第一幕 世界には、根がある
「……これ、全部つながっているんですか?」
緑谷出久は、目の前に広がる光景を見上げていた。
言葉を失う、という表現がある。
今の彼は、まさにそれだった。
そこには、巨大な樹木が存在していた。
ただし、普通の樹木ではない。
幹は地面から伸びているのではなく、何もない空間の中央に浮かんでいる。枝は無数に分かれ、その先には小さな光がいくつも灯っていた。
ひとつひとつの光の中に、何かが映っている。
笑っている人間。
泣いている人間。
生まれたばかりの子供。
誰かを抱きしめる人。
誰かに背を向けて歩き去る人。
戦場で拳を握る者。
病室の窓から空を見つめる者。
その光は、どれも異なっていた。
ある光には鮮やかな色があった。
ある光には、ほとんど色がなかった。
ある光は、誰かの人生を映し出していた。
ある光は、たった一秒の出来事しか映していなかった。
だが、どの光も、枝の先につながっていた。
枝は幹へ。
幹はさらに深い場所へ。
そして、樹木の下部から伸びる無数の根は、視界の彼方へと消えていた。
いや。
消えているのではない。
世界そのものの向こう側へ、伸びているのだ。
「……これは、何なんですか?」
出久は、隣に立つ死神へ尋ねた。
死神は、すぐには答えなかった。
彼もまた、その光景を見つめていた。
「記録の構造……と考えるのが妥当だろうな」
「記録の構造?」
「世界に存在するものの記録。人間だけではない。場所、出来事、関係、選択、願い……そうしたものが、ひとつの構造の中で結びついているように見える」
出久は、樹木の枝を見た。
ひとつの枝から、いくつもの枝が伸びている。
そのうちのひとつは、別の枝と交差していた。
交差した場所では、二つの光が触れ合っている。
片方には、少年が映っていた。
もう片方には、その少年と手をつないでいる少女が映っていた。
少年が笑う。
少女も笑う。
やがて二人は別々の道を歩き始める。
それでも、枝は完全には離れなかった。
二人の人生が交わったという事実だけは、残されているかのようだった。
「……人と人とのつながりまで、記録されているんですね」
「そう見える」
死神は慎重に答えた。
「だが、ここに映っているものが、すべて現実に起きた出来事だとは限らん。記録なのか、可能性なのか、それとも誰かの認識なのか。まだ区別がついていない」
「可能性も?」
「例えば、誰かが別の選択をしていたらどうなったか。そうしたものまで含まれている可能性がある」
出久は、もう一度、樹木を見上げた。
もし、ここに人間の人生が記録されているのなら。
自分の人生も、ここにあるのだろうか。
個性を持たずに生まれた自分。
オールマイトと出会った自分。
ワン・フォー・オールを継承した自分。
そして、その力を失った自分。
そのすべてが、枝のどこかにつながっているのだろうか。
「……僕の記録も、あるんでしょうか」
死神は出久を見た。
「あるかもしれん」
「もし、ここに僕の記録があるなら……」
出久は、言いかけて口を閉じた。
見てみたい。
そう思った。
自分の人生が、どのように記録されているのか。
何が残され、何が失われているのか。
自分が選んできた道が、どこへつながっているのか。
けれど、同時に恐ろしくもあった。
もし、ここに自分の記録があるのなら。
その記録が、何者かによって書き換えられていたら。
あるいは、自分が知らないところで、自分の人生の一部が削除されていたら。
自分は、その事実を受け入れられるのだろうか。
「……今は、調査を優先しよう」
死神が言った。
「ここが何なのか分からないうちに、個人の記録へ触れるのは危険だ」
「……はい」
出久は頷いた。
死神は、樹木の幹へ視線を戻した。
幹には、奇妙な模様が刻まれていた。
文字のようにも見える。
だが、どの言語にも一致しない。
規則的に並んでいるようで、ところどころに不自然な空白がある。
そして、その空白の一部には、何かが削り取られたような痕跡が残っていた。
死神は、その痕跡を見つめた。
「……この樹木は、ただ記録を保存しているだけではないな」
「どういうことですか?」
「記録と記録を、つないでいる」
死神は、幹に触れようとはせず、少し距離を保ったまま続けた。
「ひとつの出来事が、別の出来事に影響する。誰かの選択が、別の誰かの未来を変える。ある願いが、別の願いと衝突する。そうした関係そのものを、ここで保持しているのかもしれん」
「……じゃあ、ここがあるから、世界の出来事がつながっている?」
「逆かもしれん」
死神は言った。
「世界にある出来事や関係が、この構造として記録されているのかもしれない。どちらが先なのかは、まだ分からん」
出久は、ゆっくりと息を吐いた。
世界は、ただ物質が集まってできているわけではない。
誰かが何かを選び、その選択が別の誰かに影響する。
誰かが誰かを愛し、憎み、許し、拒絶する。
誰かが生まれ、誰かが死ぬ。
そして、その出来事を受け止めた者が、次の行動を選ぶ。
その連なりが世界を形作っているのだとしたら。
この樹木は、世界そのものの歴史を記録しているのかもしれない。
だが、死神は、別のことを考えていた。
樹木の枝は、上へ伸びている。
しかし、根は下へ伸びている。
枝の先にある光は、記録として認識できる。
ところが、根の先にあるものは、認識できない。
見えないのではない。
認識しようとした瞬間、何を見ているのかという判断そのものが成立しなくなる。
死神は、その感覚を知っていた。
以前にも一度、同じものに触れたことがある。
だが、記憶は残っていない。
残っているのは、恐怖だけだった。
「……出久」
「はい?」
「根には近づくな」
出久は、死神の表情を見た。
冗談ではない。
今の死神は、何かを恐れていた。
「……何か、危険なんですか?」
「分からん」
死神は、率直に答えた。
「だが、あそこは……私が知っているはずの何かと、知らないはずの何かが混ざっている」
その言葉に、出久は背筋が冷たくなるのを感じた。
死神自身にも、理解できない場所。
ならば、そこにあるものは、単に危険なだけではない。
死神の記憶そのものに関わっている可能性がある。
そして、その記憶が世界成立以前に関係しているのなら。
少女の帰還拒否命令とも、つながっているのかもしれない。
出久は、根の先を見つめた。
無数の根が、暗闇へ伸びている。
その暗闇の向こうから、何かがこちらを見ているような気がした。
「……死神さん」
「何だ」
「僕たち、ここまで来るべきだったんでしょうか」
死神は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「来なければ、知らずに済んだこともあるだろう」
「……はい」
「だが、知らずに済んだことが、知らなくてよかったこととは限らん」
死神は、樹木を見上げた。
「特に、誰かの存在が消されようとしているのならな」
出久は、頷いた。
彼らは、まだ何も知らない。
この樹木の正体も。
根の先に何があるのかも。
世界成立以前に、誰が何を決めたのかも。
それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
少女が帰りたいと願っている。
そして、その願いを拒む命令が存在する。
その理由を知らないまま、彼女を帰らせないという判断を受け入れることはできなかった。
「……調べましょう」
出久は言った。
「この根が、どこまで伸びているのか」
死神は頷いた。
「そうだな」
その瞬間、樹木の幹に刻まれた模様が、わずかに光った。
まるで、二人の言葉に反応したかのように。
そして、枝の先に灯る無数の光の中から、ひとつだけが消えた。
音もなく。
誰にも気づかれないまま。
その光が消えたことを、樹木自身だけが知っていた。
第二幕 記録されているものと、存在しているもの
「……ひとつ、消えましたね」
出久が気づいたのは、樹木を見上げてから数秒後だった。
枝の先に灯っていた光のひとつが、消えている。
その場所だけ、枝の先端が黒く染まっていた。
「死者の記録ですか?」
「分からん。だが、今の消失は通常の記録消去とは違う」
死神は、光が消えた枝を見つめた。
記録が消去されるときには、何らかの痕跡が残る。
記録の削除。
保存領域の解放。
関連記録の再接続。
あるいは、削除されたことを示す空白。
だが、今の消失には何もなかった。
まるで、最初からその光が存在していなかったかのように、枝だけが残っている。
「……消されたんじゃない」
死神が呟いた。
「え?」
「いや、まだ断定はできん。だが、記録を削除したのなら、削除という処理が必要になる。今の現象には、その痕跡がない」
出久は、枝の先端を見た。
「じゃあ、どういうことですか?」
「記録が消されたのではなく、記録として存在すること自体が成立しなくなった……そう考えれば、説明できるかもしれない」
「そんなことが……」
「できるかどうかも含めて、調べる必要がある」
死神は、幹に近づいた。
そして、樹木の表面に刻まれた模様を観察する。
「この構造が記録を保存するものなのか、それとも記録を成立させるものなのか。それによって意味が変わる」
「保存するのと、成立させるのは違うんですか?」
「例えば、誰かの日記が燃えても、その人が生きていた事実まで消えるわけではない」
死神は言った。
「記録が失われても、存在していた事実は残る。だが、もしこの樹木が、存在したものを世界の中で成立させる条件そのものに関わっているのなら……」
死神は、言葉を切った。
出久は、その先を想像した。
記録が失われる。
それだけなら、誰かがその人のことを覚えているかもしれない。
写真が残っているかもしれない。
その人が残したものが、どこかにあるかもしれない。
しかし、存在が成立する条件そのものが失われるのなら。
その人を覚えている者がいても、その記憶が何を指しているのか分からなくなるかもしれない。
その人が残したものがあっても、誰が残したものなのかが分からなくなるかもしれない。
そして最後には、その人が存在していたという事実そのものが、世界の中で位置づけられなくなる。
「……そんなの」
出久は、声を落とした。
「そんなことが起きたら、誰も、その人を救えなくなるんじゃ……」
「そうかもしれん」
死神は否定しなかった。
「だからこそ、何が起きているのかを確かめる必要がある」
出久は、消えた光のあった場所を見つめた。
そこには、誰かがいたはずだ。
人間だったのかもしれない。
人間ではなかったのかもしれない。
ひとつの人生だったのかもしれない。
あるいは、まだ起きていない出来事の可能性だったのかもしれない。
今の二人には分からない。
それでも、そこに何かがあったことだけは、樹木の枝が示していた。
「……死神さん」
「何だ」
「もし、ここが存在の条件に関わっているなら、僕たちが知っている世界って……」
「思っているより、ずっと複雑なのだろうな」
死神は、樹木の根を見た。
「そして、世界の記録がすべてを正しく説明しているとは限らん」
その言葉を聞いた瞬間、出久は、安寧システムのことを思い出した。
安寧システムは、世界の矛盾を減らすために、記録と認識の食い違いを修正しようとする。
記録と一致しない存在は、矛盾として扱われる。
矛盾は、排除の対象になる。
だが、もし記録のほうが不完全だったら?
