僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

120 / 172
第二十八話「願いを記録する機械の向こう側」

第一節 機械は、願いを知っている

世界の根の内部には、音がなかった。

 

風も、空気の流れも、機械の駆動音もない。

 

それでも、緑谷出久は、ここが何かの内部であることを直感していた。

 

目の前には、巨大な構造体が浮かんでいる。

 

歯車にも見える。

樹木の断面にも見える。

無数の円環を重ねた天体にも見える。

 

その表面を、文字列が絶え間なく走っていた。

 

人間の名前。

失われた記憶。

まだ実現していない可能性。

誰かが口にした言葉。

誰にも告げなかった願い。

 

それらが区別なく、同じ速度で流れている。

 

出久は息を呑んだ。

 

「これが……デウス・マキナ?」

 

「正確には、その一端だ」

 

死神が答えた。

 

「機械そのものというより、機械が世界に接続するための窓口に近い。ここから先にあるものすべてを、デウス・マキナが自由に支配できるわけではない」

 

「でも、記録にはアクセスできるんだよね?」

 

「できるものもある」

 

「できないものも?」

 

「当然だ」

 

死神は、目の前を流れる文字列を見つめていた。

 

「記録されていることと、理解できることは違う。理解できることと、叶えられることも違う。そして、叶えられることと、叶えていいことも違う」

 

出久は、その言葉を頭の中で繰り返した。

 

記録。

理解。

実現。

許可。

 

同じものではない。

 

当たり前のことだ。

 

けれど、この世界では、その当たり前が何度も踏みにじられてきた。

 

人の願いを、世界が勝手に解釈する。

 

悲しみをなくすために、悲しむ人間を消す。

 

争いをなくすために、争う自由を奪う。

 

誰かを救うために、その誰かが何を望んでいるかを聞かない。

 

そして、死者を世界に戻した結果、世界そのものが死者を異常と判断する。

 

出久は拳を握った。

 

「……ここなら、死者がどうして帰ってきたのかも分かるかもしれない」

 

「分かるかもしれない、というだけだ」

 

「うん」

 

出久は頷いた。

 

「だから、調べるんだ」

 

その返答に、死神は何も言わなかった。

 

ただ、わずかに視線を動かした。

 

その目には、かすかな痛みがあった。

 

かつて自分も、同じように考えたのだろうか。

 

分からないから調べる。

知らないから知ろうとする。

そして、知ったつもりになった瞬間に、取り返しのつかない選択をしたのだろうか。

 

死神には、まだ思い出せない。

 

だが、思い出せないことを理由に、なかったことにはできなかった。

 

「進むぞ」

 

「うん」

 

二人が構造体へ近づいた瞬間、文字列の流れが変わった。

 

無数の記録が、一斉に停止する。

 

その中央に、ひとつの表示が浮かび上がった。

 

《未完了処理を検出》

 

続いて、別の文字が現れる。

 

《第一接続者に関する願い》

 

《応答者――死神》

 

出久が振り返った。

 

死神は、動かなかった。

 

その顔から表情が消えていた。

 

「……やはり、お前なのか?」

 

「分からない」

 

死神の返答は、静かだった。

 

「記録に名前があることと、その記録の意味を理解していることは違う」

 

出久は、彼の言葉を否定しなかった。

 

否定できなかった。

 

自分だって、かつてはオールマイトから力を受け継いだことを、自分が何者なのかを知る手掛かりだと考えていた。

 

しかし、力を受け継いだからといって、オールマイトと同じ人間になったわけではない。

 

同じ力を持つことと、同じ意思を持つことは違う。

 

誰かの後継者であることと、その人のすべてを理解することも違う。

 

ならば、死神が「願いを受け取った者」として記録されているからといって、彼がその願いを正しく理解していたとは限らない。

 

ましてや、その願いが何を意味していたのかさえ、まだ分からないのだ。

 

出久は機械へ向き直った。

 

「記録を開いてくれ」

 

機械は答えなかった。

 

代わりに、文字列がひとつずつ書き換わっていく。

 

《処理の再開条件――応答者による意思の確認》

 

《応答者の意思――未確認》

 

《対象者の意思――未確認》

 

《処理の再開――保留》

 

出久は目を見開いた。

 

「……死神さんの意思が確認できないから、処理が止まっている?」

 

「違う」

 

死神が言った。

 

「それだけではない」

 

彼は、最後の一行を指さした。

 

「対象者の意思も、確認できていない」

 

その瞬間、出久は理解した。

 

この機械は、願いを受け取った者の意思だけでなく、願った者自身の意思も必要としている。

 

少なくとも、そう記録されている。

 

誰かを救うと決めた人間だけでは、救済は成立しない。

 

誰かを帰すと決めた人間だけでは、帰還は成立しない。

 

願いを叶える側がどれだけ強大でも、願った側の意思を確認しない限り、最後の処理は完了しない。

 

それは、あまりにも当然のことだった。

 

そして同時に、この世界が最も苦手としていることでもあった。

 

「……どうして、こんな仕組みになっているんだろう」

 

出久が呟いた。

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

やがて、彼は言った。

 

「誰かが、失敗したからかもしれない」

 

「失敗?」

 

「願いを叶えたつもりで、願った者を置き去りにした。救ったつもりで、その者の意思を聞かなかった。あるいは、願いを記録することだけで、役目を果たしたと思い込んだ」

 

死神は、機械の奥を見つめた。

 

「そして、その失敗を繰り返さないために、この仕組みが残された」

 

出久は、静かに息を吸った。

 

