1 母親の朝
朝、冷はいつもより早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗かった。
庭の木々は夜の冷気をまとい、葉の先に残った露が、わずかな光を反射している。
彼女は、しばらくベッドの上に座っていた。
起き上がることはできる。
着替えることもできる。
食事を用意することも、家族に声をかけることもできるだろう。
けれど、身体が動くことと、心が動くことは同じではなかった。
冷は、自分の手を見つめた。
この手で、何人もの子どもを抱きしめた。
熱を測り、額に触れ、髪を梳き、服の皺を伸ばし、食事を用意した。
子どもたちが眠れない夜には、そばにいた。
熱を出したときには看病した。
笑っている顔を見ることが、嬉しかった。
泣いている顔を見ることが、苦しかった。
母親として、できることをしようとしてきた。
けれど、その手は、子どもを傷つけたこともある。
焦凍の顔に、熱湯をかけた。
あのときのことを、忘れたことはない。
忘れられるはずもない。
自分が何に追い詰められていたのか。
何を恐れていたのか。
どれほど心が壊れていたのか。
そうしたことを振り返るたび、冷は、あのときの自分がどれほど追い詰められていたかを思い知る。
だが、それを理解することは、焦凍の傷を消すことではなかった。
彼女が苦しかったからといって、焦凍が傷つかなかったことにはならない。
彼女が病んでいたからといって、息子が受けた痛みが消えるわけではない。
そのことを、冷は知っていた。
そして、知っているからこそ、何度も自分を責めてきた。
自分がもっと強ければ。
もっと上手に立ち回れていれば。
夫の望みを、もっと早く拒めていれば。
子どもたちを、もっと上手に守れていれば。
そう考えるたび、過去のどこかに、自分一人が正しい行動を取れば変えられた未来があったような気がした。
しかし、時間を遡って考えれば考えるほど、冷は一つの事実に突き当たる。
自分は、すべてを変えられる立場にはいなかった。
夫は、家庭の中で圧倒的な力を持っていた。
彼の期待は、ただの期待ではなかった。
断れば怒りを向けられ、逆らえば生活そのものが息苦しくなり、子どもたちの将来も、家族の空気も、その意志に左右された。
冷にも、選択はあった。
だが、その選択は、いつも自由なものではなかった。
彼女自身もまた、夫の望みのために人生を決められていた。
それでも、子どもたちを守れなかった。
傷つけてしまった。
その両方が事実だった。
冷は、ゆっくり息を吐いた。
過去を理解することは、必要だ。
自分が何を経験したのかを、なかったことにしてはいけない。
しかし、過去を理解しようとするたびに、最後は自分を罰するところへ戻ってしまう。
それでは、何も変わらない。
自分の罪を忘れないことと、自分を永遠に罰し続けることは、違うはずだった。
冷は、ベッドから立ち上がった。
鏡の前に立つ。
そこにいるのは、母親だった。
轟家の母。
エンデヴァーの妻。
四人の子どもを産んだ人。
焦凍を傷つけた人。
燈矢を守りきれなかったと悔やむ人。
冬美に頼りすぎていたことを、ようやく認めようとしている人。
夏雄が自分に見せていない苦しみを、まだ知らない人。
そして、それらのどれか一つだけでは説明できない、一人の人間だった。
冷は、鏡の中の自分に問いかける。
――あなたは、これからどうしたいの。
答えは、すぐには出なかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
もう、母親だからという理由だけで、家族のすべてを引き受け続けることはできない。
それは、家族を見捨てるという意味ではない。
自分を見捨てることを、家族への愛と呼ばないという意味だった。
2 空いた椅子
朝食の時間、冷は食堂へ向かった。
冬美が台所で食事を整え、焦凍が席についている。
夏雄は、まだ来ていなかった。
エンデヴァーの姿もない。
燈矢も、部屋にいるのだろう。
食卓には、四人分の食器が並んでいた。
それを見て、冷は足を止めた。
何人分の食事を用意するべきか。
誰が来るのか。
誰が来ないのか。
誰に声をかけ、誰を待ち、誰をそっとしておくべきなのか。
そんなことを考えるのは、いつだって彼女だった。
家族が揃っていないとき、冷はその空席を気にした。
誰かが怒っているときには、どうすれば話し合えるかを考えた。
家族の間に気まずい空気が流れれば、何か別の話題を探した。
昔は、それが母親の務めだと思っていた。
家族をつなぐこと。
みんなが同じ食卓につけるようにすること。
誰かが苦しんでいるときに、誰かが支えられるようにすること。
けれど、今は分からなくなっていた。
自分が家族をつないでいるつもりで、実際には、家族がそれぞれ抱えている問題を、自分が見ないようにしていたのではないか。
食卓に全員が揃っていれば、家族はまだ壊れていない。
そう信じることで、壊れてしまったものから目を逸らしていたのではないか。
「お母さん?」
冬美が振り返った。
「どうしたの?」
冷は、空いた椅子を見つめていた。
「……いいえ。何でもないわ」
そう答えかけて、やめた。
何でもないことにしてしまえば、また同じことを繰り返す。
「……この席、空けておきましょう」
冬美は、少しだけ目を見開いた。
「燈矢の席?」
「誰の席でもいいの。今は、空けておけばいいと思う」
冷は、椅子に手を置いた。
「来たい人が来ればいい。来たくない人は、来なくてもいい。無理に全員を揃えようとしなくてもいいんじゃないかしら」
冬美は、母親の顔を見つめた。
「……うん」
その返事は、すぐには出なかった。
冬美もまた、長いあいだ、家族が揃うことを望んできたからだ。
父と母が同じ部屋にいること。
弟たちが笑っていること。
燈矢の話題を、誰かが避けなくてもいいこと。
家族が、ごく普通の会話を交わせること。
そんな日常を、冬美は何度も夢見てきた。
それは、間違った願いではなかった。
けれど、その願いを叶えるために、誰かが無理をしなければならないのなら。
誰かが、本当は話したくないのに話し。
誰かが、許せないのに許したふりをし。
誰かが、家族だからという理由だけで、傷ついた心を押し殺さなければならないのなら。
その食卓は、本当に家族をつなぐ場所なのだろうか。
冬美は、空いた椅子を見た。
「……そうね。誰かが座るまで、空いていてもいいのかもしれない」
冷は、静かに頷いた。
「ええ」
焦凍は、母と姉の会話を聞きながら、箸を置いた。
「母さん」
「何?」
「……兄さんのこと、会いに行きたい?」
冷は、しばらく黙っていた。
それから、正直に答えた。
「会いたいわ」
「じゃあ、行けばいいと思う」
「……そうね」
冷は、小さく笑った。
「でも、会いたいからといって、今すぐ会いに行くのが正しいとは限らないでしょう?」
焦凍は、少し考えた。
「……兄さんが会いたいかどうかも、分からないから?」
「それもあるわ」
冷は、食卓の上に視線を落とした。
「それに、私は燈矢に会って、何を話せばいいのか、まだ分からないの」
母親として、何と言えばいいのだろう。
帰ってきてくれて嬉しい。
会いたかった。
あなたを守れなくてごめんなさい。
あなたの苦しみに気づけなくてごめんなさい。
そうした言葉は、どれも本当だった。
だが、それだけで十分なのだろうか。
自分が彼を抱きしめたら、燈矢は何を思うだろう。
自分が泣いたら、燈矢は、また自分の感情を気遣わなければならなくなるのではないか。
自分が謝れば、燈矢はその謝罪を受け入れることを求められていると感じるのではないか。
母親の涙を見た長男が、また母親を慰める側に回ることになったら。
それは、再び彼に役割を押しつけることになる。
冷は、唇を噛んだ。
「……私は、燈矢に会いたい。でも、あの子に、私の気持ちを受け止めてもらうことを求めたくない」
焦凍は、黙って頷いた。
冬美は、母親の横顔を見ていた。
「お母さん……」
冷は、娘に視線を向けた。
「冬美。あなたにも、話しておきたいことがあるの」
「……何?」
冷は、静かに言った。
「これからは、あなたに、家族をつなぐ役目を背負わせたくない」
冬美は、目を見開いた。
「……え?」
「あなたは、ずっと頑張ってくれたでしょう。家族が壊れないように、みんなが少しでも普通に暮らせるように。あなたがしてくれたことを、私は忘れていない」
冷は、娘の手を取ろうとした。
けれど、途中で止めた。
触れてもいいか、確かめるように。
冬美が自分から手を伸ばしたので、冷はその手を握った。
「ありがとう。でも、もう、あなたが頑張らなくてもいいの」
