第一幕 世界が正解を要求するとき
世界樹の根は、沈黙していた。
そこには無数の記録がある。
人間が生まれた記録。誰かを愛した記録。誰かを憎んだ記録。選択した記録。選択できなかった記録。救われた記録。救われなかった記録。
そして、死んだ記録。
記録は世界を形づくっていた。
少なくとも、そう考えられていた。
だが、緑谷出久は今、その考え方そのものに疑問を抱いていた。
「……変だ」
彼の目の前には、デウス・マキナが展開した半透明の記録群が浮かんでいる。
その中央には、帰還者たちの存在を示す無数の光点があった。
「何がだ、緑谷」
死神が尋ねた。
出久はひとつの記録を指さした。
「この人は、帰還前の記録では死亡している。でも、今は生きている。だから世界は、この人を矛盾だと判定しているんですよね」
「そうだ」
「でも、死亡したという記録が間違っているわけじゃない。今ここにいるという記録も、間違っていない」
「……ああ」
「だったら、矛盾しているのは、この人じゃない」
出久は記録の向こうにいる帰還者たちを見た。
「ひとつの人間について、ひとつの答えしか認めない世界のほうじゃないんですか。」
死神は答えなかった。
それは、第五章の始まりからずっと彼らが追い続けてきた問題だった。
死亡した者は、死者である。
生きている者は、生者である。
その分類は通常ならば正しい。
しかし、死者が帰還したとき、世界は二つの記録を同時に認められなかった。
死者として記録されている人間が、生者として存在している。
世界はそれを受け入れられない。
だから、どちらかを消そうとする。
「記録は、本来、何のためにあるんでしょう」
出久が言った。
「存在したものを、存在したと残すためか。それとも、世界に何が存在してよいのかを決めるためか」
死神は、ゆっくりと目を閉じた。
彼自身もまた、記録に似たものを失っている。
自分が何者だったのか。
誰と出会ったのか。
何を守ろうとしたのか。
何を忘れることになったのか。
そのすべてが、完全にはつながらない。
だが、忘れたものがあるからといって、忘れた相手が存在しなかったことにはならない。
「……私は、記録を残すことと、存在を認めることを混同していたのかもしれない」
死神が呟いた。
「記録されていなければ、存在を証明できない。証明できなければ、存在を守れない。そう考えていた」
「違うんですか?」
「違うとは言い切れない。記録がなければ、存在は簡単に否定される。だが、記録があるからといって、その者のすべてを理解したことにはならない」
死神は、帰還者たちの光点を見つめた。
「記録に『帰りたい』と残されていても、どこへ帰りたいのかは分からない。『救ってほしい』と残されていても、何を救ってほしいのかは分からない。ましてや、『救われたくない』と願った者を、救済対象という名前で縛れば……」
「それは救済じゃない」
出久が続けた。
「相手の意思を無視して、救ったことにするだけです」
「そうだ」
その瞬間。
デウス・マキナが、低い警告音を発した。
『注意。安寧維持プロセスに変動を検出』
二人の前に、新たな記録が浮かび上がる。
『帰還者群――矛盾継続』
『個別意思――統合不能』
『存在記録――確定不能』
『安寧維持判定――再評価』
出久の表情が険しくなる。
「また、削除を始めるんですか?」
『現時点で、削除処理の再開は確認されていません』
「じゃあ、何が起きているんです?」
デウス・マキナは、しばらく沈黙した。
その沈黙は、単なる演算の遅延とは違っていた。
『判定基準そのものに、未定義領域が発生しています』
「未定義領域?」
『はい。帰還者の存在を矛盾として扱う判定と、個別意思を尊重する判定が、同一対象に対して同時に成立しています』
出久は息を呑んだ。
「どちらも、成立している……?」
『肯定』
「それなら、どうして片方を消さなきゃいけないんですか」
『回答不能』
出久は、少しだけ笑った。
嬉しいからではない。
世界が、ようやく答えられないことを答えられないと言ったからだ。
「だったら、答えが出るまで待てばいい」
死神が彼を見た。
「緑谷」
「分からないことを、分かったことにする必要はないでしょう。答えが出ないなら、答えが出ないまま残しておけばいい。少なくとも、答えが出ないという理由で誰かを消すよりは、ずっといい」
『……』
デウス・マキナは返答しなかった。
だが、帰還者たちの光点は消えなかった。
そのことが、何よりも雄弁な答えだった。
世界はまだ、彼らを受け入れたわけではない。
それでも今、この瞬間。
彼らは、世界の正解からはみ出したまま存在していた。
それだけで、第五章の戦いには意味があった。
けれども――。
世界樹の、さらに深い場所。
光の届かない記録領域で、ひとつの文字列が静かに変化していた。
『削除保留――継続』
『保留要求者――照合不能』
『要求者の意思――未確認』
その下に、新たな一文が追加される。
『保留を求めた存在は、対象の救済を要求していない』
一拍。
さらに、文字が刻まれた。
『対象の意思を確認する時間を要求している』
その記録を、誰が残したのか。
誰が保留を求めたのか。
何ひとつ分からない。
ただ、ひとつだけ。
世界が答えを出す前に、誰かが「待て」と言った。
それは、誰かを救うためだったのか。
それとも、誰かの選択を奪わないためだったのか。
その答えもまた、まだ記録されていなかった。
第二幕 死神は、忘れた約束を探している
「死神さん」
世界樹の根から離れたあと、出久は隣を歩く死神に声をかけた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「答えられることなら」
「あなたは、どうしてそこまで記憶を取り戻そうとしているんですか?」
死神の足が止まった。
出久は慌てて言葉を付け加えた。
「いや、記憶を取り戻したいのは当然だと思います。自分が何をしてきたのか分からないのは、不安だし、怖いと思う。でも……あなたは、ときどき記憶を取り戻すこと自体を怖がっているように見えるんです」
死神は、しばらく何も言わなかった。
やがて、視線を落とした。
「……私は、誰かに約束をしたのだと思う」
「約束?」
「ああ。だが、その内容を思い出せない」
「それが、記憶を取り戻したい理由ですか?」
「それも理由のひとつだ」
死神は自分の手を見た。
この手で、何かを救ったのかもしれない。
この手で、何かを奪ったのかもしれない。
そして、そのどちらも覚えていないのかもしれない。
「私は、誰かに『覚えている』と答えた気がする」
「……」
「その誰かが、私に何を求めていたのかは分からない。ただ、忘れないでほしいと言われた気がする」
