僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第六話「憎しみを受け継がないという選択」

1 弟は、こちら側に立たなかった

「……ふざけんなよ」

 

燈矢は、誰もいない部屋で呟いた。

 

視線の先には、閉じた扉がある。

 

焦凍は、もういない。

 

話は終わった。

 

少なくとも、弟はそう考えて部屋を出ていったのだろう。

 

燈矢は、椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。

 

――俺は、兄さんの怒りを否定しない。

 

――でも、同じ怒りを、自分の未来にはしない。

 

あの言葉が、何度も頭のなかで繰り返される。

 

否定しない。

 

けれど、受け継がない。

 

理解する。

 

けれど、同じ道は歩かない。

 

言葉にすれば、それだけのことだった。

 

それなのに、燈矢には、その二つがひどく矛盾しているように思えた。

 

自分の苦しみを本当に理解しているのなら、どうして同じように怒らない?

 

自分が父親を憎んでいる理由が分かるのなら、どうして、その憎しみを手放そうとする?

 

自分がどれほど傷つけられたのかを知ったのなら、どうして、傷つけた側に対して、別の未来を考えられる?

 

燈矢は、膝の上で拳を握りしめた。

 

自分は、長い時間をかけて、怒りを育ててきた。

 

父親への怒り。

 

自分を見てくれなかった家族への失望。

 

自分が欲しかったものを持って生まれた弟への嫉妬。

 

自分の身体が思いどおりにならないことへの苛立ち。

 

何をしても、失ったものが戻ってこないという絶望。

 

そのすべてが、一本の線でつながっているように感じられた。

 

怒りを抱いていれば、自分がどれほど傷ついたのかを忘れずにいられる。

 

憎しみを持ち続ければ、自分が何を奪われたと感じているのか、見失わずに済む。

 

父親を許さなければ、父親がしたことを、簡単に終わらせずに済む。

 

それは、燈矢にとって、自分を守るための方法だった。

 

そして、焦凍は、その怒りを否定しなかった。

 

それなのに、同じ怒りを持たないと決めた。

 

燈矢には、それが理解できなかった。

 

「……お前は、いいよな」

 

口から零れた言葉は、思っていたよりも幼かった。

 

「お前は、自分の人生を選べるんだからな」

 

言った瞬間、胸の奥が痛んだ。

 

焦凍もまた、自分の人生を父親に決められていた。

 

そのことは、分かっている。

 

焦凍だって、父親から自由だったわけではない。

 

期待を押しつけられ、力を利用され、自分が何を望むかを無視されてきた。

 

それでも焦凍は、自分の炎と氷を、自分のために使うことを選んだ。

 

父親の望みのために使うのではなく。

 

父親への反発だけのために封じるのでもなく。

 

自分が何をしたいのかを、自分で決めるために。

 

燈矢は、その選択を羨ましいと思った。

 

そして、羨ましいと思った自分を、また憎みかけた。

 

羨ましい。

 

その感情は、あまりにも馴染み深かった。

 

焦凍が生まれたときから、自分のなかに居座り続けていた感情。

 

焦凍は、自分の持っていないものを持っている。

 

焦凍は、自分がなれなかった存在になるための力を持っている。

 

焦凍は、父親に選ばれた。

 

その考えを、燈矢は長いあいだ手放せずにいた。

 

けれど、本当にそうだったのだろうか。

 

焦凍は、父親の望む未来を与えられたのではなく、父親の望む未来を押しつけられたのではなかったか。

 

自分が、父親に認められたいと願いながら自由を失っていったように、焦凍もまた、父親の期待によって自分の人生を狭められていたのではなかったか。

 

その違いは、確かにあった。

 

自分は、期待を求めた。

 

焦凍は、期待を拒んだ。

 

けれど、そのどちらも、父親の価値観から自由ではなかった。

 

燈矢は、顔を伏せた。

 

「……俺は、何をやってんだよ」

 

怒りが消えたわけではない。

 

父親への憎しみも残っている。

 

自分が失ったものを考えれば、今でも胸の奥が熱くなる。

 

ただ、その怒りを、弟にまで引き受けさせたいと願っている自分に気づいた。

 

焦凍が同じように父親を憎んでくれたら。

 

焦凍が同じように世界を許さずにいてくれたら。

 

焦凍が自分と同じ場所に立ってくれたら。

 

そうすれば、自分が歩んできた道は、間違いではなかったと思えるかもしれない。

 

自分だけが、苦しみを抱えているわけではない。

 

自分だけが、怒りを手放せないわけではない。

 

そう思えたかもしれない。

 

だが、それは、焦凍の人生を、自分の苦しみを証明するために使うことだった。

 

弟が、何を望むか。

 

弟が、どう生きたいか。

 

それを、自分の苦しみの正しさを示すために利用する。

 

そんなことを、自分は、また繰り返そうとしているのではないか。

 

燈矢は、目を閉じた。

 

「……くそっ」

 

怒りは、簡単には消えない。

 

だが、怒りを感じることと、その怒りに従って誰かの人生を決めようとすることは、別なのかもしれなかった。

 

燈矢は、しばらく動かなかった。

 

そして、初めて、自分自身に問いかけた。

 

――俺は、焦凍に、何をしてほしいんだ?

 

答えは、すぐには出なかった。

 

ただ一つ、確かなことがあった。

 

自分は、弟に、自分の痛みを分かってほしいと思っている。

 

そして、分かってもらえたなら、自分と同じように怒ってほしいと、どこかで願っていた。

 

けれど、弟が同じ怒りを抱かなければならない理由は、本当にあるのだろうか。

 

燈矢は、その問いを、まだ捨てられなかった。

 

2 嫉妬という名の牢獄

午後、焦凍は訓練場にいた。

 

特別な訓練をしていたわけではない。

 

自分の身体を動かし、呼吸を整え、ただ、いつものように力を確かめていた。

 

氷を生み出す。

 

炎を使う。

 

その二つを、状況に合わせて扱う。

 

今の焦凍にとって、それは、父親の夢を叶えるための行為ではなかった。

 

自分が選んだ力を、自分の責任で使うこと。

 

そのために必要なことだった。

 

炎が揺れる。

 

焦凍は、自分の左手を見た。

 

この炎を、かつては憎んでいた。

 

父親の象徴だと思っていた。

 

自分が生まれた理由そのもののように感じていた。

 

だから、使わないと決めた。

 

父親が望む力を拒めば、父親から自由になれると思った。

 

しかし、やがて気づいた。

 

父親が望んだから使わない、という選択もまた、父親を基準にしている。

 

自分が使いたいのかどうか。

 

何をするために、使うのか。

 

誰を守るために、その力を役立てたいのか。

 

それらを、自分自身で決めることが必要だった。

 

焦凍は、炎を消した。

 

そのとき、入口のほうから声がした。

 

「……ずいぶん、立派なヒーローになったもんだな」

 

振り返ると、燈矢が立っていた。

 

「兄さん」

 

「何だよ。その顔。俺が来るとは思ってなかったってか?」

 

「……少しだけ」

 

燈矢は、訓練場を見回した。

 

「ここで、よく訓練してたのか?」

 

「……ああ」

 

「父さんに言われて?」

 

焦凍は、少し考えた。

 

「昔は、そうだった」

 

「今は?」

 

「今は、自分で必要だと思うからやってる」

 

燈矢は、鼻で笑った。

 

「……なるほどな」

 

焦凍は、兄の顔を見た。

 

「……何か、話したいことがあるのか?」

 

「別に」

 

燈矢は答えた。

 

「ただ、お前がどんな顔して生きてんのか、見に来ただけだよ」

 

その言葉には、棘があった。

 

焦凍は、それを聞き流さなかった。

 

「……俺のことが、気になるのか?」

 

「気になるに決まってんだろ」

 

燈矢は即座に答えた。

 

「お前は、俺が持ってなかったものを持ってた。俺が欲しかったものを持ってた。父さんが俺に求めなくなったものを、お前は持ってた」

 

燈矢は、焦凍の左手を見た。

 

「その炎を、今は自分のものだって言えるんだな」

 

「ああ」

 

焦凍は答えた。

 

「……父さんが望んだからじゃない。俺が、どう使いたいかを考えて決めた」

 

燈矢の表情が、わずかに歪んだ。

 

「……俺は、それができなかった」

 

「……うん」

 

「俺は、父さんに認められるために炎を使ってた。父さんが喜ぶように、父さんが期待するように、もっと強くなろうとしてた」

 

燈矢は、視線を落とした。

 

「俺には、それしかなかったんだ」

 

焦凍は、すぐには言葉を返さなかった。

 

兄が、本当にそれしかなかったと感じていたことを、理解しようとしていた。

 

父親に認められること。

 

その一つに、人生の価値を結びつけたこと。

 

そこから外れた瞬間、自分が何者でもなくなるように感じたこと。

 

その苦しみは、焦凍自身が経験した苦しみとは、同じではなかった。

 

けれど、理解しようとすることはできる。

 

「……兄さんは、父さんに認めてもらうことを、ずっと望んでたんだな」

 

「ああ」

 

「その気持ちが、叶わなかった」

 

「……ああ」

 

焦凍は、頷いた。

 

「……俺は、兄さんがそう思っていたことを、忘れない」

 

燈矢は、顔を上げた。

 

「……忘れない?」

 

「ああ。兄さんが、何を望んでいたのか。何を失ったと思っていたのか。それを、俺は知ったから」

 

焦凍は、静かに続けた。

 

「でも、俺は、兄さんが失ったものを、俺が持っているからといって、それを兄さんに返すことはできない」

 

燈矢は、黙っていた。

 

「俺の人生は、兄さんの代わりに与えられたものじゃない。俺だって、父さんの期待に苦しんできた。俺の人生を、俺自身のものにするために、時間がかかった」

 

焦凍は、兄を見た。

 

「だから、俺が今、自分の力を自分のものとして使っていることは、兄さんに何かを奪われたままにしているという意味じゃないと思う」

 

燈矢の目が細くなった。

 

「……じゃあ、俺が羨ましいと思うのは、間違いか?」

 

「違う」

 

