1 炎の消えた朝
「……父さんに、勝ちたかったんだ」
燈矢は、ぽつりと呟いた。
轟家の庭。
午前の光が、木々のあいだを抜けて縁側に差し込んでいる。
隣に座る焦凍は、すぐには答えなかった。
「父さんを超えることが、俺の夢だった」
燈矢は、自分の手を見下ろした。
「強くなって、父さんに認められて、俺が一番だって証明する。そうしたら、父さんは俺を見てくれる。俺のことを、もう一度ちゃんと見てくれる。……ずっと、そう思ってた」
焦凍は兄の横顔を見ていた。
「でも、途中から変わったんだよ」
燈矢は笑った。
「いつからだったかな。父さんに勝ちたいっていう気持ちが、父さんに勝たなきゃ俺には価値がないっていう気持ちに変わったのは」
答えを求める問いではなかった。
燈矢自身も、正確な時期を思い出せないらしい。
ただ、気づけばそうなっていた。
炎が強ければ、自分には価値がある。
父親に褒められれば、自分は間違っていない。
父親が自分を見るなら、自分はここにいていい。
その逆も、いつしか当たり前になっていた。
炎が強くなければ、価値がない。
父親に認められなければ、努力する意味がない。
父親が自分を見なければ、自分は必要とされていない。
「……俺は、何がしたかったんだろうな」
燈矢は、空を見上げた。
「父さんに勝ちたかった。それは本当だ。父さんみたいになりたかった。父さんを超えるヒーローになりたかった。……いや、違うか」
彼は、言葉を止めた。
焦凍は口を挟まなかった。
燈矢は、何度か口を開きかけ、やがて小さく息を吐いた。
「父さんに、俺のことを見てほしかったんだ」
それは、以前にも口にした言葉だった。
だが、今日は、その言葉の先を探ろうとしているようだった。
「見てほしかったんだよ。炎が強いからじゃなくて、父さんの夢を叶えられるからじゃなくて……俺が、俺だから」
焦凍は、兄の手を見た。
「……うん」
「俺が勝ったときだけ褒めるんじゃなくて、負けても、失敗しても、父さんが思ってた未来に届かなくても……俺がここにいることを、喜んでほしかった」
燈矢は、喉の奥で何かを押し殺すように笑った。
「そんなこと、口にしたら、馬鹿みてえだろ」
焦凍は答えた。
「……そうは思わない」
「子どもが、親に愛してほしいって言ってんだぞ」
「それが、どうして馬鹿なんだ?」
燈矢は、黙った。
焦凍は、続けた。
「子どもが親に愛してほしいと思うのは、普通のことだと思う」
「……」
「兄さんが、そう思っていたことは、悪いことじゃない」
燈矢は苦しそうに目を閉じた。
「……問題は、そこからだよ」
小さな声だった。
「俺は、その願いを手放せなかった。父さんに愛してもらえないなら、愛してもらえるまで頑張ればいい。頑張っても駄目なら、もっと頑張ればいい。……そうやって、どこまでも行こうとした」
彼は、顔を伏せた。
「でも、あるところから、頑張ること自体が目的になっちまったんだ」
焦凍は、何も言わずに聞いた。
燈矢は、自分の過去を探すように、言葉を重ねていった。
「俺が何をしたいのかじゃなくて、何をすれば父さんが俺を認めるのか。そればっかり考えてた。どうすれば強くなれるか。どうすれば、父さんの目に留まるか。どうすれば、焦凍より俺のほうがすごいって証明できるか」
燈矢は、苦笑した。
「……俺の人生だったはずなのにな」
その一言には、深い悔いが滲んでいた。
「俺は、自分の人生を生きてるつもりで、ずっと父さんの人生を生きてたんだな」
焦凍は、胸の奥に痛みを覚えた。
それは、自分にも覚えのある感覚だった。
父親の望みを拒絶することだけを考えていた頃、自分もまた、父親を中心に物事を決めていた。
父親が望むものを拒む。
父親が喜ぶものを使わない。
父親の夢を壊す。
それは、自分の意思で選んだ抵抗だった。
けれど、父親の望むものを拒むことだけが、自分の人生の基準になってしまえば、結局は父親に人生を決められ続ける。
兄は、父親に認められるために生きた。
自分は、父親に支配されないために生きた。
出発点は違っても、二人とも父親の影から自由になることが、簡単ではなかった。
「……兄さん」
焦凍は呼んだ。
「何だ?」
「兄さんが、父さんに勝ちたかったことと、父さんに愛されたかったこと。どっちも、本当なんだと思う」
燈矢は、顔を上げた。
「……ああ」
「どちらか一つが、嘘だったわけじゃないんだろ」
「……そうだな」
「だったら、どっちか一つだけにしなくてもいいんじゃないか」
燈矢は眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「兄さんは、本当に父さんを超えたかった。でも、父さんに愛されたかった気持ちも、本当だった。どっちも兄さんの気持ちだろ」
焦凍は、言葉を探しながら続けた。
「……俺は、兄さんが父さんを超えたいと思ったことまで、間違いだったとは思わない」
燈矢は黙っていた。
「ただ、父さんに認められることだけが、兄さんの価値を決めるものではなかったんだと思う」
燈矢は、しばらく空を眺めた。
「……簡単に言うなよ」
「簡単だとは思ってない」
「俺は、ずっとそれだけを見てきたんだ」
「ああ」
「今さら、別のものを見ろって言われても、何があるのか分かんねえよ」
焦凍は、静かに頷いた。
「……そうだな」
燈矢は、顔を伏せた。
「俺は、何が欲しかったんだろうな」
その問いは、今度こそ、答えを探すためのものだった。
焦凍は、すぐに答えを与えなかった。
兄が欲しかったものを、自分が決めてはいけない。
ただ、兄が自分の言葉で、それを見つけられるように。
焦凍は、隣で待っていた。
燈矢が、自分自身の記憶をたどる時間を。
2 最初の炎
記憶は、不思議なものだった。
思い出そうとすればするほど、肝心な場面が曖昧になることがある。
反対に、何でもない光景が、ある日突然、鮮明によみがえることもある。
燈矢にとって、その日の記憶は、ひどく眩しいものだった。
小さな手。
その手の先に、赤い炎が揺れていた。
最初に炎が出たとき、燈矢は驚いた。
身体の内側から熱が湧き上がり、指先に形を持たない光が生まれた。
それは、怖いものでも、苦しいものでもなかった。
むしろ、自分が自分の身体で何かを起こせたことが、嬉しかった。
周囲の大人たちが驚いた。
炎が生まれた。
大きな力を持っているかもしれない。
そうした言葉が、耳に入ってきた。
だが、幼い燈矢が本当に嬉しかったのは、炎の強さを評価されたことだけではなかった。
自分の中に、自分だけのものがある。
自分の身体から、自分の力が生まれた。
それが、何より嬉しかった。
「……すげえだろ」
幼い燈矢は、父親を見上げた。
エンデヴァーは、息子の炎を見ていた。
その目が、ほんのわずかに明るくなったように見えた。
燈矢の胸が弾んだ。
見てくれた。
父さんが、俺を見てくれた。
その瞬間、燈矢は、まだ言葉にもできない願いを抱いた。
もっと見てほしい。
もう一度、見てほしい。
自分が何かをするたびに、父親が自分を見てくれるなら。
自分の炎を、もっと強くできたなら。
父親は、もっと喜んでくれるだろうか。
もっと自分を好きになってくれるだろうか。
幼い燈矢には、その違いが分からなかった。
炎を褒められることと、自分を愛されること。
成果を認められることと、そこにいる自分を受け入れられること。
その二つは、まだ一つだった。
炎が褒められれば、自分が褒められたと思った。
父親が喜べば、自分が愛されていると思った。
父親が自分を見つめれば、自分は必要とされているのだと思った。
その感覚は、幼い子どもにとって自然なものだった。
誰かに愛されたい。
自分が大切にされていると知りたい。
自分の存在が、誰かにとって喜ばしいものだと思いたい。
その願いを、燈矢は疑っていなかった。
疑う必要がなかった。
少なくとも、最初のころは。
燈矢は、自分の記憶の中で、幼い自分の姿を見つめた。
小さな少年は、炎を見せようとしている。
父親を喜ばせるためだけではない。
自分が何をできるのか、知りたいのだ。
自分がどこまで行けるのか、試してみたいのだ。
そして、見てほしいのだ。
誰よりも強くなって、誰よりもすごい存在になって、父親を驚かせたい。
その願いの中には、確かに、自分自身の夢もあった。
「……俺、最初から父さんに言われたことだけをやりたかったわけじゃなかったんだな」
燈矢は、記憶の中の炎を見つめながら呟いた。
焦凍は、隣で聞いていた。
「……自分でも、面白かったんだと思う。炎を使うのが。自分に、何ができるのかを知るのが」
燈矢の声が、少しだけ柔らかくなった。
「俺は、もっと強くなりたかった。それは、父さんに認めてもらうためだけじゃなかったはずなんだ」
「……うん」
「でも、いつの間にか、それだけじゃ足りなくなった」
燈矢は目を閉じた。
「炎を使うことが、自分の楽しみじゃなくなった。父さんに認められるための手段になった。……強くならなきゃ、俺には何も残らないって思うようになった」
焦凍は、兄の言葉を聞きながら、自分の幼いころを思い出していた。
自分は、父親が何を望んでいるのか、早い段階で理解した。
父親の夢を叶えるための存在として、自分が育てられていること。
自分の炎と氷が、父親の望む未来のために必要とされていること。
それを理解したからこそ、自分は拒絶した。
けれど、燈矢は違った。
父親の望みと、自分自身の望みを切り離せなかった。
父親に認められたい。
父親に褒められたい。
父親に愛されたい。
その願いは、幼い彼にとって、あまりにも自然だった。
だから、父親の期待に応えられないと知ったとき、彼は自分自身の価値まで否定されたように感じたのかもしれない。
焦凍は、そのことを、今になって考えていた。
自分が生まれたことは、罪ではない。
だが、自分が父親の期待を受けたことで、兄がどのように傷ついたのか。
それを知らずにいたことは、消せない事実だった。
「……兄さん」
「何だ?」
「兄さんは、炎を使うのが好きだったんだな」
燈矢は、少しだけ目を見開いた。
「……ああ」
「……そうだったんだ」
燈矢は、苦笑した。
「何だよ。お前、俺が炎を使うのを好きだったことも知らなかったのか」
「……うん」
焦凍は、正直に答えた。
「俺は、兄さんが父さんに認められたくて、炎を使っていたんだと思ってた」
「それも、本当だよ」
燈矢は言った。
「でも、それだけじゃなかった。……俺は、あの力が好きだったんだ。自分の中から生まれてくるものが、面白かった。もっと使えるようになりたかった。もっと、すげえことができるようになりたかった」
彼は、しばらく自分の手を見ていた。
「……その気持ちを、いつから、認められるためだけのものにしちまったんだろうな」
焦凍は、答えなかった。
いつからだったのか。
誰か一人の言葉が原因だったのか。
ある日突然、何かが変わったのか。
たぶん、そのどれでもなかった。
小さな変化が重なっていったのだ。
炎を使えば、父親が見てくれる。
努力すれば、父親が喜ぶ。
もっと頑張れば、次はもっと認めてもらえる。
そう信じた。
そして、努力が報われないと感じたとき、自分の努力の仕方を疑うのではなく、自分自身の価値を疑うようになった。
それは、ほんの少しずつ進んだ変化だった。
気がついたときには、もう引き返し方が分からなくなっていた。
燈矢は、目を閉じた。
「……俺は、炎が好きだったんだよ」
その言葉は、まるで、長いあいだ忘れていた自分の名前を思い出すような響きを持っていた。
3 父親の背中
幼い燈矢は、父親の背中を追いかけていた。
父親は、強かった。
多くの人を救い、犯罪者を制圧し、ヒーローとして社会の前に立っていた。
人々が彼を称賛する。
その姿を、燈矢は誇らしく思っていた。
父親の背中は、遠くにあった。
大きくて、強くて、手を伸ばしても届かない。
その背中に追いつきたい。
隣に立ちたい。
いつか、自分のことを誇りに思ってほしい。
燈矢は、その願いを抱きながら育った。
幼いころは、父親の背中を追うことが、純粋な夢だった。
父親のようなヒーローになりたい。
父親よりも強くなりたい。
父親ができないことを、自分ができるようになりたい。
その願いには、尊敬も、憧れも、競争心もあった。
ただし、その夢の中に、いつからか、一つの条件が入り込んだ。
父親を超えなければ、愛されない。
父親よりも強くなければ、認めてもらえない。
父親の期待に応えなければ、自分には価値がない。
その条件は、最初から明確に言葉にされていたわけではなかった。
むしろ、燈矢自身が、父親の視線を追い続けるうちに、少しずつ作り上げていったものだった。
父親が褒めるのは、強さだった。
父親が求めるのは、成果だった。
父親が喜ぶのは、優れた能力だった。
燈矢は、そのことを見ていた。
そして、自分が父親から愛されるためには、その強さと成果を示さなければならないのだと信じた。
ある日、燈矢は父親に言った。
「父さん、俺、もっと強くなるよ」
エンデヴァーは、息子を見た。
「……そうか」
それだけだった。
幼い燈矢は、その短い返事に、期待を膨らませた。
父さんは、俺に期待している。
父さんは、俺が強くなることを喜んでくれる。
父さんは、俺のことを見てくれている。
だから、もっと頑張ろう。
もっと強くなろう。
もっと、父さんを驚かせよう。
そのとき、燈矢は知らなかった。
父親の夢と、自分の夢が、いつか別の方向へ進んでいくことを。
父親が自分に期待しているものと、自分が父親に求めているものが、同じではないことを。
父親が自分に何を望んでいるかを知ることと、父親が自分を愛しているかどうかを知ることは、同じではないことを。
彼は、ただ父親を見ていた。
自分の願いを、父親の背中に重ねていた。
その背中が、自分を見返してくれることを信じていた。
そして、その背中が、少しずつ自分から遠ざかっていくことに気づいたとき、彼は、どうすればいいのか分からなくなった。
「……俺は、父さんのことが好きだったんだ」
現在の燈矢が、静かに言った。
焦凍は顔を上げた。
「……兄さん」
「いや、好きだったって言い方は、今でも少し違うのかもしれない。……好きだったし、憧れてたし、腹も立ってた。認めてほしかったし、いつか追い越したかった」
燈矢は、複雑な表情を浮かべた。
「でも、俺は、父さんを尊敬してたんだよ。父さんみたいになりたかったんだ。父さんが強いことを、すごいと思ってた。父さんが誰かを救うところを見て、俺もああなりたいと思った」
焦凍は、その言葉を聞きながら、父親のことを考えていた。
自分にとって、父親の背中は、憧れるものではなかった。
あの背中が近づいてくるだけで、身体が強張った。
父親が自分を見れば、何かを要求される。
父親が自分に声をかければ、期待に応えなければならない。
自分にとって父親は、逃げたい相手だった。
だからこそ、兄が父親を尊敬していたことを、どこかで理解しきれていなかったのかもしれない。
「……俺は、父さんのことが嫌いだった」
焦凍は、静かに言った。
燈矢が視線を向ける。
「……ああ」
「兄さんは、父さんみたいになりたかったんだな」
「……ああ」
燈矢は、少しだけ笑った。
「お前には、分からねえよな」
焦凍は、首を横に振った。
「……全部は分からない」
その答えに、燈矢は意外そうな顔をした。
「でも、今は、分かりたいと思ってる」
焦凍は続けた。
「兄さんが父さんを尊敬していたことも、父さんに認められたかったことも、俺は、ちゃんと知りたい」
燈矢は、目を伏せた。
「……知ってどうすんだ?」
「分からない」
「……またそれかよ」
「うん」
焦凍は、少しだけ苦笑した。
「でも、知らないままで、兄さんのことを分かったつもりになりたくないんだ」
燈矢は、しばらく何も言わなかった。
やがて、視線を庭へ戻した。
「……そうか」
その声には、以前のような反発がなかった。