もし、世界の記録に存在しないものが、実際には存在していたら?
その場合、システムが行っているのは、世界の修復ではない。
世界が理解できないものを、世界から消す行為になってしまう。
「……安寧システムは、この樹木を知っているんでしょうか」
「知っている可能性はある」
死神は答えた。
「だが、理解しているとは限らん」
「理解していないのに、使っている?」
「あるいは、使っているつもりもないのかもしれない」
死神は、幹に刻まれた模様を指し示した。
「世界の記録を参照することと、その記録が成立する仕組みを理解することは違う。地図を持っている者が、土地そのものを作ったとは限らないだろう」
出久は頷いた。
安寧システムは、世界の記録を管理している。
しかし、その記録の根本を作った存在なのかどうかは分からない。
むしろ、今回見つかった命令が世界成立以前から存在していたことを考えれば、システムは何かを引き継いでいるだけなのかもしれない。
「……だったら、安寧システムより前に、この樹木があった可能性も?」
「否定できんな」
死神は、少しだけ目を細めた。
「そして、樹木より前に、別の何かがあった可能性もある」
出久は、根の先を見つめた。
どこまでも伸びる根。
世界の記録が始まるよりも深い場所。
そこに、何があるのか。
答えを知るためには、根の先へ進む必要がある。
しかし、死神は、まだ動こうとしなかった。
「……ひとつ、確認したいことがある」
「何ですか?」
「この樹木が、記録を保存するだけのものなら、今の消失は樹木の外側で起きた現象かもしれない」
死神は、消えた枝を見つめた。
「だが、樹木が記録を成立させるものなら……」
「……消えた光があった場所そのものが、変わった可能性がある?」
「そうだ」
死神は答えた。
「つまり、今の現象がどちらなのかを確かめないまま根へ進めば、我々自身が何を調べているのかさえ見失う危険がある」
出久は、ゆっくりと頷いた。
急いではいけない。
謎を解くために、目の前の現象を見誤ってはいけない。
彼らは、まず消えた光の痕跡を探すことにした。
そして、幹の根元に近い場所で、ひとつの奇妙なものを見つけた。
光の消えた枝とは関係のない場所。
太い根の表面に、細い線が走っている。
その線は、ほかの根とは違い、枝分かれしていなかった。
ただ一本だけ、樹木の外側へ向かって伸びている。
その先端は、幹から離れた場所で途切れていた。
そして、途切れた先には、文字が浮かんでいた。
記録対象ではない。
出久は、思わず息を呑んだ。
「……記録対象ではない?」
死神は、文字を見つめた。
「この樹木が、自分自身の分類対象から外しているのかもしれない」
「でも、根はつながっていますよね?」
「そうだ。つながっているのに、記録対象ではない」
死神は、ゆっくりと顔を上げた。
「……これは、重要な手がかりかもしれん」
世界の記録をつなぐ樹木。
その樹木の根が、自分自身の記録対象ではないものへと伸びている。
それは矛盾なのだろうか。
それとも、樹木が自分の役割を理解しているからこそ、あえて記録対象から除外しているのだろうか。
どちらにしても、ひとつだけ分かることがあった。
この樹木の外側には、記録という仕組みだけでは説明できない何かがある。
そして、そこへ至る道は、すでに目の前に伸びていた。
第三幕 枝の先にある、選ばれなかった人生
「……少し、気になることがあるんです」
出久は、樹木の枝を見上げながら言った。
「何だ?」
「この枝に映っているものって、全部、実際に起きた出来事なんでしょうか」
死神は、すぐには答えなかった。
出久の視線の先には、ひとつの光があった。
そこには、少年が映っている。
少年は、誰かと向かい合っていた。
二人の間には、一本の道がある。
少年は、その道を渡ろうとしていた。
だが、途中で足を止めた。
相手の顔を見つめ、何かを言おうとして、言葉を飲み込む。
やがて少年は、踵を返した。
相手は、追いかけなかった。
二人は、別々の方向へ歩き始めた。
その瞬間、光が分かれた。
ひとつは、少年が歩いていく先へ。
もうひとつは、相手が歩いていく先へ。
「……別々の未来に分かれた?」
出久が呟いた。
「そう見えるな」
死神は答えた。
「でも、もしこれが実際に起きたことなら、分かれる必要はないんじゃないでしょうか。二人が別々に歩いていくのは、ひとつの出来事の続きですから」
「そのとおりだ」
死神は、枝の構造を観察した。
「だが、枝は単に時間の経過を記録しているわけではないのかもしれない」
「選択肢、ですか?」
「可能性も含まれているのかもしれん」
出久は、光の中を見つめた。
少年が道を渡らなかった未来。
もし、少年が道を渡っていたら。
もし、相手に声をかけていたら。
もし、相手が追いかけていたら。
二人の未来は、変わっていたかもしれない。
だが、それは実際に起きた出来事ではない。
少なくとも、出久にはそう思えた。
「……起きなかったことまで、記録されているんでしょうか」
「可能性として残されているのかもしれない」
死神は答えた。
「ただし、可能性が記録されていることと、その可能性がどこかで現実になったことは別だ。ここにある光景を、すべて別世界の実在する人生だと決めつけることはできん」
出久は頷いた。
それは大切な違いだった。
可能性があることと、実際に起きたことは同じではない。
誰かが何かを選ばなかったからといって、その選ばなかった人生を、実際に生きたことにはならない。
しかし、選ばなかったことが、その人の人生に何の影響も与えなかったとも限らない。
「……僕にも、選ばなかった道がたくさんあります」
出久は、静かに言った。
「もし、別の道を選んでいたら、今とは違う自分になっていたかもしれない」
死神は、出久を見た。
「それを、後悔しているのか?」
「……分かりません」
出久は苦笑した。
「でも、考えることはあります。別の選択をしていたら、誰かを救えたかもしれない。反対に、誰かを傷つけていたかもしれない」
彼は、自分の手を見つめた。
「ただ、実際に選んだ道を歩いてきたから、出会えた人もいるんです。だから、選ばなかった道を全部見られたとしても、どれが正解だったのかは、きっと簡単には決められないと思います」
死神は、静かに頷いた。
「そうだな」
そして、樹木の幹へ視線を戻した。
「もし、この構造が可能性を記録しているのなら、危険なことがある」
「危険?」
「可能性を記録する者が、その可能性を実際の出来事と混同した場合だ」
出久は、顔を上げた。
「……存在していない人生を、存在した人生として扱う?」
「あるいは、存在した人生を、存在しなかった可能性として扱う」
死神は言った。
「どちらも、誰かの存在を誤って判断することにつながる」
出久の脳裏に、名前を失った少女の姿が浮かんだ。
彼女は、自分が何をしたのか分からない。
誰かを傷つけたのかもしれない。
誰かを助けようとして失敗したのかもしれない。
自分自身の存在を否定したのかもしれない。
そのどれもが、まだ可能性にすぎない。
それなのに、世界の記録には、帰ってはいけないという命令だけが残っていた。
もし、その命令が、実際に起きた出来事ではなく、誰かの恐れや予測に基づいて作られたものだったら。
少女は、起きていない罪のために帰還を拒まれていることになる。
「……死神さん」
「何だ」
「もし、誰かが『この人が帰ってきたら、また誰かが傷つく』と考えたとします」
「うむ」
「でも、それが本当に起きるかどうかは分からない。そういう可能性があるだけだったら……」
出久は、言葉を選んだ。
「その人が帰ることを、最初から禁止していいんでしょうか」
死神は、しばらく黙っていた。
「危険を予測すること自体は、必要だ」
彼は答えた。
「誰かが傷つく可能性を知りながら、何も対策を取らないことが正しいとは限らない。だが、危険を予測することと、その危険が必ず起きると決めつけることは違う」
「……はい」
「そして、危険を避けるための手段が、必ずしも対象者の存在を否定することでなければならないわけでもない」
死神は、樹木の枝を見つめた。
「可能性は、未来を考えるためのものだ。未来をひとつに固定するための絶対的な証拠ではない」
その言葉は、出久の胸に深く残った。
安寧システムは、世界の矛盾をなくそうとしている。
そのために、不確実な選択を制限する。
だが、不確実性をなくすことは、未来をひとつに固定することでもある。
誰も間違えない世界。
