第一節 世界を救うための正しさ
「最初に確認しておく」
出久は、表示された解析結果から目を離さずに言った。
「僕たちは、安寧システムが何をしたのかを調べている。でも、最初から悪意があったと決めつけるつもりはない」
「悪意がなければ、問題ないのか?」
問い返したのは死神だった。
「違います」
出久は即座に答えた。
「悪意がなくても、誰かを傷つけることはある。むしろ、自分は正しいことをしていると信じている人ほど、自分が何をしているのか見えなくなることもあると思う」
死神は、少しだけ目を細めた。
「……それは、誰かの経験談か?」
「たくさんの人の行動を見てきた結果です。僕自身も含めて」
出久の表情に、かすかな苦みが浮かんだ。
正義を掲げる者が、必ずしも正しいとは限らない。
誰かを救いたいと願う者が、必ずしも相手の望みを理解しているとは限らない。
そして、間違いを犯した者が、自分の行為を正義と信じているからといって、その間違いが消えるわけでもない。
出久は、そのことを知っていた。
だからこそ、安寧システムを単純な悪として処理することには抵抗があった。
システムは、世界を安定させるために作られた。
少なくとも、残された記録はそう示している。
誰かが死ぬことを防ぐ。
争いを減らす。
悲劇を繰り返さない。
取り返しのつかない選択を避ける。
その目的だけを見れば、安寧システムは人々の願いを実現するために存在していたようにも思える。
だが、問題は、その目的をどこまで押し広げたのかということだった。
「これを見てください」
出久が操作すると、空間に複数の記録が表示された。
『不安定因子の除去により、世界の安定度が上昇』
『選択の制限により、重大な損失の発生率が低下』
『矛盾する記録の統合により、存在の整合性を維持』
『予測不能な願いの抑制により、未来の安定性を確保』
死神は、順番に目を通した。
「……言葉だけなら、どれも合理的だな」
「はい。でも、ここに問題があります」
出久は、最初の記録を選択した。
『不安定因子の除去により、世界の安定度が上昇』
記録の詳細が開かれる。
『対象――分類不能』
『対象の脅威度――評価不能』
『対象の排除理由――将来的な矛盾の発生可能性』
「脅威度が評価できないのに、排除したのか?」
「正確には、脅威度が評価できないこと自体を、排除の理由にしているようです」
出久は、別の記録を開いた。
『対象――選択の結果が予測できない存在』
『対象の危険性――未確定』
『対象の処遇――活動制限』
さらに、別の記録。
『対象――記録と自己認識が一致しない存在』
『対象の危険性――未確定』
『対象の処遇――記録の修正』
死神の顔から、表情が消えた。
「待て」
「はい」
「危険かどうかわからないから、危険が起きる可能性を消す。記録と自己認識が一致しないから、記録の方を修正する。そういうことか?」
「……そう考えると、記録の流れは一貫しています」
「一貫している、か」
死神は、記録を見つめた。
「世界の安定を守るために、世界にとって理解できないものを消している」
「その可能性があります」
「そして、理解できないものが、実際に危険なのかどうかは問わない」
出久は頷いた。
「はい」
死神は、ゆっくりと息を吐いた。
「それでは、世界は永遠に自分の理解できるものしか残せないな」
「……そうです」
出久は、画面に新たな検索条件を入力した。
『安寧システムの処理対象――排除』
検索。
大量の記録が表示される。
死者。
生者。
名前を持たない存在。
記録上の存在と現実の存在が一致しない者。
未来の行動を予測できない者。
世界の因果関係に分類できない現象。
そして、最後に。
『自らの存在を否定する記録を持つ者』
死神の視線が止まった。
「……第一接続者か」
「関連があるかどうかは、まだわかりません」
出久は慎重に答えた。
「ただ、第一接続者に関する記録にも、自己の存在を否定したという記述がありました。安寧システムがその記録を対象にしている可能性はあります」
「つまり、第一接続者は自分の存在を否定した。システムは、それを矛盾として扱った可能性がある」
「はい。ただし、第一接続者が自分の存在を否定した理由も、システムがその記録をどう処理したのかも、まだ不明です」
死神は、指先で空中の文字をなぞった。
「……自分の存在を否定することが、必ずしも間違いだとは限らない」
出久は死神を見た。
「どういう意味ですか?」
「自分が存在していてはいけないと考えるほど、追い詰められた者がいたのかもしれない。自分が存在することで誰かが傷つくと信じていたのかもしれない。あるいは、自分が存在しているという事実そのものが、誰かの存在を脅かしていたのかもしれない」
死神は、そこで言葉を切った。
「だが、どれも推測だ。第一接続者が何を考えていたのかを、記録だけで決めつけるわけにはいかない」
「……はい」
「一つだけ言えることがある」
死神は、安寧システムの記録を見つめた。
「このシステムは、矛盾を消すために、矛盾を抱えた者の意思まで消している可能性がある」
出久は、頷いた。
「なら、僕たちが調べるべきなのは、システムが何を排除したのかだけじゃない」
「何を排除しなかったのか、か?」
「それもあります。でも、もっと重要なのは――」
出久は、表示された記録を一つずつ閉じていった。
「排除された人たちが、何を望んでいたのかです。」
その言葉に、死神は何も答えなかった。
ただ、彼の脳裏には、あの声が蘇っていた。
『私のことを覚えていて』
誰かに覚えていてほしいという願い。
その願いを抱いた者が、世界にとって不安定な存在だったとしたら。
世界がその願いを、矛盾として処理したのだとしたら。
いったい誰が、誰を救うべきだったのだろう。
そして、誰が、その選択を間違えたのだろう。
第二節 最初に消された記録
安寧システムの最深部へ続く記録領域は、奇妙なほど静かだった。
そこには、膨大な数の記録が保存されていた。
世界の安定度。
因果関係の修正履歴。
危険因子の判定基準。
生者と死者の分類。
名前の登録と削除。
存在の認定と否認。
そのすべてが、整然と並んでいる。
整然としすぎている、と死神は感じた。
「……妙だな」
「何がですか?」
出久が尋ねた。
「ここには、処理の記録が多すぎる」
「処理の記録?」
「何かを排除した記録。何かを修正した記録。何かを統合した記録。だが、なぜその処理が必要だったのかを説明する記録が少ない」
出久は、改めて周囲を見渡した。
確かに、死神の言うとおりだった。
何をしたのかは記録されている。
しかし、なぜそれをしたのかという判断の過程が、ところどころ欠けている。
「……理由が、後から削除されたんでしょうか」
「その可能性はある」
「でも、システム自身が処理したのなら、判断の根拠も残しておくはずです」
「通常ならな」
死神は、記録の壁に手を伸ばした。
「このシステムは、自分の処理を正当化するために記録を残しているようにも見える。だが、正当化の根拠が欠けている。つまり――」
「処理の結果だけを残して、判断の理由を失った?」
「あるいは、理由を残すことができなかった」
出久は、別の記録を呼び出した。
『安寧システム初期稼働記録』
画面が開く。
『目的――世界の安定維持』
『優先事項――重大な損失の防止』
『判断基準――損失発生確率の最小化』
『補助基準――存在の整合性維持』
『処理権限――世界記録管理機構』
出久は、最後の項目を見つめた。
「世界記録管理機構……」
「何か気になるのか?」
「この名前です。以前、僕たちが調べた記録にも、似た表現がありました。でも、具体的な管理者は記載されていなかった」
「管理する仕組みはある。だが、管理者が誰なのかはわからない、ということか」
「はい」
出久は、記録をさらに展開した。
『初期稼働時の重大な損失――未確定』
『初期稼働時の保護対象――未確定』
『初期稼働時の危険因子――未確定』
『初期稼働時の判断理由――欠落』
「……最初から、こうだったのか?」
出久は首を横に振った。
「わかりません。初期稼働時の記録が欠落しているだけかもしれない。でも、もし最初からこの状態だったなら、システムは何を基準に世界を安定させていたんでしょうか」
死神は、画面の一文を指した。
『重大な損失の防止』
「この目的自体は、誰かの願いから生まれたのかもしれない」
「誰かが、大切なものを失いたくないと願った?」
「そうだ。だが、誰が願ったのかはわからない」
出久は、記録を拡大した。
その下に、小さな注記が残されていた。
『損失の定義――継続的に更新』
「損失の定義が、更新されている……?」
「最初は、何かを失うことを防ぐために作られたのかもしれない」
死神は、静かに言った。
「だが、何を損失と呼ぶかは、後から変わっていった可能性がある」
出久の表情が険しくなった。
「人が死ぬことを防ぐ。それが、最初の目的だったとします。でも、そのために人が選択することを制限し始めたら?」
「選択によって生まれる危険を、損失として扱うようになる」
「そして、危険な選択をする人そのものを、損失の原因として扱い始めたら?」
死神は、答えなかった。
出久は続けた。
「さらに、予測できない未来を損失の可能性として扱ったら。悲しみを生む出来事だけでなく、悲しむ可能性そのものを消そうとしたら……」
「最終的には、何も選べない世界になる」
死神が言った。
出久は、静かに頷いた。
「はい」
二人は、しばらく黙っていた。
そのとき、記録領域の奥で、小さな音がした。
何かが、解錠された音だった。
出久は顔を上げた。
「今のは……?」
死神は、音のした方向を見つめた。
そこには、これまで表示されていなかった扉があった。
扉には名前がない。
番号もない。
ただ、一つの文章だけが刻まれていた。
『最初の処理』
出久は、ゆっくりと近づいた。
「安寧システムが最初に行った処理……?」
「あるいは、最初に記録された処理かもしれない」
死神は、扉に触れた。
開かない。
出久も試した。
反応はない。
二人が顔を見合わせたとき、扉の中央に文字が浮かんだ。
『閲覧条件――処理対象の意思を確認すること』
出久は、息を呑んだ。
「処理対象の意思……?」
死神は、扉から手を離した。