「……それなら」

 

彼は言った。

 

「僕たちは、同じ失敗を繰り返しちゃいけない」

 

機械は、その言葉に反応しなかった。

 

ただ、停止していた記録のひとつが、ゆっくりと再び動き始めた。

 

それは、誰にも名前を与えられていない記録だった。

 

そして、その記録には――ひとつの声が残されていた。

第二節 願いを記録する機械

『願いの記録を開始します』

 

声は、機械のどこから聞こえたのか分からなかった。

 

男とも女とも判断できない。

若いとも、老いているとも感じられない。

 

人間の声を模倣した音声というより、誰かが言葉を理解するために必要な最低限の音だけを組み合わせたような声だった。

 

『記録対象を指定してください』

 

出久は、機械を見上げた。

 

「第一接続者に関する記録を見せてほしい」

 

『記録対象の指定を確認』

 

『第一接続者に関する記録を検索します』

 

無数の文字列が、再び動き始める。

 

膨大な記録が分岐し、重なり、ひとつの流れへと集まっていく。

 

その過程で、出久は奇妙なものを見た。

 

記録の中に、映像が存在していた。

 

誰かが泣いている。

誰かが手を伸ばしている。

誰かが名前を呼んでいる。

 

けれど、どの映像も、肝心なところで途切れていた。

 

泣いている者の顔は、光の乱れで見えない。

 

手を伸ばしている者の指先は、相手に触れる直前で消えている。

 

名前を呼んでいる者の口元は動いているのに、音声だけが残されていない。

 

「……これ、壊れているの?」

 

出久が尋ねる。

 

『否定』

 

機械は即座に答えた。

 

『記録装置の機能に異常はありません』

 

「じゃあ、どうして肝心な部分がないんだ?」

 

『該当部分は記録されていません』

 

「記録されていない?」

 

『はい』

 

「映像が壊れて、読み取れないんじゃなくて?」

 

『否定』

 

『記録対象に関する該当情報は、記録領域に存在しません』

 

出久は言葉を失った。

 

故障ではない。

 

欠損でもない。

 

最初から、存在しない。

 

その違いは大きかった。

 

記録が壊れたのなら、修復できるかもしれない。

 

消されたのなら、消した者を探せるかもしれない。

 

けれど、最初から記録されていないのなら。

 

そこに何があったのかを、どうやって知ればいい?

 

出久は、機械の表示を見つめた。

 

「……記録されていない情報を、推測することはできる?」

 

『可能』

 

「じゃあ、推測してほしい」

 

『推測を開始します』

 

次の瞬間、機械の表面に複数の仮説が表示された。

 

《仮説一――記録対象が存在しなかった》

 

《仮説二――記録対象は存在したが、記録されなかった》

 

《仮説三――記録対象は存在したが、記録という形式に変換できなかった》

 

《仮説四――記録対象に関する情報が、記録機構の成立以前に存在した》

 

《仮説五――記録対象が、自身の記録を拒否した》

 

出久は、ひとつずつ目を通した。

 

どれもあり得る。

 

そして、どれも決定的ではない。

 

「この中で、一番可能性が高いのは?」

 

『判定不能』

 

「どうして?」

 

『判定に必要な情報が存在しません』

 

出久は、思わず頭を抱えた。

 

「……そりゃそうか」

 

仮説を立てることはできる。

 

しかし、仮説を立てられることと、真実を特定できることは違う。

 

しかも、この機械は世界に存在する記録を参照している。

 

世界の記録そのものが、対象を捉えられていないのなら、どれだけ計算を繰り返しても、結論にたどり着けない可能性がある。

 

出久は、あることに気づいた。

 

「待って。君は、記録されていないものを、どうして記録されていないと判断できるんだ?」

 

機械の声が止まった。

 

初めてだった。

 

質問を受けて、即座に回答しなかったのは。

 

死神が、わずかに顔を上げる。

 

『質問を解析します』

 

『記録対象の不在と、記録領域における情報の不在は、同一ではありません』

 

『本機は、記録領域に存在する情報を参照します』

 

『記録領域に存在しない情報の実在性については、確定できません』

 

出久は目を見開いた。

 

「つまり……」

 

『はい』

 

『本機は、記録されていないものを、記録されていないという事実だけから認識することはできません』

 

『本機が認識しているのは、記録領域に存在する情報と、情報を参照できないという状態です』

 

「じゃあ、さっきの仮説は?」

 

『既存の記録から生成した推測です』

 

「君自身が、見たわけじゃないんだね」

 

『本機における「見る」という表現の定義によります』

 

「そういう意味じゃなくて……」

 

出久は、言葉を探した。

 

「君は、その人が本当にいたのかどうかを知らない。どんなことを願ったのかも知らない。ただ、残っている情報をもとに、こうだったかもしれないって考えているんだ」

 

『肯定』

 

機械は、ためらわなかった。

 

その正直さに、出久はかえって戸惑った。

 

人間なら、自分の能力の限界を認めたがらないこともある。

 

自分が知らないと認めることが、敗北のように感じられるからだ。

 

けれど、この機械は違った。

 

分からないことを、分からないと答える。

 

それは、少なくとも今のところ、嘘をついているわけではないということだった。

 

「……ありがとう」

 

出久がそう言うと、死神が彼を見た。

 

「礼を言うのか」

 

「うん」

 

「何も分かっていないんだぞ」

 

「分からないって、ちゃんと答えてくれたから」

 

出久は機械へ向き直った。

 

「知らないことを、知っているふりをされるよりずっといいよ」

 

