僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第六章「憤怒の継承」 第一話「炎は、まだ消えていない」

第一幕 帰還は、和解ではない

轟家の玄関に、誰も立っていなかった。

 

正確には、立つことができなかった。

 

玄関の扉は開いている。

 

廊下には灯りがついている。

 

居間には、温め直した食事が並べられていた。湯気はもう薄くなり、味噌汁の表面には、冷め始めた膜が張っている。

 

誰かが用意したのだろう。

 

誰かが、帰ってくる人間のために。

 

けれど、その誰かは、最後まで食卓に座ることができなかった。

 

轟冷は、居間の入口に立っていた。

 

轟冬美は、テーブルの端に手を置いている。

 

轟夏雄は、窓際で腕を組んでいた。

 

そして、轟焦凍は、玄関から少し離れた場所に立っていた。

 

四人とも、同じ方向を見ている。

 

開かれた玄関。

 

その先に立つ男を。

 

轟燈矢。

 

かつて、家族の中から失われた長男。

 

死んだと信じられ、失われた時間の中に置き去りにされた少年。

 

そして、家族の誰もが、帰ってきてほしいと願いながら、帰ってきたあとに何が起こるのかを想像しきれなかった男。

 

彼は、玄関の敷居をまたがなかった。

 

「……何だよ」

 

燈矢が言った。

 

「葬式みてえな顔して」

 

誰も笑わなかった。

 

燈矢は、口の端を歪めた。

 

「おいおい。せっかく帰ってきたんだぜ? もっと喜べよ。泣いて抱きつくとかさ。『おかえり、燈矢』って。そういうの、あるだろ」

 

冬美の唇が震えた。

 

「……燈矢兄」

 

その呼び方に、燈矢の目がわずかに動いた。

 

冬美は一歩進もうとした。

 

しかし、足が止まる。

 

抱きしめたい。

 

本当に、抱きしめたい。

 

何度も想像した。

 

もし兄が帰ってきたら。

 

もし、もう一度会えるのなら。

 

今度こそ、家族全員で食卓を囲めるのなら。

 

そう願ったことが、何度もあった。

 

けれど、目の前にいる燈矢は、冬美が思い出の中に残していた兄と同じではなかった。

 

同じ声。

 

同じ目。

 

同じ、笑うときの口元。

 

それなのに、そのすべてに、知らない年月が刻まれている。

 

冬美は、涙をこらえながら言った。

 

「……おかえり」

 

燈矢は、黙った。

 

その言葉を待っていたのかもしれない。

 

ずっと、待っていたのかもしれない。

 

それなのに、実際に聞いた瞬間、何も返せなかった。

 

冬美は続けた。

 

「帰ってきてくれて、うれしい」

 

「……へえ」

 

「本当に、うれしいの」

 

「だったら、何でそんな顔してんだよ」

 

冬美は答えられなかった。

 

うれしい。

 

それは嘘ではない。

 

けれど、うれしいだけではない。

 

兄が帰ってきたことがうれしい。

 

兄が、もういないのだと思い続けなくてよくなったことがうれしい。

 

兄と話せるかもしれないことがうれしい。

 

でも、兄が何をしてきたのかを知っている。

 

兄が、誰かを傷つけたことも。

 

兄が、自分自身を傷つけ続けてきたことも。

 

その事実は、帰還によって消えてはいない。

 

冬美は、泣きながら言った。

 

「……ごめんね」

 

燈矢の顔から、表情が消えた。

 

「何が?」

 

「私……」

 

冬美は、言葉を探した。

 

「私、あなたがいなくなったあと、ずっと、どうすればよかったのか分からなかった」

 

「……」

 

「もっと話を聞けばよかったのかな。もっと早く気づけばよかったのかな。お父さんに、何か言えたんじゃないかって。お母さんを、もっと助けられたんじゃないかって」

 

「やめろよ」

 

「燈矢兄……」

 

「やめろって言ってんだろ」

 

燈矢の声が、少しだけ低くなった。

 

「何だよ、それ。お前が謝ってどうすんだよ」

 

冬美は、息を呑んだ。

 

「……でも」

 

「お前が俺に何かしたのか?」

 

「……」

 

「俺をああしたのは、お前か?」

 

冬美は、首を横に振った。

 

「だったら、謝るなよ」

 

燈矢は笑った。

 

「俺のために、自分まで罪人になろうとすんな」

 

その言葉に、冬美は何も返せなかった。

 

燈矢は、視線をそらした。

 

「……気持ち悪いんだよ」

 

誰に向けた言葉なのか。

 

冬美にか。

 

自分にか。

 

それとも、ここにある家族というものすべてにか。

 

誰にも分からなかった。

 

夏雄が、窓際から動いた。

 

「……燈矢」

 

燈矢は、顔を上げた。

 

「何だよ、夏」

 

「お前が帰ってきたことは、うれしい」

 

「……」

 

「でも、俺は、お前がしたことを許していない」

 

冬美が振り返る。

 

冷が目を閉じた。

 

焦凍は、兄から目を離さなかった。

 

夏雄は、続けた。

 

「お前が苦しんでいたことは分かる。お父さんが何をしたのかも、家族がどうなっていたのかも、俺は知っている」

 

「だったら――」

 

「だからって、お前が誰かを傷つけたことまで、なかったことにはできない」

 

燈矢の笑みが消えた。

 

夏雄は、目をそらさなかった。

 

「お前が被害者だったことと、お前が誰かを傷つけたことは、両方とも本当だ」

 

沈黙。

 

夏雄の声が、少し震えた。

 

「俺は、お前に帰ってきてほしかった。ずっとそう思ってた。けど、帰ってきたら全部終わるなんて、思ってない」

 

燈矢は、しばらく夏雄を見つめていた。

 

やがて、乾いた笑い声を漏らす。

 

「……はっ」

 

その笑いには、喜びがなかった。

 

「いいねえ。正しいこと言うじゃねえか」

 

「……」

 

「俺が被害者で、加害者でもある。どっちも本当。だから、どっちも見ろって?」

 

燈矢は、自分の胸元を指さした。

 

「見てんのかよ。お前ら、本当に」

 

その問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 

燈矢は、家の中を見渡した。

 

温め直された食事。

 

片づけられた居間。

 

家族が暮らしてきた痕跡。

 

そして、自分が失った時間。

 

「……俺、ここに帰ってきたんだよな」

 

誰に聞かせるでもなく、燈矢は言った。

 

「帰ってきたはずなんだよな」

 

その声は、怒っているようにも、困っているようにも聞こえた。

 

「なのに、何でこんなに、知らねえ場所みてえなんだよ」

 

その瞬間、焦凍が一歩前に出た。

 

「兄さん」

 

燈矢が、焦凍を見る。

 

「……何だよ、傑作」

 

