緑谷出久の名前が、世界から一枚だけ消えた。
正確には、名前が書かれた紙が消えた。
それだけだ。
机も、椅子も、監視カメラも、男自身も、面談室に残っていた。扉は閉じられ、窓はなく、室内に侵入できる経路は存在しない。
警備員が二名、扉の前に立っていた。
面談室の内部は、三台のカメラで監視されていた。
紙が消える瞬間を、職員たちは誰も見ていない。
記録された映像にも、紙が持ち去られた様子はなかった。
ただ、映像が〇・〇三秒だけ乱れた。
その前と後で、机の上に置かれていた紙の枚数が一枚違っていた。
それだけだった。
それだけのことが、雄英高校の臨時災害対策本部を再び騒然とさせた。
「映像を戻せ!」
「もう何度も確認しています!」
「コマ送りだ! 画像補正もかけろ!」
「補正をかけても、紙が消える瞬間そのものが存在しません!」
「なら、別のカメラはどうだ!」
「三台とも同じです! 同じタイミングで映像が乱れています!」
「電源系統を調べろ! 外部からの干渉がないか確認しろ!」
「確認しています!」
怒号が飛び交う。
モニターには、問題の映像が繰り返し再生されていた。
机の上に、白い紙が置かれている。
紙には、緑谷出久の名前が書かれている。
男が、それを見つめる。
男が、監視カメラを見上げる。
映像が乱れる。
そして、紙が消えている。
その間、男は一度も机に触れていない。
手を伸ばしてもいない。
紙を持ち上げてもいない。
ただ、そこに座っている。
まるで、最初から紙など存在しなかったかのように。
「……相澤先生」
八百万百が、モニターの前で呟いた。
「これは、個性なのでしょうか」
「分からん」
相澤消太は、映像から目を離さずに答えた。
「物体を消す個性なら、いくつか考えられる。だが、映像に残らず、物理的な痕跡も残さず、複数の観測機器に同時に異常を起こすとなると……」
「個性の範囲を超えている?」
「そう決めつけるには早い。だが、少なくとも俺たちが知っている能力の分類では説明できていない」
相澤は腕を組んだ。
その視線は、画面の中の男に向けられている。
男は、笑っていた。
緑谷出久の名前を見つめながら。
まるで、長い間探していたものを、ようやく見つけたかのように。
あるいは。
ずっと待ち続けていた相手が、ようやく約束の場所に現れたかのように。
「……あの男は、何者だ」
相澤の呟きに、誰も答えなかった。
答えられる者がいなかった。
その男には、戸籍がない。
死亡記録もない。
生存記録もない。
指紋も、DNAも、既存のデータベースに一致するものがない。
彼がこの世界に生まれたという証拠は、どこにも存在しない。
それなのに。
彼は、人間の姿をしている。
呼吸をしている。
体温もある。
食事を摂ることもできる。
痛みを感じるかどうかは、まだ分からない。
ただ、彼は確かに、そこにいた。
そして、彼は言ったのだ。
――次は、君が死ぬ番だよ。緑谷出久。
「……本人を呼ぶしかないな」
相澤が言った。
「ですが、先生」
八百万が顔を上げる。
「先ほどの女性の件もあります。緑谷さんを直接接触させるのは、危険ではないでしょうか」
「危険だ」
相澤は即答した。
「だから、俺が立ち会う。単独での接触はさせない」
「それでも、もし先ほどの現象が再発したら……」
「そのときは、こちらが止める」
そう言いながらも、相澤は確信していなかった。
何を使って止めるのか。
どうやって止めるのか。
そもそも、止められるものなのか。
何も分からない。
だが、放置することもできない。
相澤は通信端末を取り出した。
「緑谷。聞こえるか」
『はい、聞こえます』
「今から面談室に来い。例の男について、確認したいことがある」
少しの間があった。
『……分かりました』
出久の声が、いつもより低かった。
「それから、麗日も一緒に来い」
『えっ?』
通信の向こうで、別の声が聞こえた。
『私もですか?』
「ああ。お前も関係者だ」
『……分かりました』
通信が切れた。
相澤は、モニターを見つめた。