冬美の顔が、少しずつ歪んだ。
「……私が頑張らなかったら、どうなるの?」
その声は、母親に向けた質問というより、長年自分に問い続けてきた言葉のようだった。
「みんなが、ばらばらになっちゃうかもしれない」
冷は、すぐに答えられなかった。
否定することは簡単だった。
そんなことにはならない。
大丈夫。
心配しないで。
けれど、それは約束できない。
家族がばらばらになる可能性はある。
燈矢が、家族と関わることを拒むかもしれない。
夏雄が、父親を許さないまま距離を取り続けるかもしれない。
焦凍が、兄と話をしても、最後には理解し合えないかもしれない。
冷自身だって、夫を許せないまま生きていくかもしれない。
家族が全員同じ場所に立つ未来は、もう来ないかもしれない。
「……そうね」
冷は答えた。
「ばらばらになるかもしれない」
冬美の目に、涙が浮かんだ。
冷は、娘の手を握る力を少しだけ強めた。
「でも、みんなが無理をして一緒にいることだけが、家族じゃないと思うの」
「……」
「冬美。あなたが家族を大切に思うことは、素敵なことよ。でも、家族を大切にするために、あなた自身を後回しにし続けなくてもいい」
冷は、娘を見つめた。
「私は、あなたに、私の代わりになってほしくない」
冬美は、涙をこぼした。
それは、悲しみだけではなかった。
誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
頑張らなくてもいい。
あなたが、全員のことを気にかけなくてもいい。
あなたが、家族を一つにまとめなくてもいい。
そう言われたとき、自分が何を感じるのか、冬美には分からなかった。
安心した。
同時に、恐ろしくなった。
自分が手を離せば、本当に何もかも崩れてしまうのではないか。
それでも、母親は言った。
家族がどうなるか、そのすべてを、冬美一人が背負う必要はないのだと。
「……お母さん」
冬美は、涙を拭った。
「私、頑張るのをやめたら、何をしたらいいのか分からない」
冷は、その言葉に胸を締めつけられた。
それは、自分自身が長いあいだ抱えてきた感情と、あまりにもよく似ていた。
母親だから。
妻だから。
家族を守らなければいけないから。
そうやって自分の役割を優先しているうちに、自分が何を望んでいるのか分からなくなる。
自分が休んでいいのか、分からなくなる。
自分が誰かに助けてもらっていいのか、分からなくなる。
自分が誰かに怒っていいのか、分からなくなる。
「……私も、そうだったわ」
冷は言った。
「ずっと、自分が何をしたいのか、分からなかった」
冬美は、母親を見た。
冷は、娘の手を握ったまま、言葉を続けた。
「だから、あなたには、私と同じ思いをしてほしくないの」
食堂は静かだった。
誰も、すぐには何も言わなかった。
空いた椅子だけが、窓から差し込む朝の光を受けていた。
その椅子は、誰かを拒むために空いているのではない。
誰かが座ることを、無理に求めないために空いている。
今朝の轟家は、初めて、その空席を埋めようと急がなかった。
3 夏雄の距離
午前中、夏雄が帰ってきた。
玄関を開けるなり、彼は靴を脱ぎながら声をかけた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
冷は、廊下から答えた。
夏雄は、少し驚いた顔をした。
「……母さん、起きてたんだ」
「ええ」
「いや、別に寝てると思ってたわけじゃないけど」
夏雄は、照れ隠しのように頭を掻いた。
「……何かあった?」
「何もないと、話しかけちゃいけない?」
「そういう意味じゃない」
夏雄は、少し困ったように笑った。
「……何か、変わったなと思って」
冷も、少しだけ笑った。
「そうかもしれないわね」
夏雄は、リビングへ向かった。
冷も、少し距離を空けてついていく。
彼はソファに座ると、スマートフォンを取り出しかけて、すぐにしまった。
母親がそこに立っていることが、少し落ち着かなかったのだろう。
冷は、その様子を見て、椅子に腰を下ろした。
「……夏雄」
「何?」
「燈矢のこと、どう思っている?」
夏雄の表情が、一瞬で硬くなった。
「……何だよ、急に」
「聞いておきたいの」
「母さんは、どう思ってるんだ?」
冷は、少しだけ目を伏せた。
「私も、分からないことがたくさんあるわ」
「……」
「燈矢に会いたい。話をしたい。でも、あの子が何を考えているのか、どう感じているのか、私には分からない」
夏雄は、黙って聞いていた。
「あなたが、燈矢のことをどう思っているのかも、私には決められないわ。だから、聞いておきたいの」
夏雄は、しばらく考えていた。
「……俺は、まだ会いたくない」
冷は、頷いた。
「そう」
「いや、会いたくないっていうか……分からないんだよ。顔を見て何を言えばいいか。何を聞けばいいか。何を言われたら、俺はどう答えるのか」
夏雄は、膝の上で手を組んだ。
「兄貴が苦しんでたことは分かる。父さんが悪かったことも分かる。でも、だからって、俺が兄貴に優しくしなきゃいけないのか?」
「……いいえ」
冷は、すぐに答えた。
夏雄は、母親の顔を見た。
「兄貴が可哀想だから、許してやれってことになんのか? 父さんが悪かったから、兄貴がやったことも仕方なかったってことになんのか?」
「ならないわ」
冷は言った。
「燈矢が苦しんでいたことと、燈矢がしたことは、別の問題よ」
夏雄は、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうだよな」
「あなたが、今は会いたくないと思っていることも、無理に変えなくていい」
「……」
「会いたくなったら、会えばいいと思う。いつまでも会いたくないと思うなら、その気持ちも、今は無理に変えなくていい」
夏雄は、母親を見つめた。
「……でも、家族だろ」
それは、自分自身を説得するための言葉のようだった。
「兄貴は、俺の兄貴なんだよ。俺が小さいころから、一緒にいた。……いや、ずっと一緒にいたわけじゃないけど」
夏雄は、言葉を探した。
「でも、俺たちは家族だった。だから、何かしなきゃいけない気もする。兄貴が戻ってきたのに、何も言わずにいるのは、違う気もする」
冷は、静かに聞いていた。
「……けど、俺は、兄貴のために何かをするって言い切れない」
夏雄は、顔を伏せた。
「俺が兄貴に会いに行くのは、兄貴のためなのか。それとも、俺が自分のことを嫌いにならないためなのか。俺には、よく分からない」
冷の胸が痛んだ。
それは、夏雄が自分の感情を、正直に見つめようとしている証拠だった。
家族だから、会いに行く。
家族だから、許す。
家族だから、そばにいる。
その言葉は、時に、人を動かす。
けれど、その行動の理由が、本当に相手のためなのか。
自分が罪悪感に耐えられないからなのか。
周囲から責められたくないからなのか。
「家族なのだから」という言葉に、自分自身の気持ちを隠してしまっていないか。
夏雄は、その問いを、初めて自分に向けていた。
冷は、ゆっくりと息を吐いた。
「……分からないままでいいのよ」
夏雄は、顔を上げた。
「え?」
「今は、自分が何のために動きたいのか、分からないのでしょう?」
「……ああ」
「だったら、無理に動かなくてもいい。分からないまま、何かを決めなくてもいいの」
夏雄は、眉を寄せた。
「……母さんは、それでいいのか?」
「ええ」
冷は、頷いた。
「あなたが、私の思うとおりに動いてくれなくてもいい。燈矢の望みどおりに動いてくれなくてもいい」
彼女は、夏雄をまっすぐ見た。
「あなたが、自分で決めてほしいの」
夏雄は、長いこと黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……俺、ずっと、母さんが心配だったんだ」
冷は目を見開いた。
「……私が?」
「ああ。父さんと一緒にいる母さんを見て、ずっと心配だった。父さんのことをどう思ってるのか、母さんが何を考えてるのか、俺にはよく分からなかったけど」
夏雄は、苦笑した。
「でも、母さんが苦しそうなのは、分かってた」
冷は、言葉を失った。
「だから、母さんが笑ってると、少し安心した。母さんが何も言わないときは、何も聞かないほうがいいのかと思った。……俺が何か言って、母さんをもっと苦しめたら嫌だったから」
夏雄は、自分の手を見た。
「俺、母さんを守りたかったんだと思う。でも、何もできなかった」
冷の目に、涙が浮かんだ。
夏雄は、それを見て、慌てて顔を上げた。
「いや、泣かせるつもりじゃなくて」
「……大丈夫よ」
冷は、微笑んだ。
「泣いてもいいの」
「……」