「俺は、兄さんに帰ってきてほしかった」

 

燈矢の表情が、わずかに変わった。

 

焦凍は、続けた。

 

「でも、兄さんが帰ってきたからって、俺たちが、前と同じ家族に戻れるわけじゃないと思う」

 

「……」

 

「俺は、兄さんを助けたい」

 

その言葉に、燈矢は笑おうとした。

 

けれど、笑えなかった。

 

焦凍は、目をそらさなかった。

 

「だけど、兄さんがしたことを許せるかどうかは、分からない」

 

燈矢の喉が、微かに動いた。

 

「……へえ」

 

「兄さんが苦しかったことを、なかったことにしたくない。兄さんが傷つけられたことも、忘れたくない」

 

焦凍は、言葉を区切った。

 

「でも、兄さんが傷つけた人たちのことも、なかったことにしたくない」

 

その言葉は、家族の中に落ちた。

 

誰も、否定しなかった。

 

焦凍は、最後に言った。

 

「だから、俺は……兄さんが何を望んでいたのか、ちゃんと聞きたい」

 

燈矢は、黙っていた。

 

その顔に浮かんでいたのは、怒りだった。

 

だが、その奥に。

 

ほんのわずかに。

 

何か別のものが揺れていた。

 

「……今さらかよ」

 

燈矢は、低く呟いた。

 

「今さら、そんなこと聞くのかよ」

 

焦凍は答えた。

 

「うん」

 

燈矢は、焦凍を見つめた。

 

「……遅えよ」

 

「うん」

 

「遅すぎんだろ」

 

「……うん」

 

燈矢の目が、わずかに細くなった。

 

「……クソが」

 

彼は、玄関の敷居をまたいだ。

 

ただし、誰にも抱きしめられなかった。

 

誰も、彼の肩に手を置かなかった。

 

誰も、帰還をもって過去が終わったとは言わなかった。

 

燈矢は、家の中に入った。

 

それだけだった。

 

けれど、それだけのことをするまでに、どれだけの時間が必要だったのか。

 

その場にいた誰もが、知っていた。

 

帰還は、和解ではない。

 

再会は、赦しではない。

 

そして、家族が再び同じ場所に立ったからといって、失われた時間が戻ってくるわけではない。

 

それでも。

 

彼らは、同じ家の中にいた。

 

第二幕 食卓の空席

「……冷めてるな」

 

燈矢は、食卓を見て言った。

 

「温め直すわ」

 

冬美が立ち上がる。

 

「いいよ」

 

「でも――」

 

「いいって」

 

燈矢は椅子を引いた。

 

「どうせ、俺が帰ってくるなんて思ってなかったんだろ。食事を用意してくれただけでも、十分じゃねえの」

 

冬美は、立ったまま動けなかった。

 

燈矢は椅子に座った。

 

その隣に、誰も座らない。

 

向かい側には、冷。

 

その隣に、夏雄。

 

そして、少し離れた場所に焦凍。

 

家族の食卓。

 

けれど、そこには、かつての家族の形がなかった。

 

燈矢は箸を手に取った。

 

味噌汁を飲む。

 

冷めている。

 

当然だ。

 

待っていた時間が長すぎた。

 

「……何だよ」

 

燈矢は、視線を上げた。

 

「みんな、食わねえの?」

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

「俺だけ食ってんの、変だろ」

 

「……私たちは、あとでいいわ」

 

冷が言った。

 

燈矢は、冷を見る。

 

「何で?」

 

冷は答えられなかった。

 

一緒に食べることが、怖かったのだ。

 

一緒に食べれば、家族に戻れるような気がしてしまう。

 

何事もなかったように、同じ食卓を囲めるような気がしてしまう。

 

でも、何事もなかったわけではない。

 

自分が犯したこと。

 

自分が耐えられなかったこと。

 

自分が子供たちに背負わせたもの。

 

それらを忘れたふりをして、食事をすることはできなかった。

 

燈矢は、箸を置いた。

 

「……そっか」

 

それだけ言って、再び食事を口に運ぶ。

 

誰も、彼を止めなかった。

 

誰も、何かを言えなかった。

 

やがて、夏雄が席を立った。

 

「……俺、今日は帰る」

 

冬美が振り返る。

 

「夏雄」

 

「ここにいたくないわけじゃない」

 

夏雄は、燈矢を見た。

 

「でも、今はまだ、どういう顔をして一緒にいればいいのか分からない」

 

燈矢は、箸を止めた。

 

「……好きにしろよ」

 

「そうする」

 

夏雄は、玄関へ向かった。

 

その背中に、燈矢は何も言わなかった。

 

扉が閉まる。

 

静かな音だった。

 

それなのに、燈矢には、何かを拒絶されたように聞こえた。

 

彼は、味噌汁を見つめた。

 

「……帰ってきたのに」

 

誰も答えない。

 

「……俺、帰ってきたんだよな」

 

冬美は、口元を押さえた。

 

冷は、目を伏せた。

 

焦凍は、兄を見ていた。

 

燈矢は、笑った。

 

「……何だよ、これ」

 

その笑い声は、すぐに消えた。

 

「俺、何を期待してたんだろうな」

 

その問いに、誰も答えられなかった。

 

なぜなら、燈矢自身が、答えを知らなかったからだ。

 

家族に迎えられたかった。

 

自分がいなくなったことを、悔やんでいてほしかった。

 

自分の苦しみを、理解してほしかった。

 

父親に、間違っていたと認めてほしかった。

 

母親に、自分を見てほしかった。

 

弟たちに、兄として覚えていてほしかった。

 

そして――。

 

自分がしたことを、許してほしかったのかもしれない。

 

いや。

 

許してほしいと思うことすら、許されないと感じていたのかもしれない。

 

燈矢は、箸を置いた。

 

「……ごちそうさま」

 

ほとんど手をつけていない食事を前に、彼は立ち上がった。

 

「どこへ行くの?」

 

冬美が尋ねた。

 

「部屋」

 

「……部屋って」

 

「俺の部屋、まだあんの?」

 

冬美は、答えられなかった。

 

部屋は残っている。

 

けれど、燈矢が使っていた頃のままではない。

 

長い年月の中で、家は変わった。

 

家族も変わった。

 

誰もが、失われた長男を思いながら、それでも生きてきた。

 

燈矢の部屋を、完全に当時のまま残しておくことはできなかった。

 

「……見に行く」

 

燈矢は、廊下へ出た。

 

その背中を、焦凍が追いかけようとした。

 

だが、冷が静かに首を横に振った。

 

今は、まだ。

 

誰かが、燈矢のそばにいなければならない。

 

でも、誰かが、彼のすべてを引き受けてしまってはいけない。

 

その違いを、家族はまだ学んでいる途中だった。

 

第三幕 かつての部屋

燈矢の部屋は、家の二階にあった。

 

