朝、緑谷出久は自分の名前を忘れかけた。
正確には、自分が自分であるということを、ほんの一瞬だけ疑った。
目を覚ました瞬間、知らない天井が見えた。
いや、知らない天井ではない。
見慣れた自分の部屋の天井だった。
カーテンの隙間から差し込む朝日。机の上に積み重なった資料。壁に掛けられた、今となっては古いオールマイトのポスター。棚の端に置かれた、雄英高校時代の写真。
そのすべてが、間違いなく自分の部屋にあるものだった。
それなのに。
――ここは、本当に僕の部屋なのか?
そんな考えが、頭をよぎった。
ほんの一秒。
瞬きをするより短い時間。
しかし、その疑問は、確かに緑谷出久の中に生まれた。
「…………」
出久は上半身を起こした。
心臓が、嫌な速さで脈打っている。
夢を見たのだろうか。
何かを忘れたのだろうか。
それとも、自分が目覚めたと思っているこの場所そのものが、誰かの作った夢なのだろうか。
馬鹿げている。
そう思おうとした。
けれど、第一章の終わりに見た光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
空に走った黒い亀裂。
そこから覗いた、星空ですらない何か。
人類を観測対象と呼び、進化段階が未到達であると判定した、理解の及ばない存在。
そして、自分の目の前で消えていった死者たち。
あの出来事を経験したあとでは、どんな悪夢も、現実ではないと言い切れなくなっていた。
出久は自分の手を見つめた。
五本の指。
古傷の残る手のひら。
長年の戦いで染みついた、細かな傷。
確かに自分の手だ。
そう確認してから、ゆっくりと息を吐いた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟く。
「僕は、緑谷出久だ」
口に出してみる。
自分の名前を。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
スマートフォンが震えた。
画面には、麗日お茶子からのメッセージが表示されている。
『起きてる?』
続けて、もう一通。
『起きてるなら返事して。起きてないなら、起きて』
さらに一通。
『あと、勝手に一人で何か考えてない?』
出久は思わず笑った。
「……なんで分かるんだろう」
すぐに返信する。
『起きてるよ。大丈夫。何もしてないよ』
送信した直後、電話が掛かってきた。
出久は画面を見つめた。
そして、少しだけ迷ってから通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『何もしてない人は、そんなに返信が遅くない』
「いや、今起きたところで……」
『嘘』
「うっ」
『出久くん』
電話の向こうから聞こえる声は、いつものお茶子の声だった。
優しくて、温かくて。
けれど、今はほんの少しだけ震えていた。
『……昨日のこと、夢じゃないよね』
出久は答えられなかった。
『私、朝起きてからずっと考えてたんだ』
お茶子は続けた。
『昨日まで、帰ってきた人たちがいることが奇跡だと思ってた。もう一度話せることも、もう一度抱きしめられることも、すごいことだって』
「うん」
『でも、今朝、ニュースを見たら……またいなくなった人がいるって』
出久の表情が変わった。
「……何人?」
『正確な人数は、まだ分からないって。でも、昨日まで家にいた人が、朝になったらいなくなっていたケースが複数あるみたい』
「昨日、黒い亀裂が出た人たち……?」
『分からない。そういう人もいるみたいだけど、そうじゃない人もいるって』
電話の向こうで、衣擦れの音がした。
お茶子も、もう起きているのだろう。
あるいは、ほとんど眠れていなかったのかもしれない。
『ねえ、出久くん』
「うん」
『私たち、間に合うのかな』
その問いに、出久はすぐに答えられなかった。
間に合う。
何に。
誰に。
死者が消えていくことを止めるのか。
黒い霧に侵食される人々を救うのか。
それとも、人類を観測している何かが次の段階へ進む前に、その正体を突き止めるのか。
答えは、まだない。
だから出久は、できるだけ誠実に答えた。
「……分からない」
『うん』
「でも、分からないからって、何もしないわけにはいかないと思う」
『うん』
「僕たちにできることを、一つずつやろう」
少しの沈黙。
そして、お茶子が笑った。
『うん。そう言うと思った』
「えっ?」
『でも、ひとつ約束』
「な、何?」
『一人で抱え込まないこと』
出久は口を閉じた。
『昨日、約束したよね』
「……うん」
『だから、何かあったら話して。怖いことでも、分からないことでも。私に言えないことなら、みんなに言って』
その言葉は、昨日の夜に交わした約束を、もう一度確かめるようだった。
出久は目を閉じた。
そして、今度は迷わず答えた。
「分かった。約束する」
『よし』
「……お茶子ちゃん」
『なに?』
「ありがとう」
『うん』
短い返事。
けれど、その声は少しだけ明るくなった。
『じゃあ、迎えに行くね』
「えっ、迎えに?」
『一緒に雄英に行くんでしょ?』
「いや、僕、もう準備して――」
『一緒に行くの』
「……はい」
『よろしい』
通話が切れた。
出久はスマートフォンを見つめ、それから小さく笑った。
昨日、世界は神に観測されていると知った。
今日は、恋人に行動を監視されている。
規模は違えど、どちらも逃げられそうになかった。
ただし。
前者には、まだ対抗手段が見つかっていない。
後者には、最初から勝てる気がしなかった。
出久はベッドから立ち上がった。
窓の外には、いつもと変わらない東京の街が広がっている。
人々が歩いている。
車が走っている。
コンビニの前では、配送業者が荷物を運んでいる。
世界は、何事もなかったかのように動いていた。
だが、その平穏の下では。
昨日まで死んでいた人々の存在をめぐり、世界そのものが揺らぎ始めていた。
◇
午前八時二十分。
雄英高校、臨時災害対策本部。
そこには、平穏とは程遠い光景が広がっていた。
「報告!」
「北区で帰還者三名が所在不明! うち一名は昨夜、自宅で家族と食事をしていたことが確認されています!」
「病院から連絡! 帰還者専用病棟の監視カメラに、午前四時十三分から二十七分まで映像の欠落があります!」
「欠落って何だ! 故障か!?」
「分かりません! 機材の異常は確認されていませんが、その時間帯の映像だけが記録されていません!」
「警察庁から追加資料! 帰還者の身元確認に関して、戸籍情報と死亡記録の照合が追いついていません!」
「そっちは人員を増やせ! 身元確認を後回しにするな!」
巨大なモニターには、全国各地の地図が表示されていた。
赤い点。
黄色い点。
青い点。
そして、昨日まで存在していなかった黒い点。
赤は敵対行動を確認した帰還者。
黄色は記憶や能力に異常がある帰還者。
青は現時点で協力的な帰還者。
黒は――。
「……黒の分類、まだ正式に決めていなかったな」
