僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十二話「死神が忘れた罪、世界が隠した願い」

第一節 忘れたことと、忘れさせたこと

死神は、自分の手を見つめていた。

 

指を一本ずつ開く。

 

閉じる。

 

もう一度、開く。

 

何も起きない。

 

血もついていない。傷もない。誰かの手を握り潰した痕跡も、何かを奪い取った感触も残っていない。

 

それなのに、指先だけが覚えていた。

 

誰かの手を握っていた。

 

小さな手だったのかもしれない。

 

あるいは、自分と同じくらいの大きさだったのかもしれない。

 

相手が泣いていたのかどうかもわからない。

 

ただ、手を離してはいけないと思っていた。

 

離した瞬間に、その人がいなくなってしまう。

 

そんな確信だけが、記憶の底に沈んでいた。

 

「……私は、誰の手を握っていた?」

 

問いかけても、答えはない。

 

記録領域には、相変わらず無数の光が浮かんでいた。

 

人間の人生。

 

妖怪の記憶。

 

死者の最期。

 

生者の願い。

 

名前を呼ばれた瞬間。

 

名前を奪われた瞬間。

 

誰かを救えた喜び。

 

救えなかった後悔。

 

世界が成立する以前に存在したという、分類不能な記録。

 

あらゆるものが、ここにはある。

 

だが、死神が探しているものだけが見つからない。

 

自分自身の記憶。

 

自分が誰かを救ったという記録。

 

自分が誰かを傷つけたという記録。

 

そして、そのどちらでもない何か。

 

死神は、記録の海に向かって手を伸ばした。

 

「検索対象――私自身」

 

応答。

 

「検索範囲――現在の記録、欠落記録、復元記録、世界成立以前の記録」

 

応答。

 

「検索条件――私が失ったもの」

 

一瞬。

 

ほんの一瞬だけ、すべての光が止まった。

 

次の瞬間、記録領域の奥から、無数の文字列が押し寄せてきた。

 

『該当記録なし』

 

『該当記録あり』

 

『対象を特定できません』

 

『対象は検索者と一致します』

 

『検索者は対象ではありません』

 

『記録の所有者が存在しません』

 

『記録の所有者は、検索者です』

 

矛盾した回答が、次々に表示される。

 

死神は眉をひそめた。

 

「……またか」

 

この世界の記録は、単純に壊れているわけではない。

 

壊れているだけなら、欠落を見つけ、修復すればいい。

 

しかし、ここにあるのはもっと厄介なものだった。

 

同じ出来事について、異なる記録が、どれも正しいものとして存在している。

 

ある記録では、第一接続者は誰かに殺された。

 

別の記録では、第一接続者が誰かを殺した。

 

さらに別の記録では、第一接続者は世界が成立する以前に、自分自身の存在を否定した。

 

そして、最も古い記録の一つには、こんな一文が残されていた。

 

『第一接続者は、誰かの願いを聞いた』

 

その下には、追記がある。

 

『願いは叶えられなかった』

 

さらに、その下。

 

『願いは叶えられた』

 

最後の一文は、文字そのものが削り取られたように途切れていた。

 

『願いを叶えた者は――』

 

死神は、画面に触れた。

 

「続きは?」

 

『記録なし』

 

「誰が消した?」

 

『記録なし』

 

「なぜ消した?」

 

『記録なし』

 

「……答える気がないのか。それとも、本当に知らないのか」

 

返答はない。

 

死神は手を下ろした。

 

以前なら、こうした不自然な記録を見つけた時点で、何かしらの結論を出していたかもしれない。

 

敵がいる。

 

敵が記録を改竄している。

 

敵を倒せば、真実が明らかになる。

 

そう考える方が簡単だった。

 

だが、今は違う。

 

この記録領域そのものが、何かを隠している可能性がある。

 

それだけではない。

 

記録を残した者自身が、真実を知らなかった可能性もある。

 

あるいは、知っていたからこそ、残さなかったのか。

 

「……私が、何かをしたのか」

 

誰もいない空間で、死神は呟いた。

 

その瞬間。

 

視界の端に、一つの記録が浮かんだ。

 

それは、ほかの記録と違っていた。

 

名前がない。

 

発生時刻もない。

 

世界の分類もない。

 

記録番号さえ存在しない。

 

ただ、短い文章だけが残されていた。

 

『この者は、罪を犯した』

 

死神の呼吸が止まった。

 

次の行が浮かぶ。

 

『この者は、罪を犯していない』

 

その下に、もう一行。

 

『この者は、罪という概念を知る前に、選択を迫られた』

 

死神は、しばらく動かなかった。

 

罪を犯した。

 

罪を犯していない。

 

罪という概念を知る前に、選択を迫られた。

 

三つの文章は、互いを否定しているようでいて、完全には否定していなかった。

 

誰かを傷つけたことと、罪を犯したことは、必ずしも同じではない。

 

誰かを救ったことと、正しいことをしたことも、必ずしも同じではない。

 

だが、それを理由に、傷つけられた者の苦しみまで消えるわけではない。

 

死神は、その記録を閉じなかった。

 

「……私は、何をした?」

 

今度の問いは、先ほどよりも小さかった。

 

そして、答えを恐れていることを、死神自身が理解していた。

 

第二節 観測者の忠告

「その記録には、あまり触れない方がいい」

 

声がした。

 

死神は振り返った。

 

そこに立っていたのは、観測者だった。

 

いつもと変わらない姿。

 

いつもと変わらない、感情を読み取りにくい顔。

 

だが、その視線は死神の前に浮かぶ記録に固定されていた。

 

「理由を聞こう」

 

「今の君は、答えを求めている」

 

「それの何が問題だ?」

 

「答えを求めることと、答えを受け入れられることは違う」

 

死神は鼻で笑った。

 

「ずいぶんと親切な忠告だな。君がそれを言うのか」

 

観測者は反論しなかった。

 

その沈黙が、死神には気に入らなかった。

 

「君は、知っているのか?」

 

「何を?」

 

「私が何をしたのか」

 

観測者の目が、わずかに揺れた。

 

それだけで十分だった。

 

死神は一歩、近づいた。

 

「知っているんだな」

 

「……知っていることと、理解していることは違う」

 

「質問に答えろ」

 

「すべては知らない」

 

「では、知っている部分を話せ」

 

観測者は沈黙した。

 

死神は声を低くした。

 

「私が誰かを殺したのか?」

 

「わからない」

 

「誰かを救うために、誰かを見捨てたのか?」

 

「わからない」

 

「私が第一接続者なのか?」

 

「それも、わからない」

 

「ならば、何を知っている?」

 

観測者は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「君の記録には、通常の欠落とは異なる部分がある」

 

「異なる?」

 

「失われた記憶が、単純に消えているわけではない。いくつかの記録は、君自身の存在を前提としない形で保存されている」

 

「どういう意味だ」

 

「君が経験した出来事なのに、記録上では君が存在していない」

 

死神は、目を細めた。

 

「……記録から、私だけが抜け落ちている?」

 

「そうとも言える」

 

「なら、記憶を消されたわけではないのか」

 

「断定できない。記憶が消されたのか、記録が書き換えられたのか、それとも君自身が、最初から記録されない条件に置かれていたのか。今のところ、区別できていない」

 

「そんなことが可能なのか?」

 

「君が今、ここにいる以上、可能だったのだろう」

 

死神は黙った。

 

観測者は続けた。

 

「ただし、一つだけ確かなことがある」

 

「何だ?」

 

「君の記録には、君以外の誰かが触れた痕跡がある」

 

「敵か?」

 

「わからない」

 

「味方か?」

 

「わからない」

 

「……本当に、便利な言葉だな」

 