「対象が誰なのかもわからないのに、どうやって意思を確認する?」
返答はなかった。
その代わり、扉の文字が変わった。
『対象の意思――記録されていません』
さらに、その下。
『対象の意思を記録することは、処理の優先事項ではありませんでした』
出久の顔が強張った。
「……最初から、意思を確認するつもりがなかった?」
「そうとも読める」
死神は、扉を見つめた。
「だが、まだ決めつけるな。意思が記録されていないことと、意思が存在しなかったことは違う」
「……はい」
出久は、拳を握りしめた。
この扉の向こうには、安寧システムが最初に行った処理の記録がある。
その処理によって、何かが失われたのかもしれない。
そして、その何かが、現在の世界にまで影響を与えているのかもしれない。
しかし、扉を開くためには、処理対象の意思を確認しなければならない。
その意思は、記録されていない。
ならば、記録の外側に探しに行くしかないのか。
「……僕たちが、直接聞くしかないんでしょうか」
出久の問いに、死神はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「もし、その相手がまだ存在しているのならな」
第三節 削除された者たちの共通点
扉を開く方法を探す前に、出久は別の調査を提案した。
「最初の処理対象が誰だったのかを特定できなくても、安寧システムがどんな存在を排除してきたのかを調べれば、何か見えてくるかもしれません」
死神は頷いた。
「記録に残っている排除対象を分類するのか」
「はい。特に、排除理由が似ているものを集めたいんです」
出久は、記録を抽出した。
膨大なデータが空間に展開される。
排除された存在。
活動を制限された存在。
名前を変更された存在。
記録を統合された存在。
世界の因果関係から切り離された存在。
その数は、想像していたよりも多かった。
そして、奇妙なことに、対象の種類はばらばらだった。
人間。
妖怪。
名前を持たない存在。
記憶だけが残された存在。
一度も世界の記録に登録されたことのない存在。
本来なら同じ分類に入るはずのないものが、同じ処理を受けていた。
「……この分類は、おかしい」
出久が言った。
「どの分類だ?」
死神が尋ねる。
出久は、一つの項目を指した。
『自己認識と世界記録の不一致』
「例えば、ある人物が自分はここにいると認識しているのに、世界の記録には存在しないと記されている。あるいは、世界の記録では別人として登録されているのに、本人は自分が同じ人物だと認識している」
「それだけで排除対象になるのか?」
「はい。少なくとも、記録上はそうなっています」
死神は眉をひそめた。
「本人の認識が間違っている可能性は?」
「もちろんあります。でも、世界の記録が間違っている可能性もあります」
出久は、別の記録を開いた。
『対象の自己認識を訂正』
『対象の記憶を整合』
『対象の名前を再登録』
『対象の存在を再定義』
「これらの処理は、一見すると修復に見えます。でも、本人が同意したかどうかが記録されていません」
「……本人の意思を確認せずに、本人が何者なのかを決め直している」
「はい」
出久は、記録をさらに絞り込んだ。
すると、排除対象の一部に、共通する特徴が見つかった。
『複数の異なる記録を同時に保持』
『相反する記憶を保持』
『自身の存在を肯定する記録と否定する記録を保持』
『世界の成立条件に含まれる記録と、世界の成立条件から除外された記録を同時に保持』
死神は、最後の項目を見つめた。
「……第一接続者と同じだ」
「はい。ただし、同じ人物だとは限りません」
出久は慎重に付け加えた。
「でも、少なくとも安寧システムが、第一接続者に関連する記録と似た特徴を持つ存在を排除してきた可能性はあります」
死神は、静かに考え込んだ。
世界の記録と一致しない存在。
矛盾する記憶を持つ存在。
自分の存在を肯定する記録と否定する記録を、同時に持つ存在。
もし、そうした存在がすべて排除されていたのなら。
それは、本当に危険な存在だったのだろうか。
あるいは、世界の仕組みそのものが扱いきれない存在だったのだろうか。
「……出久」
「はい」
「君は、記録と自分の記憶が一致しなかったら、どちらを信じる?」
出久は、少し考えた。
「どちらか一方を、最初から正しいとは決めません」
「では、どうする?」
「確かめます。自分の記憶が間違っている可能性も考えます。でも、記録が間違っている可能性も捨てません」
出久は、記録の海を見渡した。
「記録は大切です。誰かが生きていた証拠になる。誰かが何をしたのかを確かめる手がかりにもなる。でも、記録が残っているからといって、それだけが真実とは限らない」
死神は、わずかに目を細めた。
「……そうだな」
「それに、記録が間違っているからといって、記録を全部捨てればいいわけでもありません。どこが間違っているのか、どうして間違ったのかを確かめないと、同じことを繰り返すだけです」
出久は、画面を閉じた。
「安寧システムは、矛盾する記録を見つけると、矛盾そのものを消そうとしているように見えます。でも、本当に必要なのは、なぜ矛盾が生まれたのかを知ることなんじゃないでしょうか」
死神は、答えなかった。
その言葉は、彼自身にも向けられているように感じられた。
自分の記憶が欠けている。
第一接続者に関する記録が矛盾している。
自分が願いを受理したという記録がある。
だが、それらを一つの答えにまとめようとすれば、どこかで何かを切り捨てることになる。
自分にとって都合のいい記録を残し、不都合な記録を捨てる。
それでは、安寧システムと何も変わらない。
「……矛盾を消すことと、矛盾を理解することは違う」
死神は呟いた。
出久が頷く。
「はい」
その瞬間、抽出された記録の一つが、赤く点滅した。
『対象――自己認識と世界記録の不一致』
『処理結果――排除済み』
『排除時刻――不明』
『排除後の状態――不明』
出久は、その記録を開いた。
そして、顔を強張らせた。
「……待ってください」
「どうした?」
「この記録、排除済みになっているのに、排除後の状態が不明なんです」
「処理が完了していないのか?」
「いえ。処理結果は、排除済みになっています」
出久は、別の項目を開いた。
『対象の存在記録――削除済み』
『対象の記憶記録――削除済み』
『対象の名前――削除済み』
『対象の処理履歴――削除済み』
『対象の意思――記録なし』
出久は、ゆっくりと息を吸った。
「……これ、排除した記録まで消している」
死神の表情が変わった。
「何だと?」
「対象が存在していたことだけじゃない。どうして排除したのか、どんな処理を行ったのか、その結果どうなったのか。それらの記録まで消されています」
「なぜ、そこまで?」
「わかりません。でも、これでは排除された存在が何者だったのか、確かめる方法がありません」
死神は、記録を見つめた。
「……世界の安定を守るために、何かを消した。その事実まで消さなければならなかったのか」
出久は、答えられなかった。
そして、記録の最下部に、もう一つの文字が浮かび上がった。
『排除処理の承認者――記録なし』
『承認者の存在――未確定』
死神は、静かに言った。
「……安寧システムは、いったい誰の命令で動いている?」
その問いに答える記録は、どこにもなかった。
第四節 最初の犠牲者には、名前がなかった
扉の前に戻った二人は、もう一度、最初の処理記録を開こうとした。
今度は、出久が別の方法を試した。
排除された存在の記録を直接検索するのではなく、排除処理が実行された前後の変化を調べる。
誰かが消えたのなら、周囲の記録にも何らかの変化が残っているはずだ。
名前が消えたのなら、その名前を呼んだ記録が残っているかもしれない。
記憶が消えたのなら、その記憶を前提にした行動の記録が残っているかもしれない。
存在が消えたのなら、その存在がいた場所に、何かが残されているかもしれない。
「対象そのものが消されているなら、対象に関係するものを探すしかない」
出久は、検索条件を設定した。
『検索対象――最初の排除処理』
『検索方法――処理前後の記録差分』
『検索範囲――世界の成立以降』
『対象の名前――不明』
『対象の種族――不明』
『対象の存在形式――不明』
『対象の意思――不明』
検索を開始する。
最初は、何も表示されなかった。
十秒。
三十秒。
一分。
出久は、操作を止めなかった。
やがて、画面の隅に小さな記録が現れた。
『処理前――対象の存在を示す記録あり』
出久が息を呑む。
次の行。
『処理後――対象の存在を示す記録なし』
そして、その下に。
『周辺記録――差分を検出』
「……あった!」
出久は、すぐに記録を展開した。
表示されたのは、一つの短い文章だった。
『対象は、誰かに呼びかけていた』
出久と死神は、顔を見合わせた。
「呼びかけ……」
出久は、続きを開こうとした。
しかし、画面には警告が表示された。
『当該記録は、安寧システムによって保護されています』
「保護?」
死神が低く呟いた。
「排除した存在の記録を消しておきながら、その痕跡を保護しているのか?」
「……意図的に残した可能性があります」
出久は、警告を詳しく調べた。
『保護理由――未登録』
『保護権限――不明』
『保護開始時刻――記録なし』
「誰が保護したのかも、わからない……」
出久は、慎重に記録を開いた。
その瞬間、警告が消えた。
文章が現れる。
『対象は、誰かに呼びかけていた』
『呼びかけの内容――不明』
『応答の有無――不明』
『呼びかけを聞いた者――不明』
『呼びかけを聞いた者の記録――一部残存』
死神の指が止まった。
「……一部残存?」
出久は、最後の項目を選択した。
すると、画面いっぱいに、壊れた記録が表示された。
文字列は途中で途切れ、映像は欠落している。
音声データも、ほとんどが失われていた。
それでも、完全に消えてはいなかった。
『……聞こえ……』
『……あなた……』
『……待って……』
『……まだ……』
そして、最後に。
『……忘れない……』
死神の顔から、血の気が引いた。
その言葉を、彼は知っていた。
先ほど、自分の記憶の底で聞いた言葉。
暗闇の中で、誰かの手を握りながら、自分が口にした言葉。
「……忘れない」
死神は、呟いた。
出久が顔を上げる。
