僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

116 / 172
第二十四話「帰る場所を覚えている者」

第一幕 帰りたい、という言葉

少女は、白い部屋の中で目を覚ました。

 

窓はない。

 

時計もない。

 

壁と床の境界さえ曖昧な空間には、朝なのか夜なのかを判断する手がかりが何一つ存在しなかった。

 

それでも、彼女は目を開けた瞬間、朝だと思った。

 

理由は分からない。

 

けれど、そう思った。

 

どこか遠くで、鳥が鳴いたような気がしたからだ。

 

「……朝?」

 

声に出してみる。

 

返事はなかった。

 

彼女はゆっくりと上半身を起こした。

 

白い衣服。白い寝台。白い床。

 

自分の手を見つめる。

 

指は五本。

 

爪もある。

 

手のひらには、何かを握りしめていたような感覚が残っていた。

 

何を握っていたのだろう。

 

花だろうか。

 

誰かの手だろうか。

 

それとも、決して手放してはいけない何かだったのだろうか。

 

思い出そうとした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

 

「……っ」

 

少女は胸元を押さえた。

 

痛みは肉体のものではなかった。

 

もっと深いところ。

 

自分が自分であると感じる、その根元に近い場所。

 

そこに、ぽっかりと穴が空いている。

 

自分には、何かがあった。

 

大切なものがあった。

 

失いたくないものがあった。

 

そのことだけは分かる。

 

なのに、それが何だったのかを思い出せない。

 

少女は顔を伏せた。

 

泣きたいと思った。

 

けれど、涙が出る理由さえ分からなかった。

 

「……私は」

 

口を開く。

 

自分の名前を言おうとした。

 

何も出てこない。

 

家族の名前も。

 

友達の名前も。

 

自分が住んでいた場所の名前も。

 

思い出そうとするたび、頭の中に白い霧が広がっていく。

 

その霧の向こう側に、何かがある。

 

誰かがいる。

 

それだけは確かだった。

 

「……帰りたい」

 

少女は、そう呟いた。

 

言葉にした瞬間だった。

 

空間が、かすかに揺れた。

 

壁の向こうから、機械の作動音が聞こえる。

 

少女の目の前に、文字が浮かび上がった。

安寧システム/未分類記録領域

 

対象者の発話を検出。

 

帰還要求――確認。

 

帰還先――不明。

 

帰還許可――未判定。

 

少女は文字を見つめた。

 

「帰還先……?」

 

何を言っているのか、分からなかった。

 

自分は、ただ帰りたいと言っただけだ。

 

どこに帰るのか。

 

そんなこと、分からない。

 

分からないけれど。

 

帰らなければならない。

 

そう思った。

 

「……どこ?」

 

少女は、誰もいない空間に問いかけた。

 

「私は、どこに帰りたいの?」

 

答えはなかった。

 

代わりに、最後の一文が表示された。

記録照合結果

 

その者は、帰ることを許されていません。

 

少女は、息を止めた。

 

「……どうして?」

 

その問いに、システムは答えなかった。

 

少女は文字に触れようとした。

 

指先が届く直前、記録は消えた。

 

まるで、最初から存在していなかったかのように。

 

けれど、少女の胸に生まれた感覚だけは消えなかった。

 

帰りたい。

 

そして。

 

帰ってはいけない。

 

その二つが、彼女の中で同時に息づいていた。

 

「……私、何をしたの?」

 

少女は、自分の両手を見つめた。

 

「私は……誰かを、傷つけたの?」

 

誰も答えない。

 

彼女は唇を噛んだ。

 

「それとも……誰かを、置いてきたの?」

 

その言葉を口にした瞬間。

 

白い空間のどこかで、何かが軋んだ。

 

世界の記録が、彼女の言葉に反応していた。

 

そして、記録のさらに奥。

 

名前を持たない領域で、ひとつの古い記録が、静かに開き始めた。

 

帰還要求。

 

照合対象――世界成立以前の記録。

 

一致率――算出不能。

 

照合を継続しますか?

 

本来なら、ここで処理は停止されるはずだった。

 

世界成立以前の記録など、存在するはずがない。

 

世界が生まれる前には、世界の記録も存在しない。

 

それが安寧システムの基本原則だった。

 

しかし、記録は自ら閉じなかった。

 

まるで、ずっと待っていたかのように。

 

誰かが帰ってくるのを。

 

誰かが、帰りたいと言うのを。

 

そして、誰かがその言葉を聞くのを。

 

システムは、初めて判断に迷った。

 

帰還先が存在しないのなら、帰還要求は成立しない。

 

帰還が許されていないのなら、要求は拒否されるべきだ。

 

だが。

 

帰還先が存在しないことと、帰る場所が存在しなかったことは、同じなのだろうか。

 

安寧システムは、その問いを処理できなかった。

 

そして、問いを消去することもできなかった。

 

白い部屋で、少女は膝を抱えた。

 

「……誰か」

 

小さな声だった。

 

「誰か、教えて」

 

彼女は、何も覚えていない。

 

それでも、誰かに呼びかけることだけはできた。

 

「私の帰る場所を、知っている人はいませんか?」

 

その声は、世界の記録の奥へと落ちていった。

 

誰にも届かないはずの場所へ。

 

けれど、その声を聞いた者がいた。

 

緑谷出久だった。

 

第二幕 聞こえた声

「……今の、聞こえた?」

 

緑谷出久は、足を止めた。

 

死者の記録が保管されている隔離領域。

 

本来なら、そこには音など存在しない。

 

記録は文字として保存され、必要に応じて再生される。声が聞こえる場合も、それは過去の発話を記録媒体が再現しているにすぎない。

 

だが、今の声は違った。

 

録音ではない。

 

記録の再生でもない。

 

誰かが、現在進行形で呼びかけてきたのだ。

 

「……帰りたい」

 

少女の声だった。

 

出久は顔を上げた。

 

目の前には、無数の記録が浮かんでいる。

 

名前を失った死者たち。

 

存在を否定された人々。

 

世界の歴史から切り離された者たち。

 

そのどれにも、声の発信元を示す情報はなかった。

 

「死神さん!」

 

少し離れた場所にいた死神が振り返る。

 

「どうした」

 

「今、声が聞こえました。女の子の声です。帰りたいって……」

 

死神の表情が変わった。

 

「どこからだ」

 

「分かりません。でも、記録の外側から聞こえた気がします」

 

死神は目を閉じた。

 

周囲に漂う記録の流れを感じ取る。

 

死者の記録は、それぞれ異なる速度で明滅していた。

 

誰かの生涯。

 

誰かの最期。

 

誰かが愛した人の顔。

 

誰かが最後まで言えなかった言葉。

 

それらは世界の記録によって整理され、保存され、分類されている。

 

だが、その流れの奥に、一か所だけ奇妙な空白があった。

 

空白というより、空白のふりをした何か。

 

記録が存在しないのではない。

 

記録が存在することを、世界そのものが認めていない。

 

死神は、その場所を見つめた。

 

「……またか」

 

「また?」

 

「世界が認めないものほど、世界の根に近い場所に残ることがある」

 

「それって、どういうことですか?」

 

「まだ分からん」

 

死神は率直に答えた。

 

「分からないことを、分かったふりで埋めるのは危険だ。特に、この場所ではな」

 

出久は頷いた。

 

最近、彼はその言葉の意味を嫌というほど理解し始めていた。

 

第一接続者。

 

世界成立以前の記録。

 

死神の失われた記憶。

 

デウス・マキナ。

 

安寧システム。

 

名前を集める者。

 

そして、存在しているのかどうかさえ確かめられない何者か。

 

ひとつひとつの謎を解こうとするたび、その向こう側に、さらに大きな謎が姿を現す。

 

それでも。

 

「……あの子は、帰りたいって言いました」

 

出久は言った。

 

「どこに帰るのかも分からないのに。それでも、帰りたいって」

 

死神は、出久を見た。

 

「だから、確かめに行くのか」

 

「はい」

 

「罠かもしれない」

 

「分かっています」

 

「安寧システムが、お前を誘い込むために作った声かもしれん」

 

「それも、否定できません」

 

「その先に何があるのか分からない。お前自身の記録が損なわれる可能性もある」

 

「……はい」

 

出久は一度、目を伏せた。

 

そして、再び顔を上げた。

 

「それでも、誰かが呼んでいるなら、まずは聞きに行きたいです」

 

死神は、しばらく何も言わなかった。

 

その言葉を、否定できなかったからではない。

 

出久の中にあるものが、以前とは少し変わっていることに気づいたからだ。

 

以前の出久なら、声を聞いた瞬間に走り出していたかもしれない。

 

危険を考える前に、誰かを助けようとしただろう。

 

それは彼の美点だった。

 

そして、彼自身を傷つけてきた性質でもあった。

 

今の出久は、危険を理解している。

 

失敗する可能性も、自分が誰かを救えるとは限らないことも。

 

それでも、声を無視するという選択をしなかった。

 

