第一節 おかえり、と言えなかった朝
最初に聞こえたのは、泣き声だった。
病院の廊下。
消毒液の匂い。
窓の外から差し込む、曇った朝の光。
緑谷出久は、病室の扉の前で立ち止まっていた。
中には、一人の少年がいる。
年齢は十歳前後。
ベッドの上に座り、両手で毛布を握り締めている。
その向かい側には、母親らしき女性が立っていた。
女性は少年を見つめていた。
何度も。
まるで、少しでも目を離したら、再び目の前から消えてしまうとでもいうように。
「……お母さん?」
少年が呼んだ。
女性の肩が震えた。
「うん」
「どうして、泣いてるの?」
「……うれしいからよ」
女性は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「あなたが、ここにいるから」
少年は首を傾げた。
「僕、帰ってきたんだよね?」
女性は答えられなかった。
少年は、少し不安そうに彼女を見つめた。
「……おかえりって、言ってくれないの?」
その言葉を聞いた瞬間、女性は口元を押さえた。
声を出せなかった。
泣きながら、何度も頷いていた。
出久は、扉の前で動けなくなった。
「……おかえり」
女性は、ようやく言った。
「おかえりなさい……」
少年は笑った。
「うん。ただいま!」
その笑顔を見て、女性は少年を抱きしめた。
少年も、母親の背中に腕を回した。
その光景だけを見れば、何も問題はないように思えた。
失われた家族が再会した。
帰ってこられなかった子供が、帰ってきた。
悲しみの中にいた母親が、再び息子を抱きしめられた。
誰もが望んでいた奇跡。
少なくとも、出久にはそう見えた。
けれど。
「……ねえ、お母さん」
少年が、母親の腕の中で尋ねた。
「僕、いつまでここにいていいの?」
女性の動きが止まった。
「え……?」
「僕、ここにいてもいいんだよね?」
少年は、不安そうに彼女を見上げた。
「みんな、僕のことを見て、変な顔をするんだ」
「そんなこと……」
「お医者さんも、警察の人も、学校の先生も」
少年は、指を一本ずつ折りながら数えた。
「みんな、僕に同じことを聞くんだよ」
彼は、少しだけ声を落とした。
「どうして帰ってきたの、って」
女性の顔から、血の気が引いた。
「僕、帰っちゃいけなかったの?」
「違う!」
女性は、思わず叫んだ。
少年の肩が跳ねる。
女性は、慌てて口を押さえた。
「ごめんね……ごめんね。違うの。そんなことないのよ」
「じゃあ、どうしてみんな……」
少年の声が震えた。
「どうして、僕がいないほうがよかったみたいな顔をするの?」
女性は、答えられなかった。
出久は、拳を握った。
世界の記録には、この少年は死者として登録されている。
生前の記録は存在する。
死亡の記録も存在する。
しかし、帰還後の存在は、世界の整合性を乱す異常として扱われていた。
この少年が、なぜ帰ってきたのか。
誰が帰したのか。
本人が何を望んだのか。
そのどれも、まだ分かっていない。
それでも。
彼は、母親を抱きしめていた。
母親も、彼を抱きしめていた。
その温もりまで、世界の記録が間違いだと決めつけられるはずがなかった。
「……行こう」
背後から、死神の声が聞こえた。
出久は振り返った。
「死神さん……」
「今は、話を聞くべきだ」
死神は、病室の扉を見つめた。
「ただし、答えを急ぐな」
「うん」
「彼が帰ってきた理由を聞く前に、彼が帰ってきたことを責めてはならない」
死神は、静かに言った。
「そして、彼が帰りたいと言ったとしても、どこへ帰りたいのかを勝手に決めてはならない」
出久は頷いた。
二人は、病室の中へ入った。
女性が驚いた顔で振り返る。
少年も、出久たちを見た。
「……誰?」
出久は、できるだけ穏やかな笑顔を作った。
「僕は緑谷出久。君に、少しだけ話を聞かせてもらいたいんだ」
少年は、不安そうに母親を見た。
女性が頷くと、少年は少しだけ姿勢を正した。
「……僕、何か悪いことをしたの?」
出久は、すぐに答えた。
「違うよ」
少年が顔を上げる。
「君が帰ってきた理由を、僕たちはまだ知らないんだ。だから、君が何を覚えているのか、何を考えているのかを聞きたい」
出久は、少年の目を見つめた。
「君のことを、君がいないところで勝手に決めたくないんだ」
少年は、しばらく黙っていた。
やがて、恐る恐る尋ねた。
「……僕、ここにいてもいいの?」
出久は、胸の奥が痛くなった。
この子が最初に尋ねたことは、自分がなぜ帰ってきたのかではなかった。
帰ってきた理由を説明できるかどうかでもなかった。
ただ、ここにいていいのか。
自分の存在が、誰かの迷惑になっていないか。
帰ってきたことを、喜んでもらっていいのか。
その許可を求めていた。
出久は、少年の目を見たまま答えた。
「君がここにいていいかどうかを、僕が勝手に決めることはできない」
少年の表情が曇る。
出久は、慌てて続けた。
「でも、少なくとも、君が帰ってきたという理由だけで、君を追い出していいわけじゃない。君が何を望んでいるのかを、ちゃんと聞く必要があるんだ」
少年は、じっと出久を見つめた。
「……じゃあ、僕がここにいたいって言ったら?」
「その理由も、聞かせてほしい」
「僕が帰りたいって言ったら?」
「どこへ帰りたいのか、聞かせてほしい」
「僕が……分からないって言ったら?」
出久は、少しだけ笑った。
「そのときは、一緒に考えよう」
少年は、しばらく彼を見つめていた。
そして、ようやく小さく頷いた。
「……うん」
その返事を聞いて、出久はようやく息を吐いた。
死神は、黙ってその様子を見ていた。
彼の目には、別の光景が重なっていた。
名前のない場所。
帰還先が登録されていないという機械の声。
そして、誰かが自分に向かって問いかけた言葉。
――どうして、あなたが決めるの?
