僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十一話「記録の外で、死神は誰を見た」

第一幕 死神の知らない記憶

1 呼ばれたことのない名前

死神は、自分の名前を知らなかった。

 

正確には、死神という呼び名以外に、自分が何と呼ばれていたのかを知らなかった。

 

それは、ずっと以前から抱えていた疑問だった。

 

死者を導く者。

 

生者と死者の境界に立つ者。

 

終わりを見届け、残された者たちの悲嘆を受け止める者。

 

それらは、死神という存在の役割を説明する言葉ではある。

 

だが、名前ではない。

 

役割は、存在の理由を説明することができる。

 

しかし、存在そのものを説明するとは限らない。

 

死神は、長い間、その違いを気に留めていなかった。

 

自分は死神なのだから。

 

それ以上の説明は必要ない。

 

そう考えていた。

 

だが、第一接続者の記録に自分の存在が記されていたと知った今、その考えは揺らいでいた。

 

なぜ、世界が成立する以前の記録に、自分が登場するのか。

 

なぜ、自分はその記憶を持っていないのか。

 

なぜ、誰かが自分に向かって「覚えていてくれる?」と問いかけるのか。

 

そして。

 

なぜ、その声を聞くたび、胸の奥に、失ったものの輪郭だけが浮かび上がるのか。

 

「……私は、誰を見た?」

 

死神は、誰もいない空間でつぶやいた。

 

答えはなかった。

 

目の前には、無数の記録が漂っていた。

 

生まれた者の記録。

 

死んだ者の記録。

 

名前を持つ者の記録。

 

名前を失った者の記録。

 

誰かに覚えられている者の記録。

 

誰にも覚えられなかった者の記録。

 

そして、記録されることそのものを拒まれた何か。

 

死神は、その中から一つの記録を選んだ。

 

選んだというより、呼ばれたような感覚だった。

 

記録には、文字がなかった。

 

ただ、黒い空白が広がっていた。

 

その空白の中心に、かすかな光が浮かんでいる。

 

死神は手を伸ばした。

 

「……見せてくれ」

 

何を見せてほしいのか、自分でも分からなかった。

 

それでも、言葉は自然に口から出た。

 

「私が忘れたものを」

 

指先が光に触れた。

 

その瞬間。

 

世界が消えた。

 

そこは、何もない場所だった。

 

空もない。

 

地面もない。

 

上も下も、前も後ろもない。

 

それなのに、死神は立っていた。

 

自分の足元に何があるのか分からないまま、確かに立っていると認識できた。

 

そして、目の前に、一人の子供がいた。

 

顔は見えない。

 

輪郭も曖昧だ。

 

しかし、死神は、その子供が自分を見ていることを理解していた。

 

『……来てくれたんだ』

 

子供が言った。

 

死神は、息をのんだ。

 

「お前は……」

 

言葉が止まる。

 

誰なのか。

 

何と呼べばいいのか。

 

その答えが、どこにもなかった。

 

子供は、少しだけ首を傾げた。

 

『どうしたの?』

 

「……名前を教えてくれ」

 

子供は黙った。

 

しばらくして、困ったように笑った。

 

『分からない』

 

「分からない?」

 

『うん。名前があったのかもしれない。でも、今は思い出せない』

 

死神は、その言葉に違和感を覚えた。

 

思い出せない。

 

その感覚は、自分の中にも存在していた。

 

だが、目の前の子供は、記憶を失ったことを悲しんでいるというより、もっと根本的な何かに困惑しているようだった。

 

まるで、自分が何かを忘れたという事実さえ、誰かに教えてもらわなければ分からないかのように。

 

「……私は、お前を知っているのか?」

 

子供は、すぐには答えなかった。

 

そして、静かに尋ねた。

 

『あなたは、私を覚えている?』

 

死神は、答えられなかった。

 

子供は、うつむいた。

 

『……そっか』

 

その声には、怒りもなかった。

 

責める響きもなかった。

 

ただ、受け入れようとしている者の静けさがあった。

 

それが、死神には耐えられなかった。

 

「待て」

 

子供が顔を上げる。

 

「私は、お前を知らない。だが、知らないことと、知ろうとしないことは違う」

 

死神は、ゆっくりと手を差し出した。

 

「私は、お前を知りたい」

 

子供は、その手を見つめた。

 

『……どうして?』

 

「分からない」

 

死神は正直に答えた。

 

「だが、お前が私に何かを尋ねたことは覚えている。お前がここにいることも、今は分かっている」

 

子供は、しばらく動かなかった。

 

やがて、そっと手を伸ばした。

 

小さな指先が、死神の手に触れた。

 

その瞬間、無数の声が響いた。

 

『誰か、覚えていて』

 

『ここにいるよ』

 

『名前を呼んで』

 

『忘れないで』

 

『どうして、誰もいなくなるの?』

 

声が重なり、互いを打ち消し、意味を失っていく。

 

死神は、思わず耳を塞いだ。

 

「……やめろ!」

 

子供が、悲しそうに言った。

 

『聞こえるんだね』

 

「何がだ!」

 

『みんなの声』

 

死神は、子供を見た。

 

『私には、ずっと聞こえていた』

 

子供は、静かに続けた。

 

『誰かが願っている声。誰かが泣いている声。誰かが、ここにいたいって思っている声』

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

死神の脳裏に、見知らぬ光景が浮かび上がった。

 

無数の光。

 

その一つ一つが、人の声だった。

 

それぞれの願いが、互いに重なり、混ざり合い、巨大な流れを作っている。

 

喜びも。

 

悲しみも。

 

怒りも。

 

恐怖も。

 

生きたいという願いも。

 

誰かを失いたくないという願いも。

 

それらすべてが、一つの大きな流れとなって、世界の底を満たしていた。

 

死神は、思わず後ずさった。

 

「これは……」

 

子供が答えた。

 

『世界が、まだ世界じゃなかった頃の声』

 

その言葉を最後に、光景は崩れた。

 

死神は、記録の海に戻っていた。

 

膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。

 

胸の奥が痛かった。

 

今見たものが何なのか、分からない。

 

本当に自分の記憶なのか。

 

第一接続者が残した記録なのか。

 

それとも、誰かの願いが作り出した映像なのか。

 

何一つ、断定できない。

 

それでも。

 

死神は、先ほどの子供の言葉を忘れられなかった。

 

『世界が、まだ世界じゃなかった頃の声』

 

死神は、顔を上げた。

 

「……世界が生まれる前に、願いがあった?」

 

誰も答えない。

 

しかし、その問いは、死神の中に深く残った。

 

もし世界が、誰かの願いから生まれたのだとしたら。

 

