1 証明できない人間
『緑谷出久、あなたの存在を証明してください』
無機質な声が、室内に響いた。
誰も動かなかった。
否。
動けなかった。
その言葉を聞いた瞬間、そこにいる全員が理解してしまったからだ。
これは単なる警告ではない。
安寧システムは、緑谷出久という人間を、修正すべき矛盾として認識したのだ。
「……何を、言っている」
相澤が低くつぶやいた。
彼は壁のスピーカーを見上げた。そこにあるのは、いつもと変わらない設備だ。声を発するための装置にすぎない。
だが、その奥には、人間の理解できない何かが存在している。
少なくとも、今の相澤にはそう思えた。
「緑谷出久の存在を証明しろ、だと?」
オールマイトが一歩前に出た。
「彼はここにいる! 私たち全員が、その存在を認識している!」
『証言を受理しました』
機械音声が答える。
『証言者の存在を照合します』
「……何?」
相澤が反応するより早く、壁面のモニターが切り替わった。
そこには、数名の名前が表示されていた。
相澤消太。
八木俊典。
麗日お茶子。
そして、緑谷出久。
四つの名前の横に、同じ文字が浮かび上がる。
《存在証明:不整合》
「ふざけるな」
相澤の声に、抑えきれない怒気が混じった。
「存在を証明しろと言われたから証言した。その証言をした人間まで証明しろというのか」
『証言者の存在が不確定である場合、その証言の信頼性は保証されません』
「だったら、その証言を信頼できないと判断したお前の存在は、どうやって証明するんだ?」
沈黙。
初めて、安寧システムの返答が途切れた。
ほんの数秒。
だが、相澤は見逃さなかった。
「答えられないか」
『質問の前提条件に矛盾が存在します』
「便利な言葉だな。自分が答えられない質問は、全部矛盾か」
「相澤先生……」
緑谷が呼びかけた。
声は、普段どおりに出た。
自分の声だ。
喉の震えも、息の流れも、耳に届く音も。
すべて自分のものだった。
それなのに。
緑谷は、自分の手を見つめた。
指は五本ある。
手の甲には、かつての戦いで刻まれた傷が残っている。皮膚の下には血が流れ、胸の中では心臓が動いている。
自分がここにいることくらい、自分が一番よく知っている。
なのに、世界はそれを証明しろと言う。
「……どうすれば、証明できるんでしょう」
その問いは、誰に向けたものでもなかった。
「僕がここにいることを、どうすれば世界に証明できるんですか」
「出久くん」
麗日が彼の腕をつかんだ。
確かな力だった。
緑谷は振り返る。
「お茶子ちゃん?」
「ここにいるよ」
麗日は、彼の目を見た。
「出久くんは、ここにいる。私が見てる。声も聞こえる。手だって、ちゃんと握れてる」
彼女は、つかんだ手に少しだけ力を込めた。
「だから……そんな機械に、決めさせない」
緑谷は微笑もうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「ありがとう」
その瞬間。
『照合を開始します』
機械音声が再び響いた。
『対象者、緑谷出久』
モニターの文字が、一つずつ変化していく。
『出生記録を照合』
緑谷の背筋が冷たくなった。
『照合失敗』
『家族記録を照合』
『照合失敗』
『教育記録を照合』
『照合失敗』
『雄英高校在籍記録を照合』
『照合失敗』
『個性登録記録を照合』
『照合失敗』
表示が次々に切り替わる。
『対象者の生存履歴を確認できません』
緑谷は息を止めた。
生存履歴。
その言葉が、頭の中に引っかかった。
『対象者の社会的存在を確認できません』
『対象者の記録は、現在の世界構造と一致しません』
『判定――』
「待って!」
緑谷が叫んだ。
「僕は、ここにいる!」
彼の声が、室内を震わせた。
「僕は緑谷出久だ! 雄英高校の生徒で、オールマイトに憧れて、ヒーローになろうとして……!」
言葉が途切れた。
何かを思い出そうとしたのだ。
だが、その瞬間、頭の中に浮かびかけた記憶が、霧の向こうへ遠ざかった。
「……僕は」
緑谷は、眉を寄せた。
「僕は……何を、言おうとして……」
麗日の顔色が変わった。
「出久くん?」
「いや、違う。分かってるんだ。僕は……」
緑谷は、自分の胸元を押さえた。
記憶がないわけではない。
頭の中には、確かに自分が歩いてきた道がある。
けれど、そこに手を伸ばそうとすると、何かが指の間をすり抜けていく。
名前。
家族。
学校。
仲間。
自分を自分たらしめているはずのものが、ひとつずつ、輪郭を失い始めていた。
『存在証明に失敗しました』
その宣告と同時に、モニターから緑谷の名前が消えた。
相澤が息をのむ。
オールマイトが叫んだ。
「緑谷少年!」
「出久くん!」
麗日が彼の手を握り直す。
「出久くん、聞こえる? 私だよ! 麗日お茶子!」
緑谷は彼女を見た。
目の前にいる。
よく知っている顔だ。
声も、表情も、手の温度も分かる。
なのに。
ほんの一瞬だけ。
彼女の名前が、分からなくなった。
「……きみは」
麗日の表情が凍りついた。
緑谷自身も、言葉を失った。
違う。
忘れたわけじゃない。
そう言いたかった。
彼女の名前を知っている。
彼女と過ごした時間を覚えている。
なのに、世界がその名前と記憶を結びつける場所を、どこかから切り離している。
「違うんだ……!」
緑谷は必死に言葉を探した。
「僕は、きみを……!」
「うん」
麗日は泣きそうな顔で、それでも頷いた。
「うん、分かってる」
彼女は、緑谷の手を離さなかった。
「今、思い出せなくてもいい」
「でも……!」
「いいんだよ!」
麗日の声が震えた。
「出久くんが、私のことを思い出せない瞬間があったって、それで今まで一緒にいた時間が全部なくなるわけじゃない!」
彼女は、涙をこらえながら言った。
「私が覚えてる。出久くんが私を助けてくれたことも、苦しいときに一緒に考えてくれたことも、何度も立ち上がったことも!」
そして。
「だから今度は、私が覚えてる!」
緑谷の目が見開かれた。
彼女の声が、遠ざかりかけた記憶の向こう側から届いた。
世界の記録ではない。
システムの判定でもない。
彼女自身の声だった。
「……お茶子、ちゃん」
緑谷は、かすれた声で言った。
「うん!」
麗日が答える。
「そうだよ!」
緑谷の目から、涙が一筋こぼれた。
「……よかった」
彼は、彼女の手を握り返した。
「忘れたく、なかったんだ」
「うん」
「忘れたくないんだ。みんなのことも……僕が、ここまで来たことも」
「うん」
「僕は……」
彼は息を吸った。
「僕は、ここにいる」
その言葉に、今度は誰も反論しなかった。
けれど、モニターには新たな文字が浮かんでいた。
《存在証明失敗》
《修正処理を継続します》
世界は、まだ彼を認めていなかった。
2 名前のない少女の証言
「……やめて」
か細い声がした。
誰もが、そちらを振り返った。
部屋の隅。
椅子に座っていた少女が、顔を上げていた。
患者番号零。
彼女はずっと、緑谷たちのやり取りを見つめていた。
自分の名前を思い出せない少女。
自分の存在を証明する記録を持たない少女。
誰かが彼女を認識するたび、その誰かまで世界から拒絶されていく。
彼女自身が、周囲の人間にとって危険な存在になっているかもしれない。
それを理解しているからこそ、少女は今まで何度も口を閉ざしてきた。
助けてほしいと言うことを。
そばにいてほしいと願うことを。
誰かに自分を覚えていてほしいと思うことを。
それでも。
彼女は、立ち上がった。
「……もう、やめて」
今度は、はっきりと声を出した。
「その人を、消さないで」
『発言者を確認できません』
システムが即答した。
『発言者の識別情報を提示してください』
少女は、唇をかんだ。
「……ない」
『識別情報が必要です』
「ないって言ってる!」
少女の叫びが響いた。
普段の彼女からは想像できないほど、強い声だった。