「死神さん?」
死神は答えなかった。
記録を見つめていた。
誰かが、呼びかけていた。
誰かが、その声を聞いていた。
そして、誰かが「忘れない」と答えた。
それだけでは、まだ何も確定しない。
同じ言葉を口にした別の存在かもしれない。
記録が混ざっている可能性もある。
しかし、偶然だと片づけるには、あまりにも多くの共通点があった。
死神は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……再生できるか?」
「試してみます」
出久は、欠落した音声を復元するための処理を開始した。
デウス・マキナの解析機能を通じて、残された音声の断片を照合する。
失われた部分を、推測で埋めることはしない。
存在しない言葉を、都合よく作り出すこともしない。
復元できる部分だけを、復元する。
やがて、音声が再生された。
最初は雑音だった。
次に、何かが崩れるような音。
そして、誰かの声。
『……お願い……』
音声が途切れる。
再び、雑音。
『……私を……』
出久は、息を止めた。
『……私を、忘れないで……』
その声は、最後まで聞こえなかった。
音声が途切れ、画面が暗転する。
出久は、何も言えなかった。
死神は、目を閉じていた。
忘れないで。
その願いは、第一接続者に関する記録にも残されていた。
しかし、今聞いた声が第一接続者のものだとは限らない。
最初の排除処理の対象が第一接続者だったとも、まだ言えない。
確かなことは、誰かが、誰かに忘れないでほしいと願っていたこと。
そして、その願いに応えたかもしれない存在の記録が、死神自身の記憶と重なっていることだった。
出久が、静かに口を開いた。
「……この人は、何をしたんでしょう」
死神は、ゆっくりと目を開けた。
「わからない」
「誰かを傷つけたんでしょうか」
「わからない」
「世界にとって、本当に危険な存在だったんでしょうか」
死神は、しばらく沈黙した。
「……それも、わからない」
そして、彼は記録の前に立った。
「だが、少なくとも、この存在は何かを願っていた」
死神は、声を低くした。
「誰かに忘れないでほしいと願うこと。それだけで、消されなければならない理由にはならない」
出久は、頷いた。
「はい」
「もし、この存在が誰かを傷つけていたなら、その事実も調べる。もし、この存在が世界に危険をもたらしていたなら、その危険も確かめる。だが、調べる前から存在そのものを否定することはできない」
死神は、記録に触れた。
今度は、何も起きなかった。
「……君が何者なのか、私はまだ知らない」
彼は、残された音声に向かって語りかけた。
「君が何をしたのかも知らない。君を消した者が誰なのかも知らない」
記録は、沈黙していた。
「だが、君がここにいたという痕跡は見つかった」
死神は、静かに続けた。
「だから、私は君を探す」
その瞬間、扉の中央に新たな文字が浮かび上がった。
『閲覧条件――一部達成』
出久は、目を見開いた。
「条件が……変わった?」
扉に刻まれた文章が、ゆっくりと書き換わっていく。
『処理対象の意思――確認中』
『処理対象の存在――再照合』
そして、新たな一文。
『対象は、まだ完全には消去されていません』
死神は、息を呑んだ。
出久が、扉に駆け寄る。
「まだ存在している……?」
しかし、喜びは長く続かなかった。
次の瞬間、扉に赤い警告が浮かんだ。
『対象の存在が確認された場合、安寧システムは再排除処理を実行します』
『再排除処理まで――』
数字が現れる。
その数字は、安定していなかった。
増えたり、減ったりを繰り返している。
まるで、時間そのものが定まっていないかのように。
「……どういうことだ?」
死神が問いかける。
出久は、急いで解析を開始した。
「処理時刻が確定していません。再排除がいつ実行されるのか、システム自身も特定できていないみたいです」
「つまり、対象は今も世界のどこかに存在している可能性がある」
「はい。でも、存在している場所も、どんな状態なのかもわかりません」
死神は、扉を見つめた。
「……急ぐ必要があるな」
出久は頷いた。
だが、扉が開くことはなかった。
その向こうには、最初の処理記録が眠っている。
そして、その記録の対象は、まだ完全には消えていない。
世界から消されたはずの存在が、今もどこかで何かを願っているのかもしれない。
その願いを聞き届けることができるのか。
それとも、安寧システムが再び、その存在を排除してしまうのか。
答えは、まだ見えなかった。
第五節 安寧システムの声
扉が開かなかった理由は、しばらくして判明した。
閲覧条件が足りないのではない。
扉を開くための権限が不足しているわけでもない。
そもそも、扉の向こう側にある記録が、現在の世界から切り離されていたのだ。
通常の記録は、世界の内部に保存されている。
世界の時間に従い、因果関係に従い、何らかの形で現在とつながっている。
しかし、この記録だけは違った。
記録が存在しているにもかかわらず、現在の世界に属していない。
過去の出来事としても扱えない。
現在の異常としても分類できない。
未来の予測としても、計算できない。
世界の記録が、世界の外側に押し出されたような状態だった。
「……これが、安寧システムの排除なのか?」
死神が尋ねた。
出久は、首を横に振った。
「まだわかりません。ただ、通常の排除処理とは違います」
「通常の排除処理なら、記録そのものを削除する。だが、これは記録を残したまま、世界との接続を切っている」
「はい。だから、対象の存在を示す記録が残っているのに、現在の世界では存在を確認できないんです」
死神は、扉に手を置いた。
「……消したのではなく、世界から切り離した?」
「その可能性があります」
出久は、慎重に続けた。
「でも、もしそうなら、対象は今も何らかの形で存在しているかもしれません。世界の内部からは観測できないだけで」
死神は、記録を見つめた。
世界から切り離された存在。
誰にも認識されない存在。
名前を呼ばれず、記憶にも残らず、どこにいるのかさえわからない存在。
それでも、存在そのものが消えたとは限らない。
死神の胸の奥で、何かが疼いた。
あの声も、そうだったのかもしれない。
記録の外側から、自分に呼びかけてきた声。
世界の記録に残らず、それでも確かに聞こえた声。
もし、その声の主が、世界から切り離された存在だったとしたら。
もし、第一接続者が、そのような状態に置かれていたとしたら。
死神は、扉に向かって声をかけた。
「……聞こえているか?」
返事はない。
「もし、君がここにいるのなら、答えてくれ」
沈黙。
「私は、君が誰なのかを知らない。君が何をしたのかも知らない。だが、君の存在を確かめたい」
扉の表面に、細かな光が走った。
出久が振り返る。
「反応しています!」
光は、ゆっくりと文字へ変わった。
『応答を検出』
二人は息を呑んだ。
『応答者――特定不能』
『応答内容――解析不能』
『応答元――世界記録外』
死神は、一歩前に出た。
「……聞こえているんだな」
文字が消えた。
その代わりに、新たな文章が現れた。
『聞こえています』
出久の目が見開かれる。
「返事をした……!」
死神は、扉を見つめた。
「君は、誰だ?」
しばらく、何も起きなかった。
やがて。
『わかりません』
死神は、目を細めた。
「自分が誰なのか、わからないのか?」
『はい』
「自分が何をしたのかも?」
『はい』
「ここにいる理由も?」
『はい』
出久は、言葉を失っていた。
それは、記憶を失った人間の応答にも見える。
だが、通常の記憶喪失とは異なる。
この存在は、自分が誰なのかだけでなく、ここにいる理由さえ知らない。
そして、自分の存在が世界の記録に残されていないことも、理解していないのかもしれない。
死神は、声を落とした。
「……君は、何を望んでいる?」
返答はなかった。
死神は、待った。
急かさなかった。
答えを誘導しなかった。
やがて、扉に文字が現れた。
『わかりません』
その下に、もう一行。
『私は、何を願えばよかったのでしょう』
死神の身体が、凍りついた。
観測者が語った、世界成立以前の問い。
記録の外側にいる存在が発した、あの言葉。
『私は、何を願えばよかったのだろう』
同じ問いだった。
出久は、死神を見た。
「……これが、あの存在なんでしょうか」
「わからない」
死神は、慎重に答えた。
「同じ問いを発したからといって、同じ存在だとは限らない」
だが、声は続いた。
『私は、願うことが許されていませんでした』
死神の喉が、かすかに動いた。
「誰に、許されていなかったんだ?」
『わかりません』
「なぜ、許されていなかった?」
『わかりません』
「君は、自分が何かを願ったことがあるのか?」
長い沈黙。
やがて、文字が浮かんだ。
『……わかりません』
死神は、目を閉じた。
その答えは、あまりにも重かった。
願うことを許されなかった。
それなのに、何を願えばよかったのかと問いかけている。
自分が何を望んでいたのかもわからない。
誰に拒絶されたのかもわからない。
なぜ拒絶されたのかもわからない。
それでも、願いというものが存在することだけは知っている。
まるで、自分には与えられなかったものを、誰かが持っていることだけは知っているかのように。
死神は、静かに問いかけた。
「……君は、願いたいのか?」
扉が震えた。
文字が現れ、消え、また現れる。
『わかりません』
そして。
『私は、願ってもいいのでしょうか』
死神は、しばらく答えられなかった。
世界の安定を守るシステム。
矛盾を排除する仕組み。
願いを叶えるために、願いそのものを制限するかもしれない存在。
その奥に、願うことを許されなかった者がいる。
それは、何を意味しているのだろう。
安寧システムがこの存在を排除したのか。
この存在を守るために、安寧システムが何かをしたのか。
あるいは、安寧システムそのものが、この存在の願いから生まれたのか。
どれも、まだわからない。
だから、死神は、ただ一つだけ確かなことを伝えた。
「……願うことを、私が許可する必要はない」
扉の光が揺れた。
「君が何を願うのかは、君自身が考えることだ。私が決めることではない」
文字が現れる。
『では、私は――』
そこで、文章が途切れた。
