せば……!」
「緑谷!」
相澤の声が飛んだ。
出久は口を閉じる。
「焦るな。手段を決める前に、何が起きているのかを把握しろ」
「でも、先生!」
「ホークスを救うために、ホークスの意志を確認せずに何かをするな」
その言葉に、出久は息を呑んだ。
相澤は続けた。
「世界の記録が、本人の存在を否定している。だからといって、俺たちまで本人の意志を無視していい理由にはならない」
「……はい」
出久は、拳を握った。
また同じことを繰り返すところだった。
誰かを救うために、誰かの意志を置き去りにする。
誰かを失わないために、誰かの選択を奪う。
それは、世界がやっていることと、どこが違うのだろう。
「ホークスさんに、もう一度連絡します」
出久は通信を繋いだ。
『はいはい、こちらホークス。どうしました?』
いつも通りの声。
そのことに、出久は少しだけ救われた。
「ホークスさん、今の状況を確認させてください。身体に異常はありますか?」
『羽根が何枚か消えましたね。あと、飛ぼうとすると、うまくいかない』
「それ以外は?」
『特にないです。記憶もありますし、意識もはっきりしています』
「……分かりました」
出久は息を整えた。
「ホークスさん。僕たちは、あなたを世界の記録に戻す方法を探しています。でも、そのためにあなたの記憶や意志を勝手に書き換えるつもりはありません」
通信の向こうで、ホークスが小さく笑った。
『緑谷くん』
「はい」
『僕が飛べなくなったからって、僕を翼のある人間に戻す必要はないですよ』
「……え?」
『翼があることと、飛べることは違う。さっき、自分でもそう言ったんです』
ホークスの声は穏やかだった。
『もし、世界の記録に合わせるために、僕の存在を何かに変えなきゃいけないのなら……それは、僕が決めます』
出久は、言葉を失った。
『僕は、ヒーローだった。誰かを救いたかった。誰かが傷つく前に、間に合いたかった』
ホークスは続けた。
『でも、僕が何者だったのかを、翼の枚数だけで決められたくはない』
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
『僕は、今の僕として、ここにいたいんです』
出久は目を閉じた。
「……分かりました」
『ありがとうございます』
「いえ。こちらこそ」
通信が切れた。
出久は端末を見つめた。
ホークスは、世界に存在を否定されている。
それでも、彼は自分がどうありたいかを選ぼうとしている。
その選択を、世界は記録している。
しかし、受け入れてはいない。
「先生」
出久は顔を上げた。
「世界の記録が、どういう仕組みなのかを調べる必要があります」
相澤は頷いた。
「同感だ」
「ただ、記録を修復するだけでは駄目なんだと思います」
「なぜだ?」
「世界の記録が間違っているのなら、それを正す必要はあると思います。でも……世界の記録が正しいかどうかを決めるのも、世界の記録だったら?」
相澤は黙った。
「自分が正しいと判断したものだけを残して、矛盾するものを消していく。そういう仕組みなら、僕たちが記録を修復しても、また同じことが起きるかもしれない」
出久は、画面を見つめた。
「必要なのは、死者を記録に戻すことだけじゃない」
「……」
「死者が帰ってきたという事実を、矛盾として扱わない世界にすることです」
相澤はしばらく考えていた。
そして、静かに言った。
「それは、記録の修復というより、世界の仕組みそのものへの介入だな」
「はい」
「簡単にはいかないぞ」
「分かっています」
出久は答えた。
「でも、世界が死者を受け入れられないからって、死者の存在を消していいことにはならない」
彼は画面を閉じた。
「僕たちは、彼らがここにいる理由を探します。彼らが帰ってきたことを、間違いだと決めつける前に」
相澤は、わずかに目を細めた。
「……その姿勢は忘れるな」
そのとき。
対策室の端末が、再び起動した。
誰も操作していない。
画面が白くなり、文字が浮かび上がる。
『世界記録の管理者を検索』
『該当者なし』
『世界記録の作成者を検索』
『該当者なし』
『世界記録の起点を検索』
『該当者なし』
三つの検索結果が並んだ。
出久は息を呑んだ。
「……起点が、ない?」