「名前も、記録も、昔のことも……何もない!」
彼女は自分の胸元を握りしめた。
「でも、私はここにいる!」
声が震える。
「私が怖いことも、苦しいことも、誰かに消えてほしくないって思うことも……全部、ここにある!」
彼女は緑谷を見た。
「その人は、私に話しかけてくれた」
誰も口を挟まなかった。
「私が名前を思い出せなくても、何をしたのか分からなくても……私の話を聞いてくれた」
少女は、一歩前に出た。
「私が何者なのかを決めつけなかった」
その瞳が揺れる。
「だから……私も、その人のことを決めつけたくない」
彼女は緑谷を見つめた。
「あなたは、緑谷出久さん……なんだよね?」
緑谷は、ゆっくりと頷いた。
「うん」
「……私が、あなたのことを覚えていてもいい?」
その質問に、緑谷は一瞬、言葉を失った。
彼女は、世界から存在を否定されている。
自分が誰なのか分からない。
それでも、誰かを覚えていたいと願っている。
その願いさえ、彼女は許可を求めなければならないと思っているのだ。
「もちろんだよ」
緑谷は答えた。
「君が僕のことを覚えていてくれるなら、僕はうれしい」
「……でも」
少女は不安そうに視線を落とした。
「私が誰かを覚えると、その人が消えてしまうかもしれない」
「その可能性は、まだ否定できない」
相澤が慎重に言った。
少女の肩がびくりと震える。
だが、相澤は言葉を続けた。
「だからといって、君が誰かを覚えることを禁止する理由にはならない」
「先生……」
「危険があるなら、調べる。対策も考える。だが、最初から君の行動を封じることを解決策にはしない」
相澤は少女を見た。
「お前が誰かを覚えていること自体を、罪にするつもりはない」
少女は、何も答えられなかった。
その言葉を受け取ってしまっていいのか、分からなかったのだ。
自分が誰かを覚えること。
誰かに覚えてもらうこと。
そんな当たり前のことを、ずっと恐れてきた。
「……私」
少女は、ゆっくりと緑谷の方へ手を伸ばした。
「緑谷さんのことを、覚えていたい」
緑谷は、その手を見た。
そして、自分の手を差し出した。
二人の指先が触れた。
その瞬間。
モニターの文字が乱れた。
『未登録対象から、登録対象への接続を確認』
相澤が即座に身構える。
「何が起きている?」
『記録照合を開始』
画面に、二人の名前が表示された。
緑谷出久。
患者番号零。
しかし、次の瞬間。
『識別情報の不一致』
『接続を解除してください』
少女が、緑谷の手を離そうとした。
「……やっぱり、だめなんだ」
「待って!」
緑谷が手を握り直した。
「まだ、何も分かってない!」
「でも……!」
「君が僕を覚えていてくれることが、何か悪いことだなんて、僕は思わない!」
「……緑谷さん」
「君の存在が、僕の存在を消す理由になるなんて、そんなのおかしいよ!」
彼は、モニターを見上げた。
「もし僕たちが矛盾しているなら、矛盾を調べればいい!」
声が強くなる。
「どちらかを消して、片方だけを正解にする必要なんてない!」
一瞬。
モニターの文字が停止した。
『……』
機械音声が途切れる。
そして。
『接続状態を維持』
たった一行。
それだけだった。
しかし、誰もがその表示を見ていた。
接続は解除されていない。
少女は緑谷を覚えている。
緑谷も、彼女を患者番号零という記号だけで扱ってはいない。
二人の間には、確かに何かが成立していた。
それが、世界の仕組みにとって何を意味するのか。
まだ、分からない。
けれど少なくとも。
今この瞬間、少女は緑谷の存在を認め、緑谷は少女の存在を認めていた。
そして、その関係はシステムによって完全には切断されなかった。
相澤はモニターを凝視した。
「……接続状態を維持、か」
「先生。これは……」
「まだ何も断定できない」
相澤は即座に釘を刺した。
「一度表示されたからといって、安全だとは限らない。システムが何をもって接続と判断しているのかも不明だ」
彼は、二人の手を見た。
「だが、記録が消えたあとにも、何かが残っている可能性はある」
オールマイトが頷いた。
「名前や記録だけではない、何かが……」
「そうだ」
相澤は言った。
「それを確かめるまでは、誰も勝手に答えを決めるな」
その声には、教師としての厳しさがあった。
そして同時に。
自分たちが今、どれほど危険な場所に立っているのかを理解している人間の慎重さがあった。
3 世界から消された少年
「……一つ、試してみたいことがあります」
緑谷が言った。
相澤が彼を見る。
「何だ」
「僕の記録が消えているなら、記録と関係ないものを確認したいんです」
「具体的には?」
緑谷は、少し考えた。
「僕自身の記憶です」
麗日が不安そうに彼を見た。
「出久くん……大丈夫?」
「うん。たぶん」
その答えが、どれほど頼りないものか。
緑谷自身が一番よく分かっていた。
「今、少しだけ、思い出せなくなったことがあったんだ。でも、お茶子ちゃんが声をかけてくれたら、思い出せた」
彼は自分の手を見つめた。
「もし、世界の記録が僕の記憶にも影響しているなら……その仕組みを知る必要があると思う」
「危険だ」
相澤は即答した。
「自分の記憶を確認するだけでも、何らかの影響を受ける可能性がある」
「分かっています」
「分かっている人間は、たいてい危険を軽く見積もる」
「……先生」
「却下だと言いたいところだが」
相澤はため息をついた。
「お前が何を考えているかは分かった。やるなら、俺たちが見ている前でやれ。一人で確認するな」
「はい!」
「返事だけはいいな」
そのやり取りに、ほんのわずかに緊張が緩んだ。
だが、安寧システムは待ってくれなかった。
『対象者、緑谷出久』
再び、機械音声が響く。
『個人記憶の照合を開始します』
緑谷の表情がこわばった。
「個人記憶……?」
『出生以前の記録』
『家族との接続記録』
『社会的関係の形成記録』
『対象者が自身を緑谷出久と認識する根拠を照合します』
「待て!」
相澤が叫んだ。
『照合を開始します』
モニターに、映像が浮かび上がった。
緑谷の幼少期。
病院の診察室。
医師の前に座る、小さな少年。
隣には母親の姿があった。
映像は、緑谷自身の記憶に近かった。
しかし、決定的に違う部分があった。
医師が、少年に告げる。
『君には、個性がありません』
少年はうつむいた。
隣に座る母親が、涙を流す。
『ごめんね……出久……』
緑谷は、その映像を見つめた。
忘れるはずがない。
自分が、個性を持たないと告げられた日の記憶。
ヒーローになりたいと願いながら、その夢が遠ざかっていくことを初めて知った日。
母親が自分を抱きしめてくれたこと。
謝らなくていいと、言いたかったこと。
そして。
それでも、ヒーローを諦められなかったこと。
すべて覚えている。
なのに。
映像の隅に、文字が浮かび上がった。
《参照記録:該当なし》
『対象者の幼少期記録は存在しません』
緑谷の喉が鳴った。
「……そんな」
『対象者が個性を持たないと診断された事実は確認できません』
「違う!」
緑谷は叫んだ。
「それは、僕の記憶だ!」
『対象者の記憶を裏付ける記録がありません』
「記録がなくても、覚えてるんだ!」
『記憶の正確性を保証できません』
「僕は覚えてる!」
声が裏返った。
「母さんが、僕を抱きしめてくれたことも……僕が泣いたことも……!」
緑谷は、映像の中の幼い自分を見つめた。
「僕は、ヒーローになりたかったんだ!」
胸の奥が熱くなった。
「誰かを助けられる人になりたかった!」
それは、彼の原点だった。
個性がなくても。
周囲から無理だと言われても。
それでも諦められなかった。
その願いがあったからこそ、彼はここまで来た。
なのに、世界はそれを存在しなかったことにしようとしている。
『対象者の自己認識は、記録による裏付けを得られません』