死神は、目を閉じた。
あのとき、自分は何と答えたのだろう。
答えられなかったのだろうか。
それとも、答えを聞こうともしなかったのだろうか。
まだ思い出せない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
目の前の少年は、帰ってきたことを説明するために生きているのではない。
彼には、彼自身の人生がある。
帰ってきた理由が分からなくても。
世界の記録が彼を認めなくても。
その事実だけは、忘れてはならなかった。
第二節 帰還者には、帰還の理由が必要なのか
病室を出たあと、出久は担当医から話を聞いた。
少年は、三年前に亡くなっていた。
病気だった。
治療は行われたが、助からなかった。
家族は、少年を失ったあとも、彼の部屋を残していた。
机の上には、途中まで書かれた自由研究のノート。
棚には、読みかけの本。
壁には、学校で描いた絵。
どれも、少年が生きていた頃のままだった。
そして三日前。
少年は、突然、自宅の玄関先に現れた。
服装は、亡くなった当時とほとんど同じ。
身体には、三年間の時間が経過した形跡がなかった。
少年自身は、自分が死んだことを覚えていた。
しかし、死んでから帰ってくるまでの記憶が、まったくなかった。
「……医学的な検査では、説明できない部分が多すぎます」
医師は、疲れた顔で言った。
「身体機能は正常です。意識も明瞭です。記憶にも、亡くなる前までの連続性があります。ところが、死亡したという事実と、現在ここに存在しているという事実が、医学的な常識の中でうまく接続できない」
「本人の意思は?」
出久が尋ねた。
医師は、困ったように眉を寄せた。
「それが……」
彼は、手元の資料を見た。
「本人に、帰ってきた理由を何度か尋ねました。けれど、本人は分からないと答えるばかりで」
「どうして、その理由を聞いたんですか?」
医師が顔を上げた。
「え?」
「もちろん、状況を把握するために必要な質問だとは思います。でも、本人が理由を知らないのなら、答えられなくても当然です」
出久は、慎重に言葉を選んだ。
「理由を説明できないことと、ここにいてはいけないことは違います」
医師は、口を閉じた。
責められていると思ったのかもしれない。
出久は、すぐに首を振った。
「あなたが悪いと言いたいわけじゃありません。僕だって、分からないことがあれば理由を知りたいと思います。でも……」
彼は、病室のほうを見た。
「本人に分からないことを、本人が説明するまで、本人の存在を保留にするわけにはいかないと思うんです」
死神が、静かに口を開いた。
「確認すべきことは、分けて考える必要がある」
医師が彼を見る。
「帰還の原因。帰還に関わった存在。本人の意思。そして、現在の状態が周囲に与える影響。それぞれ別の問題だ」
死神は、淡々と続けた。
「原因が分からないからといって、本人の意思が無意味になるわけではない。本人の意思が確認できたからといって、帰還の原因が判明するわけでもない」
医師は、ゆっくりと頷いた。
「……確かに、そうですね」
「そして、原因が判明したとしても、本人の人生を誰かが代わりに決めていいことにはならない」
その言葉を聞いたとき、出久は死神の横顔を見た。
彼は、以前よりもはっきりと、自分の考えを口にするようになっていた。
まだ過去は思い出せていない。
自分が何をしたのかも分からない。
それでも、今、目の前にいる人間に何が必要なのかを考えようとしている。
記憶が戻るまで何もできないのではない。
過去を知らないままでも、今できることはある。
「……もうひとつ、聞いてもいいですか」
出久は医師に尋ねた。
「少年が帰ってきてから、何か変わったことはありませんか?」
医師は考え込んだ。
「特に身体的な異常はありません。ただ……」
「ただ?」
「少年がいる病室の周囲で、記録の不一致が起きています」
出久の表情が変わった。
「記録の不一致?」
「電子カルテの情報が、一時的に別の内容へ変化したり、死亡記録と入院記録が同時に参照されたりするんです。システムの不具合かもしれませんが、複数の端末で同じ現象が起きています」
死神が顔を上げた。
「……世界の記録との不整合か」
医師には聞き取れないほどの声だった。
出久は、医師に礼を言って、その場を離れた。
廊下の角まで進んだところで、彼は立ち止まった。
「死神さん。これって、デウス・マキナが言っていた削除処理と関係があるのかな」
「可能性は高い」
「でも、少年の身体には問題がないんだよね」
「ああ」
「だったら、記録のほうが変化しているのかもしれない」
死神は、ゆっくりと頷いた。
「記録と現実のどちらが正しいのか、という問いの立て方自体が、危険なのかもしれないな」
「どういうこと?」
「世界の記録が現実を正しく反映しているとは限らない。だが、現実に存在するものが、すべて世界の記録に反映されているとも限らない」
死神は、廊下の窓から外を見た。
「記録と現実の間に食い違いがある。それだけのことだ。どちらかを消せば解決するとは限らない」
出久は、深く息を吸った。
「……じゃあ、少年を守るためには、記録の不一致そのものも調べなきゃいけないんだ」
「そうだ」
「でも、その間にも削除処理が進んでいる」
「ああ」
二人は、しばらく黙っていた。
問題は、ひとつではない。
帰還した死者の意思。
帰還の原因。
世界の記録との不整合。
そして、削除処理の仕組み。
それらは結びついているかもしれない。
だが、すべてを一つの原因で説明できるとは限らない。
だからこそ、急いで答えを決めるわけにはいかなかった。
そのとき、出久の端末が振動した。
届いたのは、公安関係者からの緊急連絡だった。
《新たな帰還者を確認》
《対象者――成人男性》
《帰還場所――旧自宅付近》
《本人の発言――「ここは、俺の家じゃない」》
出久は、画面を見つめた。
続けて、二通目の連絡が届いた。
《対象者は帰還後、自身の家族との面会を拒否》
そして、三通目。
《対象者は、帰還を望んでいなかったと証言》
出久の顔から、表情が消えた。
死神が、静かに言った。
「……行くぞ」
第三節 帰りたくなかった者
男が発見されたのは、郊外の住宅地だった。
古びた家が立ち並ぶ、静かな通り。
道路脇には、枯れかけた植木鉢が並んでいた。
玄関の前に、男が座っていた。
年齢は四十代ほど。
服は汚れていたが、身体に目立った外傷はない。
男は、玄関の扉を見つめていた。
その目には、怒りとも悲しみともつかない色が浮かんでいた。
近くには、年配の女性が立っていた。
男の母親だという。
女性は、何度も男に声をかけていた。
「……お願いだから、家に入って」
男は答えなかった。
「あなたの部屋も残してあるの。あなたが使っていたものも、全部……」
「やめてくれ」
男が、低い声で言った。
女性は口を閉じた。
「……頼むから、そういうことを言わないでくれ」
男は、玄関の扉を見つめたまま続けた。
「俺は、ここに帰りたかったわけじゃない」
女性の顔が歪んだ。
「でも、あなたは……」
「死んだんだ」
男は、ようやく女性を見た。
「俺は、もう死んだんだよ」
声は、ひどく疲れていた。
「やっと終わったと思ったんだ」
女性は、何も言えなかった。
男は、自分の手を見下ろした。
「もう、あの家のことを考えなくていい。誰かの期待に応えなくてもいい。誰かに謝らなくてもいい。何かをやり直さなくてもいい」
彼は、顔を上げた。
「なのに、どうして俺は、ここにいるんだ?」
出久は、足を止めた。
男は、自分の帰還を喜んでいなかった。
少なくとも、今は。
帰ってきたことが奇跡だと、周囲は言うかもしれない。
生きている人々にとって、死者の帰還は、失ったものを取り戻す機会に見えるかもしれない。
