僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

109 / 137
第十七話 「生きている者まで、記録から消える」

第一幕 出席番号のない生徒

「……一人、多くないか?」

 

その日の朝、雄英高校一年A組の教室で、上鳴電気は首を傾げた。

 

教室は、いつも通り騒がしかった。

 

机を並べる音。

 

誰かの笑い声。

 

宿題を写させてほしいと頼む声。

 

それぞれの会話が重なり、朝の教室らしい空気を作っている。

 

ただし、帰還した死者をめぐる騒動が続いている今、完全にいつも通りというわけではない。

 

校内の警備は強化され、教職員の間では情報共有が徹底されている。生徒たちも、表面上は平静を装いながら、どこか落ち着かない様子だった。

 

そんな中、上鳴は教室の後ろを見ていた。

 

「なあ、切島」

 

「ん?」

 

「うちのクラスって、席こんなにあったっけ?」

 

切島鋭児郎は、上鳴の指差す先を見た。

 

「……何がだ?」

 

「いや、だから、あそこの席」

 

教室の窓際。

 

最後列から二つ目。

 

そこに、一つの机が置かれていた。

 

机も椅子も、特に変わったところはない。

 

他の机と同じ形で、同じように使われているように見える。

 

ただ、机の表面には、何も書かれていなかった。

 

名前も、傷も、落書きもない。

 

まるで、誰にも使われたことがない机のようだった。

 

「空席だろ?」

 

切島が答えた。

 

「いや、でもさ」

 

上鳴は教室を見渡した。

 

「昨日、あそこに誰か座ってなかった?」

 

切島は眉をひそめた。

 

「誰かって、誰だよ」

 

「……誰だっけ」

 

上鳴は口を閉じた。

 

思い出せない。

 

確かに、誰かがいた気がする。

 

授業中、教科書を落としていた。

 

休み時間に、誰かと話していた。

 

昼食のとき、机を少し動かしていた。

 

そんな光景が、頭の中に浮かぶ。

 

だが、顔が思い出せない。

 

声も、髪の色も、名前も。

 

何ひとつ、はっきりしなかった。

 

「……変だな」

 

上鳴は自分の頭を掻いた。

 

「誰かがいた気がするんだけど、誰だったか分かんねえ」

 

切島は笑いかけた。

 

「お前、寝不足なんじゃねえの?」

 

「いや、そういう感じじゃなくて……」

 

上鳴は、もう一度机を見た。

 

机の横には、鞄を掛けるためのフックがある。

 

そのフックに、ひとつの小さなキーホルダーが掛かっていた。

 

誰かのものだ。

 

そう思った。

 

けれど、誰のものなのか分からない。

 

上鳴が手を伸ばそうとした、その瞬間。

 

「何をしている」

 

低い声が響いた。

 

二人が振り返る。

 

教室の入口に、相澤消太が立っていた。

 

「席に着け。ホームルームを始める」

 

「あ、はい!」

 

生徒たちが慌てて席に戻る。

 

上鳴も自分の机に向かった。

 

だが、着席する直前、彼はもう一度、窓際の机を見た。

 

机の上に、何かがある。

 

小さな紙片だった。

 

白い紙に、黒い文字が書かれている。

 

上鳴は目を凝らした。

 

そこには、こう記されていた。

 

『わたしは、ここにいます』

 

次の瞬間。

 

紙片は、音もなく消えた。

 

上鳴は、立ち尽くした。

 

「……え?」

 

「上鳴」

 

相澤の声が飛ぶ。

 

「座れ」

 

「は、はい!」

 

上鳴は慌てて席に着いた。

 

相澤は出席簿を開いた。

 

「出席を取る」

 

いつも通りの、単純な確認。

 

名前を呼び、返事を聞く。

 

それだけのことだ。

 

「青山優雅」

 

「はい!」

 

「芦戸三奈」

 

「はーい!」

 

「蛙吹梅雨」

 

「はい」

 

一人ずつ、名前が呼ばれていく。

 

そして。

 

「……緑谷出久」

 

「はい!」

 

出久が返事をした。

 

相澤は出席簿に印をつける。

 

そのまま、次の名前を呼ぼうとした。

 

だが、そこで手が止まった。

 

相澤は出席簿を見つめた。

 

眉間に、深い皺が寄る。

 

「……おかしいな」

 

教室が静かになった。

 

「先生?」

 

芦戸が不安そうに尋ねる。

 

相澤は出席簿を閉じた。

 

そして、もう一度開いた。

 

「……出席番号が、ひとつ抜けている」

 

「え?」

 

教室の空気が変わった。

 

「出席番号?」

 

「何番ですか?」

 

「名簿の不具合じゃないんですか?」

 

生徒たちが口々に尋ねる。

 

相澤は答えなかった。

 

彼は、出席簿に記された名前を確認していた。

 

一人ずつ。

 

一つずつ。

 

確かに、人数が合わない。

 

だが、誰が足りないのか分からない。

 

そもそも、今ここにいる生徒たちが全員なのかどうかさえ、確信できなかった。

 

「……全員、座ったままでいろ」

 

相澤は教卓から離れた。

 

教室の後ろへ向かう。

 

窓際の机。

 

最後列から二つ目。

 

彼は、その机の前で足を止めた。

 

机の表面には、何もない。

 

鞄も、教科書も、筆箱もない。

 

誰も座っていない。

 

それなのに。

 

相澤には、そこに誰かがいたという感覚があった。

 

一人の生徒。

 

この教室で、一緒に授業を受けていた誰か。

 

何度も注意したことがある。

 

授業中に質問されたこともある。

 

廊下ですれ違い、挨拶を交わしたこともある。

 

その顔が、思い出せない。

 

名前も、思い出せない。

 

しかし。

 

相澤は、その机を見下ろしながら、確信していた。

 

ここには、誰かがいた。

 

「先生……?」

 

緑谷が立ち上がった。

 

相澤は、すぐには振り返らなかった。

 

机の端に、微かな傷があった。

 

小さな文字。

 

何度も消そうとしたような、薄い筆跡。

 

相澤は顔を近づけた。

 

そこには、名前らしき文字が刻まれていた。

 

だが、文字の一部が欠けている。

 

残っているのは、たった二文字だった。

 

『零』

 

相澤の呼吸が止まった。

 

「……患者番号零」

 

出久が呟いた。

 

その声を聞いた瞬間。

 

教室のすべての時計が、同時に止まった。

 

第二幕 世界は、何を消したのか

「全員、教室から出るな!」

 

相澤の声が響いた。

 

生徒たちが凍りつく。

 

「先生、今のは……」

 

「質問は後だ。全員、自分の名前を紙に書け。フルネームだ」

 

「え?」

 

「今すぐだ!」

 

相澤の声には、普段以上の緊張があった。

 

生徒たちは慌てて筆記用具を取り出す。

 

紙に名前を書く。

 

それだけなら、簡単なことだ。

 

だが、数人の生徒が、途中で手を止めた。

 

「……あれ?」

 

耳郎響香が、自分の名前を書いた紙を見つめていた。

 

「何だよ、耳郎?」

 

上鳴が尋ねる。

 

「いや……今、何か変だった」

 

「何が?」

 

「自分の名前を書こうとしたら、一瞬、思い出せなかった」

 

上鳴の顔が強張る。

 

「……冗談だろ?」

 

「冗談じゃない」

 

耳郎は紙を握りしめた。

 

「名前は分かる。自分の名前だって、ちゃんと分かってる。でも、最初の一文字を書こうとしたとき、何を書けばいいのか分からなくなった」

 

「そんなことが……」

 

緑谷は、自分の紙を見つめた。

 

そこには、確かに自分の名前が書かれている。

 

緑谷出久。

 

三文字。

 

見慣れた名前。

 

けれど、彼は突然、あることに気づいた。

 

「……先生」

 

「何だ、緑谷」

 

「この名前を、誰が決めたんでしょう」

 

相澤の目が細くなる。

 

「何?」

 

「僕の名前です。緑谷出久。母がつけてくれた名前だってことは覚えています。でも……」

 

出久は、自分の書いた文字を見つめた。

 

「もし、世界の記録が僕の名前を消そうとしたら、僕はそれを止められるんでしょうか」

 

「……」

 

「僕が自分の名前を覚えていることと、世界が僕の名前を認めていることは、別なのかもしれない」

 

相澤は答えなかった。

 

今、ここで軽々しく否定することはできない。

 

患者番号零との接触。

 

帰還者の記録改変。

 

ホークスの存在の不安定化。

 

そして、今起きている教室の異常。

 

すべてが繋がっている可能性がある。

 

世界の記録が、誰かの存在を否定している。

 

それも、単に書類上の問題ではない。

 

記憶、名前、過去、そして現在。

 

人間を人間として成立させているものに、直接干渉している。

 

「……緑谷」

 

相澤は、静かに言った。

 

「名前がどこから来たのかを考えるのはいい。だが、今はまず、自分が何を覚えているのかを確認しろ」

 

「はい」

 

「自分の名前。家族の名前。ここにいる仲間の名前。自分が経験したこと。どれが確かで、どれが曖昧なのか、全員が把握するんだ」

 

相澤は教室を見渡した。

 

「そして、分からないことを、分かったふりで埋めるな」

 

その言葉は、彼自身に向けたものでもあった。

 

相澤もまた、誰かがいたという感覚を覚えている。

 