男は、相変わらず笑っていた。
その笑顔が、妙に気に障った。
敵意を隠しているようには見えない。
殺意をむき出しにしているわけでもない。
むしろ、楽しそうだった。
これから起こることを、すべて知っている人間のように。
いや。
人間だと、誰が決めたのだろう。
相澤は、その考えを頭の中から追い払った。
決めつけるな。
まずは話を聞く。
それから判断する。
それが、今できる唯一のことだった。
◇
午後三時二十八分。
緑谷出久は、廊下を歩いていた。
隣には麗日お茶子がいる。
少し後ろには爆豪勝己と轟焦凍が続いていた。
「……俺たちまで行く必要あんのか?」
爆豪が不機嫌そうに言った。
「相澤先生からは、来られるなら来てほしいって言われたよ」
出久が答える。
「なら最初からそう言え」
「いや、今言ったけど……」
「最初からだ!」
「最初って、いつ!?」
「うるせえ!」
「二人とも、廊下で騒ぐな」
轟が淡々と指摘した。
「お前もついてきてるだろうが、半分冷蔵庫!」
「冷蔵庫じゃない」
「そういう問題じゃねえ!」
お茶子は、二人のやり取りを聞きながら、小さく笑った。
しかし、笑い終えると、出久の袖をそっと引いた。
「……出久くん」
「うん?」
「大丈夫?」
出久は、彼女を見た。
「うん。大丈夫だよ」
「本当に?」
「……うん」
今度は、少しだけ間が空いた。
お茶子は、それを見逃さなかった。
「怖い?」
出久は、すぐには答えなかった。
あの白い空間。
幼い自分。
自分の知らない記憶。
そして、巨大な影。
あれが何だったのか、まだ分からない。
自分の中に何かが入り込んだのか。
自分が何かを忘れているのか。
それとも、あの男が関係しているのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
「……少し」
出久は、正直に答えた。
「また、何か起きるかもしれないから」
「うん」
「僕が近づくことで、あの人に何かあったら……」
「出久くん」
お茶子が、彼の手を握った。
「それは、まだ起きてないことだよ」
出久は、彼女を見た。
「起きるかもしれない。でも、起きないかもしれない。だから、今から全部を自分のせいにしなくていいんだよ」
「……うん」
「それに、今日は相澤先生もいるし、爆豪くんも轟くんもいる」
「おい、なんで俺が数に入ってんだ」
爆豪が振り返った。
「頼りにしてるからだよ」
「……チッ」
爆豪は顔を背けた。
「勝手にしろ」
「うん」
「あと、てめえ」
「えっ?」
「何か変なことが起きたら、俺の後ろに下がれ」
「いや、僕も対応を――」
「下がれ」
出久は、口を閉じた。
爆豪の顔は真剣だった。
怒っているようにも見える。
だが、その奥には、別の感情がある。
かつて、何度も命を懸けて戦った相手だからこそ、出久には分かった。
爆豪は、また自分が無茶をするのではないかと警戒している。
そして、今回はその警戒が正しいことを、出久自身も否定できなかった。
「……分かった」
「よし」
爆豪は前を向いた。
「最初からそう言え」
「それ、さっきも聞いたよ……」
「何か言ったか?」
「何も言ってません!」
お茶子が、今度は声を上げて笑った。
轟は、無表情のまま言った。
「爆豪。お前は、緑谷を心配しているんだな」
「ぶっ殺すぞ、半分冷蔵庫!」
「心配しているんだな」
「二回言うな!」
出久は、思わず笑ってしまった。
笑える。
まだ、笑える。
この世界がどれほど異常なものに侵食されていても。
自分たちがどれほど理解できないものに直面していても。
仲間たちは、ここにいる。
それは、今の出久にとって、何よりも確かなものだった。
そして、彼らは面談室の前にたどり着いた。
分厚い扉。
左右に立つ警備員。
その向こうに、存在しない男がいる。
出久は、ゆっくりと息を吸った。
「……行こう」
扉が開いた。
◇
男は、椅子に座っていた。
手錠はつけられていない。
机の上には、水の入ったコップ。
壁には、観察用のカメラ。
天井には、照明。