ただ、言葉を受け止めるための沈黙があった。
4 父親が振り向かなくなった日
燈矢にとって、何かが変わった瞬間は、一つではなかった。
父親の期待が、自分から離れていく感覚。
身体が、炎の強さについてこられないという現実。
鍛えても、努力しても、前と同じようにはいかない。
それを認めることは、難しかった。
自分には才能がある。
自分は、父親を超えられる。
その信念は、幼いころからの夢であり、同時に、自分が自分であるための支えでもあった。
だからこそ、それが揺らぎ始めたとき、燈矢は、夢を諦めるだけでは済まなかった。
自分自身が崩れていくように感じたのだ。
父親は、息子の身体を心配した。
これ以上、鍛えることを許さなかった。
燈矢の未来を、別のものへ向けようとした。
それが、どれほど遅く、どれほど不器用な形で行われたのか。
その判断に、どれほど父親自身の身勝手さが混じっていたのか。
そして、燈矢にとって、それがどれほど残酷な拒絶として届いたのか。
そのすべては、簡単には切り分けられない。
父親が息子の身体を案じたことまで、嘘だったわけではないのだろう。
だが、燈矢は、その心配を愛情として受け取ることができなかった。
それまで父親が自分に期待してきた。
強くなれ。
もっと強くなれ。
父親を超えろ。
その期待に応えようとしてきた。
ところが、身体が限界を示した途端、父親は、自分を止める側へ回った。
燈矢には、それが何を意味するのか分からなかった。
今までの努力は、何だったのか。
自分が抱いてきた夢は、何だったのか。
父親のために頑張ってきた時間は、何だったのか。
そして、父親は自分を、どう思っているのか。
自分が強くなれないなら。
父親の夢を叶えられないなら。
自分は、もう必要ないのか。
その疑問は、燈矢の中で、すぐに答えへ変わった。
必要ないのだ。
自分は、父親にとって必要な存在ではなくなったのだ。
弟が生まれたことが、その思いを強くした。
焦凍は、父親が求めていたものを持っていた。
炎と氷。
父親の理想に近い力。
父親が自分には求められなかった未来を、弟は持っていた。
燈矢には、それが見えた。
そして、見えてしまった。
自分が届かなかったもの。
自分が失ったと思ったもの。
自分の代わりに、弟が選ばれたという感覚。
それは、弟が悪いという話ではなかった。
焦凍が生まれたことは、誰の罪でもない。
それでも、燈矢の心には、弟の存在が、自分の価値を否定する証拠のように映ってしまった。
弟が父親の望みを叶えられるなら、自分は何だったのか。
自分が努力してきた時間には、何の意味があったのか。
自分が父親に認められる未来は、最初から存在しなかったのか。
その問いに、答えはなかった。
答えがないことに耐えられず、燈矢は、ひとつの結論へしがみついた。
――焦凍がいなければ。
その考えは、間違っていた。
燈矢自身にも、どこかで分かっていたのだろう。
焦凍が生まれたことは、父親の責任ではあっても、弟自身の罪ではない。
焦凍が持っているものを、焦凍が選んだわけでもない。
だが、燈矢は、その事実を自分の感情から切り離せなかった。
憎しみが、怒りの向かう先を必要としていた。
父親への怒り。
自分の身体への怒り。
夢を失いかけている自分への怒り。
愛されるために努力してきたはずなのに、愛されていると信じられなくなった自分への怒り。
それらが、弟という存在に集まっていった。
焦凍がいる。
焦凍が、父親の期待を受けている。
焦凍が、父親の望む未来を持っている。
それを見れば、自分の失ったものを思い知らされる。
だから、憎んだ。
憎めば、まだ理由があった。
弟がいなければ。
父親が自分を見てくれれば。
世界が自分を正しく評価してくれれば。
そうした条件を並べれば、自分の苦しみには原因があるように思えた。
自分の苦しみに原因があるなら、その原因を取り除けば、苦しみも終わるはずだった。
だが、憎しみは、答えを与えてくれなかった。
怒りを強くしても、失った夢は戻らない。
弟を憎んでも、父親からの愛情が手に入るわけではない。
世界に、自分の苦しみを見せつけても、幼いころの自分が求めたものは戻ってこない。
それでも、燈矢は憎しみを手放せなかった。
憎しみを手放せば、自分が苦しんできた時間が、何の意味も持たないように感じられたからだ。
憎み続ければ、まだ、自分は父親とつながっていられる。
父親のことを考えていられる。
父親に、自分を見せつけることができる。
父親が自分を見てくれないなら、父親が見ざるを得ない存在になればいい。
自分が何をしたのか。
どれほど憎んでいるのか。
どれほど傷ついたのか。
それを、父親に思い知らせればいい。
その考えは、いつしか、彼の中で一つの目的になっていった。
父親に愛されたかったという願いが、父親に自分の苦しみを見せつけたいという願いへ変わっていった。
愛してほしい。
見てほしい。
認めてほしい。
それが叶わないなら、憎んでほしい。
恐れてほしい。
無視できない存在になりたい。
そこに、深いねじれが生まれていた。
燈矢は、自分の記憶をたどりながら、しばらく何も言わなかった。
焦凍は、急かさなかった。
やがて燈矢は、かすれた声で言った。
「……俺は、父さんに憎まれたかったわけじゃなかったんだ」
焦凍は、兄を見た。
「……ああ」
「でも、父さんが俺を見ないなら、憎まれてでも見てもらいたかった」
燈矢は、笑った。
「……最悪だろ」
焦凍は、すぐには答えなかった。
燈矢は続けた。
「俺は、父さんに愛されたかった。それが無理なら、父さんに俺を見てほしかった。俺が何をしたのか、俺がどれだけ父さんを憎んでるのか、それを知ってほしかった」
彼は、目を伏せた。
「それで、父さんが俺を憎めば、俺は、まだ父さんにとって意味のある存在なんだって……そんなふうに思いたかったのかもしれない」
焦凍の胸が痛んだ。
兄は、愛情を求めていた。
けれど、愛されなかったと感じたことで、その願いを別の形に変えてしまった。
見てほしいという願いは、見ないでいられない存在になりたいという願いに変わった。
認めてほしいという願いは、否定できない存在になりたいという願いに変わった。
父親にとって、ただの息子でありたかった。
その願いが叶わないなら、父親にとって、最も厄介な存在になろうとした。
そうすることでしか、自分の存在を確かめられなくなっていた。
それは、悲しいことだった。
しかし、悲しいからといって、燈矢の選択が正当化されるわけではない。
焦凍は、その二つを、同時に心に置いた。
「……兄さん」
燈矢が顔を上げる。
「……何だ?」
「俺は、兄さんが父さんに愛されたかったことを、否定したくない」
「……」
「でも、父さんに愛されなかったことが、兄さんが誰かを傷つけていい理由にはならないと思う」
燈矢は、わずかに顔をしかめた。
焦凍は、続けた。
「兄さんが、父さんに見てほしかったことも分かる。父さんが、兄さんを見てくれなかったと感じたことも、分かる」
彼は、自分の手を見た。
「でも、兄さんが他の人を傷つけたとき、その人たちは、父さんへの怒りとは関係なかったはずだ」
燈矢は黙っていた。
「兄さんが苦しかったことは、兄さんの苦しみだ。兄さんがしたことは、兄さんが責任を取らなければならないことだ」
焦凍は、顔を上げた。
「俺は、兄さんの苦しみを理解するために、兄さんの罪をなかったことにはしたくない」
燈矢は、長いこと弟を見つめていた。
やがて、低い声で答えた。
「……分かってるよ」
その声は、怒っているようにも聞こえた。
だが、目を逸らすことはなかった。
「俺が、何をしたのか。……分かってる」
焦凍は、頷いた。
「……うん」
燈矢は、顔を伏せた。
「……分かってるから、余計に、どうすりゃいいのか分かんねえんだよ」
その言葉に、焦凍は答えなかった。
答えを持っていなかったからだ。
兄の苦しみを理解することはできるかもしれない。
兄と話し続けることもできるかもしれない。
兄が自分の責任と向き合うとき、そばにいることもできるかもしれない。
しかし、兄が何をすればいいのかまで、焦凍が決めることはできない。
それは、燈矢自身が探さなければならない答えだった。
5 弟が生まれた日
「……焦凍」
燈矢が呼んだ。
「何だ?」
「お前が生まれたときのこと、覚えてるか?」
「……俺は覚えてない」
「そりゃそうだ」
燈矢は、苦笑した。
「……俺は、覚えてるよ」
彼の声は、少しだけ遠くなった。
弟が生まれたと聞いた日。
父親は、期待を隠していなかった。
新しい子ども。
新しい可能性。
自分が求めてきたものを、持って生まれてくるかもしれない存在。
燈矢は、その空気を感じ取っていた。
まだ幼かった。
父親が何を考えているのか、すべて理解していたわけではない。
それでも、自分とは違う何かが始まろうとしていることは、分かった。
自分の炎は、強い。
もっと強くなれる。
父親を超えることだって、できるはずだ。
そう信じていた。
だが、身体は思うようについてこなかった。
父親は、自分に違う道を求めるようになった。
そして、焦凍が生まれた。
燈矢は、弟の存在を知ったとき、複雑な感情を抱いた。
自分にないものを持っている。
自分が求められていたものを、持っている。
父親が、今度こそ望む未来を手にするかもしれない。
それが、弟だった。
焦凍自身に、何の責任もないことは、頭では分かっていた。
しかし、幼い燈矢にとって、その事実を理解することは難しかった。
父親が自分に向けていた期待は、なくなったわけではなかった。
ただ、その期待が、自分から離れたように感じたのだ。
自分が選ばれなかった。
自分が、必要なくなった。
自分が努力してきた時間は、弟の誕生によって、意味を失った。
そう思い込んだ。
その思い込みは、弟を見るたびに強くなった。
焦凍が父親に期待されていること。
焦凍が特別な力を持っていること。
焦凍が、自分とは違う未来を与えられていること。
それが、自分の価値を否定する証拠のように見えた。
だが、今、焦凍を前にして、その記憶をたどると、燈矢は別のことにも気づく。
焦凍もまた、父親の望みを押しつけられていた。
弟が持っていた力は、弟自身の自由を奪うものでもあった。
弟は、父親の夢を叶える存在として扱われていた。
自分が望んでいたものを与えられたように見えた弟もまた、自分の人生を自由に選べたわけではなかった。
燈矢は、顔を伏せた。
「……俺は、お前を見てなかったんだな」
焦凍は、静かに答えた。
「……俺も、兄さんを見てなかった」
燈矢は、弟を見た。
「お前は、俺に謝る必要なんかねえよ」
「……分かってる」
焦凍は言った。
「俺が生まれたことを、謝る必要はないと思ってる」
燈矢は、少しだけ目を見開いた。
焦凍は続けた。
「でも、兄さんが俺をどう思っていたのか、知りたいと思ってる。俺が兄さんに何をしてしまったのか、俺自身が知っておきたい」
「……お前は何もしてねえよ」
燈矢は、少し苛立ったように言った。
「お前は、ただ生まれてきただけだ。父さんが、お前に何を望んだかは、父さんの責任だ」
焦凍は、頷いた。
「……うん」
燈矢は、しばらく黙っていた。
「……俺は、お前が憎かった」
「……ああ」
「お前が父さんに期待されていることが、羨ましかった。俺が手に入れられなかったものを、お前が持っているように見えた」
彼は、ゆっくり言葉を続けた。
「お前が苦しんでることなんて、考えてなかった。考えたくなかった。……お前も父さんに傷つけられてるって知ったら、俺が憎む理由がなくなっちまう気がしたから」
焦凍は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
燈矢は、弟の苦しみに目を向けないことで、自分の憎しみを保っていた。
焦凍が苦しんでいると認めれば、焦凍を憎むことに矛盾が生まれる。
弟もまた、父親に傷つけられていたと認めれば、二人は同じものに苦しんでいたことになる。
それを認めることは、燈矢にとって、自分の孤独を失うようなことだったのかもしれない。
自分だけが苦しんでいる。
自分だけが、望みを奪われた。
自分だけが、父親に認められなかった。
そう考えることで、燈矢は、自分の苦しみに輪郭を与えていた。
その苦しみが、弟と共有できるものだったとしたら。
自分だけのものではなかったとしたら。
自分の憎しみは、どこへ向かえばいいのか。
燈矢には、分からなかったのだろう。
「……俺は、お前を憎んでいるほうが楽だったんだ」
燈矢は言った。
「父さんを憎むだけじゃ、どうにもならなかった。父さんに、俺を見てほしかった。でも、父さんが俺を見てくれるかどうかは、俺には決められない」
彼は、手を握りしめた。
「でも、お前を憎むことなら、できた。お前がいなければ、俺はまだ父さんの期待を受けていたかもしれない。お前がいなければ、俺はまだ……」
言葉が止まった。
その先を口にすれば、嘘になる。
焦凍が生まれなかったとしても、燈矢の身体が炎に耐えられないという現実は変わらなかったかもしれない。
父親の愛情が、燈矢の望む形で与えられた保証もない。
だが、燈矢は、弟の存在に原因を求めることで、その可能性を考えずに済んだ。
弟がいなければ。
そうすれば、別の未来があったはずだ。
その仮定の中では、自分の夢は失われていない。
父親の愛情も、手に入らないと決まったわけではない。
可能性を失ったのは、弟が生まれたからだ。
そう考えれば、自分の苦しみは、誰かのせいにできる。
そして、その誰かを憎んでいれば、自分が何を失ったのかを、直視しなくても済む。
「……でも、今は分かってる」
燈矢は言った。
「お前がいなくても、俺の身体は変わらなかったかもしれない。父さんが、俺をどう扱ったかも、変わらなかったかもしれない」
焦凍は、黙って聞いていた。
「俺が、お前を憎んでいたことは本当だ。でも、お前が悪かったわけじゃない」
燈矢は、弟の顔を見た。
「……お前に、俺の代わりをさせたかったわけじゃなかった」
焦凍は、少しだけ眉を動かした。
「……そうだったのか」
「ああ。……いや、違うな」
燈矢は、首を横に振った。
「俺は、どこかで、お前に俺の代わりになってほしかったんだと思う。父さんが、お前に期待しているなら、お前が父さんを超えて、俺ができなかったことをやってくれればいい。そうすれば、俺が間違ってなかったことになる気がした」
彼は、自嘲するように笑った。
「……勝手だろ」
焦凍は、少し考えてから答えた。
「……勝手だな」
燈矢は、思わず笑った。
「おい。そこは少しぐらい否定しろよ」
「嘘をつきたくない」
「……本当に、生意気になったな」
焦凍も、少しだけ笑った。
その短い笑いは、過去を消すものではなかった。
燈矢が弟を憎んでいたことも。
焦凍が、兄のことを知らずに生きてきたことも。
そのすべてが、なくなったわけではない。
ただ、二人は今、互いの言葉を聞いていた。
自分の見ていなかったものを、少しずつ知ろうとしていた。
6 憎しみは、愛情の代わりにならない
「……焦凍」
燈矢が言った。
「俺は、父さんに、俺を見てほしかった」
「……うん」
「何度も、そう思った。父さんが俺を見てくれるなら、何だってよかったのかもしれない」
燈矢は、目を伏せた。
「俺が努力しても、父さんが見てくれないなら、もっと努力すればいい。炎が強くなれば、父さんは俺を認めてくれる。父さんが喜ぶような結果を出せば、俺のことを見てくれる」
彼は、一度息を吐いた。
「でも、どれだけやっても、俺が欲しかったものは手に入らなかった」
焦凍は、静かに聞いていた。
「父さんは、俺の炎を見ていた。俺の才能を見ていた。俺が、何を成し遂げられるかを見ていた」
燈矢は、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺自身を見ていたのかは、分からない」