だが、名前が分からない。

 

顔も分からない。

 

記録もない。

 

そんな状態で、何を根拠に存在を主張できるのか。

 

その答えは、まだ見つかっていなかった。

 

そのとき。

 

教室の隅にいた八百万百が、顔を上げた。

 

「……先生」

 

「どうした、八百万」

 

「私の携帯電話に、写真が残っています」

 

「写真?」

 

「はい。昨日、教室で撮影したものです」

 

八百万は携帯電話を操作した。

 

画面には、クラスメイトたちの写真が表示されていた。

 

昼休みの教室。

 

笑っている生徒たち。

 

机に広げられた弁当。

 

窓から差し込む日差し。

 

その中央に。

 

一人の生徒が写っていた。

 

顔は、はっきりしない。

 

光の加減でぼやけたようにも見える。

 

だが、その人物は確かにそこにいた。

 

周囲の生徒たちは、その人物に向かって笑いかけている。

 

誰かが肩を組み、誰かが何かを手渡している。

 

その光景は、自然だった。

 

そこにいることを、誰も疑っていない。

 

「……この人」

 

八百万は、画面を拡大した。

 

「私、知っています」

 

「誰だ?」

 

相澤が尋ねる。

 

八百万は答えようとした。

 

しかし。

 

「……分かりません」

 

彼女の表情が曇った。

 

「知っているはずなんです。話したこともある。何度も。ですが、名前が……」

 

その瞬間、画面が乱れた。

 

写真の中央にいた人物の姿が、少しずつ薄くなっていく。

 

周囲の生徒たちの表情も変わり始めた。

 

誰も笑っていない。

 

誰も何かを手渡していない。

 

誰も、その人物を見ていない。

 

最後には、中央に空席だけが残った。

 

「……そんな」

 

八百万の手が震えた。

 

「写真が……書き換わった?」

 

緑谷は、携帯電話を覗き込んだ。

 

写真の日付は、昨日。

 

撮影時刻も、確かに記録されている。

 

だが、その写真の中にいた人物だけが、存在しなかったことになっていた。

 

「……違う」

 

出久は、画面に手を伸ばした。

 

「この写真は、最初からこうだったんじゃない」

 

「緑谷さん?」

 

「最初は、ここに誰かがいたんだ」

 

彼は写真を指差した。

 

「みんなが、その人と一緒にいた。笑っていた。話していた。だから、写真を撮ったんだ」

 

出久は顔を上げた。

 

「それが、今、消えた」

 

誰も反論できなかった。

 

世界の記録が、改変されている。

 

それは、もはや推測ではない。

 

写真という物証まで、世界の変化に合わせて書き換えられている。

 

そして。

 

書き換えられる前の記録を、誰かが覚えている。

 

それが、今の彼らに残された唯一の手がかりだった。

 

「……先生」

 

出久は、相澤を見た。

 

「この人は、まだ生きているんでしょうか」

 

相澤は、すぐには答えなかった。

 

その問いに答えるための情報がない。

 

だが、答えを避けることもできなかった。

 

「……確認する」

 

相澤は言った。

 

「この学校に、今もいるのかどうか。どこかで生活しているのかどうか。まず、それを調べる」

 

彼は、教室の扉へ向かった。

 

その瞬間。

 

扉の向こうから、声が聞こえた。

 

「先生?」

 

全員が振り返る。

 

扉の向こうに、誰かが立っていた。

 

少女の声だった。

 

「……私、ここにいてもいいですか?」

 

相澤は扉を開けた。

 

そこには、誰もいなかった。

 

廊下は静まり返っている。

 

ただ、床の上に、一枚の紙が落ちていた。

 

相澤はそれを拾い上げた。

 

紙には、ひとつの文が書かれていた。

 

『わたしは、まだ生きています』

 

そして、その下に。

 

名前を書くための空欄があった。

 

第三幕 存在しない生徒の保護者

「そんな生徒は、いません」

 

雄英高校の事務職員は、きっぱりと言った。

 

相澤は、目の前の職員を見つめていた。

 

「もう一度確認してくれ」

 

「確認しました。現在の在籍者名簿にも、過去の在籍記録にも、該当する生徒はいません」

 

「一年A組だ」

 

「はい。一年A組の名簿も確認しています」

 

「昨日まで、教室にいた可能性がある」

 

職員は困惑したように眉を寄せた。

 

「相澤先生。申し訳ありませんが、こちらの記録では、そのような生徒は確認できません」

 

相澤は黙った。

 

記録にない。

 

それは、今の状況では、存在しなかったという証明にはならない。

 

むしろ、存在していた者が記録から消された可能性を示している。

 

「では、教室の机が一つ余っている理由は?」

 

「机の数は、在籍者数に合わせて配置されています」

 

「今、教室には在籍者数より多い机がある」

 

「……確認します」

 

職員は立ち上がり、教室へ向かった。

 

数分後。

 

戻ってきた職員は、不思議そうな顔をしていた。

 

「机の数は、正しいです」

 

「何?」

 

「一年A組の生徒数と、机の数は一致しています」

 

相澤の目が細くなる。

 

「そんなはずはない」

 

「いえ、こちらの記録では……」

 

職員は手元の端末を見せた。

 

画面には、教室の写真が表示されている。

 

机の数は、在籍者数と一致していた。

 

余分な机はない。

 

空席もない。

 

窓際の机など、最初から存在していなかったかのように。

 

相澤は、端末を見つめた。

 

「……そうか」

 

職員が不安そうに尋ねる。

 

「先生、何か問題が?」

 

「いや」

 

相澤は端末を返した。

 

「調査を続ける。何か分かったら、すぐに連絡してくれ」

 

「分かりました」

 

相澤は事務室を出た。

 

廊下を歩きながら、彼は考えていた。

 

記録だけではない。

 

写真も、名簿も、机の数も。

 

世界は、矛盾を見つけるたびに、それを解消している。

 

しかも、単純に情報を消すだけではない。

 

消した後の世界が、最初からそうだったかのように再構成されている。

 

では、どこまで改変されているのか。

 

学校の記録だけか。

 

家族の記憶もか。

 

本人の生活もか。

 

そして、本人自身も。

 

相澤は足を止めた。

 

廊下の壁に、掲示板がある。

 

そこには、生徒たちの活動記録や行事の写真が貼られていた。

 

相澤は、その中の一枚に目を留めた。

 

体育祭の写真だった。

 

生徒たちが並んでいる。

 

笑顔の者もいれば、疲れ切った顔をしている者もいる。

 

その写真の端に、奇妙な空白があった。

 

誰かが立っていたはずの場所。

 

周囲の生徒たちが、わずかにその空白を避けるように並んでいる。

 

その空白だけが、写真の中で不自然に整っていた。

 

相澤は、写真を剥がした。

 

裏側には、何も書かれていない。

 

ただ、紙の裏面に、微かな筆跡が残っていた。

 

『先生は、私を覚えていますか』

 

相澤は、紙を握りしめた。

 

その瞬間、携帯電話が鳴った。

 

画面には、見知らぬ番号が表示されている。

 

相澤は通話を繋いだ。

 

「相澤だ」

 

『……先生』

 

聞き覚えのある声だった。

 

いや。

 

聞き覚えがあると、感じた。

 

誰の声なのか分からない。

 

だが、その声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。

 

「誰だ」

 

『……私です』

 

「名前を言え」

 

沈黙。

 

『分からないんです』

 

声が震えていた。

 

『自分の名前が、分からないんです』

 

相澤は、息を呑んだ。

 

『でも、先生のことは覚えています』

 

「……」

 

『先生は、私に言ったんです。分からないことを、分かったふりで埋めるなって』

 

相澤は、目を閉じた。

 

先ほど、自分が生徒たちに伝えた言葉だった。

 

しかし、今、電話の向こうにいる人物は、もっと前からその言葉を知っているようだった。

 

『だから、私も、分からないことは分からないって言います』

 

声が続く。

 

『私は、ここにいます。でも、誰も私を覚えていない』

 

「……どこにいる?」

 

『分かりません』

 

「周囲に何がある?」

 

『分かりません』

 

「自分の身体に異常は?」

 

『……ありません』

 

その答えに、相澤は少しだけ息を吐いた。

 

少なくとも、今のところは。

 

『先生』

 

「何だ」

 

『私、悪いことをしたんでしょうか』

 

相澤は、言葉を失った。

 

『私がいるから、世界がおかしくなっているんですか?』

 

「……」

 

『私がいなければ、みんなは困らないんですか?』

 

相澤は、ゆっくりと口を開いた。

 

「分からない」

 

電話の向こうで、息を呑む音がした。

 

「お前が何者なのかも、何が起きているのかも、今は分からない」

 

相澤は続けた。

 

「だが、分からないことと、お前が悪いことをしたというのは、別の話だ」

 

『……』

 

「お前が何をしたのか、何を望んでいるのか。それを確認する前に、お前が存在してはいけないと決めるつもりはない」

 

電話の向こうで、微かな嗚咽が聞こえた。

 

『……先生』

 

「今、どこにいるか分からなくてもいい。周囲のことが分からなくてもいい。分かることを、ひとつずつ教えてくれ」

 

『……はい』

 

「まず、今、何が見える?」

 

沈黙があった。

 

長い沈黙だった。

 

やがて、少女の声が答えた。

 

『……白い部屋です』

 