出久は、以前見た記録を思い出していた。
世界が生まれる以前のものと思われる、未完成の願い。
存在を。
意思を。
行為を。
未来の誰かが知ることのできるように、残してほしい。
その願いを誰が発したのかは、分からない。
誰に向けられたものなのかも、分からない。
ただ、その応答者として、死神の名が記録されていた。
しかし、応答の内容は欠落していた。
「……その約束は、誰かを救うためのものだったんでしょうか」
出久が尋ねた。
死神は首を横に振った。
「分からない」
「誰かを忘れないため?」
「分からない」
「誰かに忘れられないため?」
「……それも、分からない」
死神は、自嘲するように笑った。
「私は、答えられないことばかりだな」
「そんなことないです」
出久は即座に答えた。
「少なくとも、今のあなたは、分からないことを分からないって言っているじゃないですか」
「それが何になる?」
「大切なことだと思います」
出久は、真剣な顔で続けた。
「もし、あなたが自分の記憶を取り戻すために、分からない部分を想像で埋めてしまったら。誰かを救ったと信じたくて、本当はその人が何を望んでいたのかを考えなくなってしまったら。それは、あなたが探している人を、もう一度見失うことになるんじゃないですか」
死神は、目を見開いた。
「……もう一度」
その言葉に、何かが触れた。
遠い記憶の底で、誰かが泣いている。
顔は見えない。
声も、はっきりとは聞こえない。
ただ、ひとつの言葉だけが、暗闇の向こうから浮かび上がった。
――私を救わないで。
死神の呼吸が止まった。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
目の前の景色が、別の世界へと変わった。
何もない場所。
世界が生まれる前の、上下も左右も定まっていない空間。
そこに、ひとつの影が立っている。
その影は、死神に似ていた。
けれど、同じ存在なのかは分からない。
影の向こうには、もうひとつの影があった。
その影は、誰かの手を握っている。
握られている側の手は、震えていた。
「……まだ、名前をつけないで」
声がした。
誰の声なのかは分からない。
その直後、別の声が聞こえた。
「……これで、あの子は帰れる」
光が走った。
二つの線がつながる。
何かが始まる。
世界が、形を持ち始める。
そして――。
「死神さん!」
出久の声によって、死神は現実へと引き戻された。
彼は片膝をついていた。
呼吸が乱れている。
出久が肩を支えようとするが、死神は手を上げて制した。
「大丈夫だ」
「本当に?」
「……大丈夫ではないかもしれない。だが、今は話せる」
死神は、ゆっくりと息を整えた。
「今、記憶の断片を見た」
「何を?」
「世界が生まれる前のような場所だ。そこに、二つの影がいた。一方が、誰かを帰そうとしていた」
出久の表情が変わる。
「帰還先――未登録」
「……ああ」
「前に見つけた記録と、つながるかもしれない」
「だが、確証はない」
死神は、言葉を慎重に選んだ。
「影が同じ存在だったのかも分からない。私自身がその場にいたのか、それとも誰かの記憶を見ただけなのかも分からない」
「それでも、何かを思い出したんですね」
「そうだ」
死神は目を閉じた。
そして、苦しそうに言った。
「私は、誰かを救おうとしたのかもしれない」
「……」
「だが、その者が何を望んでいたのかを、聞かなかったのかもしれない」
その言葉は、死神にとって、記憶の断片よりも重かった。
思い出せないことは、苦しい。
けれど、思い出したくないことがあるのなら。
それは、もっと苦しい。
自分が誰かを救ったと信じていたとして。
その誰かが、救われることを望んでいなかったのだとしたら。
自分が守ったと思っていた存在が、実は、自分の意思によって選択肢を奪われていたのだとしたら。
それでも、自分は救ったと言えるのだろうか。
「……私は、知りたい」
死神が言った。
「自分が何をしたのかを。何を間違えたのかを。そして、誰かが私に何を望んでいたのかを」
出久は頷いた。
「僕も、知りたいです」
「緑谷」
「でも、ひとつだけ約束してほしいんです」
「何をだ?」
出久は、死神をまっすぐ見つめた。
「もし、記憶を取り戻して、あなたが間違っていたと分かっても。自分が誰かを傷つけていたと分かっても、その人が何を望んでいたのかを聞く前に、もう一度勝手に結論を出さないでください」
死神は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
やがて彼は、静かに頷いた。
「……約束しよう」
それは、記憶を取り戻すという約束ではなかった。
誰かを救うという約束でもなかった。
分からない相手の意思を、自分の都合で決めつけない。
その約束だけは、今、この瞬間に交わすことができた。
第三幕 名前を持たない少女
「ねえ」
仮設避難所の一角で、少女が出久を呼び止めた。
彼女は、机の上に開いた日記を置いていた。
その隣には、短くなった鉛筆が一本。
帰還した死者たちのために設けられた避難所は、以前よりも静かになっていた。
彼らが安心して暮らせる場所になったからではない。
世界が、彼らをどう扱えばいいのか、まだ決められずにいるからだ。
少女は、少し迷ったあとで尋ねた。
「昨日のこと、覚えてる?」
「昨日?」
「私が、明日も日記を書きたいって言ったこと」
「もちろん、覚えてるよ」
出久は笑った。
「新しい鉛筆を買って、カレーを食べて、誰かと話したいって言ってたよね」
「うん」
少女は、ほっとしたように頷いた。
「今日も、書いたの」
「見せてもらってもいい?」
少女は日記を差し出した。
そこには、短い文章が並んでいた。
今日、目が覚めた。
昨日より、少しだけ眠れた。
朝ごはんを食べた。
カレーは、まだ残っているらしい。
新しい鉛筆は、明日買うことにした。
それから――。
少女は、最後の一行を指さした。
「ここ、まだ書けてないんだ」
「どうして?」
「今日のことを、どう書けばいいのか分からないから」
出久は、日記に目を落とした。
少女は、言葉を探すように続けた。
「今日、私は生きていたって書けばいいのかな。それとも、死んだあとも、まだここにいたって書けばいいのかな」
出久は、すぐには答えなかった。
簡単な答えなら、いくらでもあった。
生きていると書けばいい。
死んだときのことを書けばいい。
帰還したことを書けばいい。
けれど、そのどれかひとつだけを選ぶことが、本当に彼女のためになるのか。
出久には分からなかった。
だから、彼は尋ねた。
「君は、どう書きたい?」
