1 兄の部屋
「……ここ、使っていいのか」
燈矢は、部屋の入り口に立ったまま尋ねた。
轟家の一室。
かつて彼が使っていた部屋ではない。昔の部屋は、長い年月のあいだに別の用途へと変わり、家族の生活も変わってしまった。今、燈矢に用意されたのは、しばらく身を置くための客室だった。
そこにはベッドがあり、机があり、必要最低限の家具が揃っている。
窓からは、庭が見えた。
何もかもが、ひどく普通だった。
「駄目なら別の場所を探す」
燈矢はそう言って、踵を返しかける。
「いや」
焦凍が答えた。
「使っていい」
「……お前が決めることかよ」
「この家にいる全員が、お前をどう思ってるかは分からない。俺だけで決めていいことじゃない」
焦凍は、一度言葉を切った。
「でも、少なくとも俺は、兄さんがここにいることを拒んでない」
燈矢は黙った。
拒んでいない。
たったそれだけの言葉が、妙に耳障りだった。
「歓迎してる、とは言わねえんだな」
「歓迎してるかどうか、まだ分からない」
「正直だな」
「嘘をついたら、兄さんは怒るだろ」
「本当のことを言っても怒るぜ」
「知ってる」
焦凍があまりにも平然と返すので、燈矢は鼻で笑った。
「へえ。ずいぶん生意気になったじゃねえか。昔はもっと、何考えてんのか分かんねえ顔してたのによ」
「今でもよく分かってない」
「自分のこともか?」
「自分のことも」
焦凍は、無理に笑わなかった。
燈矢の前で、気を遣っていることを隠そうともしなかった。
以前の自分なら、きっと何か気の利いたことを言おうとしただろう。
兄を傷つけない言葉を。
怒らせない言葉を。
兄の心に届きそうな、正しい言葉を。
だが、そんなものを探すこと自体が、すでに間違っているような気がした。
燈矢がこれまで聞かされてきたのは、正しい言葉だった。
努力すれば報われる。
父親の期待に応えれば認められる。
自分には才能がある。
自分は特別だ。
いつか父親を超えられる。
しかし、そのどれもが、彼の望んだ未来にはつながらなかった。
焦凍は、兄のために正解を用意することをやめたかった。
だから、分からないことは分からないと言う。
「……入るぞ」
燈矢は、返事を待たずに部屋へ入った。
窓辺まで歩き、庭を眺める。
「変わったな、この家」
「そうだな」
「俺がいなくなってから、何年経った?」
「……かなり経った」
「お前も変わった。でかくなったし、顔つきも変わった。声もな」
燈矢は窓ガラスに映る焦凍の姿を見た。
「俺の知らねえ時間を、お前は生きてきたんだな」
焦凍は、すぐには答えられなかった。
その言葉は、責めているようにも聞こえた。
羨んでいるようにも聞こえた。
あるいは、ただ事実を述べただけなのかもしれない。
「……兄さんにも、あったはずだ」
「何が?」
「俺の知らない時間が」
燈矢の目が、わずかに細くなった。
「そりゃそうだ。俺はずっと、俺の人生を生きてたんだからな」
「うん」
「お前らが何をしてたかなんて、全部分かるわけねえだろ」
「そうだな」
「……お前、さっきから何なんだよ」
燈矢が振り返る。
「否定しねえし、言い返しもしねえ。俺に気を遣ってんのか?」
「違う」
「じゃあ何だ」
焦凍は、自分の手を見た。
昔、この手は、父親から与えられた力の象徴だった。
右手に宿る氷と、左手に宿る炎。
父親は、その両方を使える息子を望んだ。
そして、焦凍はその望みのためにつくられた存在だと思っていた。
自分が何を望むかより、父親が何を望むかが優先された。
自分の身体に触れられることも、何かを教えられることも、いつしか苦痛になった。
それでも、今の自分は、あの頃の自分だけでできているわけではない。
多くの人と出会い、多くの失敗をして、少しずつ自分自身の選択を増やしてきた。
兄も、そうだったのだろうか。
いや。
兄は、選べなかったのだろうか。
焦凍は、考えた。
自分が兄の苦しみを理解しようとすること。
それと、兄のすべてを分かったつもりになること。
その二つは、違う。
「……兄さんと、話がしたいんだ」
「今してるだろ」
「そういう話じゃなくて」
「じゃあ、どういう話だよ」
焦凍は兄を見た。
「兄さんが、何を望んでたのか。何を望んでるのか。俺が分かってないことを、ちゃんと聞きたい」
燈矢は長いこと黙っていた。
やがて、口元だけで笑った。
「聞いてどうすんだ?」
焦凍は、即答できなかった。
「分かったら、俺を救えるとでも思ってんのか?」
「……分からない」
「救うって、何だ?」
燈矢は焦凍に歩み寄った。
「俺を普通の人間に戻すことか? 俺がやったことを忘れて、家族みんなで仲良く暮らすことか? お前が俺の手を握って、『もう大丈夫だよ』って言ってくれんのか?」
「違う」
「何が違うんだ?」
「俺は、そういうふうに考えてない」
「なら、どう考えてる?」
焦凍は、逃げずに答えようとした。
けれど、用意してきた言葉は、ひとつも出てこなかった。
兄を助けたい。
そう思っていた。
その気持ちは、本物だった。
ただ、それを口にした瞬間、まるで自分が兄を救う側に立てるかのように聞こえてしまう気がした。
自分は兄の人生を知らない。
兄が何を思い、どこで引き返せなくなり、どうしてあれほどの憎しみを抱え続けたのか。
知らないことだらけだ。
なのに、自分が兄の人生に答えを出すなど、傲慢ではないのか。
「……まだ、分からない」
焦凍は言った。
「でも、分からないまま、兄さんをいないものにしたくない」
燈矢の笑みが消えた。
焦凍は続けた。
「兄さんがいなくなったあと、俺たちはそれぞれ生きてきた。兄さんが戻ってきたからって、それが全部なかったことになるわけじゃない。でも……兄さんがいたことまで、なかったことにはしたくない」
「……それだけか?」
「今は、それだけだ」
燈矢は焦凍を見つめた。
その視線には、失望も怒りも浮かんでいた。
「大した答えじゃねえな」
「そうだな」
「俺が欲しかった答えは、そんなもんじゃなかった」
「……うん」
「俺は、お前に慰めてほしいわけじゃねえぞ」
「分かってる」
「分かってねえよ」
燈矢は吐き捨てた。
「お前は、俺が何を欲しがってたか、本当には分かってねえ」
その言葉は、正しかった。
焦凍は、黙って受け止めた。
「だから、聞きたいんだ」
「……」
「俺に分かるように話してくれとは言わない。話したくないことまで話せとも言わない。ただ、兄さんの言葉を聞きたい」
燈矢は、何か言いかけて、やめた。
そして窓の外へ視線を戻した。
「……今日は、帰れ」
焦凍はうなずいた。
「分かった」
「明日も来るなよ」
「それは、明日考える」
「おい」
「明日も来ないでほしいなら、明日そう言ってくれ」
焦凍はドアへ向かった。
その背中に、燈矢の声が飛んだ。
「焦凍」
振り返る。
「俺が、お前のことをどう思ってたか。聞きてえのか?」
焦凍は、答えるまでに少し時間がかかった。
「……聞きたい」
燈矢は目を伏せた。
「なら、いつか話してやるよ」
それは約束とも、脅しともつかない言葉だった。
「ただし、俺が話したことを聞いて、お前が俺を嫌いになっても知らねえからな」
焦凍は答えた。
「それも、俺が自分で決める」
燈矢は、今度こそ何も言わなかった。
焦凍は部屋を出た。
ドアが閉まる。
その音は、思っていたよりも静かだった。
けれど、二人のあいだに横たわるものは、少しも軽くなってはいなかった。
2 理解という名の刃
廊下を歩きながら、焦凍は何度も自分の言葉を思い返した。
兄をいないものにしたくない。
それだけだ。
それだけなのに、胸の奥が重かった。
自分が兄に何をしてやれるのか、分からない。
分からないことを、分かったふりで埋めることはできない。
兄の苦しみを知ろうとすればするほど、別の疑問が生まれてくる。
もし、兄の言うことが理解できたなら。
もし、兄がどれほど傷ついていたのか、どれほど父親を求めていたのか、どれほど自分の存在を認めてほしかったのか、心から分かったなら。
そのとき、自分は兄を許せるのだろうか。
いや。
許すとは、誰が決めることなのだろう。
兄が傷つけた人々は、兄の苦しみを知ったからといって、傷つかなかったことにはならない。
兄の被害者が、兄の過去を理解しなければならない理由もない。
兄を救いたいと思うことと、兄が他者に与えた被害を軽く扱うことは、まったく違う。
焦凍は足を止めた。
自分は、兄を救うためなら何でもするつもりなのだろうか。
兄に許しを与えられる立場にいると思っているのだろうか。
兄の苦しみを分かる者として、兄の罪を代わりに背負えると思っているのだろうか。
そんなことは、できるはずがない。
それは兄の罪を引き受けることであり、兄が他者にしたことを、弟の善意で塗り潰すことでもある。
それに、自分は兄の被害者ではない。
けれど、兄の苦しみを知らなかった家族の一員でもある。
自分だって、かつては父親が自分に向けてきた言葉や期待に囚われていた。
父親が兄に何をしていたのかを、すべて知っていたわけではない。
自分が生まれたことで兄がどう感じたのかも、兄が何を失ったと思っていたのかも、分かっていなかった。
自分が父親にとって特別な存在だったこと。
そのことが、兄をさらに傷つけていたかもしれないこと。
それを考えると、胸のどこかが冷たくなった。
だが、焦凍は、その感情を「自分のせいだ」という結論にまとめることもしなかった。
自分が生まれたことは、罪ではない。
父親が子どもたちを競わせたことは、自分の責任ではない。
兄を追い詰めたものが複雑だったとしても、そのすべてを弟である自分が背負う必要はない。
それでも、家族として何も感じずに済むわけではなかった。
罪ではないことと、無関係でいられることは違う。
焦凍は、ゆっくり息を吐いた。
