僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二話「父親という罪」

1 父親のいない食卓

轟家の食卓には、六人分の食器が並んでいた。

 

いや、正確には五人分と、ひとり分だった。

 

席は六つ。

 

箸も、茶碗も、湯飲みも、人数分ある。

 

けれど、その食卓を囲む人間の誰もが、以前と同じ家族に戻ったとは思っていなかった。

 

窓の外では、秋の風が庭木を揺らしている。

 

夕食の時間だった。

 

煮物の匂いが漂っていた。冬美が作ったものだ。焦凍の好きな魚料理もある。夏雄が以前よく食べていた料理も並んでいる。

 

そして、燈矢が子供の頃に好んでいた料理も。

 

それを見つけた燈矢は、しばらく黙っていた。

 

「……なんだよ、これ」

 

誰に向けた言葉なのか、本人にも分からなかった。

 

冬美が振り返る。

 

「え?」

 

「この煮物」

 

「ああ。昔、燈矢が好きだったでしょう?」

 

冬美は、なるべく自然に答えようとしていた。

 

昔と同じように。

 

兄弟が帰ってきたとき、夕食を用意するように。

 

ただそれだけのことだと、自分に言い聞かせるように。

 

燈矢は、器の中を見下ろした。

 

「……よく覚えてたな」

 

「忘れないよ」

 

冬美は微笑んだ。

 

その笑顔は、少しだけ歪んでいた。

 

「家族なんだから」

 

その瞬間。

 

燈矢の箸が止まった。

 

家族。

 

その言葉は、かつて自分を救ってくれるはずだった。

 

家族に認められれば、自分はここにいていい。

 

父親に認められれば、自分は失敗作ではない。

 

弟たちに負けず、父親の望む力を手に入れれば、自分は必要とされる。

 

そう信じていた。

 

だが、今になって、その言葉を聞かされると。

 

「……便利な言葉だな」

 

燈矢は笑った。

 

笑ってしまった。

 

「家族だから忘れない。家族だから帰ってきてほしい。家族だから、もう一度やり直したい」

 

誰も答えない。

 

「じゃあ、俺が死んだときはどうだったんだ?」

 

冬美の表情が固まった。

 

「燈矢……」

 

「俺がいなくなったとき、お前らは何をしてた?」

 

燈矢は顔を上げた。

 

「父さんは、俺が死んだと思った。母さんは、俺が死んだと思った。冬美は、俺が死んだと思った。夏雄も焦凍も、俺が死んだと思った」

 

彼は一人ずつ顔を見た。

 

「それで、どうした?」

 

返事はなかった。

 

「泣いたのか?」

 

燈矢は笑みを深くした。

 

「悲しんだのか? 俺を忘れないって誓ったのか? 毎年、俺の誕生日に何かしたのか?」

 

「やめろ」

 

低い声が響いた。

 

夏雄だった。

 

燈矢が目を向ける。

 

「何だよ」

 

「やめろって言ってんだ」

 

「何で?」

 

「……何でって」

 

夏雄は言葉を探した。

 

怒りはある。

 

今もある。

 

兄が帰ってきたことを喜びたい気持ちも、確かにある。

 

しかし、目の前の男は、自分の兄であると同時に、多くの人間を傷つけた荼毘でもある。

 

夏雄は、その事実を無視できなかった。

 

「みんな、お前が死んだと思ってたんだよ」

 

「だから?」

 

「だから……!」

 

声が大きくなった。

 

夏雄は拳を握る。

 

「だから、何だよ! 父さんが悪い。母さんにも、俺たちにも、いろいろあった。でも、お前が死んだと思って、何も感じなかったわけじゃねえだろ!」

 

燈矢は、じっと夏雄を見た。

 

「……そうか」

 

その声から、先ほどまでの軽薄な笑いが消えた。

 

「感じてたのか」

 

「当たり前だろ」

 

「じゃあ、何で俺はいなかったんだ?」

 

夏雄は答えられなかった。

 

燈矢は、食卓を見回した。

 

「俺が死んだと思ってたなら、俺はもういない人間だったんだろ。思い出すことはできても、ここにいる俺を見つけることはできなかった」

 

その言葉は、夏雄の胸に刺さった。

 

「今さら料理を用意されても、昔の俺は戻ってこねえよ」

 

燈矢は箸を置いた。

 

「……悪いな。せっかく作ってくれたのに」

 

それは、謝罪のようにも聞こえた。

 

しかし、誰もそれを受け取れなかった。

 

燈矢は立ち上がった。

 

「食欲なくなった」

 

「燈矢!」

 

冬美が呼ぶ。

 

「少しだけでも、食べていかない?」

 

燈矢は振り返らなかった。

 

「無理だよ、姉ちゃん」

 

そして、静かに言った。

 

「俺、もう昔の俺じゃねえから」

 

扉が閉まる。

 

残された食卓には、手つかずの料理が並んでいた。

 

冬美は、しばらく立ち尽くしていた。

 

それから、誰にともなく呟いた。

 

「……分かってるよ」

 

声が震えた。

 

「そんなこと、分かってる」

 

それでも、彼女は料理を片づけることができなかった。

 

かつての長男が好きだった料理。

 

帰ってこないと思っていた人間のために、ようやく用意できた料理。

 

その料理が冷めていくのを、冬美はただ見ていた。

 

2 英雄のいない部屋

轟家の別室。

 

エンデヴァーは、ひとりで椅子に座っていた。

 

目の前には、何も置かれていない。

 

報告書もない。

 

事件の資料もない。

 

ヒーローとして処理すべき案件もない。

 

ここにいるのは、No.2だった男でも、かつてNo.1だった男でもなかった。

 

ただの父親だった。

 

そして、父親として、彼はあまりにも多くのことを間違えた。

 

燈矢のことを考える。

 

幼い頃、炎を操る長男は、自分の期待に応えようとしていた。

 

いや。

 

違う。

 

期待に応えようとしていた、という言葉では足りない。

 

燈矢は、父親に見てもらうために努力していた。

 

自分が認められることを、存在する条件だと思い込んでいた。

 

その思い込みを、誰が作ったのか。

 

エンデヴァーは、知っていた。

 

自分だ。

 

自分が、そうなるように仕向けた。

 

最初は、ただの期待だったのかもしれない。

 

自分を超える子供を作る。

 

自分が届かなかった場所へ行ける子供を育てる。

 

自分が見た夢を、次の世代に託す。

 

そんな言葉で、彼は自分の行為を説明してきた。

 

だが、実際にやったことは違った。

 

子供の才能を、自分の目的のために利用した。

 

その才能が子供自身を傷つけていることを知りながら、期待を手放さなかった。

 

そして、期待に応えられなくなった子供を、置き去りにした。

 

燈矢だけではない。

 

焦凍にも同じことをした。

 

冷にも、冬美にも、夏雄にも。

 

自分の夢を中心に家族を配置し、彼らがどんな人間になりたいのかを考えなかった。

 

それが、エンデヴァーの罪だった。

 

「……父親、か」

 

呟いた言葉が、部屋に落ちた。

 

父親という肩書きは、責任を伴う。

 

しかし、彼は長い間、その責任を果たしているつもりでいた。

 

家族を養っている。

 

家を用意している。

 

子供の将来を考えている。

 

自分は努力している。

 

自分は誰よりも強くなろうとしている。

 

だから、家族も自分の努力を理解するべきだ。

 

そんな理屈を、無意識のうちに抱えていた。

 

だが、子供たちは、彼の人生を支えるために生まれたわけではない。

 

