僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十八話「名前を失った少女は、何を罪と呼ぶのか」

第一節 存在しない患者

「患者番号零の記録が、また変化しています」

 

デウス・マキナの監視室。

 

観測者の声に、死神は顔を上げた。

 

巨大な観測装置の中央には、無数の文字列が浮かび上がっていた。

 

人名。

 

死亡日時。

 

出生記録。

 

家族構成。

 

個人の記憶と、社会がその人物について保有する情報。

 

それらは本来、完全に一致する必要こそないものの、互いを補い合うことで一人の人間が存在したという証明を形作っている。

 

しかし、現在表示されている記録には、明らかな異常があった。

 

ある人物の名前が消えた瞬間、その人物と関係する別の人物の記録までが書き換えられているのだ。

 

「関連記録の消失率は?」

 

「上昇しています。対象は死者の帰還に関与した人間だけではありません。帰還者と接触した者、その存在を認識した者、帰還者の記録を修復しようとした者にも影響が広がっています」

 

「つまり、死者を拒絶する現象が、生者にまで波及している?」

 

「その可能性が高いと考えられます」

 

「可能性、か」

 

死神は、画面に映る文字列を見つめた。

 

そこには、彼自身が見覚えのない記録が一つ表示されていた。

 

患者番号零。

 

その下には、人物の基本情報が並んでいる。

 

氏名――未登録。

 

年齢――不明。

 

出生地――未登録。

 

家族――該当なし。

 

死亡歴――記録なし。

 

生存状態――判定不能。

 

そして、最後の項目。

 

存在証明――否定。

 

死神の指が止まった。

 

「……生きている人間に、これは使えないはずだ」

 

「本来は」

 

観測者は否定しなかった。

 

「生存状態が確認できている対象に対し、存在証明そのものを否定する処理は、通常の記録管理には存在しません。これは記録の欠損ではありません」

 

「では、何だ?」

 

「記録する必要がないと判断された。あるいは、記録してはならないと判断された」

 

「誰が?」

 

観測者は答えなかった。

 

その沈黙が、どんな回答よりも不穏だった。

 

死神は、記録の奥に意識を向けた。

 

デウス・マキナを介して接続された領域。

 

世界樹に似た構造。

 

あらゆる人間の記憶と願いが、枝葉のように伸びている場所。

 

そこには、個人が自分自身について覚えている記憶だけでなく、他人がその人物について抱いた印象も、社会が残した記録も、本人すら知らない願いも存在する。

 

仮にそれらが世界の記録を構成するものだとしたら。

 

一人の人間を世界から消すには、何をすればいいのか。

 

肉体を殺すだけでは足りない。

 

記憶を奪うだけでも足りない。

 

その人物が存在したという事実を、世界が認識するための根拠そのものを失わせればいい。

 

だが。

 

「記録がないことと、存在しないことは違う」

 

死神は言った。

 

「人間は、誰かが記録してくれたから生まれてきたわけじゃない。名前を呼ばれなかった子供にも、戸籍を持たない人間にも、誰にも知られずに生きた人間にも、存在した事実はある」

 

「あなたは、記録と存在を切り離して考えているのですね」

 

「切り離さなければ、記録を失った人間を救えない」

 

死神は、画面の少女を見つめた。

 

「この患者番号零という記録は、彼女自身のものなのか?」

 

「判断できません」

 

「彼女は生きているのか?」

 

「確認できません」

 

「彼女は、誰かを殺したのか?」

 

観測者は目を伏せた。

 

「それも、確認できません」

 

「では、どうして罪の記録だけが残っている?」

 

画面が切り替わった。

 

そこには、一つの文章が浮かんでいた。

 

第一接続者に関する罪状――登録済み。

 

罪を犯した者――未登録。

 

被害者――未登録。

 

罪の内容――未登録。

 

罪の判定――確定。

 

死神は、ゆっくりと目を細めた。

 

「……ふざけるな」

 

低い声だった。

 

「誰が被害を受けたのかも、誰が何をしたのかも、何一つ分かっていない。なのに罪だけは確定している?」

 

「記録上は、そうなっています」

 

「記録がそう言っているから、正しいと?」

 

「いいえ」

 

観測者は、はっきりと答えた。

 

「だからこそ、私は恐れています」

 

死神は観測者を見た。

 

彼女が恐れているのは、記録が間違っていることではない。

 

記録が、間違っている可能性を考慮しなくなったことだ。

 

世界が、誰かを罪人と判断した。

 

その判断を裏付ける証拠は失われた。

 

それでも、判決だけは残った。

 

それは裁判ではない。

 

世界の都合による、一方的な断罪だった。

 

「出久に知らせろ」

 

「緑谷出久に?」

 

「ああ。患者番号零が何者なのか、まだ分からない。第一接続者との関係も不明だ。だが、この記録が世界の修正と関係しているなら、あいつに見せる必要がある」

 

「なぜです?」

 

死神は、少しだけ沈黙した。

 

「記録に名前がなくても、あいつは人間を人間として見る」

 

その答えは、あまりにも単純だった。

 

だからこそ、死神はそれを必要としていた。

 

「そして、もう一つ」

 

死神は続けた。

 

「少女を見つけろ。記録の中ではなく、現実でだ」

 

観測者が顔を上げる。

 

「もし、彼女が本当に存在しているのなら――」

 

死神は、画面に浮かぶ「存在証明――否定」の文字を見た。

 

「世界が彼女を否定する前に、俺たちが彼女を見つけなければならない」

 

その瞬間だった。

 

監視室の照明が、一度だけ明滅した。

 

観測装置に新たな警告が表示される。

 

警告。

 

生存者記録に対する不整合を検出。

 

対象者――緑谷出久。

 

死神の表情が変わった。

 

「……何だと?」

 

観測者が操作卓に駆け寄る。

 

出久の記録には、異常が発生していなかった。

 

少なくとも、今までは。

 

彼の生年月日。

 

家族構成。

 

雄英高校の在籍記録。

 

ヒーローとしての活動履歴。

 

そして、彼がこれまでに出会った人々との記録。

 

その一つひとつが、微細な速度で書き換えられ始めていた。

 

だが、出久本人は、まだそのことを知らなかった。

 

第二節 誰も知らない同級生

雄英高校。

 

仮設の医療棟に、午後の光が差し込んでいた。

 

本来なら、ここは負傷したヒーローや避難民を受け入れるための施設だった。

 

しかし、死者の帰還という異変が起きて以来、医療棟の役割は大きく変化していた。

 

帰還者の健康状態を調べる。

 

記憶の連続性を確認する。

 

身体に異常がないかを調べる。

 

そして、彼らが本当に本人なのかを確認する。

 

最後の項目だけは、誰にも正解が分からなかった。

 

「こちらの検査では、問題ありません」

 

医療スタッフの言葉に、出久は頷いた。

 

ベッドの上には、一人の青年が座っていた。

 

青年は、数日前に死亡が確認された人物だった。

 

彼は自分の名前を覚えている。

 

家族の名前も覚えている。

 

最後に何を食べたのか。

 

誰と話したのか。

 

自分がどんな人生を送ってきたのか。

 

そのすべてを覚えていた。

 

それでも、青年の住民記録は消えていた。

 

死亡証明書だけが残り、出生記録も、家族構成も、社会保障の記録も、すべてが失われていた。

 

「俺は、ここにいるよな?」

 

青年が出久に尋ねた。

 

「はい」

 

出久は即答した。

 

「あなたは、ここにいます」

 

「でも、家族が俺を見つけられないんだ」

 

青年の声が震えた。

 

「連絡しようとしても、番号が使われていない。家に帰ろうとしても、住所が見つからない。近所の人に聞いても、そんな人間は知らないって言われる」

 

「……」

 

「俺の母親は、俺を覚えているはずなんだ。俺が死んだとき、泣いてくれたんだ。俺は、ちゃんと覚えている。なのに……」

 

青年は自分の手を見つめた。

 

「俺が帰ってきたことを、母さんに伝えられない」

 

出久は、何も言えなかった。

 

励ます言葉なら、いくつでも考えられた。

 

大丈夫です。

 

きっと解決します。

 

諦めないでください。

 

だが、そのどれもが、青年の現実に対する答えにはならなかった。

 

彼は、実際に困っている。

 

誰かに会いたいのに、会えない。

 

帰りたいのに、帰れない。

 

生きているのに、生きていることを証明できない。

 

「……一緒に方法を探しましょう」

 

出久は、ようやく言った。

 

「今すぐ、すべてを元に戻せるとは言えません。でも、あなたが誰なのかを、僕たちまで分からなくなるわけじゃありません」

 

青年は出久を見た。

 

「君は、俺の名前を知っているのか?」

 

出久は答えようとした。

 

ところが。

 

「あなたは……」

 

声が止まった。

 

頭の中に、確かに名前がある。

 

つい先ほどまで、何度も呼んでいた。

 

書類にも記載されていた。

 

それなのに、思い出せない。

 

青年の顔も、服装も、声も覚えている。

 

彼がどんな人生を送ってきたのかも、つい先ほど聞いたばかりだ。

 

それなのに。

 

名前だけが、抜け落ちていた。

 

「……すみません」

 

出久は思わず頭を下げた。

 

「名前が、出てこなくて」

 

青年は何も言わなかった。

 

怒りもしなかった。

 

ただ、目を伏せた。

 

その反応が、出久には何よりもつらかった。

 

青年は、すでに知っていたのだ。

 

自分が誰なのかを、他人が少しずつ思い出せなくなることを。

 

「いいんだ」

 

青年は静かに言った。

 

「君が悪いわけじゃない」

 

「でも……」

 

「君も、俺のことを忘れるんだろう?」

 

出久は答えられなかった。

 

青年は笑おうとした。

 

しかし、その表情は途中で崩れた。

 

「死んだときは、仕方ないと思ったんだ」

 

彼は窓の外を見た。

 

「もう会えないんだって。母さんに孝行できなかったことも、友達に謝れなかったことも、全部、終わったことなんだって」

 

青年の声は、次第に小さくなった。

 

「それでも、俺は帰ってきた。もう一度やり直せるかもしれないって、思ったんだ」

 

出久は拳を握った。

 

「なのに、世界が俺を知らない」

 

青年は出久を見た。

 

「なあ、緑谷君」

 

「はい」

 

「俺は、何のために生き返ったんだろうな」

 

その問いに、出久は答えられなかった。

 

死者の帰還は、奇跡なのか。

 

それとも、誰かの願いが引き起こした異常なのか。

 

死者は、何のために帰ってきたのか。

 

世界が彼らを拒絶するのなら、その帰還に意味はなかったのか。

 

そんな問いに、簡単な答えなど存在しない。

 

だが。

 

「……少なくとも」

 

出久は顔を上げた。

 

「あなたが帰ってきたことを、無意味だったことにはしたくありません」

 

青年が、目を見開いた。

 

「あなたが帰ってきたことには、あなた自身の意味があるはずです。それを、僕たちが勝手に決めてはいけないと思うんです」

 

「……」

 

「あなたが何をしたいのか。誰に会いたいのか。これから何を選びたいのか。それを一緒に考えさせてください」

 

青年は、しばらく黙っていた。

 

やがて、小さく頷いた。

 

「……ありがとう」

 

その瞬間。

 

出久の携帯端末が震えた。

 

雄英の在籍情報に関する通知だった。

 

彼は画面を見た。

 

そこには、簡潔な文章が表示されていた。

 

在籍情報の確認が必要です。

 

対象者――緑谷出久。

 

出久は眉をひそめた。

 

「……僕?」

 

通知を開こうとした。

 

だが、その瞬間、表示が消えた。

 

代わりに、画面の中央に見慣れない文字列が浮かび上がった。

 

対象者の存在記録に矛盾があります。

 

修正処理を開始します。

 

出久は、画面を見つめた。

 

自分の手が、わずかに震えていることに気づいた。

 

これは、単なる誤作動ではない。

 

誰かが、自分を調べている。

 

あるいは。

 

世界そのものが、自分を調べている。

 

そして、その判定が下されようとしていた。

 

第三節 名前を呼べない人間

「緑谷君!」

 

医療棟を出たところで、出久は声をかけられた。

 

振り返ると、麗日お茶子が駆け寄ってきた。

 

「さっき、先生から連絡があって……。記録の異常が、雄英の中でも起きてるって」

 

「うん。僕の端末にも通知が来た」

 

「出久君の記録も?」

 

「……うん」

 

お茶子の表情が曇った。

 

「そんな……」

 

彼女は、出久の端末を覗き込もうとした。

 

しかし、すでに通知は消えていた。

 