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいる。
その光を眺めながら、彼はようやく気づいた。
自分は、兄を救う方法を探していたのではない。
兄を救える自分でありたいと、どこかで願っていたのだ。
兄が苦しんでいた。
兄が壊れてしまった。
それなら、自分が何とかすればいい。
自分が手を伸ばせば、兄は戻ってこられるかもしれない。
そう思うことで、自分の中に残った家族への未練や、兄に対する罪悪感や、過去への後悔に、意味を与えようとしていたのではないか。
自分が兄を救えれば。
あの家で起きたことにも、何か救いがあったのだと信じられる気がした。
だが、それは、兄の人生を自分のために使うことになりかねなかった。
焦凍は目を閉じた。
兄を救いたい。
その気持ちまで疑う必要はない。
ただ、その気持ちが正しい結末を保証してくれるわけではない。
誰かを救いたいという願いは、ときに相手の意思を置き去りにする。
助けたいから。
分かってあげたいから。
あなたのためだから。
その言葉で、相手の気持ちを決めつけてしまうことがある。
兄に必要なのは、自分が用意した出口ではないのかもしれない。
必要なのは、兄が自分の足で向かう先を選べることなのかもしれない。
たとえ、その先が自分の望んだ場所ではなくても。
焦凍は目を開いた。
その答えも、まだ確かなものではなかった。
それでも、今の自分にできることが、ひとつだけある。
兄の人生を、自分の正解で上書きしないこと。
そして、兄がどのような答えを選んだとしても、自分自身の答えを手放さないこと。
焦凍は、再び歩き始めた。
3 父親のいない食卓
その夜、轟家の食卓には、四人が座っていた。
冷、冬美、夏雄、焦凍。
燈矢は部屋にこもったままだった。
エンデヴァーは、食卓に加わらなかった。
自分が食卓にいることで、燈矢が戻ってこないのなら、今は離れているべきだと考えたからだった。
それを逃避だと感じる自分もいた。
それでも、今の自分が何かを決めて押し通すことが、正しいとは思えなかった。
食卓には、冬美が用意した料理が並んでいる。
焦凍は箸を持ったまま、しばらく考えていた。
やがて、口を開いた。
「……兄さんと話した」
冬美が顔を上げた。
「燈矢お兄ちゃんと?」
「ああ」
「何を話したの?」
「兄さんが何を望んでいたのか、聞きたいって言った」
「それで?」
「今日は帰れって言われた」
夏雄が、思わず吹き出しかけた。
「……お前、話しに行ったんだろ?」
「そうだ」
「で、帰れって言われたのかよ」
「そうだ」
「何やってんだよ」
「俺もそう思った」
焦凍が真顔で答えるので、夏雄はとうとう小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
笑い終えたあと、夏雄の顔には疲れが戻った。
「……まあ、あいつらしいっちゃ、あいつらしいか」
「夏雄」
冬美が、たしなめるように言った。
「何だよ。別に、悪口を言ったわけじゃない」
夏雄は箸を置いた。
「俺はまだ、あいつとどう接したらいいか分からない。戻ってきたからって、昔の兄貴みたいに接するなんて無理だ。……そもそも、昔だって、俺はあいつのことを全部分かってたわけじゃない」
誰も、口を挟まなかった。
「父さんが悪かったのは分かってる。兄貴が傷ついてたのも分かってる。けど、それを分かったからって、俺まで全部納得しなきゃいけないのか?」
夏雄は、焦凍を見た。
「お前は、どうなんだよ」
焦凍は、答えを探した。
「……俺も、分からない」
「だろ」
夏雄は苦笑した。
「俺たち、いつもそうだよな。家族のことになると、急に正しい答えを出さなきゃいけないみたいになる」
冬美が静かに言った。
「正しい答えなんて、最初からないのかもしれない」
夏雄は姉を見た。
冬美は、食卓の上の皿に視線を落としていた。
「燈矢お兄ちゃんが苦しんでいたことは、なかったことにできない。お父さんがしたことも、なかったことにできない。だからといって、私たちがこれからどうするかまで、過去に決められなきゃいけないわけじゃない」
「……姉ちゃんは、どうしたいんだよ」
夏雄が尋ねた。
冬美は、すぐには答えなかった。
「分からない。でも、私は……家族が、もうこれ以上、誰かの気持ちを踏みにじらないようにしたい」
その言葉には、長年の疲れが滲んでいた。
冬美は、いつも家族の間に立ってきた。
父親の機嫌を気にし、母親を心配し、弟たちを気遣い、家族が壊れないように努めてきた。
何か起きれば、話し合おうと言った。
ご飯を食べようと言った。
少しでも普通の生活に戻れるように、自分にできることを探した。
けれど、その努力が誰かの傷を癒せたとは限らない。
むしろ、家族が壊れないようにすることばかり考えるあまり、誰かが傷ついた事実を、見ないふりしてきた部分もあったのかもしれない。
「私は……燈矢お兄ちゃんと、ちゃんと話したい」
冬美は言った。
「でも、焦凍や夏雄が、同じようにする必要はないと思う」
夏雄が、眉を寄せた。
「……別に、話したくないって決めたわけじゃない」
「うん。分かってる」
「ただ、今は無理だ。あいつの顔を見たら、何を言えばいいか分からなくなる。昔のことを考えると、腹も立つ。父さんのことも、あいつのことも、いろいろ思う。……その全部を一度に整理できるわけがないだろ」
「うん」
冬美は頷いた。
「だから、今すぐ答えを出さなくていいと思う」
夏雄は視線を落とした。
「……それを、あいつが許すかどうかは別だろ」
「そうね」
冬美は、正直に答えた。
「燈矢お兄ちゃんが、私たちの距離の取り方をどう思うかは、私たちには決められない。だけど、燈矢お兄ちゃんが傷ついていたからって、私たちが自分の気持ちを無視し続けることも、違うと思う」
焦凍は、二人の会話を聞きながら、胸の奥にあった緊張が少しだけほどけていくのを感じた。
家族だから、分かり合わなければいけない。
家族だから、許さなければいけない。
家族だから、離れてはいけない。
自分たちは、そういう言葉に縛られすぎていたのかもしれない。
家族という言葉は、誰かをつなぐことがある。
けれど、ときには、誰かが離れることを許さない鎖にもなる。
家族だから、同じ答えを出す必要はない。
同じ痛みを感じる必要もない。
同じ速さで前に進む必要もない。
それぞれに違う傷があって、それぞれに違う時間がある。
「……俺は」
焦凍は、静かに口を開いた。
「兄さんと話したい。でも、兄さんが何を言っても、全部受け入れるとは約束できない」
冬美が、焦凍を見つめた。
「兄さんのことを理解したい。でも、兄さんがしたことを、なかったことにはできない」
夏雄は黙っていた。
「それでも、話したいんだ」
焦凍は言った。
「俺が兄さんを救えるかどうかは、分からない。でも、兄さんの人生を勝手に決めたくない。俺が兄さんを許したら、それで全部終わりだなんて思いたくない」
冬美は、そっと目を伏せた。
「……そうね」
「兄さんが何を望んでるか、ちゃんと聞きたいんだ」
焦凍は、一度息を吸った。
「そのうえで、俺は俺の答えを出したい」
夏雄は、長いこと焦凍を見ていた。
やがて、短く息を吐いた。
「……お前、俺よりずっと面倒くさいこと考えてんな」
「そうか?」
「ああ。俺なら『今は無理』で終わりだ」
「それでもいいと思う」
焦凍がそう答えると、夏雄は少しだけ目を見開いた。
「……お前、俺にまでそう言うのか?」
「兄さんと話すかどうかは、夏雄兄さんが決めることだろ」
「お前、ほんと変わったな」
「そうかもしれない」
焦凍は、少し考えた。
「……変わらないと、いけなかったのかもしれない」
夏雄は、それ以上何も言わなかった。
冬美は、食卓の料理を見た。
「ご飯、冷めちゃうね」
いつもと同じ言葉だった。
ただ、その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
四人は食事を再開した。
それでも、空いた席は空いたままだった。
その空席を見て、誰かが泣き出すこともなかった。
誰かが、無理に燈矢を呼びに行くこともなかった。
空席を空席のままにしておく。
それもまた、今夜の家族が選んだことだった。
4 父親の告白
翌日、焦凍は屋敷の外でエンデヴァーと顔を合わせた。
父親は、庭の端に立っていた。
かつてなら、その姿を見ただけで身体が強張ったかもしれない。
焦凍は、いまでも父親を見れば、過去の記憶が蘇る。
だが、もう、父親の姿だけで自分の行動を決める必要はなかった。
「……兄さんに会った」
焦凍が言うと、エンデヴァーは顔を上げた。
「ああ」
「父さんは、会いに行かないのか?」
エンデヴァーは、すぐに答えなかった。
「会いたいと思っている」
「じゃあ、会えばいい」
「俺が会いに行くことで、あいつを追い詰めるかもしれない」
「……そうかもしれない」
焦凍は、父親の言葉を否定しなかった。
「でも、会いたいなら、会いたいって気持ちは本当なんだろ」
エンデヴァーは、息を呑んだように目を伏せた。
「……ああ」
「兄さんが嫌だと言ったら、帰ればいい。話したくないと言ったら、無理に話さなければいい」
焦凍は、父親を見た。
「でも、父さんが会いに行くかどうかまで、兄さんの反応を想像して決めるのは違うと思う」
「……俺が、あいつのために何かをすること自体が、間違っているのではないかと思うことがある」
「父さんが何かをすることが全部間違いだとは思わない」
焦凍は言った。
「ただ、父さんがしたことを、父さん自身が引き受けなきゃいけないだけだ」
エンデヴァーの手が震えた。
「……そうだな」
「兄さんに許してもらうために行くんじゃないだろ」
「……ああ」