冷は、彼の夢を実現するための存在ではない。

 

燈矢は、彼の失敗を埋め合わせるための道具ではない。

 

焦凍は、彼の夢を完成させるための作品ではない。

 

それを理解するのに、どれだけの年月を費やしたのか。

 

そして、理解したところで、何が戻るのか。

 

燈矢の幼少期は戻らない。

 

彼が父親を見上げていた時間も、戻らない。

 

認められたくて努力した日々も、失われたままだ。

 

エンデヴァーは、自分の手を見た。

 

かつて、この手で多くの敵を倒した。

 

市民を救った。

 

街を守った。

 

その功績は、嘘ではない。

 

彼が救った命も、確かに存在する。

 

だが、その功績を理由に、自分の罪が軽くなることはない。

 

市民を救ったことと、子供を傷つけたことは、別々の事実だ。

 

どちらか一方が、もう一方を消すことはない。

 

「……逃げるな」

 

自分自身に言い聞かせた。

 

「逃げるな、轟炎司」

 

名前を口にする。

 

エンデヴァーではない。

 

ヒーローとしての名前ではない。

 

自分が、かつて何者だったかを隠すための肩書きでもない。

 

轟炎司。

 

ひとりの人間として。

 

ひとりの父親として。

 

自分の罪を見ろ。

 

そう思ったとき、扉が開いた。

 

「……父さん」

 

焦凍だった。

 

エンデヴァーは顔を上げた。

 

「焦凍」

 

息子は、部屋の入口で立ち止まっていた。

 

何かを言いに来たのだろう。

 

だが、すぐには言葉が出てこない。

 

エンデヴァーは、椅子から立ち上がろうとして、やめた。

 

今までの自分なら、まず姿勢を正していたかもしれない。

 

父親らしく。

 

ヒーローらしく。

 

自分が主導権を握れるように。

 

だが、ここでそんなことをする意味はない。

 

「……座るか」

 

「いや」

 

焦凍は首を横に振った。

 

「立ってる」

 

「そうか」

 

沈黙が流れた。

 

焦凍は、父親の顔を見た。

 

以前より老けた。

 

戦いの傷も残っている。

 

それでも、焦凍は同情する気にはなれなかった。

 

父親が苦しんでいることは分かる。

 

自分の罪を悔いていることも、分かる。

 

しかし、その苦しみを見て、自分が父親を慰める必要があるとは思わなかった。

 

「……燈矢兄さんと、話すんだろ」

 

「ああ」

 

「何を話すつもりだ?」

 

エンデヴァーは、すぐには答えなかった。

 

以前なら、答えを用意していただろう。

 

どう償うのか。

 

どう責任を取るのか。

 

どうすれば家族を守れるのか。

 

だが、今は違う。

 

「分からない」

 

焦凍は目を細めた。

 

「分からない?」

 

「ああ」

 

エンデヴァーは息を吐いた。

 

「何を言えばいいのか、分からない。何を言っても、私の言葉は燈矢を傷つけるかもしれない。謝罪をすれば、許しを求めていると思われるかもしれない。責任を取ると言えば、また自分の判断で何かを決めようとしていると思われるかもしれない」

 

焦凍は黙って聞いていた。

 

「……だからといって、何も言わないことも、逃げることになる」

 

「そうだな」

 

焦凍は、あっさりと答えた。

 

エンデヴァーは、その言葉に目を伏せた。

 

息子の言葉は厳しかった。

 

しかし、間違ってはいなかった。

 

「父さん」

 

焦凍が言った。

 

「兄さんに謝るのは、いいと思う」

 

エンデヴァーは顔を上げた。

 

「でも、兄さんが許さなかったら?」

 

「……許さなくても、謝罪を続ける」

 

「それは、兄さんが許すまで謝り続けるってことか?」

 

エンデヴァーは言葉を失った。

 

焦凍は、父親から目をそらさなかった。

 

「兄さんが許さないって言ってるのに、何度も謝って、何度も自分の反省を見せて、それでいつか許してもらおうとするなら。それって結局、兄さんに許してもらうことを目的にしてるんじゃないのか」

 

その指摘は、鋭かった。

 

エンデヴァーは、反論できなかった。

 

自分は償いたい。

 

家族に認められたいわけではない。

 

そう言い切れるだろうか。

 

燈矢が自分を許してくれたら。

 

冷が自分を許してくれたら。

 

夏雄が、焦凍が、冬美が、自分を父親として受け入れてくれたら。

 

そんな願いが、心のどこかに残っていないと言えるだろうか。

 

「……私は」

 

エンデヴァーは、ゆっくりと口を開いた。

 

「まだ、自分のために償おうとしているのかもしれない」

 

焦凍は答えなかった。

 

「許されたい。認められたい。父親として、もう一度やり直したい。そう願っているのかもしれない」

 

エンデヴァーは、自分の手を握った。

 

「だが、それを燈矢に求めることはできない」

 

焦凍は、少しだけ視線を落とした。

 

「……そうだな」

 

「焦凍」

 

「何だ?」

 

「お前にも、同じことをした」

 

焦凍の表情が変わった。

 

エンデヴァーは、続けた。

 

「お前にも、私を許してほしいと思っている。父親としてやり直したいと思っている。だが、それをお前に求めることはできない」

 

「……分かってるなら、いい」

 

焦凍の声は冷たかった。

 

しかし、それは父親を完全に拒絶する声ではなかった。

 

少なくとも、今の焦凍には、父親が自分の言葉を聞いていることが分かった。

 

「俺は、父さんを許したわけじゃない」

 

「ああ」

 

「今でも、許せないことはある」

 

「ああ」

 

「それでも、父さんが何をするのかは見てる」

 

エンデヴァーは息子を見た。

 

焦凍は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「言葉じゃなくて、これから何をするのかを」

 

それだけ言うと、焦凍は部屋を出ていった。

 

扉が閉まる。

 

エンデヴァーは、ひとり残された。

 

息子は、自分を許してはいない。

 

だが、見ていると言った。

 

その言葉を、希望と呼んではいけない気がした。

 

息子が自分を見ていることを、許しの前兆だと考えてしまえば、また自分の都合で意味を与えることになる。

 

だから、エンデヴァーは、その言葉をそのまま受け取ることにした。

 

焦凍は、自分を見ている。

 

ただ、それだけだ。

 

その視線に応えるかどうかは、自分の責任だった。

 

3 母親の沈黙

その夜、冷は庭にいた。

 

肌寒い風が吹いていた。

 

彼女は、庭の片隅にある木を見つめていた。

 

かつて、燈矢が庭で炎を操る練習をしていた頃。

 

彼は、よくこの場所にいた。

 

父親に見せるために。

 

父親に認められるために。

 

自分の体が炎に耐えられないことを、まだ十分に理解していなかった頃。

 

冷は、何度も止めようとした。

 

「もうやめなさい」

 

「体を冷やして」

 

「無理をしないで」

 

しかし、燈矢は聞かなかった。

 

「大丈夫だよ、母さん」

 

そう言って笑った。

 

あの子は、いつも笑っていた。

 

父親に褒められたときは、もっと笑った。

 

父親が自分を見てくれたときは、誰よりも嬉しそうだった。

 

冷は、その笑顔を見るたびに、胸が痛くなった。

 

嬉しかったのだ。

 

息子が喜んでいることが。

 

同時に、恐ろしかった。

 

その喜びが、父親の評価に依存していることを知っていたから。

 

燈矢は、父親に認められたい。

 

父親に認められるためなら、自分の体を傷つけてもいいと思っている。

 