その言葉に、機械は何も答えなかった。

 

だが、表面を走る文字列の一部が、わずかに速度を落とした。

 

それは機械が戸惑ったことを意味するのか。

 

それとも、単なる処理の変化なのか。

 

出久には分からなかった。

 

だからこそ、彼は決めつけなかった。

 

機械にも、まだ知られていないことがある。

 

そして、その知られていないことの中に、誰かの存在が隠れているかもしれない。

 

ならば必要なのは、機械を壊すことでも、機械の判断を盲信することでもない。

 

何が記録され、何が記録されず、何が記録という仕組みそのものからこぼれ落ちているのか。

 

その境界を見極めることだった。

 

「……もうひとつ聞いてもいい?」

 

『質問を受理します』

 

「君は、願いを叶えられるの?」

 

機械は、即座に答えた。

 

『否定』

 

出久は、思わず死神と顔を見合わせた。

 

『本機の主要機能は、願いに関する情報の記録、分類、照合、および接続可能な記録領域へのアクセスです』

 

『願いの実現には、別途、実行主体および実行条件が必要です』

 

「じゃあ、願いを記録しても、叶うとは限らない?」

 

『肯定』

 

「願いを理解しても?」

 

『肯定』

 

「願いを叶える力がある存在に、その願いを伝えても?」

 

『肯定』

 

「……そっか」

 

出久は、ゆっくりと息を吐いた。

 

願いを記録する。

 

願いを理解する。

 

願いを実現する。

 

その三つは、ひと続きの工程ではあっても、同じ行為ではない。

 

記録しただけでは、誰も救われないことがある。

 

理解したつもりでも、相手が求めていたものとは違う結果を生み出すことがある。

 

そして、実現する力を持つ者がいたとしても、その者が願いを叶えていいとは限らない。

 

「……だったら、どうして君は、ここに残っているんだろう」

 

出久は呟いた。

 

「願いを叶えられないのに、願いを記録し続けている」

 

機械の声が、静かに響いた。

 

『記録の保存は、本機に与えられた目的です』

 

「誰から?」

 

沈黙。

 

『照合不能』

 

「……君を作った人も分からないの?」

 

『肯定』

 

出久は、目の前の巨大な機械を見上げた。

 

世界の始まりに関わるかもしれない装置。

 

無数の記録を保存し、世界の根と接続し、願いを分類する仕組み。

 

それなのに、自分を作った者の名前すら、分からない。

 

いや。

 

本当に分からないのだろうか。

 

それとも、作った者の記録そのものが、この機械の参照できる範囲に存在しないのだろうか。

 

出久には判断できなかった。

 

だが、ひとつだけ確かなことがあった。

 

この機械は、誰かの願いを記録し続けている。

 

その目的を、忘れずに。

 

たとえ、記録された願いが叶わなくても。

 

たとえ、願った者の名前が失われても。

 

たとえ、誰がこの機械を作ったのかさえ分からなくなっても。

 

「……君は、ずっと覚えているんだね」

 

『肯定』

 

「誰かが忘れてしまっても?」

 

『記録が保持されている限り、参照は可能です』

 

「誰も見に来なくても?」

 

『記録の保存は継続されます』

 

「誰も、その願いを叶えなくても?」

 

『記録の保存は継続されます』

 

出久は、目を伏せた。

 

その答えは、あまりにも機械的だった。

 

けれど、そこには奇妙な重みがあった。

 

誰かが願った。

 

誰かがその願いを受け取った。

 

願いは叶わなかったかもしれない。

 

願った者は、もうどこにもいないかもしれない。

 

それでも、記録は残される。

 

誰かが確かに存在したことを。

 

その誰かが、何かを願ったことを。

 

そして、その願いが叶ったかどうかさえ、まだ分からないことを。

 

出久は、機械の表面に浮かんだ文字を見た。

 

《願いの成就――未確認》

 

その一文が、ひどく寂しいものに思えた。

 

けれど、同時に。

 

そこには、まだ可能性が残されていた。

 

未確認ということは、成就していないと確定したわけではない。

 

そして、成就したと決めつけることもできない。

 

この機械は、そのどちらにも逃げなかった。

 

「……死神さん」

 

出久が呼びかける。

 

「僕たちも、そうしよう」

 

「何をだ」

 

「まだ分からないことを、分かったことにしない。誰かが救われたのか、救われなかったのか。誰かが帰りたかったのか、帰りたくなかったのか。本人が何を望んでいたのか」

 

出久は、機械を見上げた。

 

「その人の答えが見つかるまで、勝手に結論を出さない」

 

死神は、長い沈黙のあと、頷いた。

 

「……そうだな」

 

その瞬間だった。

 

機械の中央に、ひとつの記録が浮かび上がった。

 

これまでの記録とは違う。

 

文字列ではない。

 

映像でもない。

 

ただ、ひとつの文章だけが表示されていた。

 

《第一接続者の応答――未完了》

 

そして、その下に。

 

新たな一文が現れた。

 

《記録対象からの応答を受信しました》

 

出久は息を呑んだ。

 

死神の表情が変わった。

 

誰も、まだ質問していない。

 

誰も、まだ応答を求めていない。

 

それなのに。

 

記録の向こう側から、何かが返事をしてきたのだ。

第三節 願いを叶えてほしいとは、言っていない

『記録対象からの応答を受信しました』

 

機械が、もう一度繰り返した。

 

出久は、表示された文章から目を離せなかった。

 

「……応答?」

 

死神は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

これまで、二人は記録を追ってきた。

 