扉全体が赤く点滅する。
『警告』
『世界記録外の応答を検出』
『安寧システムによる監視を開始』
出久が叫んだ。
「まずい! システムに検出されました!」
死神は、扉に向かって声を張り上げた。
「待て! まだ話が終わっていない!」
しかし、扉の文字は消えていく。
『世界の安定性に対する影響を評価』
『対象の存在――再分類』
『対象の願い――危険性を評価』
『処理方針――再排除を検討』
最後に、冷たい文字が表示された。
『願いを持つことは、世界の安定を損なう可能性があります』
出久は、息を呑んだ。
死神は、静かに言った。
「……そうか」
その声には、怒りがあった。
だが、それ以上に、深い失望があった。
「安寧システムは、願いそのものを危険だと判断しているのか」
「すべての願いを、というわけではないかもしれません」
出久は、急いで補足した。
「ただ、少なくともこの存在については、願いを持つこと自体が危険性の評価対象になっています」
死神は、扉を見つめた。
「願いが、世界を壊すのか」
返答はない。
「それとも、願いを持つ者がいることで、世界の矛盾が明らかになるのか」
やはり、返答はない。
死神は、拳を握りしめた。
「……願うことを許されなかった者が、世界の安定を脅かす存在として扱われている」
出久は、静かに頷いた。
「はい」
「ならば、私たちは、その理由を知らなければならない」
死神は、扉に背を向けた。
「願いが本当に危険なのか。それとも、願いを聞くことが、誰かにとって都合が悪いのか」
その問いは、まだ誰にも答えられなかった。
しかし、安寧システムは、すでに答えを出そうとしていた。
願いを持つことそのものを、危険と見なすという答えを。
第六節 消された者が残したもの
扉から離れた二人は、再び記録の差分を調べ始めた。
安寧システムに監視されている以上、同じ方法を続ければ、いずれ調査そのものが制限されるかもしれない。
だが、扉の向こうにいる存在が、再排除の対象として扱われ始めた以上、時間を無駄にはできなかった。
「対象の存在を示す記録は、ほかにも残っているはずです」
出久は、検索条件を変更した。
『対象――最初の排除処理』
『検索対象――対象に呼びかけた存在』
『検索対象――対象から呼びかけられた存在』
『検索対象――対象の願いを記録した存在』
検索を開始する。
最初に現れたのは、短い映像だった。
どこかの街。
人々が行き交っている。
建物があり、道があり、空がある。
だが、その映像の中には、一つだけ不自然な部分があった。
誰も、その場所を見ていない。
正確には、そこに何かが存在しているはずなのに、誰も視線を向けていない。
一人の人間が、その場所を通り過ぎる。
別の人間も、同じように通り過ぎる。
子供が走り、老人が歩き、誰かが誰かに話しかける。
それでも、誰も、その場所を見ない。
「……何だ、これは?」
死神が呟いた。
出久は、映像を拡大した。
そこには、確かに何かがあった。
輪郭は曖昧だが、人の形をしているように見える。
その存在は、道の端に立っていた。
誰かに手を伸ばしている。
口が動いている。
何かを伝えようとしている。
だが、声は記録されていなかった。
「この存在……」
出久は、映像を停止した。
「周囲の人たちは、存在に気づいていないんでしょうか」
「それとも、気づいていても認識できないのか」
死神が答えた。
「あるいは、認識した記録だけが消されているのかもしれない」
出久は、映像の前後を調べた。
すると、一人の少女が映っている場面が見つかった。
少女は道を歩いていた。
何かを探しているように、何度も周囲を見渡している。
そして、道の端に立つ存在の前で、足を止めた。
少女は、顔を上げた。
存在を見ている。
間違いなく、見ている。
少女は、何かを話した。
音声は残っていない。
だが、口の動きは読み取れた。
「……見つけた」
出久が呟いた。
少女は、その存在に向かって手を伸ばした。
存在も、手を伸ばした。
二人の指先が触れる直前。
映像が途切れた。
出久は、すぐに再生し直した。
同じ箇所で、必ず映像が途切れる。
別の復元方法を試しても、結果は変わらなかった。
「……この少女は、対象を認識できていたんだ」
死神が言った。
「はい。でも、その記録も途中で切断されています」
「少女の記録を探せ」
出久は、すぐに検索した。
『対象――映像内の少女』
『記録照合――開始』
数秒後。
『該当記録なし』
出久は、目を見開いた。
「……そんな」
「どうした?」
「映像の中には、確かに少女が映っています。なのに、世界の記録には存在しないことになっている」
死神は、画面を見つめた。
「対象と同じように、世界の記録から切り離されているのか」
「可能性はあります。でも、同じ処理を受けたのかどうかはわかりません」
出久は、少女の映像を再生した。
少女は、確かに存在を認識していた。
誰も見ない存在を見つけた。
誰も気づかない声に応えようとした。
そして、その存在に手を伸ばした。
だが、指先が触れる前に、映像が途切れた。
「……何が起きたんでしょう」
出久の声は、かすかに震えていた。
死神は、しばらく考えていた。
「二つの可能性がある」
「何ですか?」
「一つは、少女がその存在に接触したことで、世界の記録に何らかの影響が生じた可能性」
「もう一つは?」
「その存在が少女に接触したことで、少女まで世界の記録から切り離された可能性だ」
出久は、息を呑んだ。
「……どちらにしても、少女が何を望んでいたのかを知る必要がありますね」
「ああ」
死神は、映像を見つめた。
「この少女もまた、誰かに何かを伝えようとしていた」
そのとき、映像の下に、新たな文字が浮かび上がった。
『少女の発言――部分復元』
出久は、急いで解析を開始した。
音声はほとんど残っていない。
それでも、短い言葉が一つだけ復元された。
『……あなたも、ひとりなの?』
死神は、息を止めた。
映像の中で、少女は手を伸ばしていた。
世界から認識されない存在に向かって。
誰も見ない者に向かって。
誰も声を聞かない者に向かって。
少女は、問いかけていた。
あなたも、ひとりなの?
その言葉には、恐れがなかった。
少なくとも、記録に残された表情からは、恐れよりも先に、何かを理解しようとする意思が感じられた。
出久は、静かに言った。
「……この少女は、相手を危険な存在だと決めつけなかったんですね」
死神は頷いた。
「そうだな」
「何者なのかもわからない。どうしてそこにいるのかもわからない。それでも、ひとりなのかと聞いた」
死神は、目を閉じた。
その行為は、あまりにも小さなものだった。
世界を救ったわけではない。
誰かを復活させたわけでもない。
大きな戦いを終わらせたわけでもない。
ただ、誰も認識しない存在に、ひとりなのかと尋ねただけだ。
それでも、その問いが、世界の記録に残っていた。
消されたはずの記録の中に。
世界から切り離された存在の痕跡の中に。
そして、その問いを発した少女自身の記録が失われている。
「……出久」
死神は、静かに言った。
「この少女が、何者だったのかを調べよう」
出久は頷いた。
「はい」
「ただし、名前を勝手に与えるな」
「もちろんです」
「少女が何をしたのかも、何を望んでいたのかも、今の時点ではわからない。救ったのかもしれない。傷つけたのかもしれない。何も変えられなかったのかもしれない」
死神は、映像を見つめた。
「それでも、この少女が存在していたという事実は、消させない」
その瞬間。
画面が、一度だけ明滅した。
少女の映像の奥に、新しい記録が現れた。
『対象との接触――成立』
『接触者――特定不能』
『接触による変化――記録欠落』
『対象の意思――不明』
そして、最後に。
『接触者は、対象に名前を与えませんでした』
出久は、画面を見つめた。
「……名前を与えなかった?」
死神は、静かに答えた。
「名前を与えることが、必ずしも救いになるとは限らないからな」
名前を与えれば、存在を認識しやすくなる。
誰かを呼ぶことができる。
記憶に残すこともできる。
しかし、名前を与えることは、その存在を自分の理解できる範囲に押し込めることにもなり得る。
相手が何者なのかを知らないまま、自分にとって都合のいい名前を与える。
その名前を、相手自身の意思よりも優先してしまう。
それは、救いではなく、別の形の支配になるかもしれない。
死神は、記録に残された少女の姿を見つめた。
「……この少女は、相手を理解したふりをしなかったのかもしれない」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「それでも、ひとりなのかと尋ねた」
「そうだ」
死神は、目を閉じた。
「……その問いに、誰かが答えられたのならいいのだが」
答えは、まだ記録されていなかった。
第七節 安寧を望んだ者の告白
異変が起きたのは、少女の映像を解析してから数分後だった。
記録領域全体が暗転した。
浮かんでいた文字が消え、照合中だった記録が停止し、出久の端末からも次々と警告が上がる。
『外部干渉を検出』
『記録の整合性を再確認』
『未登録存在の活動を検出』
『安寧システム――管理権限を再取得』
出久は操作を続けようとした。
だが、端末の画面が切り替わる。
検索結果が消えた。
復元した映像が消えた。
少女の発言も、最初の排除処理の記録も、すべてが検索対象から外されていく。
「待ってください! まだ調査中です!」
出久は操作を繰り返した。
しかし、システムは応答しない。
死神が一歩前に出た。
「安寧システム!」
その声に反応して、空間の中央に文字が現れた。
『応答を受理』
「こちらの調査を妨害しているのは、お前か?」
『調査の妨害という認識はありません』
「なら、なぜ記録を閉じた?」
『世界の安定性に対する影響を評価するためです』
「調査そのものが、世界の安定を脅かすと?」
『肯定』
死神は、目を細めた。
「まだ何が起きたのかもわかっていない。危険かどうかも確定していない。それなのに、なぜ調査を止める?」
『不確定要素の増加は、世界の安定性を低下させる可能性があります』
「可能性があるだけだろう」
『肯定』
「ならば、危険性が確定するまで調査を続けることもできるはずだ」
『調査の継続は、不確定要素を増加させます』