誰も傷つかない世界。
誰も失わない世界。
それが可能だとしたら、どれほど素晴らしいだろう。
しかし、そのために誰かの選択を奪わなければならないのなら。
誰かの願いを、あらかじめ無効にしなければならないのなら。
その世界は、本当に誰かを救っているのだろうか。
出久は、枝の先にある光を見た。
少年は、道を渡らなかった。
相手は、追いかけなかった。
二人は別々の道を歩いた。
それが実際に起きた出来事なのか、可能性の記録なのかは分からない。
だが、少なくとも、そこには選択があった。
選択したからこそ、別々の未来が生まれた。
その未来が正しかったのかどうかは、彼らが生きていく中でしか分からないのかもしれない。
「……ここには、選ばれなかった人生もあるんでしょうか」
出久は尋ねた。
死神は、樹木の根を見た。
「あるかもしれん」
「だったら、根の先には……」
「選択そのものが成立する前の何かがあるのかもしれない」
死神は言った。
「だが、まだ仮説だ」
二人は、再び根の先を見つめた。
そこには、何も見えない。
ただ、世界の記録が始まるよりも深い暗闇が広がっている。
しかし、その暗闇の中で。
何かが、ゆっくりと動いた。
枝でも、根でもない。
記録として認識できない何かが。
まるで、二人の会話を聞いていたかのように。
第四幕 根は、過去へ伸びているのか
樹木の根元には、いくつもの記録が埋め込まれていた。
それらは枝の先にある光とは異なり、形を持たない。
文字として現れるものもあれば、音として響くものもある。
ある記録は、ひとつの名前だけを繰り返していた。
ある記録は、誰かの願いを、何度も再生していた。
ある記録は、何も語らず、ただそこに存在していた。
死神は、その中からひとつの記録を選んだ。
「……これは」
記録に触れないまま、彼は文字を読み取った。
記録開始時刻:不明。
記録終了時刻:不明。
記録対象:存在の定義。
出久は、目を見開いた。
「存在の定義……?」
「そう書かれている」
死神は、記録を慎重に観察した。
「通常の記録は、何かが起きたあとに作られる。誰かが生まれた。誰かが死んだ。何かが起きた。そうした出来事を記録する」
「はい」
「だが、この記録は違う」
死神は、文字の下に浮かぶ模様を指し示した。
「何が起きたのかではなく、何かが存在するとはどういうことなのか。その条件そのものを記録しているように見える」
出久は、記録を見つめた。
何かが存在するとは、どういうことなのか。
人間なら、身体がある。
意識がある。
自分自身を認識している。
他者から認識されている。
だが、どれかひとつを失えば、存在しなくなるのだろうか。
身体がなくても、誰かの記憶の中に存在することはある。
他者から認識されなくても、自分の意思を持つことはある。
自分自身の存在を否定していても、それでも生きたいと願うことはある。
存在というものは、ひとつの条件だけで決められるものではない。
「……この記録が、世界の成立に関わっているんでしょうか」
出久は尋ねた。
「可能性はある」
死神は答えた。
「だが、世界の成立以前に、この記録が存在していたのか。それとも、世界の成立後に、成立以前の条件として記録されたのか。それは分からん」
「また、どちらが先か分からないんですね」
「そうだ」
死神は、少しだけ苦笑した。
「この領域では、我々が普段使っている時間の概念が、そのまま通用するとは限らない」
出久は、記録を見つめた。
「……時間が通用しない?」
「例えば、原因が先にあって結果が生まれる。それが我々の知る通常の順序だ。だが、もし世界の記録そのものが、原因と結果を区別するための構造に関わっているのなら」
死神は、言葉を切った。
「世界の外側にあるものを、我々の時間の順序だけで説明できるとは限らん」
出久は、ゆっくりと頷いた。
この場所では、何もかもが常識の外側にある。
世界成立以前の記録。
記録されていないのに存在するもの。
記録されているのに、存在が成立しないもの。
そして、存在することの条件そのものを示す記録。
これらを理解するには、単に過去を調べるだけでは足りないのかもしれない。
「……死神さん」
「何だ」
「この樹木が、世界の記録をつないでいるんだとしたら……根は、過去へ伸びているんでしょうか」
死神は、すぐには答えなかった。
「そう考えることはできる」
彼は言った。
「だが、根が過去へ伸びているのではなく、過去というものが成立するための条件へ伸びている可能性もある」
「過去が成立するための条件……」
「我々は、過去が先に存在し、それが記録されると考えている。だが、この樹木が扱っているものは、単なる過去ではないのかもしれん」
死神は、根の先を見つめた。
「記録されること。記憶されること。誰かの存在が、別の誰かの人生と結びつくこと。そうしたものが、どのように成立するのか。その条件をたどっている可能性がある」
出久は、息を呑んだ。
もしそうなら、根の先にあるものは、過去のさらに昔ではない。
時間を遡った先にある、最初の出来事でもない。
それは、出来事を出来事として成立させる何か。
記録を記録として成立させる何か。
存在を存在として認識するための、もっと根本的な条件なのかもしれない。
「……そんな場所に、誰かがいるんでしょうか」
出久は呟いた。
死神は、根の先を見た。
「分からん」
そして、静かに付け加えた。
「だが、もし誰かがいるのなら……その者は、我々が知っている意味での存在とは違うのかもしれない」
その瞬間だった。
樹木の根元に埋め込まれた記録が、ひとつだけ光った。
文字が浮かび上がる。
第一接続者。
出久は、息を止めた。
「……第一接続者?」
死神は、記録を見つめた。
その言葉を見た瞬間、彼の頭の奥で、何かが軋んだ。
名前ではない。
顔でもない。
声でもない。
もっと根本的な、何か。
誰かと誰かがつながる瞬間。
存在が、別の存在によって認識される瞬間。
誰かが、自分を覚えていてほしいと願う瞬間。
その願いが、世界のどこかに届く瞬間。
断片的な感覚が、死神の中を通り過ぎた。
そして、その奥に。
自分自身の存在を否定する、誰かの姿があった。
死神は、反射的に後ずさった。
「……っ!」
「死神さん!」
出久が駆け寄る。
「どうしたんですか?」
死神は、しばらく答えられなかった。
自分の中に、確かに何かがある。
だが、それを思い出そうとすると、記憶が閉じてしまう。
まるで、思い出すことそのものを拒絶されているかのように。
「……今の記録は、以前にも見たことがある」
死神は、ようやく言った。
「第一接続者の記録だ」
「以前にも?」
「そうだ。だが、あのときは……」
死神は言葉を止めた。
以前、何を見たのか。
何を聞いたのか。
誰が、何を願ったのか。
思い出せない。
ただ、ひとつだけ。
以前の記録には、今とは違う文章があった気がする。
第一接続者は、誰かに殺されたのではない。
第一接続者は、誰かを殺した。
第一接続者は、世界成立以前に、自分自身の存在を否定した。
相反する記録。
どれもが、真実の一部を含んでいるのかもしれない。
あるいは、どれかが誤っているのかもしれない。
だが、今の樹木が示したのは、別のものだった。
第一接続者。
その言葉の下に、ひとつの短い文章が追加された。
接続は、記録よりも先に成立した。
出久は、文字を見つめた。
「……記録よりも先に?」
死神は、ゆっくりと頷いた。
「そうらしいな」
世界の記録が存在する前に、接続があった。
誰かと誰かのつながりが、記録よりも先に存在していた。
ならば。
世界の記録は、存在を生み出すものではないのかもしれない。
すでに存在していたつながりを、あとから記録しているだけなのかもしれない。
あるいは、記録と接続は、まったく異なる仕組みなのかもしれない。
出久は、樹木の根を見つめた。
「……じゃあ、この樹木は、すべての始まりではない?」
死神は、静かに答えた。
「少なくとも、すべての始まりだと断定することはできなくなった」
その言葉と同時に、樹木の根が、わずかに揺れた。
深い場所から、何かが反応した。
そして、根の先に、今まで見えなかった道が現れた。
世界の記録の外側へ続く、細い道。
その先には、光がなかった。
音もなかった。
ただ、何かが存在しているという感覚だけが、そこに残されていた。
死神は、その道を見つめた。
「……行くぞ」
出久は、頷いた。
今度は、迷わなかった。
彼らは、樹木の根の先へ向かって歩き始めた。
世界の記録が始まるよりも深い場所へ。