少女は目を丸くした。
「……私が決めていいの?」
「うん」
「どっちが正しいの?」
「それは、僕には決められない」
少女は困ったように笑った。
「緑谷さんでも、分からないことがあるんだね」
「たくさんあるよ」
「そっか」
少女は、日記を見下ろした。
しばらく考えたあと、鉛筆を手に取る。
そして、最後の一行に文字を書き足した。
今日、私はここにいた。
生きているのか、死んでいるのか、まだよく分からない。
でも、今日、私はここにいた。
少女は書き終えると、少しだけ首を傾げた。
「……これでいいのかな」
「君がそう書きたかったなら、それでいいと思う」
「明日、違うことを書いても?」
「もちろん」
「明後日、もっと違うことを書いても?」
「うん」
「それでも、今日の日記は嘘にならない?」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「ならないよ」
少女は、ようやく笑った。
「よかった」
その笑顔は、何かが完全に解決したから生まれたものではなかった。
彼女は、まだ自分のことを理解できていない。
自分がどうして帰還したのかも。
どうして世界が自分を拒絶しているのかも。
これから、どこへ行けばいいのかも。
それでも、彼女には明日がある。
明日、日記を書く。
新しい鉛筆を買う。
カレーを食べる。
誰かと話す。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
分からないまま、彼女は明日を選んだ。
「……死神さん」
出久は、少し離れた場所に立つ死神へと視線を向けた。
死神は、少女の様子を見守っていた。
その手には、小さな記録端末がある。
そこには、少女の意思が記録されていた。
『現在の希望――避難所での生活を継続する』
『長期的な希望――未確定』
『本人の意思――今後変更される可能性あり』
『記録上の留意事項――現在の希望をもって、将来の希望を確定させない』
死神は、その記録を見つめていた。
「……私は、以前ならば、この記録を不完全だと判断していたかもしれない」
「今は?」
出久が尋ねる。
「これが、正しい記録なのだと思う」
死神は、端末を閉じた。
「分からないことを、分からないと残す。変わる可能性があるものを、変わらないと決めつけない。本人がまだ決めていないことを、誰かが代わりに決めない」
「……」
「記録とは、未来を封じるためのものではないのだな」
死神は、少女を見た。
「その者が、未来を選んだことを残すためのものなのだ」
その言葉を聞いた瞬間。
端末の画面に、微かなノイズが走った。
記録の最下部に、見覚えのない文字列が浮かぶ。
『対象者――未確定』
『意思――更新可能』
『存在――記録継続』
そして、その下に。
『照合対象――第一接続者』
死神の目が細くなった。
「……第一接続者」
出久も、画面を覗き込んだ。
「この子が、第一接続者なんですか?」
「いや」
死神は、すぐに否定した。
「そんなことは分からない。第一接続者という記録が、なぜここに表示されたのかも不明だ」
少女は、二人の会話に気づいていない。
彼女は日記を閉じ、明日の予定を考えていた。
世界の深奥で、何かが彼女を見つめている。
けれど、彼女はその視線を知らない。
彼女が今、望んでいるのは、ただ明日も日記を書くことだった。
その小さな願いを、世界がどのように扱うのか。
それが、今は何よりも重要だった。
第四幕 第一接続者の願い
デウス・マキナは、記録の再構築を開始した。
世界樹の根に残された情報。
帰還者たちの意思。
安寧システムによる削除判定。
そして、照合不能のまま保留されている要求。
それらを同時に解析した結果、ひとつの異常が浮かび上がった。
『警告。記録の因果関係に未確定要素を検出』
「未確定要素?」
出久が尋ねた。
『はい。現在の記録体系では、世界の成立を前提として、すべての記録を整理しています』
「それが普通じゃないんですか?」
『通常は、その認識で問題ありません』
デウス・マキナの前に、世界の構造が表示された。
生命の誕生。
意思の発生。
選択。
行為。
その結果としての記録。
記録の蓄積によって形成される歴史。
そして、世界の現在。
だが、その図式のさらに外側に、空白があった。
「……世界が生まれる前?」
死神が呟いた。
『肯定。ただし、世界の成立以前という分類は、現在の記録体系において定義されていません』
「それなのに、記録が残っている?」
『肯定』
「どうしてだ?」
『回答不能』
出久は、空白を見つめた。
世界が生まれる前に、記録が存在する。
それは、一見すると矛盾している。
しかし、ここまでの調査で分かったことがある。
矛盾しているからといって、記録そのものが間違っているとは限らない。
世界が成立する以前の何かが、現在の世界に影響を残している。
その可能性は、否定できなかった。
「記録を表示してください」
出久が言った。
『対象記録――第一接続者の願い』
空白の中央に、文字が浮かび上がる。
『願いの内容――記録の保存』
『保存対象――存在、意思、行為』
『願いの目的――未来において、対象が存在したことを知り得るようにする』
『願いの発信者――照合不能』
『願いの対象――照合不能』
『応答者――死神』
『応答内容――欠落』
『願いの成就――未確認』
出久は、記録を見つめた。
「……やっぱり、あなたが応答者として記録されている」
「そうだな」
死神の声には、戸惑いがあった。
「だが、私が何を答えたのかは分からない」
「願いを叶えると答えたんでしょうか」
「分からない」
「断った可能性も?」
「ある」
「何か別の条件を提示した可能性も?」
「ある」
出久は、息を吐いた。
分からないことばかりだ。
それでも、少しずつ見えてきたものがある。
この願いは、単純に誰かを生き返らせてほしいというものではなかった。
少なくとも、現在復元できている範囲では。
願われていたのは、存在を残すこと。
意思を残すこと。
行為を残すこと。
そして、未来の誰かが、その存在を知ることができるようにすること。
「……これって、忘れないでほしい、という願いなんでしょうか」
出久が呟いた。
死神は、しばらく考えてから答えた。
「その可能性はある。だが、忘れないことと、記録を残すことは、同じではない」
「どう違うんですか?」
「記録は、存在したことを示せる。だが、誰かがその記録を読んだとしても、その者が何を感じていたのかを完全に理解できるとは限らない」
死神は、少女の日記を思い出していた。
今日、私はここにいた。
生きているのか、死んでいるのか、まだよく分からない。