どこにでもある、簡素な面談室。
ただ一つ、異様なことがあった。
男は、出久が入室した瞬間、泣きそうな顔をしたのだ。
「……ああ」
男は、立ち上がろうとした。
しかし、椅子の脚が床に引っかかったのか、少しよろめいた。
出久は、反射的に手を伸ばしかけた。
その瞬間。
「待て」
相澤の声が飛んだ。
出久は、手を止めた。
男は、ゆっくりと椅子に座り直した。
そして、出久を見つめた。
その目には、憎しみも、敵意もなかった。
むしろ、安堵があった。
長い間、探し続けていた人間を、ようやく見つけたかのような。
「……緑谷出久」
男が言った。
出久は、頷いた。
「はい。あなたは?」
男は、しばらく黙っていた。
自分の名前を探しているようだった。
だが、やがて、ゆっくりと首を振った。
「……分からない」
「名前を、ですか?」
「うん」
男は、自分の手を見つめた。
「自分の名前が、分からないんだ」
その声は、あまりにも普通だった。
特別な力を持つ怪物の声ではない。
人間の声だった。
「家族のことも?」
「分からない」
「どこで生まれたのかも?」
「分からない」
「どうして、ここにいるのかも?」
男は、顔を上げた。
「それは、分かる」
出久は、息を呑んだ。
「……どうしてですか?」
男は、まっすぐに出久を見た。
「君に会うためだよ」
沈黙が落ちた。
相澤が、口を開いた。
「それは、誰かに命令されたのか?」
「違う」
「では、誰かに誘導された?」
「違うよ」
「どうして、緑谷を知っている?」
男は、少しだけ考えた。
「知っているから」
「答えになっていない」
「そうだね」
男は、申し訳なさそうに笑った。
「ごめん。でも、本当に、それしか言えないんだ」
相澤は、目を細めた。
「……お前は、自分がどこから来たと思っている?」
男は、少しだけ顔を上げた。
そして、窓のない壁を見つめた。
「……向こうから」
「向こう?」
「この世界の、向こう側」
轟が、静かに尋ねた。
「異世界という意味か?」
「それも、少し違う」
「時間が違うのか?」
「……近いかもしれない」
男は、言葉を選ぶように話した。
「僕は、ここに来る前、別の世界にいた。そこにも、君たちがいた」
出久の心臓が、跳ねた。
「……僕たちが?」
「うん」
「同じ世界に、僕たちがいたんですか?」
「そう」
男は、出久を見つめた。
「君もいた。麗日お茶子も、爆豪勝己も、轟焦凍も。オールマイトもいた」
爆豪の目が、鋭くなった。
「……てめえ」
「ただし」
男は、続けた。
「同じじゃなかった」
その言葉に、全員が黙った。
「同じ名前で、同じ顔をしていても、違うことがあった。君たちが経験したことも、経験していないこともあった」
男は、自分の胸に手を置いた。
「僕は、その世界で生きていた」
「……いつまで?」
出久が尋ねた。
男は、しばらく考えた。
「……分からない」
「覚えていないんですか?」
「ううん。覚えている。でも、どこからどこまでが本当なのか、分からないんだ」
男は、苦しそうに笑った。
「僕の記憶には、たくさんのものがある。見たことのない街。会ったことのない人。知らないはずの出来事。でも、それを思い出すと、全部、自分が経験したことのように感じる」
「……それは」
出久は、言葉を失った。
今朝、相澤が説明していた。
帰還者の記憶に、別人の記憶が混ざっているケースがある。
本人しか知り得ないはずの記憶と、本人が知るはずのない記憶が、同時に存在している。
この男も、同じなのだろうか。
いや。
彼の場合は、もっと深刻なのかもしれない。
彼は、自分の人生そのものが、どこまで本物なのか分からなくなっている。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
出久は尋ねた。
「君は、僕たちの世界に来る前、死んだんですか?」
男の顔から、表情が消えた。
しばらくして、彼は答えた。
「……うん」
「どうやって?」
「分からない」
「誰かに殺されたんですか?」
「分からない」