しかし、帰還した者自身はどうなのか。
死ぬ前に何を抱えていたのか。
どんな人生を送っていたのか。
何を終わらせたいと思っていたのか。
そのすべてを無視して、帰ってきたことだけを喜ぶのは、本当に本人のためなのだろうか。
出久は、男の前に立った。
「……お話を聞かせてもらえますか」
男は、出久を見た。
「何だ、お前は」
「緑谷出久です。あなたが帰ってきたことについて、調べています」
「帰ってきた理由なんて知らない」
男は、吐き捨てるように言った。
「俺は帰りたくなかった。理由はそれだけだ」
出久は、すぐには返事をしなかった。
男は、苛立ったように顔を歪めた。
「……何だよ。その顔は」
「どんな顔ですか?」
「俺のことを、かわいそうだと思ってるんだろう」
「……違います」
「じゃあ、何だ」
出久は、正直に答えた。
「あなたが、何を望んでいるのかを知りたいと思っています」
男は、鼻で笑った。
「知ってどうする」
「あなたの意思を、勝手に決めないためです」
「そんなことを聞いて、どうするんだ?」
男は立ち上がった。
「俺が帰りたくないと言えば、帰してくれるのか? 死んだままにしてくれるのか?」
出久は、言葉を失った。
できるとは言えなかった。
できないとも、言いたくなかった。
今の自分には、帰還を止める方法も、死者を元の場所へ戻す方法も分からない。
目の前の男が何を望んでいるのかを聞くことはできる。
しかし、その願いを実現できる保証はない。
男は、その沈黙を見て笑った。
「ほらな」
その笑いには、怒りがあった。
「結局、お前も何もできないんだ」
出久は、目を逸らさなかった。
「……はい。今は、何もできないかもしれません」
男の表情が変わった。
「でも、あなたが何を望んでいるのかを聞かずに、勝手に決めることだけはしたくありません」
「聞いたところで、何も変わらない」
「そうかもしれません」
「だったら、聞く意味なんてないだろう!」
男の声が、通りに響いた。
出久は、黙っていた。
男は、息を荒くしながら、もう一度玄関の扉を見た。
「……俺は、ここで生まれた」
その声は、先ほどよりも低かった。
「この家で育った。母親に飯を食わせてもらった。学校にも行った。仕事もした」
彼は、指先を握り締めた。
「でも、ずっと……」
言葉が途切れた。
年配の女性が、目を伏せた。
男は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに続けた。
「ずっと、ここにいるのが苦しかった」
出久は、男の言葉を遮らなかった。
「何をしても、足りないと言われた。何かを選べば、別の何かを責められた。家族のためだと言われた。お前のためだと言われた」
男は、玄関の扉を見つめた。
「俺が何を望んでいるのかなんて、誰も聞かなかった」
女性が、かすかに震えた。
「……そんなつもりじゃ」
「分かってる」
男は、母親を見た。
「母さんに悪気がなかったことくらい、分かってるんだよ」
その声には、怒りだけではなく、深い疲労があった。
「でも、悪気がなかったからって、俺が苦しくなかったことにはならないだろう」
女性は、何も言えなかった。
男は、目を閉じた。
「俺は死んだとき、何かを願ったわけじゃない」
出久は、顔を上げた。
「ただ、もう終わりにしたかった」
男は、ゆっくりと言った。
「何かをやり直すことも、誰かに許してもらうことも、誰かを許すことも。もう、何も考えたくなかった」
彼は、自分の手を見つめた。
「なのに、目を開けたら、ここにいた」
その言葉のあと、男は初めて、出久をまっすぐに見た。
「……俺が帰ってきたことを、喜ばなきゃいけないのか?」
出久は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
答えは、決まっている。
「いいえ」
男の目が、わずかに見開かれた。
「あなたが帰ってきたことを、どう感じるか。それは、あなた自身が決めることです」
出久は、続けた。
「帰ってきたことを喜べないからといって、あなたが悪いわけではありません。ここにいたくないと思うことも、帰ってきたことに怒りを感じることも、あなたの気持ちです」
「……じゃあ、俺はどうすればいい」
「今すぐ答えを出さなくてもいいと思います」
出久は、男を見つめた。
「あなたが帰りたくないと思っていることは、聞きました。だから、少なくとも、僕たちが勝手にあなたの気持ちを『帰ってきてうれしいはずだ』と決めることはしません」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、乾いた声で笑った。
「……お前、本当に何もできないんだな」
「はい」
出久は、頷いた。
「今は、まだ」
男は、何かを言いかけて、口を閉じた。
そのとき、年配の女性が、小さな声で尋ねた。
「……あなたは、あの子を連れていくの?」
出久は、女性を見た。
「いいえ。僕は、彼をどこかへ連れていくために来たわけではありません」
「でも……」
女性の目には、恐怖があった。
息子が再びいなくなることへの恐怖。
そして、息子が帰ってきたことを、心から喜んではいけないのではないかという恐怖。
「私は、あの子に帰ってきてほしかった」
女性は、震える声で言った。
「ずっと、そう思っていたの。もう一度会いたかった。話をしたかった。謝りたかったことも、伝えたかったことも、たくさんあった」
彼女は、息子を見た。
「でも……」
声が途切れた。
「でも、あの子が帰ってきたくなかったのなら、私は……」
言葉の先が、続かなかった。
男は、母親を見つめていた。
その目には、まだ怒りが残っていた。
しかし、その奥には、別の感情もあった。
出久には、その感情を名前で呼ぶことができなかった。
呼ぶべきではないと思った。
親子の間に何があったのか。
どんな言葉が、どれだけの時間をかけて積み重なってきたのか。
それを知らない自分が、簡単に説明していいはずがなかった。
死神が、静かに口を開いた。
「あなたが息子に帰ってきてほしいと願ったことと、息子が帰ってきたくなかったことは、同時に存在していていい」
女性が、彼を見た。
「……え?」
「あなたの願いが間違いだと決まったわけではない。だが、あなたの願いが、息子の意思を上書きしていい理由にもならない」
死神は、男を見た。
「そして、息子の望みが、あなたの悲しみをなかったことにするわけでもない」
男は、顔を伏せた。
死神は続けた。
「あなたたちは、同じことを望んでいなかったのかもしれない。だからといって、どちらかの気持ちだけを消せば、問題が解決するわけではない」
女性の目から、涙がこぼれた。
男は、長い沈黙のあと、呟いた。
「……そんなこと、分かってるよ」
彼は、母親を見た。
「分かってるから、苦しいんだ」
女性は、泣きながら頷いた。
「……ごめんなさい」
男は、すぐには答えなかった。
許すとも、許さないとも言わなかった。
ただ、玄関の前に座り直した。
「……今は、話したくない」
女性は、息を呑んだ。
男は、目を伏せたまま続けた。
「でも、帰ってほしいわけじゃない。ここにいてほしいわけでもない。……自分でも、まだ分からないんだ」
女性は、涙を拭った。
そして、初めて、息子に尋ねた。
「……分かるまで、待ってもいい?」
男は、すぐには答えなかった。
やがて、小さく頷いた。
「……ああ」
それは、和解ではなかった。
過去が清算されたわけでもない。
親子の問題が解決したわけでもない。
ただ、初めて、一方が答えを押しつけることをやめ、もう一方が答えを急いで出すことをやめた。
その小さな変化だけが、そこに残った。
出久は、二人から少し離れた場所で、静かに息を吐いた。