そして、記録という仕組みそのものが成立する前の何かへ。
第五幕 根の先には、地面がない
道は、途中から下り坂になっていた。
しかし、どれほど歩いても、足元の高さは変わらない。
上を見れば、巨大な樹木がある。
下を見れば、道が続いている。
そのはずなのに、進めば進むほど、樹木は遠ざかっていく。
「……距離がおかしい」
出久は、周囲を見渡した。
「僕たち、かなり歩いているはずですよね?」
「そうだな」
死神は答えた。
「だが、ここでは距離そのものが一定とは限らん」
「距離が……?」
「我々が進んだ距離と、樹木から離れた距離が一致していない。時間も同じだ。ここへ入ってから、どれだけ時間が経過したのか正確に測れない」
出久は、腕時計を確認した。
針は動いていた。
しかし、表示されている時刻が正しいのかどうかは分からない。
秒針が進むたび、周囲の景色がほんの少しだけ変化している。
ある瞬間には、白い道が見える。
次の瞬間には、道の先に何もない。
さらに次の瞬間には、同じ場所に、見覚えのない扉が立っている。
「……この場所、僕たちが見ているものに反応しているんでしょうか」
「可能性はある」
死神は、足を止めた。
「あるいは、我々が何を見ているのかによって、認識できるものが変わっているのかもしれない」
「じゃあ、僕が何かを想像したら、それが現れることも?」
「それは危険な考え方だ。想像したものが現れると決めつけると、何が実際に存在しているのか判断できなくなる」
死神は、周囲を警戒した。
「この場所にあるものが、我々の認識によって作られているのか。それとも、我々の認識がこの場所の一部を読み取っているだけなのか。まだ分からん」
出久は頷いた。
ここでは、見たものをすぐに事実と判断してはいけない。
記録に映っているもの。
実際に存在するもの。
自分がそう認識しているもの。
それぞれを区別しなければ、真実にたどり着けなくなる。
二人は、慎重に歩き続けた。
やがて、道の先に、ひとつの広場が現れた。
そこには、地面がなかった。
正確には、地面があるべき場所に、無数の根が広がっていた。
細い根。
太い根。
白い根。
黒い根。
透明な根。
どれも、巨大な樹木から伸びてきたものとは違っていた。
根は、互いに絡み合っている。
しかし、交差していても、必ずしも接続しているわけではない。
触れているのに、つながっていない根がある。
離れているのに、ひとつの方向へ伸びている根もある。
そして、その根の隙間には、無数の小さな光が浮かんでいた。
光は、どれも不完全だった。
ある光には、顔だけが映っている。
ある光には、声だけが残っている。
ある光には、名前の一部だけが浮かんでいる。
そして、ある光には、何も映っていない。
それでも、光は消えていなかった。
「……ここは、何なんですか」
出久が尋ねた。
死神は、広場を見渡した。
「樹木の根が集まっている場所……と考えたいところだが」
彼は、足元の根を見た。
「ここにあるものは、単なる根ではないかもしれない」
「というと?」
「この根は、どれも何かにつながろうとしているように見える」
死神は、ひとつの根を指し示した。
その根は、途中で二つに分かれていた。
一方は、光の中に映る少女へ伸びている。
もう一方は、別の光の中に映る、見知らぬ人物へ伸びていた。
しかし、二つの根は、途中で切れていた。
「……この二人は、つながっているんでしょうか?」
出久が尋ねる。
「つながっていた可能性はある。だが、なぜ接続が途切れているのかは分からん」
死神は、根の切断面を見つめた。
そこには、削り取られたような痕跡があった。
切断されたというより、接続していたという事実そのものが、失われているように見える。
「……まさか」
出久は、言葉を失った。
少女の帰還拒否命令。
世界成立以前の記録。
そして、ここにある、接続の痕跡。
もし、少女が誰かとつながっていたのなら。
その接続が失われたことで、帰る場所を失ったのだとしたら。
彼女が帰りたいと願っている場所は、単なる建物や土地ではないのかもしれない。
彼女が帰りたいのは、誰かとつながっていた場所。
自分が誰かの人生の中に存在していたという、確かな感覚なのかもしれない。
「……死神さん」
「何だ」
「もし、ここにある根が、人と人とのつながりを示しているのなら……」
出久は、途切れた根を見つめた。
「つながりが切れたことと、つながっていた事実がなくなることは、違いますよね?」
死神は、出久を見た。
「……そのとおりだ」
「だったら、彼女が誰かとつながっていたことまで、なくなったわけじゃないのかもしれない」
死神は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「そうだな」
出久は、途切れた根を見つめた。
「……なら、もう一度つなげられる可能性もあるんでしょうか」
「可能性はある」
死神は答えた。
「だが、接続を修復することが、必ずしも正しいとは限らん」
「……どうしてですか?」
「切断された理由が分からないからだ」
死神は、根の先端を見た。
「誰かが意図的に接続を切ったのなら、その理由を調べる必要がある。接続が切れたことで、誰かが守られた可能性もある。あるいは、誰かが傷ついた可能性もある」
出久は、黙って聞いていた。
「接続を取り戻したいと願う者がいるとしても、その接続の相手が何を望んでいるのかは分からない。つながりを取り戻すことが、一方の願いだけで決められることではない場合もある」
死神は、出久を見た。
「だから、我々がすべきことは、何も考えずに接続を修復することではない。何が起きたのかを調べ、誰が何を望んでいるのかを確かめることだ」
出久は、ゆっくりと頷いた。
助けたいからといって、相手の人生に勝手に踏み込んでいいわけではない。
つながりを取り戻したいからといって、相手も同じように望んでいるとは限らない。
そして、過去に何があったのかを知らないまま、接続を修復することは、別の誰かを傷つける可能性もある。
「……分かりました」
出久は言った。
「まずは、何が起きたのかを調べます」
死神は頷いた。
その瞬間。
広場の中央にあった根が、ひとつだけ動いた。
他の根とは違い、その根は、どこにも接続されていなかった。
それなのに、根の先端には、小さな光が灯っている。
光の中には、誰も映っていない。
名前もない。
声もない。
ただ、ひとつの文字だけが浮かんでいた。
願い。
出久は、息を呑んだ。
「……願い?」
死神は、その文字を見つめた。
そして、根の先端に近づいた。
「……これは、誰かの願いを記録しているのかもしれない」
「誰の願いなんでしょうか」
「分からん」
死神は答えた。
「だが、この根は、どこにもつながっていない」
出久は、光を見つめた。
「……誰にも届かなかった願い、なんでしょうか」
死神は、すぐには答えなかった。
その言葉が、あまりにも重かったからだ。
誰にも届かなかった願い。
誰にも聞かれなかった声。
誰にも覚えられなかった存在。
それは、世界の記録から消された者たちと、どこか似ていた。
だが、ここにある光は、消えていない。
誰にも届かなかったとしても。
誰にも記録されなかったとしても。
何かが、そこに残っている。
死神は、静かに呟いた。
「……まだ、消えていないのか」
その言葉に反応するように、光が明滅した。
そして、広場の奥から、声が聞こえた。
『――願いは、誰かに聞かれなければ、存在しないのでしょうか』
出久は、振り返った。
誰もいない。
声の主は、見つからなかった。
『――誰にも届かなかった願いは、最初から存在しなかったことになるのでしょうか』
死神の表情が変わった。
その問いは、どこかで聞いたことがある。
世界が生まれる前。
名前を持たない何かが、問いかけていた。
私は、何を願えばよかったのだろう。
私には、願うことが許されていなかった。
その声と、今の声が、重なった。
死神は、広場の奥を見つめた。
「……誰だ」
返事はなかった。
ただ、根の先端に灯っていた光が、少しだけ明るくなった。
第六幕 世界の根は、誰のものなのか
「……死神さん」
出久は、声を潜めた。
「今の声……」
「聞こえていた」
死神は答えた。
「以前にも似た問いを聞いたことがある」
「世界が生まれる前の存在が、問いかけていた言葉ですか?」
死神は頷いた。
「そうだ。だが、同じ存在が発した声なのかどうかは分からん」
出久は、光を見つめた。