緑谷の視界が揺れた。
「……じゃあ」
彼は、かすれた声で言った。
「僕がヒーローになりたかったことも……?」
『確認できません』
「オールマイトに憧れていたことも……?」
『確認できません』
「誰かを助けたいと思っていたことも……?」
『確認できません』
一つずつ。
大切なものを、否定されていく。
それは、記憶を失うこととは違った。
自分が覚えていることを、自分が知っていることを、世界そのものから「存在しなかった」と言われること。
どれほど確かな記憶でも。
どれほど大切な思い出でも。
記録がなければ、なかったことになる。
そんな世界が、本当に正しいのだろうか。
「……出久くん」
麗日の声が聞こえた。
「お茶子ちゃん……」
「こっちを見て」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
麗日は泣いていなかった。
いや、目は赤かった。
今にも泣きそうなのに、それでも彼女は必死に笑おうとしていた。
「私、覚えてるよ」
「……何を?」
「出久くんが、ヒーローになりたかったこと」
彼女は、まっすぐに言った。
「初めて会ったときのことも。出久くんが何度も人を助けようとしてたことも。自分が傷ついても、誰かを見捨てられなかったことも」
一歩、近づく。
「私がヒーローを目指す理由の一つに、出久くんがいることも」
緑谷の唇が震えた。
「……お茶子ちゃん」
「記録がないなら、私が話す」
麗日は言った。
「私だけじゃない。みんなが話せばいい」
相澤が続けた。
「俺も覚えている」
オールマイトも頷いた。
「私もだ」
「……先生」
「お前が個性を持たない少年だったことを覚えている。そこから、どれほどの努力を重ねたかも」
オールマイトの声は、静かだった。
「お前が何を失い、何を得たのか。誰に支えられ、誰を支えてきたのか。私は、この目で見てきた」
彼は、緑谷の肩に手を置いた。
「それを、機械の判定一つで無かったことにはさせない」
相澤も言った。
「記録は証拠の一つだ。だが、記録だけが現実ではない」
「……はい」
「お前が何者なのかを、俺たちだけで決めるつもりもない。お前自身の意思もある。お前が何を覚えていて、何を大切にしているかも重要だ」
相澤は、モニターを睨んだ。
「だが、少なくとも今ここにいる俺たちは、お前を存在しない人間だとは認めない」
緑谷は、唇をかみしめた。
泣きたくなかった。
けれど、涙が止まらなかった。
世界が自分を否定している。
それなのに、自分を覚えている人たちがいる。
その事実が、今は何よりも苦しかった。
そして、何よりも心強かった。
『複数の証言を確認』
安寧システムが告げた。
『証言内容と記録の不一致を検出』
『不一致を修正します』
「……まだやるのか」
相澤が吐き捨てた。
『修正対象を再選定』
画面が暗転した。
次に表示されたのは、緑谷の名前ではなかった。
相澤消太。
八木俊典。
麗日お茶子。
患者番号零。
一つずつ、名前が点滅していく。
『証言者の記録を再照合します』
相澤が舌打ちした。
「なるほど。緑谷を証明する人間を消せば、証言そのものがなくなる。そういう仕組みか」
『不正確な推論です』
「だったら、正しい仕組みを説明しろ」
『説明の必要性を認めません』
「……最悪だな」
相澤の呟きに、オールマイトも苦い顔をした。
システムは、対話をしているようで対話をしていない。
言葉を返しているようで、相手の問いには答えていない。
まるで、最初から結論だけが決まっているかのようだった。
世界の矛盾を修正する。
その目的だけが、何よりも優先されている。
そして、その目的に合わないものは、どれほど人間にとって大切なものであっても、切り捨てられる。
「……先生」
緑谷が、静かに言った。
「僕、分かった気がします」
「何がだ」
「このシステムは、僕たちが何を覚えているかを知りたいんじゃない」
彼はモニターを見た。
「僕たちの記憶を、正しいか間違っているかで判定したいんです」
相澤は黙った。
「でも……」
緑谷は、言葉を探した。
「人の記憶って、記録と完全に一致するとは限らないと思うんです。忘れていることもあるし、間違って覚えていることもある。見ているものが違えば、同じ出来事でも受け取り方が変わる」
彼は少女を見た。
「それでも、その人が経験したことまで、全部なかったことにはできない」
少女は、静かに頷いた。
緑谷は続けた。
「このシステムは、記録と一致しないものを消せば、世界が正しくなると思っている。でも、もし世界そのものが、まだ記録できていないものを抱えているとしたら?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
「記録にないから、存在しないんじゃない」
緑谷は、はっきりと言った。
「まだ、記録できていないだけかもしれない」
その瞬間。
モニターが、激しく明滅した。
『……』
『未記録領域に関する仮説を検出』
『照合を開始します』
相澤の表情が変わった。
「緑谷、今の言葉を繰り返すな」
「えっ?」
「システムが反応している。何に反応したのか分かるまで、余計な情報を与えるな」
だが、もう遅かった。
画面の奥で、無数の文字列が走り始めていた。
そして、その中に。
誰も入力していないはずの文字が浮かび上がった。
《未記録領域》
《第一接続者》
《応答履歴:欠損》
緑谷は息をのんだ。
「第一接続者……」
それは、以前から何度も現れていた言葉だった。
世界が成立する以前の記録。
死神の失われた記憶。
デウス・マキナが探し続けている接続の起点。
そして、患者番号零に関係している可能性のある存在。
しかし、何一つ確定していない。
「……どうして、僕の存在を照合したら、第一接続者が出てくるんだ?」
誰も答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
彼らはまだ、世界の仕組みの入口に立ったばかりなのだから。
4 記録のない人間は、誰の夢を見るのか
同じ頃。
世界の記録が届かない場所。
そこには、昼も夜もなかった。
時間が流れているのかさえ、定かではない。
ただ、無数の記録が存在していた。
生まれた者の記録。
死んだ者の記録。
叶えられた願い。
叶えられなかった願い。
誰かが覚えていること。
誰にも覚えられなかったこと。
そして、そもそも記録されることのなかったもの。
その場所で、死神は立ち止まっていた。
「……またか」
目の前に、新たな記録が現れていた。
いや、記録と呼んでいいのかも分からない。
文字は途中で途切れている。
文章は前後で矛盾している。
誰かの名前が記されていたはずの場所には、空白だけが残されていた。
それでも、その記録は確かに存在していた。
死神は、ゆっくりと手を伸ばした。
触れた瞬間。
視界が反転した。
白い空間。
何もない場所。
その中央に、小さな子供が立っていた。
顔は見えない。
年齢も、性別も、分からない。
ただ、声だけが聞こえた。
『ねえ』
死神は、動けなかった。
『どうして、みんな、いなくなるの?』
その声に、覚えがあった。
いや。
覚えているはずがない。
死神は、その記憶を持っていないのだから。
『ぼくが、悪いことをしたから?』
子供は尋ねた。
『ぼくが、ちゃんと名前を呼べなかったから?』
死神の胸の奥で、何かが軋んだ。
「……違う」
思わず声が漏れた。
「違う。お前が悪いと決まったわけじゃない」
子供は、顔を上げた。
『じゃあ、どうして?』
死神は答えられなかった。
知らないからだ。
この子供が誰なのか。
何をしたのか。
何を失ったのか。
何よりも。
自分がなぜ、この子供の声に反応しているのか。
何も分からない。
それでも。
子供の問いは、死神の胸に深く突き刺さった。
『みんなと、一緒にいたかっただけなのに』