それなのに、自分は何ができたのだろう。

 

止めることはできなかった。

 

父親に逆らうこともできなかった。

 

家族を守るべき母親でありながら、彼女は自分自身の恐怖に囚われていた。

 

そして、燈矢がいなくなった。

 

死んだと思った。

 

その事実を受け止めることができなかった。

 

冷は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「……ごめんなさい」

 

声が漏れた。

 

誰に向けた言葉なのか、分からなかった。

 

燈矢に。

 

焦凍に。

 

冬美に。

 

夏雄に。

 

あるいは、過去の自分に。

 

「……ごめんなさい」

 

もう一度、呟いた。

 

「私、あなたを守りたかったの」

 

その言葉は、言い訳だった。

 

守りたかった。

 

けれど、守れなかった。

 

恐ろしかった。

 

だから、動けなかった。

 

それは事実だ。

 

しかし、その事実を語ることで、燈矢の苦しみが軽くなるわけではない。

 

冷は、自分がどれほど傷ついていたかを知っている。

 

自分がどれほど追い詰められていたかも、知っている。

 

だからこそ、今なら分かる。

 

自分の苦しみを説明することと、息子に与えた苦しみの責任を果たすことは、別なのだ。

 

「母さん」

 

声がした。

 

冷は振り返った。

 

燈矢が立っていた。

 

「……燈矢」

 

「こんなところにいたんだ」

 

燈矢は、ゆっくりと近づいてきた。

 

冷は、何かを言おうとした。

 

謝りたかった。

 

抱きしめたかった。

 

昔のように、頭を撫でてやりたかった。

 

しかし、どれもできなかった。

 

燈矢は、もう幼い子供ではない。

 

そして、今ここにいる息子は、母親が覚えている燈矢とは違う。

 

冷は、息を吸った。

 

「……寒くない?」

 

言ってから、何を言っているのだろうと思った。

 

そんなことを聞きたかったわけではない。

 

もっと大切なことがあるはずだった。

 

燈矢は、一瞬だけ目を丸くした。

 

そして、笑った。

 

「何それ」

 

「……ごめんなさい」

 

冷は、うつむいた。

 

「違うの。そうじゃなくて……」

 

言葉が出てこない。

 

燈矢は、黙っていた。

 

冷は、震える声で続けた。

 

「あなたに、何を言えばいいのか分からない」

 

燈矢の表情から、笑みが消えた。

 

「……そうか」

 

「謝りたい。でも、謝っても……」

 

「何も戻らない?」

 

冷は、答えられなかった。

 

燈矢は庭木を見上げた。

 

「そうだな」

 

風が吹いた。

 

枝が揺れる。

 

「何も戻らないよ」

 

冷の目から、涙がこぼれた。

 

「……ごめんなさい」

 

燈矢は、母親を見た。

 

「母さん」

 

「……はい」

 

「俺さ」

 

彼は、しばらく言葉を探していた。

 

「昔、母さんに止めてほしかったんだ」

 

冷は顔を上げた。

 

「父さんが、俺を見てくれなくなったとき。俺が無理してるって分かったとき。もうやめろって、言ってほしかった」

 

「……うん」

 

「でも、止められたら、俺は怒ったと思う」

 

冷は唇を噛んだ。

 

「父さんに認めてもらいたかったから。父さんが俺を見てくれないのに、母さんまで俺を止めたら、俺にはもう何も残らないって思ったから」

 

燈矢は、笑った。

 

自嘲するような笑みだった。

 

「面倒くさいガキだったよな」

 

「そんなこと……」

 

「あるよ」

 

燈矢は遮った。

 

「俺、自分が正しいと思ってた。父さんに認められるのが当然だと思ってた。俺が一番頑張ってるんだから、俺が一番認められるべきだって」

 

彼は、冷を見た。

 

「でも、俺は子供だったんだよ。子供だったから、父さんに認めてもらえなきゃ、自分に価値がないと思ってた」

 

冷は、何も言えなかった。

 

「だから、母さんに止めてほしかった」

 

燈矢は、ゆっくりと続けた。

 

「……止めてほしかったけど、止められたくなかった」

 

冷は、息を呑んだ。

 

「俺を見てほしかった。俺が間違ってるって言ってほしかった。でも、俺が間違ってるって言われたら、父さんに認めてもらう道がなくなると思ってた」

 

燈矢は、自分の手を見た。

 

「……どうしようもなかったんだよ、あの頃の俺は」

 

その声には、怒りだけではないものが混ざっていた。

 

悲しみ。

 

悔しさ。

 

そして、幼い頃の自分への、どうしようもない諦め。

 

冷は、涙を拭いた。

 

「……私は、あなたを守れなかった」

 

「うん」

 

「あなたが苦しんでいることを知っていたのに、止められなかった」

 

「うん」

 

「怖かったの。炎も、あなたのことも、炎司さんのことも。どうすればいいのか分からなくて……」

 

燈矢は、母親を見つめた。

 

冷は、そこで言葉を切った。

 

自分の恐怖を説明し続ければ、また同じことになる。

 

彼女は、息を整えた。

 

「……でも、怖かったからといって、あなたを守れなかったことがなくなるわけではない」

 

燈矢の目が揺れた。

 

冷は続けた。

 

「私は、あなたの母親だった。あなたが何を望んでいたのか、もっと知ろうとするべきだった。あなたが父親に認められることだけを、自分の価値だと思い込んでいると気づいたとき、もっと必死に向き合うべきだった」

 

彼女は、頭を下げた。

 

「ごめんなさい、燈矢」

 

庭に、沈黙が落ちた。

 

燈矢は、しばらく動かなかった。

 

それから、小さく息を吐いた。

 

「……母さん」

 

「はい」

 

「俺、母さんのことも、恨んでたよ」

 

冷は目を閉じた。

 

「……うん」

 

「何で止めてくれなかったんだって。何で俺を見てくれなかったんだって。何で俺がいなくなったあと、俺の代わりに悲しんでくれるんだって」

 

冷の肩が震えた。

 

「……うん」

 

「でもさ」

 

燈矢は、空を見上げた。

 

「俺、母さんが俺を守ろうとしてたことも、知ってたんだよ」

 

冷は顔を上げた。

 

「だから、余計に腹が立った」

 

燈矢の声が低くなる。

 

「守ろうとしてくれてたのに、守れなかった。俺を心配してくれてたのに、俺が何を望んでるのか、最後まで分かってくれなかった」

 

彼は、苦しそうに笑った。

 

「……俺、母さんにまで、俺のことを分かってほしかったんだ」

 

冷は、涙を流した。

 

「……うん」

 

「今さらだけどな」

 

「……うん」

 

「今さら、分かってもらっても、何も戻らない」

 

冷は、何度も頷いた。

 

「……うん」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

そして、ぽつりと言った。

 

「……でも、話せてよかった」

 

冷は、息を止めた。

 

燈矢は、すぐに付け加えた。

 

「許したわけじゃねえからな」

 

「……分かってる」

 

「母さんが悪くなかったって言うつもりもない」

 

「……うん」

 

「ただ、俺が何を思ってたか、言いたかった」

 

冷は、涙を拭いた。

 

「聞かせてくれて、ありがとう」

 

燈矢は、困ったように顔をしかめた。

 

「……そういうところ、昔から変わんねえな」

 

「そう?」

 

「すぐ、ありがとうって言う」

 

冷は、ほんの少しだけ笑った。

 

「あなたが話してくれたから」

 

燈矢は、何も答えなかった。

 

二人は、しばらく庭に立っていた。

 

母と息子。

 