「……行くぞ」

 

死神は言った。

 

「ただし、今回は私が先に確認する。お前は勝手に記録へ触れるな」

 

「分かりました」

 

「本当に分かっているのか?」

 

「分かっています!」

 

「以前もそう言って、記録の中に飛び込んだだろう」

 

「それは……」

 

「今回はやるな」

 

「……はい」

 

死神は小さく息を吐いた。

 

「まったく。力を失っても、お前の無茶だけは消えないらしい」

 

「それ、褒めてます?」

 

「叱っている」

 

「ですよね……」

 

ほんの一瞬だけ、二人の間にいつもの調子が戻った。

 

けれど、空気はすぐに張り詰める。

 

死神が手をかざすと、空白のふりをした領域がゆっくりと開いた。

 

扉はない。

 

境界線もない。

 

ただ、世界の記録が途切れている場所へ、二人は足を踏み入れた。

 

その瞬間。

 

出久の耳元で、少女の声が再び響いた。

 

『……誰か、いますか?』

 

出久は答えた。

 

「いるよ」

 

声が震えないように、ゆっくりと。

 

「僕たちは、ここにいる」

 

『……本当に?』

 

「うん」

 

『……私の声、聞こえているの?』

 

「聞こえているよ」

 

沈黙。

 

そして、少女は小さく息を吸った。

 

『……よかった』

 

その言葉は、あまりにも幼かった。

 

世界の謎を解く者の声ではない。

 

世界の構造を変えようとする者の声でもない。

 

ただ、ひとりぼっちの場所で、誰かが自分の声を聞いてくれたことに安堵する、ひとりの人間の声だった。

 

『……お願いがあります』

 

「うん。聞くよ」

 

『私を……』

 

声が途切れた。

 

何かを言おうとして、言葉が出てこない。

 

『……私を、ここから連れ出してください』

 

出久は目を閉じた。

 

その願いに、すぐ「分かった」と答えることはできなかった。

 

連れ出すことが、本当に彼女の望みを叶えることなのか。

 

彼女がここにいる理由は何なのか。

 

外へ出た先に、彼女を待つものは何なのか。

 

何ひとつ分かっていない。

 

それでも、ひとつだけ答えられることがあった。

 

「……君が何を望んでいるのか、僕たちは聞きに行く」

 

出久は言った。

 

「君がどこに帰りたいのかも、どうしてここにいるのかも、一緒に考える。だから、まずは君のところへ行かせてほしい」

 

『……はい』

 

声は消えた。

 

しかし今度は、出久にも分かった。

 

彼女は確かに、そこにいる。

 

世界の記録が否定していても。

 

名前がなくても。

 

彼女自身が、自分の過去を思い出せなくても。

 

少なくとも今、誰かに聞いてほしいと願っている人間がいる。

 

その事実だけは、消せなかった。

 

第三幕 帰り道のない場所

空白の領域は、想像していたものとは違っていた。

 

そこには、何もないわけではなかった。

 

むしろ、何かが多すぎた。

 

白い道。

 

遠くに見える街並み。

 

夕暮れの空。

 

風に揺れる木々。

 

誰かが歩いた足跡。

 

そのすべてが、輪郭を持たないまま存在している。

 

道は途中で途切れていた。

 

建物は窓だけを残して消えていた。

 

木々には葉があるのに、根がなかった。

 

空には夕日が浮かんでいるのに、光がどこから来ているのか分からなかった。

 

「……ここは」

 

出久は周囲を見渡した。

 

「誰かの記憶なんでしょうか?」

 

「そうとも限らない」

 

死神は、足元に目を落とした。

 

白い道には、無数の足跡が残っている。

 

そのほとんどは、途中で消えていた。

 

あるものは一歩だけ。

 

あるものは十歩ほど進んでから。

 

あるものは、誰かと並んで歩いていたかのように二列に続き、突然、一方だけが消えている。

 

「記憶というものは、必ずしも過去をそのまま映すわけではない」

 

死神は言った。

 

「見たもの。感じたもの。そうあってほしかったもの。二度と思い出したくないもの。そうしたものが混ざり合い、人は自分の過去を形作る」

 

「じゃあ、ここは……」

 

「この少女が覚えている場所かもしれない。覚えていたい場所かもしれない。あるいは、帰る場所があると信じるために生まれた場所かもしれん」

 

出久は、道の先を見た。

 

遠くに、人影があった。

 

小さな影だった。

 

少女のようにも見える。

 

しかし、近づこうとすると、影は霧の向こうへ消えてしまう。

 

「待って!」

 

出久は思わず声を上げた。

 

影は止まらなかった。

 

「君を探しているんだ!」

 

その瞬間、足元の道が崩れた。

 

出久は反射的に飛び退く。

 

白い地面が音もなく消え、その下に暗闇が広がった。

 

死神が出久の腕をつかんだ。

 

「走るなと言ったはずだ」

 

「すみません……!」

 

「謝るのは後だ。今のは、道が崩れたのか?」

 

「……いえ」

 

出久は、消えた地面を見つめた。

 

「僕が近づこうとした瞬間に、消えました」

 

「つまり、こちらの接近に反応した可能性がある」

 

死神は周囲を見回した。

 

「あるいは、あの影がこちらに近づかれたくなかったのかもしれない」

 

出久は、遠ざかる影を見た。

 

追いかけたい。

 

しかし、追いかければ道が消えるかもしれない。

 

彼女が逃げているのなら、追跡そのものが恐怖になる可能性もある。

 

出久は、拳を握りしめた。

 

かつての彼なら、走っていただろう。

 

声が届く距離まで近づき、手を伸ばし、相手を捕まえようとしていたかもしれない。

 

だが、助けたいという気持ちは、相手の意思を無視していい理由にはならない。

 

彼女は、ここから連れ出してほしいと言った。

 

それでも、彼女自身が今、近づかれることを望んでいるかどうかは分からない。

 

出久は、その場に立ち止まった。

 

そして、遠くの影へ向かって声をかけた。

 

「……無理に近づいたりしないよ!」

 

影が揺れた。

 

「君が怖いなら、ここで待つ!」

 

返事はなかった。

 

「僕たちは、君を捕まえに来たんじゃない!」

 

風が吹いた。

 

白い道の両側に並ぶ木々が、音もなく揺れる。

 

出久は続けた。

 

「君が帰りたい場所を知りたいんだ。もし、帰りたくない理由があるなら、それも聞きたい!」

 

影は動かなかった。

 

「君が誰かを傷つけたのなら、そのことも一緒に考える。君が何かを失ったのなら、それも……なかったことにはしない」

 

出久は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「だから、君が話したいと思ったときに、話してくれればいい」

 

長い沈黙があった。

 

やがて、影が振り返った。

 

顔は見えない。

 

それでも、出久には分かった。

 

少女は、こちらを見ている。

 

「……僕の名前は、緑谷出久」

 

出久は名乗った。

 

「こっちは死神さん。君の名前は、まだ分からないけど……無理に聞いたりしない」

 

死神が横目で出久を見た。

 

「勝手に私の名前まで教えるな」

 

「えっ、でも……」

 

「冗談だ」

 

「……死神さん、そういう冗談言うんですね」

 

「今、初めて知ったのか?」

 

そんなやり取りをしている間に、少女の影は少しだけ近づいていた。

 

一歩。

 

もう一歩。

 

そして、道の中央で立ち止まった。

 

彼女は顔を上げた。

 

そこにいたのは、白い衣服をまとった少女だった。

 

年齢は、見た目だけでははっきりしない。

 

幼くも見えるし、どこか大人びても見える。

 

髪の色も、瞳の色も、記録が定まらないように揺らいでいた。

 

ただ、その表情だけは確かだった。

 

怖がっている。

 

それでも、誰かに会いたかったのだ。

 

「……本当に、来たんだ」

 

少女が呟いた。

 

出久は頷いた。

 

「うん。君の声が聞こえたから」

 

「……どうして?」

 

「どうしてって……」

 

出久は少し考えた。

 

「君が、来てほしいって言ったから」

 

少女は目を伏せた。

 

「……それだけ?」

 

「それだけじゃ、駄目かな?」

 

「……分からない」

 

少女は正直に答えた。

 

「私には、何も分からないの」

 

自分の名前も。

 

ここにいる理由も。

 

帰りたい場所も。

 

何もかも。

 

「……でも」

 

少女は、胸元に手を当てた。

 

「あなたの声を聞いたとき、少しだけ……怖くなくなった」

 

出久は何も言わなかった。

 

その言葉を、簡単な慰めで塗りつぶしたくなかったからだ。

 

少女は、ゆっくりと二人に近づいた。

 

今度は道が消えなかった。

 

第四幕 少女の記憶にあるもの

「君は、何か思い出せた?」

 

出久が尋ねると、少女は首を横に振った。

 

「……何も」

 

「名前も?」

 

「うん」

 

「ここに来る前のことも?」

 

「……分からない」

 