相澤が画面に近づく。
「記録を作った者が存在しないという意味か?」
「分かりません。でも……」
出久は、最後の行を見つめた。
『世界記録の起点を検索』
『該当者なし』
もし、世界の記録に起点がないのなら。
世界は、誰かによって記録されたのではないのかもしれない。
あるいは。
記録が始まる以前の世界には、記録という概念そのものが存在しなかったのかもしれない。
そして、その記録されなかった時代に。
第一接続者がいた。
死神が見つけた墓標。
世界成立以前の記録。
第一接続者の矛盾した存在証明。
それらが、一本の線で繋がり始めていた。
だが、その線の先にあるものは、まだ見えない。
第七幕 死者は、どこから帰ってきたのか
死神は、デウス・マキナの中枢に立っていた。
周囲には、無数の記録が浮かんでいる。
世界の始まり。
生命の誕生。
人間の歴史。
文明の興亡。
そして、死。
それらはすべて、世界を構成する情報として並んでいた。
だが、死神が探しているのは、そのどれでもない。
「……見つからないな」
彼は、記録をひとつずつ調べていた。
死者が帰還したという記録はある。
帰還者の存在を検出した記録もある。
世界が矛盾を修正しようとした痕跡もある。
しかし。
死者が、どこから帰ってきたのか。
その記録だけが、見つからなかった。
「観測者」
死神が呼ぶ。
「何だ?」
「死者の帰還経路を調べたか?」
「調べた。だが、通常の経路は確認できない」
「通常の経路とは?」
「生者の世界から死の領域へ移動し、記録された存在が、何らかの作用によって生者の世界へ戻る。そのような経路があるなら、痕跡が残るはずだ」
「痕跡がない?」
「ない」
死神は記録を見つめた。
「では、彼らはどこから帰ってきた?」
観測者は、しばらく沈黙した。
「……仮説ならある」
「聞こう」
「彼らは、死の領域から戻ってきたのではないのかもしれない」
死神の目が細くなる。
「どういう意味だ?」
「死者が生者の世界へ戻ったのではなく、生者の世界が、死者を含む状態へと変化した可能性がある」
「世界そのものが変わった?」
「そうだ。死者が戻ってきたという現象は、観測者から見ればそう見える。だが、世界の構造が変わったのであれば、移動の痕跡が存在しないことも説明できる」
死神は黙っていた。
それは、あまりにも大きな仮説だった。
死者が戻ったのではない。
世界が、死者を含む世界に変わった。
もしそうなら、死者の帰還は、単なる復活現象ではない。
世界の前提そのものが変化していることになる。
そして、世界の記録がその変化を拒んでいるのなら。
記録は、変化する前の世界を正しいものとして維持しようとしているのかもしれない。
「……観測者」
死神は言った。
「その仮説が正しいなら、死者が帰還した原因は、死者自身にはない可能性がある」
「そうだ」
「世界を変化させた何かがある」
「あるいは、誰かの願いが」
死神は顔を上げた。
観測者は、言葉を続けなかった。
願い。
その言葉は、この世界の多くの異常に関係している。
誰も失いたくないという願い。
死者にもう一度会いたいという願い。
過去をやり直したいという願い。
誰かに覚えていてほしいという願い。
それらが世界を動かしてきたのなら。
死者の帰還もまた、誰かの願いによって生じた現象なのだろうか。
「……だが、願いだけで世界が変わるとは限らない」
死神は呟いた。
「願いを現実に変えるための仕組みが必要だ」
「デウス・マキナか」
「可能性はある」
死神は装置の中枢を見上げた。
デウス・マキナ。
集合的無意識へ接続するための装置。
人間の記憶、感情、認識、願い。
それらがどこかで繋がっているのなら、装置はその繋がりに触れることができるのかもしれない。
しかし、それだけでは説明がつかない。
なぜ、世界成立以前の記録が存在するのか。
なぜ、第一接続者は世界の成立より前に、自分自身の存在を否定したのか。
なぜ、死神は自分の最初の記憶を失ったのか。
そして。
なぜ、世界は死者の帰還を矛盾として扱うのか。
「……記録を逆向きに辿る」
死神が言った。
「何?」
「死者が帰還した記録から、原因を探すのではない。死者が帰還できないと定義された記録から、世界の前提を辿る」