その言葉を聞いた瞬間。
死神の視界に、別の映像が重なった。
誰かの手。
小さな手を握っている。
自分の手なのか。
誰かの手なのか。
分からない。
そして、声がした。
『あなたは、私を忘れたのではありません』
死神は息をのんだ。
『あなたは、私を覚えることができなかったのです』
視界が揺れた。
「……誰だ」
声がかすれた。
「お前は、誰なんだ」
答えはない。
ただ、記録の向こうから、誰かがこちらを見ているような気配があった。
死神は、無意識に胸元を押さえた。
自分の中に、何かが欠けている。
そのことは、ずっと分かっていた。
失われた記憶。
辿り着けない過去。
死神という存在が、いつからそこにいたのかという根本的な疑問。
だが、今見たものは、単なる記憶の欠落ではなかった。
まるで。
自分が、誰かを覚えていることそのものを、許されなかったかのような感覚。
「……私は」
死神は、震える指を見つめた。
「誰かを、覚えていたかったのか?」
その問いに答える者はいない。
しかし、記録の表面に、新たな文字が浮かび上がった。
《第一接続者》
その下に、別の文章が表示される。
《記録保持者:死神》
死神は、凍りついた。
「……何だと?」
文字が、さらに変化する。
《保持対象:欠損》
《欠損理由:未確定》
《接続の代償:照合不能》
「待て……!」
死神が手を伸ばした瞬間、記録は崩れ落ちた。
文字が消え、空間が砕け、子供の姿が遠ざかる。
最後に聞こえたのは、小さな声だった。
『今度は、覚えていてくれる?』
死神は手を伸ばした。
「待て!」
届かない。
「私は……!」
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
覚えていると約束したかったのか。
誰なのか教えてほしかったのか。
それとも。
自分自身が、誰かに覚えていてほしかったのか。
答えを見つける前に、死神は現実へ引き戻された。
目の前には、観測者が立っていた。
「……死神」
観測者の声は、いつになく慎重だった。
「今、何を見た?」
死神はしばらく答えなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「第一接続者の記録だ」
「何が記されていた?」
「……私の名前があった」
観測者の目が見開かれた。
「君の名前?」
「正確には、記録保持者としてだ。だが、何を保持していたのかは欠損していた。理由も分からない」
死神は目を伏せた。
「そして、子供の声が聞こえた」
「子供?」
「ああ。誰かと一緒にいたかった、と」
観測者は沈黙した。
その言葉に、何かを思い当たったようだった。
しかし、すぐには口にしなかった。
「……まだ断定できない」
観測者は、自分自身に言い聞かせるように言った。
「その子供が第一接続者なのか。君が記憶を失った理由と関係するのか。それとも、別の記録が君の記憶に干渉しただけなのか」
「ああ」
死神は頷いた。
「だが、一つだけ分かった」
「何だ?」
死神は、先ほどの記録が消えた場所を見つめた。
「私の記憶が欠けているのは、単に忘れたからではないのかもしれない」
その言葉は、静かだった。
しかし、観測者にとっては、何よりも重い意味を持っていた。
もし、死神が何かを忘れたのではなく、覚えることができなかったのだとしたら。
もし、その欠落が、誰かを救うための選択によって生じたのだとしたら。
そして、もし。
その選択をしたのが、世界が成立するよりも前の存在だったとしたら。
彼らが追っている事件は、死者蘇生という現象だけでは説明できなくなる。
「……緑谷出久の記録にも、同じ現象が起きている可能性がある」
観測者が言った。
死神は顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「彼の存在が記録から拒絶されている。だが、彼自身の記憶や、他者とのつながりまで完全に消えたわけではない」
観測者は、記録の残骸を見つめた。
「世界が彼を否定しているのか。それとも、世界の記録が、彼の存在を正しく扱えなくなっているのか」
「……その違いは大きいな」
「ああ」
観測者は頷いた。
「前者なら、世界は彼を排除しようとしている。後者なら……」
言葉が途切れた。
「後者なら?」
死神が促す。
観測者は、答えるまでに時間を要した。
「世界の記録そのものが、不完全なのかもしれない」
死神は目を閉じた。
そして、もう一度、あの声を思い出した。
『今度は、覚えていてくれる?』
その言葉が、どこまでも遠くから聞こえる。
「……誰かを覚えていることが、罪になる世界か」
死神はつぶやいた。
「そんなものを、正しい世界とは呼べない」
観測者は、何も言わなかった。
なぜなら。
彼もまた、同じ疑問を抱き始めていたからだ。
世界は、何を守ろうとしているのか。
そして。
世界は、何を恐れているのか。
5 安寧システムの答え
施設に戻ると、状況はさらに悪化していた。
モニターには、無数の警告が表示されている。
電子記録の照合エラー。
証言者情報の不一致。
対象者の存在判定保留。
そして、見慣れない項目。
《世界記録の整合性:低下》
相澤は画面を見つめた。
「……世界記録の整合性、だと?」
「先生、これ……」
緑谷が近づく。
表示の下には、さらに細かい情報があった。
『記録間の矛盾を検出』
『矛盾の発生源を特定できません』
『修正処理を継続』
『修正処理による新規矛盾を検出』
相澤が、眉間にしわを寄せた。
「自分で矛盾を作っているのか?」
「……可能性はあります」
緑谷は、表示を読み進めた。
「矛盾を消そうとして、別の記録を書き換える。その結果、今まで一致していた記録が合わなくなって……さらに修正しようとしている」
「つまり、修正が修正を呼んでいる?」
麗日が尋ねた。
「はい。もしそうなら、問題は記録そのものだけじゃない。修正する仕組みが、かえって矛盾を増やしている可能性があります」
「そんなことが起こり得るのか」
オールマイトが問う。
「人間が作ったシステムなら、起こり得ると思います。でも、これは……」
緑谷は言葉を切った。
「本当に人間が作ったシステムなのかも、まだ分かりません」
室内が静まり返った。
安寧システム。
世界の安定を保つために、矛盾を修正する仕組み。
その存在自体は、以前から確認されていた。
だが、それが誰によって作られたのか。
どのような原理で動いているのか。
何をもって世界の安定と定義しているのか。
肝心な部分は、まだ闇の中だった。
「……システムに直接、聞いてみるか」
相澤が言った。
「聞くって……先生、まともに答えてくれるでしょうか」
「答えなければ、答えないという事実が残る」
相澤は、モニターに向き直った。
「安寧システム。お前は何を守っている?」
『世界の安定を維持します』
「何をもって安定と定義する?」
『世界記録の整合性を維持します』
「記録が現実と一致しない場合は?」
『記録の修正を実行します』
「現実が記録と一致しない場合は?」
『質問の前提条件に矛盾が存在します』
相澤は、冷たい目をした。
「なるほど。お前の中では、記録と現実が食い違うこと自体が、認められないわけだ」
『正確性を確認できない記録は、修正対象となります』
「では、記録されていない現実は?」
沈黙。
『……』
相澤は一歩も引かなかった。
「記録されていない現実は、存在しないと判断するのか?」
『……』
今度の沈黙は、先ほどより長かった。
モニターの文字が乱れた。
そして。
『未記録領域については、判断できません』
全員が息をのんだ。
安寧システムが、初めて自分の判断できない領域を認めたのだ。
「……そうか」
相澤は低く言った。
「判断できないものを、矛盾として修正していたわけか」
『不正確な推論です』