「あなたが、私を心配してくれていたこと。私を守りたいと思ってくれていたこと。嬉しいわ」
冷は、一度息を吸った。
「でも、夏雄。あなたが私を守る責任を負う必要はないの」
夏雄は、唇を噛んだ。
「……でも」
「あなたは、私の子どもよ。私があなたを守るべきだった。私が、あなたたちを守りきれなかったことは、私自身の後悔として残っている」
冷は、言葉を選びながら続けた。
「それでも、あなたが、その後悔まで背負う必要はないの」
夏雄は、目を伏せた。
「……母さん」
「私は、あなたに、私の代わりに強くなってほしいわけじゃない。私の代わりに家族を守ってほしいわけでもない。私の苦しみを理解して、私を許してほしいと求めているわけでもない」
冷は、静かに言った。
「あなたには、あなた自身の人生を生きてほしいの」
夏雄は、すぐには答えなかった。
家族のために何かをしなければならない。
誰かが苦しんでいるなら、何かをしなければならない。
そうした考え方を、彼もまた身につけていたのかもしれない。
母親が苦しんでいるなら、助けなければいけない。
姉が頑張っているなら、支えなければいけない。
弟が傷ついているなら、理解しなければいけない。
兄が戻ってきたのなら、何かをしなければいけない。
そうした思いが、自分の気持ちよりも先に立つことがあった。
だが、夏雄は、家族のために生きるためだけに生まれてきたわけではない。
自分だって、傷ついてきた。
怒りもある。
悲しみもある。
誰かのために動く余裕など、ない日だってある。
そのことを認めるのは、家族を裏切ることではないのかもしれない。
「……俺は、もう少し時間が欲しい」
夏雄は言った。
冷は、頷いた。
「分かったわ」
「兄貴と話すかどうかも、もう少し考えたい」
「ええ」
「父さんのことも……まだ、許せるか分からない」
冷は、少しだけ目を伏せた。
「……私も、そうよ」
夏雄が驚いた顔をした。
冷は、静かに微笑んだ。
「私だって、まだ分からないことがたくさんあるもの」
夏雄は、しばらく母親を見つめていた。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「……そっか」
「あら。意外だった?」
「うん。母さんは、もう全部決めてるのかと思ってた」
冷は、苦笑した。
「そんなわけないでしょう」
夏雄は、小さく笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
けれど、今度は、無理に笑顔を保とうとはしなかった。
「……母さん」
「何?」
「俺、今日、ここにいていい?」
冷は、息を呑んだ。
夏雄は、少し気まずそうに続けた。
「いや、変な意味じゃなくて。……今日は、もう少し家にいたい」
冷は、ゆっくり頷いた。
「もちろんよ」
「……そっか」
夏雄は、背もたれに身を預けた。
冷は、そこで初めて気づいた。
夏雄は、母親のために家にいるのではない。
兄のためでも、父親のためでもない。
今、自分がここにいたいと思ったから、そう選んだのだ。
それは、小さなことだった。
けれど、彼にとっては、長いあいだ遠ざかっていた選択だったのかもしれない。
冷は、静かに息を吐いた。
母親だから、子どもに何かをしてやらなければならない。
そう思っていた。
だが、子どもたちには、それぞれ自分の意思がある。
助けを求めるときもあれば、距離を取りたいときもある。
一緒にいたいときもあれば、離れていたいときもある。
母親である自分が、すべてを決めることはできない。
子どもたちが、自分で決めていい。
そして、自分自身もまた、自分の意思で選んでいい。
冷は、夏雄の隣に座った。
二人は、しばらく黙っていた。
何かを解決する話し合いではなかった。
ただ、同じ部屋にいたいという、ささやかな選択を、互いに尊重していた。
4 母親である前に
午後、冷は一人で庭を歩いていた。
ゆっくりと、足元を確かめるように。
庭は広い。
かつては、子どもたちが走り回る姿を見た場所だった。
冬美が転んで泣いたこともあった。
夏雄が兄たちと競い合ったこともあった。
燈矢が、父親に見てもらおうと炎を使っていたこともあった。
焦凍が、一人で立っていたこともあった。
冷は、庭の端にある木のそばで足を止めた。
子どもたちの記憶は、鮮やかなものばかりではない。
笑い声のあとに、怒鳴り声があった。
楽しい時間のあとに、家族の空気が張り詰めることがあった。
何もないように見える日にも、誰かが何かを我慢していたかもしれない。
それでも、すべての記憶が苦しみだけでできているわけではない。
冷は、目を閉じた。
自分は、この家で、どれだけの時間を過ごしてきたのだろう。
母親として生きてきた時間。
妻として生きてきた時間。
子どもたちのために、家族のために、自分の感情を後回しにしてきた時間。
そして、心が壊れてしまい、何もできなくなった時間。
そのすべてを思い返すと、冷は、ひどく疲れた。
もう、何も考えたくないと思うことがある。
誰の気持ちも考えず、一人で過ごしたいと思うこともある。
誰かの名前を聞くだけで、過去の記憶が戻ってくることもある。
そんな自分を、母親失格だと思ったこともあった。
家族のことを考えられない。
子どもたちに会いたいのに、会うのが怖い。
夫が謝罪している姿を見ても、すぐに許す気持ちにはなれない。
燈矢が戻ってきたことを嬉しいと思いながら、その後どう接すればいいのか分からない。
母親なのに。
妻なのに。
そう思うたび、自分自身を責めてきた。
冷は、庭のベンチに腰を下ろした。
そして、初めて、心の中でその言葉を言い換えた。
――母親なのに、できない。
ではなく。
――母親であっても、できないことがある。
その違いは、思っていたより大きかった。
母親だから、何でもできるわけではない。
母親だから、子どもたちの気持ちを理解できるわけでもない。
母親だから、子どもたちを傷つけないわけでもない。
母親だから、過去を正しく選び直せるわけでもない。
母親だから、家族を救えるわけでもない。
自分は母親だった。
それは、事実だ。
だが、その事実は、自分に何でもできる力を与えるものではなかった。
むしろ、母親という立場に縛られ、自分自身の感情を見失うこともあった。
子どもたちを愛している。
それは本当だ。
けれど、愛しているからといって、いつでも最善の行動が取れるわけではない。
愛しているからといって、傷つけないわけでもない。
そして、愛しているからといって、何もかも自分の責任になるわけでもない。
冷は、両手を膝の上に置いた。
自分が、これから何をしたいのか。
子どもたちと、どう接していきたいのか。
夫と、どんな距離を取るのか。
まだ、答えは出ていない。
けれど、答えを急がなくてもいいのかもしれない。
母親だからといって、すべての問いに答えを持っていなければならないわけではない。
そのとき、背後から声が聞こえた。
「……母さん」
振り返ると、焦凍が立っていた。
「焦凍」
「ここにいたんだな」
「ええ」
焦凍は、少し離れたところで立ち止まった。
「……隣、座ってもいいか?」
冷は、微笑んだ。
「もちろん」
焦凍がベンチに腰を下ろす。
少し距離があった。
冷は、その距離を詰めようとはしなかった。
焦凍も、無理に近づこうとはしなかった。
二人は、しばらく庭を眺めていた。
やがて、冷が口を開いた。
「……焦凍。あなたは、私のことをどう思っている?」
焦凍は、母親を見た。
その問いに、何を答えればいいのか、すぐには分からなかった。
母親のことを愛している。
母親に傷つけられたことを忘れていない。
母親が苦しんでいたことも知っている。
そのすべてが、自分の中にある。
「……いろいろ、思ってる」
焦凍は、正直に答えた。
冷は、頷いた。
「そうよね」
「母さんが苦しかったことは分かってる。でも、俺も、あのとき傷ついたことは忘れてない」
冷は、目を閉じた。
「……ええ」
「母さんを責めたいわけじゃない。でも、なかったことにはできない」
「……そうね」
焦凍は、少しだけためらった。
「……母さんは、どう思ってる?」
「私も、いろいろ思っているわ」
冷は、ゆっくり答えた。
「あなたを傷つけたことを、後悔している。あのとき、あなたを守れなかったことも。けれど、私は、自分自身のことも、ちゃんと考えなければいけないと思っているの」
焦凍は、黙って聞いていた。
「私は、あなたを傷つけた。その責任を忘れたくない。でも、その責任を果たすということが、私自身を永遠に罰し続けることだとは思わないようにしたい」
冷は、息を吸った。
「私は、あなたに許してほしいと思うことがあるわ。でも、あなたが私を許すかどうかは、あなたが決めることよ」