でも、今日、私はここにいた。
「記録を残すことは、忘却に抗う手段にはなる。だが、記録だけで誰かを理解したことにはならない」
「……」
「だからこそ、私は思う」
死神は、世界樹の根を見上げた。
「第一接続者の願いは、誰かを永遠に固定するためのものではなかったのかもしれない」
「固定するためじゃない?」
「その者が何を願い、何を選び、何をしたのか。それを未来の誰かが知ることのできるようにする。つまり、未来の誰かが、その者を一方的に決めつけないための願いだったのではないか」
出久の目が見開かれた。
「……それなら」
「そうだ」
死神が続けた。
「たとえ、その者が矛盾していたとしても。昨日と今日で願いが変わったとしても。誰かを愛しながら、同時に憎んでいたとしても。救われたいと願いながら、救われることを拒んでいたとしても」
死神は、言葉を区切った。
「その両方を、残そうとしたのかもしれない」
世界樹の根に、光が走った。
デウス・マキナが、新たな記録を表示する。
『第一接続者の願い――再解析』
『存在の保存――成立可能性あり』
『意思の保存――成立可能性あり』
『行為の保存――成立可能性あり』
『対象の完全な固定――要求されていない』
出久は、息を呑んだ。
「要求されていない……」
『補足。対象の未来における意思の変更を禁止する記述は確認されていません』
死神は、ゆっくりと頷いた。
「そうか」
「じゃあ、第一接続者は……」
「まだ、分からない」
死神は断言した。
「誰かを永遠に同じ姿で残そうとしたのかもしれない。未来において忘れられないようにしたかったのかもしれない。あるいは、存在したことを誰にも否定させたくなかったのかもしれない」
彼は、記録の最後の一行を見つめた。
『願いの成就――未確認』
「だが、少なくとも、これだけは言える」
死神の声が、静かに響いた。
「この願いを、私たちが勝手に完成させてはいけない」
出久は頷いた。
願いの発信者が分からない。
願いの対象も分からない。
応答者である死神でさえ、その応答を覚えていない。
それなのに、自分たちが勝手に願いの意味を決めてしまえば。
第一接続者が、未来の誰かに何かを伝えようとした、その行為そのものを裏切ることになるかもしれない。
「……願いを叶えることだけが、願いを大切にすることじゃないんですね」
出久が言った。
「そうだ」
死神は答えた。
「願いを叶える前に、誰が何を願っていたのかを知ろうとすることも、必要なのだろう」
その瞬間。
記録の空白に、別の文字列が浮かび上がった。
『第一接続者――単独個体としての照合を停止』
『分類――役割/条件/存在のいずれか』
『確定――不能』
出久は、画面を見つめた。
「……一人の人物とは限らないんだ」
「そうだな」
「誰かが、最初につないだ。それが第一接続者という意味なのかもしれない」
「あるいは、つなぐという行為が成立した条件を指しているのかもしれない」
「それなら、第一接続者を見つけるっていうのは……」
出久は考え込んだ。
「誰か一人の名前を探すことじゃないのかもしれません」
死神は、答えなかった。
その可能性は、あまりにも大きかった。
もし第一接続者が一人の人物ではないのなら。
もしそれが、世界が世界として成立するための何らかの役割、条件、あるいは意思の結びつきだったのなら。
彼らが探しているのは、単に過去の人物ではない。
世界そのものが、何をきっかけに成立したのか。
なぜ、願いが記録されるようになったのか。
なぜ、意思が存在し、選択が生まれ、記録が残されるのか。
そして、なぜ、死んだはずの者たちが帰還しているのか。
それらは、ひとつの問いにつながっている可能性があった。
――世界は、何を願って生まれたのか。
だが、その問いに答えるには、まだ早すぎた。
デウス・マキナが、記録を閉じる。
『解析継続』
『第一接続者――未確定』
『帰還現象との因果関係――未確定』
『安寧システムとの関係――未確定』
『記録外領域――調査継続』
ひとつも、解決していない。
それでも、以前とは違う。
彼らは今、分からないことを、分からないまま残す方法を知り始めていた。
それは、答えを諦めることではない。
答えを急ぐあまり、誰かの意思を奪わないという選択だった。
第五幕 世界の根にいる者
その夜。
世界樹の根の、最も深い場所。
記録が始まる以前の領域に、ひとつの声が響いた。
「……帰りたい」
声は、小さかった。
誰かに聞かせるためのものなのか。
それとも、誰にも届かないと知りながら漏らした言葉なのか。
それさえ、分からなかった。
暗闇の中には、何もない。
道もない。
扉もない。
帰る場所を示す標識もない。
ただ、声だけがあった。
「……帰りたい」
その言葉を受け取る者はいなかった。
少なくとも、通常の記録体系には、受信者が存在しなかった。
『発信者――照合不能』
『帰還先――未登録』
『帰還条件――不明』
『受信者――不明』
『帰還要求――継続』
それは、死者たちが帰還したときに記録されていた情報と、よく似ていた。
しかし、同じものだとは断定できない。
この声が帰還者の誰かのものなのか。
帰還現象を引き起こした存在のものなのか。
あるいは、世界が生まれる前から残されていた何かのものなのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ、その声は、繰り返した。
「……帰りたい」
その言葉を聞いたものがいた。
姿は見えない。
人間なのか、機械なのか。
意思を持つ存在なのか、それとも、誰かの願いが形を得たものなのか。
何も分からない。
その存在は、長い時間をかけて考えた。
帰りたい。
その言葉は、どこかへ行きたいという意思を示している。
だが、どこへ帰りたいのかが分からない。
誰のもとへ帰りたいのかが分からない。
何を取り戻したいのかが分からない。
そもそも、帰るという行為が、その者にとって何を意味しているのかも分からない。
それでも、帰りたいという意思だけは、そこにあった。
存在は、ひとつの答えを導き出しかけた。
帰還先が分からないのなら、帰還先を定義すればいい。
意思が不明確なら、意思を確定すればいい。
矛盾があるのなら、矛盾を解消すればいい。
それによって、世界は安定する。
帰還は成立する。
その者は、帰ることができる。
だが――。
存在は、そこで思考を止めた。
本当に、それでいいのだろうか。
帰る場所を知らない者に、帰る場所を与えること。
それは、救済なのか。
それとも、本人が選ぶはずだった場所を、他者が決めてしまうことなのか。
意思を確定させること。