焦凍は、はっきりと答えた。

 

「兄さんが、俺を羨ましいと思うことは、兄さんの気持ちだ。無理に変える必要はない」

 

「……」

 

「俺だって、誰かを羨ましいと思うことはある」

 

燈矢は、少しだけ驚いたように顔を上げた。

 

焦凍は続けた。

 

「羨ましいと思ったからって、その人を傷つけていいわけじゃない。でも、羨ましいと思うこと自体が、悪いわけじゃないと思う」

 

燈矢は、しばらく何も言わなかった。

 

その言葉は、彼のなかに、ゆっくりと落ちていった。

 

羨望そのものを、否定する必要はない。

 

羨ましいと思うこと。

 

自分にはないものを、誰かが持っていると感じること。

 

自分が欲しかったものを、誰かが持っていると感じること。

 

その感情は、誰にでも生まれる。

 

だが、その感情をどう扱うのか。

 

それは、自分自身が選ぶことだった。

 

燈矢は、長いこと、羨望を憎しみに変えてきた。

 

羨ましいと思った相手を、自分の苦しみの原因と考えた。

 

相手がいなければ、自分は苦しまなかったはずだと考えた。

 

そうすれば、自分が何を失ったのかを、直視せずに済んだからだ。

 

だが、焦凍が生まれたことは、焦凍の罪ではない。

 

焦凍が、父親の期待を受けたことも、焦凍が選んだわけではない。

 

弟が、自分の人生を選び直すことまで、燈矢が止めることはできない。

 

燈矢は、目を伏せた。

 

「……俺は、お前が羨ましかった」

 

焦凍は頷いた。

 

「……ああ」

 

「お前が、俺の代わりに父さんの夢を叶えることができるように見えた。お前が、父さんに選ばれたように見えた」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……俺は、お前が憎かった」

 

その言葉は、今まで何度も口にしてきた言葉だった。

 

しかし、今日は、その先に別の言葉が続いた。

 

「……でも、お前が悪かったわけじゃない」

 

焦凍は、息を呑んだ。

 

燈矢は、すぐに顔を背けた。

 

「……勘違いするなよ。俺が、お前を許したって話じゃねえ」

 

「……分かってる」

 

「俺は、まだ、羨ましいと思ってる。お前が、自分の人生を選んでることが羨ましい。俺ができなかったことを、お前ができているように見えることも、羨ましい」

 

燈矢は、拳を握りしめた。

 

「……その気持ちは、簡単には消えねえよ」

 

焦凍は、静かに答えた。

 

「……消さなくてもいいと思う」

 

燈矢は、弟を見た。

 

焦凍は続けた。

 

「羨ましいと思うことと、俺を憎むことは、同じじゃない。兄さんが、俺とは違う生き方を選べない理由にもならない」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

そして、ようやく、小さく頷いた。

 

「……そうかもしれねえな」

 

その言葉は、完全な納得ではなかった。

 

嫉妬が消えたわけでもない。

 

自分の人生を受け入れたわけでもない。

 

ただ、燈矢は初めて、自分の羨望を、弟の罪として扱うことをやめようとしていた。

 

それは、小さな変化だった。

 

けれど、長いあいだ、弟を自分の失ったものの象徴として見てきた燈矢にとって、その変化は決して小さくなかった。

 

3 荼毘という名前

「……兄さん」

 

焦凍が呼ぶと、燈矢は顔を上げた。

 

「何だ?」

 

「……一つ、聞いてもいいか」

 

「聞くだけならな」

 

焦凍は、少し迷ってから尋ねた。

 

「……荼毘って名前は、兄さんにとって、何だったんだ?」

 

燈矢の表情が止まった。

 

風が、訓練場の端を抜けていく。

 

しばらく、燈矢は答えなかった。

 

その名前は、単なる偽名ではなかった。

 

燈矢という名前を持つ自分が、父親に愛されなかった息子であり、父親の期待から外れた存在であり、過去の痛みから逃れられなかった人間であるなら。

 

荼毘という名は、その痛みを、世界へ突きつけるための名前だった。

 

父親が見なかった自分。

 

家族が知らなかった自分。

 

社会が、ヒーローの強さと名声の裏に見ようとしなかったもの。

 

そのすべてを、燃やして見せる。

 

父親に、自分を見せつける。

 

世界に、隠されていたものを見せつける。

 

それが、荼毘という名前に込めたものだった。

 

だが、名前を変えたからといって、過去を捨てられたわけではない。

 

むしろ、燈矢は、その名前のなかに、過去を閉じ込めていた。

 

燈矢として生きていたころの自分。

 

父親に憧れていた自分。

 

父親に認められたくて、必死に努力していた自分。

 

そうした自分を、弱いものとして切り捨てたかった。

 

荼毘なら、誰かに愛されたいと願わなくてもいい。

 

荼毘なら、父親の愛情を求めていると認めなくてもいい。

 

荼毘なら、怒りだけで生きられる。

 

憎しみを、恥ずかしいものだと思わずに済む。

 

それは、燈矢が自分を守るために作り上げた、新しい名前だった。

 

「……荼毘は、俺が、父さんに見せつけるための名前だった」

 

燈矢は、ゆっくりと言った。

 

「燈矢のままじゃ、駄目だったんだよ」

 

焦凍は、黙って聞いていた。

 

「燈矢は、父さんに愛されたかった。燈矢は、父さんに認めてほしかった。燈矢は、父さんに振り向いてほしかった。……そういうことを考えてる自分が、嫌だった」

 

燈矢は、顔を伏せた。

 

「だから、荼毘になった。父さんに愛されたいなんて、もう思わない。父さんに認められたいなんて、もう願わない。……そういう自分になろうとした」

 

「……なれたのか?」

 

焦凍の問いに、燈矢は笑った。

 

乾いた笑いだった。

 

「……なれるわけねえだろ」

 

彼は、自分の手を見た。

 

「俺が何て名乗ろうが、俺は俺なんだよ。父さんに愛されたかった燈矢も、父さんを憎む荼毘も、どっちも俺だった」

 

焦凍は、ゆっくり頷いた。

 

燈矢は、続けた。

 

「荼毘って名乗ってる間は、俺は、自分が何を望んでいるのか、考えなくて済んだ。父さんへの復讐だけを考えればよかった。俺が何をしたか、何を失ったか、何をしたかったのか。……そういうことを、考えなくてもよかったんだ」

 

彼は顔を上げた。

 

「でも、今は……」

 

言葉が止まった。

 

焦凍は、急かさなかった。

 

燈矢は、長いこと考えていた。

 

そして、ようやく口を開いた。

 

「……荼毘って名前を、捨てりゃ済むわけじゃねえんだな」

 

焦凍は、少しだけ驚いた。

 

燈矢は続けた。

 

「俺が荼毘としてやったことは、なくならねえ。俺が、どんな名前を名乗ろうが、俺がしたことは俺の責任だ」

 

彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「……でも、燈矢って名前に戻れば、全部が元通りになるわけでもねえ」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「燈矢って名前を呼ばれたら、昔の俺に戻れるわけじゃない。父さんに愛されたかった子どもに戻れるわけじゃない。……俺は、もう、あのころの俺じゃねえんだ」

 

燈矢は、目を伏せた。

 

「……俺は、燈矢だった。荼毘でもあった。どっちか一つだけにすれば、済む話じゃねえんだな」

 

焦凍は、ゆっくりと答えた。

 

「……俺は、そう思う」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

そして、少しだけ笑った。

 

「……お前、よく考えるようになったな」

 

「……兄さんと話してるからかもしれない」

 

燈矢は、一瞬だけ目を見開いた。

 

そして、顔を逸らした。

 

「……そういうこと、さらっと言うなよ」

 

「……悪かった」

 

「謝るな」

 

「……分かった」

 

燈矢は、苦笑した。

 

その会話は、何かを解決したわけではなかった。

 

荼毘という名前を捨てると決めたわけでもない。

 

燈矢という名前だけで生き直すと決めたわけでもない。

 

ただ、二つの名前を、どちらか一方だけが本当の自分だと決めつけずに考えられるようになった。

 

燈矢は、父親に愛されたかった自分を、もう完全には否定できなかった。

 

荼毘として憎しみを抱えてきた自分も、なかったことにはできなかった。

 

そして、両方の自分を認めることは、どちらの行為も正当化することではない。

 

名前を認めることと、罪を免れることは、別の問題だった。

 

燈矢は、静かに息を吐いた。

 

「……俺は、まだ、荼毘って名前を捨てられねえと思う」

 

焦凍は、頷いた。

 

「……そうか」

 

「でも、燈矢って名前を、なかったことにするつもりもねえ」

 

焦凍は、兄を見た。

 

「……うん」

 

燈矢は、少しだけ視線を落とした。

 

「……俺は、燈矢だったことを、恥ずかしいと思ってたんだ」

 

その声は、低く、静かだった。

 

「父さんに愛されたかった。認められたかった。……そんなことを願ってる自分が、情けなかった」

 

焦凍は、何も言わなかった。

 

「でも、今は……それを、ただ情けないとは思わなくなってきた」

 

燈矢は、自嘲するように笑った。

 

「……まあ、まだ、少しは思うけどな」

 

焦凍は、少しだけ笑った。

 

「……そうか」

 

燈矢は、弟を見た。

 

「……お前は、俺を、燈矢って呼ぶのか?」

 

焦凍は、少しだけ迷った。

 

「……兄さんが、そう呼ばれたいなら」

 

燈矢は、顔を逸らした。

 

「……今は、どっちでもいい」

 

焦凍は頷いた。

 

「……分かった」

 

燈矢は、少し考えてから付け加えた。

 

「……ただ、俺が荼毘だったことを、なかったことにするなよ」

 

焦凍は、はっきり答えた。

 

「……しない」

 

「俺がしたことも」

 

「……忘れない」

 

「俺が、何を望んでたのかも」

 

焦凍は、兄を見つめた。

 

「……忘れない」

 

燈矢は、目を閉じた。

 

「……なら、いい」

 

それは許しではなかった。

 

和解でもなかった。

 