焦凍の表情が、少しだけ変わった。
冷は続けた。
「あなたが、私を許せないと思うなら、その気持ちを無理に変えなくていい。私のために、優しい言葉を言わなくてもいい。私のことを心配して、自分の気持ちを隠す必要もない」
「……母さん」
「あなたは、私の子どもよ。だからこそ、私はあなたに、自分の気持ちを大切にしてほしい」
冷は、焦凍の顔を見た。
「私は、あなたのお母さんであることを、なかったことにはできない。でも、お母さんだからといって、あなたの気持ちまで決めてはいけないと思うの」
焦凍は、しばらく何も言わなかった。
自分が、母親をどう思っているのか。
その問いを、以前は、答えを一つに絞らなければならないものだと思っていた。
母親が好きなのか。
嫌いなのか。
許しているのか。
許していないのか。
しかし、今は少し違った。
母親のことを愛している。
それでも、傷ついた記憶がある。
母親が苦しかったことを理解しようとしている。
それでも、母親がしたことをなかったことにはできない。
そのすべてが、同時にあってもいい。
焦凍は、ゆっくり頷いた。
「……俺も、そう思う」
冷は、息子を見つめた。
「……そう?」
「兄さんにも、同じことを思った。兄さんを大切に思ってるけど、兄さんがしたことを全部許せるわけじゃない。兄さんを理解したいけど、兄さんの人生を、俺が決めるわけにはいかない」
焦凍は、庭の木を見上げた。
「母さんにも、同じなんだと思う」
冷の目に、涙が浮かんだ。
「……ありがとう」
「……何が?」
「そう言ってくれて」
冷は、涙を拭った。
「私が、あなたに許されるために、あなたの言葉を聞いているわけではないことを、分かってほしかった。でも、あなたがどう思っているかを聞くことが怖かったのも、本当なの」
焦凍は、母親を見た。
「……うん」
「私は、あなたが私を許していないと知ったら、また自分を責めてしまうかもしれない。あなたに何かを求めてしまうかもしれない。だから、あなたの気持ちを聞くことを避けてきた部分もあると思う」
冷は、静かに息を吐いた。
「でも、それではいけないのよね。あなたが何を感じているかを知ることと、その気持ちを私がどう受け止めるかは、別のことだから」
焦凍は、母親の言葉を聞いていた。
冷は、息子に許しを求めていなかった。
自分の苦しみを理解してほしいと、押しつけているわけでもなかった。
ただ、自分が何をしたのかを認め、そのうえで、これからどう生きるかを考えようとしていた。
焦凍は、母親の横顔を見た。
「……母さん」
「何?」
「俺は、母さんのことを許せるかどうか、まだ分からない」
冷は、頷いた。
「ええ」
「でも、話はしたいと思う」
冷は、息を呑んだ。
焦凍は、続けた。
「俺が何を感じているのか、母さんに聞いてほしい。母さんが何を感じているのかも、聞きたい」
焦凍は、自分の手を見た。
「それで、すぐに何かが変わるとは思わない。でも、話すことをやめたくないんだ」
冷は、目を閉じた。
「……ええ」
彼女は、焦凍の手に触れようとして、少しだけためらった。
「……手を握ってもいい?」
焦凍は、その問いを聞いて、驚いたように母親を見た。
母親が、触れてもいいかと尋ねる。
その当たり前のようなことが、今の二人には大切だった。
「……うん」
冷は、そっと息子の手を握った。
強くは握らなかった。
逃げられないようにするためではなく、そこにいることを確かめるために。
焦凍も、手を引かなかった。
二人は、しばらく、そのままでいた。
許しが生まれたわけではない。
過去が消えたわけでもない。
それでも、今、二人は互いの意思を確かめながら、同じ場所にいた。
冷は、初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
母親だから、すべてを背負わなければならないわけではない。
母親だから、すべてを決めなければならないわけでもない。
ただ、母親として、これからも息子と向き合いたい。
その願いを、自分自身の願いとして持っていていいのだ。
5 冬美の本音
その夜、冬美は自分の部屋にいた。
机の上には、読みかけの本が置かれている。
開かれたページは、数日前から変わっていなかった。
冬美は、文字を追いながら、何度も同じ行に戻ってしまう。
集中できない。
頭の中では、家族のことがずっと回り続けていた。
燈矢。
焦凍。
夏雄。
冷。
エンデヴァー。
家族全員が、それぞれ別のことを考えている。
誰かが誰かを心配している。
誰かが誰かを許せずにいる。
誰かが、誰かに会いたいと思っている。
誰かが、距離を取りたいと願っている。
冬美は、そのすべてを理解したかった。
みんながどうすれば、少しでも楽になれるのか。
どうすれば、互いを傷つけずに話せるのか。
どうすれば、家族として一緒にいられるのか。
ずっと考えてきた。
けれど、今日、母親に言われた言葉が、頭から離れなかった。
――もう、あなたが頑張らなくてもいいの。
冬美は、本を閉じた。
自分は、何をしたいのだろう。
家族が一緒にいてほしい。
それは本当だ。
燈矢が家に戻ってきて、家族と話し、昔のことを少しずつ整理していけたらいい。
父親が自分のしたことを認め、家族と向き合えるようになればいい。
母親が、過去の傷に縛られず、少しでも穏やかに暮らせるようになればいい。
夏雄が、自分の気持ちを押し殺さずにいられるようになればいい。
焦凍が、兄に対する責任を一人で抱え込まないようになればいい。
そう願っている。
でも、その願いを叶えるために、自分が何をしてきたのか。
冬美は、目を伏せた。
家族が喧嘩をしないように、話題を変えたことがある。
父親が怒っているとき、弟たちが余計なことを言わないように気を遣ったこともある。
母親の様子を見て、無理をして笑ったこともある。
家族が何かを隠していると感じても、知らないふりをしたこともあった。
そうすれば、少しは普通に暮らせると思った。
普通の家族に近づけると思った。
けれど、その「普通」は、誰のためのものだったのだろう。
家族が争わないため。
家族が離れないため。
自分が、これ以上何かを失わないため。
冬美は、自分が家族のために頑張ってきたことを、否定したいわけではなかった。
あのとき、自分にできたことをしてきた。
それは本当だ。
けれど、その努力が、家族のすべてを守れたわけではない。
自分が頑張れば、誰かが傷つかなくなる。
自分が間に入れば、誰かが怒らずに済む。
自分が笑えば、家族が安心する。
そうした思い込みを持ち続けていたせいで、自分自身の感情を後回しにしてきたのかもしれない。
冬美は、手を握りしめた。
本当は、父親に腹が立っていた。
本当は、母親が苦しんでいる姿を見るのが怖かった。
本当は、燈矢がいなくなったとき、どうしていいか分からなかった。
本当は、焦凍が父親と対立していたとき、自分が何もできないことに悔しさを感じていた。
そして、本当は――。
冬美は、息を呑んだ。
自分も、誰かに助けてほしかった。
誰かに、「もう頑張らなくてもいい」と言ってほしかった。
誰かに、「あなたが家族を守らなくても、家族のことはあなた一人の責任じゃない」と言ってほしかった。
その願いを口にすることは、できなかった。
自分より苦しんでいる人がいる。
自分より傷ついている人がいる。
自分が頑張らなければならない。
そんなふうに考えているうちに、助けてほしいという気持ちは、いつしか自分でも分からなくなっていた。
冬美は、顔を覆った。
声を上げて泣くつもりはなかった。
誰にも気づかれたくなかった。
けれど、一度こぼれた涙は、なかなか止まらなかった。
しばらくして、扉がノックされた。
「……冬美?」
母親の声だった。
冬美は、慌てて涙を拭いた。
「……何?」
「入ってもいい?」
冬美は、少しだけ迷った。
それから、小さな声で答えた。
「……うん」
扉が開き、冷が入ってきた。
母親は、すぐに冬美の顔を見た。
泣いたことに気づいたのだろう。
けれど、理由を問い詰めることはしなかった。
「……少し、一緒にいてもいい?」
冬美は、涙を拭きながら頷いた。
冷は、ベッドの端に腰かけた。
二人は、しばらく黙っていた。
やがて、冬美が口を開いた。
「……お母さん」
「何?」
「私、ずっと、家族が一緒にいられるようにしたかった」
冷は、頷いた。
「……ええ」
「みんなが喧嘩しないで、普通に暮らせるようになってほしかった。お父さんも、お母さんも、燈矢お兄ちゃんも、夏雄も、焦凍も……みんなが、ちゃんと家族でいられるように」
冬美は、言葉を切った。
「でも、私、疲れちゃった」