「他には?」

 

『鏡があります』

 

「自分の姿は見えるか?」

 

『……はい』

 

「顔は?」

 

また、沈黙。

 

『……見えません』

 

相澤の指が止まった。

 

「どういう意味だ」

 

『鏡には、私が映っています。でも、顔だけが……』

 

声が震えた。

 

『顔だけが、誰のものなのか分からないんです』

 

相澤は、目を閉じた。

 

世界の記録が、彼女の存在を消している。

 

だが、彼女自身は、まだ自分がここにいることを認識している。

 

名前は分からない。

 

顔も分からない。

 

自分が何者なのかも分からない。

 

それでも、彼女は生きている。

 

「……聞いてくれ」

 

相澤は、静かに言った。

 

「名前が分からなくても、お前は今、俺と話している」

 

『……はい』

 

「顔が分からなくても、声は聞こえている」

 

『……はい』

 

「だから、今はそれでいい。自分が何者なのかを、無理に思い出そうとするな」

 

彼女の呼吸が、少しだけ落ち着いた。

 

「お前が何者なのかを知るために、俺たちが調べる。だが、答えを見つけるまで、お前が生きていてはいけないということにはならない」

 

長い沈黙のあと。

 

彼女は、かすれた声で答えた。

 

『……ありがとうございます』

 

その直後。

 

通話が切れた。

 

相澤は、携帯電話を見つめた。

 

画面には、通話履歴が残っている。

 

だが、発信元の番号は表示されていなかった。

 

通話時間は、七分三十二秒。

 

確かに、通話した記録がある。

 

しかし、相手の情報だけが存在しない。

 

相澤は、静かに呟いた。

 

「……生きている者まで、記録から消えるのか」

 

その問いに、答える者はいなかった。

 

第四幕 母親は、娘の名前を思い出せない

その頃。

 

ある住宅街の一角で、ひとりの女性が、食卓の前に立ち尽くしていた。

 

朝食の準備をしていた。

 

ご飯をよそい、味噌汁を温め、焼いた魚を皿に盛る。

 

二人分。

 

いつものように。

 

女性は、テーブルの上に箸を並べた。

 

二膳。

 

片方は、自分のもの。

 

もう片方は。

 

「……誰の?」

 

彼女は手を止めた。

 

食卓には、二人分の食器が並んでいる。

 

だが、家にいるのは自分ひとりだった。

 

夫は、数年前に亡くなっている。

 

子供はいない。

 

少なくとも、記憶の中では。

 

それなのに。

 

女性は、二膳目の箸を見つめていた。

 

この箸は、誰かのために用意したものだ。

 

毎朝、こうして並べていた。

 

相手が起きてくるのを待ち、朝食を食べさせ、学校へ送り出していた。

 

「……誰だったかしら」

 

彼女は額に手を当てた。

 

頭が痛い。

 

思い出そうとすると、胸の奥が苦しくなる。

 

誰かがいた。

 

この家に。

 

自分のそばに。

 

小さな足音が、廊下を走っていた。

 

「お母さん!」

 

声が聞こえた気がした。

 

女性は振り返った。

 

誰もいない。

 

「……気のせい?」

 

彼女は、もう一度、食卓を見た。

 

椅子が二脚ある。

 

一つは、自分が座るためのもの。

 

もう一つは。

 

座面に、小さな傷がついていた。

 

子供が、何度も足をぶつけたような傷。

 

女性は、その傷を見つめた。

 

すると、突然、涙がこぼれた。

 

「……どうして?」

 

自分でも分からなかった。

 

悲しいことがあったのだろうか。

 

誰かを失ったのだろうか。

 

何かを忘れているのだろうか。

 

分からない。

 

ただ、涙だけが止まらなかった。

 

女性は、携帯電話を手に取った。

 

連絡先を開く。

 

家族。

 

友人。

 

仕事関係。

 

その中に、ひとつだけ、名前のない連絡先があった。

 

登録名は空欄。

 

電話番号も空欄。

 

ただ、写真だけが添付されている。

 

女性は、その写真を開いた。

 

そこには、自分が写っていた。

 

笑顔で、誰かを抱きしめている。

 

抱きしめられているのは、小さな子供だった。

 

顔は、ぼやけている。

 

それでも、女性は、その子供を見た瞬間に理解した。

 

「……ああ」

 

声が漏れた。

 

「あなた……」

 

名前を呼ぼうとした。

 

だが、呼べなかった。

 

名前が、分からない。

 

自分の子供なのか。

 

親戚の子供なのか。

 

近所の子供なのか。

 

何も思い出せない。

 

それでも。

 

その子供を抱きしめている自分の表情だけは、確かだった。

 

この子を愛していた。

 

この子を守りたかった。

 

この子が笑っていることが、何よりも嬉しかった。

 

その感情だけが、消えずに残っていた。

 

「……ごめんね」

 

女性は、携帯電話を胸に抱いた。

 

「ごめんね。お母さん、あなたの名前を……」

 

言葉が途切れた。

 

その瞬間。

 

画面の写真が、書き換わった。

 

女性ひとりの写真になった。

 

抱きしめていた子供は、消えていた。

 

女性の腕は、空を抱いていた。

 

彼女は、息を呑んだ。

 

「……いや」

 

携帯電話を握りしめる。

 

「いや、違う」

 

写真を閉じ、もう一度開く。

 

何も変わらない。

 

そこには、誰もいない。

 

「違う……!」

 

女性は、携帯電話をテーブルに置いた。

 

そして、食卓に並べられた二膳の箸を見た。

 

一膳。

 

二膳。

 

確かに、二膳ある。

 

自分以外の誰かのために、用意した箸。

 

「……あなたは、いるの?」

 

彼女は、誰もいない部屋に問いかけた。

 

「ねえ、いるんでしょう?」

 

返事はなかった。

 

「いるなら、返事をして」

 

沈黙。

 

「お母さん、ここにいるから……」

 

彼女は、椅子に手を置いた。

 

小さな傷のある椅子。

 

そこに誰かが座っていたという感覚が、消えない。

 

「……帰ってきて」

 

女性は泣きながら言った。

 

「お願いだから、帰ってきて」

 

その瞬間。

 

部屋の中に、微かな声が響いた。

 

『……お母さん』

 

女性は顔を上げた。

 

「……!」

 

『お母さん、私……』

 

声は、途切れ途切れだった。

 

『私、ここにいるよ』

 

女性は、食卓を見つめた。

 

二つ目の椅子。

 

その前に置かれた箸。

 

誰も座っていない場所。

 

だが、そこに誰かがいるような気がした。

 

「……あなたは、誰?」

 

女性は尋ねた。

 

声が震えていた。

 

『……分からない』

 

その答えに、女性は泣き崩れた。

 

名前が分からない。

 

顔も分からない。

 

どこにいるのかも分からない。

 

それでも。

 

「……そう」

 

女性は、涙を拭った。

 

「分からなくても、いいのね」

 

彼女は、二つ目の椅子を引いた。

 

そして、そこに朝食を置いた。

 

「あなたが誰なのか、今は分からない」

 

女性は言った。

 

「でも、あなたのために、ここにご飯を用意したことは覚えている」

 

彼女は、椅子の向こう側を見つめた。

 

「だから、食べていきなさい」

 

返事はなかった。

 

だが、女性は、その椅子を片づけなかった。

 

世界が、その子供を記録していなくても。

 

写真から、その子供を消してしまっても。

 

女性は、二人分の朝食を用意した。

 

それは、世界の記録には残らない行為だった。

 

しかし。

 

その家の食卓には、確かに二人分の朝食があった。

 

そして、その日。

 

女性は、誰もいない椅子に向かって、初めてこう言った。

 

「……おはよう」

 

第五幕 記録にない人間を、どうやって探すのか

「……これは、単なる記録の改変ではありません」

 

八百万百は、雄英の臨時対策室で資料を広げていた。

 

彼女の前には、複数の端末と、印刷された写真、手書きのメモが並んでいる。

 

「写真や名簿だけではなく、生活の痕跡まで書き換えられています。食器の数、部屋の家具、連絡先、学校の机。記録だけではなく、周囲の環境そのものが変化している可能性があります」

 

「世界が、辻褄を合わせているってことか」

 

切島が言った。

 

「はい。しかも、その変化は一貫しています」

 

八百万は、資料の一枚を示した。

 

「対象者が存在していたという証拠が見つかると、その証拠が別の内容へ置き換えられます。証拠がなくなるだけではありません。証拠が存在しなかった状態に、周囲の環境が合わせられていくのです」

 

「……まるで、最初からいなかったみたいに」

 

耳郎が呟いた。

 

「ええ」

 

八百万は頷いた。

 

「しかし、奇妙な点があります」

 

「何だ?」

 

相澤が尋ねた。

 

「対象者が存在していた痕跡は、すべてが同時に消えるわけではありません」

 

八百万は、別の資料を開いた。

 

「ある写真では、対象者が消えています。しかし、写真を撮影した端末には、対象者が写っていたという一時的な記録が残っていました。別の事例では、学校の名簿から名前が消えたあとも、教室の机に傷が残っていた」

 

「……つまり、修正には時間差がある?」

 

緑谷が尋ねた。

 

「その可能性があります」

 

八百万は答えた。

 

「世界の記録が、すべてを一度に修正できるわけではないのかもしれません」

 