ただ、自分が何者だったのかを、誰かに一つの名前だけで決めてほしくないという願いだった。

 

焦凍は、その願いを受け止めた。

 

4 兄の嫉妬を、弟の罪にしない

数日後、焦凍は、燈矢に一つの提案をした。

 

「……兄さん。昔のことを、もう少し聞いてもいいか?」

 

燈矢は、椅子に座ったまま眉を寄せた。

 

「……何だよ。まだ聞くのか?」

 

「……ああ」

 

「俺の昔話なんか、聞いてどうすんだ?」

 

焦凍は、少し考えた。

 

「……俺が、知らなかったから」

 

燈矢は、黙った。

 

焦凍は続けた。

 

「俺は、兄さんが何を望んでいたのか、知らなかった。兄さんが、俺のことをどう思っていたのかも、知らなかった」

 

彼は、自分の手を見た。

 

「知らなかったことを、今さら全部知ることはできない。でも、これから知ることはできると思う」

 

燈矢は、しばらく弟を見ていた。

 

「……俺が、お前を憎んでたことも?」

 

「……ああ」

 

「俺が、お前のことを、羨ましいと思ってたことも?」

 

「……ああ」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……物好きだな」

 

「……そうかもしれない」

 

焦凍は、少しだけ笑った。

 

「でも、兄さんが俺を憎んでいた理由を、俺が勝手に決めたくないんだ」

 

燈矢の表情が変わった。

 

焦凍は、続けた。

 

「兄さんが、俺を憎んでいたことは知ってる。でも、それがどういう気持ちだったのか、何が苦しかったのか、俺は、まだ全部分かっていない」

 

彼は、兄を見た。

 

「だから、聞きたい」

 

燈矢は、長いこと黙っていた。

 

そして、ゆっくり答えた。

 

「……俺は、お前が羨ましかった」

 

「ああ」

 

「お前は、俺が欲しかったものを持っていた。父さんが、自分の代わりに期待するものを。俺が、なれなかった存在になるための力を」

 

燈矢は、自分の手を見つめた。

 

「……お前が生まれたとき、俺は、自分が選ばれなかったんだと思った」

 

焦凍は、何も言わなかった。

 

「父さんが俺を認めてくれないのは、俺に才能がないからだ。俺が、父さんの望む未来になれないからだ。……そう思っていたときに、お前が生まれた」

 

燈矢の声は、静かだった。

 

「お前が持っていたものを見て、俺は、自分が捨てられたんだと思った」

 

焦凍は、ゆっくりと頷いた。

 

「……そうだったんだな」

 

「……ああ」

 

燈矢は、少しだけ顔を歪めた。

 

「でも、今なら、分かる。お前は、父さんのために生まれてきたわけじゃない。お前が、俺の代わりになったわけでもない」

 

焦凍は、息を呑んだ。

 

燈矢は続けた。

 

「父さんが、お前に何を望んだかは、父さんの責任だ。お前が、それを背負わなきゃならなかったことも、俺が、羨ましいと思っていたこととは、別の話なんだ」

 

彼は、焦凍を見た。

 

「……お前が、俺より恵まれていたように見えたことは、本当だ。でも、それが、お前の人生が楽だったって意味じゃねえ」

 

焦凍は、しばらく何も言えなかった。

 

兄が、自分の苦しみを見ようとしている。

 

そのことが、焦凍には意外だった。

 

燈矢は、ずっと自分を羨んでいた。

 

自分が持っていたものを、自分が失ったものとして見ていた。

 

その気持ちが、突然なくなったわけではない。

 

今でも、燈矢は、焦凍を羨ましいと思うことがあるだろう。

 

弟が、自分にはできなかった生き方を選んでいること。

 

父親の期待から、自分の人生を切り離そうとしていること。

 

それらを見れば、羨望が湧くこともあるだろう。

 

それでも、燈矢は、その感情を、焦凍の罪だと決めつけることをやめようとしていた。

 

「……俺は、兄さんが俺を羨ましいと思っていたことを、なくそうとは思わない」

 

焦凍は言った。

 

「でも、兄さんが俺を羨ましいと思ったからって、俺が兄さんの人生を奪ったわけじゃない」

 

燈矢は、頷いた。

 

「……ああ」

 

「兄さんの苦しみは、兄さんのものだ。俺が、それを代わりに背負うことはできない。でも、兄さんが苦しんでいたことを、知らなかったままでいたくない」

 

焦凍は、静かに続けた。

 

「俺は、兄さんに、自分の気持ちを話してほしい。俺に、何を思っていたのか。何を望んでいたのか。……その話を聞きたい」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

「……俺が、お前を憎んでいたことを、全部聞いてもか?」

 

「……ああ」

 

「俺が、お前を羨ましいと思っていたことを?」

 

「……ああ」

 

「俺が、お前が生まれなければよかったと思っていたことも?」

 

焦凍は、一瞬だけ息を止めた。

 

そして、頷いた。

 

「……聞く」

 

燈矢は、顔を伏せた。

 

「……お前、強くなったな」

 

焦凍は、少しだけ首を振った。

 

「……強くなったというより、前は、聞けなかったんだと思う」

 

「……」

 

「自分が、兄さんに憎まれていたと知るのが怖かった。兄さんが、俺のことをどう思っているかを、知るのが怖かった」

 

焦凍は、正直に言った。

 

「でも、今は、知らないままでいるほうが、怖い」

 

燈矢は、弟を見つめた。

 

「……そうか」

 

「……うん」

 

しばらく、二人は何も話さなかった。

 

やがて燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……俺は、お前を羨ましかった」

 

焦凍は、頷いた。

 

「……ああ」

 

「でも、今は……お前が羨ましいと思うことと、お前を憎むことを、少しだけ分けて考えられる気がする」

 

焦凍は、静かに兄を見た。

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……すぐに、全部うまくいくとは思ってねえぞ」

 

「……分かってる」

 

「俺は、まだ、お前が羨ましい。今でも、お前が、自分の人生を選べていることが羨ましい」

 

「……ああ」

 

「でも、お前がそうできたことを、俺のせいにするつもりはねえ」

 

焦凍は、目を見開いた。

 

燈矢は、顔を逸らした。

 

「……勘違いするなよ。俺が、お前のことを全部認めたわけじゃねえ」

 

「……分かってる」

 

「俺は、まだ、いろいろ考えてる。お前のことを、羨ましいと思う日もあるだろうし、腹が立つ日もあるだろう」

 

「……うん」

 

「でも……」

 

燈矢は、少しだけ言葉を探した。

 

「……それを、お前の罪にするのは、違うんだろうな」

 

焦凍は、ゆっくり頷いた。

 

「……そうだと思う」

 

燈矢は、目を伏せた。

 

「……俺は、ずっと、お前を自分の失ったものの象徴にしてたんだ」

 

その言葉は、静かだった。

 

「お前を見るたびに、俺が失ったと思っているものを思い知らされた。だから、お前を憎んだ。……でも、お前自身を見ていたわけじゃなかったんだな」

 

焦凍は、何も言わなかった。

 

燈矢は、続けた。

 

「お前が、何を望んでいたのか。何が苦しかったのか。俺は、考えようとしなかった」

 

彼は、弟を見た。

 

「……悪かった」

 

焦凍は、その言葉を聞いた。

 

そして、ゆっくり頷いた。

 

「……うん」

 

その返事は、許しではなかった。

 

だが、拒絶でもなかった。

 

焦凍は、兄の謝罪を受け取った。

 

それだけで、何かが解決したわけではない。

 

長いあいだ積み重なってきた嫉妬も、憎しみも、消えたわけではない。

 

ただ、燈矢は初めて、自分の羨望を、弟を責めるための理由から、切り離そうとしていた。

 

焦凍は、その変化を、急いで成果にしなかった。

 

兄が、今、少しだけ違う言葉を選べたこと。

 

そのことだけを、静かに受け止めた。

 

5 それでも、俺は許さない

その日の夜、燈矢は、家族の前で話をすることを選んだ。

 

自分から言い出したことだった。

 

全員が集まる必要はない。

 

話したくない者は、参加しなくてもいい。

 

そう伝えたうえで、燈矢は、リビングに姿を見せた。

 

冷、冬美、夏雄、焦凍。

 

エンデヴァーも、少し離れた場所に座っていた。

 

誰も、すぐには話し始めなかった。

 

燈矢は、部屋の中央に立ったまま、家族を見た。

 

かつて、自分がこの家で、どれほど多くの時間を過ごしていたのか。

 

その記憶は、今も残っている。

 

食卓で笑ったこと。

 

父親の話を聞いたこと。

 

母親が、自分を呼んだこと。

 

妹や弟たちと、同じ家で過ごしていたこと。

 

その記憶は、すべて、過去のものだった。

 

今、目の前にいる家族は、昔の家族とは違う。

 

自分も、昔の自分ではない。

 

だからこそ、燈矢は、何を話せばいいのか分からなかった。

 

それでも、黙っていることだけは、もうやめたかった。

 

「……俺は、まだ、父さんを許してねえ」

 

最初に口にしたのは、その言葉だった。

 

エンデヴァーは、静かに頷いた。

 

「……ああ」

 

燈矢は、続けた。

 

「俺は、父さんに認められたかった。愛されたかった。……それが叶わなかったことを、今でも、許せねえと思ってる」

 

冷は、目を伏せた。

 

冬美は、唇を引き結んでいた。

 

夏雄は、じっと兄を見ている。

 

焦凍は、動かなかった。

 

燈矢は、一度、息を吸った。

 

「……でも、俺が、父さんに愛されたかったことと、俺がしたことは、別なんだと思う」

 

部屋の空気が、わずかに変わった。

 

燈矢自身も、その言葉を口にするまで、何度も迷ったのだろう。

 

「俺は、父さんに愛されたかった。認められたかった。自分が何かを成し遂げたときだけじゃなくて、俺が俺として生きてることを、喜んでほしかった」

 

彼は、家族を見回した。

 

「……その願いが、叶わなかったことは、今でも苦しい。俺は、父さんを許せねえし、自分が失ったものを、簡単に諦められるわけでもない」

 

燈矢は、視線を落とした。

 

