僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二章 帰還者 第一話 死者の住民票

 

 

 朝、緑谷出久は自分の名前を忘れかけた。

 正確には、自分が自分であるということを、ほんの一瞬だけ疑った。

 目を覚ました瞬間、知らない天井が見えた。

 いや、知らない天井ではない。

 見慣れた自分の部屋の天井だった。

 カーテンの隙間から差し込む朝日。机の上に積み重なった資料。壁に掛けられた、今となっては古いオールマイトのポスター。棚の端に置かれた、雄英高校時代の写真。

 そのすべてが、間違いなく自分の部屋にあるものだった。

 それなのに。

 ――ここは、本当に僕の部屋なのか?

 そんな考えが、頭をよぎった。

 ほんの一秒。

 瞬きをするより短い時間。

 しかし、その疑問は、確かに緑谷出久の中に生まれた。

「…………」

 出久は上半身を起こした。

 心臓が、嫌な速さで脈打っている。

 夢を見たのだろうか。

 何かを忘れたのだろうか。

 それとも、自分が目覚めたと思っているこの場所そのものが、誰かの作った夢なのだろうか。

 馬鹿げている。

 そう思おうとした。

 けれど、第一章の終わりに見た光景が、脳裏に焼き付いて離れない。

 空に走った黒い亀裂。

 そこから覗いた、星空ですらない何か。

 人類を観測対象と呼び、進化段階が未到達であると判定した、理解の及ばない存在。

 そして、自分の目の前で消えていった死者たち。

 あの出来事を経験したあとでは、どんな悪夢も、現実ではないと言い切れなくなっていた。

 出久は自分の手を見つめた。

 五本の指。

 古傷の残る手のひら。

 長年の戦いで染みついた、細かな傷。

 確かに自分の手だ。

 そう確認してから、ゆっくりと息を吐いた。

「……大丈夫」

 誰に言うでもなく、呟く。

「僕は、緑谷出久だ」

 口に出してみる。

 自分の名前を。

 それだけで、少しだけ落ち着いた。

 スマートフォンが震えた。

 画面には、麗日お茶子からのメッセージが表示されている。

『起きてる?』

 続けて、もう一通。

『起きてるなら返事して。起きてないなら、起きて』

 さらに一通。

『あと、勝手に一人で何か考えてない?』

 出久は思わず笑った。

「……なんで分かるんだろう」

 すぐに返信する。

『起きてるよ。大丈夫。何もしてないよ』

 送信した直後、電話が掛かってきた。

 出久は画面を見つめた。

 そして、少しだけ迷ってから通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『何もしてない人は、そんなに返信が遅くない』