「事故だったんですか?」
「分からない」
男は、何度も首を振った。
「分からないんだ。死んだことは覚えている。でも、どうして死んだのかが、分からない」
「……それなのに、ここに来たんですか?」
「うん」
男は、静かに頷いた。
「だから、僕は知りたいんだ」
「何を?」
「自分が、どうして死んだのか」
男は、出久を見つめた。
「そして、どうして君が生きているのか」
その言葉に、相澤が反応した。
「……どういう意味だ?」
男は、相澤を見た。
「あなたは、相澤消太ですね」
「そうだ」
「あなたも、死んだことがある」
相澤の表情が、わずかに変わった。
男は続けた。
「いや、正確には……あなたが死んだ世界が、あった」
その瞬間。
面談室の空気が、変わった。
爆豪が椅子から立ち上がった。
「……てめえ、何を知ってやがる」
男は、怯えたように肩をすくめた。
「ごめん。怒らせるつもりはなかった」
「だったら、ふざけたことを言うな」
「ふざけてないよ」
男の声が、少しだけ強くなった。
「本当に、あったんだ」
彼は、机の上に両手を置いた。
「僕がいた世界では、あなたが死んだ。緑谷出久も死んだ。麗日お茶子も、爆豪勝己も、轟焦凍も……みんな、死んだ」
お茶子が、息を呑んだ。
男は、目を伏せた。
「……それでも、世界は続いた」
静かな声だった。
「誰かが死んでも、誰かが生き残る。誰かが消えても、誰かがその場所を埋める。世界は、そうやって続いていく」
男は、再び出久を見た。
「でも、僕は、それが嫌だった」
「……何が?」
「みんながいなくなっても、世界が何事もなかったように続いていくことが」
男の目に、涙が浮かんだ。
「誰かが死んだことが、ただの過去になってしまうことが」
出久は、何も言えなかった。
男の言葉は、どこか自分自身の痛みに触れていた。
戦いの中で、たくさんの人が死んだ。
その人たちの死は、決して忘れられない。
けれど、世界は続いていく。
街は復興する。
人々は働く。
子供たちは成長する。
新しい命が生まれる。
それは、悪いことではない。
むしろ、生き残った人々が未来を築くことは、死者たちの願いでもあるはずだ。
それでも。
置いていかれたように感じる瞬間は、確かにある。
自分だけが生き残ってしまったような。
自分だけが、あのときの時間から取り残されてしまったような。
そんな感覚を、出久は知っていた。
「……あなたは」
出久は、静かに尋ねた。
「誰かを、取り戻したいんですか?」
男は、目を見開いた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「……違う」
「違う?」
「取り戻したいんじゃない」
男は、自分の手を見つめた。
「僕は、取り戻すことができなかった」
その声が、震えた。
「何度も、何度も、やり直そうとした。でも、何をしても、誰かが死んだ。誰かが傷ついた。誰かが、僕の知らないところで消えていった」
男は、顔を上げた。
「だから、最後にひとつだけ、願ったんだ」
出久は、息を潜めた。
「……何を?」
男は、静かに答えた。
「もう一度、最初からやり直したい」
その瞬間。
室内の照明が、一度だけ点滅した。
相澤の目が、赤く光る。
爆豪が、拳を握った。
轟の右手に、わずかな冷気が集まる。
お茶子は、出久の袖を握りしめた。
男は、何もしていない。
ただ、願いを口にしただけだった。
それなのに。
面談室の空気が、まるで何かに反応したかのように揺らいだ。
「……今、何をした?」
相澤が尋ねた。
「何もしていない」
男は、困惑した顔で答えた。
「本当に、何もしていないんだ」
彼自身も、異常に気づいていた。
自分の手を見つめる。
指先が、わずかに震えている。
「……まただ」
男が呟いた。
「また、始まる」
「何が始まるんだ?」
相澤が問い詰める。
男は、顔を上げた。
その目には、恐怖があった。
「……やり直しだよ」
そして、彼は言った。
「この世界も、また、やり直される」
◇
その言葉が、会議室に共有された直後。