その言葉は、彼の中に長く残っていた疑問だった。
父親は、息子を見ていた。
しかし、燈矢が求めていた見方とは違った。
燈矢は、能力を評価されることを望みながら、その評価を越えたところにある愛情を求めていた。
自分が強いからではなく。
父親の夢を叶えるからではなく。
他の誰かより優れているからでもなく。
自分が自分として、そこに存在していることを、喜んでほしかった。
だが、父親の視線は、いつも評価と結びついていたように感じられた。
強ければ、期待される。
成果を出せば、注目される。
父親にとって価値のある存在であり続ければ、自分は必要とされる。
そう信じたからこそ、燈矢は、父親からの期待を失うことを、自分自身の価値を失うことと結びつけてしまった。
「……俺は、自分が何を望んでいるのか、父さんに説明したことがあったのかな」
燈矢は、ぽつりと呟いた。
焦凍は、考えた。
「……分からない」
「そうだよな」
燈矢は笑った。
「俺だって、よく分かってなかったんだ。父さんに勝ちたい。父さんを超えたい。強くなりたい。……その先に何があるのか、考えたこともなかった」
彼は、遠くを見た。
「父さんを超えたら、どうなると思ってたんだろうな」
焦凍は、黙っていた。
燈矢は続けた。
「父さんが、俺を認めてくれると思ってたんだ。父さんが、俺を見てくれると思ってた。……でも、それって、勝たなきゃ手に入らないものなのか?」
その問いは、燈矢自身に向けられていた。
父親を超えなければ、愛されない。
父親に勝たなければ、認められない。
もし、それが本当なら。
もし、父親の期待に応えられなければ、愛される資格がないのなら。
自分は、永遠に、何かを成し遂げ続けなければならない。
勝ち続けなければならない。
強くあり続けなければならない。
失敗してはいけない。
弱さを見せてはいけない。
そんな人生を、燈矢は望んでいたのだろうか。
幼いころの彼が、本当に欲しがっていたものは、そんなものだったのだろうか。
違う。
少なくとも、最初は違ったはずだ。
最初に炎が出たとき、彼は、自分の力が嬉しかった。
もっとできるようになりたいと思った。
父親に、自分を見てほしいと思った。
その願いは、勝たなければ愛されないという条件を必要としていなかった。
いつしか、燈矢は、その条件を自分自身に課してしまった。
父親の言葉だけが原因ではない。
父親の態度は、確かに彼を追い詰めた。
しかし、燈矢自身もまた、父親からの愛情と成果を切り離せなくなっていた。
そして、そこから抜け出す方法を知らなかった。
「……俺は、父さんに認められることだけが、自分の価値だと思ってた」
燈矢は言った。
「父さんが俺を認めてくれれば、俺には価値がある。父さんが俺を見てくれれば、俺は必要とされている。……でも、父さんが俺を見てくれなくなったら、俺は何者でもなくなった」
焦凍は、静かに答えた。
「……兄さんは、父さんが見ていないときも、そこにいた」
燈矢は、弟を見た。
焦凍は、言葉を続けた。
「父さんが兄さんを認めたかどうかとは関係なく、兄さんは生きていた。兄さんの好きなものがあって、兄さんの考えがあって、兄さんの人生があった」
「……」
「父さんが、それを見てくれなかったとしても、兄さんが何者でもなかったことにはならない」
燈矢は、苦しそうに笑った。
「……お前、そういうことを、よく言えるよな」
「……俺も、前は、そう思えなかったから」
焦凍は、自分の左手を見た。
「父さんの望むものになれなければ、俺には価値がない。そう思ってた。だから、父さんが望むものを拒むことだけで、自分を保とうとしていた時期もあった」
燈矢は、黙っていた。
「でも、今は、父さんが何を望んでいるかだけで、自分の価値を決めたくないと思ってる」
焦凍は、兄を見た。
「兄さんにも、そう思えるようになってほしい」
燈矢は、すぐには答えなかった。
「……俺に、そう思えって言うのか?」
「違う」
焦凍は首を横に振った。
「俺がそう思っているって、話してるだけだ。兄さんが、同じように思うかどうかは、兄さんが決めることだ」
燈矢は、しばらく弟を見つめていた。
「……お前は、俺を救いたいんだな」
「ああ」
「でも、俺に、こうなってほしいとは決めない」
「兄さんが誰かを傷つけることを選んだら、俺は止める。兄さんが自分のことをどう思うか、何を望むかは、俺が決めることじゃない」
焦凍は、静かに続けた。
「俺ができるのは、兄さんの話を聞くことと、俺自身の気持ちを伝えることだと思う」
燈矢は、視線を落とした。
「……俺は、父さんに愛されたかった」
その言葉は、先ほどよりも小さかった。
「そのためなら、何でもしたかった。……いや、何でもできると思ってた。自分が強くなれば、父さんが俺を見てくれるって信じてた」
燈矢は、拳を握りしめた。
「でも、父さんが俺を見なくなったとき、俺は、自分が愛されてなかったんだって思った。……そして、愛されてなかった自分を、どうすればいいのか分からなくなった」
焦凍は、黙って聞いていた。
「俺は、父さんを憎んだ。父さんが悪いと思った。そうすれば、自分が愛されなかったことに理由がつくからだ」
燈矢の声が、かすれた。
「俺が悪かったわけじゃない。父さんが俺を愛さなかった。父さんが、俺を見なかった。……そうやって考えれば、少しは、自分が何も悪くなかったと思えた」
焦凍は、静かに息を吐いた。
「……兄さんが、悪くなかったことと、兄さんが罪を犯していないことは、違うと思う」
燈矢は顔を上げた。
焦凍は、続けた。
「兄さんが、父さんに愛されなかったことは、兄さんのせいじゃない。兄さんが、愛してほしいと思ったことも、悪くない。でも、兄さんが何をしたのかは、別に考えなきゃいけない」
燈矢は、じっと弟を見ていた。
「……俺は、兄さんを責めたいわけじゃない」
焦凍は言った。
「でも、兄さんの苦しみを理由にして、兄さんがしたことを全部正しいことにはしたくない」
しばらく、沈黙が続いた。
燈矢は、やがて小さく頷いた。
「……分かってるよ」
その答えは、全面的な納得ではなかった。
焦凍の言葉に、すべて同意したわけでもない。
ただ、燈矢は、自分が何を求めていたのかを、少しずつ認め始めていた。
父親に愛されたかった。
それは、罪ではない。
そして、その願いが叶わなかったことを、燈矢は自分の価値の否定として受け取ってしまった。
その苦しみは、本物だった。
だが、その苦しみを、誰かの人生を壊す理由にしてはならなかった。
それもまた、本当だった。
二つの事実は、互いを打ち消さなかった。
燈矢は、初めて、そのことを考え続けていた。
7 母が見ていたもの
その日の午後、燈矢は、冷と話をした。
自分から会いたいと言ったわけではなかった。
冷が、もう一度だけ話をしたいと伝え、燈矢が、それを受け入れたのだ。
二人は、庭に面した部屋に座っていた。
母と長男。
かつては、何も言わなくても、互いの気持ちが分かっているような気がしていた。
けれど、時間が過ぎ、家族がそれぞれ別の痛みを抱えてきた今、同じことは言えなかった。
母親が、息子を愛していた。
それは、本当だった。
息子が、母親を大切に思っていた。
それも、本当だった。
しかし、愛情があったからといって、互いの気持ちを正しく理解できていたわけではない。
燈矢は、母親の顔を見ていた。
冷は、息子を見つめていた。
「……燈矢」
冷が呼んだ。
「何?」
「あなたは、小さいころ、よく炎を見せてくれたわね」
燈矢は、少しだけ顔をしかめた。
「……そんなこと、あったっけ」
「ええ。覚えているわ」
冷は、微笑んだ。
「あなたが炎を使えるようになったとき、とても嬉しそうだった。何ができるようになったのか、何度も話してくれたの」
燈矢は、視線を落とした。
「……そうだったかな」
「ええ。私は、あなたが嬉しそうに話すのを見るのが好きだったわ」
燈矢は、言葉を失った。
冷は続けた。
「あなたが、どれだけ強い炎を出せるかだけではなくて。あなたが、何を面白いと思ったのか、何ができるようになって嬉しかったのか……そういう話を、もっと聞きたかった」
燈矢の喉が動いた。
「……母さん」
冷は、息を吸った。
「私は、あなたが父親に認められたかったことを、今になって、少しずつ理解しようとしているわ。あなたが、父親を尊敬していたことも。父親に憧れていたことも」
燈矢は、顔を上げた。
冷は、まっすぐ息子を見つめた。
「でも、私は、あなたが父親を超えることだけを望んでいたわけではなかったの」
燈矢は、眉を寄せた。
「……どういう意味だ?」
「あなたが、何かを成し遂げたときだけではなくて、失敗したときも、思いどおりにならなかったときも、あなたがあなたであることを大切にしてほしかった」
冷は、少しだけ目を伏せた。
「私は、それを、あなたに伝えることができなかった。あなたが、父親に認められることを、どれほど必要としていたのか。自分がどれほど強くなりたいと思っていたのか。……あなたの気持ちを、私は、十分に聞けていなかったのだと思う」
燈矢は、何も言わなかった。
母親は、自分を愛していた。
そのことは、頭では分かっていた。
しかし、その愛情が、自分の求めていたものと同じ形で存在していたのか。
自分が本当に欲しかったものを、母親は知っていたのか。
その疑問は、今も残っていた。
燈矢は、思わず口を開いた。
「……じゃあ、母さんは、俺が父さんに認められなくても、よかったのかよ」
冷は、息を呑んだ。
燈矢は続けた。
「俺が父さんを超えられなくても、俺が強くなれなくても、それでよかったのか?」
「……ええ」
冷は、静かに答えた。
「あなたが、健康で、自分の人生を生きられることを願っていたわ」
燈矢の顔が歪んだ。
「……俺は、そう思えなかった」
「……ええ」
「父さんが俺を見てくれないなら、俺には価値がないと思ってた。父さんが、俺を認めてくれないなら、俺がどれだけ頑張っても意味がないと思ってた」
彼は、声を荒らげかけた。
「母さんが、俺のことを大切に思ってくれてたとしても……俺は、父さんに認められなきゃ、駄目だったんだよ!」
冷は、息子を見つめた。
「……そうだったのね」
それだけだった。
否定しなかった。
あなたには、私がいたでしょう、とも言わなかった。
母親の愛情で、父親の不在を埋めることができたはずだとも言わなかった。
そんな言葉を口にすることは、燈矢に、自分の愛情を受け取れなかった責任まで背負わせることになるからだ。
冷は、息子の気持ちを、息子自身のものとして受け止めた。
「私は、あなたが父親に認められたかった気持ちを、否定したくないわ」
冷は言った。
「あなたが、父親に憧れていたことも、父親に勝ちたかったことも、あなたの大切な気持ちだったのでしょう」
燈矢は、顔を伏せた。
「……そうだよ」
「だからこそ、あなたがその気持ちに苦しんでいたことを、私は、もっと知りたかった」
冷の声が、少しだけ震えた。
「……もっと、あなたの話を聞けばよかった」
燈矢は、首を横に振った。
「……今さらだろ」
「ええ。今さらね」
冷は、頷いた。
「あなたが小さかったころに戻ることはできない。あなたが、どれだけ苦しかったのかを、そのときに理解することもできない」
彼女は、息子を見つめた。
「だから、今からでも、あなたの話を聞きたいと思っているの」
燈矢は、しばらく黙っていた。
母親に、何を言えばいいのか分からなかった。
母親が自分を愛していたことは、知っていた。
けれど、それを理由に、自分が苦しんでいたことを否定されたくはなかった。
母親が自分を守ろうとしていたことも、今なら理解できる。
それでも、守られなかったと感じた自分の気持ちまで、消せるわけではなかった。
燈矢は、ようやく口を開いた。
「……母さんが、俺を大切に思ってくれてたことは、分かってる」
冷は、頷いた。
「でも、俺は、父さんに認められたかった」
「……ええ」
「母さんが、俺のことを大切に思ってくれてても、俺は、それじゃ足りなかったんだ」
その言葉を口にするのは、苦しかった。
母親の愛情を否定するように聞こえるからだ。
自分を愛してくれた人に対して、その愛情では足りなかったと言うこと。
それは、母親を傷つけることになるかもしれない。
燈矢は、ずっと、その言葉を言えずにいたのかもしれない。
母親の気持ちまで拒絶してしまったら、自分は、本当に誰からも愛されていないことになる。
そう感じることが、怖かったのかもしれない。
冷は、涙を拭った。
「……そうだったのね」
その言葉は、責めるものではなかった。
「あなたが、父親からの愛情を、どれほど必要としていたのか。私は、今になって、知ろうとしているのね」
燈矢は、俯いたまま頷いた。
冷は、静かに言った。
「……私は、あなたが父親に認められたかったことを、間違いだとは思わないわ」
燈矢は、顔を上げた。
「……」
「でも、あなたが父親に認められるためだけに、生きなければならなかったとも思わない」
冷は、ゆっくりと続けた。
「あなたは、あなた自身の人生を生きてよかったのよ」
燈矢は、目を見開いた。
その言葉は、焦凍が伝えたことと似ていた。
けれど、母親の口から聞くと、違う痛みがあった。
自分が子どもだったころ。
自分が、父親の背中を追いかけていたころ。
母親は、自分の人生を生きてほしいと願っていた。
だが、自分は、その願いを知ることができなかった。
父親に認められなければ、自分は何者でもないと思っていた。
母親が自分を愛していたとしても、その愛情を、父親への願いの代わりにすることはできなかった。
それでも。
自分が自分自身の人生を生きてよかった。
その言葉は、今まで誰かに許可を求めていたかのような感覚を、燈矢の中に生んだ。
自分の人生を生きてよかった。
父親を超えなくても。
父親の期待に応えられなくても。
父親に認められなくても。
自分は、自分として生きてよかった。
その事実を、彼は、まだ信じることができなかった。
だが、母親は、その言葉を撤回しなかった。
「……燈矢」
冷が呼んだ。
「私は、あなたに、何かを許してほしいと求めているわけではないの」
燈矢は、母親を見た。
「あなたが私をどう思っているのか。私に何を感じているのか。それを、あなた自身の言葉で聞きたいと思っている」
冷は、少しだけ微笑んだ。
「それが、私の願いよ」
燈矢は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく呟いた。
「……俺は、まだ、分からない」
冷は頷いた。
「ええ」
「母さんのことも、父さんのことも、自分のことも……何をどう考えればいいのか、分からない」
「……そうね」
「俺は、自分が何を望んでたのかも、今さら分からなくなってる」
燈矢は、苦笑した。
「……ずっと、分かってたつもりだったのにな」
冷は、息子を見つめた。
「分からなくなったのなら、これから考えていけばいいと思うわ」
「……」
「あなたが、自分で答えを見つけられるまで、急がなくてもいい」
燈矢は、目を伏せた。
「……母さんは、俺に、何を望んでる?」
冷は、静かに答えた。
「あなたに、あなた自身の人生を生きてほしい」
燈矢は、何も言わなかった。
母親は、続けた。
「それが、私の望みよ。でも、その望みを叶えるために生きる必要はないわ」
彼女は、優しく微笑んだ。
「あなたが、何を望むのか。何を選ぶのか。それは、あなたが決めていいことなの」
燈矢は、顔を伏せた。
母親が自分を愛している。
その事実は、今も変わらなかった。
しかし、その愛情に、自分の人生を委ねる必要はない。
母親の願いを、父親の願いと置き換える必要もない。
自分は、自分の人生を生きていい。
その言葉を、燈矢は、まだ信じきれずにいた。
それでも、母親が自分に答えを押しつけなかったことは、確かだった。
そして、それは、燈矢にとって初めての経験に近いものだった。