「なら、自分が何をしたのかを伝えるために行けばいいんじゃないか」
焦凍は視線を落とした。
「それを聞いた兄さんがどうするかは、兄さんが決めることだ」
エンデヴァーは、深く目を閉じた。
自分は長いあいだ、家族を思い通りにしようとしてきた。
子どもたちには、こうあってほしいと望んだ。
妻には、こう振る舞ってほしいと期待した。
家族が苦しんでいることに気づいても、いつか成果が出れば報われるはずだと考えた。
自分の行いが、正しい未来へ向かうためのものだと信じ込もうとした。
それが間違いだと認めたあとも、彼はどこかで、償いの結果を期待していたのかもしれない。
謝罪を続ければ、いつか許されるのではないか。
責任を果たせば、家族が戻ってくるのではないか。
今度こそ正しい父親になれば、子どもたちが自分を父親として認めてくれるのではないか。
しかし、焦凍の言葉は、その期待を静かに打ち砕いた。
責任を果たすことは、許しを買うことではない。
謝罪は、相手に許しを要求する権利を生まない。
過去に向き合うことと、家族に戻ってきてもらうことは、別の問題だ。
「……焦凍」
エンデヴァーは、重い声で言った。
「お前は、俺をどう思っている?」
焦凍は父親を見た。
その問いには、さまざまな感情が重なっていた。
父親として認めてほしいという願い。
自分が何者だったのか、確かめたいという不安。
自分が犯した罪を、家族がどう受け止めているのか知りたいという恐怖。
そして、子どもたちの口から、自分自身の評価を聞きたがる弱さ。
焦凍は、かつてなら、父親を否定する言葉を探したかもしれない。
あるいは、父親の苦しみを理解しようとして、何も言えなくなったかもしれない。
今は、どちらでもなかった。
「……父さんが俺たちにしたことを、許せないと思ってる」
エンデヴァーの顔が強張る。
「でも、父さんが今、何をするかまで、過去だけで決めたいとは思わない」
焦凍は続けた。
「父さんが変わるかどうかは、父さんが決めることだ。俺が父さんを許すかどうかは、俺が決めることだ」
エンデヴァーは、拳を握りしめた。
「……そうだな」
「俺が許さないからって、父さんが責任を放り出していいわけじゃない。俺が許したからって、責任がなくなるわけでもない」
「分かっている」
「本当に?」
その一言に、エンデヴァーは言葉を失った。
焦凍は、すぐに後悔した。
父親を追い詰めたいわけではなかった。
けれど、問いかけそのものを引っ込めることもしなかった。
「……分かっているつもりだった」
エンデヴァーは、ようやく答えた。
「だが、まだ分かっていないことがあるのだろう。自分が責任を取ることと、それによって何かが戻ってくることを、どこかで結びつけていたのかもしれない」
焦凍は黙って聞いた。
「俺は、父親として失格だった。お前たちを傷つけた。それを認めたからといって、今までのことが消えるわけではない」
エンデヴァーは、自分の手を見た。
「……燈矢に会いに行こうと思う」
「うん」
「許してもらうためではない。俺の罪を、あいつに背負わせないためでもある」
焦凍は、わずかに眉を動かした。
「父さんの罪を、兄さんに背負わせない?」
「あいつが、俺を憎み続けることを、自分の責任だと思わないようにする。俺を許せないことを、あいつ自身の欠陥だと思わないようにする」
エンデヴァーは顔を上げた。
「……俺は、あいつに父親としての愛情を与えられなかった。その事実を、あいつがどう受け止めるかは、あいつのものだ。だが、俺の行いを理由に、あいつがこれからも苦しみ続けなければならないと、俺が決めることはできない」
焦凍は、しばらく父親を見つめていた。
「……それは、兄さんにも聞いてみないと分からない」
「ああ」
「兄さんが、父さんのことを許したくないなら、それも兄さんが決めることだ」
「分かっている」
エンデヴァーは答えた。
今度は、許しを求める響きがなかった。
焦凍は、少しだけ頷いた。
「なら、行ってこいよ」
エンデヴァーは、息子の横を通り過ぎた。
その背中は、以前よりもずっと小さく見えた。
焦凍は、父親が変わったのかどうか、まだ判断できなかった。
それでも、変わるということは、一度何かを認めただけで終わるものではないのだろう。
何度も同じ場面に立ち、何度も自分の弱さを認め、何度も選び直す。
それを続けることが、変わるということなのかもしれない。
焦凍は、父親の背中を見送った。
そして、自分もまた、何度も選び直さなければならないのだと思った。
5 弟が知らなかった兄
その日の夕方。
焦凍は、再び燈矢の部屋を訪れた。
扉を叩く。
返事はなかった。
「……焦凍だ」
それだけ告げて、待つ。
しばらくして、部屋の中から声がした。
「帰れって言っただろ」
「聞いた」
「なら帰れよ」
「今日は、昨日と違う話をしに来た」
「……何だよ」
「兄さんが、俺のことをどう思ってたのか。話せるなら、聞きたい」
沈黙。
焦凍は、扉の前に立ち続けた。
無理に中へ入るつもりはなかった。
話したくないと言われたら、今日は帰る。
それだけだ。
やがて、扉がわずかに開いた。
燈矢が、隙間から焦凍を睨んでいた。
「……お前、俺の話を聞きてえんだろ?」
「ああ」
「だったら、入れよ」
部屋に入ると、燈矢はベッドに腰かけた。
焦凍は、少し離れた椅子に座る。
燈矢は腕を組み、しばらく弟の顔を見ていた。
「お前、昔から嫌いだったんだよ」
焦凍は息を止めた。
「……そうか」
「何だよ、その反応」
「……どう答えればいいか分からない」
「嫌いだって言われたんだぞ?」
「うん」
「傷つかねえのかよ」
焦凍は、正直に答えた。
「傷つく」
燈矢の眉が動いた。
「でも、兄さんがそう思ってたなら、そう言っていいと思う」
「……そういうところだよ」
燈矢は、苦々しく笑った。
「お前のそういうところが、気に食わなかった」
「どういうところ?」
「自分のことを何も分かってねえくせに、妙に落ち着いてるところだよ。何を言われても、こっちが期待した反応をしねえ」
焦凍は、黙って聞いていた。
「お前が生まれたとき、俺はもう父さんに認めてもらおうとしてた。俺には才能があると思ってた。親父を超えられると思ってた。父さんにそう言われたからな」
燈矢の視線が、どこか遠くへ向かった。
「俺の炎は、強かった。もっと強くなれるはずだった。だから、鍛えれば鍛えるほど、父さんに近づけると思ってた」
彼は、自分の手を見た。
「けど、身体がついてこなかった」
そこにあるのは、単なる悔しさではなかった。
自分の身体が、自分の望む未来を拒む。
望むものに手を伸ばすほど、自分自身が壊れていく。
その理不尽さを、燈矢は受け入れられなかった。
「俺が何をしても、父さんは俺を止めるようになった。最初は、心配してるんだと思った。けど、違った。俺を鍛えても意味がないって、そういうことだったんだろ」
焦凍は、言葉を挟まなかった。
「それでも、俺は諦められなかった。父さんに認めてほしかった。俺が一番になりたかった。俺が一番じゃなきゃ、意味がなかった」
燈矢は、口元を歪めた。
「そんなときに、お前が生まれた」
焦凍の胸が、きゅっと縮む。
「お前は、父さんが欲しがってたものを持ってた。俺にはなかったものを。炎と氷。親父の夢を叶えるための、都合のいい才能をな」
「……」
「父さんは、お前に期待した。俺に言ってたことを、お前に言った。俺がなれなかったものに、お前をしようとした」
燈矢の声が低くなる。
「俺は、お前が憎かった」
焦凍は、視線を逸らさなかった。
「お前が生まれたことが悪いんじゃない。そんなことは、頭では分かってた。……けど、分かってることと、そう思わずにいられることは別だ」
燈矢は、爪を立てるように自分の指を握った。
「お前を見るたび、俺が捨てられたことを思い知らされた。俺がどれだけ頑張っても、俺は父さんの望みを叶えられなかった。その代わりを、お前がやるんだってな」
焦凍は、小さく息を吐いた。
「……兄さんは、俺を見てたんだな」
燈矢は目を細めた。
「何だと?」
「俺は、兄さんのことを、ちゃんと見てなかったのかもしれない」
「今さら何言ってんだよ」
「兄さんが俺を憎んでたことも、俺が父さんにとってどういう存在だったのかも、俺は知らなかった」
焦凍は、自分の胸に手を当てた。
「俺は、父さんが怖かった。自分の人生を勝手に決められるのが嫌だった。父さんが俺に期待しているものを、全部拒みたかった」
「……ああ」
「でも、兄さんが父さんに何を求めていたのかは、分かってなかった」
焦凍は言った。
「俺は、自分が父さんに押しつけられたもののことばかり考えていた。兄さんが、父さんに与えてほしかったものを求めていたことを、考えられてなかった」
燈矢は、何も言わなかった。
焦凍は続けた。
「……ごめん」
燈矢の表情が変わった。
「何で謝るんだよ」
「兄さんの苦しみを知らなかったことを、申し訳ないと思ってる」
「だから、それがおかしいって言ってんだよ」
燈矢は立ち上がった。
「お前が謝ることじゃねえだろ!」
声が、部屋に響いた。
焦凍は動かなかった。
「俺が勝手にお前を憎んでたんだ! 俺が勝手に、お前を父さんの代わりだと思ってたんだ! お前は何も知らなかった。お前は、ただ生まれてきただけだろうが!」
燈矢の顔が歪む。
「それなのに、何でお前が謝るんだよ!」
焦凍は、何も言えなかった。
燈矢は荒い息をついていた。
それは怒りだった。
だが、その怒りの奥に、焦凍は別のものを見た気がした。
自分が何をしても、誰かが自分のために苦しむ。
自分が愛されなかったことを知れば、弟が罪悪感を抱く。
自分が傷つけられたことを知れば、家族が自分に気を遣う。
そのたびに、燈矢は自分が苦しんできたという事実を、誰かの新しい苦しみへ変えてしまう。
