第一幕 そこにいるのに、いない人
午前八時十三分。
雄英高校の臨時対策本部で、最初の異常が発生した。
「……もう一度、確認してくれ」
相澤消太は、机の向こうに立つ職員に告げた。
声は低い。
疲労がにじんでいるが、焦りを露わにはしていなかった。
焦っても状況は改善しない。
それは教師としても、プロヒーローとしても、嫌というほど学んできたことだった。
「確認しました。職員名簿、在籍記録、給与管理システム、入退館記録。いずれにも該当者がいません」
「名前は?」
「それが……」
職員は手元の端末を見つめた。
「名前も、出てこないんです」
「名前が出てこない?」
「はい。本人の顔も、声も、覚えています。昨日まで普通に勤務していました。ですが、名前を思い出そうとすると、どうしても……」
言葉が途切れる。
相澤は立ち上がった。
「本人はどこにいる」
「会議室です」
「案内しろ」
会議室の扉を開けると、一人の女性が座っていた。
三十代ほど。
雄英の職員用ジャケットを着ている。机の上には、半分ほど飲まれた紙コップの水が置かれていた。
彼女は相澤を見るなり、困ったように笑った。
「すみません。私、何かしてしまったんでしょうか」
「名前を教えてくれ」
「はい」
女性は即答しようとした。
ところが。
「私の名前は――」
口が止まった。
彼女は自分の胸元を見た。
職員証がある。
透明なケースの中には、写真が入っていた。
そこに映っているのは、目の前にいる女性本人だった。
しかし、名前欄は空白だった。
社員番号もない。
所属部署もない。
ただ、写真だけが残されている。
「……おかしいですね」
女性は職員証を裏返した。
「昨日、更新したばかりだったんです。写真も撮り直して。そう、確か……誰かが、髪型を変えたんですねって言ってくれて」
彼女は笑顔を作ろうとした。
「誰だったかな」
相澤は答えなかった。
女性は端末を取り出し、自分の名前を検索した。
検索結果はゼロ件。
メールの送信履歴も、消えている。
連絡先には、数十人の登録があった。
だが、すべて名前が消えていた。
「これ、私のスマートフォンですよね?」
「そうだ」
「なら、どうして……」
彼女の指が震えた。
「どうして、私のことを誰も覚えていないんですか?」
相澤は、その質問に即答できなかった。
彼女の顔は見えている。
声も聞こえる。
体温だってあるだろう。
ここにいる。
間違いなく、ここにいるのだ。
それでも、彼女を証明する記録がない。
世界は彼女を拒絶している。
「君がここにいることは、俺が確認している」
相澤は言った。
「記録がどうなっていようと、それは変わらない」
女性は顔を上げた。
「……先生は、私を知っているんですか?」
「昨日、職員室ですれ違った。君は俺に、会議室の空調が壊れていると報告した」
「本当ですか?」
「ああ」
「私、何て言いました?」
相澤は少しだけ考えた。
「『先生、また寝不足ですか。顔色が悪いですよ』と言った」
女性は、目を見開いた。
そして、笑った。
「……ああ」
涙が浮かんだ。
「そうです。私、そんなこと言いました」
彼女は胸に手を当てた。
「よかった。私、まだ私なんですね」
その瞬間だった。
会議室のモニターが、勝手に点灯した。
職員名簿が表示される。
女性の写真が映し出され、その下に文字が浮かんだ。
該当人物:登録なし
続いて、彼女が座っている椅子の番号が消えた。
会議室の使用記録から、その部屋を予約した履歴が消えた。
彼女の入館記録が消えた。
昨日、相澤と会話した監視映像から、彼女の姿だけが消えた。
映像の中で、相澤は誰もいない廊下に向かって話しかけていた。
女性はモニターを見つめた。
「……先生」
「見るな」
「でも、これ……」
「見るなと言っている」
相澤の声が強くなる。
女性は肩を震わせた。
それでも、モニターから目を離せなかった。
「私がいなかったことになっていく」
彼女は呟いた。
「私が何をしたのかも、わからないのに」
画面に、新しい一文が表示された。
記録上の矛盾を検出。
矛盾の修正を開始します。
相澤は即座にモニターの電源を切った。
暗闇に戻った画面に、彼の顔が映る。
その背後で、女性が小さく息を呑んだ。
「……先生」
「何だ」
「今、私の名前を呼ぼうとしましたよね?」
相澤は振り返った。
彼女は泣いていた。
「呼ぼうとしてくれたんですよね?」
相澤は答えた。
「……ああ」
「でも、思い出せなかった」
「そうだ」
「それでも、私がいたことは覚えている」
相澤は、彼女の目を見た。
「覚えている」
女性は両手で顔を覆った。
泣き声が漏れた。
「それなら……まだ、消えていませんよね」
相澤は答えなかった。
答えられなかった。
彼はすでに、理解し始めていたからだ。
記録から消えるという現象は、単に過去が書き換えられるだけではない。
それは、今この瞬間に存在する人間から、世界に認められるための足場を奪っていく現象なのだ。
そして、次に何が起こるのか。
まだ誰にもわからなかった。
第二幕 名前のない人間を、社会は守れるのか
午前九時二十分。
異常は雄英高校だけで起きているわけではなかった。
警察庁から送られてきた報告は、簡潔で、そして異常な内容だった。
――身元不明者の増加。
――既存の身分証明書との照合不能。
――本人の存在を証明する公的記録の消失。
――関係者の記憶に不一致。
相澤が端末を読み進めるたびに、眉間のしわが深くなっていく。
「死者の記録が消える現象と、同じなのか」
隣で報告書を読んでいたオールマイトが尋ねた。
「現時点では断定できません。ただ、共通点は多い」
「共通点?」
「どちらも、本人が目の前にいる。なのに、世界がその人間を認めない」
相澤は画面を閉じた。
「死者の帰還を認めないだけなら、まだ理解できる。いや、理解できると言うと語弊があるが……少なくとも、死者が戻ってきたという異常を、世界が排除しようとしていると考える余地はある」
「だが、生者まで対象になった」
「そうです」
相澤は窓の外を見た。
校庭では、通常授業を受ける生徒たちが動いている。
世界は一見、平穏だった。
その平穏が、何を犠牲にして維持されているのか。
今となっては、わからない。
「先生」
扉のそばから声がした。
緑谷出久だった。
その顔には、睡眠不足と疲労がはっきりと表れていた。
しかし、彼の目は覚めていた。
「今の話、聞こえました」
「盗み聞きか」
「すみません。でも、関係があると思います」
相澤は短く息を吐いた。
「入れ」
出久は部屋に入り、机の上に資料を広げた。
そこには、死者の帰還に関係する人物たちの情報が並んでいた。
名前。
帰還日時。
目撃者。
接触した人物。
その後に発生した記録異常。
出久は、いくつかの箇所に印をつけていた。
「これ、記録が消えた人たちの一覧です。完全に消えている人もいますけど、消え方に違いがあるんです」
「違い?」
「はい。死者の帰還を直接目撃した人。帰還した人と会話した人。帰還した人の存在を公に認めた人。そして……」
出久の指が止まった。
「帰還した人のことを、忘れないと決めた人」
オールマイトの表情が変わった。
「出久くん、それは」
「まだ仮説です。でも、記録が消える順番には、何かしらの関係があると思います」
出久は資料の一枚を抜き出した。
「この人は、帰還した人を一度も見ていません。直接の接触もありません。でも、帰還した人の存在を否定する報道に対して、SNSで反論していた」
「それだけで?」
「はい。『自分の知っている人が帰ってきた。自分はあの人を覚えている』と書き込んでいました」
「その投稿は?」
「消えました。アカウントも、本人の登録情報も」
相澤が資料を受け取った。
「記録が消える条件は、接触ではない。認識か」
「あるいは、認めることです」
出久は静かに答えた。
「世界が死者を拒んでいるのだとしたら、死者が存在すると認める人間も、矛盾になるのかもしれません」
その場に沈黙が落ちた。
世界にとって、死者の帰還が矛盾だとする。
ならば、その矛盾を矛盾ではないと主張する人間は何なのか。
誤りを指摘する者か。
修正すべき異物か。