8 怒りの向こうに残ったもの
夜、燈矢は、自室に戻った。
部屋の明かりをつけず、窓のそばに立った。
外は暗い。
庭の木々は、影になっている。
ガラスに映る自分の姿が、ぼんやりと見えた。
彼は、その姿を見つめた。
父親の期待に応えようとした自分。
父親を超えようとした自分。
弟を憎んだ自分。
家族に対して、憎しみを抱き続けた自分。
他者を傷つけた自分。
そのどれもが、ここにいる。
過去の自分を、切り離すことはできない。
なかったことにもできない。
だが、過去の自分が、これからの自分のすべてを決めるとは限らない。
その考えは、焦凍からも、冷からも、聞いたものだった。
自分が何をしたのかを認めること。
自分が苦しんでいたことを認めること。
その両方を、同時に認めること。
燈矢は、窓ガラスに手を置いた。
「……俺は、何が欲しかったんだろうな」
問いかける。
答えは、以前よりも少しだけ、はっきりしていた。
父親に認められたかった。
父親を超えたかった。
父親に愛されたかった。
自分が生きていることを、喜んでほしかった。
父親に、ただ息子として見てほしかった。
それが、彼の願いだった。
だが、その願いが叶わなかったとき、燈矢は、自分の価値まで失ったと思った。
父親が自分を見ないなら、誰も自分を見てくれない。
父親が自分を愛さないなら、自分には愛される価値がない。
父親が自分を認めないなら、自分は何をしても認められない。
その考えが、彼を追い詰めた。
そして、追い詰められた燈矢は、憎しみを手放せなくなった。
憎しみは、最初、彼の苦しみを守るものだったのかもしれない。
自分が傷ついたことを、なかったことにさせない。
自分の努力が、無意味だったと認めない。
自分が愛されたかったという願いを、馬鹿にさせない。
そうしたものを守るために、怒りが必要だったのかもしれない。
だが、憎しみは、いつしか、自分を守るためのものではなくなった。
憎しみを捨てれば、自分が傷ついたことまで消えてしまう。
そう思うようになった。
怒りを手放せば、父親がしたことを許すことになる。
憎しみを終わらせれば、父親に勝つことを諦めることになる。
そう感じていた。
だから、憎み続けた。
父親を。
弟を。
世界を。
そして、自分自身を。
けれど、今、燈矢は少しだけ分かり始めていた。
憎しみを手放すことと、傷ついた事実を消すことは、同じではない。
怒りを抱え続けなくても、父親がしたことは間違っていたと認められる。
弟を憎まなくても、自分が失ったものを悲しむことはできる。
自分の人生を生き直そうとしても、過去の自分を否定したことにはならない。
それでも、憎しみを手放すことは怖かった。
怒りを失ったら、自分には何も残らない気がした。
自分が生きてきた理由が、なくなってしまう気がした。
父親を憎むことで、自分の人生に意味を与えてきた。
父親への復讐を考えることで、自分が奪われたものを忘れずに済んだ。
その怒りがある限り、自分はまだ、父親とつながっていられた。
憎しみは、愛情の代わりにはならない。
そのことを、燈矢は知っていた。
知っていたのに、手放せなかった。
愛情を求め続ける自分を認めるのが、怖かったからだ。
今さら、愛されたいと思っている。
今さら、認めてほしいと思っている。
今さら、誰かに自分を必要としてほしいと願っている。
そんな自分を、どこかで恥ずかしいと思っていた。
これほどのことをしておきながら、まだ愛されたいと願っている。
そんな資格が、自分にあるのだろうか。
燈矢は、目を閉じた。
自分が何を望んでいたのか、ようやく見えてきた。
だが、それを望む資格があるのかどうかは、まだ分からなかった。
そして、何より。
自分が愛されたかったという願いを認めたところで、すべてが終わるわけではない。
誰かが、自分を愛してくれると約束してくれるわけでもない。
父親が、今から自分を愛し直してくれるとも限らない。
母親の言葉を聞いたからといって、自分が苦しんできた時間を受け入れられるわけでもない。
焦凍が話を聞いてくれたからといって、罪が消えるわけでもない。
それでも、燈矢は、初めて、自分の願いを、憎しみの陰に隠さずに考え始めていた。
「……俺は、愛されたかったんだ」
誰もいない部屋で、彼は言った。
声に出してみると、その言葉は、思っていたより小さかった。
大それた願いではない。
世界を支配したいわけでもない。
誰よりも優れた存在になりたいわけでもない。
ただ、自分を愛してほしかった。
自分が生きていることを、喜んでほしかった。
その小さな願いが、長い年月のあいだに、憎しみへと姿を変えてしまった。
燈矢は、自分の手を握りしめた。
そして、ゆっくりと開いた。
「……何で、こんなことになっちまったんだろうな」
その問いには、簡単な答えがなかった。
父親の責任はある。
社会の中で求められる強さも、影響していたかもしれない。
家族の沈黙も、無関係ではなかった。
しかし、それだけでは説明できないこともある。
燈矢自身が、父親の評価だけで自分の価値を決めるようになっていったこと。
怒りを、自分の唯一の居場所のように扱うようになったこと。
自分が苦しんでいたことを理由に、他者を傷つける選択を重ねたこと。
それらもまた、自分自身の人生に含まれていた。
誰かのせいにして、すべてを片づけることはできない。
だからといって、自分だけが悪かったと結論づけることも違う。
燈矢は、その複雑さを初めて、少しだけ受け入れようとしていた。
自分は、傷ついた子どもだった。
そして、他者を傷つけた大人でもある。
その二つは、どちらか一方を消せば済む話ではなかった。
彼は、窓の外を見た。
暗い庭の向こうに、家の明かりが見える。
そこには、家族がいる。
自分を愛していた母親。
自分を守ろうとしていた妹。
自分を知らずに生きてきた弟たち。
そして、自分を傷つけた父親。
そのすべてが、自分の人生に存在していた。
燈矢は、目を伏せた。
「……俺は、まだ、父さんを許せねえ」
口にした言葉は、本当だった。
「……でも」
言葉が続かない。
父親を許せない。
それは、変わらない。
父親を許せないまま、生きていくこともできるのだろうか。
父親への怒りを、これからも抱えていくことはできるのだろうか。
その怒りが、自分のすべてにならないように。
自分が誰を愛し、誰を憎み、何を望むかを、父親だけで決めないように。
そんな生き方が、できるのだろうか。
燈矢は、まだ答えを持っていなかった。
しかし、少なくとも今は、問いを持ち続けることができた。
父親への怒りを、無理に消す必要はない。
母親の愛情を、無理に受け入れる必要もない。
弟を、無理に理解しきる必要もない。
ただ、自分が何を望んでいたのかを、見失わないこと。
憎しみの向こうに、まだ残っている願いを、なかったことにしないこと。
燈矢は、椅子に腰かけた。
そして、長いこと、何もせずにいた。
過去を振り返るために。
自分の中に残っているものを、確かめるために。
9 父親に会いたいのか
翌朝、燈矢は、焦凍に一つの質問をした。
「……お前、父さんに会いたいと思うか?」
焦凍は、少し考えた。
「……会いたいと思うときもある」
「……そうか」
「でも、会いたくないと思うときもある」
燈矢は、苦笑した。
「ずいぶん正直だな」
「兄さんに、嘘をつきたくないから」
燈矢は、縁側で膝を抱えた。
「……俺は、父さんに会いたいのかどうか、分からない」
焦凍は、隣に座った。
「……会いたくないのか?」
「会いたい」
燈矢は、即答した。
そして、すぐに顔をしかめた。
「……いや、会いたくねえ」
焦凍は、頷いた。
「……そうか」
「会いたいんだよ。俺が、何を望んでたのか、父さんに知ってほしい。俺が、何を失ったと思ってたのか、何を苦しんでたのか、知ってほしい」
燈矢は、自分の手を握りしめた。
「でも、会ったところで、父さんが何を言うのか分からねえ。謝られたら、俺はどうすりゃいい? 父さんが、今からお前を愛していると言ったら、俺は、それを信じればいいのか?」
焦凍は、黙って聞いていた。
「……俺は、今さら父さんに愛されたいと思ってる自分が、嫌なんだ」
燈矢の声が、低くなる。
「俺は、父さんを憎んできた。父さんのせいで、俺の人生はめちゃくちゃになったと思ってきた。それなのに、今さら父さんに愛されたいと思ってる」
彼は、苦笑した。
「……何なんだよ、俺は」
焦凍は、少し考えた。
「……兄さんは、兄さんなんだと思う」
燈矢は、弟を見た。
「……何だ、それ」
「父さんを憎んでいる兄さんも、父さんに愛されたかった兄さんも、どっちも兄さんだろ」
焦凍は、静かに続けた。
「父さんに会いたいと思うことと、父さんを許せないことは、両立するんじゃないか」
燈矢は、目を細めた。
「……また、それか」
「うん」
焦凍は頷いた。
「兄さんは、父さんに会いたい。自分の苦しみを知ってほしい。父さんが何を思っているのか、聞きたい。……でも、父さんを許せるかどうかは、別のことなんだと思う」
燈矢は、しばらく黙っていた。
「……お前は、父さんに会ったとき、何を話した?」
焦凍は、少し考えた。
「父さんが俺たちにしたことを、許せないと思っているって話した。それから、父さんが変わるかどうかは、父さんが決めることだって話した」
「……」
「俺が許すかどうかは、俺が決める。父さんが謝ったからって、俺が許さなきゃいけないわけじゃない。俺が許したとしても、父さんがしたことがなくなるわけじゃない」
燈矢は、弟の顔を見ていた。
焦凍は、続けた。
「……父さんが何を言うかは、俺には決められない。でも、俺が何を思うかは、俺が決められる」
燈矢は、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
その答えを聞いて、すぐに何かを決めたわけではなかった。
父親に会うと決めたわけでもない。
父親を許すと決めたわけでもない。
ただ、父親に会うことと、父親を許すことは、別々に考えていいのだと、少しだけ理解した。
会って話をすることは、父親を許すことではない。
父親の言葉を聞くことは、その言葉を受け入れることではない。
父親に自分の気持ちを伝えることは、父親に自分を救ってもらうことではない。
そして、父親に会いたいと願う自分を、憎む必要もないのかもしれなかった。
燈矢は、顔を伏せた。
「……俺は、まだ、父さんに愛されたかったんだな」
焦凍は、頷いた。
「……そうなんだと思う」
「……」
「それは、悪いことじゃないと思う」
燈矢は、苦笑した。
「……お前は、簡単にそう言うな」
「……簡単じゃない」
焦凍は、静かに答えた。
「俺も、まだ、いろいろ考えてる」
燈矢は、弟を見た。
「……お前も、父さんのことを、許せないままなのか?」
「……ああ」
「それでも、父さんと話すのか?」
「話すこともあると思う。話したくないときは、話さない」
焦凍は、少しだけ笑った。
「俺も、父さんとの距離を、自分で決めたいんだ」
燈矢は、黙っていた。
弟は、自分と同じ答えを持っていない。
父親を許すことを、目標にしているわけでもない。
父親との関係を、元に戻そうとしているわけでもない。
それでも、弟は、自分の人生を生きようとしている。
父親への怒りを抱えたまま。
父親に対する複雑な感情を抱えたまま。
そのすべてを、無理に一つの答えにまとめずに。
燈矢は、その姿を見つめた。
自分は、弟の生き方を、羨ましいと思った。
同時に、苦しいとも思った。
もし、自分も、そんなふうに生きられたなら。
父親に愛されなかったと感じたことを、自分の価値のすべてにしなくてもよかったなら。
自分は、別の人生を歩めたのだろうか。
その問いに、答えはない。
過去は変わらない。
自分が何をしたのかも、変わらない。
それでも、弟が、自分と違う答えを選んで生きていることは、確かだった。
10 望んでいたものを、憎しみで壊した
燈矢は、夕方、もう一度、自分の記憶をたどった。
父親の背中。
最初の炎。
弟が生まれた日。
自分の身体が、思うように強さに耐えられなくなっていったこと。
父親の視線が、自分から離れていくように感じたこと。
弟への羨望。
父親への憎しみ。
自分自身への失望。
そのすべてを、ゆっくりと思い返した。
そして、ようやく、一つのことに気づいた。
自分は、父親に愛されたかった。
けれど、その願いを、誰かに伝えることができなかった。
父親に愛されたい。
認めてほしい。
振り向いてほしい。
自分の存在を喜んでほしい。
そう願うことは、恥ずかしいことではないはずだった。
幼い子どもなら、誰でも、親にそう思ってほしいと願うことがある。
それなのに、燈矢は、自分が何かを成し遂げなければ、その願いを口にする資格がないと思うようになった。
強くなれば、愛される。
父親を超えれば、認めてもらえる。
自分が特別な存在になれば、父親は自分を見てくれる。
それが叶わないなら、自分には愛される価値がない。
そう考えるようになった。
そして、愛されたいという願いを、自分自身が認められなくなった。
父親に愛されたい。
そんな自分は、弱いのではないか。
認めてほしいと願う自分は、情けないのではないか。
父親に振り向いてほしいと願い続ける自分は、惨めなのではないか。
そう思うほどに、燈矢は、愛されたい自分を憎むようになった。
その気持ちを隠すために、怒りを強くした。
父親が悪い。
弟が憎い。
世界が、自分を認めない。
そう言い続ければ、自分が愛されたいと願っていることを、正面から見なくて済んだ。
自分は、愛されなかったから苦しんでいる。
自分は、認められなかったから怒っている。
自分は、父親に振り向いてほしかったから、ここまで来てしまった。
その事実を認めることは、燈矢にとって、自分の人生の根幹を揺るがすことだった。
もし、父親に認められることが、自分の価値を決めるものではなかったのなら。
もし、愛されたかったという願いが、弱さでも、恥でもなかったのなら。
もし、自分が、父親を憎み続けなくても、傷ついた事実を認められるのなら。
自分は、何を理由に、ここまで憎しみを抱え続けてきたのだろう。
燈矢は、長いこと、目を閉じていた。
そして、ようやく気づいた。
自分は、父親を憎みたかったわけではなかった。
父親に、愛してほしかった。
その願いを、叶えてほしかった。
それが叶わなかったから、憎んだ。
憎むことでしか、その願いがあったことを、守れなかった。
しかし、憎しみは、その願いを叶えなかった。
父親を憎んでも、父親の愛情は戻ってこない。
弟を憎んでも、弟が自分の失ったものを返してくれるわけではない。
世界を憎んでも、幼い自分が求めたものは手に入らない。
そして、自分自身を罰しても、過去をやり直せるわけではない。
燈矢は、顔を伏せた。
「……俺は、何をやってたんだろうな」
その問いは、自分を責めるためのものではなかった。
少なくとも、これまでのように、自分の人生を否定するためだけの問いではなかった。
自分が何を望んでいたのか。
その願いが、どうして憎しみに変わっていったのか。
その過程を、初めて、自分自身の目で見ようとしていた。
父親が悪かった。
それは、本当だ。
自分は傷ついていた。
それも、本当だ。
だが、自分が他者を傷つけたことも、本当だった。
その事実を認めることは、自分が苦しんでいたことを否定することではない。
自分が苦しんでいたと認めることは、自分がしたことを正当化することでもない。
燈矢は、その二つの間に立っていた。
どちらか一方を選ぶことは、もうできなかった。
そして、どちらか一方だけを選ぶ必要もないのだと、少しずつ理解し始めていた。
「……俺は、父さんに愛されたかった」
燈矢は、もう一度、その言葉を口にした。
「……それだけだったんだ」
けれど、その言葉の後に、別の言葉が続いた。