「でも、俺が苦しかったからって、俺が誰かを傷つけていいわけじゃなかった」

 

エンデヴァーの拳が、ゆっくりと握られた。

 

燈矢は、父親を見た。

 

「父さんが、俺を傷つけたことは、父さんの責任だ。俺が、他の人を傷つけたことは、俺の責任だ」

 

彼は、言葉を切った。

 

「……どっちか一つだけにすることは、できねえんだな」

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

燈矢は、焦凍を見た。

 

「……焦凍」

 

「ああ」

 

「お前が、俺と同じ怒りを持たないって決めたこと……俺は、まだ、全部は認められねえ」

 

焦凍は、頷いた。

 

「……うん」

 

「俺は、今でも、お前が羨ましい。お前が、自分の人生を選ぼうとしていることが羨ましい。俺には、それができなかったと思っているからだ」

 

燈矢は、拳を握りしめた。

 

「……でも、お前が別の道を選んだからって、お前が俺を裏切ったことにはならねえのかもしれない」

 

焦凍の表情が、わずかに動いた。

 

燈矢は、続けた。

 

「お前が、俺と同じ怒りを持たないからって、俺が苦しんできたことが嘘になるわけじゃねえ。お前が、俺とは違う生き方をするからって、俺が傷ついていたことが、なかったことになるわけでもねえ」

 

燈矢は、目を伏せた。

 

「……俺は、ずっと、お前に、俺と同じ場所に立ってほしかったんだと思う。そうすれば、俺が一人じゃないって、思えたのかもしれない」

 

焦凍は、何も言わなかった。

 

「でも、俺が一人で苦しんでいたからって、お前まで同じ苦しみを抱えなきゃいけないわけじゃねえんだな」

 

燈矢は、顔を上げた。

 

「……それは、少しだけ、分かった」

 

焦凍は、深く頷いた。

 

「……ありがとう、兄さん」

 

燈矢は、すぐに顔をしかめた。

 

「礼を言われるような話じゃねえよ」

 

「……そうかもしれない」

 

焦凍は答えた。

 

「でも、俺は、兄さんがそう考えてくれたことを、嬉しいと思った」

 

燈矢は、何も言わなかった。

 

その表情には、複雑な感情が浮かんでいた。

 

嬉しいと言われることに、慣れていない。

 

弟に、自分の言葉を受け止められることに、慣れていない。

 

そして、弟を羨ましいと思う感情が、まだ消えていない。

 

それでも、燈矢は、弟の言葉を拒絶しなかった。

 

次に、燈矢は、夏雄を見た。

 

「……夏雄」

 

夏雄の肩が、わずかに強張った。

 

「……何だよ」

 

「俺は、お前が今、俺と話したくないと思ってることを、責めるつもりはねえ」

 

夏雄は、目を見開いた。

 

燈矢は、続けた。

 

「俺が戻ってきたからって、お前が、すぐに昔みたいに接する必要はねえ。俺が兄貴だからって、お前が俺を許さなきゃいけないわけでもねえ」

 

夏雄は、長いこと兄を見つめていた。

 

「……俺は、まだ、お前とどう話せばいいか、分からない」

 

「……ああ」

 

「お前が苦しんでいたことは、分かる。父さんが悪かったことも分かる。でも、俺は、まだ、お前がしたことを、どう受け止めればいいか分からない」

 

燈矢は、頷いた。

 

「……そうだろうな」

 

「……だから、今すぐ、お前と話したいとは思えない」

 

夏雄は、はっきりと言った。

 

「でも、いつか、話したいと思う日が来るかもしれない。そのときは、俺から話す」

 

燈矢は、静かに頷いた。

 

「……分かった」

 

夏雄は、少しだけ視線を落とした。

 

「……それまで、勝手に期待すんなよ」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……分かってるよ」

 

それは、和解ではなかった。

 

夏雄が兄を許したわけではない。

 

燈矢が、自分の罪を償い終えたわけでもない。

 

ただ、夏雄が、自分の距離を、自分の意思で決めることを、燈矢が認めた。

 

そのことだけが、確かにあった。

 

燈矢は、冬美を見た。

 

「……冬美」

 

冬美は、ゆっくり顔を上げた。

 

「……何?」

 

燈矢は、少しだけ言葉に迷った。

 

「……お前は、ずっと、家族をつなごうとしてくれてたんだな」

 

冬美は、唇を噛んだ。

 

「……私は、家族に、一緒にいてほしかっただけだよ」

 

「……ああ」

 

「お父さんも、お母さんも、燈矢お兄ちゃんも、夏雄も、焦凍も。みんなが、一緒にいられたらいいと思ってた」

 

冬美は、目を伏せた。

 

「でも、私も、疲れちゃった。みんなのことを考えて、どうすればいいのか、ずっと考えて……自分が何をしたいのか、分からなくなってた」

 

燈矢は、何も言わなかった。

 

「……だから、今は、少し休みたい。家族のことを考えない時間も、ほしい」

 

冬美は、顔を上げた。

 

「それでも、私は、燈矢お兄ちゃんと、いつか話したいと思ってる」

 

燈矢は、少しだけ目を伏せた。

 

「……そうか」

 

「でも、今すぐじゃない。私にも、時間が必要なの」

 

燈矢は、頷いた。

 

「……分かった」

 

冬美は、涙を拭った。

 

「……ありがとう」

 

燈矢は、何も言わなかった。

 

自分が帰ってきたことで、家族が、すぐに昔のように戻ると思っていたわけではない。

 

だが、どこかで、家族が自分を迎えてくれることを期待していたのかもしれない。

 

それぞれが、自分とは違う時間を生きてきた。

 

自分のいない時間に、家族は傷つき、迷い、悩んでいた。

 

そして、今も、それぞれが自分の答えを探している。

 

燈矢は、最後に母親を見た。

 

「……母さん」

 

冷は、息子を見つめた。

 

「……何?」

 

「俺は、まだ、母さんに対しても、何を思ってるのか分からねえ」

 

冷は、頷いた。

 

「……ええ」

 

「俺を守れなかったことも、今になって、俺の話を聞こうとしていることも……どっちも、簡単には受け止められねえ」

 

「……そうね」

 

燈矢は、顔を伏せた。

 

「……でも、俺が苦しかったことを、母さんが聞こうとしてくれてることは、分かってる」

 

冷の目に、涙が浮かんだ。

 

「……ありがとう」

 

燈矢は、すぐに首を横に振った。

 

「……礼を言われることじゃねえよ」

 

冷は、小さく頷いた。

 

「……そうね」

 

それ以上、何も言わなかった。

 

燈矢は、家族を見回した。

 

「……俺は、これから、どうすればいいのか、まだ分からねえ」

 

その言葉を、誰も急いで埋めなかった。

 

「俺が、自分の罪をどう償うのか。父さんと、どう向き合うのか。お前たちと、どう関わっていくのか……まだ、何も決まってねえ」

 

燈矢は、息を吸った。

 

「でも、俺は、自分が苦しかったことを理由に、誰かを傷つけ続けることは、もうしたくねえ」

 

それは、完成した決意ではなかった。

 

自分が、これから絶対に間違えないと保証する言葉でもない。

 

それでも、燈矢が、自分の口で、その未来を望んだことは確かだった。

 

「……俺は、まだ、怒ってる」

 

彼は言った。

 

「父さんを許してねえ。自分が失ったものも、まだ諦められねえ。……でも、俺が何を望むかまで、父さんへの怒りだけで決めるのは、違う気がしてる」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

燈矢は、続けた。

 

「……だから、俺は、もう少し考える」

 

その言葉に、家族の誰も、すぐに希望を口にしなかった。

 

誰も、これで大丈夫だとは言わなかった。

 

ただ、燈矢が自分で考えることを、受け止めた。

 

その場にいる全員が、同じ答えを出したわけではない。

 

父親を許せない者がいる。

 

兄と話すために、時間が必要な者がいる。

 

自分の人生を選び直そうとしている者がいる。

 

そして、まだ自分が何を望むのか分からない者がいる。

 

それでも、誰か一人の答えを、家族全員の正解にはしなかった。

 

それが、その夜、轟家が初めて選んだことだった。

 

6 父の前に立つ

翌日、燈矢は、エンデヴァーに会うことを選んだ。

 

自分から、話をしたいと伝えたのだ。

 

エンデヴァーは、すぐに返事をしなかった。

 

息子が自分に会いたいと思っている。

 

その事実に、喜びが湧き上がりそうになった。

 

しかし、その喜びを、表に出すことはできなかった。

 

燈矢が自分に会いたいと言ったからといって、関係が改善したと考えてはいけない。

 

息子が自分と話をしようとしているからといって、許しが近づいたと思ってはいけない。

 

今、燈矢が求めているのは、父親の期待に応えることではない。

 

自分自身の言葉で、父親と向き合うことなのだ。

 

「……分かった」

 

エンデヴァーは、静かに答えた。

 

二人は、庭に面した部屋で向かい合って座った。

 

燈矢は、しばらく父親を見つめていた。

 

かつて、自分が憧れていた背中。

 

追いつきたかった背中。

 

追い越したかった背中。

 

そして、いつからか、憎しみを向ける相手になった背中。

 

今、目の前にいる父親は、かつてのように大きくは見えなかった。

 

年を重ねたからだろうか。

 

自分が、父親の姿を違う目で見るようになったからだろうか。

 

あるいは、自分が、父親の背中を追いかけることを、少しだけやめ始めたからだろうか。

 

燈矢は、分からなかった。

 

「……父さん」

 

エンデヴァーは、顔を上げた。

 

「ああ」

 

燈矢は、深く息を吸った。

 

「俺は、父さんに認められたかった」

 

エンデヴァーの顔が強張った。

 

「……ああ」

 

「父さんを超えたかった。父さんみたいになりたかった。父さんに、俺が強いことを認めてほしかった」

 

燈矢は、言葉を切った。

 

「……でも、俺は、それだけじゃなかった」

 

エンデヴァーは、何も言わなかった。

 

「俺は、父さんに愛されたかった」

 

その言葉が、部屋に落ちた。

 