観測者が頷く。
「それなら、世界の記録がいつ、どのように成立したのかを調べられる可能性がある」
「そうだ」
死神は装置に手をかざした。
「始まりを探す」
その瞬間。
デウス・マキナが反応した。
無数の記録が、いっせいに停止する。
世界の歴史が消えたわけではない。
ただ、すべての記録が、ある一点を避けるように並び替わっていった。
その一点には、何もない。
文字も、映像も、記憶もない。
だが、そこだけが、他のすべての記録を繋いでいた。
死神は息を呑んだ。
「……ここか」
観測者が近づく。
「何が見える?」
「何も見えない」
「何も?」
「何もない。だが、記録はすべて、ここを通っている」
それは、矛盾していた。
記録の起点がない。
だが、記録はそこを通っている。
存在しないはずの空白が、世界のすべての記録を成立させている。
死神は、その空白に触れた。
そして。
声を聞いた。
『あなたは、私を覚えていますか』
死神の手が止まった。
その声は、知っているようで、知らない声だった。
懐かしいようで、懐かしさの理由が分からない声。
聞いたことがあるのかもしれない。
ずっと昔に。
世界が始まるよりも前に。
「……誰だ」
死神が尋ねた。
返事はなかった。
代わりに、空白の中へ、ひとつの文字が浮かび上がった。
『死』
次に。
『生』
そして。
『記録』
三つの言葉が、互いに重なり、ひとつの文章へと変わった。
『死は、記録されたときに始まった』
死神は、息を止めた。
「……何だと?」
観測者も、言葉を失っていた。
文章は続いた。
『記録される以前、死は存在しなかった』
『記録される以前、生も存在しなかった』
『記録される以前、世界は存在しなかった』
最後の文字が浮かび上がる。
『世界は、記録によって始まった』
死神は、空白を見つめた。
それは、世界の始まりを説明する記録だった。
だが、同時に、新たな矛盾を生み出していた。
世界が記録によって始まったのなら。
その記録を書いたのは、誰なのか。
記録が存在する以前には、世界も、死も、生も存在しなかったのなら。
その記録を書いた者は、どこにいたのか。
「……第一接続者」
死神が呟いた。
空白が揺れた。
まるで、その言葉に反応したかのように。
『第一接続者』
その文字が浮かび上がる。
そして、次の瞬間。
『第一接続者は、世界を記録した』
死神の表情が強張った。
しかし、その文章は、すぐに書き換わった。
『第一接続者は、世界を記録していない』
さらに。
『第一接続者は、世界を記録することを拒んだ』
三つの記録が並ぶ。
どれが正しいのか、分からない。
いや。
もしかすると、三つとも正しいのかもしれない。
第一接続者は、世界を記録した。
しかし、世界を記録したことを否定した。
そして、記録することそのものを拒んだ。
その矛盾の中心に、何があるのか。
死神は、まだ知らなかった。
だが、ひとつだけ。
彼は、理解し始めていた。
世界の記録は、ただの歴史ではない。
それは、世界が存在するための条件そのものなのかもしれない。
そして、その条件を定めた存在がいるのなら。
その存在が、世界の記録を拒むこともできるのではないか。
「……世界の記録は、死者を拒んでいる」
死神は、もう一度呟いた。
「だが、それは、死者が間違っているからではない」
彼は空白を見つめた。
「世界が、死者を受け入れられるように作られていないからだ」
その言葉を聞いた瞬間。
空白の奥から、声がした。
『では、世界を作り直せばいいのですか』
死神は、動けなかった。
声は続いた。
『死者を受け入れるために』
『誰も失わないために』
『誰も忘れないために』
『誰も、死なないために』
その言葉を聞いた瞬間、死神の脳裏に、ひとつの記憶が蘇った。
小さな手。
誰かの泣き声。
そして、自分の声。
――それでも、世界を作り直してはいけない。
――誰かを救うために、誰かの選択を奪ってはいけない。
記憶は、そこで途切れた。
死神は頭を押さえた。
「……今のは、誰の記憶だ?」
観測者が駆け寄る。
「死神!」
「大丈夫だ」
死神は息を整えた。
だが、その目は、明らかに動揺していた。
空白の奥から、最後の文字が浮かび上がる。