扉を開けると、埃の匂いがした。

 

古い家具。

 

使われなくなった棚。

 

押し入れの奥にしまわれた箱。

 

そこには、確かに、かつて自分が暮らしていた痕跡があった。

 

だが、すべてが当時のまま残されているわけではない。

 

机の上には、冬美が置いたらしい小さな花瓶があった。

 

棚には、家族の写真が一枚。

 

写真の中で、幼い燈矢が笑っていた。

 

その隣には、まだ小さかった冬美と夏雄。

 

さらに、その向こうに、幼い焦凍の姿がある。

 

燈矢は、写真を手に取った。

 

「……何だよ、これ」

 

笑っている。

 

自分が。

 

この家で。

 

家族と一緒に。

 

その事実が、ひどく遠いものに感じられた。

 

燈矢は写真を戻した。

 

机の引き出しを開ける。

 

中には、古い筆記用具が入っていた。

 

鉛筆。

 

消しゴム。

 

使いかけのノート。

 

そして、ノートの端に書かれた、子供の頃の文字。

 

『もっと強くなる』

 

燈矢は、その文字を見つめた。

 

「……ああ」

 

小さく笑う。

 

「そうだったな」

 

もっと強くなりたかった。

 

父親に認められたかった。

 

自分が、エンデヴァーの子供として、価値のある存在だと証明したかった。

 

自分には、できる。

 

自分こそが、父の夢を叶えられる。

 

そう信じていた。

 

いや、信じたかった。

 

父親が求めるものを手に入れれば、愛してもらえると思っていた。

 

強くなれば。

 

期待に応えれば。

 

誰よりも優秀になれば。

 

自分が、ここにいていい理由を証明できると思っていた。

 

だが、父親は、ある日、言った。

 

もう、お前には期待しない。

 

その言葉が、何を意味していたのか。

 

燈矢は、今なら理解できる。

 

父親は、自分の身体が限界を迎えていることを知っていた。

 

このまま訓練を続ければ、息子が傷つく。

 

それ以上、続けさせるわけにはいかない。

 

その判断自体には、息子を傷つけないための意味があったのかもしれない。

 

けれど。

 

父親は、何を言ったのか。

 

どう伝えたのか。

 

息子が、その言葉をどう受け取るのかを考えたのか。

 

自分が何のために訓練を続けてきたのかを、理解しようとしたのか。

 

燈矢には、分からない。

 

ただ、覚えているのは。

 

自分が、必要なくなったと感じたことだった。

 

「……何だよ」

 

燈矢は、ノートを握った。

 

「期待しないって、何だよ」

 

その声は、部屋の中に響いた。

 

「俺が、何のために頑張ってきたと思ってんだよ」

 

返事はない。

 

「俺が、何を欲しかったと思ってんだよ」

 

返事はない。

 

燈矢は、ノートを閉じた。

 

「……クソが」

 

怒りが、胸の奥で燃え上がる。

 

だが、怒りの向こうに、別の感情があった。

 

悲しみ。

 

寂しさ。

 

悔しさ。

 

自分が何を望んでいたのか、誰にも分かってもらえなかったという感覚。

 

そして、誰にも分かってもらえなかったのなら、自分自身も、自分が何を望んでいたのかを分からなくなってしまうという恐怖。

 

燈矢は、机に手をついた。

 

「……俺は」

 

声が、震えた。

 

「俺は、ただ……」

 

その先が、出てこなかった。

 

ただ、何だったのか。

 

父親に認められたかった。

 

家族に愛されたかった。

 

自分が、必要な人間だと思いたかった。

 

そのどれもが、本当だった。

 

けれど、それだけでは、もう足りなかった。

 

父親が自分を認めてくれたとして。

 

今さら「よく頑張った」と言われたとして。

 

それで、自分が失った時間が戻るわけではない。

 

自分が味わった絶望が、消えるわけでもない。

 

自分が選んだ行為が、なかったことになるわけでもない。

 

燈矢は、顔を覆った。

 

「……遅えんだよ」

 

その言葉は、誰にも届かなかった。

 

「全部、遅えんだよ……」

 

それでも、彼は泣かなかった。

 

泣くことさえ、どこかで拒んでいた。

 

泣いたら、自分が何を望んでいたのか、認めてしまう気がした。

 

認めてしまえば、まだ何かを期待していることが分かってしまう。

 

自分は、まだ家族に何かを求めている。

 

まだ、父親に何かを求めている。

 

その事実が、何よりも許せなかった。

 

燈矢は、窓の外を見た。

 

夜の街は、静かだった。

 

自分がいなくなったあとも、世界は続いていた。

 

家族も生きていた。

 

人々は暮らし、笑い、泣き、誰かを愛し、誰かを失っていた。

 

自分がどれほど苦しんでいたとしても。

 

自分がどれほど怒っていたとしても。

 

世界は、自分を中心には回っていなかった。

 

それが、悔しかった。

 

同時に、どこかで安心している自分もいた。

 

世界が続いていたのなら。

 

家族が生きていたのなら。

 

自分が帰ってきたことを、喜んでくれる人がいるのなら。

 

まだ、何かをやり直せる可能性があるのかもしれない。

 

だが、その可能性を信じることは、怖かった。

 

もう一度、期待して。

 

もう一度、裏切られたら。

 

今度こそ、本当に何も残らなくなる気がした。

 

燈矢は、窓から離れた。

 

「……寝るか」

 

誰に聞かせるでもなく呟き、ベッドの端に腰を下ろす。

 

眠れるはずがなかった。

 

それでも、今は、何も考えたくなかった。

 

彼は横になり、目を閉じた。

 

暗闇の中で、ひとつの声が聞こえた気がした。

 

――お前は、何を望んでいた?

 

燈矢は、目を開けた。

 

誰もいない。

 

自分の声だったのかもしれない。

 

あるいは、過去の自分が、今の自分に問いかけているのかもしれない。

 

燈矢は、天井を見つめた。

 

「……知らねえよ」

 

答えは、まだ出なかった。

 

第四幕 父親は、まだ帰ってこない

エンデヴァーは、その夜、家に戻らなかった。

 

正確には、戻ることができなかった。

 

轟家に燈矢が帰還した。

 

その報告は、彼にも届いていた。

 

当然だった。

 

彼は、燈矢の父親なのだから。

 

帰還の知らせを聞いた瞬間、彼は立ち上がった。

 

何をすべきか。

 

何を言うべきか。

 

どうやって息子を迎えればいいのか。

 

そのすべてが、分からなかった。

 

ただ、会わなければならない。

 

そう思った。

 

けれど、同時に、恐ろしかった。

 

燈矢が帰ってきた。

 

その事実は、彼が長年向き合ってきた罪を、再び目の前に突きつけていた。

 

自分は、父親として何をしたのか。

 