相澤消太が呟いた。
隣にいたプレゼント・マイクが、険しい顔でモニターを見つめる。
「仮分類では『所在不明、もしくは観測不能』だろ。けど、これじゃあまりにも雑だ」
「雑でも、今はそれしかない」
相澤は眼帯を外し、目元を押さえた。
眠っていない。
いや、眠る時間がなかった。
死者が蘇るという現象そのものが異常なのに、その死者たちが消え始めている。
しかも、単純に元の死へ戻っているわけではない。
遺体が残らない。
血液も、髪も、衣服も残らない。
監視カメラには、何も映らない時間が生じる。
ただ、帰還者がいたという事実だけが、周囲の人間の記憶に残る。
まるで、世界からその人物だけが切り取られたように。
「……本当に、人間の仕業なのかね」
マイクが言った。
相澤は答えなかった。
人間の仕業であってほしい。
人間が起こした事件なら、人間の手で止められる可能性がある。
だが、昨日の空を見た人間なら、誰だって考えてしまう。
相手は、人間の理解できる範囲にいるのか。
そもそも、あれを敵と呼んでいいのか。
そのとき、会議室の扉が開いた。
「おはようございます!」
緑谷出久が入ってきた。
その後ろには麗日お茶子。
さらに、爆豪勝己、轟焦凍、飯田天哉、切島鋭児郎、八百万百、蛙吹梅雨たちの姿もあった。
爆豪は入室するなり、モニターを見て舌打ちした。
「……増えてんじゃねえか」
「爆豪くん、声が大きい」
「うるせえ、デク。見りゃ分かんだろ」
「うん、分かるけど……」
「なら黙って見ろ」
「いや、黙って見てるだけじゃ――」
「二人とも」
飯田の声が響いた。
「緊急会議の場だ。私語は慎みたまえ!」
「お前も私語だろうが!」
「なっ、これは会議の秩序を守るための――」
「はいはい、そこまで」
相澤が片手を上げた。
「お前らが揃うと、緊急会議のはずなのに騒がしくなるな」
「先生、それは俺たちのせいなんですか!?」
切島が思わず声を上げる。
「他に誰がいる」
「ひでえ!」
ほんの一瞬だけ、会議室にいつもの空気が戻った。
そのことに、相澤は少しだけ救われた気がした。
人間は、異常な事態に直面しても、いつものように言い合う。
いつものように腹を立てる。
いつものように、馬鹿なことを言う。
それは決して悪いことではない。
世界が壊れかけているからこそ、壊れていないものを守らなければならない。
「座れ。説明を始める」
全員が席についた。
相澤はモニターを切り替えた。
「昨日の現象について、現時点で確認されていることを整理する」
画面に、三つの項目が表示された。
一つ目。
帰還者の消失。
二つ目。
帰還者の記憶と人格の不安定化。
三つ目。
特定の人物に対する、異常な反応。
「まず、一つ目だ」
相澤は続けた。
「昨夜から今朝にかけて、帰還者の所在不明事例が複数確認されている。現時点で、完全に消失したと断定できるケースと、単に行方が分からなくなっているケースは分けて調査中だ」
「映像が消えているという話は?」
八百万が尋ねた。
「ある。だが、すべてではない」
「では、何らかの条件がある可能性が?」
「そう考えるのが自然だ。ただし、条件が分からない」
相澤は画面を切り替えた。
そこには、病院の監視カメラ映像が表示されていた。
ベッドの上に、若い女性が横たわっている。
顔には、見覚えがあった。
あの少女だ。
母親に会いたいと泣きながら、黒い霧に侵食されていた少女。
画面の時刻表示は、午前四時十二分。
少女は眠っている。
呼吸も正常。
心拍も、監視装置上は安定している。
そして、次の瞬間。
映像が乱れた。
ノイズが走る。
画面が真っ黒になる。
音声だけが、わずかに残った。
『……お母さん』
少女の声だった。
『お母さん、そこにいるの?』
次の瞬間、映像が復旧した。
ベッドの上には、誰もいなかった。
掛け布団が、綺麗に整えられている。
点滴の管は、ベッドの横に垂れ下がっていた。
窓は閉じている。
扉の電子ロックは、解除された記録がない。
監視カメラの映像が途切れた時間は、十四分。
その間に、少女は消えた。
あるいは。
少女だった何かが、そこからいなくなった。
「……これ、どういうことだよ」
切島が呟いた。
「分からない」
相澤は、正直に答えた。
「だが、映像の欠落と消失のタイミングが一致する事例が複数ある。共通点があるのかもしれない」
「ブラックホールみたいに、周囲の空間ごと切り取られたとか?」
梅雨が言った。
「可能性は否定できない」
「……嫌な可能性ね」
お茶子が、小さく息を吐いた。
出久は映像を見つめていた。
あの少女は、母親に会いたかっただけだった。
それだけだったのだ。
生きていたころに、何があったのか。
どんな人生を送ったのか。
何歳で死んだのか。
何を夢見ていたのか。
出久は知らない。
けれど、少なくとも、少女が最後に望んでいたことは知っていた。
母親に会いたかった。
それだけの願いが、どうしてこんなことにならなければならないのか。
「……先生」
出久は口を開いた。
「消えた人たちの共通点を、もう少し詳しく調べられませんか?」
「当然、そのつもりだ」
「記憶の欠落や、能力の異常だけじゃなくて……その人たちが、何を望んでいたのかも」
相澤は出久を見た。
「願い?」
「はい」
出久は画面の少女を見つめたまま言った。
「昨日、死神は、僕たちが何を選ぶのか見たかったって言いました」
会議室が静かになった。
「死者を返して、人間が何を望むのか。何を失いたくないのか。何を取り戻したいのか。それを見ていたんだと思います」
「……それと、消失に関係があると?」
「分かりません。でも、もし帰還者がただの復活じゃなくて、何かの条件を満たすために存在しているのなら……」
出久は、言葉を選んだ。
「その条件が満たされなかったとき、消えてしまう可能性もあるんじゃないかって」
爆豪が眉を寄せた。
「おい、デク」
「うん」
「てめえ、あの死神の言葉を信じてんのか?」
「信じてるわけじゃないよ」
出久は首を振った。
「ただ、嘘だと決めつける根拠もない」
「ふざけんな。あいつは人間を観察対象だとか言ってたんだぞ」
「だからこそ、何を考えているのか知る必要があるんだ」
「何を考えてるかだと?」
爆豪の声が低くなった。
「人間を実験材料みてえに扱ってる奴の頭ん中なんざ、理解する必要はねえ。ぶっ飛ばして終わりだ」
「爆豪くん」
「なんだよ」
「ぶっ飛ばせる相手なら、僕だってそうしたい」
出久は、爆豪を見た。
「でも、昨日のあれは……僕たちが知っている敵とは違うかもしれない」
爆豪は黙った。
昨日の空。
あの亀裂の向こう側。
理解できないものを、理解できないまま敵と定義することはできる。
だが、倒せるかどうかは別の問題だ。
「……チッ」
爆豪は椅子の背もたれに体を預けた。
「なら、さっさと調べろ。分かんねえまま放置するのが一番ムカつく」
「うん」
「あと、てめえ一人で突っ込むなよ」
「え?」