けれど、失われた時間は戻らない。

 

その夜、二人が取り戻したものは、過去ではなかった。

 

互いが何を考えていたのか、何を望み、何を失ったのか。

 

その一部を、ようやく言葉にできた。

 

それだけだった。

 

それだけのことが、どれほど難しかったのか。

 

二人は、ようやく知り始めていた。

 

4 長男の罪

翌朝。

 

轟家の居間に、燈矢は座っていた。

 

目の前には、冬美が置いたコーヒーがある。

 

燈矢は、カップを手に取らなかった。

 

「……で?」

 

彼は、正面に座る焦凍を見た。

 

「何か話があるんだろ、弟」

 

焦凍は頷いた。

 

「兄さんに聞きたいことがある」

 

「何だよ」

 

「……兄さんは、何がしたいんだ?」

 

燈矢は、目を細めた。

 

「何がしたい、ねえ」

 

「父さんに復讐したかったのか。家族に戻りたかったのか。それとも、別の何かがあるのか」

 

焦凍は、言葉を選びながら続けた。

 

「俺は、兄さんの気持ちを知りたい」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

それから、笑った。

 

「知ってどうすんだよ」

 

「……考える」

 

「考える?」

 

「兄さんが何を望んでるのか分からないまま、俺が勝手に救おうとしても、意味がないと思うから」

 

燈矢は、カップに視線を落とした。

 

「……なるほどね」

 

彼は、ゆっくりと背もたれに寄りかかった。

 

「俺が何を望んでるのか、か」

 

少し考えてから、言った。

 

「愛されたかった」

 

焦凍は、黙っていた。

 

「父さんに認められたかった。俺が一番になりたかった。父さんの期待に応えたかった。俺が頑張ってるところを、見てほしかった」

 

燈矢は、ひとつずつ言葉を並べた。

 

「……それだけだったんだよ、最初は」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「それが、いつの間にか、父さんに認められないなら、父さんを苦しめてやろうって思うようになった」

 

焦凍は、静かに聞いていた。

 

「俺が苦しんだ分、父さんにも苦しんでほしかった。俺が失ったものを、父さんにも失わせたかった」

 

燈矢は顔を上げた。

 

「……だから、荼毘になった」

 

その名前が、居間に落ちた。

 

燈矢。

 

荼毘。

 

同じ人間の中にある、二つの名前。

 

かつて父親に認められたかった子供と、父親を破壊するために生きることを選んだ男。

 

その二つは、切り離せなかった。

 

「……兄さん」

 

焦凍が口を開いた。

 

「兄さんが、父さんを憎んでたことは分かる」

 

燈矢は笑った。

 

「本当に?」

 

「分かったつもりにはなりたくない。でも、父さんが兄さんに何をしたのかは知ってる」

 

焦凍は、少しだけ視線を落とした。

 

「俺も、同じ家で育ったから」

 

燈矢の表情が変わった。

 

「……お前は、俺とは違うだろ」

 

「違うよ」

 

焦凍は即答した。

 

「俺は兄さんじゃない。兄さんが感じたことを、全部理解できるわけじゃない」

 

彼は、兄を見た。

 

「でも、俺も父さんに、自分の人生を決められた」

 

燈矢は黙った。

 

「俺が何を望んでるのかじゃなくて、父さんが俺に何を望んでるのかが大事だった。俺がどう生きたいのかじゃなくて、父さんが俺にどう生きてほしいのかが大事だった」

 

焦凍は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「だから、兄さんが父さんを憎んだ理由は、分かる部分がある」

 

「……そうか」

 

「でも」

 

焦凍の声が変わった。

 

「兄さんがしたことを、全部正しいとは思わない」

 

燈矢は、動かなかった。

 

「兄さんは、たくさんの人を傷つけた。兄さんが苦しんでいたことと、兄さんが人を傷つけたことは、別の話だ」

 

焦凍は、まっすぐに兄を見つめた。

 

「兄さんが父さんにされたことを、俺はなかったことにしたくない。でも、兄さんが他の人にしたことも、なかったことにしたくない」

 

燈矢の目が細くなった。

 

「……何だよ。俺を裁くのか?」

 

「違う」

 

「じゃあ、何だよ」

 

焦凍は答えた。

 

「兄さんと話したいんだ」

 

「話して、どうする?」

 

「……分からない」

 

燈矢は、鼻で笑った。

 

「何だよ。お前まで分からないのか」

 

「分からないよ」

 

焦凍は、目をそらさなかった。

 

「兄さんをどうすれば救えるのか、分からない。そもそも、俺が兄さんを救えるのかも分からない」

 

燈矢は黙っていた。

 

「でも、兄さんが何を考えていたのかを聞くことはできる。兄さんが何を望んでいるのかを知ろうとすることはできる」

 

焦凍は、言葉を区切った。

 

「……それと、兄さんがしたことを許すことは、別だと思う」

 

燈矢は、しばらく焦凍を見ていた。

 

やがて、低い声で言った。

 

「……お前、変わったな」

 

「そうか?」

 

「昔は、もっと素直だった」

 

「……そうかもしれない」

 

「父さんに反抗してたくせに、何だかんだ言って、父さんのことを気にしてた」

 

焦凍は、少しだけ苦笑した。

 

「今でも、気にはしてるよ」

 

「へえ」

 

「でも、父さんのために生きるつもりはない」

 

燈矢は、目を見開いた。

 

焦凍は続けた。

 

「兄さんのためだけに生きるつもりもない」

 

「……何だと?」

 

「兄さんを救いたいと思ってる。でも、それで俺の人生を全部兄さんに捧げるつもりはない」

 

焦凍は、まっすぐに兄を見つめた。

 

「兄さんにも、俺にも、それぞれの人生があるから」

 

燈矢は、言葉を失った。

 

それは、彼がかつて最も欲しかったものだった。

 

自分の人生。

 

自分の未来。

 

自分が何を望むのかを、自分で決められること。

 

だが、燈矢はその自由を、父親への復讐に使った。

 

父親の人生を壊すことが、自分の人生を取り戻すことだと思っていた。

 

しかし、焦凍は違う道を選んでいる。

 

父親を憎みながら、父親の人生に囚われない。

 

兄を救いたいと思いながら、兄の人生を自分のものにしない。

 

その姿は、燈矢には理解しがたいものだった。

 

「……お前、俺を見捨てるつもりか?」

 

思わず、言葉が出た。

 

焦凍は目を見開いた。

 

燈矢自身も、自分がそんなことを言ったことに驚いていた。

 

だが、一度口にしてしまった言葉は、戻らない。

 

焦凍は、ゆっくりと答えた。

 

「見捨てない」

 

燈矢の顔が、わずかに動いた。

 

「でも、兄さんの代わりに生きることはできない」

 

焦凍は、続けた。

 

「兄さんが自分の罪と向き合うことを、俺が代わりにやることはできない。兄さんが誰かに謝ることも、誰かを傷つけたことの責任を取ることも、俺には代われない」

 

燈矢は、黙っていた。

 

「俺にできるのは、兄さんが何を考えているのかを聞くこと。兄さんが、これからどうしたいのかを一緒に考えること。それから……」

 

焦凍は、少しだけ言葉に詰まった。

 

「……兄さんが間違ったことをしたら、それを間違ってるって言うことだ」

 

燈矢は、笑った。

 

今度の笑いは、先ほどまでとは違った。

 

「……厳しいねえ、弟くん」

 

「そうか?」

 

「ああ。父さんに似てきたんじゃねえの?」

 

焦凍の表情が険しくなった。

 