息子を、自分の夢のために訓練させた。

 

息子の身体に危険があると知りながら、その危険を十分に理解する前に、息子が自分の期待に応えることを求めていた。

 

そして、息子が自分の望んだ道を進めなくなったとき、彼に何を伝えたのか。

 

もう期待しない。

 

その言葉は、息子を守るための判断だったのかもしれない。

 

だが、その言葉を受け取った息子が、どう感じたのか。

 

自分は、どこまで理解していたのか。

 

エンデヴァーは、目を閉じた。

 

「……燈矢」

 

名前を口にする。

 

それだけで、胸の奥が重くなった。

 

彼は、英雄だった。

 

数多くの事件を解決してきた。

 

多くの人々を救ってきた。

 

社会の中で、彼の功績を認める者はいる。

 

彼の力を必要とする者もいる。

 

だが、どれほどの人々を救ったとしても。

 

それによって、父親としての罪が消えるわけではない。

 

英雄としての功績は、息子に対する責任を帳消しにする通貨ではない。

 

社会に対して果たした責任と、家族に対して果たすべき責任は、別々のものだ。

 

彼は、そのことを理解していた。

 

理解しているつもりだった。

 

しかし、理解していることと、実際に向き合えることは違う。

 

燈矢が帰ってきた今、彼は初めて、その違いを真正面から突きつけられていた。

 

会いたい。

 

謝りたい。

 

息子に、何かを伝えたい。

 

だが、何を言えばいいのか。

 

「すまなかった」と言えば、何かが変わるのか。

 

「お前を愛していた」と言えば、息子は信じてくれるのか。

 

「お前を傷つけるつもりはなかった」と言えば、自分の責任は軽くなるのか。

 

どれも違う。

 

意図がどうだったかは、責任のすべてを決めない。

 

息子が傷ついたという事実は、自分の善意によって消えるものではない。

 

そして、謝罪を受け入れるかどうかは、息子が決めることだ。

 

エンデヴァーは、拳を握った。

 

「……俺は」

 

声が出なかった。

 

英雄としてなら、行動できる。

 

危険な現場に向かう。

 

敵と戦う。

 

人々を救助する。

 

責任を取るべき場面では、前に出る。

 

だが、父親としては。

 

息子の前に立つことすら、恐れていた。

 

なぜなら、燈矢は、自分の力で解決できる問題ではないからだ。

 

息子の怒りを消すことはできない。

 

息子の過去を変えることもできない。

 

息子が自分を許すように、強制することもできない。

 

何より、自分が父親として責任を果たしたからといって、息子がそれを認めてくれる保証はない。

 

それでも、責任を果たさなければならない。

 

認められなくても。

 

感謝されなくても。

 

許されなくても。

 

それが、父親としての責任なのだろう。

 

エンデヴァーは、ゆっくりと立ち上がった。

 

だが、すぐには家へ向かわなかった。

 

彼は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 

そして、息子に会いに行くことを決めるまでに、長い時間を必要とした。

 

第五幕 焦凍は、兄を救いたい

焦凍は、家の外に出ていた。

 

夜風が、頬を撫でる。

 

空は暗く、街の灯りが遠くに見えていた。

 

兄が帰ってきた。

 

その事実を、まだ実感できずにいた。

 

燈矢が死んだと聞かされたとき。

 

家族の中で、その喪失をどう受け止めればいいのか分からなかった。

 

兄が生きているかもしれない。

 

どこかで、助けを必要としているかもしれない。

 

そう考えたこともあった。

 

けれど、兄は帰ってこなかった。

 

年月が過ぎるにつれ、兄の不在は、家族の中にあるひとつの空席になっていった。

 

誰もが、その空席を見ないようにしていた。

 

見れば、何かを思い出してしまうから。

 

自分たちに何ができたのか。

 

何をすべきだったのか。

 

何を見過ごしてしまったのか。

 

そして、今。

 

兄は帰ってきた。

 

それなのに、焦凍は、喜びだけを感じることができなかった。

 

兄の苦しみを理解したい。

 

兄が何を望んでいたのかを知りたい。

 

兄が、何を失ったと感じていたのかを知りたい。

 

けれど、兄の苦しみを理解することと、兄がしたことを許すことは違う。

 

焦凍は、それを分かっていた。

 

自分自身もまた、父親の期待の中で育ったからだ。

 

父親の夢を叶えるために生まれたかのように扱われた。

 

自分の力を、父親の目的のために使うことを求められた。

 

母親が追い詰められていく姿を見た。

 

そして、自分もまた、家族の中で傷ついてきた。

 

だからこそ、兄の気持ちを想像することはできる。

 

けれど、想像できるからといって、兄のすべてを理解したことにはならない。

 

焦凍は、手を握った。

 

「……兄さん」

 

名前を口にする。

 

その響きは、幼い頃に呼んでいたものと同じだった。

 

けれど、今は、その言葉に、たくさんの意味が重なっている。

 

兄。

 

家族。

 

被害者。

 

加害者。

 

失われた人。

 

帰ってきた人。

 

そして、自分が救いたいと思っている人。

 

焦凍は、顔を上げた。

 

「……俺は、何をすればいいんだろうな」

 

誰も答えない。

 

兄を救うには、何をすればいいのか。

 

兄の怒りを聞けばいいのか。

 

兄の罪を責めればいいのか。

 

父親と向き合わせればいいのか。

 

家族として受け入れればいいのか。

 

そのどれもが必要なのかもしれない。

 

だが、どれかひとつを選べば、それですべてが解決するわけではない。

 

焦凍は、思い出した。

 

自分がかつて、父親に向かって言った言葉。

 

自分の人生は、自分で選ぶ。

 

父親の望みではなく、自分の意思で生きる。

 

その選択が、自分を変えた。

 

ならば、兄にも、自分で選ぶ機会が必要なのではないか。

 

兄が何を望むのか。

 

兄が何を望まないのか。

 

兄が何を許せないのか。

 

兄が、これからどう生きたいのか。

 

それを、自分が決めることはできない。

 

兄を救いたいからといって、兄の未来を代わりに決めてしまったら。

 

自分もまた、兄の意思を奪うことになる。

 

焦凍は、深く息を吸った。

 

「……俺は、兄さんを救いたい」

 

もう一度、言葉にする。

 

「でも、兄さんが何を望んでいるのか、俺が決めることはできない」

 

それは、簡単なことではなかった。

 

目の前にいる人間が苦しんでいるとき。

 

その苦しみを早く終わらせたいと思うとき。

 

誰かは、答えを与えたくなる。

 

こうすればいい。

 

こう考えればいい。

 

こうすれば、もう苦しまなくていい。

 

けれど、その答えが本人の望みと違っていたら。

 

その救済は、誰のためのものなのか。

 

焦凍は、兄の顔を思い出した。

 