「あるいは、修正しきれない何かがある」

 

相澤が言った。

 

八百万は頷いた。

 

「はい。記録を消す仕組みがある一方で、その仕組みに従わない痕跡も残っているのです」

 

出久は、資料を見つめた。

 

机の傷。

 

写真の空白。

 

名前のない連絡先。

 

二人分の朝食。

 

それらは、記録が消えても、何かが残っていることを示している。

 

「……先生」

 

出久は言った。

 

「僕たちは、記録から消えた人を探すことができるかもしれません」

 

「どうやって?」

 

「世界が修正しきれなかった痕跡を集めるんです」

 

出久は、資料を一枚ずつ並べた。

 

「写真が書き換えられても、撮影した人の記憶が残るかもしれない。名簿から名前が消えても、机の傷が残るかもしれない。連絡先が消えても、誰かがその番号に電話した記憶が残るかもしれない」

 

「だが、記憶も書き換えられる可能性がある」

 

相澤が指摘した。

 

「はい」

 

出久は頷いた。

 

「だから、一つの証拠だけでは判断しません。複数の証拠を照らし合わせる。記憶、物品、写真、音声、生活の痕跡。どれか一つが消えても、ほかのものに残っている可能性があります」

 

「それでも、全部が消えたら?」

 

切島が尋ねた。

 

出久は、少しだけ黙った。

 

「……分かりません」

 

彼は正直に答えた。

 

「全部が消えてしまったら、僕たちはその人がいたことを証明できなくなるかもしれない」

 

教室に、沈黙が落ちた。

 

「でも」

 

出久は顔を上げた。

 

「証明できないことと、その人が存在しなかったことは、同じじゃない」

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

それは、単純な言葉だった。

 

だが、今の彼らにとっては、すべてを左右する考え方だった。

 

世界が記録を消す。

 

人々の記憶が失われる。

 

物証が改変される。

 

それでも、その人物が存在していたという可能性まで、同時に消えるわけではない。

 

「……ただし」

 

出久は続けた。

 

「存在していたと信じることだけで、その人のことを全部分かったつもりになるのも違うと思います」

 

相澤が出久を見た。

 

「どういう意味だ?」

 

「記録がないからといって、その人をいなかったことにはしない。でも、記録がないからこそ、僕たちは、その人が何を考えていたのかを勝手に決めないようにしなきゃいけない」

 

出久は、窓際の空席を思い出していた。

 

そこにいた人物は、どんな人だったのだろう。

 

何を好きだったのか。

 

何が苦手だったのか。

 

誰と仲が良かったのか。

 

何を望んでいたのか。

 

今の出久には、分からない。

 

だからこそ、知る必要がある。

 

そして、本人が自分について語ることができるのなら、その言葉を聞く必要がある。

 

「僕たちは、消えた人を勝手に作り直すんじゃない」

 

出久は言った。

 

「その人が、もう一度、自分のことを話せるようにするんです」

 

その言葉に、相澤は静かに頷いた。

 

「……よし」

 

彼は資料をまとめた。

 

「緑谷の案を基に、調査班を組む。八百万は証拠の保全と照合を担当。耳郎は音声記録の確認。上鳴は通信系の異常を調べろ。切島は校内の物理的な痕跡を確認しろ」

 

「了解!」

 

生徒たちが返事をする。

 

「ただし、単独行動は禁止だ。異常を見つけたら、必ず報告しろ。自分の記憶に違和感があっても、勝手に結論を出すな」

 

相澤は、一人ずつ顔を見た。

 

「記録がない人間を探すということは、今までの調査とは違う。存在しているかどうかを、最初から記録だけで判断するな」

 

「はい!」

 

出久も、強く頷いた。

 

だが、その瞬間。

 

対策室の端末に、新しい通知が届いた。

 

差出人は不明。

 

件名もない。

 

本文には、一文だけが書かれていた。

 

『探しているのは、誰ですか』

 

その下に、画像が添付されていた。

 

出久は画像を開いた。

 

そこには、一人の少女が写っていた。

 

白い部屋。

 

鏡。

 

顔の部分だけが、ぼやけている。

 

患者番号零だった。

 

そして、画像の下に、もう一文が表示された。

 

『私は、あなたたちが探している人ですか?』

 

出久は、息を呑んだ。

 

第六幕 患者番号零は、誰を探しているのか

通信を繋ぐと、白い部屋が画面に映った。

 

鏡の前に、少女が立っている。

 

顔は見えない。

 

髪の長さも、服装も、輪郭も確認できる。

 

だが、顔だけが、まるでそこに情報が存在しないかのように認識できなかった。

 

「……患者番号零」

 

出久が呼びかけた。

 

少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「緑谷出久」

 

「うん。僕だよ」

 

「……覚えていてくれたんだ」

 

その言葉は、喜びというより、確認に近かった。

 

自分が覚えられているという事実を、確かめなければ信じられない。

 

出久は、静かに頷いた。

 

「君と話したことは覚えているよ」

 

「でも、私はあなたのことを、全部覚えているわけじゃない」

 

「……え?」

 

「あなたと話したことは覚えている。でも、あなたがどんな人なのか、何をしている人なのか、全部は分からない」

 

少女は、自分の手を見つめた。

 

「私の記憶も、少しずつ変わっているのかもしれない」

 

出久は、言葉を失った。

 

「……君も?」

 

「うん」

 

少女は答えた。

 

「私は、自分が誰なのか分からない。でも、最初から何も知らなかったわけじゃないと思う」

 

「どういうこと?」

 

「私には、覚えていたことがあった」

 

少女は、鏡を見つめた。

 

「誰かの声。誰かの手。誰かと約束したこと。誰かに、名前を呼ばれたこと」

 

出久は身を乗り出した。

 

「その人のことを覚えているの?」

 

「……少しだけ」

 

少女は答えた。

 

「でも、思い出そうとすると、世界が変わるの」

 

「世界が?」

 

「うん。私が何かを思い出すたびに、鏡の中の私が変わる。部屋の形が変わる。壁の色が変わる。時々、私がここにいることさえ、分からなくなる」

 

少女は、静かに続けた。

 

「だから、私は、思い出すことが怖い」

 

出久は唇を噛んだ。

 

世界は、彼女の記録を消している。

 

そして、彼女自身の記憶まで、何らかの形で影響を受けている。

 

「……君は、何を思い出そうとしているの?」

 

少女は、しばらく考えた。

 

「分からない」

 

「分からない?」

 

「うん。何を思い出したいのか、分からない。でも、何かを忘れていることだけは分かる」

 

彼女は鏡に手を触れた。

 

「私は、誰かを探しているんだと思う」

 

出久の胸が強く打った。

 

「誰を?」

 

「……分からない」

 

少女は、首を横に振った。

 

「でも、誰かを探している。ずっと前から。世界が始まるよりも前から、探しているような気がする」

 

その言葉に、対策室の空気が凍った。

 

世界が始まるよりも前。

 

死神が見つけた記録。

 

第一接続者。

 

世界の起点。

 

それらが、再び繋がり始める。

 

出久は、慎重に尋ねた。

 

「……君は、第一接続者を知っている?」

 

少女は、動きを止めた。

 

鏡に触れていた指が、わずかに震える。

 

「……第一接続者」

 

その言葉を、彼女は繰り返した。

 

「その名前は……」

 

顔が、さらにぼやけた。

 

画面の端に、ノイズが走る。

 

「……違う」

 

少女は、頭を押さえた。

 

「違う。名前じゃない」

 

「患者番号零!?」

 

「第一接続者は……名前じゃない」

 

少女は、苦しそうに息をした。

 

「それは……」

 

彼女の声が、突然、別の声と重なった。

 

『役割だ』

 

出久は息を呑んだ。

 

少女は、顔を上げた。

 

『第一接続者とは、世界が最初に接続した存在のことだ』

 

その声は、少女のものではなかった。

 

低くも、高くもない。

 

年齢も、性別も、判断できない声。

 

『だが、最初に接続した者が、最初に世界を作った者とは限らない』

 

出久は、動けなかった。

 

『最初に接続した者が、最初に願った者とも限らない』

 

声は続けた。

 

『そして、最初に接続した者が、最初に存在した者とも限らない』

 

画面の中で、少女の姿が揺らいだ。

 

出久は叫んだ。

 

「君は誰だ!?」

 

返事はなかった。

 

代わりに、画面に文字が浮かび上がった。

 

『接続先を確認』

 

『第一接続者の記録にアクセス』

 

『アクセス権限――不明』

 

『対象者の存在判定――不明』

 

『世界記録との矛盾を検出』

 

出久は、画面を見つめた。

 

「……また、世界の記録が」

 

その瞬間。

 

少女が、画面の向こうで手を伸ばした。

 

まるで、出久に助けを求めるように。

 

「緑谷出久」

 

彼女の声が響いた。

 

「お願い」

 

「何!?」

 

「私を、探さないで」

 

出久は、言葉を失った。

 

「……え?」

 

「私を探さないで」

 

少女は、繰り返した。

 

「私を見つけようとしないで。私が誰なのか、調べないで」

 

「どうして!?」

 

「私を見つけたら、あなたも消えるかもしれない」

 

その言葉と同時に、画面に新たな文字が表示された。

 

『記録矛盾の連鎖を確認』

 

『接触者:緑谷出久』

 

『対象者との接続を解除してください』

 