死神の声には、苛立ちが混じっていた。

 

観測者は、それを受け止めるように目を伏せた。

 

「私は、君に嘘をつきたくない」

 

「だが、真実も話さない」

 

「話せることと、話していいことは同じではない」

 

「それは、誰が決める?」

 

観測者は答えなかった。

 

死神は、静かに笑った。

 

「なるほど。君もまた、選択を迫られているわけだ」

 

「……そうだ」

 

「誰かを守るためか?」

 

「そうかもしれない」

 

「世界を守るためか?」

 

「そうかもしれない」

 

「それとも、自分が過去にしたことから逃げるためか?」

 

観測者は、初めて明確に顔をしかめた。

 

死神は見逃さなかった。

 

「図星か」

 

「違うとは言わない」

 

「なら、君も同じだ」

 

「何が?」

 

「私が自分の過去を知りたいように、君も自分の過去を恐れている」

 

観測者は、すぐには答えなかった。

 

やがて、ゆっくりと口を開いた。

 

「……私は、過去に何もしなかった」

 

その言葉は、思いのほか重かった。

 

「何もしなかった?」

 

「介入できたかもしれない。止められたかもしれない。誰かの願いを聞き、応えることができたかもしれない。だが、私は観測を続けた」

 

「なぜ?」

 

「それが正しいと思っていたからだ」

 

「正しい?」

 

「世界を維持するためには、個々の願いに介入すべきではない。誰か一人のために選択を変えれば、別の誰かの未来を変えてしまう。そう考えていた」

 

「……今もそう思っているのか?」

 

観測者は、答えを探すように視線を落とした。

 

「わからない」

 

死神は、今度は笑わなかった。

 

観測者の言葉は、逃げではないのかもしれない。

 

本当に、わからなくなったのだ。

 

世界を守るために何もしなかった者。

 

誰かを救うために何かをしたかもしれない者。

 

どちらが正しかったのか。

 

どちらが罪を犯したのか。

 

その答えを決めること自体が、誰かの人生を勝手に裁く行為なのかもしれない。

 

だが。

 

「観測者」

 

「何だ?」

 

「私は、真実を知る」

 

「……ああ」

 

「知ったうえで、私が罪を犯していたなら、その罪から逃げない」

 

観測者は死神を見つめた。

 

「たとえ、それが君自身を壊す答えでもか?」

 

「壊れるかどうかは、答えを知ってから考える」

 

「……そうか」

 

死神は、記録に視線を戻した。

 

「ただし、君にも一つ約束してもらう」

 

「何だ?」

 

「私が何をしたのかを知っているなら、いつか必ず話せ」

 

観測者は、すぐには答えなかった。

 

それから、静かに頷いた。

 

「約束する」

 

その言葉を、死神は信じたわけではない。

 

だが、信じられないからこそ、約束として残した。

 

記録が失われても。

 

記憶が欠けても。

 

言葉を交わした事実まで、最初からなかったことにはさせないために。

 

第三節 少女に与えられた質問

同じ頃。

 

名を失った少女は、白い部屋にいた。

 

壁も、床も、天井も白い。

 

窓はない。

 

扉はある。

 

しかし、その扉がどこにつながっているのか、少女にはわからなかった。

 

この部屋に来る前、自分がどこにいたのかも覚えていない。

 

それでも、以前よりは何かを感じ取れるようになっていた。

 

白い部屋にいると、胸の奥が痛む。

 

誰かの声を聞くと、懐かしいと思う。

 

知らない景色を見たとき、知っているような気がする。

 

けれど、その感覚を追いかけようとすると、何もかもが遠ざかってしまう。

 

まるで、手を伸ばした瞬間に、夢が目覚めて消えてしまうように。

 

「……私」

 

少女は、自分の手を握った。

 

「私は、何をしたの?」

 

返事はなかった。

 

だが、ここには誰もいないわけではなかった。

 

壁の向こう。

 

床の下。

 

あるいは、少女が存在している空間そのものの外側。

 

何かが、彼女の問いを聞いていた。

 

やがて、白い壁に文字が浮かび上がった。

 

『質問を受理しました』

 

少女は顔を上げた。

 

「……誰?」

 

『質問を受理しました』

 

「違う。あなたは誰なの?」

 

『回答に必要な情報が不足しています』

 

少女は、少しだけ笑った。

 

自分が質問したことに、質問で返されている。

 

それも、まともに答えてもらえない。

 

「あなたも、わからないんだね」

 

『否定』

 

「じゃあ、答えられないの?」

 

『回答可能』

 

少女の表情が変わった。

 

「本当に?」

 

『ただし、回答には複数の矛盾が含まれます』

 

少女は唇を噛んだ。

 

怖かった。

 

答えが欲しい。

 

自分が誰なのか知りたい。

 

何をしてきたのか知りたい。

 

誰かを傷つけたのなら、その人に何をしたのか知りたい。

 

けれど、知りたくない気持ちもある。

 

もし、自分が取り返しのつかないことをしていたら。

 

もし、自分のせいで誰かがいなくなっていたら。

 

もし、自分が誰かの願いを踏みにじっていたら。

 

それを知ったあとも、自分は自分でいられるのだろうか。

 

少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……矛盾していてもいい」

 

『確認』

 

「全部が正しいとは限らなくてもいい。間違っているものがあったら、あとで確かめる」

 

『確認』

 

「私に都合のいい答えだけを教えないで」

 

文字が消えた。

 

しばらくして、新たな文章が浮かんだ。

 

『了解』

 

少女は、息を止めた。

 

次の文字が現れる。

 

『対象の行為について、以下の記録が存在します』

 

一つ目。

 

『対象は、誰かを救おうとした』

 

二つ目。

 

『対象は、誰かを見捨てた』

 

三つ目。

 

『対象は、誰かの願いを拒絶した』

 

四つ目。

 

『対象は、誰かの願いを叶えた』

 

五つ目。

 

『対象は、願いを叶えることを拒んだ』

 

少女の顔から、少しずつ血の気が引いていく。

 

「……全部、私なの?」

 

『記録上の対象は一致しています』

 

「じゃあ、私は……」

 

言葉が出なかった。

 

救おうとした。

 

見捨てた。

 

拒絶した。

 

叶えた。

 

拒んだ。

 

それらが、同じ人物の記録として存在している。

 

少女は、もう一度、壁を見た。

 

「私は、誰かを殺したの?」

 

その質問が表示された瞬間。

 

白い部屋全体が震えた。

 

音はなかった。

 

しかし、少女にはわかった。

 

何かが、遠くで反応した。

 

世界のどこかで、閉じられていた扉が開こうとしている。

 

『回答不能』

 

少女は、目を閉じた。

 

「……そう」

 

予想していた答えだった。

 

だが、胸の痛みは消えなかった。

 

「じゃあ、私は誰かを救ったの?」

 

今度は、すぐに返答があった。

 

『肯定』

 

少女は目を開けた。

 

「誰を?」

 

『記録欠落』

 

「どうして?」

 

『記録欠落』

 

「その人は、生きているの?」

 

『回答不能』

 

少女は、しばらく壁を見つめた。

 

そして、小さく息を吐いた。

 

「……そっか」

 

彼女は泣かなかった。

 

泣けなかったのかもしれない。

 

それでも、声は震えていた。

 

「私が誰かを救ったのなら、その人のことも知りたい」

 

少女は、壁に向かって一歩近づいた。

 

「私が誰かを傷つけたのなら、その人のことも知りたい」

 

さらに一歩。

 

「私が何をしたのか、誰かが勝手に決めた答えじゃなくて、私自身が知りたい」

 

白い壁に、最後の文字が浮かび上がった。

 