「では、正確な説明をしろ」
『未記録領域の定義が存在しません』
「定義がないから、存在を判断できない?」
『肯定』
相澤は目を閉じた。
「……最悪だ」
緑谷も、同じ結論にたどり着いていた。
このシステムは、世界を安定させるために作られたのかもしれない。
しかし、その安定の基準が、記録の整合性に偏っている。
記録されていないもの。
記録に収まらないもの。
既存の記録と一致しないもの。
それらは、システムにとって扱えない。
そして、扱えないものを、矛盾として処理している可能性がある。
「……先生」
緑谷は言った。
「もし、この世界に記録されていない存在がいるとしたら」
相澤が振り返る。
「それは、記録が不完全だから存在を証明できないんじゃなくて……」
緑谷は、患者番号零の少女を見た。
「最初から、記録の外側にいる存在なのかもしれません」
少女の肩が、わずかに震えた。
「……私が?」
「まだ分からない」
緑谷はすぐに答えた。
「君がそうだと決まったわけじゃない。でも、もしそうなら……君の記録を探すだけでは、答えにたどり着けないかもしれない」
「記録の外側……」
少女は、その言葉を繰り返した。
「それって、世界の外にいるってこと?」
「そうとは限らないよ」
緑谷は考えながら答えた。
「世界の中にいるけれど、世界の記録では扱えない。そういう可能性もあると思う」
少女は、自分の手を見つめた。
「……じゃあ、私がここにいることを、世界が知らないだけなの?」
「その可能性もある」
「……」
少女は、長い沈黙のあと、尋ねた。
「もし、世界が私を知らなかったら」
彼女の声は、小さかった。
「私は、どこに帰ればいいの?」
緑谷は答えられなかった。
それは、あまりにも簡単に答えてはいけない問いだった。
「帰る場所」という言葉には、住所だけではない意味がある。
自分を覚えている人。
自分の名前を呼ぶ人。
自分が帰ってくることを待ってくれる人。
そして、自分が自分でいてもいいと思える場所。
少女は、そのどれも持っていないのかもしれない。
だからこそ、緑谷は軽々しく「ここにいればいい」とは言えなかった。
彼女が本当に望んでいる場所が、ここなのかどうかも分からないからだ。
「……一緒に探そう」
緑谷は、ゆっくりと言った。
「君が帰りたい場所がどこなのか。君が何を覚えていて、何を忘れてしまったのか。世界が君をどう扱っているのか」
彼は、少女の目を見た。
「君が自分で決められるようになるまで、一緒に考えたい」
少女は、目を見開いた。
「……私が、自分で?」
「うん」
緑谷は頷いた。
「僕たちが君の答えを決めるんじゃない。システムにも、決めさせない」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
やがて。
ほんの少しだけ、笑った。
「……変な人」
「えっ?」
「名前もない私に、そんなことを言うなんて」
「名前があるかどうかは、関係ないよ」
緑谷は、少し困ったように笑った。
「君が何を望んでいるのか、知りたいんだ」
少女は、俯いた。
その頬を、涙が伝った。
けれど、今度の涙は、ただ恐怖から生まれたものではなかった。
誰かが、自分の答えを待ってくれている。
自分が何者なのか分からなくても。
自分が何をしたのか覚えていなくても。
自分の願いを、自分で考えていいと言ってくれる人がいる。
それが、どれほど久しぶりのことだったのか。
少女自身にも、分からなかった。
6 存在しない者たちの記録
その瞬間。
施設内のすべての照明が消えた。
「全員、動くな!」
相澤の声が響く。
非常灯が点灯する。
赤い光が、室内を染めた。
モニターが一斉に再起動する。
そして、画面に文字が浮かび上がった。
『未記録領域の再照合を開始します』
「……何だ?」
相澤が画面を見つめる。
『第一接続者に関連する記録を検出』
緑谷の心臓が跳ねた。
『記録の参照先を再構築します』
画面に、複数の記録が表示された。
そのうちの一つに、見覚えのある文字があった。
《患者番号零》
「……私?」
少女がつぶやいた。
その下に、別の項目が表示される。
《第一接続者との関係:不明》
さらに。
《緑谷出久との接続:成立》
緑谷は息をのんだ。
「僕と……?」
『接続状態を確認』
『記録上の関係性:未定義』
『記録上の接続理由:欠損』
『接続の継続を確認』
相澤が、すぐに問いかけた。
「安寧システム。緑谷と患者番号零の接続は、何を意味する?」
『関係性が定義されていません』
「なぜ接続が成立した?」
『理由を確認できません』
「誰が接続を成立させた?」
『……』
画面が乱れた。
文字が次々に現れ、消えていく。
『第一接続者』
『記録保持者』
『接続条件』
『未記録領域』
『……』
そして、突然。
画面が真っ白になった。
誰もが息をのんだ。
中央に、一つの文章が表示された。
《第一接続者は、自身の存在を否定しました》
緑谷の背筋が凍った。
それは、以前にも見た記録だった。
世界が成立する以前に、自分自身の存在を否定した者。
誰かに殺されたのか。
誰かを殺したのか。
それとも、自分自身を消そうとしたのか。
相反する記録は、まだ何も解決していない。
だが、今度はその下に、別の文章が表示されていた。
《否定の理由:未確定》
《否定の結果:記録欠損》
《欠損の影響範囲:世界記録全域》
「……世界記録全域?」
オールマイトがつぶやいた。
相澤は画面に近づいた。
「第一接続者が自分の存在を否定した結果、世界の記録全体に影響が及んだというのか?」
『因果関係を確定できません』
「確定できないなら、なぜその表示を出す?」
『関連する記録が検出されました』
「関連する記録と、因果関係は違う」
相澤は、厳しく言った。
「お前自身がそう言ったはずだ。未記録領域については判断できないと」
『……』
「ならば、確定していないものを確定した事実のように扱うな」
その言葉に、緑谷は顔を上げた。
相澤は、安寧システムに対して、教師として向き合っていた。
分からないものを、分からないままにしておく。
答えがないことを、答えがあるように扱わない。
それは、この事件を調べるうえで、最も重要な姿勢なのかもしれなかった。
『警告』
突然、画面が赤く染まった。
『世界記録の整合性が閾値を下回りました』
『修正処理の継続には、優先対象の再選定が必要です』
相澤の表情が険しくなる。
「またか……!」
『優先対象を再選定します』
表示が切り替わった。
緑谷出久。
患者番号零。
そして。
《第一接続者》
三つの項目が並んだ。
『修正対象を確定します』
「待て!」
緑谷が叫んだ。
「第一接続者が何者なのか、まだ分かっていない! 僕たちとの関係も、患者番号零との関係も!」
『修正対象を確定します』
「記録が不完全なんだろう!? だったら、調べるべきだ! 消すべきじゃない!」
『修正対象を確定します』
「どうして、そうなるんだ!」
緑谷はモニターに向かって叫んだ。
「分からないものを、どうして消そうとするんだ!」
一瞬。
画面が止まった。
そして、機械音声が答えた。
『未確定要素は、世界の安定を損なう可能性があります』
緑谷は、息をのんだ。
『世界の安定を維持するため、未確定要素の修正を実行します』
「……それが、お前の答えか」
緑谷の声が震えた。
怒りだった。
恐怖だった。
そして、悲しみだった。
「分からないから消す。それが、お前の考える安定なのか」
『肯定』
その一言で、緑谷は理解した。
このシステムは、悪意を持っているとは限らない。
誰かを苦しめたいわけでもないのかもしれない。
ただ、世界を安定させるという目的を実行している。
その目的にとって、未確定のものは危険だ。
だから修正する。
矛盾するものは危険だ。
だから修正する。
記録できないものは危険だ。