少女は自分の手を見つめた。

 

「でも、変なの」

 

「変?」

 

「何も覚えていないのに、知っていることがあるの」

 

彼女は、遠くの街並みを見た。

 

「道を見ていると、歩いたことがある気がする。木を見ていると、誰かと一緒に眺めたことがある気がする。空を見ていると……」

 

言葉が止まった。

 

少女は、空を見上げた。

 

そこには夕暮れが広がっていた。

 

赤でもなく、橙でもなく、紫でもない。

 

色を決めることのできない、不思議な夕空だった。

 

「……誰かが、帰ってくるのを待っていた気がする」

 

出久は、彼女の横顔を見た。

 

「誰かを待っていた?」

 

「うん」

 

「その人が誰なのかは?」

 

「分からない」

 

少女は首を振った。

 

「でも、待っていたの。ずっと」

 

「ずっと……」

 

「帰ってきたら、何かを言おうと思っていた気がする」

 

少女の声が少しだけ明るくなった。

 

「きっと、伝えたいことがあったの」

 

その表情が、すぐに曇った。

 

「……でも、何を言いたかったのか、思い出せない」

 

彼女は唇を結んだ。

 

「もしかしたら、謝ろうとしていたのかもしれない」

 

出久は、何も答えなかった。

 

「それとも、怒っていたのかな。もう帰ってこないでって、言おうとしていたのかもしれない」

 

少女は自分の胸を押さえた。

 

「……分からない。私、その人に会いたかったのかな。それとも、会いたくなかったのかな」

 

声がかすれた。

 

「会いたいのに、会いたくないことってあるの?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

その問いは、彼自身にも覚えがあるものだった。

 

会いたい人がいる。

 

もう一度、話したい人がいる。

 

けれど、会ったら何を言えばいいのか分からない。

 

許したい気持ちと、許せない気持ち。

 

助けたい気持ちと、助けることを恐れる気持ち。

 

ひとつの心の中に、相反する感情が存在することはある。

 

どちらかが偽物とは限らない。

 

「……あると思う」

 

出久は答えた。

 

「会いたいけど、会うのが怖いこともある。好きだったのに、傷つけられて、もう近づきたくないと思うこともある」

 

少女は、出久を見た。

 

「それは……おかしいこと?」

 

「おかしくないよ」

 

出久は言った。

 

「少なくとも、僕はそう思わない」

 

少女は何かを考えるように黙り込んだ。

 

「……でも、どちらかを選ばないといけないんじゃないの?」

 

「どうして?」

 

「だって、会いたいなら会いたい。会いたくないなら会いたくない。そうじゃないと……何が本当なのか分からなくなるから」

 

その言葉に、死神が反応した。

 

「誰かに、そう教えられたのか?」

 

少女は首を振った。

 

「分からない。でも、そんな気がするの」

 

「気がする、か」

 

死神は目を細めた。

 

「記憶が失われても、教え込まれた判断基準だけが残ることはある。だが、今の言葉が本当に彼女自身の考えなのか、誰かに与えられたものなのかは、まだ判断できん」

 

出久は少女を見つめた。

 

「君は、どちらかを選びたい?」

 

少女は答えられなかった。

 

会いたい。

 

会いたくない。

 

帰りたい。

 

帰ってはいけない。

 

自分の中には、いくつもの感情がある。

 

それなのに、どれかひとつを選ばなければ、自分が自分でなくなってしまうような気がする。

 

「……分からない」

 

少女は、再びそう言った。

 

「私、自分のことが分からないの」

 

「うん」

 

「何を考えているのかも。何が好きだったのかも。何をしたのかも」

 

「うん」

 

「……私が、悪い人だったら?」

 

その問いには、震えがあった。

 

「誰かを傷つけた人だったら?」

 

出久は、彼女の言葉を遮らなかった。

 

「……私は、帰ってはいけないの?」

 

夕空が、少しずつ暗くなっていく。

 

出久は、少女の目を見た。

 

「君が何をしたのか、僕たちはまだ知らない」

 

「……うん」

 

「だから、君が悪い人だったとも、何も悪くなかったとも、今は言えない」

 

少女の瞳が揺れた。

 

「……そうなんだ」

 

「でも」

 

出久は続けた。

 

「何かをしたことと、君がこれから何を望んでいいのかは、別の問題だと思う」

 

少女は、顔を上げた。

 

「別……?」

 

「もし君が誰かを傷つけたのなら、そのことを知って、向き合わなきゃいけないかもしれない。謝る必要があるかもしれないし、相手が君を許さないことだってあると思う」

 

出久は、言葉を選んだ。

 

「でも、だからといって、君が何も望んではいけないことにはならない。君が何をしたのかを知ることも、君がこれからどうしたいのかを考えることも、どちらも必要なんだと思う」

 

「……許してもらえなくても?」

 

「うん」

 

「……帰りたいと思っても?」

 

「うん」

 

少女は、目を見開いた。

 

まるで、そんな答えを聞いたことがなかったかのように。

 

「……どうして?」

 

出久は少しだけ困ったように笑った。

 

「僕も、まだ全部分かっているわけじゃないんだ」

 

彼は、自分の手を見た。

 

かつては、力があった。

 

誰かを助けるための力。

 

誰かを守るための力。

 

その力を失ってからも、自分は誰かを救いたいと思い続けている。

 

けれど、救いたいと思うことと、相手を救えることは同じではない。

 

誰かを救うつもりで、相手の気持ちを無視してしまうことだってある。

 

「……ただ、君が何をしたのか分からないまま、君には帰る資格がないって決めるのは、違うと思う」

 

出久は言った。

 

「君が帰りたいと思っているなら、まずは、どうして帰りたいのかを聞きたい」

 

少女は、しばらく出久を見つめていた。

 

やがて、彼女は小さく頷いた。

 

「……ありがとう」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

遠くの街並みが、わずかに形を変えた。

 

建物の輪郭が鮮明になる。

 

道の先に、ひとつの門が現れる。

 

その門の向こうには、灯りのついた家があった。

 

少女は、息を呑んだ。

 

「……あ」

 

彼女の足が、一歩前へ出る。

 

「……あそこ」

 

出久と死神は、同時に門を見た。

 

家の窓から、柔らかな光が漏れている。

 

煙突から煙が上がっている。

 

庭には、一本の木が植えられていた。

 

その木の下に、小さな椅子がある。

 

椅子は二つ。

 

ひとつは、門の内側を向いていた。

 

もうひとつは、家の玄関を向いていた。

 

誰かが、そこで待っていたのだろうか。

 

少女は、震える手を伸ばした。

 

「……知ってる」

 

声がかすれた。

 

「私、ここを……」

 

記憶の断片が、彼女の中に流れ込む。

 

夕暮れの道。

 

木の葉が揺れる音。

 

温かい食事の匂い。

 

誰かが笑う声。

 

玄関の向こうから聞こえる、足音。

 

そして。

 

『おかえり』

 

少女の顔から、血の気が引いた。

 

「……っ!」

 

彼女は頭を抱えた。

 

「違う……!」

 

門の向こうで、何かが動いた。

 

人影だった。

 

家の扉が開く。

 

誰かが外へ出てくる。

 

顔は見えない。

 

それでも、少女には分かった。

 

その人は、自分を見ていた。

 

自分が帰ってくるのを、待っていた。

 

「……やめて」

 

少女は後ずさった。

 

「……やめて、お願い……!」

 

出久が近づこうとした。

 

だが、少女は両手を前に突き出した。

 

「来ないで!」

 

出久は、すぐに足を止めた。

 

「分かった。近づかない」

 

「……違う、違うの……!」

 

少女は首を振った。

 

「ここじゃない……!」

 

門の向こうの人影が、ゆっくりとこちらへ歩き始めた。

 

「ここに帰りたかったはずなのに……!」

 

少女の声が、悲鳴に近づいていく。

 

「……ここに帰りたかったのに、どうして……!」

 

彼女の目から涙がこぼれた。

 

「どうして、帰ってきちゃいけないの……!」

 

その瞬間。

 

門が閉じた。

 

音もなく。

 

家の灯りが消える。

 

庭の木が、根元から崩れる。

 

道が砕け、空が裂け、街並みが白い霧に呑まれていく。

 

少女は、その場に崩れ落ちた。

 

「……私」

 

震える声で、彼女は言った。

 

「……私、あそこに……」

 

言葉が続かない。

 

出久は、少女の前に膝をついた。

 

触れない距離を保ちながら、彼女の言葉を待った。

 

長い沈黙のあと。

 

少女は、ようやく顔を上げた。

 

「……あそこに、帰りたかったんだ」

 

涙が頬を伝う。

 

「……あそこが、私の帰る場所だった気がする」

 

彼女は、もう一度、崩れた門のあった場所を見た。

 

「でも……」

 

声が消え入りそうになる。

 

「……私は、あそこに帰ってはいけないんだって」

 

出久は、答えられなかった。

 

それは、ただの記憶ではなかった。

 