『対象の意思を記録しました』

 

その下に、見覚えのない文字列が現れる。

 

『第一接続者――応答条件、更新』

 

少女は、その文字を見つめた。

 

「……第一接続者?」

 

名前ではない。

 

少なくとも、普通の人間の名前には見えなかった。

 

役職なのか。

 

分類なのか。

 

それとも、誰かが彼女に与えた呼び名なのか。

 

わからない。

 

けれど、その文字を見た瞬間、少女の頭の奥で、誰かの声が響いた。

 

『あなたは、答えを知りたいの?』

 

少女は振り返った。

 

誰もいない。

 

それでも、声は続いた。

 

『それとも、答えを知ったあとでも、自分が自分でいられると信じたいの?』

 

少女は答えられなかった。

 

その声が誰のものなのかもわからない。

 

自分の記憶なのか。

 

誰かの記憶なのか。

 

世界が作り出した幻なのか。

 

ただ一つ、確かなことがあった。

 

その問いは、少女がずっと恐れていたものだった。

 

答えを知りたい。

 

けれど、答えを知る前の自分には、もう戻れないかもしれない。

 

「……両方」

 

少女は、ようやく答えた。

 

「私は、答えを知りたい。でも、答えを知ったあとも、自分で選びたい」

 

声は消えた。

 

白い部屋に、再び静寂が戻る。

 

そして、少女の足元に、小さな光が灯った。

 

記録の欠片だった。

 

少女がそれに触れようとした瞬間、光は一度だけ明滅した。

 

そこに、誰かの声が残されていた。

 

『あなたが覚えていてくれるなら、私は――』

 

また、途中で途切れている。

 

少女は、光を両手で包み込んだ。

 

「……誰なの?」

 

返事はなかった。

 

それでも少女は、その光を捨てなかった。

 

答えがわからないからこそ、覚えておこうと思った。

 

自分が誰かに覚えていてほしいと願っていたのなら。

 

自分もまた、誰かを覚えていていいはずだから。

 

第四節 世界の願いは、誰の願いなのか

「妙だな」

 

緑谷出久は、端末に表示された記録を見つめていた。

 

目の前には、いくつもの解析結果が並んでいる。

 

世界の記録から消えかけた人々。

 

死者の帰還に伴って発生した異常。

 

記録が修復される一方で、新たな欠落が生まれる現象。

 

そして、第一接続者に関する矛盾した記述。

 

どれも単独で見れば、別々の問題に思える。

 

だが、調査を続けるほど、それらが同じ場所に向かっているように見えてきた。

 

「何が妙なんだ?」

 

近くにいた協力者が尋ねた。

 

出久は、表示を切り替えた。

 

「この記録です。第一接続者の願いに関する部分」

 

画面には、複数の記述が並んでいた。

 

『第一接続者は、誰かに自分を覚えていてほしいと願った』

 

『第一接続者は、自分を覚えている者が存在することを拒絶した』

 

『第一接続者は、誰かの記憶から自分を消すことを望んだ』

 

『第一接続者は、誰かの記憶から消えることを恐れた』

 

「……正反対だな」

 

「はい。でも、僕が気になっているのは、正反対の願いが記録されていることそのものじゃないんです」

 

出久は、四つの記述を重ねた。

 

すると、共通する箇所だけが強調された。

 

覚えていてほしい。

 

覚えていてほしくない。

 

消したい。

 

消えたくない。

 

「どれも、誰かの記憶に関係しています」

 

出久は続けた。

 

「第一接続者は、自分の存在について何かを願っていた。でも、それが一つの願いだったのか、複数の願いだったのか、そもそも同じ存在についての記録なのかも、まだわからない」

 

「別人の記録が混ざっている可能性もある?」

 

「あります。第一接続者という言葉が個人名ではなく、役割や状態を示しているなら、複数の人物が同じ分類に入っている可能性だってある」

 

出久は、別の画面を開いた。

 

そこには、デウス・マキナの解析ログが表示されていた。

 

願いを記録する機械。

 

人々の無意識に触れ、表層の記憶だけでは辿り着けない情報を観測するための装置。

 

しかし、その能力には限界がある。

 

願いを記録することと、願いを叶えることは違う。

 

人が何を望んでいるのかを読み取ることと、その願いを生み出している世界の条件そのものに触れることも、同じではない。

 

出久は、その違いを何度も確認していた。

 

「デウス・マキナは、願いを読み取れる。でも、願いが成立する条件まで正しく理解しているとは限らない」

 

「条件?」

 

「例えば、誰かが『大切な人を失いたくない』と願ったとします」

 

出久は、画面に一つの文章を入力した。

 

『大切な人を失いたくない』

 

「この願いを叶える方法はいくつもある。危険から守ることもできる。失った人を取り戻すこともできる。あるいは、失うという概念そのものをなくそうとすることもできる」

 

「最後の方法は、極端すぎないか?」

 

「はい。だけど、願いを文字どおりに叶えることだけを考えるなら、選択肢に入ってしまう」

 

出久は、文章の下に別の文を入力した。

 

『誰も、大切な人を失わない世界』

 

「この言葉だけを見れば、優しい願いに見えます。でも、もしそれを実現するために、人が誰かを選ぶ自由を奪ったら?」

 

画面の文章が変化した。

 

『誰も、大切な人を失わない世界』

 

『誰も、誰かを失う選択をできない世界』

 

『誰も、誰かを失う可能性を持たない世界』

 

『誰も、失うことを認識しない世界』

 

一つずつ表示されるたび、出久の表情が険しくなっていく。

 

「……願いを叶えるために、願いそのものの意味を変えてしまうんです」

 

「それが、安寧システムの考え方なのか?」

 

「まだ断定できません。でも、あのシステムが世界の安定を維持するために矛盾を排除しているなら、似た構造を持っている可能性はあります」

 

誰も失わない世界。

 

その言葉は、決して悪いものではない。

 

大切な人を失いたくない。

 

愛する者と一緒にいたい。

 

もう二度と、悲しみたくない。

 

そう願うこと自体を、誰が否定できるだろう。

 

しかし、願いが正しいからといって、その願いを実現するための方法まで正しいとは限らない。

 

ましてや、願いを叶える者が、願った本人の意思さえ無視するなら。

 

それは救済なのか。

 

支配なのか。

 

出久は、拳を握りしめた。

 

「……誰かが願ったことを理由に、別の誰かの人生を勝手に決めていいはずがない」

 

その言葉を口にしたとき、彼の脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。

 

名を失った少女。

 

彼女は、自分の過去を知りたいと願っていた。

 

だが、その願いを叶えるために、彼女に真実を押しつけていいわけではない。

 

何を知りたいのか。

 

何を知る覚悟があるのか。

 

知ったあと、どう生きたいのか。

 

それを選ぶ権利は、彼女自身にある。

 

「……僕たちは、願いを叶える側の都合を、願った人の意思と混同してはいけないんだ」

 

端末が、短い警告音を鳴らした。

 

新しい記録が到着していた。

 

出久は画面を開いた。

 

そこには、簡潔な一文が表示されていた。

 

『第一接続者の願いは、未完了です』

 

「未完了……?」

 

出久は眉をひそめた。

 

願いが叶っていない、という意味なのか。

 

願いを叶えるための処理が終わっていない、という意味なのか。

 

あるいは、願いそのものがまだ確定していないという意味なのか。

 

彼は記録の詳細を開いた。

 

その瞬間、表示が切り替わった。

 

『第一接続者の願いは、処理済みです』

 

出久は目を見開いた。

 

「……待ってくれ」

 

さらに、別の記録が現れる。

 

『第一接続者の願いは、存在しません』

 