『第一接続者は、世界を救おうとした』
その文字が、すぐに消える。
『第一接続者は、世界を壊そうとした』
さらに。
『第一接続者は、世界を救うことを拒んだ』
死神は、文字を見つめた。
そして、最後の一文が現れた。
『第一接続者は、死者を生き返らせることを望んだ』
その瞬間。
デウス・マキナが、警告音を発した。
『記録矛盾を検出』
『起点の記録が、現在の世界と一致しません』
『世界記録の修正を開始します』
死神は叫んだ。
「止めろ!」
だが、装置は止まらない。
空白の中にあった文字が、次々と消えていく。
世界の始まり。
死の定義。
第一接続者の記録。
そして。
死神の記憶。
『修正対象:第一接続者』
『修正対象:死者の帰還』
『修正対象:死神の記憶』
死神は、装置の中枢へ手を伸ばした。
その瞬間、彼の頭の中で、誰かの声が響いた。
『あなたは、私を忘れたのではありません』
『あなたは、私を覚えることができなかったのです』
死神の手が止まった。
その声は、かつて夢の中で聞いた声と同じだった。
「……お前は、誰だ」
返事はなかった。
ただ、空白の奥に、ひとりの子供が立っていた。
顔は見えない。
名前も分からない。
だが、その子供は、死神を見つめていた。
そして、静かに言った。
「あなたは、私を助けようとした」
死神の呼吸が止まった。
「……俺が?」
「はい」
「何から?」
子供は、答えなかった。
代わりに、死神の手を取った。
その手は、温かかった。
死者の手ではない。
記録の中の手でもない。
生きている者の手だった。
子供は言った。
「だから、今度は私が、あなたを助けます」
その瞬間。
死神の記憶が、ひとつだけ戻った。
誰かの名前。
ほんの一瞬。
音として認識するより早く、意味として理解するより早く。
彼は、その名前を思い出しかけた。
しかし。
名前が形になる直前。
世界が、それを消した。
死神は、叫んだ。
「――待て!」
空白が閉じる。
子供の姿が消える。
記録が元に戻る。
デウス・マキナの警告音が止まった。
そして、すべてが静かになった。
死神は、膝をついていた。
観測者が駆け寄る。
「死神! 何があった!?」
死神は、しばらく答えられなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……世界は、第一接続者の記録を修正した」
「第一接続者が何者なのか、分かったのか?」
死神は首を横に振った。
「分からない」
「では、何が起きた?」
死神は、自分の手を見つめた。
そこには、何もない。
だが、彼は確かに覚えていた。
誰かの手を握ったこと。
誰かを助けようとしたこと。
そして。
その誰かが、自分を助けようとしていたこと。
「……俺は、誰かを覚えていた」
死神は呟いた。
「世界が、その記憶を消そうとした」
観測者は、言葉を失った。
死神は立ち上がった。
「観測者。これから調べるべきことが変わった」
「何を調べる?」
死神は、デウス・マキナの中枢を見上げた。
「第一接続者が、なぜ世界を記録したのか」
彼は、一度だけ目を閉じた。
「そして、なぜ世界は、第一接続者の記録を消そうとしているのか」
その問いは、死者の帰還という事件の、さらに奥へと繋がっていた。
死者は、なぜ帰ってきたのか。
世界は、なぜ死者を拒むのか。
第一接続者は、何を願ったのか。
そして、死神は。
誰を覚えていたのか。
まだ、何ひとつ、答えは出ていない。
だが。
世界が消そうとした記憶の中にこそ、世界を変えるための手がかりがある。
死神は、それを理解していた。
終幕 記録されなかった者の願い
白い墓地。
そこには、墓石がひとつもなかった。
墓地という名前だけが残されている。
そこに眠る者はいない。
そこに記録された死者もいない。
それでも、その場所を訪れる者がいた。
名もなき影。
人の形をしているようで、人の形をしていない。
子供のようで、老人のようでもある。
男のようで、女のようでもある。
その姿は、見る者によって変わる。
影は、何もない地面にしゃがみ込んだ。
「……また、消えた」
誰に向けた言葉でもなかった。
影の足元に、小さな文字が浮かんでいた。
『対象者:第一接続者』
『存在判定:不明』