その言葉を口にした瞬間、冬美は自分がどれほどその一言を言いたかったのかを知った。
疲れた。
もう、疲れた。
家族を大切に思っていることは変わらない。
みんなが幸せになってほしいという願いも、変わらない。
それでも、疲れたのだ。
冷は、娘の手を握った。
「……そうね」
それだけ言った。
頑張らなくていい、と急いで励ますこともしなかった。
冬美は、少しだけ顔を上げた。
「……お母さんは、がっかりしないの?」
「どうして?」
「私が、家族のことを頑張れないって言ったら……」
冷は、首を横に振った。
「がっかりなんてしないわ」
「……でも」
「冬美。あなたが、家族のことを大切に思っていることは知っている。あなたが、どれだけ頑張ってきたかも知っている」
冷は、娘の顔を見つめた。
「だからこそ、あなたが疲れたと言ってくれて、よかったと思っているの」
冬美の目から、また涙がこぼれた。
「……何で?」
「あなたが、自分の気持ちを、私に話してくれたから」
冷は、微笑んだ。
「私は、あなたに、ずっと笑っていてほしかったわけじゃないの。苦しいときは苦しいと言ってほしかった。疲れたときは疲れたと言ってほしかった」
「……」
「あなたが家族を大切にすることと、あなたが自分を大切にすることは、両立していいのよ」
冬美は、母親に抱きついた。
冷は、娘を抱きしめた。
強く、けれど、娘が自分で離れられるように。
冬美は、声を上げて泣いた。
冷も、涙をこぼした。
それは、家族が完全に救われたという涙ではなかった。
これまでの苦しみが消えたという涙でもなかった。
ただ、冬美が初めて、家族のことではなく、自分自身の苦しさを口にしたこと。
冷が、それを否定せずに受け止めたこと。
その二つが、確かにここにあった。
やがて冬美は、ゆっくりと母親から離れた。
「……ごめんね」
冷は、首を横に振った。
「謝らなくていいの」
「……でも、私、ずっと……」
「ええ。ずっと、頑張ってくれたわ」
冷は、娘の髪をそっと撫でた。
「ありがとう。でも、これからは、あなた自身のことも大切にしてね」
冬美は、泣きながら頷いた。
「……うん」
その夜、冬美は、家族のことを考えずに、しばらく眠った。
翌日になれば、また家族のことを考えるだろう。
燈矢のことも、父親のことも、母親のことも、弟たちのことも、気になるだろう。
それでも、今夜だけは。
家族の誰かを救う方法を探すのではなく、自分自身が休むことを選んだ。
それは、冬美が初めて、自分のために選んだ小さな休息だった。
6 母親の望み
翌日、冷はエンデヴァーと話をすることにした。
夫婦で話をするのは、久しぶりだった。
以前なら、夫と話をするとき、冷は相手の顔色を見ていた。
何を言えば怒られないか。
どう話せば、話がこじれないか。
どの言葉を避ければ、家族の空気を悪くせずに済むか。
そうしたことを、いつも考えていた。
今は、違う。
怒られるかどうかを考えないわけではない。
過去の記憶が消えたわけでもない。
それでも、もう、相手の反応を基準にして、自分の言葉を決めることはしたくなかった。
二人は、庭に面した部屋で向かい合って座った。
エンデヴァーは、冷が話を切り出すのを待っていた。
冷は、しばらく夫の顔を見ていた。
かつては、この人の一言で、自分の暮らしが決まった。
この人が何を望むかによって、子どもたちの将来が変わった。
この人が怒れば、家庭の空気が張り詰めた。
この人が満足すれば、何も問題がないかのように一日が終わることもあった。
その繰り返しのなかで、冷は、自分が何を望んでいるのかを考えることをやめてしまった。
考えても、意味がないと思っていた。
自分の望みより、夫の望みのほうが強かったからだ。
「……あなたに、話したいことがあるの」
冷が言うと、エンデヴァーは頷いた。
「聞こう」
「私は、これから、家族のために何かをすることを、全部やめたいわけではないわ」
エンデヴァーは、黙って聞いていた。
「燈矢のことも、焦凍のことも、冬美や夏雄のことも、大切に思っている。あなたのことだって……今、どんな気持ちなのか、自分でも分からないけれど、何も感じなくなったわけではない」
冷は、少しだけ目を伏せた。
「でも、もう、家族の傷を全部、私が引き受けることはできない」
エンデヴァーの表情が変わった。
冷は、続けた。
「私は、あなたが何をしたのか、子どもたちが何を感じているのか、そのすべてを私一人で受け止めることはできない」
「……分かっている」
「いいえ。あなたは、まだ分かっていないと思う」
冷は、静かに言った。
エンデヴァーは、言葉を失った。
冷は、彼を見つめた。
「私は、長いあいだ、あなたの望みに応えようとしてきた。子どもたちを産むことも、育てることも、家族を守ることも……自分にできることを、しようとしてきた」
彼女は、手を握りしめた。
「でも、それは、いつも自分の意思で選んだことだったわけではないの」
エンデヴァーは、目を伏せた。
冷は続ける。
「私は、あなたに逆らうのが怖かった。あなたが怒ることが怖かった。あなたが何を望んでいるのかを考え、それに応えられない自分を責めたこともある」
「……」
「あなたが強くなろうとしていたことも、知っていた。あなたが何かを成し遂げたいと望んでいたことも、分かっていた。けれど、あなたの夢を叶えるために、私自身の人生を決めていいとは思っていなかった」
エンデヴァーは、唇を引き結んだ。
「……俺は、お前の人生を奪った」
「ええ」
冷は、頷いた。
「そう思っているわ」
エンデヴァーは、言葉を失った。
かつての彼なら、何か理由を説明しようとしたかもしれない。
自分も追い詰められていた。
家族を豊かにしたかった。
子どもたちに力を与えたかった。
自分が成し遂げられなかったことを、次の世代に託したかった。
それらは、彼の中では理由だった。
だが、今は、その理由を語ることが、何の意味も持たないと分かっていた。
冷が傷ついたことは、変わらない。
彼女が自分の人生を、自分の意思だけで選べなかったことも、変わらない。
「……俺は、お前に謝罪しなければならない」
エンデヴァーは言った。
冷は、首を横に振った。
「謝らないで、と言っているわけではないわ」
エンデヴァーは、顔を上げた。
「でも、謝罪だけで終わらせないでほしいの」
冷の声は、震えていなかった。
「あなたが、私に謝ること。それは、必要なことだと思う。でも、あなたが謝ったからといって、私がすぐにあなたを許さなければならないわけではないでしょう?」
エンデヴァーは、目を伏せた。
「……ああ」
「あなたが変わろうとすることは、あなた自身が決めることよ。私が許すかどうかを、その理由にしないでほしい」
冷は、ゆっくりと続けた。
「私が、あなたを許せないままでいたとしても、あなたが責任を取ることをやめないでほしい。反対に、私があなたを許したとしても、あなたがしたことがなくなるわけではない」
エンデヴァーは、深く息を吐いた。
冷の言葉は、焦凍が彼に伝えたことと似ていた。
だが、今は、妻の言葉だった。
夫婦として、家族として、長い時間を共に過ごした人からの言葉だった。
「……分かった」
エンデヴァーは答えた。
冷は、夫の顔を見た。
「本当に?」
エンデヴァーは、すぐに答えなかった。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……分かっているとは言えない。これからも、何度も間違えるかもしれない」
彼は、拳を握りしめた。
「だが、お前が言ったことを、聞かなかったことにはしない」
冷は、その言葉を受け止めた。
それだけで、夫婦の関係が変わるわけではない。
長年の恐怖が消えるわけでもない。
二人が、昔のような夫婦に戻れるわけでもない。
そもそも、昔のように戻ることが、冷の望みなのかどうかも分からない。
「……私は、これから、自分のための時間を持ちたいの」
冷は言った。
「子どもたちの話を聞くことはある。家族のことを考えることもある。でも、家族が何かを望むたびに、私がそれを叶えるために動くことは、もうできない」
「……ああ」
「あなたが、燈矢に会いたいと思うなら、あなたが会いに行けばいい。焦凍が兄と話をしたいなら、焦凍が自分で決めればいい。冬美が休みたいなら、休めばいい。夏雄が距離を取りたいなら、その気持ちも尊重してほしい」
冷は、夫を見つめた。
「私は、家族を愛しているわ。でも、家族の全員が同じ答えを出さなければならないとは思わない」
エンデヴァーは、ゆっくり頷いた。
「……そうだな」
「それから、あなたにも伝えておきたいことがあるわ」
冷は、少しだけ息を吸った。
「私は、あなたの妻である前に、一人の人間なの」