「二回言わせんな」
出久は、ほんの少し笑った。
「……分かった」
「本当に分かってんのか、てめえ」
「分かってるよ」
「その顔が信用できねえんだよ!」
「どんな顔!?」
「今すぐ何かやらかしそうな顔だ!」
「そんな顔してないよ!」
「してんだよ!」
「二人とも!」
飯田の声が再び響く。
相澤は、深々とため息をついた。
「……本当に、いつも通りだな」
その言葉には、呆れと、ほんのわずかな安堵が混ざっていた。
◇
「次に、二つ目だ」
相澤が画面を切り替えた。
今度は、複数の帰還者の情報が並んでいた。
名前。
死亡年月日。
推定年齢。
帰還時の年齢。
記憶の状態。
確認された能力。
そして、備考欄。
出久は、そこに記された言葉を読んだ。
――記憶の断絶。
――自己認識の混乱。
――他者への過剰な執着。
――生前の能力と一致しない異常現象。
――特定人物に対する敵意。
――睡眠中の不明瞭な発話。
「……これ、かなり多いんですね」
「帰還者全員がそうというわけではない。ただ、記憶や人格に何らかの異常が見られる事例は、想定していたより多い」
「本人が、自分のことを覚えていないんですか?」
轟が尋ねた。
「そういう例もある」
「家族のことも?」
「家族だけ覚えている者もいる。逆に、自分の名前は覚えているのに、家族の顔を思い出せない者もいる」
相澤は資料を一枚、手元に取った。
「生前の記憶がほぼ完全に残っている者もいれば、死ぬ直前の記憶しかない者もいる。記憶の一部が、まったく別の人物のものと混ざっているようなケースも確認されている」
「別の人物の記憶……?」
八百万が顔をしかめた。
「ええ。本人しか知り得ないはずの記憶と、本人が知るはずのない記憶が、同時に存在している」
「それは……」
八百万は言葉を失った。
もし、それが本当なら。
帰還者の中には、自分が誰なのかを決めることすら難しい人々がいるということだ。
生前の記憶を持っている。
家族の名前も知っている。
昔の思い出も語れる。
しかし、その中に、別人の記憶が混ざっている。
その人は、本当に本人なのか。
それとも、本人の記憶を使って作られた、別の何かなのか。
誰もが、同じ疑問にたどり着いた。
そして、誰も口にしたがらなかった。
「……先生」
お茶子が言った。
「そういう人たちは、どう扱われるんですか?」
「今は、本人の意思を確認しながら、必要な検査と保護を行っている」
「検査って……どんな?」
「身体検査、記憶の確認、能力の測定。必要に応じて心理面の評価も行う」
相澤は一度言葉を切った。
「ただし、本人が嫌がる検査を無理に行うことは避ける。少なくとも、こちらから積極的に危害を加えることはしない」
「……よかった」
お茶子は胸を撫で下ろした。
だが、相澤の表情は晴れなかった。
「問題は、本人の意思を確認できない場合だ」
画面に、新しい資料が表示された。
そこには、帰還者の一人が写っていた。
中年の男性。
短く刈り込まれた髪。
穏やかそうな顔立ち。
写真の下には、簡単な情報が記載されている。
氏名。
生前の職業。
死亡年月日。
そして、備考。
生前の記録に存在しない個性を使用。
「この男は、帰還してから三日間、ほとんど言葉を発していない」
相澤が説明した。
「こちらの質問には反応する。指示も理解しているように見える。だが、自分の名前を尋ねても答えない。家族の写真を見せても反応がない」
「記憶がないんですか?」
「分からない。本人が覚えていないのか、覚えているが答えないのか、それすら判断できていない」
「能力は?」
轟が尋ねる。
「昨日、突然発現した」
画面が切り替わった。
そこには、病院の検査室らしき場所が映っていた。
男性が立っている。
正面には、金属製の机。
担当者が何かを説明し、男性に手を差し出した。
その瞬間。
机が、音もなく消えた。
爆発したわけではない。
砕けたわけでもない。
溶けたわけでもない。
そこに存在していた机が、まるで最初から存在していなかったかのように、消えたのだ。
検査室の担当者が慌てて周囲を見回す。
男性は、何も言わない。
ただ、自分の手を見つめている。
「……消去系か?」
爆豪が呟いた。
「可能性はある。ただ、消えた机の材質を分析した結果、通常の消失現象とは異なることが分かった」
「どう違うの?」
出久が尋ねた。
「残留物がない。熱反応もない。周囲の空気の流れにも、不自然な変化がない」
「……つまり?」
「机が消えたという結果だけが存在している」
その言葉に、出久の背筋が冷たくなった。
結果だけが存在している。
過程がない。
原因がない。
ただ、そこにあったものがなくなったという事実だけが残る。
それは、昨日見た黒い亀裂と、どこか似ていた。
世界の一部が切り取られるような現象。
あるいは、世界の側が、その存在を否定するような現象。
「……これ、消失した帰還者と関係があるんでしょうか」
「可能性はある。だから調査を続けている」
相澤は、出久の顔を見た。
「ただし、緑谷。今の段階で、帰還者を一括りにするな」
「……はい」
「危険な者はいる。こちらに敵意を持つ者もいる。だが、異常があることと、敵であることは同じじゃない」
相澤の言葉は、静かだった。
「それを間違えると、俺たちは救助対象を自分で敵に変えることになる」
出久は頷いた。
分かっている。
分かっているつもりだった。
けれど、帰還者の中に何がいるのか分からない以上、警戒しなければならない。
警戒しすぎれば、助けを求める人を傷つける。
警戒しなければ、誰かが犠牲になる。
どちらを選んでも、間違いになる可能性がある。
ヒーローとは、正解が分かっている人間のことではない。
正解が分からなくても、目の前の人間を見捨てないと決めた人間のことだ。
少なくとも、出久はそう信じていた。
◇
「それで、三つ目だ」
相澤は画面を切り替えた。
今度は、緑谷出久の顔写真が表示された。
「……え?」
出久は思わず声を上げた。
写真は、昨日の騒動の最中に撮影されたものだった。
雄英の門前。
帰還者が集まる人々の中で、出久が何かを見つめている。
その写真の隣には、別の映像が並んでいた。
帰還者の一人が、出久の姿を見た瞬間に動きを止めている。
また別の帰還者は、出久に向かって手を伸ばしていた。
さらに別の映像では、黒い霧が出久の近くで形を変え、まるで彼を避けるように動いている。
「これは……」
出久の喉が鳴った。
「昨日の映像を解析した結果だ」
相澤が言った。
「複数の帰還者が、緑谷に対して通常とは異なる反応を示している」
「でも、僕は……」
「お前が何かをしたと決まったわけじゃない」
相澤は、先回りするように言った。
「ただ、現象として確認されている。無視するわけにはいかない」
「……はい」
出久は画面を見つめた。
黒い霧が、自分を避けた。
昨日、確かにそう見えた。
だが、なぜなのか。
自分に何があるのか。
個性は、もうない。