雄英高校のシステムに、奇妙な警報が発生した。
警報そのものは、単純なものだった。
データベースの不整合。
死亡記録の重複。
戸籍情報の更新失敗。
通常ならば、情報処理上の問題として扱われる程度のものだった。
しかし、今回の異常は違った。
エラーが発生したデータは、すべて帰還者に関係するものだった。
しかも、その数は増え続けていた。
「……待ってください」
八百万が、端末を見つめていた。
「死亡記録が、書き換わっています」
「何だと?」
飯田が振り返る。
「いえ、正確には……書き換わっているのではありません」
八百万は、画面を拡大した。
「同じ人物に、複数の死亡記録が存在しているのです」
「それは先ほどもあった話だろう?」
「違います」
八百万の声が震えた。
「今までは、記録上の矛盾でした。死亡年月日が異なる、死亡場所が異なる、生前の経歴が異なる。そうした矛盾が存在していました」
彼女は、別の画面を開いた。
「ですが、今は……同じ人物が、同じ日時に、複数の場所で死亡した記録が追加されています」
飯田は、息を呑んだ。
「同じ日時に、複数の場所……?」
「はい」
八百万は、画面を見つめた。
「そして、そのすべてが、正規の記録として認識されています」
画面には、一人の男性の情報が表示されていた。
名前。
生年月日。
職業。
家族構成。
その下に、死亡記録が並んでいる。
死亡日時。
死亡場所。
死因。
それが、何十件も。
同じ人物の記録として。
「……これは、いったい」
飯田が呟いた。
その瞬間。
画面が、真っ黒になった。
そして、白い文字が表示された。
『記録の整合性を確認しています』
八百万は、息を止めた。
これは、雄英のシステムではない。
画面の書式も、フォントも、表示方法も違う。
そもそも、そんなメッセージを表示する機能は存在しない。
なのに。
画面には、文字が表示されている。
『観測対象の重複を検出』
『時間軸の不整合を検出』
『個体情報の統合を開始』
「……飯田さん」
八百万が、震える声で言った。
「この画面を、すぐに切断してください」
「分かった!」
飯田は、端末の電源を落とそうとした。
だが、反応しない。
電源ボタンを押しても、画面は消えない。
通信ケーブルを抜いても、表示は続く。
そして、最後に。
新しい文字が表示された。
『再観測準備完了』
八百万は、目を見開いた。
「……再観測?」
その瞬間、画面に一枚の写真が表示された。
緑谷出久の顔写真だった。
その下には、数字が並んでいる。
年齢。
生年月日。
個性情報。
戦闘記録。
死亡記録。
そして。
『対象個体:緑谷出久』
『状態:生存』
『死亡記録:未確定』
『観測回数:二』
八百万は、息を呑んだ。
「……二回?」
その下に、さらに文字が表示された。
『前回の観測結果との照合を開始します』
画面が、点滅した。
そして、表示された。
『警告:対象個体の記憶情報に不整合があります』
『警告:対象個体の存在履歴に欠落があります』
『警告:対象個体は、観測結果を認識している可能性があります』
最後に。
画面の中央に、一行だけ表示された。
『対象個体の再観測を優先してください』
八百万は、すぐに通信端末を取った。
「相澤先生! 緊急事態です!」
◇
面談室の中では、男が、静かに目を閉じていた。
先ほどの発言以降、彼は何も話していない。
ただ、机の上に両手を置いて、呼吸を整えている。
相澤は、男を見つめていた。
「……お前は、世界がやり直されると言ったな」
「うん」
「それは、何度も起きているのか?」
「……分からない」
「分からないことが多すぎるな」
「ごめん」
「謝罪はいらん。質問に答えろ」
相澤は、声を低くした。
「お前は、世界がやり直される瞬間を見たことがあるのか?」
男は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ある」
「どんな現象だ?」
「最初は、何も起きない」
「何も?」