「いや、今起きたところで……」

『嘘』

「うっ」

『出久くん』

 電話の向こうから聞こえる声は、いつものお茶子の声だった。

 優しくて、温かくて。

 けれど、今はほんの少しだけ震えていた。

『……昨日のこと、夢じゃないよね』

 出久は答えられなかった。

『私、朝起きてからずっと考えてたんだ』

 お茶子は続けた。

『昨日まで、帰ってきた人たちがいることが奇跡だと思ってた。もう一度話せることも、もう一度抱きしめられることも、すごいことだって』

「うん」

『でも、今朝、ニュースを見たら……またいなくなった人がいるって』

 出久の表情が変わった。

「……何人?」

『正確な人数は、まだ分からないって。でも、昨日まで家にいた人が、朝になったらいなくなっていたケースが複数あるみたい』

「昨日、黒い亀裂が出た人たち……?」

『分からない。そういう人もいるみたいだけど、そうじゃない人もいるって』

 電話の向こうで、衣擦れの音がした。

 お茶子も、もう起きているのだろう。

 あるいは、ほとんど眠れていなかったのかもしれない。

『ねえ、出久くん』

「うん」

『私たち、間に合うのかな』

 その問いに、出久はすぐに答えられなかった。

 間に合う。

 何に。

 誰に。

 死者が消えていくことを止めるのか。

 黒い霧に侵食される人々を救うのか。

 それとも、人類を観測している何かが次の段階へ進む前に、その正体を突き止めるのか。

 答えは、まだない。

 だから出久は、できるだけ誠実に答えた。

「……分からない」

『うん』

「でも、分からないからって、何もしないわけにはいかないと思う」

『うん』

「僕たちにできることを、一つずつやろう」

 少しの沈黙。

 そして、お茶子が笑った。

『うん。そう言うと思った』

「えっ?」

『でも、ひとつ約束』

「な、何?」

『一人で抱え込まないこと』

 出久は口を閉じた。

『昨日、約束したよね』

「……うん」

『だから、何かあったら話して。怖いことでも、分からないことでも。私に言えないことなら、みんなに言って』

 その言葉は、昨日の夜に交わした約束を、もう一度確かめるようだった。

 出久は目を閉じた。

 そして、今度は迷わず答えた。

「分かった。約束する」

『よし』

「……お茶子ちゃん」

『なに?』

「ありがとう」

『うん』

 短い返事。

 けれど、その声は少しだけ明るくなった。

『じゃあ、迎えに行くね』

「えっ、迎えに?」

『一緒に雄英に行くんでしょ?』

「いや、僕、もう準備して――」

『一緒に行くの』

「……はい」

『よろしい』

 通話が切れた。

 出久はスマートフォンを見つめ、それから小さく笑った。

 昨日、世界は神に観測されていると知った。

 今日は、恋人に行動を監視されている。

 規模は違えど、どちらも逃げられそうになかった。

 ただし。

 前者には、まだ対抗手段が見つかっていない。

 後者には、最初から勝てる気がしなかった。

 出久はベッドから立ち上がった。

 窓の外には、いつもと変わらない東京の街が広がっている。

 人々が歩いている。

 車が走っている。

 コンビニの前では、配送業者が荷物を運んでいる。

 世界は、何事もなかったかのように動いていた。

 だが、その平穏の下では。

 昨日まで死んでいた人々の存在をめぐり、世界そのものが揺らぎ始めていた。

     ◇

 午前八時二十分。

 雄英高校、臨時災害対策本部。

 そこには、平穏とは程遠い光景が広がっていた。

「報告!」

「北区で帰還者三名が所在不明! うち一名は昨夜、自宅で家族と食事をしていたことが確認されています!」

「病院から連絡! 帰還者専用病棟の監視カメラに、午前四時十三分から二十七分まで映像の欠落があります!」

「欠落って何だ! 故障か!?」

「分かりません! 機材の異常は確認されていませんが、その時間帯の映像だけが記録されていません!」

「警察庁から追加資料! 帰還者の身元確認に関して、戸籍情報と死亡記録の照合が追いついていません!」

「そっちは人員を増やせ! 身元確認を後回しにするな!」

 巨大なモニターには、全国各地の地図が表示されていた。

 赤い点。

 黄色い点。

 青い点。

 そして、昨日まで存在していなかった黒い点。

 赤は敵対行動を確認した帰還者。

 黄色は記憶や能力に異常がある帰還者。

 青は現時点で協力的な帰還者。

 黒は――。

「……黒の分類、まだ正式に決めていなかったな」

 相澤消太が呟いた。

 隣にいたプレゼント・マイクが、険しい顔でモニターを見つめる。

「仮分類では『所在不明、もしくは観測不能』だろ。けど、これじゃあまりにも雑だ」

「雑でも、今はそれしかない」

 相澤は眼帯を外し、目元を押さえた。

 眠っていない。

 いや、眠る時間がなかった。

 死者が蘇るという現象そのものが異常なのに、その死者たちが消え始めている。

 しかも、単純に元の死へ戻っているわけではない。

 遺体が残らない。

 血液も、髪も、衣服も残らない。

 監視カメラには、何も映らない時間が生じる。

 ただ、帰還者がいたという事実だけが、周囲の人間の記憶に残る。

 まるで、世界からその人物だけが切り取られたように。

「……本当に、人間の仕業なのかね」

 マイクが言った。

 相澤は答えなかった。

 人間の仕業であってほしい。

 人間が起こした事件なら、人間の手で止められる可能性がある。

 だが、昨日の空を見た人間なら、誰だって考えてしまう。

 相手は、人間の理解できる範囲にいるのか。

 そもそも、あれを敵と呼んでいいのか。

 そのとき、会議室の扉が開いた。

「おはようございます!」

 緑谷出久が入ってきた。

 その後ろには麗日お茶子。

 さらに、爆豪勝己、轟焦凍、飯田天哉、切島鋭児郎、八百万百、蛙吹梅雨たちの姿もあった。

 爆豪は入室するなり、モニターを見て舌打ちした。

「……増えてんじゃねえか」

「爆豪くん、声が大きい」

「うるせえ、デク。見りゃ分かんだろ」

「うん、分かるけど……」

「なら黙って見ろ」

「いや、黙って見てるだけじゃ――」

「二人とも」

 飯田の声が響いた。

「緊急会議の場だ。私語は慎みたまえ!」

「お前も私語だろうが!」

「なっ、これは会議の秩序を守るための――」

「はいはい、そこまで」

 相澤が片手を上げた。

「お前らが揃うと、緊急会議のはずなのに騒がしくなるな」

「先生、それは俺たちのせいなんですか!?」

 切島が思わず声を上げる。

「他に誰がいる」

「ひでえ!」

 ほんの一瞬だけ、会議室にいつもの空気が戻った。

 そのことに、相澤は少しだけ救われた気がした。

 人間は、異常な事態に直面しても、いつものように言い合う。

 いつものように腹を立てる。

 いつものように、馬鹿なことを言う。

 それは決して悪いことではない。

 世界が壊れかけているからこそ、壊れていないものを守らなければならない。

「座れ。説明を始める」

 全員が席についた。

 相澤はモニターを切り替えた。

「昨日の現象について、現時点で確認されていることを整理する」

 画面に、三つの項目が表示された。

 一つ目。

 帰還者の消失。

 二つ目。

 帰還者の記憶と人格の不安定化。

 三つ目。

 特定の人物に対する、異常な反応。

「まず、一つ目だ」

 相澤は続けた。

「昨夜から今朝にかけて、帰還者の所在不明事例が複数確認されている。現時点で、完全に消失したと断定できるケースと、単に行方が分からなくなっているケースは分けて調査中だ」

