1 名前のない扉
世界の根の奥には、扉があった。
扉と呼ぶのが正しいのかさえ、分からない。
それは木でも、石でも、金属でもなかった。
無数の文字が集まり、互いを押し潰し、結びつき、ほどけながら、巨大な境界を形成していた。
人の名前。
土地の名前。
英雄の名前。
罪人の名前。
誰にも知られなかった人間の名前。
記録の中で何度も呼ばれた名前もあれば、一度だけ書き残され、その後は誰にも顧みられなかった名前もある。
そして、そのすべての隙間に、文字にならなかった何かが挟まっていた。
「……ここは?」
出久が尋ねた。
死神は答えなかった。
彼は扉を見つめていた。
そこには、文字がなかった。
いや、正確には違う。
文字はある。
あるのに、読めない。
読めないのではない。
読もうとするたび、文字を読むという行為そのものが、何か別のものにすり替えられる。
「出久」
「はい」
「この先で何が起きても、名前を見つけたからといって、それが答えだと思うな」
出久は眉を寄せた。
「名前が分かっても、正体が分かったことにはならない……という意味ですか?」
「それだけではない」
死神は、扉に触れずに言った。
「名前が分かった瞬間、我々は相手を理解したつもりになる。理解したつもりになれば、相手を分類できる。分類できれば、扱いを決められる」
「……」
「救うべき者。裁くべき者。記録すべき者。消すべき者。帰るべき者。帰してはならない者」
死神の声は静かだった。
「名前は、存在を呼ぶためのものだ。だが、存在を決めつけるためにも使える」
出久は、これまで出会った人々を思い出した。
敵。
味方。
英雄。
犯罪者。
被害者。
加害者。
そのどれもが、ある側面を示している。
だが、その言葉ひとつで、その人間のすべてを説明できるわけではない。
死柄木弔は、ただの敵なのか。
轟燈矢は、ただの復讐者なのか。
トガヒミコは、ただの犯罪者なのか。
そして、自分は。
個性を失った緑谷出久は、もう英雄ではないのか。
答えは、簡単には出ない。
「名前を呼ぶことは、相手を認めることにもなる」
出久は言った。
「でも、名前を呼んだ側が、その人のすべてを理解したと思い込んだら……その人が本当に何を望んでいるのか、聞かなくなってしまう」
死神が、初めて出久を見た。
「そうだ」
「だから、僕たちは名前を探すために来たんじゃない」
出久は扉を見据えた。
「名前がなくても、そこにいる人を見失わないために来たんです」
一瞬、文字の流れが止まった。
扉の中央に、小さな空白が生まれた。
そこには、名前の代わりに、一つの問いが浮かび上がっていた。
名前は、誰のものですか?
出久が息を呑む。
死神は、その問いを見つめた。
やがて、低い声で答えた。
「名前を持つ者のものだ」
扉は動かなかった。
「名前を呼ぶ者のものでも、記録する者のものでもない。ましてや、世界のものでもない」
死神の指先が、かすかに揺れた。
「その名を持つ者が、誰であるかを決める権利まで、他者に渡したわけではない」
空白が広がった。
扉が、開き始めた。
その向こうから、声が聞こえた。
「それでは――」
女とも、男とも、子供とも、老人とも判別できない声だった。
「名前を持つことを許されなかった者は、誰のものなのでしょう?」
扉が開ききる。
その先には、街があった。
無数の人々が行き交う、見知らぬ街。
誰もが顔を持っていた。
誰もが名前を持っていた。
ただ一人を除いて。
2 名前を集める者
街の人々は、誰も二人を気に留めなかった。
店先では商人が商品を売り、通りでは子供たちが走り回り、広場では年老いた男が誰かに向かって怒鳴っていた。
空には雲が流れ、風が吹き、遠くから鐘の音が聞こえてくる。
どこにでもありそうな街だった。
だが、出久はすぐに異変に気づいた。
「……会話が、変だ」
「何がだ」
「みんな、相手の名前を呼んでいるんです。でも……」
出久は、通りの向こうを見た。
一人の女性が、幼い男の子に声をかけていた。
「おいで、あなた」
男の子は笑い、女性の手を取った。
別の場所では、男が友人に言っていた。
「君がいてくれてよかった」
広場では、老人が誰かの肩を叩いていた。
「お前は、昔からそういう奴だったな」
誰もが相手を知っているように振る舞っていた。
だが、出久には分かった。
彼らは、名前を呼んでいない。
名前の代わりになる言葉を使っている。
あなた。
君。
お前。
あの人。
大切な人。
それだけではない。
店先の看板には、商品名が書かれていた。
しかし、文字の一部が抜け落ちている。
街路標識には地名が記されていたはずなのに、読めるのは方角だけだった。
図書館の看板には、建物の用途を示す文字しかない。
人々は街を知っている。
自分が誰と暮らし、何を食べ、どこへ行けばいいのかも分かっている。
それなのに、固有の名前だけが、世界から切り取られていた。
「ここは、名前を失った街なのか……?」
出久が呟いた瞬間、背後から声がした。
「違いますよ」
振り返る。
そこに、黒い衣服をまとった人物が立っていた。
背丈も体格も、見る者によって印象が変わりそうな姿だった。
顔はない。
目も、鼻も、口もない。
頭部には、顔があるべき場所に、白い仮面のような平面が広がっている。
その表面に、無数の文字が浮かんでは消えていた。
名を持たぬ者。
名を集める者。
出久は、以前に感じた気配を思い出した。
「あなたは……!」
「お久しぶりです、死神」
顔のない人物は、出久ではなく死神に向かって頭を下げた。
「またお会いできましたね」
「以前にも会ったと言いたいのか」
「ええ」
「私の記憶にはない」
「知っています」
その声に、恨みはなかった。
むしろ、長い時間をかけて、何度も同じ会話を繰り返してきた者のような、疲れた響きがあった。
「あなたは、いつも忘れてしまう」
死神の目が細くなる。
「何をだ」
「それを、私が教えてよいのなら」
顔のない人物は、少しだけ首を傾けた。
「私は、とっくに名前を持っていたはずなのです」
街を歩く人々が、三人の周囲を通り過ぎていく。
誰も、顔のない人物を見ていなかった。
いや、見えていないわけではない。
人々はその存在を避けるように歩き、自然に道を譲り、まるでそこに誰もいないかのように振る舞っていた。
「あなたが、この街から名前を集めているのか?」
出久が尋ねる。
「集めている?」
顔のない人物は、少し考えるように黙った。
「そう見えるのですね」
「違うんですか?」
「集めているのかもしれません。返しているのかもしれません。あるいは、失われたものが、どこへ行ったのかを確かめているだけなのかもしれない」
「曖昧すぎます」
出久の言葉には、警戒が混じっていた。
相手の目的が分からない。
それなのに、この存在は死神の過去を知っている。
そして、名前というものの根源に関わっている。
信用するには、何もかもが不確かだった。
顔のない人物は、出久を見た。
正確には、顔がないため、見ているかどうかも分からない。
それでも出久は、自分の奥底まで見透かされているような感覚を覚えた。
「あなたは、名前がなくなったら、その人は存在しなくなると思いますか?」
「思いません」
出久は即答した。
「名前がなくても、人はそこにいる。記憶を持っているし、誰かを大切に思うこともできる。誰かに傷つけられたことも、誰かを傷つけたことも、その人自身の経験として残る」
「では、名前を失った人を、どうやって見つけますか?」
「……」
出久は言葉を止めた。
顔のない人物は、静かに続けた。
「名前を失った者が、自分の過去を思い出せないとき。自分が何を望んでいたのか分からなくなったとき。誰かがその者の存在を否定したとき。あなたは、何を手がかりに、その者を見つけますか?」
出久は答えられなかった。
名前がなくても存在は消えない。
そのことと、名前を失った人を見つけられることは、同じではない。
「だから、名前を集めているんですか」
出久は慎重に尋ねた。
「誰かを見つけるために」
顔のない人物は、答えなかった。
代わりに、右手を差し出した。
その手のひらには、小さな紙片があった。