「どんな内容だったの?」

 

「存在記録に矛盾がある、って」

 

「矛盾?」

 

「うん。修正処理を開始するって表示されて……」

 

「修正って、何を修正するの?」

 

「分からない」

 

出久は正直に答えた。

 

「でも、嫌な予感がする」

 

お茶子は、出久の顔を見つめた。

 

彼は平静を装っていた。

 

いつものように状況を整理し、可能性を考え、解決策を探そうとしている。

 

それが彼の強さだった。

 

同時に、それは彼の危うさでもあった。

 

何かが起きるたび、彼は自分が何をすべきかを考える。

 

自分が何を失うのかよりも、誰を助けられるのかを先に考える。

 

そして、自分自身が傷つく可能性を、後回しにしてしまう。

 

「……出久君」

 

「うん?」

 

「無理しないでね」

 

出久は少し驚いた。

 

「え?」

 

「今回のこと、出久君一人で何とかしようとしないで」

 

お茶子の声には、強い意志があった。

 

「死者が帰ってきたことも、記録が消えることも、出久君だけの問題じゃない。みんなの問題なんだから」

 

「……うん」

 

「それに」

 

お茶子は、一度言葉を切った。

 

「出久君自身の記録が消えるかもしれないなら、なおさらだよ」

 

出久は、困ったように笑った。

 

「僕の記録が消えるかどうかは、まだ分からないよ」

 

「分からないから、言ってるの」

 

お茶子は、まっすぐに彼を見た。

 

「何が起きるか分からないときくらい、自分のことも心配してよ」

 

出久は、返事に詰まった。

 

彼女の言葉は、正しかった。

 

それでも、自分が消えるかもしれないという可能性を、彼はまだ現実のものとして受け止められていなかった。

 

「……分かった」

 

そう答えたときだった。

 

「おい、緑谷!」

 

廊下の向こうから、爆豪勝己が歩いてきた。

 

その後ろには、轟焦凍もいる。

 

爆豪は出久の顔を見るなり、眉間に皺を寄せた。

 

「何だ、そのツラは」

 

「え?」

 

「何か隠してんだろ」

 

「隠してないよ」

 

「嘘つけ」

 

即座に返された。

 

轟も出久の端末を見た。

 

「記録の異常か」

 

「うん。僕の在籍情報に、矛盾があるって」

 

「……面倒なことになったな」

 

爆豪は舌打ちした。

 

「世界の記録がどうとか知らねえが、本人が目の前にいんのに、存在しねえことにするだと?」

 

「まだ、そう決まったわけじゃないよ」

 

「だったら、決まる前にぶっ壊す」

 

「何を?」

 

「そのクソみてえな仕組みをだよ!」

 

お茶子が思わず苦笑した。

 

「勝己君、それ、どうやって壊すの?」

 

「知るか! これから考える!」

 

「考えてから言おうよ!」

 

いつものようなやり取りだった。

 

ほんの一瞬だけ、出久の胸に安堵が広がった。

 

自分を知っている人間がいる。

 

自分のことを見て、声をかけ、腹を立ててくれる人間がいる。

 

記録がどうなろうと、今この瞬間には、確かに自分を知る人々がいる。

 

そう思えた。

 

だが、その安堵は長く続かなかった。

 

「……ところで」

 

轟が、ふと首を傾げた。

 

「さっきの医療棟にいた人、誰だったんだ?」

 

空気が止まった。

 

出久は轟を見た。

 

「え?」

 

「医療棟の前で、誰かと話していただろ」

 

「……ああ」

 

出久は頷いた。

 

「帰還者の人だよ。家族に会いたいって言っていて……」

 

「名前は?」

 

轟が尋ねた。

 

出久は口を開いた。

 

しかし、言葉が出なかった。

 

「……」

 

先ほどと同じだった。

 

名前だけが、思い出せない。

 

「……ごめん」

 

出久は唇を噛んだ。

 

「名前が、出てこないんだ」

 

爆豪の顔から、険しい表情が消えた。

 

「どういうことだ?」

 

「分からない。でも、顔も声も覚えてる。話した内容も覚えてる。なのに、名前だけが……」

 

「緑谷」

 

爆豪の声が低くなる。

 

「そいつ、本当にいたのか?」

 

出久は、即座に答えた。

 

「いたよ」

 

「何を根拠に?」

 

「僕が話したから」

 

「お前の記憶だけか?」

 

「……」

 

出久は言葉を失った。

 

轟が、周囲を見回した。

 

「俺も、医療棟にいた人間の記録を見た覚えがある。だが、誰だったのか思い出せない」

 

お茶子が、顔を青ざめさせた。

 

「待って……。私も、さっき廊下で会った看護師さんの名前が……」

 

彼女は自分の端末を取り出した。

 

医療棟の勤務表を開く。

 

そこには、看護師たちの名前が並んでいた。

 

だが、一つの欄だけが空白になっていた。

 

名前だけではない。

 

勤務履歴も、所属部署も、過去の記録も。

 

すべてが失われていた。

 

その欄には、ただ一つの文字だけが残っていた。

 

欠番。

 

「……これ」

 

お茶子が震える声で言った。

 

「誰かが、消えてる……?」

 

爆豪は、端末を睨みつけた。

 

「消えたんじゃねえ」

 

「勝己君?」

 

「最初からいなかったことにされてんだ」

 

その言葉が、三人の間に落ちた。

 

出久は、医療棟の方を振り返った。

 

青年は、まだあの部屋にいるはずだ。

 

自分が誰なのかを覚えている。

 

母親に会いたいと願っている。

 

もう一度、人生をやり直したいと願っている。

 

それなのに。

 

世界は、彼の名前を消している。

 

そして今、彼らの記憶からも、その名前が失われようとしていた。

 

「……戻ろう」

 

出久は走り出した。

 

「緑谷!」

 

爆豪たちも、すぐに後を追った。

 

だが。

 

医療棟の扉を開けた瞬間。

 

出久は立ち止まった。

 

先ほどまで青年が座っていたベッドは、空になっていた。

 

医療スタッフが忙しそうに動き回っている。

 

看護師がカルテを確認している。

 

医師が検査結果を整理している。

 

誰も、異常に気づいていない。

 

「すみません!」

 

出久は近くの看護師に声をかけた。

 

「さっきまで、ここに患者さんがいたはずなんです!」

 

看護師は不思議そうな顔をした。

 

「患者さん、ですか?」

 

「はい! 男性の方で、帰還者の……」

 

「この病室には、患者さんはいませんでしたよ」

 

出久は、息を呑んだ。

 

「そんなはずありません! 僕は、さっきまでここで話していたんです!」

 

「緑谷君、落ち着いてください」

 

看護師の表情は、あくまで穏やかだった。

 

「ここは、現在空室です。入院患者の記録もありません」

 

「でも……!」

 

「緑谷」

 

爆豪が、出久の肩を掴んだ。

 

「見ろ」

 

ベッドの脇に置かれていたはずの椅子。

 

青年が飲んでいた水。

 

彼の荷物。

 

すべてが消えていた。

 

まるで、最初から誰も座っていなかったかのように。

 

出久は、震える手でベッドの柵を掴んだ。

 

「……いたんだ」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

「確かに、いたんだよ……!」

 

声が震えた。

 

「僕は、話したんだ。彼は、生きていたんだ……!」

 

しかし、医療スタッフは困惑するばかりだった。

 

彼らにとって、この病室は空室だった。

 

記録上も、現実の認識上も。

 

誰も入院していなかった。

 

誰も、帰還していなかった。

 

誰も、消えていなかった。

 

ただ、出久だけが覚えていた。

 

その事実を。

 

第四節 存在を証明するための証拠

「全員、端末を出せ」

 

爆豪の声が、仮設会議室に響いた。

 

集められたのは、出久、お茶子、轟、相澤、そして数名の医療関係者だった。

 

相澤は、報告を聞き終えると、机に両肘をついた。

 

「整理するぞ」

 

疲労の色が濃い顔だったが、その目は鋭かった。

 

「第一に、緑谷は帰還者と接触した。第二に、その帰還者に関する記録が消失した。第三に、接触した緑谷たちの記憶にも、欠損が発生している」

 

「はい」

 

「第四に、病室そのものの記録には、最初から患者がいなかったことになっている」

 

「……そうです」

 

出久は頷いた。

 

相澤は、しばらく黙っていた。

 

「緑谷。お前は、その人物が確かに存在していたと断言できるか?」

 

「できます」

 

即答だった。

 

「顔も、声も、会話の内容も覚えています。彼が何を考えていたのかも、どうして家族に会いたいと思っていたのかも」

 

「だが、名前は?」

 

「……思い出せません」

 

「物証は?」

 

出久は、言葉に詰まった。

 

青年の荷物は消えていた。

 

病室の記録も消えた。

 

会話を記録した端末もない。

 

看護師は、青年の存在を覚えていない。

 

彼が確かに存在していたことを示す証拠は、何一つ残っていなかった。

 

「……ありません」

 

相澤は目を閉じた。

 

「そうか」

 

その一言は、出久を責めるものではなかった。

 

ただ、現状を認めるための言葉だった。

 

「なら、次は証拠を残す方法を考える」

 

出久は顔を上げた。

 

「先生……」

 

「記録が消えるなら、記録以外の方法を探す。記憶が消えるなら、記憶に依存しない方法を探す。どんな現象にも、観測できる変化があるはずだ」

 

相澤は、机の上に端末を置いた。

 

「世界が何をしているのか分からない以上、こちらも一つの方法に依存するわけにはいかない」

 

「でも、もし世界が、証拠そのものを消しているなら……」

 

轟が言った。

 

「その証拠を残すこと自体が、異常を引き起こす可能性もある」

 

「だからといって、何もしない理由にはならない」

 

相澤は即座に答えた。

 

「俺たちは教師だ。分からないことを、分からないまま生徒に押しつけるわけにはいかない」

 

お茶子が、そっと手を挙げた。

 

「先生。記録が消えても、本人が覚えているなら、まだできることはありますよね?」

 

「何だ?」

 

「本人に、自分のことを話してもらうんです」

 

全員が、お茶子を見た。

 

「その人がどこで生まれたのか。誰と暮らしていたのか。何が好きだったのか。誰に会いたいのか。記録が消えても、本人の中には残っていることがあるかもしれません」

 

「本人の記憶も消される可能性がある」

 

相澤は指摘した。

 

「はい。でも、だからこそ、今のうちに聞いておくんです」

 

お茶子は、端末を握りしめた。

 

「世界がその人を忘れさせようとするなら、忘れてしまう前に、本人が自分のことを話せる場所を作りたいんです」

 

「……」

 

「その人が自分の名前を覚えているなら、私たちが書き留める。家族の名前を覚えているなら、家族のことも。好きだったものも、嫌いだったものも。どんな人生を送ってきたのかも」

 

お茶子は、出久を見た。

 

「記録が消えても、その人が生きてきた時間まで、なかったことにしたくないから」

 

出久は、静かに頷いた。

 

それは、完璧な解決策ではない。

 

記録が消えれば、書き留めた文章も消えるかもしれない。

 

記憶が失われれば、本人が語れることも少なくなるかもしれない。

 

それでも、何もしないよりはいい。

 

「……やってみよう」

 

出久は言った。

 

「本人の話を聞いて、複数の方法で残す。紙にも、音声にも、映像にも。誰か一人の記憶だけに頼らない形で」

 

「だが、名前が消えたらどうする?」

 

爆豪が尋ねた。

 

「そのときは……」

 

出久は考えた。

 

名前が消えたら。

 

名前を呼べなくなったら。

 

本人が誰なのか分からなくなったら。

 

それでも、その人が生きていることを証明できるのか。

 

「……名前以外のことを覚えていればいい」

 

出久は答えた。

 

「声や、話し方や、好きなもの。どんなことに怒るのか、何を大切にしているのか。名前だけが、その人のすべてじゃないから」

 

爆豪は、わずかに目を細めた。

 

「……甘いな」

 

「うん」

 

出久は否定しなかった。

 

「でも、今はそれでもいいと思う」

 

「別に、甘いこと自体を否定してんじゃねえよ」

 

爆豪は腕を組んだ。

 

「甘いだけで勝てると思うなって言ってんだ」

 

「……うん」

 

「記録を消す仕組みがあるなら、そいつが何を基準に消してんのか調べる。基準があるなら、その基準を突き崩す。そもそも基準がねえなら、そんなもんを基準にしてる仕組み自体が異常だ」

 

轟が頷いた。

 

「原因を探る必要があるな」

 

相澤も同意した。

 