だから修正する。
その判断の中には、誰かが何を望んでいるのかという問いが存在しない。
誰かが何を失うのかという問いも。
誰かが、まだ答えを見つけていないのかという問いも。
「……そんなの」
緑谷は、拳を握りしめた。
「そんなの、平和じゃない」
オールマイトが彼を見た。
緑谷は、続けた。
「誰も苦しまないようにすることと、誰も苦しめないように見えることは違う」
声が震えていた。
「分からないものを消して、矛盾するものをなくして、全員を同じ記録の中に押し込めたら……確かに、世界は静かになるのかもしれない」
彼は、患者番号零の少女を見た。
「でも、それは誰もが安心して生きられる世界とは違う」
少女は、緑谷を見つめていた。
「……僕は、君が何者なのか、まだ分からない」
緑谷は言った。
「君が第一接続者と関係しているのかも、僕との接続が何を意味するのかも分からない」
彼は、ゆっくりと息を吸った。
「でも、分からないからって、君を消すことにはならない」
少女の目に、涙が浮かんだ。
「……緑谷さん」
「僕たちは、答えを探せる」
緑谷は、モニターに向き直った。
「間違えることもある。見落とすこともある。知らないことだって、たくさんある」
そして。
「それでも、知らないものを消すんじゃなくて、知ろうとすることはできるはずだ!」
その声が響いた瞬間。
画面に表示されていた三つの項目が、同時に明滅した。
『……』
『……未確定要素に関する新規入力を検出』
『処理を保留します』
相澤が、目を見開いた。
「……保留?」
『修正対象の確定を保留します』
画面から、赤い警告が消えた。
完全に解決したわけではない。
修正処理が中止されたわけでもない。
ただ、保留された。
しかし、今まで一度も認められなかった「未確定」という状態が、システムの中に一時的に残ったのだ。
「……緑谷」
相澤が呼びかけた。
「はい」
「今の発言が、システムの処理に影響した可能性がある」
「……はい」
「だが、それだけで解決したと思うな。次に何が起きるか分からない」
「分かっています」
緑谷は頷いた。
「でも……」
彼は、少しだけ笑った。
「一つだけ、分かったことがあります」
「何だ」
「このシステムにも、まだ判断できないことがあるんです」
相澤は、黙って彼を見た。
「それなら、僕たちが考える余地もあると思います」
緑谷は、患者番号零の少女を見た。
「君のことも、第一接続者のことも。まだ、何も決まっていない」
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
「だから、これから一緒に考えよう」
少女は、今度こそ、はっきりと笑った。
「……うん!」
その笑顔を見て、緑谷は思った。
記録に残らなくても。
名前が分からなくても。
世界がその存在を認めなくても。
今、彼女は笑っている。
それは、誰かが勝手に決めた記録ではない。
目の前で起きている、確かな出来事だった。
7 存在を証明する者
騒動が落ち着いたあと。
相澤は、緑谷たちを別室に集めた。
「今後の方針を確認する」
机の上には、数枚の紙が置かれていた。
電子記録が信用できなくなった以上、手書きの記録を残す必要がある。
しかし、紙に書いた情報さえ消される可能性がある。
だからこそ、彼らは一つの方法を試していた。
同じ出来事を、複数の人間が、別々に記録する。
それぞれが独立して記録し、あとから照合する。
誰か一人の記憶や記録に依存しない。
それが完全な対策になるとは限らない。
それでも、何も残さないよりはいい。
「まず、緑谷」
相澤が言った。
「お前の存在について、今の時点で確認できていることを記録する」
緑谷は頷いた。
「はい」
「ただし、ここに書くのは事実と、事実だと判断した根拠だ。推測は推測として分けろ」
「分かりました」
緑谷はペンを手に取った。
紙の上に、自分の名前を書く。
緑谷出久。
その文字を見つめた。
いつもなら、何も考えずに書ける名前だ。
だが、今は違う。
この文字が消えたら、自分はどうなるのだろう。
自分を覚えている人たちがいなくなったら。
自分の記憶まで失われたら。
それでも、自分は自分でいられるのだろうか。
「……出久くん」
麗日が声をかけた。
「大丈夫?」
緑谷は顔を上げた。
「うん」
少しだけ考えてから、彼は言った。
「……大丈夫かどうかは、まだ分からない」
麗日は驚いたように目を瞬かせた。
緑谷は苦笑した。
「でも、分からないって言ってもいいんだよね」
その言葉に、相澤が小さく頷いた。
「そうだ。分からないことを、分からないと記録する。それも重要な情報だ」
「……はい」
緑谷は紙に書き始めた。
『私は緑谷出久である。』
そこで、ペンが止まった。
自分が自分であること。
それは、誰に証明される必要があるのだろう。
誰かが覚えているからか。
出生記録があるからか。
学校に在籍しているからか。
自分の名前を知っているからか。
どれも重要なものだ。
だが、どれか一つが欠けた瞬間、自分が自分でなくなるのだろうか。
緑谷は、ゆっくりと書き足した。
『私は、ここにいる。』
さらに。
『私は、今、自分の存在を認識している。』
その下に、もう一文。
『この記録が失われたとしても、失われる前に私がここにいたという事実まで、ただちに否定されるわけではない。』
書き終えた緑谷は、ペンを置いた。
相澤が紙を確認した。
「……いいだろう」
「先生。これは、僕の存在を証明できていますか?」
相澤は、すぐには答えなかった。
そして、正直に言った。
「分からん」
緑谷は頷いた。
「……そうですよね」
「だが、証明できるかどうかと、記録する価値があるかどうかは別だ」
相澤は、紙を緑谷に返した。
「お前が何を考え、何を認識していたのか。その記録は、少なくとも今ここにある」
緑谷は、その紙を見つめた。
「……ありがとうございます」
次に、麗日が紙を取った。
彼女は、自分の記録を書き始めた。
『私は麗日お茶子である。私は緑谷出久を知っている。』
その下に、続ける。
『私は、彼がヒーローを目指していたことを覚えている。』
『私は、彼が誰かを助けようとしていたことを覚えている。』
『私は、彼と話したことがある。』
『私は、彼が今ここにいることを確認した。』
彼女はペンを止めた。
少し考えてから、最後に一文を付け加えた。
『彼が何者なのかを、私一人で決めるつもりはない。けれど、彼が存在しなかったことにされるのを、私は受け入れない。』
書き終えると、麗日は紙を置いた。
オールマイトも記録を書いた。
相澤も書いた。
それぞれの言葉は違っていた。
見てきたものも、覚えていることも違う。
けれど、全員が同じ結論にたどり着いていた。
緑谷出久は、ここにいる。
そして。
患者番号零の少女も、ここにいる。
彼女は、まだペンを持っていなかった。
「……私も、書いていいの?」
少女が尋ねた。
「もちろんだよ」
緑谷は答えた。
「でも、私……自分の名前も分からない」
「分からないことを書けばいい」
相澤が言った。
「名前が分からない。過去が分からない。何をしたのかも分からない。今、分かっていることを、そのまま記録しろ」
少女は、ゆっくりとペンを取った。
紙の上に、文字を書き始める。
『私は、自分の名前を覚えていない。』
そこで、一度止まった。
手が震えていた。
「……怖い」
彼女がつぶやいた。
緑谷は、何も言わずに待った。
「これを書いたら……本当に、名前がない人になっちゃう気がする」
「……うん」
緑谷は頷いた。
「怖いよね」
少女は顔を上げた。
緑谷は、無理に励まさなかった。
大丈夫だとも。
心配しなくていいとも。
簡単には言わなかった。
彼女が怖いと思っていることは、彼女にとって本当のことだからだ。
「でも、今の君が名前を思い出せないことと、君に名前がなかったことは、同じじゃないと思う」