残された言葉を読み、欠落した部分を調べ、矛盾する証言を並べ、そこに何があったのかを推測してきた。

 

だが、今度は違う。

 

記録の向こう側から、何かが返事をしてきた。

 

しかも、その応答は、第一接続者に関する未完了の処理と結びついている。

 

「その記録対象は、誰だ?」

 

死神が尋ねた。

 

『照合不能』

 

「応答を受信したと言っただろう」

 

『肯定』

 

「ならば、誰からの応答なのかを調べろ」

 

『照合を開始します』

 

機械の表面に、複数の照合結果が並んだ。

 

《記録対象――未登録》

 

《応答者――未登録》

 

《応答の発生位置――特定不能》

 

《応答の発生時刻――記録形式に変換不能》

 

《応答の受信状態――成立》

 

出久は、眉を寄せた。

 

「時刻が記録形式に変換できない?」

 

『肯定』

 

「過去なのか、現在なのか、未来なのかも分からないってこと?」

 

『本機が使用する時間情報との照合は成立しません』

 

「でも、応答そのものは受信している」

 

『肯定』

 

出久は、死神を見た。

 

「……時間の外側から、返事が来た?」

 

「そうと決まったわけではない」

 

死神は慎重に言った。

 

「時間情報に変換できないことは、時間の外側に存在することの証明にはならない。こちらの記録形式が、その対象に適していないだけかもしれない」

 

「そっか。ごめん、また決めつけそうになった」

 

「謝る必要はない。仮説を立てること自体は間違いではない」

 

死神は、機械の表示を見つめた。

 

「ただし、仮説を真実として扱うのは別だ」

 

その言葉が終わるより早く、機械の表示が切り替わった。

 

《応答内容の再生を試行します》

 

『……願いを叶えてほしいとは、言っていない』

 

声がした。

 

二人とも動かなかった。

 

機械から再生された音声ではない。

 

少なくとも、出久にはそう感じられた。

 

それは記録の中から流れてくる声というより、記録という境界を越えて、今ここに届いた声だった。

 

性別は分からない。

 

年齢も分からない。

 

悲しんでいるのか、怒っているのか、それとも疲れ果てているのか。

 

そのすべてが混ざり合っているようで、どれにも当てはまらなかった。

 

声は、続けた。

 

『ただ……』

 

沈黙。

 

長い、長い沈黙だった。

 

機械は音声の再生を停止していない。

 

けれど、続きを出力することもできていない。

 

出久は、無意識に一歩踏み出した。

 

「……聞こえているよ」

 

自分でも、何をしているのか分からなかった。

 

相手がこちらを認識している保証はない。

 

声が今の自分に向けられたものなのかさえ、分からない。

 

それでも、出久は言った。

 

「ゆっくりでいい。続きを話して」

 

死神が、出久の横顔を見た。

 

その表情には、何かを思い出しかけている者の苦しさがあった。

 

かつて、誰かが自分に何かを伝えようとした。

 

かつて、誰かが言葉を選ぶまで、待たなければならなかった。

 

かつて、自分は――。

 

記憶は、そこから先へ進まない。

 

だが、今度は。

 

今度こそ。

 

死神は、声を遮らなかった。

 

機械も、応答を催促しなかった。

 

世界の根を流れる記録のすべてが、停止していた。

 

誰かが話し始めるのを待っているかのように。

 

そして、声が再び響いた。

 

『私が何を願っていたのかを……』

 

息を呑むような間があった。

 

『忘れないでほしかった』

 

出久は、目を見開いた。

 

願いを叶えてほしいとは、言っていない。

 

ただ、自分が何を願っていたのかを忘れないでほしかった。

 

それは、願いを叶えてほしいという要求ではなかった。

 

誰かに何かを実現してもらうための命令でもない。

 

ただ、自分の願いを、願いとして残してほしかった。

 

自分が何を望み、何を拒み、何を選ぼうとしたのか。

 

たとえ、その結果が望んだものにならなかったとしても。

 

たとえ、誰かが自分を救えなかったとしても。

 

たとえ、世界がその願いを間違いだと判断したとしても。

 

せめて、最初から存在しなかったことにしないでほしかった。

 

「……それが、あなたの願いだったの?」

 

出久は、問いかけた。

 

声は答えなかった。

 

機械の表示が変化する。

 

《応答内容――部分受信》

 

《対象者の意思――確認待ち》

 

《応答の意味――確定不能》

 

出久は、唇を噛んだ。

 

今の声が、本当に一人の人間のものなのか。

 

第一接続者本人のものなのか。

 

第一接続者が受け取った願いの主なのか。

 

あるいは、誰かが残した記憶を、機械が声として再構成しただけなのか。

 

まだ分からない。

 

分からないのに、彼は胸を締めつけられていた。

 

それは、かつて自分が何度も見てきた願いに似ていたからだ。

 

誰かに救ってほしい。

 

誰かに認めてほしい。

 

誰かに、自分がここにいることを知ってほしい。

 

けれど、それらはすべて、同じ願いではない。

 

救ってほしいと願う者もいれば、救われることを拒む者もいる。

 

記憶してほしいと願う者もいれば、忘れてほしいと願う者もいる。

 

そして、何かを願ったという事実だけは、誰かに覚えていてほしいと望む者もいる。

 

「……死神さん」

 

出久は、静かに呼びかけた。

 

「これって、あなたが忘れていたことと関係があるのかな」

 

死神は、しばらく答えなかった。

 

やがて、低い声で言った。

 

「分からない」

 

彼は、自分の手を見下ろした。

 