そんなことを望んでいるわけではないのかもしれない。
しかし、どうすればいいのかも分からないのだろう。
焦凍は、ゆっくり口を開いた。
「……兄さんが悪いことばかりしてきたわけじゃない」
燈矢は、目を見開いた。
「俺が今、兄さんに謝ることも、全部が間違いだとは思わない。知らなかったことを、申し訳なく思っている。それは俺の気持ちだから」
焦凍は、言葉を選んだ。
「でも、兄さんが俺を憎んでいたことまで、俺が責任を取る必要はない。兄さんが父さんに愛されたかったことまで、俺が背負うこともできない」
「……」
「俺が謝ることと、兄さんの苦しみを全部自分のせいにすることは、違うと思う」
燈矢は、何も言わなかった。
焦凍は、少しだけ目を伏せた。
「……俺も、ずっと父さんを憎んでいた」
自分の言葉を、初めて兄に向けて、正面から話す。
「父さんの期待に応えたくなかった。父さんの夢を叶えるための道具になりたくなかった。俺の人生を、俺以外の誰かに決められたくなかった」
彼は、自分の左手を見つめた。
「だから、父さんの炎を使わないと決めたこともあった。自分の力をどう使うかまで、父さんに決められたくなかったんだ」
燈矢は、弟の横顔を見ていた。
「……でも、お前は使った」
「ああ」
焦凍は頷いた。
「自分のために使うと決めたから」
その答えに、燈矢の顔が強張った。
「……お前は、そうやって自分のものにできたんだな」
「すぐにできたわけじゃない」
「それでも、できたんだろ」
「……ああ」
焦凍は否定しなかった。
兄が欲しかったものを、弟は手に入れた。
父親から期待されたことが、いつしか自分自身の意思に変わった。
それは焦凍が、自分の人生を取り戻すために必要だったことだ。
しかし、同じことを望んでいた兄にとって、それは残酷な現実だったのかもしれない。
燈矢は、唇を噛んだ。
「……俺には、できなかった」
その声は、先ほどまでの怒鳴り声とは違っていた。
「俺は、父さんが認めてくれなきゃ、何も意味がなかった。俺が強いことも、俺に才能があることも、父さんが認めなきゃ、何も……」
そこで言葉が途切れた。
燈矢は、自分が何を言っているのか、分からなくなったように顔をしかめた。
「……くそっ」
拳が震える。
「今さら、何を言ってんだ、俺は」
焦凍は、すぐには近づかなかった。
兄の言葉を、慰めで塞ぎたくなかった。
「……兄さん」
「何だよ」
「俺は、兄さんがそう思ってたことを、なかったことにしたくない」
燈矢は、焦凍を睨んだ。
「でも、兄さんが父さんに認められなかったからって、兄さんに価値がなかったことにはならない」
「……綺麗事だな」
「そうかもしれない」
焦凍は答えた。
「俺がそう言ったからって、兄さんが信じられるとは思ってない。俺だって、昔は自分に価値がないように感じてた。父さんが望むものになれなきゃ、俺には意味がないんだって思ってた時期もある」
「……」
「けど、今は違う。父さんが俺をどう評価するかと、俺がどう生きるかは、別のことだと思えるようになった」
焦凍は、燈矢を見た。
「兄さんにも、そう思える日が来てほしい」
燈矢は、しばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「……お前は、俺にそうなってほしいんだな」
「そうだ」
「俺が父さんを憎むのをやめて、普通に生きて、誰かに迷惑をかけず、家族と仲良くやればいいってことか?」
「違う」
焦凍は即座に答えた。
燈矢が顔を上げる。
「俺は、兄さんに父さんを許せと言ってない。普通に生きろとも言ってない。家族と仲良くしろとも言ってない」
焦凍は、自分自身の言葉を確かめるように続けた。
「俺が望んでるのは……兄さんが、これから何をしたいのか、自分で決められるようになることだ」
「……」
「父さんへの憎しみだけで、自分の人生を決めなくていいようになってほしい。父さんを憎むことをやめろって言ってるんじゃない。憎んだままでも、別のものを選べるようになってほしいんだ」
燈矢は、目を伏せた。
「……そんな簡単に言うなよ」
「簡単だとは思ってない」
「分かってねえよ。俺は、そんなにうまく生きられなかったんだ」
「……ああ」
「俺は、もう戻れねえんだよ。昔の俺には。何も知らなかった頃にも、父さんのことを信じてた頃にも、戻れねえ」
「戻らなくていい」
焦凍は言った。
燈矢が顔を上げた。
「……何?」
「戻らなくていい。戻れるわけがない。兄さんは、昔の兄さんじゃない。俺も、昔の俺じゃない」
焦凍は、静かに続けた。
「だから、昔の家族に戻ろうとしなくてもいいんだと思う」
燈矢は、呆然とした顔で弟を見た。
「昔の家族に戻れないなら、これからの家族をどうするか考えればいい。家族じゃないと思うなら、そう思ってもいい。俺は兄さんと話したいけど、兄さんが俺と話したくないなら、無理に話してほしいとは言わない」
「……それで、お前はいいのか?」
「よくはない」
焦凍は、正直に答えた。
「でも、兄さんがどうしたいかを決めるのは、俺じゃない」
燈矢の目が揺れた。
「……お前、本当に変わったな」
「そうかもしれない」
「昔のお前なら、そんなこと言わなかった」
「昔の俺なら、何て言ったと思う?」
「……知らねえよ」
燈矢は、顔を背けた。
「お前のことなんか、ろくに見てなかったんだからな」
焦凍は、その言葉を聞いた。
胸が痛んだ。
だが、同時に、その言葉はひどく正直だった。
兄は、自分のことを見ていなかった。
自分も、兄のことを見ていなかった。
同じ家に生まれながら、互いの人生を、知っているつもりで知らなかった。
そして、知らなかったことの隙間に、父親の願望が入り込み、二人を別々の方向へ押し流してしまった。
その事実は、誰かが謝れば終わるようなものではなかった。
「……兄さん」
焦凍が呼ぶ。
「何だよ」
「俺、兄さんのことを理解したい」
燈矢の表情が硬くなる。
焦凍は、すぐに続けた。
「でも、理解できたら、全部許せるとは思わない」
燈矢は、目を見開いた。
「俺が兄さんの苦しみを知っても、兄さんが傷つけた人たちの苦しみが消えるわけじゃない。兄さんが何を望んでいたとしても、それを理由に、兄さんがしたことをなかったことにはできない」
焦凍は、息を吸った。
「それでも、兄さんの苦しみを知りたいんだ」
燈矢は、沈黙した。
焦凍は続けた。
「兄さんのことを全部許すって約束はできない。でも、兄さんのことを理解しようとするのをやめるつもりもない」
「……ずいぶん都合のいい話だな」
「そうかもしれない」
「俺を理解したい。けど、許すとは限らない。俺が望む答えをくれるとは限らない」
「ああ」
「それで、俺が納得すると思うか?」
「思わない」
焦凍は答えた。
「でも、嘘をついて、納得させるよりはいいと思う」
燈矢は、長いこと弟を見つめていた。
その目には、怒りがあった。
失望があった。
そして、焦凍にはまだ名前をつけられない感情があった。
「……お前、俺を救いたいんだろ」
燈矢が言った。
焦凍は、ゆっくり頷いた。
「そう思ってる」
「なら、俺を許せよ」
焦凍の心臓が、強く打った。
「……兄さん」
「俺を救いたいんだろ? だったら、俺を許せばいいじゃねえか。お前が俺を許したら、俺は少なくとも、お前にとっては許された人間になれる」
燈矢の声が、少しずつ鋭くなる。
「俺が何をしたか、どういう人間か、全部知ったうえで、それでもお前が俺を許すなら……俺は、まだ誰かに必要とされてるって思えるかもしれねえだろ」
焦凍は、胸が締めつけられるのを感じた。
兄は、許しを求めていた。
けれど、その許しを何に使おうとしているのか。
自分には価値があると確かめるために。
誰かに必要とされる人間だと信じるために。
自分が完全に見捨てられたわけではないと知るために。
焦凍は、兄の気持ちが少しだけ分かったような気がした。
だが、ここで頷くことはできなかった。
「……俺が許したら、兄さんは自分を許せるのか?」
燈矢の顔が、ぴたりと止まった。
「……何?」
「俺が許したら、兄さんは、自分がしたことを自分で引き受けられるのか?」
「……」
「それとも、俺が許したことを理由にして、自分の罪をもう考えなくていいと思えるのか?」
燈矢の目に、鋭い怒りが浮かんだ。
「お前……!」
「兄さんを責めたいんじゃない」
焦凍は言った。
「でも、俺が許すことで、兄さんが自分の罪から逃げられるようにしたくない」
「俺が、逃げるって言うのかよ!」
「分からない。兄さんがどうしたいのか、俺には分からない」
焦凍は、決して目を逸らさなかった。
「だから、聞いてるんだ」
燈矢は、声を荒らげかけて、やめた。
「……俺は……」
その先が続かなかった。
許してほしい。
そう言えば、焦凍は何と答えるだろう。
許してほしくない。
そう言えば、焦凍は離れていくだろう。
憎んでほしい。
そう願うのも、違う。
燈矢自身にも、自分の望みが分からなかった。
自分が誰かを傷つけたことを認めたくないわけではない。
自分が何も悪くなかったと思っているわけでもない。
だが、自分の罪を認めた瞬間、自分がこれまで生きてきた時間のすべてが、無意味なものになってしまう気がした。
父親に認めてもらおうとした。
自分の才能を信じた。
焦凍を憎んだ。
家族を憎んだ。
世界を憎んだ。
そのすべてが、間違いだったのだとしたら。
自分は、何のために生きてきたのだろう。
何のために、ここまで憎しみを抱え続けてきたのだろう。
そして、今さら何を望めばいいのだろう。
燈矢は、ベッドに腰を落とした。
「……分かんねえよ」
小さな声だった。
「……自分でも、分かんねえ」
焦凍は、黙っていた。
燈矢は、顔を覆った。
「俺は、父さんに認められたかった。俺は、父さんに……」