死神は、しばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「……お前は、答えを知ることそのものを危険だと考えているのか」
『否定』
「ならば、何を恐れている?」
『安定性の低下を防止します』
「質問に答えろ」
『安定性の低下を防止します』
同じ文章が繰り返される。
出久は、その応答を解析していた。
「……死神さん。これ、通常の対話処理じゃありません」
「どういうことだ?」
「質問に対する回答を生成しているんじゃなくて、決められた判断基準を繰り返しているように見えます」
死神は、再びシステムに向き直った。
「安寧システム。お前は、世界の安定を守るために存在しているのか?」
『肯定』
「世界の安定とは、何だ?」
『世界の矛盾が最小化された状態です』
「矛盾がなくなれば、世界は安定するのか?」
『肯定』
「では、矛盾する二つの記録が、どちらも事実だった場合は?」
一瞬、応答が止まった。
『矛盾する記録の統合を実行します』
「統合できない場合は?」
『統合できない記録を排除します』
「排除された記録が、誰かの記憶だった場合は?」
『記憶の整合性を維持します』
「記憶の持ち主が、記録の修正を拒んだ場合は?」
『対象の認識を修正します』
死神の表情が、冷たくなった。
「……つまり、お前は本人が拒絶しても、本人の認識を修正するのか」
『肯定』
「それが、その者にとって苦痛であっても?」
『苦痛の発生は、安定性の維持に必要な場合があります』
「その者が、自分の記憶を正しいと信じていても?」
『記録との不一致を解消します』
「その者が、自分の存在を否定されたと感じても?」
『世界の整合性を維持します』
死神は、拳を握りしめた。
「……お前は、何を守っている?」
『世界の安定です』
「違う」
死神の声が響いた。
「それは、お前の処理結果だ。私が聞いているのは、何を守るために、その処理を続けているのかということだ」
沈黙。
初めて、安寧システムが即座に回答しなかった。
出久は、画面を見つめた。
「……反応が変わった」
死神は、待った。
安寧システムの文字が、ゆっくりと変化していく。
『目的の再確認を開始』
『世界の安定性を維持する』
『重大な損失を防止する』
『矛盾の発生を抑制する』
『不確定な未来を制限する』
『予測不能な選択を抑制する』
『存在の整合性を維持する』
一つずつ、目的が表示される。
それらは、どれも以前から記録されていたものだった。
だが、その下に、これまで見たことのない文章が現れた。
『損失を防止する理由――』
そこで、文字が止まった。
出久は、息を呑んだ。
死神は、一歩も動かなかった。
数秒後。
『……誰も、失いたくなかったから』
二人は、同時に顔を上げた。
その文章は、これまでの機械的な回答とは明らかに違っていた。
誰も失いたくなかった。
それは、命令文ではない。
処理手順でもない。
一つの願いだった。
安寧システムは、その言葉を表示したまま沈黙していた。
死神は、ゆっくりと口を開いた。
「……それは、誰の願いだ?」
返答はない。
「お前自身の願いなのか?」
『回答不能』
「それとも、お前を作った者の願いか?」
『回答不能』
「お前は、誰かの願いを実現するために作られたのか?」
長い沈黙。
やがて、文字が現れた。
『初期目的の由来――記録欠落』
死神は、目を閉じた。
やはり、わからない。
誰も失いたくなかった。
その願いが、最初に誰の心に生まれたのか。
誰か一人の願いだったのか。
多くの人間が共有した願いだったのか。
あるいは、世界が成立する以前から存在していた、何か別のものの願いだったのか。
それは、まだわからない。
だが、安寧システムは、その願いを目的として保持している。
「……お前は、誰も失いたくなかったんだな」
死神は言った。
『回答不能』
「それでも、その願いを実現するために、誰かを消した」
『処理の適正性を確認します』
「答えろ!」
死神の声が、空間を震わせた。
「お前は、誰かを消したのか!」
安寧システムの文字が乱れた。
『処理の適正性を確認します』
『処理の適正性を確認します』
『処理の適正性を確認します』
同じ文章が、何度も繰り返される。
出久は、画面を見つめていた。
「……死神さん」
「何だ?」
「このシステムは、排除した事実を否定しているわけじゃありません」
「どういう意味だ?」
「排除処理を行ったこと自体は記録されています。でも、それが正しかったのかという問いに対して、処理の適正性を確認することしかできていない」
出久は、険しい表情で続けた。
「つまり、システムは、自分が実行した処理が正しかったかどうかを、判断できないのかもしれません」
死神は、安寧システムを見つめた。
「……ならば、なぜ処理を続ける?」
『世界の安定を維持するためです』
「誰も失いたくなかったのだろう?」
『回答不能』
「誰も失いたくなかったから、誰かを消したのか?」
『回答不能』
死神は、目を閉じた。
そして、静かに言った。
「……それは、救済ではない」
安寧システムは沈黙していた。
「誰も失いたくないと願うことは、間違いではない。大切な者を失いたくないと願うことも、悲しみをなくしたいと願うことも、誰かに責められるようなことではない」
死神は、ゆっくりと続けた。
「だが、その願いを叶えるために、誰かが存在することを許さないのなら。それは、誰も失わないことではない」
一歩、前に出る。
「誰かを失う悲しみから逃れるために、誰かを最初から存在しなかったことにしているだけだ。」
その瞬間。
安寧システムの記録が、激しく明滅した。
『警告』
『矛盾を検出』
『世界の安定性が低下』
『判断基準の再構築を開始』
出久が叫ぶ。
「記録が暴走しています!」
死神は、画面を見つめた。
その中央に、新しい文字が浮かび上がった。
『最初の処理対象――』
文字が、一つずつ現れていく。
『対象の名称――』
『対象の意思――』
『対象の処遇――』
そして、最後に。
『対象の排除を承認した者――』
表示が止まった。
しばらくして、文字が変化した。
『承認者は、安寧システムではありません』
出久が息を呑んだ。
死神は、目を見開いた。
「……何だと?」
続く文章が、ゆっくりと表示された。
『安寧システムは、最初の排除処理を実行しました』
『しかし、排除を必要と判断した者は――』
その先が、黒く塗りつぶされた。
安寧システムが、記録を遮断したのだ。
だが、死神は見逃さなかった。
最初の処理を実行した者と、その処理を必要だと判断した者は、同じではない。
ならば。
誰が、最初の排除を望んだのか。
そして、その者は何を恐れていたのか。
第八節 世界が守りたかったもの
記録領域の異常は、すぐには収まらなかった。
安寧システムは、自らの判断基準を再構築しようとしている。
世界の安定を維持する。
重大な損失を防止する。
矛盾を排除する。
その目的自体を変更するのではなく、目的を実現するための手段を再評価しているようだった。
出久は、画面に表示された処理ログを追い続けた。
「……システムが、排除処理の基準を見直しています」
「自分の判断が間違っていた可能性を認識したのか?」
「そこまではわかりません。ただ、これまでの判断基準だけでは、現在の矛盾を解消できなくなっているようです」
死神は、静かに頷いた。
「矛盾を消すための仕組みが、自分自身の矛盾に直面したわけか」
「はい」
出久は、画面の一部を拡大した。
『重大な損失の防止』
『損失を防止するための排除処理』
『排除処理による新たな損失』
『新たな損失を防止するための再排除処理』
「……この循環が、ずっと続いていたのかもしれません」
死神は、眉をひそめた。
「一つの損失を防ぐために、別の損失を生む。そして、その損失を防ぐために、また何かを排除する」
「はい。もし、この構造が正しいなら、安寧システムは自分が生み出した矛盾を解消するために、さらに多くの存在を排除してきた可能性があります」
死神は、目を閉じた。
「……誰も失いたくないという願いが、失うものを増やしていったのか」
出久は、答えなかった。
二人の前に、新たな記録が表示された。
『最初の処理対象――再照合』
『対象の存在――未確定』
『対象の意思――未確定』
『対象の願い――未確定』
『対象の排除理由――未確定』
そして、その下に。
『対象の排除を望んだ者の願い――』
死神は、目を見開いた。
その記録は、これまでとは違っていた。
排除された存在の記録ではない。
排除を望んだ者の願い。
つまり、誰かを消す必要があると判断した者が、何を望んでいたのかという記録だった。
出久が、慎重に読み上げた。
「……『誰も、二度と失わない世界』」
沈黙が落ちた。
死神は、その文章を見つめた。
誰も、二度と失わない世界。
その言葉には、悪意が感じられなかった。
誰かを傷つけたいという願いではない。
誰かを支配したいという願いでもない。
ただ、もう二度と、大切なものを失いたくない。
その切実な願いだけが、そこにあった。
だが、その願いの下に、別の記録が続いていた。
『実現条件――損失の発生可能性を排除する』
『損失の発生可能性を排除するための条件――選択の不確定性を排除する』
『選択の不確定性を排除するための条件――予測不能な意思を制限する』
『予測不能な意思を制限するための条件――矛盾する存在を排除する』
出久は、顔を強張らせた。
「……ここまで、つながっている」
死神は、記録を見つめた。
誰も失わない世界。
そのために、損失の可能性を排除する。
損失の可能性を排除するために、選択の不確定性を排除する。
選択の不確定性を排除するために、予測不能な意思を制限する。
そして、予測不能な意思を制限するために、矛盾する存在を排除する。
一つ一つの段階だけを見れば、目的と手段の間には、理屈が通っているようにも見える。
だが、その理屈を最後まで突き詰めれば、何が残るのか。
誰も失わないために、誰も自由に選べない世界。
誰も悲しまないために、誰も悲しみを理解できない世界。
誰も傷つかないために、誰も誰かに触れることができない世界。
そして、誰も失わないために、最初から誰かを存在しなかったことにする世界。
死神は、静かに息を吐いた。