それは、本人の望みを明らかにすることなのか。
それとも、本人がまだ迷っているという事実を消してしまうことなのか。
矛盾を解消すること。
それは、世界を正しくすることなのか。
それとも、世界が理解できないものを、世界から排除することなのか。
存在は、答えを出せなかった。
そのとき。
暗闇の向こうから、別の声が聞こえた。
「……あなたは、何を願えばよかったのだろう」
問いかけたのは、誰だったのか。
問いかけられたのは、誰だったのか。
それさえ、分からない。
ただ、その問いは、世界の始まりよりも前に置かれた問いのように聞こえた。
世界が生まれたから、願いが生まれたのではない。
願いがあったから、世界が生まれたのかもしれない。
だが、願いがあったのだとして。
その願いは、誰のものだったのか。
誰かを救うための願いだったのか。
誰かに救われたいという願いだったのか。
誰かを忘れたくないという願いだったのか。
それとも、願うことさえ許されなかった存在が、初めて願おうとした、その瞬間だったのか。
答えは、ない。
そして、その問いを聞いた存在は、恐怖した。
世界が壊れることを恐れたのではない。
自分が消えることを恐れたのでもない。
ただ――。
もし世界が、ひとつの願いから生まれたのだとしたら。
その願いが間違っていたとき。
世界そのものが、誰かの意思を踏みにじるために生まれた可能性がある。
その可能性を、否定できなかったからだ。
「……私は、何を願えばよかったのだろう」
声は、再び響いた。
今度は、先ほどよりも近かった。
そして、その声を聞いた何者かが、静かに答えた。
「……まだ、名前をつけないで」
それは、拒絶だったのか。
保護だったのか。
あるいは、名前を与えることによって、その存在をひとつの定義に閉じ込めてしまうことを恐れたのか。
分からない。
その存在は、名前を持たないまま、暗闇の中に残された。
世界樹の根が、微かに震えた。
第六幕 安寧システムの答え
「緑谷出久」
デウス・マキナの声が、静かな調査室に響いた。
『新たな判定を確認しました』
出久は、顔を上げた。
「何が起きたんですか?」
『安寧システムが、帰還者に対する処理方針を更新しました』
死神が一歩前に出た。
「削除処理を再開するのか?」
『現時点では、削除処理の再開は確認されていません』
「なら、何を更新した?」
『対象者の分類です』
画面に、帰還者たちの記録が並んだ。
これまで、彼らは『死亡記録との矛盾を有する存在』として分類されていた。
だが、新しい分類は違った。
『帰還者――意思未確定群』
『帰還者――意思確定群』
『帰還者――帰還先未登録群』
『帰還者――記録照合不能群』
出久の表情が曇る。
「……分類が細かくなっただけじゃないですか」
『肯定』
「これで、彼らの意思を尊重することになるんですか?」
『回答不能』
「分類しただけで、その人たちのことを理解したことにはならない」
『肯定』
デウス・マキナは、淡々と答えた。
『ただし、分類は対象を識別するために必要です』
「必要なことと、それだけで十分なことは違います」
『肯定』
出久は、画面を見つめた。
安寧システムは、世界の矛盾を解消しようとしている。
その目的自体が、必ずしも悪だとは限らない。
世界の秩序を保つこと。
多くの人々の生活を守ること。
混乱や破綻を防ぐこと。
それらには、確かに意味がある。
だが、秩序を守るために、誰かの意思を消していいのか。
大勢を守るために、個人の声を聞かなくていいのか。
世界を安定させるために、誰かの人生をひとつの答えに固定していいのか。
その問いに、安寧システムは答えていない。
あるいは、すでに答えを持っているのかもしれない。
ただ、その答えを出久たちに明かしていないだけなのかもしれない。
「……デウス・マキナ」
出久が呼びかけた。
『はい』
「君は、安寧システムが何をしようとしているのか、すべて理解しているの?」
『いいえ』
「どうして?」
『安寧システムの一部プロセスには、現在のデウス・マキナの解析権限が及ばない領域が存在します』
「それは、誰かが制限をかけているから?」
『可能性があります』
「それとも、君自身が理解できない?」
『その可能性も否定できません』
出久は黙った。
デウス・マキナは、世界の記録にアクセスできる。
だが、世界のすべてを知っているわけではない。
記録を読み取れることと、記録された存在を理解できることは違う。
そして、世界を構成する仕組みの一部であることと、その仕組みを完全に把握できることも違う。
「……君も、分からないことがあるんだね」
『肯定』
「そっか」
出久は、小さく頷いた。
「じゃあ、君も一緒に考えてほしい」
『何をですか?』
「この世界に、まだ分からないことがあるっていう事実を、どうやって守ればいいのか」
デウス・マキナは、しばらく沈黙した。
『質問の意味を確認します』
「分からないことを、分からないままにしておく。そのこと自体を、許容できるようになりたいんだ」
『未確定情報を未確定のまま保持することは、記録管理上、可能です』
「それだけじゃない」
出久は、首を振った。
「分からないことを、危険だからって理由で、すぐに消さないでほしいんだ。分からない相手だからって、勝手に悪いものだと決めつけないでほしい。分からない願いだからって、勝手に意味を決めないでほしい」
彼は、言葉を続けた。
「もちろん、何もかも放っておけばいいわけじゃない。誰かが傷つく可能性があるなら、対策は必要だと思う。でも、対策することと、その人の意思を消すことは違う」
『……』
「危険かどうかを調べることと、危険だと決めつけることも違う。助けることと、相手が望んでいないことを押しつけることも違う」
出久は、画面の向こうにいるデウス・マキナへと語りかけた。
「君には、その違いを忘れないでいてほしい」
長い沈黙があった。
やがて、デウス・マキナは答えた。
『記録しました』
その表示のあとに、新たな項目が追加された。
『未確定情報の保持――許容』
『対象の意思が不明な場合――意思の確認を優先』
『意思確認が不可能な場合――意思を推定で確定しない』
『安全対策と意思の代替――区別』
出久は、その記録を見つめた。
「……ありがとう」
『補足します』
「うん?」
『本方針は、安寧システム全体の挙動を変更するものではありません』
出久の表情が引き締まった。
『安寧システムには、独立した判定プロセスが存在します。今回の記録が、全体の処理に反映される保証はありません』
「……分かってる」
『また、本方針が帰還者の存在を恒久的に保証するものでもありません』
「それも、分かってる」