エンデヴァーの顔が強張った。
冷は、続けた。
「私は、あなたの夢を叶えるために生きているわけではない。子どもたちのために、自分を失い続けるために生きているわけでもない。私は、私自身の人生を生きたいの」
彼女は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくり話した。
「これから、何をしたいのか。誰と会いたいのか。何を見たいのか。どんな時間を過ごしたいのか。そういうことを、もう一度、自分で考えたい」
エンデヴァーは、長いこと黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「……お前の人生を、俺が決めることはできない」
冷は、その姿を見つめた。
夫が頭を下げる姿を見ても、胸が晴れることはなかった。
謝罪されたからといって、過去の記憶が消えるわけではない。
それでも、彼が自分の言葉を聞いたことは、確かだった。
「……ありがとう」
冷がそう言うと、エンデヴァーは顔を上げた。
「いや……礼を言われることではない」
「そうね」
冷は、微笑んだ。
「でも、今、私の話を聞いてくれたことには、ありがとうと言いたいの」
エンデヴァーは、何も言えなかった。
冷は、ゆっくりと立ち上がった。
「……今日は、ここまでにしましょう」
「分かった」
冷は、部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼女は思った。
自分の人生を、自分の意思で生きる。
それは、夫を捨てるという意味ではない。
子どもたちを捨てるという意味でもない。
家族を愛することを、やめるという意味でもない。
家族のために、自分自身を捨てることを、当然の務めだとは思わない。
その選択を、これから少しずつ、実際の生活の中で形にしていく。
それが、今の冷にできることだった。
7 母は、燈矢を選ばない
夕方、冷は、燈矢の部屋の前に立っていた。
何度も、ここへ来ることを考えた。
母親として、長男に会いたかった。
抱きしめたいと思った。
ずっと会いたかったと、伝えたかった。
あなたが戻ってきてくれて嬉しい。
あなたが生きていてくれて嬉しい。
そんな言葉を、何度も心の中で繰り返した。
けれど、その言葉を口にしたとき、燈矢がどう感じるのかは分からなかった。
彼が、自分の言葉を求めているとは限らない。
自分が泣けば、彼は母親を慰めようとするかもしれない。
自分が抱きしめれば、彼は、拒めないと感じるかもしれない。
自分が謝れば、燈矢は、その謝罪を受け入れなければならないと思うかもしれない。
母親の気持ちを受け止めることまで、長男に求めたくなかった。
冷は、扉を叩いた。
「……燈矢。私よ」
返事はなかった。
彼女は、少しだけ待った。
「……今、話をしてもいいかしら?」
沈黙。
それから、扉の向こうで声がした。
「……何の話だよ」
冷は、静かに答えた。
「あなたに、会いたかったの」
しばらく、何も聞こえなかった。
冷は、続けた。
「でも、あなたが今、話をしたくないなら、それでもいいわ。今日は、私が会いたいと思っていることだけ、伝えに来たの」
扉の向こうで、何かが動いた。
やがて、低い声が聞こえた。
「……母さん」
冷は、息を止めた。
「……何?」
「俺に、何を言いに来た?」
その問いには、警戒があった。
期待も、恐れもあった。
冷は、慎重に答えた。
「あなたに、何かを言わせるために来たんじゃないの」
「……」
「私のことを許してほしいと言いに来たわけでもない。私のことを慰めてほしいわけでもない」
冷は、自分の心にある言葉を、ゆっくりと口にした。
「ただ、あなたに会いたかったの」
扉の向こうは、静かだった。
冷は、続けた。
「あなたが苦しんでいたことを、私は知っているつもりだった。でも、本当には分かっていなかったことが、たくさんあったと思う」
彼女は、目を閉じた。
「私は、あなたを守れなかった。あなたが何を望んでいたのか、きちんと聞けなかった。あなたが苦しんでいるとき、母親として何ができたのか、今でも考えている」
冷は、言葉を切った。
それから、はっきりと続けた。
「でも、私は、あなたの人生を、今からでも取り戻してあげられるとは思っていないの」
その言葉に、自分でも胸が痛んだ。
母親なら。
母親だから。
息子に、取り戻せるものがあると信じたい。
自分が、今度こそ何かをしてあげられると、願いたい。
けれど、燈矢は、もう子どもではなかった。
彼が失ったものは、冷が抱きしめるだけで戻るものではない。
母親の愛情だけで、すべてが癒えるわけでもない。
「私は、あなたに何かをしてあげたいと思っている。でも、私がしてあげたいと思うことが、あなたの望んでいることと同じかどうかは分からない」
冷は、扉に手を触れた。
「だから、私は、あなたに何をしてほしいかを決めたくないの」
燈矢の声が聞こえた。
「……母さんは、俺に何を望んでる?」
冷は、すぐには答えられなかった。
何を望んでいるのか。
母親としてなら、息子に幸せになってほしい。
苦しみ続けないでほしい。
自分自身を大切にしてほしい。
二度と、誰かを傷つけないでほしい。
そして、できることなら、いつか家族と向き合ってほしい。
しかし、その願いを一つずつ並べることが、燈矢への新しい期待になってしまうかもしれない。
冷は、ゆっくり息を吐いた。
「……あなたに、穏やかに生きてほしいと願っているわ」
扉の向こうは静かだった。
「でも、あなたが、私の願いどおりに生きる必要はないの」
燈矢が、何かを言いかけて、やめた。
冷は続けた。
「あなたは、私の子どもよ。それは変わらない。でも、あなたは、私の望みを叶えるために生きているわけではないわ」
冷は、扉から手を離した。
「あなたが、これから何を望むのか。それを決めるのは、あなた自身よ」
長い沈黙が続いた。
やがて、燈矢の声が聞こえた。
「……俺は、母さんに、何もしてやれなかった」
冷は、目を見開いた。
「……何を言っているの?」
「俺が、ちゃんと父さんに認められてれば。俺が、もっと強ければ。俺が、ちゃんとしてれば……」
燈矢の声が低くなる。
「母さんも、あんなふうにならずに済んだのかもしれねえ」
冷は、胸を締めつけられた。
その言葉は、彼が自分自身を責めていることを示していた。
母親の苦しみを、息子が背負おうとしていた。
自分がもっと強ければ。
自分が、父親の期待に応えられていれば。
そうすれば、母親は苦しまなかったかもしれない。
自分が、家族を守れたかもしれない。
冷は、扉に向かって、はっきりと言った。
「……燈矢。それは、あなたの責任ではないわ」
「……」
「私が苦しんだことは、あなたが父親の期待に応えられなかったからではない。あなたが、私の代わりに何かをしてくれればよかったという話でもないの」
冷は、涙をこらえた。
「私は、あなたの母親だった。あなたを守るべき立場にいた。あなたが、私を守らなければならなかったわけじゃない」
扉の向こうで、息を呑む気配がした。
冷は、続けた。
「あなたは、私のために、父親の期待を叶える必要はなかった。私のために、強くなる必要もなかった。私のために、何かを成し遂げる必要もなかった」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「あなたが、あなたとして生きていることを、私は喜ぶべきだったの」
扉の向こうは、静かだった。
冷は、涙を拭った。
「……私は、あなたを守れなかったことを、後悔しているわ。でも、その後悔を、あなたに背負わせたいわけではないの」
彼女は、最後に一つだけ伝えた。
「私は、あなたに会いたい。あなたの話を聞きたい。でも、あなたが私と話したくないなら、無理に話す必要はないわ」
冷は、扉から一歩離れた。
「……今日は、帰るわね」
返事はなかった。
彼女は、振り返らずに歩き出した。
そのとき、扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
「……母さん」
冷は、足を止めた。
「……何?」
しばらく、沈黙があった。
そして、燈矢が言った。
「……俺は、まだ、どうすればいいか分からねえ」
冷は、目を閉じた。
「……ええ」
「俺は、何をすればよかったんだろうな」
冷は、答えを探した。
過去に対する正しい答えなど、ないのかもしれない。
あのとき、何をすればよかったのか。
どうすれば、燈矢は傷つかずに済んだのか。
どうすれば、家族は壊れずに済んだのか。
いくら考えても、簡単な答えは出ない。
それでも、今、冷が伝えられることは一つだった。