あるいは、世界が隠したい何かを知ってしまった者なのか。
「……出久くん」
オールマイトが言った。
「もし君の仮説が正しいなら、君自身も危険なのではないか」
出久は少しだけ笑った。
「たぶん、そうだと思います」
「ならば、なおさら――」
「でも、だからって、知らないふりはできません」
即答だった。
オールマイトは口を閉じた。
出久は、手元の資料を見下ろした。
「僕が誰かを覚えていることで、その人が世界から消されるのなら……僕は、自分が覚えていることをやめたほうがいいんでしょうか」
誰も答えなかった。
出久は続けた。
「でも、それっておかしいですよね。誰かを覚えていることが、その人を傷つける原因になるなんて」
その言葉は、彼自身に向けられた問いでもあった。
死者が帰ってきた。
帰ってきた人間には、生きる意志がある。
生きている者には、帰ってきた人間を覚えている意志がある。
その両方が存在するだけで、世界が彼らを排除しようとするのなら。
一体、何を守るための世界なのだろう。
「俺は、君の仮説を否定しない」
相澤が言った。
「ただし、仮説を事実として扱うな。記録が消える原因が認識なのか、接触なのか、それとも別の条件なのか。そこを確かめる必要がある」
「はい」
「それから、もう一つ」
相澤は出久を見据えた。
「君は、自分が覚えていれば何とかなると思うな」
出久の表情がわずかに曇った。
「……思っていません」
「嘘をつくな」
「……」
「誰かを救うために、自分が最後の記録になるつもりなら、その考えは今すぐ捨てろ」
相澤の声には、教師としての厳しさがあった。
「一人の人間が覚えていることに、世界全部の責任を押しつけるな」
出久は俯いた。
その言葉は正しかった。
正しいからこそ、痛かった。
彼はずっと、誰かを救うために、自分にできることを探してきた。
自分が動けば、間に合うかもしれない。
自分が手を伸ばせば、届くかもしれない。
自分が覚えていれば、消えずに済むかもしれない。
そう考えることは、時に誰かを救う力になる。
しかし、同時に。
誰も助けられなかったとき、その責任を一人で背負い込む理由にもなる。
「……わかりました」
出久は言った。
「一人で何とかしようとはしません」
「その言葉を覚えておけ」
相澤は資料を机に置いた。
「世界の記録が信用できないなら、俺たちは別の方法で事実を残す。まずはそこからだ」
オールマイトが頷いた。
「記録が失われても、調査そのものを失わせるわけにはいかない。記憶、証言、手書きの記録……可能な限り、複数の方法を試そう」
「それでも消える可能性はあります」
出久は言った。
「ええ。だが、何もしなければ、最初から存在しなかったことにされるだけだ」
オールマイトは窓の外を見た。
「私たちが守るべきなのは、記録という仕組みだけではない。そこに記されていた、一人ひとりの人生なのだから」
そのとき、出久の端末が震えた。
新着メッセージ。
送信者の名前は表示されていない。
本文は、たった一行だった。
あなたは、まだ私を覚えていますか。
出久は息を止めた。
見覚えのある文面だった。
正確には、見覚えがあるというより――。
以前にも、似た問いを受け取ったことがある。
名前を名乗れない少女。
患者番号零。
彼女は、自分の過去を思い出せないと言った。
自分が何をしたのかもわからない。
それでも、自分が誰かを傷つけたのではないかと恐れていた。
出久は返信欄を開いた。
『覚えています』
打ち込んでから、指を止めた。
それは本当だ。
彼女の名前は知らない。
顔さえ、確かな形では思い出せない部分がある。
それでも、彼女が助けを求めたことは覚えている。
彼女が、自分の罪を知りたいと願っていたことも。
出久は文面を消し、書き直した。
『君が誰なのか、僕はまだ全部を知っているわけじゃない。でも、君が助けを求めたことは覚えている』
送信する。
数秒後。
返信が届いた。
それなら、まだ大丈夫です。
そして、次のメッセージ。
でも、私が覚えている人たちは、私のことを忘れ始めています。
出久は顔を上げた。
「……相澤先生」
「何だ」
「彼女も、異常の中にいます」
彼は端末を握りしめた。
「今すぐ、会いに行きたいです」
相澤は数秒、出久を見つめた。
そして、ため息をついた。
「一人で行くな」
「はい」
「連絡を切るな」
「はい」
「異常が起きたら、すぐに引き返せ。相手を助けることと、無謀に突っ込むことを混同するな」
「……はい」
相澤は立ち上がった。
「俺も行く」
出久は目を見開いた。
「先生も?」
「お前が行くと言い出した時点で、止めるより同行したほうが早い」
「すみません……」
「謝る暇があるなら準備しろ」
相澤は扉へ向かった。
「存在しないことにされた人間を探すんだろう。なら、まずは俺たちが、そいつを探しているという事実を作る」
出久はその背中を見つめた。
世界が記録しないのなら。
世界が存在を認めないのなら。
人間の側から、探しに行く。
それはまだ、救いと呼べるほど確かなものではなかった。
けれど、何もしないよりは確かに前へ進む選択だった。
第三幕 名前を失った少女
同じ頃。
都市の外れにある、閉鎖された地下通路。
かつては駅と商業施設を結んでいた場所だが、現在は災害対策のため封鎖されている。
人通りはない。
監視カメラも、一部が故障したままだった。
そこに、少女が立っていた。
少女は自分の手を見つめていた。
指は五本。
手のひらには、古い傷がある。
右手首には、細い布が巻かれていた。
それが何なのか、彼女にはわからない。
誰かにもらったものなのか。
自分で巻いたのか。
何かを忘れないための印なのか。
思い出せない。
ただ、その布を外してはいけないような気がした。
「……私、何をしたんだろう」
声が地下通路に反響した。
返事はない。
少女は壁に寄りかかり、目を閉じた。
夢を見るたび、誰かが泣いている。
自分の声に似ている。
けれど、同じ声ではない。
夢の中で、少女は誰かに謝っている。
何度も。
何度も。
それなのに、謝罪の相手がわからない。
「ごめんなさい」
口に出すと、胸の奥が痛くなった。
「ごめんなさい。私、何かをしたんだよね」
誰かを傷つけたのだろうか。
誰かを殺したのだろうか。
誰かを見捨てたのだろうか。
それとも。
誰かを救うために、別の誰かを犠牲にしたのだろうか。
考えるほど、可能性だけが増えていく。
少女は自分の頭を抱えた。
「わからない……」
わからないことが、怖かった。
何をしたのかわからないのに、罪を犯したような気がする。
罪を犯したのなら、償わなければならない。
けれど、何を償えばいいのかもわからない。
謝るべき相手がいるのかもわからない。
自分が許されるべきなのか、それとも許されてはいけない人間なのかさえ、わからない。
そして何より。
少女は、自分のことを覚えている人間が、少しずつ減っていることに気づいていた。
昨日まで、彼女に声をかけてくれた人がいた。
食べ物を置いていってくれる人。
寒くないかと尋ねる人。
名前を教えてくれなくてもいい、と言ってくれた人。
その人たちが、少女を見る目を変えていった。
最初は、戸惑い。
次に、困惑。
最後には、そこに誰もいないかのような視線。
ある男は、少女のすぐ横を通り過ぎた。
少女は呼び止めた。
「すみません」
男は足を止めた。
「……何か?」
「私、昨日ここでお話ししましたよね?」
男は怪訝そうな顔をした。
「いや……誰かと間違えていませんか」
「でも、昨日……」
「人違いでしょう」
男は去っていった。
少女は、その場に立ち尽くした。
彼の手には、昨日、少女が渡したはずの毛布があった。
彼は少女から受け取った毛布を持っていた。
それなのに、彼は少女を知らなかった。
少女は追いかけなかった。
追いかけて、どうするのだろう。
あなたは私を知っている。
あなたは私と話した。
あなたは私から毛布を受け取った。
そう言ったところで、彼が思い出すとは限らない。
それどころか、彼が自分を見失っていく瞬間を、もう一度見ることになるかもしれない。
「……私が、悪いのかな」
少女は呟いた。
そのとき。