「映像が消えているという話は?」

 八百万が尋ねた。

「ある。だが、すべてではない」

「では、何らかの条件がある可能性が?」

「そう考えるのが自然だ。ただし、条件が分からない」

 相澤は画面を切り替えた。

 そこには、病院の監視カメラ映像が表示されていた。

 ベッドの上に、若い女性が横たわっている。

 顔には、見覚えがあった。

 あの少女だ。

 母親に会いたいと泣きながら、黒い霧に侵食されていた少女。

 画面の時刻表示は、午前四時十二分。

 少女は眠っている。

 呼吸も正常。

 心拍も、監視装置上は安定している。

 そして、次の瞬間。

 映像が乱れた。

 ノイズが走る。

 画面が真っ黒になる。

 音声だけが、わずかに残った。

『……お母さん』

 少女の声だった。

『お母さん、そこにいるの?』

 次の瞬間、映像が復旧した。

 ベッドの上には、誰もいなかった。

 掛け布団が、綺麗に整えられている。

 点滴の管は、ベッドの横に垂れ下がっていた。

 窓は閉じている。

 扉の電子ロックは、解除された記録がない。

 監視カメラの映像が途切れた時間は、十四分。

 その間に、少女は消えた。

 あるいは。

 少女だった何かが、そこからいなくなった。

「……これ、どういうことだよ」

 切島が呟いた。

「分からない」

 相澤は、正直に答えた。

「だが、映像の欠落と消失のタイミングが一致する事例が複数ある。共通点があるのかもしれない」

「ブラックホールみたいに、周囲の空間ごと切り取られたとか?」

 梅雨が言った。

「可能性は否定できない」

「……嫌な可能性ね」

 お茶子が、小さく息を吐いた。

 出久は映像を見つめていた。

 あの少女は、母親に会いたかっただけだった。

 それだけだったのだ。

 生きていたころに、何があったのか。

 どんな人生を送ったのか。

 何歳で死んだのか。

 何を夢見ていたのか。

 出久は知らない。

 けれど、少なくとも、少女が最後に望んでいたことは知っていた。

 母親に会いたかった。

 それだけの願いが、どうしてこんなことにならなければならないのか。

「……先生」

 出久は口を開いた。

「消えた人たちの共通点を、もう少し詳しく調べられませんか?」

「当然、そのつもりだ」

「記憶の欠落や、能力の異常だけじゃなくて……その人たちが、何を望んでいたのかも」

 相澤は出久を見た。

「願い?」

「はい」

 出久は画面の少女を見つめたまま言った。

「昨日、死神は、僕たちが何を選ぶのか見たかったって言いました」

 会議室が静かになった。

「死者を返して、人間が何を望むのか。何を失いたくないのか。何を取り戻したいのか。それを見ていたんだと思います」

「……それと、消失に関係があると?」

「分かりません。でも、もし帰還者がただの復活じゃなくて、何かの条件を満たすために存在しているのなら……」

 出久は、言葉を選んだ。

「その条件が満たされなかったとき、消えてしまう可能性もあるんじゃないかって」

 爆豪が眉を寄せた。

「おい、デク」

「うん」

「てめえ、あの死神の言葉を信じてんのか?」

「信じてるわけじゃないよ」

 出久は首を振った。

「ただ、嘘だと決めつける根拠もない」

「ふざけんな。あいつは人間を観察対象だとか言ってたんだぞ」

「だからこそ、何を考えているのか知る必要があるんだ」

「何を考えてるかだと?」

 爆豪の声が低くなった。

「人間を実験材料みてえに扱ってる奴の頭ん中なんざ、理解する必要はねえ。ぶっ飛ばして終わりだ」

「爆豪くん」

「なんだよ」

「ぶっ飛ばせる相手なら、僕だってそうしたい」

 出久は、爆豪を見た。

「でも、昨日のあれは……僕たちが知っている敵とは違うかもしれない」

 爆豪は黙った。

 昨日の空。

 あの亀裂の向こう側。

 理解できないものを、理解できないまま敵と定義することはできる。

 だが、倒せるかどうかは別の問題だ。

「……チッ」

 爆豪は椅子の背もたれに体を預けた。

「なら、さっさと調べろ。分かんねえまま放置するのが一番ムカつく」

「うん」

「あと、てめえ一人で突っ込むなよ」

「え?」

「二回言わせんな」

 出久は、ほんの少し笑った。

「……分かった」

「本当に分かってんのか、てめえ」

「分かってるよ」

「その顔が信用できねえんだよ!」

「どんな顔!?」

「今すぐ何かやらかしそうな顔だ!」

「そんな顔してないよ!」

「してんだよ!」

「二人とも!」

 飯田の声が再び響く。

 相澤は、深々とため息をついた。

「……本当に、いつも通りだな」

 その言葉には、呆れと、ほんのわずかな安堵が混ざっていた。

     ◇

「次に、二つ目だ」

 相澤が画面を切り替えた。

 今度は、複数の帰還者の情報が並んでいた。

 名前。

 死亡年月日。

 推定年齢。

 帰還時の年齢。

 記憶の状態。

 確認された能力。

 そして、備考欄。

 出久は、そこに記された言葉を読んだ。

 ――記憶の断絶。

 ――自己認識の混乱。

 ――他者への過剰な執着。

 ――生前の能力と一致しない異常現象。

 ――特定人物に対する敵意。

 ――睡眠中の不明瞭な発話。

「……これ、かなり多いんですね」

「帰還者全員がそうというわけではない。ただ、記憶や人格に何らかの異常が見られる事例は、想定していたより多い」

「本人が、自分のことを覚えていないんですか?」

 轟が尋ねた。

「そういう例もある」

「家族のことも?」

「家族だけ覚えている者もいる。逆に、自分の名前は覚えているのに、家族の顔を思い出せない者もいる」

 相澤は資料を一枚、手元に取った。

「生前の記憶がほぼ完全に残っている者もいれば、死ぬ直前の記憶しかない者もいる。記憶の一部が、まったく別の人物のものと混ざっているようなケースも確認されている」

「別の人物の記憶……?」

 八百万が顔をしかめた。

「ええ。本人しか知り得ないはずの記憶と、本人が知るはずのない記憶が、同時に存在している」

「それは……」

 八百万は言葉を失った。

 もし、それが本当なら。

 帰還者の中には、自分が誰なのかを決めることすら難しい人々がいるということだ。

 生前の記憶を持っている。

 家族の名前も知っている。

 昔の思い出も語れる。

 しかし、その中に、別人の記憶が混ざっている。

 その人は、本当に本人なのか。

 それとも、本人の記憶を使って作られた、別の何かなのか。

 誰もが、同じ疑問にたどり着いた。

 そして、誰も口にしたがらなかった。

「……先生」

 お茶子が言った。

「そういう人たちは、どう扱われるんですか?」

「今は、本人の意思を確認しながら、必要な検査と保護を行っている」

「検査って……どんな?」

「身体検査、記憶の確認、能力の測定。必要に応じて心理面の評価も行う」

 相澤は一度言葉を切った。

「ただし、本人が嫌がる検査を無理に行うことは避ける。少なくとも、こちらから積極的に危害を加えることはしない」

「……よかった」

 お茶子は胸を撫で下ろした。

 だが、相澤の表情は晴れなかった。

「問題は、本人の意思を確認できない場合だ」

 画面に、新しい資料が表示された。

 そこには、帰還者の一人が写っていた。

 中年の男性。

 短く刈り込まれた髪。

 穏やかそうな顔立ち。

 写真の下には、簡単な情報が記載されている。

 氏名。

 生前の職業。

 死亡年月日。

 そして、備考。

 生前の記録に存在しない個性を使用。

「この男は、帰還してから三日間、ほとんど言葉を発していない」

 相澤が説明した。

「こちらの質問には反応する。指示も理解しているように見える。だが、自分の名前を尋ねても答えない。家族の写真を見せても反応がない」

「記憶がないんですか?」

「分からない。本人が覚えていないのか、覚えているが答えないのか、それすら判断できていない」

「能力は?」

 轟が尋ねる。

「昨日、突然発現した」

 画面が切り替わった。

 そこには、病院の検査室らしき場所が映っていた。

 男性が立っている。

 正面には、金属製の机。

 担当者が何かを説明し、男性に手を差し出した。

 その瞬間。

 机が、音もなく消えた。

 爆発したわけではない。

 砕けたわけでもない。

 溶けたわけでもない。

 そこに存在していた机が、まるで最初から存在していなかったかのように、消えたのだ。

 検査室の担当者が慌てて周囲を見回す。

 男性は、何も言わない。

 ただ、自分の手を見つめている。

「……消去系か?」

 爆豪が呟いた。

「可能性はある。ただ、消えた机の材質を分析した結果、通常の消失現象とは異なることが分かった」

「どう違うの?」

 出久が尋ねた。

「残留物がない。熱反応もない。周囲の空気の流れにも、不自然な変化がない」

「……つまり?」

「机が消えたという結果だけが存在している」