その願いを聞いていた者がいたのだとしたら。

 

死神は、その存在を知っているのだろうか。

 

それとも、自分自身が、その声を聞くために生まれた存在なのだろうか。

 

「……違う」

 

死神は、首を振った。

 

「まだ、決めつけるな」

 

そう言ったのは、自分自身に対してだった。

 

今見た記憶だけで、答えを出してはいけない。

 

誰かの願いが世界を生んだとしても、それが誰の願いだったのかは分からない。

 

子供が第一接続者なのかも分からない。

 

自分がその子供を救おうとしたのかも分からない。

 

分からないことは、分からないままにしておく。

 

そうしなければ、また何かを見失う気がした。

 

死神は、ゆっくりと立ち上がった。

 

そのとき。

 

背後から声がした。

 

「……君は、今、何を見た?」

 

観測者だった。

 

死神は、振り返った。

 

「世界が生まれる前の声だ」

 

観測者の表情が変わった。

 

「世界が生まれる前?」

 

「ああ。誰かの願いが、無数に重なっていた。だが、あれが本当に世界の始まりだったのかは分からない」

 

「そして、子供がいた?」

 

死神は、目を見開いた。

 

「なぜ分かった?」

 

観測者は答えなかった。

 

代わりに、手元の記録を差し出した。

 

そこには、見覚えのある文字が浮かんでいた。

 

《第一接続者》

 

その下に、別の一文。

 

《初期応答記録:対象者の声を確認》

 

さらに。

 

《記録保持者:死神》

 

死神は、記録を見つめた。

 

「……対象者の声?」

 

観測者は、静かに頷いた。

 

「第一接続者が応答した相手が、君だった可能性がある」

 

「私が……?」

 

「まだ仮説だ。記録が示しているのは、君が何らかの形で関係しているということだけだ」

 

死神は、しばらく黙っていた。

 

やがて、低い声で言った。

 

「私は、誰かに呼ばれたのかもしれない」

 

観測者は、その言葉を否定しなかった。

 

「そして、その声を覚えていることができなかった」

 

死神は、自分の手を見つめた。

 

「……なぜだ?」

 

観測者は答えなかった。

 

答えられなかったのだ。

 

記録には、原因が書かれていない。

 

ただ、欠損という結果だけが残っている。

 

死神は、ゆっくりと拳を握った。

 

「ならば、探す」

 

観測者が顔を上げた。

 

「何を?」

 

死神は、迷わず答えた。

 

「私が誰を見たのか」

 

そして。

 

「その相手が、何を願っていたのかを」

 

2 覚えていることと、覚えられないこと

観測者は、死神の記録を解析していた。

 

第一接続者に関連する記録。

 

死神の記憶に生じている欠損。

 

そして、世界の記録全域に影響を及ぼしている可能性のある異常。

 

それらは、互いに関係しているように見えた。

 

しかし、関係していることと、同じ原因から生じていることは違う。

 

観測者は、その違いを理解していた。

 

だからこそ、慎重にならざるを得なかった。

 

「……妙だな」

 

彼は、記録の一部を拡大した。

 

死神の記憶には、空白がある。

 

だが、その空白は、通常の記憶喪失とは異なっていた。

 

忘れた記憶があるのなら、そこには何らかの痕跡が残る。

 

何を忘れたのか分からなくても、忘れる前に存在した記憶の構造は、ある程度残るはずだ。

 

しかし、死神の記憶は違う。

 

空白の部分だけ、最初から記憶が存在しなかったかのように見える。

 

「……記憶が消えたのではない」

 

観測者は、つぶやいた。

 

「記憶を記憶として認識するための何かが、欠けている?」

 

その仮説は、危険だった。

 

もし正しければ、死神は単に誰かを忘れたのではない。

 

誰かを覚えているという状態そのものが、成立しなくなっている可能性がある。

 

「……そんなことが、あり得るのか」

 

観測者は、別の記録を呼び出した。

 

患者番号零。

 

緑谷出久。

 

そして、死者蘇生事件によって戻ってきた人々。

 

彼らの記録にも、同じような特徴が現れていた。

 

名前が消える。

 

存在が否定される。

 

記憶が揺らぐ。

 

だが、完全に消滅するわけではない。

 

何かが残る。

 

他者の証言。

 

身体に残った痕跡。

 

誰かが覚えている出来事。

 

それらが、世界の記録から切り離されながらも、完全には失われていない。

 

観測者は、画面に表示された記録を見つめた。

 

「……記録と存在の関係そのものが、変化しているのか」

 

そのとき、背後で足音がした。

 

死神だった。

 

「何か分かったか?」

 

観測者は、首を横に振った。

 

「まだ仮説の段階だ」

 

「聞かせてくれ」

 

「君の記憶の欠損は、通常の記憶喪失とは違う可能性がある」

 

死神は黙って聞いていた。

 

「単に何かを忘れたのではなく、何かを覚えていたという事実そのものが、記録から切り離されているように見える」

 

「……覚えていたという事実が?」

 

「ああ」

 

観測者は、記録を示した。

 

「もし君が誰かを忘れたのなら、忘れた相手についての記憶が欠けるはずだ。だが、君の場合は、その相手を覚えていたという事実さえ、確定できない」

 

死神は、しばらく考えていた。

 

「……それは、私がその相手を覚えていなかったということか?」

 

「そうとは限らない」

 

観測者は即座に答えた。

 

「記録がないことは、記憶が存在しなかったことの証明にはならない。今、私たちが調べているのは、その記録自体が不完全な可能性のある領域だ」

 

死神は、静かに頷いた。

 

「ならば、まだ分からないということだな」

 

「ああ」

 

「……それでいい」

 

観測者は、意外そうに彼を見た。

 

死神は、続けた。

 

「分からないことを、分からないままにしておく。それは、今の私たちに必要なことなのだろう」

 

その言葉は、緑谷たちが安寧システムに突きつけた問いと、どこか似ていた。

 

観測者は、ふと考えた。

 

死神は、かつて誰かを覚えていたのかもしれない。

 

そして、その記憶を失ったのかもしれない。

 

だが、もしそうなら。

 

死神が今、失われた記憶を探そうとしていること自体が、何かを取り戻そうとする行為なのではないか。

 

「……死神」

 

「何だ?」

 

「君は、その相手を見つけたら、どうするつもりだ?」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

やがて、静かに言った。

 

「まず、聞く」

 

「何を?」

 

「何を願っていたのかを」

 

死神は、目を伏せた。

 

「私が何をしたのかを知る前に、相手が何を望んでいたのかを聞きたい」

 