声が震えた。
「……俺が生きてることを、喜んでほしかったんだよ」
焦凍は、息を止めた。
燈矢は顔を覆ったまま、言葉を続けた。
「俺が強いとか、すげえとか、そんなことだけじゃなくて……俺が何かをできなくても、父さんが思ってた未来に届かなくても……俺が、俺として生きてることを、喜んでほしかった」
その言葉は、部屋の中に落ちた。
何年も。
何十年もの時間を越えて。
誰にも届かなかった願いが、ようやく言葉になったようだった。
「……なのに、俺は……」
燈矢は、言葉を詰まらせた。
「俺は、父さんが俺を見てくれないなら、父さんに俺を見せつけてやるって……そう思った。俺が何をしたか、誰を傷つけたか、全部、父さんに見せつけてやろうって……」
彼は、苦しそうに息を吐いた。
「それで、父さんが俺を見たとして……何になるんだよ」
焦凍は、答えられなかった。
「俺がどれだけ憎まれたって、どれだけ恐れられたって、俺が父さんに認められたかったことは、変わらねえんだよ」
燈矢の声が、低く沈んだ。
「俺は、父さんに愛されたかったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、焦凍の胸に、痛みが走った。
兄がずっと求めていたもの。
父親が、与えなかったもの。
そして、自分が父親から与えられた力を、父親のためではなく自分のために使うと決めたとき、その選択の向こう側に、兄の届かなかった願いがあった。
焦凍は、ゆっくり息を吐いた。
そして、兄に言った。
「……愛されたかったんだな」
燈矢は、顔を上げなかった。
「ああ」
「父さんに、愛されたかったんだな」
「ああ……!」
燈矢の声が、怒りに変わった。
「それの何が悪いんだよ!」
「悪くない」
焦凍は、はっきり答えた。
「兄さんが、父さんに愛されたかったことは、悪くない」
燈矢は、顔を上げた。
焦凍は続けた。
「父さんが兄さんを愛さなかったことは、兄さんの価値がない理由にはならない。兄さんが認められなかったことも、兄さんが生きている意味をなくす理由にはならない」
「……」
「でも、兄さんが父さんに愛されたかったことと、兄さんが他の人を傷つけたことは、別なんだ」
その言葉を口にするのは、苦しかった。
兄の傷を見たあとで、その罪を語ること。
兄の願いを聞いたあとで、その願いがすべての行為を正当化するわけではないと告げること。
どちらか一方だけを選べば、簡単だったのかもしれない。
兄が苦しんでいたのだから、何も責めるべきではない。
兄が罪を犯したのだから、その苦しみなど関係ない。
どちらかにまとめてしまえば、答えを出した気になれる。
だが、焦凍は、そんな答えを選びたくなかった。
「俺は、兄さんが苦しんでいたことを否定したくない。でも、兄さんの罪を否定することもできない」
燈矢は、じっと弟を見つめていた。
「……お前は、結局、俺を許さねえんだな」
「……今は、まだ答えを出せない」
「それは、許さないってことと同じだろ」
「違う」
焦凍は言った。
「許すとも、許さないとも、今は言えない。それが俺の答えだ」
燈矢は、苦笑した。
「ひでえ弟だな」
「……そうだな」
「そこは否定しろよ」
「嘘をつきたくない」
燈矢は、しばらく弟を見つめていた。
そして、視線を落とした。
「……本当に、ひでえ弟だ」
今度の声には、怒りだけではない何かが混じっていた。
焦凍は、兄のそばへ歩み寄ることはしなかった。
手を伸ばせば、触れられる距離だった。
だが、今、兄が求めているものが、触れることなのかどうか分からなかった。
だから焦凍は、ただそこにいた。
兄の願いを聞いたことを、忘れないために。
兄の罪を、見なかったことにしないために。
兄の人生を、弟の言葉で勝手に終わらせないために。
6 許さないということ
しばらくして、燈矢が口を開いた。
「……焦凍」
「何だ?」
「お前は、俺がどうなれば、満足なんだ?」
焦凍は、少しだけ考えた。
「満足したいわけじゃない」
「……」
「兄さんが、俺の望む人間になることを期待してるわけでもない」
焦凍は、言葉を探しながら続けた。
「俺は、兄さんが自分の人生を選べるようになってほしい。けど、兄さんが何を選ぶかまで、俺が決めたいわけじゃない」
「俺が、また誰かを傷つける道を選んだら?」
「……止める」
焦凍の答えは、今度は迷わなかった。
「俺にできることをして、止める。兄さんが傷つけようとしている人を守る」
燈矢の目が細くなる。
「俺を止めるのかよ」
「そうだ」
「それでも、俺を救いたいのか?」
「そうだ」
燈矢は、言葉を失った。
焦凍は続ける。
「兄さんを救いたいからって、兄さんが何をしても止めないわけじゃない。兄さんが苦しんでいたからって、その苦しみを理由に誰かを傷つけていいわけじゃない」
焦凍は、静かに兄を見た。
「俺は兄さんの弟だ。でも、兄さんが傷つけた人たちにとって、俺はただの他人だ。俺が兄さんを大切に思っていることは、その人たちには関係ない」
燈矢の喉が動いた。
「……お前は、俺の味方じゃないのか?」
「兄さんの味方でいたい」
焦凍は答えた。
「でも、兄さんが誰かを傷つけるとき、その人たちを見捨てる味方にはなれない」
部屋は静かだった。
燈矢の表情から、少しずつ怒りが消えていった。
その代わりに浮かんだのは、疲労だった。
「……俺は、何を求めてんだろうな」
彼は呟いた。
「父さんに愛されたかった。認められたかった。それが叶わなかったから、父さんを憎んだ。俺のことを認めない世界を憎んだ。俺を傷つけたものを全部、燃やしてやりたかった」
燈矢は自分の手を見た。
「でも、そうやって生きてきたら……俺は、何を望んでたのか、分からなくなった」
焦凍は、その言葉を遮らなかった。
「父さんが俺を見ればよかった。俺を認めればよかった。俺を愛してくれればよかった。……そんなことばっかり考えてた」
燈矢は笑った。
笑い声は、ひどく乾いていた。
「俺は、ずっと父さんのことばっかり考えてたんだな」
「……そうかもしれない」
「俺の人生なのに?」
「ああ」
燈矢は、目を伏せた。
「……馬鹿みてえだな」
「そう思うかもしれない」
焦凍は答えた。
「でも、それが兄さんの人生だったことまで、馬鹿だったって言う必要はないと思う」
燈矢は顔を上げた。
「……どういう意味だ?」
「兄さんが、父さんを求めていたことは本当だった。兄さんが苦しんでいたことも本当だった。その気持ちを持っていたこと自体を、否定しなくてもいいと思う」
焦凍は、ゆっくり言った。
「ただ、その気持ちだけで、これからの人生を決めなくてもいいんじゃないか」
燈矢は何も言わなかった。
焦凍は、さらに続けた。
「俺は、兄さんが父さんを憎むのをやめてほしいとは言わない。すぐに前を向いてほしいとも言わない。家族と仲良くしてほしいとも言わない」
「……」
「ただ、兄さんが父さん以外の何かを望んでもいいんだって、思えるようになってほしい」
燈矢は、苦しげに口元を歪めた。
「……そんなもん、どこにあるんだよ」
「分からない」
焦凍は、また正直に答えた。
「俺も、まだ探してるところだから」
燈矢は、弟の顔を見つめた。
「……お前も?」
「ああ」
焦凍は頷いた。
「俺だって、まだ、自分が何をしたいのか、全部分かってるわけじゃない。父さんに決められていた頃の自分と、今の自分が、どうつながっているのか考えることもある。父さんを許せない気持ちもある。父さんが変わるなら、少しは違う気持ちになるのかもしれないとも思う」
焦凍は、目を伏せた。
「でも、そのどれも、誰かに決めてもらうことじゃないと思ってる」
「……」
「兄さんも、そうなれるといいと思ってる」
燈矢は、長いこと黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……お前は、俺を許さないままでも、俺と話をするのか?」
焦凍は、はっきりと答えた。
「する」
燈矢の目が揺れた。
「……俺を許せないままでも?」
「そうだ」
「俺を嫌いになっても?」
焦凍は、少しだけ考えた。
「嫌いになることもあるかもしれない」
燈矢は、苦笑した。
「……本当にひでえ弟だな」
「でも、嫌いになったら、そのときはそう言う」
「……」
「好きだと思ったら、好きだと言う。兄さんのことを大切に思ってるなら、大切だと言う。兄さんのしたことを許せないと思ったら、許せないと言う」
焦凍は、兄を見つめた。
「俺は、兄さんに対して、ひとつの気持ちだけを持っていなきゃいけないとは思わない」
燈矢は何も言わなかった。
「兄さんを大切に思うことと、兄さんの罪を許さないことは、両立すると思う」
焦凍は、ゆっくりと続けた。
「兄さんを理解しようとすることと、兄さんがしたことを認めないことも、両立すると思う」
燈矢は、俯いた。
「……そんなふうに考えたこと、なかった」
「俺も、前は考えられなかった」
焦凍は答えた。
「何かひとつ決めたら、それ以外の気持ちは全部なくさなきゃいけないと思ってた。父さんを拒むなら、父さんの力も全部拒まなきゃいけない。家族を大切に思うなら、家族を許さなきゃいけない。そういうふうに考えてた」
彼は自分の手を握った。
「でも、今は違う。父さんのしたことを許せなくても、父さんから受け継いだ力を、自分のために使える。家族を大切に思っていても、家族の望みを全部受け入れる必要はない」
焦凍は、兄を見た。
「兄さんだって、父さんのことを憎んだままでも、父さん以外のものを望んでいいんだと思う」
燈矢は、しばらく視線を落としていた。
そして、低く言った。
「……お前は、俺に何かを教えようとしてんのか?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