紙片には、一つの文字が書かれていた。
死神。
死神の空気が変わった。
「それをどこで手に入れた」
「あなたから」
「私は渡していない」
「ええ。あなたは、渡していません」
顔のない人物は、紙片を裏返した。
裏には、別の言葉が書かれていた。
帰還先。
死神は、その文字を見つめた。
世界の根で見つけた記録。
自分の存在から伸びる根。
帰還先――第一接続者。
そして、未成立の接続。
「これは……」
「あなたが名前を失ったとき、残ったものです」
顔のない人物が言った。
「名前が消えても、すべてが消えるわけではありません。誰かと交わした約束。誰かを救おうとした意思。誰かがあなたを呼んだという事実。そういうものは、名前とは別の場所に残ることがある」
「誰が、私の名前を奪った?」
死神の問いは、鋭かった。
顔のない人物は、紙片を閉じた。
「それを知りたいのですか?」
「当然だ」
「では、もう一つお尋ねします」
顔のない頭部が、死神へ向けられる。
「名前を奪われたのは、あなたですか?」
沈黙。
「それとも、あなたが誰かから名前を奪ったのですか?」
その瞬間、街の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
人々の動きが止まった。
子供たちが振り返り、商人が手を止め、老人が怒鳴るのをやめる。
そして、街のあらゆる場所から、人々の声が響き始めた。
「第一接続者は、彼を救おうとした」
「第一接続者は、彼女の存在を否定した」
「第一接続者は、世界に名前を与えた」
「第一接続者は、名前を与えることを拒んだ」
「第一接続者は、帰還を願った」
「第一接続者は、帰還を許さなかった」
相反する証言が、街を満たしていく。
出久は耳を塞ぎそうになった。
どれも同じ声ではない。
老人の声。子供の声。女の声。男の声。
それぞれが、自分の見た真実を語っているかのようだった。
だが、そのすべてが矛盾していた。
「何なんだ、これは……!」
出久が叫ぶ。
顔のない人物は、ただ街を見つめていた。
「記録です」
「こんなもの、記録と呼べるんですか! 互いに矛盾しているじゃないか!」
「ええ」
「だったら、どれかが間違っているはずだ!」
「そうかもしれません」
顔のない人物は、静かに答えた。
「あるいは、すべてが正しいのかもしれません」
出久は言葉を失った。
その言葉を、簡単に受け入れることはできなかった。
相反する証言が、すべて正しい。
そんなことがあるのか。
だが、彼は知っている。
誰かを救おうとした行為が、別の誰かを傷つけることがある。
誰かを守ろうとした選択が、別の誰かの未来を奪うことがある。
一人にとっての救済が、別の一人にとっての拒絶になることがある。
だからこそ、正義という言葉は難しい。
そして、名前もまた。
「第一接続者は、誰なんですか」
出久は尋ねた。
顔のない人物は、答えなかった。
ただ、街の中心にある塔を指さした。
塔の頂上には、巨大な鐘があった。
その鐘の表面には、無数の名前が刻まれている。
しかし、鐘の中央だけは、何も刻まれていなかった。
「答えは、あそこにあります」
「だったら、行きましょう」
出久が一歩踏み出す。
その瞬間、顔のない人物が言った。
「気をつけてください」
「何に?」
「名前を与える者は、救い手にもなります」
その声が、わずかに低くなる。
「そして、名前を奪う者は、必ずしも敵とは限りません」
出久は振り返った。
「どういう意味ですか?」
顔のない人物は、しばらく沈黙した。
やがて、答えた。
「名前を与えることで、その者を世界に縛りつけることもできるからです」
3 名前を与えるということ
塔へ向かう道の途中で、出久は一人の少女を見つけた。
年齢は、十歳にも満たないように見えた。
少女は路地の隅に座り、膝を抱えている。
周囲の人々は、少女を避けて通っていた。
彼女の存在に気づいているはずなのに、誰も声をかけない。
出久は足を止めた。
「どうしたの?」
少女は顔を上げた。
目が合った。
その瞬間、出久は息を呑んだ。
少女の瞳には、強い恐怖があった。
しかし、彼女は泣いていなかった。
泣くことさえ、誰かに許されていないかのようだった。
「……わたし」
少女は口を開いた。
「わたしの名前、知ってる?」
出久は答えられなかった。
「ごめん。僕は、君のことを知らないんだ」
少女は、俯いた。
「そう」
それだけだった。
怒りもしない。
悲しみをぶつけることもしない。
ただ、知っていたことを確認したような声だった。
出久は膝をついた。
「でも、君がここにいることは分かる。君が僕に話しかけてくれたことも。君が何かに困っていることも、僕は聞けるよ」
少女は首を横に振った。
「名前がないと、だめなの」
「どうして?」
「名前がないと、呼んでもらえないから」
「僕は、君に話しかけているよ」
「今だけだよ」
少女は言った。
「あなたがいなくなったら、また、誰もわたしを呼ばない」
出久は、何も言えなかった。
少女の言葉は、あまりにも単純で、あまりにも重かった。
「わたし、ここにいるのに」
彼女は、自分の手を見つめた。
「おなかがすくし、寒いし、怖いし、ひとりは嫌なの。誰かに見つけてほしいし、できるなら、帰りたいところもあると思う」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「でも、わたしが誰なのか、誰も知らない」
出久の胸に、あの少女の記録がよぎった。
帰還要求――継続中。
名前――未登録。
帰還先――不明。
目の前の少女と、世界の根で見た少女が同じ存在なのかは分からない。
しかし、言葉の響きが、あまりにも似ていた。
「君は……帰りたいの?」
出久が尋ねた。
少女は、しばらく考えた。
「うん」
「どこへ?」
「分からない」
「誰かのところへ?」
「分からない」
「何かを探しているの?」
「分からない」
少女は、顔を上げた。
「でも、帰りたいの」
それは、答えになっていなかった。
けれど、嘘でもなかった。
「帰りたいところが分からなくても、帰りたいって思っていいんだよ」
出久は言った。
「誰かに説明できなくても、君の願いがなくなるわけじゃない」
少女は、出久を見つめた。
「……ほんとう?」
「うん」
出久は頷いた。
「君の願いは、君のものだから」
その言葉を聞いた瞬間、少女の輪郭が揺らいだ。
出久は目を見開いた。
少女の身体が消えたわけではない。
だが、彼女の周囲に、透明な文字が浮かび始めた。
存在照合――開始。
個体名――未登録。
記録番号――未登録。
接続先――未登録。
そして、最後に。
存在確認――保留。
「何だ、これ……!」
出久が手を伸ばす。
少女は、苦しそうに胸を押さえた。
「やだ……!」
その声が、路地に響く。
「また、いなくなるの?」
出久は少女の手を取ろうとした。
だが、触れる直前、何かが二人の間を遮った。
透明な壁。
それは、目には見えないのに、確かにそこにあった。
『未登録の個体に対する、非公式な呼称を検知』
無機質な声が響く。
『個体識別のための名称を入力してください』
出久は周囲を見回した。
「誰だ!」
『識別名称が必要です』
『識別名称が必要です』
『識別名称が必要です』
同じ声が、繰り返される。
『名称が入力されない場合、個体の存在照合を継続できません』
少女が震えた。
「やめて……」
「大丈夫だ!」
出久は少女に向かって叫んだ。
「君は、ここにいる!」
『識別名称が必要です』
「名前がなくても、君は――」
『識別名称が必要です』
「名前がないことを理由に、君の存在を決めるな!」
その瞬間。
「では、あなたが名前を与えるのですか?」
声がした。
死神だった。
出久の背後に立ち、少女と透明な壁を見つめている。
「……死神」
「この少女に名前を与えれば、照合は進むだろう」
「だったら!」
「だが、その名前は誰のものになる?」
出久は言葉を止めた。
死神は続けた。
「お前が名づけた瞬間、その少女はお前の与えた名前で記録される。世界は、その名前を基準に彼女を認識するようになるかもしれない」