「うん。空も、街も、人も、何も変わらない。みんな、普通に生活している」
男は、遠くを見るような目をした。
「でも、少しずつ、違うものが混ざってくる」
「違うもの?」
「記憶だよ」
男は、自分の頭を指差した。
「昨日の記憶に、存在しない昨日が混ざる。知っているはずの人を、知らないはずなのに知っている。行ったことのない場所を、懐かしいと感じる」
出久の背筋が冷たくなった。
今朝の自分の感覚。
目を覚ましたとき、自分の部屋が自分の部屋ではないように感じた。
あの違和感と、似ている。
「……そして?」
相澤が促す。
「そのうち、世界そのものが変わる」
男は答えた。
「人が消える。街が変わる。歴史が変わる。昨日まで生きていた人が、最初から存在しなかったことになる」
「……」
「でも、全員が忘れるわけじゃない」
男は、出久を見た。
「誰かが、覚えている」
出久の心臓が、嫌な音を立てた。
「……それは、君なの?」
男は、首を振った。
「僕じゃない」
「じゃあ、誰が?」
男は、ゆっくりと答えた。
「君だよ」
沈黙。
誰も、動かなかった。
「……僕?」
出久の声が、かすれた。
「うん」
男は、頷いた。
「君は、いつも覚えている」
「何を……?」
「世界が、やり直されたことを」
出久は、首を振った。
「そんなはずは……」
「分かってる。君は覚えていない」
男は、悲しそうに笑った。
「でも、覚えていないことと、経験していないことは、同じじゃない」
その言葉が、出久の胸に突き刺さった。
記憶がない。
だから、経験していない。
そうとは限らない。
帰還者たちは、まさにその問題を抱えている。
自分の記憶が欠けている。
それでも、自分が誰なのかを信じたい。
過去を思い出せないからといって、過去が存在しなかったことにはならない。
では。
自分自身は、どうなのだろう。
もし、自分が何かを忘れているのなら。
もし、自分が知らない過去を持っているのなら。
それは、誰の人生なのだろう。
「……どうして、僕が覚えているんですか?」
出久は尋ねた。
男は、答えた。
「君が、最後まで残るから」
「……最後まで?」
「世界がやり直されるとき、君だけは、最後までそこにいる」
男は、震える声で言った。
「みんなが消えても。街が消えても。空が消えても。君だけは、最後まで、あの場所に立っている」
「……あの場所って?」
男は、目を伏せた。
「分からない」
「また、分からないんですか……?」
「ごめん。でも、本当に分からないんだ」
男は、苦しそうに頭を抱えた。
「そこだけ、どうしても思い出せない。君が立っている場所だけは、いつも、真っ白なんだ」
白い空間。
幼い自分。
巨大な影。
出久は、思わず息を呑んだ。
同じだ。
自分が見た場所と、同じなのかもしれない。
あの白い空間は、ただの幻覚ではなかったのか。
あの少年は、自分自身だったのか。
それとも、世界がやり直されるたびに生まれる、自分の残骸だったのか。
「……緑谷」
相澤の声が聞こえた。
「今、何か思い出したか?」
出久は、ゆっくりと首を振った。
「……いいえ」
嘘だった。
何かを思い出したわけではない。
ただ、いくつかの点が、繋がりかけている。
そのこと自体が、恐ろしかった。
まだ、何も分かっていない。
なのに、分かり始めている。
それは、知らないままでいることよりも、ずっと怖かった。
◇
そのとき、相澤の通信端末が鳴った。
『相澤先生! 聞こえますか!』
八百万の声だった。
「聞こえる。何があった?」
『雄英のデータベースに、異常な記録が発生しています! 帰還者の死亡記録が、同一人物について複数登録されているんです!』
「それは先ほどの報告と同じか?」
『違います! 今度は、緑谷さんの記録が――』
通信が途切れた。
「……八百万?」
相澤が呼びかける。
返事はない。
その代わりに、端末から、奇妙なノイズが流れ始めた。
ざざっ。
ざざざっ。
そして。
ノイズの向こうから、声が聞こえた。
『……緑谷出久』
相澤の顔が強張った。
それは、八百万の声ではなかった。