「だが……俺が何かを忘れたことで、誰かの願いまで失われたのだとしたら」

 

指先が、わずかに震えた。

 

「それを、俺は取り戻さなければならない」

 

出久は、彼を見つめた。

 

「記憶を取り戻すため?」

 

「違う」

 

死神は首を横に振った。

 

「記憶を取り戻すことが目的になれば、俺はまた、自分のために相手を利用することになるかもしれない」

 

彼は、機械の表示を見上げた。

 

「知りたい。確かめたい。何があったのか、誰が何を願ったのか。俺が何をしたのか。だが、それだけでは足りない」

 

「……うん」

 

「俺が覚えているかどうかよりも、相手が何を望んでいるのかのほうが重要だ」

 

死神は、はっきりと言った。

 

「もし、相手が俺に忘れてほしいと願うのなら、その意思を聞かなければならない。もし、相手が俺に何もしてほしくないと願うのなら、それも聞かなければならない」

 

そして、彼は続けた。

 

「俺がどれほど後悔していても、どれほど救いたいと思っていても、それを理由に相手の意思を踏みにじっていいことにはならない」

 

出久は、静かに頷いた。

 

それは、簡単な答えではなかった。

 

自分が間違っていたかもしれない。

 

誰かを傷つけたかもしれない。

 

その事実を知ったとき、人は何かをしたくなる。

 

取り返したい。

 

償いたい。

 

救いたい。

 

失われたものを、元に戻したい。

 

しかし、その衝動が強ければ強いほど、相手が本当に何を求めているのかを見失うことがある。

 

死神は、それを恐れていた。

 

そして、恐れながらも、逃げないことを選んでいた。

 

「……僕も、聞くよ」

 

出久は言った。

 

「あなたが忘れていた人のことも、帰ってきた死者たちのことも。何が起きたのかを調べる。でも、調べた結果を理由に、本人たちの意思を勝手に決めたりはしない」

 

死神は、彼を見た。

 

「難しいぞ」

 

「分かってる」

 

「真実を知っても、誰かを救えるとは限らない」

 

「うん」

 

「救いたいと思っても、相手がそれを望んでいるとは限らない」

 

「うん」

 

「それでも、調べるのか」

 

出久は、迷わなかった。

 

「だからこそ、調べるんだ」

 

その言葉に、死神は何も返さなかった。

 

ただ、目を閉じた。

 

その一瞬。

 

彼の脳裏に、誰かの姿が浮かんだ。

 

顔は見えない。

 

名前も分からない。

 

けれど、その人物は確かにそこにいて、死神に何かを伝えようとしていた。

 

声は、聞こえなかった。

 

代わりに、ひとつの感覚だけが残った。

 

――この人は、願いを叶えてほしかったのではない。

 

――自分が何を願ったのかを、忘れられたくなかったのだ。

 

死神が目を開けたとき、その姿は消えていた。

 

しかし、今度は、何もなかったことにはしなかった。

 

「……忘れない」

 

彼は、小さく呟いた。

 

「まだ、何も分かっていない。誰なのかも、何を願ったのかも、俺が何をしたのかも分からない」

 

そして、顔を上げた。

 

「それでも、今の言葉は忘れない」

 

機械の表面に、新しい記録が追加された。

 

《応答者の発言――受信》

 

《発言内容――今の言葉は忘れない》

 

《発言の効力――未確定》

 

その最後の一文を見て、出久は思わず苦笑した。

 

「……機械って、容赦ないね」

 

死神も、かすかに口元を動かした。

 

「事実を記録しているだけだからな」

 

「でも、いいと思う」

 

「何がだ」

 

「忘れないって言ったからって、それで相手が救われたことにはならない。今の機械の記録は、それをちゃんと残している」

 

出久は、表示された文字を見つめた。

 

「約束したことと、約束を果たせたことは違うから」

 

死神は、静かに頷いた。

 

そのときだった。

 

機械の奥で、何かが動いた。

 

無数の文字列が、再び流れ始める。

 

だが、今度は違った。

 

文字列の一部が、ひとつの方向へ向かって集まり始めたのだ。

 

それは、これまで誰も参照できなかった領域だった。

 

世界の根の奥。

 

記録の外側。

 

願いが記録へ変換される、その直前の場所。

 

機械の声が響いた。

 

『未登録領域への接続要求を検出』

 

『接続要求の発生主体――照合不能』

 

『接続要求の目的――照合不能』

 

『接続要求に付随する情報――対象者の意思』

 

出久は、息を止めた。

 

「……対象者の意思?」

 

『肯定』

 

「今まで確認できなかった、あの人の意思が……?」

 

『確定できません』

 

機械は、いつもどおりに答えた。

 

しかし、その次の表示を見て、二人は言葉を失った。

 

《対象者の意思――確認手段を検出》

 

《確認手段――応答者による直接確認》

 

《応答者――死神》

 

死神の名が、再び表示された。

 

そして、その下に。

 

《確認対象――帰還を希望した者》

 

出久の表情が変わった。

 

帰還を希望した者。

 

世界の根に残されていた、帰る場所を求めた人物。

 

帰還先が未登録だった者。

 

帰ることを望んだのに、帰れば存在しなくなるかもしれないと告げられた者。

 

その人物が、今の声の主なのだろうか。

 

あるいは、別の誰かなのだろうか。

 

答えはまだない。

 

だが、機械は、ひとつの可能性を提示していた。

 

死神が、直接、相手の意思を確認すること。

 

記録を読むのではなく。

 