観測者は、何も言わなかった。

 

死神は続けた。

 

「もし私が、その願いを壊したのなら、私はその事実を知る必要がある」

 

「……」

 

「もし私が、その願いを守ろうとしたのなら、それも知る必要がある」

 

死神は、顔を上げた。

 

「どちらであっても、相手の願いを知らないまま、自分の行動を正しかったことにするつもりはない」

 

観測者は、ゆっくりと頷いた。

 

それは、簡単なことではない。

 

過去に何をしたのか分からないまま、自分の罪を探すこと。

 

相手の願いを知らないまま、自分が何を守ろうとしたのかを探すこと。

 

それは、救いになるとは限らない。

 

だが、少なくとも。

 

自分の過去を、自分に都合のいい物語に作り替えないという選択だった。

 

死神は、記録に目を戻した。

 

「……第一接続者の記録を、もう一度見せてくれ」

 

観測者が操作すると、空白だらけの記録が浮かび上がった。

 

その一部に、わずかな変化があった。

 

今まで存在しなかった文字が、そこに表示されていた。

 

《応答者の記憶:不完全》

 

そして、その下。

 

《応答者は、対象者を認識していた可能性があります》

 

死神は、息を止めた。

 

観測者も、画面を凝視していた。

 

「……可能性、か」

 

「そうだ。確定ではない」

 

死神は、ゆっくりと目を閉じた。

 

認識していた。

 

誰かが、自分を知っていた可能性がある。

 

自分が名前を知らない相手が。

 

自分が記憶を持たない相手が。

 

自分のことを、知っていたかもしれない。

 

それだけで、胸の奥に何かが生まれた。

 

喜びではない。

 

安心でもない。

 

もっと複雑な感情だった。

 

期待することが怖い。

 

誰かが自分を知っていたと信じたくなる。

 

だが、その期待が間違っていたら。

 

また、誰かを自分の願望で塗りつぶしてしまうのではないか。

 

死神は、目を開いた。

 

「……まだ、決めつけない」

 

観測者は頷いた。

 

「ああ」

 

そのとき。

 

記録の奥で、かすかな音がした。

 

誰かが、扉を叩いたような音だった。

 

二人は、同時に振り返った。

 

そこには、何もなかった。

 

だが、記録の一部に、細い亀裂が走っていた。

 

そして、その向こうから。

 

小さな声が聞こえた。

 

『……ここに、いるの?』

 

死神は、立ち上がった。

 

その声を、今度こそ聞き逃さなかった。

 

「……ああ」

 

彼は、亀裂に向かって答えた。

 

「私は、ここにいる」

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

やがて、声が返ってきた。

 

『……よかった』

 

その一言を聞いた瞬間。

 

死神の胸の奥で、何かが崩れた。

 

3 声の向こうにいる者

「……よかった」

 

その声は、確かにそう言った。

 

死神は、記録の亀裂に手を伸ばした。

 

「お前は誰だ?」

 

返事はない。

 

「私を知っているのか?」

 

沈黙。

 

「……私に、何を望んでいる?」

 

その問いにだけ、声は反応した。

 

『あなたに、聞いてほしいことがあるの』

 

死神は、息を整えた。

 

「聞こう」

 

『でも……あなたは、覚えていない』

 

「そうらしいな」

 

『私のことも』

 

「……ああ」

 

『私が、何をしたのかも』

 

死神は答えなかった。

 

その声には、悲しみがあった。

 

だが、それ以上に、何かを恐れているような気配があった。

 

『それでも、聞いてくれる?』

 

「聞く」

 

死神は、迷わず答えた。

 

「お前が誰なのか分からなくても、何をしたのか分からなくても、私は聞く」

 

『……どうして?』

 

「お前が、聞いてほしいと言ったからだ」

 

声が途切れた。

 

その沈黙は、今までのものとは違っていた。

 

まるで、予想していなかった返事を受け取ったかのようだった。

 

『……あなたは、昔もそう言った』

 

死神の手が止まった。

 

「昔も?」

 

『私が、何も覚えていなかったとき』

 

亀裂の向こうで、かすかな光が揺れた。

 

『あなたは、私に何も聞かなかった』

 

死神は、息をのんだ。

 

『私が誰なのか。何をしたのか。誰を傷つけたのか』

 

声が震える。

 

『何も聞かずに、ただ、ここにいていいと言った』

 

死神は目を閉じた。

 

それは、記憶ではなかった。

 

少なくとも、今の彼には記憶として認識できない。

 

だが、その言葉を聞いたとき、胸の奥に、強い痛みが走った。

 

「……私は、お前を救おうとしたのか?」

 

『分からない』

 

「分からない?」

 

『あなたが私を救おうとしたのか、それとも……私があなたを救おうとしたのか』

 

死神は、ゆっくりと目を開いた。

 

『私には、もう分からない』

 

その言葉と同時に、亀裂が広がった。

 

向こう側に、何かが見え始める。

 

白い空間。

 

無数の光。

 

そして、その中央に立つ、もう一人の人影。

 

死神は、目を凝らした。

 

人影の顔は見えない。

 

だが、その輪郭は、どこか自分に似ていた。

 

いや。

 

似ているのではない。

 

その人影は、死神と同じ姿勢で立っていた。

 

同じように手を伸ばし。

 

同じように、何かを見つめていた。

 

「……私なのか?」

 

『分からない』

 

声が答える。

 

『でも、あなたは、そこにいた』

 

「何をしていた?」

 

『誰かを、待っていた』

 

「誰を?」

 

声は答えなかった。

 

その代わり、人影の足元に、文字が浮かび上がった。

 

《記録保持者》

 

その下に、別の文字。

 

《役割の引き継ぎ:未完了》

 

死神は、思わず後ずさった。

 

「役割……?」

 

観測者が、すぐに記録を確認した。

 

「待て。今の表示を記録する」

 

だが、文字はすでに崩れ始めていた。

 

「……消えるな!」

 

死神が叫ぶ。

 

人影が、こちらを向いた。

 

そして。

 

その口元が、かすかに動いた。

 

声は聞こえなかった。

 

しかし、死神には、その言葉が分かったような気がした。

 

――まだ、終わっていない。

 

次の瞬間、亀裂が閉じた。

 

光が消えた。

 

記録は元の状態に戻り、そこには何も残っていなかった。

 

死神は、しばらく動けなかった。

 

観測者が、慎重に口を開く。

 

「……今の現象は、君の記憶に由来するものとは限らない」

 

「分かっている」

 

「記録の向こう側にいる存在が、君の認識に合わせて姿を変えた可能性もある」

 

「分かっている」

 