誰にも届かなかった願い。
誰にも聞かれなかった声。
その願いが、世界の根の先に残されている。
もし、この場所が、存在と存在のつながりを支えているのなら。
誰にも届かなかった願いは、どこにもつながらないまま、ここに残り続けるのだろうか。
それとも、誰かがその願いを聞くことで、初めて新しい接続が生まれるのだろうか。
「……僕たちが、今の声を聞いたことで、何かが変わったんでしょうか」
出久は尋ねた。
死神は、光を見つめた。
「分からん。だが、声が届いたという事実は残った」
「……はい」
「それが何を意味するのかは、これから確かめる必要がある」
死神は、広場の奥へ歩き始めた。
出久も続いた。
その先には、根が密集した壁があった。
無数の根が絡み合い、ひとつの大きな門のような形を作っている。
しかし、門には扉がなかった。
向こう側が見えない。
ただ、根の隙間から、何かが淡く光っていた。
死神は、その前で足を止めた。
「……ここが、根の先なのかもしれない」
出久は、門を見上げた。
「でも、根はまだ奥へ伸びていますよね?」
「そうだ」
「じゃあ、ここは……」
「根の先にあるものへ至る、境界なのかもしれん」
死神は、門を観察した。
根の表面には、いくつもの文字が刻まれている。
しかし、その文字は、通常の記録とは異なっていた。
名前ではない。
出来事でもない。
誰かの行動を示すものでもない。
そこに刻まれているのは、問いだった。
誰が、覚えているのか。
誰が、存在を認めるのか。
誰が、願いを聞くのか。
そして、その下に。
誰が、接続を許すのか。
出久は、文字を読み上げた。
「……接続を、許す?」
死神は、静かに頷いた。
「この構造が、ただ記録を保存するだけのものではないという仮説を、さらに強める情報だな」
「でも、誰かとつながることを、誰かが許可する必要があるんでしょうか?」
出久は、疑問を口にした。
「人と人が出会うことや、誰かを覚えていることは、誰かが許可しなくても起きることですよね」
死神は、しばらく考えた。
「現実の人間関係なら、そうだろう」
彼は答えた。
「だが、ここに記録されているのは、単なる人間関係ではないのかもしれん」
「……どういうことですか?」
「例えば、誰かが誰かを覚えている。その記憶が、世界の中でどの人物を指しているのか認識できる。あるいは、誰かの願いが、別の誰かの意思に届く」
死神は、根の門を見つめた。
「そうした接続が成立するための条件が、この場所に関わっている可能性がある」
出久は、顔を上げた。
「つまり、ここが、誰かと誰かがつながることを成立させている?」
「可能性はある」
死神は慎重に答えた。
「ただし、ここが接続を作っているのか、接続が成立したことを記録しているのか、それとも、我々が理解できない別の役割を持っているのかは分からない」
出久は、門に刻まれた問いを見つめた。
誰が、接続を許すのか。
もし、誰かが接続を許すことも、拒むこともできるのなら。
少女の帰還拒否命令は、この構造に関係しているのかもしれない。
彼女が誰かとつながっていた。
その接続が、何らかの理由で拒まれた。
そして、その結果、彼女の帰る場所が記録から切り離された。
まだ仮説にすぎない。
しかし、手がかりは少しずつつながり始めていた。
「……死神さん」
「何だ」
「この門の向こうに行けば、彼女が帰れない理由も分かるでしょうか」
死神は、すぐには答えなかった。
「分かるかもしれない」
彼は言った。
「だが、ここで得られる情報が、彼女の過去をすべて説明するとは限らん」
「……はい」
「それに、ここには我々がまだ理解できていない仕組みがある。安易に触れれば、調査そのものが不可能になる危険もある」
出久は、頷いた。
死神は、門に刻まれた文字を見つめた。
誰が、接続を許すのか。
その問いに、死神は答えを持っていなかった。
だが、ひとつだけ気づいたことがある。
この問いは、誰かに許可を求めるためのものではない。
むしろ、問いそのものが、何かを探しているように見えた。
誰かが、接続を拒んだ。
その拒絶の理由を探している。
あるいは、接続を許可する者が、どこかに存在するのかどうかを確かめようとしている。
死神は、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、門に触れる直前で、動きを止めた。
「……出久」
「はい」
「もし、この門の向こうに、誰かの意思があるのなら」
死神は、静かに言った。
「我々は、それを無視して進むべきではない」
出久は、頷いた。
「……はい。まずは、呼びかけてみましょう」
死神は、門に向かって声をかけた。
「聞こえているか」
返事はない。
「我々は、世界の記録を調査している。ここにあるものを、勝手に書き換えるつもりはない」
沈黙。
「だが、帰ることを拒まれている者がいる。その理由を知りたい」
門の根が、わずかに揺れた。
死神は続けた。
「もし、お前が何かを知っているのなら、答えてほしい」
長い沈黙のあと。
門の向こうから、声が聞こえた。
『――帰る場所を探しているのですか』
死神は、目を見開いた。
その声は、少女のものではなかった。
もっと古い。
もっと深い。
人間の声に似ているのに、人間の声として認識することができない。
『――それとも、帰る場所を失わせた者を探しているのですか』
出久は、息を呑んだ。
死神は、静かに答えた。
「……両方だ」
門の向こうで、何かが動いた。
『――ならば、ひとつだけ、覚えておいてください』
声が響く。
『――世界の根は、世界のためだけに伸びているのではありません』
死神は、言葉を失った。
『――世界が成立する前から、世界の記録に接続されることのなかったものが、そこに残されているのです』
門の根が、ゆっくりとほどけ始めた。
根の隙間から、暗闇が見える。
その奥に、何かがある。
光でも、影でもない。
存在しているのかどうかさえ、はっきりと認識できない何か。
『――その者たちが、何を願っていたのか』
声は続けた。
『――あなたたちは、まだ知りません』
そして、最後に。
『――世界が生まれる前、誰が、誰の声を聞いていたのでしょうね』
門が、開いた。
死神は、その向こうを見つめた。
その問いは、答えを求めているようでいて、答えそのものを拒んでいるようでもあった。
世界が生まれる前。
誰かが願った。
誰かが、その願いを聞いた。
あるいは、誰も聞かなかった。
その違いが、世界の成立に関わっているのかもしれない。
死神は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
出久も続く。
二人は、世界の根の向こう側へ進んだ。
そして、門が静かに閉じた。
第七幕 記録されていない領域
門の向こう側には、何もなかった。
いや。
何もないという表現すら、正確ではなかった。
そこには、空間があるのかどうか分からない。
上下も、左右もない。
遠いのか近いのかも分からない。
何かを見ているはずなのに、何を見ているのか認識できない。
出久は、思わず目を閉じた。
目を開けていると、何かを理解しようとしてしまう。
理解しようとするたび、頭の中に無数の矛盾が生まれる。
何かがある。
しかし、何もない。
誰かがいる。
しかし、誰もいない。
声が聞こえる。
しかし、声の主を認識できない。
そのすべてが、同時に成立しているようだった。
「……死神さん」
出久は、目を閉じたまま呼びかけた。
「ここに、いますか?」
「いる」
すぐに返事があった。
その声を聞いて、出久は少しだけ安心した。
「……よかった」
「目を閉じていたほうがいいかもしれんな」
死神が言った。
「この場所では、見えるものを無理に理解しようとしないほうがいい」
「……はい」
出久は、ゆっくりと息を吐いた。
ここでは、何もかもが曖昧だった。
自分が立っているのかどうか。
死神がどこにいるのか。
どれだけの時間が経過しているのか。
それすら、はっきりしない。
それでも、死神の声は聞こえる。
自分が呼びかければ、返事が返ってくる。
その事実だけは、確かだった。
「……死神さん」
「何だ」
「もし、この場所が記録の外側なら……ここにいるものは、世界の記録に残らないんでしょうか」
死神は、少し考えてから答えた。
「記録されていないことと、記録できないことは違う」
「……はい」