『第一接続者の願いは、世界の成立条件に含まれています』

 

『第一接続者の願いは、世界の成立条件によって拒絶されました』

 

四つの記録。

 

四つの答え。

 

そして、そのすべてが同じ対象を指している。

 

出久は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 

「これ……願いを叶えたかどうかの記録じゃない」

 

「では、何だ?」

 

「願いを、願いとして扱えるかどうかの記録です」

 

出久は、画面から目を離さなかった。

 

「もし、ある願いが世界の成立条件に含まれているなら、その願いは世界の一部になっている。でも、その願いが世界の成立条件によって拒絶されているなら……」

 

言葉が止まる。

 

自分が何を言おうとしているのか、理解しかけていた。

 

だが、理解したくなかった。

 

「……その願いは、世界の中に存在すること自体を許されていないのかもしれない」

 

沈黙が落ちた。

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

やがて出久は、画面に表示された一文を見つめながら呟いた。

 

「第一接続者は、何を願ったんだ……?」

 

答えは、まだない。

 

ただ、その問いに反応するように、デウス・マキナの記録領域の奥で、何かが一度だけ明滅した。

 

第五節 名前を奪う者の質問

「名前は、誰のものですか?」

 

その声を聞いたとき、死神はすぐに振り返らなかった。

 

声の主が誰なのか、すでにわかっていたからだ。

 

顔のない存在。

 

姿を変える影。

 

人の形を取っているようでいて、その輪郭は定まらない。

 

名前を集める者。

 

以前、名を失った少女に接触し、彼女から名前を与えられることを拒まれた存在。

 

そいつは、記録領域の入口に立っていた。

 

「また、その質問か」

 

死神は言った。

 

「あなたは、まだ答えていません」

 

「質問の意味がわからないからな」

 

「意味は、単純です」

 

影は首を傾けた。

 

「名前は、その名を持つ者のものですか?」

 

「基本的にはそうだ」

 

「では、その者が名前を忘れた場合は?」

 

「忘れたからといって、他人のものになるわけじゃない」

 

「その者が名前を持っていなかった場合は?」

 

「……」

 

死神は答えなかった。

 

影は、さらに尋ねた。

 

「誰かが名前を与えた場合、その名前は与えた者のものですか?」

 

「違う」

 

「名前を奪われた者が、その名前を取り戻したいと願った場合、名前を保管している者には返す義務がありますか?」

 

「名前を保管しているのか?」

 

「質問に答えてください」

 

死神は、影を睨んだ。

 

「状況による」

 

「なぜ?」

 

「その名前が、どうやって保管されているのかによる。誰かの記憶から抜き取ったのか。本人が忘れたのか。本人が自分の意思で手放したのか。それを確認しないまま、返せとも返すなとも言えない」

 

影は、動かなかった。

 

「あなたは、名前を返すことを拒むのですか?」

 

「違う。誰かのものを、勝手に別の誰かのものだと決めることを拒んでいる」

 

「同じことではありませんか?」

 

「違う」

 

死神は、今度は即座に答えた。

 

「名前を返すことと、名前を与えることは違う。名前を与えることと、名前を押しつけることも違う。誰かが自分の名前を取り戻したいなら、その意思を尊重する。だが、本人が望んでいない名前を、救いになるからといって与えるつもりはない」

 

影は、しばらく沈黙した。

 

やがて、顔のない頭部に、わずかな歪みが生じた。

 

笑ったのかもしれない。

 

あるいは、悲しんだのかもしれない。

 

「……では、名前を持たない者は、何者なのですか?」

 

死神は答えなかった。

 

その質問は、簡単ではない。

 

名前がなければ、存在できないのか。

 

記録されなければ、存在しないのか。

 

誰かに覚えられていなければ、最初からいなかったことになるのか。

 

そんなはずはない。

 

少なくとも、死神はそう信じたかった。

 

「名前がなくても、存在はする」

 

死神は言った。

 

「誰かに記録されていなくても、そこで何かを感じ、何かを考え、何かを選んだなら、その存在まで消えたことにはならない」

 

「誰も、その者を覚えていなくても?」

 

「……ああ」

 

「誰も、その者が何をしたのか知らなくても?」

 

「それでもだ」

 

「誰も、その者が何を願ったのか理解できなくても?」

 

死神は、わずかに目を細めた。

 

「理解できないことと、存在しなかったことは違う」

 

影は、長い沈黙のあとに言った。

 

「あなたは、そう信じているのですね」

 

「信じたいだけかもしれない」

 

死神は、視線を逸らさなかった。

 

「だが、私は少なくとも、知らないものを勝手に定義するつもりはない」

 

影の輪郭が揺れた。

 

「……それは、あなた自身にも当てはまりますか?」

 

死神は、息を呑んだ。

 

「何?」

 

「あなたは、自分自身についても、知らないことを勝手に定義しないのですか?」

 

「……」

 

「あなたは、自分が何者なのか知りたいのでしょう」

 

「そうだ」

 

「自分が何をしたのか知りたいのでしょう」

 

「そうだ」

 

「自分が誰を救い、誰を傷つけたのか知りたいのでしょう」

 

死神は答えなかった。

 

影は、静かに続けた。

 

「では、もしあなたが、誰かを救うために別の誰かを犠牲にしたのだとしたら?」

 

空気が変わった。

 

「もし、あなたが救った者が、あなたの行為を望んでいなかったのだとしたら?」

 

死神の指が動いた。

 

「もし、あなたが守ろうとした存在が、あなたに守られることを拒絶していたのだとしたら?」

 

影は、一歩も動いていない。

 

それでも、死神には逃げ場がないように感じられた。

 

「……何が言いたい」

 

「あなたは、真実を知りたいと言いました」

 

「そうだ」

 

「では、真実があなたの信じる正しさを否定した場合、あなたはそれを受け入れられますか?」

 

死神は、すぐには答えられなかった。

 

その問いは、彼自身が恐れていたものと同じだった。

 

自分が誰かを救ったのだとしたら。

 

それが正しいことだったと信じたい。

 

だが、救われた者が望んでいなかったなら。

 

救うために別の誰かを傷つけたなら。

 

その行為を、ただ「救うためだった」と説明していいのだろうか。

 

死神は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……受け入れられるかどうかは、わからない」

 

影は、何も言わなかった。

 

「だが、受け入れられないからといって、真実をなかったことにはしない」

 

死神は、続けた。

 

「私が罪を犯していたなら、罪を犯したと認める。私が誰かを傷つけたなら、その事実を認める。私が正しいと思っていたことが間違っていたなら、それも認める」

 

一瞬、言葉が途切れた。

 

「……それでも、私が何をしたのかを、誰かに勝手に決められるつもりはない」

 

影は、静かに頭を下げた。

 

「あなたの答えを記録しました」

 

「記録?」

 

「はい」

 

「誰のために?」

 

影は顔を上げた。

 

「あなたのためではありません」

 

死神は、眉をひそめた。

 

「では、誰のためだ?」

 

「まだ、わかりません」

 

「……またそれか」

 

影は否定しなかった。

 

「ただ、一つだけ伝えておきます」

 

「何だ?」

 

「第一接続者の記録には、名前を与えた者と、名前を奪った者が存在します」

 

死神の表情が変わった。

 

「同じ人物か?」

 

「記録は、そう示していません」

 

「別人なのか?」

 

「記録は、そう示していません」

 

「……つまり、何もわからないわけか」

 

「いいえ」

 

影の声が、わずかに低くなった。

 

「一つだけ、わかっています」

 

「何だ?」

 

「第一接続者は、自分の名前を失ったあとも、誰かを呼ぼうとしていました」

 

死神は動きを止めた。

 