「……でも、それだけじゃなくなっちまった」
自分の願いは、憎しみに変わった。
憎しみは、行動に変わった。
行動は、誰かの人生を傷つけた。
そのすべてに、自分の責任がある。
燈矢は、目を閉じた。
自分が何を望んでいたかを知ったからといって、今すぐ何かを変えられるわけではない。
父親に会ったところで、何かが解決するとは限らない。
弟と話を続けても、自分が許されるとは限らない。
母親の愛情を受け取っても、心が満たされるとは限らない。
それでも、これから先、自分が何を望むかまで、憎しみに決めさせなくてもいいのかもしれなかった。
その考えは、まだ、遠い。
燈矢には、怒りがある。
傷ついた記憶がある。
許せないことが、いくつもある。
それを、今日一日で整理することはできない。
ただ、自分の願いを、憎しみの中に埋めたままにしない。
そのことだけは、少しずつ始められる気がした。
燈矢は、窓の外を見た。
夕暮れの光が、庭を染めている。
自分が知らない時間を、家族は生きてきた。
自分が知らなかった気持ちを、家族は抱えてきた。
そして、自分もまた、家族に知られないまま、長い時間を生きてきた。
これから、互いに何を知ることになるのか。
どんな話をすることになるのか。
まだ、何も分からない。
燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。
――俺は、何を望んでいたのか。
その答えは、以前よりも少しだけ、はっきりしていた。
――俺は、愛されたかった。
――俺は、認められたかった。
――俺は、父さんに振り向いてほしかった。
そして。
――俺は、その願いが叶わなかったことを、憎しみでしか受け止められなかった。
燈矢は、その事実を、初めて逃げずに見つめた。
それは、自分を許すことではなかった。
過去を肯定することでもなかった。
ただ、自分の過去を、これまでとは違う角度から見つめ直すことだった。
憎しみの中に隠れていた願いを、見失わないために。
自分が傷ついていたことと、自分が誰かを傷つけたことを、両方とも忘れないために。
そして、自分のこれからを、過去の憎しみだけに決めさせないために。
燈矢は、ゆっくりと目を閉じた。
その夜、彼は、父親を許さなかった。
自分自身を許したわけでもなかった。
ただ、自分が何を望んでいたのかを、少しだけ知った。
そして、その願いを知ったからこそ、次に向き合わなければならない問いが生まれた。
もし、自分が、憎しみだけで生きていくことをやめたら。
もし、自分が、父親の人生を中心に置くことをやめたら。
もし、自分が、弟のように、別の生き方を選ぼうとしたら。
それは、自分を裏切ることなのだろうか。
これまで苦しんできた自分を、見捨てることなのだろうか。
父親に傷つけられた事実を、なかったことにすることなのだろうか。
燈矢には、まだ答えがなかった。
けれど、その問いは、もう父親だけに向けられたものではなかった。
それは、自分自身の未来へ向けられた問いだった。
11 焦凍が聞いた願い
翌日の夕方、焦凍は燈矢の部屋を訪れた。
扉を叩くと、燈矢が「入れ」と答えた。
焦凍は部屋に入り、いつものように少し離れた椅子に座った。
燈矢は、窓辺に立っていた。
「……兄さん」
「何だ?」
「昨日、何か考えてたのか?」
燈矢は、振り返った。
「……何で分かる?」
「何となく」
「適当だな」
「……そうだな」
燈矢は、苦笑した。
そして、窓から視線を戻した。
「……俺は、父さんに愛されたかったんだ」
焦凍は、頷いた。
「……うん」
「そのために、強くなろうとした。父さんを超えようとした。……でも、途中から、父さんに愛されるために強くなるんじゃなくて、強くなれなきゃ愛されないって思うようになった」
焦凍は、黙って聞いていた。
燈矢は、続けた。
「俺は、父さんに認められることだけが、自分の価値だと思ってた。だから、父さんが俺を見なくなったとき、自分には何も残ってないように思えた」
彼は、自分の手を見た。
「……それで、父さんを憎んだ。弟を憎んだ。世界を憎んだ」
燈矢は、苦笑した。
「……俺は、何をやってたんだろうな」
焦凍は、静かに答えた。
「……兄さんは、苦しかったんだと思う」
燈矢は顔を上げた。
「……」
「兄さんは、ずっと、愛されたかったんだと思う。でも、その願いを、うまく言葉にできなかった。どうすれば父さんが振り向いてくれるのか、そればかり考えていた」
焦凍は、少しだけ目を伏せた。
「……俺は、兄さんが何を望んでいたのか、知らなかった」
燈矢は、黙っていた。
「俺は、兄さんが父さんに認められたかったことしか、知らなかった。……いや、それすら、ちゃんとは分かっていなかったんだと思う」
焦凍は、顔を上げた。
「兄さんが、本当は何を望んでいたのか。今、少しだけ分かった気がする」
燈矢は、弟を見つめた。
「……分かったって、何だよ」
「兄さんは、父さんに勝ちたかっただけじゃない。父さんに、愛されたかったんだ」
燈矢は、顔を伏せた。
「……ああ」
焦凍は続けた。
「その願いが、憎しみに変わったんだな」
燈矢は、何も言わなかった。
焦凍は、言葉を選びながら続けた。
「兄さんが、そうなってしまったことを、俺は、簡単に責めたくない。兄さんが苦しんでいたことも、父さんが何をしたのかも、ちゃんと考えたい」
燈矢は、弟を見た。
「……でも、兄さんがしたことまで、許すとは言えない」
焦凍は、はっきりと言った。
「兄さんが、誰かを傷つけたことは、兄さん自身が責任を取らなければならないことだと思う」
燈矢は、目を伏せた。
「……ああ」
「それでも、俺は、兄さんのことを知りたい」
焦凍は、静かに言った。
「兄さんが何を望んでいたのか。何を失ったと思っていたのか。どうして、憎しみを手放せなくなったのか。そのことを、もっと知りたい」
燈矢は、しばらく何も言わなかった。
そして、ぽつりと尋ねた。
「……お前は、俺がどうなればいいと思ってる?」
焦凍は、考えた。
以前なら、兄に幸せになってほしい、と答えたかもしれない。
苦しみから解放されてほしい。
父親への怒りを手放してほしい。
自分自身を許せるようになってほしい。
だが、それらは、焦凍が望む未来だった。
燈矢自身が、何を望んでいるのかとは、別のことだ。
焦凍は、慎重に答えた。
「……兄さんが、自分で決められるようになってほしい」
燈矢は顔を上げた。
「……何を?」
「これから、どう生きるか」
焦凍は、静かに続けた。
「父さんに愛されたかったことを、無理に忘れなくていい。父さんを許せないと思うことも、すぐに変えなくていい。自分が苦しんでいたことまで、否定しなくていい」
燈矢は、黙って聞いていた。
「でも、兄さんのこれからが、父さんへの憎しみだけで決まることは、望んでない」
焦凍は、兄の目を見た。
「兄さんが、父さんを憎むことしかできない人生を、これからも生きなければならないとは思わない」
燈矢は、しばらく弟を見ていた。
「……お前は、俺に、父さんを忘れろって言ってるのか?」
「違う」
焦凍は、首を横に振った。
「父さんのことを忘れろとも、許せとも言ってない。ただ、父さんへの憎しみ以外のものを、望んでもいいんじゃないかと思ってる」
燈矢は、顔を伏せた。
「……そんなもの、どこにあるんだよ」
焦凍は、正直に答えた。
「……分からない」
燈矢は、思わず笑った。
「……本当に、お前はそればっかりだな」
「……うん」
焦凍も、少しだけ笑った。
「俺も、まだ探してるところだから」
燈矢は、弟を見た。
焦凍は、父親に人生を決められることを拒み、自分自身の意思で生きようとしてきた。
その道が、最初から見えていたわけではない。
父親を憎むことしか考えられなかった時期もあった。
自分の炎を使わないことだけが、自由への道だと思っていた時期もあった。
それでも、焦凍は、少しずつ、自分の人生を選び直してきた。
燈矢は、その姿を見て、羨ましさを感じた。
同時に、怒りも湧いた。
なぜ、自分にはできなかったのか。
なぜ、弟は、自分とは違う道を歩けたのか。
なぜ、自分は、憎しみを手放せなかったのか。
その問いは、まだ消えていない。
だが、焦凍が自分と違う道を歩いていることが、必ずしも、自分を否定することにはならないのかもしれない。
弟の生き方が、自分の人生を間違いだったと証明するわけではない。
弟が、憎しみ以外のものを選べるようになったとしても、自分が苦しんでいたことが嘘になるわけではない。
燈矢は、まだ、そのことを十分に信じられなかった。
それでも、少しだけ考えてみようと思った。
自分にも、別の生き方があるのだろうか。
父親への憎しみを抱えたままでも、父親以外のものを望むことができるのだろうか。
自分の罪を認めたままでも、自分の人生を生きることができるのだろうか。
燈矢は、焦凍を見た。
「……お前は、俺のことを、兄貴だと思ってるのか?」
焦凍は、少しだけ目を見開いた。
そして、頷いた。
「……ああ」
「俺が、何をしたのか知っていても?」
「……ああ」
燈矢は、苦しそうに笑った。
「……お前は、変な奴だな」
「……そうかもしれない」
「俺は、お前を憎んでたんだぞ」
「……知ってる」
「お前が羨ましかった。お前が憎かった。お前が生まれなければ、って……何度も思った」
焦凍は、黙って聞いていた。
燈矢は、顔を伏せた。
「……それでも、お前は、俺を兄貴だと思ってるのか?」
焦凍は、はっきり答えた。
「そうだ」
燈矢の目が揺れた。
「……俺が、また間違えるかもしれないぞ」
「……そのときは、止める」
「俺が、お前を傷つけるかもしれない」
「……そのときは、俺も自分を守る」
燈矢は、しばらく弟を見つめていた。
焦凍は続けた。
「でも、兄さんが俺の兄さんだということまで、なくなるわけじゃない」
燈矢は、唇を噛んだ。
弟は、自分と違う道を選んでいた。
父親への怒りを持ちながらも、その怒りだけを自分の人生のすべてにしないと決めていた。
兄を大切に思いながらも、兄の罪を代わりに背負わないと決めていた。
その選択は、燈矢にとって、まだ理解しきれないものだった。
それでも、焦凍が自分を否定するために、その選択をしているわけではないことは、少しずつ分かり始めていた。
焦凍は、兄を憎まないために、自分の気持ちを押し殺しているのではない。
兄を救うために、自分の人生を諦めているのでもない。
兄を大切に思いながら、自分自身の人生を選ぼうとしている。
それは、燈矢がこれまで知らなかった生き方だった。
そして、それは、燈矢自身がこれから選ぶかもしれない生き方でもあった。
12 憎しみを知らないふりはしない
夜、焦凍は自分の部屋で一人、窓の外を見ていた。
兄が、何を望んでいたのか。
その願いが、どのように憎しみへ変わっていったのか。
今日、少しだけ知ることができた。
燈矢は、父親に愛されたかった。
父親を超えたかった。
その願いが叶わなかったことで、自分の価値まで失われたと感じた。
そして、憎しみを、自分の存在を確かめるためのものにしてしまった。
その苦しみは、本物だった。
焦凍は、兄の苦しみを、なかったことにしたくなかった。
兄が、何を失ったと感じていたのか。
何を求めていたのか。
どれほど長く、父親の視線を追い続けてきたのか。
そのすべてを、知りたいと思った。
だが、焦凍は、自分自身のことも考えていた。
兄が、父親への憎しみを手放せなかったように。
自分もまた、父親への怒りを抱えている。
父親が、自分をどう扱ったか。
自分の人生を、どう決めようとしたか。
母親を、家族を、どれほど傷つけたか。
そのことを、忘れたわけではない。
父親が変わろうとしているからといって、過去の行いが消えるわけではない。
父親が謝罪したからといって、許さなければならないわけでもない。
焦凍は、父親を許せないと思う気持ちを、無理に消すつもりはなかった。
けれど、その怒りだけで、自分の未来を決めたくもなかった。
父親の夢を拒むことだけが、自分の人生になってしまえば。
父親を憎むことだけが、自分の生きる理由になってしまえば。
それは、自分の人生を、父親に決められ続けることと、どこが違うのだろう。
焦凍は、自分の手を見た。
かつて、左手の炎を使わないと決めた。
それは、自分の意思を守るための選択だった。
けれど、やがて、自分は、その炎を自分のために使うと決めた。
父親が与えた力だからといって、父親のために使わなければならないわけではない。
父親が望んだ力だからといって、自分が拒み続けなければならないわけでもない。
その力を、どう使うかは、自分が決めることだった。
同じように、父親への怒りも、自分のものだった。
怒りを抱くことは、悪いことではない。
傷ついたことを忘れないために、怒りが必要なときもある。
自分が何をされたのかを、なかったことにしないために、怒りを手放したくないこともある。
けれど、その怒りを、これからの人生のすべてにしなくてもいい。
父親を許せないままでも、自分の人生を選ぶことはできる。
家族を大切に思いながらも、家族の期待をすべて受け入れる必要はない。
兄を救いたいと思いながらも、兄と同じ怒りを抱えて生きる必要はない。
焦凍は、ゆっくりと息を吐いた。
兄が、自分とは違う生き方を選べるようになってほしい。
そう願うのは、兄を見捨てたいからではない。
兄の苦しみを理解したくないからでもない。
むしろ、兄が父親への憎しみだけで生きることを、もう続けなくていいようになってほしいのだ。
その願いを、兄に押しつけるつもりはなかった。
燈矢は、燈矢自身の人生を選ぶ。
焦凍は、焦凍自身の人生を選ぶ。
二人が同じ答えを出す必要はない。
だが、兄がどのような答えを選んでも、焦凍自身の選択を手放す必要もない。
焦凍は、目を閉じた。
――俺は、兄さんの怒りを否定しない。
――でも、同じ怒りを、自分の未来にはしない。
その決意が、静かに胸の中に生まれた。
13 別の生き方
翌朝、焦凍は燈矢を訪ねた。
兄は、窓辺に座っていた。
「……兄さん」
「何だ?」
「少し、話したいことがある」
燈矢は、弟を見た。
「……何だよ」
焦凍は、椅子に座った。
「俺は、父さんを許していない」
燈矢は、少しだけ目を細めた。
「……ああ」
「これから先、許せるようになるかどうかも、分からない」
「……」
「でも、俺は、父さんを憎むことだけで、自分の人生を決めたくない」
燈矢の顔が、わずかに強張った。
焦凍は続けた。
「父さんがしたことを、忘れるつもりはない。父さんが、俺たちにしたことを、なかったことにするつもりもない」
「……」
「それでも、俺は、俺自身の人生を生きたいと思ってる」
焦凍は、自分の手を見た。
「父さんの望みを拒むことだけが、俺の望みになってしまったら、俺は、いつまでも父さんに人生を決められることになる」
燈矢は、黙って聞いていた。
「だから、俺は、自分が何を望むのかを考えたい。何をしたいのか、どう生きたいのか。父さんがどう思うかとは関係なく、自分で決めたいんだ」
焦凍は、兄を見た。
「……兄さんも、そうできたらいいと思ってる」
燈矢は、何も言わなかった。
焦凍は、慎重に続けた。
「兄さんが、父さんを憎んでいることを、俺は否定しない。兄さんが苦しんでいたことも、父さんがしたことも、なかったことにはしない」
「……」
「でも、俺は、兄さんが父さんを憎むことだけで、これからの人生を決めてほしくないと思ってる」
燈矢の顔が、少しずつ硬くなっていった。
「……つまり、俺に、怒るのをやめろってことか?」
「違う」
焦凍は即座に答えた。
「怒りをやめろとは言ってない。父さんを許せとも言ってない」
「なら、何だよ」
「兄さんが、別のものを望んでもいいんじゃないかって話だ」
燈矢は、視線を逸らした。
「……簡単に言うなよ」
「簡単だとは思ってない」
焦凍は、静かに言った。