地下通路の照明が、一斉に点滅した。
壁に設置された案内板の文字が乱れる。
駅名が消えた。
出口番号が消えた。
地図から、地下通路そのものが消えていく。
少女は顔を上げた。
「また……?」
床に、黒い線が走った。
それは亀裂ではなかった。
文字だった。
読めない記号。
文字のようでいて、どの言語にも属さない形。
それらが床から壁へ、壁から天井へと広がっていく。
少女は後ずさった。
「やめて……」
黒い文字が、少女の足元に集まる。
まるで、少女の影を縫い止めるように。
そして、目の前の壁に一文が浮かんだ。
記録対象を確認できません。
少女は息を呑んだ。
次の一文。
対象の存在根拠を照合します。
少女は震える手で、自分の胸に触れた。
心臓は動いている。
呼吸もできる。
痛みもある。
ここにいる。
「私は……いるよ」
声が震えた。
「ここにいる。ちゃんと、ここにいるから」
壁の文字が変わった。
存在を証明してください。
少女は口を開いた。
自分の名前を言おうとした。
けれど、名前が出てこなかった。
「私の名前は……」
何も出てこない。
それなら、過去を話そう。
自分がどこで生まれたのか。
誰と暮らしていたのか。
何が好きだったのか。
どんな夢を持っていたのか。
何もわからない。
記憶の中には、白い空間がある。
その先に、誰かが立っている。
顔は見えない。
声も聞こえない。
ただ、その人がこちらに手を伸ばしている。
少女は、その手を握ろうとした。
しかし、指先が触れる直前に、景色が崩れる。
そのたびに、胸の奥で何かが叫ぶ。
――忘れないで。
誰を。
何を。
どうして。
少女にはわからない。
「……私は」
少女は床に膝をついた。
「私が誰なのか、わからない」
壁の文字が、再び変わった。
存在を証明できません。
少女は顔を覆った。
「でも……」
涙が落ちた。
「でも、私が誰なのかわからなくても……」
息を吸う。
「私が、誰かを傷つけたのなら」
声が震える。
「その人に、謝りたい」
それは、彼女に残された数少ない願いだった。
自分の名前を取り戻したい。
過去を知りたい。
誰かに覚えていてほしい。
それらの願いよりも先に、彼女は自分が犯したかもしれない罪を知りたかった。
「私が悪いことをしたのなら、逃げたくない」
彼女は涙を拭った。
「だから……私が存在しないことにしないで」
壁が、白く染まった。
記録対象の矛盾を検出。
矛盾の修正を開始します。
少女の身体が、かすかに透けた。
手の輪郭が薄くなる。
指先の感覚が遠のく。
「……いや」
少女は自分の手を握った。
「いやだ」
初めて、はっきりと恐怖が口をついて出た。
「私、まだ何もわかってない」
手の輪郭がさらに薄くなる。
「私、まだ……」
少女は顔を上げた。
「まだ、謝れていないのに!」
その叫びに、地下通路の空気が震えた。
だが、世界は答えなかった。
文字だけが、淡々と告げる。
修正を継続します。
少女は目を閉じた。
そして、誰かの名前を呼ぼうとした。
誰の名前なのかはわからない。
ただ、その名前を呼べば、誰かが振り返ってくれるような気がした。
「――」
声にならなかった。
その瞬間。
地下通路の入口から、誰かが叫んだ。
「そこにいるのか!」
少女は目を見開いた。
聞き覚えのない声。
けれど、その声は確かに、彼女のいる場所へ向けられていた。
「返事をしろ!」
少女は口を開いた。
「ここに……!」
その声を遮るように、黒い文字が床から噴き上がった。
少女の身体が、再び薄くなる。
「ここにいるよ!」
叫んだ。
「私、ここにいる!」
入口の向こうで、足音が近づいてくる。
少女は、最後の力を振り絞るように叫んだ。
「お願い! 私を、見つけて!」
第四幕 死神は、記録の外側を見る
同時刻。
死者の記録領域。
そこには、時計がない。
昼も夜もない。
時間が流れているのかさえ、確信できない。
ただ、無数の記録が存在していた。
生まれた者。
生きた者。
死んだ者。
名前を得た者。
名前を失った者。
誰かに覚えられた者。
誰にも知られないまま消えた者。
そのすべてが、同じ場所にあるわけではない。
記録には階層があった。
ある記録は、世界に認められている。
ある記録は、認められていない。
そして、認められていないにもかかわらず、消えずに残っているものがあった。
死神は、その一つを見つめていた。
「……おかしい」
隣に立つ観測者が、彼を見た。
「何がだ」
「記録の消失が、死者の領域から生者の領域へ広がっている」
死神は手を伸ばした。
指先に触れた記録が、薄く揺らいだ。
「だが、これは単純な削除ではない」
「どういう意味だ」
「削除なら、記録がなくなる。存在した痕跡が消える。だが、今起きている現象は違う」
死神は、記録の中に映る一人の女性を見た。
彼女は会議室に座っている。
目の前にいる相澤に、自分が存在することを確かめていた。
「この女性は、記録から消されている。それでも、記録の外側には存在している」
「記録の外側?」
「世界が彼女を認識するための情報と、彼女自身の存在が、分離し始めている」
観測者は眉を寄せた。
「世界が彼女を認めないだけなら、記録を失った人間が生きていること自体は矛盾ではない」
「そうだ」
死神は頷いた。
「だからこそ、これは危険なんだ」
彼は、別の記録を開いた。
そこには、誰かが書き残した手書きの文章があった。
文字は震えていた。
彼女はここにいる。
私は彼女と話した。
彼女は、確かに笑った。
記録の下には、筆者の名前があるはずだった。
だが、そこも空白だった。
「一人が記録から消えたあと、その人間を証明しようとした者も、記録を失い始めている」
観測者は黙り込んだ。
「つまり、存在を証明する行為そのものが、次の矛盾として処理される可能性がある」
「可能性ではない」
死神は、別の記録を見た。
そこには、記録が消えていく過程が残されていた。
最初に、対象者の名前が消える。
次に、対象者と関係する記録が消える。
そして、対象者の存在を証明する記録が消える。
そのあとに何が起きるのか。
最後の部分だけが、何度試しても読み取れなかった。
「……この先が見えない」
死神は呟いた。
「世界の記録から消えることと、世界そのものから消えることは、同じではない。だが、この現象が進めば、その境界が失われる可能性がある」
観測者は、別の画面を呼び出した。
「安寧システムの動作記録は?」
「確認している」
「関与しているのか」
「まだ断定できない」
死神は即答した。
「安寧システムは、矛盾を検出し、修正する。だが、今回の現象が、あのシステムの通常処理なのか、それとも別の何かがシステムの仕組みを利用しているのか。それがわからない」
「世界を維持するための機構が、世界に生きる人間を消している」
観測者の声は硬かった。
「そんなことが、あっていいはずがない」
「世界の仕組みが、人間を守るために作られたとは限らない」
死神は言った。
「仕組みは、目的を果たそうとする。だが、その目的が誰の願いから生まれたのかを忘れたとき、仕組みは人間を守るものではなくなる」
観測者は彼を見た。
「……第一管理者のことを言っているのか」
死神は答えなかった。
第一管理者は、悲しみをなくすために、自らの娘の存在を消した。
世界から喪失を取り除こうとした。
その結果、世界に何が残ったのか。
失うことのない世界。
しかし、選ぶことのできない世界。
悲しむことのない世界。
しかし、誰かを本当に愛することもできない世界。
第一管理者は、その過ちを認めた。
だが、彼は世界の根源ではなかった。
彼自身もまた、誰かの願いによって生み出された存在だった。
ならば。
世界の仕組みが、さらに古い願いによって生み出されていたとしたら。
その願いが、今もなお世界の根底で働いているとしたら。
「……死神」
観測者が言った。
「お前は、何を考えている」
死神は、記録の奥を見つめた。
そこには、一本の巨大な樹木に似た構造があった。
枝のように広がる記録。
根のように伸びる記憶。
そのどこかに、世界の成立以前に関わる領域が存在している。
かつて彼らが見つけた、未分類の記録領域。