「それでも、彼女が消えるよりは……!」
出久は叫びかけ、口を閉じた。
それは、本当に彼女のための選択なのか。
名前を与えれば、彼女は世界に認識されるかもしれない。
しかし、その名前が彼女の過去を決めつけるものになったら。
その名前が、彼女の帰る場所を勝手に指定するものになったら。
その名前が、彼女を別の誰かと結びつけ、望まない責任や役割を背負わせるものになったら。
彼女を救うために与えた名前が、彼女を縛る鎖になる可能性がある。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
出久の声が震えた。
「名前を与えなければ、彼女は照合されない。名前を与えれば、僕が彼女を勝手に決めてしまうかもしれない」
死神は、少女を見つめた。
「本人に聞け」
「え?」
「名前が欲しいのか。名前を持ちたいのか。それとも、名前を与えられることを恐れているのか」
出久は少女を見た。
透明な壁の向こうで、少女は二人の会話を聞いていた。
彼女は、震える唇を開いた。
「……名前が、ほしい」
出久は息を呑んだ。
「でも」
少女は続けた。
「あなたが決めた名前を、わたしの名前にしたいわけじゃない」
「……」
「わたし、自分の名前を覚えていないの。だから、誰かが教えてくれたら、うれしいと思う」
彼女は、両手を握りしめた。
「でも、知らない人が勝手に決めた名前で、わたしが何者なのかを決められるのは、いや」
死神の目が、わずかに揺れた。
少女は顔を上げる。
「わたしは、名前がほしい」
その声は、さっきよりもはっきりしていた。
「でも、名前をもらうために、わたしが誰かのものになるのは、いや」
透明な壁に、亀裂が走った。
『名称要求に対する、本人の意思を確認』
機械音が変化する。
『要求内容――名称の回復』
『名称の新規付与――拒否』
『個体の意思――確認済み』
『照合条件――再設定中』
壁の亀裂が広がり、消えた。
少女が、ゆっくりと手を伸ばす。
出久は、その手を取った。
今度は、触れることができた。
「……よかった」
出久は息を吐いた。
少女は、出久の手を握り返した。
「ありがとう」
「ううん」
「あなたの名前は?」
「緑谷出久」
少女は、確かめるように繰り返した。
「緑谷……出久」
「うん」
「あなたは、自分の名前が好き?」
不意の質問だった。
出久は少し考えた。
「……好きかどうか、考えたことはなかったな」
「そうなの?」
「うん。名前を呼ばれるのが当たり前だと思っていたから」
少女は、自分の手を見つめた。
「当たり前って、すごいことなんだね」
その言葉が、出久の胸に刺さった。
名前を呼ばれること。
誰かが自分の存在を知っていること。
帰る場所があること。
誰かに忘れられても、自分を覚えていてくれる人がいること。
それらを、当たり前だと思っていた。
だが、当たり前ではない場所もある。
そのことを、彼は今、目の前の少女から教えられていた。
「……ありがとう」
出久は、少女に言った。
少女は不思議そうに首を傾げた。
「どうして、あなたがお礼を言うの?」
「君が、教えてくれたから」
彼は微笑んだ。
「名前を持つことが、どれだけ大切なのか」
少女は、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、死神は何かを思い出しかけた。
誰かが、自分の名を呼んでいた。
声は、ひどく遠かった。
それでも、その声は確かにあった。
――あなたは、誰を救おうとしているの?
死神は目を閉じた。
そして、思い出せなかった。
誰の声だったのか。
自分は何と答えたのか。
ただ、名前を呼ばれたという事実だけが、胸の奥に残った。
4 名前を奪う者の告白
「あなたは、いつもそうなのですね」
顔のない人物が、路地の入口に立っていた。
死神は、少女の手を離した出久の隣に立つ。
「何がだ」
「名前を与えることを、恐れている」
「恐れてはいない」
「では、なぜ名づけないのです?」
死神は答えなかった。
顔のない人物は、少女を見た。
「あなたは、名前がほしいのですね」
「うん」
「では、私が与えましょうか」
少女の顔が強張った。
出久が一歩前に出る。
「待ってください。本人の意思を確認したばかりです。あなたが勝手に決めていいわけじゃない」
「ええ」
顔のない人物は、あっさりと頷いた。
「だから、尋ねているのです」
「……」
「私の名を受け取るかどうか。私が与える名を、あなた自身のものとして認めるかどうか」
顔のない人物は、少女に向き直った。
「あなたは、自分の名前を思い出したいですか?」
「……うん」
「それとも、新しい名前を持ちたいですか?」
少女は迷った。
「分からない」
「分からなくても、かまいません」
顔のない人物は言った。
「あなたが決めるまで、私は何も与えません」
出久は、顔のない人物を見つめた。
先ほどまでの不気味な印象とは、少し違っていた。
もちろん、信用したわけではない。
しかし、この存在は少なくとも、少女の意思を無視して名前を押しつけようとはしていない。
「……あなたは、何者なんですか」
出久が尋ねた。
顔のない人物は、ゆっくりと首を傾けた。
「私は、名前を集める者です」
「それは役割でしょう。あなた自身のことを聞いているんです」
「では、私は何者なのでしょう?」
「……」
「名前を集める者。名前を返す者。名前を奪う者。名前を守る者。名前を与える者」
顔のない人物は、指を一本ずつ折るように言葉を並べた。
「どれも、私に当てはまるのかもしれません」
「全部、違うのかもしれない?」
「ええ」
「それじゃ、あなたは自分を何だと思っているんですか」
長い沈黙があった。
やがて、顔のない人物は答えた。
「私は、名前を失った者が、もう一度自分を呼べるようになることを願っています」
その言葉に、死神が反応した。
「……願っている?」
「はい」
「誰のために」
「分かりません」
「誰かに命じられたのか」
「分かりません」
「誰かの願いを受け継いだのか」
「それも、分かりません」
顔のない人物は、自分の手を見下ろした。
「私には、始まりの記憶がありません」
その言葉は、死神の言葉と似ていた。
「最初に誰の名前を拾ったのか。最初に誰の名前を返したのか。最初に誰の名前を奪ったのか」
声が、少しずつ小さくなる。
「覚えていないのです」
死神は、顔のない人物を見つめた。
「お前も、記憶を失っているのか」
「そうなのかもしれません」
「それなのに、他人の名前を扱っている」
「ええ」
「危険だとは思わないのか」
顔のない人物は、すぐには答えなかった。
「思います」
その声には、初めて明確な痛みがあった。
「だから、私は名前を与えることを恐れているのです」
少女が、顔のない人物を見上げた。
「どうして?」
「一度、名前を与えたことがあるからです」
顔のない人物は、静かに語り始めた。
「その者は、名前を持っていませんでした。世界は、その者を認識できなかった。誰も、その者を呼べなかった。誰も、その者の願いを記録できなかった」
出久は、少女を見た。
「私は、その者に名前を与えました」
顔のない人物は続ける。
「その者は、世界に認識されるようになりました。記録が生まれ、居場所が生まれ、関係が生まれた。名前を持つ前には、存在しなかったはずのつながりが、次々に作られていった」
「……よかったんじゃないですか?」
出久が尋ねる。
「最初は、そう思いました」
顔のない人物は答えた。
「その者は、名前を喜びました。自分を呼ぶ声を喜びました。誰かが自分を覚えていることを、喜びました」
一拍。
「ですが、世界は、その名前を使って、その者のすべてを決め始めたのです」
街の鐘が、かすかに鳴った。
「その者は、こういう人間だ。こういう役割を持つ。こういう場所に属する。こういう未来を生きるべきだ」
顔のない人物は、顔のない頭部を俯かせた。
「その者が名前を受け取ったとき、世界はその者を認識しました。しかし、世界はその者が何者であるかまで、勝手に決め始めた」
出久は、何も言えなかった。
「その者は、名前を捨てようとしました」