過去を推測するのでもなく。

 

誰かの言葉を、別の誰かが解釈したものでもなく。

 

本人に聞くこと。

 

死神は、長い間、その表示を見つめていた。

 

やがて、彼は言った。

 

「……聞かなければならないんだな」

 

『肯定』

 

「だが、相手が答えるとは限らない」

 

『肯定』

 

「俺を拒絶するかもしれない」

 

『肯定』

 

「俺が思っていた答えとは、まったく違うことを望んでいるかもしれない」

 

『肯定』

 

死神は、小さく息を吐いた。

 

「それでも、聞く」

 

その瞬間、表示が変化した。

 

《応答者の意思――確認》

 

《対象者の意思――未確認》

 

《処理の再開――待機》

 

機械は、死神の決意を記録した。

 

だが、処理は再開されなかった。

 

相手の意思が、まだ確認されていないからだ。

 

死神は、それを見て、初めて少しだけ安堵した。

 

この機械は、彼が決意したというだけで、すべてが解決したとは扱わなかった。

 

彼が何かを誓ったからといって、相手の意思を代わりに決めることもなかった。

 

「……よし」

 

死神は、静かに言った。

 

「ならば、まずは相手を探す」

 

出久が頷いた。

 

「うん。一緒に探そう」

 

二人は、機械の奥に向き直った。

 

だが、その直後。

 

別の記録が、二人の視界に割り込んできた。

 

それは、第一接続者に関する記録ではなかった。

 

帰還を希望した者の記録でもない。

 

《死者の帰還に関する異常処理を検出》

 

出久の顔から、血の気が引いた。

 

「……死者の帰還?」

 

世界の根に刻まれた文字が、赤く染まっていく。

 

《記録との不整合を検出》

 

《不整合の対象――帰還した死者》

 

《処理目的――世界の整合性の回復》

 

そして、最後の一文。

 

《不整合対象の削除処理――準備開始》

 

「待って!」

 

出久が叫んだ。

 

機械は応答しない。

 

「削除って何だよ! 誰を削除するつもりなんだ!」

 

『対象の分類――帰還した死者』

 

「それは分かってる! そうじゃなくて、どうして削除する必要があるんだ!」

 

『世界の記録との不整合を解消するためです』

 

出久は、拳を握り締めた。

 

「……また、それか」

 

世界の整合性。

 

矛盾の解消。

 

正しい記録への復元。

 

そのために、死者を消す。

 

死者たちが何を望んでいるのかを確認する前に。

 

死者たちが、なぜ帰ってきたのかを理解する前に。

 

彼らが帰還を望んだのか、それとも別の何かが彼らを連れ戻したのかさえ確かめずに。

 

世界は、彼らを削除しようとしている。

 

「やめろ!」

 

出久は、機械に向かって叫んだ。

 

「その人たちは、記録の間違いなんかじゃない!」

 

声が、世界の根に響いた。

 

「帰ってきた理由が分からないからって、世界の記録と合わないからって、消していいわけじゃない!」

 

機械の表示が、一瞬だけ停止した。

 

しかし、次の瞬間には、再び文字が流れ始めた。

 

《警告――不整合の拡大を検出》

 

《削除処理の準備を継続》

 

出久は、歯を食いしばった。

 

「……くそっ!」

 

死神が、彼の肩に手を置いた。

 

「出久」

 

「でも、死神さん!」

 

「分かっている」

 

死神の声は、静かだった。

 

だが、その目には、確かな怒りがあった。

 

「この処理を放置するわけにはいかない」

 

彼は、機械の表示を見据えた。

 

「だが、今ここで機械を壊せば、記録そのものまで失われるかもしれない。そうなれば、死者たちの存在を守るために必要な情報まで失う」

 

「……っ」

 

「止める方法を探す。処理の仕組みを理解し、どこから命令が来ているのかを突き止める」

 

死神は、はっきりと言った。

 

「そのうえで、死者たち自身の意思を確認する」

 

出久は、唇を噛み締めたあと、頷いた。

 

「分かった」

 

彼は機械に向き直った。

 

「デウス・マキナ。削除処理の開始時刻を教えてくれ」

 

『開始時刻――確定していません』

 

「処理を命令した主体は?」

 

『照合不能』

 

「処理を停止する方法は?」

 

『回答不能』

 

「……どうしてだ!」

 

『停止条件が記録されていません』

 

出久は、絶句した。

 

停止条件が記録されていない。

 

つまり、この機械は削除処理を進めるための条件を持っていても、それを止めるための条件を持っていないのか。

 

それとも、停止条件が別の領域にあり、機械自身も参照できないのか。

 

まだ分からない。

 

だが、ひとつだけ分かることがあった。

 

このままでは、死者たちの存在が危険にさらされる。

 

そして、世界の整合性を回復するための処理は、彼らが何者なのかを理解する前に進もうとしている。

 

出久は、強く拳を握った。

 

「……絶対に、させない」

 

死神は、機械の奥を見つめた。

 

「させないためにも、急がなければならない」

 

二人は、記録のさらに奥へと進もうとした。

 

そのとき。

 

機械の声が、再び響いた。

 

『応答者、死神へ』

 

死神が立ち止まる。

 

『未完了の願いに関する確認事項があります』

 

「何だ」

 

『願いを発した者の意思は、未確認です』

 

「分かっている」

 

『願いを受け取った者の応答も、未完了です』

 

「それも分かっている」

 

『それでも、応答者は願いを記録することを選択しますか』

 

死神は、機械を見上げた。

 

その問いには、これまでとは違う意味があった。

 