第一接続者に関する記録が、矛盾したまま残されている場所。
死神は、そこに手を伸ばした。
しかし、触れる直前に止めた。
「今、あの領域に干渉すれば、何かが変わるかもしれない」
「ならば、調べるべきではないのか」
「調べる必要はある。だが、何が起きるかわからない状態で、むやみに触れるべきではない」
死神は指を引いた。
「以前、私は自分の記憶を差し出した可能性がある」
観測者の表情が変わった。
「……誰かを覚えているために?」
「そうかもしれない」
「それが、今回の現象と関係していると?」
「わからない」
死神は首を振った。
「だが、もし私が誰かの存在を覚えているために、自分の記録を差し出したのだとしたら。もし、第一接続者が自分自身の存在を否定したのだとしたら」
彼は、消えていく記録を見つめた。
「世界には、存在を保つために、何かを代償として差し出さなければならない仕組みがあるのかもしれない」
観測者は、静かに言った。
「そして今、その代償を払わされているのが、生きている者たちだと」
死神は答えなかった。
答えられるだけの証拠がなかった。
だが、否定することもできなかった。
「……一つだけ、確かなことがある」
死神は言った。
「誰かが存在しないことにされるとき、その人間が本当に存在しなかったかどうかを、記録だけで判断することはできない」
観測者は彼を見た。
「なら、何で判断する」
死神は、記録の中の女性を見た。
相澤の前で、自分が存在していることを確かめていた女性。
「その人間が、何を経験し、何を望み、誰と関わってきたのか」
彼は続けた。
「そして、その人間が今、何を感じているのか」
記録の中で、女性は泣いていた。
それでも、彼女はそこにいた。
「記録が間違っているのかもしれない」
死神は呟いた。
「あるいは、記録が正しくても、それだけでは足りないのかもしれない」
そのとき。
記録領域全体が、かすかに揺れた。
遠くにある未分類領域から、警告音が響く。
観測者が振り返った。
「何だ?」
死神は、すぐに記録を開いた。
表示されたのは、短い一文だった。
第一接続者に関する記録の照合を開始します。
その下に、新たな文字が浮かぶ。
照合対象:現在の存在否定現象。
死神の目が細くなった。
「……今になって、第一接続者を照合するのか」
観測者が言った。
「この現象が、第一接続者と関係していると?」
「そうとは限らない」
死神は慎重に答えた。
「だが、世界がこの現象を、第一接続者に関する記録と結びつけている」
彼は、次の表示を待った。
記録が一行ずつ展開される。
第一接続者は、世界成立以前に、自分自身の存在を否定しました。
その記述は、以前にも確認されている。
だが、今回は違った。
続きがあった。
存在否定の対象は、本人に限定されません。
観測者が息を止めた。
さらに、文字が現れる。
接続対象への影響を確認。
現在、複数の生存記録に同一の異常が発生しています。
死神は、ゆっくりと顔を上げた。
「……第一接続者は、自分の存在だけを否定したわけではないのか」
「まだわからない」
観測者がすぐに言った。
「記録が、事実を正しく伝えている保証はない。そもそも、この照合が何を根拠に行われているのかも不明だ」
「わかっている」
死神は頷いた。
「だから、これを答えとして扱うことはできない」
彼は、消えていく記録の一覧を開いた。
その中に、一つの新しい項目があった。
場所は、都市の外れ。
閉鎖された地下通路。
対象の名前は、ない。
存在を証明する記録は、ほとんど残っていない。
だが、その記録の片隅に、小さな反応があった。
誰かが、彼女を探している。
誰かが、彼女の存在を認めようとしている。
死神はその反応を見つめた。
「……まだ間に合う」
観測者が尋ねた。
「何がだ」
「彼女が、自分自身の存在を否定する前に」
死神は、記録の奥へ手を伸ばした。
「世界に否定されることと、自分自身を否定することは、同じではない」
その言葉を、彼は自分自身にも言い聞かせているようだった。
第五幕 存在しない少女を探す
地下通路の入口に、緑谷出久と相澤消太が到着した。
封鎖用の柵は、倒れていた。
その周囲に人影はない。
しかし、通路の奥から、微かな声が聞こえた。
「……ここにいるよ!」
出久が駆け出そうとする。
「緑谷!」
相澤の声が飛んだ。
出久は足を止めた。
「先走るな。周囲を確認する」
「でも、声が!」
「聞こえている。だからこそ、慎重に動く」
相澤はゴーグルを装着し、通路の先を見据えた。
照明が不規則に点滅している。
壁の案内板には、意味をなさない文字が浮かんでは消えていた。
出久は端末を確認した。
少女からの返信はない。
それどころか、先ほどまで表示されていたメッセージの送信者情報が、空白になっていた。
本文だけが残っている。
あなたは、まだ私を覚えていますか。
出久は、端末を握りしめた。
「……いるんだ」
「何がだ」
「彼女です。ここに、いるはずなんです」
「根拠は?」
「わかりません。でも、彼女が助けを求めている気がするんです」
相澤は、出久の顔を見た。
その言葉は、証拠ではない。
だが、無視できるほど軽いものでもなかった。
「……わかった。ただし、俺の指示に従え」
「はい」
二人は通路へ入った。
数歩進んだところで、出久は違和感に気づいた。
壁に貼られた案内図。
その一部が、白く抜け落ちている。
最初は、古い地図の汚れだと思った。
だが、違った。
白い部分は、通路の形そのものを消していた。
本来あるはずの分岐が、存在しない。
非常口の表示がない。
地下通路の名称がない。
まるで、ここが最初から設計図に存在していなかったかのように。
「先生……」
「ああ。見えている」
相澤は端末を取り出し、現在地を確認した。
地図上では、二人はすでに通路の外にいた。
いや、通路そのものが地図から消えていた。
「位置情報が狂っているのか?」
「それだけじゃありません」
出久は壁に触れた。
冷たい。
確かに、壁がある。
「地図にはありません。でも、ここに壁がある。僕たちは今、ここを歩いています」
「現実と記録の不一致か」
「はい」
出久は、壁に手をついたまま言った。
「これが進むと、どうなるんでしょう」
相澤は答えなかった。
代わりに、通路の奥を指した。
「声が聞こえた。進むぞ」
二人は歩き続けた。
やがて、広い空間に出た。
そこに、少女がいた。
床に膝をつき、片手を胸に当てている。
身体の輪郭が、淡く揺らいでいた。
「……いた」
出久は駆け寄ろうとした。
「待て!」
相澤が腕を伸ばし、彼を止めた。
少女の周囲には、黒い文字が渦巻いていた。
文字は床を走り、壁を這い、少女の影に絡みついている。
出久は、すぐに理解した。
あれは、単なる映像ではない。
この場所そのものが、少女を消そうとしている。
「あなた!」
出久は声を張り上げた。
少女が顔を上げた。
「……緑谷、さん?」
「はい! 僕です!」
少女の表情が変わった。
安堵。
驚き。
そして、恐怖。
「どうして……?」
「あなたからメッセージをもらいました。だから、探しに来ました」
「でも……」
少女は、自分の手を見た。
「私は、もう……」
「まだ、ここにいます!」
出久は叫んだ。
「あなたの声が聞こえています! 僕はあなたを見ています!」
黒い文字が、激しく揺れた。
壁に、新たな一文が浮かび上がる。
対象への接触は、記録矛盾を拡大させます。
相澤が目を細めた。
「緑谷、近づくな」
出久は足を止めた。
少女が、必死に首を振った。
「来ないでください!」
「でも――」
「私に近づいたら、あなたまで……!」
彼女の声が途切れた。
壁の文字が変わる。
接続対象を確認。
対象:緑谷出久。
出久の端末が、手の中で震えた。
画面が真っ白になる。
次の瞬間、端末に保存されていた自分のプロフィールが消えた。
写真が消える。
連絡先が消える。
個人情報が消える。
相澤が端末を確認し、舌打ちした。
「緑谷。お前の記録にも異常が出ている」
「……はい」
出久は、自分の手を見た。
身体はある。
指も動く。
呼吸もできる。
自分が誰なのかは、わかる。
けれど、世界がそれを認めなくなったら?