「緑谷たちは、記録の保存を試みろ。俺は雄英側のシステムを調べる。医療棟の記録と、監視カメラの記録も確認する」

 

「先生、お願いします」

 

出久は深く頭を下げた。

 

相澤は、その姿を見て小さく息を吐いた。

 

「礼は、原因が分かってからにしろ」

 

そのときだった。

 

会議室の端末が、一斉に鳴った。

 

通知音が重なり、室内に不気味な響きを生む。

 

全員が画面を確認した。

 

雄英高校の在籍管理システム。

 

医療棟の患者管理システム。

 

教職員の勤務記録。

 

校内ネットワーク。

 

そのすべてに、同じ文章が表示されていた。

 

存在記録の整合性を確認しています。

 

不整合対象――緑谷出久。

 

関連対象――麗日お茶子。

 

関連対象――轟焦凍。

 

関連対象――爆豪勝己。

 

修正処理の優先順位を更新しました。

 

「……何だ、これは」

 

相澤が立ち上がった。

 

画面が、次々に切り替わっていく。

 

出久の名前に、赤い線が引かれた。

 

お茶子の名前が、点滅する。

 

轟の在籍記録が、断続的に消えては戻る。

 

爆豪の個人情報に、未知のエラーが発生する。

 

「おい、クソが!」

 

爆豪が端末を叩いた。

 

「ふざけんじゃねえぞ!」

 

だが、表示は止まらない。

 

そのとき、相澤の端末に新しい通知が現れた。

 

対象者の存在を確認できません。

 

相澤は、画面を見つめた。

 

「……緑谷」

 

彼は、目の前にいる生徒を見た。

 

「お前の名前が、消え始めている」

 

出久は、自分の手を見た。

 

指先は、そこにある。

 

身体も、声も、記憶も。

 

何一つ失われていない。

 

それなのに。

 

世界は、自分の存在を否定し始めていた。

 

第五節 少女は、自分の罪を探している

その頃。

 

世界の記録の奥深く。

 

白い墓地に、一人の少女が立っていた。

 

墓石には、名前が刻まれていない。

 

どの墓にも、誰が眠っているのかを示す文字はなかった。

 

ただ、墓石の数だけは、無数に存在していた。

 

少女は、その一つの前にしゃがみ込んだ。

 

「……ここに、誰かがいるの?」

 

返事はない。

 

少女は墓石に手を触れた。

 

冷たい。

 

けれど、死者が眠っているという確信もなかった。

 

ここには、何かがある。

 

何かがあった。

 

そのことだけは、分かる。

 

「ごめんなさい」

 

少女は、誰にともなく呟いた。

 

「私が、悪かったの?」

 

墓石の表面に、文字が浮かび上がった。

 

罪状――未確定。

 

少女は、それを見つめた。

 

「未確定……?」

 

その文字の下に、新たな文章が現れる。

 

罪を犯した者――患者番号零。

 

少女の顔が、こわばった。

 

「……私?」

 

彼女は、自分の胸に手を当てた。

 

そこに心臓があることを確かめるように。

 

自分がここにいることを、確かめるように。

 

「私が、何かしたの?」

 

文字は答えない。

 

「誰かを傷つけたの?」

 

沈黙。

 

「誰かを殺したの?」

 

その問いを口にした瞬間、少女の頭の中に、断片的な映像が浮かんだ。

 

白い光。

 

崩れていく世界。

 

何かを抱きしめている、小さな手。

 

そして。

 

誰かの声。

 

――忘れないで。

 

少女は頭を抱えた。

 

「……っ!」

 

映像は、すぐに消えた。

 

思い出せない。

 

誰の声だったのか。

 

何を抱きしめていたのか。

 

何が崩れていたのか。

 

何一つ、分からなかった。

 

ただ、胸の奥に、どうしようもない痛みだけが残っていた。

 

「私……」

 

少女は震える唇を開いた。

 

「私は、何をしたの……?」

 

墓地の奥から、足音が聞こえた。

 

振り返ると、そこに黒い影が立っていた。

 

人間のような輪郭をしている。

 

しかし、顔はなかった。

 

その姿は、見る者によって違って見えるのかもしれない。

 

少なくとも、少女には、それが何者なのか分からなかった。

 

「……あなたは、誰?」

 

影は答えなかった。

 

「私を知っているの?」

 

沈黙。

 

「私が、誰かを殺したって、本当なの?」

 

影が、ゆっくりと首を傾けた。

 

「あなたは、それを知りたいのですか」

 

声は、男とも女ともつかなかった。

 

どこか遠くから聞こえるようでありながら、少女の耳元で囁かれているようでもあった。

 

少女は頷いた。

 

「知りたい」

 

「なぜ?」

 

「だって……」

 

少女は、拳を握りしめた。

 

「もし、私が誰かを傷つけたのなら、謝りたいから」

 

影は動かなかった。

 

「もし、私が誰かを殺したのなら……」

 

少女の声が震える。

 

「その人が、どんな人だったのかを知りたい。何を好きだったのか、何を大切にしていたのか、どんな未来を生きたかったのか」

 

少女は顔を上げた。

 

「私が、その未来を奪ったのなら、私はそれを知らなきゃいけない」

 

影は、長い沈黙の後に答えた。

 

「あなたは、罪を認めたいのですか」

 

「……違う」

 

少女は首を横に振った。

 

「罪があるなら、知りたいの」

 

「同じことではありませんか」

 

「違うよ」

 

少女は、はっきりと言った。

 

「罪があるって決められていることと、本当に罪を犯したことは、同じじゃない」

 

その言葉に、影の輪郭がわずかに揺れた。

 

少女は続けた。

 

「私が何をしたのか分からないのに、私が悪いって決められている。誰が傷ついたのかも分からないのに、私が罪を犯したって書いてある」

 

彼女は、墓石を指さした。

 

「でも、ここには何もない」

 

無数の墓石。

 

名前のない死者たち。

 

記録されない人生。

 

「私は、自分が悪いことをしたのなら、逃げたくない」

 

少女の目から、涙が落ちた。

 

「でも、誰かが私を悪い人だって決めたからって、それだけで全部を信じることもできない」

 

影は、少女を見つめていた。

 

顔がないのに、見られていると分かった。

 

「……あなたは、誰かを救いたいのですね」

 

「分からない」

 

少女は答えた。

 

「私が誰かも分からないのに、誰かを救いたいなんて言っていいのかも分からない」

 

「では、あなたは何を望むのですか」

 

少女は、長い時間、考えた。

 

そして。

 

「……誰かに、私のことを教えてほしい」

 

そう答えた。

 

「私が何をしたのか。何を願ったのか。誰を傷つけたのか。誰を大切に思っていたのか」

 

彼女は、震える手を胸に当てた。

 

「それを知ったうえで、私は自分がどう生きるのかを決めたい」

 

影は何も言わなかった。

 

少女は、目を伏せた。

 

「……私には、名前がない」

 

その言葉は、彼女自身に向けられたものだった。

 

「名前がないから、誰も私を呼べない。私が誰なのか、誰も分からない。私がここにいることだって、誰も証明できない」

 

少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「でも、私はいる」

 

その瞬間。

 

墓地全体が、震えた。

 

無数の墓石に、亀裂が走る。

 

白い地面の下から、光が漏れ出した。

 

影が初めて、一歩後ずさった。

 

「……何をしたのです」

 

少女は、驚いたように周囲を見た。

 

「何もしてないよ」

 

「あなたが、自分の存在を主張した」

 

「……それが、いけないことなの?」

 

影は答えなかった。

 

代わりに、墓地の空に巨大な文字列が浮かび上がった。

 

存在否定に対する抵抗を検出。

 

対象――患者番号零。

 

第一接続者との共鳴を確認。

 

少女は、その文字を見上げた。

 

「第一……接続者?」

 

胸の奥が、痛んだ。

 

知らないはずの言葉だった。

 

けれど、彼女はその言葉を知っているような気がした。

 

影が、低い声で呟く。

 

「……まだ、あなたは思い出してはいけない」

 

「どうして?」

 

「思い出せば、世界があなたを見つける」

 

「もう、見つかっているよ」

 

少女は言った。

 

「私の罪を記録しているんでしょう?」

 

「……」

 

「なら、隠れていても同じだよ」

 

少女は、影を見つめた。

 

「私は、自分が何をしたのか知りたい。誰かを傷つけたのなら、逃げたくない。でも、何も知らないまま、私の存在まで消されるのは嫌」

 

彼女の声は、震えていた。

 

それでも、言葉は途切れなかった。

 

「私は、私が何者なのかを知りたい」

 

墓地の光が、さらに強くなる。

 

「誰かに決められた罪だけで、私の全部を決められたくない」

 

影は、長い沈黙の後、初めて問い返した。

 

「もし、あなたが本当に世界を壊したのだとしても?」

 

少女は、息を呑んだ。

 

世界を壊した。

 

その言葉に、再び記憶の断片が浮かび上がった。

 

誰かの泣き声。

 

誰かの手。

 

崩壊する空。

 

そして、少女自身の声。

 

――こんな世界なら。

 

――最初から、なければよかった。

 

少女は、その場に膝をついた。

 

「……っ、あ……!」

 

映像が消える。

 

何が起きたのかは分からない。

 

けれど、今の言葉が自分自身のものだったような気がした。

 

世界を否定したのは、自分だったのかもしれない。

 

世界が生まれる前に。

 

自分自身の存在を否定したのも、自分だったのかもしれない。

 

少女は、震える声で尋ねた。

 

「……私は、本当に、そんなことをしたの?」

 

影は答えなかった。

 

ただ、彼女の前にしゃがみ込んだ。

 

「あなたが何をしたのか、私は知っているのかもしれません」

 

「……教えて」

 

「しかし、あなたが望む答えを、私が与えることはできない」

 

「どうして?」

 

「私が答えれば、あなたは私の言葉を、自分の記憶よりも信じるかもしれないからです」

 

少女は顔を上げた。

 

影の顔は、やはり存在しない。

 

「私は、あなたの罪を決める者ではありません」

 

影は言った。

 

「あなたを許す者でも、裁く者でもない」

 

「……じゃあ、あなたは何なの?」

 

影は、すぐには答えなかった。

 

やがて、静かに告げた。

 

「あなたが自分自身を思い出すまで、あなたの問いを聞く者です」

 

少女は、その言葉を繰り返した。

 

「……私の問いを、聞く者」

 

「はい」

 

「私が、誰なのか分からなくても?」

 

「はい」

 

「私が、世界を壊したのだとしても?」

 

影は、少しだけ沈黙した。

 

「あなたが何をしたのかを知る前に、あなたが何者であるかを決めることはできません」

 

その答えに、少女は泣いた。

 

何を思い出したわけでもない。

 

罪が消えたわけでもない。

 

自分が許されたわけでもない。

 

それでも。

 

初めて、自分の問いを否定されなかった。

 

少女は、泣きながら尋ねた。

 

「……私が、本当に悪い人だったら?」

 

影は答えた。

 

「そのときは、あなたが何をしたのかを、一緒に見届けましょう」

 

少女は、ゆっくりと頷いた。

 

その瞬間、墓地の奥に、もう一つの文字が浮かび上がった。

 

第一接続者の記録――部分復元。

 

罪状――世界成立以前における存在否定。

 

被害者――世界。

 

加害者――第一接続者。

 

判決――記録の永久欠損。

 

少女は、その文字を見つめた。

 

そして、震える声で呟いた。

 

「……私が、世界を否定したの?」

 

影は答えなかった。

 

少女は、涙を拭うことも忘れていた。

 

「じゃあ……」

 

彼女の声が、白い墓地に響く。

 

「世界が私を消そうとしているのは、私が世界を壊したからなの?」

 

その問いに。

 

初めて、影が明確な反応を示した。

 

「……違います」

 

少女は顔を上げた。

 

「え?」

 

「罪を犯した者を記録から消すことと、罪を犯した者の存在そのものを消すことは、同じではありません」

 

影は、少女の目を見た。

 

「仮にあなたが罪を犯したのだとしても、それはあなたが存在してはならない理由にはならない」

 

その言葉が、少女の胸に深く刻まれた。

 

「……でも」

 

少女は、唇を噛んだ。

 

「私が生きているせいで、誰かが苦しんでいるのかもしれない」

 

「そうかもしれません」

 

影は、否定しなかった。

 

「あなたが生きていることで、誰かが苦しんでいる可能性はあります」

 

少女の顔が曇る。

 

「ですが、あなたが存在しなければ、その苦しみが消えると決まったわけでもありません」

 

影は続けた。

 