「……ちゃんと聞こう」

 

それが、今の自分にできることだった。

 

すべてを解決できなくても。

 

兄の怒りを消せなくても。

 

兄に許してもらえなくても。

 

自分は、兄の話を聞くことができる。

 

ただし、兄の行為を正当化せずに。

 

被害を受けた人たちの存在を忘れずに。

 

そして、兄の意思を、自分の意思と混同せずに。

 

焦凍は、家の中へ戻った。

 

兄は、まだ自分の部屋にいる。

 

今夜は、もう話をしないかもしれない。

 

それでもいい。

 

明日、話せるかもしれない。

 

明後日かもしれない。

 

もっと先かもしれない。

 

兄が、自分の意思で話したいと思える日が来るまで。

 

焦凍は、待つことにした。

 

ただし、何もせずに待つのではない。

 

兄の存在を、過去の記憶だけに閉じ込めないために。

 

兄がこれから何を選ぶのかを、兄自身に委ねるために。

 

そして、自分もまた、兄との関係をどう築いていくのかを選ぶために。

 

第六幕 家族は、ひとつの答えになれない

翌朝。

 

轟家の食卓には、四人が座っていた。

 

燈矢は、まだ来ていない。

 

冬美が朝食を用意している。

 

冷は、静かに湯呑みを持っていた。

 

焦凍は、椅子に座ったまま、階段のほうを気にしていた。

 

夏雄は、昨夜のうちに帰っていた。

 

そのため、食卓は、以前よりもさらに広く感じられた。

 

「……燈矢兄、朝ごはん食べるかな」

 

冬美が呟いた。

 

「分からない」

 

焦凍が答えた。

 

「起こしてくる?」

 

「……いや」

 

焦凍は、少し考えた。

 

「起きたら、来るかもしれない」

 

冬美は、頷いた。

 

それ以上、何も言わなかった。

 

冷は、湯呑みを置いた。

 

「……私たちは、何をすればいいのかしら」

 

焦凍は、母親を見た。

 

「……分からない」

 

「そうね」

 

冷は、静かに笑った。

 

「分からないわね」

 

彼女は、窓の外を見た。

 

「燈矢が帰ってきてくれたら、何かが変わると思っていたのかもしれない」

 

「……」

 

「でも、帰ってきたからこそ、分からなくなったこともある」

 

冷は、自分の手を見た。

 

自分は、母親だった。

 

子供たちを愛していた。

 

けれど、愛しているだけでは、子供たちを守れなかった。

 

自分自身も、追い詰められていた。

 

その苦しみは、本物だった。

 

だが、その苦しみが、子供たちに与えた影響まで、消してくれるわけではない。

 

自分が何をできたのか。

 

何をできなかったのか。

 

その答えは、今も簡単には出ない。

 

「……私は、燈矢に謝りたい」

 

冷が言った。

 

「でも、謝ったからといって、燈矢が私を許さなければならないわけではない」

 

焦凍は、黙って聞いていた。

 

「私が謝るのは、燈矢に許してもらうためだけではないの。私が何をしたのかを、私自身が認めるためでもある」

 

冷は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「でも、燈矢が今、私の謝罪を聞きたくないのなら。それも、受け止めなければならないと思う」

 

冬美が、母親を見つめた。

 

「お母さん……」

 

「私は、母親だから」

 

冷は言った。

 

「母親だから、何でも許されるわけではない。母親だから、子供が自分を許さなければならないわけでもない」

 

その言葉に、冬美は目を伏せた。

 

焦凍は、深く息を吐いた。

 

家族は、ひとつの答えになれない。

 

燈矢の怒りを、全員が同じように受け止めることはできない。

 

父親への感情も違う。

 

母親への感情も違う。

 

家族に求めるものも違う。

 

それぞれが、違う時間を生きてきた。

 

それぞれが、違う傷を抱えている。

 

だからこそ、家族全員が同じ気持ちになることを、目標にしてはいけないのかもしれない。

 

誰かが、許したいと思う。

 

誰かが、許せないと思う。

 

誰かが、もう一度やり直したいと思う。

 

誰かが、まだ何も決められない。

 

そのどれかひとつを、正解にする必要はない。

 

「……俺、兄さんと話してみる」

 

焦凍が言った。

 

冷は、頷いた。

 

「ええ」

 

「でも、無理に話させるつもりはない」

 

「それでいいと思うわ」

 

焦凍は、立ち上がった。

 

階段を上がる。

 

燈矢の部屋の前で、足を止めた。

 

ノックをする。

 

返事はない。

 

もう一度、ノックする。

 

「……兄さん。俺だけど」

 

沈黙。

 

焦凍は、扉の前に立ったまま、言った。

 

「朝ごはん、あるから」

 

それだけ言って、少し待った。

 

中から、声がした。

 

「……いらねえ」

 

焦凍は、頷いた。

 

「分かった」

 

立ち去ろうとしたとき、燈矢が言った。

 

「……お前」

 

焦凍は、振り返った。

 

「何だよ」

 

「……お前、俺に何を聞きたいんだ?」

 

焦凍は、すぐには答えなかった。

 

何を聞きたいのか。

 

本当は、たくさんあった。

 

どうして、あんなことをしたのか。

 

何を考えていたのか。

 

何を望んでいたのか。

 

何を、許せなかったのか。

 

そして、これから、どうしたいのか。

 

けれど、そのすべてを一度に聞くことはできない。

 

焦凍は、ゆっくりと言った。

 

「……兄さんが、何を望んでいたのか」

 

扉の向こうが、静かになった。

 

「それを、聞きたい」

 

長い沈黙。

 

やがて、燈矢が答えた。

 

「……そんなもん、今さら聞いてどうすんだよ」

 

焦凍は、答えた。

 

「今さらでも、聞きたいから」

 

「……」

 

「兄さんが、何を望んでいたのか。俺は、ちゃんと知らないから」

 

扉の向こうから、笑い声が聞こえた。

 

乾いた、短い笑い。

 

「……遅えよ」

 

「うん」

 

「本当に、遅え」

 

「……うん」

 

焦凍は、扉の前から動かなかった。

 

燈矢は、しばらく何も言わなかった。

 

やがて、低い声が聞こえた。

 

「……明日」

 

焦凍は、目を見開いた。

 

「……え?」

 

「明日、話す」

 

その言葉は、約束と呼ぶには、あまりにも小さかった。

 

それでも、焦凍は頷いた。

 

「分かった」

 

「……今日は、帰れ」

 

「うん」

 

焦凍は、階段を下りていった。

 

その足取りは、軽くなったわけではない。

 

兄との問題が解決したわけでもない。

 

ただ、明日、話せるかもしれない。

 

その可能性が生まれただけだった。

 

けれど、今は、それでよかった。

 