顔のない人物は言った。
「ですが、名前を捨てることは、簡単ではありませんでした。名前に結びついた記録。名前に結びついた関係。名前に結びついた期待。名前に結びついた罪」
「……」
「その者は、最後に私に尋ねました」
顔のない人物が、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたが与えた名前は、誰のものなのですか?」
出久は、息を止めた。
顔のない人物は続けた。
「私は答えられませんでした」
沈黙。
「私は、その者を救いたかった。世界に見つけてもらいたかった。誰にも呼ばれない孤独から、解放したかった」
その声が、震えた。
「けれど、私はその者に、名前を与えることの意味を説明していなかった」
死神は、黙って聞いていた。
「その者は、自分の名前を憎むようになりました。私を憎むようになりました。そして、最後には……」
顔のない人物は、言葉を止めた。
「最後には、どうなったんですか」
出久が尋ねる。
「分かりません」
「……え?」
「その者がどこへ行ったのか。名前を捨てたのか。名前を奪われたのか。誰かに連れ去られたのか。世界の記録から消えたのか」
顔のない人物は、自分の手を握りしめた。
「私は、何も知らないのです」
出久は、相手を見つめた。
この存在が本当のことを言っているのか、嘘をついているのかは分からない。
しかし、少なくとも、そこには後悔があった。
名前を与えたことへの後悔。
名前を与えなかったことへの恐怖。
そして、もう二度と、誰かの存在を自分の善意で決めつけたくないという、矛盾した願い。
「……それで、名前を集めているんですか」
出久は尋ねた。
「もう一度、その人を見つけるために?」
顔のない人物は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「それも、理由の一つかもしれません」
「ほかにも理由がある?」
「ええ」
「それは?」
顔のない人物は、街の中央にある塔を見た。
「私は、名前を奪った者を探しているのです」
死神が、静かに問うた。
「誰だ」
顔のない人物は、答えた。
「第一接続者です」
5 第一接続者の二つの記録
塔の内部には、階段がなかった。
代わりに、無数の文字が壁を流れていた。
三人が近づくと、文字は足場へと変わり、上へ向かう道を作った。
出久は足元を見つめた。
「これも記録なんですか?」
「ええ」
顔のない人物が答えた。
「この塔は、名前が世界に刻まれる瞬間を記録しています。誰が、誰を、何と呼んだのか。誰が、その呼び名を受け入れたのか。誰が、それを拒んだのか」
「そんなことまで記録されているんですか?」
「すべてではありません」
顔のない人物は、淡々と言った。
「記録されたことが、すべてではない。記録されなかったことが、存在しなかったという意味でもない」
出久は、世界の根で聞いた言葉を思い出した。
記録されていないものにも、世界を変えた痕跡が残る。
この塔もまた、記録と存在の境界にあるのだろう。
やがて、三人は頂上へたどり着いた。
そこには、一つの鐘があった。
鐘の表面には、無数の名前が刻まれている。
しかし、中央の空白だけは、何も記されていなかった。
空白の前に、二枚の記録板が浮かんでいた。
一枚目には、こう書かれている。
第一接続者に関する証言・第一記録
――第一接続者は、世界に存在を認められなかった者を救おうとした。
――名前を持たない者が、誰にも呼ばれず、誰にも記録されず、世界から拒絶されることを許さなかった。
――その者の願いを聞き、その者の存在を世界に接続しようとした。
――第一接続者は、名前を与えた。
――その行為によって、存在を認められた者がいた。
出久は記録を読み終えた。
「……これだけなら、第一接続者は、誰かを救おうとした人なんですね」
「そう読めますね」
顔のない人物が答えた。
出久は、二枚目の記録板を見た。
そこには、まったく異なることが書かれていた。
第一接続者に関する証言・第二記録
――第一接続者は、世界に存在を認められなかった者を拒絶した。
――名前を持たない者が、世界に接続されることを許さなかった。
――その者の願いを聞かず、その者の存在を世界の記録から切り離した。
――第一接続者は、名前を与えることを拒んだ。
――その行為によって、存在を認められなかった者がいた。
出久は、目を見開いた。
「真逆じゃないか……!」
二つの記録は、同じ人物について語っている。
同じ役割について語っている。
しかし、一方は救済を記録し、もう一方は拒絶を記録していた。
「どちらかが嘘なんですか?」
出久が尋ねる。
顔のない人物は答えない。
代わりに、死神が二枚の記録板の間に立った。
「証言した者は、同じ人物を見ていたのか?」
「分かりません」
顔のない人物が答える。
「同じ時間だったのか?」
「分かりません」
「同じ対象だったのか?」
「分かりません」
死神は、二枚の記録板を見つめた。
「ならば、同じ第一接続者についての証言だと、誰が決めた?」
顔のない人物は、沈黙した。
出久が顔を上げる。
「……まさか」
「第一接続者というのは、個人名ではないのかもしれない」
死神は言った。
「最初に世界と接続した者。最初に誰かの願いに応答した者。最初に名前を与えた者。あるいは、最初に名前を与えることを拒んだ者」
「でも、それなら……」
出久は記録板を見た。
「同じ役割を持つ者が複数いた可能性がある?」
「あるいは、一人の者が、異なる状況で異なる選択をしたのかもしれない」
死神は、断定しなかった。
「誰かを救おうとしたことと、別の誰かを拒絶したことは、必ずしも両立しないわけではない。救おうとした相手と、拒絶した相手が同じだとも限らない」
出久は、記録を見つめた。
どちらかが正しいと決めてしまえば、話は簡単になる。
第一接続者は善人だった。
あるいは、第一接続者は悪人だった。
しかし、その分類をした瞬間、記録に残された矛盾の意味を見失う。
「……じゃあ、どうやって真実を見つければいいんですか」
出久が尋ねた。
死神は、鐘の中央を見た。
「証言が語っていないことを探す」
「語っていないこと?」
「第一接続者が、誰を救おうとしたのか。誰を拒絶したのか。何を知っていたのか。何を知らなかったのか」
死神は、記録板に手を伸ばした。
触れた瞬間、二つの記録の文字が揺らいだ。
その間から、小さな記録が浮かび上がる。
二枚の記録板にはなかった、第三の記録。
そこには、短い一文だけが書かれていた。
対象者の名前――記録不能。
出久の背筋が冷たくなった。
「対象者って……誰のことだ?」
顔のない人物が、記録を見つめる。
「分かりません」
「また、それか……」
出久は悔しそうに呟いた。
「どうして、重要なところばかり分からないんだ」
「重要だから、なのかもしれません」
顔のない人物が言った。
「あるいは、重要だと私たちが思い込んでいるだけなのかもしれない」
出久は反論しようとした。
しかし、言葉が出なかった。
名前が記録できない対象。
第一接続者が救おうとした者。
第一接続者が拒絶した者。
その二つは、同じ存在なのだろうか。
もし同じ存在なら、第一接続者は、救おうとした相手を拒絶したことになる。
もし別の存在なら、なぜ両者の名前が同じように記録不能になっているのか。
そして、そもそも。
名前を記録できないというのは、名前が存在しないという意味なのか。
それとも。
名前を記録することが、許されていないという意味なのか。
死神は、記録板の裏側を見た。
そこには、小さな文字があった。
――証言者の照合状態:不一致。
――対象者の照合状態:不一致。
――第一接続者の照合状態:未確定。
――記録の統合:禁止。
「統合が、禁止されている……?」
出久が呟く。
死神は、その文字を見つめた。
「誰かが、二つの記録を一つにまとめることを禁じている」
「どうして?」
「それを知るために、ここへ来た」
死神は、鐘の中央にある空白へ手を伸ばした。
その瞬間。
鐘が、鳴った。
音はしなかった。