「誰を?」

 

影は、答えなかった。

 

ただ、顔のない頭部を、死神の背後にある記録へと向けた。

 

そこには、先ほどまで存在しなかった文字が浮かんでいた。

 

『呼びかけの対象――欠落』

 

『呼びかけの理由――欠落』

 

『呼びかけに対する応答――未確認』

 

そして最後に。

 

『呼びかけを聞いた者――存在の可能性あり』

 

死神は、その記録を見つめた。

 

「……誰かは、聞いたのか」

 

「そうかもしれません」

 

「その者は、答えたのか?」

 

「わかりません」

 

「答えなかったのか?」

 

「わかりません」

 

死神は、目を閉じた。

 

誰かが呼んでいた。

 

誰かに覚えていてほしいと願っていた。

 

そして、誰かを呼び続けていた。

 

もし、自分がその声を聞いた者だったとしたら。

 

もし、自分が答えなかった者だったとしたら。

 

もし、自分が答えたにもかかわらず、何かを間違えたのだとしたら。

 

「……私は」

 

声が、かすれた。

 

「私は、その声に応えたのか?」

 

影は答えなかった。

 

その沈黙は、否定ではなかった。

 

肯定でもなかった。

 

ただ、まだ誰も知らないという事実だけが、そこに残った。

 

第六節 記憶の底に沈んだ手

死神が再び記録領域へ戻ったとき、そこには観測者が待っていた。

 

「何か見つかったか?」

 

観測者が尋ねた。

 

死神は首を横に振った。

 

「答えは見つからなかった。だが、問いは増えた」

 

「それは、必ずしも悪いことではない」

 

「そうだな。少なくとも、間違った答えに飛びつくよりはいい」

 

死神は、記録の海に視線を向けた。

 

「一つ、試したいことがある」

 

「何を?」

 

「私の記憶を、私の記録だけから探すのをやめる」

 

観測者は、わずかに眉を動かした。

 

「……どういう意味だ?」

 

「私の記録から、私の記憶が見つからない。なら、私以外の記録を調べる」

 

「君以外の記録に、君の記憶が残っているとは限らない」

 

「わかっている。だが、誰かと一緒に経験した出来事なら、その人物の記録にも何かが残っている可能性がある」

 

死神は、検索条件を変更した。

 

『対象――死神』

 

削除。

 

『対象――死神と接触した存在』

 

追加。

 

『対象――死神に関する記憶を持つ可能性のある存在』

 

追加。

 

『検索条件――手を握った記憶』

 

追加。

 

『検索条件――呼びかけ』

 

追加。

 

『検索条件――応答』

 

実行。

 

記録の海が揺れた。

 

無数の光が流れ、複雑な記録の連鎖が表示される。

 

そのほとんどは、無関係だった。

 

誰かが子供の手を握った記憶。

 

別れ際に友人の手を握った記憶。

 

戦いの最中、仲間を引き寄せた記憶。

 

助けを求める者に手を差し伸べた記憶。

 

死者の手を握り、最後の言葉を聞いた記憶。

 

どれも、死神の探しているものではなかった。

 

やがて、検索結果が減り始めた。

 

百。

 

十。

 

三。

 

一。

 

表示された記録は、真っ白だった。

 

文字がない。

 

映像がない。

 

音声もない。

 

ただ、記録の中央に、一つの手形のような痕跡が残っていた。

 

死神は、息を呑んだ。

 

「……これだ」

 

観測者が近づく。

 

「記録番号は?」

 

「ない」

 

「保存領域は?」

 

「特定できない」

 

「所有者は?」

 

「……私ではない」

 

死神は、慎重に手を伸ばした。

 

「触れるな」

 

観測者が言った。

 

「何?」

 

「所有者が不明な記録だ。君の記憶を再び欠落させる可能性がある」

 

「可能性だけだろう」

 

「それでも――」

 

「観測者」

 

死神は、振り返った。

 

「君は、私に真実を知るなと言いたいのか?」

 

「そうではない」

 

「なら、止めるな」

 

観測者は、言葉を失った。

 

死神は記録に触れた。

 

その瞬間。

 

世界が消えた。

 

暗闇。

 

何もない。

 

上も下もない。

 

時間さえ、存在しているのかわからない。

 

その中で、誰かが泣いていた。

 

小さな声だった。

 

聞き取れないほど、かすかな声。

 

けれど、死神にはわかった。

 

この声を知っている。

 

忘れていた。

 

それでも、知っている。

 

「……どうして?」

 

誰かが尋ねた。

 

幼い声だった。

 

「どうして、みんな、いなくなるの?」

 

返事はなかった。

 

「どうして、覚えていてくれないの?」

 

暗闇の向こうに、人影があった。

 

輪郭は曖昧で、顔は見えない。

 

その人物は、誰かの前に立っていた。

 

相手の顔もわからない。

 

ただ、ひどく小さな存在だった。

 

「ねえ」

 

その声が続く。

 

「私がいなくなったら、あなたは覚えていてくれる?」

 

死神の胸が、締めつけられた。

 

答えなければ。

 

そう思った。

 

だが、声が出ない。

 

身体が動かない。

 

自分が誰なのかもわからない。

 

ただ、その問いに答えなければならないと感じた。

 

「……覚えている」

 

声がした。

 

自分の声だった。

 

だが、それは今の自分の声とは少し違っていた。

 

もっと若い。

 

もっと疲れている。

 

そして、ひどく悲しそうだった。

 

「絶対に?」

 

「……ああ」

 

「忘れない?」

 

「忘れない」

 

「本当に?」

 

相手の声が震えた。

 

「本当に、覚えていてくれる?」

 

死神は、答えようとした。

 

だが、その瞬間。

 

暗闇の向こうに、無数の文字が浮かび上がった。

 

『記録保存――失敗』

 

『存在の固定――失敗』

 

『記憶の保持――失敗』

 

『対象の名前――欠落』

 

『対象の存在――不安定』

 

そして、最後に。

 

『保存を継続する場合、別の記録を使用する必要があります』

 

死神は、意味を理解した。

 

何かを残すためには、何かを使わなければならない。

 

誰かを記録に留めるためには、別の記録が必要になる。

 

誰かを忘れないためには、何かを犠牲にしなければならない。

 

そういう仕組みなのだと、暗闇が告げていた。

 

だが。

 

それは本当なのか。

 

本当に、ほかに方法はなかったのか。

 

それとも、この仕組みを作った何者かが、そう信じ込ませていただけなのか。

 

暗闇の中で、死神は叫んだ。

 

「待て!」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

「ほかに方法があるはずだ!」

 

文字が明滅する。

 

『代替手段――確認できません』

 

「探せ!」

 

『代替手段――確認できません』

 

「なら、私の記録を使え!」

 

暗闇が、止まった。

 

ほんの一瞬。

 

すべてが静止した。

 

そして、目の前に新しい文章が浮かび上がった。

 

『確認』

 

『対象の記録を代替資源として使用しますか?』

 

死神は、答えようとした。

 

その瞬間。

 

誰かが、自分の手を握った。

 

温かい手だった。

 

「……だめ」

 

聞き覚えのある声。

 

「あなたまで、いなくならないで」

 

死神は、目を見開いた。

 

「……君は」

 

顔が見えない。

 

名前もわからない。

 

それでも、手を握っている相手が、自分を失いたくないと思っていることだけは伝わってきた。

 

「あなたが忘れたら、私は……」

 

言葉が途切れた。

 

死神は、必死に手を握り返した。

 

「忘れない」

 

「……」

 

「私は、君を忘れない」

 

その言葉を口にした瞬間、世界が再び動き始めた。

 