『記録判定:不明』
『願望判定:不明』
影は、文字を見つめた。
「世界は、あなたを覚えていない」
返事はなかった。
「世界は、あなたが何をしたのかも覚えていない」
風が吹いた。
白い地面に、細かな亀裂が走る。
影は、ゆっくりと立ち上がった。
「でも……」
その声は、少しだけ震えていた。
「私は、あなたの願いを聞いた」
地面に、新たな文字が浮かび上がる。
『誰かに、自分を覚えていてほしい』
影は、その文字を見つめた。
「あなたは、誰かに覚えていてほしかった」
影は続けた。
「でも、あなたは、誰かに忘れないことを強制したかったわけじゃない」
その言葉に反応するように、地面の文字が揺れた。
「あなたは、誰かに覚えていてほしかっただけ」
影は、何もない空間へ手を伸ばした。
「……なのに、どうして」
その声は、初めて、明確な感情を帯びた。
「どうして、あなたの願いは、世界を作ることになったの?」
返事はなかった。
影は、しばらくその場に立っていた。
そして、静かに呟いた。
「……違うのか」
その言葉と同時に、地面の文字が消えた。
代わりに、新たな一文が浮かび上がる。
『第一接続者は、世界が生まれることを望んでいない』
影は動きを止めた。
次の瞬間。
『第一接続者は、世界が生まれることを望んだ』
さらに。
『第一接続者は、世界が生まれることを拒んだ』
矛盾した三つの記録。
影は、それらを見つめた。
やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「……まだ、分からない」
その声は、誰かに言い聞かせるようだった。
「あなたが何を望んだのか。何を失ったのか。何を守ろうとしたのか」
影は、白い墓地の奥を見つめた。
そこには、何もない。
だが、その何もない場所から、ひとつの声が聞こえた。
『ねえ』
影が振り返る。
『私がいなくなったら、世界は、正しくなるの?』
影は、目を閉じた。
その声は、第一接続者のものだったのか。
それとも。
世界から消されかけている、別の誰かのものだったのか。
分からない。
ただ、その問いだけは、影の中に残った。
「……いいえ」
影は答えた。
「あなたがいなくなっても、世界が正しくなるとは限らない」
その瞬間。
白い墓地の上空に、巨大な文字が浮かび上がった。
『世界記録の修正を開始』
影は、顔を上げた。
「……また、始まるのね」
文字が増えていく。
『対象:帰還した死者』
『対象:死者を覚えている生者』
『対象:死者の存在を肯定する記録』
影は、静かに息を吐いた。
そして、初めて、その声に怒りを込めた。
「……もう、やめなさい」
世界は、応答しなかった。
『修正を続行』
『矛盾を排除』
『世界の整合性を維持』
影は拳を握った。
「あなたたちは、何も分かっていない」
その声は、白い墓地に響いた。
「記録が正しいかどうかを決めるのは、記録だけじゃない」
影は、世界の文字を睨みつけた。
「誰かが生きていたことは、世界が認めなければ存在しないものなの?」
文字が止まった。
ほんの一瞬だけ。
世界が、問いを認識したかのように。
影は続けた。
「誰かが死んだことは、世界が記録しなければ起きなかったことになるの?」
沈黙。
「誰かが誰かを覚えていることは、世界が許さなければ、間違いになるの?」
返事はなかった。
影は、ゆっくりと手を下ろした。
「……答えなさい」
その瞬間。
世界の文字が、ひとつだけ変化した。
『回答不能』
影は、その言葉を見つめた。
そして。
小さく笑った。
「そう」
その笑みには、安堵も、喜びもなかった。
ただ、長い間、ひとりで抱えていた問いを、ようやく誰かに突きつけられた者の表情があった。
「あなたたちにも、答えられないことがあるのね」
影は、白い墓地の奥へと歩き出した。
その姿が消える直前。
地面に、最後の文字が浮かび上がった。
『死者は、帰還してはならない』
その文字が、ゆっくりと消えていく。
代わりに。
『死者は、帰還することができる』
そして。
『死者は、帰還することを望んだ』
最後の文字が現れた。
『誰が、死者の帰還を願ったのか』
白い墓地には、もう誰もいなかった。
だが、その問いだけは、世界の記録から消えなかった。