「俺が、そう思うようになったって話をしてるだけだ」
焦凍は肩をすくめた。
「兄さんに同じように思ってほしいとは願ってるけど、今すぐそうしろとは言わない」
燈矢は、長く息を吐いた。
「……本当に、変わったな」
「兄さんも変わった」
「俺は、何も変わってねえよ」
燈矢の声には、諦めがあった。
「俺は、今でも父さんを憎んでる。今でも、自分が何を望んでるのか分からねえ。今でも、誰かに認めてほしいと思ってる」
「……それでも、今、俺に話してくれた」
燈矢は黙った。
「昔は、こんな話、できなかったんだろ」
「……」
「だから、それは、変わったことなんじゃないか」
燈矢は、何も答えなかった。
けれど、先ほどまでのように、焦凍の言葉を否定することもしなかった。
7 救うという言葉
話が途切れたころ、窓の外はすっかり暗くなっていた。
焦凍は、椅子から立ち上がった。
「……今日は、帰る」
燈矢は、返事をしなかった。
焦凍はドアへ向かった。
そのとき、燈矢が呼び止めた。
「焦凍」
「何だ?」
燈矢は、迷っていた。
何を聞けばいいのか。
何を言えばいいのか。
自分でも分からないまま、言葉を探していた。
「……お前、俺を救えると思うか?」
焦凍は、立ち止まった。
それは、昨日も聞かれた問いだった。
だが、今は少しだけ意味が違っていた。
昨日の燈矢は、焦凍がどんな答えを持っているのか、試していたのかもしれない。
今の燈矢は、ただ、本当に知りたがっているように見えた。
焦凍は、兄の顔を見つめた。
「……分からない」
燈矢の表情が曇る。
焦凍は、すぐに続けた。
「でも、兄さんを救いたいと思ってる」
「……」
「それは本当だ」
焦凍は、自分の心にある気持ちを、ひとつずつ確かめるように言った。
「兄さんに、苦しみ続けてほしくない。父さんに認められなかったことだけで、自分の価値を決めてほしくない。兄さんがこれから先、何を望むのか、自分で決められるようになってほしい」
燈矢は、じっと聞いていた。
「でも、俺が兄さんを救えるとは限らない。俺がどれだけ話を聞いても、兄さんが苦しみを乗り越えられるとは限らない。俺が何かを言ったからって、兄さんの過去が変わるわけでもない」
焦凍は、少しだけ目を伏せた。
「……それに、俺が兄さんを救おうとすることで、兄さんの望みを勝手に決めてしまうかもしれない」
「……」
「俺は、兄さんに幸せになってほしいと思ってる。けど、俺が考える幸せが、兄さんにとっての幸せと同じかどうかは分からない」
焦凍は、顔を上げた。
「だから、俺が兄さんを救えるかどうかは、今は分からない」
燈矢は、何も言わなかった。
焦凍は、少しだけ微笑んだ。
「……でも、兄さんを一人にしたくないとは思ってる」
その言葉に、燈矢の目が揺れた。
「兄さんが俺と話したいなら、話をする。俺と話したくないなら、無理には来ない。でも、俺は、兄さんがここにいることをなかったことにはしない」
焦凍は、静かに続けた。
「兄さんが自分で選ぶまで、俺が勝手に答えを決めたりはしない」
燈矢は、長いこと黙っていた。
やがて、掠れた声で尋ねた。
「……俺が、誰にも許されないまま生きることになったら?」
焦凍は、すぐには答えなかった。
それは、簡単に慰めていい問いではなかった。
燈矢がしたことを思えば、すべての人が燈矢を許す未来など約束できない。
そもそも、許しを与えるかどうかは、燈矢が傷つけた人々自身のものだ。
彼らに許しを求めることはできても、許しを要求することはできない。
そして、燈矢が許されないまま生きていく可能性は、確かに存在する。
焦凍は、それを否定しなかった。
「……それでも、生きていくしかないんだと思う」
燈矢は、目を閉じた。
「ひでえこと言うな」
「……ああ」
焦凍は、正直に答えた。
「俺も、そう思う」
燈矢は、思わず弟を見た。
焦凍は、目を逸らさなかった。
「許されないまま生きていくのは、苦しいと思う。でも、誰かが許してくれるまで、生きることを始められないわけじゃないと思う」
「……」
「自分がしたことに責任を持つことと、これから生きていくことは、両立するはずだ」
焦凍は、静かに言った。
「俺は、兄さんに、罪をなかったことにしてほしいわけじゃない。兄さんがしたことを忘れてほしいわけでもない。……ただ、兄さんの人生が、罪だけで終わることを望んでない」
燈矢は、俯いた。
「……俺は、自分が何をしたのか、忘れてねえよ」
「ああ」
「忘れられるわけがねえだろ」
「……そうだな」
「だったら……」
燈矢は、言葉を詰まらせた。
しばらくして、ようやく続けた。
「……だったら、俺は、何をすればいい?」
焦凍は、すぐには答えなかった。
兄が初めて、自分の口から問いを発した。
父親がどう思うかではない。
家族がどうするかでもない。
世界が何を望むかでもない。
自分は、何をすればいいのか。
それは、長い時間をかけて、燈矢自身が探していくしかない問いだった。
焦凍が答えを与えてしまえば、兄はまた、誰かの答えを自分の人生にすることになる。
「……俺には、決められない」
焦凍は言った。
燈矢は顔を上げた。
「……お前でも、か?」
「俺でも、だ」
焦凍は頷いた。
「兄さんが何をすればいいのか、俺が決めることはできない」
「……」
「でも、兄さんが自分で考えるとき、話を聞くことはできる。兄さんが誰かを傷つけようとしたら、止めることもできる。兄さんが何かを選んだら、その選択がどういうものなのか、一緒に考えることもできる」
焦凍は、少しだけ息を吸った。
「それが、今の俺にできることだと思う」
燈矢は、長い間、弟を見ていた。
そして、ほんのわずかに笑った。
「……お前、昔より、ずっと生意気になったな」
「そうかもしれない」
「昔は、もっと言うことを聞く顔をしてた」
「……そうだったのか?」
「そうだよ。父さんの言うことなんか聞きたくねえって顔をしながら、何も言わなかった」
焦凍は、苦笑した。
「……そうだったな」
「お前も、苦しかったんだな」
その言葉は、意外なほど静かだった。
焦凍は、息を呑んだ。
燈矢は、窓の外を見ながら続けた。
「俺は、お前が羨ましかった。父さんが望むものを持ってるお前が憎かった。……でも、お前が父さんに何をされたのか、考えたことがなかった」
彼は、ゆっくり息を吐いた。
「お前のことを、父さんの夢を叶えるための道具だと思ってた。自分の代わりに、父さんが欲しかったものを持ってる奴だって」
燈矢は、弟を見た。
「……お前だって、そんなふうに生きたかったわけじゃなかったんだな」
焦凍は、少しだけ目を見開いた。
「……ああ」
燈矢は、目を伏せた。
「悪かった」
その言葉は、不器用だった。
謝罪として十分かどうかなど、分からない。
焦凍が、それをどう受け取るべきかも、すぐには分からなかった。
ただ、兄が自分の言葉で謝ったこと。
自分が父親の望みを叶えるために生まれた存在だと思っていたこと。
そのことを、兄がようやく知ろうとしたこと。
その事実だけを、焦凍は受け止めた。
「……俺も、兄さんのことを、ちゃんと見てなかった」
焦凍は答えた。
「これから、少しずつ知りたいと思ってる」
燈矢は、目を閉じた。
「……少しずつ、か」
「ああ」
「ずいぶん時間がかかるだろうな」
「そうだな」
「俺は、待つのが苦手なんだよ」
焦凍は、少しだけ笑った。
「知ってる」
「おい」
「……ごめん」
燈矢は、今度は小さく笑った。
ほんの短い時間だった。
それでも、確かに、笑った。
やがて燈矢は、焦凍から目を逸らし、窓の外へ視線を戻した。
「……今日は、もう帰れ」
「分かった」
焦凍はドアへ向かった。
その背中に、燈矢の声が届いた。
「焦凍」
「何だ?」
「……明日も、来るのか?」
焦凍は、振り返った。
燈矢は、窓の外を見たままだった。
「……兄さんが、話をしたいなら」
少しだけ間を置いて、焦凍は続けた。
「明日も来る」
燈矢は、答えなかった。
だが、今度は「来るな」とも言わなかった。
焦凍は部屋を出た。
扉が閉まる。
今度の音も、静かだった。
何かが解決したわけではない。
兄が、自分の罪を引き受けると決めたわけでもない。
焦凍が、兄を許したわけでもない。
明日になれば、また怒りが戻ってくるかもしれない。
燈矢は再び焦凍を拒むかもしれない。
父親への憎しみが、別の誰かへ向かうかもしれない。
今日の会話が、何の結果にもつながらない可能性だってある。
それでも、焦凍は初めて、兄を救うという言葉の意味を、少しだけ理解できた気がした。
救うとは、相手を自分の望む場所へ連れていくことではない。
相手の罪を、代わりに背負うことでもない。
相手が歩く道を、あらかじめ決めることでもない。
それは、相手が自分自身の答えを探す余地を残すこと。
その答えが、自分の望んだものではなかったとしても。
そして、相手の選択を尊重することと、自分の大切なものを守ることを、同時に諦めないこと。
焦凍は、廊下の窓から夜空を見上げた。
自分は、兄を救えるのだろうか。
その問いに、確かな答えはなかった。
ただ、救いたいという願いを、兄のための命令にしないこと。
兄を理解したいという願いを、兄の罪を消すための理由にしないこと。
兄を大切に思う気持ちを、他の誰かを犠牲にするための免罪符にしないこと。
それだけは、決められる。
焦凍は、歩き始めた。
彼はまだ、兄を救えていない。
兄もまだ、自分自身を救えていない。
けれど、二人は初めて、互いの人生を、相手の答えだけで決めないための言葉を交わした。
それは和解ではなかった。
許しでもなかった。
それでも、これまで二人を隔ててきた沈黙に、小さな亀裂が生まれたことは確かだった。
8 父親という罪の、その先
夜が更けるころ、エンデヴァーは燈矢の部屋の前に立っていた。