自分が緑谷出久だという事実を、誰も証明できなくなったら?
それでも、自分は自分でいられるのだろうか。
「……大丈夫です」
出久は顔を上げた。
「まだ、僕はここにいます」
少女は震えていた。
「でも、私のせいで……」
「あなたのせいだと決まったわけじゃありません」
「でも、私が誰かを傷つけたのかもしれない!」
少女は叫んだ。
「私が何かをしたから、こんなことになっているのかもしれない! だから、私を消そうとしているのかもしれない!」
出久は、すぐには答えなかった。
少女の言葉を否定するのは簡単だった。
そんなことはない。
あなたのせいじゃない。
悪いのは世界だ。
そう言えば、一瞬だけ彼女は安心するかもしれない。
だが、出久には、彼女が何をしたのかもわからない。
本当に誰かを傷つけたのかもしれない。
取り返しのつかない過ちを犯した可能性もある。
それを知らないまま、無条件に無罪だと告げることは、彼女が求めている答えではないはずだった。
出久は、慎重に言葉を選んだ。
「あなたが何をしたのか、僕にはわかりません」
少女の顔が強張った。
「……やっぱり」
「でも」
出久は続けた。
「わからないことと、あなたが存在してはいけないことは、同じじゃありません」
少女は、顔を上げた。
「もし、あなたが誰かを傷つけたのなら、その事実を調べる必要があります。誰かに謝る必要があるかもしれない。償わなければならないことがあるかもしれない」
出久は、少女の目を見た。
「でも、それは、あなたが存在しなくていい理由にはならない」
黒い文字が、少女の足元で揺れた。
「あなたが何者なのかを知ることと、あなたを消すことは、別の話です」
出久は一歩、前に出た。
相澤が彼を止めようとしたが、出久は手のひらを見せて制した。
「僕は、あなたを無罪だと決めつけません。あなたが何もしていないと、勝手に決めるつもりもありません」
少女の目に涙が浮かんだ。
「でも、あなたが罪を犯したかもしれないからって、あなたの声を聞かない理由にもしたくないんです」
出久は言った。
「あなたが誰なのか、あなた自身が知りたいんですよね」
少女は、何度も頷いた。
「……はい」
「なら、一緒に調べましょう」
「でも、私……名前も、何も……」
「名前がわからなくても、始められます」
出久は手を伸ばした。
「今は、あなたがここにいる。それだけは、僕にもわかります」
少女は、差し出された手を見た。
その手を取れば、彼も記録から消えてしまうかもしれない。
世界は、そう告げている。
彼女に関わるな。
彼女を認めるな。
彼女を存在させるな。
そうすれば、矛盾は修正される。
世界は元に戻る。
少なくとも、記録上は。
少女は、出久の手に触れようとした。
だが、指先が止まった。
「……あなたまで、消えてしまったら」
「それは、僕たちが一緒に考えることです」
「でも……!」
「あなた一人の責任にしないでください」
出久の声は、穏やかだった。
「世界が何をしているのか、まだわかっていません。あなたが原因なのかも、わかっていません。僕があなたを見つけたことで何が起きるのかも、わかっていません」
彼は少しだけ笑った。
「わからないことばかりです」
「……」
「だからこそ、わからないまま、あなたを見捨てたくないんです」
少女の手が震えた。
そして。
彼女は、出久の手を取った。
その瞬間。
地下通路全体が、白い光に包まれた。
壁の文字が一斉に乱れる。
接触を確認。
存在矛盾が増大。
修正処理を継続――
表示が途切れた。
一瞬、すべての音が消えた。
出久は少女の手を握りしめたまま、周囲を見回した。
「……何が起きた?」
相澤が周囲を確認する。
黒い文字は、止まっていた。
消えてはいない。
ただ、動きを止めている。
少女の身体を覆っていた揺らぎも、わずかに弱まっていた。
「緑谷……さん」
少女が呟いた。
「私、まだ……いますか?」
出久は頷いた。
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「……私、ここにいるんですね」
「はい」
少女は、何度も頷いた。
涙が頬を伝った。
「……よかった」
それは、救われた人間の言葉だった。
しかし、まだ何も解決していない。
少女の名前はわからない。
過去もわからない。
彼女が犯したかもしれない罪も、彼女が誰かを傷つけた可能性も、何一つ明らかになっていない。
そして、世界が彼女を消そうとした理由も。
わかったのは、たった一つ。
世界が彼女を否定しても、彼女を見つけることはできた。
世界が彼女を記録しなくても、彼女の声を聞くことはできた。
記録に存在しない人間を、誰かが探し、見つけ、手を取ることはできた。
それが何を意味するのか。
出久には、まだわからない。
けれど、彼は少女の手を離さなかった。
第六幕 救うことと、正しさを決めること
地下通路から脱出したあと、少女は雄英の臨時医療区画へ運ばれた。
身体に明確な異常はない。
脈拍も、呼吸も、体温も正常。
医療機器は彼女の身体を認識できた。
しかし、電子カルテには名前が表示されなかった。
患者番号を発行しようとすると、システムがエラーを返す。
手書きで記録を残しても、一定時間が経過すると文字が薄くなった。
写真を撮影すると、彼女の顔だけが白く飛ぶ。
録音には声が残る。
だが、再生すると、肝心の部分だけが聞き取れなくなる。
それでも、彼女はそこにいた。
ベッドに腰掛け、借りた毛布を肩にかけている。
出久は、少し離れた椅子に座っていた。
相澤は、医療区画の入口で職員と話をしている。
「……名前がわからないまま、診療記録を作る方法はありませんか」
職員が困った顔をした。
「紙の記録なら作れます。ただ、システム上の患者番号を発行できないと、投薬履歴や検査結果との紐づけができません」
「本人の生命に関わる情報まで消える可能性があるということか」
「はい。現時点では、どの情報が維持されるのかもわかりません」
相澤は眉を寄せた。
「わかった。できる限り、紙と複数の端末で記録を残してくれ。誰か一人に管理を集中させるな」
「承知しました」
職員が去る。
相澤は少女を見た。
「何か思い出したか」
少女は首を振った。
「いいえ」
「体調は?」
「大丈夫です」
「無理に思い出そうとする必要はない。思い出せないことを、今ここで無理に思い出す必要もない」
少女は、少し驚いたように相澤を見た。
「……怒らないんですか?」
「何に対してだ」
「私が、自分のことを何も説明できないことに」
相澤は表情を変えなかった。
「説明できないことと、説明する気がないことは違う」
「でも、私は……」
「今は休め。話せることがあるなら、後で聞く」
少女は俯いた。
「……ありがとうございます」
相澤が部屋を出ると、医療区画には出久と少女だけが残った。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
やがて少女が口を開いた。
「緑谷さんは、どうして私を助けてくれたんですか?」
出久は少し考えた。
「助けを求めていたからです」
「それだけですか?」
「……それだけじゃ、だめですか?」
少女は困ったように笑った。
「私が悪い人だったら、どうするんですか」
「そのときは、そのときに考えます」
「そんな……」