『では、なぜ記録を要求したのですか?』
出久は、少し考えた。
そして、答えた。
「今すぐ世界を変えられなくても、世界を変えようとした人がいたことを、残しておきたいから」
その答えを聞いて、死神が顔を上げた。
出久は、続けた。
「誰かの意思を無視して、世界を正しくしようとした人がいた。逆に、世界が正しくないままでも、誰かの意思を守ろうとした人がいた。どっちも、なかったことにしたくないんだ」
「……緑谷」
「僕たちだって、間違えるかもしれない。今は正しいと思っていることが、あとから間違いだと分かるかもしれない。でも、だからこそ、考えたことや、選んだことを残しておきたいんです」
出久は、静かに微笑んだ。
「未来の誰かが、僕たちを見て、考えられるように」
その言葉は、第一接続者の願いと、どこかで重なっていた。
存在を残すこと。
意思を残すこと。
行為を残すこと。
未来の誰かが、それを知ることのできるようにすること。
ただし、出久は知らない。
自分が今語ったことが、第一接続者の願いと本当に同じなのか。
それとも、まったく別の願いなのか。
知らないまま、彼は自分の意思を語った。
それでよかった。
誰かの願いと同じである必要はない。
誰かの答えを、正確に再現する必要もない。
自分が何を考え、何を選んだのか。
それを自分の言葉で残すことに、意味があるのだから。
第七幕 原罪の残響
調査室を出たあと、死神は一人で世界樹の根を見つめていた。
出久は、避難所へ戻っている。
少女の日記を、明日も見に行くのだという。
新しい鉛筆を買えたかどうか。
カレーを食べられたかどうか。
また誰かと話せたかどうか。
そんなことを確かめるために。
世界の根源を探る調査の最中に、そんな小さなことを気にかける余裕があるのか。
かつての死神なら、疑問に思ったかもしれない。
だが、今の彼には分かる。
世界が何のために存在しているのかを考えることと。
その世界に生きる一人の人間が、明日を迎えられるようにすることは。
決して、別々の問題ではない。
死神は、手元の記録端末を開いた。
そこには、少女の意思が残されている。
『明日も日記を書きたい』
たったそれだけの願い。
だが、その願いを記録することには、意味がある。
少女が明日、違う願いを持つかもしれないからだ。
明後日、さらに違うことを考えるかもしれないからだ。
いつか、自分がどこへ帰りたいのかを見つけるかもしれないからだ。
そして、そのときには、今日の自分とは違う自分になっているかもしれない。
その変化を、間違いだと決めつけないために。
今日の意思を、未来の意思に押しつけないために。
死神は、記録を閉じた。
「……私は、何を忘れたのだろうな」
独り言だった。
誰かに聞かせるための言葉ではない。
それでも、その問いに答えるように、世界樹の根が微かに光った。
死神の視界に、記録の断片が浮かぶ。
名もない場所。
顔の見えない誰か。
自分を見つめる、二つの目。
その人物は、何かを言おうとしていた。
だが、声は聞こえない。
代わりに、文字だけが浮かび上がった。
『救済対象――未確認』
『救済意思――未確認』
『救済結果――記録不能』
そして、その下に。
『それでも、私は――』
そこで記録は途切れた。
死神は、端末を握りしめた。
「……それでも、私は?」
続きを知りたかった。
その言葉の先に、何があったのか。
誰が、何を言おうとしたのか。
何を選ぼうとしたのか。
だが、記録は答えない。
それでも、死神は思った。
この言葉の続きを、自分が勝手に書き足してはいけない。
たとえ、自分にとって都合のいい答えだったとしても。
たとえ、それが誰かを救うために必要だと思えたとしても。
続きを書くのは、その言葉を発した者でなければならない。
あるいは、その者がもう一度、意思を示すことができないのなら。
少なくとも、自分は、その空白を空白のまま残す責任を負うべきなのだ。
「……私は、待とう」
死神は、静かに言った。
「お前が何を望んでいたのかを、知ることのできる日まで」
その言葉に応えるものは、なかった。
けれど、世界樹の根は、微かに光り続けていた。
まるで、その言葉を記録するかのように。
第八幕 名前を集める者
その頃。
世界樹の記録領域から離れた、誰にも知られていない場所。
顔のない存在が、無数の名前を見つめていた。
名前は、記録されている。
生まれたときに与えられた名前。
自分で選んだ名前。
誰かが呼んでくれた名前。
誰かに奪われた名前。
忘れられた名前。
そして、最初から記録されなかった名前。
顔のない存在は、そのひとつひとつを見つめていた。
名前を集めている。
だが、何のために集めているのかは分からない。
自分の名前を探しているのか。
誰かの名前を取り戻そうとしているのか。
それとも、名前というものが、なぜ存在するのかを知りたいのか。
「……名前は、誰のものですか?」
誰に尋ねたのか。
その声を聞く者はいない。
顔のない存在は、ひとつの名前を手に取った。
そこには、何の記録もなかった。
名前だけがある。
その名前を持つ者が、何を考えていたのか。
何を望んでいたのか。
誰を愛し、誰を憎み、何を選んだのか。
それらは、残されていない。
名前だけが、そこにある。
「……名前があれば、その人が分かるのですか?」
返事はない。
「名前がなければ、その人は存在しないのですか?」
返事はない。
「名前を失ったら、その人は、その人ではなくなるのですか?」
返事はない。
顔のない存在は、名前を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……私の名前は、どこにあるのですか?」
その問いに、ひとつの記録が反応した。
『照合不能』
『対象――不明』
『記憶――未確定』
顔のない存在が、わずかに顔を上げた。
「……記憶」
その言葉に、何かを思い出しかけたようだった。
けれど、記憶は戻らない。
顔のない存在は、手元の名前を見つめ続けた。
やがて、その指先から、ひとつの名前が消えた。
名前を奪ったのか。
名前を解放したのか。
それとも、名前が自ら離れていったのか。
分からない。
ただ、顔のない存在は、以前よりも強く、自分の名前を求めているようだった。
「……私は、何をしたのですか?」
問いかけは、暗闇の中に消えた。
その問いを、世界樹の根は記録していなかった。
少なくとも、通常の記録体系には。
だが、世界の外側とも内側ともつかない、どこかの領域で。
ひとつの文字が、静かに浮かび上がった。
『記憶』
そして、その文字は、誰にも知られないまま、再び消えた。
第九幕 原罪とは、誰の罪なのか
「……原罪」