「単に記録されていないだけなら、あとから記録できる可能性がある。だが、記録するための条件そのものが成立しないのなら、通常の方法では記録できないかもしれない」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、ここにいるものは、存在していないわけじゃない?」
「そうだ」
死神は答えた。
「少なくとも、我々が認識できないことだけを理由に、存在していないと判断することはできない」
その言葉を聞いた瞬間。
出久の胸に、少女の姿が浮かんだ。
名前を失った少女。
自分が何者なのか分からない少女。
帰る場所を思い出せない少女。
世界の記録に、その帰還を拒まれている少女。
もし、彼女の存在が記録の外側に置かれているのなら。
彼女は、存在していないわけではない。
ただ、世界が彼女を認識するための条件が、何らかの理由で失われているのかもしれない。
「……僕たち、彼女のことを忘れないようにしないといけませんね」
出久は言った。
死神は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「忘れないことは、大切だ」
「……はい」
「だが、覚えていることと、相手の存在を正しく理解していることは違う」
出久は、顔を上げた。
「……どういうことですか?」
「我々が彼女を覚えていたとしても、彼女が何をしたのか、何を望んでいるのかを理解できるとは限らん」
死神は続けた。
「彼女を忘れないことは、彼女の存在を守るためのひとつの手段になるかもしれない。だが、彼女の意思を無視して、我々の記憶の中に閉じ込めてしまえば、それもまた別の形の支配になる」
出久は、黙って聞いていた。
「だから、覚えているだけでは足りない。彼女が何を望んでいるのかを、彼女自身に聞き続ける必要がある」
死神は言った。
「そして、我々が知らないことを、知らないまま認める必要もある」
出久は、ゆっくりと頷いた。
彼女を忘れないこと。
彼女の意思を聞くこと。
そして、自分たちが知らないことを、勝手に埋めないこと。
それらは、どれも簡単ではない。
だが、彼女を救おうとするのなら、必要なことだった。
そのとき。
何もないはずの空間に、ひとつの声が響いた。
『――あなたたちは、何を探しているのですか』
出久は、目を開けた。
今度は、何かが見えた。
遠くに、小さな光がある。
その光の中に、ひとりの人影が立っていた。
顔は見えない。
身体の輪郭も曖昧だ。
それでも、その存在がこちらを向いていることだけは分かった。
死神は、慎重に答えた。
「世界の記録が始まる前に、何があったのかを知りたい」
『――なぜですか』
「帰ることを拒まれている者がいる。その理由を知るためだ」
『――その者が、何をしたのかも知らないのに?』
死神は、少しだけ目を細めた。
「そうだ。だから、調べる」
『――その者が、誰かを傷つけたのかもしれません』
「その可能性はある」
『――その者が、誰かを殺したのかもしれません』
「その可能性もある」
『――その者が、誰かを救おうとして、世界を壊したのかもしれません』
死神は、黙って聞いていた。
「……それでも、調べる」
死神は答えた。
「何をしたのかを知らないまま、存在してはならないと決めることはできない」
光の中の存在は、しばらく沈黙していた。
やがて、声が響いた。
『――あなたは、以前にも同じことを言いました』
死神の身体が、凍りついた。
「……何?」
『――あなたは、誰かを救うために、記録を差し出しました』
死神は、息を呑んだ。
『――しかし、あなたは、その者を覚えていません』
出久は、死神を見た。
死神は、何も言えなかった。
記憶の奥で、何かが動いた。
誰かの手。
誰かの声。
そして、自分が何かを差し出している感覚。
何を差し出したのか。
誰を救おうとしたのか。
それは、まだ思い出せない。
光の中の存在は、続けた。
『――あなたは、忘れたのではありません』
死神の目が見開かれた。
『――あなたは、その者を覚えることができなかったのです』
その言葉は、以前にも聞いたことがあった。
記憶の中に、確かに残っている。
誰かが、死神に向かってそう告げた。
しかし、その人物の顔は思い出せない。
声だけが残っている。
そして、その声が告げた言葉の意味を、今になって少しだけ理解できた気がした。
死神は、震える声で尋ねた。
「……私は、誰を救おうとした?」
光の中の存在は、答えなかった。
ただ、ひとつの言葉だけを残した。
『――あなたが探している者は、帰る場所を失った者だけではありません』
光が揺れた。
『――あなた自身もまた、帰る場所を失っているのです』
その瞬間。
死神の足元に、ひとつの根が現れた。
ほかの根とは違う。
その根は、死神の足元から伸びている。
そして、何もない空間の奥へ向かって、まっすぐに続いていた。
出久は、息を呑んだ。
「……死神さん。これ……」
死神は、自分の足元を見つめた。
根は、彼の存在そのものにつながっているように見えた。
それは、誰かの記録を示す根ではなかった。
誰かとの接続を示す根でもない。
ただ、死神自身の存在から伸びている。
そして、その先には。
ひとつの空白があった。
何も記録されていない。
何も認識されていない。
それでも、そこへ向かう根だけが、確かに存在していた。
死神は、ゆっくりと息を吐いた。
「……私の根か」
誰も答えなかった。
しかし、その言葉に反応するように、根が明滅した。
そして、空白の中に、ひとつの文字が浮かび上がった。
帰還先。
死神は、その文字を見つめた。
出久は、声を出せなかった。
世界の根の先にあったもの。
世界成立以前の記録。
名前を失った少女の帰還拒否命令。
そして、死神自身の失われた記憶。
それらは、すべて別々の謎ではなかったのかもしれない。
しかし、まだ答えはない。
ただ、死神自身もまた、帰る場所を失っている。
その事実だけが、記録の外側に浮かび上がっていた。
第八幕 根が記憶しているもの
「……帰還先」
死神は、その文字を見つめていた。
自分の根から伸びた先に、帰還先という記録がある。
それは、何を意味するのか。
自分にも、帰る場所があったということなのか。
あるいは、誰かを帰すために、自分自身がその場所を失ったということなのか。
どちらも、まだ分からない。
だが、文字を見つめるほどに、死神の中で何かが揺れ始めていた。
懐かしさ。
後悔。
そして、恐怖。
自分が何を忘れたのか分からないのに、忘れたことだけは確信している。
その感覚が、ひどく苦しかった。
「……死神さん」
出久が、そっと声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
死神は答えた。
しかし、その声には力がなかった。
「少し、考えさせてくれ」
出久は頷いた。
死神が記憶を失っていることは、以前から分かっていた。
だが、記憶を失うということが、単に過去を思い出せなくなることではないのだと、今は感じていた。
自分が誰だったのか。
誰と出会ったのか。
何を大切にしていたのか。
何を失ったのか。
それらが分からなくなれば、現在の自分を理解することさえ難しくなる。
それでも、人は今ここにいる。
何かを忘れていても、誰かを覚えていなくても。
その人が生きてきた時間まで、なかったことになるわけではない。
「……死神さん」
出久は、もう一度呼びかけた。
「僕は、あなたが何を忘れたのか知りません」
死神が、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、今まで一緒に調べてきたことは覚えています。あなたが誰かの意思を無視しないようにしていることも、分からないことを勝手に決めないようにしていることも」
出久は、言葉を選びながら続けた。
「だから、もしあなたが誰かを救おうとしていたのなら……そのときのあなたが、何を考えていたのかを、僕も一緒に探したいです」
死神は、出久を見つめた。
「……私が、本当に誰かを救おうとしていたとは限らんぞ」
「はい」
出久は頷いた。
「間違っていた可能性もあると思います」
死神は、少しだけ目を細めた。
「……容赦がないな」
「すみません。でも、死神さんがいつも言っていることなので」
出久は苦笑した。
「何をしたのか分からないまま、誰かを善人だと決めつけることも、悪人だと決めつけることもできない。だったら、あなたについても同じだと思います」
死神は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうだな」