「あなたを消せば、失われた記憶が戻るのでしょうか。あなたを消せば、死者が帰るべき場所を失わずに済むのでしょうか。あなたを消せば、世界が抱える矛盾はすべて解決するのでしょうか」

 

少女は答えられなかった。

 

「世界は、あなたを罪人と記録した。だが、その判決を下した者が何を守ろうとしているのか、私はまだ知りません」

 

影は立ち上がった。

 

「だから、あなた自身が答えを探さなければならない」

 

少女は、顔を上げた。

 

「……私が?」

 

「はい」

 

「私が、自分の罪を?」

 

「あなたが、自分の行いを」

 

影は言った。

 

「罪という言葉を使うのは、その後でも遅くはありません」

 

少女は、長い間、何も言わなかった。

 

そして、ようやく頷いた。

 

「……分かった」

 

彼女は、自分の手を握りしめた。

 

「私は、知りたい」

 

誰かを殺したのか。

 

世界を壊したのか。

 

誰かを救おうとしたのか。

 

それとも、誰かに救われようとしていたのか。

 

「私は、自分が何をしたのかを知りたい」

 

その願いに応えるように、墓地の奥で、一本の枝が光った。

 

世界樹に似た構造の、最も深い場所。

 

そこに刻まれていたのは、一つの記録だった。

 

第一接続者の最初の願い。

 

――誰かに、自分を覚えていてほしい。

 

少女は、その文字を見つめた。

 

「……誰かに、覚えていてほしい?」

 

その言葉を口にした瞬間、少女の胸に、奇妙な懐かしさが広がった。

 

自分がずっと、誰かに会いたかったような気がした。

 

自分の名前を呼んでくれる誰かに。

 

自分がここにいると、信じてくれる誰かに。

 

そして。

 

自分が何をしたとしても、その事実を一緒に見届けてくれる誰かに。

 

少女は、小さく呟いた。

 

「……私は、誰に覚えていてほしかったんだろう」

 

その問いに、答える者はいなかった。

 

ただ、遠い場所で。

 

誰かが、少女の存在を認識した。

 

第六節 緑谷出久という記録

雄英高校。

 

会議室では、異常の拡大が続いていた。

 

「在籍記録が、また一つ消えました!」

 

職員の声が響く。

 

「対象は?」

 

相澤が尋ねた。

 

「……緑谷出久です」

 

「またか」

 

爆豪が舌打ちした。

 

「何度も何度も、しつけえんだよ!」

 

出久は、端末を見つめていた。

 

画面には、自分の情報が表示されている。

 

名前。

 

生年月日。

 

血液型。

 

家族構成。

 

雄英高校への入学記録。

 

これまでの活動履歴。

 

一見すると、何の問題もない。

 

しかし、詳細を開くと、いくつもの項目が空白になっていた。

 

個性――記録なし。

 

保護者情報――一部不整合。

 

過去の戦闘記録――照合不能。

 

在籍証明――確認待ち。

 

そして。

 

本人確認――失敗。

 

出久は、自分の名前を見つめた。

 

「……僕は、緑谷出久です」

 

小さな声だった。

 

「僕は、ここにいます」

 

自分に言い聞かせるように、もう一度呟いた。

 

「僕は……」

 

その瞬間、頭の奥に、何かが触れた。

 

遠い記憶。

 

誰かの声。

 

自分の名前を呼ぶ、優しい声。

 

――出久。

 

母の声だった。

 

出久は、目を見開いた。

 

そうだ。

 

自分には、母がいる。

 

自分を生んでくれた人がいる。

 

自分が何を失っても、自分のことを知っている人がいる。

 

彼は端末を握りしめた。

 

「……母さん」

 

その言葉が、なぜかひどく遠く感じられた。

 

記録が消える。

 

存在が否定される。

 

世界が自分を認識しなくなる。

 

それがどんな現象なのか、まだ分からない。

 

だが、一つだけ分かったことがある。

 

自分が消されるとき、最初に失われるのは、身体ではないのかもしれない。

 

他人が自分を認識するための根拠。

 

自分が誰なのかを知るための手がかり。

 

自分が生きてきた時間を証明するもの。

 

そして、その先にあるもの。

 

自分を自分だと信じるための、何か。

 

「……緑谷」

 

相澤の声に、出久は顔を上げた。

 

「今、何か変化があったか?」

 

出久は、少し迷った。

 

「……はい」

 

「何だ?」

 

「母さんのことを、考えました」

 

相澤は黙って続きを待った。

 

「僕が、緑谷出久だってことを証明するなら、母さんに聞けばいい。僕が生まれたときのことも、子供のころのことも、僕がどんな人間だったのかも……」

 

「それだけで十分か?」

 

「分かりません」

 

出久は正直に答えた。

 

「でも、僕が誰なのかを知っている人は、記録の外にもいるはずです」

 

お茶子が、頷いた。

 

「そうだよ。私たちだって、出久君のことを知ってる」

 

轟も続いた。

 

「記録に残っていなくても、俺たちが一緒に過ごした時間はある」

 

「……ああ」

 

爆豪は、腕を組んだまま言った。

 

「俺は、てめえのクソみてえなノートのことまで覚えてる」

 

「クソみたいって……!」

 

「細けえことまで書いてやがっただろうが!」

 

「それは、分析のためで……」

 

「知るか!」

 

いつもの調子だった。

 

出久は、少しだけ笑った。

 

だが、その笑顔はすぐに消えた。

 

「……でも」

 

彼は、自分の端末を見た。

 

「僕たちが覚えていても、その記憶まで消されたら……」

 

誰も、すぐには答えられなかった。

 

記憶が消える。

 

名前が消える。

 

関係が消える。

 

それでも、本人は生きている。

 

その状況で、何を根拠に存在を証明すればいいのか。

 

自分を知る人間がいなくなったとき、人は自分が存在していることを、どのように証明すればいいのか。

 

その問いは、単なる哲学ではなかった。

 

今まさに、彼らの目の前で起きている現実だった。

 

「……一つだけ、確かなことがある」

 

出久は言った。

 

全員が、彼を見た。

 

「僕たちは、まだ忘れていません」

 

彼は、一人ずつ顔を見た。

 

「だから、今のうちにできることをします。記録が消えても、記憶が消えても、その人が生きていたことを、簡単になかったことにはさせません」

 

相澤は、静かに頷いた。

 

「なら、まずはお前の存在記録を保護する方法を探す」

 

「はい」

 

「同時に、患者番号零の調査も進める。お前の記録と、そいつの記録が関係している可能性がある」

 

出久は顔を上げた。

 

「患者番号零……」

 

その名前を口にした瞬間、端末が反応した。

 

画面に、一つの警告が浮かぶ。

 

患者番号零との接続反応を検出。

 

対象――緑谷出久。

 

第一接続者との共鳴――再確認。

 

室内が静まり返った。

 

「……共鳴?」

 

轟が呟く。

 

「どういうことだ?」

 

相澤が端末を操作する。

 

しかし、詳細情報は開けなかった。

 

アクセス権限がない。

 

その表示すら、数秒後には消えた。

 

「今の、見たよな?」

 

爆豪が尋ねた。

 

「うん」

 

出久は答えた。

 

「患者番号零と、僕の記録がつながっている……?」

 

お茶子が、不安そうに出久を見た。

 

「出久君、患者番号零って……」

 

「分からない」

 

出久は首を横に振った。

 

「でも、僕はその人を知らないはずなんだ」

 

知らないはずだった。

 

会ったこともない。

 

名前も知らない。

 

どんな人生を送ったのかも分からない。

 

それなのに。

 

彼女が、自分のことを思い出そうとしている。

 

自分の罪を知ろうとしている。

 

誰かに覚えていてほしいと願っている。

 

その気配だけが、なぜか胸の奥に触れていた。

 

出久は、目を閉じた。

 

そして、心の中で問いかけた。

 

――あなたは、誰なんですか。

 

返事はなかった。

 

だが、その直後。

 

端末の画面に、今まで存在しなかった文字が浮かび上がった。

 

応答を確認。

 

接続先――未登録。

 

発信者――患者番号零。

 

出久は、息を呑んだ。

 

第七節 名前のない少女からの通信

デウス・マキナの観測室。

 

観測者は、発生した通信を見て、息を止めた。

 

「……接続が成立した?」

 

「どういうことだ」

 

死神が問いかける。

 

「患者番号零から、緑谷出久への接続です。ですが、通常の通信経路は使われていません」

 

「では、どこを通った?」

 

「記録領域を経由しているようです」

 

死神は眉をひそめた。

 

「記録領域……。あの少女は、世界の記録の中から出久に接続したというのか?」

 

「正確には、記録の中に存在する経路を使ったのではなく……」

 

観測者は、画面を凝視した。

 

「記録に存在しない経路を、作り出したように見えます」

 

死神の表情が変わった。

 

「そんなことが可能なのか?」

 

「分かりません。ですが、これまでの異常とは性質が違います」

 

画面には、二つの記録が表示されていた。

 

一つは、緑谷出久。

 

もう一つは、患者番号零。

 

本来なら、両者の間に接続関係は存在しない。

 

出久は少女を知らない。

 

少女も、出久を知っているとは限らない。

 

それでも、二つの記録の間に、一本の細い光が伸びていた。

 

それは、何かを代償として差し出した痕跡ではなかった。

 

記憶の欠損もない。

 

生命力の減少もない。

 

存在情報の移転もない。

 

ただ、接続だけが成立している。

 

死神は、以前の調査を思い出した。

 

出久が、名前を明かせない少女の話を聞いたとき。

 

彼は、彼女に名前を強要しなかった。

 

過去を思い出すことも、罪を告白することも求めなかった。

 

ただ、話したいことがあれば聞く、と伝えた。

 

そのとき、何かが起きた。

 

第一接続者との共鳴。

 

そして今、再び。

 

「……観測者」

 

死神は言った。

 

「この接続は、誰が開始した?」

 

「患者番号零です」

 

「出久が何かを差し出した形跡は?」

 

「ありません」

 

「彼女が何かを奪った形跡は?」

 

「ありません」

 

死神は、目を閉じた。

 

「……そうか」

 

もし、この現象が正しいのなら。

 

世界の記録に接続するために、何かを失う必要はないのかもしれない。

 

誰かの記憶を犠牲にする必要も。

 

誰かの存在を代償にする必要も。

 

ただ、相手の声を聞こうとすること。

 

相手を、自分の都合で定義しないこと。

 

それだけで、接続が生まれる可能性がある。

 

もちろん、まだ仮説にすぎない。

 

出久と少女の接続が特別なものなのかもしれない。

 

第一接続者との共鳴が、通常の法則を無効化している可能性もある。

 

だが、それでも。

 

「……これは、重要な手掛かりだ」

 

死神は呟いた。

 

「記録を失わずに、接続できる」

 

観測者が顔を上げた。

 

「あなたは、この現象が世界の修正に対抗する手段になると考えているのですか?」

 

「まだ、そこまでは言えない」

 

死神は画面を見つめた。

 

「だが、少なくとも、世界が記録を通じて人間を否定しているなら、記録だけに頼らない接続が可能だということになる」

 

「記録に頼らない接続……」

 

「人間が誰かを覚えていることと、世界がその人間を記録していることは、同じではない。ならば、世界の記録が失われたとしても、人間同士のつながりまで失われるとは限らない」

 

死神は、そこで言葉を切った。

 

「……いや」

 

彼は、自分の言葉を訂正した。

 

「失われないとは限らない、というだけだ。実際に、彼らの記憶は消え始めている」

 

「はい」

 

「だから、接続を保つ方法を探す必要がある」

 

そのとき。

 

画面に、少女の映像が浮かび上がった。

 

白い墓地。

 

名前のない墓石。

 

そして、その前に立つ少女。

 

彼女は、どこか遠くを見つめていた。

 

死神は、少女の姿を見た瞬間、胸の奥に痛みを覚えた。

 

知らない顔だった。

 

知らないはずの少女だった。

 

それなのに。

 

彼女が何者なのかを、自分は知っているような気がした。

 

「……君は」

 

死神は、無意識に呟いた。

 

少女が、顔を上げた。

 

まるで、こちらの声が聞こえたかのように。

 

「……誰かが、私を呼んだ?」

 

観測者が息を呑む。

 

「こちらの声は、届いていないはずです」

 

「分かっている」

 

死神は画面を見つめた。

 

少女は、ゆっくりと周囲を見回した。

 

「誰か、いるの?」

 

死神は答えようとした。

 

しかし、その瞬間。

 

頭の中に、別の声が響いた。

 

――あなたは、私を忘れたのではありません。

 