ワン・フォー・オールは、最終決戦の果てに失われた。
自分は、かつてのように圧倒的な力を持つ人間ではない。
それなのに。
どうして、あの存在は自分に反応するのか。
「……緑谷くん」
八百万が、心配そうに声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。大丈夫」
「本当に?」
「うん。ちょっと考えてただけだから」
その返事に、爆豪が鼻を鳴らした。
「おい」
「な、何?」
「考えすぎんな」
「え?」
「てめえが何かの原因だって決まったわけじゃねえだろ」
「……うん」
「原因だったら、そのとき考えりゃいい」
あまりにも爆豪らしい言い方だった。
しかし、出久はその言葉に救われた。
まだ、何も分かっていない。
自分が原因なのか。
帰還者が何なのか。
黒い霧が何なのか。
死神の背後にいる存在が、何を求めているのか。
何一つ分かっていない。
ならば、今は調べるしかない。
「……ありがとう、爆豪くん」
「礼を言うな。気色悪い」
「ええっ!?」
「あと、妙なことを考えて一人で突っ込んだらぶっ殺す」
「それ、心配してくれてるんだよね!?」
「違えよ!」
「違わないと思うけど……」
「デク!」
「はい!」
相澤は、頭を抱えた。
「……話を戻すぞ」
◇
会議が終わったのは、午前九時四十分だった。
出久たちは、それぞれ担当する調査に向かうことになった。
飯田と八百万は、帰還者の登録情報と死亡記録の照合。
轟と爆豪は、能力に異常が確認された帰還者の調査補助。
切島と梅雨は、避難所と帰還者保護施設の巡回。
お茶子は、帰還者の家族や、再会した人々の支援に回る。
そして、出久には別の仕事が与えられた。
「俺と一緒に、帰還者の面会に行く」
相澤が言った。
「面会?」
「ああ。昨日の映像に映っていた人物の一人だ」
出久は頷いた。
「分かりました」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「何があっても、独断で接触しないこと。相手が異常な行動を取った場合は、俺の指示に従うこと」
「……はい」
「それから」
相澤は、出久の目を見た。
「お前自身が何か異常を感じた場合も、すぐに報告しろ」
出久は少しだけ迷った。
昨夜、目を覚ましたときの違和感。
自分の部屋が、自分の部屋ではないように感じた、あの一瞬。
あれを報告するべきだろうか。
まだ、何も分かっていない。
疲れていただけかもしれない。
だが、今朝、お茶子と約束したばかりだ。
何かあったら話す。
一人で抱え込まない。
「……実は、今朝」
出久は、正直に話した。
「目が覚めたとき、一瞬だけ、自分の部屋が知らない場所みたいに感じたんです」
相澤の表情が変わった。
「どんな感覚だ?」
「うまく言えないんですけど……自分がここにいることが、少しだけ不自然に感じたというか」
「それは、夢のような感覚か?」
「そうかもしれません。でも、目が覚めたあとも、少しだけ残っていて……」
「今は?」
「今は、何ともありません」
相澤は黙って考えた。
「分かった。後で詳しく聞く」
「はい」
「……よく話したな」
出久は顔を上げた。
相澤は、いつもの無愛想な顔をしていた。
だが、その声には、わずかな温度があった。
「こういうとき、異常を隠すのが一番危険だ。自分では些細なことだと思っても、報告しろ」
「分かりました」
「よし。行くぞ」
相澤が歩き出した。
出久は、その後ろに続いた。
廊下には、いつもより多くの職員が行き交っている。
緊急対応のために集められた警察関係者。
医療スタッフ。
サポート科の技術者。
各地から派遣されたヒーロー。
そして、保護された帰還者たち。
その中には、かつて出久が知っていた顔もあった。
戦いの中で命を落としたヒーロー。
救えなかった人々。
もう二度と会えないと思っていた人たち。
彼らが、廊下の向こうを歩いている。
ある者は、家族と手をつないでいた。
ある者は、職員に付き添われながら、ぼんやりと壁を見つめていた。
ある者は、窓の外に広がる空を、恐ろしいものでも見るように見つめていた。
出久は、ふと足を止めた。
その中に、一人の女性がいた。
白い病衣を着た、若い女性。
彼女は、壁に掛けられた時計を見つめていた。
時計の針は、午前九時四十三分を指している。
女性は、何度も何度も、その針を確認していた。
まるで、時間が正しく進んでいることを確かめるように。
「……どうした?」
相澤が振り返った。
「あ、いえ……」
出久は女性を見た。
彼女も、こちらに気づいた。
目が合った。
その瞬間。
女性の顔から、表情が消えた。
そして、彼女は口を開いた。
「……あ」
かすれた声。
「……ああ」
女性は、出久を見つめている。
その目に、涙が浮かんだ。
「……やっと」
彼女の唇が震えた。
「やっと、見つけた」
出久は息を呑んだ。
「……僕を、ですか?」
女性は頷いた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
「お願い……」
声が、震えている。
「お願いだから……」
女性の目から、涙が零れ落ちた。
「今度こそ、私を殺して」
廊下の空気が凍りついた。
相澤が、即座に女性と出久の間に入った。
「緑谷、下がれ」
だが、出久は動けなかった。
女性は、泣いていた。
恐怖に震えていた。
助けを求めているように見えた。
それなのに。
彼女は、はっきりと言ったのだ。
自分を殺してくれ、と。
「……どうして」
出久は、思わず尋ねていた。
「どうして、そんなことを……?」
女性は答えなかった。
ただ、出久を見つめていた。
その瞳の奥に、何かがあった。
人間の瞳の奥にあるはずのない、深い暗闇。
黒い霧でもない。
黒い亀裂でもない。
もっと静かで、もっと深い何か。
それが、彼女の瞳の奥から、こちらを見ていた。
そして。
女性の口が、もう一度動いた。
「……あなたが」
声が、二重に響いた。
一つは、女性の声。
もう一つは、まるで遠く離れた場所から聞こえてくるような、低く、乾いた声。
「あなたが、あの子を殺したんでしょう?」
出久の心臓が、跳ねた。
あの子。
誰のことだ。
女性は、涙を流しながら笑った。
その笑顔は、あまりにも悲しそうだった。
「……違う」
彼女は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「あなたじゃない。あなたじゃないのに……」
次の瞬間。
女性の首筋に、黒い線が走った。
一本。
二本。
三本。
まるで、皮膚の下に埋め込まれた何かが、内側から彼女を裂こうとしているかのように。
「っ!」
相澤が動いた。
「医療班! 至急来い!」
女性の身体が、大きく震えた。
「いや……!」
彼女は、自分の首を押さえた。
「やめて……! 違う、私は……私は、そんなこと……!」
黒い線が、頬にまで広がっていく。
出久は、反射的に一歩踏み出した。