男の声でもない。
女の声でもない。
人間が発する音声に似ているのに、人間の声とは思えない。
『……観測対象を確認』
面談室の照明が、消えた。
非常灯だけが、赤く点灯する。
警備員が、扉の外で何かを叫んでいる。
しかし、その声は、遠くから聞こえるように歪んでいた。
『……前回の記録との照合を開始』
男が、顔を上げた。
その表情から、血の気が引いていく。
「……来た」
彼は、震える声で呟いた。
「来ちゃった……」
「何が来たんだ!」
相澤が叫ぶ。
男は、首を振った。
「違う……違うんだ……」
彼は、机の端を握りしめた。
「まだ、早い……! こんなに早く、来るはずじゃ……!」
その瞬間。
出久の頭の中に、声が響いた。
――見つけた。
あの声だった。
白い空間で聞いた、あの声。
幼い自分の背後にいた、巨大な存在。
世界そのものを見つめていた、何か。
――ようやく、見つけた。
出久は、膝をついた。
「っ……!」
「緑谷!」
お茶子が、彼の身体を支えた。
視界が、歪む。
壁が、遠ざかる。
机が、消える。
いや。
消えているのではない。
そこに存在しているものが、少しずつ、別のものに置き換わっている。
面談室の壁が、白くなった。
床が、白くなった。
天井が、白くなった。
そして。
目の前に座っていた男が、出久を見つめていた。
男の身体が、透け始めている。
「……ごめん」
男が言った。
「本当に、ごめん」
「……何を」
出久は、震える声で尋ねた。
「何をしたんですか……?」
男は、泣いていた。
「僕が、君を見つけたから」
彼は、両手で顔を覆った。
「僕が、君に会いたいって願ったから……!」
白い空間が、広がっていく。
相澤の姿が、遠ざかる。
お茶子の手が、離れそうになる。
出久は、必死に彼女の手を握った。
「お茶子ちゃん!」
「出久くん!」
お茶子も、必死に手を握り返した。
「離さないで!」
「うん!」
爆豪が、何かを叫んでいる。
轟が、氷を展開しようとしている。
相澤が、こちらへ手を伸ばしている。
だが、そのすべてが、白い光の中に溶けていく。
そして。
出久の目の前に、少年が現れた。
緑色の髪。
大きな瞳。
幼いころの、自分。
少年は、静かに笑っていた。
「……おかえり」
出久は、息を呑んだ。
「……君は」
「ずっと待ってたよ」
少年は、言った。
「君が、ここに戻ってくるのを」
「ここは……どこなんだ?」
少年は、首を傾げた。
「君が、忘れた場所」
「僕が……忘れた?」
「うん」
少年は、笑った。
「でも、大丈夫」
その背後で。
巨大な影が、ゆっくりと動いた。
「もうすぐ、全部思い出すから」
少年が、出久に手を伸ばした。
「ねえ、出久くん」
その声は、優しかった。
あまりにも、優しかった。
「今度こそ、最後まで一緒にいようね」
出久は、動けなかった。
その言葉の意味が、分からなかった。
ただ、ひとつだけ。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が、強く痛んだ。
懐かしい。
悲しい。
怖い。
そして、どうしようもなく。
会いたかった。
そんな感情が、一度に押し寄せてきた。
少年は、出久の手を取った。
その瞬間。
白い空間の向こうから、巨大な声が響いた。
――観測を再開する。
――対象個体、緑谷出久。
――前回の記録との照合を開始。
――不整合を確認。
――修正を実行する。
出久は、叫んだ。
「やめろッ!」
だが、声は届かなかった。
少年の身体が、光に包まれる。
巨大な影が、こちらへ手を伸ばす。
そして。
出久の意識が、途切れた。
◇
午後三時三十分。
雄英高校、臨時災害対策本部。
すべてのシステムが、正常に戻った。
照明が点灯した。
監視カメラが復旧した。
通信回線も、問題なく稼働している。
面談室の扉は閉じられたままだった。
机も、椅子も、水の入ったコップも、そこにある。
男も、そこに座っていた。
ただし。
緑谷出久の姿は、どこにもなかった。
麗日お茶子も。
爆豪勝己も。