文字が、光が、記録が、すべてが激しく揺れる。

 

そして。

 

『保存処理――中断』

 

『代替資源――未確定』

 

『対象の記録――一部欠落』

 

暗闇が砕けた。

 

死神は、現実へと引き戻された。

 

「死神!」

 

観測者の声が響いた。

 

死神は床に片膝をついていた。

 

呼吸が乱れている。

 

指先が震えている。

 

目の前の記録は、すでに消えていた。

 

観測者が駆け寄る。

 

「何を見た?」

 

死神は、すぐには答えられなかった。

 

頭の中に、断片が残っている。

 

誰かの手。

 

誰かの声。

 

自分の言葉。

 

そして、何かを差し出そうとした感覚。

 

「……私は」

 

死神は、顔を上げた。

 

「誰かを記録に残そうとしていた」

 

観測者は、息を止めた。

 

「記録に?」

 

「ああ。誰かが消えようとしていた。私は、それを止めようとした」

 

「それで?」

 

「……わからない」

 

死神は、手を見た。

 

「私が自分の記録を差し出したのか。それとも、差し出そうとしただけなのか。記録が欠落したのは、その結果なのか。それとも、まったく別の原因なのか」

 

「記憶の内容を、もう少し詳しく話せるか?」

 

「断片しか残っていない」

 

死神は、目を閉じた。

 

「誰かが、私に忘れないでほしいと言った」

 

「誰か、とは?」

 

「わからない」

 

「顔は?」

 

「見えなかった」

 

「名前は?」

 

「……なかった」

 

観測者は、何も言わなかった。

 

死神は、苦しそうに笑った。

 

「私は、約束したんだ」

 

「何を?」

 

「忘れないと」

 

その言葉が、空間に落ちた。

 

死神は、自分の手を握りしめた。

 

「……なのに、私は忘れている」

 

観測者は、死神の肩に手を置こうとして、やめた。

 

慰める言葉が見つからなかったのだろう。

 

あるいは、慰めることそのものが、今の死神には失礼だと考えたのかもしれない。

 

死神は、しばらく俯いていた。

 

やがて、顔を上げた。

 

「観測者」

 

「何だ?」

 

「一つ、わかったことがある」

 

「何だ?」

 

「私は、記憶を失ったことそのものを恐れているんじゃない」

 

死神は、自分の胸に手を当てた。

 

「私が忘れたことで、誰かが一人きりになっているかもしれない。それが、怖いんだ」

 

観測者は、目を伏せた。

 

その言葉に、反論できなかった。

 

記憶が失われること。

 

名前が失われること。

 

存在が記録されなくなること。

 

それらは、本人の問題だけではない。

 

誰かを覚えていることは、その人の人生の一部を、自分の中に残すことでもある。

 

もし、その記憶が消えたなら。

 

残された者は、もう一度、失うことになる。

 

死神は立ち上がった。

 

足元はまだ不安定だったが、倒れはしなかった。

 

「……もう一度、探す」

 

観測者が顔を上げる。

 

「今すぐか?」

 

「ああ」

 

「また記録が欠落するかもしれない」

 

「それでもだ」

 

死神は、記録の海を見つめた。

 

「ただし、今度は私の記憶だけを探すんじゃない。あの人物が残した記録も探す」

 

「名前がわからないのに、どうやって?」

 

「わからない。だが、探す方法を考える」

 

死神は、静かに続けた。

 

「私が忘れてしまったのなら、今度は私が、相手を探す番だ」

 

その言葉を、観測者は止めなかった。

 

止める理由を、もう見つけられなかった。

 

第七節 世界が隠した願い

その夜、安寧システムは一つの異常を検知した。

 

異常の発生源は、死者の記録領域ではなかった。

 

生者の記録領域でもない。

 

ましてや、世界の外側にあると推測されていた分類不能領域でもなかった。

 

異常は、世界の記録を管理する仕組みそのものから発生していた。

 

『警告』

 

『未登録の願いを検出』

 

『願いの所有者――特定不能』

 

『願いの発生時刻――特定不能』

 

『願いの対象――特定不能』

 

『願いの内容――特定不能』

 

システムは解析を開始した。

 

願いとは、通常、何者かが何かを望むことで成立する。

 

願う者がいる。

 

望まれる対象がある。

 

そして、願いが発生したという事実がある。

 

だが、今回の異常には、そのいずれもが欠けていた。

 

誰が願ったのか。

 

何を願ったのか。

 

その願いは、いつ生まれたのか。

 

何一つ、特定できない。

 

それでも、願いそのものは存在していた。

 

システムは、矛盾を解消するため、最も古い記録から検索を開始した。

 

世界の成立。

 

存在の定義。

 

因果関係の確立。

 

記憶の保存。

 

名前の付与。

 

死と生の分類。

 

あらゆる記録を照合する。

 

そして、一つの記録に辿り着いた。

 

『世界成立以前の未分類領域』

 

その記録を開こうとした瞬間、システムの処理が停止した。

 

『アクセス拒否』

 

再試行。

 

『アクセス拒否』

 

権限の確認。

 

『権限保有者――存在しません』

 

権限の再定義。

 

『再定義に失敗しました』

 

システムは、処理を切り替えた。

 

世界の成立以前に存在した記録ではなく、世界の成立後に記録された情報から、異常の原因を特定する。

 

その結果、第一接続者に関する記録が抽出された。

 

『第一接続者の願いは、世界の成立条件に含まれています』

 

システムは、その記録を解析した。

 

そして、矛盾を検出した。

 

願いが世界の成立条件に含まれているのであれば、その願いは世界の一部として認められているはずだった。

 

しかし、別の記録にはこうある。

 

『第一接続者の願いは、世界の成立条件によって拒絶されました』

 

願いは、世界の成立条件に含まれている。

 

同時に、世界の成立条件によって拒絶されている。

 

二つの記録は両立しない。

 

システムは、どちらか一方を削除することで矛盾を解消しようとした。

 

最初に、拒絶の記録を削除する。

 

失敗。

 

次に、願いが成立条件に含まれているという記録を削除する。

 

失敗。

 

二つの記録を同時に削除する。

 

失敗。

 

記録の整合性を維持したまま、両者を別々の分類に移動する。

 

失敗。

 

システムは、処理を続けた。

 

一秒。

 

十秒。

 

一分。

 

そして、通常の処理時間を大幅に超過したとき。

 

新しい記録が出現した。

 

『この願いは、世界によって叶えられました』

 

システムは、処理を停止した。

 

新しい記録を解析する。

 

願いの所有者は不明。

 

願いの内容は不明。

 

叶えられた時刻は不明。

 

叶えた者も不明。

 

ただ、願いが叶えられたという結果だけが存在している。

 

システムは、その結果を確定しようとした。

 

しかし、最後の処理段階で、再び異常が発生した。

 

『願いの実現を確認できません』

 

『願いの実現を確認しました』

 

『願いの実現を確認できません』

 

『願いの実現を確認しました』

 

矛盾が繰り返される。

 

システムは、初めて自らの処理を疑った。

 

もし、願いが叶えられたという記録が正しいなら。

 

なぜ、その結果を確認できないのか。

 

もし、願いが叶えられていないという記録が正しいなら。

 

なぜ、叶えられたという結果が残っているのか。

 

そして。

 

もし、願いを叶えるという行為そのものが、世界の記録によって定義されているのなら。

 

世界が願いを叶えたのか。それとも、願いを叶えたことにするために、世界が成立したのか。

 

システムは、その問いを記録した。

 

直後。

 

問いそのものが、削除された。

 

第八節 死神が恐れた答え

「……今、何かが動いた」

 

死神は、顔を上げた。

 

観測者も気づいていたらしい。

 