第七幕 炎の向こう側

夜。

 

燈矢は、自分の部屋の窓辺に立っていた。

 

外の景色は、昨日と同じだった。

 

街の灯り。

 

遠くの道路。

 

人々の暮らす家。

 

自分がいなくなってからも、世界は続いていた。

 

それを、今さら責めることはできない。

 

世界は、自分が帰ってくるのを待つために、止まっていたわけではないのだから。

 

燈矢は、手を見た。

 

自分の炎。

 

自分の力。

 

かつて、それは、父親に認めてもらうためのものだった。

 

自分が価値のある人間だと証明するためのものだった。

 

そして、いつしか。

 

父親を否定するためのものになった。

 

父親の理想を壊すためのものになった。

 

自分が受けた苦しみを、父親にも味わわせるためのものになった。

 

その炎は、何を焼いてきたのだろう。

 

父親の名誉。

 

家族の平穏。

 

誰かの未来。

 

そして、自分自身。

 

燈矢は、拳を握った。

 

「……俺は」

 

言葉が止まる。

 

自分は、何を望んでいたのだろう。

 

認められたかった。

 

愛されたかった。

 

必要とされたかった。

 

それは、嘘ではない。

 

けれど、その願いが叶わなかったからといって、誰かを傷つけていいわけではなかった。

 

そんなことは、分かっている。

 

分かっているからこそ、苦しい。

 

自分が苦しんでいたことは、本当だ。

 

父親に傷つけられたことも、本当だ。

 

家族の中で、自分の居場所を見失ったことも、本当だ。

 

それでも、自分が誰かを傷つけたことも、本当だった。

 

どちらかを消してしまえば、簡単なのかもしれない。

 

自分は被害者だった。

 

だから、自分の行為は仕方がなかった。

 

あるいは。

 

自分は加害者だった。

 

だから、自分が苦しんでいたことには意味がなかった。

 

どちらかひとつに決めれば、考えなくて済む。

 

自分の怒りを正当化することも。

 

自分の傷を否定することも。

 

けれど、どちらも違う。

 

自分は、傷つけられた。

 

そして、自分も傷つけた。

 

その二つは、同時に存在している。

 

燈矢は、窓に映った自分の顔を見た。

 

「……ふざけんなよ」

 

声が震える。

 

「そんな簡単に、割り切れるかよ」

 

彼は、窓から目をそらした。

 

許してほしい。

 

許されたくない。

 

認めてほしい。

 

認められたくない。

 

家族に会いたい。

 

誰にも会いたくない。

 

父親に謝ってほしい。

 

今さら謝られたところで、何も変わらないと思う。

 

相反する気持ちが、胸の中でぶつかり合う。

 

どちらかが偽物なのではない。

 

どちらも、自分の中にある。

 

そのことを認めるのは、恐ろしかった。

 

怒りだけを抱えていれば、まだ、自分の進む方向が分かる。

 

憎しみだけを抱えていれば、何をすればいいのか、考えずに済む。

 

けれど、その奥に別の願いがあると知ってしまったら。

 

自分が、本当は何を望んでいたのかを考えなければならなくなる。

 

そして、その願いが、今さら叶わないものだったとしたら。

 

自分は、何を支えにして生きればいいのだろう。

 

燈矢は、机の上のノートを見た。

 

『もっと強くなる』

 

幼い自分の文字。

 

その隣に、何かを書き足そうとした。

 

鉛筆を持つ。

 

だが、何も書けなかった。

 

もっと強くなる。

 

それは、かつての自分が望んだことだった。

 

では、今の自分は?

 

何を望んでいるのか。

 

何を望んでいないのか。

 

誰と、どこで、どう生きたいのか。

 

その答えは、まだ出ていない。

 

燈矢は、鉛筆を置いた。

 

そして、ノートを閉じた。

 

「……明日」

 

焦凍に言った言葉を思い出す。

 

明日、話す。

 

何を話すのか。

 

何を伝えるのか。

 

まだ分からない。

 

けれど、明日という言葉を、自分の意思で口にした。

 

それだけは、確かだった。

 

燈矢は、窓の外を見た。

 

炎は、まだ消えていない。

 

怒りも。

 

憎しみも。

 

悔しさも。

 

そして、誰にも認められなかったと感じていた、幼い自分の願いも。

 

すべてが、まだ自分の中にある。

 

それらを、今すぐ消すことはできない。

 

消す必要があるのかどうかも、分からない。

 

ただ、その炎を、これから何に使うのか。

 

それだけは、いつか、自分で選ばなければならない。

 

燈矢は、目を閉じた。

 

暗闇の向こうで、誰かの声がした気がした。

 

――お前は、何を望んでいた?

 

今度は、燈矢は答えなかった。

 

ただ、逃げずに、その問いを聞いていた。

 

それが、最初の一歩だった。

 

第八幕 父親の足音

翌朝。

 

轟家の玄関に、エンデヴァーが立っていた。

 

扉を開ける前から、彼は何度も言葉を考えていた。

 

何を言うべきか。

 

何を言ってはいけないのか。

 

どこまで謝ればいいのか。

 

そんなことを考えている自分に、彼は嫌悪を覚えた。

 

謝罪に、適切な長さがあるのか。

 

責任を果たすための、正しい台詞があるのか。

 

息子が自分を許す可能性を少しでも高めるために、言葉を選んでいるのではないか。

 

その疑いを、完全には振り払えなかった。

 

エンデヴァーは、拳を握った。

 

そして、扉を開けた。

 

居間にいた冬美が、顔を上げる。

 

「……お父さん」

 

「燈矢は?」

 

冬美は、少し迷ってから答えた。

 

「部屋にいるわ」

 

エンデヴァーは頷いた。

 

「……そうか」

 

そのまま階段へ向かおうとしたとき、冷が声をかけた。

 

「炎司さん」

 

彼は、足を止めた。

 

冷は、彼を見つめていた。

 

「燈矢に、何を言うつもり?」

 

エンデヴァーは、答えられなかった。

 

「……謝るつもりだ」

 

「何を?」

 

その問いに、彼は息を呑んだ。

 

何を。

 

何に対して。

 

自分は、息子に何を謝ろうとしているのか。

 

「……俺が、父親として犯した罪を」

 

冷は、静かに頷いた。

 

「それなら、覚えておいて」

 

「……」

 

「燈矢が、あなたの謝罪を受け入れなくても。あなたがどれだけ反省しても。燈矢が、あなたを許さないと決めても」

 

冷は、目をそらさなかった。

 

「それでも、あなたは責任を果たし続けなければならない」

 

エンデヴァーは、唇を引き結んだ。

 

「……分かっている」

 

「本当に?」

 

その問いは、責めるためだけのものではなかった。

 

冷自身も、同じ問いを、自分に向けていた。

 

自分が謝ったとき。

 