轟焦凍も。
相澤消太も。
誰一人、面談室にはいなかった。
監視カメラの映像には、彼らが消えた瞬間が記録されていない。
面談室の扉は、一度も開いていない。
警備員は、ずっと扉の前に立っていた。
それなのに。
室内にいた五人が、消えていた。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、監視カメラを見つめた。
「……間に合わなかった」
彼は、呟いた。
「また、間に合わなかった」
その目から、涙が零れ落ちた。
彼は、机の上に置かれた水のコップを見た。
コップの表面に、波紋が広がっている。
誰も触れていないのに。
波紋は、ゆっくりと広がっていく。
そして、コップの中に、別の光景が映った。
白い空間。
幼い少年。
巨大な影。
その前に立つ、緑谷出久。
男は、震える声で言った。
「……ごめん、出久くん」
そして、誰にも聞こえない声で、続けた。
「今度こそ、君を救いたかったんだ」
コップの中の光景が、消えた。
その代わりに、机の上に、一枚の紙が現れた。
白い紙。
そこには、名前が書かれていた。
緑谷出久。
その下に、もう一行。
『死亡記録:確定』
男は、目を見開いた。
「……あ」
彼は、震える手で紙を掴んだ。
そして、必死に文字を消そうとした。
「違う……! 違う、違う、違う……!」
紙を破ろうとする。
だが、破れない。
燃やそうとする。
だが、燃えない。
水に浸そうとする。
だが、濡れない。
その紙は、世界そのものに刻まれた記録のように、何をしても変わらなかった。
男は、崩れ落ちた。
「……また、死んだ」
彼は、泣きながら呟いた。
「また、君が死んだ……」
その瞬間。
面談室の壁に、黒い亀裂が走った。
男は、顔を上げた。
亀裂の向こうには、星空が広がっていた。
いや。
星空ではない。
星々の配置が、意味を持っていない。
距離も、時間も、方向も、何もかもが、人間の理解できる形をしていない。
その奥に、何かがいた。
巨大な存在。
世界を見つめるもの。
人類の進化を観測するもの。
死者を返し、欲望を集め、何度も何度も、同じ問いを投げかけるもの。
男は、その存在を見上げた。
「……どうして」
声が震える。
「どうして、君は、いつも彼を選ぶんだ」
亀裂の向こうから、答えは返ってこなかった。
ただ、巨大な存在が、わずかに動いた。
そして。
男の頭の中に、言葉が響いた。
――観測対象の状態を確認。
――緑谷出久。
――死亡。
――再構築を開始する。
男は、絶叫した。
「やめろおおおおおッ!!」
しかし、何も変わらなかった。
亀裂は、静かに閉じていく。
世界は、何事もなかったかのように元へ戻る。
そして、男だけが。
そこに残された。
彼は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
涙を拭う。
そして、監視カメラを見つめた。
「……まだ、終わってない」
男は、静かに言った。
「まだ、終わらせない」
その目には、先ほどまでの絶望とは違うものが宿っていた。
怒り。
決意。
そして、深い悲しみ。
「今度こそ、君を救う」
彼は、机の上の紙を見た。
緑谷出久。
死亡記録、確定。
その文字を、じっと見つめた。
「……たとえ、世界を敵に回しても」
その瞬間。
紙の一番下に、新しい文字が浮かび上がった。
『観測回数:三』
男は、目を閉じた。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……三回目か」
その言葉だけが、面談室に残った。
外では、午後三時三十一分を知らせる時計の音が鳴っていた。
世界は、まだ続いている。
人々は、何も知らない。
死者が蘇った理由も。
存在しない男が現れた理由も。
緑谷出久が、世界から消えたことも。
そして。
この世界が、すでに三度目なのかもしれないことも。
構成大幅増加したので話数増えてしまいました面白さ優先してはいるのでこの世界観にお付き合いしていただけたら幸いです。