「もちろん、誰かを傷つけたなら、そのことから逃げていいとは思いません」
出久は言った。
「でも、何もわかっていない段階で、あなたを悪い人だと決めることもできません」
「……」
「それに、仮にあなたが悪いことをしていたとしても、今ここで助けを求めているあなたの声を無視していい理由にはならないと思います」
少女は、毛布を握りしめた。
「……私、怖いんです」
「何がですか?」
「自分が何をしたのか、わからないことが」
彼女の声が細くなる。
「私が誰かを傷つけたのなら、その人は今も苦しんでいるかもしれない。私が何かを壊したのなら、それを取り戻せないかもしれない」
出久は黙って聞いていた。
「それなのに、私だけが何も覚えていない。私だけが、自分の罪を知らないまま、普通に生きている」
少女は目を伏せた。
「それって……ずるいですよね」
「……そう感じるんですね」
「はい」
彼女は、唇を噛んだ。
「だから、せめて自分が何をしたのか知りたいんです。私が何をしたのか、誰に何をしたのか。それがわからないと、謝ることもできないから」
出久は、彼女の言葉を遮らなかった。
彼女が自分自身を責めているからといって、その気持ちを否定することはできない。
彼女には、彼女自身の問いがある。
その問いを、他人が勝手に消してはいけない。
「……わかりました」
出久は言った。
「一緒に調べましょう」
少女は顔を上げた。
「でも、私の名前もわからないのに」
「名前がわからないなら、名前以外のところから始めましょう」
「名前以外……?」
「あなたが覚えていること。好きだったもの。苦手だったもの。誰かと話した記憶。夢に出てくる景色。何でもいいんです」
出久は、ノートを取り出した。
電子端末ではなく、普通の紙のノートだった。
表紙には、何も書かれていない。
「これに記録していきます」
少女は、ノートを見つめた。
「でも、それも消えてしまうかもしれません」
「そうかもしれません」
出久は頷いた。
「だから、何冊かに書き写します。別の場所にも置きます。必要なら、別の人にも記録してもらいます」
「……それでも消えたら?」
「また、考えます」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
「緑谷さんは……諦めないんですね」
「諦める理由が、まだ見つかっていませんから」
その答えに、少女は小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
だが、その笑顔は確かに、彼女自身のものだった。
出久はノートを開いた。
一ページ目に、ゆっくりと書き込む。
記録対象:名前不明の少女。
その下に、さらに一文。
本人は、自分が誰かを傷つけた可能性を恐れている。
そして。
本人は、自分の罪を知りたいと望んでいる。
少女は、その文字を見つめた。
「……私のことが、書いてある」
「はい」
「私の名前がなくても?」
「はい」
「私が何者なのか、わからなくても?」
出久は頷いた。
「あなたが、今そう話してくれたことを書いています」
少女は、そっとノートに触れた。
紙の感触。
鉛筆の跡。
文字の形。
電子記録とは違う。
世界のシステムが、彼女の存在を認めなくても。
今、この瞬間に、誰かが彼女の話を聞き、彼女の言葉を書き残した。
それだけで、彼女の胸の奥に、わずかな温かさが戻ってきた。
「……私、ここにいてもいいんでしょうか」
出久は、すぐには答えなかった。
彼女の問いは、簡単な肯定だけで済ませていいものではなかった。
存在していいのか。
生きていていいのか。
自分が何者なのかもわからず、何をしたのかもわからない人間が、誰かに助けを求めていいのか。
その問いを、彼女はずっと抱えていた。
出久は、ノートを閉じた。
「ここにいていいかどうかを、僕が決めることじゃないと思います」
少女の顔が曇った。
だが、出久は続けた。
「あなたが何をしたのかは、これから調べます。もし、償わなければならないことがあるなら、そのときに向き合わなければならないと思います」
「……はい」
「でも、あなたが存在していいかどうかまで、僕や世界が勝手に決めていいとは思いません」
少女は目を見開いた。
「あなたがここにいることは、もう確かです。だから、まずはその事実から始めましょう」
少女の目から、涙がこぼれた。
今度は、声を押し殺さなかった。
泣きながら、何度も頷いた。
「……はい」
彼女は言った。
「私、自分のことを知りたいです」
「はい」
「自分が何をしたのかも、知りたいです」
「一緒に調べましょう」
「それで、もし私が……」
言葉が止まった。
彼女は、震える声で尋ねた。
「もし私が、本当に許されないことをしていたら?」
出久は、彼女を見た。
「そのときも、あなたが何をしたのか、ちゃんと知る必要があると思います」
「……それでも、私を助けてくれますか?」
出久は、慎重に答えた。
「あなたの罪をなかったことにはしません。でも、あなた自身をなかったことにするつもりもありません」
少女は、目を閉じた。
その言葉が、どこまで本当なのか。
彼女にはまだ、わからない。
けれど、少なくとも今は。
自分の罪を知るために、生きていてもいいのかもしれない。
そう思うことができた。
そのとき、廊下から相澤の声がした。
「緑谷。来い」
出久は立ち上がった。
「すみません。少し待っていてください」
少女は頷いた。
出久が部屋を出る直前、彼女は呼び止めた。
「あの……緑谷さん」
「はい?」
「私、名前がわからないので……」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「今は、何て呼べばいいですか?」
出久は考えた。
「無理に呼び名を決めなくてもいいと思います。でも、呼びかけるために何か必要なら、あなたが嫌じゃない呼び方を一緒に考えましょう」
少女は、ゆっくり頷いた。
「……ありがとうございます」
出久が扉を閉めたあと。
少女は、ノートに書かれた自分の記録を見つめていた。
名前はない。
過去もない。
それでも、今の自分が話した言葉は残っている。
彼女は、ノートの余白に、震える手で一文を書いた。
私は、自分が何をしたのか知りたい。
そして、その下に。
私は、ここにいる。
彼女は鉛筆を置いた。
その文字が消えないように祈るのではなく。
消えてしまったとしても、もう一度書けるように。
彼女は、その一文を何度も読み返した。
第七幕 世界が認めない名前
廊下に出た出久を待っていたのは、相澤だけではなかった。
オールマイト。
そして、麗日お茶子。
お茶子は、出久の顔を見るなり駆け寄った。
「緑谷くん! 大丈夫?」
「うん。僕は大丈夫。それより、どうしてここに?」
「相澤先生から連絡があったんよ。記録から消えかけとる人がいるって」
お茶子は、医療区画の扉を見つめた。
「……あの子が、そうなん?」
「うん」
出久は少し考え、言葉を選んだ。
「自分が何をしたのか、わからないみたいなんだ。でも、誰かを傷つけたかもしれないって、すごく怖がっている」
「そっか……」
お茶子は俯いた。
彼女には、名前を失った少女の気持ちが、完全に理解できるわけではない。
けれど、自分が何者なのかを知らないまま、他人から存在を否定される恐怖は想像できた。
誰かに理解されたい。
誰かに自分を見てほしい。