エンデヴァーの表情が、歪んだ。

 

燈矢は、目を逸らさなかった。

 

「俺が、何かを成し遂げたときだけじゃなくて。父さんの期待に応えられたときだけじゃなくて……俺が、俺として生きてることを、喜んでほしかった」

 

エンデヴァーは、唇を引き結んだ。

 

燈矢は、続けた。

 

「俺が、父さんを超えられなくても。俺の炎が、父さんの望むものにならなくても。……俺が、俺でいることを、父さんに喜んでほしかったんだよ」

 

エンデヴァーは、目を閉じた。

 

「……燈矢」

 

「……今さら、謝られても、俺の気持ちが変わるわけじゃねえ」

 

燈矢は言った。

 

「父さんが、今、俺のことをどう思ってるのか。それが、本当なのか。俺には、分からねえ」

 

エンデヴァーは、静かに頷いた。

 

「……そうだな」

 

「俺は、父さんを許してねえ」

 

「ああ」

 

「父さんがしたことは、間違ってた。俺を、俺の身体や気持ちより、父さんの夢のために扱ったことも。母さんや、焦凍たちを傷つけたことも……俺は、許してねえ」

 

エンデヴァーは、拳を握りしめた。

 

「……ああ」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

そして、ゆっくりと続けた。

 

「……でも、俺が父さんを憎み続けることだけで、俺の人生を終わらせたくもねえんだ」

 

エンデヴァーが顔を上げた。

 

燈矢は、視線を落とした。

 

「俺は、父さんに愛されたかった。その気持ちは、今でも残ってる。父さんを許せない気持ちも、今でも残ってる。……どっちか一つだけを選ぶことは、できねえんだ」

 

彼は、父親を見た。

 

「だから、俺は、これから、自分が何を望むのかを考えたい」

 

エンデヴァーは、しばらく何も言わなかった。

 

その沈黙のなかで、彼は、これまで何度も考えてきたことを思い返していた。

 

自分は、息子に何を望んでいたのか。

 

自分は、何を与えようとしていたのか。

 

そして、自分が、何を奪ったのか。

 

かつて、燈矢の炎を見たとき、自分は可能性を感じた。

 

自分を超える存在になるかもしれない。

 

自分の夢を、次の世代が叶えてくれるかもしれない。

 

その期待が、息子を傷つけた。

 

自分は、息子の能力を評価した。

 

息子の努力を求めた。

 

息子の未来を、自分の理想へ近づけようとした。

 

その一方で、息子が自分を愛してほしいと願っていたことを、どれほど理解していたのだろう。

 

自分は、息子に、何を与えようとしていたのか。

 

父親としての愛情を、与えていたつもりだった。

 

しかし、燈矢が受け取ったものは、自分が与えたつもりのものとは違っていた。

 

エンデヴァーは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……俺は、お前を愛していたと言いたい」

 

燈矢の顔が強張った。

 

エンデヴァーは、続けた。

 

「だが、それを言うことで、お前が受け取れなかったものを、なかったことにしたくはない」

 

彼は、自分の手を見た。

 

「俺が、お前を愛していたつもりだったとしても、お前にその愛情が届かなかったことは、変わらない。俺が、お前の将来を心配していたとしても、俺が、お前の意思を無視したことは、変わらない」

 

エンデヴァーは、顔を上げた。

 

「……俺は、お前の父親だった。だからこそ、お前が何を望んでいたのかを、聞くべきだった」

 

燈矢は、黙って聞いていた。

 

「お前が、どれだけ強くなりたいと思っていたのか。なぜ、そこまで強くなりたいと願っていたのか。俺が、その理由を聞こうとしていたなら……」

 

言葉が止まった。

 

エンデヴァーは、首を横に振った。

 

「……いや。今さら、仮定の話をしても意味はない」

 

燈矢は、父親を見ていた。

 

エンデヴァーは、深く頭を下げた。

 

「……すまなかった」

 

燈矢は、何も言わなかった。

 

その謝罪を聞いて、心が晴れることはなかった。

 

父親が、自分の罪を認めたからといって、過去が変わるわけではない。

 

父親が、今になって自分の願いを理解しようとしているからといって、幼いころの自分に、その言葉が届くわけではない。

 

それでも、父親が、自分の願いを聞いたことは、確かだった。

 

燈矢は、ゆっくり息を吐いた。

 

「……俺は、まだ、父さんを許さねえ」

 

エンデヴァーは、頭を上げた。

 

「ああ」

 

「父さんを許せるようになるかどうかも、分からねえ」

 

「ああ」

 

「……でも、父さんが、今、自分のしたことを認めようとしてるのは、分かる」

 

エンデヴァーの目が揺れた。

 

燈矢は、視線を落とした。

 

「……それが、何かを変えるかどうかは、まだ分からねえけどな」

 

エンデヴァーは、ゆっくり頷いた。

 

「……それでいい」

 

燈矢は、父親を見た。

 

「……何?」

 

「お前が、今すぐ何かを決める必要はない。俺を許すかどうかも、俺とどう関わるかも……お前自身が決めることだ」

 

エンデヴァーは、静かに言った。

 

「俺は、責任を取り続ける。それは、お前に許してもらうためではない。お前が許さなかったとしても、俺がしたことは、俺が引き受けなければならない」

 

燈矢は、長いこと父親を見つめていた。

 

そして、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……話は、ここまでだ」

 

エンデヴァーは、頷いた。

 

「ああ」

 

燈矢は、部屋を出ようとした。

 

その背中に、エンデヴァーが声をかけた。

 

「……燈矢」

 

燈矢は、振り返らなかった。

 

「……何だよ」

 

エンデヴァーは、言葉を探した。

 

父親として、何かを伝えたかった。

 

息子を愛していると。

 

息子の存在を喜んでいると。

 

だが、その言葉を口にすることで、息子に、それを受け取るよう求めてしまうかもしれない。

 

だから、エンデヴァーは、ただ一つだけ告げた。

 

「……今日、話をしてくれて、ありがとう」

 

燈矢は、足を止めた。

 

しばらく黙っていた。

 

そして、振り返らないまま答えた。

 

「……別に、父さんのために話したわけじゃねえよ」

 

「ああ」

 

「俺が、自分のために話したんだ」

 

エンデヴァーは、静かに頷いた。

 

「……そうだな」

 

燈矢は、部屋を出た。

 

父親の謝罪を受け入れたわけではない。

 

許したわけでもない。

 

ただ、自分の言葉で、父親に伝えた。

 

自分が何を望んでいたのか。

 

何を苦しんでいたのか。

 

そして、これから何を選ぼうとしているのか。

 

それは、父親に認めてもらうためではなかった。

 

父親に、愛してもらうためでもなかった。

 

自分の人生を、自分の言葉で語るためだった。

 

そのことに、燈矢は、ほんの少しだけ意味を感じていた。

 

7 嫉妬の終わりではなく、嫉妬に人生を渡さない

夜、焦凍は、燈矢と縁側に座っていた。

 

二人は、しばらく黙って庭を見ていた。

 

燈矢は、父親と話をしたことを、まだ弟に話していなかった。

 

焦凍も、無理に聞こうとはしなかった。

 

しばらくして、燈矢が口を開いた。

 

「……焦凍」

 

「何だ?」

 

「俺は、まだ、お前が羨ましい」

 

焦凍は、兄を見た。

 

燈矢は、庭から目を逸らさなかった。

 

「お前が、自分の人生を選ぼうとしていることが羨ましい。父さんに認められなくても、自分の価値を、父さんの評価だけで決めないようにしていることが羨ましい」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

「……俺は、ずっと、父さんのことばっかり考えてたからな」

 

焦凍は、静かに答えた。

 

「……俺も、前はそうだった」

 

燈矢は、頷いた。

 

「ああ。……お前も、そうだったんだよな」

 

その言葉には、以前よりも少しだけ、弟自身を見ようとする響きがあった。

 

「……俺は、お前が羨ましかった。お前が持っているものを見て、俺が失ったものだと思ってた。お前が、父さんに期待されていることを見て、俺は、父さんから捨てられたんだと思ってた」

 

燈矢は、ゆっくりと続けた。

 

「でも、お前は、お前で苦しんでた。父さんの期待を、望んでいたわけじゃなかった」

 

焦凍は、頷いた。

 

「……ああ」

 

「……俺は、そのことを、見ようとしなかった」

 

燈矢は、自分の手を見た。

 

「俺は、お前が羨ましかった。その気持ちは、今でもある。……でも、それを、お前が悪い理由にするのは、違うんだろうな」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

「……そうだと思う」

 

燈矢は、しばらく何も言わなかった。

 

そして、ぽつりと呟いた。

 

「……俺は、ずっと、嫉妬してたんだな」

 

焦凍は、兄を見た。

 

燈矢は、続けた。

 

「お前に。父さんに。自分がなれなかったものになれる奴らに。……自分が、欲しかったものを持っている奴らに」

 

彼は、苦笑した。

 

「……俺は、羨ましいと思うことを、ずっと恥ずかしいと思ってたんだ。自分が、欲しいものを手に入れられなかったことを認めるのが、嫌だった」

 

焦凍は、何も言わなかった。

 

「だから、嫉妬を、憎しみに変えた。相手が悪いことにすれば、自分が失ったものを、直視しなくても済むからな」

 

燈矢は、目を伏せた。

 

「……でも、俺が嫉妬したことと、相手が悪かったことは、別なんだな」

 

焦凍は、静かに答えた。

 

「……ああ」

 

「……俺が、羨ましいと思ったことは、俺の気持ちだ。俺が、その気持ちをどう扱うかも、俺が決めることだ」

 

燈矢は、顔を上げた。

 

「……お前の人生を、俺の失ったものの代わりにすることはできねえんだな」

 

焦凍は、頷いた。

 

「……そうだと思う」

 

燈矢は、ゆっくり息を吐いた。

 

「……俺は、まだ、お前を羨ましいと思うと思う」

 

焦凍は、少しだけ笑った。

 

「……そうか」

 

「お前が、父さんへの怒りだけで生きないと決めたことも、羨ましいと思う。……俺には、まだ、そんなふうにできるか分からねえからな」

 