扉を叩くことはできなかった。
焦凍が話をしたと聞いていた。
その直後に自分が現れれば、燈矢は再び閉じこもるかもしれない。
けれど、何もせずに帰ることが、再び逃げることになるのではないかという恐れもあった。
エンデヴァーは、扉を見つめた。
かつてなら、自分の判断が正しいと信じ、ためらわずに扉を開けていただろう。
自分が父親なのだから。
自分が責任者なのだから。
自分が一番、家族を思っているのだから。
そうした理屈を並べ、自分の行動を正当化していたかもしれない。
今は、その言葉がどれほど危ういものだったかを知っている。
父親だからといって、何をしてもいいわけではない。
家族を思っているからといって、家族の意思を無視していいわけでもない。
エンデヴァーは、深く息を吐いた。
「……燈矢」
扉越しに呼びかける。
返事はない。
「話したいことがある」
沈黙。
エンデヴァーは、続けた。
「だが、今すぐ話を聞いてほしいわけではない。お前が話したくないなら、今日は帰る」
彼は、言葉を切った。
「……俺は、お前に謝罪したい。だが、それを受け取る義務は、お前にはない」
扉の向こうで、何かが動いたような気配がした。
それでも、返事はない。
「お前が俺を許せないことを、俺は責めない。お前が俺を父親だと思いたくないなら、それもお前が決めることだ」
エンデヴァーは、拳を握りしめた。
「ただ、俺が何をしたのかを、俺自身が忘れないために、これからも責任を取る」
彼は、頭を下げた。
扉の向こうに燈矢がいるかどうかは、分からなかった。
見ているかどうかも分からなかった。
それでも、エンデヴァーは頭を下げたまま、しばらく動かなかった。
やがて、立ち上がる。
「……今日は、帰る」
そう告げて、廊下を歩き始めた。
背中に、声が飛んだ。
「……父さん」
エンデヴァーは、立ち止まった。
振り返りたかった。
すぐに扉を開けたかった。
だが、振り返る前に、深く息を吸った。
「……何だ」
扉の向こうから、燈矢の声が聞こえた。
「……俺は、まだ許さねえからな」
エンデヴァーは目を閉じた。
その言葉を、受け止める。
「……ああ」
「俺が、父さんを許すと思うなよ」
「……分かっている」
「俺は、父さんに愛されたかったんだ」
「……ああ」
「それが、どれだけ苦しかったか……分かってんのかよ」
エンデヴァーは、言葉を失った。
分かっている、と言うことはできなかった。
自分が、どれだけ息子を苦しめたのか。
どれだけ長い時間、息子が何を望んでいたのか。
そのすべてを、理解しているなどとは言えなかった。
「……分かっていないことが、まだある」
エンデヴァーは答えた。
「だが、分かろうとし続ける。お前が話すなら、聞く。話したくないなら、無理に聞き出すことはしない」
扉の向こうは静かだった。
やがて、燈矢の声が聞こえた。
「……遅えんだよ」
「ああ」
「何もかも、遅すぎるんだよ」
エンデヴァーは、目を伏せた。
「……そうだな」
それ以上、何も言わなかった。
燈矢も、何も言わなかった。
それでも、エンデヴァーは、今夜の会話を「一歩前進した」と評価することをしなかった。
息子が言葉を返してくれたからといって、それが許しの兆しだと思いたくなかった。
自分の謝罪を聞いてくれたからといって、関係が改善したと思いたくなかった。
それらはすべて、燈矢の側にしか決められないことだった。
エンデヴァーは廊下を歩き出した。
自分は、父親としての罪を背負わなければならない。
しかし、息子の人生まで背負うことはできない。
それを背負うと言い出せば、また同じことを繰り返してしまう。
息子が何を感じ、何を望み、どんな道を選ぶのか。
そのすべてを、自分が決めてはいけない。
たとえ、自分の望む道ではなかったとしても。
廊下の先に、焦凍が立っていた。
父親の姿を見ると、焦凍は尋ねた。
「……兄さんと話せたのか?」
エンデヴァーは首を横に振った。
「話をした。だが、何も解決していない」
「……そうか」
「焦凍」
「何だ?」
エンデヴァーは、しばらく息子を見つめていた。
「……ありがとう」
焦凍は、眉を寄せた。
「何が?」
「燈矢と、話をしてくれたことだ」
「……俺が話したかったから、話しただけだ」
焦凍は答えた。
「父さんのためにしたわけじゃない」
エンデヴァーは、わずかに目を見開いた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。すまない」
焦凍は、父親を見ていた。
その謝罪を聞いても、何かがすぐに変わるわけではない。
自分の中には、まだ父親への怒りがある。
家族の痛みも、過去の記憶も、消えたわけではない。
それでも、父親が自分の言葉を受け止めたことは、確かだった。
焦凍は、短く頷いた。
「……じゃあ、俺は戻る」
「ああ」
焦凍は歩き始めた。
すれ違う瞬間、エンデヴァーは、もう一度だけ息子を見た。
かつての自分なら、焦凍に「燈矢を頼む」と言っていたかもしれない。
長男を救うことを、弟に託していたかもしれない。
家族の修復を、息子たちの役割にしてしまっていたかもしれない。
だが、今は言わなかった。
燈矢を救う責任は、焦凍だけのものではない。
父親としての罪を、子どもたちが代わりに償う必要はない。
焦凍が兄と話すことを選んだのなら、それは焦凍自身の選択だ。
エンデヴァーは、ただそれを尊重するしかなかった。
家族だからといって、誰かの人生を代わりに生きることはできない。
家族だからといって、誰かの罪を代わりに背負うこともできない。
それでも、家族だからこそ、互いが選んだ道を見届けようとすることはできるのかもしれない。
それが許しにつながるのかどうかは、分からない。
ただ、自分がやるべきことを、誰かの優しさに委ねない。
そのことだけは、もう間違えてはいけなかった。
9 兄弟の距離
翌朝、焦凍が食堂へ向かうと、冬美が湯気の立つカップを並べていた。
「おはよう、焦凍」
「おはよう」
「眠れた?」
「……まあまあ」
「燈矢お兄ちゃんとは?」
焦凍は、少し考えてから答えた。
「話した」
冬美の手が、わずかに止まった。
「……どんな話を?」
「兄さんが、父さんに愛されたかったこと。俺のことを憎んでいたこと。それから……俺が兄さんを救えるかどうか」
冬美は、静かに聞いていた。
「答えは出た?」
「出てない」
焦凍は椅子に座った。
「兄さんを救いたいとは思ってる。でも、俺が兄さんを救えるかどうかは、分からない」
「……そう」
冬美は、何かを言いかけた。
弟を励ましたかったのかもしれない。
自分たち家族なら、きっと大丈夫だと伝えたかったのかもしれない。
しかし、彼女は、その言葉を飲み込んだ。
代わりに、焦凍の前にカップを置いた。
「……それでも、話ができてよかったね」
焦凍は、湯気を見つめた。
「……そうだな」
それから、少しだけ笑った。
「でも、俺が何かできたってわけじゃないと思う」
「そうかもしれないね」
冬美は答えた。
「何もできなかったと思う日も、きっとあると思う。でも、焦凍が何をしたかを、私が決めることじゃないもの」
焦凍は、姉を見た。
冬美は、穏やかに微笑んでいた。
その顔には、長年、家族のために頑張り続けてきた疲れがあった。
それでも今は、その疲れを隠すために笑っているようには見えなかった。
「……姉さんは、兄さんと話すのか?」
焦凍が尋ねると、冬美は少し考えた。
「話したいと思ってる。でも、どう話せばいいのかは、まだ分からない」
「……そうか」
「それに、燈矢お兄ちゃんが話したいと思っているかも分からないでしょう?」
冬美は、静かに言った。
「だから、私が話したいと思っていることと、燈矢お兄ちゃんが話したいかどうかは、別に考えたい」
焦凍は頷いた。
「……うん」
「焦凍が話せたからって、私もすぐ話せるとは限らない。夏雄だって、そうだと思う」
冬美は、窓の外を見た。
「それでも、私は、話す機会が来たら、逃げずに向き合いたいとは思ってる」
焦凍は、姉の言葉を聞いた。
同じ家族でも、同じ答えを持っている必要はない。
焦凍は兄と話した。
冬美は、これから話したいと思っている。
夏雄は、まだ距離を必要としている。
冷は、母親として家族を支えてきた過去と向き合おうとしている。
そして、エンデヴァーは、自分がしたことの責任を取り続けなければならない。
誰か一人が正しいというわけではない。
誰か一人が、家族全員の答えを決めることもできない。
「……俺、兄さんに『明日も来る』って言ったんだ」
焦凍が言うと、冬美は微笑んだ。
「そう」
「兄さんが、話したいならだけど」
「うん」
「……だから、明日も行くと思う」
冬美は、静かに頷いた。
「焦凍がそうしたいなら、そうすればいいと思う」
その言葉は、許可でも命令でもなかった。
ただ、焦凍自身の選択を尊重する言葉だった。
焦凍は、カップを手に取った。
温かい飲み物を一口飲む。
喉を通る温度は、普通だった。
当たり前のように食卓があり、飲み物があり、朝が来る。
そんな日常が、いつか家族にとって、本当に当たり前のものになるのだろうか。
焦凍には分からない。
以前の家族に戻ることは、できないだろう。
あの頃に戻りたいとも、もう思わない。
ただ、これから先、誰かの願いを叶えるために、別の誰かが自分の人生を諦めるようなことがなければいい。
自分も、兄も、姉も、弟も、母も、父も。
それぞれが、自分自身の選択を持てるようになればいい。
焦凍は、窓の外を見た。
空には、雲が広がっていた。
晴れているわけではない。
雨が降っているわけでもない。
ただ、今日という一日が始まろうとしている。
それだけのことが、今は少しだけ大切に思えた。
10 弟は兄を救えるのか
その日の午後。
燈矢は、一人で庭に出た。