 その言葉に、出久の背筋が冷たくなった。

 結果だけが存在している。

 過程がない。

 原因がない。

 ただ、そこにあったものがなくなったという事実だけが残る。

 それは、昨日見た黒い亀裂と、どこか似ていた。

 世界の一部が切り取られるような現象。

 あるいは、世界の側が、その存在を否定するような現象。

「……これ、消失した帰還者と関係があるんでしょうか」

「可能性はある。だから調査を続けている」

 相澤は、出久の顔を見た。

「ただし、緑谷。今の段階で、帰還者を一括りにするな」

「……はい」

「危険な者はいる。こちらに敵意を持つ者もいる。だが、異常があることと、敵であることは同じじゃない」

 相澤の言葉は、静かだった。

「それを間違えると、俺たちは救助対象を自分で敵に変えることになる」

 出久は頷いた。

 分かっている。

 分かっているつもりだった。

 けれど、帰還者の中に何がいるのか分からない以上、警戒しなければならない。

 警戒しすぎれば、助けを求める人を傷つける。

 警戒しなければ、誰かが犠牲になる。

 どちらを選んでも、間違いになる可能性がある。

 ヒーローとは、正解が分かっている人間のことではない。

 正解が分からなくても、目の前の人間を見捨てないと決めた人間のことだ。

 少なくとも、出久はそう信じていた。

     ◇

「それで、三つ目だ」

 相澤は画面を切り替えた。

 今度は、緑谷出久の顔写真が表示された。

「……え?」

 出久は思わず声を上げた。

 写真は、昨日の騒動の最中に撮影されたものだった。

 雄英の門前。

 帰還者が集まる人々の中で、出久が何かを見つめている。

 その写真の隣には、別の映像が並んでいた。

 帰還者の一人が、出久の姿を見た瞬間に動きを止めている。

 また別の帰還者は、出久に向かって手を伸ばしていた。

 さらに別の映像では、黒い霧が出久の近くで形を変え、まるで彼を避けるように動いている。

「これは……」

 出久の喉が鳴った。

「昨日の映像を解析した結果だ」

 相澤が言った。

「複数の帰還者が、緑谷に対して通常とは異なる反応を示している」

「でも、僕は……」

「お前が何かをしたと決まったわけじゃない」

 相澤は、先回りするように言った。

「ただ、現象として確認されている。無視するわけにはいかない」

「……はい」

 出久は画面を見つめた。

 黒い霧が、自分を避けた。

 昨日、確かにそう見えた。

 だが、なぜなのか。

 自分に何があるのか。

 個性は、もうない。

 ワン・フォー・オールは、最終決戦の果てに失われた。

 自分は、かつてのように圧倒的な力を持つ人間ではない。

 それなのに。

 どうして、あの存在は自分に反応するのか。

「……緑谷くん」

 八百万が、心配そうに声を掛けた。

「大丈夫ですか?」

「あ、うん。大丈夫」

「本当に?」

「うん。ちょっと考えてただけだから」

 その返事に、爆豪が鼻を鳴らした。

「おい」

「な、何?」

「考えすぎんな」

「え?」

「てめえが何かの原因だって決まったわけじゃねえだろ」

「……うん」

「原因だったら、そのとき考えりゃいい」

 あまりにも爆豪らしい言い方だった。

 しかし、出久はその言葉に救われた。

 まだ、何も分かっていない。

 自分が原因なのか。

 帰還者が何なのか。

 黒い霧が何なのか。

 死神の背後にいる存在が、何を求めているのか。

 何一つ分かっていない。

 ならば、今は調べるしかない。

「……ありがとう、爆豪くん」

「礼を言うな。気色悪い」

「ええっ!?」

「あと、妙なことを考えて一人で突っ込んだらぶっ殺す」

「それ、心配してくれてるんだよね!?」

「違えよ!」

「違わないと思うけど……」

「デク!」

「はい!」

 相澤は、頭を抱えた。

「……話を戻すぞ」

     ◇

 会議が終わったのは、午前九時四十分だった。

 出久たちは、それぞれ担当する調査に向かうことになった。

 飯田と八百万は、帰還者の登録情報と死亡記録の照合。

 轟と爆豪は、能力に異常が確認された帰還者の調査補助。

 切島と梅雨は、避難所と帰還者保護施設の巡回。

 お茶子は、帰還者の家族や、再会した人々の支援に回る。

 そして、出久には別の仕事が与えられた。

「俺と一緒に、帰還者の面会に行く」

 相澤が言った。

「面会?」

「ああ。昨日の映像に映っていた人物の一人だ」

 出久は頷いた。

「分かりました」

「ただし、条件がある」

「条件?」

「何があっても、独断で接触しないこと。相手が異常な行動を取った場合は、俺の指示に従うこと」

「……はい」

「それから」

 相澤は、出久の目を見た。

「お前自身が何か異常を感じた場合も、すぐに報告しろ」

 出久は少しだけ迷った。

 昨夜、目を覚ましたときの違和感。

 自分の部屋が、自分の部屋ではないように感じた、あの一瞬。

 あれを報告するべきだろうか。

 まだ、何も分かっていない。

 疲れていただけかもしれない。

 だが、今朝、お茶子と約束したばかりだ。

 何かあったら話す。

 一人で抱え込まない。

「……実は、今朝」

 出久は、正直に話した。

「目が覚めたとき、一瞬だけ、自分の部屋が知らない場所みたいに感じたんです」

 相澤の表情が変わった。

「どんな感覚だ?」

「うまく言えないんですけど……自分がここにいることが、少しだけ不自然に感じたというか」

「それは、夢のような感覚か?」

「そうかもしれません。でも、目が覚めたあとも、少しだけ残っていて……」

「今は?」

「今は、何ともありません」

 相澤は黙って考えた。

「分かった。後で詳しく聞く」

「はい」

「……よく話したな」

 出久は顔を上げた。

 相澤は、いつもの無愛想な顔をしていた。

 だが、その声には、わずかな温度があった。

「こういうとき、異常を隠すのが一番危険だ。自分では些細なことだと思っても、報告しろ」

「分かりました」

「よし。行くぞ」

 相澤が歩き出した。

 出久は、その後ろに続いた。

 廊下には、いつもより多くの職員が行き交っている。

 緊急対応のために集められた警察関係者。

 医療スタッフ。

 サポート科の技術者。

 各地から派遣されたヒーロー。

 そして、保護された帰還者たち。

 その中には、かつて出久が知っていた顔もあった。

 戦いの中で命を落としたヒーロー。

 救えなかった人々。

 もう二度と会えないと思っていた人たち。

 彼らが、廊下の向こうを歩いている。

 ある者は、家族と手をつないでいた。

 ある者は、職員に付き添われながら、ぼんやりと壁を見つめていた。

 ある者は、窓の外に広がる空を、恐ろしいものでも見るように見つめていた。

 出久は、ふと足を止めた。

 その中に、一人の女性がいた。

 白い病衣を着た、若い女性。

 彼女は、壁に掛けられた時計を見つめていた。

 時計の針は、午前九時四十三分を指している。

 女性は、何度も何度も、その針を確認していた。

 まるで、時間が正しく進んでいることを確かめるように。

「……どうした?」

 相澤が振り返った。

「あ、いえ……」

 出久は女性を見た。

 彼女も、こちらに気づいた。

 目が合った。

 その瞬間。

 女性の顔から、表情が消えた。

 そして、彼女は口を開いた。

「……あ」

 かすれた声。

「……ああ」

 女性は、出久を見つめている。

 その目に、涙が浮かんだ。

「……やっと」

 彼女の唇が震えた。

「やっと、見つけた」

 出久は息を呑んだ。

「……僕を、ですか?」

 女性は頷いた。

 そして、ゆっくりと手を伸ばした。

「お願い……」

 声が、震えている。

「お願いだから……」

 女性の目から、涙が零れ落ちた。

「今度こそ、私を殺して」

 廊下の空気が凍りついた。

 相澤が、即座に女性と出久の間に入った。

「緑谷、下がれ」

 だが、出久は動けなかった。

 女性は、泣いていた。

 恐怖に震えていた。

 助けを求めているように見えた。

 それなのに。

 彼女は、はっきりと言ったのだ。

 自分を殺してくれ、と。

「……どうして」

 出久は、思わず尋ねていた。

「どうして、そんなことを……?」

 女性は答えなかった。

 ただ、出久を見つめていた。

 その瞳の奥に、何かがあった。

 人間の瞳の奥にあるはずのない、深い暗闇。

 黒い霧でもない。

 黒い亀裂でもない。

 もっと静かで、もっと深い何か。

 それが、彼女の瞳の奥から、こちらを見ていた。

 そして。

 女性の口が、もう一度動いた。

「……あなたが」

 声が、二重に響いた。

 一つは、女性の声。

 もう一つは、まるで遠く離れた場所から聞こえてくるような、低く、乾いた声。

「あなたが、あの子を殺したんでしょう?」

 出久の心臓が、跳ねた。

 あの子。

 誰のことだ。