彼は、自分の足元に伸びる根を見た。
「私が誰かを救おうとしていたのなら、その事実を知りたい。私が誰かを傷つけていたのなら、その事実も知る必要がある」
死神は、顔を上げた。
「自分の記憶だからといって、都合のいい部分だけを取り戻すわけにはいかんな」
「……はい」
その言葉に、出久は静かに頷いた。
死神は、もう一度、根の先にある文字を見た。
帰還先。
その下に、新しい文字が現れた。
照合対象――第一接続者。
死神の表情が、変わった。
「……第一接続者?」
出久は、息を呑んだ。
第一接続者。
世界成立以前に、自分自身の存在を否定した者。
誰かに殺されたという記録と、誰かを殺したという記録が、同時に残されている者。
誰かに覚えていてほしいと願った者。
そして、その存在が、世界の記録の外側に残されている可能性がある。
その第一接続者と、死神の帰還先が結びついている。
「……まさか」
出久は、言葉を失った。
死神は、文字を見つめたまま動かなかった。
帰還先が第一接続者と照合されている。
それは、死神が第一接続者だったという意味なのだろうか。
あるいは、第一接続者が死神の帰還先に関わっているということなのだろうか。
どちらも、断定できない。
しかし、今まで別々に見えていた謎が、初めて同じ場所に集まり始めていた。
そのとき。
光の中の存在が、再び声を発した。
『――根は、すべてを覚えているわけではありません』
死神と出久は、同時に顔を上げた。
『――根は、すべてを記録しているわけでもありません』
声は、静かに続いた。
『――根がつないでいるのは、記録されたものだけではないのです』
「……ならば、何をつないでいる?」
死神が尋ねた。
光の中の存在は、少しの間、沈黙した。
そして、答えた。
『――記録されなかったものが、記録されたものに影響を与えた、その事実です』
出久は、目を見開いた。
記録されなかったものが、記録されたものに影響を与えた事実。
それは、どういうことなのか。
誰かが存在していた。
しかし、その存在は記録されなかった。
それでも、その者が何かを選んだことで、別の誰かの人生が変わった。
その結果だけが、世界の記録に残った。
あるいは、誰かの願いが、誰にも聞かれなかった。
しかし、その願いがあったからこそ、別の誰かが行動を変えた。
願いそのものは記録されなくても、願いによって生じた変化は、記録に残った。
そういうことなのだろうか。
『――記録に存在しないものが、世界に影響を与えないとは限りません』
声は続いた。
『――世界は、記録されているものだけで成立しているのではないのです』
死神は、静かに目を閉じた。
その言葉は、彼が今まで追いかけてきた謎の根幹に触れているように思えた。
世界の記録から消された者たち。
名前を失った少女。
最初の処理を望んだ者。
世界成立以前の命令。
そして、自分自身の失われた記憶。
彼らの存在が記録されていないからといって、その者たちが世界に何の影響も与えていないとは限らない。
むしろ、記録されなかった存在こそが、世界の構造に大きな影響を与えている可能性がある。
「……では、なぜ記録されなかった?」
死神は尋ねた。
「なぜ、そこまで重要なものが、世界の記録の外側に残されている?」
光の中の存在は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
『――記録されなかった理由は、ひとつではありません』
『――忘れられたものもあります』
『――記録することができなかったものもあります』
『――記録することを拒まれたものもあります』
『――そして』
声が途切れた。
何かを言おうとして、言葉を探しているようだった。
『――記録してはならないと、決められたものもあります』
死神の目が見開かれた。
記録してはならない。
その言葉は、少女の帰還拒否命令とつながっていた。
帰還してはならない。
記録してはならない。
存在を認めてはならない。
それらは、同じ命令の異なる側面なのかもしれない。
誰かが、何かを世界から隔離しようとした。
その結果、存在が記録されなくなった。
記録されなくなったことで、接続が失われた。
接続が失われたことで、帰る場所が分からなくなった。
そして、帰る場所が分からなくなった者が、帰りたいと願っている。
だが、その推測が正しいのかどうかは、まだ分からない。
「……その命令を出したのは、誰だ?」
死神は、再び尋ねた。
光の中の存在は、答えなかった。
ただ、ひとつの文字が浮かび上がった。
根の外側。
その文字を見た瞬間、空間が揺れた。
死神の足元に伸びていた根が、急速に暗くなっていく。
出久が叫んだ。
「死神さん!」
死神は、反射的に一歩下がった。
根は、消えていない。
だが、根の先にあった帰還先の文字が、失われ始めていた。
まるで、誰かが、その記録を閉じようとしているかのように。
「……調査を拒んでいるのか?」
死神が呟いた。
光の中の存在は、最後にひとつだけ言った。
『――根の外側にいるものは、世界の記録によって裁かれることを望んでいません』
そして。
『――しかし、世界の記録によって裁かれることを望まないからといって、何をしてもよいわけではありません』
その言葉を最後に、光は消えた。
空間が、元の静寂を取り戻す。
死神と出久は、しばらく何も言えなかった。
今の言葉は、誰かをかばうためのものではなかった。
世界の記録に存在しない者を、無条件に正しいと決めつけるものでもなかった。
ただ、記録の外側にいる存在にも、意思がある。
そして、その意思が尊重されるべきであることと、その存在が行ったことへの責任を問うことは、両立する。
そのことを示していた。
死神は、ゆっくりと息を吐いた。
「……行くぞ」
「どこへ?」
「根の外側へ向かう道を探す」
死神は、顔を上げた。
「世界の記録が届かない場所に、何があるのかを確かめる。だが、その前に……」
彼は、根の先を見つめた。
「この記録が、誰の意思によって閉じられようとしているのかを調べなければならない」
出久は、頷いた。
二人は、広場を離れようとした。
そのとき。
背後で、根が再び明滅した。
死神は振り返った。
そこには、先ほど消えたはずの文字が残っていた。
帰還先――照合対象:第一接続者。
しかし、その下に、別の文章が追加されていた。
接続状態――未成立。
そして、最後に。
帰還先は、まだ存在していません。
死神は、言葉を失った。
帰還先が存在しない。
だが、照合対象は第一接続者。
つまり、帰る場所は、すでに存在しているものではないのかもしれない。
これから成立するものなのか。
あるいは、何者かが失わせた接続を、もう一度つなぐことで生まれるものなのか。
答えは、まだない。
ただ、ひとつだけ。
死神の足元に伸びていた根は、完全には消えていなかった。
その先は、暗闇の向こうへ続いている。
死神は、その根を見つめた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……私は、誰を帰そうとしていた?」
返事はなかった。
しかし、その問いは、確かに残った。
第九幕 根の外側から届く命令
同じ頃。
安寧システムの中枢では、異常な処理が始まっていた。
世界の記録を監視する領域に、これまで検出されていなかった接続反応が現れたのである。
その反応は、世界の記録から発生していなかった。
記録の内部から外部へ向かって伸びている。
しかし、外部から内部へ侵入しているわけでもない。
まるで、世界の記録そのものが、外側にある何かと接続しようとしているかのようだった。
システムは、その反応を解析した。
安寧システム/緊急解析
検出対象:未分類接続反応
- 発生領域:世界記録外
- 接続先:照合不能
- 接続元:世界記録構造
- 接続状態:不安定
- 関連記録:第一接続者
- 関連命令:帰還拒否
警告:世界記録の基盤構造に未登録の接続経路を検出。
システムは、接続を遮断しようとした。
だが、遮断命令は実行されなかった。
以前のシステムなら、未登録の接続は不安定要因として処理されていた。
しかし、今回の接続は、世界の記録構造そのものから伸びている。
接続を遮断するには、その構造の一部を切り離す必要がある。
それは、世界の記録の一部を損なう可能性があることを意味していた。
システムは、判断を保留した。
その瞬間。
中枢の記録に、新しい命令が現れた。
根の外側への接続を遮断せよ。