「そして、あの声が第一接続者本人のものだとも、まだ断定できない」

 

「分かっていると言っている!」

 

死神の声が、空間を震わせた。

 

観測者は口を閉じた。

 

死神は、自分の手を見つめていた。

 

怒っているのではなかった。

 

いや、怒りもあった。

 

だが、それ以上に。

 

何かが、もう少しで分かりそうなのに、また手の届かない場所へ逃げてしまったことが、耐えられなかった。

 

「……すまない」

 

死神は、目を伏せた。

 

「君に怒鳴るつもりはなかった」

 

「いい。私も慎重になりすぎていた」

 

観測者は、記録の残骸を見つめた。

 

「ただ、一つだけ確かなことがある」

 

「何だ?」

 

「この反応は、君が記録に触れたあとに発生した。そして、声は君の問いに応じていた」

 

死神は頷いた。

 

「つまり、完全に一方的な幻覚だと切り捨てることもできない」

 

「ああ」

 

観測者は続けた。

 

「誰かが君に応答した可能性がある。だが、その相手が誰なのか、何を知っているのか、何を望んでいるのかは分からない」

 

死神は、亀裂があった場所を見つめた。

 

「……なら、次に応答があったときは、もっと聞く」

 

「何を?」

 

「相手が誰なのかだけではない」

 

死神は、静かに言った。

 

「なぜ、私に覚えていてほしいのかを」

 

4 緑谷出久の知らない接続

その頃、施設では、緑谷が新たな報告書を読み込んでいた。

 

安寧システムは、第一接続者への応答要求を保留している。

 

患者番号零の少女の記録は、依然として不完全。

 

緑谷自身の存在証明も、正式には回復していない。

 

それでも、第二十話で発生した現象には、明確な変化があった。

 

世界の記録は、緑谷と少女の接続を完全には切断できなかった。

 

そして、少女の願いは第一接続者へ接続された。

 

「……接続って、何なんだろう」

 

緑谷は、紙に書かれた文字を見つめた。

 

接続。

 

その言葉は、これまで何度も現れている。

 

デウス・マキナ。

 

第一接続者。

 

死神の記憶。

 

患者番号零。

 

そして、緑谷自身。

 

それぞれが何らかの形で結びついているように見える。

 

だが、接続が成立する条件は分からない。

 

名前を知っていることなのか。

 

相手の存在を認めることなのか。

 

願いを共有することなのか。

 

それとも、もっと根本的な何かなのか。

 

「出久くん、何を考えてるの?」

 

麗日が、机の向こうから尋ねた。

 

「接続について」

 

「接続?」

 

「うん。僕と患者番号零の接続が成立したって記録されていたよね」

 

麗日は頷いた。

 

「うん。でも、どうして成立したのかは分からないんだよね」

 

「そうなんだ」

 

緑谷は、考えながら話した。

 

「僕は、彼女の名前を知らない。彼女も、僕のことを最初から全部知っていたわけじゃない。それでも接続が成立した」

 

「……名前を知らなくても、つながれるってこと?」

 

「可能性としては、そうだと思う」

 

緑谷は紙に書き込んだ。

 

『接続成立の条件:未確定』

 

その下に、いくつかの仮説を書いた。

 

『相互認識』

 

『他者の存在を認める意思』

 

『願いの共有』

 

『記録とは独立した関係性』

 

「でも、どれも決め手がない」

 

緑谷は、ペンを置いた。

 

「そもそも、接続が何を意味しているのかも分からないんだ。安全なものなのか、危険なものなのか。僕たちが何かをつなげてしまったのか、それとも、最初からつながっていたものを見つけただけなのか」

 

麗日は、静かに聞いていた。

 

「……出久くん」

 

「うん?」

 

「もし、誰かとつながることが、危険なことだったら?」

 

緑谷は、彼女を見た。

 

麗日は、患者番号零の少女がいる方向に目を向けていた。

 

「その子が誰かとつながるたびに、周りの人が消えてしまうかもしれないんだよね」

 

「……うん」

 

「だったら、誰ともつながらない方が、その子にとって安全なのかな」

 

その問いは、緑谷にも答えられなかった。

 

確かに、接続によって記録の異常が発生している可能性はある。

 

ならば、接続を避ければ、被害を防げるのかもしれない。

 

しかし。

 

「……それは、まだ分からないと思う」

 

緑谷は、ゆっくりと言った。

 

「接続が原因なのか、それとも、接続した人たちをシステムが修正対象にしていることが原因なのか。そこを分けて考えないといけない」

 

「そっか……」

 

「それに、誰かとつながらないことが安全だとしても、その安全を誰が決めるのかは考えなきゃいけないと思う」

 

麗日は、緑谷を見つめた。

 

「……出久くんらしいね」

 

「え?」

 

「危険だからやめよう、だけじゃなくて、何が危険なのかを調べようとするところ」

 

緑谷は、困ったように笑った。

 

「……でも、調べることが正しいとも限らないよ」

 

「うん」

 

麗日は頷いた。

 

「だから、一人で決めないんだよ」

 

その言葉に、緑谷は顔を上げた。

 

麗日は続けた。

 

「出久くんは、いつも誰かを助けようとしてくれる。でも、出久くんが何をするかを、出久くん一人で決めなくてもいいんだよ」

 

緑谷は、何も言えなかった。

 

「その子がどうしたいのかも、ちゃんと聞こう。相澤先生たちとも相談しよう。危険があるなら、どうすれば減らせるのか考えよう」

 

麗日は、少しだけ微笑んだ。

 

「つながることが危険なのかどうかも、まだ分からないんだから」

 

緑谷は、ゆっくりと頷いた。

 

「……そうだね」

 

そのとき、部屋の扉が開いた。

 

相澤が入ってきた。

 

「二人とも、話がある」

 

緑谷と麗日が振り返る。

 

「何か分かったんですか?」

 

「一つ、気になる記録が見つかった」

 

相澤は、紙を机の上に置いた。

 

そこには、昨夜の記録とは別の文字が書かれていた。

 

《接続成立に関する補助記録》

 

《対象者間の記憶共有:確認されず》

 

《対象者間の願いの一致:確認されず》

 

《対象者間の相互認識:確認》

 

緑谷は、目を見開いた。

 

「……相互認識?」

 

「そうだ」

 

相澤は腕を組んだ。

 

「今のところ、記録が示しているのは、互いを認識していたという事実だけだ」

 

「それだけで、接続が成立したんですか?」

 

「断定はできない。だが、少なくとも、記憶を共有したことや、同じ願いを持っていたことは確認されていない」

 

緑谷は、文字を見つめた。

 