 女性は、涙を流しながら笑った。

 その笑顔は、あまりにも悲しそうだった。

「……違う」

 彼女は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「あなたじゃない。あなたじゃないのに……」

 次の瞬間。

 女性の首筋に、黒い線が走った。

 一本。

 二本。

 三本。

 まるで、皮膚の下に埋め込まれた何かが、内側から彼女を裂こうとしているかのように。

「っ!」

 相澤が動いた。

「医療班! 至急来い!」

 女性の身体が、大きく震えた。

「いや……!」

 彼女は、自分の首を押さえた。

「やめて……! 違う、私は……私は、そんなこと……!」

 黒い線が、頬にまで広がっていく。

 出久は、反射的に一歩踏み出した。

「大丈夫です! 落ち着いてください!」

「来ないで!」

 女性が叫んだ。

「来ないで、緑谷出久!」

 その声が、廊下に響き渡った。

 出久は、足を止めた。

 女性は、自分の口を押さえた。

 まるで、自分が何を口にしたのか、理解できていないようだった。

「……違う」

 彼女は、震える声で呟いた。

「私は、そんな名前……知らない……」

 黒い線が、さらに広がる。

「知らないのに……」

 彼女の目から、涙が溢れた。

「どうして、知ってるの……?」

 次の瞬間。

 女性の背後に、黒い影が立ち上がった。

 人間の形をしている。

 だが、顔はない。

 手足はある。

 しかし、その輪郭は絶えず揺らぎ、煙のように崩れている。

 影は、女性の肩に手を置いた。

 その手が触れた瞬間、女性の身体が硬直した。

『見つけた』

 声がした。

 誰の声でもない。

 男の声にも、女の声にも聞こえる。

 子供の声にも、老人の声にも聞こえる。

 耳で聞いているのに、頭の中に直接響いてくる。

『ようやく、見つけた』

 相澤の目が赤く光った。

 抹消。

 しかし、影は消えなかった。

「……クソッ」

 相澤が歯を食いしばる。

 影は、ゆっくりと出久の方を向いた。

 顔はない。

 目もない。

 それなのに、出久は確信した。

 見られている。

 あの存在は、自分を見ている。

『まだ、覚えていないのか』

 影が言った。

『それとも、忘れたふりをしているのか』

 出久は、息を呑んだ。

「……何を、言ってるんですか」

『お前は、何度目だ?』

 その瞬間。

 頭の中で、何かが弾けた。

 白い光。

 燃え上がる炎。

 崩れ落ちる建物。

 誰かの悲鳴。

 そして。

 自分の声。

 ――助けなきゃ。

 ――まだ、間に合う。

 ――今度こそ。

「っ……!」

 出久は、頭を押さえた。

 知らない記憶だった。

 自分の記憶ではない。

 そう思った。

 けれど、その声は、間違いなく自分の声だった。

『ああ』

 影が、笑ったような気がした。

『その顔だ』

 女性が、悲鳴を上げた。

「やめて……! やめてよ……!」

 影の腕が、女性の身体に沈み込んでいく。

 彼女は必死に抵抗した。

 床に爪を立てる。

 手を伸ばす。

 何かに縋ろうとする。

「いや……! 私は、帰りたい……!」

 女性の声が、響いた。

「お母さんのところに……帰りたいの……!」

 その言葉を聞いた瞬間。

 出久の中で、何かが決壊した。

「やめろッ!」

 出久は駆け出した。

「その人から、離れろ!」

 相澤が叫ぶ。

「緑谷、待て!」

 だが、出久は止まらなかった。

 個性はない。

 かつてのように、圧倒的な力で敵を吹き飛ばすことはできない。

 それでも。

 目の前で、助けを求めている人がいる。

 ならば、手を伸ばす。

 それが、緑谷出久だった。

 出久が女性の手を掴んだ瞬間。

 世界が、反転した。

     ◇

 そこには、空がなかった。

 地面もなかった。

 上下も、左右もなかった。

 ただ、どこまでも続く白い空間が広がっていた。

 出久は、自分が立っているのか、浮いているのかも分からなかった。

 目の前には、女性がいる。

 先ほどの女性だ。

 しかし、黒い線は消えていた。

 彼女は、ぼんやりと周囲を見回している。

「……ここ、どこ?」

 出久は答えられなかった。

 分からない。

 ここがどこなのか。

 どうしてここにいるのか。

 なぜ、先ほどまで廊下にいたはずなのに、こんな場所にいるのか。

 何一つ分からない。

 ただ、一つだけ。

 出久は、自分の身体に異変が起きていることに気づいた。

 手が、透けている。

 指先が、白い光に溶けるように薄くなっている。

「……え?」

 出久は、自分の手を見つめた。

 手のひらが、透けている。

 腕も。

 身体も。

 まるで、自分という存在そのものが、少しずつ消えていくように。

「……そんな」

 そのとき。

 白い空間の向こうから、誰かが歩いてきた。

 小さな人影。

 少年だった。

 緑色の髪。

 大きな瞳。

 痩せた身体。

 どこかで見たことがある顔だった。

 いや。

 見たことがあるどころではない。

 忘れるはずがない。

 それは。

 緑谷出久自身だった。

 ただし、今の自分ではない。

 もっと幼い。

 まだ何も持っていなかったころの、自分。

 個性がないと告げられた日。

 ヒーローになる夢を、諦めろと言われた日。

 それでも、オールマイトの動画を見て、ヒーローへの憧れを捨てられなかった日。

 何度も泣いて。

 何度も悔しがって。

 それでも、夢を捨てられなかった少年。

 その少年が、こちらを見つめていた。

「……やっと来たね」

 幼い出久が言った。

 出久は、声を失った。

「……君は」

「僕?」

 少年は、首を傾げた。

「君だよ」

 その言葉は、あまりにも簡単だった。

 あまりにも、当たり前だった。

 だからこそ、出久は何も言えなかった。

 幼い自分は、笑っていた。

 懐かしい笑顔だった。

 もう二度と戻れないと思っていたころの、自分の笑顔。

「ねえ、出久くん」

 少年が尋ねた。

「君は、どうして生きてるの?」

 出久の呼吸が止まった。

「……え?」

「どうして、君は生きてるの?」

 少年は、もう一度尋ねた。

「みんなを救えなかったのに」

 白い空間が、揺らいだ。

 遠くから、何かが聞こえてくる。

 炎の音。

 瓦礫の崩れる音。

 誰かの悲鳴。

 そして、泣き声。

「みんな、君に助けてほしかったんだよ」

 少年は言った。

「君なら、助けてくれるって思ってた」

「……違う」

「でも、助けられなかった」

「違う!」

「それなのに、君は生きてる」

 少年の笑顔が、消えた。

「ねえ」

 彼は、静かに尋ねた。

「君は、誰を救ったの?」

 出久は、答えられなかった。

 答えなければならないと思った。

 救った人たちの顔が、浮かんだ。

 オールマイト。

 爆豪。

 轟。

 お茶子。

 飯田。

 切島。

 八百万。

 たくさんの仲間たち。

 そして、かつて自分が救えなかった人々。

 救えた人もいる。

 救えなかった人もいる。

 自分の手が届いた命もあれば、届かなかった命もある。

 それでも、出久は歩いてきた。

 誰かを救うために。

 誰かと一緒に、未来を作るために。

 なのに。

 幼い自分は、問い続ける。

「君は、どうして生きてるの?」

 出久の足元が、崩れ始めた。

 白い空間が、黒く染まっていく。

 少年の背後に、巨大な影が現れた。

 空間そのものを覆い尽くすような、途方もない影。

 それは、昨日見た存在に似ていた。

 いや。

 似ているという言葉では足りない。

 あの存在は、ここにもいた。

 人類を観測する何か。

 死者を返した何か。

 世界の進化を見つめている何か。

 その巨大な影が、幼い出久の背後から、ゆっくりと手を伸ばした。

 少年は、出久を見つめていた。

「ねえ、出久くん」

 その顔に、再び笑顔が浮かんだ。

「今度は、誰を犠牲にするの?」

 出久は、叫んだ。

「――違うッ!」

 その瞬間。

 世界が砕けた。

     ◇

「緑谷!」

 誰かの声が聞こえた。

「緑谷、聞こえるか!」

 出久は、目を開けた。

 視界が揺れている。

 目の前には、相澤の顔があった。

 その隣には、医療スタッフ。

 少し離れた場所に、爆豪と轟。

 お茶子もいた。

「……あ」

 出久は、ゆっくりと息を吸った。

「……先生?」

「意識はあるな」

 相澤が、険しい顔で出久を見つめていた。

「何があった?」

 出久は、答えようとした。

 だが、言葉が出てこなかった。

 先ほどの白い空間。

 幼い自分。

 巨大な影。

 あれは何だったのか。

 夢だったのか。

 幻覚だったのか。

 それとも。

 自分の中に、何かが入り込んだのか。

「……僕」

 出久は、自分の手を見た。

 透けていない。