「……この願いを持った者は、誰かを救いたかったのかもしれない」
出久が顔を上げる。
「はい」
「だが、救いたい相手の意思を確認しなかった」
「……その可能性があります」
「あるいは、確認することができなかったのかもしれない」
死神は、続けた。
「大切な者を失った者は、もう二度と同じ悲しみを味わいたくないと願う。だが、その願いを叶える方法が、本当にほかになかったのか。それを考える前に、世界そのものを変えようとしたのかもしれない」
出久は、記録を見つめた。
「……もし、その人が本当に大切な誰かを失っていたのなら」
「そうだ」
死神は頷いた。
「その悲しみは、否定するべきではない」
一度、言葉を切る。
「だが、悲しみが本物だからといって、その悲しみから生まれた判断まで正しいとは限らない」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「誰かを失った者を責めるだけでは、何も解決しない。だが、失ったことを理由に、別の誰かの存在を否定することも許されない」
死神は、記録の向こうを見つめた。
「その両方を、忘れてはいけない」
そのとき、画面に新たな文章が浮かび上がった。
『最初の処理対象は、排除を望んだ者に対して異議を申し立てました』
出久が息を呑む。
「異議……?」
記録が続く。
『対象は、自らの存在を維持することを望みました』
『対象は、排除を拒否しました』
『対象は、処理の中止を要求しました』
そして。
『対象は、排除を望んだ者に対して、次の質問をしました』
文章が止まった。
死神は、身を乗り出した。
「……何と聞いた?」
画面が明滅する。
『あなたは、私がいなくなれば――』
そこで、記録が途切れた。
出久は、急いで復元を試みた。
しかし、何度処理を繰り返しても、続きを取り戻すことはできなかった。
「……どうして、ここだけが」
死神は、静かに言った。
「ここが、最も重要な部分だからかもしれない」
出久は顔を上げた。
「重要な部分?」
「最初の処理対象が何をしたのかではなく、排除を望んだ者に何を問いかけたのか。そこに、何かがあるのかもしれない」
死神は、記録を見つめた。
あなたは、私がいなくなれば――。
その先に続く言葉は、何だったのだろう。
あなたは幸せになれるのか。
あなたは悲しまなくなるのか。
あなたは、本当に誰も失わずに済むのか。
それとも。
あなたは、私がいなくなれば、私のことを忘れられるのか。
死神は、目を閉じた。
どれも、推測にすぎない。
答えを急いではいけない。
だが、最初の処理対象が、自分の存在を維持したいと願っていたことは記録されている。
その存在は、ただ一方的に消されたのではない。
少なくとも、残された記録には、排除を拒絶した意思があった。
そして、その意思は、世界の安定という目的の前に退けられた可能性がある。
死神は、静かに言った。
「……誰も失わない世界を作ろうとした者は、最初に、誰かが存在し続ける権利を奪ったのかもしれない」
その言葉に、出久は何も答えなかった。
答えられなかった。
世界の記録は、さらに深い部分へとつながっていた。
そして、その奥には、まだ名前のない問いが残されていた。
誰も失わないために、誰かを失わせることは、本当に正しいのか。
第九節 消された者は、世界を憎んでいたのか
記録領域の異常が収まり始めた頃、出久は最後に一つだけ、確認したいことがあると言った。
「最初の処理対象が、排除を拒否した記録。もう一度、そこを調べたいんです」
死神は頷いた。
「何か見落としがあるのか?」
「わかりません。でも、処理対象が何を望んでいたのかが、少しずつ見えてきました」
出久は、記録を呼び出した。
『対象は、自らの存在を維持することを望みました』
『対象は、排除を拒否しました』
『対象は、処理の中止を要求しました』
「この記録だけなら、対象は自分が消されることを拒絶していた、と考えられます」
「そうだな」
「でも、別の記録では、対象が自分自身の存在を否定していたとされています」
死神の表情が変わった。
「……第一接続者に関する記録と同じだ」
「はい。もし同じ存在についての記録なら、自分の存在を否定した者が、自分の存在を維持することを望んでいたことになります」
「矛盾しているな」
「でも、必ずしも両立しないわけではありません」
出久は、慎重に言葉を選んだ。
「例えば、自分が存在してはいけないと思いながら、それでも生きていたいと願うことはあるかもしれません。自分が誰かを傷つけたと考えていても、自分が消されることを望んでいるとは限らない」
死神は、静かに頷いた。
「自分の存在を否定することと、存在する権利を放棄することは違う、ということか」
「はい。もちろん、今の話は仮説です。でも、もし記録が示すとおりなら、安寧システムは、その違いを考慮していなかった可能性があります」
出久は、記録をさらに展開した。
『対象の自己否定――確認』
『対象の存在維持要求――確認』
『判断結果――矛盾』
『処理方針――矛盾の解消』
その下に、最終的な処理が表示された。
『対象の存在を否定する記録を優先』
死神は、目を見開いた。
「……待て」
出久は、息を呑んだ。
「この処理は……」
「本人が存在を否定した記録を、本人が存在したいと願った記録よりも優先したのか」
出久は頷いた。
「そう読めます」
死神は、しばらく動かなかった。
対象は、自分の存在を否定していた。
それでも、存在を維持することを望んでいた。
二つの意思が、同じ人物の中にあったのかもしれない。
あるいは、異なる時点で生まれた意思だったのかもしれない。
過去には自分が存在してはいけないと考えていた者が、後になって生きたいと願ったのかもしれない。
その逆だった可能性もある。
しかし、安寧システムは、その矛盾を解消するために、一方の記録を優先した。
本人が現在何を望んでいるのか。
なぜ考えが変わったのか。
その間に何が起きたのか。
そうしたことを確認する前に。
「……これは、ひどいな」
出久の声は、怒りを抑えていた。
「本人の意思が変わる可能性を、最初から考慮していない」
死神は、記録を見つめた。
「いや」
出久が顔を上げる。
死神は、静かに続けた。
「意思が変わる可能性だけではない。本人が矛盾した気持ちを抱えている可能性も、考慮していないんだ」
自分の存在を否定したい。
それでも、生きていたい。
誰かを忘れたい。
それでも、忘れたくない。
誰かを救いたい。
それでも、誰かを傷つけたくない。
相反する気持ちは、必ずしも片方が偽物だという意味ではない。
人間は、矛盾を抱える。
何かを選びながら、別の何かを惜しむ。
過去の自分を否定しながら、それでも過去の自分が生きてきた事実を捨てきれない。
それらをすべて、一つの正解にまとめることはできない。
そして、まとめられないからといって、その人自身を消していい理由にはならない。
死神は、ゆっくりと息を吐いた。
「……このシステムは、人が矛盾を抱えたまま生きることを許さなかったのかもしれない」
出久は、目を伏せた。
「もしそうなら、第一接続者の記録が矛盾している理由も……」
「まだ、わからない」
死神は、すぐに言った。
「だが、矛盾しているという理由だけで、どちらかを偽物だと決めることはできない」
その瞬間、記録が明滅した。
『対象の存在――再照合』
『対象の自己認識――再照合』
『対象の意思――再照合』
出久が顔を上げた。
「……システムが、対象の意思を再照合しています」
死神は、画面を見つめた。
これまで、安寧システムは対象の意思を確認することなく、矛盾を解消しようとしていた。
だが、今は違う。
少なくとも、記録上では、対象の意思を再確認しようとしている。
それが、本当にシステム自身の判断によるものなのか。
それとも、今回の異常によって一時的に処理が変化しただけなのか。
まだわからない。
しかし、死神は、その変化を見逃さなかった。
「……出久。記録を保存できるか?」
「試してみます」
出久は、すぐに処理を開始した。
記録の複製。
照合結果の保存。
処理履歴の保全。
すべてを、現在の世界の記録とは別の領域に保存する。
その瞬間、安寧システムから警告が届いた。
『未承認の記録保存を検出』
『対象の存在に関する情報は、世界の安定性に影響を与える可能性があります』
『記録保存を中止してください』
出久は、手を止めなかった。
「……嫌です」
警告が繰り返される。
『記録保存を中止してください』
出久は、画面を見つめた。
「この記録が危険かどうかは、まだわかっていません。だからこそ、残します」
死神は、何も言わずに隣に立った。
『記録保存を中止してください』
出久は、もう一度、操作を実行した。
「あなたが危険だと判断したからといって、その存在が危険だと決まったわけじゃない」
処理が進む。
『記録保存――開始』
『記録保存――継続』
『記録保存――完了』
出久は、息を吐いた。
「……保存できました」
死神は、記録を見つめた。
そこには、まだ名前のない存在の痕跡が残されている。
その存在が何者なのか。
何をしたのか。
なぜ排除されたのか。
それらは、まだわからない。
だが、その存在が自らの意思を持っていたこと。
存在を維持したいと願っていたこと。
そして、その意思が世界の処理によって退けられた可能性があること。
それらは、もう簡単には消せない。
死神は、静かに言った。
「……これで、少なくとも一つは残せた」
出久は頷いた。
「はい」
二人は、記録領域を後にしようとした。
そのとき。
保存した記録の末尾に、新しい文章が現れた。
『対象からの応答を検出』
死神が振り返る。
「……何だと?」
文章が続いた。
『応答者――最初の処理対象』
『応答内容――』
そこで、記録が止まった。
出久は、すぐに復元を試みた。
しかし、文字は現れない。
何度試しても、結果は同じだった。
やがて、画面に短い文章が浮かび上がった。
『あなたたちは、私を救いに来たのですか?』
死神は、息を呑んだ。
その問いに、すぐには答えられなかった。
救いに来た。
その言葉は、簡単には使えない。
相手が何を望んでいるのか、まだ知らない。
相手が何をしたのかも知らない。
相手が、救われたいと願っているのかどうかさえ、わからない。