互いを認識していた。

 

それだけ。

 

相手の過去を知っている必要はない。

 

同じ願いを持っている必要もない。

 

相手を完全に理解している必要さえない。

 

ただ、そこにいる相手を、相手として認識する。

 

それが、接続と関係している可能性がある。

 

「……もし、そうなら」

 

緑谷は、ゆっくりと言った。

 

「接続は、相手を自分と同じにすることじゃないのかもしれません」

 

相澤が、彼を見た。

 

「続けろ」

 

「僕たちは、患者番号零のことを全部知っているわけじゃない。彼女も、僕たちのことを全部知っているわけじゃない。それでも、お互いがここにいることは認識できる」

 

緑谷は、少女の記録を見た。

 

「相手を理解しきれなくても、相手が自分とは違う存在だと分かっていても……その人がいることを認める。それが、接続の条件なのかもしれません」

 

相澤は、すぐには答えなかった。

 

「……可能性の一つだな」

 

「はい」

 

「だが、忘れるな。接続が成立した理由と、世界がそれに反応した理由は、別かもしれない」

 

「……はい」

 

緑谷は頷いた。

 

その違いが重要だった。

 

互いを認識したから接続が成立した。

 

しかし、世界の記録がその接続を修正しようとしたのは、なぜなのか。

 

接続そのものが問題なのか。

 

接続が記録に存在しないことが問題なのか。

 

それとも、接続によって、何かが世界の記録に影響を与えているのか。

 

まだ、答えは出ていない。

 

だが、少なくとも彼らは、ひとつの可能性にたどり着いた。

 

他者を完全に理解できなくても、その存在を認めることはできる。

 

それは、世界の記録が要求する「証明」とは、異なるものだった。

 

5 第一接続者からの返事

死神が、再び記録の海を訪れたのは、それから間もなくのことだった。

 

観測者は、危険だと警告した。

 

記録の向こう側から応答があった以上、再び接触することで、何らかの影響が生じる可能性がある。

 

死神自身も、それを理解していた。

 

それでも、行かなければならないと思った。

 

今度は、答えを求めるためだけではない。

 

相手が何を望んでいるのかを、聞くために。

 

死神は、先ほどと同じ記録の前に立った。

 

黒い空白。

 

その中心に浮かぶ光。

 

そして、光の奥に、わずかな亀裂。

 

「……私は、ここにいる」

 

死神は、静かに言った。

 

「お前が、まだ聞いているのなら」

 

何も起きない。

 

死神は、しばらく待った。

 

やがて、光が揺れた。

 

『……聞こえている』

 

あの声だった。

 

死神は、息をのんだ。

 

「お前は、第一接続者なのか?」

 

沈黙。

 

『……その名前が、誰を指しているのか、私にも分からない』

 

「分からない?」

 

『記録には、その名前がある。でも、名前と私の存在が、正しくつながっているかどうかは分からない』

 

死神は、思わず目を見開いた。

 

「……お前も、自分の名前を知らないのか」

 

『私には、名前があったのかもしれない』

 

声は、静かに続けた。

 

『でも、その名前を覚えている者がいないのなら……それを、私の名前だと証明できるの?』

 

死神は、言葉を失った。

 

それは、患者番号零の少女が抱えていた問いと、あまりにも似ていた。

 

自分の名前を覚えていない。

 

名前があったのかどうかも、分からない。

 

それでも、自分がここにいることだけは、確かに感じている。

 

「……名前がなくても、存在している可能性はある」

 

死神は、ゆっくりと言った。

 

『可能性?』

 

「ああ。私は、お前の名前を知らない。お前が第一接続者なのかどうかも、まだ分からない」

 

死神は、亀裂を見つめた。

 

「だが、今、お前の声を聞いている。それは、私にとって確かな出来事だ」

 

『……』

 

「それだけで、お前が何者なのかを決めるつもりはない。だが、何も存在しなかったことにするつもりもない」

 

長い沈黙があった。

 

やがて、声が尋ねた。

 

『……あなたは、私を覚えていなくても、私がここにいると認めるの?』

 

死神は、目を閉じた。

 

「……ああ」

 

『どうして?』

 

「お前が、ここにいるからだ」

 

答えは、驚くほど簡単だった。

 

しかし、その簡単な言葉を口にするまでに、死神はどれほど多くの疑問を抱えてきたのだろう。

 

自分が何者なのか。

 

誰を忘れたのか。

 

何を守ろうとしたのか。

 

その答えが分からなければ、誰かの存在を認めることさえできないのか。

 

死神は、首を横に振った。

 

「私は、お前の過去を知らない。だが、お前の過去を知らないことは、お前の今を否定する理由にはならない」

 

声が、かすかに震えた。

 

『……あなたは、変わったね』

 

死神の胸が痛んだ。

 

「昔の私を、知っているのか?」

 

『……分からない』

 

声は、苦しそうに答えた。

 

『覚えているような気がする。でも、その記憶が、本当に私のものなのか分からない』

 

死神は、何も言わなかった。

 

『あなたは、私を覚えていない』

 

声が続く。

 

『私は、あなたを覚えているのかもしれない。でも、その記憶も、確かなものではない』

 

そして。

 

『……私たちは、何をもって、お互いを知っていると言えるの?』

 

死神は、目を開いた。

 

その問いに、すぐに答えることはできなかった。

 

相手を知っているとは、どういうことなのか。

 

名前を知っていることか。

 

過去を知っていることか。

 

相手が何をしたのかを知っていることか。

 

あるいは、相手が今、何を願っているのかを聞こうとすることか。

 

「……私は、まだ答えを持っていない」

 

死神は正直に言った。

 

「だが、答えがないからといって、お前の声を聞かない理由にはならない」

 

声は、しばらく沈黙していた。

 

やがて、小さく言った。

 

『……ありがとう』

 

死神は、その言葉を聞きながら、ふと気づいた。

 

声の向こうにいる存在は、自分の名前を知らない。

 

自分の記憶も、確かなものではない。

 

それでも、誰かに話を聞いてほしいと願っている。

 

そして、死神は、その願いを聞いている。

 

それは、何かを証明するための行為ではなかった。

 

何かを修正するためでもない。

 

ただ、相手が話したいと言ったから、聞いている。

 

「……一つ、聞いてもいいか」

 

『うん』

 

「お前は、何を願っている?」

 

声が止まった。

 

長い沈黙。

 

やがて、亀裂の向こうから、かすかな息遣いが聞こえた。

 

『……私の願いは』

 

声が震えた。

 

『誰かに、私のことを覚えていてほしい』

 

死神は、息をのんだ。

 