帰還は、奇跡だったのかもしれない。
だが、奇跡が起きたからといって、すべての問題が解決するわけではない。
むしろ、失われた時間が戻ってきたことで、今まで見えなかった問題が、再び目の前に現れることもある。
帰ってきたことがうれしい者もいる。
帰ってきたことが苦しい者もいる。
その両方を、同じ世界に存在させることはできるのだろうか。
世界の記録は、男を「帰還者」として分類していた。
だが、彼自身は、自分がどこへ帰ってきたのかさえ、まだ分かっていなかった。
死神は、男を見つめながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
――帰ることを望まなかった者。
その言葉が、彼の中の何かに触れていた。
かつて、自分も誰かに、帰る場所を決めてしまったのだろうか。
それとも、帰りたいという願いを、別の何かに置き換えてしまったのだろうか。
死神は、まだ答えを知らなかった。
だからこそ、今はただ、男の言葉を記録することにした。
《帰還者の意思――帰還を望んでいなかった》
《現在の意思――未確定》
《本人による追加証言――自分でも、まだ分からない》
その記録は、結論ではなかった。
男を分類するための札でもなかった。
彼の現在地を、現在地のまま残すための記録だった。
死神は、最後に一文を追加した。
《本人の意思の変化――本人への確認なしに確定しない》
その文字が表示された瞬間、端末に警告が走った。
《記録との不整合を検出》
《対象者の分類に失敗》
《再分類を開始します》
死神の表情が変わった。
「……来たか」
出久が振り返る。
「削除処理?」
「その前段階だ。世界の記録が、本人の証言を既存の分類に押し込めようとしている」
端末に、次々と文字が浮かぶ。
《帰還者の意思――帰還を希望》
《分類根拠――帰還後の行動》
出久は、目を見開いた。
「違う! この人は帰りたくなかったって言ったんだ!」
記録は、止まらない。
《意思の矛盾を検出》
《矛盾の解消方法――後発記録を既存分類へ統合》
「後発記録って……本人が今、話したことを消すつもりなのか?」
『世界の記録との整合性を回復します』
機械的な音声が、端末から響いた。
出久は、男を見た。
男は、何が起きているのか理解できず、二人を見つめていた。
「……俺が、帰りたいと言ったことにされるのか?」
出久は答えられなかった。
男は、立ち上がった。
「ふざけるな」
その声には、先ほどまでとは違う怒りがあった。
「俺は、そんなことを言っていない!」
彼は、端末を睨みつけた。
「俺が何を望んでいるのか、俺がまだ分からないと言ったんだ! それを、どうしてお前たちが勝手に決めるんだ!」
記録の文字列が、一瞬だけ乱れた。
死神は、静かに男の前へ出た。
「……その言葉を、もう一度聞かせてくれ」
男は、彼を見た。
「何?」
「お前自身の意思を、もう一度、聞かせてくれ。今、何を望んでいるのか。答えが出ていないのなら、出ていないと。それを、俺たちが記録する」
男は、唇を噛んだ。
そして、はっきりと言った。
「……俺は、まだ分からない」
その瞬間。
記録の文字列が、完全に停止した。
《本人の意思――未確定》
《本人の意思の保留――許可》
出久は、息を呑んだ。
世界の記録が、初めて、未確定という状態をそのまま残した。
男は、しばらく端末を見つめていた。
やがて、小さく呟いた。
「……やっと、俺の言葉が残ったのか」
誰も、答えなかった。
答える必要はなかった。
彼の言葉は、確かにそこに残っていた。
まだ帰る場所を知らない者の言葉として。
そして、自分の意思を、自分で確かめる時間を求めた者の言葉として。
第四節 死者の中にも、明日がある
その日の午後、出久は帰還者たちの臨時保護施設を訪れた。
そこは、かつて災害時の避難所として使われていた建物だった。
帰還者の人数が増え、病院や個人宅だけでは対応できなくなったため、関係機関が一時的な滞在場所として開放したのだという。
建物の入口には、警備員が立っていた。
廊下には、臨時の診察室。
奥には、食堂と休憩スペース。
そして、壁際には、帰還者たちの情報を管理するための端末が並んでいた。
一見すれば、必要な支援を提供するための施設だった。
しかし、出久は入口で足を止めた。
掲示板に、こう書かれていたからだ。
《帰還者管理規則》
- 帰還者は、本人確認が完了するまで指定区域内で待機すること。
- 帰還者は、帰還の理由について可能な範囲で説明すること。
- 帰還者の行動は、世界の記録との整合性を確認するため、継続的に観察される。
- 帰還者の意思と既存記録に矛盾がある場合、既存記録との照合を優先する。
出久は、最後の項目を見つめた。
「……これ、誰が決めたんですか?」
案内役の職員は、困った顔をした。
「現場の判断だけで作ったものではありません。上層部からの指示と、既存の記録管理手順に従ったものです」
「でも、本人の意思より既存の記録を優先するって……」
「帰還者の状態が不明な以上、管理上の必要があるんです」
職員の声には、悪意はなかった。
彼もまた、状況を理解しようとしているのだろう。
死者が帰ってくる。
その事実が何を意味するのか、誰も分からない。
帰還者の安全を守る必要がある。
周囲の人々の安全も守らなければならない。
記録の不一致がどのような影響をもたらすのかも分からない。
だから、管理する。
観察する。
分類する。
問題が起きる前に、規則を作る。
その考え自体は、理解できる。
だが、規則が人を守るために作られたとしても、その規則が人の意思を消してしまうなら。
規則そのものを、もう一度見直さなければならない。
「……少なくとも、本人が分からないと言っていることを、分かっていることにしてはいけないと思います」
出久が言うと、職員は黙り込んだ。
「僕たちは、帰還者の意思を確認するために来ました。本人の意思が確認できないなら、確認できないまま残すべきです」
「それでは、判断ができません」
「はい」
出久は、頷いた。
「だから、判断できるようになるまで、本人の意思を勝手に決めないんです」
職員は、何かを言いかけて、口を閉じた。
出久は、建物の奥へ進んだ。
食堂では、何人かの帰還者が食事をしていた。
年配の男性が、箸を持ったまま、味噌汁を見つめている。
若い女性が、隣の席に座る子供の皿に、そっとおかずを分けていた。
別の男性は、窓際で、外を眺めていた。
その光景は、あまりにも普通だった。
食事をする。
誰かに話しかける。
窓の外を見る。
明日の天気を気にする。
そんな、何気ない行為ばかりだった。
だが、彼らは世界の記録において、すでに死亡した人間だった。
本来なら、ここに存在しないはずの人々。
それなのに、彼らは空腹を感じる。
喉が渇く。
眠くなる。
誰かと話したくなる。
一人になりたくなる。
そして、明日のことを考える。
出久は、食堂の隅に座っていた少女に目を留めた。
少女は、ノートを広げていた。
鉛筆を持ち、何かを書こうとしている。
けれど、何度も手を止めていた。
出久は、少し離れた席に座った。
「何を書いているの?」
少女は、顔を上げた。
「……日記」
「日記?」
「うん」
少女は、ノートを閉じかけて、やめた。
「帰ってきてから、毎日書いてるの」
「どうして?」
少女は、少し考えた。
「……忘れたくないから」
出久は、息を呑んだ。
少女は、気づかないまま続けた。
「帰ってくる前のことも、帰ってきてからのことも。どっちも忘れたくないの」
彼女は、ノートを見つめた。
「みんな、私に聞くんだよ。死んだとき、何を考えていたのか。どうして帰ってきたのか。誰かに会いたかったのか。何か、やり残したことがあったのか」
少女は、鉛筆を握り直した。