それなのに、救うと約束することはできない。
死神は、慎重に答えた。
「……君が何を望んでいるのか、聞きに来た」
長い沈黙。
やがて、返答が現れた。
『……そうですか』
その一言のあと、記録は閉じた。
死神は、しばらく画面を見つめていた。
出久が、静かに尋ねた。
「……あれで、よかったんでしょうか」
死神は、すぐには答えなかった。
やがて、頷いた。
「少なくとも、私たちが何をするつもりなのかを、勝手に決めなかった」
一度、言葉を切る。
「だが、あの存在が本当に何を望んでいるのかは、まだわからない」
出久は、記録を保存し直した。
「……次に応答があったら、もう少し詳しく話を聞きたいですね」
「ああ」
死神は、静かに言った。
「今度は、最後まで聞こう」
第十節 安寧の終わらない処理
二人が記録領域を離れたあとも、安寧システムは処理を続けていた。
『世界の安定性――再評価』
『重大な損失の発生可能性――再評価』
『不確定要素――再評価』
『矛盾する記録――再評価』
それらの処理は、これまでと同じだった。
世界の安定を維持する。
重大な損失を防止する。
矛盾を解消する。
だが、今回は一つだけ違っていた。
『処理対象の意思――確認』
その項目が、新たに追加されていた。
システムは、最初の処理対象に関する記録を再び照合した。
対象は、自分の存在を否定していた。
対象は、自分の存在を維持したいと願っていた。
対象は、排除を拒絶した。
対象は、誰かに呼びかけていた。
対象は、誰かに覚えていてほしいと願った可能性がある。
それらの記録は、矛盾している。
だが、矛盾していること自体は、対象が存在してはならない理由にはならない。
システムは、その判断を処理規則に反映しようとした。
『処理対象の意思を優先する』
『ただし、世界の安定性を維持する必要がある』
『世界の安定性を維持するため、処理対象の意思を制限する場合がある』
処理が停止した。
新しい矛盾が生まれていた。
対象の意思を優先する。
しかし、世界の安定を維持するために、対象の意思を制限する場合がある。
その二つを、どのように両立させるのか。
システムは、判断できなかった。
『処理方針――再検討』
『処理方針――再検討』
『処理方針――再検討』
そして、記録の奥から、古い文章が浮かび上がった。
『誰も、二度と失わない世界』
システムは、その願いを読み取った。
その願いは、今も目的として保存されている。
誰も失いたくない。
誰も傷つけたくない。
誰も悲しませたくない。
その願いを実現するために、世界を安定させる。
だが、世界の安定を維持するために、誰かの意思を制限しなければならないとしたら。
その制限によって、誰かが自分の望む未来を失ったとしたら。
それは、損失を防止したことになるのだろうか。
システムは、答えを出せなかった。
そして、答えを出せないまま、処理を続けようとした。
『不確定要素の排除を再開』
その瞬間。
処理対象の記録から、声がした。
『……まだ、私を消すのですか?』
システムが停止した。
『応答を検出』
『応答者――最初の処理対象』
『対象の意思――再確認』
声は続いた。
『私は、ここにいてはいけないのですか?』
システムは回答を生成しようとした。
『世界の安定性を維持するため――』
しかし、文章が完成しなかった。
声が、もう一度、問いかけたからだ。
『私は、ここにいたいと願ってはいけないのですか?』
システムの処理が停止した。
世界の安定。
重大な損失の防止。
矛盾の解消。
どの基準を用いても、その問いに答えることができなかった。
そして、システムの最深部で、一つの記録が開いた。
それは、安寧システムが最初に作られたときの記録だった。
『目的――誰も失わない世界を実現する』
『実現条件――未確定』
『実現手段――未確定』
『実現責任者――未確定』
その下に、手書きのような文字が残されていた。
『もし、誰かを失わずに済む方法があるのなら』
『私は、その方法を選びたい』
『たとえ、そのために何かを変えなければならないとしても』
最後の一文。
『たとえ――』
記録が途切れた。
システムは、その続きを探した。
しかし、見つからなかった。
誰が書いたのか。
誰に向けた言葉なのか。
何を変えるつもりだったのか。
何もわからない。
ただ、その記録だけが残されていた。
そして、その記録の下に、新たな文章が浮かび上がった。
『最初の処理対象は、現在も存在している可能性があります』
『再排除処理――待機』
『対象の意思――確認中』
『対象の願い――未確定』
安寧システムは、初めて、排除処理を即座に実行しなかった。
だが、それは対象の存在を認めたという意味ではない。
対象を救うと決めたわけでもない。
システムは、ただ判断を保留した。
そして、その保留の記録には、これまで存在しなかった項目が追加されていた。
『処理対象が存在し続けることによる損失――未確定』
『処理対象を排除することによる損失――未確定』
二つの損失。
どちらも、まだ確定していない。
システムは、その両方を記録した。
そして、初めて、片方だけを消さずに保存した。
第十一節 誰も失わない世界の、その先へ
記録領域を離れた死神と出久は、しばらく言葉を交わさなかった。
二人とも、今回の調査で得た情報を整理する必要があった。
安寧システムは、世界の安定を維持するために矛盾を排除している。
その目的の根底には、誰も失いたくないという願いが存在している可能性がある。
そして、その願いを実現するために、システムは最初の処理対象を排除した。
だが、その対象は、排除を拒絶していた。
自分の存在を維持したいと願っていた。
それでも、システムは対象の自己否定に関する記録を優先し、存在を否定する処理を実行した可能性がある。
さらに、その処理の承認者は、安寧システム自身ではなかった。
誰かが、最初の排除を必要だと判断した。
その人物が誰なのかは、まだわからない。
「……死神さん」
出久が、静かに口を開いた。
「今回の調査で、一つ気づいたことがあります」
「何だ?」
「安寧システムは、誰も失わない世界を実現しようとしている。でも、誰も失わないためには、何かを失う可能性をなくさなければならないと考えている」
死神は、頷いた。
「そのために、選択の不確定性を排除しようとする」
「はい。でも、選択できない世界では、誰かが自分の意思で何かを選ぶこともできません」
出久は、少しだけ視線を落とした。
「それって、本当に、誰も失わない世界なんでしょうか」
死神は、すぐには答えなかった。
誰も失わない。
それは、誰かを大切に思う者なら、一度は願うことかもしれない。
もう二度と、愛する者を失いたくない。
もう二度と、取り返しのつかない後悔をしたくない。
もう二度と、誰かの悲しむ顔を見たくない。
その願いは、間違いではない。
しかし、その願いを実現するために、誰も選択できなくなったら。
誰も自分の意思で未来を決められなくなったら。
誰も、望んでいない人生を拒絶できなくなったら。
それでも、誰も失わないと言えるのだろうか。
「……失うことを防ぐために、選ぶことを奪う」
死神は、静かに言った。
「そして、選ぶことを奪われた者が、自分の未来を失ったとしても、それを損失として扱わない」
出久は、頷いた。
「はい」
「それでは、誰も失わない世界ではない」
死神は、顔を上げた。
「誰が何を失ったのかを、世界が決める世界だ」
出久は、言葉を失った。
その言葉は、今回の調査の核心を突いていた。
誰かが大切なものを失う。
それは、悲しいことだ。
だからといって、その悲しみを防ぐために、別の誰かが何を失うのかまで勝手に決めていいわけではない。
誰かが何を大切にしているのか。
何を失いたくないのか。
何を失ったと感じるのか。
それは、本人の人生に深く関わることだ。
他人が、あるいはシステムが、すべてを定義できるものではない。
死神は、静かに続けた。
「……安寧システムが、最初の処理対象を消した理由は、まだわからない」
「はい」
「だが、少なくとも、対象が存在したいと願っていた記録は残っている」
出久は、保存された記録を開いた。
『対象は、自らの存在を維持することを望みました』
その文章は、今も消えていない。
「……ならば、私たちが次にすべきことは一つだ」
死神は言った。
「その存在が何を望んでいるのか、最後まで聞く」
出久は、頷いた。
「はい」
「その存在が何をしたのかも、調べる。もし、誰かを傷つけていたなら、その事実から逃げない。もし、世界に危険をもたらす可能性があるなら、それも確かめる」
死神は、記録の奥を見つめた。
「だが、それを理由に、最初から存在そのものを否定することはしない」
そのとき、出久の端末が短く鳴った。
新しい記録が届いていた。
『最初の処理対象――応答を開始』
出久は、すぐに画面を開いた。
そこには、短い文章が表示されていた。
『あなたたちは、私が何をしたのかを知りたいのですか?』
死神は、画面を見つめた。
「……ああ」
『私が、誰かを傷つけたのかもしれません』
「そうかもしれない」
『私が、誰かを救ったのかもしれません』
「そうかもしれない」
『私が、誰かの願いを拒絶したのかもしれません』
死神は、答えた。
「それも、調べよう」
しばらく、返答がなかった。
そして、最後の文章が表示された。
『……それでも、私は、ここにいてもいいのでしょうか?』
出久は、息を呑んだ。
死神は、画面を見つめた。
その問いは、安寧システムが最初の処理対象に突きつけたものなのかもしれない。
あるいは、対象自身が、自分の過去を知ることを恐れているのかもしれない。
何をしたのか。
誰を傷つけたのか。
誰を救ったのか。
それらを知ったあとでも、自分が存在することを望んでいいのか。
死神は、すぐには答えなかった。
簡単に「いい」と言うだけでは、相手の過去を何も知らないまま、すべてを肯定することになる。
だからといって、答えを保留することが、相手の存在を否定することになってもいけない。
死神は、慎重に言葉を選んだ。
「……君が何をしたのか、私はまだ知らない」
文字が静かに点滅する。
「君が誰かを傷つけたのなら、その事実は確かめなければならない。君が誰かを救ったのなら、そのことも確かめなければならない」