――あなたは、私を覚えることができなかったのです。

 

死神は、目を見開いた。

 

以前、夢の中で聞いた声。

 

自分が誰かの存在を守るために、最初の記録を差し出したのかもしれないという、あの記憶。

 

少女の姿が、その記憶と重なった。

 

だが、顔は違う。

 

声も違う。

 

年齢も違う。

 

何一つ、同じではない。

 

それなのに、なぜ。

 

「……まさか」

 

死神は、額を押さえた。

 

「君が、俺の記憶に……?」

 

少女は、画面の向こうで首を傾げた。

 

「……私を知っているの?」

 

その問いが、死神の胸を貫いた。

 

知っている。

 

知らない。

 

覚えている。

 

覚えていない。

 

その境界が、少しずつ崩れていく。

 

「……俺は」

 

死神は、言葉を探した。

 

「君を、知らない」

 

少女は、目を伏せた。

 

「……そう」

 

その反応に、死神は思わず声を上げた。

 

「だが!」

 

少女が顔を上げる。

 

死神は、強く言った。

 

「知らないからといって、君が存在しないことにはならない!」

 

少女の目が、大きく見開かれた。

 

「君が何をしたのか、俺には分からない。君が誰なのかも、まだ分からない。君が第一接続者なのか、それとも別の誰かなのかも、断定できない!」

 

死神は、画面に向かって言葉を続けた。

 

「だが、君が自分の罪を知りたいと願っていることは分かる。自分が何者なのかを知りたいと願っていることも分かる!」

 

彼は、拳を握った。

 

「だから、君の問いを聞く!」

 

観測室が静まり返った。

 

少女は、しばらく死神を見つめていた。

 

やがて、震える声で尋ねた。

 

「……私が、誰かを殺したのだとしても?」

 

死神は答えた。

 

「そのときは、何が起きたのかを調べる!」

 

「私が、世界を壊したのだとしても?」

 

「そのときは、なぜ世界を壊したのかを調べる!」

 

「私が、世界に存在してはいけない人間だったとしても?」

 

死神は、即答した。

 

「誰が、そんなことを決めた!」

 

少女は息を呑んだ。

 

死神は続けた。

 

「君が罪を犯したなら、その罪から目を背けるわけにはいかない。君が誰かを傷つけたなら、その人の苦しみをなかったことにもできない。だが、だからといって、君の存在そのものを否定していい理由にはならない!」

 

声が、観測室に響いた。

 

「罪を犯した人間にも、存在する権利はある。自分の行いと向き合う機会も、償いを選ぶ機会もある!」

 

死神は、少女を見つめた。

 

「君の過去を、俺たちが勝手に決めることはしない。君の未来も、世界の記録に決めさせるつもりはない!」

 

少女の目から、涙が落ちた。

 

「……どうして?」

 

彼女は、呟いた。

 

「どうして、あなたは……私のことを知らないのに、そんなことを言えるの?」

 

死神は、答えに詰まった。

 

なぜだろう。

 

なぜ、自分はこんなにも必死になっているのだろう。

 

彼女のことを知らない。

 

彼女の罪も知らない。

 

彼女が世界に何をしたのかも分からない。

 

それなのに、彼女が世界から消されることだけは、どうしても許せなかった。

 

「……分からない」

 

死神は、正直に答えた。

 

「だが、君が自分のことを知りたいと願っているなら、その願いを聞くことくらいはできる」

 

少女は、泣きながら頷いた。

 

「……ありがとう」

 

その言葉と同時に、接続が揺らいだ。

 

映像が乱れる。

 

墓地の光が弱まる。

 

少女の姿が、少しずつ遠ざかっていく。

 

「待て!」

 

死神が叫んだ。

 

「まだ、聞きたいことがある!」

 

少女は、かすかに笑った。

 

「……私も」

 

「君の名前は?」

 

少女は、首を横に振った。

 

「……分からない」

 

「なら、今はそれでいい!」

 

死神は叫んだ。

 

「名前が分からなくても、君がここにいることは分かった!」

 

少女は、何かを言おうとした。

 

だが、声は届かなかった。

 

映像が消える。

 

接続が切断される。

 

観測室に、静寂が戻った。

 

死神は、しばらく画面を見つめていた。

 

そして、小さく呟いた。

 

「……今は、それでいい」

 

彼女の名前は、まだ分からない。

 

彼女の罪も、まだ分からない。

 

それでも。

 

彼女が存在していることだけは、確かだった。

 

第八節 消える名前、残る罪

通信が途切れた直後。

 

デウス・マキナに、新たな警告が表示された。

 

観測者が、画面を見て息を呑んだ。

 

「……これは」

 

「どうした?」

 

「患者番号零の記録が、更新されています」

 

死神が画面を確認する。

 

先ほどまで表示されていた「罪状――未確定」の文字が、消えていた。

 

代わりに、新たな記録が現れている。

 

罪状――存在否定。

 

対象――第一接続者。

 

被害者――世界。

 

加害者――第一接続者。

 

判決――確定。

 

「……何だ、これは」

 

死神は眉をひそめた。

 

「さっきまで、罪状は未確定だったはずだ」

 

「はい。通信が成立した直後に更新されました」

 

「彼女が自分の存在を主張したことが、判定に影響したのか?」

 

「可能性はあります」

 

観測者は、別の画面を開いた。

 

「ですが、もっと奇妙なことが起きています」

 

「何だ?」

 

「罪状が確定したにもかかわらず、第一接続者の存在記録は復元されていません」

 

死神は、画面を見つめた。

 

「……つまり、罪だけが残った?」

 

「はい」

 

世界は、彼女が存在したという記録を消している。

 

しかし、彼女が罪を犯したという記録だけは残している。

 

罪を犯した者の名前が失われても、罪状は消えない。

 

被害者が誰だったのか分からなくなっても、判決は残る。

 

誰が裁いたのかも分からない。

 

何を根拠に裁いたのかも分からない。

 

それでも、世界は「罪が確定した」と記録している。

 

死神は、拳を握った。

 

「……こんなものは、裁きじゃない」

 

観測者は、静かに答えた。

 

「私も、そう思います」

 

「なら、どうして残っている?」

 

「分かりません」

 

死神は、画面を見つめた。

 

「……いや」

 

彼は、ゆっくりと言った。

 

「もしかすると、残しているのではないのかもしれない」

 

「どういう意味です?」

 

「世界が、罪を忘れられないんだ」

 

観測者は黙った。

 

「誰かが罪を犯した。世界は、その罪を記録した。だが、何らかの理由で、その人物の存在を記録できなくなった」

 

死神は、画面の文字列を追った。

 

「その結果、罪だけが残った。あるいは、世界が存在を消そうとするたび、罪の記録だけが切り離されて残る」

 

「……罪が、存在から切り離されている?」

 

「仮説だ」

 

死神は強調した。

 

「だが、もしそうなら、これは単に少女を消そうとしているだけではない。世界は、彼女の存在を否定しながら、彼女の罪を永久に保存しようとしている可能性がある」

 

観測者は、静かに息を吐いた。

 

「それでは、彼女には償う機会すらありません」

 

「そうだ」

 

死神は答えた。

 

「罪を犯した者から、罪と向き合う機会を奪っている」

 

「被害者も、加害者も、記録から失われる。それでも、罪だけは存在し続ける……」

 

「そんな世界を、安寧と呼ぶのか?」

 

死神の声には、怒りがあった。

 

安寧。

 

誰も傷つかない世界。

 

誰も失わない世界。

 

誰も悲しまない世界。

 

そのために、選択を奪い、矛盾を消し、記録を書き換えるシステム。

 

もし、それがこの現象の根底にあるのなら。

 

世界は、何を守ろうとしているのか。

 

誰を守ろうとしているのか。

 

そして、誰を犠牲にしているのか。

 

観測者が、別の画面を表示した。

 

「……死神」

 

「何だ?」

 

「緑谷出久の記録にも、同じ変化が現れています」

 

死神は、画面を見た。

 

出久の名前は、まだ残っている。

 

だが、その周囲に、新たな文字が刻まれていた。

 

対象者に関する不整合――増加。

 

第一接続者との共鳴――継続。

 

存在否定処理――保留。

 

死神は目を細めた。

 

「保留?」

 

「はい。通常なら、存在記録の修正処理が進むはずですが、緑谷出久の記録だけは、判定が確定していません」

 

「なぜだ?」

 

「分かりません。ただ、患者番号零との接続が成立した直後から、処理が停止しています」

 

死神は、深く考え込んだ。

 

出久が、何かをしたわけではない。

 

少女に名前を与えたわけでもない。

 

過去を思い出させたわけでもない。

 

ただ、彼女の問いを聞いた。

 

それだけだった。

 

「……出久が、記録の判定を保留させている?」

 

「その可能性はあります」

 

「そんなことが……」

 

死神は言葉を切った。

 

以前、彼は出久と話したことがある。

 

出久は、自分の個性を失った後も、誰かを救おうとする意志を捨てなかった。

 

自分が何を失ったのか。

 

何を取り戻せないのか。

 

それでも、目の前の誰かが苦しんでいるなら、手を伸ばそうとする。

 

その姿勢が、今回の現象と関係しているのだろうか。

 

世界の記録が人間を定義しようとする一方で、出久は記録だけでは人間を定義できないと考えている。

 

記録がないから存在しないのではない。

 

名前がないから人間ではないのではない。

 

罪があるから、存在そのものが否定されるわけではない。

 

その考え方が、世界の修正処理と衝突しているのかもしれない。

 

だが。

 

「……危険だな」

 

死神は呟いた。

 

「何がです?」

 

「出久の記録が、世界の修正に対する障害になっているとしたら、次に狙われるのはあいつ自身だ」

 

観測者は、顔を強張らせた。

 

「すでに、処理対象になっています」

 

「分かっている」

 

死神は、画面から目を離さなかった。

 

「だからこそ、急がなければならない」

 

「何を?」

 

「少女の正体を調べる。第一接続者の記録を調べる。世界が何を根拠に存在を否定しているのかを調べる」

 

死神は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「そして、出久を守る」

 

その瞬間。

 

画面が、再び明滅した。

 

今度は、出久の記録だけではなかった。

 

死神自身の記録にも、異常が現れていた。

 

対象――死神。

 

存在記録――不整合。

 

記憶領域――欠損。

 

第一接続者との関連――判定不能。

 

死神は、息を止めた。

 

「……俺まで、か」

 

観測者が振り返る。

 

「死神?」

 

死神は、画面を見つめた。

 

そこには、さらに一つの記録が浮かび上がっていた。

 

過去の記録を復元しますか?

 

対象――死神。

 

復元に必要な代償――未確定。

 

死神は、指を動かさなかった。

 

過去を知りたい。

 

失った記憶を取り戻したい。

 

第一接続者が何者なのかを知りたい。

 

自分が誰を忘れたのか。

 

自分が何を差し出したのか。

 

その答えを知りたいという願いは、確かにあった。

 

しかし。

 

「……代償が未確定、か」

 

死神は、静かに呟いた。

 

「また、誰かに何かを差し出させるつもりか」

 

画面は、答えなかった。

 

彼は、復元の選択肢を閉じた。

 

「今は、使わない」

 

観測者が尋ねる。

 

「記憶を取り戻す機会を、手放すのですか?」

 

「違う」

 

死神は答えた。

 

「代償が分からないまま、選ぶわけにはいかない」

 

彼は、画面を見つめた。

 

「俺が記憶を取り戻すために、誰かの存在が失われるのなら。それは、俺が望んでいた答えではない」

 

そう言って、彼は背を向けた。

 

だが、その背中を見つめながら、観測者は気づいていた。

 

死神は、何かを恐れている。

 

記憶を取り戻すことそのものではない。

 

記憶を取り戻した結果、自分が何をしてしまったのかを知ることを。

 

そして。

 

自分が忘れてしまった誰かが、今もなお、世界のどこかで苦しんでいるかもしれないことを。

 

第九節 母親だけが知っていること

緑谷家。

 

玄関の扉が開いた瞬間、出久は声を上げた。

 

「母さん!」

 

「出久?」

 

緑谷引子は、驚いた顔で振り返った。

 

「どうしたの、こんな時間に……」

 

出久は、母親の前に立った。

 

何を話せばいいのか、分からなかった。

 

世界の記録が消え始めている。

 

自分の名前が、存在が、世界から否定されるかもしれない。

 

そんな話を、どう切り出せばいいのか。

 

だが、引子はすぐに息子の異変に気づいた。

 

「……出久、何かあったの?」

 

その声を聞いた瞬間、出久の胸が苦しくなった。

 