その言葉は、患者番号零の少女が記録に残した願いと、同じだった。

 

だが、死神は、二人が同一の存在だとは決めつけなかった。

 

同じ願いを持つことは、同じ人間であることの証明にはならない。

 

似た願いを持つ者は、ほかにもいるかもしれない。

 

それでも。

 

その言葉は、確かに二つの記録をつないでいた。

 

死神は、静かに答えた。

 

「……聞いた」

 

『え?』

 

「お前の願いを、聞いた」

 

死神は、一歩近づいた。

 

「私は、お前の名前を知らない。過去も知らない。お前が何をしたのかも分からない」

 

それでも。

 

「今、お前が誰かに覚えていてほしいと願っていることは、聞いた」

 

声が、震えた。

 

『……それだけで、いいの?』

 

「それだけで、すべてが解決するわけではない」

 

死神は、正直に言った。

 

「お前の願いが、どんな意味を持つのか。誰に関係しているのか。何を引き起こすのか。それは、まだ分からない」

 

彼は、手を伸ばした。

 

「だが、私は、お前の願いを聞かなかったことにはしない」

 

その瞬間。

 

記録が、白く輝いた。

 

6 接続の代償

光は、記録の海を一瞬で満たした。

 

死神は、反射的に目を閉じた。

 

耳元で、無数の声が響く。

 

誰かの泣き声。

 

誰かの笑い声。

 

誰かが名前を呼ぶ声。

 

誰かが、名前を呼ばれないまま立ち尽くす気配。

 

それらが、巨大な流れとなって押し寄せてくる。

 

死神は、足を踏ん張った。

 

「……何が起きている?」

 

声は聞こえなかった。

 

その代わり、視界に、無数の光景が浮かび上がった。

 

名を呼ばれ、振り返る人。

 

誰かの手を握る人。

 

記録に残らなかった約束。

 

誰にも伝えられなかった謝罪。

 

叶えられなかった願い。

 

そのすべてが、何かに向かって流れていく。

 

死神は、理解した。

 

これは、単なる記録ではない。

 

記録される前の感情。

 

言葉になる前の願い。

 

誰かに伝わる前に消えてしまった声。

 

そうしたものが、そこには存在しているように見えた。

 

しかし、それが何なのかは分からない。

 

本当に集合的無意識なのか。

 

世界の記録の外側にある領域なのか。

 

それとも、デウス・マキナが接続する先にある、未知の構造なのか。

 

断定することはできない。

 

ただ、死神には分かった。

 

この場所には、記録に残らなかったものが、すべて消えてしまうわけではない可能性がある。

 

そして、その流れの中心に。

 

一つの小さな光があった。

 

死神は、その光に手を伸ばした。

 

触れた瞬間。

 

記憶が戻った。

 

いや。

 

記憶と呼べるほど、明確なものではなかった。

 

誰かが、自分の手を握っている。

 

自分は、その手を離すまいとしている。

 

目の前に、何かが崩れ落ちていく。

 

世界なのか。

 

記録なのか。

 

それとも、誰かの存在そのものなのか。

 

分からない。

 

ただ、声が聞こえた。

 

『あなたが覚えていてくれるなら、私は……』

 

そこで、記憶が途切れた。

 

死神は、膝をついた。

 

「……っ!」

 

胸の奥が、激しく痛んだ。

 

観測者の声が、遠くから聞こえた。

 

「死神! 応答しろ!」

 

死神は、何とか顔を上げた。

 

記録の海が、激しく揺れている。

 

「……私は、大丈夫だ」

 

「大丈夫なわけがない! 君の記録に、急激な変化が起きている!」

 

「何だと……?」

 

観測者が、記録を示した。

 

そこには、今まで存在しなかった文字が浮かんでいた。

 

《記録保持者:死神》

 

その下に、新しい項目。

 

《保持対象:一部回復》

 

死神は、息をのんだ。

 

「……回復?」

 

「君が接続した直後に、欠損していた記録の一部が戻った」

 

観測者は、慎重に言った。

 

「だが、同時に、別の記録が欠損している」

 

死神は顔を上げた。

 

「……何?」

 

観測者は、画面を拡大した。

 

《新規欠損:発生》

 

《欠損対象:不明》

 

《欠損理由:未確定》

 

死神は、凍りついた。

 

「……私の記憶が戻った代わりに、何かが失われたのか?」

 

「その可能性がある」

 

観測者は、断定を避けた。

 

「だが、君の記憶が戻ったことと、別の記録が欠損したことが、直接つながっているとは限らない」

 

死神は、拳を握った。

 

まただ。

 

何かを知ろうとすると、別の何かが失われる。

 

誰かを覚えようとすると、何かが欠ける。

 

自分が誰かを救おうとしたのなら、その代償を支払ったのかもしれない。

 

しかし。

 

それは、まだ仮説にすぎない。

 

「……私は、何を失った?」

 

観測者は、答えられなかった。

 

「何を失ったんだ!」

 

死神の声が響く。

 

観測者は、苦しそうに目を伏せた。

 

「分からない。欠損した対象そのものが、記録されていない」

 

死神は、何も言えなかった。

 

失われたものがある。

 

しかし、何を失ったのかさえ分からない。

 

それが、どれほど恐ろしいことなのか。

 

死神は、今、初めて理解した気がした。

 

自分の記憶が戻ったとしても。

 

その代わりに、別の何かが消えてしまったのなら。

 

それは、本当に取り戻したと言えるのだろうか。

 

「……もう一度、接続するのは危険だ」

 

観測者が言った。

 

「次に何が起きるか分からない。君の記憶が戻る保証もない。さらに別の記録が欠損する可能性もある」

 

死神は、黙っていた。

 

やがて、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かっている」

 

「ならば、今は中断するべきだ」

 

「ああ」

 

死神は、記録の海を見つめた。

 

光は、すでに消えかけていた。

 

だが、最後に見た記憶は、確かに残っている。

 

誰かの手を握っていたこと。

 

その手を離したくなかったこと。

 

そして、誰かが言いかけた言葉。

 

『あなたが覚えていてくれるなら、私は……』

 

その先が、分からない。

 

死神は、目を閉じた。

 

「……私は、誰かを救おうとしたのかもしれない」

 

観測者は、静かに答えた。

 

「そうかもしれない」

 

「だが、救おうとしたことが、正しかったとは限らない」

 

「……ああ」

 

死神は、顔を上げた。

 

「ならば、私はその事実を探す。自分が何をしたのかを知るために。そして、相手が何を望んでいたのかを知るために」

 

観測者は、頷いた。

 