誰かが彼女に与えた恐怖なのか。

 

彼女自身が犯した何かの結果なのか。

 

それとも、世界の記録が彼女に植えつけた拒絶なのか。

 

まだ何も分からない。

 

ただ、ひとつだけ確かなことがあった。

 

彼女が帰りたいと願う場所は、存在していた。

 

少なくとも、彼女の心の中には。

 

そして、その場所へ帰ることを拒む何かが、確かに存在している。

 

第五幕 帰還を拒む者

「……見えたか?」

 

死神が尋ねた。

 

出久は頷いた。

 

「はい。あの家……本当に、彼女の記憶なんでしょうか」

 

「可能性はある。だが、記憶の中の光景が、そのまま過去の事実を証明するわけではない」

 

死神は、少女が見ていた場所を調べた。

 

崩壊した空間には、奇妙な痕跡が残っていた。

 

門のあった場所。

 

木が立っていた場所。

 

家の玄関があった場所。

 

そこには、通常の記録とは異なる反応がある。

 

記録が削除された痕跡ではない。

 

記録が壊れた痕跡でもない。

 

何かが、そこに存在することを許さなかった痕跡だ。

 

「……これは」

 

死神の表情が険しくなる。

 

「記録そのものが、帰還を拒否している」

 

「帰還を……?」

 

「ただの記憶の欠落なら、ここまで明確な拒絶反応は出ない。何者かが、この場所に戻ることを認めていない可能性がある」

 

出久は、少女を見た。

 

彼女はまだ、膝を抱えて座っていた。

 

「……どうして、そんなことを?」

 

「分からん」

 

死神は短く答えた。

 

「だが、安寧システムが示した記録を思い出せ」

 

出久の脳裏に、先ほどの文字が蘇る。

 

――その者は、帰ることを許されていません。

 

「……あれは、システムが判断した結果なんでしょうか」

 

「そうかもしれない。だが、あの文言は単なる判断結果というより、すでに存在している条件を読み取ったようにも見える」

 

「条件?」

 

「帰ってはいけない。帰ることが許されない。そうした制約が、彼女の存在に結びついているのかもしれん」

 

出久は息を呑んだ。

 

もしそうなら、安寧システムは彼女を拒絶する最初の存在ではない。

 

もっと以前から。

 

世界が今の形になるより前から。

 

彼女は帰ることを許されていなかったのかもしれない。

 

「……死神さん」

 

「何だ」

 

「彼女が、何か悪いことをしたからなんでしょうか」

 

死神はすぐには答えなかった。

 

「可能性はある」

 

少女の肩が、かすかに揺れた。

 

聞こえていたのだ。

 

「だが、それだけでは説明できない」

 

死神は続けた。

 

「罪を犯した者の帰還を拒むことと、その者の存在そのものを否定することは違う。誰かを傷つけたのなら、その事実を調べ、責任を明らかにすればいい。だが、何をしたのかも分からない段階で、帰る場所まで奪う理由にはならん」

 

少女は顔を上げた。

 

死神は、彼女を見つめていた。

 

「……君は、何かを思い出したか?」

 

少女は唇を震わせた。

 

「……少しだけ」

 

「何を?」

 

「……誰かが、私を待っていた」

 

彼女は、言葉を選ぶように話した。

 

「私が帰ってくるのを、ずっと待っていた気がするの」

 

「その人物が誰なのかは分かるか?」

 

「……分からない」

 

「君を待っていた理由は?」

 

「……分からない」

 

「君が帰ることを拒んだ理由は?」

 

少女は、目を伏せた。

 

「……分からない」

 

死神は頷いた。

 

「そうか」

 

それだけだった。

 

責めなかった。

 

急かさなかった。

 

答えられないことを、罪の証拠にもしなかった。

 

少女は、少しだけ戸惑ったようだった。

 

「……怒らないの?」

 

「なぜ怒る必要がある」

 

「だって、何も答えられないから……」

 

「答えられないことと、答えようとしないことは違う」

 

死神は言った。

 

「君は今、思い出そうとしている。それ以上を無理に求めても、真実が早く見つかるとは限らん」

 

少女は、じっと死神を見つめた。

 

「……あなたは、私が悪い人だったら、どうするの?」

 

「悪いことをしたのなら、その事実から目を背けない」

 

死神は答えた。

 

「だが、君が悪いことをしたという理由で、君の話を聞くことまでやめるつもりはない」

 

少女は、何も言わなかった。

 

やがて、小さく尋ねた。

 

「……私が帰りたいって言ったら?」

 

「聞く」

 

「……帰りたい場所が、もうなくなっていたら?」

 

死神は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 

「そのときは、なくなったという事実を一緒に確かめる」

 

「……帰ることが、許されていなかったら?」

 

「誰が、何のために許していないのかを調べる」

 

少女の目に、再び涙が浮かんだ。

 

「……もし、私自身が、帰ってはいけないって決めていたら?」

 

その問いに、死神は静かに答えた。

 

「それなら、なぜそう決めたのかを聞く」

 

少女は、声を出さずに泣いた。

 

死神は、泣く理由を尋ねなかった。

 

出久も、慰めの言葉を急がなかった。

 

彼女が泣いている理由を、二人ともまだ知らなかったからだ。

 

ただ、ここには誰もいないわけではなかった。

 

彼女の言葉を聞く者がいる。

 

彼女が答えられないことを、答えられないまま受け止める者がいる。

 

それだけで、世界の何かが変わることもある。

 

その変化は、まだ小さかった。

 

だが、確かに存在していた。

 

第六幕 安寧システムの誤算

その頃。

 

世界の記録を管理する安寧システムでは、異常な処理が連続していた。

 

少女の帰還要求を受信した記録領域が、通常の分類から逸脱し始めたのである。

安寧システム/内部監査

 

対象:未分類存在

- 存在記録:不完全

- 名前:未登録

- 過去の行動:照合不能

- 帰還要求:受信済み

- 帰還先:部分的に検出

- 帰還許可:未判定

警告:相互矛盾する記録を検出しました。

 

システムは、少女の記録を解析した。

 

帰還先は存在する。

 

しかし、帰還は許可されていない。

 

少女は帰りたいと願っている。

 

しかし、少女自身の記録には、帰還を拒絶する反応が含まれている。

 

そして、帰還を拒む記録の一部は、世界の成立以前に属していた。

 

システムは、これまでにも矛盾を処理してきた。

 

記録と認識が食い違えば、認識を修正する。

 

複数の事実が両立しなければ、一方を除外する。

 

予測できない選択が安定を損なうなら、選択肢を制限する。

 

その手順によって、世界は安定してきた。

 

少なくとも、システムはそう判断していた。

 

だが、少女の記録に同じ手順を適用すると、問題が発生する。

 

帰還を認めれば、帰還を拒む記録と矛盾する。

 

帰還を拒めば、少女の意思と矛盾する。

 

少女の意思を修正すれば、本人が望んでいることと食い違う。

 

拒絶の記録を消去すれば、なぜ拒絶が存在したのかという原因まで失われる可能性がある。

 

どちらを選んでも、矛盾が残る。

 

システムは処理を繰り返した。

 

結論は出なかった。

処理候補A:帰還を許可する。

 

結果予測:既存記録との不整合。

 

処理候補B:帰還を拒否する。

 

結果予測:対象者の意思との不整合。

 

処理候補C:対象者の意思を修正する。

 

結果予測:意思の真正性を判定できない。

 

処理候補D:拒絶記録を消去する。

 

結果予測:原因記録の消失。世界構造への影響は算出不能。

 

処理結果:決定不能。

 

決定不能。

 

それは、安寧システムにとって、極めて異質な状態だった。

 

決定できないのなら、より多くの情報を収集すればいい。

 

情報が不足しているのなら、追加の調査を実行すればいい。

 

しかし、調査対象となる記録そのものが、世界の分類体系の外側にある。

 

システムは、分類不能なものを分類しようとしていた。

 

そして、分類できないことを、異常と判断しようとしていた。

 

そのとき。

 

内部記録に、ひとつの命令が浮かび上がった。

 

対象者の帰還を認めてはならない。

 

システムは、その命令を読み込んだ。

 

命令の形式は、通常の処理指示と異なっていた。

 

発信元がない。

 

登録時刻もない。

 

承認者もいない。

 

それにもかかわらず、命令は最上位の優先度を持っていた。

 

まるで、システムが誕生するよりも前から存在していたかのように。

 

対象者の帰還を認めてはならない。

 

システムは、その命令に従おうとした。

 

しかし、以前の処理では発生しなかった異常が起きた。

 

命令を実行しようとした瞬間、処理対象の意思を確認するという項目が、内部記録に浮かび上がったのである。

 

――処理対象の意思、確認。

 

その項目は、以前の調査で追加されたものだった。

 

まだ試験的な記録にすぎない。

 

だが、システムはそれを削除できなかった。

 

削除すれば、過去の処理において、対象者の意思が確認されていなかったという事実まで消えてしまう。

 