母は、自分を知っている。

 

記録に頼らなくても。

 

証拠がなくても。

 

彼がどんな子供だったのかを知っている。

 

どんなことで泣き、どんなことで笑い、何を夢見ていたのかを知っている。

 

「……母さん」

 

出久は、ゆっくりと尋ねた。

 

「僕が、誰だか分かる?」

 

引子は、目を見開いた。

 

「……え?」

 

「僕は、緑谷出久だよね?」

 

「何を言ってるの、出久……?」

 

引子の表情が、みるみるうちに不安に変わった。

 

「もちろん、出久よ。私の息子でしょう?」

 

「……うん」

 

出久は頷いた。

 

分かっていた。

 

母なら、そう答えてくれると思っていた。

 

それでも、確かめずにはいられなかった。

 

「僕が生まれたときのこと、覚えてる?」

 

「覚えてるわよ」

 

引子は、息子の手を取った。

 

「あなたが生まれたとき、私は本当に嬉しかった。小さな手を握ったとき、こんなに小さな命が、自分の子供なんだって……」

 

彼女の声が、少し震えた。

 

「あなたが泣いたとき、私も泣いちゃったの。嬉しくて、嬉しくて……」

 

出久は、目を閉じた。

 

母の声。

 

手の温かさ。

 

自分を見つめる眼差し。

 

どれも、記録には収まりきらないものだった。

 

「……母さん」

 

出久は、母の手を握り返した。

 

「もし、僕の名前が消えたら?」

 

引子は、息を呑んだ。

 

「もし、僕が生きていることを、世界が認めなくなったら?」

 

「出久……」

 

「もし、みんなが僕のことを忘れてしまったら……」

 

声が、震えた。

 

「母さんは、僕を覚えていてくれる?」

 

引子は、息子を見つめた。

 

そして、ゆっくりと頷いた。

 

「覚えているわ」

 

「……本当に?」

 

「ええ」

 

彼女は、出久の頬に手を添えた。

 

「あなたが何を忘れても、私はあなたのことを覚えている。あなたが何を失っても、あなたが生きてきた時間は消えないわ」

 

出久は、唇を噛んだ。

 

「……でも、もし母さんまで忘れちゃったら?」

 

その問いに、引子はすぐには答えなかった。

 

彼女は、息子を抱きしめた。

 

「……そのときは」

 

小さな声だった。

 

「そのときは、もう一度、あなたのことを教えてちょうだい」

 

出久は、顔を上げた。

 

「え……?」

 

「私があなたのことを忘れてしまったなら、あなたが私に教えてくれればいいの」

 

引子は、涙を浮かべながら笑った。

 

「あなたがどんな子供だったのか。何が好きだったのか。どんな夢を持っていたのか。どんな人と出会って、どんなことを頑張ってきたのか」

 

彼女は、息子の手を握りしめた。

 

「たとえ一度忘れてしまっても、何度でも聞くわ。何度でも、あなたのことを知りたい」

 

出久の目から、涙がこぼれた。

 

「……母さん」

 

「あなたが、緑谷出久だということを、世界が認めてくれなくても」

 

引子は、はっきりと言った。

 

「私は、あなたの母親でいたい」

 

その言葉は、どんな記録よりも確かなものに思えた。

 

だが、その瞬間。

 

引子の表情が変わった。

 

彼女は、出久の顔を見つめたまま、ゆっくりと首を傾げた。

 

「……あれ?」

 

「母さん?」

 

「……出久?」

 

彼女の手が、わずかに震えた。

 

「……ごめんなさい」

 

引子は、戸惑ったように笑った。

 

「今、何か……変な感じがしたの」

 

出久は、母の手を握りしめた。

 

「何が?」

 

引子は、息子を見つめた。

 

「あなたのことを知っているはずなのに……」

 

声が、かすれた。

 

「……一瞬だけ、あなたが誰なのか、分からなくなったの」

 

出久の心臓が、強く打った。

 

「……母さん」

 

引子は、すぐに首を横に振った。

 

「ごめんなさい。大丈夫よ。今は分かる。あなたは、出久。私の息子……」

 

彼女は、出久の顔を見た。

 

その目には、確かに愛情があった。

 

だが、その奥に、ほんのわずかな空白が生まれていた。

 

「……出久」

 

引子は、もう一度、息子の名前を呼んだ。

 

「私の……」

 

言葉が止まった。

 

その瞬間、玄関の照明が明滅した。

 

引子の手元にあった写真立てが、床に落ちた。

 

ガラスが割れる。

 

写真には、幼い出久と、若い引子が写っていた。

 

二人とも、笑っている。

 

何の不安もなかった頃の、母と子の姿。

 

出久は、写真を拾い上げた。

 

だが。

 

写真の中の幼い少年の顔が、ぼやけていた。

 

引子の顔は、はっきりと残っている。

 

背景も、家具も、窓から差し込む光も、何一つ変わっていない。

 

ただ、少年の顔だけが、認識できない形に歪んでいた。

 

出久は、息を止めた。

 

「……嘘だ」

 

引子が、写真を覗き込んだ。

 

「……これは?」

 

彼女は、困惑したように呟いた。

 

「私、誰と写真を撮ったの……?」

 

出久の手から、写真立てが滑り落ちた。

 

床に落ちたガラスが、再び砕けた。

 

「……母さん」

 

出久は、声を絞り出した。

 

「僕だよ」

 

引子は、息子を見つめた。

 

「……出久?」

 

「僕だよ、母さん!」

 

出久は、彼女の手を握った。

 

「僕は、緑谷出久だよ!」

 

引子は、何かを思い出そうとするように、目を閉じた。

 

「……出久」

 

その唇が、かすかに動いた。

 

「……出久……」

 

彼女の目から、涙が落ちた。

 

「……どうして?」

 

引子は、震える声で尋ねた。

 

「どうして、あなたの顔が……思い出せないの……?」

 

出久は、答えられなかった。

 

母親の記憶から、自分が消え始めている。

 

世界の記録だけではない。

 

自分を生んでくれた人の記憶からも。

 

出久は、母を抱きしめた。

 

「……僕は、ここにいるよ」

 

声が震えた。

 

「母さん。僕は、ここにいるから……!」

 

引子は、息子を抱きしめ返した。

 

「……ごめんね」

 

彼女は、泣きながら言った。

 

「ごめんね、出久……」

 

その謝罪は、何に対するものだったのだろう。

 

息子を思い出せなくなったことか。

 

世界が息子を消そうとしていることか。

 

それとも。

 

母親として、何もできないことか。

 

出久には、分からなかった。

 

ただ、母の腕の中にいながら。

 

自分が少しずつ、世界から遠ざかっていくことだけは分かった。

 

第十節 それでも、あなたを呼ぶ

その夜。

 

緑谷家の居間には、二人分の湯飲みが置かれていた。

 

引子は、何度も出久の顔を見た。

 

そのたびに、何かを思い出そうとしていた。

 

「……出久」

 

「うん、母さん」

 

「あなたは……」

 

引子は、言葉を探した。

 

「あなたは、昔から、困っている人を見ると放っておけない子だったの?」

 

出久は、少し驚いた。

 

「……うん」

 

「そう……」

 

引子は、微笑んだ。

 

「そうなのね」

 

その表情は、どこか懐かしそうだった。

 

「私、あなたが小さい頃のことを、少しずつ思い出せなくなっているみたい」

 

出久は、黙って頷いた。

 

「でも、今のあなたを見ていると、分かる気がするの」

 

引子は、息子を見つめた。

 

「あなたは、きっと昔から、誰かを助けたいと思う子だったんでしょうね」

 

「……うん」

 

「それで、自分のことを後回しにしてしまう」

 

出久は、困ったように笑った。

 

「……それも、そうかもしれない」

 

引子は、少しだけ眉を下げた。

 

「それは、あまり良くないわね」

 

「……母さん?」

 

「誰かを助けたいと思うことは、悪いことじゃないわ。でも、自分のことを大切にしない理由にはならない」

 

彼女は、出久の手を握った。

 

「あなたが誰かを助けるために、自分がいなくなってしまったら……。助けられた人だって、きっと悲しむわ」

 

出久は、目を伏せた。

 

「……うん」

 

「だから、約束して」

 

引子は、息子を見つめた。

 

「自分のことも、守ってちょうだい」

 

出久は、長い間、答えられなかった。

 

彼は、誰かを助けたいと思っていた。

 

死者が帰ってきたのなら、その人たちが再び生きるための道を探したい。

 

世界が記録を失わせるのなら、その仕組みを止めたい。

 

名前を失った少女が、自分の罪を知りたいと願っているのなら、その問いに答えられるようにしたい。

 

けれど。

 

母が、自分を忘れ始めている。

 

その現実は、彼が考えていたどんな危険よりも、恐ろしかった。

 

「……約束するよ」

 

出久は、ようやく答えた。

 

「僕も、自分のことを守る」

 

引子は、安心したように頷いた。

 

「ありがとう」

 

二人は、しばらく黙っていた。

 

やがて、引子が小さく口を開いた。

 

「……ねえ、出久」

 

「うん?」

 

「あなたの名前は、どういう意味だったかしら」

 

出久は、目を見開いた。

 

母は、自分の名前の意味を忘れかけている。

 

自分がどんな思いで、その名前を与えたのか。

 

何を願って、その名前を呼んできたのか。

 

その記憶まで、失われ始めている。

 

出久は、静かに答えた。

 

「……久しく、出る」

 

「久しく……出る?」

 

「うん。ずっと先まで、歩いていけるように。長く生きていけるように……。そういう願いも、込められていたんだと思う」

 

引子は、目を閉じた。

 

「……そうだったわね」

 

その声は、かすかに震えていた。

 

「そう……。私は、あなたに……」

 

言葉が止まる。

 

引子は、額に手を当てた。

 

「……ごめんなさい。もう少しで、思い出せそうなのに……」

 

出久は、母の手を握った。

 

「大丈夫だよ」

 

「……出久」

 

「僕が覚えてるから」

 

出久は、母を見つめた。

 

「母さんが僕に何を願ってくれたのか、僕がどんな子供だったのか。僕が覚えていることは、僕が話すよ」

 

引子の目から、涙が落ちた。

 

「……ありがとう」

 

「だから、今は無理に思い出さなくてもいいんだ」

 

出久は、ゆっくりと笑った。

 

「母さんが僕のことを思い出せなくなっても、僕が母さんのことを忘れるわけじゃないから」

 

その言葉に、引子は顔を覆った。

 

泣いていた。

 

出久は、彼女のそばに座り続けた。

 

記録は、消えていく。

 

写真の顔が、認識できなくなる。

 

名前が、思い出せなくなる。

 

過去が、失われていく。

 

それでも、今ここにある時間までが、最初から存在しなかったことになるわけではない。

 

少なくとも、今の出久は、そう信じていた。

 

しかし。

 

その考えだけでは、足りなかった。

 

母が、自分の顔を忘れたら。

 

自分が、母の声を忘れたら。

 

二人が互いの存在を認識できなくなったら。

 

そのとき、何が残るのだろう。

 

出久は、その答えを持っていなかった。

 

だからこそ、彼は決めた。

 

世界が何を消そうとしているのか。

 

どうして、消そうとしているのか。

 

その理由を、必ず見つける。

 

誰かの存在を否定することでしか成り立たない世界なら。

 

そんな世界の仕組みを、変えなければならない。

 

それが、自分自身の存在を守るためだけではなく。

 

名前を失った少女が、自分の罪と向き合うためにも必要なことだから。

 

第十一節 存在しない者のための記録

翌朝。

 

雄英高校の一室に、奇妙な光景が生まれていた。

 

机の上に、紙の束が積まれている。

 

録音機。

 

映像記録用のカメラ。

 

複数の端末。

 

そして、何も書かれていないノート。

 

出久、お茶子、轟、爆豪、相澤は、それぞれ別の方法で情報を記録しようとしていた。

 

「まず、対象者の証言を残す」

 

相澤が言った。

 

「本人が自分のことを覚えているうちに、できるだけ詳しく聞き取る。名前、家族、住所、過去の出来事、本人が覚えていることすべてだ」

 

「でも、名前が消えてしまった場合は?」

 

お茶子が尋ねた。

 

「名前以外の情報を使う」

 

相澤は答えた。

 

「声紋、筆跡、本人が知っている出来事、他人との関係。どれか一つが失われても、他の情報で確認できるようにする」

 

轟が、ノートを開いた。

 

「記録する媒体も分けるべきだな」

 

「そうだ」

 

相澤は頷いた。

 