「ただし、次は準備が必要だ」

 

「分かっている」

 

死神は、記録の海から目を離した。

 

その背後で。

 

誰にも気づかれないまま、一つの記録が消えていた。

 

そこには、かつて何かが記されていたはずだった。

 

しかし、その内容を知る者は、もう誰もいなかった。

 

7 第一接続者は、誰を待っている

施設では、緑谷たちが新たな異常を確認していた。

 

患者番号零の少女の記録が、再び変化したのだ。

 

「……また、文字が増えている」

 

緑谷は、紙を見つめた。

 

そこには、昨夜まで存在しなかった一文が追加されていた。

 

《願いの記録:応答を検出》

 

その下に。

 

《応答者:記録保持者》

 

「記録保持者……」

 

相澤が、低くつぶやいた。

 

「死神のことか?」

 

緑谷は、首を横に振った。

 

「まだ分かりません。でも、第二十話で確認された記録と、今回の記録には共通点があります」

 

「第一接続者への接続か」

 

「はい。それに……」

 

緑谷は、さらに下の文字を指さした。

 

《応答内容:不完全》

 

《願いの受理:継続》

 

《接続の代償:未確定》

 

相澤は、顔をしかめた。

 

「……接続の代償」

 

「死神の記録にも、同じような表示があったんです」

 

緑谷は、報告書を読み返した。

 

「記憶の一部が戻った一方で、別の記録が欠損した可能性がある。まだ因果関係は確定していません。でも、接続と記録の欠損が同時に起きている」

 

麗日が、不安そうに尋ねた。

 

「それって……誰かとつながると、別の誰かが消えるってこと?」

 

「まだ、そうとは言えない」

 

緑谷は、すぐに答えた。

 

「同じタイミングで起きたことと、直接の原因であることは違う。そこを確認しないと、僕たちは間違った結論にたどり着いてしまう」

 

相澤が頷いた。

 

「その通りだ」

 

しかし、緑谷は表情を曇らせた。

 

「……ただ、一つ気になることがあります」

 

「何だ?」

 

「第二十話で、患者番号零の願いが第一接続者に接続されたとき、システムは願いの実行者も代償も未確定だと記録しました」

 

緑谷は、少女の記録を見た。

 

「もし、その願いが誰かに届いたのだとしたら……」

 

彼は、言葉を選んだ。

 

「その願いを聞いた存在が、何かを返そうとしている可能性はないでしょうか」

 

麗日が、目を見開いた。

 

「返す……?」

 

「うん。記憶を返すのかもしれない。名前を返すのかもしれない。あるいは、ただ応答するだけなのかもしれない」

 

緑谷は、首を振った。

 

「まだ、何も分からない。でも、接続の代償が何なのかを調べる必要があると思います」

 

相澤は、しばらく考えていた。

 

「……よし。今後は、接続が発生したときの記録を優先して集める。患者番号零の少女についても、本人の意思を確認しながら調査する」

 

「はい」

 

「それから、緑谷」

 

「はい」

 

相澤は、厳しい目で彼を見た。

 

「お前自身が、接続を起こすために無理をするな」

 

緑谷は、言葉に詰まった。

 

「……先生」

 

「お前が何を考えているかは分かる。接続の条件を調べるために、自分から何かを試そうとするつもりだろう」

 

「……」

 

「だが、今の段階で、接続の代償が何なのか分かっていない。お前自身の記憶や存在に影響する可能性もある」

 

相澤は、静かに続けた。

 

「調査のために、自分を危険にさらすことを当然だと思うな」

 

緑谷は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……分かりました」

 

相澤は、しばらく彼を見つめていた。

 

「本当に分かったか?」

 

「……一人では、やりません」

 

「そういう話ではない」

 

「……はい」

 

麗日が、思わず苦笑した。

 

「出久くん、先生に見抜かれてるよ」

 

「う……」

 

相澤はため息をついた。

 

「とにかく、勝手な実験は禁止だ。調査は全員で行う」

 

緑谷は、頷いた。

 

そのときだった。

 

患者番号零の少女が、静かに口を開いた。

 

「……私」

 

全員が、彼女を見た。

 

「私、誰かの願いを聞いたことがあるのかもしれない」

 

緑谷は、息をのんだ。

 

「……どういうこと?」

 

少女は、自分の手を見つめていた。

 

「分からない。でも、さっきから……誰かの声が聞こえる気がする」

 

「どんな声?」

 

「……分からない」

 

少女は、苦しそうに眉を寄せた。

 

「声は聞こえるのに、何を言っているのか分からない。誰が話しているのかも分からない」

 

彼女は、目を閉じた。

 

「でも……」

 

涙が、一筋こぼれた。

 

「誰かが、ずっと待っている気がする」

 

緑谷は、動けなかった。

 

少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……私が、何かを忘れてしまったから?」

 

誰も、すぐには答えられなかった。

 

もし少女が、第一接続者に関係する記憶を持っているのなら。

 

その記憶が、今になって浮かび上がってきているのなら。

 

彼女は、自分の過去を取り戻す過程で、何かを失う可能性があるのだろうか。

 

それとも、失われていたものが、ようやく彼女に届き始めているのだろうか。

 

まだ分からない。

 

緑谷は、少女の前にしゃがみ込んだ。

 

「……無理に思い出そうとしなくていい」

 

少女が、彼を見た。

 

「でも……」

 

「何かを思い出したら、話してくれればいい。思い出せなくても、それでいい」

 

緑谷は、静かに言った。

 

「君が何を覚えているのか、何を覚えていないのか。それを、僕たちが勝手に決めることはできないから」

 

少女は、しばらく彼を見つめていた。

 

やがて、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

そのとき。

 

施設のモニターが、一斉に点灯した。

 

全員が振り返る。

 

画面には、新たな記録が表示されていた。

 

《第一接続者からの応答を検出》

 

緑谷の心臓が跳ねた。

 

「……応答?」

 

相澤が、画面に近づいた。

 

「記録の出所を確認しろ」

 

職員が操作を試みる。

 

しかし、画面には次々と新しい文字が浮かび上がっていった。

 

《応答者:記録保持者》

 

《応答先:患者番号零》

 

《応答内容:一部復元》

 

そして。

 

最後の一文。

 

《あなたを、覚えている者がいます》

 

少女の顔から、血の気が引いた。

 

「……私を?」

 

彼女は、画面を見つめた。

 

「私を、覚えている人が……いるの?」

 

緑谷は、すぐに答えなかった。

 

この記録が、何を意味するのかは分からない。

 

誰が少女を覚えているのか。

 

どのような記憶を持っているのか。

 