 消えかけてもいない。

 確かに、そこにある。

「……何が、起きたんですか?」

 相澤は答えなかった。

 代わりに、医療スタッフの一人が口を開いた。

「緑谷さん。あなたは、先ほど突然意識を失いました」

「……え?」

「女性の手を掴んだ直後です。およそ十二秒間、呼びかけに反応がありませんでした」

「十二秒……?」

 出久は、呆然とした。

 あの場所では、もっと長い時間が経過していたように感じた。

 いや。

 時間という概念そのものが、存在していなかったのかもしれない。

「女性は?」

 出久は、慌てて周囲を見回した。

「先ほどの女性は、どうなりましたか?」

 医療スタッフの表情が曇った。

 その反応だけで、出久は理解した。

「……まさか」

「女性は、現在、意識不明の状態です」

 医療スタッフが答えた。

「生命反応は確認されています。ただし、神経活動に通常とは異なる変化が見られます」

「異なる変化……?」

「詳しいことは、まだ分かりません」

 出久は、拳を握りしめた。

 間に合わなかった。

 また。

 目の前にいた人を、救えなかった。

「……緑谷」

 爆豪が、低い声で言った。

「おい、デク。顔を上げろ」

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

「てめえが何を見たのか、何が起きたのかは知らねえ」

 爆豪は、出久を睨んだ。

「だが、今ここで勝手に自分のせいだって決めつけんな」

「……でも」

「でもじゃねえ」

 爆豪の声は、いつもより低かった。

「まだ終わってねえだろ」

 出久は、言葉を失った。

「相手が何だろうが、あの女がどうなろうが、まだ何も分かってねえ。だったら、分かるまで調べる。それだけだろうが」

「……うん」

「分かったなら立て。いつまでも床に座ってんじゃねえ」

「……ありがとう」

「だから礼を言うなっつってんだろうが!」

 爆豪が怒鳴った。

 その声に、少しだけ空気が緩んだ。

 お茶子が、出久の隣にしゃがみ込んだ。

「出久くん」

「……お茶子ちゃん」

「怖かった?」

 出久は、すぐには答えられなかった。

 怖かった。

 確かに、怖かった。

 自分の知らない自分に問い詰められたこと。

 巨大な存在に見られていたこと。

 自分の存在が、消えかけたこと。

 そして、何より。

 あの少年が、自分自身だったこと。

「……うん」

 出久は、正直に答えた。

「怖かった」

 お茶子は、そっと出久の手を握った。

「そっか」

 それだけだった。

 無理に励まそうとはしなかった。

 大丈夫だとも言わなかった。

 ただ、手を握っていた。

 その温かさが、今の出久には必要だった。

「……ありがとう」

 今度は、お茶子も怒らなかった。

 ただ、少しだけ笑った。

「うん」

     ◇

 午後零時十五分。

 出久は、医療区画の一室で検査を受けていた。

 身体に異常はない。

 脳波にも、明確な異常は確認されていない。

 個性反応も、確認されていない。

 ただし、医療スタッフは慎重だった。

 今回の現象が、既知の個性によるものなのか。

 あるいは、個性という分類そのものが通用しない現象なのか。

 現時点では、判断できなかったからだ。

「……緑谷くん」

 検査を担当していた医師が、端末を見つめながら言った。

「ひとつ、気になることがあります」

「何でしょうか?」

「先ほどの現象が発生した直後、あなたの脳波に、短時間ですが異常な同期反応が見られました」

「同期反応?」

「はい。通常、脳の各領域は、それぞれ異なる活動をしています。しかし、あなたの場合、複数の領域が同時に、極めて類似した活動パターンを示しました」

「それって……どういうことですか?」

「分かりません」

 医師は、正直に答えた。

「ただ、外部から何らかの刺激を受けた可能性があります」

「外部……」

 出久は、先ほどの白い空間を思い出した。

 幼い自分。

 巨大な影。

 あの問い。

 ――君は、どうして生きてるの?

「……先生」

 出久は、相澤を見た。

「さっきの女性と、僕に、何か共通点があるんでしょうか」

「今は分からない」

 相澤は腕を組んだ。

「ただ、お前が彼女に接触した瞬間、異常が発生した。その事実は無視できない」

「……僕が、原因かもしれないんですね」

「可能性の一つだ」

 相澤は、すぐに付け加えた。

「だが、原因だと決まったわけじゃない」

 出久は頷いた。

 分かっている。

 今は、何も決めつけてはいけない。

 それでも、胸の奥には、嫌な感覚が残っていた。

 あの女性は、自分を知っていた。

 そして、自分に殺してくれと頼んだ。

 彼女は、出久のことを知っている。

 しかし、出久は彼女を知らない。

 それは、何を意味するのか。

 自分が忘れているだけなのか。

 彼女が別の何かに操られていたのか。

 それとも。

 自分がまだ知らない過去が、存在しているのか。

「……先生」

「何だ」

「彼女が目を覚ましたら、僕に知らせてもらえますか」

 相澤は、少しだけ眉を寄せた。

「会うつもりか?」

「はい」

「危険だぞ」

「分かっています」

「分かっていないから言っている」

 相澤の声は厳しかった。

「お前は、何かあるとすぐに自分で確かめようとする。今回もそうだ。彼女が目を覚ましたら、また同じ現象が起きる可能性がある」

「……はい」

「だから、会うなら俺も同席する。医療スタッフもつける。単独での接触は禁止だ」

「分かりました」

 相澤は、出久の顔を見た。

「それでも、会いたいのか?」

 出久は頷いた。

「はい」

 彼女が何者なのか、知りたい。

 自分を知っていた理由を知りたい。

 そして、できることなら。

 彼女を救いたい。

 それは、単なる好奇心ではなかった。

 あの白い空間で、彼女は帰りたいと言っていた。

 母親のところに帰りたいと。

 彼女が何者であろうと。

 どんな異常を抱えていようと。

 その願いまで、偽物だと決めつけることはできない。

 相澤は、長い沈黙のあと、頷いた。

「……分かった」

「ありがとうございます」

「ただし、ひとつ覚えておけ」

「はい」

「お前が救いたいと思う相手が、必ずしもお前を救いたいと思っているとは限らない」

 出久は、目を見開いた。

「相手には、相手の事情がある。お前を憎んでいるかもしれない。お前に死んでほしいと思っているかもしれない。あるいは、お前が救おうとすること自体を、拒絶するかもしれない」

 相澤は、静かに言った。

「それでも救うのか?」

 出久は、答えを探した。

 かつての自分なら、すぐに頷いていたかもしれない。

 助けを求める人がいるなら、手を伸ばす。

 それが、ヒーローだと。

 だが、今は違う。

 救うことは、必ずしも相手の望みと一致するわけではない。

 生きたい人もいれば、死にたいと願う人もいる。

 過去を取り戻したい人もいれば、過去を消したい人もいる。

 そして、死者が蘇ったこの世界では。

 その人が本当に生きていた本人なのかという問題まで、つきまとう。

 出久は、ゆっくりと口を開いた。

「……まずは、話を聞きたいです」

 相澤は、黙っていた。

「彼女が何を望んでいるのか。どうして僕を知っているのか。何が起きているのか」

 出久は、自分の手を見た。

「そのうえで、できることを考えたいです」

 相澤は、わずかに目を細めた。

「……そうか」

 それ以上、何も言わなかった。

 だが、その沈黙は、先ほどよりも少しだけ穏やかだった。

     ◇

 午後一時三十分。

 雄英高校の地下、臨時資料保管室。

 八百万百は、山のように積み上がった書類を前に、額を押さえていた。

「……終わりませんわ」

 隣では、飯田天哉が、端末に向かって猛烈な勢いで文字を打ち込んでいる。

「弱音を吐いている場合ではない! 全国から集められた帰還者の情報は膨大だが、一つずつ照合すれば必ず整理できる!」

「そうですわね……。ですが、こちらの記録と、死亡記録の内容が一致しないのです」

「一致しない?」

「ええ」

 八百万は、一枚の資料を差し出した。

「こちらの人物は、二十年前に事故で亡くなっています。しかし、帰還者の記録では、十年前に別の場所で死亡したことになっているのです」

「……別人ではないのか?」

「顔写真と指紋は一致しています。歯科記録も、DNAも」

「では、記録の誤りか?」

「その可能性もあります。ただし、同様の事例が複数確認されているのです」

 飯田の手が止まった。

「複数……?」

「はい。死亡した年月日が異なる。死亡した場所が異なる。場合によっては、生前の職業まで異なる」

 八百万は、別の資料を開いた。

「こちらの男性は、死亡する直前まで警察官として勤務していた記録があります。ところが、帰還者の本人確認では、彼は一度も警察官になったことがないと主張しているのです」