でも、自分が本当は何者なのかわからない。
それでも、自分の中にある感情だけは確かに存在している。
「うちらで、できることはあるんかな」
お茶子が尋ねた。
「あると思う」
出久は答えた。
「まず、彼女の話を聞くこと。彼女が覚えていることを、少しずつ調べること。それから……」
「それから?」
「彼女が何をしたのか、わかったときに、最初から答えを決めつけないこと」
お茶子は頷いた。
「うん。そうやね」
相澤が口を挟んだ。
「感情だけで判断するな。だが、感情を排除して判断するな」
二人は相澤を見た。
「彼女が罪を犯していたなら、その責任は調べる必要がある。被害を受けた人間がいるなら、その人間の声も聞かなければならない」
相澤は、医療区画の扉を見つめた。
「だが、記録がないという理由だけで、本人の言葉まで無価値になるわけじゃない」
オールマイトが静かに頷いた。
「私たちがこれまで守ろうとしてきたものは、正しさだけではなかったはずだ。誰かの声を聞き、その人間が何を抱えているのかを知ろうとすること。それもまた、ヒーローの役割なのだから」
そのとき、廊下の照明が消えた。
一秒。
二秒。
そして、再び点灯した。
出久の端末が震える。
相澤の端末も。
オールマイトの端末も。
三人が同時に画面を確認した。
表示されていたのは、雄英高校の職員名簿だった。
そこに、一人の職員の名前があった。
先ほど、会議室で存在を否定されていた女性。
彼女の名前欄が、復元されている。
社員番号も、所属部署も戻っていた。
相澤が目を細めた。
「……戻ったのか?」
しかし、安堵するには早かった。
次の瞬間、別の職員の名前が消えた。
続いて、医療区画の使用記録が乱れる。
廊下の監視映像から、巡回中の警備員の姿が消えた。
その警備員は、今も廊下の向こうを歩いている。
実際に、そこにいる。
それなのに、映像の中では、誰もいない廊下を歩いていることになっていた。
「一人が戻ったと思ったら、別の人が……」
お茶子の声が震えた。
出久は、端末の画面を見つめていた。
「違う……」
「緑谷?」
「戻ったんじゃない」
彼は、記録の変化を追った。
「この人の名前が復元された瞬間、別の人の名前が消えています」
相澤の顔が険しくなった。
「記録の置き換えか」
「まだ断定はできません。でも……」
出久は画面を拡大した。
「誰かの存在を認めると、別の誰かの存在が否定される。そんなふうに、見えるんです」
お茶子が息を呑んだ。
「そんなの……」
言葉が続かなかった。
誰かを救うことが、別の誰かを消すことになる。
一人を存在させるために、もう一人の存在を否定しなければならない。
もし、それが世界の仕組みなのだとしたら。
救済そのものが、誰かを犠牲にする行為になってしまう。
「……そんな仕組み、間違っとるよ」
お茶子が言った。
怒りを抑えた声だった。
「誰かを助けるために、別の誰かが消えなあかんなんて。そんなの、助けたことにならんよ」
「そうだね」
出久は頷いた。
だが、彼の表情は晴れなかった。
「でも、もし世界が本当にそういう仕組みで動いているなら、僕たちはその仕組みを理解しないといけない」
「理解して、止めるんやね」
「うん」
相澤は、二人の会話を聞いていた。
そして、低い声で告げた。
「今すぐ、記録が消えている人間を全員特定する。職員、生徒、医療スタッフ、外部の関係者。可能な限り、実際に存在していることを確認しろ」
「はい!」
出久とお茶子が返事をした。
「ただし、誰かを助けるために、別の誰かを犠牲にするという判断はするな」
相澤は言った。
「現象の仕組みがわからないうちに、誰かを選ぶな。世界が選択を迫ってきてもだ」
その言葉に、出久は顔を上げた。
世界が選択を迫ってくる。
その表現が、妙に胸に引っかかった。
まるで、世界そのものが意思を持っているかのような言い方だった。
しかし、今の異常が誰かの意思によって起こされているのか。
それとも、意思を持たない仕組みが自動的に処理しているだけなのか。
まだ、何もわからない。
だからこそ、彼らは調べなければならなかった。
第八幕 存在を証明する者
夜。
雄英高校の臨時対策本部。
机の上には、紙の資料が積み重なっていた。
電子記録は信用できない。
手書きの記録も、完全ではない。
それでも、調査をやめるわけにはいかなかった。
相澤は、職員たちに指示を出していた。
「一人につき、最低二人が存在を確認する。確認した時刻と場所を記録しろ。本人が自分の名前を言える場合は、本人の言葉も残す」
「はい」
「記録は複数の場所に保管する。誰か一人がすべてを管理するな。管理者が記録から消された場合、全体が失われる」
職員たちが動き始める。
その様子を、出久は静かに見つめていた。
紙に名前を書く。
その名前を、別の人間が確認する。
確認した事実を、また別の人間が記録する。
それは、記録という仕組みが信用できない世界で、記録を作り直す試みだった。
だが、出久には一つの疑問があった。
「相澤先生」
「何だ」
「もし、確認する人たち全員の記録が消えたら、どうなるんでしょう」
相澤の手が止まった。
「……最悪の場合、誰も証明できなくなる」
「ですよね」
出久は、自分の手元にあるノートを見た。
名前を失った少女の記録。
彼女が話したこと。
彼女が覚えていること。
彼女が知りたいと望んでいること。
どれも、世界が認める正式な記録ではない。
それでも、彼女が実際に話したことを書き残している。
「でも、証明できる人がいなくなったからって、その人が存在しなかったことにはならないはずです」
「そうだな」
「なら、僕たちが今やっていることは、存在を作っているんじゃなくて……」
出久は言葉を探した。
「存在している人を、見失わないための行為なんでしょうか」
相澤は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「そうかもしれない」
彼は、机に置かれた紙の束を手に取った。
「記録は、存在を確認するための手段だ。少なくとも、本来はそうあるべきだ。だが、記録が存在の条件になってしまったら、順番が逆になる」
「順番が逆……」
「記録にあるから存在する。記録にないから存在しない。そう決めつけるようになれば、記録を操作できる者が、誰を存在させるかまで決められることになる」
相澤は紙を置いた。
「そんなものを、正しい仕組みとは呼べない」
出久は、ゆっくり頷いた。
その言葉は、今回の異常だけに向けられたものではなかった。
世界が定めた正しさ。
安寧システムが維持しようとする秩序。
第一管理者が、悲しみをなくすために作ろうとした世界。
そこには、いつも同じ危険が潜んでいる。
誰かを守るために、誰かの選択を奪う。
誰かを救うために、誰かの存在を否定する。
そして、それを正しいことだと信じてしまう。
「……先生」
出久が言った。
「僕たちが救いたい人を、世界が存在しないと言ったら」
相澤は、彼を見た。
「それでも、俺たちがその人間を見つければいい」
「見つけられなかったら?」
「探す」
「探しても、見つからなかったら?」
相澤は、少しだけ目を細めた。
「それでも、最初からいなかったことにはしない」
出久は、言葉を失った。
相澤は、いつもの無愛想な顔をしていた。
特別なことを言ったつもりはないのだろう。
だが、出久には、その言葉が強く響いた。