焦凍は、兄を見た。

 

「……俺だって、うまくできるか分からない」

 

燈矢は、顔を上げた。

 

「……何?」

 

「俺は、そう決めた。でも、毎日、同じように考えられるとは限らない。父さんに腹が立つ日もあるし、過去を思い出して、怒りが強くなる日もあると思う」

 

焦凍は、自分の手を見つめた。

 

「それでも、俺は、怒りがあることと、怒りだけで生きることを、分けて考えたい」

 

燈矢は、静かに聞いていた。

 

「……俺は、兄さんの嫉妬を、なくしてほしいとは思わない」

 

焦凍は、兄を見た。

 

「兄さんが、俺を羨ましいと思うことを、やめてほしいわけじゃない。そう思う理由があるんだろうし、その気持ちを、無理に変えることはできないと思う」

 

燈矢は、黙っていた。

 

「でも、兄さんが羨ましいと思うことを、俺の責任にしないでほしい」

 

焦凍は、はっきりと言った。

 

「俺が、自分の人生を選ぼうとすることを、兄さんへの裏切りにしないでほしい」

 

燈矢は、目を閉じた。

 

その言葉は、痛かった。

 

弟が、自分の人生を選ぶこと。

 

その選択が、自分を否定するものではないと理解すること。

 

それは、燈矢にとって、自分の過去を一つの形に固定し続けることをやめるよう求められているかのようだった。

 

自分が苦しんだ。

 

自分が失った。

 

自分が憎んだ。

 

その事実は、変わらない。

 

だが、その事実を理由に、弟の人生まで自分のものにすることはできない。

 

弟が選ぶ道は、弟のものだ。

 

自分が選んできた道は、自分のものだ。

 

燈矢は、ゆっくりと目を開いた。

 

「……分かった」

 

焦凍は、兄を見た。

 

「……本当に?」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……全部分かったわけじゃねえよ。今でも、お前が羨ましい。腹が立つこともある。……お前が、俺とは違う道を選ぶのを見て、俺が置いていかれるように感じることもある」

 

彼は、少しだけ顔を歪めた。

 

「……でも、それが、お前のせいだとは言わない」

 

焦凍は、息を呑んだ。

 

燈矢は、続けた。

 

「俺が、そう感じるのは、俺の気持ちだ。俺が、その気持ちを、どうするかも、俺が考えなきゃならない」

 

彼は、弟を見た。

 

「……お前は、お前の人生を生きろ」

 

焦凍は、しばらく何も言えなかった。

 

燈矢は、顔を逸らした。

 

「……ただし、俺がまだお前を羨ましいと思ってることは、忘れるなよ」

 

焦凍は、ようやく小さく笑った。

 

「……忘れない」

 

「俺は、すぐに変われるわけじゃねえからな」

 

「……分かってる」

 

燈矢は、少しだけ笑った。

 

その笑いは、完全な和解の笑みではなかった。

 

嫉妬が消えたわけではない。

 

憎しみがなくなったわけでもない。

 

ただ、燈矢は、自分の嫉妬を、弟に背負わせることをやめようとしていた。

 

自分が羨ましいと感じること。

 

自分が、失ったものを思い出すこと。

 

その感情を、自分自身のものとして扱うこと。

 

それは、燈矢にとって、初めての選択に近いものだった。

 

焦凍は、兄の横顔を見た。

 

「……兄さん」

 

「何だ?」

 

「俺は、兄さんと違う道を歩く。でも、兄さんのことを、忘れたいわけじゃない」

 

燈矢は、弟を見た。

 

焦凍は、続けた。

 

「兄さんが、何を望んでいたのか。何を失ったと思っていたのか。どうして、憎しみを抱えてきたのか……俺は、知っていたい」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

そして、静かに頷いた。

 

「……そうか」

 

焦凍は、微笑んだ。

 

「……ああ」

 

二人は、庭を眺めた。

 

その沈黙のなかに、同じ答えはなかった。

 

兄は、まだ怒っている。

 

弟も、父親を許してはいない。

 

二人とも、過去を忘れたわけではない。

 

けれど、互いが違う道を選ぶことを、少しずつ、認めようとしていた。

 

それが、今の二人にできることだった。

 

嫉妬は、消えない。

 

羨望も、残る。

 

自分が失ったものを思い出すたび、燈矢は、焦凍を羨ましく感じるかもしれない。

 

だが、その感情を、弟の罪として扱わないことはできる。

 

そして、焦凍もまた、兄の嫉妬を否定することなく、自分の人生を選ぶことができる。

 

それは、同じ傷を持つ者が、同じ憎しみを抱えて生きなければならないわけではないという、小さな証明だった。

 

8 名前を捨てず、憎しみも捨てず

翌朝、燈矢は、家族に一つのことを伝えた。

 

「……俺は、これから、少しずつ、自分がしたことと向き合っていく」

 

リビングにいた家族が、顔を上げる。

 

燈矢は、続けた。

 

「俺が、何をしたのか。誰を傷つけたのか。自分が、どういう選択をしてきたのか……そのことを、なかったことにはしない」

 

冷は、静かに聞いていた。

 

冬美も、夏雄も、焦凍も、何も言わなかった。

 

「……俺が、これから何をすればいいのか、まだ分からねえ。すぐに、何かが変わるとも思ってねえ」

 

燈矢は、自分の手を見た。

 

「でも、俺は、自分が苦しかったことだけを理由にして、これからも誰かを傷つけていいとは思わない」

 

エンデヴァーは、目を伏せた。

 

燈矢は、父親を見た。

 

「……父さん」

 

「ああ」

 

「俺は、父さんを許してねえ。これからも、許せるかどうか分からない」

 

「ああ」

 

「……でも、俺は、自分がしたことを、父さんのせいだけにはしない」

 

エンデヴァーは、息を呑んだ。

 

燈矢は、続けた。

 

「父さんが、俺を傷つけたことは、父さんの責任だ。俺が、他の人を傷つけたことは、俺の責任だ」

 

彼は、一度言葉を切った。

 

「……俺は、これから、その両方を、ちゃんと考えたい」

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

燈矢は、焦凍を見た。

 

「……焦凍」

 

「ああ」

 

「俺は、まだ、お前とは違う道を歩いてる。お前の選択を、全部認められるわけじゃねえ」

 

焦凍は、頷いた。

 

「……分かってる」

 

「でも、俺は、お前の人生を、俺の失ったものの代わりにするのを、やめたいと思ってる」

 

焦凍の目が揺れた。

 

燈矢は、顔を逸らした。

 

「……すぐには、できねえかもしれない。でも、そうしたいと思ってる」

 

焦凍は、静かに答えた。

 

「……うん」

 

燈矢は、冬美を見た。

 

「……冬美」

 

「……何?」

 

「俺は、お前が、家族をつなごうとしてきたことを、今になって、少しだけ分かった気がする」

 

冬美は、目を伏せた。

 

「……でも、俺が戻ってきたからって、お前が、また頑張らなきゃいけないわけじゃねえ」

 

冬美は、顔を上げた。

 

燈矢は、続けた。

 

「お前が、休みたいなら、休めばいい。俺のことを、今すぐ受け入れられないなら、それでもいい」

 

冬美は、ゆっくり頷いた。

 

「……ありがとう、燈矢お兄ちゃん」

 

燈矢は、顔を逸らした。

 

「……礼を言われることじゃねえよ」

 

次に、夏雄を見た。

 

「……夏雄」

 

夏雄は、少しだけ表情を硬くした。

 

「……何だよ」

 

「俺は、お前が今、俺と話したくないと思ってることを、責めない」

 

夏雄は、黙って聞いていた。

 

「お前が、俺のことを許せるかどうかは、お前が決めることだ。俺が、兄貴だからって、許してもらえるとは思ってねえ」

 

夏雄は、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かった」

 

燈矢は、最後に母親を見た。

 

「……母さん」

 

冷は、息子を見つめた。

 

「……何?」

 

燈矢は、少しだけ迷った。

 

そして、言った。

 

「……俺は、母さんが、俺の話を聞こうとしてくれてることを、知ってる」

 

冷の目に、涙が浮かんだ。

 

「……ありがとう」

 

燈矢は、すぐに首を横に振った。

 

「……礼を言われるようなことじゃねえ」

 

そして、少しだけ息を吸った。

 

「……俺は、まだ、母さんのことを、どう思ってるのか分からねえ。でも、母さんが苦しんでいたことも、母さんが俺を大切に思っていたことも……どっちも、考えていきたいと思ってる」

 

冷は、涙を拭った。

 

「……ええ」

 

燈矢は、家族を見回した。

 

「……俺は、今すぐ、昔の家族に戻りたいとは思ってねえ」

 

その言葉に、冬美が顔を上げた。

 

燈矢は続けた。

 

「昔に戻ったところで、俺は、また、父さんの期待を追いかけるだけかもしれない。お前たちも、また、それぞれが傷ついたことを、なかったことにしようとするかもしれない」

 

彼は、ゆっくりと言った。

 

「……俺は、そういう家族に戻りたいわけじゃねえ」

 

エンデヴァーは、目を伏せた。

 

燈矢は、続けた。

 

「俺は、これから、どういう家族になれるのか、分からねえ。そもそも、俺たちが、これからも家族でいたいと思うのかどうかも……まだ、分からねえ」

 

その言葉は、残酷なものだった。

 

だが、同時に、正直なものでもあった。

 

家族だから、元に戻らなければならない。

 

家族だから、許さなければならない。

 

家族だから、全員が同じ場所に戻らなければならない。

 

そんな答えを、燈矢は、もう口にしなかった。

 

「……でも、俺は、自分の人生を、考えたい」

 

彼は、自分の手を見た。

 

「俺が何を望んでいるのか。何をしたいのか。何をするべきなのか。そのことを、父さんへの怒りだけで決めるのは、もうやめたいと思ってる」

 

燈矢は、焦凍を見た。

 

「……お前が、そうしてるみたいにな」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

「……ああ」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……まだ、真似できるとは思ってねえけどな」

 

焦凍も、少しだけ笑った。

 