燈矢は、すぐに手を振った。

 

「冗談だよ」

 

「……そういう冗談はやめてくれ」

 

「悪い悪い」

 

燈矢は笑い続けた。

 

だが、その笑顔の奥に、焦凍は別のものを見た気がした。

 

不安。

 

恐怖。

 

そして、ほんの少しの期待。

 

燈矢は、焦凍が自分を見捨てないと言ったことに、安堵していた。

 

しかし、同時に恐れてもいた。

 

自分が望んだものを与えてくれない相手。

 

自分の苦しみを理解しても、すべてを肯定してはくれない相手。

 

それは、かつての父親とは違う意味で、燈矢を不安にさせる存在だった。

 

焦凍は、立ち上がった。

 

「……兄さん」

 

「何だよ」

 

「また、話そう」

 

燈矢は、すぐには答えなかった。

 

焦凍は続けた。

 

「一度話しただけで、全部分かったことにはならないから」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

そして、小さく頷いた。

 

「……ああ」

 

焦凍は、居間を出ていった。

 

燈矢は、ひとり残された。

 

目の前には、冷めたコーヒーがあった。

 

彼は、カップを手に取った。

 

ひと口飲む。

 

苦かった。

 

「……まず」

 

そう呟いたあと、燈矢は少しだけ笑った。

 

久しぶりに、誰かと話した気がした。

 

自分の苦しみを説明するためではなく。

 

相手を傷つけるためでもなく。

 

自分の罪を正当化するためでもなく。

 

ただ、自分が何を望んでいたのかを、言葉にするために。

 

それだけのことが、こんなにも難しい。

 

燈矢は、窓の外を見た。

 

庭の木が揺れている。

 

あの木の下で、昔の自分は炎を操っていた。

 

父親に認められるために。

 

自分の存在を証明するために。

 

あの頃の自分に、今の自分は何を言えるだろう。

 

頑張れば、父親が認めてくれる。

 

そう信じている子供に。

 

「……やめとけ」

 

燈矢は、呟いた。

 

「頑張っても、欲しいものが手に入るとは限らねえぞ」

 

少し考えてから、続けた。

 

「……でも、欲しかったってことまで、間違いだったわけじゃねえ」

 

彼は目を閉じた。

 

その言葉が、誰に向けたものなのか。

 

今の自分に向けたものなのか。

 

それとも、もう戻らない幼い自分に向けたものなのか。

 

燈矢には、分からなかった。

 

5 父親の罪を、息子に背負わせない

昼過ぎ。

 

エンデヴァーは、燈矢がいる部屋の前に立っていた。

 

扉を叩くべきか、迷っていた。

 

今までの自分なら、迷わなかっただろう。

 

必要だと思えば、行動した。

 

自分が正しいと思えば、相手にも従わせようとした。

 

だが、今は違う。

 

燈矢には、話を聞く義務がない。

 

自分の謝罪を受け入れる義務もない。

 

父親だからといって、息子の時間を自由に使っていいわけではない。

 

エンデヴァーは、扉を叩いた。

 

「……燈矢」

 

返事はなかった。

 

「私だ」

 

沈黙。

 

エンデヴァーは、もう一度、口を開いた。

 

「……話をしたい」

 

しばらくして、部屋の中から声がした。

 

「何を?」

 

エンデヴァーは息を吸った。

 

「謝罪をしたい」

 

「……へえ」

 

燈矢の声には、皮肉が混ざっていた。

 

「謝罪ねえ」

 

エンデヴァーは、黙っていた。

 

「入っていいよ」

 

扉が開いた。

 

燈矢はベッドに腰掛けていた。

 

エンデヴァーは、部屋に入った。

 

そして、息子から少し距離を取って立ち止まった。

 

「……座れば?」

 

燈矢が言った。

 

エンデヴァーは、椅子に座った。

 

二人の間に、沈黙が流れた。

 

先に口を開いたのは、エンデヴァーだった。

 

「燈矢」

 

「何?」

 

「……私は、お前に謝らなければならない」

 

燈矢は、顔を上げた。

 

エンデヴァーは、続けた。

 

「お前を、自分の夢のために利用した。お前が私に認められたいと願っていることを知りながら、その願いを利用した」

 

燈矢は、黙っていた。

 

「お前が無理をしていることを知りながら、止めなかった。お前の体が炎に耐えられないと分かったとき、私はお前を守るべきだった」

 

エンデヴァーは、拳を握った。

 

「だが、私はお前を守らなかった。お前が私の期待に応えられないと判断したとき、お前を見捨てた」

 

燈矢の表情が変わった。

 

「……見捨てた?」

 

「そうだ」

 

エンデヴァーは、目をそらさなかった。

 

「お前の人生を、私の目的のために使った。そして、お前がその目的を果たせなくなったとき、お前自身を見ようとしなかった」

 

燈矢は、しばらく父親を見つめていた。

 

やがて、低い声で言った。

 

「……今さらだな」

 

「ああ」

 

「遅すぎるんだよ」

 

「ああ」

 

「俺が何年、父さんに認めてもらいたくて頑張ったと思ってんだ?」

 

「……分からない」

 

「何年だよ」

 

燈矢の声が強くなった。

 

「何年、俺が父さんのことを考えてたと思ってんだよ!」

 

エンデヴァーは、動かなかった。

 

「父さんが俺を見てくれない。父さんが俺を認めてくれない。父さんが俺を必要としてくれない。だから、もっと頑張ろう。もっと強くなろう。もっとすごい炎を出そう。もっと、もっと、もっと!」

 

燈矢は、立ち上がった。

 

「それなのに、父さんは俺を見捨てた!」

 

声が部屋に響いた。

 

「俺がいなくなったら、焦凍を育てた! 俺がいなくなったら、俺の代わりを作った! 俺が死んだと思ったら、もう俺のことなんか終わったことにした!」

 

エンデヴァーは、唇を噛んだ。

 

「……その通りだ」

 

燈矢は、目を見開いた。

 

「……何?」

 

「私は、お前を見捨てた」

 

エンデヴァーは、ゆっくりと頭を下げた。

 

「お前の苦しみを理解しようとせず、自分の目的を優先した。お前がいなくなった後も、私は自分の罪と正面から向き合わなかった」

 

燈矢は、父親を見下ろした。

 

「……謝れば済むと思ってんのか?」

 

「思っていない」

 

「じゃあ、何で謝るんだよ!」

 

エンデヴァーは、顔を上げた。

 

「謝罪をしなければならないからだ」

 

燈矢は、黙った。

 

「お前に許してもらうためではない。私が楽になるためでもない。お前に与えた傷を、なかったことにしないためだ」

 

エンデヴァーは、言葉を選びながら続けた。

 

「謝罪したからといって、お前の苦しみが消えるわけではない。私が責任を認めたからといって、お前が私を許さなければならないわけでもない」

 

燈矢の手が震えた。

 

「……じゃあ、どうすんだよ」

 

「責任を果たす」

 

「どうやって?」

 

「……分からないこともある」

 

燈矢は笑った。

 

「またそれかよ」

 

「ああ」

 

エンデヴァーは、頷いた。

 

「分からないことを、分かったふりはしない。お前が何を望んでいるのかを聞く。だが、お前が答えたくないなら、無理に聞き出そうとはしない」

 

「……へえ」

 

「お前が私を許さなくても、責任を果たす。お前が私を憎み続けても、責任を果たす。お前が私を父親だと思いたくないなら、その気持ちも受け止める」

 

燈矢は、父親を睨んだ。

 