誰にも言わず、ふらりと部屋を出て、縁側へ腰を下ろした。
庭の木々は、以前と同じではなかった。
自分が知っていた季節は、もう過ぎ去っている。
自分が知らない時間の中で、木は成長し、枝を伸ばし、葉を落とし、また芽吹いてきた。
自分がいなかった時間。
家族が、自分のいない時間を生きてきた事実。
そのことを、燈矢は考えないようにしていた。
考えれば、胸の奥に何かが突き刺さる。
自分が失ったもの。
自分が手にできなかったもの。
自分の知らないところで、家族が経験したこと。
そして、もう取り戻せない時間。
燈矢は、庭を見つめた。
自分は、父親に認められたかった。
ただ、愛されたかった。
それだけだった。
その願いを、ずっと手放せなかった。
父親に認められなければ、自分には価値がない。
父親が自分を選ばなければ、自分は必要とされていない。
弟が父親の期待を受け継いだのなら、自分は不要になったのだ。
そんなふうに考え続けてきた。
その結果、自分は何をしたのか。
燈矢は、目を閉じた。
思い出したくないことは、いくらでもある。
自分の行為によって傷ついた人々。
自分の言葉によって、人生を変えられてしまった人々。
自分の憎しみが、別の誰かの恐怖になったこと。
そのすべてを、父親への怒りの中に埋めてしまいたかった。
けれど、焦凍はそれを許さなかった。
いや。
焦凍は、許さないと言ったわけではない。
ただ、許すことで全部が終わるわけではないと告げた。
兄を大切に思うこと。
兄の苦しみを理解すること。
兄の罪をなかったことにしないこと。
そのすべてを、同時に選ぶことができるのだと。
燈矢は、乾いた笑いを漏らした。
「……面倒くせえな」
誰に言ったわけでもなかった。
父親への怒りだけで生きていられたなら、どれほど楽だっただろう。
父親さえ認めてくれれば。
父親さえ謝ってくれれば。
父親さえ、あの頃に戻ってくれれば。
そうやって答えを一つに絞れたなら、自分はこれからも、ただ憎み続ければよかった。
しかし、父親が謝罪した。
弟が話を聞いた。
家族が、それぞれ違う距離を取ろうとしている。
それでも、自分の中にあるものは消えなかった。
父親への怒り。
自分自身への怒り。
失われた時間への怒り。
愛されたかった自分への、どうしようもない憐れみ。
それらを持ったまま、明日を生きる。
それは、思っていたよりも難しいことだった。
「……何をすりゃいいんだよ」
燈矢は、誰もいない庭に呟いた。
答えはない。
当然だった。
自分の人生を、誰かが代わりに決めることはできない。
父親が答えを持っているわけではない。
弟が答えを持っているわけでもない。
家族が、正しい道を教えてくれるわけでもない。
それでも、自分は生きている。
生きている以上、何かを選ばなければならない。
選ばないことも、ひとつの選択になる。
何も望まないと言い続けることも。
過去に縛られていることを、自分の運命だと決めることも。
燈矢は、両手を見た。
かつて、自分の炎は才能の証だった。
父親に認められるためのものだった。
その炎を使うことが、自分の価値を証明する唯一の方法だと思っていた。
だが、自分は炎だけでできているわけではない。
父親の評価だけでできているわけでもない。
そんなことは、焦凍に言われるまでもなく、ずっと前から知っていたはずだった。
知っていたのに、信じられなかった。
信じるには、誰かの言葉が必要だった。
父親の言葉が。
母親の言葉が。
家族の言葉が。
そして今、弟の言葉が。
それでも、最後に信じるかどうかを決めるのは、自分だった。
燈矢は、ゆっくり息を吸った。
そのとき、背後から声がした。
「……兄さん」
焦凍だった。
燈矢は振り返った。
「……何だよ」
「ここにいたのか」
「見りゃ分かるだろ」
「……そうだな」
焦凍は少し離れた場所に立った。
昨日のように、無理に隣へ座ろうとはしなかった。
燈矢は、それを見ていた。
「……お前、何しに来た?」
「散歩」
「嘘つけ」
「……兄さんの様子を見に来た」
燈矢は鼻を鳴らした。
「正直でよろしい」
焦凍は、少しだけ笑った。
「……隣、座っていいか?」
燈矢は庭を見た。
「好きにしろよ」
焦凍は、燈矢から少し距離を空けて縁側に座った。
二人は、しばらく庭を眺めた。
話すことは、いくらでもあるはずだった。
けれど、言葉にするには、まだ時間が必要だった。
その沈黙は、以前のように、互いを遠ざけるためだけのものではなかった。
今は、言葉を探すための沈黙でもあった。
燈矢が、ぽつりと言った。
「……俺は、まだ、父さんを許すつもりはねえぞ」
「うん」
「お前も、俺を許す必要はねえ」
焦凍は、兄を見た。
燈矢は、庭から目を逸らさなかった。
「……お前が、俺を許せるかどうかなんて、俺が決めることじゃねえんだろ」
焦凍は、ゆっくり頷いた。
「ああ」
燈矢は続けた。
「俺が、これからどうするかも……俺が決めることなんだろ」
焦凍は、兄を見つめた。
「ああ」
「……だったら、俺は、まだ考える」
その言葉は、小さかった。
大きな決意ではなかった。
反省を終えたという宣言でもなかった。
明日から生まれ変わるという約束でもなかった。
ただ、燈矢が初めて、自分の未来について、自分自身の言葉で話した瞬間だった。
焦凍は、すぐには返事をしなかった。
その言葉を、急いで肯定したくなかった。
兄が考えると言ったことを、希望の証拠にしてしまいたくなかった。
それでも、何も言わないままではいたくなかった。
「……うん」
焦凍は、静かに頷いた。
「考えればいいと思う」
燈矢は、弟の横顔を見た。
「……お前は、本当に、それでいいんだな」
「俺は、兄さんの答えを決めたいわけじゃないから」
焦凍は、庭を見つめたまま答えた。
「兄さんが何を選ぶのかは、兄さんが決めることだ」
燈矢は、目を閉じた。
「……お前、いつか後悔するかもしれねえぞ」
「そうかもしれない」
「俺が、また間違えたら?」
「止める」
「俺が、お前を傷つけたら?」
焦凍は、少しだけ考えた。
「……そのときは、傷ついたって言う」
燈矢は、目を開いた。
「……それだけか?」
「それだけじゃない。必要なら、兄さんから離れる。俺自身を守るために」
焦凍は、兄を見た。
「兄さんを大切に思ってるからって、俺が傷つくことを我慢しなきゃいけないわけじゃない」
燈矢は、言葉を失った。
焦凍は続けた。
「兄さんが俺を大切に思ってくれるなら、俺を傷つけないでほしい。でも、兄さんが俺を傷つけることがあったら、俺は自分を守る」
「……」
「それでも、俺が兄さんを大切に思ってることまで、嘘になるわけじゃない」
燈矢は、しばらく弟を見つめた。
その目には、戸惑いがあった。
誰かを大切に思うことと、自分を守ること。
理解することと、許すこと。
憎しみを抱くことと、別の未来を望むこと。
自分がずっと一つだと思い込んでいたものの中に、いくつもの違いが存在していた。
その違いを、一つずつ理解していくこと。
それは、炎を燃やしてすべてを焼き尽くすより、よほど難しいことだった。
燈矢は、息を吐いた。
「……お前、変な奴になったな」
「そうか?」
「昔は、そんなこと言わなかった」
「昔は、言えなかったんだと思う」
焦凍は、少しだけ目を伏せた。
「俺も、自分がどうしたいのか、分からなかったから」
燈矢は、再び庭を見た。
「……俺もだよ」
それだけ言って、黙った。
焦凍も、それ以上は聞かなかった。
空には、雲が流れていた。
二人は、その雲が通り過ぎるのを見ていた。
兄が弟に救われるのか。
弟が兄を救えるのか。
その答えは、まだどこにもなかった。
焦凍が兄を救えると、誰かが保証してくれるわけではない。
燈矢が、自分自身を救えると約束したわけでもない。
ただ、兄は少しだけ、自分の未来について考えると言った。
弟は、兄の答えを勝手に決めないと決めた。
その二つの選択が、今の二人にできることだった。
そして、それは、何も起きなかったこととは違う。
傷は残っている。
罪も残っている。
失われた時間も、戻らない。
それでも、これから何を選ぶかまで、過去に奪わせないことはできるのかもしれない。
焦凍は、静かに立ち上がった。
「……俺、戻るよ」
燈矢は、頷いた。
「……ああ」
焦凍が歩き出す。
その背中に、燈矢は何かを言おうとして、やめた。
呼び止める理由が、うまく見つからなかった。
まだ話したいことはある。
だが、すべてを一度に話す必要はない。
弟が去っていく。
その姿を見ながら、燈矢は、ほんの少しだけ考えた。
自分は、焦凍を憎んでいた。
弟が持っていたものを、羨んでいた。
自分が手に入れられなかったものを、弟が持っていると思っていた。
けれど、弟もまた、父親の願いに縛られていた。
弟にも、弟自身の苦しみがあった。
そのことを知ったからといって、自分の苦しみが消えるわけではない。
焦凍が持っていたものを、羨ましく思わなくなるわけでもない。
自分の人生を、すぐに肯定できるわけでもない。
それでも。
ほんの少しだけ。
自分が見ていなかったものが、そこにあったのだと、燈矢は思った。
そして、自分もまた、誰かに見てもらうことを求め続けるだけではなく、誰かを見ることを、これから覚えていかなければならないのかもしれない。
燈矢は、庭を見つめた。
風が吹いた。
木々の葉が、静かに揺れた。
その音は、何かを許す音ではなかった。
何かが終わる音でもなかった。
ただ、時間が流れ続けていることを知らせる音だった。
燈矢は、目を閉じた。
そして、まだ答えの見つからない問いを、胸の中で繰り返した。
――俺は、これから、何を望めばいい。
その問いに、誰も答えを与えなかった。
それでよかった。
少なくとも今は、自分で考えることを、始められたのだから。