出久は、画面を睨みつけた。

 

「……君が、僕を心配しているのは分かった」

 

彼は言った。

 

「でも、君が誰なのかを知ることと、君を勝手に作り変えることは違う」

 

少女は、首を横に振った。

 

「……違わない」

 

「違うよ」

 

「私が誰なのかを知ろうとしたら、世界があなたを消そうとする」

 

「それでも、君がここにいることは変わらない」

 

「あなたがいなくなったら、どうするの!?」

 

少女の声が、初めて強くなった。

 

「あなたが、私のことを覚えていてくれるから、私はここにいられるのかもしれない! でも、あなたが消えたら、誰が私を覚えているの!?」

 

出久は、息を呑んだ。

 

少女は泣いていた。

 

顔は見えない。

 

だが、声が震えていた。

 

「私は、もう誰も失いたくない」

 

その言葉に、出久は胸を締めつけられた。

 

それは、誰かを守ろうとする願いだった。

 

自分が消えることで、誰かを守ろうとする願い。

 

自分が犠牲になることで、誰かを生かそうとする願い。

 

それは、一見すると優しさに見える。

 

だが、その願いは、誰かの選択を奪ってしまうことがある。

 

出久は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……君は、僕を守りたいんだね」

 

少女は、答えなかった。

 

「でも、僕がどうするかは、僕が決めたい」

 

「……」

 

「君が僕を心配してくれることは、うれしいよ。だけど、僕が君を探すかどうかまで、君が決める必要はない」

 

出久は、画面を見つめた。

 

「君が、僕に探さないでほしいと思っていることも、ちゃんと聞く。でも、君が自分のことを全部分からないまま、ひとりで消えていくことを、僕が何もせずに見ているとは限らない」

 

少女の呼吸が止まった。

 

「……どうして?」

 

「君が、そうしてほしいと思っていないかもしれないから」

 

出久は答えた。

 

「君が本当は何を望んでいるのか、僕にはまだ分からない。だから、勝手に決めたくないんだ」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

そして、静かに言った。

 

「……あなたは、私のことを覚えていてくれる?」

 

出久は、頷いた。

 

「君と話したことは、覚えているよ」

 

「私が誰なのか分からなくても?」

 

「うん」

 

「私が、あなたのことを忘れてしまっても?」

 

「……それは、怖いな」

 

出久は、正直に答えた。

 

「でも、怖いからって、君に忘れないことを強制するつもりはないよ」

 

少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……変な人」

 

「よく言われる」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

その瞬間。

 

画面のノイズが止まった。

 

少女の輪郭が、ほんの少しだけ鮮明になる。

 

顔は、まだ見えない。

 

名前も、分からない。

 

それでも。

 

彼女は、確かにそこにいた。

 

そして、彼女の背後の壁に、新たな文字が浮かび上がった。

 

『記録の修正を一時停止』

 

『理由:接続対象の意志を確認できない』

 

出久は、息を呑んだ。

 

世界の修正が、止まった。

 

ほんの一時的なものかもしれない。

 

だが、これまで世界は、矛盾を検出すると、即座に修正を開始していた。

 

それが、今。

 

初めて、停止した。

 

少女は、文字を見つめた。

 

「……止まった?」

 

「うん」

 

「どうして?」

 

出久は、考えた。

 

彼女を無理に記録へ戻そうとしたわけではない。

 

名前を与えたわけでもない。

 

彼女が誰なのかを断定したわけでもない。

 

ただ、彼女の意志を確認しようとした。

 

それだけだった。

 

「……もしかしたら」

 

出久は言った。

 

「世界が、君の意志を判断できなかったのかもしれない」

 

「私の意志?」

 

「うん。君が何を望んでいるのか、世界にも分からなかったんじゃないかな」

 

少女は、鏡を見た。

 

「……私にも、分からないよ」

 

「それでいいんだと思う」

 

出久は答えた。

 

「分からないことを、今すぐ決めなくてもいい」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

少女の背後に、ひとつの文字が浮かび上がった。

 

『未確定』

 

その文字は、しばらく消えなかった。

 

第七幕 死神が見つけた、名前のない命令

死神は、デウス・マキナの中枢に戻っていた。

 

世界の記録は、依然として不安定だった。

 

帰還した死者の存在判定。

 

生者の記憶との不一致。

 

世界の起点に関する矛盾。

 

それらが、ひとつの巨大な異常として、装置の中に記録されている。

 

「……修正が広がっている」

 

観測者が言った。

 

死神は頷いた。

 

「死者だけではなく、生者にも影響が出始めた」

 

「このままでは、記録から消える者が増える」

 

「いや」

 

死神は、画面を見つめた。

 

「記録から消える者が増えるだけなら、まだいい」

 

観測者が顔を上げた。

 

「どういう意味だ?」

 

「世界が記録を修正するたびに、修正された世界が正しいものとして固定されるなら……」

 

死神は言葉を切った。

 

「記録から消えた者がいたという事実そのものが、失われる可能性がある」

 

観測者は、沈黙した。

 

それは、単に誰かが忘れられるという話ではない。

 

誰かが生きていた。

 

誰かが誰かを愛していた。

 

誰かが誰かを憎んでいた。

 

誰かが何かを選んだ。

 

そうした事実が、最初から起きなかったことになる。

 

残された者は、何を失ったのかさえ分からなくなる。

 

「……死者の帰還を解決する前に、世界そのものが変わってしまう」

 

観測者が呟いた。

 

「そうだ」

 

死神は、装置の記録を操作した。

 

「だから、修正の仕組みを止める必要がある」

 

「デウス・マキナを停止させるのか?」

 

「違う」

 

死神は首を横に振った。

 

「デウス・マキナが修正を行っているのかどうか、まだ分からない。装置は、集合的無意識へ接続するためのものだ。世界の記録そのものを管理しているとは限らない」

 

「では、何をする?」

 

「修正が始まる条件を調べる」

 

死神は、記録を逆向きに辿った。

 

修正が始まった時刻。

 

修正対象となった存在。

 

修正の理由。

 

それらを照合していく。

 

やがて、ひとつの共通点が浮かび上がった。

 

「……これは」

 

観測者が画面を覗き込む。

 

「修正対象が、何かを思い出したときに反応している?」

 

「それだけではない」

 

死神は、別の記録を表示した。

 

「誰かが、記録から消えた者を覚えているときにも反応している」

 

「つまり、記憶が修正の引き金になっているのか?」

 

「可能性はある」

 

死神は、記録をさらに調べた。

 

患者番号零との接触。

 

トガヒミコに関する記録の消失。

 

ホークスの存在判定の不安定化。

 

雄英高校で発生した、名前のない生徒の記録欠落。

 

それぞれの異常が、ある一点で繋がっていた。

 

誰かが、世界の記録と異なる事実を覚えている。

 

誰かが、世界が否定した存在を認識している。

 

そして。

 

その記憶が、世界の修正を引き起こしている。

 

「……世界は、記憶を敵として扱っているのか?」

 

観測者が尋ねた。

 

死神は首を横に振った。

 

「違う」

 

「違う?」

 

「記憶そのものを消そうとしているわけではない」

 

死神は、記録の一部を拡大した。

 

「世界が修正しているのは、記憶と記録の不一致だ。誰かが何かを覚えていても、その記憶が世界の記録と一致していれば、修正は起きていない」

 

「……」

 

「つまり、世界は記憶を否定しているのではない。世界の記録と一致しない記憶を、矛盾として扱っている」

 

観測者は、ゆっくりと頷いた。

 

「では、世界の記録が間違っている場合は?」

 

死神は答えなかった。

 

それこそが、今の問題だった。

 

世界の記録が正しいと、誰が決めたのか。

 

世界の記録が間違っている可能性を、誰が認めるのか。

 

もし、世界の記録が唯一の基準であるなら。

 

その記録に反するものは、すべて誤りになる。

 

たとえ、それが真実であっても。

 

「……観測者」

 

死神は、静かに言った。

 

「世界の記録には、命令がある」

 

「命令?」

 

「修正の優先順位だ」

 

彼は、画面を示した。

 

『優先順位:世界の整合性』

 

『個別の記憶:考慮対象外』

 

『矛盾する存在:修正対象』

 

観測者の表情が強張った。

 

「これは、誰かが設定したものなのか?」

 

「分からない」

 

死神は答えた。

 

「だが、単なる自然現象なら、こんな形で優先順位を示す必要はない」

 

「つまり、世界の記録を修正する仕組みは、何らかの判断基準を持っている」

 

「そうだ」

 

死神は、さらに記録を開いた。

 

そこには、これまで見たことのない項目があった。

 

『修正命令の発行元』

 

その欄には、何も書かれていない。

 

ただ、空白の下に、ひとつの文字列が表示されていた。

 

『起点以前』

 

死神は、息を止めた。

 

「……起点以前」

 

観測者が近づく。

 

「世界の起点より前に、命令が存在していたということか?」

 

「そう読める」

 

「だが、世界が存在する前に、命令を発する者がいるのか?」

 

死神は、答えなかった。

 

第一接続者。

 

世界の起点。

 

記録の始まり。

 

それらのさらに奥に、何かがある。

 

世界の記録が始まる以前に、世界の記録を修正する命令が存在していた。

 

その命令は、誰が発したのか。

 

そして、何を守ろうとしているのか。

 