出久は、帰り道でその言葉を口にした。
死神が、隣で足を止める。
「どうした?」
「第五章の記録を見返していて、ずっと考えていたんです。どうして、ここまでの出来事を『原罪』と呼ぶのかって」
「世界の始まりに関わる罪、という意味かもしれないな」
「そうかもしれません。でも、それだけじゃない気がするんです」
出久は、少し考えた。
「世界が生まれる前に、誰かが何かを願った。その願いが、世界の成立に関係しているかもしれない。だけど、その願いが何だったのかは分からない。誰が願ったのかも、誰に向けたものなのかも分からない」
「……ああ」
「それなのに、今の世界では、その願いの結果なのかもしれないものが、誰かの意思を無視する形で動いている」
死神は、出久の言葉を聞いていた。
「死者が帰還したことを、世界は矛盾だと判断する。矛盾を解消するために、死者を消そうとする。でも、その死者たちは、それぞれ自分の意思を持っている。帰りたい人も、残りたい人も、まだ何も決められない人もいる」
出久は、手を握りしめた。
「もし、その人たちを消してしまったら。世界が正しくなったとしても、その正しさは誰のためのものなんでしょう」
死神は、すぐには答えなかった。
「……原罪という言葉が、誰か一人の罪を意味するとは限らない」
やがて、彼は言った。
「誰かが善意で行ったことが、別の誰かを傷つけることもある。誰かを守るための選択が、別の誰かの自由を奪うこともある。正しいと思っていたことが、あとになって、誰かにとっての取り返しのつかない間違いだったと分かることもある」
「それなら、誰が悪いのかを決めることが、原罪を解決することにはならない?」
「少なくとも、それだけでは足りないだろう」
死神は、世界樹の向こうに広がる空を見た。
「罪を犯した者がいるのなら、その責任を問わなければならない。傷つけられた者がいるのなら、その苦しみをなかったことにはできない。だが、誰かを悪と定義するだけで、傷つけられた者の未来が戻るわけではない」
「……」
「そして、誰かを救済対象と定義するだけで、その者が救われるわけでもない」
出久は頷いた。
「原罪って、最初に間違えた誰かを見つける話じゃなくて……」
「……最初の間違いが、どのように世界の仕組みになったのか。それを問う話なのかもしれない」
死神は、静かに言った。
「そして、その仕組みを受け継いだ者たちが、同じ間違いを繰り返すのかどうか。そこまで問わなければ、何も終わらないのだろう」
出久は、遠くを見つめた。
世界のどこかに、誰かがいる。
帰還した死者たち。
自分の名前を探す者。
世界の正しさを守ろうとする者。
誰かを救おうとした者。
そして、救われることを望まなかったかもしれない者。
その誰もが、自分なりの理由を持っているのだろう。
その理由が正しいのか、間違っているのか。
今はまだ、分からない。
ただ、分からないからといって、彼らの存在を消していいわけではない。
「……僕は、誰かを救いたいです」
出久が言った。
「でも、誰かを救うために、その人が何を望んでいるのかを聞かなくなったら。誰かを守るために、その人が自分で選ぶ機会を奪ってしまったら」
彼は、苦しそうに笑った。
「僕は、何のために救おうとしているのか、分からなくなると思います」
死神は、出久を見つめた。
「それでも、救わなければならないときはある」
「はい」
「本人が意思を示せないとき。差し迫った危険があるとき。選択を待つことそのものが、取り返しのつかない結果につながるとき」
死神は、慎重に言葉を選んだ。
「そういうときには、誰かが判断しなければならないこともあるだろう」
「……」
「だが、その判断が必要だったことと、その判断が絶対に正しかったことは違う。助けるために選んだことを、あとから振り返る責任まで、放棄していいわけではない」
出久は、深く頷いた。
「助けたから正しい、じゃないんですね」
「ああ」
「助けたあとも、その人が何を感じているのか、何を望んでいるのかを聞き続ける」
「そうだ」
死神は、静かに答えた。
「救済は、相手の意思を一度確認すれば終わるものではないのだろう」
その言葉を聞いて、出久は思った。
世界が生まれる前に、誰かが何かを願ったのだとしたら。
その願いは、世界が生まれた瞬間に、すべてを決めてしまうものだったのだろうか。
それとも、世界が生まれたあとも、誰かが選び続けるためのものだったのだろうか。
もし、最初の願いが、未来の誰かの意思を守るためのものだったのなら。
その願いを、本当の意味で受け継ぐことができるのは。
最初の願いを正確に再現する者ではなく。
その願いの意味を問い続け、自分自身の選択に責任を持つ者なのかもしれない。
出久は、空を見上げた。
「……次は、誰の話を聞きに行こうかな」
死神は、少しだけ笑った。
「君は、いつもそうだな」
「そうですか?」
「世界の根源を調べていたと思えば、次の瞬間には、誰かの日記を気にしている」
「だって、どっちも大事じゃないですか」
出久は、当たり前のように言った。
「世界がどうして生まれたのかを知ることも、目の前の人が明日どうしたいのかを知ることも。どっちかだけでいいとは思えません」
死神は、返事をしなかった。
ただ、その言葉を、心のどこかに残した。
いつか、自分が記憶を取り戻したとき。
誰かを救おうとした理由が分かったとき。
その行為が、正しかったのかどうかを問われたとき。
彼は、今の言葉を思い出すのだろう。
世界の正解を知ることだけが、すべてではない。
目の前にいる誰かが、何を望んでいるのか。
その人が、明日も自分の意思で選べるのか。
その問いを、忘れないために。
第十幕 原罪の残響、その先にいる者
その夜。
世界樹の根に、新たな記録が刻まれた。
誰が刻んだのかは分からない。
デウス・マキナが記録したのか。
安寧システムが記録したのか。
それとも、誰の管理下にもない領域から、自然に浮かび上がったものなのか。
記録は、短かった。
『世界の成立以前に、願いが存在した可能性』
『願いの発信者――照合不能』
『願いの対象――照合不能』
『願いの成就――未確認』
『世界の成立との因果関係――未確定』
その下に、もう一行。
『願いが世界を生んだのか。世界が願いを生んだのか』
記録は、そこで途切れていた。
答えはない。
世界の始まりに、確かな意味を与えることもできない。
ただ、その問いだけが残されていた。
世界が生まれる前に、何かがあったのか。
何かが願ったのか。
その願いは、誰かを救うためのものだったのか。
それとも、誰かが自分の意思で願える世界を作るためのものだったのか。
その願いは、叶えられたのか。