世界が存在を認めない。
記録が名前を消す。
人々の記憶から、誰かの姿が失われていく。
そのすべてに抗うために必要なのは、必ずしも強大な力ではないのかもしれない。
忘れないと決めること。
見つけようとすること。
わからないことを、わからないまま調べ続けること。
そして、見つからないからといって、存在そのものを否定しないこと。
出久は、手元のノートを開いた。
少女の記録の下に、新しい一文を書き加えた。
彼女の存在を、私たちは確認した。
その文字を書き終えた瞬間。
ノートの紙が、かすかに震えた。
出久は顔を上げた。
机の上に置かれた別の記録用紙から、文字が一つずつ消えていた。
職員たちが慌てて紙を押さえる。
だが、文字は消え続ける。
名前が消える。
確認した時刻が消える。
確認した場所が消える。
最後に、紙そのものが白くなった。
「……そんな」
職員の一人が呟いた。
「紙まで……」
相澤が、すぐに指示を出した。
「全員、手を止めるな! 消えた記録を思い出せる者は、すぐに書き直せ!」
職員たちが動く。
出久も、ノートを開いたまま鉛筆を握りしめた。
少女の記録は、まだ残っている。
しかし、ページの端から、ゆっくりと白い領域が広がり始めていた。
彼は、急いで文字を読み返した。
名前不明の少女。
自分が何をしたのか知りたい。
誰かを傷つけたのなら、謝りたい。
自分は、ここにいる。
「……消させない」
出久は呟いた。
ノートを押さえ、文字を読み続ける。
「ここにいるんだ」
白い領域が、さらに広がった。
そのとき。
医療区画から、警報が鳴り響いた。
相澤が振り返る。
「何が起きた!」
職員の端末に、新しい通知が表示された。
医療区画。
患者記録。
対象者の情報が、再び消失。
しかし、今回は少女ではなかった。
画面には、一人の職員の名前が表示されていた。
その人物は、今も医療区画で勤務している。
そして、その職員を最後に確認した人間は――。
「……麗日」
出久は、息を呑んだ。
お茶子の名前が、画面に表示されていた。
彼女は今、医療区画の中にいる。
つまり。
世界が記録を消そうとしている対象は、少女を探した人間だけではない。
少女を助けようとした人間だけでもない。
彼女がそこにいることを知った人間。
彼女の存在を記録しようとした人間。
そのすべてが、次の対象になり得る。
出久は椅子から立ち上がった。
「麗日さん……!」
その瞬間、室内のモニターが一斉に点灯した。
表示されたのは、雄英高校の全職員・全生徒の名簿だった。
名前が並んでいる。
写真が並んでいる。
一人ひとりの情報が、そこに記録されている。
そして、画面の中央に、赤い文字が浮かんだ。
存在矛盾の修正対象を再選定します。
出久の名前が、点滅した。
次に、お茶子の名前が点滅した。
続いて、相澤。
オールマイト。
そして、医療区画にいる名前不明の少女。
彼らの名前が、一本の線で結ばれていく。
その線の先に、見覚えのある表示が浮かんだ。
第一接続者との関連性を検出。
接続経路を再構築します。
出久は、画面を見つめた。
「第一接続者……」
その名を口にした瞬間。
画面が、真っ白になった。
そして、最後に一文だけが表示された。
次の記録対象を指定してください。
誰も動かなかった。
誰も、答えなかった。
やがて、画面の文字がゆっくりと変わっていく。
対象選定の条件を更新。
他者の存在を証明した者を優先します。
出久の背筋が冷たくなった。
世界は、存在を否定された人間だけを消そうとしているのではない。
その人間を見つけた者。
その人間を覚えている者。
その人間が存在すると証明した者。
彼らまでも、矛盾として扱っている。
つまり――。
誰かを救おうとする行為そのものが、世界の記録にとって、排除すべき異常になっているのだ。
「……ふざけるな」
相澤の声が響いた。
彼はモニターの前に立った。
「誰を消すか、お前に決めさせるつもりはない」
画面は答えない。
ただ、文字だけが表示され続けている。
次の記録対象を指定してください。
相澤は、画面を見据えたまま言った。
「俺たちは、誰も選ばない」
出久も、一歩前に出た。
「一人を救うために、別の誰かを消すなんてことはしません」
お茶子の声が、通信越しに届いた。
『緑谷くん! こっちは大丈夫! でも、医療区画の記録が……!』
通信が乱れる。
『先生たちの名前が、消え始めとる!』
出久は端末を握りしめた。
「麗日さん、そこから離れてください!」
『でも、あの子が――』
「彼女を一人にしないでください! ただし、無理はしないで!」
『わかった!』
通信が切れた。
出久は、目の前の画面を見た。
世界は、彼らに選択を迫っている。
誰を残すのか。
誰を消すのか。
誰を存在させ、誰を存在しなかったことにするのか。
だが、出久は知っていた。
その選択を受け入れた瞬間、彼らは世界が定めた正しさの中に閉じ込められてしまう。
救うことと、誰かを選別することは違う。
記録に残すことと、存在を決めることも違う。
彼は、ノートを握りしめた。
そこには、名前のない少女の言葉が残っている。
私は、ここにいる。
それは、世界に向けた反論だった。
記録が消えても。
名前が消えても。
過去がわからなくても。
それでも、彼女はそこにいる。
ならば、彼女を救うために必要なのは、彼女を世界の記録に無理やり押し戻すことだけではない。
世界が何を否定しているのかを知ること。
その否定が、誰の願いから生まれたのかを知ること。
そして、誰かの存在を否定しなければ維持できない世界なら、その仕組みそのものを問い直すこと。
「……見つける」
出久は、静かに言った。
「僕たちは、誰も見捨てない」
画面の文字が、再び変わった。
存在矛盾の修正を再開します。
その瞬間、雄英高校の全館放送が作動した。
聞こえてきたのは、無機質な合成音声だった。
『雄英高校、在籍者情報の照合を開始します』
『照合不能者を確認しました』
『照合不能者を確認しました』
『照合不能者を確認しました』
繰り返される声。
そして、最後に。
『緑谷出久』
出久の名前が呼ばれた。
『あなたの存在を証明してください』
室内が静まり返った。
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
自分の存在を証明しろ。
世界に向けて。
記録に向けて。
自分が確かにここにいると、証明しろ。
彼は、手元のノートを見た。
そこには、少女の言葉がある。
彼女の存在を認めた、自分たちの記録がある。
出久は、顔を上げた。
「……僕は、緑谷出久です」
誰かに証明するためではなく。
自分自身を確認するためでもなく。
ただ、ここにいる人間として。
彼は言った。
「僕は、ここにいます」
放送は沈黙した。
そして、次の瞬間。
画面に、最後の一文が表示された。
緑谷出久――存在の照合を開始します。
出久は、目を逸らさなかった。
世界が彼を認めるかどうかは、まだわからない。
だが、彼はもう、答えを知っていた。
世界が記録を消しても。
世界が名前を消しても。
世界が誰かを存在しないものとして扱っても。
そこにいる人間の声まで、最初からなかったことにはできない。
少なくとも、彼はそう信じていた。
そして、その信念が。
これから彼自身を、どこへ導くのか。
まだ、誰にもわからなかった。