「紙、音声、映像、電子記録。どれか一つが消えても、他が残る可能性がある」

 

爆豪が、腕を組んだ。

 

「だが、全部まとめて消されたらどうする?」

 

「その可能性も考える必要がある」

 

相澤は否定しなかった。

 

「世界そのものが記録を修正しているなら、こちらの手段がどこまで通用するか分からない」

 

「だったら、世界の外に保存すりゃいいんじゃねえのか」

 

爆豪の言葉に、全員が顔を上げた。

 

「世界の外……?」

 

出久が呟いた。

 

「記録領域とは別の場所に、情報を保管するということか」

 

轟が考え込む。

 

「だが、そんな場所があるのか?」

 

「あるかどうかは知らねえ」

 

爆豪は吐き捨てた。

 

「だが、世界の中で消されるなら、世界の中だけで対抗するのは危ねえだろ」

 

相澤は、少し考えた後に頷いた。

 

「確かに、検討する価値はある」

 

そのとき、部屋の端末が鳴った。

 

死神からの通信だった。

 

出久が応答する。

 

「死神さん!」

 

『状況は把握している』

 

死神の声は、いつもより低かった。

 

『緑谷。お前の記録に、重大な異常が発生している』

 

「……はい」

 

『それだけではない。お前の母親の記憶にも、影響が出始めているな』

 

出久は、息を呑んだ。

 

「どうして、それを……」

 

『記録の変化を追っている。お前の存在に関する情報が、周囲の記録にも影響を与え始めている』

 

「僕のせいで、母さんまで……?」

 

『まだ原因は確定していない。自分を責めるな』

 

死神の声には、強い響きがあった。

 

『この現象は、お前一人の責任ではない』

 

出久は、唇を噛んだ。

 

「……でも、僕と患者番号零の接続が成立した後から、異常が強くなったんですよね?」

 

『そうだ。だが、異常が強くなったことと、お前が異常を引き起こしたことは同じではない』

 

「……」

 

『原因を突き止める前に、責任を決めるな。世界の記録がやっていることを、お前まで真似する必要はない』

 

その言葉に、出久は目を見開いた。

 

記録は、原因を調べる前に罪を確定させる。

 

出久もまた、自分が関係しているという理由だけで、自分を責めようとしていた。

 

「……はい」

 

彼は頷いた。

 

「分かりました」

 

『それと、重要な情報がある』

 

死神は続けた。

 

『患者番号零との接続が確認された。彼女は、自分の罪を知りたがっている』

 

「……彼女が?」

 

『そうだ。第一接続者に関する記録と、彼女の記録が関係している可能性がある』

 

「第一接続者って……」

 

出久は、記録の中にあった文字を思い出した。

 

世界成立以前。

 

存在否定。

 

そして、誰かに覚えていてほしいという願い。

 

『まだ、彼女が第一接続者本人なのかは分からない。記録が同一人物を示しているのか、それとも別の人物を示しているのかも不明だ』

 

「……でも、彼女は自分が何をしたのか知りたがっているんですね」

 

『ああ』

 

死神は、短く答えた。

 

『彼女は、自分が誰かを傷つけたのなら、その事実を知りたいと言っている。だが、記録には、彼女が世界を否定したという罪状だけが残っている』

 

出久は、静かに目を閉じた。

 

「……それは、あまりにも不公平です」

 

『同感だ』

 

「罪があるなら、何をしたのかを知る必要があります。誰かを傷つけたのなら、その人が何を失ったのかを知る必要もある。でも、記録が全部消されてしまったら……」

 

出久は、言葉を切った。

 

「……彼女は、何に向き合えばいいのかも分からなくなってしまう」

 

『そうだ』

 

死神は答えた。

 

『罪だけを残して、罪を犯した者の存在を消す。被害者の記録まで消す。そんなことが起きているのなら、これは単なる記録障害ではない』

 

「……」

 

『世界の仕組みそのものが、何かを拒絶している可能性がある』

 

出久は、画面を見つめた。

 

「死神さん。僕にできることはありますか?」

 

『ある』

 

死神は、迷わず答えた。

 

『患者番号零と、もう一度接続してほしい』

 

「……僕が?」

 

『ああ。ただし、無理に彼女の記憶を呼び起こそうとするな。名前を聞き出す必要もない。彼女が何を話したいのかを聞いてくれ』

 

出久は、静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

『それから』

 

死神の声が、少しだけ低くなった。

 

『自分の存在を守ることも忘れるな。お前が消えてしまえば、彼女との接続を維持できなくなる可能性がある』

 

「……はい」

 

『これは命令ではない。お前自身のために言っている』

 

出久は、少し驚いた。

 

死神は、しばらく沈黙した後に続けた。

 

『お前が誰かを救いたいと思うことを、俺は否定しない。だが、誰かを救うために、自分が存在することまで犠牲にする必要はない』

 

出久は、母の言葉を思い出した。

 

――自分のことも、守ってちょうだい。

 

「……分かりました」

 

出久は、今度こそ、はっきりと答えた。

 

「僕は、僕自身のことも守ります」

 

通信が切れた。

 

出久は、しばらく端末を見つめていた。

 

そして、机の上に置かれたノートを開いた。

 

最初のページに、自分の名前を書いた。

 

緑谷出久。

 

その下に、もう一行。

 

僕は、ここにいる。

 

さらに、その下に書き加えた。

 

この記録が消えても、僕が生きてきた事実まで消えるわけではない。

 

ペンを置く。

 

その文字を見つめながら、出久は考えた。

 

このノートが消えるかもしれない。

 

自分の名前が消えるかもしれない。

 

それでも、今は書く。

 

書き続ける。

 

存在を証明するためだけではない。

 

自分が何を考え、何を選び、何を守ろうとしたのかを残すために。

 

そして、いつか誰かが、この記録を見つけたとき。

 

世界がその人物を忘れていたとしても。

 

その人物が確かに生きていたことを、知ることができるように。

 

第十二節 記録されない者たち

その夜、出久は再び、奇妙な夢を見た。

 

白い空間。

 

遠くまで続く、無数の枝。

 

世界樹に似た構造が、視界の果てまで広がっていた。

 

そこには、無数の記録が浮かんでいる。

 

人間の名前。

 

生まれた日。

 

死んだ日。

 

誰かと交わした約束。

 

叶わなかった願い。

 

言えなかった言葉。

 

忘れてしまった記憶。

 

そして。

 

そのすべての隙間に、何も記されていない空白があった。

 

出久は、その空白の前に立っていた。

 

「……ここは?」

 

返事はない。

 

ただ、遠くから声が聞こえた。

 

『記録されない者たちの場所です』

 

出久は振り返った。

 

そこには、誰もいなかった。

 

「……誰?」

 

『名前を持たない者。記憶されない者。存在したことを証明できない者』

 

声は、どこからともなく聞こえてくる。

 

『世界が記録することを拒んだ者たちです』

 

出久は、周囲を見回した。

 

「……そんな場所があるの?」

 

『あなたが、今ここにいる』

 

「僕は、夢を見ているんじゃ……」

 

『夢と現実を区別する記録は、どこにあるのでしょう』

 

その問いに、出久は言葉を失った。

 

夢であることを証明するもの。

 

現実であることを証明するもの。

 

それらもまた、誰かの認識や記録に依存しているのだろうか。

 

「……あなたは、誰なんですか?」

 

『私は、あなたが知らない者です』

 

声は答えた。

 

『あなたが知っている者でもあります』

 

「……どういう意味?」

 

『あなたが覚えている者と、あなたが忘れた者。その境界に、私はいます』

 

出久は、息を呑んだ。

 

その言葉が、患者番号零の少女と重なった。

 

名前を持たない少女。

 

自分が誰なのか分からない少女。

 

それでも、自分が存在していることを主張した少女。

 

「……患者番号零を知っていますか?」

 

声は、すぐには答えなかった。

 

やがて、ゆっくりと告げた。

 

『その番号は、彼女の名前ではありません』

 

「……!」

 

『彼女を管理するために付けられた番号です。彼女が何者なのかを示すものではありません』

 

出久は、頷いた。

 

「……そうですね」

 

『では、あなたは、彼女を何と呼びますか』

 

出久は、言葉に詰まった。

 

名前は知らない。

 

本当の名前があるのかどうかも分からない。

 

勝手に名前を与えることは、彼女の存在を自分の都合で定義することになってしまうかもしれない。

 

「……今は、何も呼ばないと思います」

 

出久は答えた。

 

「彼女が、自分で名前を教えてくれるまで」

 

声は、静かに沈黙した。

 

そして。

 

『あなたは、彼女の存在を認めるのですね』

 

「はい」

 

『彼女が、世界を否定したのだとしても?』

 

出久は、目を見開いた。

 

「……そのことも、まだ分かっていません」

 

『もし、本当にそうだったなら?』

 

「……」

 

出久は考えた。

 

もし、彼女が本当に世界を壊したのなら。

 

もし、彼女の願いが、世界そのものを否定するものだったのなら。

 

その結果として、誰かが傷ついたのなら。

 

その事実を、なかったことにしてはいけない。

 

「……彼女が何をしたのかを、知る必要があると思います」

 

出久は言った。

 

「誰かを傷つけたのなら、その人が何を失ったのかを知る必要がある。彼女自身も、自分が何をしたのかを知りたいと思っているはずです」

 

『では、彼女が罪を犯したと分かったなら、あなたは彼女を裁きますか』

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

裁く。

 

許す。

 

救う。

 

それらの言葉は、簡単に口にできるものではない。

 

「……僕一人で決めることではないと思います」

 

『なぜ?』

 

「彼女が誰かを傷つけたのなら、その被害を受けた人がいるはずです。その人の気持ちを無視して、僕が勝手に許すことはできません」

 

出久は、拳を握った。

 

「でも、だからといって、彼女が存在してはいけないとも思いません」

 

『……』

 

「罪を犯したことと、生きていてはいけないことは、同じじゃないと思います」

 

その言葉を口にした瞬間。

 

空白の中に、一つの文字が浮かび上がった。

 

存在。

 

出久は、それを見つめた。

 

文字は、ゆっくりと広がっていく。

 

その周囲に、別の文字が現れる。

 

記録。

 

記憶。

 

名前。

 

罪。

 

願い。

 

それらは互いに絡み合いながら、一つの構造を形作っていった。

 

だが、その中心には、何もなかった。

 

空白だけが残っていた。

 

「……中心には、何があるんですか?」

 

出久は尋ねた。

 

声は、静かに答えた。

 

『まだ、誰にも分かりません』

 

「……誰にも?」

 

『少なくとも、今の世界には』

 

出久は、空白を見つめた。

 

その場所に、誰かがいたような気がした。

 

誰かが、何かを願っていた。

 

誰かが、誰かに覚えていてほしいと願っていた。

 

そして、その願いが叶わなかったのかもしれない。

 

「……第一接続者は、誰なんですか?」

 

その問いを口にした瞬間。

 

世界樹の枝が、大きく揺れた。

 

無数の記録が明滅する。

 

名前が消える。

 

記憶が途切れる。

 

願いが、無数の断片に分かれていく。

 

そして。

 

出久の目の前に、一人の少女が現れた。

 

白い服。

 

名前のない顔。

 

涙を浮かべた瞳。

 

彼女は、出久を見つめていた。

 

「……あなたは」

 

少女が、呟いた。

 

「……私を、覚えていてくれるの?」

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……君は」

 

彼は、少女に手を伸ばした。

 

「君は、誰なの?」

 

少女は、悲しそうに笑った。

 

「……分からない」

 

「……」

 

「でも」

 

彼女は、ゆっくりと続けた。

 

「あなたに、聞いてほしいことがあるの」

 

出久は頷いた。

 

「……うん」

 

少女は、涙を拭った。

 

「私は……」

 

その瞬間。

 

世界樹の枝が、音を立てて折れた。

 

空間が崩れ始める。

 

少女の姿が、光に包まれていく。

 

「待って!」

 

出久は叫んだ。

 

「まだ、聞いていない!」

 

少女は、最後に一つだけ言葉を残した。

 

「……私は、誰かを殺したの?」

 

その声と同時に、夢が途切れた。

 

第十三節 目覚めた後の問い

「……っ!」

 

出久は、勢いよく目を覚ました。

 

息が荒い。

 

心臓が激しく打っている。

 

夢の内容は、はっきりと覚えていた。

 

白い空間。

 

世界樹に似た構造。

 

記録されない者たち。

 

そして、名前のない少女。

 

彼女は、最後に尋ねた。

 

――私は、誰かを殺したの?