「……それで、父親をやり直したつもりか?」

 

「違う」

 

エンデヴァーは、即答した。

 

「やり直せるとは思っていない」

 

燈矢の表情が固まった。

 

「お前の子供時代は、戻らない。私がお前に与えた苦しみも、取り消せない。私は、お前が失ったものを返すことができない」

 

エンデヴァーは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「だからこそ、これからの責任を果たすしかない」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

その顔には、怒りがあった。

 

失望もあった。

 

そして、言葉にできない何かがあった。

 

「……父さん」

 

「何だ」

 

「俺は、父さんが苦しむところを見たかったんだ」

 

エンデヴァーは、目を閉じた。

 

「……そうか」

 

「俺が苦しんだ分、父さんにも苦しんでほしかった。父さんが何もかも失って、俺と同じように、自分には価値がないって思えばいいと思ってた」

 

燈矢は、笑った。

 

「……でも、父さんが苦しんでるのを見ると、腹が立つんだよ」

 

エンデヴァーは、顔を上げた。

 

「……なぜだ」

 

「分かんねえよ」

 

燈矢は、苛立たしげに髪をかき上げた。

 

「俺が望んでたことなのに。父さんが苦しんでるのを見たら、すっきりすると思ってたのに。いざ目の前で苦しんでると、何か違うんだよ」

 

彼は、父親を見た。

 

「俺が欲しかったのは、こんなもんじゃなかった」

 

エンデヴァーは、何も言わなかった。

 

「俺が欲しかったのは、父さんが苦しむことじゃなかったんだよ」

 

燈矢の声が震えた。

 

「……いや、苦しんでほしかったのは本当だ。俺が苦しんだ分、父さんにも苦しんでほしかった。それは嘘じゃねえ」

 

彼は、目を伏せた。

 

「でも、本当は……」

 

言葉が止まった。

 

エンデヴァーは、待った。

 

燈矢は、しばらくして、ようやく口を開いた。

 

「……俺を見てほしかった」

 

その声は、驚くほど小さかった。

 

「父さんに、俺を見てほしかったんだよ」

 

エンデヴァーは、動けなかった。

 

「俺が何をしてきたのか。何を失ったのか。どれだけ苦しかったのか。何で俺が、こんなことをするようになったのか」

 

燈矢は、父親を見た。

 

「俺が、どれだけ父さんを憎んでるのか。どれだけ父さんに認められたかったのか」

 

彼は、笑った。

 

「……それを、見てほしかった」

 

エンデヴァーの喉が詰まった。

 

謝罪の言葉が、出てこなかった。

 

何を言っても、今度こそ息子の言葉を自分の言葉で覆い隠してしまう気がした。

 

燈矢は、しばらく父親を見つめていた。

 

そして、静かに言った。

 

「……だから、今は見ろよ」

 

エンデヴァーは、顔を上げた。

 

「……何?」

 

「俺を見ろって言ってんだよ」

 

燈矢は、目をそらさなかった。

 

「父さんが、俺に何をしたのか。俺が、父さんをどう思ってるのか。俺が、何を望んでたのか」

 

彼は、一歩近づいた。

 

「……今度こそ、目をそらすな」

 

エンデヴァーは、息子を見つめた。

 

炎を操っていた幼い長男。

 

自分の期待に応えようと、必死に努力していた子供。

 

そして、荼毘と名乗り、父親への憎しみを燃やし続けた男。

 

そのすべてが、今、目の前にいた。

 

エンデヴァーは、深く頭を下げた。

 

「……ああ」

 

それだけしか、言えなかった。

 

「目をそらさない」

 

燈矢は、何も答えなかった。

 

許したわけではない。

 

和解したわけでもない。

 

ただ、父親に自分を見ろと言った。

 

父親は、それを受け止めた。

 

今は、それだけだった。

 

6 許されないことを、受け入れる

その日の夕方。

 

エンデヴァーは、家族全員を居間に集めた。

 

冬美、夏雄、焦凍、冷、そして燈矢。

 

六人が揃っていた。

 

かつては当たり前だった光景。

 

今では、ひどく不自然な光景だった。

 

エンデヴァーは、全員を見回した。

 

「……話がある」

 

夏雄が腕を組んだ。

 

「何だよ」

 

「私のことだ」

 

その言葉に、夏雄の顔が険しくなった。

 

エンデヴァーは、続けた。

 

「これまで、私は自分の罪を償うことばかり考えてきた。家族に謝罪し、責任を果たし、これ以上誰も傷つけないようにすること。それ自体は必要なことだ」

 

彼は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「だが、私はその中に、自分が許されたいという願いを混ぜていたのかもしれない」

 

冬美が顔を上げた。

 

冷は、静かに聞いていた。

 

「お前たちに許してほしい。父親として認めてほしい。もう一度、家族として受け入れてほしい。そう願っていた」

 

エンデヴァーは、頭を下げた。

 

「……だが、その願いをお前たちに押しつけることはできない」

 

夏雄が、低い声で言った。

 

「……今さら気づいたのかよ」

 

「ああ」

 

「遅すぎるだろ」

 

「ああ」

 

「俺たちがどれだけ苦しんだと思ってんだ」

 

エンデヴァーは、顔を上げた。

 

「……分からない」

 

夏雄の眉が動いた。

 

「分からない、だと?」

 

「お前たちが何を感じ、何を失い、何を望んでいたのか。私は、今でもすべてを理解しているわけではない」

 

エンデヴァーは、続けた。

 

「だが、分からないことを理由に、責任を放棄するつもりはない」

 

夏雄は、黙った。

 

「お前たちが私を許さなくても、私は責任を果たす。お前たちが私を父親と認めなくても、私は自分が父親として犯した罪から逃げない」

 

エンデヴァーは、深く頭を下げた。

 

「……本当に、すまなかった」

 

沈黙が流れた。

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

やがて、夏雄が口を開いた。

 

「……俺は、父さんを許さない」

 

エンデヴァーは、頷いた。

 

「分かった」

 

「いや、分かったとか、簡単に言うなよ」

 

夏雄の声が強くなった。

 

「俺は、本当に許さないんだ。父さんが反省してるからとか、燈矢兄が帰ってきたからとか、そういうことで変わるもんじゃねえ」

 

「ああ」

 

「俺は、父さんがいない家族になりたかったことだってある。父さんがいなければ、母さんも、兄さんも、俺たちも、もっと違う人生を送れたんじゃないかって、何度も思った」

 

夏雄は、拳を握った。

 

「……だから、父さんが責任を取るって言っても、俺はそれで納得するわけじゃない」

 

「それでいい」

 

エンデヴァーは、静かに答えた。

 

夏雄は、顔を歪めた。

 

「……何だよ、それ」

 

「お前が納得できないことを、私が無理に納得させることはできない」

 

「……」

 

「私は、責任を果たす。お前が許すかどうかとは関係なく」

 

夏雄は、何も言えなかった。

 

その言葉は、彼が父親に求めていたものとは違った。

 

もっと怒ってほしかったのかもしれない。

 

言い訳してほしくなかった。

 

反省していると言うなら、その反省が本物かどうかを、もっと分かりやすく示してほしかった。

 

だが、父親は、許しを求めなかった。

 

それは、夏雄にとって、簡単に受け入れられることではなかった。

 

冬美が、静かに口を開いた。

 

「……私も、まだ許せないことがある」

 

エンデヴァーは、娘を見た。

 

「でも、家族がもう一度集まれたことを、嬉しいと思っている自分もいる」

 

冬美は、苦笑した。

 

「それって、矛盾してるのかな」

 