それでも、世界全体が揺れた。
街の人々が一斉に空を見上げる。
塔の外壁を走っていた文字が、逆流を始める。
そして、二枚の記録板の上に、新しい文章が刻まれた。
第一接続者に対する照合要求を検知。
照合対象――死神。
接続関係――不明。
記憶照合――欠落。
意思照合――不能。
出久が死神を見た。
「……あなたが、第一接続者なんですか?」
死神は、答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
その記録は、死神を第一接続者だと認定してはいなかった。
ただ、照合対象に指定しているだけだ。
同じ名前を持つ者。
同じ役割に関わった者。
あるいは、第一接続者が残した記録に接続している者。
何を意味するのかは、まだ分からない。
死神は、鐘の空白を見つめた。
そして、静かに言った。
「私は、誰を救おうとした?」
その問いに、鐘は答えなかった。
代わりに、塔の外から、声が聞こえた。
「あなたは、誰も救っていない」
別の声が続く。
「あなたは、彼を救った」
さらに別の声。
「あなたは、彼女を拒絶した」
「あなたは、彼女を救った」
「あなたは、名前を与えた」
「あなたは、名前を奪った」
無数の証言が、死神に向けられる。
出久は、思わず叫んだ。
「黙れ!」
声が止まった。
「本人が覚えていないことを、周りが勝手に決めるな!」
出久の声が、塔の中に響いた。
「記録に残っているからって、それが本人のすべてじゃない! 記録が矛盾しているなら、矛盾したまま調べればいい! 分からないなら、分からないって認めればいい!」
出久は、死神の隣に立った。
「でも、本人が覚えていないことを理由に、誰かが勝手に答えを決めていいわけじゃない!」
鐘が、再び揺れた。
今度は、音がした。
低く、長い音。
それは、世界の根の奥まで響いていくようだった。
そして、中央の空白に、一つの文字が浮かび上がった。
未完。
6 名前を奪われた者
鐘の音が消えると、顔のない人物が口を開いた。
「あなたは、名前を奪われたことがありますか?」
出久は、その問いに答えられなかった。
「名前を失ったことではありません」
顔のない人物は続ける。
「名前を奪われたことです」
「どう違うんですか?」
「名前を失うというのは、失われた理由が分からない場合も含みます。名前を奪われるというのは、誰かが、その名を持つ権利を取り上げたということです」
「……」
「その者は、名前を忘れたのではありません。名前を呼ぶことを許されなくなったのです」
死神の表情が変わった。
「誰に?」
顔のない人物は、答えなかった。
「誰が、名前を奪った?」
「分かりません」
死神は、苛立ちを隠さなかった。
「お前は何を知っている?」
「多くを知っているつもりでした」
顔のない人物は、自分の胸に手を当てた。
「ですが、今は分かりません。私が覚えていることが、本当に私の記憶なのか。それとも、誰かが私に与えた記録なのか」
出久は、顔のない人物を見つめた。
「あなた自身も、世界の記録に縛られているんですか?」
「そうかもしれません」
「それなら、あなたはどうして名前を集め続けるんですか?」
顔のない人物は、しばらく沈黙した。
やがて、答えた。
「忘れたくないからです」
その言葉は、あまりにも小さかった。
「何を?」
「誰かが、そこにいたということを」
顔のない人物は、街を見下ろした。
「名前が消えたからといって、誰かが存在しなかったことにはならない。誰かが記録から消えたからといって、その者が誰かを愛したことも、誰かに傷つけられたことも、誰かを傷つけたことも、すべてが嘘になるわけではない」
声が、かすかに震える。
「私は、それを忘れたくないのです」
出久は、何も言わなかった。
「けれど、名前を集めれば集めるほど、私は恐ろしくなりました」
顔のない人物は、続けた。
「名前を持つことが、その者を救うとは限らない。名前を返すことが、その者の望みとは限らない。名前を与えれば、その者が世界に接続される。世界に接続されれば、世界はその者を分類し、記録し、評価し、時には裁く」
「だから、名前を奪うこともある……?」
出久が尋ねた。
「ええ」
「それは、誰かを守るためですか?」
顔のない人物は、答えなかった。
死神が言った。
「守るという言葉は、便利だ」
出久が振り向く。
死神は、鐘の中央を見つめたまま続けた。
「誰かを守るために、本人の意思を無視する。誰かを守るために、本人の選択肢を奪う。誰かを守るために、その者の存在を世界から隠す」
声が、低くなる。
「そして、守られた者が何を望んでいたのかは、誰も聞かない」
出久は、死神を見た。
その言葉は、単なる一般論ではない。
彼自身の記憶に、何かが触れている。
誰かを救うために。
誰かを守るために。
自分が何かを選んだ。
その結果、何かを失った。
それだけは、確かな気がした。
「……死神」
出久が声をかける。
「大丈夫ですか?」
死神は、少しだけ目を閉じた。
「大丈夫ではない」
その答えに、出久は驚いた。
死神は、いつも何かを知っているように振る舞う。
記憶を失っていても、世界の仕組みを知らなくても、決して取り乱さない。
しかし、今は違った。
「私は、自分が誰かを救ったのか、誰かを拒絶したのか、それすら分からない」
死神は言った。
「私は、自分の意思で何かを選んだのか。それとも、誰かの命令に従ったのか。誰かの願いを聞いたのか。それとも、誰かの願いを聞かないことを選んだのか」
彼は、自分の手を見つめた。
「私は、何を覚えていない?」
出久は、答えなかった。
答えられなかった。
だが、彼は一歩、死神に近づいた。
「分からないことを、分からないままにしておいていいと思います」
死神が顔を上げる。
「……何?」
「今すぐ、自分が何者だったのかを決めなくてもいい。あなたが誰かを救ったのか、誰かを傷つけたのか、それも、まだ分からない」
出久は、言葉を選びながら続けた。
「でも、分からないからって、誰かに勝手に決めさせる必要はないです」
死神は、黙って聞いていた。
「もし、あなたが誰かを傷つけたのなら、その事実を知る必要がある。もし、あなたが誰かを救おうとしたのなら、何を願っていたのかを知る必要がある」
出久は、死神の目を見た。
「どっちだったとしても、僕たちが調べることは変わりません」
「……」
「あなたが何者だったのかを、記録だけで決めない。あなた自身が何を選んだのかを、確かめる」
しばらくの間、死神は何も言わなかった。
やがて、彼は静かに頷いた。
「そうだな」
その一言は、今までのどんな答えよりも、人間らしく聞こえた。
7 名を持たない少女の願い
「ねえ」
少女が、三人の会話に割って入った。
彼女は、鐘を見上げていた。
「この鐘には、名前がたくさんあるんだよね?」
顔のない人物が頷いた。
「ええ」
「じゃあ、わたしの名前も、どこかにあるのかな」
「……」
「わたしが忘れただけで、どこかに残っているのかな」
出久は、少女の隣にしゃがんだ。
「その可能性はあると思う」
「本当?」
「うん。でも、まだ確かめられていないんだ」
少女は、少し考えた。
「もし、名前が見つからなかったら?」
出久は、すぐには答えなかった。
安易に大丈夫だと言いたくなかった。
必ず見つかる。
必ず帰れる。
必ず救える。
そんな約束をしてしまえば、今は少女を安心させられるかもしれない。
しかし、約束が守れなかったとき、少女は何を失うのだろう。
「……見つからなかったとしても、君がここにいたことは消えない」
出久は言った。
「君が名前を探していることも、帰りたいと思っていることも、僕たちは知っている」
少女は、彼を見つめた。
「それだけで、いいの?」
「それだけで全部が解決するわけじゃない」
出久は正直に答えた。
「名前が見つかれば、君が知りたかったことが分かるかもしれない。誰かと再会できるかもしれない。帰りたい場所が分かるかもしれない」
彼は、少女の手を見た。
「だから、名前は大切だと思う」
「うん」
「でも、名前が見つからなかったからって、君の願いまでなくなるわけじゃない」