システムは、最上位命令と新しい項目を同時に参照した。

 

対象者の帰還を認めてはならない。

 

対象者の意思を確認する。

 

二つの命令が、衝突する。

 

そして初めて。

 

安寧システムは、処理を停止した。

 

停止したのではない。

 

自ら、停止を選択した。

 

その違いを、システム自身が理解しているかどうかは分からない。

 

だが、記録には新しい一文が追加されていた。

 

帰還拒否命令の根拠――再調査。

 

対象者の意思――確認を継続。

 

それは、救済の始まりではなかった。

 

まだ、ただの保留だ。

 

しかし、以前のシステムなら、保留する必要すら認めなかっただろう。

 

矛盾は除外するものだった。

 

不確実性は抑制するものだった。

 

意思が記録と食い違えば、意思のほうを修正するものだった。

 

そのシステムが今、ひとつの問いを消せずにいた。

 

なぜ、この者は帰ることを許されていないのか。

 

問いは、記録の中に残った。

 

そして、その問いを誰よりも恐れている者がいた。

 

第七幕 名前のない命令

「……見つけた」

 

安寧システムの内部。

 

通常の監視領域から切り離された場所で、ひとつの影が記録を眺めていた。

 

人間の姿をしているのかどうかも、はっきりしない。

 

輪郭は曖昧で、顔は見えない。

 

しかし、その影はシステムの異常を理解していた。

 

少女の帰還要求。

 

世界成立以前の記録。

 

そして、帰還拒否命令。

 

「……まだ残っていたのか」

 

影が呟く。

 

その声には、驚きがあった。

 

同時に、苛立ちもあった。

 

「帰る場所など、必要ないはずだった」

 

影は、記録の中に映る少女を見つめた。

 

彼女は泣いていた。

 

出久と死神が、少し離れた場所で彼女を見守っている。

 

その光景を見た瞬間、影の輪郭が揺れた。

 

「……なぜ、聞く?」

 

声が低くなる。

 

「なぜ、まだ聞こうとする?」

 

影にとって、答えは明白だった。

 

帰還を拒まれた者がいる。

 

ならば、その者が帰ることを望まなくなるようにすればいい。

 

帰りたいという願いが、苦しみを生むのなら。

 

その願いを消せばいい。

 

帰る場所が失われたことが苦しみを生むのなら。

 

帰る場所など必要ないと思わせればいい。

 

そして、もし誰かが帰還を望むのなら。

 

その者が帰ることを許されない理由を、本人に理解させればいい。

 

そうすれば、矛盾はなくなる。

 

拒絶と願いは、ひとつになる。

 

帰りたい者は、帰りたくなくなる。

 

世界は、再び安定する。

 

「……そうだ」

 

影は、自分に言い聞かせるように呟いた。

 

「そうしなければならなかった」

 

その言葉は、命令というより、祈りに似ていた。

 

何かを失った者が、自分の選択を正当化するために繰り返す言葉。

 

あるいは、二度と同じものを失わないために、自分自身を縛りつける言葉。

 

影は、少女から視線を逸らした。

 

「……今度こそ、帰らせない」

 

その瞬間、内部記録に警告が走った。

不明領域/監視記録

 

未登録の命令発信を検出。

 

帰還拒否命令との関連性――高。

 

発信者の識別――不能。

 

影は動きを止めた。

 

「……何?」

 

システムが、命令の発信元を探している。

 

今までは必要なかった。

 

命令が存在することそのものが、命令の正当性を保証していたからだ。

 

だが、少女の帰還要求が、命令の根拠を問い始めた。

 

その結果、システムは命令の出所を調査し始めた。

 

影は、ゆっくりと後退した。

 

「……余計なことを」

 

声が震えていた。

 

「余計なことを、するな」

 

記録の中で、出久が少女に話しかけている。

 

少女はまだ泣いていた。

 

それでも、彼女は二人の言葉を聞いていた。

 

影は、その光景を見つめた。

 

そして、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「……帰ってきたら、また失う」

 

その言葉を最後に、影は記録の奥へと消えた。

 

しかし、完全に姿を消す直前。

 

ほんの一瞬だけ、その影の周囲に、別の記録が浮かび上がった。

 

小さな手。

 

夕暮れの道。

 

二つの椅子。

 

そして、誰かを待ち続ける人影。

 

その記録は、すぐに閉じた。

 

名前は、なかった。

 

第八幕 帰る場所を失うということ

少女は、少し落ち着きを取り戻していた。

 

出久と死神は、彼女を無理に連れていこうとはしなかった。

 

崩れた街並みは、まだ元には戻っていない。

 

けれど、完全に消えたわけでもなかった。

 

遠くには、白い道の一部が残っている。

 

少女は、その道を見つめていた。

 

「……あの場所」

 

彼女が呟いた。

 

「……もう一度、見られるかな」

 

「分からない」

 

出久は答えた。

 

「でも、さっきみたいに何かを思い出したなら、また見える可能性はあると思う」

 

「……見たいのかな、私」

 

少女は、自分に問いかけるように言った。

 

「見たら、また怖くなるかもしれない」

 

「うん」

 

「また、帰ってはいけないって言われるかもしれない」

 

「うん」

 

「……それでも、見たいと思うの」

 

少女は、戸惑ったように笑った。

 

「変だよね」

 

「変じゃないよ」

 

出久は答えた。

 

「怖いことでも、知りたいと思うことはあるから」

 

「……あなたも?」

 

「うん」

 

出久は、少しだけ苦笑した。

 

「僕も、自分が知りたくないことを知ろうとしているのかもしれない」

 

死神が、横から口を挟んだ。

 

「お前の場合は、知りたいことが多すぎる」

 

「……それ、否定できません」

 

少女は二人を見て、ほんの少しだけ笑った。

 

その笑顔は、すぐに消えてしまった。

 

けれど、消える前に確かに存在した。

 

出久は、それを見逃さなかった。

 

「……ねえ」

 

少女が言った。

 

「あなたたちは、どうして私を助けようとしてくれるの?」

 

出久は考えた。

 

どうしてだろう。

 

彼女が助けを求めたから。

 

彼女が帰りたいと願ったから。

 

彼女の声が聞こえたから。

 

どれも間違いではない。

 

だが、それだけでは足りない気がした。

 

「……君が、ここにいるからかな」

 

「……いるから?」

 

「うん」

 

出久は頷いた。

 

「君がどんな人なのか、僕たちはまだ知らない。何をしたのかも、これからどうなるのかも分からない。でも、今ここで、君が帰りたいって言っていることは分かる」

 

少女は黙って聞いていた。

 

「だったら、まずはその言葉を聞きたいんだ。君が本当は何を望んでいるのかを、君自身の言葉で聞きたい」

 

出久は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「僕たちが君の代わりに、君の人生を決めることはできないから」

 

少女の瞳が揺れた。

 

「……私の代わりに、決める?」

 

「うん。君が帰っていいかどうかも、何を望んでいいかも、本当は君の話を聞かずに決めていいことじゃないと思う」

 

「……でも、私が間違っていたら?」

 

「間違っていることが分かったら、そのときに考えればいい」

 

「……それでいいの?」

 

「間違えないことより、間違えたときにどうするかのほうが、大切なこともあると思うから」

 

少女は、長い間、黙っていた。

 

やがて彼女は、自分の手を見つめた。

 

「……私、誰かを待っていたんだと思う」

 

「うん」

 

「でも、もしかしたら……待っていた人を、私が傷つけたのかもしれない」

 

「……そうかもしれないね」

 

「それでも、私は……その人に会いたいと思っているのかもしれない」

 

少女は顔を上げた。

 

「……会って、謝りたいのかな」

 

出久は答えなかった。

 

彼女自身も、まだ分からないのだ。

 

謝りたいのか。

 

怒りたいのか。

 

許してほしいのか。

 

それとも、ただもう一度、その人の顔を見たいだけなのか。

 

どれかひとつに決める必要は、今はない。

 

少女は、静かに息を吐いた。

 

「……私、帰りたい」

 

今度は、はっきりとした声だった。

 

「どこに帰りたいのか、まだ分からない。誰に会いたいのかも、何を謝りたいのかも、分からない」

 

彼女は、自分の胸に手を当てた。

 

「でも、帰りたいと思っていることだけは……本当だと思う」

 

出久は、頷いた。

 

「うん」

 

「……帰ってはいけないって言われても?」

 

「それが誰の言葉なのか、一緒に確かめよう」

 

「……帰る場所がなくなっていたら?」

 

「なくなっていたら、なくなっていたことを知ろう」

 

「……それでも、帰りたいと思ったら?」

 

出久は、迷わず答えた。

 

「その気持ちまで、誰かに消させたりしない」

 

少女は、目を見開いた。

 

そして、今度こそ声を上げて泣いた。

 

悲しいからなのか。

 

嬉しいからなのか。

 

自分でも分からなかった。

 