「大丈夫です! 落ち着いてください!」
「来ないで!」
女性が叫んだ。
「来ないで、緑谷出久!」
その声が、廊下に響き渡った。
出久は、足を止めた。
女性は、自分の口を押さえた。
まるで、自分が何を口にしたのか、理解できていないようだった。
「……違う」
彼女は、震える声で呟いた。
「私は、そんな名前……知らない……」
黒い線が、さらに広がる。
「知らないのに……」
彼女の目から、涙が溢れた。
「どうして、知ってるの……?」
次の瞬間。
女性の背後に、黒い影が立ち上がった。
人間の形をしている。
だが、顔はない。
手足はある。
しかし、その輪郭は絶えず揺らぎ、煙のように崩れている。
影は、女性の肩に手を置いた。
その手が触れた瞬間、女性の身体が硬直した。
『見つけた』
声がした。
誰の声でもない。
男の声にも、女の声にも聞こえる。
子供の声にも、老人の声にも聞こえる。
耳で聞いているのに、頭の中に直接響いてくる。
『ようやく、見つけた』
相澤の目が赤く光った。
抹消。
しかし、影は消えなかった。
「……クソッ」
相澤が歯を食いしばる。
影は、ゆっくりと出久の方を向いた。
顔はない。
目もない。
それなのに、出久は確信した。
見られている。
あの存在は、自分を見ている。
『まだ、覚えていないのか』
影が言った。
『それとも、忘れたふりをしているのか』
出久は、息を呑んだ。
「……何を、言ってるんですか」
『お前は、何度目だ?』
その瞬間。
頭の中で、何かが弾けた。
白い光。
燃え上がる炎。
崩れ落ちる建物。
誰かの悲鳴。
そして。
自分の声。
――助けなきゃ。
――まだ、間に合う。
――今度こそ。
「っ……!」
出久は、頭を押さえた。
知らない記憶だった。
自分の記憶ではない。
そう思った。
けれど、その声は、間違いなく自分の声だった。
『ああ』
影が、笑ったような気がした。
『その顔だ』
女性が、悲鳴を上げた。
「やめて……! やめてよ……!」
影の腕が、女性の身体に沈み込んでいく。
彼女は必死に抵抗した。
床に爪を立てる。
手を伸ばす。
何かに縋ろうとする。
「いや……! 私は、帰りたい……!」
女性の声が、響いた。
「お母さんのところに……帰りたいの……!」
その言葉を聞いた瞬間。
出久の中で、何かが決壊した。
「やめろッ!」
出久は駆け出した。
「その人から、離れろ!」
相澤が叫ぶ。
「緑谷、待て!」
だが、出久は止まらなかった。
個性はない。
かつてのように、圧倒的な力で敵を吹き飛ばすことはできない。
それでも。
目の前で、助けを求めている人がいる。
ならば、手を伸ばす。
それが、緑谷出久だった。
出久が女性の手を掴んだ瞬間。
世界が、反転した。
◇
そこには、空がなかった。
地面もなかった。
上下も、左右もなかった。
ただ、どこまでも続く白い空間が広がっていた。
出久は、自分が立っているのか、浮いているのかも分からなかった。
目の前には、女性がいる。
先ほどの女性だ。
しかし、黒い線は消えていた。
彼女は、ぼんやりと周囲を見回している。
「……ここ、どこ?」
出久は答えられなかった。
分からない。
ここがどこなのか。
どうしてここにいるのか。
なぜ、先ほどまで廊下にいたはずなのに、こんな場所にいるのか。
何一つ分からない。
ただ、一つだけ。
出久は、自分の身体に異変が起きていることに気づいた。
手が、透けている。
指先が、白い光に溶けるように薄くなっている。
「……え?」
出久は、自分の手を見つめた。
手のひらが、透けている。
腕も。
身体も。
まるで、自分という存在そのものが、少しずつ消えていくように。
「……そんな」
そのとき。
白い空間の向こうから、誰かが歩いてきた。
小さな人影。
少年だった。
緑色の髪。
大きな瞳。
痩せた身体。
どこかで見たことがある顔だった。
いや。
見たことがあるどころではない。
忘れるはずがない。
それは。
緑谷出久自身だった。
ただし、今の自分ではない。
もっと幼い。
まだ何も持っていなかったころの、自分。
個性がないと告げられた日。
ヒーローになる夢を、諦めろと言われた日。
それでも、オールマイトの動画を見て、ヒーローへの憧れを捨てられなかった日。
何度も泣いて。
何度も悔しがって。
それでも、夢を捨てられなかった少年。
その少年が、こちらを見つめていた。
「……やっと来たね」
幼い出久が言った。
出久は、声を失った。
「……君は」
「僕?」
少年は、首を傾げた。
「君だよ」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
あまりにも、当たり前だった。
だからこそ、出久は何も言えなかった。
幼い自分は、笑っていた。
懐かしい笑顔だった。
もう二度と戻れないと思っていたころの、自分の笑顔。
「ねえ、出久くん」
少年が尋ねた。
「君は、どうして生きてるの?」
出久の呼吸が止まった。
「……え?」
「どうして、君は生きてるの?」
少年は、もう一度尋ねた。
「みんなを救えなかったのに」
白い空間が、揺らいだ。
遠くから、何かが聞こえてくる。
炎の音。
瓦礫の崩れる音。
誰かの悲鳴。
そして、泣き声。
「みんな、君に助けてほしかったんだよ」
少年は言った。
「君なら、助けてくれるって思ってた」
「……違う」
「でも、助けられなかった」
「違う!」
「それなのに、君は生きてる」
少年の笑顔が、消えた。
「ねえ」
彼は、静かに尋ねた。
「君は、誰を救ったの?」
出久は、答えられなかった。
答えなければならないと思った。
救った人たちの顔が、浮かんだ。
オールマイト。
爆豪。
轟。
お茶子。
飯田。
切島。
八百万。
たくさんの仲間たち。
そして、かつて自分が救えなかった人々。
救えた人もいる。
救えなかった人もいる。
自分の手が届いた命もあれば、届かなかった命もある。
それでも、出久は歩いてきた。
誰かを救うために。
誰かと一緒に、未来を作るために。
なのに。
幼い自分は、問い続ける。
「君は、どうして生きてるの?」
出久の足元が、崩れ始めた。
白い空間が、黒く染まっていく。
少年の背後に、巨大な影が現れた。
空間そのものを覆い尽くすような、途方もない影。
それは、昨日見た存在に似ていた。
いや。
似ているという言葉では足りない。
あの存在は、ここにもいた。
人類を観測する何か。
死者を返した何か。
世界の進化を見つめている何か。
その巨大な影が、幼い出久の背後から、ゆっくりと手を伸ばした。
少年は、出久を見つめていた。
「ねえ、出久くん」
その顔に、再び笑顔が浮かんだ。
「今度は、誰を犠牲にするの?」
出久は、叫んだ。
「――違うッ!」
その瞬間。
世界が砕けた。
◇
「緑谷!」
誰かの声が聞こえた。
「緑谷、聞こえるか!」
出久は、目を開けた。
視界が揺れている。
目の前には、相澤の顔があった。
その隣には、医療スタッフ。
少し離れた場所に、爆豪と轟。