自分の罪を認めたとき。

 

子供たちが、それを受け入れなかったとしても。

 

それでも、母親として責任を果たし続けられるのか。

 

自分を許してくれない相手の前で、逃げずにいられるのか。

 

冷は、まだ答えを見つけていない。

 

だからこそ、夫にも問いかけた。

 

エンデヴァーは、しばらく黙っていた。

 

やがて、ゆっくりと答えた。

 

「……分かっているつもりだった」

 

その言葉に、冷は何も言わなかった。

 

「だが、今は……分かっていると言い切ることはできない」

 

エンデヴァーは、階段を見上げた。

 

「燈矢が帰ってきたと聞いたとき、俺は、すぐに会いに行こうと思った。謝罪しなければならない。父親として向き合わなければならない。そう思った」

 

彼は、拳を握り直した。

 

「だが、同時に、恐れていた。燈矢が、俺を許さないことを。俺の言葉を拒絶することを。俺が何をしても、もう遅いと言われることを」

 

冷は、静かに聞いていた。

 

「……俺は、自分が許されないことを恐れていたのだと思う」

 

エンデヴァーは、苦しそうに笑った。

 

「それが、どれほど身勝手なことなのかも、分かっているつもりだった」

 

「……」

 

「だが、分かっていることと、恐れずに向き合えることは違う」

 

彼は、顔を上げた。

 

「それでも、会いに行かなければならない」

 

冷は、頷いた。

 

「ええ」

 

エンデヴァーは、階段へ向かった。

 

一段ずつ、上がっていく。

 

その足音は、英雄として現場へ向かうときのものとは違っていた。

 

誰かを救うために走る足音ではない。

 

自分の力を証明するための足音でもない。

 

ただ、自分が傷つけた相手の前に立つための足音だった。

 

その相手が、自分の息子であることを。

 

その息子が、自分を許さないかもしれないことを。

 

そのどちらも、忘れずに。

 

エンデヴァーは、燈矢の部屋の前に立った。

 

扉の向こうから、物音は聞こえない。

 

彼は、手を上げた。

 

そして――。

 

ノックをする前に、長い時間、立ち尽くした。

 

第九幕 明日へ残された言葉

扉の向こうで、燈矢は目を開けていた。

 

足音が聞こえた。

 

誰の足音なのか、分かっていた。

 

この家で、その足音を聞き間違えることはない。

 

父親。

 

エンデヴァー。

 

自分を認めなかった男。

 

自分を傷つけた男。

 

そして、自分がずっと、何かを求め続けていた男。

 

燈矢は、ベッドから起き上がった。

 

扉の前に立つ。

 

父親が、向こう側にいる。

 

それだけで、胸の奥が熱くなった。

 

怒りが湧き上がる。

 

何を言うつもりだ。

 

謝るのか。

 

許してくれと言うのか。

 

自分を愛していたと言うのか。

 

それとも、父親として、もう一度、正しいことを言うのか。

 

燈矢は、拳を握った。

 

開けるべきか。

 

開けないべきか。

 

会いたい。

 

会いたくない。

 

声を聞きたい。

 

声など聞きたくない。

 

そのどちらも、本当だった。

 

父親が、扉の向こうで動いた。

 

ノックの音が響く。

 

一度。

 

二度。

 

そして、声がした。

 

「……燈矢」

 

名前を呼ばれた。

 

それだけだった。

 

謝罪も。

 

言い訳も。

 

命令も。

 

まだ、何もない。

 

ただ、自分の名前を呼ばれた。

 

燈矢は、扉に手を伸ばした。

 

けれど、開けなかった。

 

代わりに、言った。

 

「……何だよ」

 

扉の向こうで、エンデヴァーが息を呑む気配がした。

 

「……話がしたい」

 

燈矢は、目を閉じた。

 

「……今さら?」

 

「……ああ」

 

「遅えよ」

 

「……分かっている」

 

「分かってねえよ」

 

燈矢の声が、鋭くなった。

 

「分かってる奴が、今さら何しに来たんだよ」

 

扉の向こうは、静かだった。

 

言い返してこない。

 

自分の立場を説明しない。

 

英雄としての功績を持ち出さない。

 

それが、かえって腹立たしかった。

 

燈矢は、扉に額をつけた。

 

「……俺は、お前に会いたかったわけじゃねえ」

 

言葉が、口からこぼれた。

 

「お前に謝ってほしかったわけでもねえ」

 

それは、嘘だった。

 

いや、嘘ではない。

 

謝ってほしかった。

 

認めてほしかった。

 

だが、今さら謝られたところで、何が変わるのか分からない。

 

燈矢は、自分の言葉を続けた。

 

「……俺が、何を望んでたのか。お前は、一度でも考えたことがあんのかよ」

 

扉の向こうで、長い沈黙があった。

 

そして、エンデヴァーが答えた。

 

「……考えていたつもりだった」

 

燈矢は、笑った。

 

「だろうな」

 

「だが、俺は……お前が何を望んでいたのかを、本当に聞こうとはしていなかった」

 

燈矢の笑いが止まった。

 

「……」

 

「お前が強くなりたいと言ったとき、俺は、その言葉の意味を、自分の望む形で受け取った」

 

エンデヴァーの声は、低かった。

 

「お前が俺を認めさせたいと思っていたことも、分かっていたつもりだった。だが、その気持ちが、お前にとって何を意味していたのか。お前が、何を失うことを恐れていたのか。俺は、聞こうとしなかった」

 

燈矢は、扉を見つめた。

 

「……今さら、そんなこと言ってどうすんだよ」

 

「分からない」

 

その答えに、燈矢は息を止めた。

 

エンデヴァーは続けた。

 

「お前が、俺の言葉を聞きたいのかどうかも分からない。俺の謝罪を受け入れるつもりがあるのかも分からない」

 

「……」

 

「だが、俺は、お前に向き合わなければならない」

 

燈矢は、拳を握りしめた。

 

「……向き合う?」

 

「ああ」

 

「何のために?」

 

エンデヴァーは、すぐには答えなかった。

 

そして、言った。

 

「お前に許してもらうためだけではない」

 

燈矢の顔が、強張った。

 

「……」

 

「俺が、父親として何をしたのかを、俺自身が認めるためだ。そして、これからも、その責任を果たすためだ」

 

その言葉を聞いて、燈矢の胸の奥に、何かが引っかかった。

 

許してもらうためだけではない。

 

それは、つまり。

 

自分が許さなくても、父親は責任を果たすということなのか。

 

自分が拒絶しても、父親は自分の罪を認め続けるということなのか。

 

それは、正しいことなのかもしれない。

 

だが、燈矢には、まだ分からなかった。

 

自分が父親を許さないと決めたら。

 

父親は、それでも父親であり続けるのか。

 

自分が父親を拒絶したら。

 