願いを叶えられる保証はない。

 

願いを理解できる保証もない。

 

記録したところで、世界がそれを認めるとは限らない。

 

そして、記録すること自体が、願った者の望みと一致しているとも限らない。

 

それでも、記録するのか。

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

彼は、かつて自分に何かを告げた人物のことを考えた。

 

名前も分からない。

 

顔も思い出せない。

 

ただ、「私を救わないで」という言葉だけが、記憶の底に残っている。

 

それが、本当に同じ人物の言葉なのかも分からない。

 

それでも、その言葉を無視することはできなかった。

 

「……いいや」

 

死神は、静かに答えた。

 

「俺は、願いを記録することだけを選ぶわけじゃない」

 

機械の文字列が止まった。

 

「俺は、その願いを発した者の意思を確かめることを選ぶ」

 

死神は、続けた。

 

「記録を残すことが、その者の望みなら残す。記録を残さないことが、その者の望みなら、その理由を聞く。俺が何をしたいかではなく、相手が何を望んでいるのかを確かめる」

 

彼は、まっすぐに機械を見た。

 

「そして、相手が答えないことを選ぶのなら、その選択も尊重する」

 

機械は沈黙した。

 

長い沈黙だった。

 

やがて、表示がひとつずつ切り替わっていく。

 

《応答者の意思――確認》

 

《記録の実行――保留》

 

《対象者の意思――未確認》

 

《未完了処理――継続》

 

死神は、その表示を見つめた。

 

「……それでいい」

 

出久は、彼の横に立った。

 

「うん」

 

世界の根の奥で、削除処理の準備が進み続けている。

 

第一接続者に関する願いは、まだ未完了のままだ。

 

願いを発した者の正体も、死神が忘れた記憶の意味も、帰還を希望した者が誰なのかも分からない。

 

それでも、二人は前へ進む。

 

答えを急ぐためではない。

 

答えを、誰かの代わりに決めないために。

 

そして、世界の記録からこぼれ落ちた者たちが、確かに存在していたことを、もう一度確かめるために。

第四節 記録の向こう側には、誰がいる

世界の根を離れる直前、出久は振り返った。

 

巨大な機械は、何事もなかったかのように記録を保存し続けている。

 

願いを記録する。

 

願いを分類する。

 

願いを照合する。

 

そして、願いが叶ったかどうかを記録する。

 

けれど、願った者の意思が確認できない限り、未完了の処理は終わらない。

 

「……ねえ、死神さん」

 

「何だ」

 

「デウス・マキナは、誰かの願いを忘れないために作られたのかな」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

「そうかもしれない」

 

「でも、願いを記録するだけじゃ、相手のことを理解できない」

 

「ああ」

 

「だったら、この機械を作った人は、それを分かっていたのかな」

 

死神は、機械の奥を見つめた。

 

「分かっていたのかもしれない。あるいは、分からなかったからこそ、記録を残す仕組みを作ったのかもしれない」

 

「分からなかったから?」

 

「自分が理解できないものを、理解できないまま残すためにな」

 

出久は、黙り込んだ。

 

世界を理解することは、世界を支配することではない。

 

誰かの願いを理解することも、その願いを自由に扱っていいという意味ではない。

 

人間は、分からないものを恐れる。

 

分からないものに名前をつけ、分類し、説明を与えることで、安心しようとする。

 

それ自体が悪いわけではない。

 

名前をつけることで、初めて理解できるものもある。

 

記録することで、失われずに済むものもある。

 

けれど、説明できないものを、説明できないという理由だけで消してしまったら。

 

名前をつけられないものを、名前がないという理由だけで存在しないと扱ったら。

 

そこには、取り返しのつかない過ちが生まれる。

 

「……僕たちは、分からないものを分からないまま残す勇気も、必要なのかもしれないね」

 

出久の言葉に、死神は静かに頷いた。

 

「そうだな」

 

二人が歩き出そうとした、そのときだった。

 

背後から、声がした。

 

『応答者、死神へ』

 

二人は立ち止まった。

 

『追加情報を受信しました』

 

死神が振り返る。

 

「聞かせろ」

 

『第一接続者の願いに関する、追加情報です』

 

機械の表面に、新しい文字が浮かび上がった。

 

《願いの保存対象――存在、意思、行為》

 

《保存の目的――対象者が存在したことを、未来に伝える》

 

ここまでは、以前の記録と同じだった。

 

しかし、その下に、新たな一文が現れた。

 

《保存対象の選定理由――照合不能》

 

出久は、眉をひそめた。

 

「選定理由が分からない?」

 

『肯定』

 

「どうして、その人を記録に残そうとしたのかも分からないの?」

 

『肯定』

 

死神は、表示を見つめた。

 

存在を残す。

 

意思を残す。

 

行為を残す。

 

それは、単に名前を保存することではない。

 

誰かが生きていたという事実だけではなく、その人物が何を願い、何を拒み、何を選び、何をしたのかまで、未来に伝えようとすることだ。

 

だが、なぜそこまでして残そうとしたのか。

 

その理由は、記録されていない。

 

あるいは、記録できなかった。

 

「……誰かを忘れたくなかったのかもしれない」

 

出久が言った。

 

「その人が生きていたことだけじゃなくて、その人が何を考えて、何を選んだのかも」

 

「そうだな」

 

死神は答えた。

 

「だが、それだけではない可能性もある」

 

「うん」

 

「その者が、未来の誰かに何かを託そうとしたのかもしれない。自分の願いを叶えてほしいのではなく、自分が何を願っていたのかを、未来の誰かが知ることを望んだのかもしれない」