お茶子もいた。
「……あ」
出久は、ゆっくりと息を吸った。
「……先生?」
「意識はあるな」
相澤が、険しい顔で出久を見つめていた。
「何があった?」
出久は、答えようとした。
だが、言葉が出てこなかった。
先ほどの白い空間。
幼い自分。
巨大な影。
あれは何だったのか。
夢だったのか。
幻覚だったのか。
それとも。
自分の中に、何かが入り込んだのか。
「……僕」
出久は、自分の手を見た。
透けていない。
消えかけてもいない。
確かに、そこにある。
「……何が、起きたんですか?」
相澤は答えなかった。
代わりに、医療スタッフの一人が口を開いた。
「緑谷さん。あなたは、先ほど突然意識を失いました」
「……え?」
「女性の手を掴んだ直後です。およそ十二秒間、呼びかけに反応がありませんでした」
「十二秒……?」
出久は、呆然とした。
あの場所では、もっと長い時間が経過していたように感じた。
いや。
時間という概念そのものが、存在していなかったのかもしれない。
「女性は?」
出久は、慌てて周囲を見回した。
「先ほどの女性は、どうなりましたか?」
医療スタッフの表情が曇った。
その反応だけで、出久は理解した。
「……まさか」
「女性は、現在、意識不明の状態です」
医療スタッフが答えた。
「生命反応は確認されています。ただし、神経活動に通常とは異なる変化が見られます」
「異なる変化……?」
「詳しいことは、まだ分かりません」
出久は、拳を握りしめた。
間に合わなかった。
また。
目の前にいた人を、救えなかった。
「……緑谷」
爆豪が、低い声で言った。
「おい、デク。顔を上げろ」
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「てめえが何を見たのか、何が起きたのかは知らねえ」
爆豪は、出久を睨んだ。
「だが、今ここで勝手に自分のせいだって決めつけんな」
「……でも」
「でもじゃねえ」
爆豪の声は、いつもより低かった。
「まだ終わってねえだろ」
出久は、言葉を失った。
「相手が何だろうが、あの女がどうなろうが、まだ何も分かってねえ。だったら、分かるまで調べる。それだけだろうが」
「……うん」
「分かったなら立て。いつまでも床に座ってんじゃねえ」
「……ありがとう」
「だから礼を言うなっつってんだろうが!」
爆豪が怒鳴った。
その声に、少しだけ空気が緩んだ。
お茶子が、出久の隣にしゃがみ込んだ。
「出久くん」
「……お茶子ちゃん」
「怖かった?」
出久は、すぐには答えられなかった。
怖かった。
確かに、怖かった。
自分の知らない自分に問い詰められたこと。
巨大な存在に見られていたこと。
自分の存在が、消えかけたこと。
そして、何より。
あの少年が、自分自身だったこと。
「……うん」
出久は、正直に答えた。
「怖かった」
お茶子は、そっと出久の手を握った。
「そっか」
それだけだった。
無理に励まそうとはしなかった。
大丈夫だとも言わなかった。
ただ、手を握っていた。
その温かさが、今の出久には必要だった。
「……ありがとう」
今度は、お茶子も怒らなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「うん」
◇
午後零時十五分。
出久は、医療区画の一室で検査を受けていた。
身体に異常はない。
脳波にも、明確な異常は確認されていない。
個性反応も、確認されていない。
ただし、医療スタッフは慎重だった。
今回の現象が、既知の個性によるものなのか。
あるいは、個性という分類そのものが通用しない現象なのか。
現時点では、判断できなかったからだ。
「……緑谷くん」
検査を担当していた医師が、端末を見つめながら言った。
「ひとつ、気になることがあります」
「何でしょうか?」
「先ほどの現象が発生した直後、あなたの脳波に、短時間ですが異常な同期反応が見られました」
「同期反応?」
「はい。通常、脳の各領域は、それぞれ異なる活動をしています。しかし、あなたの場合、複数の領域が同時に、極めて類似した活動パターンを示しました」
「それって……どういうことですか?」
「分かりません」
医師は、正直に答えた。
「ただ、外部から何らかの刺激を受けた可能性があります」
「外部……」
出久は、先ほどの白い空間を思い出した。
幼い自分。
巨大な影。
あの問い。
――君は、どうして生きてるの?
「……先生」
出久は、相澤を見た。
「さっきの女性と、僕に、何か共通点があるんでしょうか」
「今は分からない」
相澤は腕を組んだ。
「ただ、お前が彼女に接触した瞬間、異常が発生した。その事実は無視できない」
「……僕が、原因かもしれないんですね」
「可能性の一つだ」
相澤は、すぐに付け加えた。
「だが、原因だと決まったわけじゃない」
出久は頷いた。
分かっている。
今は、何も決めつけてはいけない。
それでも、胸の奥には、嫌な感覚が残っていた。
あの女性は、自分を知っていた。
そして、自分に殺してくれと頼んだ。
彼女は、出久のことを知っている。
しかし、出久は彼女を知らない。
それは、何を意味するのか。
自分が忘れているだけなのか。
彼女が別の何かに操られていたのか。
それとも。
自分がまだ知らない過去が、存在しているのか。
「……先生」
「何だ」
「彼女が目を覚ましたら、僕に知らせてもらえますか」
相澤は、少しだけ眉を寄せた。
「会うつもりか?」
「はい」
「危険だぞ」
「分かっています」
「分かっていないから言っている」
相澤の声は厳しかった。
「お前は、何かあるとすぐに自分で確かめようとする。今回もそうだ。彼女が目を覚ましたら、また同じ現象が起きる可能性がある」
「……はい」
「だから、会うなら俺も同席する。医療スタッフもつける。単独での接触は禁止だ」
「分かりました」
相澤は、出久の顔を見た。
「それでも、会いたいのか?」
出久は頷いた。
「はい」
彼女が何者なのか、知りたい。
自分を知っていた理由を知りたい。
そして、できることなら。
彼女を救いたい。
それは、単なる好奇心ではなかった。
あの白い空間で、彼女は帰りたいと言っていた。
母親のところに帰りたいと。
彼女が何者であろうと。
どんな異常を抱えていようと。
その願いまで、偽物だと決めつけることはできない。
相澤は、長い沈黙のあと、頷いた。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「ただし、ひとつ覚えておけ」
「はい」
「お前が救いたいと思う相手が、必ずしもお前を救いたいと思っているとは限らない」
出久は、目を見開いた。
「相手には、相手の事情がある。お前を憎んでいるかもしれない。お前に死んでほしいと思っているかもしれない。あるいは、お前が救おうとすること自体を、拒絶するかもしれない」
相澤は、静かに言った。
「それでも救うのか?」
出久は、答えを探した。