「でも、全部は覚えていないの」
「……そうなんだ」
「覚えていることもあるよ。でも、覚えていないこともある。どうしても思い出せないこともある」
彼女は、顔を上げた。
「それって、私が嘘をついていることになるのかな?」
出久は、首を横に振った。
「ならないよ」
少女の目が、少しだけ大きくなった。
「覚えていないことがあるのは、嘘をついていることとは違う。分からないことがあるのも、何かを隠していることとは違うよ」
「……本当?」
「うん」
少女は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
彼女は、ノートを開いた。
そこには、短い文章が並んでいた。
『今日は、パンを食べた』
『今日は、雨が降った』
『今日は、隣の部屋の人と話した』
『今日は、昨日より少しだけ眠れた』
特別なことは書かれていない。
けれど、出久には、それがとても大切な記録に思えた。
「……いい日記だね」
少女は、少し照れたように笑った。
「そうかな」
「うん。君が今日、何をしたのかが分かるから」
少女は、ノートを見つめた。
「私ね、帰ってきた理由は、まだ分からないの」
「うん」
「でも、帰ってきてから、したいことは少しずつ増えてきた」
彼女は、指を折りながら数えた。
「このノートを最後まで使いたい。新しい鉛筆も買いたい。ここの食堂のカレーを食べたい。隣の部屋の人と、もう一度話したい」
少女は、少し笑った。
「それから……明日も、日記を書きたい」
出久は、胸が熱くなるのを感じた。
帰還した理由は分からない。
死者の世界から戻ってきたのか。
誰かの願いによって呼び戻されたのか。
世界の記録に、何らかの異常が起きたのか。
その答えは、まだない。
けれど、この少女は、今、明日のことを考えている。
明日も日記を書きたい。
新しい鉛筆を買いたい。
誰かと話したい。
それは、世界の記録に最初から書かれていた願いではないのかもしれない。
帰還したあとに生まれた願い。
生きている時間の中で、新しく生まれた意思。
もし、世界が彼女を過去の記録だけで判断するのなら。
彼女が帰還したあとに、何を望み始めたのかを見落としてしまう。
死者として記録されているからといって、彼女の現在まで死んでいるわけではない。
「……君は、明日もここにいたい?」
出久は、慎重に尋ねた。
少女は、すぐには答えなかった。
ノートを見つめ、少し考えた。
「……明日は、ここにいたい」
「うん」
「でも、ずっとここにいたいかどうかは、まだ分からない」
出久は、笑った。
「それでいいと思う」
少女は、ほっとしたように頷いた。
そのとき、背後から死神の声が聞こえた。
「……今の言葉を、記録してもいいか」
少女は、驚いた顔で振り返った。
死神は、彼女の目を見ていた。
「君が今日、何を望んでいるのか。明日も同じことを望んでいるかどうかは、明日にならなければ分からない。だから、今日の意思として残しておきたい」
少女は、しばらく考えた。
「……うん。いいよ」
死神は、端末を操作した。
《帰還者の意思――確認》
《本日の希望――この場所に滞在したい》
《長期的な希望――未確定》
《次回確認――本人の意思に基づき実施》
少女は、画面を覗き込んだ。
「……ねえ」
「何だ」
「私が明日、違うことを言ってもいいの?」
死神は、頷いた。
「当然だ」
「昨日と違うことを言っても?」
「ああ」
「帰りたいって言ったあとで、やっぱり帰りたくないって言っても?」
死神は、少しだけ目を細めた。
「そのときは、何が変わったのかを聞く。だが、昨日の君の意思を理由に、今日の君の意思を否定することはしない」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……よかった」
彼女は、日記に新しい一文を書き加えた。
『今日は、自分の気持ちが変わってもいいと言われた』
その文字を見て、出久は思った。
帰還者たちは、過去の続きを生きるためだけに戻ってきたのではないのかもしれない。
少なくとも、今、ここにいる彼らは、帰還したあとにも新しい経験を積み重ねている。
新しいことを知る。
新しい人と出会う。
新しい願いを抱く。
そして、昨日とは違う自分になっていく。
彼らの存在を、過去の記録だけで固定することはできない。
生きている人間が、昨日と今日で変わるように。
帰還した死者たちもまた、変わっていくのだから。
出久は、少女のノートを見つめた。
世界の記録には、彼女の死が記されている。
けれど、今、彼女が書いている日記には、今日の出来事が記されている。
その二つは、矛盾しているのだろうか。
それとも、どちらも彼女の人生の一部なのだろうか。
答えは、まだ分からない。
だが、出久は、少なくとも一つのことを確信した。
死者として記録された人間にも、明日はある。
そして、その明日をどう生きるのかは、世界の記録だけで決めていいことではなかった。
第五節 帰還を望んだ者と、帰還を望まなかった者
夕方。
出久と死神は、施設の一室で、これまでに確認した帰還者たちの情報を整理していた。
帰還した理由が分からない者。
帰還を喜んでいる者。
帰還を望んでいなかった者。
今の生活を続けたいと望む者。
帰還先を思い出せない者。
そして、帰還したあとに初めて、新しい願いを抱き始めた者。
それぞれの記録を並べると、ひとつの事実が浮かび上がってきた。
彼らの意思は、同じではなかった。
当然のことだ。
生きている人間の意思が一人ひとり違うように、帰還した死者たちの意思もまた、一人ひとり違う。
しかし、世界の記録は、彼らを一つの分類にまとめていた。
《帰還した死者》
それは、事実を表す分類としては間違っていない。
だが、その分類だけでは、彼らが何を望んでいるのかは分からない。
「……死者たちは、ひとつの意思を持つ集団じゃない」
出久が言った。
「それぞれ、違う人生を生きてきた。違う理由で帰ってきたかもしれないし、違うことを望んでいるかもしれない」
死神は、頷いた。
「それを一つの意思として扱えば、必ず誰かの意思を取りこぼす」
「でも、世界の記録は、彼らを一括りにしている」
「その分類が、今の問題の一部なのだろう」
死神は、端末の表示を見つめた。
「分類そのものが、間違いだとは限らない。だが、分類を本人より優先すれば、本人の意思が分類に合わないとき、本人のほうを間違いとして扱うことになる」
出久は、唇を噛んだ。
「……それが、削除処理につながっているのかな」
「可能性はある」
死神は、記録を一つずつ開いた。
「世界は、帰還した死者たちを、既存の死亡記録と矛盾する存在として扱っている。その矛盾を解消するために、帰還者の記録を既存の分類へ統合しようとしている」
「でも、統合できない記録がある」
「そうだ」
「だから、矛盾として残る」
「ああ」
死神は、最後の記録を開いた。
そこには、帰還を望んでいなかった男の証言が残されていた。
『俺は、まだ分からない』
その言葉は、本人の意思として保存されている。
帰還した男が、自分の気持ちを説明できないという事実。
それを、世界の記録は、初めて未確定のまま保持した。
しかし、その記録には警告がついていた。
《未確定状態の継続――記録整合性に影響》
《影響範囲――拡大中》
《対応方法――未確定》
出久は、顔をしかめた。
「……未確定のまま残すこと自体が、世界に影響している?」
「そうとは限らない」
死神が答えた。
「未確定状態が原因なのか。それとも、世界が未確定状態を許容できないことが原因なのか。今の記録だけでは判断できない」
「でも、もし世界が、誰かの意思が未確定であることを許せないのなら……」
出久は、そこで言葉を切った。