「……記憶の混乱ではないのか?」

「そう考えることもできます。ですが、彼の指紋やDNAは、記録上の人物と一致しています」

 八百万は、ゆっくりと息を吐いた。

「つまり、私たちは今、ひとつの可能性を考えなければならないのです」

「それは?」

「帰ってきた人々が、必ずしも一つの時間、一つの人生から来たとは限らないという可能性です」

 飯田は、言葉を失った。

 死者が蘇る。

 それだけでも、世界の常識は崩れている。

 だが、もし彼らが、別々の時間から来ているのだとしたら。

 ある人は十年前に死んだ。

 ある人は二十年前に死んだ。

 ある人は、記録に残っている死とは異なる死を迎えている。

 そして、彼らは同じ時代に現れている。

「……時間そのものが、関係しているというのか」

 飯田が呟いた。

「あるいは、私たちが認識している時間とは異なる場所から、彼らが来ているのかもしれません」

 八百万は、資料を閉じた。

「ただし、これは仮説です。今の段階で、断定することはできません」

「当然だ。まずは情報を整理し、共通点を見つける必要がある」

 飯田は、再び端末に向かった。

 そのときだった。

 八百万の端末に、新しい通知が表示された。

 緊急資料。

 送信元は、警察庁の特別調査部門。

 件名には、こう記されていた。

 『身元不明帰還者に関する追加報告』

「……飯田さん」

「どうした?」

「これを見てください」

 八百万は、画面を開いた。

 そこには、一人の男性の写真が表示されていた。

 年齢不詳。

 身長百七十センチ前後。

 黒い髪。

 顔には、目立った特徴がない。

 そして、名前の欄には。

 該当者なし。

 死亡記録もない。

 戸籍もない。

 住民票もない。

 指紋の照合結果も、該当なし。

 DNAデータベースにも、一致する人物はいなかった。

 つまり、その男は。

 どこにも存在していなかった。

「……この人は、どうやって帰還者として確認されたのですか?」

 八百万が資料を読み進める。

 報告書には、こう記されていた。

 午前十時四十二分。

 都内の公園で、通行人が男性を発見。

 男性はベンチに座り、泣いていた。

 通報を受けた警察官が接触。

 男性は、自分の名前を答えられなかった。

 しかし、ある質問に対してだけ、明確に反応した。

 ――あなたは、どこから来たのですか?

 その問いに、男性は答えた。

 「死んだ場所から」

 そして、続けてこう言った。

 「……みんな、まだ死んでない」

 八百万は、息を呑んだ。

「……どういう意味でしょうか」

 飯田は、資料の続きを読んだ。

 男性は、自分が死んだ記憶を持っていない。

 自分の名前も、家族も、職業も覚えていない。

 ただ、一つだけ。

 強烈な記憶が残っていた。

 誰かが、泣いていた。

 誰かが、自分の名前を呼んでいた。

 誰かが、何度も謝っていた。

 そして。

 誰かが、こう言った。

 ――まだ、間に合う。

 報告書の最後には、担当者の追記があった。

 「本人の証言によれば、現在の世界は『二度目』であるとのこと。発言の意味は不明」

 飯田は、ゆっくりと顔を上げた。

「……八百万くん」

「はい」

「これは、緑谷くんに報告するべきだ」

「私も、そう思います」

 八百万は、資料を送信した。

 その瞬間。

 画面が、一度だけ暗くなった。

 ほんの一瞬。

 電子機器の不具合かと思うほど、短い時間だった。

 しかし、画面が復旧したとき。

 報告書の最後に、見覚えのない一文が追加されていた。

 『対象者への接触を推奨する。彼は、観測者を認識している』

 八百万は、目を見開いた。

「……え?」

 飯田が画面を覗き込む。

「どうした?」

「今……こんな文章は、ありませんでした」

「何?」

 八百万は、報告書の送信元を確認した。

 警察庁。

 担当者名。

 送信時刻。

 電子署名。

 すべて正常だった。

 しかし、その一文が追加された時刻は。

 午前零時零分。

 まだ、その男性が発見される前だった。

 八百万は、しばらく画面を見つめていた。

 やがて、静かに呟いた。

「……誰が、書いたのですか?」

 答える者はいなかった。

     ◇

 午後二時五十分。

 出久は、雄英の屋上にいた。

 風が吹いている。

 遠くに東京の街が見える。

 人々が暮らしている。

 学校へ通う子供たち。

 働く大人たち。

 買い物をする人々。

 その中には、昨日まで死んでいた人もいるのだろう。

 家族と再会した人。

 もう一度、友人に会えた人。

 自分の知らない未来を生きるために、戻ってきた人。

 そして、今朝、消えてしまった人たち。

 出久は、手すりに手を置いた。

 風が、頬を撫でる。

「……何度目、か」

 先ほどの声が、頭の中で繰り返される。

 ――お前は、何度目だ?