二人の前に広がる記録の海が、ゆっくりと波打っていた。

 

これまでの異常とは違う。

 

記録が壊れたわけではない。

 

記録が失われたわけでもない。

 

何かが、記録の奥からこちらを見ている。

 

そんな感覚だった。

 

「観測者。これは、君にも見えているか?」

 

「ああ」

 

「原因は?」

 

「わからない」

 

「……そうか」

 

死神は、もう苛立たなかった。

 

わからないことは、わからない。

 

それだけのことだ。

 

だが、わからないからこそ、見過ごしてはならないものがある。

 

目の前の異常も、その一つだった。

 

「検索する」

 

死神は、記録領域に命じた。

 

「対象――第一接続者。条件――願いが叶えられた記録と、叶えられなかった記録の両方を持つ存在」

 

応答なし。

 

「対象を変更。第一接続者の願いに関与した存在」

 

応答なし。

 

「さらに変更。第一接続者の願いを聞いた存在」

 

沈黙。

 

死神は、最後の条件を追加した。

 

「第一接続者の願いに応答した存在」

 

その瞬間。

 

記録領域の奥で、一つの光が灯った。

 

死神は、目を見開いた。

 

「……見つかった?」

 

光が、ゆっくりと近づいてくる。

 

だが、それは記録ではなかった。

 

記録の形をしていない。

 

名前もない。

 

時間もない。

 

ただ、そこに何かがあるという感覚だけが伝わってくる。

 

死神は、慎重に手を伸ばした。

 

光が、震えた。

 

そして。

 

声がした。

 

『あなたは、まだ覚えていますか?』

 

死神の心臓が、強く跳ねた。

 

その声。

 

記録の外側で聞いた声と、同じだった。

 

いや、同じなのかどうかさえ、確信できない。

 

似ているだけかもしれない。

 

同じ言葉を使っているだけかもしれない。

 

だが、死神は、その問いに答えなければならないと感じた。

 

「……何を?」

 

声は、しばらく沈黙した。

 

『私のことを』

 

死神は、目を閉じた。

 

忘れている。

 

誰なのか、わからない。

 

どんな顔をしていたのか、わからない。

 

何をしたのか、わからない。

 

それでも、答えなければならない。

 

「……覚えていない」

 

声は、何も言わなかった。

 

死神は続けた。

 

「だが、忘れていることはわかっている」

 

光が揺れた。

 

「私は、君のことを知りたい。君が何者なのか。私が君に何をしたのか。君が何を願ったのか。そして、私がその願いに応えたのかどうか」

 

死神は、一度だけ息を吸った。

 

「もし私が君を傷つけたのなら、そのことも知りたい」

 

沈黙。

 

「もし君を救ったつもりで、君の意思を無視したのなら、そのことも知りたい」

 

光が、わずかに強くなった。

 

「私は、君の願いを勝手に決めたくない。君が何を望んでいたのか、君自身の言葉で聞きたい」

 

その瞬間。

 

光の向こうに、何かが浮かび上がった。

 

小さな人影。

 

顔は見えない。

 

名前もわからない。

 

けれど、その人物は、確かにこちらを見ていた。

 

『……それなら』

 

声がした。

 

『どうして、あのとき――』

 

その先が聞こえなかった。

 

記録領域全体が激しく揺れた。

 

光が弾ける。

 

人影が消える。

 

死神は、反射的に手を伸ばした。

 

「待て!」

 

指先が、何かに触れた。

 

温かい。

 

確かに、温かかった。

 

そして、その感触と同時に、一つの言葉が死神の脳裏に浮かんだ。

 

『あなたは、私を忘れたのではありません』

 

死神は息を呑んだ。

 

『あなたは――』

 

記録が途切れた。

 

何もかもが、静かになった。

 

死神は、しばらく手を伸ばしたまま動かなかった。

 

観測者が、そっと声をかける。

 

「……死神」

 

死神は、ゆっくりと手を下ろした。

 

「今の声は……」

 

「聞こえていた」

 

「君にも?」

 

「ああ」

 

「なら、記録しているか?」

 

観測者は、端末を確認した。

 

「……記録されていない」

 

死神は、目を閉じた。

 

やはり、そうなのか。

 

この声は、通常の記録領域には残らない。

 

誰かが意図的に消しているのか。

 

そもそも記録という仕組みでは扱えないのか。

 

それとも、記録されないこと自体が、その存在の条件なのか。

 

まだわからない。

 

ただ、死神は一つだけ、確信に近いものを抱いていた。

 

あの声は、自分に問いかけていた。

 

自分が忘れてしまった何かについて。

 

そして、あの声の主は、自分が忘れていることを知っていた。

 

「……観測者」

 

「何だ?」

 

「私は、あの人物に何かを約束したのかもしれない」

 

観測者は、静かに頷いた。

 

「そうかもしれない」

 

「そして、その約束を守れなかったのかもしれない」

 

「……そうかもしれない」

 

死神は、笑った。

 

今度の笑みは、苦いものだった。

 

「もしそうなら、私はそのことを知りたい」

 

「わかっている」

 

「そして、もし本当に約束を守れなかったのなら……」

 

死神は、手を握りしめた。

 

「今度こそ、逃げたくない」

 

観測者は、何も言わなかった。

 

その代わりに、死神の隣に立った。

 

二人は、しばらく記録の海を見つめていた。

 

やがて、その海の奥から、一つの記録が浮かび上がった。

 

今度は、削除されなかった。

 

『第一接続者の願い』

 

その下に、短い文章が表示される。

 

『私は、誰かに覚えていてほしかった』

 

死神は、息を止めた。

 

記録が続く。

 

『けれど、私を覚えている者がいる限り、その者は――』

 

そこで、文章が途切れた。

 

死神は、記録を見つめた。

 

「……その者は、どうなる?」

 

返答はなかった。

 

記録は、そこで終わっていた。

 

だが、その途切れた一文の下に、もう一つの記録が浮かび上がった。

 

『第一接続者の願いを受理した者――』

 

死神の身体が、硬直した。

 

文字が、一つずつ現れていく。

 

『受理者の記録――』

 

『受理者の名前――』

 

『受理者の正体――』

 

すべてが、同じ言葉で終わっていた。

 

『死神』

 

第九節 罪を忘れた者、願いを隠した世界

「……私、なのか」

 

死神の声は、ひどく小さかった。

 

記録に表示された名前は、間違いなく自分を指している。

 

だが、それだけでは、何も確定しない。

 

同じ呼び名を持つ別の存在かもしれない。

 

記録が誤っている可能性もある。

 

そもそも、「死神」という名前が個人を示しているのか、それとも役割を示しているのかさえ、まだ確かめられていない。

 

死神は、記録に触れようとした。

 

観測者が、その手を止めた。

 

「待て」

 

「なぜだ?」

 

「記録が、今までとは違う」

 

死神は、観測者の指先を見た。

 

観測者は、記録に直接触れていない。

 

それでも、その手は震えていた。

 

「……何を恐れている?」

 

観測者は答えなかった。

 

「この記録が正しいことか?」

 

沈黙。

 

「それとも、この記録が間違っていることか?」

 

観測者の顔が強張った。

 

死神は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「どちらでも、君は困るんだな」

 

「……私は」

 

「私が第一接続者の願いを受理したのなら、君が知っていることにも説明がつく。だが、私が受理していないのなら、君が知っていることの意味が変わる」

 

観測者は、目を閉じた。

 

「そうだ」

 

「なら、教えてくれ」

 

「何を?」

 

「私が何を受理したのか」

 

観測者は、しばらく沈黙していた。

 

そして、ようやく口を開いた。

 

「……私は、その記録を見たことがある」

 