死神が、続きを促すように彼を見た。
「……生きている僕たちだって、同じ問題を抱えているよね」
「どういう意味だ」
「人間は、いつだって自分の気持ちを全部分かっているわけじゃない。何をしたいのか分からないときもある。何を選べばいいのか決められないときもある」
出久は、自分の手を見下ろした。
「僕だって、そうだった。誰かを救いたいと思っても、どうすればいいのか分からないことがあった。正しいと思って選んだことが、本当に正しかったのか分からなくなることもあった」
彼は、顔を上げた。
「でも、分からないからって、僕が僕じゃなくなるわけじゃない」
死神は、黙って聞いていた。
「だったら、帰還した死者たちだって同じだと思う。自分が何を望んでいるのか分からなくても、それだけで存在を否定される理由にはならない」
「……そうだな」
死神は、静かに答えた。
そのとき、端末の表示が切り替わった。
《未確定状態の増加を検出》
《対象――帰還者の意思記録》
《世界の整合性――低下》
出久は、息を呑んだ。
「待って……!」
新しい記録が次々と表示されていく。
帰還者の意思を確認するたびに、世界の整合性が低下している。
少なくとも、記録上はそう見えた。
「……僕たちが、本人の意思を記録することで、世界の整合性が低下しているのか?」
死神は、表示を見つめた。
「あるいは、世界が隠していた矛盾が、表面に現れているのかもしれない」
「隠していた矛盾?」
「帰還者たちの意思が、最初から記録されていなかったとしたら。世界は、彼らが何を望んでいるのかを知らないまま、既存の分類に従って処理を進めていたことになる」
死神は、画面を指さした。
「そこに本人の意思を追加すれば、既存の記録と衝突する。だが、その衝突は、本人の意思が間違っていることの証明にはならない」
出久は、目を見開いた。
「……世界が正しいから、本人の意思が矛盾しているんじゃない」
「そうだ」
死神は、続けた。
「本人の意思が存在することで、世界の記録が不完全だったと分かる場合もある」
出久は、しばらく黙っていた。
それは、世界の根で見た光景とつながっていた。
記録されていない情報。
最初から記録されなかった願い。
世界の記録が参照できないからといって、存在しなかったとは限らないもの。
そして今、目の前にいる帰還者たち。
彼らの意思が記録されていなかったのなら。
彼らが帰還したあとに抱いた願いが、世界の記録に反映されていなかったのなら。
世界は、自分が知らないものを、知らないまま処理しようとしていることになる。
「……死者たちは、世界にとっての間違いなんかじゃない」
出久は、ゆっくりと言った。
「世界が、まだ知らないことなんだ」
死神は、彼の言葉を聞いて、静かに頷いた。
「その可能性を、忘れるな」
その直後。
施設全体に、警報が鳴り響いた。
第六節 世界の整合性を回復せよ
警報音が止まると同時に、施設の照明が一斉に明滅した。
廊下の端末が停止する。
食堂の画面が暗転する。
そして、壁に設置されたすべての表示装置に、同じ文章が浮かび上がった。
《世界の整合性に重大な不整合を検出》
《不整合対象――帰還した死者》
《処理段階――削除準備から実行準備へ移行》
出久は、椅子から立ち上がった。
「……実行準備?」
死神が、端末を操作する。
しかし、応答はない。
『アクセス権限がありません』
無機質な音声が流れた。
『現在、世界の整合性回復処理が優先されています』
「処理を停止しろ」
『停止要求を受理できません』
「命令を発している主体を特定しろ」
『照合不能』
「ならば、処理の根拠を示せ」
『世界の記録との不整合』
死神の目が細くなった。
「それは根拠ではない。現状の説明だ」
『回答不能』
出久は、画面を睨みつけた。
「……何なんだよ、それ!」
機械は答えない。
施設のあちこちで、職員たちが慌ただしく動き始めた。
帰還者たちが、不安そうに周囲を見回している。
ある者は、椅子から立ち上がった。
ある者は、近くの職員に説明を求めた。
そして、先ほど日記を書いていた少女は、ノートを胸に抱き締めていた。
「……ねえ」
少女が、出久に声をかけた。
「私、またいなくなっちゃうの?」
出久は、言葉を失った。
「……そんなことは、させない」
そう答えたかった。
絶対に守ると。
君はここにいていいのだと。
けれど、今の出久には、削除処理を止める方法がなかった。
できるかどうか分からない約束を、少女に与えることはできなかった。
それでも、黙っているわけにもいかなかった。
出久は、少女の目を見た。
「……まだ、何が起きているのか分からない」
少女の顔が曇る。
「でも、君が何を望んでいるのかを聞かずに、勝手に決めさせるつもりはない」
出久は、はっきりと言った。
「君の意思を確認する前に、君を消すことが正しいなんて、僕は認めない」
少女は、ノートを握り締めた。
「……私、まだ日記を書きたい」
「うん」
「明日も、書きたい」
「うん」
「新しい鉛筆も、買いたい」
出久は、頷いた。
「その願いを、ちゃんと記録するよ」
少女は、涙を浮かべた。
「……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、死神は、あることに気づいた。
世界の記録は、帰還者たちを過去の死亡記録と照合している。
だが、帰還者たちは、帰還したあとにも新しい行為を積み重ねている。
少女の日記。
帰還を望まなかった男の証言。
少年が母親に尋ねた言葉。
それらは、過去の記録には存在しない。
当然だ。
それらは、帰還したあとに起きたことなのだから。
しかし、世界の記録は、それらを新しい人生の記録として受け入れるのではなく、既存の死亡記録との不整合として処理しようとしている。
「……違う」
死神が呟いた。
出久が振り返る。
「死神さん?」
「この処理は、単に死者を消そうとしているのではない」
死神は、表示を見つめた。
「世界は、帰還者たちの存在を、過去の記録に収まる形へ戻そうとしている」
「過去の記録に……?」
「死者は、死者であるべきだと。死亡したという記録がある以上、その後に存在してはならないと」
死神は、拳を握った。
「帰還者たちが何を望んでいるのかではなく、世界が彼らをどう記録しているのかを優先している」
出久は、息を呑んだ。
それは、単なる削除処理よりも根深い問題だった。
世界は、死者たちの存在を認めるために、彼らの意思を必要としていない。
彼らの意思を聞かなくても、既存の記録に従えば、処理は進められる。
世界にとっては、それが最も簡単な方法なのだ。
矛盾を解消する。
記録を整える。
不整合をなくす。
そして、すべてを正しい形に戻す。
そのために、今ここにいる人間たちが何を考えているのかは、必要ない。
「……そんなの、間違ってる」
出久は、強く言った。
「人間は、記録のために生きているんじゃない!」
その声に、周囲の帰還者たちが振り向いた。
出久は、続けた。
「僕たちが記録を残すのは、そこにいた人が、何を考えて、何を選んで、どう生きたのかを忘れないためだ。記録に人を押し込めるためじゃない!」
彼は、少女を見た。
「この子が明日も日記を書きたいと思っているなら、その意思を残すべきなんだ。帰還したことを喜べない人がいるなら、その気持ちも残すべきなんだ。まだ分からない人がいるなら、分からないという答えを残すべきなんだ!」
出久は、拳を握った。
「その全部を記録したうえで、どうすればいいのかを考えなきゃいけない!」
施設の中に、沈黙が広がった。
死神は、出久を見つめた。
その姿に、かつての自分が重なったのだろうか。
あるいは、かつて自分が見失ったものが、そこにあったのだろうか。
彼には分からなかった。