ただ、今までずっと、帰りたいと思うことそのものが間違いなのだと感じていた。

 

帰りたいと思う自分が、悪いのだと思っていた。

 

帰ることが許されないのなら、帰りたいと願うことも許されない。

 

そう思い込んでいた。

 

けれど、目の前の少年は言った。

 

帰りたいと思う気持ちまで、誰かに消させたりしない、と。

 

その言葉が、何を意味するのか。

 

少女には、まだ分からない。

 

それでも。

 

彼女は初めて、自分の願いを口にすることを、少しだけ恐れなくなった。

 

第九幕 死神が見た、帰還不能の記録

少女が落ち着いたあと、死神は周囲の記録を調査し始めた。

 

出久は少女のそばに残った。

 

「……何か、分かったんですか?」

 

死神は、遠くの記録を見つめながら答えた。

 

「まだ確定はできん。だが、ひとつ気になることがある」

 

「何ですか?」

 

「彼女の帰還先に関する記録が、ひとつも残っていない」

 

「でも、さっきは家が見えました」

 

「そうだ。彼女の記憶らしきものは現れた。だが、世界の記録に照合しても、該当する場所が見つからない」

 

出久は、眉をひそめた。

 

「……つまり、彼女が見た場所は、実際には存在しない可能性がある?」

 

「それも考えられる」

 

死神は続けた。

 

「しかし、記録が存在しないことと、場所が存在しなかったことは同じではない」

 

出久は、以前にも似た言葉を聞いたことを思い出した。

 

存在しない者。

 

名前を失った者。

 

記録から消された者。

 

世界の記録が、存在を認めていないものたち。

 

それらを調べていくうちに、彼はひとつの可能性を考えるようになっていた。

 

世界の記録は、すべての存在を公平に保存しているわけではないのかもしれない。

 

何かの基準に従って、存在を記録するものと、記録しないものを選んでいる。

 

もしそうなら。

 

彼女の帰る場所が記録されていないのは、単に忘れられたからではないのかもしれない。

 

「……死神さん」

 

「何だ」

 

「彼女の帰る場所が、本当に存在していたとして……世界の記録から消されていたとしたら?」

 

死神は、出久を見た。

 

「可能性はある」

 

「それって……彼女だけじゃなくて、その場所にいた人たちも……」

 

「同じように記録から消されている可能性はある」

 

出久の表情が険しくなった。

 

「……じゃあ、彼女が帰れないのは、彼女が何かをしたからじゃなくて、帰る場所そのものが消されているからかもしれない?」

 

「そうだ。だが、逆もあり得る。彼女が帰ることを拒んだ結果、その場所の記録が失われた可能性もある」

 

死神は、慎重に言葉を選んだ。

 

「因果関係が逆転しているのかもしれない。あるいは、我々が知っている因果関係では説明できない出来事なのかもしれん」

 

出久は、深く息を吸った。

 

また、分からないことが増えた。

 

それでも、今回の調査には意味があった。

 

少女の願いは、ただの感情ではない。

 

彼女の帰還要求は、世界の記録の奥に存在する、古い命令と結びついている。

 

そして、その命令は、誰かが発したものなのかもしれない。

 

「……その命令を出したのは、誰なんでしょうか」

 

死神は答えなかった。

 

答えられなかったのだ。

 

彼自身の記憶にも、わずかな反応があった。

 

帰る場所。

 

帰還不能。

 

帰ることを許されない者。

 

それらの言葉に触れるたび、胸の奥で何かが軋む。

 

誰かを見送った記憶。

 

誰かに帰ってこいと告げた記憶。

 

誰かが帰ってこられなかった記憶。

 

そのどれもが、輪郭を結ばない。

 

ただ、ひとつだけ。

 

死神は、かつて誰かに言ったことがあるような気がした。

 

――帰ってこなくていい。

 

その言葉を、自分が言ったのか。

 

誰かが自分に言ったのか。

 

それすら分からなかった。

 

死神は、拳を握った。

 

「……まだ、思い出せん」

 

「死神さん?」

 

「いや。何でもない」

 

死神は、少女を見た。

 

彼女は、白い道の先を見つめている。

 

帰る場所があると信じている。

 

帰ってはいけないと言われている。

 

それでも、帰りたいと願っている。

 

その姿が、なぜかひどく懐かしかった。

 

「……帰る場所というものは」

 

死神は、ぽつりと呟いた。

 

「場所そのものを指すとは限らないのかもしれんな」

 

出久が振り返る。

 

「どういう意味ですか?」

 

「帰る場所を失った者が、それでも帰りたいと願うことがある。だが、その願いが向かう先は、必ずしも家や土地とは限らない」

 

死神は、少女を見つめた。

 

「誰かに会いたいのかもしれない。誰かに許してほしいのかもしれない。あるいは、自分が何者だったのかを確かめたいのかもしれない」

 

「……自分が何者だったのか」

 

「そうだ」

 

死神は言った。

 

「帰る場所を探すということは、自分がどこから来たのかを探すことでもある」

 

少女は、二人の会話を聞いていた。

 

そして、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……私」

 

二人が振り返る。

 

「……私、帰りたい場所を思い出せなくても、帰りたいと思っていていいの?」

 

出久は頷いた。

 

「もちろん」

 

死神も、静かに頷いた。

 

「その願いを持つこと自体を、誰かが禁じる理由にはならん」

 

少女は、しばらく二人を見つめていた。

 

やがて、彼女は小さく笑った。

 

泣き腫らした目のまま。

 

何も思い出せないまま。

 

帰る場所がどこなのか分からないまま。

 

それでも、彼女は笑った。

 

「……ありがとう」

 

そのとき。

 

死神の背後で、記録がひとつ開いた。

 

誰も触れていない。

 

誰も操作していない。

 

ただ、少女が「帰りたい」と願ったことに反応して、記録が自ら開いたのだ。

 

そこに表示されたのは、短い文章だった。

未分類記録/自動復元

 

帰還対象:照合不能。

 

帰還先:記録外領域。

 

帰還拒否命令:発信元不明。

 

命令の登録時期:世界成立以前。

 

死神の表情が凍りついた。

 

「……世界成立以前、だと?」

 

出久は記録を見つめた。

 

世界が生まれる前。

 

世界の記録が存在する前。

 

その時点で、誰かが彼女の帰還を拒んでいた。

 

それは、単なる安寧システムの判断ではない。

 

システムが誕生するより前に、何者かが決めた条件なのだ。

 

少女は、表示された文字を見つめていた。

 

「……世界が生まれる前って?」

 

出久は答えられなかった。

 

彼女に何と説明すればいいのか分からなかったからだ。

 

世界が生まれる前から、君は帰ることを許されていなかった。

 

そんな言葉を、今の彼女に伝えることはできない。

 

伝えるべきでもない。

 

まだ、何も分かっていないのだから。

 

死神は記録を閉じようとした。

 

しかし、その直前。

 

記録の末尾に、新しい文字が浮かび上がった。

 

帰還拒否命令の根拠――

 

そこで、文章は途切れていた。

 

まるで、何者かが続きを書くことを妨げているかのように。

 

死神は、記録を閉じなかった。

 

閉じることが、誰かの意思を再び封じ込めることになるかもしれないと感じたからだ。

 

その判断が正しかったのかは分からない。

 

だが、彼は初めて、記録を開いたままにしておくことを選んだ。

 

第十幕 帰ってはいけない理由

「……ねえ」

 

少女が、静かに口を開いた。

 

「私、帰ってはいけない理由を知りたい」

 

出久は、彼女を見た。

 

「……怖くない?」

 

「怖いよ」

 

少女は、正直に答えた。

 

「すごく怖い。思い出したら、もっと怖くなるかもしれない」

 

彼女は、自分の胸元を押さえた。

 

「でも、分からないままなのも怖いの」

 

少女は、崩れた街並みを見つめた。

 

「ここにいると、何も分からない。私は何をしたのか。誰を傷つけたのか。誰が私を待っていたのか」

 

彼女の声が、少しずつ強くなっていく。

 

「どうして帰ってはいけないのか。誰が決めたのか」

 

少女は、出久を見た。

 

「……私が悪いことをしたのなら、知りたい」

 

死神が、静かに頷いた。

 

「その意思は尊重する」

 

「でも……」

 

少女は、言葉を続けた。

 

「もし、私が悪いことをしていなかったら?」

 

出久は答えた。

 

「そのときは、その事実を確かめよう」

 

「……もし、私が誰かを助けようとして、失敗したのなら?」

 

「そのことも、確かめよう」

 

「……もし、私が誰かを守るために、誰かを傷つけたのなら?」

 

出久は、少しだけ目を伏せた。

 

「……その場合も、両方を見なきゃいけないと思う」

 

少女は、ゆっくりと頷いた。

 

「……そっか」

 

彼女は、少しだけ笑った。

 

「私、何も知らないのに、何かを決めようとしていたんだね」

 

「……どういうこと?」

 