死神は、画面に手を伸ばした。

 

「……修正命令の詳細を開く」

 

デウス・マキナが反応した。

 

画面が暗転する。

 

しばらくして、文字が浮かび上がった。

 

『命令の発行者:記録なし』

 

『命令の目的:世界の整合性を維持』

 

『命令の対象:世界に存在するすべての記録』

 

『命令の例外:なし』

 

死神の目が細くなった。

 

「……例外が、ない?」

 

観測者が息を呑む。

 

「死者も、生者も、すべてが対象ということか」

 

「そうだ」

 

死神は、最後の項目を見つめた。

 

『命令の終了条件』

 

その欄には、何も書かれていなかった。

 

死神は、しばらく動かなかった。

 

やがて、低い声で言った。

 

「……この命令には、終わりがない」

 

観測者は、言葉を失った。

 

世界の整合性を維持する。

 

その目的自体は、一見すると悪いものではない。

 

世界が矛盾だらけになれば、何が起きるか分からない。

 

記録が一致しなければ、歴史を理解できなくなるかもしれない。

 

だが。

 

終わりのない命令は、いつか目的そのものを見失う。

 

矛盾を修正することが目的になり、矛盾を生み出している原因を調べることさえ、不要な行為として排除してしまう。

 

世界を維持するために、世界そのものを変え続ける。

 

その果てに何が残るのか。

 

死神は、ひとつの可能性に気づいた。

 

「……観測者」

 

「何だ?」

 

「この命令は、世界を守るためのものではないのかもしれない」

 

観測者が振り返った。

 

「では、何のために?」

 

死神は、画面を見つめた。

 

「世界が、矛盾を認識しない状態を維持するためだ」

 

その言葉に、観測者の顔が凍った。

 

世界を守ることと、世界が矛盾を認識しないこと。

 

それは、似ているようで、まったく違う。

 

前者は、世界に存在するものを守るための目的だ。

 

後者は、世界の記録に反するものを、見えなくするための目的だ。

 

死者が帰還したという矛盾を消す。

 

誰かが生きていたという矛盾を消す。

 

誰かが誰かを覚えているという矛盾を消す。

 

そうして、世界は整合性を保つ。

 

だが、その世界に、誰が残るのだろう。

 

「……第一管理者の安寧システムとは、別のものだな」

 

観測者が呟いた。

 

「少なくとも、同一だと判断できる証拠はない」

 

死神は答えた。

 

「第一管理者の仕組みは、誰も失わない世界を維持しようとした。だが、これは、失われた者がいたという記録さえ、矛盾として修正する」

 

彼は、静かに画面を閉じた。

 

「……もっと古い」

 

世界が始まるよりも前。

 

記録が存在するよりも前。

 

死と生が定義されるよりも前。

 

その時代に、世界の整合性を維持する命令が存在していた。

 

その命令は、何を守ろうとしていたのか。

 

そして。

 

その命令が、今も生きている者たちを記録から消し続けているのなら。

 

それを止めるためには、命令の発行者を見つけなければならない。

 

「……起点以前の記録を、もう一度調べる」

 

死神は言った。

 

「第一接続者だけではない。世界が始まる前に、何が存在していたのか」

 

彼は歩き出した。

 

「世界の記録を作った者ではなく、世界の記録を作ることを命じた者を探す」

 

観測者は、その背中を見つめていた。

 

そして、死神が去った後。

 

デウス・マキナの画面に、新たな文字が浮かび上がった。

 

『修正命令への干渉を検出』

 

『干渉者:死神』

 

『対応を開始します』

 

その下に、さらに一文が表示された。

 

『対象者は、過去にも同じ命令に反抗しています』

 

第八幕 忘れられた人間が、最後に覚えていたこと

白い部屋。

 

鏡の前に、少女が立っていた。

 

患者番号零。

 

彼女は、自分の顔を見つめている。

 

正確には、顔があるはずの場所を。

 

鏡には、少女の姿が映っている。

 

だが、顔だけが分からない。

 

そこに目があるのか。

 

鼻があるのか。

 

口があるのか。

 

分かっているはずなのに、認識できない。

 

「……私は、誰?」

 

少女は、鏡に向かって尋ねた。

 

返事はない。

 

「私は、誰なの?」

 

もう一度、尋ねた。

 

鏡の中の少女が、わずかに動いた。

 

少女は、息を呑んだ。

 

鏡の中の自分は、確かに自分と同じ動きをしている。

 

だが、その表情だけが違った。

 

鏡の中の少女は、泣いていた。

 

現実の少女は、泣いていない。

 

「……どうして?」

 

少女が手を伸ばす。

 

鏡の中の少女も、手を伸ばした。

 

指先が、鏡に触れる。

 

その瞬間。

 

記憶が蘇った。

 

小さな部屋。

 

白い壁。

 

床に座り込んだ、自分。

 

そして、目の前に立つ、誰か。

 

顔は見えない。

 

だが、その人物は、自分の名前を呼んでいた。

 

『――』

 

音が、途中で途切れる。

 

少女は頭を押さえた。

 

「……違う」

 

記憶が続く。

 

誰かが、自分の手を握っていた。

 

誰かが、自分に何かを約束していた。

 

『忘れない』

 

その言葉だけが、鮮明に聞こえた。

 

『あなたを、忘れない』

 

少女は、息を呑んだ。

 

「……誰?」

 

鏡の中の少女が、口を開いた。

 

『あなたは、私を忘れたのではありません』

 

少女の身体が硬直した。

 

『あなたは、私を覚えることができなかったのです』

 

その声は、死神が夢の中で聞いた声と同じだった。

 

少女は、鏡に手をついた。

 

「……あなたは、誰?」

 

鏡の中の少女は、答えなかった。

 

ただ、ゆっくりと口を動かした。

 

『私の名前を、返して』

 

その瞬間。

 

少女の頭の中に、無数の文字が流れ込んだ。

 

知らない名前。

 

知らない場所。

 

知らない記録。

 

知らないはずなのに、懐かしい。

 

世界の記録が始まる以前の記憶。

 

死が定義される以前の記憶。

 

生が定義される以前の記憶。

 

そして。

 

自分が、誰かの名前を奪った記憶。

 

少女は、叫んだ。

 

「――違う!」

 

鏡が、ひび割れた。

 

「私は、奪っていない!」

 

ひびが広がる。

 

「私は、そんなことをしていない!」

 

鏡の中の少女は、泣いていた。

 

『……では、なぜ、私の名前を覚えていないのですか』

 

少女は、動けなかった。

 

その問いに、答えられなかった。

 

自分は、誰かの名前を奪ったのか。

 

その人物を、忘れたのか。

 

それとも。

 

その人物を覚えていることができなかったのか。

 

「……分からない」

 

少女は、震える声で答えた。

 

「私は、何も覚えていない」

 

鏡の中の少女は、静かに首を横に振った。

 

『違います』

 

「……」

 

『あなたは、覚えています』

 

少女の呼吸が止まった。

 

『あなたは、私の名前を覚えています』

 

鏡のひびが、さらに広がった。

 

『ただ、その名前を思い出すことができないのです』

 

少女は、膝をついた。

 

「……どうして?」

 

『あなたが、私の名前を世界から奪ったから』

 

少女は、顔を覆った。

 

「……違う」

 

『あなたが、私を記録から消したから』

 

「違う……!」

 

『あなたが、私を忘れたから』

 

少女は、首を横に振り続けた。

 

「違う、違う、違う……!」

 

その瞬間。

 

鏡の中の少女が、静かに言った。

 

『……あなたは、私を守ろうとしたのです』

 

少女の動きが止まった。

 

『私の名前を、世界から隠そうとした』

 

鏡のひびが、止まった。

 

『世界が、私を見つけられないように』

 

少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……守ろうとした?」

 

『はい』

 

鏡の中の少女は、微笑んだ。

 

『あなたは、私を忘れたのではありません』

 

その声が、少しだけ震えた。

 

『あなたは、私を覚えていることができなかったのです』

 

少女は、泣いていた。

 

今度は、鏡の中だけではない。

 

現実の少女も、涙を流していた。

 

「……じゃあ」

 

彼女は、かすれた声で尋ねた。

 

「私は、あなたを守れたの?」

 

鏡の中の少女は、答えなかった。

 

その沈黙が、何よりも残酷だった。

 

守れたのか。

 

守れなかったのか。

 

その答えを知るためには、名前を思い出さなければならない。

 

しかし、名前を思い出そうとすれば、世界が修正を始める。

 

彼女は、記憶を取り戻すことを恐れていた。

 

それでも。

 

「……私は」

 

少女は、鏡に手を伸ばした。

 

「私は、あなたの名前を知りたい」

 

鏡の中の少女は、静かに頷いた。

 

その瞬間。

 

白い部屋の壁に、ひとつの文字が浮かび上がった。

 

『記録の修正を再開』

 

少女は、目を見開いた。

 

世界が、動き始めた。

 

彼女が記憶を取り戻そうとしたから。

 

彼女が、誰かの名前を知ろうとしたから。

 

世界は、その記憶を矛盾として認識した。

 

そして。

 

少女の身体が、少しずつ薄くなり始めた。

 

「……ああ」

 

彼女は、鏡を見つめた。

 

「やっぱり、そうなんだ」

 

世界は、彼女が誰かを覚えていることを許さない。

 