「……いや」

 

冷が答えた。

 

「矛盾していても、いいんじゃないかしら」

 

全員が、冷を見た。

 

冷は、ゆっくりと続けた。

 

「私も、炎司さんを許せない。燈矢のことも、焦凍のことも、忘れられない。でも、今ここにいる子供たちのことを、愛している」

 

彼女は、燈矢を見た。

 

「燈矢が帰ってきてくれたことを、嬉しいと思っている。でも、燈矢が犯したことを、なかったことにはできない」

 

燈矢は、母親を見つめていた。

 

「……だから、私は、許すか許さないかだけで、家族のことを決めたくない」

 

冷は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「許せないことがあっても、話すことはできる。傷ついたことがあっても、相手の言葉を聞くことはできる。でも、だからといって、必ず仲直りしなければならないわけではない」

 

彼女は、エンデヴァーを見た。

 

「……私たちは、家族だから」

 

少し間を置いて、付け加えた。

 

「でも、家族だからこそ、無理に許し合う必要もないと思うの」

 

エンデヴァーは、深く頭を下げた。

 

「……ありがとう」

 

冷は、首を横に振った。

 

「お礼を言われることではないわ」

 

彼女は、静かに答えた。

 

「私も、これから考えていくことだから」

 

焦凍は、家族を見回した。

 

誰も、すべてを解決できてはいない。

 

燈矢は、父親を許していない。

 

夏雄も、許していない。

 

冬美は、家族を大切に思う一方で、傷ついた過去を忘れられない。

 

冷も、過去の自分の責任と向き合っている。

 

そして焦凍自身も、父親への怒りを消したわけではなかった。

 

それでも、今、全員が同じ部屋にいる。

 

誰かが誰かの気持ちを勝手に決めず。

 

誰かが誰かに許しを強制せず。

 

ただ、それぞれが自分の言葉で、自分の気持ちを伝えていた。

 

焦凍は、その光景を見ながら思った。

 

これが、家族なのだろうか。

 

昔、自分が思い描いていた家族とは違う。

 

父親がいて、母親がいて、兄弟がいて。

 

全員が仲良く笑っていて。

 

何の問題もなく、互いを愛し合っている。

 

そんな家族ではない。

 

傷つけ合ったことがある。

 

許せないことがある。

 

それでも、互いの言葉を聞こうとしている。

 

その不完全な関係を、これからどうしていくのか。

 

誰も、答えを持っていなかった。

 

だからこそ、焦凍は思った。

 

ここから始めるしかないのだと。

 

7 炎は、まだ消えていない

夜。

 

燈矢は、ひとりで庭に出ていた。

 

空には星が見えた。

 

冷たい風が吹いている。

 

彼は、庭の木の前で立ち止まった。

 

昔、ここで炎を操っていた。

 

父親に見せるために。

 

父親に認められるために。

 

自分が特別な存在であることを証明するために。

 

あの頃の自分は、炎を出すたびに、父親がこちらを見ているかどうかを気にしていた。

 

父親が見ていれば、もっと頑張った。

 

父親が見ていなければ、もっと頑張った。

 

褒められれば、嬉しかった。

 

褒められなければ、もっと努力した。

 

その繰り返しだった。

 

燈矢は、自分の手を見つめた。

 

「……馬鹿みてえ」

 

呟いた言葉が、夜の空気に消えた。

 

あの頃の自分を、笑うことはできる。

 

今なら、もっと違う考え方ができたかもしれないと思う。

 

父親以外にも、自分を認めてくれる人間がいたかもしれない。

 

父親に認められなくても、自分の価値はなくならなかったかもしれない。

 

だが、それは、今の自分だから言えることだ。

 

あの頃の自分は、そんなことを知らなかった。

 

父親に認められることが、自分の世界のすべてだった。

 

だから、必死だった。

 

だから、止まれなかった。

 

そして、だからこそ。

 

父親を憎んだ。

 

燈矢は、目を閉じた。

 

自分は、何を望んでいたのだろう。

 

愛されたかった。

 

認められたかった。

 

必要とされたかった。

 

それは、本当だ。

 

そして、復讐したかった。

 

父親を苦しめたかった。

 

自分が失ったものを、父親にも失わせたかった。

 

それも、本当だ。

 

どちらか一方だけが本当なのではない。

 

愛されたかった自分と、憎しみに囚われた自分。

 

父親に認められたかった子供と、父親を破壊しようとした荼毘。

 

そのどちらも、自分だった。

 

燈矢は、空を見上げた。

 

「……なあ、父さん」

 

誰もいない庭で、呟く。

 

「俺、まだ、あんたのことが嫌いだよ」

 

返事はない。

 

「今さら謝られても、許せねえことはある。あんたが苦しんでるのを見ても、すっきりしねえ。俺が何を望んでたのか、今になって分かったところで、何も戻らねえ」

 

風が吹いた。

 

燈矢は、手を握った。

 

「……それでも」

 

言葉が止まった。

 

自分が何を言おうとしているのか、分からなかった。

 

父親を許すつもりはない。

 

過去をなかったことにするつもりもない。

 

自分が犯した罪を、父親のせいにするつもりもない。

 

ならば、これから何をすればいいのだろう。

 

燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……まだ、終わってねえんだよな」

 

その言葉は、父親に向けたものではなかった。

 

自分自身に向けたものだった。

 

自分の人生は、父親への復讐だけで終わったわけではない。

 

復讐を選んだことは消えない。

 

その結果も、消えない。

 

だが、これから先まで、復讐だけを生きる理由にしなければならないわけではない。

 

そう考えた瞬間、燈矢は自分の考えを疑った。

 

そんなことを考える資格が、自分にあるのだろうか。

 

自分が傷つけた人々は、今も苦しんでいる。

 

自分が奪ったものは、戻らない。

 

自分が犯した罪は、消えない。

 

それなのに、自分だけが新しい人生を望んでいいのか。

 

燈矢は、目を閉じた。

 

答えは出なかった。

 

そのとき、背後から足音がした。

 

「……兄さん」

 

焦凍だった。

 

燈矢は振り返った。

 

「何だよ。こんな時間に」

 

「少し、話したくて」

 

「……またかよ」

 

「嫌なら、帰る」

 

焦凍は、そう言って立ち止まった。

 

燈矢は、しばらく弟を見つめていた。

 

それから、小さく息を吐いた。

 

「……別に、いいよ」

 

焦凍は、隣に立った。

 

二人で、庭の木を見上げた。

 

しばらく、何も話さなかった。

 

やがて、焦凍が口を開いた。

 

「……兄さん」

 

「何?」

 

「俺、兄さんを救いたいと思ってる」

 

燈矢は、目を閉じた。

 

「……知ってるよ」

 

「でも、どうすればいいのか分からない」

 

「……そうか」

 

「兄さんが何を望んでるのか、もっと知りたい。兄さんが何を考えてるのか、もっと聞きたい」

 

焦凍は、少しだけ言葉を探した。

 

「でも、俺が兄さんの気持ちを全部理解できるとは思ってない」

 

燈矢は、黙っていた。

 

「俺は、兄さんじゃないから」

 

焦凍は続けた。

 

「兄さんの代わりに苦しむこともできない。兄さんの代わりに罪を償うこともできない。兄さんの代わりに、兄さんの人生を生きることもできない」

 

彼は、燈矢を見た。

 

「……でも、兄さんが何を考えているのか、聞くことはできる」

 

燈矢は、しばらく弟を見つめていた。

 

そして、苦笑した。

 

「……お前、変なこと言うようになったな」

 