「兄さんは、長いあいだ、父さんに認められることを望んできた。父さんに愛されたかった。……それが叶わなかったから、父さんを憎むようになった」
燈矢は、黙っていた。
「でも、兄さんが本当に望んでいたものは、父さんへの憎しみだけじゃなかったはずだ」
焦凍は、ゆっくりと続けた。
「兄さんは、炎を使うことが好きだった。強くなりたかった。父さんを超えたかった。……それから、父さんに愛されたかった」
燈矢の目が揺れた。
「……俺は、兄さんが、その願いを、憎しみの中に埋めたままにしてほしくない」
焦凍は、兄をまっすぐ見つめた。
「兄さんが父さんを憎むのは、兄さんの気持ちだ。でも、兄さんがこれから何を望むのかは、父さんへの憎しみだけで決めなくてもいいんじゃないか」
燈矢は、長いこと黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……お前は、俺のことを、父さんから自由にしたいんだな」
焦凍は、少し考えた。
「……そうかもしれない」
燈矢は、苦笑した。
「俺が、父さんに囚われてるって言いたいのか?」
「……今も、父さんのことを考えてる時間が、すごく多いんだと思う」
焦凍は、正直に答えた。
「俺も、そうだったから」
燈矢は、顔を上げた。
「……」
「父さんに何をされたか。父さんが何を望んでいるか。父さんをどうやって拒むか。……そればかり考えていた時期があった」
焦凍は、続けた。
「でも、そうやっていると、結局、自分が何を望んでいるのか分からなくなるんだ」
燈矢は、視線を落とした。
焦凍は、言葉を重ねた。
「兄さんは、父さんに認められたかった。父さんに愛されたかった。……その願いは、間違っていないと思う」
燈矢は、黙っていた。
「でも、父さんがそれを与えてくれなかったからって、兄さんがこれからも父さんのために生き続けなきゃいけないわけじゃない」
焦凍は、はっきりと言った。
「父さんを憎み続けるために生きなくてもいいんだ」
その言葉が、部屋に落ちた。
燈矢の表情が変わった。
怒りが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
「……何だよ、それ」
焦凍は、黙っていた。
燈矢が立ち上がった。
「……俺は、父さんに人生を壊されたんだぞ」
「……ああ」
「俺が、どれだけ苦しんだか分かってるのか?」
「……全部は分からない」
「だったら、簡単に言うなよ!」
燈矢の声が、部屋に響いた。
焦凍は、動かなかった。
燈矢は、拳を握りしめた。
「俺は、父さんに認められるために生きてきた! 父さんが、俺を見てくれるって信じて、ずっと頑張ってきた! それが叶わなかったから、俺は……!」
彼は、言葉を詰まらせた。
「……俺は、何を信じればよかったんだよ!」
焦凍は、兄を見つめた。
「……分からない」
燈矢が睨む。
焦凍は続けた。
「俺には、兄さんが何を信じればよかったのか、決められない」
「……」
「でも、兄さんが、これから何を信じるかまで、父さんに決められる必要はないと思う」
燈矢は、言葉を失った。
焦凍は、ゆっくり立ち上がった。
「俺は、父さんを許していない。でも、父さんを憎むことだけで、これからの人生を決めるつもりはない」
焦凍は、兄を見た。
「それは、父さんを許すってことじゃない。父さんがしたことを、なかったことにするってことでもない」
彼は、一度息を吸った。
「俺が、自分の人生を、父さんへの怒りだけに渡さないってことだ」
燈矢は、焦凍を見つめていた。
その言葉は、燈矢には、簡単に受け入れられなかった。
父親に人生を壊された。
父親に愛されなかった。
父親が、自分の願いを踏みにじった。
その怒りを手放さないことが、自分を守ることだった。
怒りを持ち続けることで、自分が傷ついた事実を、なかったことにされずに済むと思っていた。
なのに、弟は、その怒りを抱えながら、別の生き方を選ぼうとしている。
それは、燈矢にとって、眩しいものだった。
そして、恐ろしいものだった。
もし、焦凍が正しいのなら。
もし、父親への怒り以外にも、自分の人生を支えるものがあるのなら。
自分は、何をしてきたのだろう。
何のために、ここまで憎み続けてきたのだろう。
燈矢は、弟を見つめた。
「……お前は、俺のことを、裏切るつもりか?」
焦凍は、息を呑んだ。
「……何?」
燈矢の声は、震えていた。
「俺と同じ怒りを持たないっていうのか?」
焦凍は、すぐには答えられなかった。
燈矢は続けた。
「父さんを許さないって言いながら、父さんへの憎しみだけで生きるつもりはないって……お前は、俺とは違う道を行くってことか?」
焦凍は、兄の目を見た。
「……ああ」
燈矢の表情が、凍りついた。
「……そうかよ」
それだけ言って、彼は窓の外へ視線を逸らした。
焦凍は、何も言えなかった。
自分の選択が、兄を傷つけたのかもしれない。
自分が、兄とは違う道を選ぶことが、兄にとって、裏切りのように感じられるのかもしれない。
それでも、焦凍は、自分の選択を撤回しなかった。
兄を大切に思うことと、兄と同じ怒りを持ち続けることは、違う。
兄の苦しみを理解することと、兄の生き方をそのまま受け継ぐことも、違う。
焦凍は、その違いを、もう曖昧にしたくなかった。
「……兄さん」
燈矢は答えなかった。
焦凍は、静かに続けた。
「俺は、兄さんを裏切りたいわけじゃない」
燈矢の肩が、わずかに動いた。
「俺は、兄さんの苦しみを否定したくない。兄さんが、父さんに愛されたかったことも、認めてほしかったことも、なかったことにはしたくない」
焦凍は、一歩だけ近づいた。
「でも、俺が、兄さんと同じ怒りを持ち続けることが、兄さんを大切にすることだとは思わない」
燈矢は、顔を伏せた。
焦凍は続けた。
「俺は、兄さんの怒りを否定しない。でも、その怒りを、俺の未来にはしない」
その言葉を口にした瞬間、焦凍は、自分が何を選んだのかを、はっきりと理解した。
兄の苦しみを、認める。
兄の願いを、聞く。
兄が傷ついていたことを、忘れない。
しかし、兄の憎しみを、自分の人生の答えにはしない。
兄を救いたいからといって、兄と同じ場所に沈む必要はない。
兄を大切に思うからといって、兄と同じ怒りを抱えなければならないわけではない。
それが、焦凍の選択だった。
燈矢は、何も言わなかった。
その沈黙が何を意味するのか、焦凍には分からない。
怒っているのか。
傷ついたのか。
それとも、考えているのか。
焦凍は、兄の気持ちを勝手に決めなかった。
ただ、自分の選択を伝えた。
「……俺は、兄さんとは違う道を選ぶ」
焦凍は、静かに言った。
「でも、それは、兄さんを見捨てるってことじゃない」
燈矢は、窓の外を見つめたままだった。
焦凍は、続けた。
「俺は、兄さんを大切に思ってる。だからこそ、兄さんと同じ怒りを持たなければならないとは思わない」
燈矢の手が震えた。
焦凍は、その姿を見ながら、何も言わなかった。
兄が、その言葉をどう受け取るのか。
それは、兄が決めることだった。
14 憤怒の継承
焦凍が部屋を出たあと、燈矢は一人で窓辺に立っていた。
弟の言葉が、頭の中で繰り返されている。
――俺は、兄さんの怒りを否定しない。
――でも、その怒りを、俺の未来にはしない。
燈矢は、苦笑した。
「……勝手なこと言いやがって」
声には、怒りがあった。
弟は、自分とは違う道を選ぶ。
父親を許さないまま、父親への憎しみだけで人生を決めないと。
自分の怒りを抱えながらも、その怒り以外のものを望むのだと。
それは、燈矢にとって、受け入れがたいことだった。
自分は、長いあいだ、怒りを抱えて生きてきた。
父親が自分を見なかったこと。
自分が欲しかったものを、与えてくれなかったこと。
弟が、自分の代わりのように扱われたこと。
自分が失ったものを、誰も理解してくれなかったと感じたこと。
そのすべてが、怒りになった。
そして、その怒りが、自分の存在を支えていた。
怒っている限り、自分は、まだ傷ついたことを覚えていられる。
憎んでいる限り、自分は、まだ自分の願いを捨てずにいられる。
父親を許さない限り、自分がされたことを、なかったことにされずに済む。
そう信じていた。
焦凍が、自分と同じ怒りを持ち続けないということは。
焦凍が、自分の生き方をそのまま受け継がないということは。
燈矢にとって、何を意味するのだろう。
弟は、自分の苦しみを否定したのか。
自分がどれほど傷ついたのかを、分かっていないのか。
自分がこれまで抱えてきた怒りを、間違いだったと言いたいのか。
燈矢は、何度も、その問いを繰り返した。
怒りが、再び胸の奥で燃え上がる。
「……分かってねえくせに」
呟く。
「……何も、分かってねえくせに」
だが、その言葉を口にしたあと、燈矢は気づいた。
焦凍は、分かっていると言っていなかった。
兄の苦しみをすべて理解したとも言っていなかった。
ただ、理解しようとしていると伝えていた。
自分の怒りを否定しないと告げていた。
それでも、同じ怒りを自分の未来にはしないと決めていた。
それは、燈矢の苦しみを軽く扱うことではなかった。
弟は、兄の苦しみを認めたうえで、自分自身の生き方を選ぼうとしていた。
それなのに、燈矢は、その選択を裏切りだと感じた。
なぜだろう。
焦凍が自分と同じ怒りを持ち続けなければ、自分の苦しみが否定されるように感じる。
焦凍が別の生き方を選べば、自分が選んできた生き方まで、間違いだったことになるように思える。
燈矢は、拳を握りしめた。
自分は、弟に何を望んでいたのだろう。
自分の苦しみを理解してほしかった。
自分の怒りを分かってほしかった。
自分が、父親に愛されたかったことを知ってほしかった。
そして、もし自分が許されないのなら。
もし自分が、憎しみを手放せないのなら。
せめて、弟だけは、自分と同じ場所に立っていてほしい。
自分だけが、苦しみを抱えているわけではないと、感じたかったのかもしれない。
自分が選んできた道が、誰にも理解されないものではないと、信じたかったのかもしれない。
焦凍が同じ怒りを持っていれば、自分は一人ではない。
焦凍も父親を憎んでいる。
焦凍も、父親の行いを許していない。
ならば、自分の怒りは間違っていない。
自分が、ここまで憎しみを抱えてきたことにも、意味がある。
そう思える気がした。
だが、弟は違う道を選ぼうとしている。
自分の怒りを、否定しないまま。
それでも、その怒りだけを未来にしないと。
燈矢は、目を閉じた。
弟が自分とは違う道を歩くことは、自分が傷ついていた事実を否定するものではない。
弟が、自分の人生を選び直したからといって、自分が過去に苦しんだことが嘘になるわけでもない。
弟が、怒り以外のものを望んだからといって、自分が怒りを抱えてきたことを、すべて間違いだったと決める必要もない。
焦凍の選択は、焦凍自身のものだった。
その選択が、自分への裏切りなのか。
それとも、自分とは別の生き方なのか。
その答えを決めるのは、燈矢だった。
そして、自分がどう受け止めるかを決めることも、また、自分自身の選択だった。
燈矢は、窓の外を見た。
焦凍は、父親への怒りを抱えたまま生きていく。
けれど、怒りだけで生きることはしない。
自分が、父親を憎み続けてきたように。
自分が、父親の視線だけを求めてきたように。
弟は、その道を歩くことを拒んだ。
それは、燈矢にとって、裏切りのようにも見えた。
だが、もう一つの見方もあった。
焦凍は、自分と同じ苦しみを知っている。
だからこそ、自分と同じ未来を選ばないのかもしれない。
自分が苦しんできたことを否定するためではなく。
自分が苦しんできたからこそ。
弟は、別の道を選ぼうとしているのかもしれない。
燈矢は、長いこと、何もせずにいた。
怒りは消えていない。
父親への憎しみも、残っている。
弟への羨ましさも、なくなっていない。
それでも、焦凍の選択を、すぐに裏切りだと決めつけることはできなかった。
弟は、自分を救いたいと言った。
そして、自分の怒りを否定しないと伝えた。
そのうえで、自分とは違う未来を選んだ。
それが、自分にとって何を意味するのか。
燈矢は、まだ、答えを出せなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
焦凍は、もう、自分の人生を、自分以外の誰かに決めさせないと決めている。
それは、父親に対してだけではない。
兄に対しても、同じだった。
燈矢が何を望むか。
燈矢がどう生きるか。
燈矢が、怒りを抱え続けるのか。
それとも、別の未来を選ぶのか。
それを決めるのは、燈矢自身だった。
弟は、兄に答えを与えなかった。
ただ、自分自身の答えを示した。
――俺は、兄さんの怒りを否定しない。
――でも、同じ怒りを、自分の未来にはしない。
燈矢は、その言葉を、何度も思い返した。
そして、心の中で、初めて、別の問いを口にした。
――俺は、どうしたい。
父親を憎み続けたいのか。
自分が苦しんだことを、誰かに認めてほしいのか。
それとも、父親以外の何かを、望んでもいいのだろうか。
その問いに、まだ答えはなかった。
しかし、その問いは、これまでとは違っていた。
父親に、どうしてほしいのかを問うのではない。
弟に、どうしてほしいのかを問うのでもない。
自分が、自分に問いかけていた。
自分は、何を望むのか。
自分は、どう生きたいのか。
その答えを、誰かに決めてもらうのではなく、自分で探そうとしていた。
燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。
「……焦凍」
誰もいない部屋で、弟の名を呟く。
自分とは違う道を選ぶ弟。
自分の怒りを、否定しない弟。
それでも、その怒りを、自分の未来にはしないと決めた弟。
その選択を、燈矢は、まだ認められない。
だが、認められないことと、否定することは、同じではないのかもしれなかった。
燈矢は、窓から視線を離した。
そして、椅子に腰を下ろした。
父親への怒りは、まだ、消えない。
自分自身への怒りも、残っている。
けれど、これから先の人生まで、同じ怒りだけで決めなければならないわけではない。
そのことを、弟は、自分の生き方で示していた。
燈矢は、その選択を、まだ受け入れられなかった。
それでも、その選択を、見なかったことにはできなかった。
憎しみの向こう側に、何があるのか。
それを考えることが、自分の過去を否定することではないのなら。
自分にも、別の道があるのかもしれない。
そう思うことさえ、今は、まだ怖かった。
それでも、燈矢は、その可能性を、初めて完全には拒まなかった。
15 選ばれなかった炎
夜、エンデヴァーは、燈矢の部屋の前で立ち止まった。
扉を叩くことはしなかった。
息子が今、どんな気持ちでいるのかは分からない。
自分に会いたいと思っているのか。
自分を憎み続けているのか。
自分の言葉を聞くことさえ嫌なのか。
その答えを、父親である自分が勝手に決めてはいけなかった。
エンデヴァーは、廊下の窓から庭を見た。
かつて、自分は燈矢の炎を見ていた。
その炎に、可能性を見た。
自分を超える存在になるかもしれない。
自分が届かなかった場所へ、息子なら行けるかもしれない。
そう期待した。
だが、その期待は、いつしか、息子自身の願いを見失うほどに大きくなっていった。
自分は、燈矢に何を求めていたのだろう。
父親を超えることか。
自分が達成できなかったことを、息子に成し遂げてもらうことか。
それとも、自分が誇れる息子を持つことによって、自分自身の人生を肯定したかったのか。
エンデヴァーは、目を閉じた。
自分は、燈矢の炎を見ていた。
だが、燈矢自身を、どれだけ見ていたのだろう。
息子が、炎を使うことを楽しんでいたこと。
自分を驚かせたいと思っていたこと。
自分に認められたいと願っていたこと。