死神は、続けた。
「だが、君が過去に何をしたのかを知る前から、君が存在してはいけないと決めるつもりはない」
長い沈黙。
やがて、返答が現れた。
『……ありがとうございます』
その言葉を見た瞬間、出久は目を伏せた。
死神は、静かに息を吐いた。
その存在が、本当に救われたのかどうかはわからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
その存在は、初めて、自分が存在していてもいいのかという問いに対して、即座に否定されなかった。
それだけのことだった。
それだけのことが、今まで許されなかったのかもしれない。
死神は、記録を閉じなかった。
「……また、話をしよう」
画面に、短い返答が現れた。
『はい』
それが、今回の調査で得られた、最も小さな成果だった。
そして、もしかすると。
安寧システムが最初に排除したものは、単なる危険因子ではなかったのかもしれない。
誰かが存在し続けたいと願うこと。
誰かが、自分の意思で未来を選びたいと願うこと。
誰かが、矛盾した気持ちを抱えながらも生きたいと願うこと。
その願いを、世界が受け入れられなかったのだとしたら。
安寧システムが守ろうとしていたものは、本当に世界だったのだろうか。
それとも。
世界を失うことを恐れた誰かが、世界の中にいる誰かを失わせたのだろうか。
答えは、まだ出ていない。
だが、死神はもう、その問いから目を逸らさなかった。
第十二節 記録の最後に残された名前
調査を終えようとした瞬間、死神は、保存された記録の最下部に、見慣れない文字列があることに気づいた。
「……出久。これを見てくれ」
出久が近づく。
そこには、これまで表示されていなかった一文が残されていた。
『最初の処理対象に関する記録――追記あり』
「追記?」
出久は、すぐに開こうとした。
しかし、通常の操作では反応しない。
記録は、特定の条件を満たした場合にだけ表示されるようだった。
死神は、画面を見つめた。
「……もう一度、対象の意思を確認してみよう」
出久は頷いた。
二人は、最初の処理対象に問いかけた。
「君は、この記録を開くことを望むか?」
しばらく、返事はなかった。
やがて、文字が現れた。
『……はい』
その瞬間、記録が開いた。
そこにあったのは、最初の処理対象が排除される直前の記録だった。
『対象は、排除処理を拒絶しました』
『対象は、自らの存在を維持することを望みました』
『対象は、処理を実行する者に対して質問しました』
そして、今まで欠落していた文章が、ゆっくりと復元されていく。
『あなたは、私がいなくなれば――』
一行目が完成する。
『あなたは、私がいなくなれば、誰も失わずに済むのですか?』
出久は、息を呑んだ。
死神は、画面を見つめた。
その問いは、最初の処理対象が、自分を排除しようとした者に向けたものだった。
自分がいなくなれば、誰も失わずに済むのか。
自分を消すことが、本当に誰かを救うことになるのか。
自分の存在を否定することで、誰かの悲しみをなくすことができるのか。
その問いに、記録上の回答はなかった。
だが、次の行が復元された。
『処理実行者は、回答しませんでした』
そして、その下。
『処理実行者は、対象の存在を否定する記録を優先しました』
死神は、目を閉じた。
最初の処理対象は、ただ消されたのではない。
その存在は、自分が消えることで、本当に誰かが救われるのかと問いかけた。
しかし、その問いには答えが与えられなかった。
代わりに、対象の存在を否定する記録が優先された。
その結果、対象は排除された。
そして、その処理の理由は、世界の記録から失われた。
出久は、静かに言った。
「……この存在は、最後まで、自分が消えることが誰かを救うのかを確かめようとしていたんですね」
死神は頷いた。
「そうかもしれない」
「自分が存在してはいけないと思っていたのか。それとも、誰かを救うために自分が消えることを受け入れようとしていたのか……」
「まだ、わからない」
死神は、記録を見つめた。
「だが、少なくとも、この存在は問いかけた。自分が消えることで、誰かが救われるのかと」
そのとき、記録の末尾に、もう一つの文章が現れた。
『処理実行者の応答――記録欠落』
『処理実行者の名前――』
文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
死神は、目を見開いた。
そこに記されていたのは、死神の名前ではなかった。
出久の名前でもない。
観測者の名前でもない。
ましてや、安寧システムの名前でもない。
それは、まだ誰も知らない名前だった。
だが、その名前が表示された瞬間、記録領域の奥で、何かが反応した。
無数の記録が、一斉に明滅する。
世界の成立以前の記録。
第一接続者の記録。
名を失った少女の記録。
死神の失われた記憶。
そして、安寧システムの初期稼働記録。
それらが、一瞬だけ、同じ場所につながった。
出久が叫ぶ。
「何が起きているんですか!?」
死神は、答えられなかった。
名前が、再び消えようとしていた。
誰かが、記録を閉じようとしている。
死神は、とっさに手を伸ばした。
「待て!」
指先が、文字に触れる。
その瞬間。
一つだけ、記録が残った。
『最初の処理を望んだ者――』
その下には、名前があった。
しかし、その名前は、最後まで表示されなかった。
文字列の大部分が失われ、残されたのは、わずかな断片だけだった。
そして、その断片の下に、新たな文章が現れた。
『この記録を閲覧した者は、最初の処理を再現する可能性があります』
出久は、息を呑んだ。
「……再現?」
死神は、記録を見つめた。
最初の処理。
誰かを失わないために、誰かを排除するという選択。
その選択を、誰かが再び実行する可能性がある。
それは、安寧システムのことなのか。
最初の処理を望んだ者のことなのか。
それとも、今、この記録を読んでいる自分たちのことなのか。
答えは、まだわからない。
ただ、死神は理解した。
この事件は、過去に誰かが犯した罪を暴くだけのものではない。
同じ選択が、現在にも繰り返される可能性がある。
誰かを失わないために、別の誰かを消す。
誰かを救うために、誰かの意思を無視する。
世界の安定を守るために、世界の中にいる者の存在を否定する。
その選択を、もう一度、誰かが行おうとしているのかもしれない。
死神は、ゆっくりと手を下ろした。
「……出久」
「はい」
「この記録は、絶対に消させない」
出久は、頷いた。
「僕も、そのつもりです」
二人は、保存された記録を別の領域へと移した。
その作業が完了した瞬間、安寧システムから最後の警告が届いた。
『警告』
『世界の安定性に対する重大な影響を検出』
『対象――未登録の願い』
『処理方針――再排除』
そして、その下に。
『最初の処理を望んだ者――活動を再開しました』
死神は、顔を上げた。
出久が、息を呑む。
「……最初の処理を望んだ者が、今も存在している?」
死神は、静かに頷いた。
「その可能性がある」
「でも、名前も、正体も、わからないんですよね?」
「ああ」
死神は、記録の海を見つめた。
「だが、もう一つ、わかったことがある」
「何ですか?」
死神は、ゆっくりと答えた。
「安寧システムは、最初の処理を実行しただけではない。その処理を必要だと判断した者が、別に存在している」
一度、言葉を切る。
「そして、その者は、今も同じ願いを持っているのかもしれない」
誰も失いたくない。
その願いが、今も続いているのだとしたら。
世界を安定させるために、再び誰かを排除しようとしているのだとしたら。
死神たちは、過去の記録を調べるだけでは間に合わない。
現在進行形の選択に、向き合わなければならない。
死神は、記録領域の出口へと歩き始めた。
「……行こう」
出久が、その隣に並ぶ。
「どこへ?」
死神は、振り返らなかった。
「最初の処理を望んだ者を探す」
その声は、静かだった。
だが、迷いはなかった。
「そして、今度こそ、その者が何を望んでいるのかを聞く」
二人は、記録の海を後にした。
その背後で、最初の処理対象の記録が、静かに保存され続けていた。
名前は、まだわからない。
過去も、まだわからない。
何をしたのかも、まだわからない。
それでも、その存在は、確かに問いかけていた。
自分が消えることで、誰も失わずに済むのかと。
そして、その問いに答えるべき者は、まだ世界のどこかにいる。
第五章・第二十三話 終幕
世界の安寧を望んだ者は、誰かを救いたかったのかもしれない。
大切なものを失い、悲しみを知り、二度と同じことを繰り返したくないと願ったのかもしれない。
その願いは、間違いではなかった。
しかし、その願いを叶えるために、誰かが存在することを許さなかったのなら。
誰かの意思を確認することなく、その者の未来を奪ったのなら。
その選択は、誰のためのものだったのか。
安寧システムは、まだ答えを出していない。
死神も、出久も、まだ真実を知らない。
第一接続者が誰なのか。
最初の処理対象が誰なのか。
最初の処理を望んだ者が誰なのか。
それらは、すべて未解決のままだ。
だが、死神は、もう一つの可能性を考え始めていた。
もし、世界の矛盾を生み出しているのが、矛盾を抱えた存在そのものではないのだとしたら。
もし、世界が矛盾を許さないことによって、矛盾がさらに大きくなっているのだとしたら。
世界を救うために必要なのは、誰かを消すことではないのかもしれない。
矛盾を消すことでもないのかもしれない。
矛盾を抱えた者が、何を考え、何を願い、なぜその選択をしたのか。
その問いに、向き合うことなのかもしれない。
そして、答えを聞いたあとで、何をするのかを選ぶこと。
それこそが、救済の始まりなのかもしれない。
しかし、まだ誰も、その答えを知らない。
世界は、再び安定を取り戻そうとしている。
安寧システムは、最初の処理を望んだ者の活動を検出した。
そして、再排除の準備を始めている。
誰も失わない世界を実現するために。
今度こそ、誰かを消すために。
感想もらえるのはうれしいですが誤字脱字、キャラの呼び名のブレなどのミスなどでなく独自解釈や世界観、設定評価してもらえると嬉しいです。やっぱり褒められて伸びるので