世界は、彼女が誰かの名前を取り戻すことを許さない。

 

それでも。

 

少女は、鏡に手を伸ばした。

 

「……待っていて」

 

彼女は、静かに言った。

 

「今度は、私があなたを探すから」

 

その瞬間。

 

彼女の姿が、完全に消えた。

 

白い部屋には、鏡だけが残った。

 

そして、その鏡の表面に。

 

誰も知らない名前が、ほんの一瞬だけ浮かび上がった。

 

第九幕 記録から消えた者たちの、共通点

「……見つけました」

 

八百万百の声が、対策室に響いた。

 

出久は顔を上げた。

 

「何を?」

 

「記録から消えた人物について、共通する特徴が見つかりました」

 

八百万は、複数の資料を机に並べた。

 

「患者番号零。雄英高校の出席記録から消えた生徒。家族の記憶から消えかけている子供。そして、世界の記録が不安定になっている帰還者たち」

 

彼女は、それぞれの資料を指差した。

 

「一見すると、関係のない事例です。しかし、すべての対象に共通している点があります」

 

「何だ?」

 

相澤が尋ねる。

 

「対象者が、誰かとの関係を通じて存在を確認されていることです」

 

「……関係?」

 

「はい。患者番号零は、緑谷さんとの対話を通じて存在が確認されています。雄英の生徒についても、クラスメイトの記憶や教室の物理的な痕跡が残っています。家族の記憶から消えかけている子供も、母親が用意した二人分の朝食という形で、存在の痕跡が残っていました」

 

八百万は、少しだけ考えてから続けた。

 

「帰還者も同様です。彼らの存在を記録しているのは、公的な書類だけではありません。彼らと出会った人々の記憶、交わした会話、共に過ごした時間が、世界の記録と食い違っています」

 

出久は、資料を見つめた。

 

「……つまり、世界は、人と人との関係まで修正しようとしている?」

 

「その可能性があります」

 

八百万は答えた。

 

「対象者が単独で存在しているだけなら、記録の改変は比較的容易なのかもしれません。しかし、対象者が誰かと関係を持ち、その関係が相手の記憶や行動に影響を与えている場合、修正に時間がかかっているように見えます」

 

相澤は、腕を組んだ。

 

「世界は、人間の関係を完全には修正できていないのか」

 

「あるいは、関係を修正するためには、関係している双方の記録を変更する必要があるのかもしれません」

 

八百万は続けた。

 

「一人の存在を消すためには、その人を覚えている人々の記憶まで修正しなければならない。さらに、その人が残した物品や記録、周囲の環境も変化させなければならない」

 

「……それだけの手間がかかるってことか」

 

切島が言った。

 

「はい」

 

八百万は頷いた。

 

「だからこそ、修正の途中で、わずかな痕跡が残るのかもしれません」

 

出久は、考え込んだ。

 

もし、それが正しいなら。

 

誰かの存在を守るために必要なのは、その人の名前を記録することだけではない。

 

その人が誰かと出会ったこと。

 

誰かと話したこと。

 

誰かに何かを伝えたこと。

 

誰かのために何かをしたこと。

 

そうした関係が、記録とは別の形で残っている可能性がある。

 

「……でも」

 

出久は、資料を見つめた。

 

「関係があるからって、その人の存在が保証されるわけじゃないんですよね」

 

八百万は、頷いた。

 

「はい。世界が、その関係を修正しきれないというだけです。永久に残るとは限りません」

 

「……そうか」

 

出久は、拳を握った。

 

「だったら、時間がない」

 

相澤が顔を上げた。

 

「緑谷?」

 

「世界が記録を修正し続けるなら、今、残っている痕跡もいつか消えるかもしれない。僕たちは、できるだけ早く、消えた人が誰なのかを調べないといけない」

 

彼は、教室の机を思い出した。

 

名前のない机。

 

『わたしは、ここにいます』という紙片。

 

そして、電話の向こうで助けを求めた少女。

 

「……先生」

 

出久は、相澤を見た。

 

「記録から消えた生徒を、もう一度探したいです」

 

相澤は頷いた。

 

「分かった。だが、ひとつ条件がある」

 

「何ですか?」

 

「見つけたとしても、本人の意志を無視して、無理に連れ戻そうとするな」

 

出久は、静かに頷いた。

 

「はい」

 

「世界の記録が間違っている可能性はある。だが、俺たちが正しいと決まったわけでもない。相手が何を望んでいるのか、何を恐れているのか、そこを確認しろ」

 

「分かっています」

 

出久は答えた。

 

「僕たちは、その人を勝手に作り直すんじゃない。本人が、自分のことを話せるようにするんです」

 

相澤は、わずかに目を細めた。

 

「……よし」

 

そのとき。

 

対策室の端末が、再び通知音を鳴らした。

 

今度は、画像ではなかった。

 

音声ファイルが添付されている。

 

再生時間は、わずか三秒。

 

差出人は、やはり不明。

 

出久が再生ボタンを押す。

 

雑音の後に、少女の声が聞こえた。

 

『……先生』

 

一拍。

 

『私の名前を、思い出さないで』

 

そして、音声は終わった。

 

対策室の全員が、沈黙した。

 

相澤は、ゆっくりと目を閉じた。

 

その声を、彼は覚えている。

 

誰の声なのかは分からない。

 

だが、その声を聞いたとき、胸の奥に、確かな痛みが生まれた。

 

それは、かつて誰かに言われた言葉を思い出せないときの痛みだった。

 

誰かとの約束を、忘れてしまったときの痛みだった。

 

そして。

 

その約束を思い出そうとすること自体が、誰かを危険にさらすのだとしたら。

 

相澤は、目を開いた。

 

「……調査を続ける」

 

その声は、いつも通りだった。

 

「ただし、本人が思い出さないでほしいと望んでいる理由を、先に調べる」

 

出久は、頷いた。

 

世界が記録を消している。

 

だが、記録から消えた人物自身も、何かを恐れている。

 

彼女は、見つけてほしいのか。

 

それとも、見つけてほしくないのか。

 

その両方なのか。

 

まだ、分からない。

 

だからこそ、彼らは調べなければならなかった。

 

第十幕 世界は、最初から正しかったのか

死神は、デウス・マキナの最深部へ向かっていた。

 

起点以前。

 

世界の記録が始まる以前。

 

そこに残されていた、名前のない命令。

 

世界の整合性を維持する。

 

矛盾する存在を修正する。

 

個別の記憶を考慮しない。

 

そして、終了条件は存在しない。

 

その命令が、今も世界に影響を与えている。

 

死神は、記録の海を歩いた。

 

やがて、無数の文字が途切れた。

 

そこには、何もない。

 

文字も、映像も、記憶もない。

 

世界の起点と同じ、空白だった。

 

だが、今回は違う。

 

死神は、その空白の奥に、何かがあることを感じていた。

 

「……出てこい」

 

彼は言った。

 

返事はない。

 

「俺が、何をしたのか知っているんだろう」

 

沈黙。

 

「俺が、誰かの名前を奪ったという記録を残したのは、お前か?」

 

その瞬間。

 

空白に、文字が浮かび上がった。

 

『いいえ』

 

死神は、目を細めた。

 

「では、誰だ」

 

『記録なし』

 

「命令の発行者は?」

 

『記録なし』

 

「世界の起点は?」

 

『記録なし』

 

死神は、拳を握った。

 

「……同じ答えしか返さないつもりか」

 

『回答不能』

 

「なぜだ」

 

『記録なし』

 

死神は、しばらく黙っていた。

 

そして、ふと気づいた。

 

これらの応答は、誰かが意図的に答えているようには見えない。

 

質問を受け取り、条件に従って結果を返している。

 

まるで、世界の記録そのものが、ひとつの機械のように。

 

「……お前は、誰かの意志で動いているのか?」

 

『回答不能』

 

「誰かの命令を受けているのか?」

 

『回答不能』

 

「それとも、命令そのものなのか?」

 

その瞬間。

 

空白が揺れた。

 

初めて、反応があった。

 

文字が、ひとつずつ浮かび上がる。

 

『命令の発行者』

 

『命令の実行者』

 

『命令の対象』

 

三つの言葉が並んだ。

 

そして、それぞれの下に、同じ文字が表示された。

 

『記録なし』

 

死神は、息を呑んだ。

 

命令を発した者がいない。

 

命令を実行する者もいない。

 

命令の対象だけが存在する。

 

そんなことが、あり得るのか。

 

命令が存在するなら、誰かが発したはずだ。

 

だが、その発行者が記録されていない。

 

命令が実行されているなら、何かが実行しているはずだ。

 

だが、その実行者も記録されていない。

 

それでも、世界は修正を続けている。

 

「……まさか」

 

死神は、ある可能性を考えた。

 

命令は、誰かが発したものではない。

 

世界が成立する以前から存在していた、何らかの条件。

 

誰かが作った規則ではなく、世界が世界として成立するための前提。

 

だが、その前提が何なのかは分からない。

 

「……お前は、世界の仕組みなのか?」

 

『回答不能』

 

死神は、目を閉じた。

 

答えが出ない。

 

どれだけ問いを重ねても、記録は同じ応答を返す。

 

それでも。

 

死神は、ひとつの違和感を覚えていた。

 

世界の記録は、矛盾を修正する。

 

だが、すべての矛盾を修正できるわけではない。

 

第一接続者に関する記録は、矛盾したまま残っている。

 