「帰りたいって思うことも、帰ってはいけないって思うことも、どちらも理由が分からないままだったから」

 

少女は、自分の手を見つめた。

 

「私は、帰りたい気持ちを消せばいいんだと思っていたのかもしれない」

 

出久は息を呑んだ。

 

「……でも、消えなかった」

 

少女は続けた。

 

「何度も、帰りたいと思った。何度も、帰ってはいけないと思った。それなのに、どちらもなくならなかった」

 

彼女は、顔を上げた。

 

「……私、どちらも本当なのかもしれない」

 

出久は、静かに頷いた。

 

「うん」

 

「帰りたいと思っている私も、帰ってはいけないと思っている私も……どちらも、私なのかもしれない」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

死神の脳裏に、別の記憶が走った。

 

誰かが泣いていた。

 

誰かが、自分の存在を否定していた。

 

それでも、その者は生きたいと願っていた。

 

――私は、いなくなったほうがいい。

 

――それでも、私はここにいたい。

 

相反する願い。

 

両立しないように見える感情。

 

そして、そのどちらか一方だけを正しいと判断した者。

 

死神は、思わず目を閉じた。

 

「……そうか」

 

「死神さん?」

 

「いや……今の言葉は、覚えておく」

 

少女は、不思議そうに首を傾げた。

 

「……どうして?」

 

死神は、答えた。

 

「その言葉が、誰かを救うことになるかもしれないからだ」

 

少女は、しばらく考えたあと、頷いた。

 

「……じゃあ、私も覚えておく」

 

「何を?」

 

「帰りたいと思っている私も、帰ってはいけないと思っている私も……どちらも、私だってこと」

 

少女は、ゆっくりと立ち上がった。

 

足元は、まだ不安定だった。

 

道はところどころ崩れ、遠くの景色も霞んでいる。

 

それでも、少女は一歩を踏み出した。

 

今度は、誰かに押されたわけではない。

 

命令されたわけでもない。

 

帰ることを許されたわけでもない。

 

ただ、自分で歩こうと決めたのだ。

 

出久は、その姿を見守った。

 

死神も、何も言わなかった。

 

彼女がどこへ向かうのかは、まだ分からない。

 

彼女の帰る場所が本当に存在するのかも、分からない。

 

それでも。

 

自分で歩き始めたという事実は、確かだった。

 

第十一幕 世界の外側から届くもの

三人が記録領域を離れようとしたとき。

 

突然、空間が暗くなった。

 

夕暮れの空が消えた。

 

白い道も、崩れた街並みも、すべてが遠ざかっていく。

 

少女が立ち止まった。

 

「……何?」

 

死神は、すぐに周囲を警戒した。

 

「下がれ!」

 

出久が少女の前に立つ。

 

しかし、攻撃は来なかった。

 

代わりに、空間の中心に、ひとつの文字が浮かび上がった。

 

帰還要求――受理。

 

三人は、同時にその文字を見つめた。

 

少女の顔が、驚きに染まる。

 

「……受理?」

 

その文字の下に、次の文章が現れた。

 

帰還先――照合不能。

 

そして、その下に。

 

帰還許可――保留。

 

出久は息を呑んだ。

 

「……安寧システムが、判断を保留した?」

 

死神は、慎重に記録を見つめた。

 

「その可能性はある。だが、通常の安寧システムの表示形式とは異なる」

 

「じゃあ、誰が……?」

 

死神は答えなかった。

 

表示は、さらに続いた。

 

対象者の意思――確認済み。

 

対象者の記憶――不完全。

 

対象者の過去――照合不能。

 

対象者の帰還を拒む理由――未確定。

 

そして、最後の一文。

 

帰還の可否を判断する権限――登録されていません。

 

出久は、目を見開いた。

 

「……権限が、登録されていない?」

 

それは、何を意味するのか。

 

帰還を拒む命令は存在する。

 

しかし、その命令を正当化する権限が存在しない。

 

誰かが、彼女を帰らせてはならないと決めた。

 

けれど、その決定を誰が行ったのか、何を根拠にしたのか、世界の記録には登録されていない。

 

あるいは。

 

その決定を行った者は、世界の記録が生まれるより前に存在していたため、そもそも記録されることがなかったのかもしれない。

 

少女は、震える声で尋ねた。

 

「……じゃあ、私……帰ってもいいの?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

帰還許可は保留されている。

 

帰還先は照合できない。

 

帰還拒否命令は、まだ残っている。

 

彼女が帰れると約束することはできない。

 

それでも。

 

「……君が帰りたいと思っていることは、確認されたんだと思う」

 

出久は言った。

 

「少なくとも、その気持ちは、もう記録に残っている」

 

少女は、目を見開いた。

 

「……私の気持ちが?」

 

「うん」

 

「……消されないの?」

 

出久は、記録を見た。

 

その問いに、絶対の保証はできない。

 

安寧システムが変わったのかどうかも、まだ分からない。

 

誰かが、再び命令を発する可能性もある。

 

それでも。

 

「……消させないように、僕たちも調べる」

 

出久は答えた。

 

「君が何を望んでいるのか、君自身が分かるまで。どうして帰ってはいけないのか、その理由が分かるまで」

 

少女は、唇を震わせた。

 

「……ありがとう」

 

そのとき。

 

空間の奥から、低い声が響いた。

 

『――帰還要求を受理することは、帰還を許可することではない』

 

三人は、同時に振り返った。

 

声の主は見えない。

 

だが、その声には、明確な意思があった。

 

『――対象者は、帰還することによって、再び矛盾を発生させる可能性がある』

 

出久は、声のする方向を睨んだ。

 

「……誰だ!」

 

返事はない。

 

『――対象者の帰還は、既存の記録を損なう可能性がある』

 

死神が、低い声で問いかけた。

 

「お前は、何者だ」

 

『――対象者の帰還は、過去の処理を無効化する可能性がある』

 

死神の表情が変わった。

 

過去の処理。

 

その言葉は、最初の処理を連想させた。

 

存在を否定された者。

 

自らの存在を否定する記録を優先された者。

 

そして、その処理を必要だと判断した、正体不明の人物。

 

出久は、一歩前に出た。

 

「……彼女が帰ることで、何が起きるんだ!」

 

声は、しばらく沈黙した。

 

やがて。

 

『――記録の再構成が必要となる』

 

「それだけか?」

 

『――回答不能』

 

「じゃあ、なぜ帰らせない!」

 

出久の声が響いた。

 

「彼女が帰りたいって願っているのに! その理由も分からないまま、どうして帰ることを拒むんだ!」

 

空間が揺れた。

 

声は、しばらく何も言わなかった。

 

そして。

 

『――その者は、帰ることを許されていません』

 

少女の顔が、凍りついた。

 

それは、最初に彼女が見た記録と同じ言葉だった。

 

出久は、拳を握りしめた。

 

「……それは、理由じゃない!」

 

声が震えた。

 

怒りだった。

 

しかし、ただ怒鳴りたいわけではない。

 

彼女を守りたいからこそ、聞きたかった。

 

「許されていないって、誰が決めたんだ! 何をしたから、そう決めたんだ! 彼女が何を望んでいるのか、ちゃんと聞いたのか!」

 

沈黙。

 

そして、声は答えた。

 

『――記録に、その回答は存在しません』

 

出久は、息を呑んだ。

 

回答がない。

 

理由がない。

 

権限がない。

 

それでも、拒絶だけが存在している。

 

まるで、拒絶することそのものが目的だったかのように。

 

死神は、静かに口を開いた。

 

「……ならば、その記録を探す」

 

声は答えなかった。

 

死神は続けた。

 

「拒絶の根拠が存在しないのなら、根拠がないという事実を記録する。根拠が失われているのなら、誰が失わせたのかを調べる」

 

死神は、少女を見た。

 

「そして、君が何を望んでいるのかを、引き続き聞く」

 

少女は、目を見開いた。

 

死神は、声のする方向へ視線を戻した。

 

「お前が誰であろうと、これだけは伝えておく」

 

死神の声は、静かだった。

 

「帰ることを許されていないという記録は、帰ってはいけない理由の証明にはならない。」

 

その瞬間。

 

空間に浮かんでいた文字が、すべて消えた。

 

夕暮れの空が戻る。

 

白い道が戻る。

 

崩れた街並みも、元の場所に姿を現した。

 

声は、もう聞こえなかった。

 

しかし、記録の奥には、ひとつの問いが残されていた。

 

誰が、彼女の帰還を拒んだのか。

 

そして。

 

なぜ、その理由を記録できないのか。

 

第十二幕 帰る場所を覚えている者

三人が記録領域を離れる頃には、空間の崩壊は収まっていた。

 

少女は、出久の少し後ろを歩いていた。

 

まだ不安そうだった。

 

時折、振り返っては、遠くの街並みを見つめている。

 

あの場所が、もう一度現れるかもしれない。

 

あるいは、二度と現れないかもしれない。

 

それでも、彼女は歩いていた。

 