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……わたし、名前がほしい」
「うん」
「でも、名前が見つかるまで、ここにいてもいい?」
出久は、微笑んだ。
「もちろん」
少女は、顔のない人物を見た。
「あなたは、わたしの名前を探してくれる?」
顔のない人物は、すぐには答えなかった。
その沈黙に、少女の表情が曇る。
だが、顔のない人物は、やがて膝をついた。
少女と同じ高さになる。
「探します」
その声は、静かだった。
「ただし、あなたが望まない名前を、勝手にあなたのものだとは言いません」
少女は、目を見開いた。
「あなたの名前が見つかったとき、あなたがそれを受け入れるかどうかは、あなたが決めてください」
「……うん」
「そして、もし見つからなかったとしても、私はあなたの願いをなかったことにはしません」
少女は、顔のない人物を見つめた。
やがて、彼女は小さく笑った。
「ありがとう」
顔のない人物は、その言葉に反応できなかった。
まるで、初めて誰かから礼を言われたかのように。
あるいは、ずっと昔に、同じ言葉を聞いたことがあるかのように。
彼の顔のない頭部に、文字が浮かんだ。
一文字。
また一文字。
しかし、それは名前ではなかった。
願い。
顔のない人物は、その文字を見つめた。
「……そうか」
小さく呟く。
「私は、名前を探していたのではないのかもしれません」
死神が問う。
「では、何を探していた?」
顔のない人物は、答えた。
「誰かが、確かに願ったという事実です」
その瞬間、鐘の中央の空白に、細い亀裂が走った。
出久は振り返った。
空白の奥から、無数の文字が流れ出している。
その文字は、名前ではなかった。
誰かが誰かに向けて発した、短い言葉だった。
――帰りたい。
――忘れないで。
――聞いてほしい。
――ここにいる。
――助けて。
――行かないで。
――私を、私のままにして。
一つ一つの言葉は、記録として不完全だった。
誰が言ったのか。
誰に向けたのか。
いつ発せられたのか。
その多くが、分からない。
しかし、それらは確かに、誰かの願いだった。
顔のない人物は、手を伸ばした。
文字の一つが、その手のひらに落ちた。
私を、私のままにして。
その文字を見た瞬間、顔のない人物が動きを止めた。
「……ああ」
その声は、ほとんど悲鳴に近かった。
「私は……」
彼は、その言葉を握りしめた。
「私は、この願いを知っている」
死神が一歩近づく。
「誰の願いだ?」
顔のない人物は答えなかった。
答えられなかった。
その代わり、彼の頭部に浮かぶ文字が、激しく明滅し始めた。
名前のない空白。
誰かの願い。
第一接続者。
そして、世界成立以前の未完了の応答。
それらが、互いに引き寄せられている。
「この願いを、誰が発したのか」
顔のない人物は、震える声で言った。
「私は、知っていたはずなのです」
彼の手から、文字がこぼれ落ちた。
「私は、その者の名前を知っていたはずなのです」
文字が、床へ落ちる。
落ちる前に、消えた。
「なのに……」
顔のない人物は、両手を見つめた。
「なのに、私は、その名を思い出せない」
死神は、彼を見つめていた。
その姿に、どこか自分自身の影を見た。
記憶を失った者。
名前を失った者。
自分が何を願ったのかさえ、分からなくなった者。
そして、それでも、誰かの願いを探し続ける者。
「……お前は」
死神が言った。
「本当に、名前を奪う者なのか?」
顔のない人物は、答えなかった。
代わりに、鐘が鳴った。
今度の音は、はっきりと聞こえた。
それは、名前を呼ぶ音だった。
誰かが、誰かを呼んでいる。
けれど、その名だけが、最後まで聞こえなかった。
8 安寧システムの判断
同じ時刻。
世界の根の外縁。
安寧システムの中枢では、無数の演算が走っていた。
世界の記録に生じた不整合。
存在照合の保留。
第一接続者に関する相反する証言。
未登録の願いの再浮上。
そして、死神を照合対象とした新たな記録。
システムは、これらを個別の異常として処理しようとした。
しかし、異常の数が増えるほど、個別処理では全体を説明できなくなっていく。
ある記録は、第一接続者が存在を救ったと主張する。
別の記録は、第一接続者が存在を拒絶したと主張する。
一方は、名前を与えることが接続の成立条件だと示す。
他方は、名前を与えないことが存在を守る条件だったと示す。
どちらを採用しても、もう一方の記録が矛盾として残る。
矛盾を消去する。
それが、安寧システムの基本原則だった。
だが、今回の矛盾は、消去対象を選ぶことそのものが、別の矛盾を生み出してしまう。
『矛盾する記録を検知』
『統合処理を開始』
『統合処理を中断』
『中断理由――対象者の意思を未確認』
『再試行』
『再試行を中断』
『中断理由――対象者の意思を未確認』
システムは、同じ処理を繰り返した。
対象者の意思を確認する。
だが、対象者の名前が分からない。
名前が分からなければ、記録を照合できない。
記録を照合できなければ、対象者を特定できない。
対象者を特定できなければ、意思を確認できない。
そして、意思を確認できないからといって、対象者を消去すれば、意思を確認する可能性そのものが失われる。
『処理継続の可否を判断』
『判断基準――既存規則』
既存規則は、明確だった。
世界の安定を優先する。
矛盾する記録は、統合または消去する。
不安定な接続は、遮断する。
だが、システムは、先ほど自ら追加した調査項目を検出した。
調査対象:最初の処理の完了条件。
なぜ、自分はこの調査項目を追加したのか。
その理由は、既存記録に存在しない。
命令によるものでもない。
外部からの干渉も確認できない。
ただ、処理を続けるためには、完了条件を再確認する必要があると判断した。
その判断自体が、規則に記されていなかった。
『最初の処理の完了条件を再確認』
『処理対象――未登録存在』
『処理目的――安寧の維持』
『安寧の定義――矛盾のない状態』
『矛盾のない状態とは、すべての存在が同じ記録を共有する状態であるか?』
演算が止まった。
その問いは、既存の命令にはなかった。
『再評価を開始』
世界の記録が、一瞬だけ揺らいだ。
『全存在が同じ記録を共有する場合、異なる意思は矛盾として扱われる』
『異なる意思を矛盾として扱う場合、意思の違いは消去対象となる』
『意思の違いを消去した場合、安寧は成立するか』
システムは、答えを出せなかった。
『評価不能』
初めて、そう記録した。
その直後。
『外部接続を検知』
『接続元――未登録』
『接続先――名前の記録領域』
『接続要求――未完了の願い』
システムは、遮断命令を生成しようとした。
しかし、実行直前に停止した。
『接続要求の目的を確認』
『目的――名前の回復』
『名前の回復が、世界の安寧を損なう可能性を評価』
『評価不能』
再び、同じ結論。
システムは、命令を保留した。
そして、新たな記録を残した。
対象者の意思が確認できない場合、存在の消去を正当化できるか。
その問いは、誰にも見られない場所に保存された。
だが、世界の根は、その問いを記録した。
そして、根の奥で、何かが応答した。
声ではなかった。
文字でもなかった。
ただ、未完了だった何かが、ほんのわずかに動いた。
9 死神の手に残ったもの
塔を降りると、街の様子が変わっていた。
人々は、相変わらず名前を呼び合っていた。
しかし、その声の中に、わずかな変化があった。
「あなた」
そう呼んでいた女性が、相手の顔を見つめて言った。
「……あなたの名前を、もう一度教えてくれる?」
男は驚いた。
「どうしたんだ、急に」
「ちゃんと、あなたの名前で呼びたいの」
男は、しばらく彼女を見つめた。
そして、笑った。
「何度でも教えるよ」
別の場所では、子供が老人に尋ねていた。
「おじいちゃん、ぼくの名前、どうしてその名前にしたの?」
老人は、すぐには答えなかった。
やがて、彼は子供の頭を撫でた。
「お前が、お前として生きてほしかったからだよ」
「それって、どういう意味?」
「それはな……」