死者の帰還も、完全には修正できていない。

 

患者番号零の存在も、完全には消えていない。

 

ホークスの意志も、記録の中に残っている。

 

つまり。

 

世界の記録は、絶対ではない。

 

修正できないものがある。

 

その事実こそが、唯一の希望だった。

 

「……世界は、最初から正しかったわけじゃない」

 

死神は、空白に向かって言った。

 

「世界は、正しいと判断されたものを残しているだけだ」

 

文字が揺れた。

 

『記録矛盾を検出』

 

死神は続けた。

 

「そして、その判断が間違っている可能性を、お前は考慮していない」

 

『修正命令を継続』

 

「……そうか」

 

死神は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「お前は、間違いを認めることができないんだな」

 

その瞬間。

 

空白が、強く揺れた。

 

『記録矛盾を検出』

 

『修正命令を継続』

 

『記録矛盾を検出』

 

『修正命令を継続』

 

同じ文字が、何度も繰り返される。

 

まるで、世界が自分自身の矛盾を認識しながら、それを解消する方法を持っていないかのように。

 

死神は、静かに呟いた。

 

「……お前は、世界を守っているのではない」

 

彼は、空白を見つめた。

 

「世界が間違っている可能性を、認められないだけだ」

 

その言葉と同時に、空白の奥に、ひとつの記録が浮かび上がった。

 

『第一接続者は、世界から、ひとつの名前を奪った』

 

死神の表情が凍った。

 

その記録は、前にも見たことがある。

 

だが、今回は違った。

 

記録の下に、小さな文字が追加されていた。

 

『奪われた名前は、世界の記録の起点である』

 

死神は、息を止めた。

 

世界の起点。

 

第一接続者が奪った名前。

 

それは、単なる誰かの名前ではないのかもしれない。

 

世界の記録を成立させるために必要な、何かの名前。

 

その名前が失われたから、世界の記録は起点を持たないのか。

 

それとも。

 

その名前を世界から奪ったことによって、世界そのものが成立したのか。

 

「……お前は、誰の名前を奪った?」

 

死神は尋ねた。

 

文字が変わった。

 

『記録なし』

 

「第一接続者は、誰の名前を奪った?」

 

『記録なし』

 

「俺は、誰の名前を覚えていた?」

 

『記録なし』

 

死神は、拳を握った。

 

「……なら、記録以外のものから探す」

 

その瞬間。

 

空白の奥から、声がした。

 

『あなたは、また同じことをするのですか』

 

死神は、動きを止めた。

 

その声は、彼が知っている声だった。

 

忘れたくない声。

 

思い出せない声。

 

そして、世界が何度も消そうとしてきた声。

 

「……お前は」

 

死神の喉が震えた。

 

「誰だ」

 

声は、答えなかった。

 

ただ、静かに言った。

 

『今度こそ、私を忘れないでください』

 

死神は、目を閉じた。

 

記憶が蘇る。

 

小さな手。

 

誰かの泣き声。

 

自分の声。

 

そして、誰かの名前を呼ぼうとした瞬間。

 

世界が、その名前を消した。

 

死神は、ゆっくりと目を開いた。

 

「……忘れない」

 

彼は、空白に向かって言った。

 

「名前を思い出せなくても、誰だったのか分からなくても」

 

その声は、静かだった。

 

「お前がいたことまで、なかったことにはしない」

 

その瞬間。

 

世界の記録に、警告が浮かび上がった。

 

『修正対象:死神』

 

『記録矛盾を検出』

 

『存在判定:不安定』

 

死神の身体が、わずかに揺らいだ。

 

世界が、彼の存在を修正しようとしている。

 

死神自身が、世界の記録に反することを選んだから。

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

指先が、薄くなり始めている。

 

「……なるほど」

 

死神は、静かに笑った。

 

「俺も、対象になるのか」

 

世界の記録は、彼を消そうとしていた。

 

だが、死神は、その場から動かなかった。

 

「なら、都合がいい」

 

彼は、空白を見つめた。

 

「俺が消える前に、お前の正体を見つけてやる」

 

そして、世界の記録が修正を開始する直前。

 

死神は、最後の問いを投げかけた。

 

「――世界は、誰を忘れるために始まった?」

 

空白が、完全に閉じた。

 

文字が消えた。

 

声も、記録も、何もかもが失われた。

 

ただ、死神の耳には、最後の一言だけが残っていた。

 

『……あなたが、私を忘れるために』

 

終幕 名前のない少女からの手紙

夜。

 

緑谷出久は、ひとりで机に向かっていた。

 

目の前には、患者番号零に関する資料が並んでいる。

 

写真。

 

音声記録。

 

通信履歴。

 

世界の記録から消えた生徒についての調査資料。

 

どれも、まだ十分な情報とは言えない。

 

それでも、何もないわけではない。

 

彼女と話した記録は残っている。

 

彼女の声は、録音されている。

 

彼女がそこにいたという証拠は、完全には消えていない。

 

出久は、ひとつのノートを開いた。

 

そこには、彼女との会話が記録されていた。

 

名前は分からない。

 

顔も分からない。

 

どこにいるのかも分からない。

 

それでも、彼女が何を話したのか。

 

何を恐れていたのか。

 

何を望んでいたのか。

 

それを、少しずつ書き留めていた。

 

出久は、最後のページに、こう記した。

 

『患者番号零は、誰かに覚えていてほしいと願っている可能性がある。ただし、記憶されることを生きるための条件にしたいわけではない。彼女は、誰かに忘れないことを強制したくないと考えている』

 

ペンを置く。

 

出久は、窓の外を見た。

 

夜の校庭は、静かだった。

 

誰もいない。

 

それでも、今日の教室で起きたことが、頭から離れなかった。

 

出席番号のない生徒。

 

名前のない机。

 

『わたしは、ここにいます』という紙片。

 

そして、相澤に届いた声。

 

『私の名前を、思い出さないで』

 

彼女は、何を恐れているのだろう。

 

自分が見つかることか。

 

自分の名前が戻ることか。

 

それとも。

 

自分が誰かの名前を奪ったという、記憶を取り戻すことか。

 

出久は、ノートを閉じた。

 

その瞬間。

 

机の上に、一枚の紙が現れた。

 

音もなく。

 

最初からそこに置かれていたかのように。

 

出久は、息を止めた。

 

紙には、見覚えのある文字が書かれていた。

 

『緑谷出久へ』

 

その下には、短い文章が続いていた。

 

『あなたは、私のことを探してくれているのですね』

 

『ありがとうございます』

 

『でも、どうか、私の名前だけは探さないでください』

 

出久は、紙を握りしめた。

 

『私の名前を見つけたら、あなたは、私が何をしたのかを知ってしまう』

 

『私が誰を傷つけたのか』

 

『私が誰を忘れたのか』

 

『そして、私が誰を世界から消したのか』

 

出久の指が震えた。

 

紙の文字は、そこで途切れていた。

 

しかし、数秒後。

 

新たな文字が浮かび上がった。

 

『それでも、私は、あなたに見つけてほしい』

 

出久は、息を呑んだ。

 

『私は、自分が誰なのか知りたい』

 

『自分が何をしたのか知りたい』

 

『そして、私が忘れてしまった人に、謝りたい』

 

最後の一文が、ゆっくりと現れた。

 

『だから、どうか、私を探さないでください』

 

出久は、紙を見つめた。

 

見つけてほしい。

 

探さないでほしい。

 

その二つの願いは、矛盾しているように見える。

 

だが、彼女にとっては、どちらも本当なのだろう。

 

自分が何者なのか知りたい。

 

それでも、自分が何をしたのか知ることが怖い。

 

誰かに謝りたい。

 

それでも、その誰かを思い出すことで、世界が再び修正を始めることが怖い。

 

そして。

 

自分を見つけてほしい。

 

それでも、自分を見つけた誰かが、世界から消されることが怖い。

 

出久は、長い間、紙を見つめていた。

 

やがて、ノートを開き、最後のページに新しい文章を書き加えた。

 

『患者番号零は、自分を探してほしいと願う一方で、探されることを恐れている。彼女が何をしたのかは、まだ分からない。彼女が誰を傷つけたのかも、分からない。だからこそ、彼女の罪を勝手に決めつけず、彼女自身の言葉を聞く必要がある』

 

ペンを置く。

 

そして、出久は静かに呟いた。

 

「……君が、何をしたのかは、まだ分からない」

 

彼は、紙を机の上に置いた。

 

「でも、君が自分のことを知りたいと思っていることは、分かったよ」

 

窓の外で、風が吹いた。

 

机の上の紙が、わずかに揺れる。

 

出久は、もう一度、紙を見た。

 

「だから、僕は君を探す」

 

彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「ただし、君を勝手に決めつけるためじゃない。君が自分のことを話せるようにするために」

 

その瞬間。

 

紙の最後に、見覚えのない文字が浮かび上がった。

 

『……ありがとう』

 

出久は、息を止めた。

 

文字は、すぐに消えた。

 

紙は、ただの白紙になった。

 

それでも、出久は、その言葉を見たことを覚えていた。

 

そして、ノートに書き留めた。

 

誰かが、そこにいた。

 

誰かが、何かを願った。

 

誰かが、助けを求めた。

 

世界の記録が、それを認めなくても。

 

出久は、その事実を、なかったことにはしなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。