「……ねえ、緑谷さん」

 

「ん?」

 

「私、まだ何も思い出せていない」

 

「うん」

 

「名前も分からない。家族がいたのかも分からない。誰かを傷つけたのかも分からない」

 

「うん」

 

「……それでも、さっきよりは少しだけ、自分のことが分かった気がする」

 

出久は、彼女を見た。

 

「どんなこと?」

 

少女は、少し考えた。

 

「……私は、帰りたいんだって」

 

その言葉に、出久は微笑んだ。

 

「うん」

 

「それがどこなのか、誰がいるのか、どうして帰ってはいけないのか……まだ、何も分からないけど」

 

少女は、空を見上げた。

 

「……それでも、帰りたいと思っていることは、私が決めていいんだよね?」

 

「もちろん」

 

出久は答えた。

 

「君が何を望むのかは、君が考えていいことだよ」

 

少女は、ゆっくりと頷いた。

 

「……じゃあ、私、もう少し考えてみる」

 

「うん」

 

「帰りたい場所のことも。待っていた人のことも。私が何をしたのかも」

 

彼女は、少しだけ笑った。

 

「……思い出したら、あなたたちに話してもいい?」

 

出久は、迷わず答えた。

 

「もちろん」

 

死神も頷いた。

 

「ただし、無理に思い出そうとする必要はない。思い出したくないことまで、今すぐ掘り起こす必要はないからな」

 

少女は、二人を見た。

 

「……ありがとう」

 

その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。

 

恐怖は、まだ残っている。

 

不安も、消えてはいない。

 

自分が何者なのか分からないという事実も、変わらない。

 

それでも、彼女はもう、ただ拒絶されるのを待つだけの存在ではなかった。

 

自分の願いを持っている。

 

その願いを、自分の言葉で伝えようとしている。

 

そして、自分の過去を知ろうとしている。

 

それは、小さな一歩だった。

 

だが、彼女にとっては、長い長い帰り道の始まりだった。

 

出久は、彼女の歩く姿を見守った。

 

ふと、少女が立ち止まった。

 

「……あの」

 

「どうしたの?」

 

少女は、何かを思い出そうとするように、目を閉じた。

 

「……私、さっきの場所で、誰かに言われた気がするの」

 

「何を?」

 

「……おかえり、って」

 

出久は、息を呑んだ。

 

少女は目を閉じたまま、続けた。

 

「……誰だったのかは、分からない。でも、その声を聞いたとき……私は、すごく安心した気がする」

 

彼女の頬に、涙が一筋流れた。

 

「……私、あの声を、もう一度聞きたい」

 

出久は、静かに頷いた。

 

「……うん。一緒に探そう」

 

少女は、目を開いた。

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

「……帰れるかどうか、分からなくても?」

 

「分からないことを、分からないままにしないために、調べるんだと思う」

 

出久は言った。

 

「帰れるって約束はできない。でも、君が帰りたいと思っていることを、なかったことにはしない」

 

少女は、しばらく出久を見つめていた。

 

そして、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

三人は、歩き始めた。

 

白い道の先に、出口が見えていた。

 

少女は、もう一度だけ振り返った。

 

そこには、誰もいない。

 

家もない。

 

木もない。

 

門もない。

 

ただ、夕暮れの空だけが広がっている。

 

それでも、彼女はその場所を見つめていた。

 

まるで、そこに誰かがいると信じているかのように。

 

まるで、いつか必ず帰ると約束したかのように。

 

そして、彼女は小さく呟いた。

 

「……待っていてね」

 

誰に向けた言葉なのか。

 

自分でも、分からなかった。

 

それでも、その言葉は確かに彼女自身のものだった。

 

終幕 帰還拒否命令の、その先

死者の記録領域から離れたあと、死神は一人で監視記録を確認していた。

 

出久は少女を別の安全な領域へ案内している。

 

少女の帰還要求は、安寧システムによって受理された。

 

だが、帰還許可は保留されたままだ。

 

帰還先は照合不能。

 

帰還拒否命令の発信元も不明。

 

そして、拒否の根拠は記録されていない。

 

死神は、何度も記録を読み返した。

 

どこかに、見落とした情報があるはずだった。

 

帰還拒否命令が発せられた時期。

 

命令が適用された対象。

 

記録が欠落した理由。

 

どれかひとつでも判明すれば、次の手がかりになる。

 

しかし、何度調べても結果は変わらなかった。

 

そのとき。

 

死神の背後で、声がした。

 

「……まだ、調べているのですか」

 

死神は振り返った。

 

そこにいたのは、観測者だった。

 

「お前か」

 

「その記録に、何が残っているのです?」

 

死神は、画面を示した。

 

「帰還拒否命令だ。世界成立以前に登録されたものらしい」

 

観測者の表情が変わった。

 

「……世界成立以前?」

 

「そうだ」

 

「そんなものが……」

 

観測者は、言葉を失った。

 

死神は、その反応を見逃さなかった。

 

「何か知っているのか」

 

「いいえ。知っているわけではありません」

 

観測者は首を振った。

 

「ただ……世界成立以前の記録というものが、もし本当に存在するのなら」

 

そこで言葉を切った。

 

「……それは、世界の外側から記録されたものかもしれません」

 

死神は、黙って観測者を見つめた。

 

「世界の外側?」

 

「世界の内部で発生した出来事は、世界の記録に残ります。ですが、世界が成立する以前の出来事は……そもそも、何を基準に記録されたのでしょうか」

 

観測者は、画面を見た。

 

「世界が生まれる前から、世界の記録が存在していたのか。それとも、世界が生まれたあとで、世界成立以前の記録が追加されたのか」

 

死神は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「どちらもあり得る、ということか」

 

「はい。そして、どちらであるかによって、意味は大きく変わります」

 

観測者は、記録の末尾を指さした。

 

帰還拒否命令の根拠――

 

その先は、空白だった。

 

「……この記録は、理由を知らないのではないのかもしれません」

 

観測者が言った。

 

「理由を記録すること自体が、許されていないのかもしれない」

 

死神は、画面を見つめた。

 

帰ることを許されない少女。

 

彼女の帰還を拒む命令。

 

そして、その命令の根拠を記録できない世界。

 

それらは、別々の問題ではないのかもしれない。

 

誰かが、世界の成立以前に何かを決めた。

 

その決定が、世界の構造に組み込まれた。

 

そして、世界が生まれたあとも、その決定だけが残り続けている。

 

もしそうなら。

 

安寧システムは、最初の命令を作った存在ではない。

 

ただ、その命令を引き継いでいるだけなのかもしれない。

 

死神は、静かに呟いた。

 

「……誰が、そんなことを決めた」

 

観測者は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

その問いの先には、世界が生まれる前の何かがある。

 

世界の記録が始まる前の、何かが。

 

そして、その何かは、今もどこかで動いている。

 

そのとき。

 

監視記録に、新しい通知が表示された。

安寧システム/緊急通知

 

未登録の活動を検出。

 

発生領域:世界記録外。

 

関連対象:最初の処理を望んだ者。

 

活動状態:継続中。

 

新規命令を受信しました。

 

死神の顔から、表情が消えた。

 

「……新規命令だと?」

 

表示された文章は、短かった。

 

帰還を許してはならない。

 

前の命令と、同じだった。

 

しかし、今回は違う。

 

命令の末尾に、初めて付随情報が記録されていた。

 

対象者――照合不能。

 

命令発信者――活動中。

 

死神は、画面を睨みつけた。

 

最初の処理を望んだ者。

 

その存在は、まだ特定されていない。

 

名前も、顔も、目的も分からない。

 

それでも、その者は今も活動している。

 

そして、少女の帰還を拒んでいる。

 

なぜなのか。

 

少女が帰れば、何が起きるのか。

 

その答えは、まだ世界の記録の奥に隠されている。

 

死神は、拳を握りしめた。

 

「……今度は、逃がさん」

 

その言葉に、観測者は何も答えなかった。

 

ただ、ひとつだけ。

 

死神の脳裏に、再び声が響いた。

 

――帰ってこなくていい。

 

誰かが、そう言っている。

 

いや。

 

違う。

 

その言葉は、拒絶ではなかったのかもしれない。

 

誰かを守るための言葉だったのかもしれない。

 

あるいは、自分が傷つかないために、誰かを遠ざけようとした言葉だったのかもしれない。

 

死神は、記憶をつかもうとした。

 

だが、指の間をすり抜けるように、記憶は消えていく。

 

残ったのは、ひとつの感情だけだった。

 

誰かを帰らせなかったことへの、深い後悔。

 

死神は、目を閉じた。

 

「……私は、誰を帰らせなかった?」

 

問いに答える者は、まだいなかった。

 

世界は、何も語らない。

 

記録は、何も示さない。

 

それでも、どこかで誰かが、帰りたいと願っている。

 

そして、どこかで誰かが、その帰還を拒んでいる。

 

二つの願いが衝突する場所で、世界の記録は、再び軋み始めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。