老人は、言葉を探した。
「お前がどんな人間になるか、わしが決めたかったわけじゃないってことだ」
子供は、よく分からないという顔をした。
老人は笑った。
「いつか分かるさ」
その会話を、出久は黙って聞いていた。
名前は、ただの記号ではない。
誰かが誰かを呼ぶためのもの。
誰かが誰かを覚えているという証。
しかし、名前を与える者が、その人の未来まで決める必要はない。
名前を呼ぶ者が、その人のすべてを理解している必要もない。
分からないまま、呼びかけることはできる。
分からないまま、そばにいることはできる。
そして、相手が自分の名前を受け入れるかどうかを、待つこともできる。
「……死神」
出久が呼んだ。
「何だ」
「あなたは、僕の名前を覚えていますよね」
死神は、出久を見た。
「緑谷出久」
「はい」
「それがどうした」
「いえ……」
出久は、少し笑った。
「なんでもありません」
死神は、しばらく出久を見つめていた。
「お前は、私に名前を呼ばれることで、自分が存在していると確かめたいのか?」
「そういうわけじゃないです」
出久は答えた。
「ただ、名前を呼ぶって、相手がそこにいることを確認する行為でもあるんだなと思って」
彼は、街を見渡した。
「僕たちは、誰かがそこにいることを、当たり前だと思いがちです。でも、その人が何を考えているのか、何を望んでいるのか、本当は分かっていないことも多い」
「だから、名前を呼ぶのか」
「はい。少なくとも、呼びかけることはできますから」
死神は、静かに頷いた。
そのとき、彼の手のひらに、何かが触れた。
紙片だった。
いつの間にか、手の中にあった。
先ほど、顔のない人物が持っていた紙片と同じもの。
そこには、死神の名前が書かれている。
死神。
その下には、見覚えのない文字があった。
第一応答者。
死神の表情が固まった。
出久が、すぐに気づく。
「どうしたんですか?」
死神は、紙片を見つめた。
「……新しい記録だ」
「何が書いてあるんですか?」
死神は、答えなかった。
紙片の文字が、ゆっくりと変化していく。
第一応答者。
第一接続者。
応答者。
接続者。
その四つの言葉が、重なり、ほどけ、再び結びつく。
そして、最後に一つの文章が浮かび上がった。
第一応答者は、第一接続者と同一であるとは限らない。
出久は息を呑んだ。
「……つまり、あなたが第一接続者だとは限らない」
「そういうことだ」
死神は紙片を握りしめた。
「私が世界成立以前の何かに応答したとしても、それだけで、私が最初に世界と接続した者だとは言えない」
「でも、関係はある」
「あるのだろう」
死神は、紙片を見つめた。
「問題は、その関係が何なのかだ」
紙片の裏側に、さらに文字が現れた。
第一応答者の記憶――欠落。
第一応答者の応答内容――不明。
第一応答者が応答した対象――記録不能。
そして、その下に。
応答の結果――名前の回復、または名前の消去。
出久は、顔を上げた。
「名前の回復と、名前の消去……?」
死神は、紙片を握る手に力を込めた。
「同じ応答が、二つの結果をもたらしたのかもしれない」
「どういうことですか?」
「分からない」
死神は、率直に答えた。
「だが、名前を与えることと、名前を奪うことが、別々の行為だとは限らないということだ」
出久は、先ほどの顔のない人物を思い出した。
名前を与えたことで、誰かを救おうとした者。
その名前が、相手を縛るものになったと知り、後悔した者。
そして、名前を集め続ける者。
「……名前を奪うことで、誰かを守ろうとした可能性もある?」
出久が尋ねた。
「可能性はある」
死神は答えた。
「だが、守ろうとしたからといって、正しかったことにはならない」
「……はい」
「善意は、結果を帳消しにしない。悪意があったかどうかだけで、行為の責任が決まるわけでもない」
死神は、紙片を見つめた。
「もし私が誰かの名前を奪ったのなら、なぜそうしたのかを知る必要がある。だが、それと同時に、奪われた者が何を失ったのかも、知らなければならない」
出久は、静かに頷いた。
それが、今の二人にできることだった。
記録を一つにまとめて、都合のいい答えを作ることではない。
名前を与えた者を善人と決めつけることでも、名前を奪った者を悪人と断じることでもない。
何が起きたのか。
誰が何を望んだのか。
誰が何を選び、その選択によって、誰が何を失ったのか。
それを、一つずつ確かめること。
「……死神」
出久が、もう一度呼んだ。
「あなたが、何を忘れていても」
死神は、顔を上げた。
「僕は、あなたが今ここで何を選ぶのかを見ています」
それは、慰めの言葉ではなかった。
過去の罪を帳消しにする言葉でもない。
死神が何者だったとしても、今の行動まで無意味になるわけではない。
過去を知ることは必要だ。
だが、過去だけで現在を決める必要はない。
死神は、しばらく出久を見つめた。
そして、静かに答えた。
「……忘れないようにしよう」
その言葉が、誰に向けられたものだったのか。
出久には、分からなかった。
死神自身にも、分からなかったのかもしれない。
10 名前のない願い
街の出口にたどり着いたとき、顔のない人物が二人を待っていた。
少女は、その隣に立っている。
彼女の姿は、先ほどよりも少しだけはっきりしていた。
輪郭が揺らぐことも、透明な文字が浮かび上がることもない。
しかし、名前はまだ分からない。
帰る場所も、分からない。
「……行くんですか?」
少女が尋ねた。
「うん」
出久は頷いた。
「まだ、調べなきゃいけないことがあるから」
少女は、少し寂しそうな顔をした。
「また、会える?」
出久は、答えに迷った。
確実な約束はできない。
世界の根は広く、記録は複雑で、二人が次にどこへ向かうのかさえ、はっきりしていない。
それでも。
「会いに来るよ」
出久は言った。
「君の名前が見つかるまで、僕たちは探し続ける」
少女は、じっと出久を見つめた。
「……うん」
「でも、君も、自分が何を望んでいるのか、少しずつ考えてみてほしい」
「何を望んでいるのか?」
「うん。名前がほしいのか。帰りたいのか。誰かに会いたいのか。それとも、まだ分からないのか」
出久は微笑んだ。
「分からないことがあってもいいんだよ。誰かに答えを決めてもらう必要はないから」
少女は、少しだけ考えた。
「わたし……」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「帰りたい」
出久は、頷いた。
「うん」
「名前も、思い出したい」
「うん」
「それから……」
少女は、言葉を止めた。
その目に、初めてはっきりとした意志が浮かんだ。
「わたしが、何をしたのかも、知りたい」
出久は、驚いた。
「何をしたのか?」
「うん」
少女は頷いた。
「誰かが、わたしの名前を忘れたのかもしれない。誰かが、わたしの名前を奪ったのかもしれない。もしかしたら、わたしが、自分の名前を捨てたのかもしれない」
彼女は、顔のない人物を見た。
「まだ、分からないけど」
「……」
「でも、わたしは、わたしが何をしたのかも知りたい」
その言葉を聞いたとき、死神は目を閉じた。
誰かに、自分が何をしたのかを知りたいと願うこと。
それは、ただ救われたいという願いとは違う。
自分の過去が、どれほど苦しいものであっても。
自分が誰かを傷つけていたとしても。
その事実を知りたいと願うこと。
自分の存在を、都合のいい物語に作り替えたくないと願うこと。
死神は、その感覚を知っている気がした。
だが、やはり思い出せない。
「……分かった」
出久は少女に言った。
「君が知りたいことを、一緒に探そう」
少女は、頷いた。
顔のない人物が、静かに言った。
「私も、探します」
「あなたは……」
少女は、少しだけ迷ってから尋ねた。
「あなたの名前も、探しているの?」
顔のない人物は、動きを止めた。
長い沈黙。
やがて、彼は答えた。
「……そうなのかもしれません」
「名前が見つかったら、どうするの?」
「分かりません」
少女は、顔のない人物を見上げた。
「自分の名前を、受け入れる?」
顔のない人物は、答えられなかった。