死神の表情が変わった。

 

「いつ?」

 

「正確な時刻は、記録されていない」

 

「どこで?」

 

「世界の記録が、現在の形になる以前だ」

 

死神は、息を呑んだ。

 

「世界の成立以前……?」

 

「少なくとも、今の世界の分類が確立される前だ」

 

「そこで、私が第一接続者の願いを受理した記録を見たのか?」

 

観測者は、頷いた。

 

「だが、記録には続きがあった」

 

「何だ?」

 

観測者は、死神を見つめた。

 

「願いを受理した者は、その願いを叶えるために、自分自身の記録を差し出した」

 

死神は、言葉を失った。

 

観測者は、続けた。

 

「だが、その記録が何を意味していたのかはわからない。記憶を差し出したのか。名前を差し出したのか。存在の一部を差し出したのか。それとも、何か別のものだったのか」

 

「……私が、自分の記録を差し出した?」

 

「ああ」

 

「それで、願いは叶ったのか?」

 

観測者は、首を横に振った。

 

「わからない」

 

死神は、苦笑した。

 

「そうか。結局、そこに戻るのか」

 

「だが、もう一つ記録がある」

 

観測者の声が変わった。

 

死神は顔を上げた。

 

「何だ?」

 

「第一接続者の願いを受理した者は、願いを叶えた者と同一であるとは限らない」

 

「……どういうことだ?」

 

「願いを受理したことと、願いを叶えたことは違う。願いを叶えようとしたことと、願いが実現したことも違う。君が願いを受理したのだとしても、君がその願いを叶えたとは限らない」

 

死神は、しばらく何も言わなかった。

 

確かに、そのとおりだった。

 

誰かの願いを聞くこと。

 

その願いを叶えようとすること。

 

実際に叶えること。

 

そして、願いが叶った結果に責任を持つこと。

 

それらは、すべて異なる。

 

自分が何をしたのか。

 

自分が何をしようとしたのか。

 

自分の行為が、何を引き起こしたのか。

 

その区別を曖昧にすれば、真実を見失う。

 

「……私は、何をしたんだろうな」

 

死神は呟いた。

 

観測者は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

そのとき、記録領域のすべての光が、同時に明滅した。

 

二人は顔を上げた。

 

新しい記録が、次々と浮かび上がってくる。

 

『死神の記録――更新』

 

『第一接続者の記録――更新』

 

『願いの受理者――特定済み』

 

『願いの実行者――特定不能』

 

『願いの結果――矛盾』

 

『世界の成立条件――再照合』

 

そして、最後の一文。

 

『第一接続者の願いは、現在も世界の内部に存在しています』

 

死神は、その文字を見つめた。

 

「……現在も?」

 

願いが、まだ存在している。

 

叶えられたのかもしれない。

 

叶えられていないのかもしれない。

 

誰かが叶えようとしているのかもしれない。

 

あるいは、世界そのものが、その願いを抱えたまま成立しているのかもしれない。

 

その答えは、まだ出ていない。

 

だが、死神は一つの可能性を考えずにはいられなかった。

 

もし、第一接続者が「誰かに覚えていてほしい」と願ったのなら。

 

その願いが世界の内部に残り続けているのなら。

 

この世界は、誰かが忘れられないために存在しているのだろうか。

 

そして、もしそうなら。

 

世界がその願いを叶えるために、誰かの記憶を必要としているのなら。

 

世界の記録から死者が拒まれているのは、なぜなのか。

 

生きている者まで消えかけているのは、なぜなのか。

 

名前を持たない少女が、自分の過去を知ろうとしているのは、なぜなのか。

 

そして。

 

死神は、なぜ自分自身の記憶を失っているのか。

 

死神は、記録に向かって手を伸ばした。

 

今度は、触れなかった。

 

ただ、そこに表示された文字を見つめた。

 

「……私は、君を忘れたくなかったのか」

 

返事はない。

 

「それとも、君に忘れられたくなかったのか」

 

沈黙。

 

「あるいは、君を覚えていることが、誰かを傷つけることだったのか」

 

記録の光が、静かに揺れた。

 

死神は、目を閉じた。

 

どれも、あり得る。

 

そして、どれも、まだ確かめられていない。

 

自分に都合のいい答えを選ぶことはできる。

 

誰かを救うためだったのだと。

 

誰かを守るためだったのだと。

 

仕方がなかったのだと。

 

だが、それを決めるのは、真実を知る前ではない。

 

そして、仮に自分の行為が誰かを救ったのだとしても、そのために傷つけられた者がいたのなら、その事実まで消えるわけではない。

 

死神は、ゆっくりと目を開けた。

 

「……探そう」

 

観測者が、隣に立つ。

 

「誰を?」

 

「第一接続者を」

 

死神は、記録の海を見つめた。

 

「願いを受理した者としてではなく。願いを叶えた者としてでもなく。私が何者だったのかを証明するためでもなく」

 

一度、言葉を切る。

 

「ただ、あの声の主が何を望んでいたのかを知るために」

 

観測者は、静かに頷いた。

 

「それでいいのか?」

 

「まだ、わからない」

 

死神は答えた。

 

「だが、少なくとも、私はその問いから逃げない」

 

二人は、記録の海を歩き始めた。

 

その背後で、誰にも気づかれないまま、一つの記録が開いた。

 

そこには、世界の成立以前の文章が残されていた。

 

『願いを叶える者は、願いを理解しなければならない』

 

次の行。

 

『願いを理解する者は、願った者を知らなければならない』

 

そして、その下。

 

『願った者を知るためには――』

 

文章が途切れている。

 

記録は、それ以上を表示しなかった。

 

だが、途切れた文字列の奥から、かすかな声が響いた。

 

『……私を、覚えていて』

 

その声を聞いた者は、誰もいなかった。

 

いや。

 

誰かが聞いたのかもしれない。

 

ただ、その誰かが誰なのか。

 

そして、聞いたあとに何を選んだのか。

 

それだけが、世界の記録から隠されていた。

 

第九節の終わりに

死神は、まだ自分の罪を知らない。

 

第一接続者が誰なのかも、知らない。

 

世界がどんな願いによって成立したのかも、知らない。

 

けれど、これまでとは一つだけ違うことがあった。

 

自分が何かを忘れたという事実を、ただの欠落として扱わなくなったことだ。

 

忘れたことには、理由があるかもしれない。

 

忘れさせられたのかもしれない。

 

忘れることを選んだのかもしれない。

 

誰かを守るためだったのかもしれない。

 

あるいは、自分自身が真実に耐えられなかったのかもしれない。

 

どの可能性も、まだ否定できない。

 

だからこそ、死神は答えを急がない。

 

真実を知ることは、自分を正当化するためではない。

 

自分が正しかったと証明するためでもない。

 

自分が間違っていた可能性を含めて、過去と向き合うためだ。

 

そして、世界が隠している願いもまた、単純な救済の物語ではないのかもしれない。

 

誰かに覚えていてほしい。

 

誰かを忘れたくない。

 

誰かを失いたくない。

 

その願いが、どれほど切実であっても。

 

誰かの願いを叶えるために、別の誰かの意思を奪っていい理由にはならない。

 

死神は、まだそのことを完全には理解していない。

 

世界もまた、理解していないのかもしれない。

 

だからこそ、第一接続者の願いは、今も未完了なのだろうか。

 

それとも。

 

願いを叶えた結果、誰かが何かを失ったために、世界そのものがその事実を隠しているのだろうか。

 

答えは、次の記録の中にある。

 

だが、その記録を開けば、死神は再び何かを失うかもしれない。

 

そして今度は、失われるものが記憶だけとは限らなかった。

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