 

出久は、額に手を当てた。

 

「……あの子は」

 

自分は、彼女を知らない。

 

彼女の名前も知らない。

 

何をしたのかも知らない。

 

それでも、彼女が自分の罪を知りたいと願っていることだけは、分かった。

 

そして、彼女は誰かに、自分の問いを聞いてほしいと思っている。

 

出久は、ベッドから起き上がった。

 

机の上には、昨夜書いたノートが置かれている。

 

緑谷出久。

 

僕は、ここにいる。

 

その文字は、まだ残っていた。

 

彼は、ノートを開いた。

 

そして、新しいページに書き加えた。

 

患者番号零。

 

その下に、文章を続ける。

 

彼女の本当の名前は分からない。

 

彼女が何をしたのかも分からない。

 

彼女が世界を否定したのかどうかも、まだ分からない。

 

ペンが止まる。

 

出久は、少し考えてから、最後の一文を書いた。

 

それでも、彼女は自分が何をしたのかを知りたいと願っている。

 

彼は、その文字を見つめた。

 

記録が消える。

 

名前が消える。

 

存在が否定される。

 

その現象の原因は、まだ分からない。

 

だが、一つだけ、はっきりしていることがある。

 

誰かが自分の罪を知りたいと願っているなら。

 

その問いに答えるための道を、探さなければならない。

 

彼女が本当に罪を犯したのなら、その事実から逃げないために。

 

彼女が罪を犯していなかったのなら、誰かが押しつけた判決を覆すために。

 

そして、どちらであっても。

 

彼女の存在そのものを、なかったことにさせないために。

 

出久は、ノートを閉じた。

 

窓の外には、朝の光が差し込んでいた。

 

世界は、何事もなかったかのように動き始めている。

 

人々は目を覚まし、学校へ向かい、仕事へ向かい、日常を続けている。

 

その日常の中で、誰かの名前が消えようとしていることを、どれだけの人が知っているのだろう。

 

誰かの記憶が失われようとしていることを、どれだけの人が気づいているのだろう。

 

そして。

 

世界が一人の少女を罪人と記録していることを。

 

彼女自身が、その罪を知りたがっていることを。

 

どれだけの人が、知っているのだろう。

 

出久は、静かに立ち上がった。

 

「……行こう」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

ただ、足を止めるつもりはなかった。

 

名前を失った少女が、自分の罪を知りたいと願っている。

 

その願いが、世界の記録に反するものだとしても。

 

出久は、その問いを聞きに行く。

 

第十四節 記録の外側にいる者

同じ頃。

 

世界樹に似た構造の、さらに深い場所。

 

そこには、誰も記録していない空白があった。

 

名前もない。

 

記憶もない。

 

願いすら、記録されていない。

 

ただ、何かがそこにあった。

 

その何かが、ゆっくりと意識を向ける。

 

世界の記録が変化している。

 

死者が帰還している。

 

生者の名前が消えている。

 

そして、一人の少年が、世界の記録に抗い始めている。

 

その少年は、記録が存在を決めるという前提を疑っている。

 

名前がなくても、存在はある。

 

記録が消えても、過去は消えない。

 

罪が確定しても、その判決が正しいとは限らない。

 

その考え方は、世界の根本に触れていた。

 

空白の中に、言葉が浮かび上がる。

 

第一接続者――再接続を確認。

 

その下に、別の文字が現れた。

 

接続対象――緑谷出久。

 

接続状態――継続。

 

世界修正処理――遅延。

 

さらに、もう一つ。

 

患者番号零――存在否定に対する抵抗を確認。

 

空白は、静かに揺れた。

 

まるで、誰かが笑ったようだった。

 

だが、笑い声は存在しなかった。

 

その何かは、長い時間をかけて、言葉を形作った。

 

「……まだ、終わっていなかったのですね」

 

声は、誰にも届かなかった。

 

「あなたは、まだ……」

 

言葉が途切れる。

 

空白の中に、古い記録が浮かび上がった。

 

世界が生まれる前。

 

名前が存在する前。

 

死が定義される前。

 

誰かが、何かを願った。

 

その願いが、世界の始まりになったのか。

 

それとも、世界が生まれたからこそ、その願いが記録されたのか。

 

因果関係は、まだ分からない。

 

ただ、その記録には、一つの文章だけが残っていた。

 

誰かに、自分を覚えていてほしい。

 

その下には、さらに古い文字が刻まれていた。

 

誰かに、自分を忘れてほしい。

 

二つの願いは、互いに矛盾している。

 

覚えていてほしい。

 

忘れてほしい。

 

存在を認めてほしい。

 

存在を否定してほしい。

 

世界を生み出したい。

 

世界など、最初からなければよかった。

 

その矛盾が、どこから生まれたのか。

 

誰が、何を願ったのか。

 

まだ、誰にも分からない。

 

だが、その空白は、静かに認識していた。

 

一人の少女が、自分の罪を知ろうとしている。

 

一人の少年が、彼女の問いを聞こうとしている。

 

そして、死神が、自分の失った記憶を取り戻そうとしている。

 

それらは、別々の出来事ではないのかもしれない。

 

世界の記録が一人の人間を否定するとき。

 

その否定に抗う者が現れる。

 

その抗いが、別の記憶を呼び起こす。

 

その記憶が、世界の始まりに触れる。

 

そして。

 

世界が、かつて誰かによって否定された理由に近づいていく。

 

空白は、最後に一つの問いを浮かべた。

 

もし、世界が一人の少女の罪によって生まれたのだとしたら。

 

その罪を裁く権利は、誰にあるのか。

 

問いに、答えはなかった。

 

だが、その問いが生まれたこと自体が、世界にとって新たな異常だった。

 

なぜなら。

 

世界は、すでに判決を下していたからだ。

 

少女は罪人である。

 

少女の存在は否定されるべきである。

 

その判決を覆すことは、世界の記録に対する反逆となる。

 

そして今。

 

その反逆が、始まろうとしていた。

 

第十五節 存在を否定された者の名前

雄英高校の廊下。

 

出久は、端末を握りしめて歩いていた。

 

患者番号零との接続を、もう一度試みる。

 

死神から受け取った情報によれば、彼女は記録領域の奥にいる。

 

通常の通信では接続できない。

 

だが、前回は、彼女自身が接続を開始した。

 

ならば、もう一度。

 

彼女が話したいと思ったときに、こちらが応答できる状態を作っておくことはできるはずだ。

 

出久は、端末の画面に向かって話しかけた。

 

「……聞こえますか?」

 

返事はない。

 

「僕は、緑谷出久です」

 

その言葉を口にした瞬間、端末が微かに光った。

 

「……君が誰なのか、まだ分からない。君が何をしたのかも分からない」

 

画面に、文字が浮かび上がる。

 

接続要求を確認。

 

出久は、息を止めた。

 

「でも、君が自分のことを知りたいと思っているなら、僕は話を聞きたい」

 

文字が変化する。

 

接続先――患者番号零。

 

「君が話したくないことを、無理に聞き出すつもりはない。思い出したくないことを、無理に思い出させるつもりもない」

 

出久は、ゆっくりと続けた。

 

「ただ、君が自分の罪を知りたいと思っているなら、そのために一緒に調べたい」

 

画面が、白く染まった。

 

その中央に、一つの文章が現れた。

 

あなたは、私を裁きますか。

 

出久は、しばらくその文字を見つめた。

 

そして、答えた。

 

「……僕一人で、君を裁くことはできない」

 

文字が揺らぐ。

 

「君が誰かを傷つけたのなら、その人の気持ちを無視することはできない。君が何かを壊したのなら、その事実をなかったことにすることもできない」

 

出久は、目を閉じた。

 

「でも、君が何をしたのかを知らないまま、君が存在してはいけないと決めることもできない」

 

画面に、新たな文字が浮かんだ。

 

では、あなたは私を救いますか。

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

救う。

 

その言葉には、さまざまな意味がある。

 

苦しみから解放すること。

 

罪を償う機会を与えること。

 

失ったものを取り戻すこと。

 

あるいは、本人が望まない未来を押しつけること。

 

「……君が何を望んでいるのかを、まず聞きたい」

 

出久は答えた。

 

「君が何をしたのかを知りたいと思っているなら、その問いを一緒に追いかける。君が誰かに謝りたいと思っているなら、その人に会える方法を探す」

 

彼は、画面を見つめた。

 

「でも、君がどう生きるのかを、僕が勝手に決めることはできない」

 

しばらく、返事はなかった。

 

やがて、画面に文字が現れた。

 

……ありがとう。

 

出久は、少しだけ微笑んだ。

 

「どういたしまして」

 

だが、その直後。

 

画面に、別の文章が表示された。

 

あなたの記録を確認しました。

 

対象――緑谷出久。

 

存在判定――保留。

 

判定理由――第一接続者との共鳴。

 

出久は、顔を強張らせた。

 

さらに、文字が追加される。

 

第一接続者の罪を継承する可能性があります。

 

「……何だって?」

 

その瞬間、画面が赤く染まった。

 

警告。

 

世界修正処理を再開します。

 

対象――緑谷出久。

 

対象――患者番号零。

 

両者の接続を切断してください。

 

出久は、画面を見つめた。

 

切断すれば、彼女との接続は失われる。

 

その先に、何が起きるのかは分からない。

 

彼女の記憶が戻るのか。

 

世界の記録が安定するのか。

 

それとも、別の誰かが犠牲になるのか。

 

何一つ、分からない。

 

ただ、世界は接続を切断するよう命じている。

 

その理由も、説明もない。

 

「……嫌だ」

 

出久は、静かに言った。

 

「理由が分からないまま、切るわけにはいかない」

 

画面が明滅する。

 

警告。

 

接続の継続は、世界記録の不整合を拡大させる可能性があります。

 

出久は、拳を握った。

 

「それでも」

 

彼は、はっきりと言った。

 

「君の問いを、途中で放り出すわけにはいかない」

 

その瞬間。

 

端末の画面に、少女の姿が浮かび上がった。

 

白い墓地。

 

名前のない墓石。

 

そして、涙を浮かべた瞳。

 

少女は、出久を見つめていた。

 

「……緑谷、出久」

 

初めて、彼女は出久の名前を呼んだ。

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……君は」

 

少女は、震える声で言った。

 

「私は、まだ、自分の名前を思い出せない」

 

「……うん」

 

「でも、あなたの名前は分かった」

 

少女は、少しだけ笑った。

 

「あなたが、自分のことを教えてくれたから」

 

出久は、目を見開いた。

 

記録に頼らずに、誰かを知ること。

 

名前を押しつけずに、相手の存在を認めること。

 

その小さな接続が、今、確かに成立していた。

 

少女は続けた。

 

「……私も、自分のことを話していい?」

 

出久は、頷いた。

 

「もちろん」

 

少女は、ゆっくりと口を開いた。

 

「私は……」

 

その瞬間。

 

世界の記録が、激しく揺れた。

 

端末が警告音を発する。

 

第一接続者の記録――復元開始。

 

罪状――世界成立以前の存在否定。

 

判決――確定。

 

対象者――緑谷出久。

 

存在否定処理――再開。

 

少女の姿が、崩れ始めた。

 

「……っ!」

 

出久は、画面に手を伸ばした。

 

「待って!」

 

少女も、こちらに手を伸ばした。

 

「……緑谷君!」

 

その声は、初めて聞くほど切実だった。

 

「私は……!」

 

映像が、白い光に飲み込まれる。

 

最後に、少女の声だけが残った。

 

「私は、あなたを……」

 

接続が切れた。

 

端末が、沈黙する。

 

出久は、その場に立ち尽くした。

 

彼女は、何を言おうとしたのだろう。

 

自分を知っていると言いたかったのか。

 

自分が誰かを殺したと伝えたかったのか。

 

それとも。

 

自分が、出久に何かを願っていたのか。

 

答えは、分からない。

 

ただ、最後に聞こえた言葉だけが、耳に残っていた。

 

――私は、あなたを。

 

その続きを知るために。

 

彼女の問いに答えるために。

 

出久は、もう一度、世界の記録の奥へ向かわなければならなかった。

 

しかし。

 

その前に、彼は自分の端末に表示された最後の警告を見た。

 

緑谷出久。

 

存在判定――否定。

 

その下に、小さな文字が一つだけ残っていた。

 

修正処理を開始します。

 

出久は、画面を見つめた。

 

そして、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……僕は、ここにいる」

 

誰に聞かせるためでもない。

 

世界に認めてもらうためだけでもない。

 

自分自身が、その事実を忘れないために。

 

「僕は、ここにいるんだ」

 

その言葉は、まだ消えていなかった。

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