かつての自分なら、すぐに頷いていたかもしれない。
助けを求める人がいるなら、手を伸ばす。
それが、ヒーローだと。
だが、今は違う。
救うことは、必ずしも相手の望みと一致するわけではない。
生きたい人もいれば、死にたいと願う人もいる。
過去を取り戻したい人もいれば、過去を消したい人もいる。
そして、死者が蘇ったこの世界では。
その人が本当に生きていた本人なのかという問題まで、つきまとう。
出久は、ゆっくりと口を開いた。
「……まずは、話を聞きたいです」
相澤は、黙っていた。
「彼女が何を望んでいるのか。どうして僕を知っているのか。何が起きているのか」
出久は、自分の手を見た。
「そのうえで、できることを考えたいです」
相澤は、わずかに目を細めた。
「……そうか」
それ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙は、先ほどよりも少しだけ穏やかだった。
◇
午後一時三十分。
雄英高校の地下、臨時資料保管室。
八百万百は、山のように積み上がった書類を前に、額を押さえていた。
「……終わりませんわ」
隣では、飯田天哉が、端末に向かって猛烈な勢いで文字を打ち込んでいる。
「弱音を吐いている場合ではない! 全国から集められた帰還者の情報は膨大だが、一つずつ照合すれば必ず整理できる!」
「そうですわね……。ですが、こちらの記録と、死亡記録の内容が一致しないのです」
「一致しない?」
「ええ」
八百万は、一枚の資料を差し出した。
「こちらの人物は、二十年前に事故で亡くなっています。しかし、帰還者の記録では、十年前に別の場所で死亡したことになっているのです」
「……別人ではないのか?」
「顔写真と指紋は一致しています。歯科記録も、DNAも」
「では、記録の誤りか?」
「その可能性もあります。ただし、同様の事例が複数確認されているのです」
飯田の手が止まった。
「複数……?」
「はい。死亡した年月日が異なる。死亡した場所が異なる。場合によっては、生前の職業まで異なる」
八百万は、別の資料を開いた。
「こちらの男性は、死亡する直前まで警察官として勤務していた記録があります。ところが、帰還者の本人確認では、彼は一度も警察官になったことがないと主張しているのです」
「……記憶の混乱ではないのか?」
「そう考えることもできます。ですが、彼の指紋やDNAは、記録上の人物と一致しています」
八百万は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり、私たちは今、ひとつの可能性を考えなければならないのです」
「それは?」
「帰ってきた人々が、必ずしも一つの時間、一つの人生から来たとは限らないという可能性です」
飯田は、言葉を失った。
死者が蘇る。
それだけでも、世界の常識は崩れている。
だが、もし彼らが、別々の時間から来ているのだとしたら。
ある人は十年前に死んだ。
ある人は二十年前に死んだ。
ある人は、記録に残っている死とは異なる死を迎えている。
そして、彼らは同じ時代に現れている。
「……時間そのものが、関係しているというのか」
飯田が呟いた。
「あるいは、私たちが認識している時間とは異なる場所から、彼らが来ているのかもしれません」
八百万は、資料を閉じた。
「ただし、これは仮説です。今の段階で、断定することはできません」
「当然だ。まずは情報を整理し、共通点を見つける必要がある」
飯田は、再び端末に向かった。
そのときだった。
八百万の端末に、新しい通知が表示された。
緊急資料。
送信元は、警察庁の特別調査部門。
件名には、こう記されていた。
『身元不明帰還者に関する追加報告』
「……飯田さん」
「どうした?」
「これを見てください」
八百万は、画面を開いた。
そこには、一人の男性の写真が表示されていた。
年齢不詳。
身長百七十センチ前後。
黒い髪。
顔には、目立った特徴がない。
そして、名前の欄には。
該当者なし。
死亡記録もない。
戸籍もない。
住民票もない。
指紋の照合結果も、該当なし。
DNAデータベースにも、一致する人物はいなかった。
つまり、その男は。
どこにも存在していなかった。
「……この人は、どうやって帰還者として確認されたのですか?」
八百万が資料を読み進める。
報告書には、こう記されていた。
午前十時四十二分。
都内の公園で、通行人が男性を発見。
男性はベンチに座り、泣いていた。
通報を受けた警察官が接触。
男性は、自分の名前を答えられなかった。
しかし、ある質問に対してだけ、明確に反応した。
――あなたは、どこから来たのですか?
その問いに、男性は答えた。
「死んだ場所から」
そして、続けてこう言った。
「……みんな、まだ死んでない」
八百万は、息を呑んだ。
「……どういう意味でしょうか」
飯田は、資料の続きを読んだ。
男性は、自分が死んだ記憶を持っていない。
自分の名前も、家族も、職業も覚えていない。
ただ、一つだけ。
強烈な記憶が残っていた。
誰かが、泣いていた。
誰かが、自分の名前を呼んでいた。
誰かが、何度も謝っていた。
そして。
誰かが、こう言った。
――まだ、間に合う。
報告書の最後には、担当者の追記があった。
「本人の証言によれば、現在の世界は『二度目』であるとのこと。発言の意味は不明」
飯田は、ゆっくりと顔を上げた。
「……八百万くん」
「はい」
「これは、緑谷くんに報告するべきだ」
「私も、そう思います」
八百万は、資料を送信した。
その瞬間。
画面が、一度だけ暗くなった。
ほんの一瞬。
電子機器の不具合かと思うほど、短い時間だった。
しかし、画面が復旧したとき。
報告書の最後に、見覚えのない一文が追加されていた。
『対象者への接触を推奨する。彼は、観測者を認識している』
八百万は、目を見開いた。
「……え?」
飯田が画面を覗き込む。
「どうした?」
「今……こんな文章は、ありませんでした」
「何?」
八百万は、報告書の送信元を確認した。
警察庁。
担当者名。
送信時刻。
電子署名。
すべて正常だった。
しかし、その一文が追加された時刻は。
午前零時零分。
まだ、その男性が発見される前だった。
八百万は、しばらく画面を見つめていた。
やがて、静かに呟いた。
「……誰が、書いたのですか?」
答える者はいなかった。
◇
午後二時五十分。
出久は、雄英の屋上にいた。
風が吹いている。
遠くに東京の街が見える。
人々が暮らしている。
学校へ通う子供たち。
働く大人たち。
買い物をする人々。
その中には、昨日まで死んでいた人もいるのだろう。
家族と再会した人。
もう一度、友人に会えた人。
自分の知らない未来を生きるために、戻ってきた人。
そして、今朝、消えてしまった人たち。
出久は、手すりに手を置いた。
風が、頬を撫でる。
「……何度目、か」
先ほどの声が、頭の中で繰り返される。
――お前は、何度目だ?