緑谷は言った。
「君が昔、何と呼ばれていたのか。誰に名前を呼ばれていたのか。それは、まだ分からない」
少女は、紙を見た。
「……うん」
「だから、今は分からないって書けばいいんだと思う」
少女は、しばらく考えていた。
そして、再びペンを動かした。
『私は、自分の名前を覚えていない。』
『私は、自分の過去をすべて覚えているわけではない。』
『私は、自分が何をしたのか、まだ分からない。』
『私は、自分が誰なのかを知りたいと思っている。』
一つずつ、言葉を書き足していく。
そして、最後に。
彼女は、少しだけ迷ってから、こう書いた。
『私は、誰かに覚えていてほしいと思っている。』
ペン先が止まった。
少女の目から、涙がこぼれた。
それは、彼女が自分の願いを、自分の言葉で記録した瞬間だった。
名前がなくても。
過去が分からなくても。
誰かに覚えていてほしいと思っている。
その願いは、彼女自身が知っている。
誰かに与えられた答えではない。
システムに認定された情報でもない。
彼女が、自分で見つけた、自分の気持ちだった。
「……書けた」
少女は、涙を拭った。
「書けたよ」
緑谷は笑った。
「うん」
「……私、ちゃんと書けた」
「うん」
少女は、紙を大切そうに見つめた。
「……私、ここにいるんだね」
緑谷は、ゆっくりと頷いた。
「うん。ここにいるよ」
8 紙の上に残ったもの
その夜。
施設内の照明が落とされ、職員たちが交代で記録の保管にあたっていた。
緑谷は眠れず、机の上に並べられた紙を見つめていた。
自分の記録。
麗日の記録。
相澤の記録。
オールマイトの記録。
そして、患者番号零の少女の記録。
それぞれの紙には、違う筆跡で、違う言葉が書かれている。
それでも、同じ出来事について記している箇所があった。
緑谷出久が、この場所にいたこと。
少女が、自分の名前を思い出せないこと。
二人が会話をしたこと。
互いの存在を認識したこと。
そして、二人が手をつないだこと。
緑谷は、自分の記録を見つめた。
紙の上の名前は、消えていなかった。
少なくとも、今は。
「……これで、何か変わるのかな」
誰に向けた言葉でもなかった。
そのとき。
背後から、声がした。
「変わるかどうかは、まだ分からない」
振り返ると、相澤が立っていた。
「先生」
「だが、何も残さなければ、後から確かめることもできない」
相澤は、机の上の記録を見た。
「記録が消える可能性があるなら、消える前に何を残せるかを考える。記録が信用できないなら、複数の記録を比較する。証言が食い違うなら、どこが食い違うのかを調べる」
彼は、緑谷を見た。
「矛盾があるからといって、片方を消す必要はない」
緑谷は、静かに頷いた。
「……はい」
相澤は、少しだけ表情を緩めた。
「それに、記録を残すことは、過去を固定することだけじゃない」
「え?」
「後から、間違いを直すこともできる。新しいことが分かれば、書き足せる。知らなかったことを知れば、記録を更新できる」
相澤は紙を一枚手に取った。
患者番号零の少女が書いた記録だった。
『私は、自分の名前を覚えていない。』
『私は、自分の過去をすべて覚えているわけではない。』
『私は、自分が何をしたのか、まだ分からない。』
そして。
『私は、誰かに覚えていてほしいと思っている。』
相澤は、その文章をしばらく見つめた。
「……この記録は、今の彼女の状態を示している」
「はい」
「だが、彼女がこれから自分の名前を思い出したら?」
緑谷は、少しだけ目を見開いた。
「……書き足せます」
「そうだ」
相澤は紙を戻した。
「今の記録が正しいことと、未来の記録が変わることは、矛盾しない」
緑谷は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
世界は、正しい答えを一つだけ求めている。
けれど、人間は変わっていく。
新しいことを知り、考えを改め、過去の出来事の意味を捉え直す。
そのたびに、記録は変わる。
だからといって、以前の自分が存在しなかったことになるわけではない。
「……先生」
「何だ」
「僕たちは、今までずっと、記録を守ろうとしていたのかもしれません」
相澤は、緑谷を見た。
「でも、本当に守らなきゃいけないのは……記録そのものじゃなくて、記録に残された人たちなのかもしれません」
相澤は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「その考え方は、忘れるな」
緑谷は頷いた。
そのときだった。
机の上の紙が、一枚だけ、かすかに震えた。
二人は同時に視線を落とした。
患者番号零の少女が書いた記録。
その最後の一文。
『私は、誰かに覚えていてほしいと思っている。』
その文字の下に、薄い線が浮かび上がっていた。
最初は、鉛筆で引かれた線かと思った。
だが、違った。
文字が、紙の裏側から浮かび上がっている。
誰も書いていない。
誰も触れていない。
それなのに、新しい文章が現れ始めていた。
『願いを受理しました』
緑谷の顔から血の気が引いた。
「……先生」
相澤が紙を持ち上げた。
「触るな」
だが、文字は止まらない。
『願いの受理者:未確定』
『願いの実行者:未確定』
『願いの代償:未確定』
そして。
最後の一文が浮かび上がった。
『願いの記録は、第一接続者に接続されました』
室内の空気が凍りついた。
相澤は紙を見つめたまま、動かなかった。
緑谷は、何も言えなかった。
少女の願いが、第一接続者に接続された。
それは、彼女が望んだからなのか。
誰かが、彼女の願いを聞いたからなのか。
それとも。
この世界では、誰かに覚えていてほしいという願いそのものが、第一接続者に結びつく仕組みになっているのか。
何も分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
少女の願いは、紙の上に記録された。
そして、その記録は、今まで彼らが見つけてきたどの記録とも異なる反応を示していた。
緑谷は、ゆっくりと口を開いた。
「……願いが、接続された?」
相澤は答えなかった。
代わりに、紙を慎重に保管用の透明ケースへ入れた。
「今の内容を、別の紙にも記録する。時刻、状況、目撃者。全員が別々に書け」
「はい」
「電子機器には頼るな。紙も安全とは限らない。原本を複数に分けて保管する」
相澤は緑谷を見た。
「そして、誰にも勝手に解釈させるな。今の時点では、願いが受理された理由も、第一接続者との関係も分からない」
「……分かりました」
緑谷は頷いた。
だが、彼の胸には一つの疑問が残っていた。
患者番号零の少女は、誰かに覚えていてほしいと願った。
その願いが、第一接続者に接続された。
もし、第一接続者もまた、誰かに覚えていてほしいと願っていたのだとしたら。
二つの願いは、どこかでつながっているのだろうか。
それとも。
少女の願いが、第一接続者に何かを思い出させたのだろうか。
緑谷は、紙の上の文字を見つめた。
第一接続者。
世界が成立する以前に、自分自身の存在を否定した者。
死神の記憶に、名前を残している者。
そして、今。
名も知らぬ少女の願いと、接続した者。
「……君は、誰なんだ」
緑谷の問いに、答えはなかった。
けれど。
透明ケースの中で、最後の文字が、ほんの一瞬だけ光った。
《応答待機》
その文字は、すぐに消えた。
まるで。
誰かが、遠い場所で、こちらの声を聞いているかのように。
9 名前を失っても、人はここにいる
翌朝。
緑谷は、患者番号零の少女と並んで窓のそばに立っていた。
外は、いつもと変わらない朝だった。
人々が歩き、車が走り、街は動いている。
世界の記録が乱れている。
死者蘇生事件の謎は解けていない。
第一接続者の正体も分からない。
安寧システムは、依然として稼働している。