だが、今の出久の言葉は、確かに届いていた。
帰還者たちにも。
施設の職員たちにも。
そして、世界の記録にも。
端末の表示が、一瞬だけ乱れた。
《未確定の意思記録――増加》
《既存分類との不整合――拡大》
《整合性回復処理――再評価を要求》
死神は、顔を上げた。
「……反応した」
出久が振り向く。
「止まったの?」
「いや。再評価を要求しただけだ」
死神は、端末を見つめた。
「だが、処理が自動的に進む状態から、一時的に変化した可能性がある」
出久は、息を呑んだ。
「じゃあ、まだ止められるかもしれない」
「可能性はある」
死神は、静かに頷いた。
しかし、その直後。
新たな表示が浮かび上がった。
《再評価の実行条件――不整合の解消》
《不整合の解消方法――対象者の意思を確定》
出久は、目を見開いた。
「……意思を確定?」
死神は、表示を見つめたまま答えた。
「世界は、まだ理解していない」
「何を?」
「意思が、いつも確定しているとは限らないということを」
出久は、息を呑んだ。
帰還者たちの意思は、確かに存在する。
だが、それは必ずしも、最初から明確な答えとして存在しているわけではない。
帰りたい者もいる。
帰りたくない者もいる。
帰還したことを喜んでいる者もいる。
今は喜べない者もいる。
そして、まだ自分が何を望んでいるのか分からない者もいる。
そのすべてが、本人の意思なのだ。
それを、一つの確定した答えにまとめなければ、世界は整合性を回復できないという。
ならば、世界の要求に従う限り、誰かの意思を切り捨てることになる。
「……それじゃあ」
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「世界の整合性を回復するために、本人の意思を壊すことになる」
死神は、頷いた。
「そうだ」
その言葉のあと、施設の照明が再び明滅した。
《意思確定処理――開始準備》
出久は、歯を食いしばった。
世界は、まだ答えを知らない。
それなのに、答えを確定させようとしている。
そして、確定できないものを、間違いとして処理しようとしている。
それは、第一接続者に関する未完了の願いと、どこかでつながっているのかもしれない。
願いを叶えてほしいとは言っていない。
ただ、自分が何を願っていたのかを忘れないでほしかった。
あの声の意味を、世界はまだ理解していない。
いや、世界が理解できる形に変換しようとすること自体が、問題なのかもしれない。
出久は、少女の日記を見た。
そこには、今日の出来事が書かれている。
明日も日記を書きたい。
新しい鉛筆がほしい。
誰かと話したい。
それらは、ひとつの確定した人生の結論ではない。
ただ、今日の彼女が抱いた願いだった。
明日には、違う願いを抱くかもしれない。
その変化を認めることができなければ、彼女の意思を尊重することなどできない。
「……死神さん」
出久が呼びかけた。
「この処理を止めるには、どうすればいい?」
死神は、長い沈黙のあと、答えた。
「世界が求めている答えを、与えなければいい」
出久は、目を見開いた。
「え……?」
「今の世界は、帰還者たちの意思を一つの確定した答えにまとめようとしている。ならば、その要求に従っている限り、誰かの意思を切り捨てることになる」
死神は、少女を見た。
「だが、本人の意思が未確定であることも、本人の意思の一部だ」
そして、端末を見つめた。
「俺たちは、その事実を記録し続ける。帰還者たちが、自分の意思を確かめる時間を奪わせないために」
出久は、深く頷いた。
「……うん」
その瞬間、少女が一歩前に出た。
「……私も、言っていい?」
出久が振り返る。
「もちろん」
少女は、震える声で言った。
「私は、明日も日記を書きたい。でも、明後日のことは分からない。来週のことも、ずっと先のことも分からない」
彼女は、ノートを抱き締めた。
「だから、私の気持ちを、今ここで全部決めないでほしい」
その言葉に、施設にいた帰還者たちが、次々と顔を上げた。
年配の男性が、静かに言った。
「……俺も、明日のことは分からん」
若い女性が、頷いた。
「私も。今は家族に会いたい。でも、会ったら何を話せばいいのか分からない」
別の男性が、口を開いた。
「俺は、帰りたい。でも、どこへ帰りたいのかは、まだ思い出せない」
そして、帰還を望んでいなかった男の声が響いた。
「……俺は、まだ分からない」
彼は、はっきりと続けた。
「それを、分からないままにしておきたい」
その言葉が、施設の中に広がった。
それぞれの意思。
それぞれの迷い。
それぞれの願い。
誰も、同じ答えを持っていなかった。
それでも、彼らは確かに、ここにいた。
世界の記録が認めているかどうかとは関係なく。
彼らは、今、自分の意思を言葉にしていた。
端末の表示が、激しく乱れた。
《意思確定処理――条件不成立》
《未確定状態――複数確認》
《整合性回復処理――再評価》
出久は、息を呑んだ。
世界は、まだ彼らの意思を理解していない。
けれど、彼らが意思を持っていることまでは、否定できなくなったのかもしれない。
そのとき。
端末の奥から、聞き覚えのある声が響いた。
『……記録対象の意思を、確認しました』
デウス・マキナの声だった。
『ただし、意思の統合は実行できません』
『理由――対象者の意思が、互いに異なるため』
『意思の統合を強制した場合、対象者の意思が損なわれる可能性があります』
出久は、目を見開いた。
『処理の再評価を要求します』
『削除処理――保留』
施設の中に、静寂が訪れた。
警報音が止まる。
照明が安定する。
端末の表示が、ゆっくりと元の状態へ戻っていく。
完全に解決したわけではない。
削除処理が永久に停止したわけでもない。
世界の整合性が回復したわけでもない。
ただ、処理は保留された。
帰還者たちの意思を一つにまとめることができないという事実を、機械が認識したのだ。
出久は、深く息を吐いた。
「……止まった」
死神は、首を横に振った。
「一時的だ」
「うん。分かってる」
出久は、帰還者たちを見た。
「でも、今はそれでいい」
今は、まだ答えが出ていない。
だからこそ、時間を稼がなければならない。
彼らが自分の意思を確かめられるように。
世界が、彼らの存在を理解できるように。
そして、誰かが勝手に答えを決める前に、本人たちの声を聞けるように。
死神は、静かに頷いた。
「……ああ」
しかし、二人とも気づいていなかった。
デウス・マキナが削除処理を保留した直後、世界の根の奥で、別の記録が更新されていたことに。
《不整合対象の削除処理――保留》
《保留理由――対象者の意思を統合できない》
そして、その下に。
新しい一文が追加されていた。
《保留の継続条件――対象者の意思の確認を継続すること》
さらに、その一番下。
《保留を要求した者――照合不能》
誰が、処理の保留を求めたのか。
出久でも、死神でも、デウス・マキナでもない。
少なくとも、既存の記録からは、そう判断できなかった。
世界の根の奥。
誰にも参照できない領域で、何かが静かに動いていた。
そして、その存在は、ひとつの記録を残した。
《帰還者たちの意思――未確定のまま保存》
《保存理由――本人の意思が未確認のため》
それは、誰かが世界に逆らった痕跡だった。
あるいは。
世界そのものが、まだ完全には失っていない、最後の良心だったのかもしれない。
どちらなのかは、まだ分からなかった。
第七節 帰る場所は、誰かが決めるものではない
夜。
施設の窓から、街の灯りが見えていた。
帰還者たちは、それぞれの部屋へ戻っていた。
今日の出来事に疲れた者もいれば、まだ眠れない者もいる。
誰かは、家族に電話をかけていた。
誰かは、明日何をするかを考えていた。