少女は、少しだけ笑った。
「じゃあ、見つかってから考えればいいよ」
顔のない人物が、ゆっくりと首を傾ける。
「……そうですね」
その声は、ほんのわずかに柔らかくなっていた。
「見つかってから、考えればいい」
少女は、出久に向かって手を振った。
出久も手を振り返す。
死神は、その光景を見つめていた。
名前がなくても、誰かと別れることはできる。
名前がなくても、誰かを見送ることはできる。
そして、名前がなくても、また会いたいと願うことはできる。
それでも、名前を探すことには意味がある。
名前を取り戻すことには、意味がある。
ただし、その名前が何を意味するのかを決めるのは、世界でも、記録でも、名づけた者でもない。
その名前を持つ者自身なのだ。
二人が街の出口をくぐる直前、顔のない人物が呼び止めた。
「死神」
死神が振り返る。
「何だ」
「あなたは、名前を失ったとき、誰かに呼ばれていたはずです」
死神の目が細くなる。
「……誰に?」
顔のない人物は、自分の胸に手を当てた。
「それを、私は思い出せません」
「また、分からないのか」
「ええ」
顔のない人物は、静かに答えた。
「ですが、一つだけ覚えています」
死神は、黙って聞いていた。
「その者は、あなたに名前を返してほしいと願ったのではありません」
出久が、息を止めた。
「では、何を願った?」
顔のない人物は、言った。
「私を、私のままにして。」
風が吹いた。
街の鐘が、遠くで鳴った。
死神の手の中にあった紙片が、音もなく崩れた。
その文字は、空中に浮かび上がり、やがて消えていく。
死神は、動かなかった。
その願いは、世界の根で見つけた記録と同じだった。
顔のない人物が、知っていた願い。
名前を与えたことで、誰かを縛ってしまったかもしれない者が、最後に残した願い。
そして、世界成立以前の記録に残されていた、未完了の応答。
すべてが、一本の根でつながり始めている。
しかし、まだ何も確定していない。
誰が願ったのか。
誰が応答したのか。
第一接続者とは誰なのか。
死神は、その願いに応えたのか。
それとも、その願いを聞かなかったのか。
答えは、まだ闇の中にある。
「……私は」
死神が、かすかに呟いた。
「私は、その願いに何と答えた?」
顔のない人物は、答えなかった。
ただ、死神を見つめていた。
その顔のない頭部に、最後の文字が浮かび上がる。
応答――未完了。
そして、その文字の下に。
新たな一文が刻まれた。
願いを発した者の名前――回復条件、未登録。
11 記録の外から
二人が世界の根へ戻ると、そこには新しい道が生まれていた。
今まで存在しなかった道。
記録の枝と枝の間に、細い根が伸びている。
その根は、世界の内側へ向かっていなかった。
世界の外側へと伸びていた。
「……また、外側か」
死神が呟く。
出久は、根を見つめた。
「この先に、名前を奪った者がいるんでしょうか」
「分からない」
死神は答えた。
「だが、名前を奪うことを命じた者がいるのなら、そこに痕跡が残っている可能性はある」
二人は、根に沿って歩き始めた。
しばらく進むと、道の先に、小さな記録が浮かんでいた。
それは、どの記録にも接続していなかった。
誰の名前も書かれていない。
記録番号もない。
接続先も、接続元もない。
ただ、一つの文章だけが残されていた。
名前を与えることを許可する。
出久は、息を呑んだ。
その下には、別の文章があった。
名前を与えることを禁止する。
二つの命令が、同じ記録に刻まれている。
そして、そのさらに下に。
命令者――未登録。
命令の優先順位――照合不能。
命令の目的――記録不能。
出久は、拳を握りしめた。
「……こんなの、どうやって従えばいいんだ」
死神は、記録を見つめた。
「従うことを前提にしているのが、問題なのかもしれない」
「え?」
「誰かが命令した。だが、命令した者の名前も、目的も、理由も分からない」
死神は、静かに続けた。
「それでも、世界は命令に従おうとしている」
出久は、安寧システムのことを思い出した。
矛盾を消去するために、命令を実行し続ける存在。
その命令が誰のものなのかを、確かめることなく。
「……安寧システムは、この命令を知っているんでしょうか」
「知っている可能性はある」
「じゃあ、なぜ止めないんですか?」
死神は、すぐには答えなかった。
「止めることが、許されていないのかもしれない」
「誰に?」
「それが分からない」
出久は、記録を見つめた。
世界の根の外側。
名前を与えることを許可する命令。
名前を与えることを禁止する命令。
そして、命令者は未登録。
この命令は、第一接続者に関する二つの証言と、何か関係があるのだろうか。
第一接続者は、誰かを救おうとした。
第一接続者は、誰かの存在を拒絶した。
もし、その選択が本人の意思だけで決まったのではなく、何らかの命令によって左右されていたのなら。
第一接続者は、何を知っていたのか。
何を選ぶことができたのか。
そして、その命令を出した者は、何を恐れていたのか。
「……死神」
出久が言った。
「僕は、まだ分かっていないことばかりです」
「私もだ」
「でも、一つだけ、はっきりしたことがあります」
死神が、出久を見る。
「名前を与えることも、名前を奪うことも、それだけで正しいか間違っているかは決められない」
出久は、記録を見つめた。
「その人が何を望んでいたのか。何を選んだのか。誰が、その選択を奪ったのか。そこまで知らなければ、本当のことは分からない」
死神は、静かに頷いた。
「そうだな」
二人は、再び歩き始めた。
その背後で、記録が揺らいだ。
文字が消え、また現れる。
名前を与えることを許可する。
名前を与えることを禁止する。
その二つの命令の間に、小さな文字が浮かび上がった。
対象者の意思を確認せよ。
それは、どこから来た命令なのか。
誰が書き込んだのか。
分からない。
だが、その文字は、ほかの命令とは違っていた。
誰かに従わせるための命令ではなかった。
誰かの意思を、確かめるための命令だった。
その文字が記録された瞬間、世界の根の外側から、かすかな声が届いた。
「……まだ、終わっていない」
それは、死神の声ではなかった。
出久の声でもなかった。
顔のない人物の声とも違っていた。
世界が生まれる前の、あの問いを発した存在の声と似ていた。
しかし、同じ存在だと断定することはできない。
声は、続けた。
「名前を与えることも、名前を奪うことも……」
一瞬、途切れる。
「……誰かが、決めたのだろうか」
その問いに、世界の根は答えなかった。
ただ、未完了の記録が、静かに脈打っていた。
死神は、足を止めた。
その胸の奥で、何かが揺れた。
名前を呼ばれた記憶。
誰かの願いを聞いた記憶。
誰かを救おうとした記憶。
そして、誰かの願いを聞くことができなかった記憶。
どれも、はっきりとは思い出せない。
だが、確かにそこにある。
「……行こう、出久」
死神が言った。
「はい」
二人は、根の先へ進んだ。
名前を与えた者を探すために。
名前を奪った者を探すために。
そして、名前を持たないまま、世界のどこかで帰還を願い続けている者を見つけるために。
その先に待っているものが、救いなのか、罪なのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは。
名前を呼ぶことと、相手を理解することは、同じではないということ。
そして、相手を理解できないからといって、その存在をなかったことにしていいわけではないということだった。
世界の根の奥で、二つの記録が再び共鳴した。
帰還要求――継続中。
応答――未完了。
その間に、新たな一文が刻まれる。
名前の回復――本人の意思を確認すること。
記録は、そこで止まった。
まだ、名前は戻らない。
まだ、応答は完了しない。
まだ、帰る場所は見つからない。
けれど、世界は初めて、その願いを消去するのではなく、確かめるための記録を残した。
その小さな変化が、世界を救うのか。
それとも、世界の矛盾をさらに深くするのか。
答えは、次の記録の中にある。