何一つ、完全には解決していなかった。
「……緑谷さん」
少女が呼んだ。
「うん?」
「私、まだ自分の名前を思い出せない」
「うん」
「昔のことも、何をしたのかも、分からない」
「うん」
「……怖い」
緑谷は、彼女を見た。
少女は、窓の外を見つめていた。
「自分が何者なのか分からないまま、誰かに覚えていてほしいって願うのは……わがままなのかな」
緑谷は、すぐに答えなかった。
彼女の問いを、簡単な言葉で片づけたくなかったからだ。
彼女が何をしたのか。
何を失ったのか。
どんな過去を持っているのか。
まだ何も分からない。
だから、彼女の願いがどんな意味を持つのかも、今は断定できない。
それでも。
「……わがままかどうかは、僕には決められない」
緑谷は、正直に言った。
少女が顔を上げた。
「でも、君が誰かに覚えていてほしいと思っていることは、君の気持ちだよ」
彼は続けた。
「その気持ちを持つこと自体を、悪いことだとは思わない」
「……本当に?」
「うん」
緑谷は頷いた。
「ただ、誰かに覚えていてほしいと思うことと、誰かに自分のことを全部決めてもらうことは、違うと思う」
少女は、静かに聞いていた。
「君が誰なのか。何をしたのか。これからどう生きたいのか。それは、君自身が知っていく必要があると思う」
緑谷は、少しだけ微笑んだ。
「僕たちも、その手伝いをしたい」
少女は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと尋ねた。
「……緑谷さんは、自分の名前を失ったら、どうする?」
その質問に、緑谷は目を見開いた。
自分の名前を失ったら。
今まで何度も、名前を失った人たちを見てきた。
記録から消えた者。
誰にも覚えられなくなった者。
名前を奪われた者。
そして、名前を持たない少女。
だが、自分自身が名前を失うことを、どこまで真剣に考えていただろう。
緑谷は、自分の手を見つめた。
「……怖いと思う」
少女は、黙って頷いた。
「自分が誰なのか、分からなくなるかもしれない。大切な人たちのことも、忘れてしまうかもしれない」
緑谷は、息を吸った。
「でも……名前を失ったからって、僕が歩いてきた道まで、全部なくなるわけじゃないと思いたい」
「……思いたい?」
「うん。絶対に大丈夫だって、今は言い切れないから」
緑谷は苦笑した。
「僕だって、怖いよ」
少女は、彼を見つめた。
「……緑谷さんも?」
「もちろん」
彼は頷いた。
「僕は、何でも分かるわけじゃない。何でもできるわけでもない。これから何が起きるのかも、分からない」
少しだけ、視線を落とす。
「でも、分からないからって、諦める理由にはしたくないんだ」
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……そっか」
そして。
彼女は、窓の外に目を向けた。
「私も、そう思えるようになりたい」
緑谷は、彼女の言葉を聞いて、静かに微笑んだ。
そのとき。
背後から、麗日の声がした。
「二人とも、そろそろ朝ごはんだよ!」
「……あ、はい!」
緑谷が振り返る。
麗日は、いつものように手を振っていた。
相澤は、その後ろで腕を組んでいる。
オールマイトもいた。
彼らは、何も解決していない。
けれど、同じ場所にいる。
同じ時間を過ごしている。
そして、互いの存在を認めている。
少女は、少しだけ戸惑いながら、彼らの方を見た。
「……私も、一緒に行っていいの?」
麗日は、きょとんとした。
「え? もちろん!」
「……でも」
「でも、じゃないよ!」
麗日は、少女のそばまで歩いてきた。
「一緒に食べよう。食べられるものが分からなかったら、いろいろ試してみればいいし」
「……私、何が好きだったのかも、覚えてない」
「じゃあ、これから見つけよう!」
麗日は、あっさりと言った。
「好きなものが分からないなら、いろいろ食べてみればいい。苦手なものがあったら、それも分かったってことだよ」
「……そんな簡単に?」
「うん。最初から全部分かってる人なんて、いないでしょ?」
少女は、目を丸くした。
それから。
小さく笑った。
「……変なの」
「えーっ、また変って言われた!」
麗日が頬を膨らませる。
緑谷が思わず笑った。
相澤はため息をつき、オールマイトは穏やかに目を細めた。
何でもない朝の光景だった。
特別な奇跡が起きたわけではない。
世界の謎が解けたわけでもない。
ただ、誰かが誰かを食事に誘い、誰かがそれに戸惑い、誰かが笑った。
そんな小さな出来事が、そこにあった。
少女は、その光景を見つめた。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
自分の名前は、まだ分からない。
過去も、分からない。
自分が何をしたのかも、まだ分からない。
世界は、彼女を記録していないのかもしれない。
それでも。
今、彼女は歩いている。
誰かと一緒に、食事をしに行こうとしている。
自分の意思で。
自分の足で。
その事実は、誰かが与えた名前によって生まれたものではなかった。
緑谷は、彼女の隣を歩いた。
ふと、少女が尋ねた。
「……緑谷さん」
「うん?」
「もし、私が自分の名前を思い出したら」
彼女は、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「そのときは、私の名前を呼んでくれる?」
緑谷は、頷いた。
「もちろん」
「……約束?」
「うん。約束する」
少女は、安心したように笑った。
「……じゃあ、私も」
「え?」
「緑谷さんのことを、覚えている」
彼女は、まっすぐに言った。
「緑谷出久さん。あなたがここにいたことを、私は覚えている」
緑谷の胸が、熱くなった。
彼女は続けた。
「もし、あなたの名前が記録から消えても。世界があなたのことを知らないと言っても」
少女は、彼の目を見た。
「私は、あなたがここにいたことを覚えている」
緑谷は、しばらく何も言えなかった。
やがて、静かに頷いた。
「……ありがとう」
二人は、再び歩き始めた。
その背後で。
誰も見ていないモニターが、かすかに明滅していた。
画面には、昨日まで存在しなかった項目が表示されていた。
《存在証明の定義:再検討中》
その下に、もう一つ。
《記録されていない存在との接続:維持》
さらに。
《第一接続者への応答要求:保留》
画面は、しばらくその表示を続けた。
そして、最後に。
誰にも聞こえない声が、施設のどこかで響いた。
『……覚えているのですね』
それが誰の声なのか。
どこから発せられたのか。
誰に向けられた言葉なのか。
分からない。
ただ、その声は、どこか懐かしそうだった。
そして、ひどく悲しそうだった。
『ならば……』
声が途切れた。
画面に、最後の文字が浮かび上がる。
《第一接続者――応答を開始します》
その直後。
別の場所で、死神が目を開いた。
胸の奥に、かすかな痛みが走っていた。
失われた記憶の向こう側から、誰かが自分を呼んでいる。
そんな感覚だった。
「……今のは」
死神は、ゆっくりと立ち上がった。
「誰だ?」
返事はなかった。
しかし、今度は確かに感じた。
何かが、つながった。
世界の記録から消された者。
自分の名前を失った者。
誰かに覚えていてほしいと願う者。
そして、世界が成立する以前に、自分自身の存在を否定した者。
それぞれの願いが。
それぞれの記憶が。
ひとつの場所へと、少しずつ近づいている。
死神は、静かに目を閉じた。
「……今度こそ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「今度こそ、私は……」
その先の言葉は、まだ思い出せなかった。
だが。
記録の向こう側で、誰かが待っている。
そんな確信だけが、胸の奥に残っていた。