「……真似しなくてもいいと思う」

 

燈矢は、弟を見た。

 

焦凍は、続けた。

 

「兄さんは、兄さんのやり方で考えればいい」

 

燈矢は、長いこと弟を見つめていた。

 

そして、小さく頷いた。

 

「……そうだな」

 

その言葉に、誰も拍手をしなかった。

 

誰も、これで解決したとは言わなかった。

 

燈矢が、これから責任を取ると言ったからといって、過去の罪が消えたわけではない。

 

父親が謝罪したからといって、燈矢が許したわけでもない。

 

焦凍が兄の話を聞いているからといって、兄弟の関係が元に戻ったわけでもない。

 

冬美が、兄と話すことを望んでいるからといって、今すぐ話さなければならないわけでもない。

 

夏雄が、距離を取りたいと思っていることも、変わらない。

 

冷が、家族を愛していることと、自分の時間を持ちたいと思っていることも、変わらない。

 

ただ、家族全員が、それぞれの気持ちを、自分の言葉で伝えた。

 

そして、誰かの答えを、家族全員の正解にしなかった。

 

そのことだけが、確かにあった。

 

燈矢は、静かに息を吐いた。

 

「……俺は、これから、どうなるか分からねえ」

 

誰も答えなかった。

 

燈矢は、続けた。

 

「でも、俺が何を望むかまで、誰かに決めてもらうのは、もうやめたい」

 

焦凍は、兄を見つめた。

 

そして、静かに頷いた。

 

「……うん」

 

その短い返事は、許しではなかった。

 

しかし、燈矢が自分自身の人生を選ぼうとしたことを、焦凍が受け止めた返事だった。

 

9 憎しみを、遺産にしない

その夜、焦凍は、燈矢の部屋を訪れた。

 

「……兄さん」

 

「何だ?」

 

「……少し、話したいことがある」

 

燈矢は、椅子に座ったまま頷いた。

 

「……いいぞ」

 

焦凍は、少し離れた椅子に座った。

 

しばらく、二人は何も話さなかった。

 

やがて、焦凍が口を開いた。

 

「……兄さんは、俺に、何かを受け継いでほしいと思うか?」

 

燈矢は、眉を寄せた。

 

「……何を?」

 

「兄さんが、これまで抱えてきた怒りとか、苦しみとか……そういうものを」

 

燈矢は、長いこと黙っていた。

 

そして、ゆっくりと首を横に振った。

 

「……いや」

 

焦凍は、少しだけ目を見開いた。

 

燈矢は、続けた。

 

「俺は、お前に、俺の怒りを受け継いでほしいと思ってたのかもしれない。……いや、正直に言えば、そう思ってたこともあった」

 

彼は、自分の手を見た。

 

「お前が、俺と同じように父さんを憎んでくれれば、俺は、一人じゃないと思えたかもしれない。お前が、俺と同じように怒ってくれれば、俺が苦しんできたことを、分かってもらえた気がしたかもしれない」

 

燈矢は、焦凍を見た。

 

「……でも、それは、お前の人生を、俺のために使わせることだったんだな」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

「……そうだと思う」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……俺は、何度も、同じことをしてたんだな」

 

「……何が?」

 

「父さんに、自分の人生を決められたと思いながら、今度は、お前の人生を、俺の苦しみで決めようとしてた」

 

燈矢は、顔を伏せた。

 

「……俺は、父さんが俺にしたことを、同じように、お前にしようとしてたのかもしれない」

 

焦凍は、何も言わなかった。

 

燈矢は続けた。

 

「父さんは、俺に、自分の夢を受け継いでほしかった。俺は、それを、愛されるための条件だと思った。……そして、俺は、お前に、自分の怒りを受け継いでほしかった」

 

彼は、深く息を吐いた。

 

「……俺が苦しんでいたことを、分かってほしかったからだ」

 

焦凍は、兄の言葉を聞いていた。

 

「でも、お前は、お前の人生を選んでいい」

 

燈矢は、はっきりと言った。

 

「俺の怒りを受け継がなくていい。俺の苦しみを、代わりに背負わなくていい。俺が、何を失ったと思っているのかを、分かろうとしてくれるだけで……それを、お前の人生のすべてにする必要はねえんだ」

 

焦凍の目が、揺れた。

 

燈矢は、顔を逸らした。

 

「……俺は、まだ、父さんを憎んでる。お前が羨ましいと思うことも、あるだろう。これから、また、怒りが強くなる日もあると思う」

 

彼は、ゆっくりと続けた。

 

「でも、その怒りを、お前に受け継がせることはしない」

 

焦凍は、長いこと兄を見つめていた。

 

「……兄さん」

 

「何だ?」

 

「……ありがとう」

 

燈矢は、少しだけ顔をしかめた。

 

「……礼を言うなよ」

 

「……でも、嬉しいと思ったから」

 

焦凍は、正直に答えた。

 

「俺は、兄さんの苦しみを、なかったことにしたくない。兄さんが、何を望んでいたのかを、忘れたくない」

 

燈矢は、黙って聞いていた。

 

「でも、俺は、兄さんの怒りを受け継ぐことはできない。俺が、同じように父さんを憎み続けることが、兄さんを大切にすることだとは思わないから」

 

焦凍は、兄を見た。

 

「……だから、兄さんが、そう言ってくれたことが、嬉しい」

 

燈矢は、目を伏せた。

 

「……俺は、今まで、誰かに、何かを受け継がせることばかり考えてたのかもしれねえな」

 

「……」

 

「父さんの夢。俺の怒り。……誰かが、俺の望んだものを受け継いでくれれば、俺が失ったものにも、意味があると思える気がした」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……でも、誰かに受け継がせたところで、俺が失ったものが戻ってくるわけじゃねえんだな」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「……俺が、何を失ったのか。それをどう受け止めるのか。俺自身が、考えなきゃならねえんだな」

 

「ああ」

 

燈矢は、しばらく弟を見つめていた。

 

そして、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……なら、俺は、俺の人生を考える」

 

焦凍は、兄を見た。

 

燈矢は続けた。

 

「俺が、これから何を望むのか。何をするのか。……その答えを、誰かに受け継がせようとするんじゃなくて、自分で探す」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

「……うん」

 

燈矢は、少しだけ笑った。

 

「……お前も、お前の人生を生きろ」

 

焦凍は、微笑んだ。

 

「ああ」

 

二人は、しばらく黙っていた。

 

燈矢は、まだ、過去を許していない。

 

焦凍も、兄の罪を許したわけではない。

 

それでも、燈矢は、弟の未来に、自分の怒りを押しつけないと決めた。

 

焦凍は、兄の苦しみを否定せず、自分自身の人生を選び続けると決めた。

 

その二つの選択は、互いに違うものだった。

 

けれど、その違いを、今すぐ埋める必要はなかった。

 

憎しみを受け継がないことは、過去を否定することではない。

 

過去を忘れることでもない。

 

傷ついた事実を、なかったことにすることでもない。

 

ただ、その傷を、次の誰かの人生の条件にしないこと。

 

それが、二人が初めて、同じ場所に立って考えたことだった。

 

10 荼毘の終わりではない

翌朝、燈矢は、鏡の前に立っていた。

 

鏡に映る自分を、長いこと見つめる。

 

そこにいるのは、燈矢だった。

 

そして、荼毘だった。

 

その二つは、別々の人間ではない。

 

燈矢として生きていた時間が、荼毘としての行動を消すわけではない。

 

荼毘として行ったことが、燈矢としての願いをなかったことにするわけでもない。

 

自分が父親に愛されたかったこと。

 

認められたかったこと。

 

その願いが、憎しみに変わってしまったこと。

 

そして、その憎しみを抱えたまま、他者を傷つける選択を重ねたこと。

 

そのすべてが、自分の人生に含まれていた。

 

燈矢は、鏡に映る自分から目を逸らさなかった。

 

「……俺は、まだ、荼毘だ」

 

小さく呟く。

 

その名前を、捨てるつもりはなかった。

 

それは、ただの名前ではなかった。

 

自分が何をしてきたのかを、忘れないための名前でもあった。

 

そして、燈矢という名前も、捨てるつもりはなかった。

 

父親に愛されたかった自分。

 

炎を使うことを楽しんでいた自分。

 

弟を羨ましいと思っていた自分。

 

父親に振り向いてほしかった自分。

 

そのすべてを、なかったことにはしない。

 

燈矢は、鏡から目を離した。

 

自分は、これからも、間違えるかもしれない。

 

父親への怒りが、再び強くなるかもしれない。

 

弟への嫉妬が、戻ってくるかもしれない。

 

自分が失ったものを考えるたび、苦しみが押し寄せることもあるだろう。

 

それでも、その感情を、誰かを傷つけるための理由にしない。

 

その選択を、これから何度も繰り返さなければならない。

 

一度、そう決めたからといって、明日からすべてが変わるわけではない。

 

それでも、選び直すことはできる。

 

燈矢は、自分の手を見た。

 

炎が生まれたころ、自分は、ただ嬉しかった。

 

自分の中から、何かが生まれてくる。

 

自分に、何ができるのか知りたい。

 

もっと強くなりたい。

 

父親に、自分を見てほしい。

 

その願いが、憎しみに変わる前の自分。

 

彼は、その自分を、ようやく思い出していた。

 

そして、その自分を、ただ情けないものとして切り捨てることを、少しだけやめた。

 

愛されたいと願ったことは、弱さではなかった。

 

認められたいと願ったことも、恥ではなかった。

 

その願いが叶わなかったことは、確かに苦しかった。

 

しかし、愛されなかったと感じたことを理由に、他者を傷つけることが正当化されるわけではなかった。

 

自分の願いを認めること。

 

自分の罪を認めること。

 

その両方を、これからも続ける。

 

それが、燈矢にできることだった。

 

鏡の中の自分は、何も言わない。

 

当然だった。

 

答えをくれるのは、鏡ではない。

 

父親でも、母親でも、弟でもない。

 

自分が、何を望むのか。

 

どう生きるのか。

 

その答えを探すのは、自分自身だった。

 