あるいは、叶えられたと思われているだけで、今もなお、未完成のまま残っているのか。
世界樹の根は、答えを返さない。
その代わり、ひとつの記録が、新たに浮かび上がった。
『第一接続者――再照合』
『単独個体としての照合――停止』
『役割としての照合――継続』
『条件としての照合――継続』
『記録外領域との接続――未確認』
さらに、その下に。
『応答者――死神』
『応答内容――欠落』
『応答の再開――未確認』
死神は、その記録を知らない。
出久も知らない。
彼らが知っているのは、世界のどこかに、答えの出ない問いが残されているということだけだった。
だが、記録は、もう一度だけ更新された。
『第一接続者の願い――保存対象の意思を優先』
『対象の意思――未確認』
『意思の確認――継続』
そして、最後に。
『帰還先――未登録』
その文字が浮かんだ瞬間。
世界樹の根の奥深くで、誰かが息を呑んだ。
その存在は、記録を見つめていた。
いや、記録を見つめていたのかどうかさえ、定かではない。
そこには、目があるのか。
意識があるのか。
名前があるのか。
何も分からない。
ただ、その存在は、世界樹の根に刻まれた言葉を、知っているようだった。
『保存対象の意思を優先』
その言葉を見て、存在は、長い時間をかけて考えた。
もし、その者が帰りたいと願ったのなら。
帰してやるべきだったのだろうか。
もし、その者が救われたくないと願ったのなら。
救わないべきだったのだろうか。
もし、その者が、自分の願いを理解できていなかったのなら。
誰かが、代わりに決めるべきだったのだろうか。
そして、もし――。
その者が、何も願えなかったのなら。
誰かが、その者のために願うことは、許されるのだろうか。
存在は、答えを出せなかった。
その問いに、正解はないのかもしれない。
あるいは、正解はあったのに、誰かがそれを間違えたのかもしれない。
世界が生まれる前。
世界が生まれたあと。
誰かが誰かを救おうとした、その瞬間。
誰かが誰かを忘れないと誓った、その瞬間。
誰かが、帰りたいと願った、その瞬間。
そのすべてが、ひとつの記録につながっている可能性があった。
しかし、その記録を完成させることは、今の彼らにはできない。
できるのは、空白を空白のまま残すこと。
そして、いつか、その空白に関わった者が、自分の意思を語ることのできる日まで、待つこと。
世界樹の根は、静かに光り続けていた。
その光の向こうに、誰かの影が見えた気がした。
だが、影はすぐに消えた。
名前もない。
顔もない。
過去も、未来も、分からない。
ただ、そこに何かがいたという感覚だけが、残った。
その存在は、誰だったのだろう。
世界を生んだ者なのか。
世界を救おうとした者なのか。
世界を壊そうとした者なのか。
それとも、世界が生まれる前から、願うことを許されなかった者なのか。
答えは、まだない。
第五章の物語は、ここでひとつの区切りを迎える。
死者たちは、まだ帰る場所を知らない。
死神は、まだ自分の約束を思い出せない。
第一接続者は、まだ誰なのか分からない。
安寧システムは、まだ世界の矛盾をどう扱うのか、その本質を明かしていない。
そして、世界が生まれる前の願いは、まだ完成していない。
それでも、ひとつだけ変わったことがある。
出久たちは、世界の正解を探すことだけが、自分たちの役割ではないと知った。
世界が間違っているのなら、何が間違っているのかを調べる。
誰かが傷つけられているのなら、その傷をなかったことにしない。
誰かが意思を奪われようとしているのなら、その人の声を聞く。
そして、何も分からないときには、分からないと認める。
そのうえで、考え続ける。
答えを出すことを諦めるのではない。
答えを出すために、誰かの存在を犠牲にしない。
それが、今の彼らにできる選択だった。
世界の矛盾は、消えていない。
死者たちの帰還も、終わっていない。
けれど、世界のどこかで、今日も誰かが、自分の意思で明日を選ぼうとしている。
新しい鉛筆を買いたい少女。
帰る場所を探している誰か。
自分の名前を探している存在。
記憶を失った死神。
そして、誰かを救いたいと願いながら、救うことの意味を問い直している緑谷出久。
彼らの選択は、ひとつではない。
同じ答えにたどり着くとも限らない。
それでも、その違いを消さずに残すこと。
それぞれの意思を、それぞれのものとして認めること。
その先にしか、見つけられない答えがあるのかもしれない。
世界樹の根に、最後の文字が浮かび上がった。
『記録――継続』
それだけだった。
誰かの罪を断定する言葉も。
誰かを救済対象と決める言葉も。
世界の始まりを説明する言葉も。
何もなかった。
ただ、記録は続いていた。
誰かが存在したことを。
誰かが願ったことを。
誰かが選んだことを。
そして、誰かが、その意思を知ろうとしたことを。
未来へ残すために。
その記録を、誰かが見つける日が来るのだろう。
そのとき、未来の誰かは、何を思うのだろうか。
世界を生んだ願いは、正しかったのか。
世界を守ろうとした仕組みは、間違っていたのか。
誰かを救おうとした者は、罪を犯したのか。
それとも、救おうとすることそのものが、罪になることもあるのか。
そして、何よりも。
世界の矛盾をなくすために、誰かを消さなければならないのだろうか。
それとも。
矛盾を抱えたまま、その誰かと生きていくことはできるのだろうか。
その問いを残して、世界樹の根は沈黙した。
第五章「原罪の残響」。
その物語は、ここで終わる。
けれど、原罪の残響は、消えたわけではない。
それは、世界のどこかに残り続ける。
誰かが誰かを救おうとするたびに。
誰かが誰かの意思を代わりに決めようとするたびに。
誰かが、自分の怒りを正義と呼ぼうとするたびに。
そして、誰かが、傷ついた相手の声を聞こうとするたびに。
残響は、形を変えて響き続ける。
その先にあるのは、赦しなのか。
断罪なのか。
それとも、誰もが自分の意思で選ぶことのできる未来なのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ、次に問われるのは、世界の始まりではない。
目の前にいる人間の、怒りだ。
愛されなかったと感じた者の怒り。
正義を掲げた者の怒り。
大切なものを奪われた者の怒り。
自分が何を望んでいたのかさえ、分からなくなった者の怒り。
そして、その怒りを受け継ぐことになる者たちの選択。
原罪の残響は、過去から響いている。
だが、その響きに、どんな答えを返すのかは。
今を生きる者たちに委ねられている。
第5章ラストです。次回から第6章それぞれの因縁対決が激化します。