父親は、それでも自分に責任を果たし続けるのか。

 

その言葉を信じていいのか。

 

また、裏切られるのではないか。

 

期待して、失望して、また怒りに戻ることになるのではないか。

 

燈矢は、扉に手を置いた。

 

開けることはできなかった。

 

「……帰れよ」

 

彼は言った。

 

扉の向こうで、エンデヴァーが息を呑む。

 

「……分かった」

 

それだけだった。

 

言い返さない。

 

怒らない。

 

父親としての権利を主張しない。

 

そして、扉の前から離れていく。

 

足音が遠ざかる。

 

燈矢は、その場に立ち尽くした。

 

「……何だよ」

 

声が震えた。

 

「……何だよ、それ」

 

自分は、父親に帰れと言った。

 

父親は、帰った。

 

それだけのことだった。

 

なのに、燈矢は、なぜか怒っていた。

 

帰ってほしかった。

 

けれど、帰ってほしくなかった。

 

謝ってほしかった。

 

けれど、謝られたら、どうすればいいのか分からなかった。

 

責任を果たしてほしかった。

 

けれど、本当に責任を果たし続けると言われたら、それを信じることが怖かった。

 

燈矢は、扉に背を預けた。

 

そして、ゆっくりと床に座り込んだ。

 

「……クソが」

 

怒りは、消えない。

 

父親が帰ったからといって、消えるわけではない。

 

父親が謝ったからといって、消えるわけでもない。

 

自分の苦しみが、誰かの言葉によって、簡単に整理されるわけでもない。

 

それでも。

 

父親は、帰っていった。

 

自分の拒絶を、受け入れて。

 

それが本当に責任を果たすということなのか、燈矢にはまだ分からない。

 

ただ、ひとつだけ。

 

父親は、英雄としての功績を盾にしなかった。

 

父親としての立場を、押しつけなかった。

 

そして、自分が許されることを、要求しなかった。

 

それが、何を意味するのか。

 

燈矢は、まだ答えを出せなかった。

 

けれど、その言葉は、胸の奥に残った。

 

――俺は、お前に向き合わなければならない。

 

その言葉が、明日も残っているのか。

 

明後日も残っているのか。

 

いつか、自分が父親を許さないと決めたあとも、残っているのか。

 

それを確かめるには、時間が必要だった。

 

燈矢は、目を閉じた。

 

炎は、まだ消えていない。

 

だが、その炎の向こう側に。

 

ほんのわずかに。

 

まだ、見たことのない何かがあるような気がした。

 

それが希望なのか。

 

新たな失望の始まりなのか。

 

今は、まだ分からなかった。

 

エピローグ 受け継がれるもの

同じ日の夕方。

 

エンデヴァーは、轟家の外に立っていた。

 

息子に、帰れと言われた。

 

彼は、その言葉に従った。

 

それが、正しかったのかどうかは分からない。

 

もっと話すべきだったのかもしれない。

 

もっと謝るべきだったのかもしれない。

 

あるいは、息子が拒絶していることを理由に、向き合う機会を先延ばしにしてしまったのかもしれない。

 

自分の判断が、いつも正しいとは限らない。

 

そのことを、彼は知っていた。

 

それでも、彼は、明日も来るつもりだった。

 

燈矢が拒絶するなら、その意思を尊重する。

 

だが、拒絶されたことを、自分が責任を果たさなくていい理由にはしない。

 

許されないからといって、責任から逃げない。

 

感謝されないからといって、やめない。

 

自分が正しいと認められないからといって、相手の声を聞くことを諦めない。

 

それは、英雄としての戦いとは違う。

 

敵を倒せば終わる戦いではない。

 

勝利を宣言すれば終わる戦いでもない。

 

自分がどれだけ努力しても、相手が自分を許すとは限らない。

 

それでも、続けなければならない。

 

エンデヴァーは、拳を開いた。

 

その手は、数え切れないほどの戦いを経験してきた。

 

だが、今、彼がしなければならないことは、誰かを打ち倒すことではない。

 

自分が何をしたのかを、忘れないこと。

 

そして、自分が傷つけた者たちが、これから何を望むのかを、勝手に決めないこと。

 

彼は、静かに歩き始めた。

 

その背中を、誰も見送らなかった。

 

家族は、まだ彼を許していない。

 

燈矢も、彼を許していない。

 

それでよかった。

 

許されていないという事実は、責任を果たす必要があることを、彼に思い出させる。

 

その夜、轟家の二階では、燈矢がノートを開いていた。

 

昨日、何も書けなかったノート。

 

『もっと強くなる』

 

その文字の下に、燈矢は、ゆっくりと鉛筆を走らせた。

 

何を書くのか。

 

自分でも、分からなかった。

 

しばらく迷ったあと、彼は一行だけ書いた。

 

『俺は、何を望んでいた?』

 

それだけだった。

 

答えは書かなかった。

 

書けなかったのかもしれない。

 

けれど、問いを残した。

 

誰かに与えられた答えではなく。

 

父親が望んだ答えでもなく。

 

家族が期待する答えでもなく。

 

自分自身が、自分に向けた問いだった。

 

燈矢は、ノートを閉じた。

 

その頃、焦凍は、自分の部屋で兄に何を話そうか考えていた。

 

冬美は、翌日の食事の献立を考えていた。

 

冷は、これから自分が燈矢に何を伝えるべきかを考えていた。

 

そして、エンデヴァーは、父親として何をし続けなければならないのかを考えていた。

 

四人が、同じ答えにたどり着いたわけではない。

 

家族の傷が癒えたわけでもない。

 

燈矢の怒りが消えたわけでもない。

 

ただ、それぞれが、自分の意思で、明日へ向かおうとしていた。

 

それが、憤怒の継承を止めるための、最初の一歩だった。

 

怒りを受け継がないということは、怒りを否定することではない。

 

傷ついたことを忘れることでもない。

 

許せない相手を、無理に許すことでもない。

 

自分が何を受け継ぎ、何を受け継がないのかを、自分で選ぶことだ。

 

そして、誰かの怒りを理解しようとすることと、その怒りによって傷つけられた人々を忘れないこと。

 

その両方を、諦めないことだ。

 

轟家の夜は、まだ静かではなかった。

 

それぞれの胸の中で、言えなかった言葉が燃えている。

 

怒りも。

 

悲しみも。

 

後悔も。

 

そして、まだ名前をつけられない願いも。

 

炎は、まだ消えていない。

 

だが、その炎を何に使うのか。

 

誰を傷つけるために使うのか。

 

誰かを守るために使うのか。

 

あるいは、もう誰かを傷つけないために、炎から距離を取るのか。

 

それを決めるのは、炎そのものではない。

 

炎を持つ者自身だ。

 

第六章「憤怒の継承」。

 

その物語は、ここから始まる




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