「そうか?」

 

「ああ」

 

燈矢は、空を見上げた。

 

「……昔のお前なら、もっと単純に、兄さんを助けたいって言ってたんじゃねえの?」

 

焦凍は、少し考えた。

 

「……そうかもしれない」

 

「今は違うのか?」

 

「助けたいよ」

 

焦凍は、はっきりと言った。

 

「でも、兄さんが何を望んでいるのか分からないまま、俺が勝手に助けようとしたら、それは違うと思う」

 

燈矢は、黙っていた。

 

焦凍は、続けた。

 

「……兄さんが何を望んでいるのか、聞きたい」

 

燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……そうだな」

 

二人は、また黙った。

 

夜風が吹く。

 

庭木が揺れる。

 

燈矢は、自分の手を見つめた。

 

昔、この手から炎が出た。

 

父親に認められるために。

 

自分の存在を証明するために。

 

そして今。

 

自分は、何を望んでいるのだろう。

 

答えは、まだ分からない。

 

だが、分からないままでも、考えることはできる。

 

誰かに答えを決めてもらわなくても。

 

父親への憎しみだけに、自分の未来を預けなくても。

 

燈矢は、焦凍を見た。

 

「……なあ、焦凍」

 

「何?」

 

「お前さ」

 

少しだけ、言葉に詰まった。

 

「……俺が、これからどうすればいいと思う?」

 

焦凍は、すぐには答えなかった。

 

兄が、自分にそんなことを聞くとは思っていなかった。

 

何をすればいいのか。

 

どう生きればいいのか。

 

そんなことを、他人に聞くこと自体が、燈矢にとってどれほど難しいことなのか。

 

焦凍には、分かる気がした。

 

しかし、だからといって、答えを与えるべきではない。

 

焦凍は、静かに言った。

 

「……それは、兄さんが決めることだと思う」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……そりゃそうか」

 

「でも」

 

焦凍は、続けた。

 

「兄さんが考えるときに、俺は話を聞くことができる」

 

燈矢は、弟を見た。

 

「……それだけか?」

 

「今の俺にできるのは、それくらいだと思う」

 

焦凍は、少しだけ視線を落とした。

 

「……ごめん」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

それから、首を横に振った。

 

「……謝るなよ」

 

焦凍は顔を上げた。

 

「お前が悪いわけじゃねえだろ」

 

燈矢は、夜空を見上げた。

 

「……俺、ずっと、誰かに何とかしてほしかったんだと思う」

 

焦凍は、黙って聞いていた。

 

「父さんが俺を認めてくれれば。母さんが俺を止めてくれれば。誰かが俺を見つけてくれれば。誰かが、俺のことを分かってくれれば」

 

燈矢は、笑った。

 

「……そしたら、全部うまくいくと思ってた」

 

風が吹いた。

 

「でも、違うんだよな」

 

彼は、手を握った。

 

「誰かが俺のことを分かってくれたとしても、俺が何をするかは、俺が決めなきゃいけないんだよな」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

「……そうだと思う」

 

燈矢は、しばらく空を見つめていた。

 

「……難しいな」

 

「うん」

 

「……すげえ、難しい」

 

「うん」

 

二人は、また黙った。

 

その沈黙は、以前のようなものではなかった。

 

互いに何を考えているのか分からず、ただ距離を置くための沈黙ではない。

 

何かを急いで決める必要はないと、互いに分かっているからこその沈黙だった。

 

やがて、燈矢は小さく笑った。

 

「……焦凍」

 

「何?」

 

「明日も、話せるか?」

 

焦凍は、少しだけ目を見開いた。

 

それから、頷いた。

 

「……ああ」

 

燈矢は、空を見上げた。

 

炎は、まだ消えていない。

 

憎しみも、怒りも、後悔も。

 

何もかもが、まだ残っている。

 

それでも、その炎を何のために燃やすのか。

 

誰かを傷つけるためなのか。

 

自分の存在を証明するためなのか。

 

それとも、これからの人生を生きるためなのか。

 

その答えは、まだ分からない。

 

だが、燈矢は初めて、その問いを自分自身に向けていた。

 

父親に認められるためでもない。

 

弟に救われるためでもない。

 

誰かに許してもらうためでもない。

 

自分が、自分の人生をどう生きるのか。

 

その問いを、ようやく自分のものとして考え始めていた。

 

そして、その隣には、弟がいた。

 

兄を救うと決めた英雄ではなく。

 

兄の罪を背負う聖人でもなく。

 

ただ、兄の言葉を聞こうとしている弟が。

 

夜は、静かに更けていった。

 

8 父親という罪

翌朝、エンデヴァーはひとりで家を出た。

 

ヒーロー事務所へ向かうためではない。

 

報道陣に向けて、何かを説明するためでもない。

 

自分が今後どうするべきかを考えるためだった。

 

これまで、彼は自分の罪を償うことを考えてきた。

 

だが、その償いは、どこかで「終わり」を求めていたのかもしれない。

 

いつか許される。

 

いつか家族と笑い合える。

 

いつか自分も、父親として認められる。

 

そんな未来を、心のどこかで望んでいた。

 

しかし、今は分かる。

 

その未来が訪れる保証はない。

 

燈矢が自分を許さないかもしれない。

 

夏雄が、最後まで自分を父親として認めないかもしれない。

 

冷が、これからも自分を許せないかもしれない。

 

焦凍が、自分とは距離を置いて生きるかもしれない。

 

それでも、責任を果たさなければならない。

 

許されるためではなく。

 

自分が正しい人間だと証明するためでもなく。

 

ただ、自分が犯した罪から逃げないために。

 

エンデヴァーは、空を見上げた。

 

かつて、彼はNo.1ヒーローになることを夢見た。

 

誰よりも強くなりたい。

 

誰よりも多くの人を救いたい。

 

誰よりも高い場所に立ちたい。

 

その願い自体が、すべて間違っていたわけではないのだろう。

 

彼が救った命は、確かに存在する。

 

彼が守った人々の生活も、確かに存在する。

 

だが、その願いを叶えるために、彼は自分の家族を犠牲にした。

 

自分の夢を、家族の未来よりも優先した。

 

その事実は、消えない。

 

エンデヴァーは、拳を握った。

 

「……私は、父親だった」

 

呟いた言葉は、誰にも聞かれなかった。

 

「そして、父親として間違えた」

 

その事実から、逃げない。

 

許されなくても。

 

認められなくても。

 

何も取り戻せなくても。

 

責任を果たす。

 

それが、今の自分にできることだった。

 

彼は、歩き出した。

 

かつて、自分は強さによって未来を切り開こうとした。

 

だが、これからは違う。

 

強さでは、取り戻せないものがある。

 

謝罪では、消せない傷がある。

 

愛情があっても、相手を傷つけてしまうことがある。

 

そして、どれほど後悔しても、過去は変えられない。

 

それでも、未来まで過去に決められる必要はない。

 

ただし、その未来を決める権利は、自分ひとりのものではない。

 

家族にも、それぞれの人生がある。

 

燈矢にも。

 

冷にも。

 

冬美にも。

 

夏雄にも。

 

焦凍にも。

 

彼らが何を望むのか。

 

どのように生きるのか。

 

誰を許し、誰を許さないのか。

 

それを決めるのは、彼ら自身だ。

 

エンデヴァーは、歩き続けた。

 

父親という罪を、背負って。

 

その罪を理由に、家族の未来を決めることなく。

 

そして、許されない可能性を受け入れながら。

 

自分ができることを、ひとつずつ続けていくために。

 

 

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