 あの影は、そう言った。

 何度目。

 何のことだろう。

 人生が、何度目なのか。

 死んだことが、何度目なのか。

 それとも。

 この世界そのものが、何度目なのか。

 出久は目を閉じた。

 幼い自分の顔が、浮かぶ。

 あの少年は、何を知っていたのだろう。

 なぜ、自分に問いかけたのだろう。

 どうして、あんなに悲しそうな顔をしていたのだろう。

 そのとき。

「……出久くん」

 背後から、声がした。

 振り返ると、お茶子が立っていた。

「お茶子ちゃん」

「ここにいたんだ」

「うん。ちょっと考え事を」

「また?」

「……うっ」

 お茶子は、呆れたように笑った。

「ほんと、出久くんは考えるのが好きだね」

「いや、好きというか……」

「分かってる。考えないといけないことが多いんだよね」

 お茶子は、出久の隣に立った。

 そして、同じように街を見つめた。

「……ねえ」

「うん?」

「もし、帰ってきた人が、本当にその人じゃなかったら」

 出久は、黙った。

「もし、記憶も、顔も、声も、全部同じなのに……魂だけが違ったら」

 お茶子の声は、静かだった。

「私たちは、その人をどう扱えばいいんだろう」

 出久は、すぐには答えられなかった。

 もし、帰ってきた人が別人だったら。

 それでも、家族は喜ぶだろう。

 友人は涙を流すだろう。

 恋人は、もう一度抱きしめるだろう。

 その人が、かつて愛した人と同じ顔をしているのなら。

 同じ声で名前を呼ぶのなら。

 同じ思い出を語るのなら。

 それを偽物だと断言できる人間が、どこにいるのだろう。

 そして、もし本当に偽物だったとして。

 その人自身が、自分を本物だと信じているのなら。

 その人が、もう一度生きたいと願っているのなら。

 その願いまで、否定していいのだろうか。

「……分からない」

 出久は、正直に答えた。

「でも、僕は……その人が何を考えているのか、知りたい」

「うん」

「その人が何を覚えていて、何を忘れていて、何を望んでいるのか」

 出久は、街を見つめた。

「それを知らないまま、偽物だって決めつけたくない」

 お茶子は、静かに頷いた。

「……そっか」

「もちろん、危険なことをする人がいたら止めなきゃいけないし、誰かを傷つけるなら、守らなきゃいけない」

「うん」

「でも、帰ってきたというだけで、その人の存在を否定することはしたくない」

 お茶子は、出久の手を握った。

「……出久くんらしいね」

「そうかな」

「うん」

 少しだけ、沈黙が流れた。

 風が吹く。

 遠くから、車の音が聞こえる。

 いつもと変わらない世界。

 その中に、昨日まで存在しなかった問題が、いくつも生まれている。

「……ねえ、出久くん」

「うん?」

「もし、私が帰ってきた人だったら」

 出久は、彼女を見た。

「もし、私が死んでいて、誰かが私と同じ顔で帰ってきたら」

 お茶子は、少しだけ笑った。

「出久くんは、その人を私だって信じる?」

 出久は、息を呑んだ。

 それは、簡単な問いだった。

 そして、簡単には答えられない問いだった。

 お茶子が死んでしまった世界。

 その世界で、彼女と同じ顔をした人が帰ってくる。

 同じ声で笑う。

 同じ仕草をする。

 同じように、自分の名前を呼ぶ。

 それは、どれほど残酷な奇跡だろう。

 出久は、ゆっくりと口を開いた。

「……信じたい」

 お茶子の目が、わずかに揺れた。

「でも、信じたいだけじゃ、駄目だと思う」

 出久は続けた。

「その人が誰なのか、ちゃんと知りたい。お茶子ちゃんがどんな人だったのか、何を大切にしていたのか。何を望んでいたのか」

「……うん」

「それで、もしその人が本当にお茶子ちゃんだったら……」

 出久は、彼女の手を握り返した。

「もう一度、好きになると思う」

 お茶子は、目を見開いた。

「……ずるいなあ」

「えっ?」

「そういうこと、真面目な顔で言うんだもん」

「え、いや、僕はただ……」

「うん。分かってる」

 お茶子は、笑った。

 けれど、その目には、少しだけ涙が浮かんでいた。

「……私も、出久くんが帰ってきたら、絶対に見つけるよ」

「お茶子ちゃん……」

「顔が違っても、声が違っても、記憶がなくても。出久くんが出久くんだって、分かるまで探す」

 彼女は、まっすぐに出久を見つめた。

「でもね」

「うん?」

「もし、出久くんが私を忘れていたら……そのときは、もう一度、好きになってもらうから」

 出久は、しばらく何も言えなかった。

 そして。

「……それは、かなり大変だと思うよ」

「どうして?」

「だって、僕、たぶん最初に会ったときから……」

 言いかけて、止まる。

 お茶子が、首を傾げた。

「から?」

「……いや、その」

「出久くん?」

「……もう、好きだったと思うから」

 お茶子の顔が、真っ赤になった。

「……っ、もう!」

「ご、ごめん!」

「謝らないで!」

「はい!」

 二人は、しばらく顔を見合わせた。

 そして、同時に笑った。

 ほんの短い時間。

 世界の異常も、死者の謎も、黒い霧も、すべて忘れられるような時間だった。

 しかし。

 出久のスマートフォンが震えた。

 画面には、相澤からのメッセージが表示されている。

『至急、対策本部に戻れ』

 続けて、もう一通。

『新しい帰還者が見つかった』

 さらに。

『そいつは、お前の名前を知っている』

 出久の笑顔が消えた。

 お茶子も、画面を覗き込んだ。

「……また?」

「……うん」

 出久は、スマートフォンを握りしめた。

 昨日から、何度も繰り返されている。

 自分を知っている帰還者。

 自分に助けを求める者。

 自分を憎んでいるように見える者。

 そして、自分を殺してほしいと願う者。

 自分はいったい、何に巻き込まれているのだろう。

 いや。

 もしかすると。

 最初から、巻き込まれていたわけではないのかもしれない。

 何かが、自分を探している。

 何かが、自分を知っている。

 何かが、自分に問いかけようとしている。

 そして、その何かは。

 自分が覚えていないことを、知っている。

「……行こう」

 出久は、歩き出した。

 お茶子も、隣に並ぶ。

 二人は、雄英の建物へ戻っていった。

 空は、青かった。

 雲は、白かった。

 世界は、まだ続いている。

 けれど、誰も知らない。

 この世界が、本当に一度目なのか。

 誰も知らない。

 死者たちが、どこから来たのか。

 誰も知らない。

 彼らが、何から逃げてきたのか。

 そして。

 誰も知らない。

 緑谷出久自身が、何を忘れているのか。

     ◇

 午後三時十二分。

 雄英高校、臨時災害対策本部。

 新しく発見された帰還者は、地下の面談室にいた。

 男性。

 年齢不詳。

 身長百七十センチ前後。

 黒い髪。

 特徴のない顔。

 身元を証明するものは何もない。

 戸籍もない。

 死亡記録もない。

 指紋も、DNAも、一致する人物がいない。

 それなのに。

 男は、確かにそこにいた。

 そして、彼は、面談室の机に置かれた紙を見つめていた。

 そこには、名前が書かれている。

 緑谷出久。

 男は、その名前を指でなぞった。

「……やっとだ」

 小さな声だった。

「やっと、ここまで来た」

 面談室の外では、職員たちが緊張した面持ちで待機していた。

 監視カメラは正常に動いている。

 室内の温度も、湿度も、正常。

 男の心拍数も、呼吸も、正常。

 だが、彼の影だけが。

 椅子の下で、ゆっくりと揺れていた。

 男は顔を上げた。

 監視カメラを見つめる。

 そして、笑った。

「……聞こえてるんだろ?」

 誰に向かって話しているのか。

 職員たちには分からなかった。

 男は続けた。

「次は、僕の番だ」

 その瞬間。

 面談室の照明が、一度だけ点滅した。

 監視カメラの映像が、わずかに乱れる。

 そして、男の口が動いた。

 音声記録には、こう残された。

 「――今度は、君が死ぬ番だよ。緑谷出久」

 映像は、その直後に途切れた。

 記録上の欠落時間は、わずか〇・〇三秒。

 しかし、その〇・〇三秒の間に。

 面談室の机の上に置かれていた紙が、一枚だけ消えていた。

 緑谷出久の名前が書かれた紙だった。

 誰も、それを持ち出していない。

 扉も開いていない。

 窓もない。

 ただ、その紙だけが消えた。

 そして、監視カメラの復旧後。

 男は、椅子に座ったまま、静かに呟いていた。

「……まだ、間に合う」

 誰も、その言葉の意味を知らなかった。

 ただ一つ、確かなことがある。

 この男は、死者ではない。

 少なくとも、世界のどこにも。

 彼が生きていたという記録は、存在しなかった。

 それでも、彼は帰ってきた。

 まるで。

 まだ死んでいない人間が、死者として戻ってきたかのように。

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