 

出久は、先ほどの声を思い出した。

 

『私が何を願っていたのかを、忘れないでほしかった』

 

その声の主は、願いを叶えてほしいとは言わなかった。

 

ただ、忘れないでほしいと願った。

 

それは、未来の誰かに何かを押しつけることとは違う。

 

未来の誰かが、その願いをどう受け止めるかは、未来の誰かに委ねられている。

 

願いを残すことと、願いを強制すること。

 

そこにも、境界線があるのだろう。

 

「……ねえ、死神さん」

 

「何だ」

 

「もし、第一接続者が本当に誰かの願いを未来に残そうとしたのなら」

 

出久は、言葉を選びながら続けた。

 

「その願いを残すこと自体が、誰かを救うためだったのかな」

 

死神は、目を閉じた。

 

「分からない」

 

そして、ゆっくりと目を開いた。

 

「だが、ひとつだけ分かることがある」

 

「何?」

 

「その願いを、俺たちが勝手に完成させてはいけないということだ」

 

出久は、頷いた。

 

願いは、まだ未完了だ。

 

だからといって、未完了の願いを、他人が勝手に完成させていいわけではない。

 

むしろ、未完了だからこそ、そこに本人の意思を確かめる余地が残されている。

 

死神は、最後にもう一度、機械を見た。

 

「待っていろ」

 

それは、機械に向けた言葉だったのか。

 

それとも、記録の向こう側にいる誰かに向けた言葉だったのか。

 

死神自身にも、まだ分からなかった。

 

「今度は、聞く」

 

その言葉を残し、二人は世界の根を後にした。

 

背後では、機械が静かに記録を保存し続けていた。

 

誰かが忘れてしまった願いを。

 

誰かが叶えられなかった願いを。

 

そして、まだ誰にも、その意味を決められていない願いを。

 

終節 世界は、まだ答えを待っている

世界の根から戻った出久は、しばらく何も話さなかった。

 

目の前には、帰還した死者たちに関する記録が並んでいる。

 

彼らの名前。

 

彼らの生前の記憶。

 

帰還した後の行動。

 

世界の記録との不整合。

 

そのすべてが、ひとつの問題として扱われていた。

 

《世界の整合性を回復する》

 

その目的のために、削除処理の準備が進められている。

 

出久は、記録のひとつを開いた。

 

そこには、帰還した死者の生前の行動が残されていた。

 

誰かを助けた記録。

 

誰かと喧嘩した記録。

 

誰かを傷つけた記録。

 

誰かに謝ろうとして、結局その言葉を伝えられなかった記録。

 

それらは、英雄的な行為だけではなかった。

 

間違いも、後悔も、弱さも、利己的な選択も残されている。

 

出久は、その記録を見つめた。

 

「……この人たちを、ただの異常として扱うなんて、できないよ」

 

死神は、隣に立っていた。

 

「誰も、ただの異常ではない」

 

「でも、世界はそう判断している」

 

「ああ」

 

「どうすればいいんだろう」

 

死神は、すぐには答えなかった。

 

「世界が間違っていると決めつけるだけでは、解決できない」

 

出久は、顔を上げた。

 

「……うん」

 

「だが、世界がそう判断したからといって、その判断が正しいとも限らない」

 

死神は、記録を見つめた。

 

「必要なのは、なぜ世界が彼らを異常と判断したのかを調べること。そして、彼ら自身が何を望んでいるのかを確かめることだ」

 

「帰りたいと思っている人もいるかもしれない」

 

「ああ」

 

「ここに残りたいと思っている人もいるかもしれない」

 

「ああ」

 

「生きている人に会いたい人も、もう会わなくていいと思っている人もいるかもしれない」

 

「ああ」

 

出久は、拳を握った。

 

「だったら、僕たちは、その人たちの答えを聞かなきゃいけない」

 

死神は、頷いた。

 

「その通りだ」

 

世界の整合性を守ることと、世界に存在する者たちの意思を守ること。

 

その二つが、いつも一致するとは限らない。

 

だからこそ、どちらかを最初から切り捨てるわけにはいかない。

 

世界を守るために、死者を消す。

 

死者を守るために、世界を壊す。

 

そんな二択しか存在しないのだと、まだ決める必要はなかった。

 

答えを探す時間は、残されている。

 

ただし、無限ではない。

 

削除処理の準備は進んでいる。

 

第一接続者の願いは未完了のままだ。

 

死神が忘れた記憶も、帰還を希望した者の正体も、世界の根の外側にいる存在の正体も分からない。

 

そして、デウス・マキナでさえ、記録されていないものの実在を確定することはできない。

 

それでも。

 

出久は、記録を閉じなかった。

 

「……まだ、終わってない」

 

「そうだな」

 

死神が答えた。

 

「終わらせてはいけないこともある」

 

二人は、再び歩き出した。

 

今度は、世界の根の奥へ向かうためではない。

 

世界の記録から削除されようとしている者たちのもとへ。

 

彼らが何を願い、何を選び、何を望んでいるのか。

 

その答えを聞くために。

 

そして、いつか必ず、世界そのものが答えなければならない問いに向き合うために。

 

誰かを存在させることと、誰かの意思を尊重することは、同じなのだろうか。

 

答えは、まだない。

 

けれど、答えがないことを理由に、誰かの存在を消す必要もなかった。

 

世界は、まだ答えを待っている。

 

そして今度こそ。

 

その答えを、誰か一人に決めさせてはならない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。