燈矢は、静かに息を吐いた。

 

「……荼毘は、終わらねえよ」

 

その言葉は、以前のような挑発ではなかった。

 

「俺がやったことは、消えねえからな」

 

彼は、鏡を見つめた。

 

「……でも、荼毘としてしか生きられないって、決まってるわけでもねえ」

 

その言葉を口にしたとき、燈矢は、ほんの少しだけ、自分の未来を想像できた。

 

それは、幸せな未来ではなかった。

 

すべての人に許される未来でもなかった。

 

父親と和解し、家族と再び笑い合う未来とも限らなかった。

 

ただ、自分が何を望むかを、自分自身で考える未来だった。

 

その未来が、どこへ向かうのか。

 

まだ、分からない。

 

だが、燈矢は、その問いを持ち続けることを選んだ。

 

11 兄弟の約束

その日の夕方、焦凍は、燈矢と庭に出た。

 

二人は、木々のあいだを歩いた。

 

以前のように、気まずい沈黙が続いた。

 

しかし、今は、その沈黙を無理に埋める必要はないように感じられた。

 

燈矢が、ぽつりと口を開いた。

 

「……焦凍」

 

「何だ?」

 

「俺は、まだ、父さんを許してねえ」

 

「ああ」

 

「お前が、父さんへの憎しみだけで生きないって決めたことも、まだ、完全には分からねえ」

 

「……うん」

 

「でも、俺は、お前の人生を、俺の苦しみで決めない」

 

焦凍は、立ち止まった。

 

燈矢は、少しだけ顔を逸らした。

 

「……俺が、嫉妬したことは、俺の気持ちだ。俺が、羨ましいと思うことも、俺の気持ちだ。……でも、その気持ちを理由に、お前の人生を、俺の望む形に変えようとはしない」

 

焦凍は、ゆっくり頷いた。

 

「……ありがとう、兄さん」

 

燈矢は、苦笑した。

 

「……だから、礼を言うなって」

 

「……悪い」

 

「謝るな」

 

「……分かった」

 

二人は、少しだけ笑った。

 

その笑いは、長い時間を取り戻すものではなかった。

 

兄が弟を憎んでいたことも。

 

弟が、兄の苦しみを知らずに生きてきたことも。

 

消えたわけではない。

 

だが、二人は今、自分たちが互いに何を望んでいるのかを、少しだけ知っていた。

 

燈矢は、弟に、自分の怒りを理解してほしかった。

 

焦凍は、兄の苦しみを知りたかった。

 

その二つの願いは、完全には同じではない。

 

だが、互いを否定する必要もなかった。

 

「……兄さん」

 

焦凍が言った。

 

「何だ?」

 

「俺は、これからも、兄さんと話したいと思ってる」

 

燈矢は、弟を見た。

 

焦凍は続けた。

 

「でも、兄さんが、今は話したくないと思うなら、無理に話すつもりはない。俺が、兄さんと話したいと思っていることと、兄さんが話したいかどうかは、別のことだから」

 

燈矢は、少しだけ目を細めた。

 

「……本当に、変な奴だな」

 

「……そうか?」

 

「ああ」

 

燈矢は、庭を見た。

 

「……でも、そういうところは、少しだけ、羨ましいと思う」

 

焦凍は、兄を見つめた。

 

燈矢は、顔を逸らした。

 

「……俺は、ずっと、誰かに、自分の気持ちを分かってほしいと思ってた。俺が苦しいなら、誰かも一緒に苦しんでほしいと思っていたのかもしれない」

 

彼は、静かに続けた。

 

「でも、それだけじゃ、駄目なんだな。誰かに、自分と同じ気持ちを持ってもらわなくても、自分が苦しかったことを、なかったことにしなくていいんだな」

 

焦凍は、ゆっくり頷いた。

 

「ああ」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

そして、ようやく、弟のほうを向いた。

 

「……お前は、お前の人生を生きろ」

 

焦凍は、目を見開いた。

 

「……兄さん」

 

「俺は、まだ、いろいろ考えてる。お前のことを羨ましいと思う日もあるだろう。俺が、選べなかった道を、お前が歩いていると思うこともあるだろう」

 

燈矢は、静かに息を吐いた。

 

「……でも、俺は、そのことを、お前の罪にはしない」

 

焦凍は、何も言えなかった。

 

燈矢は、続けた。

 

「お前が、自分の人生を選ぶことは、お前の自由だ。俺が、それを止める理由はねえ」

 

焦凍は、ようやく頷いた。

 

「……ああ」

 

燈矢は、少しだけ笑った。

 

「……俺は、まだ、俺自身の人生をどうするか、決めてねえけどな」

 

「……うん」

 

「でも、いつか、自分で決めたいと思ってる」

 

焦凍は、静かに頷いた。

 

「……そうだな」

 

二人は、再び歩き始めた。

 

その先に、何があるのか。

 

二人が、これからどんな関係になっていくのか。

 

まだ、分からない。

 

燈矢は、弟を完全には許していない。

 

焦凍も、兄を完全には許していない。

 

それでも、二人は、互いの人生を、相手の苦しみだけで決めないと選んだ。

 

それが、兄弟の約束だった。

 

誰かの答えを、別の誰かの人生の正解にしない。

 

誰かの怒りを、別の誰かに受け継がせない。

 

誰かの罪を、別の誰かに背負わせない。

 

そして、誰かを愛することを理由に、自分自身を失わない。

 

その選択は、簡単ではなかった。

 

何度も、迷うだろう。

 

何度も、怒りが戻ってくるだろう。

 

何度も、嫉妬や羨望に、心を引きずられることもあるだろう。

 

それでも、そのたびに、もう一度選ぶことはできる。

 

焦凍は、兄の横顔を見た。

 

燈矢は、まだ苦しんでいる。

 

これからも、苦しむことがあるだろう。

 

それでも、兄は、少しずつ、自分自身の言葉で、自分の人生を考え始めている。

 

焦凍は、それを、焦らずに見守ろうと思った。

 

兄の人生を代わりに生きることはできない。

 

兄の罪を代わりに償うこともできない。

 

ただ、兄が、自分自身の答えを探そうとするとき、その話を聞くことはできる。

 

そして、自分自身も、自分の答えを探し続ける。

 

二人は、同じ道を歩く必要はない。

 

それでも、同じ場所に立って、言葉を交わすことはできる。

 

そのことを、焦凍は、少しだけ信じられるようになっていた。

 

12 憎しみを受け継がないという選択

夜、燈矢は、自分の部屋で、一枚の紙を見つめていた。

 

そこに、何かを書くつもりだったわけではない。

 

ただ、机の上に置かれた紙が、目に入った。

 

燈矢は、ペンを取った。

 

そして、しばらく考えたあと、短い言葉を書いた。

 

「俺は、何を望む?」

 

その問いを、紙の上に残した。

 

父親に、何をしてほしいのか。

 

弟に、何をしてほしいのか。

 

家族に、何を求めるのか。

 

それらを、考えてきた。

 

だが、今は、少し違う問いを持ち始めている。

 

自分は、何を望むのか。

 

自分は、何をしたいのか。

 

自分は、これから、どう生きたいのか。

 

その答えを、誰かに決めてもらうことはできない。

 

父親が、自分に愛情を与えなかったからといって、自分の人生が終わったわけではない。

 

弟が、自分とは違う道を選んだからといって、自分が苦しんだことが嘘になるわけでもない。

 

母親が、自分を守れなかったことを悔やんでいるからといって、自分が母親の人生を救わなければならないわけでもない。

 

自分が、他者を傷つけたからといって、これからの人生まで、罪だけで埋めなければならないわけでもない。

 

それでも、罪は残る。

 

過去は残る。

 

自分が傷ついたことも、自分が傷つけたことも、消えない。

 

その両方を抱えたまま、自分は、これから何を選ぶのか。

 

燈矢は、ペンを置いた。

 

その問いに、すぐに答えることはできなかった。

 

だが、答えを持っていないことを、恥じる必要もないのかもしれなかった。

 

焦凍も、まだ、自分の答えを探している。

 

母親も、父親も、冬美も、夏雄も。

 

誰もが、自分の人生をどう生きるか、考え始めている。

 

燈矢だけが、取り残されたわけではない。

 

ただ、それぞれが、別の道を歩いている。

 

その違いを、すぐに裏切りだと決めつけなくてもいい。

 

燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……俺は、まだ、憎んでる」

 

自分に言い聞かせるように呟く。

 

「父さんを。……自分自身も」

 

そして、少しだけ間を置いて、続けた。

 

「……でも、憎むことだけが、俺のすべてじゃねえのかもしれない」

 

その言葉を口にしたとき、胸の奥に残る怒りが、少しだけ形を変えた気がした。

 

消えたわけではない。

 

許せるようになったわけでもない。

 

ただ、怒りだけが、自分の人生のすべてではない。

 

そのことを、燈矢は、初めて認め始めていた。

 

彼は、紙を机の引き出しにしまった。

 

捨てるつもりはなかった。

 

答えが出るまで、何度も考えるために。

 

自分が、何を望んでいたのかを忘れないために。

 

そして、これから何を望むのかを、自分自身で決めるために。

 

燈矢は、窓の外を見た。

 

夜空には、星が浮かんでいた。

 

父親への憎しみが、消えることはないかもしれない。

 

弟への羨望も、完全にはなくならないかもしれない。

 

自分が失ったものを思い出すたびに、怒りが戻ってくることもあるだろう。

 

それでも、そのたびに、選ぶことはできる。

 

怒りだけに従うのか。

 

それとも、怒りを抱えたまま、別のものを望むのか。

 

その選択を、誰かの言葉に委ねる必要はない。

 

燈矢は、静かに目を閉じた。

 

――憎しみを受け継がない。

 

それは、過去を否定することではない。

 

傷ついた自分を、見捨てることでもない。

 

自分が何をされたのかを、忘れることでもない。

 

ただ、自分が苦しんだことを理由に、次の誰かの人生まで、同じ苦しみに縛らないこと。

 

それが、焦凍の選択だった。

 

そして今、燈矢もまた、少しずつ、その意味を考え始めていた。

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