「……あなたは、子どもだったのよ」
扉の向こうは、静かだった。
冷は、続けた。
「子どもが、親の人生を救わなければならないわけではないわ。子どもが、家族の問題を解決しなければならないわけでもない」
彼女は、ゆっくり息を吸った。
「あなたが何を望んでいたのか。何を苦しんでいたのか。そのすべてを、私は今からでも知りたいと思っている」
冷は、言葉を切った。
「でも、あなたがこれからどう生きるかを、私が決めることはできない」
燈矢は、何も答えなかった。
冷は、廊下の先へ歩き始めた。
母親として、息子に何かをしてあげたい。
その気持ちは、消えない。
だが、それは、息子の人生を決める権利ではない。
そして、自分自身の人生を犠牲にする理由でもない。
母親は、子どもの人生を選ぶことができない。
子どもが、母親の人生を救うために生きることもできない。
愛しているからこそ、互いの人生を、相手の望みだけで決めてはいけないのだ。
冷は、廊下の窓から差し込む光を見た。
その光は、かつてと同じ場所にあった。
けれど、自分の目に映る景色は、少しだけ変わっていた。
彼女は、初めて、家族のために何かをすることだけではなく、自分が何を望んでいるのかを考えながら歩いていた。
8 母親のいない時間
その夜、轟家の食堂には、冷の姿がなかった。
冬美は、食卓に並んだ料理を見た。
「……お母さんは?」
焦凍が答えた。
「今日は、自分の部屋で食べるって」
「……そうなんだ」
冬美は、一瞬だけ寂しそうな顔をした。
けれど、すぐに頷いた。
「分かった」
夏雄が椅子を引いた。
「……別に、毎日みんなで食べなきゃいけないわけじゃないだろ」
冬美は、夏雄を見た。
「うん。そうだね」
その言葉には、以前とは違う響きがあった。
家族が揃うことを諦めたわけではない。
ただ、家族が揃わないことを、失敗だと決めつけなくなった。
焦凍は、空いた席を見つめた。
そこには、母親が座るはずだった。
だが、今日は空いている。
冷が、そう選んだのだ。
母親だから、子どもたちと食卓を囲まなければならないわけではない。
母親だから、家族の誰かが苦しんでいるときに、必ず駆けつけなければならないわけでもない。
母親だからといって、常に家族の気持ちを優先する必要があるわけではない。
冷は、家族を愛している。
その愛情を持ったまま、一人で過ごす時間を選んだ。
焦凍は、ふと、燈矢の部屋の扉を思い出した。
兄は、まだ、自分の望みを探している。
母親もまた、自分の望みを探し始めた。
姉は、頑張ることを少しだけ休むことにした。
夏雄は、今は距離を取りたいという気持ちを認めた。
父親は、謝罪したからといって許しを期待してはならないと、少しずつ学び始めている。
誰も、同じ答えを出していない。
そして、それでいいのかもしれなかった。
家族だからこそ、互いを理解したいと思う。
家族だからこそ、そばにいてほしいと思う。
家族だからこそ、許してほしいと願う。
しかし、家族だからこそ、相手の気持ちを自分の望む形に変えようとすることがある。
あなたが苦しんでいるなら、私が何とかしなければ。
あなたが泣いているなら、私が笑わせなければ。
あなたが怒っているなら、私がなだめなければ。
あなたが離れようとするなら、私が引き止めなければ。
そうした思いは、優しさから生まれることもある。
けれど、その優しさが、相手の選択を奪うこともある。
焦凍は、食卓に座ったまま、静かに考えた。
自分は、兄を救いたいと思っている。
その願いは、本当だ。
けれど、兄の人生を代わりに選ぶことはできない。
母親も、自分自身の人生を選ぼうとしている。
その選択を尊重することは、母親を見捨てることではない。
むしろ、母親が自分自身の人生を生きられるように、息子としてできることなのかもしれない。
「……焦凍?」
冬美に呼ばれ、焦凍は顔を上げた。
「何だ?」
「冷めちゃうよ」
「ああ」
焦凍は、箸を持った。
夏雄が、少しだけ笑った。
「お前、最近よく考え込むな」
「そうか?」
「そうだよ。昔は、もっと黙ってた」
焦凍は、少し考えた。
「……今でも、黙ってるつもりなんだけどな」
「いや、顔に出てる」
冬美が、小さく笑った。
焦凍も、わずかに笑った。
その時間は、特別なものではなかった。
家族の問題が解決したわけでもない。
誰かが、誰かを許したわけでもない。
それでも、三人は食卓を囲んでいた。
母親がいなくても、食事をする。
姉が無理に話題を探さなくても、会話が生まれる。
弟が、家族のことを考え込んでいても、誰かがそれを責めるわけではない。
ただ、それぞれが、そこにいる。
それだけのことを、少しずつ、選び直していく。
冷は、自室で一人、食事をしていた。
一人で食べる食事は、寂しかった。
家族と一緒に食べたいと思う気持ちもあった。
けれど、今日は、自分のために時間を使いたかった。
窓の外から、家族の声が聞こえた。
冬美が何かを話し、夏雄が笑い、焦凍が短く返事をしている。
冷は、その声を聞きながら、ゆっくり食事を口に運んだ。
あの子たちは、もう、自分がいなくても食事ができる。
そう思ったとき、胸の奥に、少しだけ寂しさが生まれた。
母親である自分の役割が、少しずつ変わっていく。
もう、子どもたちのすべてを、自分が支えなければならないわけではない。
子どもたちは、自分の人生を生きている。
これからも、迷うだろう。
傷つくだろう。
間違えるだろう。
それでも、自分で選ぶことができる。
そして、自分もまた、選ぶことができる。
冷は、食事を終えた。
食器を片づけるために立ち上がる。
その前に、ふと窓の外を見た。
庭の木々が、夜風に揺れていた。
何もかもが、元通りになったわけではない。
むしろ、元通りには戻れないことを、彼女は知っている。
それでも、これから先の時間が、すべて過去の繰り返しになるとは限らない。
家族を愛すること。
自分自身を大切にすること。
その二つを、どちらか一方しか選べないものにしない。
冷は、静かに息を吐いた。
その選択を、これから何度も繰り返していくのだろう。
9 誰かの母ではない私
数日後、冷は一人で外へ出た。
特別な用事があったわけではない。
ただ、少し歩いてみようと思った。
家族の誰かに付き添ってもらうこともできた。
車を出してもらうこともできた。
けれど、今日は自分一人で歩きたかった。
行き先は決めなかった。
何かを買うためでも、誰かに会うためでもない。
ただ、自分が行きたいと思った場所へ行き、自分が見たいと思ったものを見る。
そういう時間を、持ってみたかった。
道を歩く。
すれ違う人々は、冷のことを知らない。
彼女が誰の妻で、誰の母親で、どのような過去を持っているのか、誰も知らない。
そのことが、少し不思議だった。
家族の中では、冷はいつも、誰かにとっての母親だった。
燈矢の母。
冬美の母。
夏雄の母。
焦凍の母。
エンデヴァーの妻。
その役割は、大切なものだった。
だが、それだけが自分のすべてではない。
自分にも、好きなものがあったはずだ。
好きな景色。
好きな季節。
好きな音楽。
一人で過ごしたい時間。
誰かと話したい気分。
そうしたものを、いつから、自分の中で小さくしてしまったのだろう。
冷は、店先に並んだ花を見た。
色とりどりの花が、朝の光を受けている。
彼女は、しばらく立ち止まった。
昔、花を買ったことがあっただろうか。
夫のために。
家族のために。
誰かの誕生日に。
誰かのために花を選ぶことは、あった。
けれど、自分のために花を選んだことは、あまりなかった気がした。
冷は、店員に声をかけた。
「……この花を、一ついただけますか?」
選んだのは、小さな白い花だった。
理由は、特になかった。
ただ、見たときに、いいなと思った。
それだけだった。
花を受け取った冷は、少しだけ笑った。
自分のために、花を買った。
その事実が、思っていたより嬉しかった。
誰かのためではない。
母親として、妻として、何かをしなければならないからでもない。
ただ、自分が欲しいと思ったから。
それを、自分で選んだ。
それだけのことだ。
それでも、冷にとっては、長い時間を越えた小さな一歩だった。
帰宅すると、玄関で焦凍と鉢合わせた。
「……母さん?」
「ただいま」
「……どこか行ってたのか?」
「ええ。少し散歩をしてきたの」
焦凍は、母親の手元を見た。
「花?」
「そう。きれいだったから、買ってきたの」
「……いいと思う」
焦凍がそう答えると、冷は少しだけ笑った。
「ありがとう」
焦凍は、何かを言おうとして、やめた。
母親が、一人で出かけた。
それだけのことなのに、どこか新鮮だった。