その願いを、自分は、正しく受け止めていたのだろうか。
自分は、息子の才能を期待した。
息子が、その期待に応えることを望んだ。
だが、息子が何を望んでいたのか。
何を恐れていたのか。
何を苦しんでいたのか。
そのことを、どれだけ聞いたのだろう。
エンデヴァーは、扉を見た。
燈矢が、自分に会いたいと思っているなら、話をしたい。
だが、会いたくないと思っているなら、その意思も尊重しなければならない。
自分が会いたいからといって、息子に応えることを求めてはいけない。
父親だからといって、息子の気持ちを決めていいわけではない。
エンデヴァーは、静かに息を吐いた。
そして、その場を離れた。
扉の向こうには、燈矢がいた。
彼は、父親の足音を聞いていた。
扉を叩かなかったことに、少しだけ驚いていた。
以前の父親なら、話があると告げ、自分の都合で部屋へ入ってきたかもしれない。
自分の気持ちを聞く前に、何かを伝えようとしたかもしれない。
けれど、今は、足音が遠ざかっていった。
燈矢は、扉を見つめた。
「……何だよ」
呟く。
父親が、自分の意思を尊重しようとしている。
そのことを、少しだけ嬉しいと思った。
だが、同時に、腹が立った。
今さらだ。
今さら、そんなことをされても。
今さら、自分の意思を尊重すると言われても。
自分が子どもだったころに、それをしてほしかった。
自分が、父親の背中を追いかけていたころに。
自分が、炎を見せて、父親を喜ばせようとしていたころに。
自分が、何度も認めてほしいと願っていたころに。
父親が、自分の話を聞いてくれていたなら。
自分の願いを、正面から受け止めてくれていたなら。
自分の価値を、炎の強さだけで決めなかったなら。
そう考えると、燈矢の中に、再び怒りが湧き上がった。
その怒りは、間違っていなかった。
過去に、父親が何をしたのか。
自分が、何を失ったと感じてきたのか。
その事実を、今さらの変化で塗り潰すことはできない。
しかし、燈矢は、そこで一度、立ち止まった。
怒りがある。
父親を許せない。
それは本当だ。
だが、その怒りを、これから何に使うのか。
父親を憎み続けるためだけに使うのか。
それとも、自分が何を失い、何を望んでいたのかを、忘れないために使うのか。
燈矢は、まだ答えられなかった。
それでも、父親への怒りを、自分の未来のすべてにする必要はないのかもしれない。
その可能性だけは、少しずつ、見え始めていた。
16 炎は、願いを語らない
翌朝、燈矢は、庭で一人、自分の手を見ていた。
炎を使うことは、もう、自分のすべてではない。
それは、ずっと前に分かっていたはずだった。
けれど、彼にとって炎は、ただの能力ではなかった。
自分が何者であるかを証明するものだった。
父親に認められるためのものだった。
自分が、父親の夢を叶えられる存在であることを示すものだった。
そして、父親が自分を見なくなったあとも、その炎は、自分の中に残り続けた。
その力を使えば、まだ自分は、父親に関わることができる。
父親が望んだものを、歪んだ形で示すことができる。
父親が、自分を見ないでいられないようにすることができる。
その思いが、燈矢を、長いあいだ縛っていた。
けれど、炎は、何も語らない。
炎が強いからといって、愛されるとは限らない。
炎が弱いからといって、価値がなくなるわけでもない。
炎が、何を焼くのか。
何を照らすのか。
誰を守るために使われるのか。
その答えは、炎そのものにはなかった。
使う人間が、何を望むかによって変わる。
燈矢は、そのことを、今になって考えていた。
自分は、炎を使って、父親に認められたかった。
しかし、いつしか、炎を使って、父親を苦しめたいと思うようになった。
自分の炎を、父親に見せつけたい。
自分が何をしたのか、父親に思い知らせたい。
父親が自分を見てくれないなら、見ないではいられない存在になりたい。
その願いは、愛情を求める気持ちとは、違う形をしていた。
だが、その根は、同じ場所にあったのかもしれない。
――俺を見てほしい。
燈矢は、目を閉じた。
憎しみの下に、まだ、その願いが残っている。
父親に認められたかった。
愛されたかった。
自分の存在を、喜んでほしかった。
その願いは、今も消えていない。
それを認めることは、恥ずかしいことだった。
だが、恥ずかしいからといって、なかったことにはできない。
自分の願いを認めたからといって、過去が許されるわけでもない。
それでも、その願いを認めることは、自分が何を失ったと感じていたのかを、正しく知ることにつながるのかもしれなかった。
燈矢は、静かに息を吐いた。
炎は、願いを語らない。
炎は、ただ、燃える。
その炎を、何のために使うのか。
誰のために使うのか。
何を望んで、何を選ぶのか。
それを決めるのは、自分自身だった。
燈矢は、手を閉じた。
かつて、父親に認められるために強くなろうとした。
今は、自分が何を望んでいるのか、もう一度考えなければならない。
父親に認められたいという願いを、すぐに手放す必要はない。
父親を許せない気持ちを、無理に消す必要もない。
けれど、その願いと怒りを、これからの人生のすべてにする必要もない。
それを、焦凍は示していた。
自分と違う生き方を。
怒りを抱えながらも、その怒りだけで未来を決めない生き方を。
燈矢は、その選択を、まだ認めきれない。
だが、否定するためだけに、目を逸らすこともできなくなっていた。
17 願いを受け継ぐ者
その日の夕方、焦凍は燈矢の隣に座った。
二人は、少しの間、何も話さなかった。
やがて、燈矢が口を開いた。
「……お前は、父さんの炎を、自分のために使うって決めたんだよな」
「ああ」
焦凍は答えた。
「……父さんの夢を叶えるためじゃなくて、自分が何をしたいかで決めたんだよな」
「そうだ」
燈矢は、目を伏せた。
「……俺には、できなかった」
焦凍は、すぐに答えなかった。
燈矢は続けた。
「俺は、父さんに認められるために、炎を使ってた。父さんの望むものになろうとしてた。父さんが、俺を見てくれることだけを考えてた」
燈矢は、苦笑した。
「……お前は、そこから抜け出したんだな」
焦凍は、少し考えた。
「……まだ、完全に抜け出したとは思ってない」
燈矢は顔を上げた。
「……何だと?」
「俺だって、父さんのことを考えると、腹が立つ。父さんが何をしたのか、忘れられない。父さんに、自分の人生を決められたくないと思うこともある」
焦凍は、正直に続けた。
「だから、今でも、父さんの影響を受けている部分はあるんだと思う」
燈矢は、黙って聞いていた。
「でも、俺は、父さんがどう思うかだけで、何かを決めたくない」
焦凍は、兄を見た。
「父さんが望んでいるから、やる。父さんが嫌がるから、やらない。……そういう決め方を、少しずつやめたいんだ」
燈矢は、視線を落とした。
「……そうか」
焦凍は、続けた。
「兄さんが、父さんを憎んでいることは、否定しない。兄さんが、父さんに愛されたかったことも、否定しない」
燈矢は、何も言わなかった。
「でも、俺が、兄さんの怒りをそのまま受け継ぐことが、兄さんを大切にすることだとは思わない」
焦凍は、静かに言った。
「俺は、兄さんと同じ苦しみを経験したわけじゃない。兄さんが失ったものを、俺が全部理解できるわけでもない」
彼は、自分の手を見た。
「だからこそ、兄さんの怒りを、俺自身の答えにすることはできないんだと思う」
燈矢は、弟を見つめた。
「……それは、俺を裏切ることじゃねえって言いたいのか?」
焦凍は、少しだけ考えた。
「……俺は、そう思ってる」
「……」
「兄さんが、どう感じるかは、兄さんが決めることだ。でも、俺は、兄さんを裏切るつもりで、自分の人生を選んでいるわけじゃない」
焦凍は、はっきりと言った。
「俺は、兄さんを大切に思ってる。だからこそ、兄さんの苦しみを否定しない。でも、兄さんの苦しみを理由に、俺が自分の人生を諦めることもしない」
燈矢は、長いこと黙っていた。
その言葉は、燈矢がこれまで考えたことのないものだった。
自分の苦しみを、誰かが理解してくれる。
それは、嬉しいことだった。
だが、自分の苦しみを理解した人間が、必ず自分と同じ道を歩くとは限らない。
焦凍は、自分の怒りを持っている。
それでも、怒りだけで未来を決めないと選んだ。
燈矢にとって、それは、裏切りのようにも感じられた。
自分が、長いあいだ抱えてきた怒りを、弟は同じように抱え続けようとはしない。
自分が、憎しみを手放せなかったことを、弟は、別の形で受け止めようとしている。
その選択を見れば、自分が選べなかった道を、弟が歩いているように感じられる。
それは、羨ましいことだった。
同時に、苦しいことだった。
「……焦凍」
燈矢は、低い声で言った。
「俺が、お前に同じ怒りを持ってほしいと思ってたら、どうする?」
焦凍は、すぐには答えなかった。
それは、兄が、自分に何を求めているのかを確かめる問いだった。
「……俺は、兄さんがそう思っていることを、否定しない」
焦凍は言った。
「兄さんが、一人で怒りを抱えているのが苦しかったのかもしれない。誰かに、自分の気持ちを分かってほしかったのかもしれない」
燈矢の顔が、少しだけ動いた。
「でも、俺は、兄さんと同じ怒りを持つことを、約束できない」
焦凍は、兄の目を見た。
「俺は、兄さんを大切に思っている。それでも、俺が何を望むかは、俺が決めたい」
燈矢は、目を閉じた。
その答えは、厳しかった。
自分が求めていたものではなかった。
自分と同じ場所に立ってほしい。
自分の怒りを分かってほしい。
自分が、これまで歩いてきた道を、間違いではなかったと認めてほしい。
そう願っていた。
だが、焦凍は、自分の道を歩くと決めている。
その道は、燈矢の歩いてきた道とは違う。
それでも、弟は、自分の苦しみを否定していない。
自分の願いを、なかったことにしていない。
ただ、同じ怒りを受け継がないと決めたのだ。
燈矢は、ゆっくりと目を開いた。
「……お前は、本当に、俺とは違う道を行くんだな」
焦凍は、頷いた。
「……ああ」
燈矢は、長いこと弟を見つめた。
そして、ぽつりと言った。
「……俺は、まだ、その選択を認められねえ」
焦凍は、静かに頷いた。
「……うん」
「お前が、俺と同じ怒りを持たないことが、どうしても、俺を置いていくように感じる」
焦凍は、言葉を挟まなかった。
「俺は、ずっと一人で怒ってきた。誰も、俺の気持ちなんか分かってくれないと思ってた。……だから、お前が俺と違う道を選ぶと、俺は、また一人になるような気がするんだ」
燈矢の声は、かすれていた。
「俺が、苦しかったことを、誰も一緒に背負ってくれないような気がする」
焦凍は、兄の顔を見た。
そして、静かに答えた。
「……俺は、兄さんの苦しみを、一緒に考えたいと思ってる」
燈矢は、顔を上げた。
「……」
「でも、兄さんの苦しみを、俺が代わりに背負うことはできない。兄さんが、俺と同じ道を歩かなきゃいけないわけでもない」
焦凍は、ゆっくりと続けた。
「俺は、兄さんを一人にしたいわけじゃない。でも、兄さんと同じ怒りを持たなければ、兄さんのそばにいられないとも思わない」
燈矢は、何も言わなかった。
焦凍は、続けた。
「俺は、兄さんとは違う道を行く。でも、兄さんのことを、置いていきたいわけじゃない」
その言葉を聞いて、燈矢の目が、わずかに揺れた。
弟は、自分と同じ怒りを持たない。
それでも、自分を見捨てないと言っている。
自分の苦しみを理解したいと願いながら、自分自身の人生を選ぶと言っている。
それは、燈矢にとって、理解しがたい選択だった。
だが、もしかすると。
自分が誰かに求めていたものは、同じ怒りを持ってくれることではなかったのかもしれない。
自分が傷ついていたとき。
自分が、父親に愛されたかったとき。
自分が、何を望んでいるのか分からなくなったとき。
本当に欲しかったのは、自分と同じように父親を憎む人間ではなく。
自分が苦しんでいることを、否定せずに見てくれる人間だったのかもしれない。
自分が、何かを成し遂げられなくても。
誰かに勝てなくても。
父親に認められなくても。
それでも、自分がここにいることを、知ってくれる誰か。
その願いは、今も燈矢の中に残っていた。
焦凍は、兄のそばに座っていた。
兄と同じ怒りを持つことは約束しない。
兄の罪を代わりに背負うことも約束しない。
兄が望む答えを、必ず与えるとも言わない。
ただ、話を聞く。
自分の気持ちを伝える。
そして、互いの違いを、すぐに裏切りだと決めつけないようにする。
それが、今の二人にできることだった。
燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺は、まだ、考える」
焦凍は、頷いた。
「……うん」
「お前の言うことを、今すぐ認めることはできねえ」
「……分かってる」
「でも……」
燈矢は、言葉を探した。
「……お前が、俺と違う道を選ぶことが、本当に俺を裏切ることなのか。それは、少し考えてみる」
焦凍は、兄を見つめた。
「……ああ」
それ以上、言葉を重ねなかった。
今は、それでよかった。
燈矢は、弟の言葉を、まだ完全には受け入れられない。
焦凍も、兄の怒りを、すべて理解できているわけではない。
それでも、二人は互いの選択を知った。
兄は、父親への怒りを抱えながら、自分が何を望んでいたのかを考え始めた。
弟は、兄の怒りを否定せずに、自分の未来を別に選ぶと決めた。
二人の道は、同じではなかった。
だが、違う道を歩くことと、互いを見捨てることは、同じではないのかもしれなかった。
18 憎しみを受け継がないという選択
夜が更けたころ、燈矢は一人で考えていた。
父親への怒りは、まだある。
自分が苦しんだ時間は、消えていない。
父親が自分を見てくれなかったと感じたこと。
父親の期待に応えようとして、どこまでも進もうとしたこと。
弟の存在を憎んだこと。
自分が、他者を傷つける選択を重ねたこと。
そのすべてが、自分の人生だった。
そして、焦凍は、その人生を否定していないと言った。
そのうえで、同じ怒りを未来にはしないと決めていた。
燈矢は、弟の選択を、まだ、認めることができなかった。
弟が、自分とは違う生き方をする。
そのことが、自分を置いていくように感じる。
自分だけが、過去の中に取り残されるように感じる。
自分だけが、怒りを抱え続けなければならないような気がする。
だが、焦凍が別の生き方を選んだことで、自分の苦しみが否定されるわけではない。
弟が、憎しみだけを未来にしないと決めたからといって、自分が傷ついていたことが嘘になるわけではない。
弟が、自分の人生を選び直したからといって、自分も同じ道を歩かなければならないわけでもない。
燈矢は、窓の外を見た。
自分は、まだ父親を許せない。
その気持ちは、変わらない。
自分が、本当に許せる日が来るのかどうかも分からない。
だが、父親を許せないことと、父親への憎しみだけで生き続けることは、同じではないのかもしれなかった。
自分が父親に愛されたかったこと。
父親に認められたかったこと。
自分が何かを成し遂げたときだけではなく、自分が自分であることを喜んでほしかったこと。
その願いを、もう一度、正直に認めること。
そして、自分の罪を、父親への怒りの中に隠し続けないこと。
自分が、他者を傷つけたことを認めること。
傷ついた自分と、傷つけた自分を、どちらか一方だけの存在にしないこと。
それは、簡単な道ではなかった。
むしろ、これまでの生き方よりも、ずっと苦しい道かもしれない。
怒りを抱えていれば、何を望んでいるのかを考えずに済む。
父親を憎んでいれば、自分の人生をどうするか、決めなくても済む。
自分が傷ついたことだけを考えていれば、自分が誰を傷つけたのかを、直視せずに済む。
しかし、それでは、いつまでも父親を中心にして生き続けることになる。