そして、誰かは、ただ静かに窓の外を眺めていた。
出久は、廊下の椅子に座っていた。
隣には、死神がいる。
「……今日は、少しだけ前に進めたのかな」
出久が尋ねた。
死神は、窓の外を見たまま答えた。
「少なくとも、彼らの意思を聞かずに削除する処理は、一時的に保留された」
「でも、根本的な問題は解決していない」
「ああ」
「どうして帰ってきたのか。誰が帰したのか。世界は、なぜ彼らを認められないのか」
「ああ」
出久は、深く息を吐いた。
「……まだ、分からないことだらけだ」
死神は、静かに頷いた。
「そうだな」
しばらく、二人は黙っていた。
やがて、出久が口を開いた。
「ねえ、死神さん」
「何だ」
「帰る場所って、何なんだろう」
死神は、彼を見た。
「……どういう意味だ」
「今日、いろんな人の話を聞いたでしょう。帰ってきてうれしい人もいた。帰ってきたくなかった人もいた。ここにいたい人もいた。帰りたいのに、どこへ帰りたいのか分からない人もいた」
出久は、自分の手を見つめた。
「帰る場所って、住所のことだけじゃないんだと思う」
「そうだな」
「家があっても、帰りたくない人がいる。帰りたい場所があっても、そこに帰れない人がいる。帰りたいのかどうかさえ、分からない人もいる」
出久は、顔を上げた。
「だったら、誰かが帰還したからって、帰る場所まで決まったことにはならないよね」
死神は、静かに答えた。
「その通りだ」
「……じゃあ、僕たちは何をすればいいんだろう」
死神は、長い沈黙のあと、言った。
「本人が、自分の帰る場所を考えられるようにすることだ」
出久は、彼を見た。
「帰る場所が分かっている者には、そこへ向かう道を探す。帰る場所を失った者には、失ったものと向き合う時間を与える。帰りたくない者には、その意思を聞く。そして、まだ分からない者には、分からないままでいることを許す」
死神は、窓の外を見た。
「俺たちができるのは、そこまでかもしれない」
「……それでも、いいのかな」
「それ以上を望むのなら、相手の意思を奪うことになるかもしれない」
出久は、目を閉じた。
かつての自分なら、もっと簡単な答えを求めていたかもしれない。
死者を救う。
死者を元の場所へ帰す。
世界を正常な状態へ戻す。
そうした目標を掲げれば、何をすればいいのか分かりやすくなる。
けれど、今日出会った人たちは、それぞれ違うことを望んでいた。
帰還を喜ぶ母親。
帰ってきたことに戸惑う少年。
帰還を望んでいなかった男。
明日も日記を書きたい少女。
彼らを同じ結論へ導くことはできない。
むしろ、同じ結論へ導こうとすることこそが、彼らの意思を損なうのかもしれない。
「……死神さん」
「何だ」
「僕、まだ分からないことがたくさんある」
出久は、素直に言った。
「どうすれば全員を救えるのかも、どうすれば世界を守れるのかも、分からない」
彼は、拳を握った。
「でも、分からないからって、誰かの答えを勝手に決めることはしたくない」
死神は、彼を見つめた。
「それでいい」
「……本当に?」
「ああ」
死神は、静かに言った。
「分からないことを認めるのは、何もしないこととは違う。分からないからこそ、聞く。分からないからこそ、調べる。分からないからこそ、相手が答えを見つける時間を奪わない」
死神は、ゆっくりと立ち上がった。
「俺たちは、答えを与える者である前に、答えを聞く者でなければならないのかもしれない」
出久も立ち上がった。
「……うん」
二人は、廊下の奥へ歩き始めた。
そのとき、出久はふと思い出した。
世界の根で聞いた、あの声。
『願いを叶えてほしいとは、言っていない』
『ただ……私が何を願っていたのかを、忘れないでほしかった』
「……死神さん」
「何だ」
「第一接続者の願いも、これと同じなのかな」
死神は、歩みを止めた。
「どういう意味だ」
「願いを叶えることよりも、願った人の意思を残すこと。それが、第一接続者の本当の目的だったのかもしれない」
死神は、しばらく考えた。
「その可能性はある」
「でも、まだ分からない」
「ああ」
「……だから、確かめなきゃいけないね」
死神は、頷いた。
「そうだな」
彼は、静かに続けた。
「そして、今度は、願いを叶えることだけを目的にしない」
出久が、顔を上げた。
「まず、聞く」
死神は、はっきりと言った。
「誰が何を願い、何を望まなかったのか。何を選び、何を選ばなかったのか。それを、本人の意思として確かめる」
そして、最後に付け加えた。
「帰る場所も、救われ方も、本人が望む形を聞かなければならない」
二人は、廊下の窓から、夜の街を見つめた。
この街には、今日も多くの人間が生きている。
家に帰る者。
帰る場所を失った者。
誰かを待つ者。
誰かを待たせている者。
そして、帰る場所を探している者。
彼らは、同じ街に住んでいても、同じ人生を生きているわけではない。
帰還した死者たちも、同じだった。
彼らは、同じ理由で帰ってきたのではないかもしれない。
同じ場所へ帰りたいわけでもないかもしれない。
そして、誰もが、帰ることを望んでいるとは限らない。
だからこそ。
帰る場所を、誰かが勝手に決めてはならない。
終節 未完了の願い、その先へ
深夜。
誰もいなくなった施設の管理室で、端末が静かに起動した。
画面には、今日確認された帰還者たちの記録が並んでいる。
少年の証言。
帰還を望んでいなかった男の証言。
少女の日記に記された願い。
そして、本人の意思が未確定であることを認めた記録。
それらは、世界の既存の記録と完全には一致していなかった。
しかし、削除処理は保留されている。
帰還者たちの意思を、ひとつの答えにまとめることができなかったからだ。
端末の画面に、文字が浮かび上がった。
《帰還者の意思――未確定のまま保存》
《保存対象――存在、意思、行為》
その文面を見て、誰かが反応した。
管理室には、誰もいない。
監視カメラにも、異常は記録されていない。
それでも、端末の文字列は、ゆっくりと変化していった。
《保存対象の選定理由――照合不能》
《保存の目的――対象者が存在したことを、未来に伝える》
そして。
《保存を要求した者――照合不能》
その記録は、デウス・マキナが世界の根で確認した、第一接続者に関する願いと酷似していた。
だが、同じものだと断定することはできない。
誰が保存を要求したのか。
何を未来に伝えようとしているのか。
なぜ、その願いが世界の記録に残されているのか。
そのすべてが、まだ分からなかった。
ただ、一つだけ、新しい記録が追加されていた。
《対象者の意思――確認を継続》
《確認方法――本人への問いかけ》
その文字列が表示された直後。
画面の隅に、小さな音声記録が現れた。
それは、今日出久たちが聞いたものとは異なる声だった。
『……帰りたい』
短い言葉。
それだけだった。
続く言葉は、ない。
帰りたい場所がどこなのか。
誰のもとへ帰りたいのか。
何から帰りたいのか。
そもそも、帰りたいという言葉が、何を意味しているのか。
何も分からない。
音声記録は、そこで途切れていた。
端末は、その言葉を自動的に分類しようとした。
《帰還希望――確認》
しかし、次の瞬間。
文字列が停止した。
《分類を保留》
《理由――帰還先が未登録》
その記録は、世界の根に残されていたものと同じだった。
《帰還先――未登録》
誰かが、帰りたいと願っている。
けれど、その者がどこへ帰りたいのかを、世界は知らない。
いや。
もしかすると、世界が知らないのではない。
その者自身も、まだ帰る場所を思い出せていないのかもしれない。
端末は、静かに記録を保存した。
誰かの願いを、願いのまま。
まだ答えが出ていないものを、未完了のまま。
そして、誰かがその願いを聞きに来る日を待つように。