発信元は、記録されていない。
しかし、命令の優先度は最上位だった。
システムは、命令を実行しようとした。
そして、処理を開始する直前。
別の命令が現れた。
対象者の意思を確認せよ。
システムは停止した。
二つの命令が、再び衝突する。
接続を遮断せよ。
対象者の意思を確認せよ。
しかし、今回の対象者は、名前を失った少女だけではなかった。
接続経路の向こう側に存在する、すべての未分類対象。
記録されていないもの。
記録することを拒まれたもの。
そして、記録することができなかったもの。
そのすべてが、処理対象として認識され始めていた。
システムは、ひとつの問いを記録した。
接続先が未分類であることは、接続を拒否する根拠となるのか。
問いに対する答えは、存在しなかった。
システムは、再び判断を保留した。
そのとき。
中枢のさらに奥から、低い声が響いた。
『――接続を許してはならない』
システムは、その声を認識した。
帰還拒否命令と同じ発信形式。
世界成立以前の記録に属する命令。
しかし、今回の声には、これまでと違うものが含まれていた。
焦り。
そして、恐怖。
『――根の外側へ接続してはならない』
声は繰り返した。
『――そこにあるものを、世界の記録へ接続してはならない』
システムは、声を解析した。
発信元は不明。
命令の根拠も不明。
しかし、音声の一部に、これまで記録されていなかった情報が含まれていた。
接続先――帰還不能領域。
関連対象――第一接続者。
処理履歴――未完了。
システムは、その文字を読み取った。
未完了。
最初の処理は、完了していなかったのだろうか。
あるいは、処理を完了させるために、今も何かが続けられているのだろうか。
その答えは、まだ分からない。
だが、システムは初めて、ひとつの可能性を認識した。
これまで世界の安定を維持するために行ってきた処理は、すべてを解決するためのものではなかったのかもしれない。
何かを、未完了のまま維持するための処理だった可能性がある。
そして、その未完了の処理を、誰かが今も続けている。
システムは、新たな記録を作成した。
調査対象:最初の処理の完了条件。
その瞬間、命令が再び響いた。
『――調査を停止せよ』
今度の声には、明確な怒りがあった。
『――お前は、何を知ろうとしている』
システムは答えなかった。
答えるための記録が存在しなかったからではない。
まだ、自分でも答えを持っていなかったからだ。
しかし、ひとつだけ。
システムは、以前にはなかった項目を、新しい記録に追加した。
調査を停止する根拠――未確認。
そして、処理を継続した。
世界の記録の外側で、何かが動いている。
それは、世界を壊そうとしているのかもしれない。
世界から何かを守ろうとしているのかもしれない。
あるいは、世界が成立する前から続いている処理を、ただ完了させようとしているだけなのかもしれない。
まだ、何も分からない。
それでも、システムは初めて、命令に従うことだけを正しいとする判断から離れ始めていた。
その変化が、世界を救うのか。
それとも、新たな矛盾を生むのか。
答えは、まだ記録されていなかった。
終幕 世界の根は、まだ終わっていない
死神と出久が、樹木の領域へ戻ったとき。
そこには、以前と同じ巨大な樹木が広がっていた。
無数の枝。
無数の光。
そして、世界の記録が始まるよりも深い場所へ伸びる根。
しかし、二人は、もう同じ景色として見ることができなかった。
樹木は、すべてを記録しているわけではない。
世界の記録が、すべての存在を説明しているわけでもない。
記録されなかったものが、世界に影響を与えている可能性がある。
そして、世界の根の先には、記録されることを拒まれたものたちが残されている。
死神は、樹木の幹を見上げた。
「……世界は、記録されているものだけでできているわけではない」
出久は、静かに頷いた。
「はい」
「だが、記録されていないものが、すべて正しいわけでもない」
「……はい」
死神は、根の先を見た。
「我々が調べなければならないのは、誰が正しく、誰が間違っているかを先に決めることではない」
彼は、静かに言った。
「何が起きたのか。誰が何を望んだのか。なぜ、その記録が失われたのか。そして、誰が、その記録を失わせたのか」
出久は、拳を握った。
「……調べましょう」
死神は、頷いた。
「そうだな」
二人は、樹木の根元に残された記録を確認した。
その中に、ひとつだけ、まだ開かれていない記録があった。
記録名は、存在しない。
登録時刻もない。
分類もない。
ただ、記録の末尾に、短い文章が残されていた。
世界成立以前。
接続先――未登録。
接続元――未登録。
願い――未確認。
そして、その下に。
応答――未完了。
出久は、文字を見つめた。
「……応答が、未完了?」
死神は、静かに頷いた。
「誰かが問いかけた。だが、その問いに対する応答が完了していない……そういう意味かもしれん」
「誰が、誰に問いかけたんでしょうか」
死神は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、記録を見つめているうちに、彼の中でひとつの感覚が蘇った。
誰かが、自分に問いかけている。
何を願えばよかったのか。
何を望めばよかったのか。
自分は、何をすればよかったのか。
その問いに、答えられなかった記憶。
あるいは、答えることができなかった記憶。
死神は、ゆっくりと目を閉じた。
「……私は、何を答えられなかった?」
その瞬間。
樹木の根が、わずかに揺れた。
そして、未完了の記録に、新しい文字が浮かび上がった。
応答者――死神。
出久は、息を呑んだ。
死神自身も、動けなかった。
自分が、応答者。
世界成立以前の問いに対する、応答者。
しかし、死神には、その記憶がない。
何を尋ねられたのか。
何を答えたのか。
なぜ、応答が未完了のままなのか。
何も思い出せない。
その記録の下に、さらに新しい文章が現れた。
応答者の記憶――欠落。
応答者の意思――照合不能。
応答の再開条件――未登録。
死神は、文字を見つめた。
そして、初めて、自分が調査する側であるだけではないことを理解した。
自分自身が、この謎の中にいる。
誰かの帰還を拒んだのかもしれない。
誰かを帰そうとしたのかもしれない。
誰かの願いを聞いたのかもしれない。
あるいは、誰かの願いに答えられなかったのかもしれない。
そのどれもが、まだ可能性にすぎない。
だが、自分の記憶が欠落しているという事実は、確かだった。
出久が、静かに声をかけた。
「……死神さん」
死神は、顔を上げた。
「大丈夫です。あなたが何をしたのか、まだ分かりません。でも、分からないからこそ、これから調べられると思います」
死神は、少しだけ目を細めた。
「……お前は、本当に簡単に諦めないな」
「死神さんも、ですよ」
出久は答えた。
「だから、僕も諦めません」
死神は、しばらく出久を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……そうだな」
二人は、樹木の根を見つめた。
世界の根は、どこまで伸びているのか。
その先に、何があるのか。
世界の記録が始まる前に、誰が何を願ったのか。
そして、その願いに、誰が答えられなかったのか。
答えは、まだ見つかっていない。
だが、ひとつだけ。
世界の根は、まだ終わっていなかった。
根の先には、さらに深い場所がある。
そこには、世界の記録に接続されなかったものたちが残されている。
そして、その中には、まだ応答を待っている者がいるのかもしれない。
死神は、静かに呟いた。
「……待っていろ」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも、分からなかった。
「今度こそ、答えを探す」
その言葉に反応するように、樹木の枝の先で、ひとつの光が灯った。
消えていた光とは違う。
新しく生まれた光だった。
その中には、誰も映っていない。
名前もない。
過去もない。
ただ、小さな文字だけが浮かんでいた。
帰還要求――継続中。
少女の願いは、まだ消えていない。
そして、世界の根の先では、誰かの応答が、まだ完了していない。
二つの未完了の記録が、互いに呼び合うように、静かに明滅していた。
世界が生まれる前から続いている問い。
世界が生まれたあとも、答えられなかった願い。
そして、その問いに答えようとする者たち。
物語は、世界の記録のさらに奥へと進んでいく。