彼は、母親がこれまで、どれだけ自分の時間を家族のために使ってきたのかを、あらためて考えた。
そして、母親が自分自身のために何かを選ぶことが、これからは当たり前になればいいと思った。
「……母さん」
「何?」
「また、行ってくればいいと思う」
冷は、目を見開いた。
焦凍は、少し照れたように顔を逸らした。
「……いや、行きたいならだけど」
冷は、笑った。
「ええ。そうするわ」
その会話は、短いものだった。
けれど、冷は、花を持ったまま、自分の部屋へ向かう足取りが軽くなった気がした。
誰かの母親であることを、やめるわけではない。
誰かの妻であることを、なかったことにするわけでもない。
それでも、自分自身の人生を、少しずつ取り戻していく。
それが、これからの自分の選択なのだと思った。
花を水に生ける。
小さな花瓶に、白い花を一輪。
部屋の窓辺に置く。
そこには、家族の写真も、子どもたちの思い出の品もなかった。
ただ、花があった。
冷は、その花を見つめた。
そして、初めて、自分自身に向かって、小さく言った。
「……きれいね」
その言葉を、誰かに聞かせる必要はなかった。
誰かに認めてもらう必要もなかった。
自分がそう思った。
それだけで、十分だった。
10 母は、家族を選べない
その夜、冷は、家族がいるリビングへ戻った。
冬美がソファに座り、夏雄が飲み物を手にしている。
焦凍は、窓のそばで本を読んでいた。
燈矢は、部屋にいる。
エンデヴァーも、別の場所で過ごしている。
全員が揃っているわけではなかった。
それでも、冷は、リビングへ入った。
冬美が顔を上げた。
「お母さん」
「ただいま」
「おかえりなさい」
冷は、空いている椅子に腰を下ろした。
誰かが、何かを言うのを待った。
だが、誰もすぐには何も言わなかった。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
誰かが、無理に話題を探す必要はない。
誰かが、全員の気持ちを確認する必要もない。
ただ、同じ部屋にいる。
そのことを、冷は、静かに受け止めた。
「……今日は、何か話したいことがある?」
冬美が尋ねた。
冷は、少し考えた。
「ええ。一つだけ」
三人が、母親を見た。
冷は、ゆっくりと口を開いた。
「私は、これからも、あなたたちを大切に思っているわ」
誰も、口を挟まなかった。
「燈矢も、冬美も、夏雄も、焦凍も。あなたたちが、どんなことを感じていても、どんな選択をしても、私は、あなたたちの母親であることを変えない」
冷は、息を吸った。
「でも、私は、あなたたちの気持ちを、全部引き受けることはできないの」
冬美が、少しだけ目を伏せた。
夏雄は、黙っていた。
焦凍は、母親を見つめていた。
「私は、あなたたちに、同じ答えを出してほしいとは思わない。全員が、同じ速さで前に進んでほしいとも思わない」
冷は、静かに続けた。
「燈矢が、今は私と話したくないなら、その気持ちを尊重したい。夏雄が、まだ兄と会いたくないなら、その気持ちも尊重したい。冬美が、家族のために頑張ることに疲れたなら、休んでほしい。焦凍が、自分の気持ちを整理する時間が必要なら、そうしてほしい」
冷は、一度言葉を切った。
「そして、私自身も、自分の気持ちを大切にしたいと思っているの」
その言葉を聞いて、冬美はゆっくり頷いた。
「……うん」
夏雄も、短く頷いた。
「……そうだな」
焦凍は、少しだけ微笑んだ。
「……うん」
冷は、三人の顔を見た。
家族は、同じ答えを出していない。
これからも、同じ答えを出すとは限らない。
誰かが、誰かを許せないままかもしれない。
誰かが、距離を取り続けるかもしれない。
誰かが、家族と関わることを選ばない日が来るかもしれない。
それでも、その選択を、家族という言葉だけで否定したくなかった。
「……私は、母親だからといって、何でもできるわけではないわ」
冷は、微笑んだ。
「私は、失敗することもあるし、間違えることもある。あなたたちの気持ちを、分からないこともあると思う。これからも、傷つけてしまうことがあるかもしれない」
その言葉に、冬美が顔を上げた。
冷は、続けた。
「だから、私が間違えたときは、間違えたと言ってほしい。私が、あなたたちの気持ちを決めつけたときは、そうじゃないと言ってほしい」
彼女は、子どもたちを見つめた。
「私は、あなたたちの母親である前に、一人の人間だから。あなたたちに、正しい母親だと思われるために生きるのではなく、これからは、自分自身の人生も大切にしたい」
夏雄が、少しだけ笑った。
「……母さん、ずいぶんはっきり言うようになったな」
冷も、笑った。
「そうね。今までは、あまり言えなかったもの」
冬美が、母親の隣へ移動した。
「……お母さん」
「何?」
「私も、これからは、自分のことを考えるね」
冷は、娘の手を握った。
「ええ」
夏雄は、飲み物を一口飲んだ。
「俺は、まだ燈矢兄さんと話せるか分からないけど……そのうち、考えるよ」
「ええ。あなたがそうしたいと思うときでいいの」
焦凍は、本を閉じた。
「……俺は、明日も兄さんと話をしてみる」
冷は、息子を見た。
「そう」
「でも、兄さんが話したくないなら、無理には話さない」
「ええ」
焦凍は、少しだけ微笑んだ。
「……俺も、少しずつ考えるよ」
冷は、静かに頷いた。
家族は、それぞれ違う答えを持っていた。
母親は、母親としての責任を認めながら、自分自身の人生を取り戻そうとしている。
姉は、家族を守るために頑張り続けることを、少しだけ休もうとしている。
弟は、兄を救いたいと思いながら、兄の人生を代わりに決めないと誓っている。
もう一人の弟は、兄と向き合うための時間を求めている。
長男は、まだ、自分が何を望むのかを探している。
父親は、自らの罪を、家族の許しによって消そうとせず、責任を取り続けなければならない。
誰も、完全な答えを持っていない。
誰も、過去を消すことはできない。
それでも、家族の全員が、少しずつ、自分の意思で選び直そうとしていた。
冷は、窓の外を見た。
夜空には、星が浮かんでいた。
遠くの光は、すぐそばにあるものではない。
手を伸ばしても、届かない。
それでも、そこにあることは分かる。
家族も、同じなのかもしれない。
どれだけ近くにいても、互いの心のすべてに触れることはできない。
どれだけ愛していても、相手の人生を代わりに生きることはできない。
だからこそ、相手が何を望むのかを聞き、自分が何を望むのかを伝え、互いの違いを受け止める必要がある。
それは、家族だからこそ難しいことだった。
家族だから、分かってほしい。
家族だから、許してほしい。
家族だから、そばにいてほしい。
そう願ってしまう。
けれど、家族だからといって、相手が自分の望む答えを選ぶとは限らない。
家族だからといって、同じ場所へ向かうとは限らない。
家族だからこそ、相手を自分の願望で縛らないことが、大切なのかもしれない。
冷は、窓から視線を戻した。
リビングには、子どもたちがいた。
誰も、同じ気持ちではない。
誰も、同じ過去を経験していない。
それでも、今、この瞬間は、同じ部屋で過ごしている。
冷は、静かに微笑んだ。
家族を愛している。
その気持ちは、変わらない。
けれど、家族を愛することは、家族のすべてを選び取ることではない。
母親は、子どもたちの人生を選べない。
子どもたちも、母親の人生を選べない。
夫は、妻の人生を選べない。
妻も、夫の人生を選べない。
それぞれが、自分の人生を生きる。
そのうえで、互いに手を伸ばすことができる。
その手を取るかどうかも、相手が決めることだ。
冷は、そっと息を吐いた。
もう、母親だからという理由だけで、すべてを引き受けることはしない。
それでも、母親であることをやめるわけではない。
家族を愛していることを、やめるわけでもない。
ただ、これからは、自分自身も、その家族の一人として扱うのだ。
守られるべき一人の人間として。
傷つくことも、迷うことも、間違えることもある一人の人間として。
そして、自分の意思で、誰かを愛することのできる一人の人間として。
その選択を胸に、冷は家族のいる部屋で、静かに夜を過ごした。
誰かが席を立っても、誰かが黙っていても、誰かがまだ許せないままでも。
その夜、冷は、家族を一つにまとめようとはしなかった。
家族が、同じ答えを出す必要はない。
それぞれが、自分の答えを探していけばいい。
そして、いつか互いの答えが異なっていたとしても、その違いを理由に、誰かの人生を奪わずにいられるようになればいい。
冷は、そう願った。
それは、母親としての願いだった。
そして、それ以上に、一人の人間としての願いだった。