本当に彼女の過去を知っているのか。

 

それとも、記録が別の何かを示しているだけなのか。

 

何も確定していない。

 

だが、少女の目には、確かな希望が浮かんでいた。

 

その希望を、簡単に否定したくはなかった。

 

同時に、根拠のない約束で彼女を傷つけることもしたくなかった。

 

緑谷は、慎重に言った。

 

「……そういう記録が、今、表示されている」

 

少女は、ゆっくりと頷いた。

 

「……うん」

 

「でも、誰が覚えているのかは、まだ分からない」

 

「……うん」

 

「だから、これから一緒に確かめよう」

 

少女は、涙を拭った。

 

「……うん」

 

そして、ほんの少しだけ笑った。

 

「……私、知りたい」

 

その声には、恐怖だけではないものがあった。

 

自分が誰なのかを知りたい。

 

自分が何をしたのかを知りたい。

 

そして、自分を覚えているという誰かが、どんな人なのかを知りたい。

 

少女は、初めて、自分の過去を探すことを、自分の意思で望んだのだった。

 

8 死神は、答えを持たない

死神は、記録の海を離れる前に、もう一度だけ振り返った。

 

第一接続者の記録。

 

その向こうにいる、名前の分からない存在。

 

自分を知っているかもしれない声。

 

そして、記憶の中で、自分が握っていた誰かの手。

 

すべてが、まだ曖昧だった。

 

何をしたのか。

 

何を失ったのか。

 

誰を救おうとしたのか。

 

そして、その選択が、世界に何をもたらしたのか。

 

何一つ、答えは出ていない。

 

それでも、死神は、以前とは違う問いを抱いていた。

 

自分は誰なのか。

 

それだけではない。

 

自分が誰であるかを知らないままでも、誰かの願いを聞くことはできるのか。

 

そして。

 

相手が誰なのか分からないままでも、その相手を傷つけた可能性から目をそらさずにいられるのか。

 

死神は、目を閉じた。

 

「……私は、まだ何も知らない」

 

観測者が、隣に立った。

 

「そうだな」

 

「私は、自分が何者なのかも分からない。第一接続者が誰なのかも分からない。あの声が、本当に私を知っているのかも分からない」

 

死神は、ゆっくりと目を開いた。

 

「だが、一つだけ決めた」

 

「何を?」

 

「相手の願いを、私の都合で解釈しない」

 

観測者は、静かに聞いていた。

 

「もし、私が誰かを救おうとしたのなら、その相手が何を望んでいたのかを聞く。もし、私が誰かを傷つけたのなら、その事実を知る」

 

死神は、拳を握った。

 

「そして、どちらであっても、自分の記憶がないことを言い訳にはしない」

 

観測者は、しばらく黙っていた。

 

やがて、静かに言った。

 

「……それは、君自身が選んだことだな」

 

「ああ」

 

「記録に命じられたわけでも、システムに強制されたわけでもない」

 

「そうだ」

 

死神は、頷いた。

 

「私が選んだ」

 

その瞬間。

 

記録の海の奥で、かすかな光が灯った。

 

二人は同時に振り返った。

 

そこには、先ほどまで存在しなかった文字が浮かび上がっていた。

 

《記録保持者の意思を確認》

 

《応答条件:更新》

 

そして。

 

《第一接続者からの次回応答:待機》

 

観測者は、目を細めた。

 

「……応答条件が更新された?」

 

死神は、その文字を見つめた。

 

「私が、何かを選んだからか?」

 

「その可能性はある。だが、まだ断定できない」

 

死神は、ゆっくりと頷いた。

 

「……それでも、進める」

 

彼は、記録の海に背を向けた。

 

今すぐ、すべてを知ることはできない。

 

今すぐ、すべてを取り戻すこともできない。

 

だが、誰かの声を聞くことはできる。

 

誰かの願いを、勝手に決めつけないこともできる。

 

そして、自分が何をしたのかを知るために、歩き続けることはできる。

 

死神は、静かに歩き始めた。

 

その背後で、記録の海が、かすかに揺れた。

 

まるで。

 

遠い場所にいる誰かが、その歩みを見送っているかのように。

 

9 記録の外で、死神は誰を見た

死神は、最後にもう一度、あの声を思い出した。

 

『あなたが覚えていてくれるなら、私は……』

 

その言葉の続きは、まだ分からない。

 

しかし、今なら少しだけ、その意味を考えることができた。

 

誰かに覚えていてほしい。

 

それは、単に名前を忘れないでほしいという願いなのだろうか。

 

自分が生きていたことを、記録に残してほしいという願いなのだろうか。

 

それとも。

 

自分が何をしたとしても、その行為をなかったことにせず、覚えていてほしいという願いなのだろうか。

 

死神は、足を止めた。

 

もし、そうだとしたら。

 

第一接続者が求めているのは、救済だけではないのかもしれない。

 

許しだけでもないのかもしれない。

 

自分が何者だったのか。

 

何を望み、何を選び、何を失ったのか。

 

そのすべてを、誰かに覚えていてほしい。

 

それは、善い行いだけを記録してほしいという願いとは違う。

 

罪も、過ちも、後悔も。

 

その人が存在した証として、残してほしいという願いなのかもしれない。

 

だが、それもまだ仮説だ。

 

死神は、目を閉じた。

 

「……私は、お前を知らない」

 

誰もいない場所で、そう告げる。

 

「だが、知ろうとすることはできる」

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

そして。

 

遠くから、あの声が聞こえた。

 

『……待っている』

 

死神は、目を開いた。

 

『私は、まだここにいる』

 

声は、今度ははっきりと聞こえた。

 

『あなたが、私を見つけるまで』

 

死神は、振り返った。

 

そこには、何もなかった。

 

記録も。

 

光も。

 

亀裂も。

 

ただ、何もない空間が広がっていた。

 

それでも。

 

死神は、もう一度、答えた。

 

「……分かった」

 

彼は、静かに言った。

 

「必ず見つける」

 

その約束が、正しいものなのかは分からない。

 

相手が、本当に自分を待っているのかも分からない。

 

見つけた先に、何があるのかも分からない。

 

それでも。

 

死神は、自分の意思で、その言葉を口にした。

 

そして、その瞬間。

 

世界の記録の、さらに奥深く。

 

誰にも読まれることのなかった一行が、静かに浮かび上がった。

 

《記録保持者は、応答を選択しました》

 

その下に、もう一つ。

 

《第一接続者――次回応答を予約》

 

さらに。

 

《応答対象:死神》

 

記録は、そこで閉じた。

 

しかし、その向こう側では。

 

誰かが、確かに待っていた。

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