あの影は、そう言った。
何度目。
何のことだろう。
人生が、何度目なのか。
死んだことが、何度目なのか。
それとも。
この世界そのものが、何度目なのか。
出久は目を閉じた。
幼い自分の顔が、浮かぶ。
あの少年は、何を知っていたのだろう。
なぜ、自分に問いかけたのだろう。
どうして、あんなに悲しそうな顔をしていたのだろう。
そのとき。
「……出久くん」
背後から、声がした。
振り返ると、お茶子が立っていた。
「お茶子ちゃん」
「ここにいたんだ」
「うん。ちょっと考え事を」
「また?」
「……うっ」
お茶子は、呆れたように笑った。
「ほんと、出久くんは考えるのが好きだね」
「いや、好きというか……」
「分かってる。考えないといけないことが多いんだよね」
お茶子は、出久の隣に立った。
そして、同じように街を見つめた。
「……ねえ」
「うん?」
「もし、帰ってきた人が、本当にその人じゃなかったら」
出久は、黙った。
「もし、記憶も、顔も、声も、全部同じなのに……魂だけが違ったら」
お茶子の声は、静かだった。
「私たちは、その人をどう扱えばいいんだろう」
出久は、すぐには答えられなかった。
もし、帰ってきた人が別人だったら。
それでも、家族は喜ぶだろう。
友人は涙を流すだろう。
恋人は、もう一度抱きしめるだろう。
その人が、かつて愛した人と同じ顔をしているのなら。
同じ声で名前を呼ぶのなら。
同じ思い出を語るのなら。
それを偽物だと断言できる人間が、どこにいるのだろう。
そして、もし本当に偽物だったとして。
その人自身が、自分を本物だと信じているのなら。
その人が、もう一度生きたいと願っているのなら。
その願いまで、否定していいのだろうか。
「……分からない」
出久は、正直に答えた。
「でも、僕は……その人が何を考えているのか、知りたい」
「うん」
「その人が何を覚えていて、何を忘れていて、何を望んでいるのか」
出久は、街を見つめた。
「それを知らないまま、偽物だって決めつけたくない」
お茶子は、静かに頷いた。
「……そっか」
「もちろん、危険なことをする人がいたら止めなきゃいけないし、誰かを傷つけるなら、守らなきゃいけない」
「うん」
「でも、帰ってきたというだけで、その人の存在を否定することはしたくない」
お茶子は、出久の手を握った。
「……出久くんらしいね」
「そうかな」
「うん」
少しだけ、沈黙が流れた。
風が吹く。
遠くから、車の音が聞こえる。
いつもと変わらない世界。
その中に、昨日まで存在しなかった問題が、いくつも生まれている。
「……ねえ、出久くん」
「うん?」
「もし、私が帰ってきた人だったら」
出久は、彼女を見た。
「もし、私が死んでいて、誰かが私と同じ顔で帰ってきたら」
お茶子は、少しだけ笑った。
「出久くんは、その人を私だって信じる?」
出久は、息を呑んだ。
それは、簡単な問いだった。
そして、簡単には答えられない問いだった。
お茶子が死んでしまった世界。
その世界で、彼女と同じ顔をした人が帰ってくる。
同じ声で笑う。
同じ仕草をする。
同じように、自分の名前を呼ぶ。
それは、どれほど残酷な奇跡だろう。
出久は、ゆっくりと口を開いた。
「……信じたい」
お茶子の目が、わずかに揺れた。
「でも、信じたいだけじゃ、駄目だと思う」
出久は続けた。
「その人が誰なのか、ちゃんと知りたい。お茶子ちゃんがどんな人だったのか、何を大切にしていたのか。何を望んでいたのか」
「……うん」
「それで、もしその人が本当にお茶子ちゃんだったら……」
出久は、彼女の手を握り返した。
「もう一度、好きになると思う」
お茶子は、目を見開いた。
「……ずるいなあ」
「えっ?」
「そういうこと、真面目な顔で言うんだもん」
「え、いや、僕はただ……」
「うん。分かってる」
お茶子は、笑った。
けれど、その目には、少しだけ涙が浮かんでいた。
「……私も、出久くんが帰ってきたら、絶対に見つけるよ」
「お茶子ちゃん……」
「顔が違っても、声が違っても、記憶がなくても。出久くんが出久くんだって、分かるまで探す」
彼女は、まっすぐに出久を見つめた。
「でもね」
「うん?」
「もし、出久くんが私を忘れていたら……そのときは、もう一度、好きになってもらうから」
出久は、しばらく何も言えなかった。
そして。
「……それは、かなり大変だと思うよ」
「どうして?」
「だって、僕、たぶん最初に会ったときから……」
言いかけて、止まる。
お茶子が、首を傾げた。
「から?」
「……いや、その」
「出久くん?」
「……もう、好きだったと思うから」
お茶子の顔が、真っ赤になった。
「……っ、もう!」
「ご、ごめん!」
「謝らないで!」
「はい!」
二人は、しばらく顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
ほんの短い時間。
世界の異常も、死者の謎も、黒い霧も、すべて忘れられるような時間だった。
しかし。
出久のスマートフォンが震えた。
画面には、相澤からのメッセージが表示されている。
『至急、対策本部に戻れ』
続けて、もう一通。
『新しい帰還者が見つかった』
さらに。
『そいつは、お前の名前を知っている』
出久の笑顔が消えた。
お茶子も、画面を覗き込んだ。
「……また?」
「……うん」
出久は、スマートフォンを握りしめた。
昨日から、何度も繰り返されている。
自分を知っている帰還者。
自分に助けを求める者。
自分を憎んでいるように見える者。
そして、自分を殺してほしいと願う者。
自分はいったい、何に巻き込まれているのだろう。
いや。
もしかすると。
最初から、巻き込まれていたわけではないのかもしれない。
何かが、自分を探している。
何かが、自分を知っている。
何かが、自分に問いかけようとしている。
そして、その何かは。
自分が覚えていないことを、知っている。
「……行こう」
出久は、歩き出した。
お茶子も、隣に並ぶ。
二人は、雄英の建物へ戻っていった。
空は、青かった。
雲は、白かった。
世界は、まだ続いている。
けれど、誰も知らない。
この世界が、本当に一度目なのか。
誰も知らない。
死者たちが、どこから来たのか。
誰も知らない。
彼らが、何から逃げてきたのか。
そして。
誰も知らない。
緑谷出久自身が、何を忘れているのか。
◇
午後三時十二分。
雄英高校、臨時災害対策本部。
新しく発見された帰還者は、地下の面談室にいた。
男性。
年齢不詳。
身長百七十センチ前後。
黒い髪。
特徴のない顔。
身元を証明するものは何もない。
戸籍もない。
死亡記録もない。
指紋も、DNAも、一致する人物がいない。
それなのに。
男は、確かにそこにいた。
そして、彼は、面談室の机に置かれた紙を見つめていた。
そこには、名前が書かれている。
緑谷出久。
男は、その名前を指でなぞった。
「……やっとだ」
小さな声だった。
「やっと、ここまで来た」
面談室の外では、職員たちが緊張した面持ちで待機していた。
監視カメラは正常に動いている。
室内の温度も、湿度も、正常。
男の心拍数も、呼吸も、正常。
だが、彼の影だけが。
椅子の下で、ゆっくりと揺れていた。
男は顔を上げた。
監視カメラを見つめる。
そして、笑った。
「……聞こえてるんだろ?」
誰に向かって話しているのか。
職員たちには分からなかった。
男は続けた。
「次は、僕の番だ」
その瞬間。
面談室の照明が、一度だけ点滅した。
監視カメラの映像が、わずかに乱れる。
そして、男の口が動いた。
音声記録には、こう残された。
「――今度は、君が死ぬ番だよ。緑谷出久」
映像は、その直後に途切れた。
記録上の欠落時間は、わずか〇・〇三秒。
しかし、その〇・〇三秒の間に。
面談室の机の上に置かれていた紙が、一枚だけ消えていた。
緑谷出久の名前が書かれた紙だった。
誰も、それを持ち出していない。
扉も開いていない。
窓もない。
ただ、その紙だけが消えた。
そして、監視カメラの復旧後。
男は、椅子に座ったまま、静かに呟いていた。
「……まだ、間に合う」
誰も、その言葉の意味を知らなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
この男は、死者ではない。
少なくとも、世界のどこにも。
彼が生きていたという記録は、存在しなかった。
それでも、彼は帰ってきた。
まるで。
まだ死んでいない人間が、死者として戻ってきたかのように。