自分が何を望むか。
何を選ぶか。
どう生きるか。
そのすべてを、父親への怒りに決めさせることになる。
燈矢は、ゆっくり目を閉じた。
それは、もう嫌だった。
そう思う自分がいることに、彼は驚いていた。
父親を許せない。
父親を憎んでいる。
その気持ちは、今も確かにある。
けれど、その怒りだけで生きることに、疲れていた。
憎み続けることに、疲れていた。
父親に振り向いてほしいと願い続けることに、疲れていた。
その疲れを認めることは、敗北ではないのかもしれない。
怒りを抱えたまま、別のものを望んでもいいのかもしれない。
自分が苦しんできたことを忘れずに、別の生き方を選んでもいいのかもしれない。
その可能性を、焦凍は、自分の生き方で示していた。
燈矢は、まだ、そこへ進むことはできない。
それでも、弟の選択を、ただ裏切りだと決めつけることはできなくなっていた。
「……焦凍」
燈矢は、静かに弟の名前を呼んだ。
返事はない。
部屋には、自分一人しかいない。
それでも、燈矢は、続けた。
「……俺は、まだ、お前のことを羨ましいと思ってる」
その言葉は、誰にも聞かせる必要のないものだった。
弟が、自分と違う道を選べること。
憎しみを抱えながらも、怒りだけで生きないと決められること。
そのことが、羨ましかった。
そして、羨ましいと思う自分を、もう、無理に否定しないことにした。
燈矢は、目を開いた。
「……俺にも、できるのかな」
その問いに、答えはない。
誰かが、自分を救ってくれると約束したわけではない。
弟が、自分の人生を代わりに決めてくれるわけでもない。
母親が、すべての痛みを受け止めてくれるわけでもない。
父親が、過去を取り戻してくれるわけでもない。
それでも、自分がこれから何を望むのか。
その答えを探すことはできる。
自分が何をしたのかを認めながら。
自分が何を失ったと思っていたのかを認めながら。
そして、自分が何を望むのかを、父親だけに決めさせないようにしながら。
燈矢は、長いこと、窓辺に立っていた。
父親への怒りは、消えない。
過去も、消えない。
だが、自分の未来は、まだ決まっていない。
その事実を、彼は、初めて、ほんの少しだけ受け入れた。
19 弟は、兄を救えるのか
翌日、焦凍は、燈矢と庭を歩いた。
二人のあいだに、まだ気まずさは残っていた。
燈矢は、焦凍が自分とは違う道を選ぶことを、完全には認めていない。
焦凍もまた、兄がどのような答えを選ぶのか、分からないままだった。
それでも、二人は一緒に歩いていた。
庭の木々のあいだを抜け、縁側へ向かう。
燈矢が、ぽつりと言った。
「……焦凍」
「何だ?」
「俺は、まだ、父さんを許すつもりはねえ」
「……うん」
「父さんが謝ったからって、俺の気持ちが変わるわけじゃない」
「……そうだな」
「俺は、父さんに愛されたかった。それが叶わなかったことを、今さら、なかったことにはできねえ」
焦凍は、静かに頷いた。
「……うん」
燈矢は、弟を見た。
「……それでも、お前は、俺と話すのか?」
焦凍は、迷わず答えた。
「話す」
「……俺が、父さんを許せなくても?」
「……ああ」
「俺が、今すぐ変われなくても?」
「……ああ」
燈矢は、苦笑した。
「……お前、根気があるな」
「……そうか?」
「ああ。俺なら、とっくに諦めてる」
焦凍は、少しだけ笑った。
「……俺も、いつか、諦めることがあるかもしれない」
燈矢が顔を上げた。
焦凍は、正直に続けた。
「兄さんと話すのが、苦しくなることもあるかもしれない。兄さんの言葉に、傷つくこともあると思う。そうなったら、俺は、自分を守るために距離を取ることもある」
燈矢は、黙って聞いていた。
「でも、今は、兄さんと話したいと思ってる」
焦凍は、兄を見た。
「兄さんのことを知りたい。兄さんが、何を望んでいたのか。何を苦しんでいたのか。これから、何を選ぼうとしているのか」
焦凍は、少しだけ目を伏せた。
「俺は、兄さんを救えるかどうか、まだ分からない。でも、兄さんと話をすることを、今は選びたいと思ってる」
燈矢は、長いこと弟を見ていた。
「……お前は、俺に何かをしてやりたいんだな」
「ああ」
「でも、俺の人生を決めたいわけじゃない」
「……そうだ」
「俺が何を望むかを、俺に決めさせたいんだな」
焦凍は、少し考えてから答えた。
「……そうだと思う」
燈矢は、目を伏せた。
「……変な話だな」
「……そうか?」
「ああ。俺は、ずっと、誰かに認めてもらいたいと思ってた。誰かに、俺には価値があるって言ってほしかった。……でも、お前は、俺の価値を決めようとはしない」
焦凍は、黙っていた。
燈矢は、続けた。
「俺が、何を望むか。何を選ぶか。それを、俺が決めるべきだって言う」
「……ああ」
燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺は、そんなふうに考えたことがなかった」
焦凍は、兄を見た。
「……俺も、昔は考えられなかった」
燈矢は、少しだけ笑った。
「……そうか」
二人は、縁側に腰を下ろした。
しばらく、何も話さなかった。
その沈黙の中で、焦凍は考えていた。
兄を救いたい。
その願いは、消えない。
しかし、救うという言葉を、これまでとは違う意味で使いたかった。
兄の罪を消すことではない。
兄の怒りを消すことでもない。
兄に、正しい答えを与えることでもない。
兄が、自分自身の人生を選び直せるようになること。
そのために、話を聞き、必要なら止め、互いの違いを認めながら、関わり続けること。
それが、救いにつながるかどうかは分からない。
だが、少なくとも、兄の苦しみを、弟の人生の答えにすることはできない。
焦凍は、そのことを、はっきりと理解していた。
燈矢は、庭を見つめていた。
自分は、まだ、弟の選択を完全には認められない。
だが、弟が自分と違う道を歩くことが、自分を裏切ることなのかどうか。
その答えを、少しだけ考えてみようと思った。
「……焦凍」
「何だ?」
「……俺は、まだ、自分が何を望んでるのか、分からねえ」
焦凍は、頷いた。
「……うん」
「でも、少なくとも……父さんを憎むことだけが、俺の望みだったわけじゃないんだと思う」
焦凍は、兄を見た。
燈矢は、少しだけ目を伏せた。
「俺は、父さんに愛されたかった。それは、今でも変わらない。……でも、父さんを憎み続けることが、俺の人生のすべてになってしまったのは、違ったのかもしれない」
焦凍は、すぐには答えなかった。
その言葉を、急いで希望に変えてしまいたくなかった。
兄がそう考えたからといって、何もかもが変わるわけではない。
明日になれば、また怒りが戻ってくるかもしれない。
父親と顔を合わせれば、憎しみが強くなるかもしれない。
自分の罪を考えることに耐えられず、再び他者を責めたくなる日もあるかもしれない。
それでも、燈矢が今、自分の言葉で、その可能性を口にしたことは、確かだった。
焦凍は、静かに頷いた。
「……そうかもしれない」
燈矢は、弟を見た。
「……お前は、俺のことを、許せるようになると思うか?」
焦凍は、少し考えた。
「……分からない」
燈矢は、苦笑した。
「……本当に、お前はそればっかりだな」
「……ああ」
焦凍は答えた。
「でも、分からないことを、分かったふりはしたくない」
燈矢は、長いこと弟を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
焦凍は、兄の横顔を見た。
「……兄さん」
「何だ?」
「俺は、兄さんを許すために、兄さんと話しているわけじゃない」
燈矢は、黙っていた。
「俺は、兄さんを知りたいから、話している。兄さんが何を望んでいたのか、何を失ったと思っていたのか、何を苦しんでいたのか。……そのことを、知りたいからだ」
焦凍は、静かに続けた。
「そして、俺自身が、兄さんのことをどう思っているのかも、ちゃんと考えたい」
燈矢は、少しだけ目を伏せた。
「……それで、いいのか?」
焦凍は、頷いた。
「……今は、それでいいと思ってる」
燈矢は、何も言わなかった。
だが、今度は、焦凍の言葉を拒絶しなかった。
兄は、まだ自分の答えを持っていない。
弟も、兄を救えるかどうか、分からない。
それでも、二人は互いの話を聞こうとしていた。
同じ怒りを持たなくても。
同じ答えを出さなくても。
互いの人生を、相手の望みだけで決めないまま。
その選択が、二人をどこへ導くのか。
それは、まだ誰にも分からなかった。
ただ、焦凍は、もう、自分の未来を父親への怒りだけで決めるつもりはなかった。
そして、燈矢もまた、自分の未来を父親への憎しみだけで決めることが、本当に自分の望みなのか、考え始めていた。
その問いは、二人のあいだに残された。
答えは、まだない。
けれど、答えがないからこそ、これから自分で選ぶことができる。
それが、今の二人に残された、かすかな可能性だった。
20 憎しみの先にあるもの
夜、冷は、居間で一人、本を読んでいた。
ページをめくる手が、ふと止まる。
廊下の向こうから、焦凍と燈矢の声が聞こえた。
何を話しているのか、すべては聞き取れない。
ただ、二人が、以前よりも少し長く、同じ場所にいることは分かった。
冷は、窓の外を見た。
二人が、何を話しているのか。
どこまで、互いの気持ちを理解できたのか。
それを、すぐに知りたいとは思わなかった。
彼らには、彼らの時間がある。
兄弟だからといって、母親がすべての話を聞かなければならないわけではない。
母親だからといって、二人の関係を、母親の望む形に整えなければならないわけでもない。
冷は、本に視線を戻した。
自分にできることは、必要なときに、話を聞くこと。
自分が間違えたときに、それを認めること。
自分の気持ちを伝えること。
そして、子どもたちが、それぞれの人生を選ぶことを尊重すること。
それだけだった。
父親も、母親も、子どもたちの人生を代わりに生きることはできない。
子どもたちも、親の人生を代わりに生きることはできない。
家族だからといって、誰かの痛みを、別の誰かが完全に引き受けられるわけではない。
それでも、互いに話すことはできる。
相手の願いを、聞くことはできる。
そして、相手が自分とは違う道を選んだとき、その違いを、すぐに裏切りだと決めつけないこともできる。
冷は、静かに息を吐いた。
燈矢は、父親に愛されたかった。
焦凍は、父親の望みだけで生きたくなかった。
その二つの願いは、同じではなかった。
けれど、どちらも、自分自身の人生を生きたいという願いにつながっているのかもしれない。
燈矢は、父親からの愛情を求めるあまり、自分の価値を父親の評価に結びつけてしまった。
焦凍は、父親に人生を決められないために、自分の意思で生きることを選ぼうとしている。
二人は、違う道を歩いている。
その道が、いつか交わるのか。
互いに理解できるようになるのか。
それとも、最後まで、違う答えを持ち続けるのか。
冷には、分からなかった。
けれど、分からないことを、無理に一つの答えにまとめる必要はないのだと思った。
家族が同じ答えを出す必要はない。
同じ痛みを感じる必要もない。
同じ速さで、同じ方向へ歩く必要もない。
それでも、家族として、互いの存在を認めることはできる。
冷は、本を閉じた。
そして、窓の外を見た。
庭の木々は、夜風に揺れていた。
その向こうに、燈矢と焦凍がいる。
二人は、まだ話をしているようだった。
冷は、微笑んだ。
何かが解決したわけではない。
家族の傷が癒えたわけでもない。
誰かが、誰かを許したわけでもない。
それでも、彼らは、自分自身の言葉で、何かを伝えようとしている。
それだけで、十分だと、冷は思った。
いや。
十分だと決めることさえ、できないのかもしれない。
二人が、何を必要としているのかは、二人にしか分からない。
だから、冷は、ただ見守ることにした。
自分が何かをしてあげなければならないという思いを、少しだけ手放しながら。
家族を愛することと、家族の人生を決めることは違う。
そのことを、冷は、これからも忘れないようにしようと思った。
燈矢の部屋では、二人の会話が途切れていた。
焦凍は、帰る前に、兄に一つだけ尋ねた。
「……兄さんは、これから、何を望みたい?」
燈矢は、しばらく答えなかった。
父親に愛されたい。
それが、長いあいだ、自分の願いだった。
父親を超えたい。
自分を認めてほしい。
自分の存在を、喜んでほしい。
その願いが叶わなかったから、憎んだ。
憎むことで、願いを捨てずにいられた。
けれど、憎しみだけでは、何も取り戻せなかった。
それでも、今さら、別のものを望むことができるのだろうか。
燈矢は、目を伏せた。
「……分からねえ」
焦凍は、頷いた。
「……うん」
燈矢は、少しだけ笑った。
「……でも、少なくとも、俺が何を望むかまで、父さんに決められたくはねえな」
焦凍は、兄を見つめた。
「……そうか」
「……まだ、父さんを許すつもりはねえぞ」
「……うん」
「俺は、父さんを憎んでる。その気持ちは、今も変わらねえ」
「……分かってる」
燈矢は、弟を見た。
「……でも、お前が、父さんを憎むことだけで生きたくないって言うなら……」
言葉が止まった。
焦凍は、待った。
燈矢は、ゆっくり息を吐いた。
「……それが、俺を裏切ることなのかどうか。もう少し、考えてみる」
焦凍は、静かに頷いた。
「……ああ」
燈矢は、窓の外を見た。
「……俺は、まだ、お前の生き方を認められねえ」
「……うん」
「でも、認められないからって、お前が間違ってるとは限らねえんだろ」
焦凍は、少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……そうだと思う」
燈矢は、弟を見た。
「……俺も、まだ、答えを探す」
それは、大きな決意ではなかった。
過去を許した宣言でもなかった。
自分が生まれ変わるという約束でもなかった。
ただ、燈矢が、自分自身の未来を、自分の言葉で考えようとした瞬間だった。
焦凍は、椅子から立ち上がった。
「……じゃあ、俺は戻る」
「ああ」
焦凍は、ドアへ向かった。
その背中に、燈矢が声をかけた。
「……焦凍」
「何だ?」
燈矢は、少しだけ迷った。
そして、言った。
「……お前が、別の道を選んでも、俺は、お前の兄貴だ」
焦凍は、振り返った。
燈矢は、視線を逸らさなかった。
「……俺が、お前を憎んでたことも。お前が、俺とは違う生き方を選ぶことも……それで、俺たちが兄弟じゃなくなるわけじゃねえ」
焦凍は、しばらく兄を見つめた。
それから、静かに頷いた。
「……ああ」
その答えは、短かった。
けれど、焦凍の胸には、確かなものが残った。
燈矢は、まだ自分の生き方を認めていない。
焦凍も、兄の苦しみをすべて理解できたわけではない。
それでも、兄は、自分の選択と、兄弟であることを、完全には切り離さなかった。
焦凍は、部屋を出た。
燈矢は、一人になった。
窓の外を見ながら、彼は、静かに息を吐いた。
父親への怒りは、消えない。
自分が失ったものも、消えない。
自分が犯した罪も、消えない。
しかし、これから何を望むのか。
その答えは、まだ、自分の手の中に残されている。
燈矢は、自分の手を見つめた。
炎を使うことが、自分の人生のすべてだった頃。
父親に認められなければ、自分には価値がないと思っていた頃。
自分が傷ついていたことを、憎しみでしか表せなかった頃。
そのすべてを、忘れることはできない。
けれど、これからも同じ生き方を続けなければならないと、決まっているわけではない。
燈矢は、目を閉じた。
――俺は、何を望む。
その問いを、もう一度、胸の中で繰り返す。
今度は、父親に答えを求めるためではなかった。
弟に、答えを求めるためでもなかった。
自分自身に、問いかけるためだった。
その答えは、まだない。
だが、燈矢は、その問いから逃げなかった。